当時は今のようにスマホで簡単に情報が得られる訳ではない。仲間内では手紙や電話で、あるいは直接会って話しを聞くしかない。屋久島に森林鉄道があるのは知られていたが、すでに営林署の運材は終っていて、工芸品に使われる土埋木を運ばれているだけだった。そんな情報も不確かで、行ってみないとわからない。

 それにしても、当時はいろいろな所にでかけている。よくもピンポイントで目的地に着いて、成果を得ているのは凄い事だと思う。時間的にもピッタリ合わしている。会社の休みに合わせてバスや船を乗り継いで、夜行列車できっちり帰宅している。そんな事ばっかりやり続けていた事になる。

 屋久島に着いた日に雨が降っていたら、絶対に小杉谷山荘には着けなかったと思う。テントも無しにどうなっていたのだろうか。その後、山荘は解体されたと聞いている。縄文杉を見るのには荒川から往復することになる。

 安房にはTDAのツアーバスに乗せて貰って降りてきた。TDAは後の日本エアシステムである。安房には壊れかけた古い吊り橋があった。これは林芙美子も渡っているのではないか。何かと文学ゆかりの地に縁があるようである。次のテーマも考えている。
19770816 屋久島安房
海側に新しい橋ができている。その後、吊り橋も架け替えられている。橋の左側に安房観光ホテルがある。ここが林芙美子の聖地になるのか。「浮雲」を執筆している。


7712016 屋久島、安房
TDAのバスはこの辺で降ろされた。安房の街を俯瞰できた。吊り橋がまだ残っていた。


7712017 屋久島、安房


7712018 屋久島安房
ネットで調べると平成31年2月に安房観光ホテルでアンカーレイジが見つかったそうである。左上に見えるワイヤーの先端である。


7712019 屋久島安房
橋は1975年まで使われたとある。ここを林芙美子が昭和26年に渡っている。


YH 1970-1978
屋久島に行っていた証拠品はこれだけ。カニが室内まで入ってきた。


19770816 第二屋久島丸a
帰りは鹿児島商船の「第二屋久島丸」になる。この日は晴れだが山は雲がかかる。


19770816 第二屋久島 出航
さらば屋久島。テープを投げて別れを惜しむ。こんな風習も記録している。


鹿児島宮崎 1977B大阪JNR
周遊券はたくさん使ったが、西鹿児島まで往復だけの使用というのは珍しい。帰りの「有明」は食堂車に座りつづけたので特急券は買っていない。旅費の総額は26540円だった。