2021年09月17日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 81

971
※長大な体の畜身は、諸々の小虫に食べられてしまうのです。五百由旬という大きな体を持って生まれてくると、食べられるところが多くなるのです。小さな虫ならば、食べられるところは少しです。長大な身をもって生まれてしまうと、食われても、食われても、体が残ってしまうのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 81

 「若しは馲駝(たくだ)と作(な)り 或は驢(ろ)の中に生れて」
 もしは、駱駝(ラクダ)となり、或は驢(ロバ)の中に生まれて
 「身に常に重きを負い 諸の杖捶(じょうすい)を加えられんに」
 身に常に重い重りを背負い、諸々の杖でぶたれるのです。駱駝や、ロバは、常に鞭で打たれるのです。ご主人様にピシッと鞭で打たれると、「ヒィーーー」と鳴いて重い荷物を背負って立ち上がり、荷物を常に運ぶのです。動かないでいると、ピシッと鞭を打たれて「動け!」と言われるのです。そのような畜身に生まれるのです。
 「但水草(すいそう)を念いて 余は知る所無けん」
 ただし、頭の中は「早く餌を食いたい」というだけです。水草を思って、その他のことは知る所ではありません。するとまた鞭が飛んでくるのです。ピシッと鞭でぶたれると「ヒィーーー」と鳴くのです。頭の中は水草だけです。他のことは何もわかりません。
 「斯の経を謗するが故に 罪を獲(う)ること是の如し」
 この法華経を誹謗したゆえに、罪を被ることかくのごとしです。
 「有は野干と作って 聚落(じゅらく)に来入(らいにゅう)せば」
 あるいは野良犬となって、村に入ってくれば、
 「身体疥癩(けらい)にして 又一目無からんに」
 身体が臭くて、全身がただれているのです。また、目がつぶれていて、片目しかありません。
 「諸の童子に 打擲(ちょうやく)せられ」
 諸々の子供達に「汚い犬だな、あっちへ行け!」と言われて、棒でぶたれるのです。
 「諸の苦痛を受けて 或時は死を致さん」
 諸々の苦痛を受けて、ある時は死ぬのです。
 「此に於いて死し已って 更に蟒身(もうしん)を受けん」
 ここにおいて死に終わって、さらに畜身の生を受けるのです。
 「其の形長大にして 五百由旬ならん」
 その畜身は長大にして、五百由旬ならん。「ここで死んで終わりか」と思うと、そうではありません。長大な畜身に生まれて、その体が腐っているので、虫が食っていくのです。それは五百由旬というもの凄く大きな怪物です。
 「聾騃(ろうがい)無足(むそく)にして 蜿転腹行(えんでんふくぎょう)し」
 足がない蛇のようなものに生まれるのです。クネクネして腹で移動するのです。
 「諸の小虫に 唼食(そうじき)せられて」
 長大な体の畜身は、諸々の小虫に食べられてしまうのです。五百由旬という大きな体を持って生まれてくると、食べられるところが多くなるのです。小さな虫ならば、食べられるところは少しです。長大な身をもって生まれてしまうと、食われても、食われても、体が残ってしまうのです。五百由旬という長大な体を持った者に生まれるのです。
象もそうです。体が大きいから他の動物よりも強いのですが、体が弱って虫に食われると長い間苦しむのです。まして、恐竜のように体が大きくなればなるほど、虫に食べられると長い間苦しむのです。
 「昼夜に苦を受くるに 休息あること無けん」
 昼夜に苦を受けて、休息があることはありません。昼も夜も苦しむのですが、休息することはできません。休息とは寝ることです。寝ることができれば、痛みが止まり、明日の朝は元気になって起きることができるのです。全身がかゆくて、かきまわして、眠ることもできないのです。地獄だとわかるでしょう。
「斯の経を謗するが故に 罪を獲(う)ること是の如し」
この法華経を誹謗するが故に、罪を被ることかくのごとしです。よく聞いておきなさい。この法華経を誹謗すると、かくのごときの罪を受けるのです。
 「若し人となることを得ては 諸根暗鈍にして」
 もしこの経を誹謗して、人間に生まれるならば、バカに生まれるのです。
 「矬陋癮躄(ざるれんびゃく) 盲聾背傴(もうろうはいう)ならん」
 人に生まれた場合、盲や、せむしに生まれるのです。せむしがいたら、それは法華経誹謗の罪なのです。
 「言説する所有らんに 人信受せじ」
 この人が何かしゃべっても、人に信じてもらえません。
 「口の気(いき)常に臭く 鬼魅(きみ)に著せられん」
 口の息は常に臭いのです。口が臭いので、誰も聞く耳を持ちません。
 「貧窮下賎(びんぐげせん)にして 人に使われ」
 人間に生まれた時は、下郎に生まれるのです。平民以下になって生まれるのです。新平民がそうです。それで生まれてくるのは、法華経誹謗の罰なのです。
 僕が法華経を説いているのを見て、悪口を言う人は、そのおかげで貧乏で賤しい身分の者として生まれているのです。また、法華経を説く僕の悪口を言って、罪を負ってしまうのです。貧乏で賤しい家に生まれて、人に常に使われてしまうのです。頭がよくないので、何もできません。(82に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
若しは馲駝(たくだ)と作(な)り 或は驢(ろ)の中に生れて
身に常に重きを負い 諸の杖捶(じょうすい)を加えられんに
但水草(すいそう)を念いて 余は知る所無けん
斯の経を謗するが故に 罪を獲(う)ること是の如し
有は野干と作って 聚落(じゅらく)に来入(らいにゅう)せば
身体疥癩(けらい)にして 又一目無からんに
諸の童子に 打擲(ちょうやく)せられ
諸の苦痛を受けて 或時は死を致さん
此に於いて死し已って 更に蟒身(もうしん)を受けん
其の形長大にして 五百由旬ならん
聾騃(ろうがい)無足(むそく)にして 蜿転腹行(えんでんふくぎょう)し
諸の小虫に 唼食(そうじき)せられて
昼夜に苦を受くるに 休息あること無けん
斯の経を謗するが故に 罪を獲(う)ること是の如し」
若し人となることを得ては 諸根暗鈍にして」
矬陋癮躄(ざるれんびゃく) 盲聾背傴(もうろうはいう)ならん」
言説する所有らんに 人信受せじ」
口の気(いき)常に臭く 鬼魅(きみ)に著せられん」
貧窮下賎(びんぐげせん)にして 人に使われ」


★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(2)clip!


2021年09月16日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 80

970
※ロシアの技術チームがコラ半島で、地下約12.2キロメートル(7.6マイル)の穴をあけて空洞に到達したという。この予想外の発見に興味を持ったチームは、他の観測装置と共に耐熱性のあるマイクを穴に降ろした。マイクを降ろしたその場所の温度は1000℃(2,000°F)―それは炎の空間からの熱であり、そこから(ひどく)苦しんでいる人びとの叫び声が聞こえたという。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 80

「其の人命終して 阿鼻獄に入らん」(続き)
地獄には、八大地獄、八寒地獄があります。八寒地獄の中で一番罪の重い地獄は、「大紅蓮地獄(だいぐれんじごく)」と言います。八寒地獄で最も広大です。ここに落ちた者は、紅蓮地獄を超える寒さにより体が折れ裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るといいます。
氷地獄では赤い花が咲くのです。氷の中に体が閉じ込められてしまうと、皮膚が破けて血が出てくるのです。それが氷で固まると赤い花のようになるのです。そのような地獄へ逝くのです。
阿鼻獄とは、阿鼻叫喚地獄と言うのです。八大地獄の中で一番罪の重い人がいく地獄です。阿鼻獄に行った人がいるのです。
 ロシアの技術チームがコラ半島で、地下約12.2キロメートル(7.6マイル)の穴をあけて空洞に到達しました。この予想外の発見に興味を持ったチームは、他の観測装置と共に耐熱性のあるマイクを穴に降ろしたのです。マイクを降ろしたその場所の温度は1000℃(2,000°F)です。それは炎の空間からの熱であり、そこから(ひどく)苦しんでいる人びとの叫び声が聞こえたのです。恐れて穴を掘るのを中断したのです。
 中国でも地面深く穴を掘ったら、うめき声が聞こえてきたのです。恐ろしくなって穴を掘るのをやめたのです。それが阿鼻獄です。「地獄は地底にある」と仏典でも言っていますが、阿鼻獄の衆生の声なのです。
地球の地面を掘っていくとマントルにぶつかります。そこにも生命がいるのです。いつも火に焼かれているのですから火炎地獄です。常にそこにいるのですから、逃げられないのです。
火の地獄は阿鼻叫喚地獄といい、何億万年も終わらないのです。「うわー、助けてくれ!」と叫んで火に焼かれて死ぬと、また火の中に生まれてくるのです。またその生が終わると火の中に生まれるのです。それが永遠に続くのです。これを阿鼻獄といいます。人間は火災で死んだ場合、その場だけですが、そんな甘いものではありません。永遠に地獄が続くのです。
 「一劫を具足して 劫(こう)尽きなば更(また)生れん」
 一劫(43億2千万年)という長い間、地獄にいたけれども、必ず終わりがくるのです。「永遠に地獄」ということはありません。地獄が終わって、劫が尽きて生まれたならば、また地獄に生まれるのです。「阿鼻獄がやっと終わったな」と思うと、また阿鼻獄に生まれてきてしまうのです。
 「是の如く展転して 無数劫に至らん」
 かくのごとく展転して、無数劫に至らん。阿鼻獄は終わらないのです。また阿鼻獄に生まれて死んで、また阿鼻獄に生まれるのです。
 「地獄より出でては 当に畜生に堕つべし」
 この阿鼻獄に堕ちている因縁が終わるのには、物凄く長い時間がかかるのです。それが終わると「何処に生まれるのか?」というと、畜生界に生まれるのです。「やっと阿鼻獄から出ることができた」と思うと、畜身をもって生まれるのです。
「畜生は残害とて互に殺しあふ」(新池御書)というのです。強いものが弱いものを食ってしまうのです。畜生がお互いに食らいあっていると、大きな畜生がやってきて、二匹とも食ってしまうのです。そこに生まれてしまうのです。
 「若し狗(いぬ)野干としては 其の形(かたち)こっ痩(こっしゅ)し」
 もし、犬に生まれると、その体は片足、片目で、そのような体で生まれてくるのです。
 「黧黮疥癩(りたんけらい)にして 人に触嬈(そくにょう)せられ」
 その犬は赤黒い疥癬(かいせん)で皮膚病になっているので、人に触られることはありません。人間に会うと「汚い犬だな。あっちへ行け!」と石をぶつけられるのです。
その犬はヨダレを垂らして、目から涙が出て、毛が抜けていて、臭い匂いがするのです。全身が腐っているのです。そのような犬がウロウロしていると、「あっちへ行け!」と子供に石を投げられるのです。そのような畜身で生まれるのです。法華経誹謗の罪は、恐ろしいですね。
 「又復人に 悪み賎(いや)しまれん」
 またまた人に憎まれて、賤しまれるのです。人間から「あっちへ行け! まだいるのか。棒でぶってやる!」と言われて、迷惑がられるのです。
 「常に飢渇(けかつ)に困(くる)しんで 骨肉枯竭せん」
 常に飢えて渇き、苦しんで、骨肉枯渇せん。「お腹空いたな」と常に飢えていて、しかも人間に出会うと苛められるのです。そのような畜生に生まれるのです。
 「生きては楚毒(そどく)を受け 死して瓦石(がしゃく)を被(こうむ)らん」
 生きている時は体が激しく痛み、苦しんで、死んでも罪は終わらないので、石を投げられるのです。
 「仏種を断ずるが故に 斯(こ)の罪報を受けん」
 この罪報は、「仏になる」という種をなくしてしまったからです。「仏になろう」と思って努力している人は、仏を目指して進んでいるのですから、どんどんよくなるのです。仏になる種を「仏種」というのです。
罪報を受ける人は悪さをしすぎて、仏になる種をなくしてしまったので、何年経っても仏にはなれません。仏になる種がないのです。種をまかなければ、実はなりません。その種をなくしてしまったのですから、仏になることはできません。何処へ行っても嫌われてしまうのです。(81に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
其の人命終して 阿鼻獄に入らん(続き)
一劫を具足して 劫(こう)尽きなば更(また)生れん」 「是の如く展転して 無数劫に至らん
地獄より出でては 当に畜生に堕つべし
若し狗(いぬ)野干としては 其の形(かたち)こっ痩(こっしゅ)し
黧黮疥癩(りたんけらい)にして 人に触嬈(そくにょう)せられ
又復人に 悪み賎(いや)しまれん
常に飢渇(けかつ)に困(くる)しんで 骨肉枯竭せん
生きては楚毒(そどく)を受け 死して瓦石(がしゃく)を被(こうむ)らん
仏種を断ずるが故に 斯(こ)の罪報を受けん


★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(9)clip!


2021年09月15日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 79

776
※正理会は、平家納経よりも素晴らしい法華経の本をつくります。法華経は何よりも一番大事です。正理会の法華経講義をしっかりと読むのです。これが修行です。相当、分厚い本になります。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 79

「我見を計(け)する者には 此の経を説くこと莫(なか)れ」(続き)
我見の者には、この経を説いてはいけません。正理会は、「法華経を信受します」という人に法を説くのです。正理会は、法華経の素晴らしい本をつくります。法華経は何よりも一番大事です。正理会の法華経講義をしっかりと読むのです。これが修行です。相当、分厚い本になります。
 「凡夫の浅識(せんしき) 深く五欲に著せるは」
凡夫の浅い知識、深く五欲に執着する者は、
 「聞くとも解(げ)すること能(あた)わじ 亦為に説くこと勿(なか)れ」
 「法華経は有難いですよ」と聞いても理解できません。その人のために法華経を説いてはいけません。バカなのですから、理解できないのです。理解できない人のために法を説いても仕方がありません。
豚に向かって一生懸命、法華経を説いても理解できません。それと同じで人間でもバカがいるから、そんな者にために「愛を持って法を説く」など、そんな必要はありません。法華経は、法を求めている人に対して説く法です。法を求めていない人に対して、「おい、待てよ、法華経を信じなさい」と言っても意味がありません。そんなことを言う必要は全くありません。
法を求めてきたならば、法を説いてよいのです。「法は聞きたくない」と言って逃げる人を捕まえて、「お前、この法を信じろ」という必要はありません。
 「若し人信ぜずして 此の経を毀謗(きぼう)せば」
 もし人信ぜずして、この経を誹謗すれば、
 「則ち一切 世間の仏種を断ぜん」
 すなわち一切の世間の仏種を断じる。恐ろしいですね。これは法から逃げている人のことです。「法華経は有難いですよ」と説いているのに、反対に悪口を言って、「何が法華経だ。俺のほうが偉いぞ」と言っている人がいるとしたら、仏になる種をなくしてしまっているのです。その人は、永久に仏にはなれません。永久に彷徨うのです。
法華経を説くと「法華経がなんだ。般若心経のほうがいいぞ」と悪口を言うのです。その人は法華経を誹謗したことにより仏種が断たれてしまうのです。だから、そのような人に法を説いてはいけません。
人をよく見て「これは、地獄にはまっているな」という人には、法を説かないのです。改心するまで法を説いてはいけません。地獄にはまっている人間に、トントントンと背中を叩いて、振り向いた瞬間に「南無妙法蓮華経を信じなさいよ!」と口に押し込んでも、「毒を入れられた」と思って、相手は吐きだすのです。それで益々、仏種を断じるのです。折伏は聞く耳のない人にしても仕方ありません。
 「或は復(また)顰蹙(ひんしゅく)して 疑惑を懐かん」
 或はまたは顰蹙して、疑惑を抱かん。もうちょっと上の人間は、「こんな教えは聞きたくなかったな。これはインチキに違いない」と疑惑を抱くのです。
 「汝当に 此の人の罪報(ざいほう)を説くを聴くべし」
 汝、まさにこの人の罪報を説くを聴くべし。この人達は、どのような罪報を受けるのかということを、これから説くのでよく聴いていなさい。
 「若しは仏の在世 若しは滅度の後に」
 もしは仏の在世、もしは滅度の後に
 「其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん」
 それかくのごとき経典を誹謗すること有らん。仏がいらっしゃる時に「仏様はインチキだぞ」と言うのです。Y子みたいなものです。Y子は「中杉はウソつきだ」と言うのです。提婆達多は「釈迦は仏の道を説いているけれども、ニセ者だ。ほら、この女を見ろ。この女の腹にいるのは釈迦の子供だ。釈迦はインチキだ!」と言うのです。Y子と同じです。
 「経を読誦し書持すること 有らん者を見て」
 この法華経を読誦し、書持して、一生懸命修行する人を見て
 「軽賎(きょうせん)憎嫉(ぞうしつ)して 結恨(けっこん)を懐かん」
 バカにして、憎んで、恨むのです。「何故、恨むのか?」というと、「法華経を保って羨ましい。俺は信じられない。あの人は信じられるのか。羨ましいな」と思うのです。それが次に恨みに変わるのです。「あの野郎、生意気にも法華経を信じやがって。俺は信じられないのだから、あの野郎を恨んでやる!」という血痕を抱くのです。Y子は、全くその通りです。
 「此の人の罪報を 汝今復聴け」
 この人の罪報を、汝今またよく聴きなさい。
 「其の人命終して 阿鼻獄に入らん」
 その人は命が終わる時には、阿鼻獄に入るのです。法華経の行者の悪口を言った者、そのような者がどのような罪を受けるのかというと、死んで阿鼻獄に入るのです。ハッキリと書いてあります。
地獄には八大地獄があります。
八大地獄とは、以下の通りです。
等活地獄(とうかつじごく)、(殺生の罪)、
黒縄地獄(こくじょうじごく)、(殺生、盗み)
衆合地獄(しゅうごうじごく)、(殺生、盗み、邪淫)
叫喚地獄(きょうかんじごく)、(殺生、盗み、邪淫、飲酒)
大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)、(殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語)
焦熱地獄(しょうねつじごく)、(殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見)
大焦熱地獄(だいしょうねつじごく)、(殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見、犯持戒人)
阿鼻地獄(あびじごく)、(殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見、犯持戒人、父母・阿羅漢殺害)

八大地獄の最下層にあるのが阿鼻獄です。五逆罪と謗法 (ほうぼう)の大悪を犯した者が落ちる地獄です。諸地獄を一としてその一千倍の責め苦を受けるという無間地獄を阿鼻獄と言います。法華経の誹謗した者は、一番罪の重い阿鼻獄へ逝くのです。(80に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
我見を計(け)する者には 此の経を説くこと莫(なか)れ(続き)
凡夫の浅識(せんしき) 深く五欲に著せるは
聞くとも解(げ)すること能(あた)わじ 亦為に説くこと勿(なか)れ
若し人信ぜずして 此の経を毀謗(きぼう)せば
則ち一切 世間の仏種を断ぜん
或は復(また)顰蹙(ひんしゅく)して 疑惑を懐かん
汝当に 此の人の罪報(ざいほう)を説くを聴くべし
若しは仏の在世 若しは滅度の後に
其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん
経を読誦し書持すること 有らん者を見て
軽賎(きょうせん)憎嫉(ぞうしつ)して 結恨(けっこん)を懐かん
此の人の罪報を 汝今復聴け
其の人命終して 阿鼻獄に入らん


★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(14)clip!


2021年09月14日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 78

58
※国宝 一字蓮台法華経


人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 78

 「浅識(せんしき)は之を聞いて 迷惑して解(げ)せず」
 浅い知識の人は、これを聞いて、迷惑してわかりません。仏はちゃんと予言されているのです。智恵の浅い者、バカで傲慢な者は、この話を聞いても信じません。「法華経など信じないよ」と言うのです。Y子が法華経を見ると、何が書いてあるのかサッパリわかりません。「私の考えが正しいのよ」と思っているのです。虚妄の分際で何を言っているのでしょうか?
 「一切の声聞 及び辟支仏は」
 一切の声聞、及び辟支仏は、
 「此の教の中に於て 力及ばざる所なり」
 この教えの中において、辟支仏は力及ばざる所なり。声聞や辟支仏は、法華経から比べると力も及びません。世間では辟支仏も立派な菩薩です。ところが法華経から見たら、まるで子供です。そのくらい、この法華経は偉大です。
だから、法華経はわかりにくいのです。偉大な人間はわかりにくいのです。バカから見たら、偉大な人間かどうかもわかりません。小さな者が、大きな者を見るとわかりません。この話が「群盲象をなでる」です。盲に象を触らせると、一人は足に触ると「丸太のようですね」といい、鼻を触った人は「これは蛇ですか?」と言い、お腹を触った人は「これは壁ですか?」と言うのです。
盲には象の姿はとらえられません。象というものがわからないのです。自分より大きいものはわからないのです。基本的に自分より大きな人のことは、わからないのです。わかるのは、自分より小さい人のことです。
親は子供のことはよくわかるのです。自分より小さい人だからです。子供のこともよくわからなかったら、親がバカなのです。普通は自分よりも大きなものはわかりませんが、自分より小さなもののことはよくわかるのです。それなのに、自分の子供のことがよくわからない親は、バカなのです。子供のことぐらい普通はわかります。
 「汝舎利弗すら 尚此の経に於ては」
 汝、舎利弗よ、なおこの経においては、
 「信を以って入ることを得たり 況んや余の声聞をや」
 信じるということをもって得たり、いわんや余の声聞をや。これはよい言葉です。法華経は、「信」を持って入るのです。頭で理解して入るのではありません。信を持って入るのです。「以信得入(いしんとくにゅう)」といいます。
これが信仰の原点です。「法華経の何処が難しいのか?」というと、ここです。普通の人は、法華経の表面だけ読んでいるのです。それを文上(もんじょう)といいます。法華経を読めば、一応わかったような気持ちになるのですが、何もわかっていません。
法華経は「信」がないと読めません。法華経は、信じるものです。「信を以って入る」と書かれています。「信」を持って入った人が、法華経という仏教の本当の姿がわかってくるのです。法華経は、尊い教えです。
僕が法華経を講義して人々を救うのではありません。貴方を救い、世界の1億人の人々を救うのは、この法華経です。法華経が救うのです。僕の法華経講義を聞いている皆さんは、来世に大変な功徳を受けるのです。
 「其の余の声聞も 仏語を信ずるが故に」
 その余の声聞も、仏語である法華経を信受するがゆえに
 「此の経に随順す 己が智分に非ず」
 この経に随順して、己が智分に非ず。法華経を信じて、何かしようと思っても、わからないのです。「法華経とは何ですか?」と質問されても、答えられないのです。「智分に非ず」と言うのですから、自分が理解した分しかわかりません。信じることを説こうと思っても説けません。
大事なことは、「信じる」ということです。信じないと力は出てきません。それを「以信得入(いしんとくにゅう)」と言うのです。良い言葉です。信じることが大事です。
 「又舎利弗 憍慢懈怠(きょうまんけだい)」
 また、舎利弗よ、おごり高ぶり人を見下し、なまけている人、
 「我見を計(け)する者には 此の経を説くこと莫(なか)れ」
 我見を計画する者には、この経を説いてはいけません。ほら、ここに書いてあります。我見を振り回して、「法華経はなんぼのもんじゃい。私が納得するように説いてみなさい!」という我見の者には近寄ってはならないのです。「我見の者に法華経を説いてはならない」と仏様は言われているのです。
「仏法は衆生を救うものである」と言って、誰にでも説けばよいというものではありません。法華経は誰にでも説いてもわかりません。わからない者に説いても意味がありませんから説くのを辞めなさい。
我見の人とは今でいうと、新興宗教の信者です。創価学会を50年もやっていると、我見で頭が狂ってしまうのです。その人に説いてもダメなのです。耳に法華経が入らないのです。それを邪見の者といいます。
立正佼成会も邪教です。新興宗教は全て邪教です。そこに入信して、「なんぎょうほうれんげっきょう〜」とやっている連中に、何を説いても永久にわかりません。我見の人に法を説こうと思ってはいけません。素直になって「私は我見を全て捨てます。教えてください」という人には、法を説いてよいのです。
法華経は人を選ぶのです。法華経が説く人を選ぶのです。「貴方、法華経を何が何でも信じてください」などという必要はありません。
こちらが、入門を許可するかどうかです。「貴方には法を説きません。幸せになりたかったら、仏法を信じなさい。法華経を信じなさい」と言って、「法華経を信受します」という人に法を説くのです。(79に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
浅識(せんしき)は之を聞いて 迷惑して解(げ)せず
一切の声聞 及び辟支仏は
此の教の中に於て 力及ばざる所なり
汝舎利弗すら 尚此の経に於ては
信を以って入ることを得たり 況んや余の声聞をや
其の余の声聞も 仏語を信ずるが故に
此の経に随順す 己が智分に非ず
又舎利弗 憍慢懈怠(きょうまんけだい)
我見を計(け)する者には 此の経を説くこと莫(なか)れ


★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(9)clip!


2021年09月13日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 77

935
※法華経が理解できればよいのです。法華経が説いていることは真実で、貴方の見ている世界は虚妄です。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 77

 「汝舎利弗 我が此の法印は」
 汝、舎利弗よ、我がこの法印は、
 「世間を利益せんと 欲(ほつ)するを為(も)っての故に説く」
 世間を利益すると欲するがための故に説く。世間の衆生を幸せにするために、仏が現れてくるのです。その時に貴方達は、「仏法でいう永遠の生命」がわかるでしょう。「お釈迦様、ここにいらっしゃったのですか」ということです。永遠の生命ですから、安心でしょう。「お釈迦様がいなくなってしまった」と思ったら、また出てくるのです。
「あれ、中杉先生、ここにいらっしゃったのですか」ということです。御書では「復遇日蓮」と言います。日蓮大聖人様と復、再び遇うのです。「あれ、日蓮大聖人様、かくれんぼしていたのですか? ここにいらっしゃったのですね」ということです。「私は元々いたのだよ。お前達の目が曇っていて、私がいたのに見えなかったのだよ」ということです。
 「所遊の方(ほう)に在って 妄りに宣伝すること勿れ」
 このことを妄りに宣伝してはいけません。「お釈迦様は入滅してなどいない。まだいらっしゃるのだ」ということは、貴方のために言ったのだから、こんなことを妄りに人に言ってはいけません。
 「若し聞くこと有らん者 随喜(ずいき)し頂受(ちょうじゅ)せん」
 もし、このことを聞いた人は、「お釈迦様、いらっしゃったのですか! 有難いですね」と歓喜するのです。お父さんが死んでいなくなったと思ったら、お父さんはいたのです。「お父さんは、かくれんぼしていたのですね」と思うでしょう。実は、自分がもう妙の世界に入ってきているのです。
 「当に知るべし是の人は 阿鞞跋致(あびばつち)なり」
 まさに知るべし、この人は阿鞞跋致(あびばつち)なり。阿鞞跋致(あびばつち)とは、菩薩が仏道修行の道筋を後戻りしないことです。不退転の位に入ったということです。
 「若し此の経法を 信受すること有らん者」
 もしこの経法を信受することあらん者は、
 「是の人は已に曾て 過去の仏を見たてまつりて」
 この人はすでにかつて、過去の仏を見たてまつりて、
 「恭敬供養し 亦是の法を聞くけるなり」
慎み敬い供養して、またこの法を聞くことができるのです。法華経を信じることができる人は、過去にちゃんと因を積んでいるのです。だから、君たちは僕の法華経講義を聞くことができるのです。真に稀なことです。日本国中を探しても、僕の法華経講義を聞いている人は、真に少ないのです。
僕に会うということは、今世で会ったのではありません。昔から会っているのです。過去世とは、来世です。未来と思っているのは、過去なのです。不思議でしょう。三世の生命とはそうなのです。過去世と思っていたら、未来世なのです。
過去に出てきたものが、未来の果となって出てくるのですから、三世常恒です。過去、現在、未来も、お釈迦様も、日蓮大聖人様も、仏様はみんないるのです。死んでなどいません。仏の世界にはみんないるのです。「よかった、仏様はみんないたのですか」となるのです。そうなれば、幸せでしょう。本当にそうなのです。
「若し人能く 汝が所説を信ずること有らんは」
 もし人がよく、汝が所説を信じることあらんは、
 「則ち為れ我を見 亦汝」
 即ちこれ我を見、また汝
 「及び比丘僧 竝びに諸の菩薩を見るなり」
 及び比丘僧、並びに諸々の菩薩を見るなり。私を見るだけではありません。一緒に修行してきた菩薩様も、観音様もみんないるのです。この世界が本当の世界です。皆さんが見ている世界は虚妄の世界です。実相の世界に来たら、みんないるのです。悪い人は一人もいません。良い人は、「会いたいな」と思う人はみんないるのです。
 「斯の法華経は 深智の為に説く」
 この法華経は、深智のために説く。この法華経とは、このようなことを説いているのです。実に深いところを説いているのです。「三世は変わらない、死んだ人はいるのだ」ということは、普通は説きません。人智を超えているので、凡夫はわからないのです。だから、「法華経を信じなさい」と言っているのです。法華経は信じないとわかりません。私の頭では、理解できなくてもよいのです。
法華経が理解できればよいのです。法華経が説いていることは真実で、貴方の見ている世界は虚妄です。ところが、みんな虚妄の頭で考えて「法華経が説いていることはウソだ」と言うのです。
法華経が真実であり、我々の見ている世界が虚妄です。それが少しわかった段階で信仰はグッと進むのです。僕がよく言っているでしょう。僕が世界を救うのではありません。法華経が世界を救うのです。僕の力などたいしたことはありません。法華経が世界を救うのです。それを間違えてはいけません。(78に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
汝舎利弗 我が此の法印は
世間を利益せんと 欲(ほつ)するを為(も)っての故に説く
所遊の方(ほう)に在って 妄りに宣伝すること勿れ
若し聞くこと有らん者 随喜(ずいき)し頂受(ちょうじゅ)せん
当に知るべし是の人は 阿鞞跋致(あびばつち)なり
若し此の経法を 信受すること有らん者
是の人は已に曾て 過去の仏を見たてまつりて
恭敬供養し 亦是の法を聞くけるなり
若し人能く 汝が所説を信ずること有らんは
則ち為れ我を見 亦汝
及び比丘僧 竝びに諸の菩薩を見るなり
斯の法華経は 深智の為に説く


★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(9)clip!


2021年09月12日

『仏法と神道』能生(のうしょう)と所生(しょしょう)とは、どのような意味なのか

ongikuden3
※日蓮大聖人様の『御義口伝』は、法華経の極意書です。学んでいきましょう。

『仏法と神道』

能生(のうしょう)と所生(しょしょう)とは、どのような意味なのか?

 これは、大変難しい問題です。物事ができてくる根源のことを「能(よ)く生まれる」と書いて、能生(のうしょう)と言います。根源の法のことです。この根源の法が働いて目に見える形になってきたものを所生(しょしょう)と言います。「生じた所」という意味です。能生・所生とは、仏法の原理でいろいろ議論されてきたところです。
 能生の根源とは、何でしょうか。あらゆるものが生まれてきた根源のものとは一体何でしょうか。仏法とは基本的にそういうものにしか興味がありません。「生じた所のものは何か」ということです。人間というのは所生の法です。生まれた所のものです。どこから生まれてきたのかというと所生の根源が能生と言います。
 ですから、仏法の学びとは、何を学んでいるのかというと能生の根源の学びです。「生命はどこから生まれてどこへ行くのか」、「大宇宙の根源は何故、進化しているのか」、「人間は何故、死ぬのか」このような根源の問題、所生の法の奥に能生の法があるはずです。それを訪ねた旅が仏教です。「我々の根源とは何であるのか」、「生命の根源とは何であるのか」という疑問に答えるのが能生・所生です。
 これは、仏法そのものに置き換えると、能生の法とは、南無妙法蓮華経のことです。南無妙法蓮華経を勉強するということは、「能生の根源について知りたい」ということです。「拝んで何か良いことがあるのではないか」というような法ではありません。あらゆるものが生まれてくる根源の法を南無妙法蓮華経と言います。
 「では、南無妙法蓮華経とは何でしょうか」というと、これが能生の学びです。生ずる所の根源の学びが南無妙法蓮華経です。経典でいうと、法華経は能生の法であり、根源について解き明かした法です。それに近い言い方をしているのが、『無量義経』です。
 法華経は、三部作から成り立っています。『無量義経・妙法蓮華経・観普賢菩薩行法経』という経典から成り立っていて三十二章あるといわれています。最初に出てくるのは、『無量義経』です。何故、最初に『無量義経』かというと、ここには能生の法について説かれているからです。『無量義経』の有名な言葉で「無量義とは一法より生じる」とありますが、「あらゆるもの(無量義)は、一法より生じる」のです。ですから、その経典のことを『無量義経』と言います。
 「その一法とは何ですか」ということを明らかにしたのが、その次に出てくる『妙法蓮華経』です。そのような構図になっています。
 この『妙法蓮華経』がこの次にどのような展開をしていくのかというと、『観普賢菩薩行法経』です。この三部作が『法華三部経』と言われています。この『法華三部経』を根源からひっくり返した時に、「能生の根源の法とは、南無妙法蓮華経です」と、我々に教えられたのが日蓮大聖人様です。
 ということは、誰の中にも南無妙法蓮華経はあります。刑務所に服役しているような連中でも、「貴方は、何からできているのですか」と言うと、やはり根源は能生の法ですから、南無妙法蓮華経からできています。
 しかし、悲しいかな、道にはずれた人々は知らないのです。南無妙法蓮華経の華を開かせてあげようとしても、開かせてあげることはできません。何故、できないのかというと、それは不信謗法なるが故です。不信=信じることができないのです。
 仏教の勉強とは、全て分かってから始めるものではありません。「南無妙法蓮華経は、分かりました。信じます」ということではなく、「分からないから信じなさい」ということです。
法華経に出てくる有名な舎利弗(釈迦十代弟子の一人)の話も同じ事です。「宇宙の根本は何でしょうか? お釈迦様、教えてください」と舎利弗が質問しました。「無量義の一法とは何でしょうか」ということです。
「未曾有法 佛悉成就 止 舎利弗 不須復説(みぞううほう ぶっしつじょうじゅ し しゃりほつ ふしゅぶせつ)」(妙法蓮華経方便品第二)
訳「舎利弗、お前には説かない。何故なら、お前は頭で理解しようとしています。仏法というものは、頭で理解して数学を解くように解いていく問題ではありません」
最初にくるものは、信なのです。「信じる」という信心が先です。これが仏法という扉を開けていく鍵なのです。「信じる」ということができないから、「お釈迦様といってもたいしたことはないよ」と謗法が始まるのです。
私のブログを見て、H・Tが人づてに文句を言ってきました。「あいつ、頭が狂っている。総理大臣より偉いと言うなど、まさに常軌を逸している。ついに気が狂った」と言っていたそうです。気が狂った人間から見ると私が書いたものは、そのように見えます。
そうではない人間が見れば、当たり前のことを言っていると分かります。私は仏法の指導者であり、仏法の指導者という者は、国法をいじくりまわす総理大臣・裁判官・弁護士より遥かに偉いのです。この事を言っているのです。その有難い法を保っているのですから、私は誰よりも偉いのです。
私が「何でもできる」と言っているのではないのです。仏法という一番大事な法を知っているが故に、「私は偉大な人間だ」と自分でも思うし、指導者であると思います
皆さんがこの仏法に帰依してくるならば、世界は平和になり、素晴らしい世界がでてくるのです。そのような意味において、国にも教え、政治家にも教えていくという意味であり、政治家より権力を持っているという意味ではありません。
H・Tは「偉い」ということを社会的な地位だと思っているのです。総理大臣など社会的な地位です。それが何なのでしょう。能生の根源と、総理大臣がどのような関係があるのでしょう。裁判官が法を持って人を裁いても、能生の根源には何も触れていません。
世の中には、そのような法律の学問、政治の学問があり、また仏法という法があります。仏法とは、そのような世間法をグチャグチャ説いたものではありません。もっと、人間として一番大事なことを教えてくれるのが仏法であり、それを説く人を仏様というのであり、皆さんにもそうなってもらいたいのです。
私が「世界一偉い」と言っても、何の不思議もないのです。このことが分かっている人から言うと半分冗談であり、本気になって「私が一番、偉い!」と言っているのではないのです。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(6)clip!


2021年09月11日

仏法対話 天理教(18)

0004
※中山 みき(なかやま みき、寛政10年4月18日(1798年6月2日) - 明治20年(1887年)2月18日)は、日本の宗教家、天理教教祖。

仏法対話 天理教(18)

■質問者「奈良県にある野球で有名な天理教について教えてください。なにか大学もあるみたいですが?」

■お答えします。
天理教といえばすぐに思い出す言葉があります。「屋敷を払って田売りたまえ天貧乏のみこと」です。これは彼らが唱える「悪しきを払うて助けたまえ天理王命」をもじったものです。
天理教に入信すると財産は一切無くなり裸一貫となり。最後はハッピ一枚になり“もっこ”をかついで土木工事にかりだされるのです。天理市の天理教本部に行ってみるとハッピを着て”もっこ“をかついでいる叔父さん達に出会います。
どの顔を見てもニャニャして、鼻の頭がアル中のように赤いのです。財産も何もかも教団に寄進して、心配事がなくなり“陽気暮らし”をしている叔父さん達です。なまじ財産があるから兄弟喧嘩、親子喧嘩が始まり、泥棒に狙われるのです。財産があると税金も取られて、会社の倒産に脅えるのです。
このような悩みは財産が全部無くなれば、全て消えるのです。そのような悩みを解決して、“陽気暮らし”ができるのです。オーム真理教もそうでしたが、「全財産を寄付しなさい!」と言うのです。統一協会も「全ての財産を神にささげなさい!」と教えます。うまいことを考えたものです。全財産を教団に寄付した人は陽気になれるのです。
この天理教の歴史は以外に古く、幕末まで遡ります。教祖の中山みきは寛政10年4月18日の朝に、大和国津藩山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の前川半七の家に生まれました。
前川家は浄土宗の檀家であったので、その感化を幼時より受けました。浄土宗の僧侶になることを希望し、浄土宗の熱心な信者でした。文化7年9月15日(1810年10月13日)に中山善兵衞に嫁いだのです。この中山家を、天理教では「元のやしき」と呼んでいます。
 天保9年(1838年)10月23日、長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衞を招き祈祷をおこなったのです。この時、みき自ら加持代となり、神がかりとなり、「元(もと)の神、実(じつ)の神」と自ら名乗ったのです。
親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされています。その神は、みきを「神のやしろ」として貰い受けたいと申し出て、「その申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば、中山家を滅ぼす」と言ったのです。
10月26日になって、夫の善兵衛がみきを「神のやしろ」となることを承諾すると、みきの苦痛がおさまったとされます。(天理教では、この日を「立教の元一日」としている)。みきは、天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。
これにより、中山家は没落し貧乏暮らしをすることになったが、みきはそのことを気にすることはなかった。むしろその生活を受け入れたのです。次第にみきの教えに従う人の数も増え、元治元年(1864年)、専用に「つとめ場所」を建築したのです。
このころより各地に出向き布教を行いはじめるが、次第に迫害も増え、時には陣屋に呼び出され、神を祀るのを禁止されることもありました。慶応3年1月、『みかぐらうた』の製作に従事、かぐらのてぶりや鳴り物の稽古をはじめたのです。
慶応3年、京都神祇管領吉田家に願い出て、布教認可を得て、公認となり迫害は収まりました。
しかし、明治維新後、吉田家の公認は無効となり、明治政府の弾圧が続く中、明治20年2月18日没しました。その間、中山みきは、神命に従い、明治初年には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年正月から『おふでさき』書始め、かんろだいの雛形製作、ぢばさだめ(明治8年6月29日)など、天理教の基を築いたのです。
『みかぐらうた』『おふでさき』『泥海古記』『おさしづ』は天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席・飯降伊蔵のもと、天理教として布教が行われたのです(『おさしづ』のほとんどは、飯降伊蔵の口を通してのもの)。
夫善兵衛との間に、一男五女(中山秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かったのです(初代真柱中山眞之亮はおはるの三男である)。なお、天理教では人が没した場合、人間の発祥の根源「ぢば」へ帰ると解釈するため、「亡くなった」「死去した」とはせずに、「出直し」と表現するが、教祖の中山みきだけは「現身(うつしみ)を隠される」と表現しています。
これは、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」(天理教道友社「ようこそおかえり」 1985年刊より)という考えによるものです。 天理教本部では、中山みきは教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事が運ばれるなど、いろいろなお世話がなされています。
 いま天理教がめざしているものは世界の“陽気ぐらし”です。天理教の教義など馬鹿馬鹿しくて破折する必要などないのですが簡単に慈悲をもって破折しておきます。
中山みきの神がかりは精神分裂です。新興宗教に多く見られる「神がかり信仰」の、「神がかり」というのは何なのでしょうか。精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び「精神分裂病の一種」としています。「万物創造の親神」などというものは、単なる妄想の産物です。
 廃人にする「貧に落ちきれ」
「屋敷を払うて 田売りたまえ 天貧乏命」これは昔、世間の人々が天理教を揶揄(やゆ)したものです。人生教訓を押しつけ、しかも「欲の原因となる金銭を親神にお供えしろ」と、教団への多額の布施を徹底しているのです。
あげくには「自分のために働く日常生活を離れて教会に行け」とまで言い、信者の社会生活を破綻に追い込みかねないことまで言っています。
これでは、信者は単なる「教団の奴隷(どれい)」でしかありません。こうして信者から集めた莫大な金で、真柱(しんばしら)やら教団幹部がどのような暮らしをしているのか、ぜひ見てみたいものです。彼らが貧に落ちているとは、とても思えません。
 人間の本質を無視した「八つの埃」説
天理教では、「本来は清く正しい人間の心に八つの埃(ほこり)がつき、その埃がすべての病気や災害などの不幸の原因である」などと主張しています。しかし怒りや悲しみなどは天然自然のものでなくなることはありません。
 とまぁこんなところですが、キチガイババアの妄想を信ずるのですから、人間もおめでたいものです。こういう宗教を信ずる者は馬鹿です。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(7)clip!


2021年09月10日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 76

82
※太閤秀吉は、辞世の句「浪速のことも 夢のまた夢」を残したのです。「自分は何をやってきたのだろうか? 数々の戦争をして天下を取って大阪城を造ったけれども、今度は自分が死ぬのだ。今まで何をやってきたのだろうか? 夢の中で暴れていただけではないか」と思ったのでしょう。「浪速のことも 夢のまた夢」です。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 76

「但虚妄を離るるを 名づけて解脱と為(な)す」(続き)
水に溺れたりして死ぬ場合は、恐れることはありません。虚妄なのですから、死ぬ時にちょっと苦しいだけで、すぐに楽になるのです。生命はそのように出来ているのです。動物の世界は、お互いに食らい合う世界です。みんな虚妄です。「生きている」ということは、虚妄だから死ぬ時は別に苦しみません。大きなサメが小さな魚をガブッと食べても苦しみません。一つの夢が終わるだけです。夢が終われば、後は楽になるのです。また次の夢を見るだけです。小さな魚を食べたサメは、人間に食べられてしまうのです。
生命は次から次へと夢を見るのです。ウイルスは人間の体を餌にして生きている生命です。人間が死ねばウイルスも死んでしまうのです。人間の体にピタリと合ったのが、コロナウイルスです。元々は、コウモリの体内に生息していたのです。ウイルスが増殖してしまうと、飼い主が死んでしまいます。ウイルスは、飼い主を殺さないように注意しているのです。
ウイルスが増殖しだすと、人間が死ぬまで増殖してしまうのです。人間が死ぬとウイルスも同時に死んでしまうのです。寄生している人間が死んでしまったら意味がないので、本当は人間と仲良くしたいのです。だから、発病しない人がいるのです。
全て虚妄です。それを知っただけでも人生は楽になるのです。私がどんな良い思いをしようとも、何をしようとも、全て虚妄です。夢のまた夢です。
太閤秀吉は、辞世の句「浪速のことも 夢のまた夢」を残したのです。「自分は何をやってきたのだろうか? 数々の戦争をして天下を取って大阪城を造ったけれども、今度は自分が死ぬのだ。今まで何をやってきたのだろうか? 夢の中で暴れていただけではないか」と思ったのでしょう。「浪速のことも 夢のまた夢」です。
秀吉は死んだのです。人間は夢の中に生まれて、夢の中を駆け抜けて、夢の世界で死ぬのです。人間は。みんなそうです。秀吉は仏教を知らないから、それがどのような意味を持つのか知らないのです。
その意味を教えてくれているのが仏法です。仏法とは、「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし」です。生まれてくる秘密、死ぬ秘密があります。「生まれるとは、どのようなことなのか?」「死ぬとはどのようなことなのか?」これを明らかにすることが、仏法の目的です。
生まれるとは、十二因縁・四諦の法門です。「死ぬとは何か?」これは、簡単にはわかりません。死ぬとは、空(くう)です。空ならばなぜ、生きているのでしょうか? それは、中諦だからです。「中諦は何から出来ているのか?」というと、妙法からできているのです。このように仏法では教えているのです。
 「其れ実には未だ 一切の解脱を得ず」
 それは実には未だ、一切の解脱を得ず。そうなのですが、多くの人達は解脱を得ていません。一切の衆生は何もわかっていません。仏教を教えている人間ですら、本当のところはわかっていません。
 「仏是の人は未だ 実に滅度せずと説きたもう」
 「仏、この人は未だに実に滅度していません」と説いたのです。
簡単に書いてありますが、「私は死ぬけれども、実は死んでいないよ」と言われているのです。「いない、いない、ばっ!」です。「かくれんぼしようよ」と言って、かくれんぼしてパッといなくなります。「あれ、何処にいるの?」と探していると、「いない、いない、ばっ!」と言って出てくるのです。
仏様はそうなのです。それが出来る人を仏様というのです。仏は衆生が必要な時に現れてくるのです。
このことは、『如来寿量品第十六』に詳しく書いてあります。『如来寿量品第十六』で説いているのは、「如来の寿命は永遠だ」ということです。だから、如来寿量品というのです。
 「斯(こ)の人未だ 無上道を得ざるが故に」
 この人は、仏法の修行をしているのだけれども、未だ無上道(無量義一法)を得ざるが故に
 「我が意(こころ)にも 滅度に至らしめたりと欲(おも)わず」
 我が心にも滅度にいたらしめたりと思わず。仏が滅度していないということが信じられません。
 「我は為れ法王 法に於いて自在なり」
 仏様というのは法王です。法において自在です。
 「衆生を安穏ならしめんが故に 世に現ず」
 衆生を安穏ならしめんが故に、世に現れるのです。仏様は今夜滅度します。説かれたお経は涅槃経です。衆生はお釈迦様がいなくなると困ってしまいます。「どうやって修行をしたらよいでしょうか?」というと、お釈迦様の答えが「自灯明」です。これがお釈迦様の最期の教えです。
自ら照らして進んでいくことが仏道修行です。「自らを照らす」とは、反省するということです。それで進んでいくならば、ちゃんと無上道に入ることができるのです。
その向こうに誰かがいるのです。滅度したお釈迦様がいらっしゃるのです。お釈迦様がいないはずなのに見えてくるのです。「お釈迦様、そこにいらしたのですか。かくれんぼしていたのですか」、「私は本当はいるのですよ」と仏は言われているのです。まさに「いない、いない、ばっ!」です。お釈迦様が出てこられるのです。
詳しくは『如来寿量品第十六』で講義します。日蓮大聖人様は、「復遇日蓮(ぶぐうにちれん)」と言われています。「復、日蓮と再び遇うぞ」ということです。(77に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
但虚妄を離るるを 名づけて解脱と為(な)す(続き)
其れ実には未だ 一切の解脱を得ず
仏是の人は未だ 実に滅度せずと説きたもう
斯(こ)の人未だ 無上道を得ざるが故に
我が意(こころ)にも 滅度に至らしめたりと欲(おも)わず
我は為れ法王 法に於いて自在なり
衆生を安穏ならしめんが故に 世に現ず


★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(7)clip!


2021年09月09日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 75

967
※人間は執着してしまうと捨てられません。執着するものは、恋愛感情だけではありません。「役所の課長になりたい」「社長になりたい」「人よりもよい家が欲しい」「良い車が欲しい」みんな執着です。これらに執着してしまうと、深い苦しみを受けるのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 75

 「是の人何に於いてか 而も解脱を得る」
 この人は如何においてか、しかも解脱を得る。
 人は苦から脱しようとします。その前に「苦というものは、どのようなものなのか?」ということを明らかにしないとわかりません。苦というものは、苦しみです。人間は苦しみを嫌います。「苦しみのない社会をつくりたい、自分も苦しみのない所に身を置きたい」と考えるのです。そのためには、苦というものを知らなければ、苦から脱却できません。苦から脱却する方法とは、苦の正体を見つめることです。
苦というものは、執着から生まれるのです。執着というものは、離れられないのです。愛情関係で見るとよくわかります。眞子ちゃんは、小室圭に執着してしまい、離れらないのです。「一緒にいたい」というのは、執着です。
それが苦の原因です。それをパッと捨てれば楽になるのです。人間は執着してしまうと捨てられません。執着するものは、恋愛感情だけではありません。「役所の課長になりたい」「社長になりたい」「人よりもよい家が欲しい」「良い車が欲しい」みんな執着です。これらに執着してしまうと、深い苦しみを受けるのです。
お金に執着している人は、お金を出費することは、死ぬほどの苦しみです「。せっかく貯めてきたのに、千円でも出すのは惜しい」と思うのです。お金を出すのが嫌なのです。そのように思っていると苦痛で病気になってしまうのです。
「お父さん、お金がいるのだけれど」とお母さんが言うと、お父さんは苦痛で顔が歪んで病気になってしまうのです。執着が苦しみを生むのです。執着を離れなさい。執着を離れるには、どうしたらよいのかというと、執着の正体を明らかにしていけばよいのです。
執着の正体を明らかにすると、執着から離れられるのです。「何故、俺はお金に種着するのだろうか?」「何故、俺は女に執着をするのだろうか? 女の正体とは何だろうか?」と見ていくと、女は魔物が多いのです。「ああ、魔物だったのか」とわかれば、執着が消えるのです。何でもそうです。相手がわからないから、執着するのです。
 「但虚妄を離るるを 名づけて解脱と為(な)す」
 ただ、虚妄を離れるを、名付けて解脱となす。明解です。このようなことを理解するために、正理会では虚妄分別ということを先に教えてあります。全て虚妄です。「衆生が世界を見ている」ということは、虚妄です。皆、同じものを見ているように思うのですが、全て違う世界を見ているのです。「自分と同じように見ている」と思うのですが、全然違う世界を見ているのです。
例えば、時計を皆が見ていて、「この部屋が実在している」と思うのです。犬が見たら、時計は見えません。犬は緑にしか見えないらしいのです。犬の目は時計を分別できないのです。「犬も自分と同じ世界を見ているのかな?」と思うと、全然違うのです。
犬の嗅覚は人間の3千倍あります。ガラスに指紋がついただけでその人間の匂いをかぎ分けることができるのです。犬の目で遠くは見えません。だいたい50〜60メートルくらいしか見えません。ハッキリ見えるのは、10メートルの範囲です。人間とは全然違う世界です。
もっとわかりやすい例では、ここにゴキブリがいたとします。ゴキブリも生きています。何を見ているのかというと、人間と全然違う世界を見ているのです。人間のように見えていないのです。人間の足を見て、「大きな岩が動いている」と思うのかもしれません。
見ている衆生ごとに世界が違うのです。見る人を離れて、「これが真実です」などというものがあるはずがありません。見る人の因果関係で世界が見えているのです。人ごとに見ているものが変わるわけではなくて、同じ風景を見ても違うように見えるのです。
では、「誰の見ている世界が真実なのですか?」というと、見ている世界は全て虚妄です。誰でも自分の妄想で世界を見ているのです。アインシュタインでもそうです。アインシュタインは、時空が入っているのだから、世界を見ても歪んだり、縮んだりして見ているのでしょう。そのように見えているのです。
数学者が見ると、この世界は数字だらけに見えるのです。交通事故で頭を打って死にかけた人が回復して、町を歩くと全て数式に見えてしまうのです。そのような人もいます。見ている世界は、「私が見ている世界」です。「世界は」というと、皆に共通する世界があるかのように思うのですが、共通する世界などありません。
全て「私の見ている世界」です。皆に共通する世界はありません。それぞれ見ている世界が違うのです。「皆に共通する世界」などありません。それは、錯覚です。このことをよく考えていくと、この世界は虚妄です。現実は、リアリティー(reality)です。現実の反対にあるのは、虚妄(Delusion)です。衆生は虚妄分別して、世界を見ているのです。
「仏教とは何ですか?」というと、虚妄を離れることです。実相とは何でしょうか? 世の中には虚妄しかないと言いますが、虚妄とは何でしょうか? 「これが実相だ」というものがあるのではないでしょうか? それはあります。これが難しいところです。
まず、自分の見ている世界は、虚妄と知りなさい。虚妄は一切分別する必要はありません。例え、自分が殺される時でも、それは夢なのです。そのように思えばよいのです。北朝鮮で銃殺刑にされても、虚妄です。何も恐ろしがることはありません。元々は虚妄ですから、死んで失うものなど何もありません。元々、虚妄の世界にいたのです。虚妄から、次の虚妄の世界に行くだけです。(76に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
是の人何に於いてか 而も解脱を得る
但虚妄を離るるを 名づけて解脱と為(な)す


★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(7)clip!


2021年09月08日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 74

966
※生きるためには、ご飯は必要です。それが度を超えて、「美味しいものが食べたい。ビフテキをたらふく食いたい」などとなったら、苦縛になってしまうのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 74

「諸苦を滅尽するを 第三の諦(たい)と名づく」(続き)
仏道修行とは拝みまくることではありません。貪欲との戦いです。御本尊を拝むということは、そのような意味でいうと少しは価値があります。御本尊に向かって「私はなぜあの人が好きだったのでしょうか? 悩みを解決してください。南無妙法蓮華経」とお題目を唱えていくうちに欲望の正体がわかる場合もあります。
正理会は、御本尊を拝まなくても、ちゃんとわかります。道理で考えて「私は間違った道を歩んできました。私はヤクザです。ヤクザなどいいはずがありません。人殺しをして、自分も殺されるかもしれません。何のためにやっているのでしょうか? 私は偉くなって、みんなを子分にしたかったのです。だから、ヤクザになったのです」と、わかるのです。
本音はそうなのです。人を支配するためにヤクザになったのです。それは、「如何にくだらないことなのか?」、ということがわからなければいけません。ヤクザになると、支配すると同時に自分の命を危険にさらすのです。或は、親分の命令に従って人殺しに行かなければいけない場合もあります。自分の子供もバカにされて、世間からもバカにされます。
「ヤクザなど、くだらないな。俺は平凡な道を歩めばよかったな」と思えば、執着を明らかにしたことになります。執着は、パチンと消えるのです。それを「第三の諦(たい)」と名付けるのです。
 「滅諦(めつたい)の為の故に 道を修行す」
 教えの中にも、正しい教えと、悪い教えがあります。低い教えもあれば、高い教えもあります。道諦(どうたい)とは、道を明らかにすることです。宗教家だからといって、良い人ばかりではありません。ほとんどの宗教家は詐欺師です。人々に正しい道を教えていません。
幸福の科学はキチガイになる教えです。統一教会は、朝鮮奴隷宗教です。創価学会も朝鮮奴隷宗教です。そのような道を説いているのです。道を明らかにすることを道諦(どうたい)といいます。何でもかんでも「宗教は同じだ」と思って、新興宗教を信じると、信じた結果は全く違います。とんでもないことになるのです。
道諦をわかるためには、道を修行するのです。道とは、道理です。道理を明らかにしていけば、苦諦は消えるのです。
本当の道理を求めて道を修行するのです。仏が決めた道があります。「このような修行をしなさい。道を踏み外すと地獄界ですよ」と教えられて、正しい道を進むのです。このことが「道を修行す」ということです。
 「諸の苦縛を離るるを 解脱を得と名づく」
 諸々の苦縛を離れて、解脱を得ると名付ける。解脱して悟りを得るのです。そんな難しいことではありません。人間はご飯を食べます。何のためにご飯を食べるのでしょうか? 生きるためには、ご飯は必要です。それが度を超えて、「美味しいものが食べたい。ビフテキをたらふく食いたい」などとなったら、苦縛になってしまうのです。
諸々の苦縛を離れなければいけません。このようなことは苦になるのです。「美味しいものを食べたいけれども今は食べられないから苦しい」「良い着物を着たいけれども、お金がなくて着れないから苦しい」「自分の姿を鏡で見ると、私はもう少し身長が欲しい」ということが苦になるのです。人間は無いものを求めるのです。苦の人生です。
苦に堕ちた姿が、シーメールです。本来、男は女を求めるのです。それが男同士で女の格好をして、レズだか、ホモだか知りませんが、そうなると異常行動です。シーメールとは、男が女の格好をするのです。女の格好をしてSEXをするのです。
両方共に男性性器がついていて、女の格好をするのです。これも狂っているのです。そうなってしまうのです。刺激を求めて、欲望を求めていくと、女では物足りなくなってしまうのです。すると今度は、ホモをやるのです。ホモでは、刺激が足りませんから、お互いに女同士の格好をするのです。すると、どこまででもエスカレートするのです。
その上はサドマソ、麻薬などですから、欲望を求めると、何処まででもエスカレートしてしまうのです。
そのような人間が持っている塵沙惑の欲望を明らかにするのです。欲望を捨てるのではありません。食欲は、生きている以上は必ずあります。それは捨てないで、明らかにしていくことを解脱と名付けているのです。(75に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
諸苦を滅尽するを 第三の諦(たい)と名づく(続き)
滅諦(めつたい)の為の故に 道を修行す
諸の苦縛を離るるを 解脱を得と名づく



★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(10)clip!