資料を読まずに書いてみよう。テニス界の英雄、ビル・チルデン編資料を読まずに書いてみよう。硬式導入者の野村祐一

2023年08月21日

硬球導入が遅れたら、「テニスコートの出会い」は起きなかったかもしれない


 今、私は大正時代に世界を席巻した清水善造と熊谷一弥を中心に調べています。最初は世界三位まで上がった佐藤次郎を調べていたのですが、資料が少ないので演出に奇をてらったら、逆に読みにくくなって今に至ります。


 まあ、要は色気づいてしまったせいです。佐藤次郎の話は「昭和庭球物語」という形で発表できればいいかと思います。


 福田雅之助や佐藤俵太郎、原田武一、etc.を中心に描ききってやろうかと思います。そこに佐藤次郎、布井良助、三木龍吉を放り込んでやろうと思っています。





 で、本題です。熊谷一弥が慶応大学に在籍していた時、本場のレギュレーションボールを採用するか 、大いに揉めました。反対は主に口先ばっかりで何もしない論客だしたが、硬式導入を後押ししたのが小泉信三という人物です。



 他にも庭球導入論者が多くいたのですが、小泉信三は宮内庁に使えて宮仕えをするようになります。



 おそらく、現在の上皇にテニスを教えたのは彼かもしれません。他、有名無名な人がレギュレーションボールができるコートを皇居に建設することを進言していました。その宮内省関係者に硬式テニスを教えていたのが、大学生の熊谷一弥でした。


 デビスカップに出るために泥縄式に作られた日本テニス協会でしたが、清水と熊谷の活躍でテニスブー厶が置きます。


 もしも二人の活躍がなかったら、「テニスコートの出会い」は無かったと思います。小泉信三は図らずとも結果として二人の出会いを仲人をしてしまったので。


「人に歴史あり」


 私の好きな言葉です。
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nagasimayosiaki at 15:57│Comments(0)創作論メモ | 取材メモ

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