2013年07月03日

本屋さん、こんにちは。

月に一度は、と思っているのですが、まあ、年のせいにしておくのが無難かな。と、いういいわけで、こんにちは、です。

本作り。初校や再校、それに著者校、装丁にかける時間……なにからなにまでまるで初めての体験になっていて、ノロノロ歩きでしたが、それでも周りの人たちの応援で、九月には、石神井書林さん、内堀さんの新刊がお目見えしますので、よろしくです。

タイトルは『古本の時間』。272ページで、四六判上製、装丁は平野甲賀さん、です。

装丁の打ち合わせに、石神井さんの目録を何点か持参したのですが、平野さん、エラク興味を示しまして、目がどんどん輝いていくのでした。「こういう目録があるんだね」とね。その様子で、興味深い装丁になると思うのでした。まあ、実に単純な男の予想です。

内容は、もう、古本と業界の楽しい、わくわくする話でいっぱいです。さすが、商売、という大地を歩いているだけに、リアルで、古本の、業界の年輪一年一年が静かに刻み込まれていくようです。寺山修司の原稿を買った日。山口昌男と歩いた神保町。どんどん生まれて来る若い世代の古本屋に送る温かいエール。……そして、亡くなっていく同業者を見送る眼差しのやさしさ。

――本好きが開く本屋さんという牧歌性が残っているのは、もう古本屋さんにしかないのではないでしょうか。

石神井さんのフレーズが、いつのまにか、ぼくの体のなかで転がっているのでした。

こう、御期待、です。

                   

 で、       

   本屋さん、こんにちは――立川を行く、です。

 六月も最後の月曜日です。晶文社の営業ウーマン、ヤマモト嬢に誘われ、「本屋さん、こんにちは」は、中央線は、立川となったのです。午後の三時半待ち合わせが、急に三時になったのです。今日、あいさつにまわる店の店長会議が四時に予定されている。そういうことではやまったそうです。立川には「オリオン書房」さんがあり、晶文社もとてもお世話になっている、とヤマモト嬢は声を一オクターブあげるのでした。小柄ですが、ここ、というとき、声は力強くなるのですね。、             

初めは、「オリオン書房」のサザン店です。店内に入ると、すぐに思い出しました。よく立ち読みをさせてもらった店だと。思い起こすこともないのですが、八年前、失業したときに、この街にあるハローワークに月一度通ったものでした。半年でした。その帰り、いつもここに寄っていたのです。雑誌は立ち読みでしたが、文庫はときどき買いました。アガサ・クリスティーでしたね。ポアロ、ではなくて、ミス・マーブルでした。

店長の白川さんに、「おせわになっています」。

ここから立川の本屋さんめぐりは始まりました。     

白川さん、とてもやさしい人で、「晶文社さんの本、ここではあまり……」と頭をさげてくれるのです。店の立地条件から、サラリーマンが多いのです、と、ヤマモト嬢が、耳元でささやいています。マンガのコーナーが充実しています。雑誌のコーナーもです。一般書では、やはり、売れ線の本の平積みです。                

 「どんな本が売れていますか」。そうたずねていました。

 「本は売れませんね」。白川さんです。

本は売れません、か。最初の声が、売れません。リアリティーがありました。数多くの本や雑誌の山のなかでそう話されると、つらい淋しさが体からわいてくるような、そんな感じに襲われました。本当に、です。だって、その本を作っているのは、なにしろぼくら、なんですからね。いやはや、です。

 二軒目は、「オリオン書房」パピルスに。店の中央のテーブルを眺めると、なんと石田千さんの新刊が平積みでした。うれしいねえ。『バスを待って』ですね。ぼくは、石田千さんの「次の原稿を待って」ですがね。で、こちらの店長の小宮さん。無心に棚を整理中でした。六平さんと違って、あまり話さない人ですから、ことば使いに注意してください。もちろん、隣にいるヤマモト嬢です。

この店はファッションビルの六階にあるからか、児童書や女性向きの雑誌もおしゃれな商品がそろえられています。ぼくが、ときどき、孫のプレゼントにしている『ぐりとぐら』の絵が飾られ、シリーズの本が並べられています。うれしくなりました。詩のコーナーも充実しています。ヤマモト嬢と二人で、『旗を立てて生きる』と『WOMEN』のPR、もです。どうですか。これからいきますのでよろしく、と。山田稔の『特別の一日』が面陳で、店長さんの個性が十分に発揮できるようになっているのかしら。それに、よく応えているのだろう。そんなことを感じましたね。        

駅構内を通り抜け、次は「オリオン書房」ノルテ店です。ここは広い。専門書をとても大切にしていますよ。案内役のヤマモト嬢です。たしかに、そうです。小柳さんの「左右社」フェアが開かれていました。小柳さんに代わってお礼を、です。両手をあわせました。法政大学出版の「ものと人間の文化史」のシリーズも、もです。すごいですね。ここでは、ぼくも考えましたね。つまり、

 編集者の目、とは。目きき、とはなんだろう、とね。十年前でした。編集者の目きき、という話を鶴見俊輔さんからうかがったことがあります。編集者で大切なことは、目きき、である、という話を思い出したのです。その目きき、とは。

これだけの本のなかでたっていると、白川さんの「本は売れない」という一声が広がってくるのでした。この店では、文芸担当の辻内さんという女性にあいさつでした。吉祥寺のジュン堂の松川さんとも親しいとのことでした。六十三歳になると、このへんで足に疲れがどっと、です。店内に用意されている椅子に坐っていました。まだ三店ありますよ、とヤマモト嬢の声が飛んできたのでした。

これだけの本がならんでいるなかで、自分が、自分たちが編集する本の前に、本の表紙に、内容に、どう立ち止まらせることができるだろうか。やはり、もっともっと、頭をころがせないとね。問題提起に話題性、そしてういういしさ、ですかね。そうつぶやいていました。

雨が少し落ちてきました。

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2013年04月10日

あんな日もこんな日も 四月初め――晶文社便り        

ある金曜日                     

 十五分も早く駅に着いてしまった。一瞬、どこで時間をうっちゃろうかと思ったが、初めて会う人ではない。馴染んだ人である。このまま向かうことにした。目の前の信号を渡れ切れば、そのオフイスが入っているマンションはすぐそこだ。そう言い聞かした。

マンションの隣のビルからリクルート姿の学生がぞろぞろ出てくる。男の学生もいる。女の学生もいる。玄関のガラスの向こうには、数十人の学生たちが行儀よく椅子に坐っているのがよく見える。就職戦線はもう始っているのか。それを伝えてくれた。大変だね。

 ――生きることは苦しい。だから楽しみをみつけるんだよね。でも、この国はお金がないと楽しみは買えない。そんな社会になってしまってね。そうでない人と出会うんだね。

 誰のことばかすっかり忘れてしまったが、そんなつぶやきが耳から響いてくる。 

楽しいことがあるので生きている。オレなんて、楽しいことばかり考えているんだから。困ったことにね。それで、いつも、いつでも、女房からは、ね。キツイことばが投げられるんだけど。友人の何人かは、そんなぼくのことを、「妻食主義」と呼ぶのだ。菜食ではなくて、妻を食べている。とね。当たっているから、反論できない。ニヤリ、とするだけ。そして、ささやく。出来るならやってごらん、とね。      で、初めての電話だ。

気がついたらマンションの一室のドアの前にいる。もう、ここにくることはないんだな。感傷的な気分に襲われた。ドアの左側ブザーを、右手のひとさし指で押す。六平さーん! どうぞ。聞きなれた声が聞こえてきた。とても人懐っこい声の持ち主なのである。

 月曜日のことであった。今年に入り、初めて携帯電話で電話をしたのであった。小沢昭一さんのマネジャーの津島さんに。小沢さんが亡くなられ、しばらくして連絡した時に、著作権などやらないといけないことが山ほどある。そう聞いていたので、連絡することを控えていたのであった。それからだいぶたっての電話だった。    

 電話の向こうで、津島さんが話す。

今週一杯で、事務所を閉めるのです、という。    

湿っぽい口調ではない。少しだけホッとした。すぐに思った。これは駆けつけないとね。そう話すと、事務所はごちゃごちゃしていますよ。いいですか。いいです、いいですとも。津島さんの顔を見にいきますよ。

 事務所最後の日が、この金曜日だった。天気はいい。初夏を思わせる。

 中に入ると、ガラガラ状態である。事務机も椅子もない。コピー機が一台あるだけだ。奥の部屋には、段ボール箱が並べられていた。ガラーン状態になっていた。月曜日から整理してきたのだろう。           

 アララ。そうつぶやいたぼくを、アラー、六平さん。久しぶり! 張りのある声が迎えてくれた。振り向くと、T書房のナガシマ壤がいるのであった。なるほど、である。小沢昭一さんの本を一手に手掛けてきた編集者なんだから。       

「お茶にしますね」  

 まるで事務員のように、お湯を沸かし出した。編集者はこれでないとね。へんなところで感心してしまう。前からあるもので、一つだけ残っているテーブルを囲み、小沢さんの思い出話が始まったのである。ナガシマさんと二人で、津島さんを囲んでのワイワイガヤガヤである。その合い間に、業者がやって来て、コピー機を運び出していく。

ガヤガヤワイワイ。    

 「お茶じゃ、物足りないね」。もちろん、ぼくだ。    

 「がまんするのよ、六平さん」と、ナガシマ嬢。津島さんが笑う。

 「三人で飲もう」        

話はすすんでいく。月が改まったら、向島にある小沢さんのお墓まいりをして、その帰途、浅草で飲もうよ。ここに落ち着いたのである。日を決めましょう、とせっかちなぼくは、そういっていた。晴れるといいね。夕ぐれ前におちあってさ、気持ちいいだろうな。

ここに来て二時間がたっていた。

そろそろ、だね。ナガシマ壤は立ち上がり、奥の部屋に歩いていき段ボールを両手で抱えた。小沢昭一さんが自分でカメラを向けた写真がどっさり入っているという。声も張りがあるが、体にもメリハリがあるのだった。ぼくですか? よその出版社なので、段ボールを一つ運ぶことにした。二つ、ではなくてね。

小沢さんのオフィスを後にしたのである。ふり返ることはなかった。



ある火曜日。                     

 サイトウさんから、声がかかったのである。編集部の若い小川くんの作業を手伝ってください、とね。もちろん、もちろんですとも。

オガワくんと向かいあう。ある評論家、というよりも、批評家、といったほうがふさわしい著者、その人の本を編集しているという。世界を歩く紀行文を一冊にまとめる。そう話してくれる。この人の本が作れるのは、とてもうれしい。そうも話してくれた。いいじゃないか。それなら、二十四時間、考えて、繰り返し繰り返し考えて、目次案を何日までに作るんだよ。そういっていた。   

 その約束の日である。目次案、できているかどうか。前もって電話で確認する。すると、出来ていない、という。どうして、あんなに約束したのにさ。声が荒くなっていくのがはっきりわかった。オガワくんが話す。電話の向こうで。 

 まだ原稿が全部、そろっていないんです。       

 そういうのだった。ムッときた。ムッときたが、あることが頭をかすめたのである。

 そうか。この人は何にも教えらないでここまできたんだ。

 そう思ったのである。これじゃあねえ。     

そのムッ、は、オガワくんではなく、本来なら教育役も兼ね備えているはずの人の顔が浮かび、そこに向かうのであった。アー。あの人では、ね。ためいきをついていた。オガワくんに同情を覚えてしまった。恥ずかしい話であるが、ここからスタートなのだ。失われた時間の大変さを痛感した。これじゃあ、社長も大変だね。そうも思った。

 で、会うことにする。オガワくんにである。          

場所は、晶文社の右向こうにあるタコ焼き屋である。おいしいのだ、これが。その一人前のタコ焼きをはさんで話す。気がつくと、こんなぼくが能書きを口にしているのである。本は形にして、ナンボ。いつまでも懐に温めて置くものじゃないんだよ。著者ももちろん、編集者もね。ほら、もう三分の二も原稿があるじゃない。これで、骨を組む。そこに血と肉をね。少しづつ加えて行く。本にもさ、100パーセントなんて、ないんだ。本という形になっても100パーセントなんてないんだ。そこに向かうんだよ。そう話しながら、恥ずかしさが大きく広がってくるのがわかった。ハイボールを頼むことにした。オガワくんには、お前は飲むなよ。そういっていた。ハイボールを一口、である。

とにかく、いま、手元にあるもので目次を作るんだよね。そこから、著者に相談して、自分の考えもそえて形あるものに、ね。彼女、いないんだろ。週末、ばっちり時間があるだろう。そういっていた。二十四時間! 二十四時間考える! と。

目の前に坐っているオガワくんの顔が赤くなっている。どうやら、彼女、いないんだろうが当たりのようだ、とぼくは勝手に思った。いい奴、じゃないか、と少しだけ好きになった。  、

 エラそうに。と誰かの声が聞こえてくる前にいう。ホントウにエラそうな火曜日の午後でした。     



ある月曜日。

 昼前に松山巌さんに電話をする。午後は小沢信男さんに電話をする。

 その間、野川を歩いた。松山さんには、小沢さんには、妄想が一人で歩いていく。会う前から、ワクワク状態にはいってしまった。


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2013年03月29日

吉祥寺の本屋さんで――晶文社便り

ふと気がついた。いつも、ふと、で困るのだが、この「晶文社便り」というタイトルのことです。どこかで、晶文社、の公式的な意味を帯びているように響くかな、とね。そうではないのです。あくまでも、「泥鰌のつぶやき」なのですね。このことを一言、ここに置くことにしました。実に個人てきなものなのです。

 で、三月の最後の火曜日、“月一”の書店めぐりです。 

 こんにちは。晶文社をよろしく。 

 そんなあいさつです。今回も営業ガ―ルのヤマモト嬢が水先案内人です。

待ち合わせは、JR吉祥寺駅の中央改札口でした。吉祥寺の駅もどんどん変わって行きます。まだ、工事は終わっていません。井の頭線とのつながりが、以前と変わり、とまどうことがありますね。ボケおっさんは、立ち往生することもしばしばです。ヤマモト嬢です。明るい笑みをみせ、右手を振って待っていてくれました。五分、ぼくが遅れたのです。実は、というほどのものではないのですが、家を出て、入れ歯をしていないことに気がついたのでした。入れ歯、です。あわてて家に戻ったのです。「バカね」。女房のひと声です。それで、五分。

前回の神保町は、ただただ駆け足だったので、今回は、たった一つの質問を、行く先々の書店員さんに届けることにしました。こうです。

「もし、晶文社に期待するものがありますなら、それはなんですか」

とね。それをヤマモト嬢に伝えると、とてもうれしそうな表情を返してくれたのです。白い歯並びがくっきりです。どうせ、書店めぐりをするなら、なにかを、というわけです。それに、こういう質問をするような単純な男はそういないでしょう。二人で、書店をすたすた歩きました。あまりのせっかちぶりに、ヤマモト嬢から、もっとゆっくり話してください。そんな苦言をいただきました。人の話を聞くより、自分のことを話すだけの人生だったので、こればかりはどうもね。とは口にはしませんでしたが、そう思ったのです。

で、一つの質問です。

ある書店は、こう話してくれました。

「売れる本を作って下さい」

これには、うーん、です。もう少し具体的に? そんなことばがでていました。

「雰囲気のある本ですかね」

なるほど。そううなずいていましたが、なにが、「なるほど」なのか。これは難しい。本そのものの雰囲気がある。装丁、タイトルなど。ハードカバーかソフトか、もある。著者その人の雰囲気もある。テーマ、という雰囲気もある。著者とテーマである。そして、出版社のそれもある。晶文社、らしさ。そこにも、もちろん雰囲気は、ある。いやはや、です。雰囲気、ね。いいことばです。人にも、ありますね。社会にもある。これは、考える大きなテーマですね。神は細部に宿る、かな。コクテイル、にもある。なんてね。

「うーん。……『書店ガール』に出て来るような、晶文社さんです」

そう話してくれた書店員さんとも会いました。

なにそれ。そんな顔で隣にいるヤマモト嬢を見ると、そんなことも知らないのですか。とはいわなかったが、スタスタと文庫コーナーの方に歩き出しているのです。後をついていくと、これですよ、と一冊の文庫本を指さしているのです。そこには、『書店ガール2』が平積みされていました。

吉祥寺の書店を舞台にした小説ですよ。             

ヤマモト嬢です。

立ち読みを始めたぼくに、私、買います。そう話しました。孫と散歩しているようだな。ぼくはそう思うのでした。

さて、来月は、どこにお邪魔しようかしら。吉祥寺なので、クレインさんの文さんの会社に向かいました。ヤマモト嬢を紹介しようと思ったのです。二人の会話、初対面にしては、ほんとうに楽しいものでした。それは、またの機会に。吉祥寺の本屋さんめぐり、始ったばかり。       

石神井書林の内堀さんから、間もなく原稿が送られてくるようです。ぼくの編集作業もぼちぼち始まるようです。ではでは、またです。

               

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2013年03月14日

晶文社から、という話を――その1

と、いうことです。

 実は、というほどのものではないのですが、年があけた一月、以前、晶文社で机をならべていたサイトウさんから、電話がありました。会いたい、とね。会いました。今年から晶文社で編集作業をすることになった。いまの晶文社の有り様は……中華の料理を食べながら、紹興酒で心と体を温めながら。

 どうやら、晶文社は一周したようだね。そう思う自分がいました。

 創業者の突然の死、その下にいた人たちが社を、そして、出版社経営の怖さを知って手放した。いまは新しい人たちが、三代目、というわけだ。なるほどなるほど。

 顧問になって、とサイトウさん。

 月に二、三回いくなら。

 それじゃあ少ないです。

 こんな感じで、晶文社の顧問になったのです。時間にして、そう、二、三分ですか。

 晶文社に何かお役に立てることがあるなら。ぼくでよければ、そういうことです。

 そして、一カ月があっというまに、です。週に一度、神保町に足を運んでいます。

 アンドウさんも晶文社に舞い戻っています。おととい、三月八日、初めての編集会議でした。二時間に及びました。喧々諤々、ではなく、企画のラッシュです。いやはや、考える人はいるものです。企画、なのでここではね。夏だね。と口にするようになるころには、皆さまの前に本が、形を整え姿を見せることでしょう。

 ぼくの仕事ですか。編集に、営業に若い人がいます。ぼくのこのふてぶてしさ、めげない強さを、すこし、まあ、本人たちがきらっても、手渡したい。そういうことです。それと、社が全体として活性化していくお手伝いです。小さいながら、生きのびていくことを

考える。まあ、そういうことです。そうそう、月にいちど、営業のガール・ヤマモトさんと、書店めぐりもします。先月は神保町めぐり。東京堂、三省堂、岩波ブックセンターを。

岩波の柴田会長から「おいしい」話も。

 もちろん、本もつくっていくつもりです。最初の編集会議で、こう話しました。

 若い女性のエッセストを! とね。宣言しました。

 と、いうレポートです。コクテイル、から、晶文社便り、を。もちろん、狩野マスターには、事後承諾、です。

 テレビは、陸前高田を映し出しています。ぼくも四回、歩いた町です。なんにもない町のままです。

 ではでは、又。                六


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2012年12月19日

最近読んだ本

近況ですが、元気です。このところ、

吉祥寺のいせや、ですね。一人で飲んでいます。

週に一度かな。

先週は、旧友の豊田有造さんのライブに。

そうそう、朝倉喬司さんの三回忌もありました。

ボケないように、というとボケが始まっているのでしょうか。

このところ、よく歩いています。

読書は、金子光晴の再読です。いいですね。と、改めて。

ではでは、また。





『酒場をめざして 町歩きで一杯』

   大川渉  ちくま文庫  八八〇円 



 いまある居酒屋ブームのきっか

けとなった『下町酒場巡礼』が文

庫になり十年を越え、その筆者が

帰って来た。町歩きの行き着く先、

それは居酒屋だという。歩くなら

ビル街より下町がいい。商店街を

徘徊し、銭湯と出会ったらひと風

呂浴び、最後はやはり一杯。歩き

疲れた心地よさを、居酒屋での一

杯でしみじみと味わおう。

 東京の町歩きコース八つを紹介

する。はじまりは、「銀座、築地、

佃島かいわい」。かつて銀座を縦

横に流れていた川も高速道路と化

した。ならば、川のない残された

橋を訪ね回る。三原橋、万年橋と。

そして、築地で鯨の串カツをほお

ばり、佃に向かう。醤油を煮込ん

だ香ばしい匂いに、ついあさりの

佃煮を買う。そして、最後に腰を

おろしたの「岸田屋」。月島商店

街にある、東京を代表する居酒屋

で、チュウハイを一気に。

 立石から柴又歩き、神楽坂めぐ

り、品川から大森の旧東海道、巣

鴨のおばちゃん原宿歩き、林芙美子

の旧邸訪問、と。もちろん五十一件

の居酒屋案内もあり、「てまり」(新

橋)と「みうら」(渋谷)に、気がつ

くと付箋をつけていた。







 『そこに僕らは居合わせた』

   グードルン・パウゼヴァング  高田ゆみ子訳 みすず書房 二五〇〇円



 「語り伝える、ナチス・ドイツ

下の記憶」というサブ・タイトル

がテーマ。著者は、一九二八年当

時ドイツ領ボヘミア東部(現チェ

コ)に生まれる。いわゆる「ヒト

ラー・チャイルド」と呼ばれてい

る世代である。

 ナチス時代は、私たちに重苦し

い遺産を残した。その証人がいな

くなる日が近い。そう語り、個人

を抹殺した全体主義の姿を、自分

たちの日々の記憶を未来に伝えよ

うと二十の物語を語る。

 多くはユダヤ人との交流である。

戦後、元ナチスだった母は戦時中

の行いを反省することなく、隣人

だったかつてのユダヤ人に自分の

身の潔癖を証明してもらおうと慌

てふためく姿(「潔白証明書」)。

 いまや孫を持つ世代になった。

孫が聞く。「手本となった人は」。

かつてヒトラーの子どもだった祖

母は応える。初めは両親、十歳に

でナチス少女団に入りヒトラー。

驚く孫。歴史は知っているが、当

時を支配していた空気はわからな

い。祖母は続ける。戦後、もう手

本は持たないと思ったが、戦争中

にフランス兵の捕虜とドイツ兵に

同じように食べ物を与えた農婦の

存在を知る。少女団で教えられた

ことと違った。人間に対等だった。

それから、この無名な農婦が手本

だと語る(「お手本」)。

 


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2012年07月19日

またまたボツ原稿ですみません

暑いです。昼から氷にビールを注ぎ飲んでいます。二つのボツ原稿を、ひさしぶりに。集中見舞いにならないものですが、かなり前に書いたものです。いま、一冊の本の編集と、ひとつの原稿をそろそろ書こうと思っています。編集している方は、もちろん形になりますが、もう一つの方は、どうなんでしょうか。まあ、元気に毎朝を迎えています。そして、痛風の薬を飲みながらお酒も、です。ではでは、またです。



 

『再び立ち上がる! 河北新報社東日本大震災の記録』

   河北新報社編集局 筑摩書房 一五〇〇円



 「河北新報」は、宮城県を中心エリアにしている新聞である。同新聞が、東日本大震災を報じた十カ月の記事を一冊の本にしたもの。テレビでは、海岸沿いの街が飲み込まれていく映像が繰り返し放映されるが、この新聞報道は、大震災と社会、社会と人々の有り様を伝える。

 初主一覧を見ると、最初の新聞記事は三月二十五日付の「悲しみを抑え、長男を探す」。石巻の、その夫婦の姿を描く。この日付から、新聞が動き出した。三月十一日に起こった多くの惨劇とそれに向き合う人びと様々な表情を新聞に刻み込んでいく。

 南三陸の老人ホームで起こったこと。海沿いを走っていた二本の列車の命運を分けた停車した場所。「津波三メートル」の警報後に情報が途絶えた町は……。全校児童のうち七割が亡くなった大川小学校の、その時間に起こった実態に迫っていく。学校の裏山になぜ避難させなかったのか。そのときの最終的な判断を下す人は、どこにいたのか。九月八日付の記事であり、その日付が、関係者が重い口をようやく開いたことをも語る。







『日本人は状況から何をまなぶか』

   鶴見俊輔   編集グループSURE 二〇〇〇円



 九〇歳に近くになり私は終わりに向かっている、と書き出し、この本は自選の最後の一冊、と「あとがき」で述べている。この六月で九〇歳を迎える哲学者の最新エッセイ集。「3・11」にふれた文も、もちろんある。「文明の難民としての日本人」という。老哲学者は綴る。

「3・11」、その日からテレビを見続けている。地震、津波、原子炉破壊の報せが積み重なってくる。この出来事を大きな形のなかでとらえる形に出会いたい、と思った。

アイザイア・バーリンが浮かんできた。二〇世紀を「難民」というキーワードでとらえた思想史家でユダヤ人の難民のひとり。難民でもって世界をとらえる視点は、哲学史のなかでは珍しい考えであった。そして思う。

 原子爆弾投下がつくりだした難民を視野に入れた人間の歴史が、世界史が、まだ書かれていない。その問いに応えることなく私たちは過ごしてきた。この空白の時間に、原子炉破壊が起こった。文明が生み出した原子炉の破壊、多くの難民を生み出している。この事態にどう立ち向かうか。こう語りかける。

近隣の助け合いと物々交換から再出発したい。

文明の難民として日本人がここにいることを自覚し、この文明にそう、ひと声かける方向に転じたい。





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2012年04月13日

サバの味噌煮

久しぶりにサバの味噌煮を作り食べる。酒は痛風なのでビールは避け(酒、という文字が出てきた)、やはり焼酎にした。オンザロックでグイグイ。で、今朝は二日酔い。教の水曜日はもえるゴミの日。

こうしてパソコンをいじっていたら、またもや、ボツ原稿が出てきたのです。昨年のものでしたね。この本はとてもいいです。角田さんという作家の内部にある些細なことが見えてきます。鶴見俊輔さんのこんなことばを思い出しました。

 何かを作り出す、生み出す人に共通したものがあるんですね。

そう話しかけてきたことがあったのです。

それは、何かというと、

自分のなかに物語を抱え、それと時折、対話すること。

例えば、大江健三郎は息子の光くんがいる、ということ。光くんとの対話が、大江健三郎が物語を生みだす原動力だ、とね。

丸山真男のことばでいえば、自己内対話、ということでしょうか。

で、ボツ原稿です。



『今日もごちそうさまでした』 角田光代  アスペクト  一四〇〇円



大きな白菜を目にすると、父を思い出す、という。角田さんだ。やかんでお湯をわかすことすらなかった。だが、白菜の漬物だけは自分の手を動かした。晩酌の白菜漬けだった。その父が亡くなり、父を知らない時間がながくなった。

ある夕食のとき、母がつぶやいた。

「おとうさんの作った白菜漬けはおいしかったわね」。

角田さんは、白菜漬けを作らないし買ったこともない。この母の一言のせいだという。父の白菜漬けが完璧においしいのである。

食をめぐるエッセイである。料理を覚えたのは二十六歳の頃だった。餃子の皮が作れるとわかると作った。たけのこも自分で煮た。チャレンジ精神に満ちていた。しかし、気がつくと水煮のパックになっている。

ある日、たけのこ入りのタイカレーの旨さに衝撃を覚えた。脱ずぼら、を目ざすが……。「れんこんだんご」「洋風鰹」といった角田風レシピも添えられている。



と、いうものです。

 そうそう、吉本隆明さんが亡くなりました。

吉本さんの自宅に通った時期がありました。もう三十年ほど前です。近くにあるお寺さんからノラ猫がよくきてね。なんてうれしそうに話してくれました。ちょうど、マス・イメージ論を出版し、埴谷雄高との論争があったころでした。吉本さんの家のシャンゼリアもなにかと話題になっていました。べつにどうってことのないシャンゼリアでした。建て売り住宅につきもののそれ、つまり、建て売り住宅にはつきもののシャンゼリアだと、ぼくは思ったものでした。中島みゆき、に入れこんでいましたね。コンサートの切符がなかなか手に入らないねえ。そんなことも話してくれました。

 追悼文がいろいろでていますが、ぼくは、『新潮』の加藤典洋さんの文が、とても心に伝わってきました。

しかし、吉本さんと鶴見さんの「思想をめぐる自立か同伴か」という戦後を代表する論争にふれる人がなくて、おいおい、この国の評論家は何を学んでいるのかい、とつぶやきたいのですが、まあまあ、というところでしょう。それに、「転向論」も、なんてね。

 まだまだ、昨夜の酒が消えません。困った、とつぶやく、ぼくが困ったものです。

読書は、本田靖春さんの『評伝 今西錦司』。著者に対象者に、の二人、とても包容力のあった人でした。そうそう、このところ考えるのは人の包容力、ということです。ぼくの身近な人では、坂崎さんもとても包容力のある人です。

ブログとかツイッターでは伝わらないものに、人間の包容力だなあ、なんて、グタグタ一人つぶやき飲んでいました。沖縄から、かわいい若いガールフレンドから手紙がきました。古本屋のねえチャンです。とても元気そうで。ジュンク堂の横にある煮込み屋で飲んだことを思い出しました。「沖縄にくることがあればぜひ」と。

これから返事を、です。

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2012年04月05日

三月から四月に

 原稿を書いているのだが、読みなおすと、いつもの自己嫌悪に襲われる。描いている、のではなくて、説明している、のだった。困ったことに。もっとシンプルに、もっとスピーディーに。自分に向かって、そう話しかけるのだが、こればかりはどうも。

 ブログというやつも書かなければ書かないですむものだが、もう四月。この一週間を。



 三月二十六日(月曜日) 

昨夜は一晩中、左足親指の付け根を冷やし続けるはめになってしまった。

痛風だった。予兆は以前からあったが、まあ、そのうちにと甘く見ていたのであった。大きな間違いだった。相変らずいい加減なのだ。昨夜の痛さは並ではなかった。冷蔵庫のアイスノン三個は総登場で、二時間おきにタオルでくくり続けていた。ここ五年ぐらい症状は出てこなかったというのに。

駅前にあるクリニックに行くことにした。五年ぶりかしら。我慢できなくなると顔を出す。そんな患者になっている。今夜、昔の新聞社時代の友人と御徒町で待ち合わせだ。飲み会である。痛風の痛みを少しでも和らげよう。薬は飲んでおいてほうがいいに決まっている。と、まあ、バカのことを考えたのだ。初診料に血液検査、それに薬、併せて五千円弱。無職、という身にはとても痛かった。

夕方、JR御徒町駅で合流。ぼくも入れて三人。「大蔵省」は、某出版社の重役さん。愛人が二人もいる、このご時世に、やるもんだ。向かったのは、ガード下にある「佐原屋」さん。ここを教えてくれたのは、あの名著『下町酒場巡礼』の筆者で、吉本隆明『中学生の社会科』を作った田中さんも一緒だったなあ。十年前になるかしら。それから、どれくらいお世話になってきたことか。カウンターだけの、といってもゆったり二十人は座れる。カウンターのなかにはいつものお姉さんが二人立っていた。変わりません。

「ホッピー!」。そう注文すると、友人がいった。

「ホッピーは麦。ウイスキーがいいよ」

なるほどなるほど。麦芽は痛風によくない。

最後はカラオケでマイクを握っていた。



二十七日(火)

午前十一時、JR武蔵境駅前で石神井書林・内堀さんと待ち合わせ。ぼくは自転車で向かう。駅前に図書館ができたのでとても便利になった。自転車を無料で止めることができるようになった。それに、時間があれば館内をブラブラすることもできるしね。で、そうしているうちに、筑摩の近代日本思想体系『林達夫』を借りることにした。
石神井さんと用をすませ、吉祥寺の「いせや」にいる。痛風だと、いうのに。
「ビール飲みなよ」という石神井さんのことばにあまえ、ついビールを。これがきくのですね。口にふくんで喉に流し込んだ。その瞬間、左足の親指の付け根が「ツンツン、ツンツン」。悲鳴を上げたのであった。体は本当に正直です。
昨今の古本業界やら古本についての新刊のウワサ話など……いろいろあるもんですね。景気の悪いいま、業界に入ってくる若い人は可哀相、と石神井さん。
石神井さん、ごちそうさま。

二十八日(水)

明日は家をあけるので、家族の三枚シーツを洗濯。干す。穏やかな天候で助かる。でも、フクシマが気になる。ザワザワ、だ。夕ご飯はナスカレー。

二十九日(木)

朝の七時前に家をあとにする。義母の納骨と四十九日を兼ね、墓のある長野市に向かう。東京駅からの新幹線はほぼ満員状態だ。春休みですね。スキーを抱えた若い姉ちゃんの姿もちらほら。十時すぎにはもう到着。昨年は家内の弟がなくなり、この地を二回訪れたんだ、とつぶやく、春の空を見上げるとどこまでも青い空がひろがっている。タクシーの運転手が話しかけてきた。よかったですね。今日はよく晴れて。昨日なんて雪でしたよ。それに、ほら、年末工事であちこち工事中でね。
お寺で読経に納骨。昨年夏に収めた弟の骨は、義母のそれと変わらない。真っ白のままだった。義母の骨を、その上に少しずつ重ねていく。この寺から長野の街が一望できる。その先の左の方に、まっ白な雪化粧の南アルプスが見えた。
善光寺前のなじみの蕎麦屋さんで天ぷら蕎麦。なぜかエビが大きい。「ビール!」とはとてもいえなかった。

三十日(金)

沖縄から研修で上京中の緒方教授とお茶ノ水で会う。珍しい週だ。週に二回も街に出て来るなんて。某出版社の課長・大河くんも合流。そのまま、神保町交叉点近くの中華料理店に入る。孫文も滞在中によく通ったという店だ。緒方教授の祖父は、孫文と友情を交わし合った人、なんで。大河くんが気をつかったのである。孫文と祖父の交流を報じた九州日日新聞の記事を肴に老酒が進む。歴史はいつもそこにある、だね。
課長と一緒に沖縄を旅したのは、もう十年以上も前だという。沖縄からみると、フクシマはとても遠い、ではなく、まったく関心がないようだ、と教授。沖縄の基地もヤマトでは同じだね、とぼく。だが、沖縄の基地は米国の軍事戦略の下にあり、日本の原発も同じように米国の原発(核)戦略の下にあるのは変わらないよね。
緒方教授とわかれ、課長と二人で駅前の「吉野家」に。よく、ここで飲んだものだ。牛皿ひとつに冷酒三本。今夜もあの晶文社時代と一緒の注文だった。これだけはかわらない、と課長は苦虫顔だ。

四月三日(火)

つまり、今日ですね。

昼前、お茶ノ水で、前の東京堂書店店長の佐野さんと会う。喫茶店「穂高」。今年明けから準備を始めている佐野さん新刊本の打ち合わせ。その二回目だ。東京堂書店時代が「売る側」なら、いまは「読む側」でしょう、佐野さん。なんてえらそうな口調になっている。困ったものです。
ほら、この原稿、いまの若い書店員へのメッセージもあるじゃないですか……佐野さん、優しいんだよね。アメリカ思想のジェイムズもパースも読んでいるんだ、佐野さん。
ぼくもせっかちだが、佐野さんもけっこうせっかちなのです。時間にして二十分弱、話は終了。次の打ち合わせは今月末に、と別れる。
夏前には形あるものに、と思っています、みなさん! 楽しみに。

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2012年01月16日

この正月のお土産

寒い寒い。洗濯物を干し終えたところだ。両手が冷たい。インスタントコーヒーでも飲むことにした。今日は、今年初めての電車である。と、書いて、語尾を「である」にしたことが恥ずかしくなってきた。電車に乗ることが「である」だなんて。いやですね。ボケがすすんでいるのでしょう、きっと。


電車賃も惜しい。そんな暮らしぶりに慣れてきた。今日は午後から三カ所をめぐる。「思想の科学」社、エミちゃんの会社、そして築地方面だ。かけあしだね。今年も三週目だというのに、いまごろ動き出すのだ。変わらない、この怠惰な性格、今年こそは、と思うがもう手遅れだね。


昨夜は、手紙の返事を書いた。


正月に帰省した親戚が、ぼくら夫婦宛の手紙をお土産に帰ってきた。岩手の陸前高田で生まれ育ち、ひょんなことで縁が生じた人たち。あの地震と津波でなにもかも失ってしまった家族の一員だった。陸前高田の家族は、仏壇もアルバムも飼っていた犬(ベル)も家の前に住んでいた夫婦も流されたという。その日から二ヵ月後、岩手の内陸に引っ越した。「なにもないのだからすぐにすみました」と話してくれた。明るい声がつらかった。だが、ぼくらに何ができるというのか。六十歳を過ぎた夫婦と八十九歳になるおばあさんの三人のアパート暮らしが始まった。


陸前高田には四回ほどおじゃました。田舎の農家。六畳の部屋はなかった。八畳以上の部屋が並んでいた。蔵もあった。敷地の一角にもう一軒、二階建ての家もあった。家のうしろには田んぼが広がり、「今年のお米です」。メモといっしょに十キロのお米が送られてきていた。あの松林が自慢だった。家から歩いて五分とかからなかった。松林を通り抜けると砂浜が広がっている。海水浴にいいんですよ。そうも話してくれた。声には弾みがあった。ホヤと日本酒がいいですね。そうつぶやいたら、その夜のテーブルにはホヤの小さな山ができていた。


そこのおばあさんからの手紙、この正月明けのお土産。初めての手紙だ。


しっかりとした字で書かれている。八十九歳とは思えない。陸前高田からアパート暮らしになり、すぐに体の、精神に苦痛を生じて通院生活を送ることになった。それから、一週間ほど入院生活に入った。そんなことを耳にしていたから、力の込められた字は、とてもうれしかった。元気なんだ、と思った。


内陸は海に面した陸前高田と大いに違う、という。雪は積もる。冬の空の色はいつもどんよりしている。なによりも、今後、についてのはっきりした説明がない。高台、といっても陸前高田にはそう高台の土地はない。流された後に残った土地、どれぐらいの価格で買ってくれるのか。それも不明のまま。狭いアパート暮らしはつらい。そんなことが、ときどき、ぼくらの耳にも入ってきていた。


封筒には「東京のおとうさん お母さん 江」とあった。二枚の白い紙には、これまた力がこもった文字が並んでいた。一字一字が刻み込まれている。





――呼々時は朝五時半 又 思ひ出させる目がさめる


  三月十一日のあの出来事 津波 地震 東京のお父さん お母さん 


  何からお話ししませう


  半年も過ぎた今頃


  一筆お礼感謝申し上げます


  食べ物衣類 何に一つない


  着のみ着のまま逃げた ドンブク


  半天(纏)一つで裏の田苗に


  それから山の麓までたどり着き


  消防団の人に見つけて戴き


  本當に本當 命だけは助りました


  東京のお父様 お母様 


二人の孫を何時も可愛がって戴き


感謝でお礼の致し方御座いません


  本當に本當に有難たう


  御座います


生きている内に東京のお父さん


お母さんにだけお合ひ願ひます


出来れば今一回私の生きて居る


内にお合い到したいと願って


居ります


耳も遠くなり手がふるえる


電話も失礼と思ひ今日まで


延びた事勝手な事ばかり


書いて済みません


寒くなりますのでお体に


十分注意して孫達をお願ひ


致します


 乱筆にて失礼致します


 八十九才のばあさんから


 失礼致します


         かしこ


「御守」とあるお守りがひとつ、同封されていた。





この春には必ずうかがいます。よろしくです。


返事の手紙だった。こう一言そえた。


孫も、この春に小学校です。おばあさんから買っていただいた黒いランドセルです。楽しみにしていてください、と。


三月で一年を迎える。しかし三月、というのは切ない。


こんなやりとりが全国のあちらこちらで交わされているに違いない。三月が終わるころ、おばあさんに会いにいくことにした。陸前高田も歩いてみよう。この正月の手紙である。





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2011年12月19日

まだまだ続くボツ原稿です

いやあ、今年も多かったボツ原稿。

年末でもあり、みなさん(これを読んでくれているかもしれない人ですが)、迷惑も顧みないで、二つのボツをここに置いてみます。先日、その理由をさりげなくたずねてみました。カタイ。部数(とくに『メタフィジカル・クラブ』の方ですが)が少ない。そういうことばが返ってきました。しかたがありません。

『メタフィジカル・クラブ』はとても面白いノンフィクションです。巨大な怪物と化した米国とは、違う水脈、つまりプラグマティズムのこれまれの、これからの可能性について多くのことを教えてくれます。図書館で注文! 



『メタフィジカル・クラブ 米国100年の精神史』

    ルイ・メナンド 野口良平、那須耕介・石井素子訳 みすず書房

            六〇〇〇円

 哲学者・鶴見俊輔によると、プラグマティズムは一八七〇年代の米国で生まれ、主に

今日まで米国でさかえた。その出自は謎に包まれているという。この伝説を、著者は丁

寧に追う。表題の「メタフィジカル・クラブ」が、その水源である。

著者は五二年生まれ、アメリカ研究者で本書によりピューリッツァ賞受賞(二〇〇二年)。

クラブは、南北戦争(一八六一〜六五)を体験した青年たちによってもたれた。戦争には奴隷解放だけではなくイデオロギーの対立もあった。六二万人の死者を前に、殺し合いの可能性を抱く意見(イデオロギ―)対立ではなく、互いの妥協と探ろう。これがモチーフだった。青年たち、ホウムズ(法学者)、ジェイムズ(心理学者・哲学者)、バース(論理学者)らのその後の歩みを通じ、「いくつもの自由」、「多元主義」という考え方が育ってきた歩みを描く。

 この考えは、冷戦終焉後に重さを増している。いまだに正義の旗を振り続ける米国社

会と向き合う。



もうひとつあります。



『日本の小説を読む』 山田稔 SURE 二二〇〇円

 「日本の小説を読む会」という読書会があった。京都大学人文科学研究所での雑談か

ら生まれた。当時(いまもそうだと思うが)、映画や文学において日本の作品をないがし

ろにする空気が強く、その知的怠慢を反省しようと、日本の、とした。一九五八年秋に

始められ、四十年近く続いた。

 同会の足跡を、言いだし人の一人、山田稔が書き下ろした。教養が目的ではない。文

学集団とも違う。たんなる仲間内の遊びに近かったと回想する。

 例会は月に一度、一人の報告者が、これぞという小説の読後感を語り、参加者が歯に

衣着せぬ口調で迫る。その様子を会報で記録してきた。二次会の居酒屋「赤垣屋」での

飲み食いもページを飾っている。山田はいう。会員の飯沼二郎の「私の長かった〈青春〉

も、これで終わりです」が、会員の思いを要約する、と。深沢七郎『風流夢譚』。尾崎翠

『第七官界彷徨』など十六の作品を扱っ会報も収録。多田道太郎、高橋和巳、杉本秀太

郎、梅原猛ら会員の発言が並ぶ。 



 居酒屋「赤垣屋」を書きこんだのは、現役の店で楽しい店です。京都に行かれたら「スタンド」とあわせて足を運んでくださいな。ではでは、また。








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