鉄道写真家 岩堀春夫のblog

鉄道写真を撮り続けて50年。懐かしい写真から最新の話題までをお楽しみ下さい。

 100形の去った千里線はもう興味か無かった。それでも旧型車は700形がいたし、さらに1300形も使われていた。なにも千里線まで行かなくても、京都線で撮れたのだから。就職すると休みの日に行きたい所はもう少し広範囲になる。景色のいい線区には何度も行くようになった。

 この当時の関西私鉄は旧型電車の引退がつづいていた。VVVFの出る前だが、チョッパ車の新車が出るにつれて、各社の新車投入が続き、冷房化や駅の自動改札も進められた。

 なにかと話題が豊富で国鉄の特急や機関車だけでも一人では追いきれないという状況だった。
7305204 阪急3308山田
3300形は堺筋線に乗り入れる電車で動物園前行き方向幕を使っている。まだ非冷房で窓が開いている。

7305208 阪急千里線702
北千里行きの700形。後追いしか撮っていない。

7305209 阪急千里線3307
撮影は山田駅の開業前である。球形タンクで位置が特定できる。

7904520 阪急3352淡路
現在は高架工事中の淡路駅。3300系は堺筋線から北千里行きと京都線普通が連絡している。

7904522阪急1306淡路
あまり撮っていなかった1300形が登場。冷房改造している。これが北千里発の梅田行きである。

8605636 阪急、北千里
地下鉄電車の取材があり、久しぶりに北千里駅を訪ねた。3300系は更新で顔が変わっている。

8605704 阪急2853北千里
かつては京都線の特急に使われていた2800系は3扉ロングシートに改造されて普通運用で使われていた。北千里駅に到着する。

阪急910135,2853北千里
北千里駅に到着する3扉の2800系。方向板は緑色で京都線と区別している。

阪急910201 ,2813
山田駅の南側に道路から俯瞰できる撮影地がある。




 阪急千里線で走っていた100形は1973年に3月に引退した。最終日がいつだったかは知らないが、もう引退が近いというのはわかっていて、末期には撮影回数が増えていた。その代償としてドイツ語の単位を落とすという失態を演じた。

 それにしても、当時はのどかなもので、沿線で100形を撮影している人にはほとんど出会っていない。ちなみに、千里線の運転は梅田〜北千里間であり、京都線の電車に混じって梅田駅まで乗り入れていた。天神橋筋六丁目の方へ行くのは堺筋線に乗り入れる3300系以後の形式である。

 100形は新京阪のP-6形とも呼ばれ、大阪〜京都の特急に使われた名車である。したがって、197111/21,23に運転された京都線の急行による悼別運転は鉄道雑誌に取り上げられていたが、千里線の運転はスルーされていた。当時は冷房車の投入が進んでいたし、非冷房車の冷房化が進められていたから、昭和初期の旧型車は去るしかなかったと思う。

 正雀工場で最後に部品セールがあり、解体現場も公開されていた。それはネガで確認すると1973年5月20日と26日の二回参加していた。

 当時の動きとしては100形が去った直後の19734/1に京阪神急行電鉄の社名を阪急電鉄に改称している。197311/23には梅田駅の移転工事が完成し、同時に千里線では山田駅が開業した。この駅の周囲は竹薮だったが、その少し東側には山田西や山田東といった歴史の古い町並みがある。当時は乗車券も券売機発行に変わり、自動改札の工事も進められていた。
1973 阪急127関大前
ネガカラーで撮っていた100形。この踏切から右へまっすぐ道が伸びていて、その先に関西大学がある。方向板は下部に識別の三角形があり、千里線は緑色、京都線はオレンジ色に区別されていた。

1973 阪急138
阪急100形が最後の活躍。これは関大前駅の南側になる。梅田行きが発車する。

7300219 関大前
豊津から関大前にかけては急勾配と急カーブの連続する線形である。この付近は小さな停車場ができたり移転したりしていた。

7300223 下新庄
下新庄駅のホーム。北千里に向かう回送も撮っていた。その向こうで新幹線の高架が上を越えている。この路線がかつての東海道本線のルートだった。

7309336 阪急、関大前駅
関大前駅は名神高速の下にある。ホームの両端に地下の改札口がある。

7309334 阪急、関大前駅
昔懐かしい阪急の切符売り場。軟券の乗車券を売っていた。

7309332 阪急、関大前駅
券売機の設置工事が始まっていた。関大前の改札口は地下にあった。

7309330 阪急、関大前駅
これは臨時の切符売り場。

7309403 千里山デイ100保存
デイ100は去ったが、その後1511の車体が沿線の教会で集会所として使われていた。

7400524 阪急、千里山駅
千里山線の終点だった千里山駅はカーブしていた。大阪の近郊住宅地だった。当初は旧型の短編成が発着する駅だった。南千里まで延伸や万博輸送で長いホームになったと思う。

7400532 阪急、千里山南千里
千里山駅の先は風景が一変しニュータウンの中を直線的に伸びていた。竹薮の多い丘陵地帯に千里ニュータウンが開発されていた。

7315201 阪急、山田駅
千里線 南千里〜北千里間に山田駅が開業した。中国自動車道の南側である。後に大阪モノレールが開通して、連絡駅となる。


 阪急千里線に初めて乗ったのは大阪万博の1970年だった。この時は万国博西口駅という臨時駅から行った。まだその頃は電車の写真はうまくなかった。SLの写真は九州まで行ってきっちり撮っているのに、電車の写真はピントも甘かった。駅の施設も撮っておけば良かったのだが、全く撮っていない。万博へは一人で行き、目的は展示されているクラウス1517号だけだった。パビリオンの写真も撮っていない。

 千里線は北大阪電気鉄道の十三〜豊津間が開業した1921年以来の歴史がある。当初は吹田から崇禅寺まで旧東海道本線の線路跡を使い、阪神急行電鉄の十三駅に接続していた。1928年には新京阪鉄道が天神橋〜西院間を開業し、大阪京都間で高速電車の運転を開始した。戦時中の交通調整で京阪電気鉄道は阪急と合併し京阪神急行電鉄になる。それが戦後は阪急に移り、京都線と千里山線になる。

 千里山駅からの先は箕面線桜井駅まで延長する計画があり新千里山駅(現南千里駅)まで開通したが、その後計画が変わり千里ニュータウンの開発に向けて1967年に北千里駅まで延長されて千里線に改称する。大阪万博では大阪市交通局の堺筋線と連絡して相互乗り入れで大阪市内からのルートになり現山田駅の少し北側に万国博西口駅が開業していた。
6905429 阪急、吹田駅
実は万博の前年にも千里線に乗っていた。吹田駅で下車して吹田機関区まで行った。帰りの電車を待つ間に東海道本線の貨物列車が通ったのでカメラを向けている。この付近で東海道本線の付け替えがあり、さらにアサヒビールの専用線もあり、複雑な経緯がある。

7004376 万博西口3360
万博も終盤にクラウスSLを見るために出かけている。他の展示物には興味がなかった。阪急の乗り入れ電車を撮っているだけでもマシだが、ピントは甘かった。もっとたくさん撮っておけばよかったのにと思う。

7004378 万博西口5010
神戸線の5000系も入線していた。ここから北千里駅まで直線の線路が続いている。

7004381 万博西口2353
大阪市交通局の60系電車は阪急に乗り入れるためでパンタグラフで終電する。2300系も入線していた。


7203825 阪急132関大前
1972年からは関大前駅へよく行っていた。この頃は京都線のかつやくが減った100形が最後の活躍をしていて、よく撮影している。新京阪鉄道の開業時に特急で活躍した電車である。

7204230 阪急129関大前
なぜかこの時間に走る回送をよく撮っていた。関大前駅の近くでボーリング場があった。

7206031 千里山
長い間終点だった千里山駅。この付近は郊外の住宅地として開発されていて、ロータリーのある道路が珍しかった。古い駅舎が残っていた。

7206030 南千里
南千里駅を出て北千里駅に向かう電車。元の計画は箕面線の桜井まで伸ばす予定だったという。しかし、大阪府の要請で向きを変えて北千里へ延伸した。トンネル上から撮っている。

7206203 北千里
北千里駅で並ぶ千里線の新旧電車。3300系は堺筋線の乗り入れ用に新造した電車で、方向幕が目立っていた。

7207106 阪急129北千里
千里線の電車は多くが梅田駅まで乗り入れていた。運転手が颯爽と乗り込む。

7207111 阪急3317北千里
3300系は動物園前行きで、方向幕を使っている。当時はまだ非冷房の電車が多かった。この後で冷房化改造が進められた。

7207112 阪急淡路駅
千里線と京都線が交錯する淡路駅の構内。100形の回送が正雀より到着する。


7207117 阪急138淡路
北千里発の梅田行き普通が到着。100形はもう引退が迫っていて、よく撮影していた。

7207230 阪急138淡路
同じ138を別アングルで撮っている。京都行きホームから京都線の線路を横切って到着する。



 先日手紙が来た。ずっと音信の無かった人からだった。そして、その内容だが、なんと50年前の鹿児島機関区SL運用について、勝手にまとめた物だった。何を考えているのでしょうね。

 それで、SLは何なのか。スチームロコモティブとも言う。日本語は蒸気機関車で略すと蒸機になる。陸上交通の王者として君臨した歴史は100年以上。その後の交通は自動車や飛行機になる。今の鉄道は電車が主体でディーゼル動力もある。世界的にはSLが一線から退いたのは1960年代くらいである。日本の国鉄でSL全廃は1975年くらいで、追分機関区の入換え作業無煙化は19763/2である。その後は動態保存で運転されて来た。

 今60歳以下で現役のSLを知る人はほとんどいない。ほとんどの人は動態保存や公園などで展示されているのを見ているだけになる。

 SLはたくさんの形式があり日本では数千両くらいは使われたことになる。国鉄蒸機の形式別に解説した書物は出ている。さらにそれらがどこで使われていたかわかる配置表は昭和初期からの各年がわかっている。国鉄の機関車は全国にある機関区に所属していて、それらがどの区間で運転されていたのがわかるは運用表である。昭和40年代のSLブームになると、運用表も公開されていた。さらに全ての列車の運転状況のわかるのはダイヤといい、ダイヤ改正の度に新しものが発行され、これらは鉄道の関係者が持っている。時刻表というのはダイヤを元に作られていて、出版社が旅行者向けに販売している。

 鉄道が運ぶのは人だけでなく貨物や荷物も運ぶ。それらは客車や貨車に積まれて機関車が牽く。それらの車両にも運用が決まっていて、さらに乗務員用の運用表も存在する。

 ところでSLはたくさんの形式があり、様々な用途使われていた。それらの構造は図面に残されている。しかし、見られるのは全体図である。さらにおびただしい量の部品図などもあるはずである。それが残っているかどうかは知らない。現在も実物は残っているので、それらを実測して研究している人もいる。パソコンで記録することもできるが、高精度で全体を保存しようとすると相当なデータ量になるようである。

 その機関車の運転だが、機関士はギアチェンジとアクセルに相当する操作で走る。さらに運転席にはたくさんの機器があり、発電機やコンプレッサー、オイルポンプ、砂まき、給水、シリンダーのドレーン、煙室の通風、その他多数の操作が必要になる。その一つでも作動しないとSLは走らない。ものすごく複雑な機械だと言える。模型に詳しい人なら、それらの部品も良く知っているし、雑誌の記事でも写真をたくさん使って解説している。

 旅客列車の編成を調べている人もいて、実際に自分が調査したデータを公表されたり、イラストにして表現しているのを見ることもある。写真を撮るのによく利用していた資料で普通列車の編成両数表というもがあり、よく利用していた。優等列車の編成は時刻表に載っていた。

 しかし、データだけ見ても味気ない。それらを写真やビデオで記録されていて、いまならブログやユーチューブで見ることもできる。

 先日届いた手紙は鹿児島機関区の一日の各機関車の運用をまとめたものである。たとえばC61の何号機がどこまで何列車で走ったかがわかる。さらにC57C60等の形式がある。小型のタンク機B20も載っていた。SLがどのように使われていたのかかわかる。調べれば調べるほど興味深く、その量はものすごく大量になる。どこかで保管されているのだろうか。
6900309 D51863 平野
吹田のD51863が城東貨物線から関西本線の平野へ貨物を牽い来た。吹田のD51は操車場の入換えにも使われ、デフ無しのまま本線列車を牽いていた。

6901203 吹田機関区D51144
吹田第一機関区はうちから一番近いSLの機関区だった。当直助役で見学の記帳をして何度も訪ねている。もう操車場の入換えは内燃化していて、D51にはデフ付きになっている。

6902205 布原D51
当時の人気撮影地は伯備線の布原信号場。ここをD51三重連が走ったが、まだ鉄橋を渡った両側には木が茂っていた。SLの写真は峠越えの力行シーンが人気だった。

6903826 直方D50231
当時はD50が4両残っていて、最後の活躍だった。パイプ煙突とシールドビーム前灯は不満だが形式入りプレートが魅力。4両それぞれに特徴があった。

6904013 小屋浦C6215
かつての特急用蒸機として東海道から山陽本線で活躍したC62。最後は呉線と函館本線で活躍していた。初めて山陰旅行した帰りに寄って撮ることができた。

6906508 上松D51495
中央西線のD51。名鉄局中津川区所属で鉄道省鷹取工場の銘板が付いている。吹田から1955年に中津川区に転属、1971年8/19に廃車になっている。機関車の履歴もほとんど解明しているる運用の番号も差し込まれている。

7002407 八代C579発車
深夜の蒸機列車。鹿児島本線の夜行列車を待つ間に撮れた感動的な発車シーン。SLは深夜も働いているのを記録している。

7200935 矢岳D51170
急勾配区間を走る肥薩線のD51候補機。集煙装置と重油タンクを乗せた重装備の機関車が活躍していた。

7201930 浜小清水C58
SLの写真は美しい風景の中を走る姿も撮りたかった。機関車はC58だが混合列車は魅力的で釧網本線には何度も行っている。

7203508 伊賀上野D51940
SL末期には休日に臨時列車がたくさん運転されていた。関西本線では伊賀号の他に会社等の団体臨時列車も運転されていた。伊賀上野駅でおりて上野城の観光があった。構内は近鉄の貨物輸送があり架線が張られていた。

7315105 D51158紀伊田辺
紀伊田辺機関区から浜田機関区に送られるD51158。この様な記録はほとんど目にすることはなかった。SL末期には全検の残る機関車の短期移籍が多発している。

7606028 追分9600
追分の9600入換え最終日。この日は日本の営業用SL最終日で式典があった。その前でも煙室の煤を排出していた。停車中は煙突下からスチームの吹き出しがあり、キャブの方に熱気が出ないようにしている。






















 鳴門といえばうずしおの観潮船で有名。さらにわかめやサツマイモの特産もある。しかし、ここを訪ねる人はだいたい車で行かれると思う。鳴門線は徳島市の近郊線で、高徳線の池谷駅から分岐するが、ほとんどの列車は徳島駅まで直通である。

 乗り物ファンにとっては鳴門の渡船が有名である。さらに高速バスの停留所へ行くスロープカー「すろっぴー」も興味深い。

 国鉄のSLを調べていると昭和初期に突然現れる蛭子前分庫のシングルナンバーが気になる。これは阿波鉄道の買収で国鉄に編入された小型機である。蛭子前は現在の橅養駅であり、買収後の機関車は頭にアを付けて分類されていたが、早くに整理されている。阿波鉄道の買収は昭和8年だが終点は橅養駅だった。国有化後の昭和23年に鳴門駅に改称している。さらに昭和45年に200メートル延長されて現在の鳴門駅ができている。

 その手前の車庫が蛭子前でこれが現在の橅養駅になっている。鳴門駅は無人駅だがかつてはみどりの窓口やキオスクもあり、貨物営業もあった。四国の鉄道では最北端の駅でもある。

 この線もかつての赤字83年に入り、廃止対象になっていた。しかし、県庁所在地徳島市の近郊線でもあり、明石海峡大橋ができると鉄道併用橋の構想もあり廃止は見送られている。
池谷 3g2222
左が高徳線で右が鳴門線。両線にはさまれて池谷駅がある。3方向の歩道橋でつながっている。ここも鳴門市内で鳴門線は鳴門市内で完結する。

キハ47 ,阿波大谷g2207
鳴門線のキハ47。

キハ47 ,阿波大谷g2211
阿波大谷駅は鳴門線で一番新しい駅になる。

阿波大谷 3g2212
徳島行き気動車を見送る。

撫養 3g2323
かつての蛭子前が撫養駅。阿波鉄道の機関区もあった。


キハ47-0144 ,鳴門l1954
早朝の鳴門駅で発車を待つ、キハ47。


キハ47-0144 ,鳴門l1947
キハ47-144

鳴門 1g2172
鳴門駅は昭和45年に少し移転したJR四国の最北端駅になる。

4鳴門渡船 、黒崎g2353
鳴門には渡船がいくつもあり、それを撮りに行ったこともあった。

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