2016年06月01日

人間の探究 521 すべての宗教はトランスを利用する

振り子
※人間の中でも暗示にかかりやすい人、暗示にかかりにくい人がいますが、特にトランスに入った人は暗示にかかりやすくなるのです。

人間の探究 521 すべての宗教はトランスを利用する

 人間には特殊な心理現象があり、トランスといいます。トランスは言葉で言うと暗示にかかりやすいという意味です。
 人間の中でも暗示にかかりやすい人、暗示にかかりにくい人がいますが、特にトランスに入った人は暗示にかかりやすくなるのです。催眠療法、心理療法では、まずトランスに入ることを考えます。「この人をどのようにトランスに導くか」ということです。
 トランスに入れて催眠状態になると驚くべきことが起きてくるのです。それは痛みがなくなります。催眠に入った人に針を突き指すと「痛くない」と言い、血も出ません。これが不思議です。「腰が立てない」というと、腰が抜けて立てなくなるのです。何でも自由になってしまうのです。
 「貴方は今、胃が痛くないけれど、胃が痛くなる」と言うと、胃が痛くなってしまうのです。「頭が割れるように痛くなる」というと頭痛が起きてきます。反対に頭痛のある人をトランス状態に入れて、「頭痛が治る!」と言うと頭痛が治ってしまうのです。
 「貴方の胃の病気は治る」というと治ってしまうのです。腰が抜けた人に「立て!」と言うと立ってしまうのです。これがイエス・キリストがやった山上の教訓です。
病人がイエスの下に集まってきます。病人は「イエス様、お救いください」と言うと、「この中で足が立てない者はおるか?」と言うと「はい」と何人も来ます。「よし、足が立てないのだな。目をつぶりなさい。立ちなさい! 貴方のいざりは治った!」とイエスが言うのです。
 すると病人が立ってしまうのです。全員が立つわけではないのですが、半数は立ち上がるのです。立てない人もいるのです。その人にイエスは「貴方は神を信じてはいない。神を信じている人はただちに治った」と言うのです。
 盲(めくら)もそうです。目が見えなくなる中に神経性ヒステリーがあります。ヒステリーになると、まず目が見えなくなってしまいます。怒りのあまり、自分の目が見えなくなってしまうのです。或は、つんぼになってしまう人もいます。
 それから、おしになってしまう人もいます。皇后陛下も失語症になったときがあります。この現象です。やはりストレスが激しいと声がでなくなってしまい、しゃべれなくなってしまうのです。
 ヒステリーや激しいストレスを感じると、目にでるか、耳にでるか、口にでるかわかりませんが、あちこちに症状がでるのです。腰が抜けて立てなくなってしまう人もいます。もともとこれらは心因、心に原因がある病気ですから、心の有り方を変えるとスッと治ってしまうのです。
 昔の人は、その病気直しを「神の力」と言ったのです。イエスはそのようにして布教していったのです。今でも、九州にある宗教団体は、1500人くらいの信者を講堂に集めて、お題目を唱えます。太鼓を叩くと皆が興奮してくるのです。信者は、病気の人が多いのです。ワーと熱狂してきたところに、壇上にいきなり教祖が現れるのです。その教祖は50代くらいでまだ若いのです。
 司会者が「さあ、ただ今から教祖様の世直しが始まります。皆さん前に詰めてください!」と言い、信者を前に詰めさせるのです。教祖様にちょっとでも触れば病気が治るというのです。信者が「ワー」と拍手すると、教祖が「ハイー!」と出てくるのです。
 変な白い服を着て出てきて、司会者が「どうぞ、教祖様におすがりを受けてください!」と言うと、「ウォー!」と信者が殺到して教祖にさわるのです。教祖に触ると治る人もいるのです。そうやって病気を治す教団が熊本にあるのです。
 或は、立正佼成会は幹部を養成するときに、トランスに入らない人は幹部にしないのです。トランスに入った人は、庭野日敬の教えを信じることができるのです。体が奇跡を感じ取っているから、「庭野日敬先生のおかげだ」と思ってしまい、信じてしまうのです。
 講堂に30人くらいの人間が集まって輪をつくるのです。部屋を真っ暗にして真ん中にローソクを立てるのです。30人が輪になって「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・・・」とお題目を1時間唱えるのです。
 するといきなり一人が「ギャーー!」と、トランスに入って倒れるのです。それを見て、続けて2〜3名がつられて「ギャーーー!」と、トランスに入るのです。最後にトランスに入らない、しぶとい奴が10名くらい残るのです。
 その10人を真ん中に座らせて、幹部が円陣をつくります。外側から気合をいれるのです。中に座らされた連中は「南無妙法蓮華経、日敬先生・南無妙法蓮華経、日敬先生、・・」とお題目を唱えるのです。
 外側の幹部は「エイ、エイ、エイ!」と気合を入れていくのです。それを続けると1人「ギャーーー!」とトランスに入り、また一人トランスに入るのです。それでも、トランスに入らない奴が出てくるのです。そいつはトランスに入れないので幹部にはなれないのです。
 そのようにして、トランスは大事です。宗教団体とトランスは深い結びつきがあるのです。だから皆、本尊をつくり、本尊はキリストでも何でも構わないのです。真言密教の場合は、麻薬を使います。麻を炊くのです。昔、お線香は麻からつくったのです。
麻とは、マリファナです。真言密教では、マリファナをお堂の中でバンバン炊くのです。すると集まっている信者はマリファナで頭がおかしくなって、「大日如来の銅像が動き出した」「しゃべった」と言い、幻覚に入れるのです。それが教団運営の一つのパターンです。
 昨日も書きましたが創価学会も同じです。辻武寿は池田大作を「催眠術師」と認めています。そのように正確な知識をもっていないと騙されてしまいます。真如苑もそうです。日本にある宗教団体のほとんどがトランス現象を「神の力」と信じてしまうのです。
ところがトランスは誰でも持っている力であり、一人でトランスに入ることもできるし、集団で入ることもできるのです。
 トランスに入ると、どんな宗教でも信じてしまうのです。「これが神様です」と言われてトランスに入り、電流に打たれたようなショックを受けて信じてしまうのです。宗教に入る前にその現象をしっかりと研究して知っていないと、邪教にのめりこんでしまいます。

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2016年05月31日

人間の探究 520 創価学会大幹部 辻武寿の指導のおかしさ

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※創価学会は大石寺の700年続く血脈と日蓮大聖人様の書かれた御本尊と猊下があって成り立ってきたのです。それをすべて否定してしまったのです。

人間の探究 520 創価学会大幹部 辻武寿の指導のおかしさ

 創価学会大幹部の辻武寿の指導のおかしさは、学会指導のおかしさということです。何しろ、御本尊にすべて結び付けてしまうのです。
 御本尊にお題目を唱えていくと、電流が起きて御本尊と一体になって祈りが叶うと言っています。そんなすごい御本尊にしてしまったのです。その御本尊をふいた紙を小さく切って飲むと「万病が治る」といいます。これもすごい神通力です。『ご秘符』といいます。
 それから日蓮大聖人様が日興聖人に与えられた「歯」があります。『お肉牙』といいます。日蓮大聖人の歯がかけたので、日興聖人に与えられ、広宣流布が近づくと、どんどん人間ができてくるというのです。
 こんなことを頭のよい石田先生も信じていたのです。僕はしっかりと聞いたのです。「石田先生、お肉牙とは何ですか?」と聞くと、石田先生は「お肉牙は歯茎ができて、だんだん人間になってくるのだよ」と言うのです。僕が「見たのですか?」と聞くと石田先生は「見たんだよ」と言っていました。
 石田先生は「御本尊の力を君は知っているかい?」と聞くので「まあ、知らないこともありません」と言うと石田先生は「僕は電流に打たれたようにしびれてしまったのだよ。これが人々を救う神通力だと思った」と石田先生は言っていました。
 僕はそこで「おかしいですよ、先生。歯が生えてくるとか、万病が治ると言っても、ご秘符を飲んだ人は結構死んでいます。御本尊に電流に打たれないと信心ができないのでしょうか」と、僕はそこでつっぱねたのです。
 これは迷信です。御本尊が絶対である。御本尊を拝むと電流に打たれる。お肉牙が人間になる。ご秘符を飲めば万病が治る。こんなものは江戸時代にできた迷信であり、そんなことを言うと日蓮大聖人の教えがわからなくなってしまいます。
 板本尊を見ると電流に打たれたようにしびれるのですから、これが学会指導の根本になってしまったのです。「御本尊を拝んで、拝んで、拝みまくれ。1日8時間、12時間でも拝みまくるのだ」と言います。12時間もお題目を唱えていたら、何もできません。
 その時に学会の指導は辻さんの指導を読めばわかりますが、根本はこれなのです。それでは日蓮大聖人様の妙法は、絶対にわかりません。学会は妙法が板本尊です。これでは、仏教を信仰しているとは言えません。ただの拝み屋さんです。
 当時、僕は心理学の研究をしていて、友達と2人で辻先生に会いにいったのです。すると会ってくれて、いろいろな話をしました。「板本尊を拝んで病気が治るのは、催眠現象ではないですか。催眠術でも病気は治ります。そのような現象でしょう」と言ったのです。
 辻先生は「そのようなものだな」と学会本部で言ったのです。「池田先生は催眠術師なんだよ」と言ったのです。本人はわかっているのです。わかっていながら、信者を本尊に結びつける指導をしていたのです。
 辻先生は元学校の教員ですから、池田大作のことを催眠術師として受け取っていたのです。病気の人がいると御本尊を拝ませて、「すべての病気は治ります」と言うのですから、催眠術です。辻先生もそのような指導をしていたのです。それで僕は知っているのです。
 そんな信心をしていたらどうなるかは明白です。「仏法とは御本尊を拝むことだ」という結論になってしまいます。仏法は大石寺の御本尊を拝むことです。分身三体といい、大石寺の本尊があり、それを複製したものが信者に散ります。信者に与えられた御本尊は大御本尊と同じものだというのです。
 ただし、それは本山の猊下様が認められないと効力がないのです。だから、真剣に御本尊を拝みます。一月に一回は、本山の大御本尊を拝みたくなってくるのです。創価学会員は品川から夜汽車に乗って大石寺に参拝に行ったのです。
 大石寺には朝の4時頃つきます。到着すると、50〜60人の部屋に布団を引いてごろ寝するのです。朝5時半頃に起床してラジオ体操をやるのです。それから勤行です。皆が一斉に「南無妙法蓮華経」とお題目を30分くらい唱えるのです。
 それが終わると食事です。食事はプラスチックの容器にご飯が入っていて、おかずは何もないのです。それにお湯をかけて食べるのです。それから御本尊にお目通りがあるのです。当時はお蔵に大御本尊が入っていたのです。まだ公開できないという理由で、御内拝をさせるということで、お蔵に300名くらい押し込められたのです。
 隣とくっつく距離で身動きできません。身動きできないと人間は自我を失ってしまうのです。広い部屋にゆったり座らせると、「俺は大学教授だ」と自我がでてきます。300名もぎゅうぎゅうに詰め込まれたらノーベル賞をもらった学者やアインシュタインでも、その他大勢になってしまいます。
 そこで有り難い御本尊が御開帳されるのです。戸がスルスルと開いて、大御本尊が出てきて、太鼓がドンドンドンとなり、「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・・・」とお題目を唱えると信者は最高潮に達して、完全に催眠状態です。
 自我はなくなり、お題目を唱えていると、太鼓が鳴り響きます。それが「お目通り」です。その中で、空中に「ギャー!」と飛び出してくる人がいるのです。僕は輸送班だったので、後ろから見ていたのですが、「キツネが出た!」と指をさすと、ピョンピョンと跳ねているのです。その跳ねた奴を輸送班が後ろに引きずり出すのです。拝んでいるとヘビになってしまった人もいます。クネクネと足から階段を登るのです。壁を登ろうとするのですが、登れないから落ちてくるのです。その時点でもう失神しているのです。
 キツネになった人はお稲荷さん信仰をしていた人です。ヘビになった人は鬼子母神を信仰していたのです。僕たちが行く前は戸田先生がお数珠を頭の上に乗せて「魔よ、去れ!」と喝を入れると信者が「ハッ」と正気に戻ったのです。
 僕たちもそれを真似してやったのです。「ハッ」と正気に戻った人は御利益があったのです。御本尊にしびれてしまったのです。皆がそのようになるとは限りません。特に暗示が強い人がかかりやすのです。そのような人は病気も治ってしまうのです。
 中には自分の首をしめる奴もでてきます。そのような悪い宗教を過去にやっていた奴は紐をもってきて自分の首をしめるのです。それは「危ない!」と止めるのですが、そのようなトランス状態に入ると、いろいろなことがおきてくるのです。
 何でもない人でも「普通と違うな」と感じるのです。それで大御本尊に会いたくなり、一月に一回は本山に行って、御開秘を受けに行くのです。自分の家には御本尊がありますから、それに向かって拝みまくるのです。ひどいものです。12時間拝むのです。剃田の親父も一日2時間は必ず拝んでいます。
 御本尊に執着して2時間拝んでも何も得るものはないのです。「ああ、よかった今日はしっかりと拝んだな」という気持ちになり、学会員は御本尊の奴隷になってしまったのです。「日蓮大聖人様の御命がこの御本尊にはあります。この御本尊以外はない。他の御本尊はすべて偽物である」と教えられてきているのです。
 身延山久遠寺はもっとひどいのです。身延は御本尊がハッピになっています。背中に御本尊が入っているのです。確かにハッピにするのはよくありません。
 大石寺は「最高の御本尊だ」と言っています。信者は御本尊と、ご秘符と、お肉牙と、日蓮大聖人様の血脈についてきたのです。大石寺の700年の歴史と、日蓮大聖人様が魂を込められた板本尊と、代々伝わる猊下のご意向に従ってついてきたのです。
 それから創価学会と大石寺が喧嘩になったのです。何故、喧嘩になったのでしょう。壇上の上に猊下と学会会長が並びます。すると、お互いに「お前が頭を下げるんだよ」「お前こそ、頭を下げるんだよ」とお互いにプイと横を向き顔も見ません。
 それが始まりです。「学会が働いて信者が増えて、正本堂を建ててあげて、すべて学会のおかげだろう。学会の会長は普通の会長ではないのだ。尊敬しろ!」ということなのです。
 本山から見ると創価学会は教義からはずれて、池田大作を「御本仏」と言わせていたのです。「池田大作先生は日蓮大聖人様の生まれ変わりだ」と、事実言わせていた時期があるのです。
 千葉の清澄寺へ行き、池田大作が「この木は700年前にも会ったね」というのです。すると皆が「えっ! 先生、この木を知っているのですか!」と驚くと、池田大作は「僕は700年前から知っているよ」と言ったのです。すると皆が「池田先生はたいしたものだ。日蓮大聖人様の生まれ変わりだ」という話がばっと伝わったのです。その木はまだ200年しか経っていなかったのです。
 学会員は池田大作が歩くと花が咲くというのです。枯れ木に花が咲くのです。学会員が徹夜で花をつくって池田大作が通ると花びらが散るのです。「ああ、池田先生は大聖人様の生まれ変わりに違いない」というウワサを立てたのです。
 大石寺から見たらこちらが本家で、学会は信者です。信者が御本仏などありえないのです。そこから猊下と池田大作はお互いにプンプンとなって、それが発端で喧嘩になったのです。
 創価学会は大石寺の700年続く血脈と日蓮大聖人様の書かれた御本尊と猊下があって成り立ってきたのです。それをすべて否定してしまったのです。学会は何もなくなってしまったのです。大石寺のご意向もない、700年の伝統もない、御本尊も信じない、それでは学会員は何を信じるのでしょう。
 学会の教学はもうないのです。妙観講が出てきて「何を信じているのか?」と聞かれると参ってしまうのです。学会は本尊がないので、自分たちで本尊をつくったのです。それを拝んでいると妙観講員が来て「何を拝んでいるのだ、お前達の拝んでいるのは偽本尊だ!謗法だぞ。御本尊は猊下が認めたもの以外、本尊ではない!」と言われるから答えられないのです。だから学会員は逃げ回るのです。
 ともかく御本尊を信心の中心にしてしまうのは、大それた邪教であり、それをやっている限り創価学会は人格も向上しないし、御本尊の奴隷になっているのです。

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2016年05月30日

人間の探究 519 仏法は平等主義

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※過去世があり現世があって、現世があり未来世があるのです。これを現当二世というのです。

人間の探究 519 仏法は平等主義

 「私は仏教徒である」という人がいて、仏教徒と言いながら「差別思想をもっていたらおかしい」と言っています。仏法では「生命はみな平等」と説きます。木・動物・人間・昆虫にいたるまで生命が存在しています。
 しかし、これらは「生命」で、ひとくくりにするとみな平等です。昆虫も豚も馬も命をもっています。人間も命をもっています。だから、命が尊いのですから、すべての生命は平等です。
 まして、これを人間に限って考えてみると黒人・白人・黄人・赤人、いろいろな顔をした人間がいるけれども、「命をもっている」ということについては、すべて共通しています。人間は平等主義です。これが、「仏教が世界に平和を説いている」という考え方に受け取られているのです。
 しかし、実は仏教は平等主義だけではないのです。五陰差別(ごおんさべつ)といいます。「この世界を構成しているものはすべて差別である」とも説いています。この理論です。
 日本人と朝鮮人は違います。日本人と黒人は違います。白人と黒人も違います。国ごとに民族があり、すべて違う物の考え方をするのです。すると、仏教の平等主義をどのようにとらえたらよいのでしょう。
 「平等」というのは、名ばかりです。生命があります。「生命」でくくることができるから、「すべての生命は平等である」という考え方は、それはその通りです。しかし、これは差別論を落とした考え方です。本当は、すべての生命は違いがあります。
 人間に限ってみても、ノーベル賞をとる人、総理大臣になる人、乞食になる人、麻薬中毒者になる人、刑務所に入る人、すべて違います。
 「人間は皆同じだ」というのは、理論だけであり、現実的には同じ人間などいないのです。顔も考え方もすべて違います。これについて説いたのが仏教であります。ということは、仏教は差別について説いているともいえるのです。
 差別のことを宿命というのです。「何故、私は豚なのか?」何故、今豚をやっているのでしょう。私は豚という生命です。或は馬という生命になっている奴もいるのです。馬も確かに生命をもっています。だけど僕は馬だからしゃべれないのです。
 明らかにこれは人間と違います。人間に置きかえてみると「何故、私は大王なのか」「何故、私は頭がよくてノーベル賞をもらったのだろうか?」或は、「私は何の特技もなく生まれて、毎日満員電車に乗って会社へ行き、仕事をやっています。それだけの能力しかありません。これが私です」、何故、それが「私」なのでしょう。
 或は通り魔殺人を犯して、気が付いたら刑務所の中にいて、一生出れません。或は「刑を待っている身でだ」それも「私」です。何故、そのような違いがあり、決められた運命を「私」としか思えないのでしょう。これは差別です。
 天下を取った大王や大統領のようにすごい生命体があり、これも「私」の場合もあります。刑務所で死刑を待っている人間も「私」です。ものすごい差別です。実はもっと細かく見ると、人間の中だけでも千差万別の差別だらけです。
 まして、人間と猿と犬と猫は全然違います。差別だらけです。強い猿もいれば、弱い猿もいます。ハーレムをつくっている猿もいれば、逃げまくっている猿もいるのです。
 生命は一つなのに、ものすごい差別を受け続けているのです。「この差別の原因は一体何か?」と説いたのが仏教でもあるのです。「なぜお前は豚なのか」「なぜお前は馬なのか」「なぜお前は美女なのか」「なぜお前はブスなのか」「なぜお前は頭がよいのか」「なぜお前は頭が悪いのか」、すべての差別が生まれてくる原因があるのです。この原因のことを因果倶時として教えられたのです。
 または因果倶時という言い方がわからなければ、南無妙法蓮華経と言ってもよいのです。南無妙法蓮華経という宇宙を貫く法があるので、その法に従って牛になり、馬になり、人間になっているのです。
 このようなことから考えていくと仏法のテーマは「差別」です。「仏法は平等主義だ」と言っているのは表面だけの話です。もう一歩深く奥に入っていくと差別についてきちんと説かれています。
 人を殺した者はどのような結果になるのか、ヤクザをやっている者はどのような結果になるのか、ということを説いているのです。それには、過去世があり現世があって、現世があり未来世があるのです。これを現当二世というのです。
 何も原因がなくて生まれた者はいないのです。何故、こんな平凡な私を「私」と思い続けているのか? それは過去世に原因があるのです。過去世にやったことを刈り取っているのが、現在です。
 現在やったことが原因となって未来があるのです。この三世にわたる差別と因果倶時を説いたものが本当の仏教です。「生命は平等だ」という一面と「生命は差別である」という面があるのです。それは恐ろしい差別が生まれてくるのです。この両方がわかって、初めて仏教が理解されてきます。

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2016年05月28日

『般若心経の大予言』■美人は修羅界に生まれる 19

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※古代インドの神話に阿修羅という者がおり、帝釈天と常に争いを起こしていました。この事から、争いを好む人のことを「阿修羅のようだ」と、いうようになり、縮って修羅というようになったのです。

『般若心経の大予言』■美人は修羅界に生まれる 19

 地獄・餓鬼・畜生の三悪道に加えて、四悪道ともいわれているのが修羅界です。古代インドの神話に阿修羅という者がおり、帝釈天と常に争いを起こしていました。この事から、争いを好む人のことを「阿修羅のようだ」と、いうようになり、縮って修羅というようになったのです。
 世の中には、いつも・いつも人と争っていないと気分が落ち着かない人がいます。会社は営業部で、同僚といつも成績を競い合います。仕事が終わると、麻雀やパチンコ等で勝負します。日曜日には競輪・競馬・ボートレースで一日過ごします。たまにテレビを見る時は、プロ野球とプロレス、新聞はスポーツ紙・・・こんな人は昔から多いはずです。
 このような人は、陽気の修羅道とでもいうのでしょうか。陰気の修羅道もあります。こちらの方が本当の修羅道でしょう。
 地位でも何でも、自分より絶対人を上にいかせない。どんな陰険な手口を使っても人をたたき落とします。子供の頃から学習塾へ行かせ、勉強の楽しさより、勉強は人と争って勝つ為のものと思わせ、中学・高校・大学・社会と修羅道一本やりの人生です。
 これは陰気な修羅道といえるでしょう。この修羅道の社会的総和が、猛烈な企業間戦争となり、国家の争いとなり、先を争って地球の資源を食いつぶし、地球の破滅を早めています。戦争・公害・環境破壊、すべて修羅界のなせるわざなのです。
 仏様の御説法に静かに耳を傾け、修羅道は四悪道の一つであると、全人類は気がつく必要があります。
 いつも・いつも修羅界に身を置いている人は、自然と姿形が醜くなるといわれます。その理由は、諸天善神にまで喧嘩を売ってしまうので、自然と悪形になってしまうのです。
 また他の理由では、修羅界は喧嘩に勝つ事ばかり考えていますから、相手を恐がらせる為にも顔は醜い方が良いので、そうなってしまうのです。仏像のような温和な顔の修羅界はいないのです。
 修羅界の女性は、男性と闘争する為に表面の美形を求めます。修羅界とも知らずに近寄ってきた助平達を、化粧の美により修羅界の世界に引きずりこみます。水商売関係の女性の厚化粧は、自己の醜い修羅界を厚く覆い隠す為なのです。
 しかし、年と共に修羅界の醜い姿はその本性を現し、近寄るのも恐ろしい顔になるのです。大毘婆沙論(だいびばしゃろん)などに詳しく書かれています。
 また修羅界は「諂曲(えんごく)なるは修羅」ともいわれ、諂曲とは心がひん曲がった事をいいますから、修羅界はねじくれた心に発生します。捻じ曲がった心だからこそ常に人と争いを起こさなければいられないのです。
 その醜い心を隠す為に、外に向かって仁・義・礼・智・信の五常を説き、自分でも五常を固く守ろうとします。その目的は人に勝つ為なのです。
 世間一般の人は、五常を修する人を見ると、偉い立派な人と勘違いし、聖人と思ってしまいます。五常に隠された修羅の道を見抜かなければなりません。
 仁とは弱者に手をさしのべる態度であり、義とは義理・約束をかたく守ることをいいます。
礼とは目上・同僚・後輩の区別した態度を取る事であり、ヤクザ仲間の出所祝いやお葬式で、「オッス、お疲れさんです」と、ペコペコ頭を下げるのも、礼のうちに入ります。
 智は仲間内の智恵者の意味であり、仲間の発展に智恵を出します。信は仲間内の信用という事です。
 これらの徳目により、修羅界の命を覆い隠していますから、本人も他人もその命の本性を見向く事ができないのです。仏教から見れば、仁・義・礼・智・信の全てが修羅界の役に立つ技術です。
 この修羅界の住所はどこかというと、海のほとり波打ち際がその住所だといわれています。波打ち際は「ザザァー ザザァー」と、一瞬の休みなく闘争をしているからでしょう。
 また、修羅は身の丈、八万由旬(はちまんゆじゅん)ともいわれ、体が異常に大きいといわれます。我々が怒った時、大切な人に手を挙げたり、自分の大切な物を壊したりするのは、怒った瞬間に修羅界になり、自分が急に大きくなってしまい、相手が小さくなってしまうのです。相手が大きく見えたら、とても壊したりできません。そのようにして身を滅ぼすのです。
 阿修羅天に生まれる業因は、下品(少しの)十止悪と十善行が原因です。十止悪とは、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不両舌・不悪口・不貪欲・不瞋恚・不邪見であり、十善行とは救生・布施・梵行・誠実語・質直語・和諍語・不浄観・慈悲観・因縁観であります。
 世間ではこれらの徳目は良いとされているので、止悪(悪を止める)とか、十善行(十の良い行い)等いわれているのに、仏教ではこれらは下品の(少しの)善行の場合には、これらの徳目をいくら行っても、修羅界にしか生まれないと説かれているのです。
 もっとも地獄界・餓鬼界・畜生界から見れば、修羅界はまるで天国に見えることでしょう。しかし、修羅界の次は大地獄へ行くから、修羅界は問題なのです。
 日蓮聖人は「此の国の人々、今生には一同に修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城地獄に入らん事疑い無き者なり」と云われ、仏道修行なき今の、修羅界強き日本人の衆生全てが、来世に地獄に行くといわれています。

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2016年05月27日

人間の探究 518 創価学会の裏幹部

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※ 昔こんなことがありました。学会本部の地下倉庫に金庫が5つあったのです。「邪魔だな。出してしまえ」と表に放り出したのです。

人間の探究 518 創価学会の裏幹部

 大石寺の妙観講が創価学会の幹部の御宅を訪ねて法論するという動画を流しています。これは昔からの大幹部の柏原ヤスの家も訪ねていくのです。しもた屋の2階立ての家です。そこへ訪ねていき、法論をしましょう」と言うのですが、柏原ヤスは出てきませんでした。
 それから、古い大幹部、青年部の副会長も訪ねていくのですが、驚いたことに都営住宅に住んでいます。正木正明さんの家にも押しかけたのです。正木は居留守を使い、学会幹部は妙観講と一人も論争できないのです。
 妙観講は副会長以上の大幹部を訪ねて論争しようというのです。しかも、妙観講は女性2人でいくのです。それでも論争しないで、居留守を使い、逃げまくっています。
 僕が驚いたのは、下町のぶっ壊れそうな都営住宅が正木さんの家です。これはびっくりしました。正木さんは創価学会の理事長です。「創価学会の理事長が、こんな家に住んでいるのか」と本当にびっくりしました。他の幹部もそのような家に住んでいます。
 学会幹部は若い頃、都営住宅に入ったのですが、そのままなのです。福村さんも都営住宅にいるのです。ずっと昔からいるので、今も変わりません。僕は「おかしいな」と思ったのです。あの巨額なお金を集めている創価学会の大幹部があんなところに住んでいるのです。
 これは庶民から見ると安心します。いくら学会がお金を持っているといっても、「正木さんの家を見てごらんなさいよ。都営住宅に住んでいるのよ」と思うと、「私たちと同じよ。それが理事長よ」という感覚になります。
 「柏原ヤスさんの家は豪邸ではないのよ。普通の仕舞屋(しもたや)よ。あれが草創期の学会の幹部の家よ」という考え方をします。「私たちと一緒ね」と思うのです。
 ちょっと待ってください。創価学会で集めている巨額なお金は誰が管理しているのでしょう。正木さんは理事長です。理事長と言えば、お金の流れはすべてわかっているはずです。この連中は、わかっていないのです。
 今の理事長にしても、会長の原田稔にしてもそうです。おそらく、名前だけなのです。実権を持っていないのです。実験とはお金の流れです。しかも、そのお金を「どのように運営しているのか?」これについては会長といっても、理事長といっても、知らないのです。学会会長の原田も都営住宅かもしれません。巨額なお金がどこに流れて、どこへ行っているのでしょう。学会の会長・副会長・理事長・副理事長のような役職には、お金はないとわかります。
 影の組織、ブラックシステムがあり、そこがお金のことは一挙に握っているのです。だから、創価学会の年次予算など、一切わからないのです。恐ろしいことに創価学会の役員は200名くらいいるのです。
 何故かというと、宗教法人法の研究をしていくと面白いことがわかってきます。創価学会の会長には誰でもなってしまうのです。ただし、形式にのっとって、ちゃんと書類がつくってあればの話です。「今日から私が創価学会の会長になります」と言えばよいのです。それは、「現執行部と意見が違うからです」これで、よいのです。「現執行部と意見が違うので、新しい規約をつくりました。これによって私が本日、創価学会の会長になりました」という書類を提出すると会長になれるのです。何故かというと、法務局はその書類を受け取り「貴方は本当に会長になったのですか? 前の会長との連続性はどうなっているのですか?」ということを問えないのです。そんなことを木っ端役人が問えないのです。
 この理屈は面白いのです。街宣演説もそうです。今、ヘイトスピーチが問題になっていますが、あれも警察官が「まった!ヘイトスピーチだ、そこまで!」と演説を止めたら、戦前の治安維持法になってしまい、一切そのようなことはできないのです。
 街宣活動をする場合、届け出制であり、内容は問えないのです。内容は問えませんが、「何時から何時まで何名集まり街宣活動をします」というと、すべて許可してしまうのです。内容によって「お前はこんな演説をするのか、やってはいかん!」などとは言えないのです。判断する力が警察にはないのです。だから赤であろうが、朝鮮人だろうがすべて通してしまうのです。ヘイトスピーチはそれで通ってしまうのです。
 それと同じことで、法務局に出された書類は判断できないのです。「つくった規則によって私が会長になりました」と言われれば、法務局は「そんなこっとはおかしいですよ」とは絶対に言えないのです。「はい、わかりました」と受理してしまうのです。
 すると山田太郎兵衛が会長になってしまうのです。それをふせぐために、創価学会はコケおどしに200名くらい理事をつくって、皆にハンコを押させているのです。するといかにも、もっともらしく見えるのです。学会幹部はそれを知っているのです。だからコケおどしの理事を大勢つくっているのです。「そうすれば裏切れないだろう」と考えているのです。
 それと同じです。全然、実権を握らない大幹部と影の大幹部がいて、末端から集めたお金がスーと入っていく仕組みになっているのです。しかし、それが誰だかわかりません。創価学会は発表しません。
 昔こんなことがありました。学会本部の地下倉庫に金庫が5つあったのです。「邪魔だな。出してしまえ」と表に放り出したのです。念のために開けてみたら1億5千万円入っていたのです。「何だ、この金は!」と大問題になったのです。
 「創価学会はこんな風にしてお金を捨てているのか。捨てるほどお金があるのか?」と言われたのです。それで、すったもんだして「誰の責任だ?」と問い詰めてもわからなくて、池田大作と共にやってきた中西という奴が「私が裏で商売をして会員に大石寺のお数珠を売って儲けたお金です。そのお金を別会計にしてしまっておきました」と言って辞めて責任を取ったのです。ウソなのです。
 そのようなことが現実にあり、これは報道されたので皆知っています。1億5千万円は何のお金かわからないのです。池田大作直接ではなく、5〜6人いて、何兆円という御金をいじくり、増やしたり減らしたりしているのです。
 それには、会長といえども、理事長の正木といえども、まったく触ることのできないお金があるのです。これが実態です。
 創価学会とはマフィアです。ブラックの連中は、宗教マフィアというものです。学会の信仰と関係ないのです。その連中の考え方は「正木や原田と仲良く宗教ごっこをやっていればいいんだよ。お金だけ吸い上げていればいいだよ。俺たちは関与しないよ」という考え方です。
 事実、池田大作語録にもあります。
「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」 (『現代』昭和45年7月号)
創価王国をつくるまで学会員をコキ使って、創価王国をつくったら、後は解散して使い捨てです。このような中にも会員を使い捨てにする創価学会の実態があります。有名な幹部でも、死んでも葬式はしません。こっそり葬儀をやるのです。誰がどこで死んだか、聖教新聞では全く書きません。
 池田大作が死んでも書かないのですから、誰が死んでも書きません。では、創価学会の実態とは何かというと、ブラックマフィアなのです。これに気が付かなければいけません。


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2016年05月26日

人間の探究 517 天下の反逆罪、創価王国

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※「創価王国」とは、日本の中に日本国以外のものを造ろうとしたのです。これは反逆罪です。「国家内国家を造って、日本国を乗っ取ろう」としたのです。創価学会は犯罪者の集団です。

人間の探究 517 天下の反逆罪、創価王国

 みんなは忘れているだろうけれども、創価学会は「創価王国」を造ろうとしたのです。いろいろな文章にはっきりと書いています。
 「池田大作が絶対の権力者になるのだ」というのです。それだけではないのです。「政治・司法・行政のすべてを創価学会員で占めるのだ」と言っています。その上に池田大作が君臨するのです。「民衆というものは、民主政治よりも独裁政権のほうがよいのだ」と言っています。過去に「創価王国」という発想があったのです。
「創価王国」とは、日本の中に日本国以外のものを造ろうとしたのです。これは反逆罪です。「国家内国家を造って、日本国を乗っ取ろう」としたのです。創価学会は犯罪者の集団です。
まさにこれは天一坊的な発想であるし、「創価王国」というのですから、その中に天皇はいないのです。天皇はいなくて、変わりに池田大作が君臨するということです。日本人にとって、これは最高の悪です。
正理会は日本の天皇を唯一の財産だと思っているのです。それを自分が創価王国を造り、自分が王様になるとはどういうつもりなのでしょう。これは、「天皇をなくす」という働きです。そこに皆、気が付いていないのです。冗談ではなく、本気でそのようなことを考えていたのです。
そこから始まったのが、「創価王国」の公明党をつくり、経済を握るということです。公明党は与党に入り、今でもこれは続いています。それから、国家権力を乗っ取り、警察・検察・裁判官・弁護士、あらゆるところに創価学会員を配置します。これもやっています。
マスコミを支配下に置き、創価学会の人間が送り込まれているのです。幹部養成のために、そのための部隊として創価大学を造ったのです。地上最高の天一坊、現代版天一坊が、池田大作です。
この罪というものは、万死をもって報いなければなりません。根本の本質がわからなければなりません。最近、ある創価学会の知り合いから、佐藤優と山口那津男の対談本をもらいました。
「公明党はたいしたものだ。一言もブレていない」と創価学会員が言います。何を言っているのでしょう。ブレまくっています。このようなウソを平気で言うのです。佐藤優は「ラスプーチン」と言われている男でいい加減な男です。
佐藤優はキリスト教の神学部を出ているのです。本当はキリスト教徒です。仏教もかなり勉強していますが、キリスト教徒である以上、仏教というものがわかるはずがありません。
公明党の山口那津男との対談では、きれいごとがズラズラと並べてあります。こんなことは簡単です。公明党などというものは、「区別と差別」の違いもわかりません。「区別と差別」の違いもわからない奴が、キレイ事を述べてもダメなのです。彼らの頭の中には日本民族という考えが全くありません。日本人と朝鮮人とシナ人と同レベルで考えています。
区別と差別がつきません。そんな奴がどんな政策を立てようと、何をやろうとご都合主義であり、信用できるものは何もありません。そんな本を出して「公明党はブレていない」などと言っても、ブレまくっているではないですか。
創価学会が政治に出たときに一番困ったのは幹部に学歴がないことです。草創期からいる連中です。その連中に学歴をつけるために、高田馬場にある朝鮮人が経営していた政治大学校があり、それをうまく使ったのです。当時の公明党の立候補者の経歴を見ると、すべて「政治大学校卒」と書いてあります。これは、お金を払えば1日もいかなくても卒業証書をくれたのです。
そのような学校であり、朝鮮人が経営していたのです。「政治大学校はどこにあるのか?」と世間の非難を浴びて、「これはまずい」と思い政治大学校をひっこめだしたのです。竹入義勝は委員長だから困ってしまったのです。竹入は小学校卒です。
「そうだ、竹入さんは航空隊にいたのだな。だから、陸軍航空士官学校卒にしよう」というので、会の方針で「陸軍航空士官学校卒」という経歴を書いたのです。散々その経歴を使い選挙で当選したり、活動していたのですが、都合が悪くなると「竹入は、学歴を詐称した」というのです。
学歴詐称とは、ひどいものです。竹入を押し出すために創価学会がつくりあげたインチキな経歴です。そこから始まってブレまくっています。竹入がどんなに苦労したのか知っていますか? 創価学会は悪いことし放題で、それを政治から手を回して誤魔化して、様々な事件をもみ消してきたのです。
いわば、竹入は草創期の恩人です。どんなにうす汚い仕事をやらせてきたのでしょう。竹入もほどほど嫌になって、「こんな嫌な仕事を続くならば俺は辞める」と言って学会を辞めて、日蓮正宗に行ってしまったのです。
すると「学歴詐称の竹入」「大ウソつきの竹入」と創価学会の罵倒が一斉に始まったのです。この次は矢野書記長です。矢野書記長も悪事のもみ消しをずっとやってきたのです。
矢野絢也が学会を辞めると、矢野タタキが始まって、矢野も再び学会には帰りません。創価学会の幹部もいい加減で、散々学会を利用しておいて、国会議員になって給料をもらい、本部職員になって給料をもらってきたのです。恩給がついたとたんに、このような裏切り方をして、争いになっているのです。学会はブレまくりでダメなのです。
山口那津男は東大出身だから、確かに経歴はよいのです。今までの小学校卒の人材と違いますが、山口那津男は官僚と同じ考えた方をもっているのです。庶民の目線などもっていません。だいたい公明党は「庶民の党だ」と言っておいて、東大法学部卒の山口那津男がなぜ党首になるのでしょう。すでに庶民の味方ではないとわかります。
さて、話題は変わって舛添の件ですが、舛添は朝鮮人だと言われだしました。本当の朝鮮人です。政治規正法の問題も、公務の問題もよしとしても、「韓国学校をつくる」と朴 槿惠に約束してきた原因は何かというと「韓国に恩がある。恩に対して報いなければいけません」と言います。
韓国に対して何の恩があるのでしょう。これを舛添は明らかにしていません。個人の恩なのか、東京都としての恩なのか、或は日本国家としての恩なのか、いずれもそのようなことを明解にしないで韓国へ行って「恩をお返ししなければ」と言うならば、それを明らかにしなければいけません。
朝鮮人を見分ける見方は簡単です。朝鮮飲みをやっているかどうかです。朝鮮飲みとは、水を飲むときに必ず口元を隠して飲むのです。国会議員の中で朝鮮飲みをするのは、鳩山由紀夫、菅直人、小沢一郎、岡田克也、舛添要一です。みんな朝鮮飲みです。
創価学会の幹部も朝鮮人です。上を見ると朝鮮人だらけです。こんなことがなぜ成立しているのかというと、出自を隠すからです。偽名を使って出自を隠すので、「この人は何人なのか?」ということが日本人はわかりません。外国人が日本の政治家になると、このようなことをやるのです。
都知事が韓国に「土地を1万坪あげます」と言ったらどうしますか? 都知事の権限でやろうと思えばできるのです。そのように内政ではなく、外政に目が向いて、馬鹿なことをやりだすのです。だから朝鮮人はダメなのです。
日本人ということは、日本の歴史を最高の歴史として認識するのか、2800年続く万世一系の天皇陛下を我らの誇りとするのか、どうなのかということです。
この歴史も誇りもなく、天皇という考えもないから、池田大作のような天一坊が出てくるのです。「創価王国」に、天皇はいらないのです。そんな馬鹿な発想をしているのに、みな「おかしい」と思わないのです。
これは今後、徹底的に追及されなければいけない問題だと思います。


創価学会名誉会長池田大作の発言記録

「広宣流布(※池田のいう広宣流布とは、国民のほとんどが学会員となる状態)の時には、参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少なくとも十万や二十万入れて、洋服も月賦じゃないの着てさ、ひとつ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布できゃしませんよ」
(『聖教』昭和32年9月6日)

 「天下をとれることが少し私には見えて来た。天下をとらない党なら、やる必要はない。私がひかえているから心配するな」
(公明党議員との記念撮影・昭和51年11月16日)

「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」
(『現代』昭和45年7月号)

「広布(※広宣流布)の闘いで、政党、学校、文化、民音等もできた。最後に残ったのは経済だ。これから、この社長会を中心に経済革命をする」
(第1回社長会・昭和42年6月25日)

 「目立たないように枝を伸ばし、産業界に網の目を張りめぐらして、最後に総合商社を作って決戦だ。(中略)中曽根康弘は心配ない、こちらの小僧だ。総理大臣になりたいと云っていたので、よしよしと云っておいた。ケネディきどりだ、坊やだ」
(第6回社長会・昭和42年11月25日)

 「警察だって、動かしているのは竹入・井上だよ」
(第13回社長会・昭和43年7月8日)

「(広宣流布の時には)わが男子青年部の手によって内閣を結成して」
(『大白蓮華』昭和39年2月号・現会長秋谷発言)

「池田先生が、日本の指導者として立っていただく」
(『聖教』40年7月26日・四代会長北条浩発言)

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2016年05月25日

人間の探究 516 常住此説法(じょうじゅうしせっぽう)

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※日蓮正宗妙観講の青年と女子が創価学会初期に活躍した辻武寿副会長の家を訪ねていくのですが、逃げまくっているのです。「お話に来たのですが」というと、「いない、帰ってください!」と追い返したのです。

人間の探究 516 常住此説法(じょうじゅうしせっぽう)

このお言葉は、法華経の中に出てくるお言葉です。「常住此説法」とは、仏は常にここにいて、法を説いています。「仏が法を説いているというけれども、なぜ私には見えないのか?」というと、貴方の心が転倒しているからです。
これを転倒虚妄(てんとうこもう)といいます。貴方の心が転倒しているのです。転倒してひっくりかえって物事を見ている人間は、正しいことが悪く見えます。間違ったことがよく思えるのです。よい例が池田大作は大悪人であるのに、「大先生だ」と思っている人間は転倒虚妄です。
これは心が転倒虚妄しているのです。池田大作は仏法を何も説いていません。「広宣流布の暁には創価学会を解散してもよい」と言っているのです。これはどのようなことを意味しているのでしょう。学会員を使い切ったら、もういらないのです。
池田大作が天下を取り、日本国に君臨して、「創価王国」を造ったならば、創価の会員はもういらないのです。だから「創価学会を解散する」と言っているのです。ということは、学会員は使い捨てです。池田大作が会員をコキ使い、会員は虚妄に踊らされているのです。
会員が踊るためには、虚妄にならなければいけません。正しいことを「正しい」と見ていたら、池田大作が創価学会を牛耳ることはできません。学会員の心をひっくり返して、大悪人の池田大作を一番よく見せているのです。
池田大作が良よく見える人は、転倒虚妄して生きているのです。池田大作の魔力から逃れて洗脳が溶けた人は「あれ、でも仏様はいるのかな?」と気が付きます。いるのです。目に見えないけれども、常住此説法されているのです。
常に正しい教えを仏は説いています。仏教が見える人からみると「この人は仏様だな」「この人も仏様だな」「このようなところに仏様が現れているのだな」とよくわかるのです。
目に見えない仏様が常に説法されているのを聞こうとすることが信仰です。「どんなことを説いているのかな?」と耳をそばだてて、仏様の説法を聞こうとすることが信仰です。
「南無妙法蓮華経」と唱えるということは、仏様の説法を唱えるということです。「南無妙法蓮華経」と唱えた瞬間に「森羅万象すべからく南無妙法蓮華経から成り立っているのだ」と、仏様が教えてくれるのです。貴方にわかりますか? わかるように一生懸命お題目を唱えていくのです。
何回もお題目を唱えて「一心欲見仏 不自惜身命」と、一心に仏様をみようとして、命がけで仏道修行に励むならば、目に見えない仏様が姿を現してくるのです。
凡夫「あれ、こんな近くに仏様がいらしたのですか。気が付きませんでした」
仏「そうだよ。私はいつもお前と共にいたのだ。お前が起きているときも、寝ているときも、常にお前と共にいたのだ。お前の目が曇り転倒虚妄しているから、私の存在に気が付かないのだろう。いつでも陰になり、日向になり、お前を守ってきたのだ。これからもそうだ。必ずお前を守るのだ。私に祈りをかけるならば、それは必ずかなうのだ。何故ならば、お前は私と一緒なのだ。」
「私は朝起きてからただちに聖教新聞を読んで、人間革命を読みます。常に仏様と一緒です。大作先生といつも一緒です。寝るときも、起きるときも、仕事をしているときも大作先生と一緒です」という馬鹿がいますが、池田大作は仏ではありません。
池田大作は天下取りの道具として学会員をコキ使って、天下を取ったときには「学会を解散する」と言っている人間です。仏道修行に解散などあり得ません。そんなことを言うだけでも、池田大作は「キチガイだ」とわかるのです。
池田大作は、うす汚い朝鮮人だったのです。創価学会の失敗は、朝鮮人である池田大作を知らないで会長に仰いでしまったことです。これを知っていたら、池田大作を会長になど選びません。朝鮮人だけはお断りです。
山口組では「会長は日本人でなければならない」という不文律があったのです。それが破られて、どんどんと朝鮮人が入ってきてしまったのです。朝鮮人は従順なフリをして正体を隠してついてくるからです。本当は自分がのさばりたいのです。
池田大作を仏と崇め、師匠として仰げば、仰いだ本人も悪人になってしまうのです。ドロボウを師匠として仰げば、ドロボウになってしまいます。寿司屋の親父を師匠として仰げば、寿司屋の親父になってしまうのです。悪人を崇めれば、悪人になってしまうのです。
創価学会員の顔を一人一人見てください。大石寺の妙観講の話がユーチューブで出ていましたが、妙観講の青年と女子が学会の幹部、副会長以上の家を一軒一軒訪ねるのです。正木正明は創価学会理事長といっても、都営住宅に住んでいて、実権を握らされていません。
初期に活躍した辻武寿副会長、創価新報の編集長の家も訪ねていくのです。皆、逃げまくっているのです。妙観講の青年部が「お話に来たのですが」というと、「いない、帰ってください!」と創価学会の幹部が追い返すのです。
学会幹部は問答もできないのです。創価学会はなぜそのようになってしまったのかとうと、折伏精神がないからです。仲間作りの精神できたので、仲間はできても、教学は教えられないのです。だから妙観講と問答ができないのです。
辻さんは最初の頃からいた大幹部です。戸田先生と共にやってきた大幹部です。その家にも行くのです。90歳くらいでしょう。それが「帰ってくれ!」と追い返すのです。偉そうなことを言っていた大幹部が、みんなそのザマです。
正木は副会長で理事です。それがボロボロの都営住宅に住んでいて、妙観講員を追い返したのです。全く話になりません。それだけ創価学会はダメになってしまったのです。それはそうです。池田大作が仏法を教えていないからです。
創価学会は、仏法の師ではなく、ドロボウを師と仰いできたから、法論ができないようになってしまったのです。創価学会が、本当に仏道を求めていくならば、「解散する」という話が出てくるはずがないのです。
創価学会は天下取りのドロボウの集団になってしまったのですから、ただ逃げまくるのです。お仲間さえいればよいのです。数されいればよいのです。「お前たちのように生意気なことを言う連中と会う必要はない!」と言い、絶対に法論に来た人間とは会わないのです。どこに折伏精神があるのでしょう。相手が求めてきたら、受けて立つのが当たり前です。
「私達はこのような理由でやっているのです。これが正しいのです」と言えばよいのです。「それは違うのではないですか」と言われたら、法論をやり返せばよいのです。その作業がなくなったら邪教です。
創価学会は「みんなを騙している」という気持ちがあるから、法論から逃げているのです。大幹部も会員もそうなってしまったのです。
戸田先生も可哀想です。知っていたのです。「敵は誰ですか?」と聞かれて、「敵は内部だ」と言われたのです。池田大作はお金儲けが上手かったので、戸田先生も使ってしまったのです。しかし、「池田大作はのさばってきて、学会を違うものに変えていくな」と分かっていたのです。だから「敵は内部だ!」と言われたのです。
戸田先生がお亡くなりになるときに、「会長は決めなくてよいのですか」と皆が聞くと「みんなで決めろ」と戸田先生は言われたのです。戸田先生は「石田次男だ」と言ったのです。石田次男は「受けない」と言ったのです。これも魔の働きです。もう後は言うことはありません。
口は上手い、オベンチャラは上手い、あの手この手の池田大作のほうが、創価学会を大きくしたりするのは便利かもしれないと思ったのかもしれません。石田先生はオベンチャラなど絶対に言いません。自然に会は伸びましたが、中身がなくなり、池田大作が朝鮮人だったので、日本的なものをどんどん抜いてしまったので、今の学会員は「区別と差別」の違いもわかりません。恐ろしい邪教の教団になってしまいました。
それを仏様だと考えたらとんでもないことです。常住此説法とはそのようなことではないのです。常に仏法を説いているのが仏なのですから、仏様は常にあなたと共にいて説いているのです。池田大作と共にいてはいけません。池田大作を追い出さないと、創価学会は成仏できません。

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2016年05月24日

人間の探究 515 正理会の組織が大きくなると組織が乱れる?

屏風
※商売と屏風は大きくすると倒れるのです。大きいが故に倒れるのです。

人間の探究 515 正理会の組織が大きくなると組織が乱れる?

「正理会の組織が大きくなると組織が乱れてきます。その辺はどのように御考えですか?」という質問があったので、お答えします。
組織が大きくなるとは、どのようなことかというと、乞食スープが広がるということです。「朝鮮人でもいい、何人でもいい」と言えば、何でも入ってきます。
組織の中に朝鮮人がいて、黒人がいて、アメリカ人がいて、それはどのような組織かというと、何の特徴もない組織です。何も言えないのです。
私たち正理会は、日本人に限っているのです。この理論的な根拠は総別の二義からきているのです。世界に仏法を広めるというのは、総じて言う意味なのです。別して言うと、まず日本国に広めるという意味です。
「創価学会は世界に向かって広げた」と言います。総じて言っているのです。総じて言うと、中身がどんどん薄くなってしまい、日本的なことは言えなくなってしまうのです。
朝鮮人がいて、アメリカ人がいたら、「日本精神は立派だ」などとは言えません。だから、正理会は日本人しか入れないのです。朝鮮人が正理会に来て「入れてくれ」と言っても入れないのです。
学会のように数を取らないので、「入りたい」と言ってもお断りしているのです。真面目に「仏道修行をしたい」という人しか入れないのです。
それには、まず総別の考え方がわからないとダメなのです。総じて言うと世界平和です。別して言うと日本の広宣流布です。
これを勘違いするとダメになってしまいます。まず、世界が理想とする日本の国家を造ることが先です。それが出来ていないのに「世界平和だ!」と駆けずり回っている創価学会も安倍も、詐欺野郎です。
「日本は素晴らしい国だな。日本を見習いたい」と思わせることが先です。それが出来て初めて世界平和に役立ってくるのです。日本が滅茶苦茶なのに、世界平和はないのです。
そのように考えているので、まず別しての理論で、日本国をしっかりとしていくことが、正理会の目的です。すると、日本人独特の歴史があります。日本人独特の文化があります。これをしっかりと教えなければいけません。これも正理(しょうり)です。
「日本は何が正しくて、何が間違っているのか?」日本が世界に誇るべき唯一のものは、天皇です。何故かというと、天皇は2800年続いている世界最古の天皇です。世界はそれを知っています。世界の王族が集まると、天皇陛下が最古の王族であり、最重要です。貫禄が違います。2800年の伝統ある天皇です。他の奴らは、200年か、300年、イギリス王室でさえ約1千年です。格違いです。
何故かと言うと、王室はもうできないのです。2800年の天皇制は誰がやってもできないのです。絶対にできません。だから尊敬されるのです。そこに日本文化の最大の特徴があるのです。
韓国では、王様はすでにいないのです。これからできるのでしょうか。絶対にできません。北朝鮮は金王朝でやろうとしていますが、まだ3代目です。5代も持ちません。もう終わりです。
何故、日本だけが2800年続いた万世一系の天皇陛下をいただいているのかというと、これが日本の文化であり、日本の正理なのです。
このことを朝鮮人に教えても仕方ありません。わからないのですから、朝鮮人には教えないのです。「私も日本人にしてください」と言う人なら教えてもよいのですが、だいたいはそのようにいきません。
朝鮮人は半分「羨ましい」と思っているから、どこかで反逆をするのです。そのような歴史です。これを教えていくのです。日本の歴史は天皇の歴史であり、庶民から見る歴史ではないのです。天皇から見る日本国家の歴史です。
我々はもっと信念をもって日本国家の文化と伝統と歴史がわかれば、世界から戦争はなくなるのです。何故ならば、天皇陛下は戦争を嫌い、平和の世の中をつくっていこうとすることが天皇陛下の御心です。
臣下の方がそれを理解しないで殺し合ったり、奪いあったりする歴史はあったのですが、それは臣下の歴史です。中心になっている天皇の御心は崩れていないのです。これは大事にしなければいけません。これが国の正理です。
それと同時に仏法の正理もあります。仏法には、念仏、真言宗、禅宗、律宗などありますが、「何が仏教なのだろうか?」ということが皆、わからないで「仏教」と言っているのです。仏教とは座禅を組むものなのか、仏法は「南無阿弥陀仏」と唱えて死ぬのを待っていることなのでしょうか。違います。
真言密教のように火をくべて加持祈祷をして、くだらないことをやっているのが仏教なのでしょうか。すべて違います。
何が正しい仏教なのでしょうか。これを研究していくと日蓮大聖人様の教えになるのです。だから正理会は、日蓮大聖人様の仏法を教えているのです。日蓮大聖人様の仏教を教えているということは、全仏教を教えているということと同じことなのです。
「間違っている」と破折していくのです。「どこが間違っているのですか」「ここが間違っている」と勉強していないと言えません。ただ、憎々しげに「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言うのは、ちゃんと理由があるからそのように言っているのです。その理由をきちんと勉強していくことが、仏教を理解していくことになるのです。
正理会は正しい仏法を教えているのです。正しい国の歴史を教えているのです。この理論的根拠は、正しい歴史を持ち、正しい仏法を保つ日本人がいるならば、それでよいのです。それも何百万人もいる必要はないのです。
戸田先生は「10万人でよい。10万人の国士がいればよいのだ」と言われたのです。「10万人国士がいれば、この国は変わるぞ」と言われたのです。
ところが、今や創価学会は10万人どころか、何百万人いるのですが、何も変わりません。間違っているのです。
創価学会は戸田先生が、「10万人でよい」と言ったことを思い出しなさい。「国士10万人を輩出せよ!」10万人の人材をつくるのです。立派な人間が10万人いなければダメです。くだらない人間が10万人いてもダメなのです。
正理会は少数、エリート、純粋主義ですから、馬鹿みたいに大きな組織をつくることは考えていません。入りたくても入れないのです。
人間の正理、日本の歴史の正理を考える人が集まり、研鑽していくならば、その限りにおいて変な奴は入ってこれません。
僕が正理研究会をつくった頃には、ひどい奴が入ってきました。信じられない奴らばかりです。教団にきて何をやっているのかというと、女の子のことをじっと見ている奴、エイズの奴、オカマも三匹いました。キチガイもいました。「これ以上ひどい奴はいない」という連中が集まってきたのです。
主婦ひっかけ専門の奴もいました。本当にひどい連中です。あっという間に窓口を広げれば、変な奴が入ってきます。奴らは法を求めて入ってくるのではないのです。「教団の初期に入ってくるとよいことがあるのではないか」「女をものにできるのではないか」「ホモ相手が見つかるのではないか」そんな連中が入ってくるのです。
そんな連中は一切いらないのです。もう正理会には入れません。「大きくなると組織が乱れるのでは」という心配はいらないのです。最初から考えています。組織を大きくしないことです。商売と屏風は大きくすると倒れるのです。大きいが故に倒れるのです。
新興宗教の寿命は60年と言われています。戦後出来た宗教は、60年の賞味期限が切れて、70年目に入っているのです。創価学会、立正佼成会、統一教会などがそうです。これらは戦後にできてきたのです。
奴らの宗教は60年が賞味期限です。後は賞味期限が切れて70年、後は腐ってきます。何が障害になるのかというと、建物が障害になってくるのです。中身がないから、大きな建物を建てたがるのです。お金を集めて大きな建物を建てるのです。
熱海の崇高真光に行ってみてください。誰もいやしません。莫大な経費です。電気代だけでも何千万かかるのです。それで宗教団体は潰れるのです。信者は減る、建物は減らない、経費がかかるのです。バランスが崩れて経営が苦しくなり、カンカン鳥が鳴くようになり、土地を切り売りしながら、どんどん小さくなってしまうのです。
そのような歴史をたどるのです。商売と屏風は大きくしたらダメなのです。我々は大きくしません。ますます中身を濃くして正しい教えを理解させていきます。

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2016年05月23日

人間の探究 514 娑婆即寂光

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※娑婆を寂光土にしていくのです。寂光土とは仏が住む素晴らしい世界です。この世を寂光土に変えていくことが信心の目的です。

人間の探究 514 娑婆即寂光

 娑婆(しゃば)の本来の意味は、「堪忍する」という意味です。堪忍しないと人間の世の中は一日たりとも生きておれないのです。人間は何もかも気に入らないのです。お母さんも気に入らない。お父さんも気に入らない。兄弟も気に入らない。近所の奴も気に入らない。学校へ行っても先生が気に入らない。人生は気に入らないことばかりです。
 人間は堪忍をしないと、1日たりとも生きてはおれないのです。だから、「娑婆世界」というのです。娑婆とは「堪忍する」という意味です。堪忍が娑婆という意味です。念仏は「この世は苦しい」といいます。だから厭離穢土(おんりえど)といい、「この世を去って、浄土を求めましょう」という思想も出てきます。
 法華経も似ている点があるのですが、この世のとらえ方は娑婆として苦しみに耐えていくのです。生まれるのも苦しみ、死んでいくときも苦しみ、その途中では受験があり、就職すれば会社に行って怒られてやけ酒を食らい、家へ帰れば女房がよい態度ではありません。すべて苦しみです。
 だんだん希望がなくなり、「人生はこんなものか」と考えて廃人になってしまうのです。それではダメです。この娑婆を寂光土にしていくのです。寂光土とは仏が住む素晴らしい世界です。この世を寂光土に変えていくことが信心の目的です。
 法華経は娑婆即寂光だけではなく、九界即仏界も同じことです。九界は苦しみです。それが「即仏界」だというのです。煩悩即菩提もそうです。煩悩は悩みです。悩みが即菩提です。菩提とは仏の境地です。生死即涅槃もそうです。生死とは、生まれて苦しむのですから、人生のことをいいます。それが「即涅槃」です。
 娑婆即寂光と、これらのことはみな同じことを表現しているのです。普通の人から見ると悩みは悩み、苦しみは苦しみ、悟りとは違うものだと思っています。九界と仏界は違うと思っているのです。だから、「九界を脱して仏界に行きたい」と考えているのです。
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩を脱して、速く仏界に行きたいと思っているのです。九界は即仏界を求めていくものだと理解しているのです。そうではないのです。人生は九界しかないのです。寂光は言葉だけでないのです。九界までしかないのです。
 この九界がすべてのからくりと知りながら、自分が自由自在に九界を行ったり来たりできる境涯を涅槃というのです。仏界という独立したものはないのです。このようなことがわかってくると、どこにいても、どんな仕事をしていても、牢獄にいても、その世界を寂光にしなければいけないのです。
 これが信仰の力です。「信」という一字を持って、この九界を仏界に変えるのです。九界を仏界に変えるという力がない限りは、仏界即九界にはならないのです。そのような原理です。
では、どのようにして仏界に変えるのでしょう。問題はそこなのです。日蓮大聖人様は佐渡島に流され、伊豆に流され、首の座に連れていかれるということは、環境としては最悪です。佐渡島はどのような環境だったのでしょう。日蓮大聖人様が島流しに遭ったのは真冬です。
死体を捨てる穴があり、骸骨が山積みになっている淵にお地蔵さんのお堂があり、そこに入れられたのです。すると板もなく風がビューと吹くのです。寒いし、ご飯など誰もくれないのです。「そこで死ね」という話です。
当時、坊さんを殺すのは幕府も嫌がったのです。島流しとは、「そこへ行って死ね」ということです。氷の壁ができて、寒いなどというものではありません。蓑(みの)を一枚だけ着てお題目を唱えたのです。「日蓮、極寒地獄を体験した」と言われています。
しかし、日蓮大聖人様は自分のおかれた境涯を極寒地獄と知り、その因果を考え、お題目を唱えて極寒地獄から脱却したのです。最悪の環境でも、お題目を唱えていくと極寒地獄から脱却できるのです。
戸田城聖もそうです。無実の罪で牧口先生と共に牢獄へ入れられてしまったのです。罪名はつかないのです。牧口先生は牢獄の中で死んでしまいました。戸田先生は何もない牢獄、いつ出られるかもわからない牢獄です。戦争中ですから、いつ爆弾が落ちるかもわかりません。自分は身動きができないのです。
戸田先生は拘束されている最低の状態で、法華経に取り組んで200万遍のお題目を唱えて、因縁を断ち切り、娑婆に出てきたのです。これは大功徳です。大功徳で出てきたときに、お題目の力が国法に勝ったのだと実感できるのです。
国が権力を持って「お前を捕まえる」と、牢獄に入れられたら、自分は権力がないので何もできません。それを受けて立つのが仏法です。それを戸田先生は言われていました。仏法と国法が争ったら、必ず仏法が勝つのです。
そのような辛い目に遭ってもよいのです。南無妙法蓮華経と唱えるならば、必ず仏法は国法に勝つのです。
日蓮大聖人様は、熱原の三弟子が幕府に捕まり「お題目をやめろ。念仏を唱えろ。念仏を唱えなければ首を斬る」と言われたのです。そのときに、「私から先に斬ってくれ」と言うのです。これが功徳だと、日蓮大聖人様は言われているのです。
普通は助けようと思うのですが、助けなくてよいのです。堂々と「先に斬ってください」と言っています。
日蓮大聖人様はこのようにも言われています。首をノコゴリで斬られるようなことがあってもたいした苦しみではないのです。ちょっと我慢すれば終わるのです。その後は仏国土に生まれるのです。そのような確信がないと、そんなことは言えません。
これが娑婆即寂光、九界即仏界、煩悩即菩提、生死即涅槃です。

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2016年05月21日

『般若心経の大予言』■反省心のない人間が畜生となる 18

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※畜身を持つ以上、必ず何物かを犠牲にしなければ生きていけないのです。

『般若心経の大予言』■反省心のない人間が畜生となる 18

 我々の回りには人間以外の生物もたくさんいます。犬・猫・猿・豚・馬・鳥・兎・・・
人間を除く生物を総称して畜生といっています。
 昔、私が江ノ島に遊びに行き、ぼんやりと海を見ていた時に、一羽のスズメがその辺りに落ちていたパン屑か何かを食べていました。空はどこまでも青く美しく、海の潮の香りもさわやかな、大変平和な一日と思っていました。そこに突如として、空から一羽の鷹か鷲が舞い降りてきて、小さな可愛らしいスズメを攻撃し襲いだしたのです。
 小スズメは必死で逃げ回っていましたが、遂につかまってしまい、私の見ている前で食べられてしまったのです。「鳥が鳥を食べる」これはものすごいショックでした。
 動物学を勉強している人なら当然の光景でしょうが、不勉強な私にはショックでした。徒然草の一節「生ける物を殺し、痛め、闘わしめて遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり」にあるように、畜生とは互いに殺し合うものの総称だと分かったのです。
 人間でありながら「生き物を殺して喜ぶ」、これは「念々に」畜生道を修行している事になります。毎週日曜日「釣りに行くのが唯一の楽しみなのです」等と言って得意になってる人もいますが、魚だろうが、鳥だろうが、捕って喜ぶ、その心は畜生道を発しているのです。来世は必ず畜生界に生を受ける業因を積んでいる事になります。
 さきほどの小スズメも、実は虫などは平気で殺して食べているわけで、海の魚もやはり大が小を食べているのです。
 畜身を持つ以上、必ず何物かを犠牲にしなければ生きていけないのです。その意味では、人間も立派な畜生の一部なのです。我が身が修行して成仏するという事は、「濁水に月を浮かべる」ようなものだということは、人間は畜身を持つが故であります。
 「私は肉食しない」と、いったところで、味噌汁には魚のだしが使ってあり、お米にしても植物という生命体なのです。
 人間と畜生の違いは心によります。心は植物にすらありますし、動物にも心は厳然として備わっています。心は人間だけの専売特許ではありません。心の中味が人間と畜生を分けるのです。
 保険金殺人の三浦、荒木、こういう連中は人間でも心は畜生以下なのです。来世には畜生界に生を受けます。人間の心とは「反省」する心なのです。
 猿も犬も猫も「反省」はしません。反省に見える事があっても、単なる条件反射にすぎません。反省とは、「自らを省みる事ができる」という意味であり、この心が科学も哲学も宗教も生んだのです。
 反省心なき人は、人間道を歩んでいない、といえるのです。反省心が人の痛みを知ります。自分がやられた事をやり返そうとするのは、反省心のない証拠なのです。自分がやられて嫌な事は人にやらない、これも反省心のしからしむるところです。
 凡夫である我々が仏陀になる事ができるのも、反省心があるからです。自分の心と仏陀の心と比べて、自分を恥じて懸命に努力して、自分の命を仏様に近づけていくのも反省心の故であります。
 現代人に一番欠けているのは、この反省心なのです。六波羅蜜経に「心の師とはなるとも心を師とせざれ」とあるのは、この意味なのでしょう。
 自分の心を師とするなら反省は必要なく、自分の心に従った畜生道を「念々に」修行してしまうからです。こうしてみると、一見便利になった現代社会は、我々に地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道を養成している事になります。三悪道の修行は、必ず地獄界・餓鬼界・畜生界に来世生を受けて、苦しみの果報を受け続けるようになります。
 ここにこそ仏様の慈悲があり、一切衆生に本当の喜びを与えて下さろうとしているのです。もう少し畜生界について、日蓮聖人の教示を頂きます。
 「畜生と申すは、其の住所に二あり、根本は大海に住す。枝末は人天に雑(まじわ)れり、短き物は長き物に飲まれ、小さき物は大なる物に食われ、互いに相恨んで、しばらくも休むことなし。或いは鳥獣と生れ、或いは牛馬と成っても、重き物を負わせられ、西へ行かんと思へば東にやられ、東に行かんとすれば西へやられる。山野に多くある水と草を飲み、思いて余は知るところなし・・・ 」(主師報御書)
 畜生界に生を受ければ、こんな思いをするようになるのです。貴方の周りに畜生が沢山いることを見て、畜生界が現実にあると疑ってはなりません。
 我が心を反省し、畜生の心を起こしていないかどうかと、常に反省するのが仏道修行のはじめです。「念々に」思う事が、現世の果と来世の果を生むことをしっかりと認識する必要があります。


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