2017年05月24日

人間の探究 771 月こそ心よ

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※「爾前の経経の心は 心の澄むは月のごとし 心の清きは花のごとし、法華経はさにあらず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり。」(白米一俵御書)

人間の探究 771 月こそ心よ

 爾前の教えは「心の澄むは月のごとし」と教えます。「法華経はさにあらず 月こそ心よ 花こそ心よ」と教えるのです。
「爾前の経経の心は 心の澄むは月のごとし 心の清きは花のごとし、法華経はさにあらず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり。」(白米一俵御書)
そのように日蓮大聖人様は言われています。
 あそこにある月が貴方の心なのです。法華経以前の教えでは、「月は満月のときは澄んでいて美しいのです。あの満月のような心をつくっていきましょう」と教えます。
 これを海印三昧(かいいんざんまい)といいます。ちなみに、海印三昧とは海の表面に波が立ちます。そこに波が立っていると月は映りません。或は月が歪んで見えます。心が澄んでくると波が穏やかになり、丸い月が水面に映ります。これが修行の目的です。このことを海印三昧と教えられているのです。
 心が濁っている人は何を見てもわかりません。自分の心で見るから人を見ても相手の正体が見えません。自分の心がだんだん澄んでくると、相手を人目みればどのような人間か見抜くことができます。
 それが仏道の修行であると教えているのが海印三昧という教えです。この教えと法華経は全然違います。あそこに見えている「月」が貴方です。月と貴方は別物ではありません。同じものなのです。
 「月こそ心よ」この意味がわかっている人はいません。普通は、何を言っているのかさっぱりわかりません。それを解説すると、月と自分というものは一体です。月と心が別にあるわけではありません。別にある心が月というものを見て、「月がそこにある」というのではありません。心と月というものは一体です。
 これはどのような意味かというと、心がなければ月は見えません。心があっても月がなければ月は見えません。心と月は一体です。貴方が今、そこに存在しているから月が見えているのです。見えている月と自分は同じものなのです。
 これは月だけではありません。山も川も海も動物も貴方が見ているものは、貴方の心が見ているのです。ということは、月も心なのですが、山や月も地球も大宇宙も全て貴方なのです。
 「貴方が見ている世界なのです」ということが、極意です。法華経の極意とは、そのことを説いているのです。別物ではありません。貴方が見ていないときに月はないのです。月は貴方が見ているのです。貴方が「月」と認めているのですから、貴方が見てないと月はないのです。
 「私はいなくても月はある」とみな考えています。そうではありません。私がいなくなれば月はなくなるのです。貴方が見ている月なのですから、貴方が見ていなければ月はないのです。
 これはアインシュタインも相当、論争したところです。「そんな馬鹿なことがあるのか。俺は死んでも月はあるだろう」というのが、アインシュタインの立場です。物理学の量子論の考え方が入ってきます。見ているときに月はあるけれども、見ていないときに月はないのです。後ろをクルッと向いたら月はなくなってしまうのです。本当にないのです。
 またクルッと表を向けば月はあるのです。ということは、月というものは実体ではありません。実体ではないということはどのようなことかというと、自分というものがからまないと月は出てこないのです。自分の心があって月を見るのですから、心がなければ月は見えないのです。見えないとは、無いと同じことです。
 ということは、人間が感じるあらゆる世界のものは、貴方が見ている世界です。悪いことをやって捕まって牢獄へ入れられるのも貴方の世界です。戦争に連れていかれて殺されるのも貴方の世界です。
 人の世界ではありません。仏様に会って説法を聞いて成仏できるのも貴方の世界です。全て「貴方」が見ている世界です。他人が見ている世界ではありません。このことを仏教では、因果倶時というのです。因は見ている心です。果とは「月が見える」ということです。
 心があって月が見える、それは同じ心が見ているのです。この場合の俱時はそのような意味です。見ている立場にいるのですから因、「月がそこにある」と見るのですから果なのです。因と果があって月が見えるのです。いつ見えるのかというと同時に見えます。だから因果倶時です。
 これを応用すると貴方が変われば世界は変わります。それをわからない人は、人を怨んでいるのです。「親が悪い。親が楽しいことをやって私が生まれたのだ。私は生んでくれと言ったとは一度もない。私の人生にはよいことは一つもない」と親を怨み、社会を怨み、世の中を呪うのです。
 「こんなヤクザに誰がした」という歌がありますが、そこからこの言葉が出てくるのです。気が付いたらヤクザの世界に入っていたのです。ヤクザの世界は地獄・餓鬼・畜生の三悪道です。「バカヤロウ」「コノヤロウ」「ぶっとばすぞ!」ということが連続した世界です。これは貴方が見ている世界です。貴方はなぜそのような世界を見ているのでしょうか?
 寄ってくる男はみな詐欺師です。貴方は何回だまされたのでしょうか? 5回目? 何回だまされたらわかるのでしょう。来る男はみな詐欺師です。だまされる貴方が悪いのです。相手が悪い面もありますが、本当は貴方が悪いのです。
 そこで気が付いて仏教を求め修行に入るならば、因果倶時ですから心が変わった瞬間に、人生が変わるのです。
 大日本正義団の元組長の吉田芳幸というヤクザがいたのです。ものすごいやり手で、20代で何十億円稼いだのです。どのようにして稼いだのかというと麻薬と拳銃の密輸です。結果的には、山口組の組長が「邪魔だ」と思って鳴海という手下が殺しにいったのですが、吉田の首を弾がかすって死ななかったのです。鳴海は山口組に捕まってめった刺しで殺されたのです。
 この吉田組長も刑務所に行くのですが、改心したのです。改心した動機は韓国に行って朝鮮の女と知り合うのです。その女はクリスチャンです。そのような縁でその女と会ってからは、ヤクザ的なことをやるのが嫌になってしまったのです。「もう何もできなくなっちゃったよ」と言っていたのです。
 犯罪ができない、そして、人殺しもできません。そのように変わってしまったのです。「俺はキリスト教に入信して伝道師になる」と思ったのです。そこまではよいのです。その続きがあるのです。伝道師になっても借金が5億円くらいあったのです。それを返さなければいけないのですが、牧師になってしまったから借金は返せません。
 ヤクザが来て「てめー、どうしてくれるのだ!」と押しかけてくるのですが、そこに金を貸した親分がきて、牧師になった男をジッと見るのです。「お前は、本物だな。お金はいらね!」と言ったのです。吉田はその人に1憶5千万円くらい借りていたのですが、「いい、お前の顔を見ているとわかった。お前はこの世界の人間ではない」と言ったのです。そのようにこちらが本気で変わると、相手も変わってしまうのです。
「この人変わってしまったな」と人より頭抜けてしまうと、見ている人間もわかるのです。自分が変われば、不可能が可能になってくるのです。
 人間が変わらないで一皮むけば、地獄・餓鬼・畜生のままでいて、狼が羊の衣を着ていても透けて見えてしまうのです。「お前はもうかわっちゃったな。もういいよ」と言われて、今でもその人は牧師をやっているのです。
 昔は人殺しをして一番のやり手だったのですが、顔を見ると今では全然わかりません。5人くらい殺したのです。そのような人には全然見えません。温和でつるべのような顔になってしまったのです。そうなってしまうのです。
 本当に仏教を信じて修行している人はそうなるのです。すると住んでいる世界が、実は変わってしまうのです。人を変えようと思っても、人はなかなか変わりませんから、まず自分が変わるのです。そうすると周りも変わってくるのです。
 一心不乱に仕事をしていれば給料も上がってくるのです。自分が変わらないで会社のアラを見つけて脅してお金を盗ろうなど思ってもダメなのです。誰が見ていても、見ていなくてもいいから、自分の修行と思って一生懸命働いていれば必ず見ている人がいるのです。見ている人によって人は引き上げられていくのです。本当にそうなのです。
 中野ブロードウェイに僕の駐車場があって、車を駐車していたのですが、そこの係長は本当にすごい人だったのです。車を止めて出かけて帰ってくる時間がわかっているのです。「お帰りになる頃だと思いました、どうぞ」と車が用意されているのです。「何故、こんなことがわかるのか?」と思いますが、一生懸命やっているからわかるのです。
 「このお客さんは何時くらいに帰ってくるのかな」とわかるのです。「どうぞ」と車を用意をされると非常に気持ちがよいのです。その係長はみんなに対してそうなのです。その係長はどうなったのかというと、どこかの会社に引き抜かれてしまいました。出世してしまったので、もう駐車場係ではありません。そのようなことです。
 ハリウッドの社長の福富太郎もそうです。自分の年齢をウソをついて入社したのです。17歳では水商売には入れません。「18歳です」とウソをついたのです。入った以上は「この道一本だ!」と日曜日もお店に行って便所掃除からフロアの掃除もしたのです。頼まれてやっているのではありません。自分で掃除しているのです。
 ある時、会長がその店に見回りに来て「誰だ、あれは? 何をしているのだ」と会長の目に止まったのです。「掃除しています」と言うと、「名前はなんというのだ」と聞かれて「福富太郎と申します」と言うと、会長に「よし、店長にする!」と言われて翌日店長です。そのようなものなのです。
 人は必ず見ているのです。自分がいい加減なことをやっていたら人は自分を認めません。本当にすごい話です。それでキャバレー太郎になったのです。今は大金持ちです。でも、よく働くのです。人の見ていないところで働くのです。それも自分のために働いているのです。お客さんのためもあるけれども、やるのは自分の修行だと思っているので、意気込みが違います。嫌々やっているのではありません。
 「敢(いさん)で為すを勇と言い智を竭(つく)すを猛(もう)と言う」これが勇猛精進です。勇んでなす、知恵を使う、これで勇猛精進というのです。知恵も使わない、勇んでもなさないのは、勇猛精進ではありません。一生懸命やる、最大の知恵を使うのが勇猛精進です。人生は変わります。それを信じて頑張っていきましょう。

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2017年05月23日

人間の探究 770 人生と祈り

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※「妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」(如説修行抄)

人間の探究 770 人生と祈り

 世界中の宗教には「祈り」がついてまわっています。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教も祈ります。
 かつての宗教は、祈りを叶えることが中心です。「みんなで祈れば、祈りが叶う」こんな迷信があるのでしょうか? 最近ではアメリカの心理学者の研究で、遠隔地にいる人が、親の病気を治そうと神に祈ると病気が治るというのです。
 「病気が治る」とは結果論ですが、「病気がよい方向へ向かう」というのです。これは精密なデーターが出ていて、「祈りは実現する」ということになっているのです。
 「神様、お母さんの病気を治してください!」と言うと、よい結果がでるのです。日本でも昔からこれはありました。「お百度参り」といい、何か祈り事があると夜中に神社に行って、「この子の病気を治してください」と、何回も神様に祈るのです。それから、水行があります。すべて効果があるとは言えませんが、現代科学では「効果がある」と言いだしているのです。
 すると、大勢の人数をそろえて、「もう戦争はたくさんだ!神によって戦争がなくなるように。(There is much war, and war already disappear by God.)」と祈ったならば、効果があるのではないかと推測されます。これは昔から言われています。祈りには、効果があるのです。
天皇のお仕事は祈るだけです。国家安泰、国民の幸せ、国民の繁栄、天皇の役割は神様に祈ることだけです。200回も行事をやっています。「米がよく獲れますように」「災害が起きないように」と、国民を代表して天皇は祈ります。
天皇のお仕事は本来、祈ることです。祈る人は、神と人間の中間にいる人です。神は自然を司っています。それに対して天皇が「災害が来ないように」と祈る役割です。その場合でも、天皇の心が乱れていたら、仏教で祈るのか、真言密教で祈るのか、何で祈るのでしょうか? 
大仏に祈った天皇もいました。大仏を造った目的は、「大仏の力によって、地震・災害がなくなって国民が幸せな生活ができるように」と造られたのです。大仏は国家事業です。大仏は単なる美しいだけではなく、国家鎮護の法だと思ったのです。
それを思った瞬間に天皇から神通力が抜けてしまうのです。天皇が異国の神を拝むことは間違っているのです。天皇は神と人間のつなぎ目です。乱れないで一心に祈るならば、天皇の祈りは叶うのです。
大仏以来、天皇は変な物を入れてしまっているのです。皇室といえば念仏です。皇室といえば真言宗です。何故、そんなものを入れるのでしょう。天皇は「私は神だ」と祈れば、災いはなくなり、世界は変わります。
祈りが叶うということが、科学的に実証されたならば、今度は「どのような祈りがかなうのか?」ということを考えなければいけません。心に乱れがない人の祈りは叶います。一心不乱といいます。一心不乱に心を乱さないで、一つのことに専念するのです。「これをやり遂げたい!」と一心不乱に祈るのです。
日本人は何でも一心不乱にやります。だから、良い物ができるのです。手抜きはありません。「もっとよい物を造りたい」と大工さんも一生懸命に仕事に励みます。だから良い物ができるのです。
ところが大工でも邪教にはまって一心が乱れると、祈りは叶いません。祈りが叶う科学では大事なことは、「心を整える」ということです。
そのような意味でいうと、何十万人集めて太鼓を叩いて「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、・・・・」とお題目を唱えるとすごい雰囲気になってきます。人数が増えれば増えるほど、祈りは叶うのです。
ただし、創価学会は邪教をやっているから、祈りは叶いません。「妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」(如説修行抄)という御書があります。一心不乱に「南無妙法蓮華経、日蓮大聖人様」と純粋な気持ちで祈るならば、祈りは叶うのです。
蒙古調伏をされた日蓮大聖人様は純粋だったのです。真言密教などでは叶いません。雨乞いもそうです。天地自然は人心に関係していますから、祈りは叶うのです。「日照りをなくして、雨が降ってもらいたい」と、一心不乱に祈るならば祈りは叶うのです。
しかし、一人で祈っても、100人がくだらないことを考えていたら祈りは叶いません。100人も祈っているのです。何を祈っているのかというと、邪教で祈っているのです。その中で正法を保っても、邪教の方がたくさんいるのです。これは叶いません。
だから、広宣流布をしていくことに意味があるのです。心を一つにして、一心同体です。異体同心ともいいます。心を一つにしていくのです。これが人間の一番の大仕事です。心を一つにしていくならば、万事を成ずるのです。
「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(異体同心事)
異体異心ならば、万事は成じません。異体同心ならば万事を成ずるのです。体は別々でも心が一つならば、どんな問題でも解決していくことができるのです。これは非常に大事なことです。
戦前は天皇を中心にまとまりましたが、邪教だからダメなのです。それはそうです。東条英機は念仏の信者です。みんな、わけのわかならい宗教を信じていて、天皇も仏教を信じていると、祈りはかなわないのです。
その国土が仏国なり、神国にならないのです。神国に他所の神(仏教)が入ってきたらどうするのでしょう。神国だから日本は神国になるのです。まず、心が神国でなければなりません。「日本は神の国だ」と思えば神の御稜威が働いてくるのです。
そこで、濁ってしまっているのです。神国日本の神様が、なぜ仏教の神にひれ伏すのでしょうか。「病気になりました、加持祈祷してください」ということです。孝明天皇は疱瘡(ほうそう)になって、坊主が祈ったのです。そうなってしまうと神の御稜威はありません。天皇に純粋に神としての御稜威があれば、神国日本の神としての働きになってくるのです。それが大事です。
心を一つにすれば祈りは叶うのです。遠隔地にいても祈ると親の病気が治るのです。祈りとは宗教について周ります。なかなか宗教で祈って叶わないのは、邪心があるからです。純粋な心の人は神が守っているから悪人はその人を害することはできません。
いつも問題にするのは自分の心です。「自分は邪悪な心をもっていないか?」ということを、常に反省していかないと人間の心はキレイになっていきません。毎日人間は様々なことを経験します。その中には知らなくてもよいこと、くだらないことがゴタゴタとあります。これを反省しないとあっという間に汚れてしまいます。
着物と同じです。洗濯するからキレイになるのです。洗濯しないで着ていると毎日少しずつ汚れてくるのです。1ヶ月も着ていると大変な悪臭になってしまいます。それと同じことです。人間は反省心がないと毎日汚れていくのです。

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2017年05月22日

人間の探究 769 能化(のうけ)と所化(しょけ)について

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※「誰がどのような境地でこの技をつくったのかな?」ということを考えていくのです。これは、みな同じです。柔道もそうです。80歳の嘉納治五郎が若い奴を投げ飛ばすのです。

人間の探究 769 能化(のうけ)と所化(しょけ)について

 仏教ではよく使う言葉です。能化(のうけ)と所化(しょけ)という言葉があります。所化(しょけ)とは化道されるところの人物のことを所化さんといいます。坊さんになって初めて修行している人を所化さんといいます。化道されるべき人間です。
 そして、説法される側にまわると所化といいます。能化とは「よく説法する人」という意味です。能は「よく」という意味です。よく説法して所化さんに教えるのが能化、所化さんは化道される人です。
 物事は出てくるところがあります。これを能生(のうしょう)といいます。生じたところのものを所生(しょしょう)といいます。この区別がわからないとダメです。修行とは能生を見習うのです。「何故、こんな発想が出てくるのかな?」出て来るところは能生です。それを説く人は能化です。それを見習わないといけません。
「こうするのだ、わかったか! わかったら手をあげろ!」「太鼓を3回叩け!」というのは、出てきたところのものです。それを学ぶことが「信心」だと思っているのです。
 例えば禅宗が学ぶものは作法です。「ご飯を食べるときは右手だけ使え」「ご飯は一粒も残すな」「最後はたくあんでご飯を洗い、その白湯を飲むのだ」「座禅の座り方はこうだ」など、みんな出てきたところのものです。
 そんなものをいくら習ってもダメなのです。「座禅を作り上げた人が、どのような心境をもって作ったのか?」ということが大事です。例えば、修行で托鉢をして町を周ります。「何故、そんなことをやるのだろうか?」と考えた人は能生です。「托鉢はこのようにやるのだ」と出てきたものは、所生です。
武道でもそうです。「こうやるのだ!」と先生に言われて、「はい、わかりました。こうやるのですね」と真似をします。それは出てきたところのものです。ところがそれを考えた人がいます。剣術の流派だけでも何百とあります。考えていることも違い、教えていることも違います。
 例えば、示現流には受けがありません。「チェスト!」と前へ進むだけです。これが修行です。棒をもって「チェスト!」と前に進むのです。ゆずの木がぶっ壊れるまで相手を叩くのです。これも流儀です。
 木刀を使わないで、薪雑把(まきざっぽう)を使います。何故かというと、木刀があるとは限りません。そこらへんにあるものは薪のほうが多いのです。「いざ!」という場合は、それを取って戦わなければいけません。木刀など探してもありません。間に合いませんから、その辺にある薪で練習しているのです。どんな棒でもよいのです。
 それから稽古着を着ることはしません。敵が来た場合には、稽古着に着替えてなどいられません。すぐその場でいかなければいけません。昔、百姓は田んぼで農作業をしていますが、郷士という武士です。敵が来ると「ボウー!」とほら貝をふきます。
 「出陣だ!」と思います。畑には槍が刺してあり、その身そのままですっ飛んでいくのです。家へ帰って鎧を着たり、鉢巻をしている余裕はありません。野良着のままでいくのです。現代ならばジーパンをはいたままで戦闘にのぞむのです。そのような流儀です。
 この剣法をつくった人がそのように考えているのです。これは能生です。その精神を学ばないといけません。教えられた通り「薪はこのように持つのだ」といくら教わっても、本当のことを言うと上手くならないのです。
 その精神を考えるのです。「誰がどのような境地でこの技をつくったのかな?」ということを考えていくのです。これは、みな同じです。柔道もそうです。80歳の嘉納治五郎が若い奴を投げ飛ばすのです。
 自分がそれを見たからといっても、それはできません。それはその人独自のものですから、能生の根源です。泉水のようなものです。そこから出てきたものが流儀になるのです。仏教でもそうですが、様々な流儀になるのです。
 托鉢になったり、座禅になったり、お題目になったり、太鼓をたたいたり、様々なものが出てきます。出てきたものは所生です。「どうしてこんなところで太鼓を叩くのかな?」と考えれば、それを考えた人の心に触れます。
 「太鼓を叩くのだ!」と言われても、何のために太鼓を叩くのでしょう。それを考えた人がいるのです。それに接触しないとわかりません。これは形の流儀ですが、そのようなものを化儀(けぎ)といいます。
 化儀とは儀式です。化法(けほう)とは中身のことをいいます。普通は法の中身から入れないので化儀から入ります。化儀から入るということは、坊さんの場合は衣を着て頭を剃るのです。これも化儀です。手に必ずお数珠を巻くのも化儀です。
 様々な理由があり、やっているのですが、「その根源のところは誰がつくったのか?」「どのような理由で数珠は出てきたのか?」と考えないと上達しません。僕はそのような考え方をするので、どちらかというと化義はあまり問題にしません。
 中身がない奴は化儀をやればよいのです。それを「ニセ坊主」というのです。坊さんの格好をしているけれども、何も仏教のことを知りません。化義は整っているのです。偉そうに「ご法主上人猊下」「御前様」などと言っています。
 絹の着物を着て、シャナリ・シャナリと歩いていると偉そうに見えるのです。これは化儀なのです。中身は化法です。化儀を見て感動する人ばかりです。みんな意味があります。お数珠はそろばんです。お数珠の珠は全部で108個あります。
 お題目を唱えながらお数珠の珠を動かしていくのです。一周すると108回お題目を唱えたことになるのです。そのための道具です。お数珠が神通力を持っているわけではありません。元々そのようなものです。お数珠は化儀です。別にお数珠の数は108個でなくてもよいのです。
 托鉢もそうです。何故、このようなことをやるのでしょう。自分たちは生産をしていないので、ご飯を食べなければ生きていられません。従ってご飯をもらうことが大事です。或は、「修行しているお坊さんに、ご飯を差しだす感謝の心を養わせてあげよう」ということです。
 お坊さんはご飯をもらうと礼はしません。出させてあげることに意味があるのです。お坊さんがきたら、ご飯を差し出してあげることが大事です。その両方の修行をしているのです。そのような意味があるのです。
 座禅を組んで座る場合、本当は半跏趺坐(はんかふざ)・半眼半口です。目はつぶってはいけません。目は開いた半眼の状態で座るのです。臍下丹田に力を入れて心身の統一をはかっていくことが目的です。それで空を悟らせていくのです。
 そのように何でも出てくる源、能生について気をまわすのです。そのような訓練をしていかないと上達はしません。僕の話を聞いても、道場の窓からのぞいて「やっている」と言っても何も成長しません。道場の中に入って一緒になって実践しないと身につきません。
 何年も成長しない人は、中杉道場の窓から見ているだけなのです。ずっと何年も見学しているだけなのです。見学など何年やっても何も身につきません。やはり道場の中に入って一緒にもまれて初めて人間は成長していくのです。

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2017年05月20日

『日本人に打ち込む100本の柱』団結心 42柱

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土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
団結心 42柱

 日蓮大聖人の「生死一大事血脈抄」にいわく
「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺日蓮に随順し又難に値い給う事心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず鉄は水火共に堪えず賢人は金の如く愚人は鉄の如し貴辺豈真金に非ずや法華経の金を持つ故か、経に云く「衆山の中に須弥山為第一此の法華経も亦復是くの如し」又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云、」といわれ団結心のたいせつなことを教えておられます。
 団結心がなければ人間なにもできないのです。日蓮大聖人の念願である日本国に南無妙法蓮華経の柱を打ち込む大事業にしても日本国すべての人が異体同心(身体は異っても心は一つ)にならねば成就しないのです。心を一つにするものが王道(天皇)であり仏法(南無妙法蓮華経)なのです。この二つはもっとも大事な日本の宝なのです。朝鮮やシナには心を一つにするものがありません。ですからいつも国がまとまらないのです。団結心これこそが日本精神なのです。



男女同権 43柱

 日本人は一般に男尊女卑と思っているところがあり、お隣の韓国などでは思い荷物は女が持ち、男はふんぞりかえってタバコを吸って歩く、これは何時でおみられる風景です。わが国にもここれとおなじように考えて男尊女卑の国などと考えているならとんでもない間違いです。日本では重い物は必ず男が持ち、給料は全額妻にわたし、男は家では女房に頭が上がらず、レディファーストを実行している男女同権の国なのです。

 日蓮大聖人の義口伝に云く
「法華の行者は男女共に如来なり煩悩即菩提生死即涅槃なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿の者なり、傅大士の釈に云く「朝朝仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」と云云。

 法華経を信ずる者は男女ともに如来であると言われています。南無妙法蓮華経と唱えるならば如来と同じ部屋に生活する仏であると言はれています。これがまことの男女同権であり信心のある女性は貴く敬っていかなければならないという事です。

☆ふ‐だいし 【傅大士】
[四九七年〜五六九年]中国、南北朝時代の在俗仏教者。斉の東陽の人。本名、傅翕(ふきゅう)。善慧大士と号し、双林寺を建て、大蔵経を閲覧する便をはかって、転輪蔵を創始した。後世、経蔵などにその像が置かれ、俗に「笑い仏」といわれる。

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2017年05月19日

人間の探究 768 弟子とは何か?

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※みんな窓の外から中杉道場を見ているのです。中から見ると「あれ、あの顔も知っているぞ。この顔も知っているぞ。でも、中に全然入ってこないな」ということです。窓から顔がのぞく顔はわかりますが、中に入ってこないのです。

人間の探究 768 弟子とは何か?

 本当の弟子とは入門して「お前、何をやっているのだ!」と言われて、棒でピシッと打たれて「ハッ」となるのです。それが修行です。それをやらない限り、修行にはなりません。それをやっていない人は一歩も進んでいません。
 みんなそうなのです。言われるのが嫌なのです。だから僕に近づいてこないのです。近づいてこないから境涯が変わらないのです。
 剣道でも道場の窓の外から眺めていて、「私、弟子になりました」ということはあり得ません。やはり剣道の道場に入って礼を尽くして「一本お願いします!」と言って、剣術の弟子になるのです。窓から眺めていて「私、弟子です」といってもそんなことは通りません。
 僕の教えを何年も見たり、聞いたりしていて、何も変わらない人がいます。なぜ何も変わらないのでしょうか? 僕の教えは1日聞けば1日利口になり、2日聞けば2日利口になるのに、何も変わらない人がいます。この理由について考えてみました。これは弟子になっていないのです。
 弟子にならないで眺めているということです。眺めても仏教は完成しません。仏教とは眺める場所ではなく、実践する場所です。実践しない人は何年経っても何もかわりません。
 例えばある有名な剣道の先生が道場を開きました。自分は毎日その道場の横を通っています。通りがかるときに「僕もああなりたいな」と思って、窓から眺めています。何年も窓から眺めているのだから「私も立派な剣術使いになりました」と言うのでしょうか? それは違います。ちゃんと礼を尽くして入門して、先生のご一手、ご指南を仰がなければ、剣術の弟子とは言えません。
 立ち会ったときに、「バンバン」と竹刀ぶたれて、「お前はスキだらけだ。ここもスキ。そこもスキ!」とスキだらけのところをパンパンと打たれて、最後に竹刀でドーンと突き飛ばされて床板に転がります。これが修行です。そうなのです。
 「痛い!」と立ち上がって、「なとかして先生をおい抜かなければいけない」と思って、先生にかかっていっていかなければ弟子ではありません。窓からいくら眺めていても剣術は上達しません。
 それと同じことで「仏教はわかった!」と、仏教がわかっているつもりになっているだけで、実際は何もやっていないのです。
窓の外から眺めているだけです。いくら「中杉先生の教えは素晴らしい!」と言ったところで、自分が門の中に入っていなければダメです。
 これは禅宗でも同じです。座禅を習うためにはまず黙って座って座禅を組みます。坊さんが後ろにいて、少しでも体が動くと肩をバシッと警策(きょうさく)でぶたれるのです。それでハッと気が付いて、また瞑想を続けるのです。
 また、居眠りしてコックリしていると、バシッと警策で肩を叩かれて、ハッと気がついて、頭を下げて「有難うございました」と言うのです。人間はスキだらけです。スキは打たれなければ強くなりません。
 これは合気道でも柔道でも同じです。合気道の先生にかかったら、素人はスキだらけです。一瞬で手首をひねられてやっつけられてしまいます。あっという間です。立ち方にしてもスキだからです。先生が手をとるとストンとひっくり返ってしまいます。
 柔道もそうです。人間は普通の状態はスキだらけです。そのスキを討たれて修行していくのです。そして、どうなるのかというと無作の三身になるのです。どこにもスキがなくなった状態のことを無作の三身というのです。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(四条金吾殿御返事)と御書に書いてあります。そのような意味です。仏教を習うと、完全にスキがなくなってくるのです。兵法など習っても、その分野においてスキはなくなりますが、他の分野は全然わかっていないのです。
 仏教(妙法)をきちっと習うと、全てのことがだんだんわかってくるのです。南無妙法蓮華経の中にすべて入っているのです。まず、境涯がかわらないとダメです。「私は、何十年も信仰しています」と言っても、「同じ生活で困っています」「私、女がいなくて結婚できないのです」など、何十年も同じことを言っているのでしょう。スキだらけだから女が寄ってこないのです。
 それと同じことです。「私、給料が上がらないのです」という人は、そんな貧乏会社にいるから給料が上がらないのです。会社を変わればよいのです。運が向けば、どんどん変わっていけるのです。
 太閤秀吉は草履取りから天下人にまでなってしまったのです。それは草履取りとして立派な心構えをもって修行していたのに違いありません。足軽大将になれば、大将なりに全力を尽くして実践していくならば、生活で悩むことなどなくなってきます。
 「どうしたらよいのでしょうか?」と、僕のところに誰も相談に来ません。相談に来ないということは、窓からのぞいているということなのです。道場の中に入ってきなさい。鍛えてあげます。この鍛えられるのが、怖いのです。本当の自分を見透かされてしまうから怖いのです。
 みんな窓の外から中杉道場を見ているのです。中から見ると「あれ、あの顔も知っているぞ。この顔も知っているぞ。でも、中に全然入ってこないな」ということです。窓から顔がのぞく顔はわかりますが、中に入ってこないのです。
 僕は皆に怖がられてしまうのです。だから、成長するのです。僕が言うことは、その人にとって将来役に立つこと、そのようなことを教えてあげているのです。「お前、それではダメだよ」と言われるのが怖いのです。
 人間は自分のカラに入って、なかなか道場の中に入ろうとしないのです。南無妙法蓮華経は立派な道場です。それをのぞいたくらいで「仏教がわかる」「神通力が身につく」など、そんな甘いものではありません。
 それが証拠に僕は未だにやっています。75歳の今になっても未だに研鑽をつんでいるのです。終わりがないのです。普通の人から見れば、僕は研鑽を積んでいるから天地雲泥の違いはあります。
 一般の人が入門者とすれば、僕は八段くらいの実力はあります。そのような実力が身についてきてしまうのです。八段の実力者から見れば「竹刀の持ち方もしらないのか」となります。素人などガキ同然です。手も足もでません。それはやはり強い先生についてきちんと体得していかなければダメです。
 仏教というものは窓の外から眺めていて体得できるものではありません。

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2017年05月18日

人間の探究 767 実在(じつざい)と実存(じつぞん)

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※禅宗の寺へ行くと坊主は何もしないで黙って座っています。これは、外側から見た実存の姿です。坊主は何もしないで黙って座るだけなのです。

人間の探究 767 実在(じつざい)と実存(じつぞん)

 実存(じつぞん)とは皆さんが好きな言葉です。どのような意味かも知らずに「僕は実存を得たい」と言った人もいます。
現実にあることは実在といいます。現実は常に変化していくので、実存はつかめません。昨日をつかまえようと思っても昨日はもうありません。明日はどこにいるのかと探してもつかめるものではありません。人間は何もつかめません。
 では、実存とは何でしょう。実存とは変化をしないことをいうのです。世の中は変化していきます。人間は年をとり、昔20歳だったのに、今は70歳のババアです。「昔が懐かしい」と思うのです。この人達は「実存を得たい」と思っていますが、それはウソなのです。実存など絶対に得られないのです。
 あえていうと「変化していくものの奥に変化しないものがある」という程度の認識です。それを「実存」といいます。実際は実在のことなのです。実在とは「物がある」ことをいいます。「実存を得たい」という言葉遣いが間違っているのです。普通の人は「実在を得たい」ということです。
 例えば、「ダイヤモンドが手にあふれるくらい欲しい」と思います。ダイヤモンドは実在です。すると「俺は大金持ちになれるな」と思うのです。この人はダイヤモンドが欲しいのです。ダイヤモンドは実在です。実在と実存を混同しているのです。
 実在は得ることもありますが、真理を表していません。昨日までのお金持ちも、今日はホームレスになってしまう場合もあるのです。株相場などをやっているとそうです。何十億円のお金を動かしていても、アッという間にお金がなくなり乞食になってしまいます。
 「お金持ちだったのは何だったのか?」というと夢のようなものだったのです。それは実存ではありません。これが実在です。
 人間が追い求めているものは実在そのものです。「大きな家が欲しい」「車が欲しい」これは実在です。実在をいかに求めても実在はだんだんとなくなってしまうのです。人が住まなくなった家は幽霊屋敷になってしまいます。よい車も乗らないとさび付いてしまいます。これが実在です。実在から何を得ているのかというと、実存を得ているのです。実存とは、その人が感じることです。これを勘違いして使っているのです。
 「仏教とは何を説いたものか?」というと、実存を説いたものなのです。「この変化する世界で、変化しない本当の自分とは何だろうか?」ということが、仏教のテーマです。わかりやすく言うと、人間は「オギャー」と生まれて成長して成人になり、やがて年老いていきます。常に変化し続けています。一瞬たりとも時は止まってくれません。
 昔、スポーツで鍛えた足もヨイヨイになってしまいます。マラソンのアベベもそうです。今では車いすです。マラソンで優勝した自分はなくなってしまい、過去はすべてなくなってしまうのです。それを考えると「侘しいな」と思うのです。
すると「何か変わらないものに自分がなれるのではないか。変わらないものとは何か? あるのに違いない」と思うのです。肉体は変化をしていきます。心も変化をしていきます。「自分が引き続いている変わらないもの、永遠に引き続いている変わらないものが欲しい」それをつかむことを「実存を得る」というのです。
これは仏教でなければできません。仏教を学ばないと、「実存を得る」ということはできません。仏教とは実在を説いたものではありません。実存の法を説いたものです。
西洋哲学では、実存をめぐってサルトルなどが様々なことを言っていますが、サルトルが言っているのは「実在」のほうです。「実在」と「実存」をはき違えているのです。この変化していく世界の中で「変わらない私、何も変わっていない私」を見ようとすることを仏道修行といいます。
世の中はめまぐるしく動いているのですが、その中で商売人や会社などでセコセコと動き回っています。ところが禅宗の寺へ行くと坊主は何もしないで黙って座っています。これは、外側から見た実存の姿です。坊主は何もしないで黙って座るだけなのです。
坊さんは目を閉じて何を見ようとしているのかというと、「この変化する世界の中で、変化しない実存とは何か?」ということを見ようとしているのです。「そもさん」と問いかけているのが座禅の行法です。
座禅の修行をして感じることは、常にその心をもって歩めるようになるのです。歩いていても、座っていても、ご飯を食べていても、何をやっていても、座禅でつかんだ動かない心が動いている中でも変わらないのです。これを「立禅(りつぜん)」といいます。座禅とは座って何もない中で「そもさん」と問いかけていくのです。
それでつかんだ心境は実存の一部です。日常は様々な仕事をしていますが、心は動きません。座禅で鍛えた心を日常で使うことを「立禅(りつぜん)」といいます。剣の修行をするのは「剣禅」といいます。様々なものにこの禅の心を応用していくのです。そのような考え方です。
我々もそうです。我々は妙法の修行をしているのですから善とは違います。妙法とは何かというと実存の法のことです。朝晩お題目を唱えて、いつでも心の中に「南無妙法蓮華経」と唱えるということは、実は禅をやっているのです。
歩く姿は南無妙法蓮華経、ご飯を食べている姿も南無妙法蓮華経、体が元気で散歩ができるのも南無妙法蓮華経です。南無妙法蓮華経が立ち振る舞いや、すべてに現れていくのです。そのような境地に入れば、「南無妙法蓮華経によって実存を得た」と言えるのです。
生まれてきたのも南無妙法蓮華経、寝るときも南無妙法蓮華経、もう人生が決まったわけです。実は南無妙法蓮華経とは、唯一存在する実存の法を説いたものなのです。

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2017年05月17日

人間の探究 766 未来はどこにあるのか?

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※ 3日先、1年先、10年先というものを未来と考えていますが、実は自分の横にあるのです。横に連なっているのです。これを平行宇宙論といいます。未来は現在と平行して走っているのです。

人間の探究 766 未来はどこにあるのか?

 平行宇宙論という考え方があります。これはわかりにくいのですが、例えば10年先の未来があります。この未来はどこにあるのでしょう。10年先とはどこでしょう。10年先は捕まえられません。未来は捕まえられないのです。
 しかし、未来は必ず出てきます。すると未来は向こうにあってつかむように思うけれども、実は未来は横にあるのです。「明日はいつですか?」というと、貴方の横にあります。横が明日です。
 3日先、1年先、10年先というものを未来と考えていますが、実は自分の横にあるのです。横に連なっているのです。これを平行宇宙論といいます。未来は現在と平行して走っているのです。
例えば新幹線の線路がたくさんあり、今日は真ん中の新幹線に乗っています。横に未来の線路があります。ポンと乗り換えると、それは未来です。また乗り換えると未来です。今日・明日・未来というものは同時に走っているのです。
 そのことに気が付いた人は予言ができるようになってくるのです。「明日はここにあったのか」と気が付くのです。未来はあそこにあるのではなく、ここにあるのです。もっと言えば、自分という中にあるのです。
 明日の話はすでに自分の中にあるのです。10年先も自分の中にあるのです。人間が「オギャー」と生まれると、未来は横に走っているのです。未来は先にあって登っていくのではなく、横にあるのです。10年先はずっと遠くに見ていますが、そうではありません。同時に10年先も横にあって同時に走っているのです。
 飛び移れば10年先に行けるのです。行くのではなく同時です。「時が有る」と思っているのは、人間の錯覚です。「時があるから先がある」と思うのです。本当は時などありません。
 未来が横に並んでいて、次から次へと出てくるのです。ポンと横に飛び乗れば、もう明日になってしまうのです。10年先に飛び乗れば10年先にいくのです。時というものはありません。
平行宇宙論は最近盛んに言われていますが、ある程度正しい理論だと思います。これは多次元宇宙論にもつながります。この世には何百という次元が同時にあります。そしてそれは、自分が見ていないときには無いのです。その理論にもつながってくるのです。見て初めて世界が生まれてきます。貴方が見ない宇宙は何もありません。
例えば、貴方が「ここに赤い花がある」と見ます。「赤い花がある」と言っても、貴方は誰かに教わって「これは赤色、これは黄色」と教わったから「赤い花」だとわかるのです。そこに赤い花があり、貴方は知っていたから赤い花を見ているのです。本当は何もありません。貴方が目を閉じたら世界は何もありません。
 パッと目を開けると世界が出てきます。これは現実ではありません。何でも見えてしまいます。それはそうです。客観的な宇宙があり、Aさん、Bさん、Cさんが見る世界は全て違います。同じ世界を見ているのに、見ている世界は全て違います。同じ世界など一つもありません。
 犬も世界を見ています。ノミも世界を見ています。どの世界が真実なのでしょう。そんなことはわかりません。ノミも自分の世界を見ています。ノミにはノミの世界しか見えません。犬も自分の世界を見ています。
「犬は人間と同じ世界を見ている」と思ったらとんでもありません。全然違う世界を見ています。鳥も魚も世界を見ています。同じ世界は一つもありません。衆生の数だけ世界があります。
 犬が見ている世界も、ノミが見ている世界もありますが、見ている現実は一つです。「客観世界が存在する」と人間は思っています。客観世界とは自分が関係なく存在している世界です。月や星もそうです。「私が死んでも太陽も月もあるではないか」と普通は考えます。本当は違うのです。貴方がいなくなれば世界は消えてしまうのです。
 誰の世界が残っているのでしょう。ノミの世界でしょうか。犬の世界でしょうか。人間の世界でしょうか。どんな生命でもこの世界が見えるのです。何故見えるのでしょう。それは宿命によって見えるのです。
 この話をわかりやすくしたのが、「未来はどこにあるのか?」ということです。答えは「貴方の隣にある」ということです。未来は現在と一緒に走っているのです。未来も何もありません。自分が創り上げているバーチャルな世界です。過去があり、現在があり、未来がある、という見方は、業の相続の形式を見ているのにすぎません。
自分がどのようなカルマで、この世界を見てきたのでしょう。自分の過去を振り返れば「こんなことをやった」「あんなこともやった」と記憶しているだけで、その過去はもうありません。
「過去を見せてれくれ」と言われても見せられません。過去に撮った写真があっても、写真を見ている今は現在です。過去ではありません。貴方の過去は見せられないのです。「人間は過去も関係なく、未来も関係なく横を走っているのだよ」ということです。明日は向こうにあるのではなく、ここにあるのです。時というものを理解するときに、そのように考えるとわかるのです。
 向こう側の世界には何もありません。何があるのでしょう。人間という五感があるから、海・山・川・人間が見えているのです。貴方が見ているのですから、貴方がいなくなれば世界は何もありません。
 すべての人に違う世界を提供しているのです。それが実在のわけがありません。それは実在でも実存ではありません。まさに仮想現実、バーチャルとしかいいようがありません。現実は仮想バーチャルです。
そのことを知るとどうなるのかというと、すべて大丈夫なのです。病気も、貧乏も全て貴方が見ている世界です。貧乏ではない人は大勢います。貴方が貧乏というバーチャルをずっと見ているのです。
 未来は変えられるのです。未来は無いのですからどうにでも変えられるのです。「こうなってもらいたい」と思うと世界はガラリと変わるのです。これを三変土田の原理といいます。見る衆生により「この世界は娑婆世界」と見ています。
 自分が変わると娑婆世界が方便土に変わり、もっと変わると実報土から、寂光土という仏国土に変わるのです。凡夫の住するは娑婆世界、これは苦しみの世界だからそう呼びます。声聞・縁覚の二乗がいる世界は方便土、菩薩の住する国土は実報土(じっぽうど)、仏の住する国土は寂光土です。
何も無いから世界が変わるのです。貴方が見ているのですから、貴方が変われば、ひどいと思っていた娑婆世界も瞬時に仏国土になるのです。これを三変土田といいます。3つが変わるのです。そのように思うと楽しいのです。
 どんな恐ろしいものを見てもバーチャルなのです。映画館に入って恐ろしい映画を見ているのが、貴方の夢であり、映画館を出ればその夢は消えるのです。それと同じで貴方は今、バーチャルの世界を生きているのです。それは夢であり、現実ではありません。
現実とは、実在ということです。実在など何もありません。だから勇んで仏道修行をなすならば、グングンと自分が変わるのです。自分が変わると娑婆世界が方便土に変わり、実報土に変わり、寂光土に変わるのです。

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2017年05月16日

人間の探究 765 在在(ざいざい)諸仏の土に、常に師と倶(とも)に生ぜん

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※本仏の日蓮大聖人様
「在在(ざいざい)諸仏の土に、常に師と倶(とも)に生ぜん」常に師匠がいるのです。師匠がいなければ、生命の法則はわかりません。

人間の探究 765 在在(ざいざい)諸仏の土に、常に師と倶(とも)に生ぜん

 生命論からいうと人間は精霊界から生じてきます。生まれた以上は、何らかの目的をもっています。豚は人に食べられるために、野生のシカはライオンに食べられるため、すべての生命は食べられることが目的です。
 「お前はよくないことをやってきているから動物になれ。動物になってライオンに食われて、ライオンを助けなさい」ということです。それは因果によって決まります。この世に生まれて、精霊界の使命がわからなくて、飯を食って寝て起きるとそこにライオンのような猛獣がいて、「ガオー!」と食い散らされて一生が終わります。またそれを繰り返すのですから、たまったものではありません。生まれてくるたびに豚に生まれてくると、人間に食べられてしまいます。
 牛もそうです。牛の屠殺も壮絶です。牛の頭をハンマーで殴るらしいのです。ガーンと脳天を目指して殴ると牛がコロッとひっくり返ります。すると手足を縛り天井に吊って、お腹を裂くと臓物が飛び出して、あっという間です。5分くらいで肉の解体ができてしまうのです。食べるほうはよいかもしれませんが、食われる牛はたまりません。しかし、それはその動物の使命なのです。
 精霊界から生まれて、精霊界へ帰ることが生命の目的です。ところが「オギャー」と人間に生まれると、なんとなく成長して、なんとなく目先の事に追われて、お金・名誉・名声を求めてかけずりまわり、最後はあっけない死に方をするのです。
 首里栄子は若い頃はキレイでした。足がすらっとして自慢の美脚でした。首里栄子は最後、生活保護を受けて死んでしまいました。天地真理も老後破産で生活保護を受けています。山城新伍も老人ホームに入居して最後は独り寂しく死んでいます。みんなそんなものです。華やかな芸能人は年を取ると誰も周りにいなくなって、老人ホームで独り寂しく死を迎えるのです。
 その中で自分の生まれてきた目的もわからず、何だかわけのわからないまま生きて、闇から闇へと葬られて、人生が終わってしまい、また精霊界に帰ります。そこで神様に「お前は何をやっていたのだ。もう1回修行して来い!」と叱られて、また生まれてくるのですが、またわけがわかりません。無明の中にいるのです。暗がりから暗がりの中を生きて、わけもわからず最後は息を引き取るのです。何故、自分が生まれたかわからないのです。
 「在在所仏土常与師倶生(ざいざいしょぶつどじょうよしぐしょう)」(法華経化城喩品第七)とは、その反対です。生まれてきたときには、必ず仏に会うのです。仏に会うとは、どのようなことだかよくわかりませんが、簡単なことです。
 貴方は精霊界から生まれてきたのですから、また精霊界に帰るのです。これは言葉を変えると仏界と言ってもよいのです。仏界から生まれて本来は仏界に帰るのです。普通の人は真っ暗闇の中を手探りで進んでいますが、精霊界から生まれて精霊界に帰るのです。
 「生まれている間に何をしたのか?」ということが因果になって、「どのように生きたのか?」ということによって来世が決まるのです。本当の仏道とは、この精霊界(仏界)のことを教えてもらうことです。教わって初めて目が覚めるのですが、普通の人はそれがわかりません。
 生命とは精霊界から生まれて、精霊界に帰るのです。精霊界に帰ると、また生まれてくるのです。それは今世の因果によって決まります。よいことをたくさんやってくれば、それなりの結果が得られますが、ギャンブラーや人殺しは闇から闇へと死んでいくのです。それで一生を終わってしまうのです。また、わけのわからないところへ生まれてくるのです。
 週刊誌に出ていましたが、有名なスナイパーが350人殺したのです。因果を知らないと、人間を殺して面白く思ってしまうのです。350人殺した報いは、すべて自分が受けるのです。
 人を殺したら、その報いは自分が受けるのです。そのような意味ではバランスが取れているのです。1万人殺せば、1万人殺した報いを絶対に受けるのです。これは、精霊界の決まりです。必ずそうなってしまいます。
 そのときに我々に、因果を教えてくれるのが仏様です。自分の目先がわからなくて、無明の中を歩んできたのですが、仏様に出会って道がわかってくると、未来がパッと開けてきます。
 「俺は生まれたくて生まれたのではないのだ。親を怨んでいるのだ。こんなヤクザに誰がしたのだ!」とわけのわからないことを言っているのです。しかし、わけがわかってみると、全て自分のせいなのです。それに気が付いてくるのです。
 この師のことを、「常与師倶生(じょうよしぐしょう)」(曾谷殿御返事)といいます。これは、「常に師と共に生ぜん」という意味です。何故、そこで仏様に出会い、本当のことを聞くのかというと、前世で因縁をつくっているからです。いきなり、豚の中に仏様が出てきて、豚に説法をしてもわかりません。ちゃんと前世で仏様との縁をもっていたからこそ、またこの世に生まれて、また仏に会うのです。
 「在在(ざいざい)諸仏の土に、常に師と倶(とも)に生ぜん」とは、そのような意味です。それは、永遠の師匠です。生まれてくるたびに師匠に会って、人生の真実を聞いて納得して安心して死ねるのです。また次も生まれてくるのです。その時もまた師匠に出会うのです。「在在(ざいざい)諸仏の土に、常に師と倶(とも)に生ぜん」常に師匠がいるのです。師匠がいなければ、生命の法則はわかりません。
 その師匠を池田大作だと思い込んでしまった人は大変です。池田大作を師匠と思い込んだ人は、どうなってしまうのでしょう。統一教会の連中や邪教の連中もそうです。迷いをもってこの世に生まれてきたのです。迷いがあるからこそ信仰しようと思ったのですが、そこにいたのはみんな悪魔です。仏ではありませんから、もっと無明の奥へと入れられてしまうのです。
 暴力団に入って親分・子分の関係を結んで「仁義」と言って、仏教に似たようなことをやっていますが、仁義は仏道ではありません。これは天台大師が明らかにされています。徒党を組んで仁義をもって統率しているのは、仏道ではありません。それは犯罪集団です。そこへまた生まれてしまうのです。
 自分がこの世で仏になれば成仏です。私につながる親・兄妹もすべて成仏するのです。みんなつながっているのです。「私」が勝負です。私が成仏すればよいのです。過去の先祖の罪があるならば、先祖の罪も消えるのです。これが仏道をしていく意味です。
 「何故、私はこのような家に生まれたのかな?」と考えてみると、そのような因果があったのです。それもちゃんとわかってきて、因果解消です。因果がなくなるのです。そして、先祖も成仏して、自分も仏になり、また次の生まれてくるのです。
 人間は一人で生まれて、一人で悟ことはできません。必ず仏に会うのです。そして、成仏をするのです。来世も同じです。来世もまた仏に会うのです。一旦成仏して、自分が精霊だとわかると、もう人間に生まれる必要はありません。
 だから無明の世界には入りません。それでも生まれてくる場合があります。それを願兼於業(がんけんおごう)といいます。願って下界に生まれるのです。「私はこのまま精霊界に入って気持ちのよい世界にずっといたいのだけれども、下界を見ると下界の民が苦しんでいる。朝鮮人が暴れている。これは黙ってみておれない。だから、精霊界のお父様私を生まれさせてください」と願うのです。
すると神様から「何も罪がないと生まれないのだから、罪をつくりなさい」と言われてかっぱらいをやります。かっぱらいをやったことによって今度、下界に生まれてくるのです。下界に生まれる人間は原罪をもっています。罪があるから生まれてきたのです。そして、また一働きをして最後に「常与師倶生」です。仏様に会って、成仏するのです。このような構図になっているのです。
 現世と過去世と来世は離れているわけではありません。グルグルと周っているのです。

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2017年05月15日

人間の探究 764 神と仏 

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※最初の「富士山」という分別をします。「AからBの地点までを富士山と言う」と分別します。ここからここまでが富士山、この先は大山というのです。富士山を分別することにより、大山の分別ができます。

人間の探究 764 神と仏 

 分別は民族によっていくつもの神を創り上げました。地球には様々な民族がいて、神をつくりあげてきたのです。神とはキリストであり、ユダヤ教の神、イスラム教の神、土人の神がいます。
 前回述べたように、神とは分別する心が創り上げてきた概念です。つくった神の名前が全て違うということは、神は実在ではないということがわかります。実在ならば、同じ神が出てこなければおかしいのです。「私はキリストです」と言って、どこにでも同じ姿で出てこればよいのです。
 ところが神は民族ごとに違います。分別が創り上げた概念です。その民族が持っている分別する力が創り上げてゾロアスター教の神、ユダヤ教の神が出てきたのです。神は民族の数だけあるのです。或は言語の数でいうと、もっと神はいるかもしれません。神様は無限にあるのです。
仏教は無分別ですから神はいません。何も無いのですから、そこに神がいたらおかしいのです。貴方は分別世界にドップリつかっていて、苦しんでドブン・ドブンと浮いたり沈んだりしているのです。お金が儲かったり、損したりして、クルクルと人生を忙しく過ごしている人に対して仏様は「人生は無分別です。何も無いのです。そんなにあわてることはないのです。貴方が見ているものは分別虚妄です。分別そのものが虚妄です。そう心配することはありません。お金があっても無くても、そのような気持ちになれば楽になります」と教えてくれているのです。これが仏教です。
 そうは言っても日常の生活では、分別して考えたほうがよいのです。神と仏を一緒に考えてしまうと、無分別と分別ということが一緒になってしまいます。神と仏が同じものではないので、分別と無分別が一緒になるということはあり得ません。
 神とは分別が生んだ概念です。仏とは無分別を教える役割です。「この世はバーチャルの世界です」と教えるのが仏です。このバーチャル世界は神様が創りました。みな生きています。仏様はバーチャルな世界を見ているのです。「何故、その中で人生を楽しく遅れないのか? 人殺しをしたり、人を傷つけたりする人間は馬鹿ではないのか」という見方です。
 分別することにより様々な神が生まれたのです。分別は無限につくっていくのです。例えば、最初の「富士山」という分別をします。「AからBの地点までを富士山と言う」と分別します。ここからここまでが富士山、この先は大山というのです。富士山を分別することにより、大山の分別ができます。
 「富士山」と言っても、1合目もあれば、10合目もあります。そのように分けて考えると「富士山の何合目の話?」というと、小さく分かれます。
 或は「富士山は何から出来ているの? 火山ですか」とわかると、火山という分別ができます。「何回も爆発しているのですか。これは何回目の爆発の石」と分けていくと、富士山には無限の石があるから、「何年の時の噴火の石」と分けられて、単なる富士山がどんどん分別されていくのです。
 富士山には木や植物も生息しています。富士山という分別が、無限に広がっていくのです。富士山について知れば知るほど、分別が広がっていくのです。学問とは分別をするものです。分別を広げていくことです。
 遺伝子の研究をしている学者には、遺伝子の構造がわかりますが、我々には遺伝子の構造などわかりません。単なる「遺伝子」という言葉ですが、「遺伝子は螺旋形になているのだよ」と、どんどん分別していくのです。この世には無数の遺伝子があります。それが広がっていくのです。
 「人間と動物の違いを考えましょう」という人類学者がいたとします。人間は「人間」といえば話は通じます。動物も「動物」と言えば通じます。よく見えると人間にも様々な人間がいます。誰かが「人間は」と言えば、「貴方は何人について言っているのか?」そう言わなければいけません。人間は一つではありません。
 単純に「人間」で話が済むことが、深くなったということです。人間には白人もいれば、黄色人種もいれば、黒人もいます。勉強すれば人間の分別が広がっていくのです。動物とは何でしょう。言葉だけでは、何の動物かわかりません。チンパンジーなのか、ゴリラなのか、わかりません。動物は何万種類とあります。豚も馬も猿も動物です。動物は分別ですが、もっと細かく分けることができるのです。
 勉強していけばいくほど分別が増えていくのです。勉強した人は分別がよくできる人です。勉強しない人は馬鹿といいます。何故、馬鹿というのかというと、分別がわからないからです。クソも味噌も分別できないので、「同じ色をしているから一緒だろう」と思うのです。クソと味噌は違います。そのようなことです。
 無分別は心の安らぎになります。「人生は無分別だよ。貴方が悩んでいることは、どうってことないのだよ」と言われれば、心の安らぎを得ることができます。「俺も戦争に行って死ぬのかな」という恐怖を感じている人には、「死ぬことはどうってことないのだ。それは夢を見ているのだから、死のうが、生きようが、どうってことないのだよ。世の中は無分別であり、バーチャルリアリティーだから何も恐れることはないのだ」と言えます。
 荒野を走っていくようなものです。何か出て来たら「夢よ、ひっこめ!」と言えばよいのです。誰かが殺しにきたら、「この馬鹿、殺すことができるのならば殺してみろ。わしは死なんぞ!」と思えばよいのです。
 これが観音経の世界です。例え、崖から突き落とされても死ぬことはないのです。火の中に叩き込まれても焼け死ぬことはありません。そのように書いてあります。どこへ行ってもそのようなことはないのです。
 快川紹喜(かいせんじょうき)の「心頭滅却すれば火もまた涼し」とは、そのようなことを言っているのです。快川紹喜は臨済宗妙心寺派の僧です。天正10年(1582年)に恵林寺において焼死したとき、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世を残したといわれています。火をつけようが、この世はバーチャルです。どうってことはありません。火をつけられて苦しんでいるのも真実ではありません。
 人間には二面性があります。分別していかないと生活はできません。しかし、行き詰れば無分別に帰るのです。これを互いに人生で使いこなしていければ名人です。分別しなければいけないときに無分別の話をしてはいけません。「意味がない」と言っているときに、分別の話をもってきてわからせようとしてもダメなのです。
 人間は「生活という現実を感じる自分」と、「バーチャルであると知る自分」がいて、この2つを操っていくことが正しいのです。今も現実ではありません。バーチャルです。貴方は夢を見ているのです。
 だから、どうにでもなれるのです。ババアになるのも、ジジイになるのも、馬鹿になるのも、自分の思い通りになれるのです。しっかりとそのことを知れば、未来はどんどん開いてきます。自分のなりたい夢を見ているのです。「開いていく」という夢を見ているのですから、私はそうなっていくのです。「閉じて行く」という夢を見ている人は、パチンコ・競馬・ギャンブルをやっていればよいのです。

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2017年05月13日

『日本人に打ち込む100本の柱』縮み思想 40柱

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※日本在来馬

土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
縮み思想 40柱

 広い大地で育つと人もおおきくなり、人間も草木も動物も大きくなる傾向があります。日本は国土が狭く島国ですので人は小さく、動物も小型です。馬なども本来の日本馬などは驢馬のようです。蒙古馬なども小さいですが、日本馬はそれよりも小さくまるで犬のようだという記録もあります。今我々が見る競走馬はアラブ系の天馬といわれるものです。 日本人の本能の一つに、出来るだけ物事を縮めるという精神があるらしく、これが縮み思考といわれるものです。しかし、そうとばかりもいえないので仁徳天皇陵などはピラミットを抜いて世界一ですし、天平の高速道路などは幅十二メートル四千キロの舗装道路であり、これも世界一です。東大寺の大仏も世界一ですからなんでも縮めるというわけではありません。
しかし大部分のものは縮み志向なのです。自然と天体を小さな庭に取り込む、盆栽、茶の湯の二畳間、縮みの業の競いあいです。ものごとを縮めていくという本能があればこそ日本は拡大思想ではないのです。小さいことは良いことだ。消費も控え、無駄をなくす、無駄使いしない、生活を縮める、やれば出来るのです。生活費は十万円以下に縮められます。そうすると人生が楽しくなってきます。お題目さえあれば不足はありません。生活を縮めるのです。本なども同じ本を何回も読むのです。そうすると人生は開け未来がみえてきます。


文武両道 41柱

 今年の四月から全国の中学校で柔剣道が正科として取上げられる。これはまことに良いことでおめでたいことです。僕らの子供のころはGHQによって学校で柔剣道は禁止でした。僕の世代で柔剣道に触れられたのは町道場に通うことのできた幸運なる少数の人間だけでした。ですから僕は学校剣道なるものは知らないのです。
文武両道は武士の習い、この両道は武士の基本であり、文とは孔孟の教えであり、日本の文とは儒学のことをあらわし、武とは剣術のことであり、その裏わざとして武芸十八般があったのですが、武士の表芸は剣術です。
僕の孫がいっている国学院大学久我山高校などは中学のころから柔剣道は必修でやっているので文武両道をめざしているといえます。文武両道は日本精神でありスポーツなどとはちがいがあります。僕の長男(GB社長)は都立荻窪高校では剣道部に所属し初段獲得。次男は杉並警察で六年間の修行をし、いまでは剣道精神を体得した立派な人間(UJ社長)になっています。もう一人の孫は明星学院中等部で一年生剣道部員としてがんばっています。この男は中学一年で身長一七五センチ。おおいに期待できそうです(笑)。剣術の修行こそが日本精神を磨くことであると僕は確信しています。

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