こんばんは。文藝部員は低能なのでまともにブログもかけなくて辛いです(投稿先を間違えるなどした)。

 さて、今日のエロ漫画レビュー書評は……といきたいところですが、残念ながら私、近頃読書を怠っておりまして、書評出来る本がありません、すみません。
 その代わりといっては何ですが、自己、というものについて少しばかり思ったことを書こうと思います。部のブログにこんなメモじみたことを書くのもどうかと思うのですが、どうか許して朝鮮人参。





「世界に対して、自分は存在すると言えるか」

 上の一文を見て、馬鹿だな、自分はここにいるに決まってるじゃないか、画面に向き合ってブログを見てるよ――と思った人。確かにそうです。でも私は別に、物理的存在論について議論を吹っ掛けようと思ったわけではありません。ここで疑問に思っていただきたいのは、もっと抽象的な意味での自分、つまり自意識とか、主体性という意味での自分です。もっと言うと、他者と比較したときの自分、ということです。分かりにくいですね、すみません――哲学についてはまだまだ不案内なのです――それでも、もう少し頑張って書いてみたいと思います、のでどうか見捨てないでください。

 比喩的な話をしたいと思います。
 
 いま、あなたは『世界』と名付けられた部屋にいます。そこには無数の人々がいて、あなたはどんな人でも自由に眺めることができます。しかし、自分の姿を眺めることはできません、それに、ここには鏡もありません。その場合、あなたは本当に自分がここにいるのだ、と確信することはできるでしょうか。また、できるとするなら、一体どのような手段を用いればよいのでしょうか。

 これは私が適当に作った話なので、深い哲学的意味とか、科学的根拠とか、そんなものはありません。でも、この『世界』という部屋と、部屋の中にいる『あなた』は、現実とその中に生きる個人、と言うふうに捉えられるのではないかと思います。
 全然詳しくはないのですが、デカルトは『我思う、故に我在り』という言葉を遺しました。これは『人は自ら望む望まざるに関わらず思考してしまう、だから自我はある』みたいな意味であったと思います(曖昧ですみません、詳しくはググって)。ですが、これを聞いて『よかった! 今日から僕はたった一人でも自己存在に疑問を抱かなくて済むぞ!!』と思える人は、はたしてどれだけいるでしょう。少なくとも、私はこれを聞いても、ロビンソン・クルーソーにはなれそうにありません。やはり、他者あっての自分だ、というのは実感としてあるのだと思います。
 それに、今日の哲学では『我思う』ことは、一つの機能として捉えられることもあるようです。何かを思うのも、誰かを想うのも、昨日のテレビを思い出してさらに思い出し笑いすることだって、すべて外部からの刺激に反応した結果、機能としての働き、なのです。一見嘘くさくも思えますが、割合有力な説あるらしいです(ここで述べた説明はかなり大雑把なものです。詳しくは心の哲学でググって)。
 話が本筋に戻ってきました。何かを思う自我が一つの機能であるなら、あなたはどこにいるのでしょう。『世界』にいる、自分が見えないあなたは、どうやって自我を確認すればいいのでしょう。いろいろ方法はあるのかもしれません。しかし、私はこうするより有効な手段はないと思います。つまり、こう言えばいいのです。

「やあ、こんにちは」

 ふざけているわけじゃありません。もしあなたが『世界』の中でこう言って、誰かが「こんにちは、今日は寒いね」とか「おなかすいたね」とか返事をしたら、それはあなたが存在するということの証明になるはずです。つまり、あなたの存在を承認する他者がいれば、あなたは確かに存在している、ということになるのではないかと思います。
 それにしても、『自己存在は他者によって確認される』なんて、あまりにも 陳腐な言葉です。こんなものは私がここでくどくど説明しなくたってお分かりでしょうし、なんなら幼稚園児だって、仲間外れにされると悲しいことくらい知っています。生きる上で他者を必要とするのは、感覚に裏打ちされた本質であると言えます。ですから、私が言いたいのはこのことではないのです。その、もう少し先にあります。





「他者によって確認され得る自分は、一体どのようなものか」

 たしかに、他人があなたを認めれば、あなたは存在していることになるでしょう。では突然、他人がいなくなってしまったらどうでしょう?

  突然、『世界』からあなたを残し、すべての他者が消えてしまいました。あなたはいつものように挨拶をするのですが、誰も答えてくれません。他者が消える前のあなたと、他者が消えた後のあなた、何一つ違ったところはないのに、あなたは自分を確認することができなくなりました。

 あなたは、あなたです。それがちゃんと存在してるってことは、挨拶によって確認できました。しかし、挨拶する他者がいなくなった途端、まるであなた自身まで消えてしまったようなのです。
 これはおかしな話ですよね。パンケーキを食べたら、皿まで消えたなんてことはあり得そうにもないことです。まったく変な話ですが、これが当てはまる、つまりパンケーキを食べると皿もなくなる現象が、違和感なく起きる場合があります。

 それは、ドーナツです。
 
 ドーナツです。

 何を言っているかわかりませんよね。でも、ドーナツなのです。言ってしまえば、ドーナツと穴の関係なのです。ドーナツには当たり前に穴が開いていますが、ドーナツを一口齧った瞬間、不思議!  穴はあっという間に消え失せ、小麦粉の挙げた甘い菓子だけが残るのです(以前、ドーナツの穴は穴ではない、トンネルだと言われたことがありましたが、そんなことはどちらでもよろしい。ドーナツのトンネル、なんて言い方は普通しません)。
 さて、随分回りくどくなってしまいましたが、結論です。
 つまり、世界とはドーナツであり、あなたは穴だったのです。あなたは他者という甘い菓子がなくなればたちまち消え失せる、不確かな『かたち』でしかありません。いくら我思ったところで穴は穴、自分と他人の境界線がわからないのなら、それは最初から誰もいないのと同じです。
 自己とは空隙である。私はそう思います。揺るぎない自我などというものは残念ながら、幻想 でしかないのです。自分探しや心理テストなんかいくらやったところで無駄です。だって、自分は自分の中にはいないのですから。自分の輪郭の外側、多数の他者の存在にしか、自分を見つけることはできないのですから――
 


 というわけなので、みんな、自分のことより他人のことを考えような!!!!