資料を読まずに書いてみよう。日本初のメダリスト。熊谷一弥(熊谷一彌)硬球導入が遅れたら、「テニスコートの出会い」は起きなかったかもしれない

2023年06月20日

資料を読まずに書いてみよう。テニス界の英雄、ビル・チルデン編

 各スポーツ界には、神様のように崇められている選手がいます。野球には「ベーブ・ルース」。サッカーは「ペレ」。ボクシングは「ジャック・デンプシー」ゴルフは「ボビー・ジョーンズ」のように、競技のルールを知らなくても人物名を知っているスーパースター選手はその世界の牽引役です。


 今、日本では「大谷翔平選手」がそんな存在な気がします。



 で、大正時代のテニス、100年前の日本人テニス選手を調べて完成させた長島くんですが、その当時のテニスのスーパースターはビル・チルデンという選手でした。



 アメリカ人選手で、ウィンブルドンの王者にもなった人物です。


 彼は裕福な家に生まれ、両親を早く亡くしたので莫大な遺産相続をしました。そしてテニス三昧の生活を送ってました。しかし実力はいまいちでした。


 遅咲きの選手で、26歳ぐらいでようやく中規模な大会で優勝する程度した。その次の大きな大会で熊谷一弥と決勝を争い、熊谷に僅差で負けます。



 次の全米オープンでは熊谷をコテンパに倒し、英国では清水善造と二度戦い、二度勝利します。そしてオリンピックよりもデビスカップを優先させ、デビスカップで優勝します。


 それ以降は、アメリカ中の大会に優勝しまくり、「世界ランキング一位」になるほどでした。


 そして彼はプロ転向をします。当時、テニスのプロは「賞金稼ぎ」というイメージが強く、やや下に見られていました。八百長や興行主の裏にマフィアの影かちらついていました。そうです。賭けの対象にされていました。


 チルデンはそれを改革するため、「チルデンツアー」を開催して、世界中のテニスの健全化を図りました。「テニス界のナポレオン」と呼ばれ、日本にも来日してプロ興行をして大成功をします。



 そして「プロテニス」のイメージが良くなるとチルデンツアーを解散して、一介のプロ選手として試合に出ます。もう、その頃は壮年でしたがそれでも優勝していました。対戦相手は持久戦をしてなんとかチルデンに勝っていました。


 しかし彼には秘密がありました。同性愛者だったのです。当時は病気扱いされていました。さらにチルデンは15才前後の美少年を好む傾向が強く、未成年者淫行で逮捕されます。


 逮捕で名声は地に落ち、彼はまた未成年者淫行で逮捕されます。二度の服役で彼は孤立し、小さなテニス大会しか出れないほどでした。


 生活費は今までにゲットしたトロフィーを質に出して細々と暮らし、60歳ぐらいで孤独死をしました。孤独死した部屋にはまだまだ山のようにトロフィーがあったそうです。


 清水と熊谷と名勝負を繰り広げたテニス界の英雄はそんな最後でした。



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