2016年09月30日

人間の探究 607 即身成仏

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※戸田先生は牢獄の中を最高の「常寂光土にする!」と思って励まれたのです。そして法華経の無量義経を読み切られたのです。戸田先生は牢獄の中で悟ってしまったのです。

人間の探究 607 即身成仏

 「仏に成(な)る」ということは、初期仏教では「何回も生まれ変わって順次、仏になる」ということです。それがこの世で、この身が仏になったならば、即身成仏です。即身成仏の教えがなければ、この世で仏になれません。「気の遠くなるような長い間だから、何度も生まれ変わってから成仏できる」と教えてきたのです。
 本当の「即身成仏」とは、法華経の中にしかありません。実は「仏に成る」ということは、簡単なことではありません。歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)といいます。生まれて死んで・生まれて死んで、遠く昔から善根を少しずつ積んで、仏に成るという因縁がなくても、少しずつ善根を積んで、遠い未来に仏に成るというように考えていたのです。それが常識です。
 即身成仏の言葉の語源は法華経にあります。何を狂ったのか空海が「即身成仏」と言ったのです。「私は即身成仏した。私は座ったまま死ぬのだ」といい、これを入定といったのです。民衆は「空海様は仏に成った。ありがたや」と言ったのです。
 空海は、お堂にこもって「私は即身成仏するから誰も入ってはいけない。私に会いに来てはならない」と遺言をしてお堂の中で死んだのです。「即身成仏して空海はお堂の中で生きている」というのが、高野山の信仰です。
 今でもお堂に毎日食事を届ける専門の坊主がいるのです。「ここに空海は生きている」ということです。
 或は出羽三山の山形県のほうでは、「即身成仏とはミイラになって死ぬことだ」と考えられていました。この世でこの身このままで仏に成るのです。そのためには穴を掘ってその中に修行者が入ります。五穀立ちをして食べないで、だんだんエネルギーを減らしていくのです。
 最後は一口も食べなくなるのです。ミイラになるのは意外と簡単です。エネルギーを摂取しないのですから栄養失調になって骨だけになって死ぬのです。食べていないから体から脂肪分が抜けてしまうのです。それでミイラの出来上がりです。それを即身仏と言います。東北に行くとそのようなミイラの即身仏があちこちにあります。
 当時は眼病が流行ったりするとよい薬などありません。「私が即身仏になって、私が病気を治す」と考えて即身仏になった人が多いのです。そのような意味でいうとよい人です。「眼病で苦しんでいる人たちのために、私が即身成仏して救いたい」とう気持ちだけでも立派なものです。
 僕が小学生の頃、学校に即身仏のミイラの展示がやってきたことがあります。妙な気持ちで見ていた記憶があります。いずれにしても空海も、ミイラになったお坊さんも、間違いです。全くはきちがえていて、まったく仏教というものを理解していません。
 「この身このままで仏に成る」ということは、ミイラになったり、空海のように死んでも「生きている」ということと全然違います。
 本当の即身成仏について説いたのは法華経です。法華経の説いた問題は「生死即涅槃」「九界即仏界」「諸法実相」「生死不二」です。このような教えが法華経にあります。このことを要約すると、即身成仏そのものです。
 即身成仏とは、ミイラになるのではなくて、この身このままで自分の正体がわかり、そして仏に成ることです。それを即身成仏と言うならば、生きている間にしかできません。法華経の教えは、この身このままで仏に成るのです。
 即身成仏とは、煩悩即菩提です。「煩悩をなくして菩提を得ましょう」というのではありません。煩悩は悩みであり苦しみです。それをなくして、終いに仏に成るのです。そうではなく煩悩即菩提ですから、「煩悩のそのものの正体を突き詰めれば、それは即、仏に成るのだ」ということが、煩悩即菩提です。
 生死即涅槃もそうです。生まれることも苦しい、死ぬことも苦しい、その苦しみの中で我々は生きています。その生死以外に涅槃はありません。
 九界即仏界もそうです。地獄界からはじまって、菩薩界までの九界があります。九界が即仏界です。九界を離れて仏界があるわけではありません。九界そのものが仏界です。だから、九界の出方、有り方をよく底の底までわかったところが仏界です。九界と違うところに仏界があるわけではありません。
 まさにこの考え方が即身成仏の考え方です。人間の人生の目的は即身成仏することです。すると沼田君は笑うでしょう「即身成仏? ワッハッハ・・・」と笑うでしょう。それは、君がわかっていないから笑うのです。仏界といえども、九界といえども、同じところに住んでいるのです。
 九界の心が一転すると仏界になります。仏が住んでいる世界も我々が住んでいる世界も違うところではありません。今、ここに我々が生きている世界を「娑婆世界」と言いますが、娑婆世界には様々な人がいて、九界の人間がいます。
 地獄界という土地があるわけではありません。畜生界という土地があるわけではありません。そこに衆生が住んでいて、畜生の心を生ずるならば、その人間がいる所や土地は畜生界です。それを三変土田(さんぺんどでん)といいます。
 人間が変われば世界が変わります。今までやることが何もなくて、ボーとしていた人間が「そうだ! 仏を目指して進もう。ガティーガティーパーラサンガティーボディースバーハー」と言った瞬間に、同じところにいるのですが世界が仏界に変わるのです。それが三変土田の原理です。
 成仏ということは、行くのではありません。阿弥陀経では「往生する」と言います。「往生」とは、行くということです。「この世界は穢土であるから、阿弥陀様にお願いして浄土に生まれるようにする」ということですから、この世の後の話です。西方に極楽浄土があり、そこに生まれるのが信仰の目的です。そう思って阿弥陀様におすがりするのが浄土教です。
 法華経はそうではありません。西方極楽浄土など存在しません。今、貴方が住んでいる所が心を変えれば仏国土になるのです。みかん箱1個を机にして、3畳間で何もなく貧乏な人がいたとして、ボーとしていれば地獄です。
 しかし発心して、「勉強に最適な環境だ。テレビもない、ラジオもない、何もない。これは俺にとって最高の道場になる!」と考えたら、3畳間が仏国土になります。戸田先生は牢獄の中を最高の「常寂光土にする!」と思って励まれたのです。そして法華経の無量義経を読み切られたのです。戸田先生は牢獄の中で悟ってしまったのです。
 どんな環境でも、どんな貧乏でも、その人がやる気になればどうにでも変わるのです。そのように考えたら3畳間一間も仏国土になるのに、3畳間が2間もあったら贅沢極まるのです。それも忘れて不平不満が心の中につもってしまうと、すべて地獄に見えてしまうのです。
 そう思っているとその心にふさわしい地獄の霊がフーとその人の中に入ってきてしまうのです。それを追い出すためには自分の心が力強い仏界に満ちていかないと、いったん入った霊は出ていきません。
 霊が憑りついた人は、人の2倍食べます。本当にそうなのです。急にお腹が空いたから、2倍食べるのです。食べても太りません。霊が食べてしまうのです。食べても太らない人が自分の身の周りにいたら疑ってみる必要があります。
 本当に自分の心を入れて、「南無妙法蓮華経」と唱えるならば、瞬間にガラリと世界が変わります。三変土田の原理です。土も変わってしまうのです。仏様がいて触る土と、悪人が触る土は意味が違います。触る土は同じです。
 仏様にとっては仏国土の土です。悪人にとっては地獄の土です。同じ土であり、土に変わりはありませんが、心に変わりがあるのです。それをわかる人間になっていくことが、仏道修行です。「どのように歩んでいけばよいのか」ということを仏様が教えてくださっているのです。「秘すべし、秘すべし」などということは全くありません。「秘すべし、秘すべし」とは、「教えてはいけない」ということです。「これは秘密にしておくから」など、仏教ではありません。
即身成仏の在り方もよく考えてください。この身で仏に成るのです。「私は仏に成った」と言っても別に不思議はないのです。
 仏に成れないような、永遠に奴隷に成るような、修行をすればするほど仏の反対の方向へ行く修行は仏道修行ではありません。仏と自分の間には、僧侶と呼ばれる者がたくさんいて、「とてもではないけれど、これでは仏には成れない」と思うならば、即身成仏はできません。
 この身このままで九界即仏界、生死即涅槃、諸法実相とわかって即身成仏です。

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2016年09月29日

人間の探究 606 信仰に功徳を求めるな!

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※成田山にしても効能書きがすごいのです。「家庭円満、夫婦円満、商売繁盛、恋愛成就、金運将来」と流れるように御利益が書いてあります。

人間の探究 606 信仰に功徳を求めるな!

 信仰するということは、普通の人は「何かよいことが自分の身におきる」と考えて、御利益を授かるつもりで宗教に入るのです。
 そこに詐欺師がいて「この御本尊を拝めば、或は仏像を拝めば、貴方の祈りはかないます。病気は治ります。悩み事もなくなります。仕事もうまくいきます。大成功することができます」と言うのです。
 「貴方が不幸なのは、この御本尊を拝まなかったからです」と言われるのです。だい多数の人に「貴方は不幸ですね」と言うと「そうです」と思うのです。どんなに幸福そうなことを言っても内面ではやはり、「俺は不幸なことがあったかな」と思っているのです。
 「貴方は不幸だったでしょう」と言われて、「その原因はこの御本尊を拝まないからです」と言われると「そうかな」と思ってしまうのです。このやり口は、文鮮明のやり口に似ているのです。
 統一教会は「日本の歴史は立派だ。日本の歴史は素晴らしい」とまず褒めます。日本は神の国ですから天皇陛下もおられます。これが安倍さんの言う「美しい国日本」の原型です。
 統一教会は「日本はすごい国です。しかし、歴代の天皇を調べてごらんなさい」と言います。白羽の矢が当たったのが、竹田恒泰さんです。統一教会のからみで、竹田恒泰さんは3年間鎌倉で天皇の歴史を徹底的に勉強させられたのです。竹田恒泰さんの腹の中では「ずいぶん悲惨で可哀想な天皇が多いのだな」と思っているのです。
そこで統一教会は次の手がきます。「なぜ日本は神の国なのに天皇陛下は幸せではないのですか? それは簡単です。天皇は真の神を知らないからです。天皇が真の神を拝むならば、神通力がまして日本の国も治まってくるのです」と言うのです。
 竹田恒泰さんは3年間も天皇の研究をしたのですから、おそらく内心はそう思っています。竹田恒泰さんは「文鮮明を拝んでいる」とは言いませんが、統一教会は戦略的に近づいてきたのです。もちろん、信者にはなっていないと思います。
 それと同じことです。「貴方の人生は不幸だったでしょう。この御本尊を拝まないからです」、そのように言われると、言われた人は判断ができません。「この御本尊」を拝んだ道はまだ歩んでいません。自分の人生は歩んできたから、自分の人生はわかります。「この御本尊」を拝む人生はまだ経験していないから、考えて選択肢を「こちらに斬り変えましょう」と思って、沼田君のように信仰を切り替えてしまうのです。
 それが功徳ということです。「功徳があります。御利益があります。悩み事が解決します。お金が儲かります」と言うのです。成田山にしても効能書きがすごいのです。「家庭円満、夫婦円満、商売繁盛、恋愛成就、金運将来」と流れるように御利益が書いてあります。それにひっかかってしまうのです。ひっかかるということは、自分に欲があり求めているからひっかかるのです。
 自慢ではありませんが、僕は伊勢神宮へ参拝に行きますが、自分の願い事をしたことなど一度もありません。では、何のつもりで伊勢神宮へ行くのかというと、理由は簡単です。伊勢神宮へ参拝に行くのは、建国の神だからです。
 天照大神から天皇が生まれたのです。伊勢神宮は日本人にとって聖地です。天照大神の子孫が天皇です。天皇陛下がおられるおかげで、我々は今日も安穏です。伊勢神宮に「有難うございます」とお礼を申し上げに行くのです。神様が創られた国ですから、お礼に行くのです。だから伊勢神宮の参拝を「おかげ参り」といいます。
 伊勢神宮は「合格祈願だ」「病気が治りますように」「恋愛成就」などと御利益を求めるところではありません。すごい数の人が伊勢神宮へ参拝に来て、何を祈るか知りませんが、僕は御利益など求めて行っていません。
 靖国神社もそうです。靖国神社へ御利益を求めに行く人がいるのでしょうか? 靖国神社に御利益を求めて行く人はいません。
 ところが新興宗教の創価学会、統一教会、立正佼成会へ行く連中は、暗示をかけられて頭が狂ってしまい、御利益でつられて入ってしまうのです。
 日蓮正宗法華講員の沼田君もそうです。創価学会の信仰をやっていて貧乏になりました。破産して自殺寸前まで行って、日蓮正宗法華講員の樋田昌志君に「君ね、創価学会の御本尊を拝んでいたからそうなったのだよ。こっちの御本尊を拝めば、危機を脱却できます」と言われて、創価学会の信仰から日蓮正宗の信仰へ信仰を切り替わったのです。コース変更になったのです。そんなことではダメなのです。また同じことになるのです。だから沼田君は絶対に貧乏から脱却できません。
 こっちの本尊から、あっちの本尊に拝みかえたからといって、幸せになったりするはずがないのです。だから「御利益を求めるな!」と言っているのです。
 「病気になったらどうするのですか?」と聞かれたら答えは「病気になったら病院に行きなさい」です。簡単なことです。貧乏になったら働き方が悪いのです。よく研究して考えてみなさい。今までと同じことをやっていてお金が儲かるわけがないのです。どうして儲からないのかというと、儲からないことをやっているから儲からないのです。
 そのように自分の考え方を変えて行動していくならば仕事もよくなります。自分にできることである程度の生活レベルは実現できます。
 「夫婦円満ではない」という場合は、奥さんを大事にしているのでしょうか。奥さんを大事にしていないで、御本尊を拝んでもダメなのです。このようなことをやっていたら、どう考えても人生は失敗します。僕にはすぐにわかるのです。
病気になったら病院へ行くのです。世の中には様々な健康法があります。それをやればよいのです。当たり前のことなのです。人間の生活の事は、努力して解決していくものです。
 生まれながらに不治の病の人もいますが、それは宿命ですから仕方ないのです。この意味がわかりますか? もし、不治の病で動けない人がいて、「お可哀想」と言うならば、動物に生まれた生命はもっとお可哀想です。豚に生まれたり、犬に生まれるのは、前世の因縁です。
 「医者でも治らない」という人を治してあげる必要はないのです。その人なりに頑張ればいいのです。それは犬に生まれたり、豚に生まれたりすることと同じことですから、豚が「お可哀想に」という人はいません。犬に「お可哀想に」という人もいません。それぞれの宿命ですから、「頑張りなさい」と言えばよいのです。自分なりに頑張ればよいのです。
 奇跡が起きたりすることは、あまり望まないほうがよいでしょう。奇跡が起きる場合もありますが、奇跡を求めて宗教に入ってはいけません。宗教に入るということは、「人としての道をどのように歩んだらよいのか?」ということがわからなければダメです。
 これは、土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』でやっていますが、このくらいの最低限度のことはわかっていくようにして、自分の心に中に何本の柱が建っているのか数えていくのです。
 例えば、天台大師の「病気の原因」があります。天台大師を勉強する場合は、まずここからしっかりと学ばなくてはいけません。病気には六つの原因があります。
第一は、「四大(しだい)順ならざる故に病む」。四大とは、春夏秋冬です。これが順調にいかないで、夏が異様に寒かったり、冬が長かったり、順調の四季がめぐってこない場合に、人間は体に不調をきたして病気になります。
 第二は、「飲食(おんじき)節ならざる故に病む」。飲食とは、飲んだり食ったりすることで、無茶苦茶に飲んだり食ったりして暴飲暴食をしていれば、誰だって病気になります。
 第三は、「坐禅(ざぜん)調わざる故に病む」。これは、日常生活の不節制により病気になることです。
 第四は、「鬼(き)便(たよ)りを得る」。 鬼とは、今でいうと細菌・ウイルスです。普通の生活をしていても、いきなり流行病になることもあります。それは、その人に鬼というものが便りをくれるのです。
 第五は、「魔の所為(しょい)」である。これは、精神的なストレスから病気になることです。
 第六は、「業の起るが故に病む」。業とは過去世の因縁です。いきなり病気になったり業病になったりする人もいます。
心を整えて、食べ物を規則正しく食べて、気候からちゃんと体をカバーしていけば、病気は治ります。それでも伝染病にかかった場合、それは西洋医学で治るのです。それ以外、何を求めるのでしょう。
「私の馬鹿を治してください」と言っても、馬鹿なのですから無理なのです。馬鹿は利口にはなりませんが、筋道を教えるとちゃんと立派になる人もいます。このような筋道を勉強していけばよいのです。
宗教とはそれを教えるものであり、人の道を教えていくのです。人の道から仏の道になるのです。或は人の道から神の道になるのです。これが神人合一という、日本人の考え方です。神に帰るのです。人間は神から生まれたのですから、神に帰るのです。簡単なことです。それをちゃんとわかっていくことが立派な人間に成(な)るということです。宗教に奇跡や御利益を求めてはダメです。

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2016年09月28日

人間の探究 605 お遍路さんの賽銭ドロボウ

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※その有名なお遍路さんのお寺で最近、賽銭ドロボウが流行っているのです。賽銭のお金がなくなってしまうのです。1万円札とか、結構な金額のお賽銭が、お賽銭箱に入っているのです。

人間の探究 605 お遍路さんの賽銭ドロボウ

 有名なお遍路さんは四国88個所のお寺を巡ります。剣山を中心にあの周りを歩く修行の一種で、お遍路さんは有名です。すべて弘法大師のゆかりの寺だと言われています。
 そのお寺は各々秘仏を持っており、秘仏は公開しないというところが特徴です。今まですべての秘仏を集めた展覧会は一度もありません。すべてのお寺が集まって秘仏展をやろうとしたのですが、「俺の寺の秘仏を簡単に見せるわけにはいかないよ!」と反対する寺があり、うまくいきませんでした。
 そこにある男が四国へ出かけて行き、企んだのです。「お遍路さんのお寺の秘仏をすべて写真に撮ってしまおう。その写真で本尊の展示会をやろう。お遍路さにはそうとうな人数が集まるのですから、『秘仏写真展』は大当たりするのに違いない」と考えたのです。
 この男の女房が元ホステスで、お口が上手いのです。夫婦そろってお寺に行き、奥さんがお寺の住職のひざに触るのです。それで住職がデレデレになったところで「御開帳をさせてください」と住職に迫って、まず自分が御開帳して住職にサービスします。こうなれば坊主など弱いものでイチコロです。秘仏の写真をパチッと撮ってしまうのです。同じ手口で88個所すべてのお寺の写真を撮ってしまったのです。
 それからNHKブックで発売したのです。お遍路さんのお寺の写真をすべて撮った人などいません。それが裁判沙汰になり、坊主を巻き込む大騒動となり、どちらが勝ったかは知りませんが、そんなことはどうでもよいことです。
 アイデアと言えばアイデアですが、秘仏など写真に撮られて坊さんは困ってしまったのです。しかも、本に出されて展示会までやったのです。今でもやっているかもしれません。「この秘仏の写真を見れば、お遍路さんを周る必要はない。クルッと一部屋周れば功徳は同じだ」と考えて展示会をやった面白い男がいました。
 その有名なお遍路さんのお寺で最近、賽銭ドロボウが流行っているのです。賽銭のお金がなくなってしまうのです。1万円札とか、結構な金額のお賽銭が、お賽銭箱に入っているのです。景気がいいですね。普通ならば、100円か500円ですが、1万円札をお賽銭箱に入れる人がいるのです。
 それをドロボウが知ってドロボウが入るとお賽銭が消えてしまうのです。お寺も「困ったな」と思ったのです。まさか、「お賽銭がドロボウされています」と訴えるのもおかしな話です。
 賽銭箱に入ったお金は一体、誰のものなのでしょう。お寺の物なのでしょうか? 使う権利は誰にあるのでしょうか? そんなややこしい問題になります。「お前はその寺の管長かもしれないけれども、お前がお金を使う権利があるのか?」ということです。
 お賽銭を盗みに来る奴は貧乏で困ってやるのですから、それも仏様の慈悲ではないかと考えると、お寺の坊主が賽銭ドロボウを警察に訴えるのはおかしいのです。そこで一計を案じてお寺は監視カメラをつけたのです。
 「誰がやっているのか?」と監視カメラの映像を見ると、誰かやって来たのです。竹のような棒の先にガムテープがついているのです。それをお賽銭箱に突っ込んでいたのです。お賽銭箱の入れ口は小さいので、その隙間に竹の棒を突っ込んで、ガムテープに1万冊をピタリと貼り付けて1本釣りです。みな同じ手口でやられていたのです。
 防犯カメラをつけて犯人を捕まえたのはよいけれど、警察に突き出すということはしなかったのです。やはりさすがに坊さんです。見張っていて犯人を捕まえたのです。同じ人間が何回も賽銭ドロボウに来ていたのです。「貴方、カメラに撮られていますよ。ドロボウはよくないことです」と説法すると、犯人は「すみませんでした」と言うのです。
 でもそこで「お賽銭は人々を救うためにあるのですから、お金に困った人がお賽銭をもらいに行っても別によいのではないか」と僕は思います。お賽銭はお寺のものではありません。
 だいたいにおいて思想とか仏教は形がありません。形がないと見えないから、仏教は形を造ろうとするのです。それがストゥーパの話です。お釈迦様は「私が死んだら私の骨を供養してはいけない」と言われました。
それにも関わらず、仏教とは目に見えないものだから、「それには物が必要だ」と考えて、仏舎利を供養する塔(ストゥーパ)をつくったのです。それを「私の寺がもっているぞ」と言い出したのです。
 全国に象1トンくらいの仏舎利があるのです。その一つのお寺にある仏舎利は爪の先くらいの量です。1センチもあれば仏舎利としては上等です。お釈迦様の骨かもわからない仏舎利が増えて象1トン分くらいはあるらしいのです。
 仏教側は目に見えない仏教を形に残そうとしたのです。それが仏像です。昔は字も読めませんから、絵で現したのです。閻魔大王の絵、地獄絵図などがあります。極卒が罪人をぶちのめすと骨になり、その罪人がまた生き返ってくるのです。それをまた極卒がぶちのめすという話は念仏宗の坊主が描いた絵です。実によくできているのです。地獄を絵で見せるのです。紅蓮地獄の絵や、氷の中で死んでいる絵、針の山、血の海など、絵に描いてみせると、一発で頭の中に入ってしまいます。
 「うわー、恐ろしいな」と思います。「信心がないと、あんなところへ行くんだよ」と坊主に言われて目に見える形にすると地獄絵図が一発で頭に入ってしまいます。「では、どうしたら地獄へ行かなくていいでしょうか」と聞くと、坊主は「それにはこうしなさい」と言うのです。地獄絵図はよくできていると言われています。一度見たら恐ろしくて忘れられません。
 長野の善光寺にも地獄絵図があるらしいのです。お堂があって、お堂の下に地下室があり、地下室が地獄絵図になっているのです。それをずっと周って出てくると怖いのです。一度見たら忘れません。普通の人なら「あんなところへは行きたくない」と思うでしょう。反対側には阿弥陀仏と西方極楽浄土の図があるのです。
 四国の88個所巡りも目に見えない仏教を形にしたのです。「このお寺を周ればよいのだ」と言われると、庶民は真面目だから、きちんと88個所を周って歩くのです。菅直人元総理も四国88個所巡りをやっています。
 四国88個所お遍路さんめぐりにくっついて、賽銭ドロボウが発生したというのが面白いところです。これも仏様の智恵なのでしょうか。何しろ仏法は目に見えません。それを目に見える形にします。最初は軽い気持ちだったのがが、目に見える形にした方を人間は「本物だ」と思ってしまうのです。
 大石寺の問題もそうです。日蓮大聖人様の仏法は目に見えないものです。それを目に見える形にしたのが、大石寺です。板にしたほうが目に見えます。しかし、それはよい面と悪い面があります。それを十分知った上で板本尊を拝むならよいのですが、反対に板本尊の虜になってしまい、板本尊に憑依されてしまったらダメなのです。
 日蓮正宗の信者は板本尊が憑依してしまい、朝から晩まで板の周りをウロウロします。そのようになってしまったら日常の普通の生活はもうできません。信仰の形態をよく見てください。四国のお遍路さんなどする必要などあるのでしょうか? 88個所回ると御利益があるのでしょうか。そんなものはありませんが、民衆の側に「御利益が得たい」という欲があるのです。
 お賽銭もそうです。御利益が欲しいからお賽銭を出すのです。何の御利益もありませんから詐欺です。それをまたドロボウに行く人もまた立派なものです。お賽銭と仏教の関係、宗教との関係、仏教と芸術の関係をよくわかることが大事です。
仏教に芸術家が入ると仏像になってしまいます。国法になっている仏像が日本にはたくさんあります。不動明王像や、愛染明王像、大日如来像など、「国の宝だ」と言っているのです。
 仏像も目に見えないものを目に見える形にしたものです。像を通して目に見えないものをわかっていくという考えであれば、仏像を見てもかまいませんが拝む必要など全くありません。芸術は拝むものではなく見るものです。そのようなことを考えていきましょう。

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2016年09月27日

人間の探究 604 日蓮正宗の信者へ

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※我が国の神道は2800年の歴史があり、縄文時代の神道を入れるならば、1万年以上の歴史があります。

人間の探究 604 日蓮正宗の信者へ

 ここのところ日蓮正宗の信者に懇切丁寧に教えているのですが、いくら教えても彼らはわかりません。正しいことを教えているのに創価学会の連中もわかりません。
 ともかく両方に共通していることは神道を嫌うということです。「神道が戦争を起こした」「神道は低級な教えである。こんな低級な教えは日蓮大聖人の仏法にかなうはずがない」という考え方です。
 どうして神道がよいのか、内外相対論で言うと神道は外道にあたります。神道は「人間がどこから生まれてきたのか?」ということを説きます。仏教ではそのことは説きません。
 内外相対とは、外道の正体を教えているのです。内道は生命の正体を追ったものです。どちらがよいのかという二元論で考えるのではなく、神道は真に立派なもので仏教徒などと全く立場が違います。我が国の神道は2800年の歴史があり、縄文時代の神道を入れるならば、1万年以上の歴史があります。
創価学会は科学と仏法を比較して池田大作の名前で本を出したことがありますが、そんなことは意味がありません。
 仏教が探求するものは「心」であって、科学が探求するものは第三世界です。「第三世界を探求するからいけない」「内道を探求するからいけない」といる理論は成り立ちません。内道も大事です。「科学とはこのようなものだ」という本質を極めていかなければいけません。科学がわかったならば、極めて有効な学問です。
 今、我々の生活の中で使われている電気・水道・ガス・車、すべて外道が造り上げてきたものです。車を最初に造ったのは日本ではありません。物理学もそうです。原型は西洋にあります。西洋人はコロンブスにように船に乗り3年間も4年も船に乗り島々を調査するなど、非常に勇敢です。
 その勇敢さはどこから出てくるのかというと、キリスト教から出てくるのです。或はユダヤ教です。そのような論争からいうと、「ユダヤ教が悪い」「キリスト教が悪い」ということは意味がありません。
 我々はその恩恵にたっぷりと浸っているのです。沼田君は電気の無い生活が考えられるでしょうか。現代の食べ物は美味しいのです。冷蔵庫の無い生活が考えられるでしょうか。クーラーがない生活も考えられません。皆、西洋人が発明して、外道圏の成果を取り入れることにより、我々は豊かな生活ができるのです。
 内道が「優れている」と言っても、内道をいくら探求して冷蔵庫はできません。内道と外道を明らかにしていくことが、内外相対論です。何故、そのように思わないのでしょうか。科学とは外道見です。主にユダヤ人が中心となり研究されてきたものが科学です。科学とは、神がこの世界を創った筋道を探求する学問です。
 アインシュタインは「神がこの世界をどのようにして創ってきたのか、その道筋を知りたい。それが私の信仰です。それにはどのような力があるのか?」と考えて、「電磁場方程式と引力を合算して1本の方程式に必ずまとまる」と考えたのが統一場理論です。
 内道は仏教だけの話です。科学は良い面もあれば、悪い面もあります。悪い面で言ったら、人類は遂に水爆をつくってしまいました。神の創造の筋道を追っていったら原爆ができてしまったのです。そういうことです。それに対して内道の仏教は何も物を生んでいません。
 日蓮大聖人様の仏教を信じて何かを発見した人がいるでしょうか。基本的にはいません。日蓮正宗のように黙ってお寺に座って他の団体を「邪教だ!」といい、寺男になっているのが沼田君です。実際は住み込んではいないでしょうが、同じことです。
 我々は科学的なことを認めながら、「仏教とは内道を探求するものだ」と理解しています。科学では仏教はわかりません。外道をいくら探求しても内道はわかりません。内道は内道の教えを受けなければわかりません。
 そのような意味でいうと日本の神道は外道にあたります。何故かというと、人間の生まれたルーツを神道は説いています。沼田君には必要ないのでしょうか。日蓮正宗法華講員は、返事を読んでもわかりますが、「人間がどこから生まれて、何に成っていくのか?」それが全くわかっていません。
沼田君は「先人がやってきたことを大事に思うことは間違いないけれども、先人を尊敬することは間違いだ」などとわけのわからない愚かなことを言っています。仏教以外の見方で言うと、人間はみな何かに成(な)っていくのです。
親は子を産み、また子供が親に成り子供を産んで、先祖はつながっているから、先祖と自分は一体です。これを分けて考えるところが仏教徒の悪いクセです。その神道の考えを盗んで取り入れて仏教では「先祖供養」をやっています。
 先祖と自分はつながっていて同じものなのです。何代前にいた人も、今の自分も同じ人なのです。同じものがつながっているのです。それは血液がつながっていなくてもよいのです。すべてつながっているのです。つながっているから先祖に対して誇りを持って尊敬するのは当たり前です。「先祖を尊敬してはいけない」など、日蓮正宗法華講員はなんという愚かなことを言うのでしょう。
 これは個人主義の最たるものです。仏教は必ず個人主義です。仏教は脱社会ですから、反社会になります。個人主義でいると「自分が利益を得たか」「損か特か」という発想になってしまうのです。何しろ仏罰を恐れて、「自分が特をするように」と考えているのです。そんな偏った考えではいけません。
 神道は国の成り立ち、世界の成り立ちから説いて、このバラバラな宇宙の中で一つの塊をつくり、人間の生きる目的を与える中心点が天皇です。天皇と我らは一体です。何故、それがわからないのでしょう。
 天皇と沼田君は一体です。でも、君は不幸な子供であって、「天皇なんか知らないよ!」「お父さんなんかいらないよ!」とういう放蕩息子です。天皇は本家、我々は分家です。「本家と分家はどちらが偉いのか」ということはありません。天皇には中心点としての役割があるだけで、天皇は1年間に200回以上の宮中行事を行っています。沼田君は知らないでしょう。儀式を行うたびに天皇に成っていくのです。大嘗祭から始まり。「私は日本民族の代表である。世界の中心である」という祈りをもって、天皇は1回ごとの儀式を通じてご自覚が変わっていかれるのです。
 天皇には「個人」のことなどありません。長谷川慶太郎さんが生前退位の件で「天皇もお疲れでしょう」と発言しましたが、庶民が天皇のお心をわかるわけがありません。すべて国民の為です。これが沼田君にわかるでしょうか。だから天皇には姓がありません。
 天皇には姓がないということは、日本国が自分だと思われているのです。沼田という姓があるということは「沼田という地方を耕しなさい」ということです。そこに分家をつくって名乗らせていったのです。源氏・平氏・藤原・橘、どんどん名字が増えていったのです。もとをただせば、一つになってしまうのです。
 組織には中心点がいります。人類の始まりから説いているのが神道です。神道は個人の成仏など説いていません。世界に冠たる縄文時代を通して、神道ができてきたのです。日本における仏教伝来は538年です。神道は2800年に歴史があります。
 仏教が日本に来たのは538年です。日本に伝来して仏教は約1500年しか経っていません。後からきて「神道が邪教だ」など、何をふざけたことを言っているのでしょう。「天皇はいらない」「神道は邪教だ」など、馬鹿なことを言う者ではありません。沼田君こそ邪教です。そのような狂った考えを改めなさい。

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2016年09月26日

人間の探究 603 『現代諸学と仏法』分別と無分別

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※龍樹(ナーガルジュナ)石像

人間の探究 603 『現代諸学と仏法』分別と無分別

 『現代諸学と仏法』の「はしがき」では、龍樹(ナーガルジュナ)の「分別は虚妄である」ということを、どのような意味かと言っているのです。竜樹は「あらゆる分別は虚妄なのだ」と言いました。
 龍樹に法論を申し込んできた人がいます。「貴方は何について法論したいのか?」と聞くと「これについて法論したい」と言うのです。龍樹は「そのことじたいが虚妄ではないか」と言うのです。
 我々が物を考えたり見ているものは、すべてが虚妄です。本当ではありません。この「分別が虚妄だ」というところが実体です。一般世間の人が「分別」と言っていることは、物を考えるということです。
 我々は「ここに山がある、木がある、国がある」と、様々な分別をします。自然界そのものに名前はありません。分別とは、人間が自然界を区切って名前をつけていくことです。動物には分別はありません。ボーと見ているだけで、「山がある、木がある、ご主人様がいる」という区別はありません。
 それでは困るので、人間が分別をして区切りをして「これは富士山である」「これは大山である」「これは河口湖である」と名前をつけて、勝手に地図を書いて、分別したのです。我々は分別の中に生きています。実際は分別などありませんので本当は無分別の世界に生きています。
 それでは不便だからあらゆる物に名前をつけて分別をしているのです。分別するとそこに物が生まれます。この物は自然界の物ではありません。自然界から切り取った物です。一つつなぎの世界を、A地点からB地点まで切り取って名前をつけたのです。「富士山」と名前を付けても、さらに山は細分化して分別していくのです。そんなものはすべて人間がつくったもので、自然界の姿ではありません。
 本当の自然界の姿に触れるためには、あらゆる分別を捨てないと到達できません。それが分別虚妄です。我々は、物を考えているようなことを言っているだけです。
 ところが計算するためには分別して、個々に様々な名前をつけて、演算操作をしていくのです。「Aの山とBの山はAの山の方が大きい」と結びつけます。或は、「富士山は大きくて大山は小さい」と大小に分類します。すると計算ができます。
 数学もそうです。1という数があります。本当はそんなものはありません。2という数があります。1と2を足せば3です。1とは何でしょう。分別して「これを1にする」ということです。これを2にするということです。
 言葉と言葉が掛け合わされて演算ができてきます。新しい推論ができてきます。そして物を考えます。自然界にないものを区切って名前をつけて人間は、様々なものを生み出してきました。現実的にはすごい物を作ってきたのです。
 この世界は分別がつくってきた世界です。すべて分別です。名前がないところには物は存在しません。潜水艦、ジェット機があり、ジェット機の中には戦闘機もあります。航空機もあります。「ジェット機と航空機はどちらが早いか?」ということが考えられます。ジェット機のほうが早いのです。これが分別です。そのように名前を付けないと万物を見ることができません。その世界の中で人間は生活をしているのです。虚妄の世界に生きているから何が何だかわからなくなってしまうのです。
 生まれてきて分別社会の中に生きて、死ぬとまた無分別の世界に帰っていくのです。動物は無分別の世界から生まれて、何も分別しません。言葉はありません。言葉がないということは、意思疎通もできません。動物は無分別のままで死んで、また無分別の世界に帰ります。人間だけが分別世界をつくっています。
 ところがそれを「真実だ」と思い込んでいるから、それが間違いです。それはこの間も言いましたがバーチャルリアリティーです。実際はそんなものはありません。よい例が、ゼロという数です。「宇宙にゼロはあるのか?」という命題に対してその答えは宇宙にゼロはありません。ゼロは見せられません。「ゼロの姿かたちを見せてください」と言っても、見せられないのです。
 でも、ゼロを分別して出しておくと、あらゆる計算ができます。便利なのです。ゼロとは不思議な数字ですが、宇宙には、ゼロも1も2も微分も積分も代数もありません。一生懸命宇宙を見て、「あそこに代数があった」などというように宇宙は見えません。概念操作をすることによって生まれてくる、新たな高等概念です。
 概念と概念を結び付けてさらにその奥にある、高等概念として、数学の問題は出てきます。一般の人にとっては何の関係もありません。しかし、それが恐ろしい勢いで現代科学をリードしているのです。数学がなければ1日たりとも現代文明は動きません。分別とは道具です。
 それは自然界にあるのではなく、人間が作り出した道具です。数学の話ですが、物理学にしても、人間が作り出した道具です。自然界にはありません。万有引力の法則も自然界にはありません。人間が作り出した概念です。
 電磁場方程式も概念です。自然界にそんなものがあるわけではありません。人間が作り出した概念です。作り出した概念ですから、その道具と道具を使って新しい物ができてくるのです。ちょうど、ノミを使って、彫刻するようなもので、人間は物事を理解するために道具を持ちます。
 まず、言語という道具です。それから数学、物理学など、そのような道具を持ってこの世界を作っていくのです。世界は構築物(Structure)です。人間が作った構築物が現代社会です。これは小説においても、宗教においても、芸術においても、みんなおなじです。
 芸術は特にそれが明解だから「作られたものである」といいます。作られたものだから面白いのです。映画もそうです。すべて虚構なのです。虚構を楽しむのです。
 その最たるものが、劇であり、映画であり、バーチャルリアリティーです。そのような分別は、もともとは無分別であり、そこに人間が名前を付けて様々な概念が生まれて分別社会が生まれてきたのです。本当の実相は分別社会からは出てきません。
いくらアインシュタインが頑張っても統一場理論はできません。統一場理論とは無分別です。無分別の理論は分別の理論を重ねていっても出てきません。Structure(構築物)だからです。
 本当の元のものは「元のまま」というのです。本来のものは作られたものではないのです。それを説いたものが仏教です。仏教は分別を説いたものではありません。仏教を理解しようと思ったら、分別の言語を消していかないとわかりません。だから仏教は引き算と言われるのです。
 貴方が今思っていることは本当でしょうか。弁証法にも似ているのです。「俺は国家について考える。国家はこれでよいのか!」と言われたら、「貴方は国家についてわかっているのでしょうか?」と質問すると、「国家という言葉を使ったけれども、国家とは何だかよくわからないな」と考えしまうのです。
 あいまいなままで「国家について考えてみなさい」と言い、「国家」という言葉を使っている人間が、実は国家という意味を理解していないのです。
 分別している言語をいくら見ても、元になる無分別の世界は出てきません。無量義経にいわく「無量義は一法より生じる」と言います。無量の義とは、言葉を持って人間が作った世界のことです。無量の世界はどこから出てくるのかというと、ただ一法から出てくるのです。
 一法とは無分別法です。無分別法は無量義です。どんどん細かくなってきます。動物の種類も何百万種類あります。植物も何百万種類あります。魚もどれだけ種類があるかわかりません。どんどん分別の言葉が増えていくのです。無量です。
 しかし、無量の義はただ一つ一法から出てくるのです。「無量義は一法より生じる」それが仏教の目的です。今日は仏教そのものに入るよりも、仏教と分別と無分別の関係をしっかり知らないと、本当の仏教なるものを理解することはできません。これが『現代諸学と仏法』のはしがき論の入り口です。

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2016年09月24日

土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』約束こそ命 一柱

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※ラフカディオ・ハーン小泉八雲

『日本人に打ち込む100本の柱』約束こそ命 一柱


 日本精神の一つに約束を守るということがあります。日露戦争とは、一九〇四年二月に開戦して、一九〇五年九月の十九ヶ月間、日本とロシアとの間で繰り広げられた大戦争です。かのナポレオンさえ敗退させた世界でも屈指の軍事大国のロシアに対し、小国日本が勝利するとは同盟国だったイギリスですら思わなかったはずです。このことは日本の歴史だけではなく、世界の歴史を転換させた一大事件でもありました。          
 日露戦争のとき日本は外国(ユダヤ)から莫大な借金をしましたが終了後全額を返してしまいました。お金を貸したユダヤの方が驚いてしまったのです。いままでユダヤから借金して全額返した国はひとつもなくこれに他国は驚きました。この約束を守るということが日本精神であり、日本人は約束を必ず守るのです。
 またラフカディオ・ハーン小泉八雲が英訳したことで知られる「雨月物語」とは江戸時代、上田秋成という人物によって書かれた小説集です。明和五年(一七六八年)には完成していたと言われており、その後幾度か推敲が重ねられ、安永五年(一七七六年)に刊行されたものですが、その中の「菊花の契」とある作品には、左門は母とふたり暮らしで清貧を好む儒学者でした。ある日友人の家に行くと、行きずりの武士が病気で伏せていました。丈部は彼を看病することになったのです。この武士は、赤穴宗右衛門という軍学者で、佐々木氏綱のいる近江国から、故郷出雲国での主、塩冶掃部介が尼子経久に討たれたことを聞いて、急ぎ帰るところだった、と、これまでの経緯を語りました。しばらく日がたって、宗右衛門は快復しました。この間、左門と宗右衛門は諸子百家のことなどを親しく語らい、友人の間柄となり、義兄弟のちぎりまで結んだ。五歳年上の宗右衛門が兄、左門が弟となった。宗右衛門は左門の母にも会い、その後も数日親しく過ごした。初夏になった。宗右衛門は故郷の様子を見に、出雲へ帰ることとなった。左門には、菊の節句(重陽の節句)に再会することを約した。ここから、題名の「菊花の約」がきている。
 さて、季節は秋へと移っていき、とうとう約束の九月九日となった。左門は朝から宗右衛門を迎えるため掃除や料理などの準備をし、母が諌めるのも聞かず、いまかいまかと待ち受けるばかり。外の道には、旅の人が幾人も通るが、宗右衛門はまだこない。夜も更け、左門があきらめて家にはいろうとしたとき、宗右衛門が影のようにやってきたのだった。左門に迎えられた宗右衛門だったが、酒やご馳走を嫌うなど不審な様子を見せる。わけをたずねられると、自分が幽霊である、と告白するのでした。宗右衛門は、塩冶を討った経久が自分のいとこの赤穴丹治をつかって監禁させたのです。そしてとうとう今日までになってしまった。宗右衛門は、「人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆく」ということばを思い出して、切腹し、幽霊となってここまでたどりついたのだ、と語った。そして、左門に別れをつげ、消えていったという。
 この話しは怖いですね、でも約束がいかに大事かをといている作品だとわかります。これほど約束は日本人にとって大事なものであり日本精神の一つです。

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2016年09月23日

人間の探究 602 馬鹿はお金持ちになれない

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※僕の土曜日特別講義の『日本人に打ち込む100本の柱』をよく読んでください。第一に人間が学ばなければいけないことは、「ウソをついてはいけない」ということです。

人間の探究 602 馬鹿はお金持ちになれない

 馬鹿は宗教に熱中して信者になります。軽い信者ならばまだよいのです。神様は皆、有難いことを説きます。「お参りしましょう」というくらいのものはよいのです。本当に熱中して、神様に憑りつかれて神様のお使いをして様々なことをやるようになるとダメです。
 これは前にも教えましたが、実業界で変な宗教に入った人間は、狂ったことを言うから相手にされません。だから宗教に入ってはいけないと言われているのです。実業家が宗教に入るとだいたい失敗するのです。
 戸田城聖先生は何回も事業に失敗しています。すべて成功してきたわけではなく、事業はすべて失敗してきたのです。まず、戦後、通信教育をやりました。それは失敗しました。通信教育を始めて、お金を先に振り込ませて後から教材を送ったのです。
 当時、ものすごいインフレで、もらったお金が紙クズになってしまい、後から送る教材費の方にお金大きくかかってしまったのです。これでは会社は潰れてしまいます。
 次に日本正学館という出版社を始めたのです。マンガもやっていましたので、読んだ人も大勢いると思います。それも失敗です。インフレの時代は原価がどんどん高くなってしまいます。昨日10円で買えた物が、今日は100円です。それでは、商売になりません。どんどん物価が上がってしまい、原料を買えなくなってしまい、本の印刷ができなくなってしまったのです。経営は難しいのです。
 戸田先生はそこから仏教の方向へ行き、実業家から仏教の指導者になり成功していったのです。仏教というものと、実業はリンクしていません。するわけがありません。何回も言いますが、仏教とは「出家の法」ですから、「社会で成功する法」ではありません。
 世の中を出て涅槃を求めるのが仏教です。それとお金が儲かるという実業が成功するということは、リンクしていません。
 ところが、貧乏人は救いを宗教に求めるのです。何故そうなるのかというと、馬鹿だからそうなるのです。物事の判断がついていません。「仏教とは出家の法であり、社会で成功する法ではない」ということは、有力な判断です。これは事実ですが、馬鹿はこれすら理解できません。欲で頭中が混同してしまっているのです。
 このようなことがピシッとわかっていれば「出世の法は別にあるのだな」とわかります。では、「出世する法とは何であるのか?」と考えてみれば、出世できるのです。生活がちゃんとできて、乞食になったり、倒産することはありません。
 「これを拝んだら自分の仕事が成功する」など、そんな考えで貧乏を脱却するために拝んでいたならば、まったく狂った考えです。何千万日拝んでも成功などしません。問題をすり替えているのです。成功する法ではないものを、「成功する法」と思って拝んでいるのですから、生活がよくなるわけがないのです。
 簡単なことです。特に今は貧乏で生活に困っている人が多いのです。どうして多いのかというと、それらは65歳以上の人です。年金ももらえない、生活保護も受けられない、収入もない、一人暮らしである。そのような人間が大勢います。
 若者は会社に勤めて仕事をして給料をもらっているので、生活に困ることはありません。65歳以上の人たちは仕事もありません。仕事を求めても得られません。生活保護も受けられません。何故、受けられないかというとマンションを持っていると生活保護は受けられません。昔、マンションを買って定年退職になり、マンションを持っています。「生活保護を受けたい」と言ってもダメです。
 本当に厳しい人は生活保護も受けられません。土地などもっている人はまだよいほうです。土地を持っている人に対しては「土地を売ればいいじゃないですか」と言われてしまいます。生活保護は受けられません。
 「何故、貧乏なのでしょうか?」、それは人間が馬鹿になってきたからです。年を取るにつれて人間は利口になっていかなければいけません。利口になるとは、自分の頭で物を考えて、「何が正しく何が間違っているのか」「やってよいこと、やってはいけないこと」そのような分別がきちんとついて、「人から信用されるためにはどうしたらよいのか?」と考えていかなければいけません。
 土曜日の特別講義でもやりますが、ウソをつきながら、詐欺をしながら、怠け者で、ちょっとお金が入ると競馬・競輪・パチンコに行ったりしていたら貧乏です。当たり前です。これは廃人の生活です。
 それは拝む前に直さなければいけないことです。「お前の生活態度はなんだ。女好きで、酒好きで、怠け者で、馬鹿でお金持ちになれると思っているのか?」人より働いた人がお金持ちになれるのです。人と同じ働きならば、人と生活レベルは同じです。「あの人は年収1千万円で私も年収1千万円だ」というならば、普通のレベルです。
 お金持ちは自分の働きで収入を5千万円、1億円にしていくからお金持ちになるのです。では、その差は何でしょう。それは努力、勉強、働くことです。
 人が楽しみにしている馬鹿なことはやらない、酒も飲みにいかない、海外旅行もいかないのです。それらはすべてお金を使うことです。お金持ちになりたければ、自分の生活態度を見て「俺はどのような道を歩んでいるのかな?」と反省していくのです。
 若いときに人を大事にしていなければ孤独になってしまいます。何故ならば信用されないからです。「あのジジイが来たら逃げろ。ウソつきで、たかりで、ドロボウだ」というジジイが来たら誰だって逃げます。みんな逃げれば自分は孤独になってしまいます。孤独になったのは、自分が悪いのです。
 そうならないために「どうすればよいのか」と考えていけばよいのです。それは簡単なことです。約束を守る、ウソをつかないことです。これが守れなければ致命傷です。
 「息子は東大を出た」「私の母親は東大出身だ」などウソばかりです。そんな一言のウソで、何も努力しないで人間は偉くなってしまうのです。「東大出身だ」と言うのは簡単です。中身は何もありません。
 このようなウソをつくと、人から排斥されます。「あいつはウソつきで馬鹿、あだ名はガスだ!」そんなことを言われたら、誰もその人と付き合ってはくれません。
 生活態度もそうです。不摂生、朝寝、場合によっては朝酒を飲んでいる奴もいます。暴飲暴食をして生活態度は滅茶苦茶です。それで健康になろうと思っても無理です。健康になれるようにしていないのです。
 そのようなことを反省もしないで、何を信仰して、どの教えを受けてもダメなのです。馬鹿を治さない限り、馬鹿はお金持ちにはなれません。馬鹿なるが故に幸せにもなれないのです。
 このようなことを晩強していくことが、人間にとって一番大事なことです。僕の土曜日特別講義の『日本人に打ち込む100本の柱』をよく読んでください。第一に人間が学ばなければいけないことは、「ウソをついてはいけない」ということです。『日本人に打ち込む100本の柱』をどのように考えていけばよいのか? これを読んで読みぬけば、変な宗教に入って拝まなくても皆さんの体も健康になり、お金持ちになり、みんなから好かれて、明るい生活ができるようになります。

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2016年09月22日

人間の探究 601 突然訪問した女の幽霊

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※憑依の話も前回しましたが、憑依とは不幽霊がさまよっているのです。普通は家族がお経をあげたりするので死んだ霊体はおさまります。誰も供養してくれない不幽霊を無縁仏といいます。

人間の探究 601 突然訪問した女の幽霊

僕が留守の自宅に、以前僕の企業に勤めていた女が訪ねてきました。僕がいないのに、僕の家に上がり込んでお茶菓子を食べたり、いろいろな話をして1時間半くらいいたらしいのです。
言うことは一つです。「自分はドイツ人と離婚した。3年前に死んでしまっているのですが、年金がもらえるから、その年金をもらうためにドイツへ行かなくてはならないけれど、そのお金がない。従ってそのお金を貸してくれないか」と僕の留守に、そのようなことを言っていたのです。
おかしな話です。その話は僕が15年前に聞いたことがある話です。全く同じ話です。もう一つ変なことがありました。
ある旅館に勤務している女の子が東京に来たのですが、どうも様子がおかしいのです。ソワソワしていて、昼間から眠っているし、やたらとご飯を食べます。痩せているのに、2人前はペロリと食べてしまいます。「おかしいな」と思っていたのです。
ある日、その女の子を泊めてあげたときに、目を丸くして「ウワァァァァーーー!」と、聞いたこともないスットンキョな恐怖に震えた声を出したのです。「なんだこの子は!」と思ったのです。
ところが訪ねてきた女は、その女の子と一緒に働いていたのです。そのオバサンは確か、癌になって辞めたのです。3年前に死んだということがわかったのです。「えっ、死んだ人間が訪ねてきた?」ということになります。まさに怪談です。
そのオバサンはその旅館がえらく気に入っていたのです。それで癌になって惜しんで辞めたのです。そのオバサンは生きていれば今は75歳ですが、すごい化粧をしてジーパンみたいなものをはいっていたというのです。その話をもう1回確認したのです。
すると「3年前に死んでいます」と言うのです。この話は何なのでしょう。その女の子は憑依されて怪獣のような声を出したのです。これは一体何なのでしょう。僕はハタと気が付いたのです。
その女の子は憑依されています。そのオバサンは仕事場に帰りたかったのです。そのオバサンは死んでしまっていて、霊がさまよっていて、ちょうど乗り移るいいのがいたのです。そこにスッと憑りついたのです。それから食欲が出てきて、K子ちゃんはバンバン食べるのです。人の2倍は必ず食べます。食べても食べても太りません。何故、食べても太らないかというと、霊をおんぶしているから霊が食べてしまうのです。
食べるうちの半分は霊が食べてしまうから、K子ちゃんは太らないのです。乗り移って憑依しているうちに「そうだ、会長の家に行ってお金を借りよう」と思ったのでしょう。その憑依した幽霊が人間の形をして僕の家にきたのです。
それもいきなりきたのです。連絡は何もありません。帰るときに、「住所はどちらですか?」と聞いたら、「それは言えないんです」と答えたらしいのです。それは言えるわけがありません。このオバサンの住所は霊界です。このようなことがあったのです。
憑依の話も前回しましたが、憑依とは不幽霊がさまよっているのです。普通は家族がお経をあげたりするので死んだ霊体はおさまります。誰も供養してくれない浮遊霊を無縁仏といいます。
すると自分が死んだことすらわかりません。「自分が死んだ」とわかるのは、誰かが認めるからわかるのです。坊さんが「●●さんは死にました。戒名はこれです」と言ってお経を唱えます。すると自分の死が見届けられたことになります。しかし、誰も死んだ人間を弔わないと死んだことがわからないのです。
硫黄島にさまよっている霊魂もそうです。弾を撃たれて死んでいるのですが、死んだ人間は「自分が死んだ」とは思いません。死んでも半分は自分が残っているのです。誰もお経も唱えてくれないし、骨も滑走路の下に何千体と埋まっているのです。米軍はひどいことをしたのです。日本兵の死体の上に滑走路をつくったのです。すると自分が死んだこともわかりません。
だから自衛隊の食堂に幽霊が出たり、隊列を組んで歩いたり、雨の日は出たり、そのような不幽霊が出たのです。硫黄島の幽霊話は青山繁晴さんが安倍総理に伝えて、安倍さんが謝罪に行ったのです。土下座して「本当に申し訳ない」と謝ったのです。それでも幽霊はおさまりません。安倍さんは聖職者ではありません。いくら謝ってもダメなのです。
それから、天皇陛下に硫黄島へきてもらったのです。天皇陛下が硫黄島を慰問すると、ピタリと幽霊が出なくなったのです。それから硫黄島では不可解な霊現象は出なくなりました。
「この人は死んだのだ」と生きている親族が認めてあげることです。何も関係のない人が言ってもダメなのです。天皇が認めてくれれば、死んだ人も最高にうれしのです。「国のために貴方は死んだのです。有難う」と言えば、「認めてくれた」と思い、霊が成仏します。
そのような不浄仏霊はたくさんいます。開かずの踏切で、人が電車にひかれて死ぬのは、不幽霊がいるからです。浮遊霊がサッと生きている人に憑りついて一緒の行動をして、道連れになって電車にひかれてしまうのです。
実は霊はどこからでも出てきます。家の中にもいるのです。昔から言われている座敷童子です。座敷童子は家の中にいる霊で見えません。家の隅っこにいて、人間の行動を見ているのです。
古い家を買って住むと病気になったりします。座敷童子が残っているのです。これは事実です。このようなことを馬鹿にしないほうがいいでしょう。

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2016年09月21日

人間の探究 600 現代諸学と仏法

現代諸学と仏法
※中杉博士が出版された『現代諸学と仏法』です。

人間の探究 600 現代諸学と仏法

 僕の先生は石田次男先生です。石田先生は戸田先生にもっとも信頼されて「俺の次は次男だ」と言われた先生です。戸田先生は石田先生に「次の会長はお前がやれ」と言われたのですが、石田先生は「できません。私はまだ悟っていません」と断ったのです。何度も戸田先生は言われたのですが、石田先生はそれを固辞したのです。石田先生は真面目だったのです。「自分は悟りというものがわかっていないから、できません」と断ったのです。それはその通りです。自分が「悟った!」と思わなければ指導などできません。
 「自分はまだ悟っていないな」とわかっていれば、会長などなれません。創価学会は、悟ってもいない池田大作が創価学会会長になったことが最大の問題点です。自分の地獄へ皆を引きずり込んでしまい、つまらない学会にしてしまったのです。
 池田大作は理事工作を行い創価学会の会長になってしまったのです。その前に石田先生を参議院に送りこんでしまったのです。参議院議員は当時、貴族院議員のようなものですから非常に身分が高かったのです。そこで、石田先生は出たくないけれども、公明政治連盟から出馬したのです。最高点での当選だったのですが、政界に出られて病気になってしまったのです。
 その頃、池田大作は勢力を広げてのさばっていたのです。その後、石田先生は病気になったので参議院議員を辞めたのです。石田先生は聖教新聞専務理事、池田大作は第三代会長になったのです。これは大事なことです。
 石田先生は、50歳くらいで悟ったのです。戸田先生は45歳くらいで悟ったのです。石田先生は根本から仏教を勉強しなおしたのです。そして、「50歳のときに悟りを得た」と言っていました。戸田先生は45歳、孔子は40歳で「天命を知る」と言いました。「私は50歳になって仏法がなんたるものかわかった」と言っていました。
 それを元にして「六師の義は正理なのでしょうか」という無料で配る小雑誌を作られたのです。そして『現代諸学と仏法』を発表されたのです。恐れながら僕がこの本は出版させていただきました。
 「六師の義は正理なのでしょうか」これについて石田先生は大変深いことを言われているので、少し解説してみたいと思います。
 日蓮大聖人様の仏教は内外相対論から入ります。内外相対論とは、「内道と外道を比べてみて、どちらが優れているのか?」という論です。仏法のことを内道といい、仏教以外の教えを外道といいます。
 この解釈を巡って様々な解釈がありますが、表面的な解釈ではなくて徹底的に追及されたのです。日蓮大聖人様の時代では、内外相対は当たり前だったのです。みんなが仏教を知っていて、内道という意味をわかっていて、いちいちそんなことを説明する必要がなかったのです。そして外道も少なかったのです。
 現在では、外道ばかりです。キリスト教20億人、イスラム教16億人、ヒンドゥー教9億人、共産党も外道の内です。日蓮大聖人様は外道については一言もふれていません。ただ単なる遠い昔のバラモン教を外道といい、「内道と外道はどう違うのか?」というところから入らないと仏教はわかりません。それを徹底的に考えられて内外相対論を深く極められて「わかった」と言われたのです。このような悟りもあるのです。
 「私は永久に悟りを得られません」などありません。もっと勉強していけば、これはわかるのです。誰も言っていないことです。
 この中で言われている石田先生の言葉は「外道というものは、アートマンを説いたものである。仏教というものは、アートマンは無いと言われたのです」。これが根本的な違いです。
 アートマンとは、「私」ということです。「私」をもっと細かく言うと、「霊魂」です。人間にはそれぞれ魂があり、豚にも犬にも魂があるのです。これに満ち満ちています。死んだ人は死んでもアートマンは残るのです。
 そしてまた生まれ変わるのです。アートマンは永遠です。永遠の奴隷も、永遠の王様も存在します。「私は王様に生まれてよかった」というアートマンを持っている人は楽しいけれども、奴隷で生まれた人はたまりません。死んでも奴隷です。実際にバラモン教はアートマンを説いてカースト制度の身分制度をつくってきたのです。未だにカースト制度は残っています。
 人々はそのような霊魂によって成り立っているのです。豚は豚、馬は馬、悪人は悪人という霊魂があり、永遠不滅の霊魂があるのです。一番偉いのはバラモン、次にクシャトリア、バイシャ、最下層の奴隷がスードラです。このように身分がハッキリとわかれているのです。これは神様が決めたことだから、「奴隷は奴隷として永遠に生きていくのだ」と教えられてきたのです。
 するとお釈迦様はそれに疑問をもったのです。何故、奴隷は永遠に奴隷なのでしょう。「これから脱却できる方法はないものか?」とお釈迦様は考えたのです。そして、菩提樹の木の下に座って、じっとこの問題を考えたのです。それまでバラモン教が進める難行苦行を散々修行してきたのですが少しも悟りを得ることができません。
 最後は心を安らかにして菩提樹の木の下に座り、明けの明星がキラリと輝いた瞬間に「すべてがわかった」のです。それを刹那成道といいます。刹那とは瞬間です。瞬間に悟ったのです。「何を悟ったのでしょうか?」これが仏教です。
 お釈迦様は「霊魂など存在しない」ということがわかったのです。これが悟りです。みんなは霊魂は存在すると思っています。「一切の現象は無我である」ということです。これを説いたのが仏教です。
 無我の教えとは霊魂が無いということです。これを聞いた民衆は「救われた」と思い、お釈迦様は大歓迎されたのです。「えっ、霊魂は無いのですか。私はまた奴隷にならなくてよいのですね」と聞かれると、お釈迦様は「すべてのものは無我なのだよ。宇宙のあらゆるもののどこにも我などというものはない。アートマンとは錯覚だ」と言われたのです。
 「では、私も自由になれますか?」と聞くとお釈迦様は「涅槃を得られればなれます」と言い、このような教えだったのです。そのことを石田先生は、しっかりとわかられていたのです。仏教は無我を説き、外道のバラモン教は我を説いたのです。
 世界の宗教をみると、すべてこのアートマンを前提にして説かれています。キリスト教、イスラム教、すべての外道は「アートマンは実在するのだ」と説かれています。だから外道と言うのです。「霊魂がある」という考え方を外道というのです。よいか悪いかではありません。そのような考え方を外道といいます。内道は無我から入らないと内道の教えを極めることはできません。
 石田先生はこの辺りを徹底的に勉強されていたのです。これがわからないと日蓮大聖人様の教えはわかりません。仏教と言ったところで、所詮はずっと続いているのです。今の創価学会のようなアートマンを認めて、「我をパンパンに張っていくのだ!」というのが、池田大作の教えです。だから、それはおかしいのです。創価学会の池田大作が言う「我をパンパンに張って宇宙に広めていく」という仏教はありません。これは池田大作が教学を知らない無智からくる話です。仏教は無我を説いています。
最初の教えは「この世に我はない」ということです。考えてみるがよいのです。あらゆるものは変化をしています。それなのに変化しないというものがあるとしたらおかしいのです。自分を見ても子供のときの自分と、今の自分と、未来の自分では明らかに違いがあります。
変わらないものを「我」といいますが、昨日も今日も明日もどんどん「我」は変わります。永遠に変わらない「我=アートマン」というものは無いのです。あらゆるものが変わることを諸行無常といいます。諸行無常であるが故にアートマンは存在しません。
諸行無常であるが故に諸法無我、あらゆる法に我は無いということです。我はありません。どうしたらよいのでしょう。真実を徹底的に極めつくしていくことを涅槃というのです。涅槃が真実であり、「我がある」と思う考え方は間違いなのです。
日蓮正宗の人達もよく考えなければいけません。ここから仏教は始まっているのです。外道は「我」を説き、仏教は「無我」を説いたのです。南無妙法蓮華経がそれに逆らって「我」を説いたり、「宇宙の我をパンパンに張って」という考え方はおかしいのです。
南無妙法蓮華経は、お釈迦様が悟られたことから一歩もはずれていないのです。このようなことをきちんと勉強していかなければ仏教はわかりません。これが中心になり、さらに本でまとめられたのが『現代諸学と仏法』です。これは難解な本です。生半可の教養では読めません。何故ならば、最新の学問の成果と仏教の奥底を比較して、「どちらがどう優れているのか?」ということを徹底的に追及された内外相対論の極意だからです。

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2016年09月20日

人間の探究 599 憑依(ひょうい)

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※「夜中の12時になると何者かが忍び寄ってきて、私の中に入ってくる。私はその声により原稿を書けるのだ」と言っていました。三島由紀夫は夜中の12時にならないと原稿が書けません。

人間の探究 599 憑依(ひょうい)

憑依とは字のごとく何者かが憑りついてくるということです。これは昔からあり、今もあり、未来もあります。
人間は霊体になると体がなくなってしまいます。動物もそうです。キツネが憑依するなど昔は深く信じられていたことです。キツネが人をだますのです。
昔の旅人は旅に出ると昼間は暑いので夜になってから山道を歩いていたのです。怖いから白い着物を着て歩いていたのです。幽霊のような恰好をして歩くのです。すると向こう側からも同じような格好をして歩くのです。お互いにバッタリ出くわすと「ヒェーーーー!」となるのです。
逃げていくとキレイな女がお茶屋をやっているのです。そのお茶屋でいっぷくして酒を一杯飲むと、どんどん飲ませてくれるのです。「気持ちがいいな」と言うと、「今夜泊まっていきませんか?」と言うので、旅人は泊まっていくことにしたのです。
すると翌日、本人は温泉に入っているつもりますが、そこを通った人が見ると裸の男が肥溜(こえだ)めに入って、葉っぱを頭の上に乗せて「いい湯だな〜♪」と歌っているのです。それも憑依の一種です。キツネが憑りついてしまったのです。キツネには通力があると言われています。
確かに動物には通力があると言われています。
犬の鼻の感覚は人間の3千倍です。人間にとってはちょっとの匂いでも犬にとっては強烈に匂うのです。警察犬はちょっとでも匂いが残っていると、クンクンクンと嗅いでその匂いをたどることがきるのです。犬の鼻は人間よりも優れています。
空を飛んでいるタカやトビは下の方で泳いでいる魚が見えるのです。それをめがけて急降下してくるのです。そんな能力は人間にはありません。千里眼もありません。豚は鼻がものすごく匂うらしいのです。トリフなどの匂いを嗅ぎ分けて必ず見つけてしまうのです。
動物は知能はありませんが、人間よりも優れた面を持っています。その能力に恐れたのです。「キツネは人間をだますのではないか」と昔から恐れられています。タヌキも人間をだますと言われています。
考えてみると、だまされた人は憑依されてしまったのです。夜道を歩いているとキツネがスーと自分の中に入ってしまい「コンコン!」と鳴きだしたりするのです。それはキツネに憑依されたということです。或はタヌキに憑依されてしまい、本当にそのように思い込んでしまうのです。
「私はキツネだ」と思ってしまうのです。昔、コンコン教という宗教がり、コンコン教に入信するとキツネ顔になり、目がつり上がってしまうのです。拝んでいるうちに「コーン、コーン!」とキツネの鳴き声を上げて飛び跳ねてバタッと倒れてしまうのです。
現代でもそのような現象はたくさんあります。ボーとした人間は、何も考えないでボーとしていると何かに憑依されてしまうのです。死んでしまった霊体は体がなくなってしまいます。そのまま次の生命に生まれ変われば次の体ができてきます。ところが死んでから、新しい生命に生まれ変わるまで7日間くらい時間があります。その間は霊体でいるのです。体がないのですが、霊体が存在するのです。そこで、ボーとした人間がいると霊体が人間に入ってしまうのです。
例えば船が沈んで死んだとか、そんな話があります。船が直角に立ってしまい船が沈んだのです。それで船頭がおぼれ死んでしまったという実話があります。その霊魂がいくところがないのです。それは苦悶の形相で死んだのです。霊魂が残っていると、「乗り移る体が欲しい」と思って体を探しているのです。
しっかりと意識を持っている人に霊体は乗り移れません。ボーとした人間の体にスーと霊体が入ってきてしまうのです。それが入ってくると、どうなるのかというとだんだん顔色が青くなってくるのです。
最初は憑依されたことに気が付きません。だんだん食べる量が増えてくるのです。今まで1日一食だった人が二食食べたり、最終的には倍くらい食べるのですが体は太りません。何故、太らないのかというと霊体が吸い取ってしまうのです。
霊が一緒にいるのですから、霊も一緒に食べているのです。だから食べても食べても太らないのです。ボーとしていると完全に体が乗っ取られてしまうのです。このような人間は現実にいるのです。
貴方の周りを見てごらんなさい。霊体が憑いている人がいます。リチャード・コシミズ氏もそうです。毎晩焼きとんなど食べていると、豚の霊に乗り移られてしまいます。顔もだんだん豚に似てきてしまうのです。モツとか、あんなものは人間の食べるものではありません。
馬が乗り移った人もいます。だから競馬に狂ってしまうのです。馬が乗り移ってしまうのです。或は、人形の霊が乗り移ってしまう場合もあります。人形は動けません。だから本当に可愛がってくれる人のところへ憑依してしまうのです。
あんまり、犬や猫も可愛がってはいけないのです。ほどほどにしないと霊が自分の中に入ってきてしまいます。人形も乗り移るのです。人形が乗り移るのではなく、人形の後ろにいる霊が人形を通して人間に乗り移ってくるのです。憑依現証は、そのように考えたほうがよいのです。
僕も憑依された人を何度も見てきました。まず、憑依されるものの中で一番多いのはキツネです。「コーン、コーン」と鳴き、キツネに憑依されると跳ねるのです。次に多い霊がヘビです。ヘビに憑依されてしまうと寝ながら、クニャクニャクニャと壁に向かって突進して、壁を這い上ろうとするのです。人間だから「ドタン!」と落ちてきます。憑依されてしまうと、それを何回も繰り返すのです。
三島由紀夫もそれを言っています。「夜中の12時になると何者かが忍び寄ってきて、私の中に入ってくる。私はその声により原稿を書けるのだ」と言っていました。三島由紀夫は夜中の12時にならないと原稿が書けません。
石原慎太郎は霊友会にいたので霊媒体質が強いのです。三島由紀夫先生の霊が出てきてしまい、石原慎太郎の前を三島由紀夫先生が歩いているのです。そうなってしまったのです。今は少しまともになりましたが、今度は豚の霊が入り欲張りになってしまいました。ある人いわく「石原金太郎」です。お金などある一定の量があればいいものを、「もらってももらっても、もっと欲しくなる」ということは、豚の霊が入ってしまったのです。食べても食べても食べたりない人もそうです。豚の霊が入ってしまったのです。池田大作ももちろんそうです。豚どころか猪八戒の霊体が乗り移っています。本人は霊体が入っているのもわかりません。
 金正恩は何者かの霊が入っています。恐ろしいことです。昔から憑依された人間が教祖になったのです。狂ったということです。風呂屋の親父が狂って始めた大山ねずの命神示教会もそうです。風呂の片づけが終わると番台に登り狂ったことを言いだしたのです。
 「わしゃ大山ねずの命神じゃ、下がりおれ!」完全に狂ったということです。天理教教祖の中山みきもそうです。新興宗教は憑依された人間がおこしたものです。立正佼成会の長沼妙佼は「ギャァァァァーーー!」と叫んでバタンと倒れるのです。わけのわからないことを言い、それを庭野日敬が翻訳するのです。「今、神様はこのように言われています。お金を本部に納めろと言われています」と言うのです。
昔はそれで信者をだませましたが、こんなことは催眠現象の一種です。憑依など、どうってことありませんが、人間は憑依されることがあるから気を付けなければいけません。貴方には何が憑依しているのでしょうか?

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