午後の昼飯線は13:45に美濃赤坂駅を出発する。推進運転だった。それを撮ってから大久保駅へ急ぐ。大久保駅ではスイッチバックで向きを変え、13:58に昼飯へ向けて出発した。それがまた14:30に戻ってくる。そして14:35に美濃赤坂へ向けて発車する。それは中山道の踏切で撮影した。写真を見ると、昼飯から大久保に向かう列車の撮影場所は記憶がない。そんなに距離もないし、大久保の近くだと思う。昼飯駅の構内を撮っていないのが残念だったが、歩きでは仕方が無い。その後、車で行って構内は撮っているが、列車が入換えしているシーンは撮る事ができなかった。

 帰りには大垣駅でクモヤ495を撮っている。これは珍しかったのか他にも鉄道友の会の人が撮りに来ていた。その時、名刺をいただいていたのだ、がそれが後年になって見つかり、Aさんだとわかる。その名刺も今はどこにあるのかわからない。何十年もたって草津や京都の飲み会で会っていたあのAさんだとわかった。

 クモヤ495は日立の1966年製で1本だけの架線検測車である。当時は金沢にいて松任の入換えにも使われていたようだ。連結器が双頭になっている。1982年に大改造を受けている。ちょうど私が某会社の技術員として働いていたので想像が付くが、1980年ごろからコンピューターの機器が普及している。それはかなりの大変革だった。入社当時はまだ電卓の時代である。会社にはありとあらゆるアナログの測定機器があり、新入社員でもかなりレトロだなと見ていた。でっかい打点記録計なんかも知っている。昔話では白浜の方で出張があり、トラックでは運べないので社長のベンツを運転手付きで借りたという話しも聞いた。退社する頃にはもう立派な機器が普及していたが、それでも出力は記録紙にプリンターだった。車内は見ていないが、インクのペンが振れるような記録計もあったのでは。なんとなく想像できる。

 それから米原へ行き、そこでも写真は撮っている。交直接続のDE10が構内を行き来していた。さらにEF58も撮れた。当時は駅の構内も広く、列車本数は少なかった。大阪まで行く113系普通は一時間に2本で、待ち時間に撮っていたのだと思う。がらんとしていて様々な車両が出入りする昔の連絡駅だった。
7804118 西濃鉄道DD402
美濃大久保駅はスイッチバックである。向きを変えて発車して昼飯駅へ向かう。前向きでも見張り員が乗っている。バックが金生山であり、多数の石灰鉱山と加工業者が存在した。


7804119 西濃DD402
これは昼飯駅から推進運転で美濃大久保駅に戻る。家の向こうを旧中山道が通っている。


7804123 西濃DD402
美濃大久保駅から美濃赤坂駅へ戻る。大久保の近くで旧中山道を渡る。この道を進めば赤坂宿の中心に行ける。


7804126 クモヤ494-1
ピンク色の交直流の架線検測車が撮れた。上り方にも跨線橋があったのか。柱の表示は京都大阪方面である。JR東海とはかなり違う。ちなみに西ノ宮駅での記憶は岡山広島下関方面と書いてあった。


7804127 クモヤ494-1
1982年に改造される前の姿。パンタもでかい。上部に観測ドームがある。内部にはアナログ機器が並び、インクや記録用紙を補給していたのだと思う。


7804131 クモヤ495-1
運良くトップナンバーが撮れた。


7804132 クモヤ495-1
すぐに発車してしまった。後部の連結器は明らかに双頭である。構内にはテルハも見える。荷物を移動させる走行クレーンである。大垣駅の構内は今も昔の雰囲気が残っている。いやという程乗換えた駅である。


7804134 米原DE1019
DE1019はD50の無煙化に投入された1番手になる。その後は500代が配置されている。


7804135 DE1019米原
米原区配置のDE1019。この当時はまだDD50の配置もあったが、DE10が10両くらいいたから、DD50は使われていないと思う。


7804206 米原EF58156
複線用ラッセルは構内に待機していた。その向こうをEF58が到着する。当時は上下線の間に線路がたくさんあって広かった。


7804208 米原DE101725
DE101725はまだ愛知機関区にいる。その横を通過するのは北陸線の急行「越後・ゆのくに2号」か?  (手元にあった1977年時刻表より推定) この両者も廃止前には人気上昇だったが、当時は全国どこにでも見られて不人気ベスト3くらいである。後の1形式は103系かな。