硬球導入が遅れたら、「テニスコートの出会い」は起きなかったかもしれない実際に感じてみて思った、ブログとnoteの違い

2023年08月29日

資料を読まずに書いてみよう。硬式導入者の野村祐一

 大正時代、テニスの国別対抗戦のデビスカップで活躍して清水善造と熊谷一弥を調べ上げて本にさせることにジタバタしている長島くんです。


 両名については空で説明ができ、既存の本に出てくる関係者の関係者(?)にも取材できたので、既存の本にはない雑学や逸話も知ることができました。もう少し頑張れば「六次の隔たり」で取材できるかもしれませんが、取材で知り合ったテニス関係者は薄っすらと「調べること」に否定的でした。


 それらを調べたら「おそらくこれが原因かな?」を見つけましたし、「その説を否定する、根拠がしっかりしている論もあるのになー」と、今現在は「見」の状態です。


 で、 硬式導入者の最大の功績者は、野村祐一という人物です。断言します。


 ウィキの赤文字ですら載っていない人物です。同姓同名の人物がいますが、かなり面白い人物です。


 熊谷一弥を調べた時に名前をちょいちょい見かけるのに、なぜか熊谷一弥は彼についての説明はスルーするという。


 答えを先に言いますと、売名嫌いの性格だったので熊谷一弥は配慮したのでしょう。



 野村祐一は士族の家柄で、後藤又兵衛と逸話がある家柄でした。



 で、大正時代の子孫である野村祐一はOBからの熱い後押しで硬式導入の旗振り役をします。慶応大学や他の大学と調整したり、論客にも説明をしたのですが「日本で生まれたソフトテニスが最強。欧米に尻尾を振るな」という主張が強く、彼は慶応大学単独で硬式テニスを始めます。



 テニスの備品は外国の見様見真似で、練習相手は「趣味でテニスをしている外国人」ばかりだったので、なかなか本気の試合ができませんでした。


 しかしテニス部のキャプテンとしてメンバーを引っ張り、フィリピンの国際試合に出て結果を出します。



 就職した後も各地の国際試合に出ます。日本庭球協会にメンバーに名をつらね、そして鎌倉でテニスクラブを経営するのですが、愛妻が死亡してしまいました。


 野村は「テニスばっかりしていたせいだ」と悔やみ、テニスから綺麗サッパリ離れます。慶応時代の同窓とも連絡を絶ちます。


 その後再婚し、北海道で事業をします。重役だったのですが末端の社員と同じ釜の飯を食い、雑魚寝しながら過ごしていたそうです。


 そして第二次世界大戦になると、多くの財産を日本政府に渡します。敗戦を迎えると日本人の価値観や道徳がガラリと変わり、彼はよく騙されました。武士根性が抜けない人物だったので「闇」で買うことを拒否した人物です。


 やがて大病を患い、生活苦で妻は慶応OBに助けの手紙を送ります。慶応OBの多くは「死んでいたと思っていた」と驚きながらも、野村の武士根性に惚れていたので多くの募金が集まります。その一人に、文藝春秋の社長で作家の佐々木茂索もいました。


 熊谷一弥は野村の見舞いによく来ていて、国際試合の話をよくしていたそうです。


 そして野村がお亡くなりになると、弔事で「野村さんがいなければ今の僕はいませんでした」と述べるほどでした。しかし野村は売名嫌いだったので、熊谷一弥は野村について少しだけしか話しませんでした。



 彼に逸話にこんなのがあります。



 大学のテスト対策を全くしていなかったので、友人からカンニングペーパーを渡されます。しかし、「やっぱり良くないな」ということで、カンニングペーパーを見ませんでした。当然落ちて、留年しました。


 友人は「馬鹿野郎!」といってぶん殴りましたが、彼の正直さに感心しました。



(他にも各種いろんな逸話があるのに、ウィキに載らない不思議な人物です)

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nagasimayosiaki at 03:43│Comments(0)取材メモ | デビスカップ

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