アメリカ 好きで嫌いな国 1
私がアメリカに初めて出会ったのいは中学時代でした。
以下の文章は「絹のマフラー」と題して、今年の春先に投稿したものです。
今回、「アメリカ 好きで嫌いな国」というテーマで数回に分けてアメリカに対する私なりの思いを書こうとするにあたって、再録します。
『昭和二十年代末、朝鮮戦争での軍需景気は少なからず日本の経済を潤したが、すでに石炭産業は斜陽化の道をたどっていた。
常磐炭坑も例外ではありえなかった。炭質の悪さと低カロリーのために、関東市場に近いという地の利だけでは生き残ることはできず、昭和二十九年、私が中学二年の時には、採炭すれど需要なしの不景気が続き、校庭に相当量の石炭が山と積まれていた。
夏場は高温のため自然発火が頻発して、ホースで水をかける光景が教室の窓からよく見られたものである。
その頃、海外文通が流行っていた。当時はペンパル(pen pal)と称していたが、多くの相手がアメリカの子どもたちであったのは頷ける。
敗戦後の日本に、ララ物資をはじめとする数々の援助をしてくれたアメリカの豊かさに、当然のことながら子どもたちは憧れた。
私もその一人であった。
英語の教科書は「JACK AND BETTY」で、アメリカの中流家庭をモデルに展開されるジャックとベティの物語を羨望の気持ちで学んだ。
私が文通相手に選んだのは、イリノイ州の農家の娘で、名は忘れたが同い年であった。二年近くの間に二十通ほどの手紙のやりとりがあった。
相手からの最初の手紙には、自己紹介を兼ねた簡単な文と共に写真が数葉同封されていた。
ブローニー判のモノクロームであったが、見たこともない大きな深々としたソファに座った家族の写真。床はじゅうたんが敷きつめられ、傍らにあるテレビの大きさは私を圧倒した。
ある日、私の海外文通のうわさを聞いてか、担任のS先生に職員室に呼ばれた。先生は大学を出たばかりの熱血体育教師でクラスの信望も厚かった。
小学校と違って中学では教科ごとに教師が替わるが、私の学んだ中学は、全校生徒千八百余というマンモス校で教師不足が慢性化して、教科の掛け持ちは日常的におこなわれていた。S先生も例外ではなく、時折英語の教壇に立った。
「N、お前しゃれたことをしているんだってな」、午後の日差しが明るい職員室の片すみで先生は話しかけてきた。
その時から海の向こうからブロンド娘の手紙が来るたびに、先生の英語指南が始まった。とはいっても英語は先生の専門外、コンサイス(当時もっともポピュラーだった英和辞典)片手に悪戦苦闘することしばしであった。
クリスマスが近づき、冬休み前に早めのプレゼントが船便で届いた。わくわくしながら荷を解くと白いマフラーであった。
翌日の放課後、さっそくS先生に注進におよぶと、先生は、
「へえー、純白のマフラーか。俺もアメリカの女の子をペンパルに持とうかな」と言いながら、先生は何気なくマフラーの小さなタブを手のひらに乗せて見入った。しばらくの間があって、先生は腹を抱えて笑い出した。
そこには MADE IN JAPAN とあった』
次回からは、中学時代の英語教科書「JACK and BETTY」に触れた後、学生時代の安保闘争運動など、アメリカとの心的な関わりを述べてみたいと思います。
時事的な問題が発生したときは中断してそれなりの対応をしようかと考えています。