2016年08月24日

人間の探究 581 日蓮正宗法華講員に対する破折

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※法華経

人間の探究 581 日蓮正宗法華講員に対する破折

 最近、「日蓮正宗法華講」と名乗る人から正理会に様々なメールがくるようになりましたが、低レベルでお話になりません。
 全く物事が理解できない人々です。言ってくることは一つです。「正理会の三大秘宝とは何か」「中杉さんは誰から相承を受けたのか」と、とぼけたことを言っているのです。この答えは簡単です。我々もそれに対してきちんと反論してあげていますが、反論されていることすらわかりません。
 「仏教における僧とは何か?」ということをちゃんと答えてあげているのです。僧の原理というものがわかっていないのです。僕は原理から答えてあげているのです。「そこから現在を考えなさい」と言っているのですが、わからないのです。
 僧というものは、仏道を目指す者の集団であり、仏道を極めるためには家や社会的なつながりを絶たなければ仏道は求められません。家のことが気になったり、社会における地位が心配だったら、仏道など求められません。だから、「すべて捨てなさい」ということです。
 社会的地位も家も名前も捨てるから、ホーリーネームをくれるのです。「私は伊藤太郎です」というと、「名前は捨てなさい。仏弟子になったのですから他の名前をあげましょう」というのが、ホーリーネームです。
 ホーリーネームが戒名になるのです。何故、生まれたときの名前ではなくて、他の名前になるのでしょう。戸田城聖先生は「わしは戒名はいらん!」と言われたのです。本当に仏教がわかっているから、「戒名なんて迷惑だ!」と言っていたのです。
 死んであの世にいったら、「戸田城聖君かね」と言われたら「はい、そうです」と言えますが、なんだかわからない戒名をつけられて「○○阿闍梨」などとつけられたら、「わしもわからんよ。面倒くさいから戒名はいらん」と言われたのです。戸田先生は本当の仏教がわかっている人だとわかります。
 そこで社会的身分も家も捨てて僧になると、それだけやれというのではありません。原理はそうです。「そこから考えてみなさい」と言っているのです。今になって、「阿闍梨様」「法主猊下様」「法主上人」「貫首様」「御前様」など、何を言っているのでしょう。そのような意味で言っているのです。
 「釈迦仏法の入り口をそのまま現代でやりなさい」と言っているわけではありません。仏教の発祥からみて、よくわかったうえで、それが社会的に編成されていきますが、原理はそうなのです。
 坊さんとは脱社会です。脱社会をした人が集まったところを「サンガ」と言ったのです。お堂、集団という意味です。
 僕はそのようなものの考え方をしています。現代の坊主に、「一銭ももつな!」と言っているのではありません。原点はそこにあるということを忘れてはいけません。
仏教とは何を説いたものでしょう。これも原点です。お釈迦様は最初に何を説いたのでしょう。それすらわかっていません。仏教とは四諦の法門を最初に説いたのです。四諦の法門とは何でしょう。「四つの悟り」という意味です。「四つの諦」と書いて「四諦の法門」と言うのです。
それは、「生老病死」ということを説いたのです。生まれるのは苦、生まれたものは必ず年を取っていきます。「いつまでも若くいたい」と思ってもどんどんと年を取っていくのです。年を取って老いていくことは苦痛です。最後は病気になります。これも苦痛です。死ぬときもまた苦痛です。癌になれば、全身に管を入れて麻薬を撃たれ、頭が狂い発狂して死ぬのです。痛みだけが止まりますが、頭が悩乱して真っ暗な部屋で死ぬのです。
「生まれるのも、老いるのも、病気になるのも、死ぬのも苦である」と悟るから、「四諦の法門」といいます。これが仏教の原型です。人生は生老病死の幕を追っていくのです。「僕は何とか苦しみのないように変わりたい。生まれるのも喜び。生きているのも喜び、病気になるのも喜び、死ぬのも喜び」このように変われればよいのです。仏教の救いとは、そのようなものです。
お釈迦様が最初に説かれたのが、四諦の法門です。これは今でも変わっていません。「これは小乗教だ」などとくだらないことを言うものではありません。この原理は何も変わっていません。
それは宇宙の法則とも言えます。誰も生老病死を避けることはできないのですから、宇宙の法則です。自分以外のものにあてはめると成住壊空といいます。宇宙ができたときが「成」、宇宙がいまある状態を「住」、宇宙が壊れるときがある「壊」、そして無くなるときがある「空」です。
人間も生老病死ならば、宇宙も成住壊空です。言ってみれば当たり前ですが、みなそう思っていません。「私はサプリを飲んで、どこまででも長生きをする」と言い、ドクター中松も「120歳まで生きる」と言います。中国ではこの間、260歳のジジイが発見されました。「自分だけは長生きする」「自分だけは死なない」と思っているのです。
この宇宙の法則は王様であろうと、乞食であろうと、生老病死です。地球も月も太陽も成住壊空です。そこから物事を考えていくのが仏教です。これは今でも同じです。何も変わっていません。
ところが時代が下るにつれて、人間は殺したり首を斬ったりしているのですから、のんびりしたことも言っていられません。その荒ぶる時代に「どのように仏教をわからせたらよいのか?」ということを皆が考えたのです。
竜樹が空を説き、天台大師が摩訶止観を説き、その時々にあった同じものをわかりやすく説いているのです。釈尊が法華経を説いたのもそのような意味です。初期の法華経の中には阿弥陀経も入っていたのです。法華経は仏教の集大成で8万6千巻も経典があったのですから、何を説いているのかわかりません。
「目次とエッセンスをつくりたい」と知恵ある者が考え、「仏教とは妙法蓮華経を説いたものなのだ」とわかったから、それに関連する素晴らしい教えを三十二章にまとめあげたのです。無量義経を入れて二十八品が法華経の原点です。最後の仏説観普賢菩薩行法経を入れて「法華経」としてまとめたのです。
無量義経は「法華経」とは書いてありません。仏説観普賢菩薩行法経も「法華経」とは書いてありません。真ん中の二十八品だけが、妙法蓮華経から始まります。
すべてある教えを集大成して、エッセンスをまとめて妙法蓮華経とつくられたのです。初期の頃は阿弥陀経も入れていたのです。後になってはずしたのです。
真言密教は「妙法蓮華経 陀羅尼品第二十六」です。空を説いた教えも法華経にあります。法華経の中で「何が有難いのか?」という論争になったのです。「妙法蓮華経 如来寿量品第十六は何が有難いのか?」というと、「仏の寿命は無量である」と説いたことです。
だからこれが一番有難いのです。教学的なことは、「妙法蓮華経 方便品第二」で説かれています。「何が一番有難いのか?」それは仏の寿命が永遠だということです。仏の寿命が永遠ということは、我々の命も永遠です。
それはすでに最初に説いた生老病死を脱した教えです。生老病死は苦しみです。それを脱して、仏の寿命が永遠であることを明かされたのが、「妙法蓮華経 如来寿量品第十六」です。「我らも死ぬように見えても、死は方便です。実は永遠に我々は生き続けているのです」と説いたのが如来寿量品です。
これが法華経というものです。日蓮大聖人様も「法華経を信じる行者である」と言われたのです。法華経を真剣にやってきたのです。「法華経を広める人間は難に遭う」と言われて、その通りになったのです。
佐渡島に流されて、自分の人生を振り返って、「私は釈迦仏法を修行するものではない。この末法において大白法を建立するために生まれたのだ」と気が付いたのです。そして、日蓮大聖人様は南無妙法蓮華経を建立されたのです。
南無妙法蓮華経の意味は二つあります。一つは法華経に帰命するという意味です。そのように考えるから身延山久遠寺の坊主は釈尊の像をつくり「南無妙法蓮華経」というのです。法華経に帰命するという意味が南無妙法蓮華経です。
日蓮大聖人様の仏教が知りたければ、「御義口伝」を読んでください。何と書いてありますか? 日蓮正宗法華講員は「御義口伝」を読んでいるのでしょうか? 南無妙法蓮華経と妙法蓮華経は、まったく違います。今はあえてこの説明しません。
前に僕が書いたところを読んで勉強してください。こんなことは常識なのに、それもわからずして、「ご法主猊下」「坊さんではない、ご僧侶と言え!」などと言い、なぜ坊主にはいつくばっているのでしょう。
僕は別に坊さんを否定してはいません。本来なら、坊さんは妻帯してはいけないのです。酒も飲んではいけないし、女がウロウロしてはいけないに決まっています。しかし、だからといって全面的に否定などしません。それでいいのですが、在家よりも坊さんが偉いということは、ひっくり返ります。
在家にも、維摩詰という人がいて、釈迦の十大弟子が参ってしまったのです。維摩詰は、商人で坊さんではありませんが、誰が論争をしかけても敵いません。維摩詰が来ただけで釈迦の弟子が「うわー!」と逃げてしまうのです。そのような人もいるのです。
あえて言えば、僕は維摩詰のような存在です。何の教祖でもありません。当たり前のことを当たり前に言っているのです。「狂った頭を直さなければいけない」と言っているのです。そうしなければ仏教の極意はわからないし、日蓮大聖人様が何を説いたのかわかりません。
君たちの頭では、煩悩即菩提、生死即涅槃、諸法即実相、色心不二、何もわからないでしょう。説明してみてください。このようなことを極めて原理を体得して、「日蓮大聖人様のご真意はこうだ!」と理解したのが僕なのです。
「尊敬しなさい」とは言いませんが、勉強しなさい。それを「三大秘宝とは何だ。答えろ!」などと、馬鹿な質問をするものではありません。目を覚ましなさい。何度でも答えてあげますが、もっと広く深く勉強しなさい。そうしなければ仏教はわかりません。

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2016年08月23日

人間の探究 580 日蓮正宗法華講の沼田君、御答えを読んでいますか?

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※保田妙本寺の万年救護の本尊

人間の探究 580 日蓮正宗法華講の沼田君、御答えを読んでいますか?

 最近、日蓮正宗法華講員から「これに答えろ!」という質問が入っていますが、これに答える前に、貴方がたは僕のブログを読んでいるのでしょうか? ます、それを問います。僕はブログを書いていますが、みなテーマを決めて書いています。
 最近の問題では国家と仏教について書いています。要するに神道と仏教の問題です。この問題にきちんと答えを書いてあげているのです。それを読んでいるでしょうか。
 仏教の大事なことと思われることをみな書いてあげています。それに対して何も答えはありません。読んだならば「ここが間違っている」と言わないと議論は深まりません。僕の言っていることは、まず100%間違いはありません。
 「三大秘宝」「一大秘法」と質問してきているのですが、それに対して答えを出してあげているのですが、それすらわかっていないでしょう。日蓮大聖人様の123体の御本尊の中で、「本門戒壇」と書かれた御本尊は一体しかありません。これは保田の妙本寺にある万年救護の御本尊と言われる本尊です。それとの関係性についても君たちは答えていません。
何故、弥四郎国重の本尊が「戒壇の本尊」なのでしょう。保田妙本寺の「万年救護の大本尊なり」と書かれた本尊を否定するのでしょうか。本尊に特殊な法力がかかっているならば、武田勝頼にかっぱらわれたりしません。それを誰かが質に入れて、保田妙本寺から、万年救護の本尊が出てきたいう話はあり得ません。そんなものを神秘的なものだと僕は思っていません。
 外道のキリスト教の神を、僕は神だとは思っていません。このキリストがなぜ信じられたのかということを教えてあげていますが、なぜ見抜けないのでしょう。キリストが出てきたのは、ローマ帝国に対する反逆です。ローマの市民にとって皇帝はありがたいものでした。お風呂は無料、劇場も無料、ビールも無料、パンも無料、ローマの市民にとって皇帝はまさに神です。
 反対に奴隷にとって皇帝は悪魔です。奴隷と市民は全く違います。奴隷はただ働いて奉仕するだけです。それをローマ市民が享受するという構造です。だから奴隷は「我らも神が欲しい」とキリストを持ち上げたのです。キリスト教が伸びてきた一番の原因はそこにあります。
 虐げられれば虐げられるほど、奴隷たちは自分たちを虐げるローマ皇帝を拝みません。他の者を拝みます。それがキリストです。そのようなことをちゃんと教えてあげているのです。「宗教とはそのようなものか」という理解が大事です。
 「一大秘法」などにこだわっていると、そこまでの宗教の理解ができません。「三大秘宝とは何か?」など、なぜそんなことを問題にするのでしょう。我々は全くそんなものを問題にしません。我々は大僧正、猊下、貫首など認めません。「馬鹿馬鹿しい形に仏教をもっていったのは誤りだ」と言っているのです。本当の日蓮大聖人様の仏教はそんなものではありません。
 「三大秘宝」などちゃんちゃらおかしいのです。本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇など観念論です。
もし、三大秘宝があるとするならば、それは我らの心の中にしかありません。そんなものを国の中心にそえて拝めば「国家安泰になる」など、間違った考えです。
 僕はすべてのインチキの宗教を破壊しています。人間性を貶める宗教は大嫌いです。もちろん、念仏、禅宗、真言宗、律宗も大嫌いです。四箇格言の通りです。日蓮正宗まできて、まだ「本尊に迷えり」なのです。
 「本尊に迷えり」とは、「何を根本にすればよいのか?」ということを迷っているのです。「この本尊に迷える」という意味ではありません。「仏道修行者は何を本尊にしていけばよいのか?」それは、南無妙法蓮華経が本尊です。そんな簡単なことを教えてあげているのにまだわからないのです。
 宇宙にゼロはありません。こんな自明の理を沼田さんはわかっていますか? それと同じで仏教の悟りは宇宙にはありません。宇宙にゼロがなければ仏教の悟りも宇宙にはないのです。ないものをわかっていくことが信仰です。
 「南無妙法蓮華経はこの御本尊だ」というものが、あるわけがないのです。これを言うならば、「生老病死」とお釈迦様が言いましたが、「生老病死はどこにあるのか?」ということと同じことです。お釈迦様が石像をつくり、「これが生老病死だ。これを拝め」と言われることと同じことです。
 南無妙法蓮華経と生老病死は同じことです。その時代と応用の仕方により文句が変わってくるのです。生老病死と南無妙法蓮華経が同じものだと沼田君にはわからないでしょう。違うものだと思っているでしょう。
 末法の人間が生老病死を理解することは簡単です。南無妙法蓮華経と同じことなのです。それと同じで天台大師の一念三千の法理と、妙法蓮華経と、南無妙法蓮華経は同じものなのです。すべて仏様のお悟りです。仏様の悟りが違うなどあり得ません。同じものをみな悟っているのです。
 その時代に応じて、或は言語の違いによって、内容の表現の差はありますが、中身は同じものなのです。妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の違いについて、沼田君たちはわからないでしょう。君たちの教学は、まったくトンチンカンの方向へ行っています。日蓮正宗法華講は本尊奴隷、坊主奴隷です。そんな宗教は間違っています。
 その宗教を信じることにより生から解放されて、宇宙の根本に到達していくということが、本来の宗教です。君たちの質問はレベルが低くて仕方ありません。「正理会の三宝は何か?」そんなものはありますが、三宝とは大事にするという意味の「お宝」です。
 正理会の三宝は、杉田昭二作「龍神刀」です。君たちに見せることはありません。これは宝刀であるが故に見せることはしません。もう一つあります。「龍神」が正理会にはいます。ヒスイに彫った5キロの龍神です。もう一つ、うっちゃんがいます。
 「うさぎの神様のようなうっちゃんとは何か?」と質問してきた人がいます。うっちゃは、いつの頃からか正理会に来た神様です。君たちが言う神様ではありません。精霊界に通じている神様です。
これをあえて理解させようとするならば、三島由紀夫の『金閣寺』という小説の中にあります。「金閣寺の上には鳳凰がいます。この鳳凰は本当の鳥なのでしょうか。空を飛ぶ鳥と、金閣寺の鳳凰では、どちらが本当の鳥か? 普通の鳥は空間を飛びます。金閣寺の鳳凰は時空という時を旅しています。本当の鳥とは鳳凰ではないのか」三島由紀夫は、このように解釈しています。
 そのような解釈をしてみればわかります。うっちゃんは神様と言っても考え方が違います。時空を旅している精霊界の神様です。これは作り物だからこそ精霊界なのです。生きている物は動物の宿命を負っています。そのような意味での軽い話です。
 龍神様はヒスイでできています。正理会に逆らうと龍神様が大罰を与えにいくのです。これはあるかもしれません。正理会に龍神様が来た話は、僕のブログに載っています。これもよく読んでごらんなさい。とにかく、もっとレベルをあげなさい。
 正理会で御本尊セットを販売していると言っていますが、御本尊は修行のアイテムです。法華経も修行のアイテムです。初心の人は南無妙法蓮華経が何もわからないので、そのような初心の修行者に修行のアイテムとしておわけしています。「これが神様だ」「絶対に帰命するものだ」ということではありません。
 我々が考えている絶対に帰命するものは、南無妙法蓮華経だけです。御本尊にもインドの神や、鬼子母神も入っていますが、そんなものを我々は信じていません。「南無妙法蓮華経 日蓮」だけを頂いています。
 この国には日本の神様がいますから、インドの神はいりません。

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2016年08月22日

人間の探究 579 「200年先を見よ!」という創価学会

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※仏教は百済人達により日本に入ってきたのです。しかも最初に来たのは経典ではなく、「これを拝んだら如何でしょうか?」と仏像が入ってきたのです。ここに重要な意味があるのです。

人間の探究 579 「200年先を見よ!」という創価学会

 ここのところ創価学会は汚点が2点出ています。自民党と共に舛添要一を推薦したことは、見事な失敗で大恥をかきました。次は増田寛也を応援して、これは見事に落選しました。創価学会はやることなすこと滅茶苦茶です。
 このことを指摘して学会員に聞くと「200年先を見ていなさい!」と言います。このようなことを言うようになったということは、学会は理論的に破たんしたのです。どうしていいかわからないのです。今、何を頭に立てて戦っていくのかということがわからないのです。
昔はスッキリしていたのです。大石寺の御本尊を世界に広めることが目的であり、そのために魔と戦うのが公明党です。
 ところが創価学会本体が壊れてしまっているのです。何をする団体なのか、わけがわかっていません。「池田大作会長のお言葉を永遠の指針にする」と言っても、本人は口も聞けなくなって歩けないのですから、何も発言できません。ある程度の推測はつきますが、死んでいるか、生きているかはわかりません。
 ともかく、創価学会は中心軸がなくなってしまったのです。誰が学会員を指導するのでしょう。東大出身の原田稔会長が指導するのでしょうか? 誰も原田の言うことなど聞きません。頭がいいか知りませんが、池田大作のイエスマンの腰ギンチャクです。
 原田稔は昔、新宿で飲み歩いていたのです。原田のグループがそろって、毎晩新宿を遊び歩いていた時期があったのです。ホステスのいる店に行って飲み歩いていたのです。僕もちょうど新宿で飲み歩いていたころで、エレベーターで原田とバッタリ出会ったことがります。原田は学生部の時から頭の真ん中にコブがあったのです。それがいつの頃からかコブを取って、いつの頃からか会長になったわけのわからん男です。この男がどのような指導者なのでしょう。創価学会には誰も中心点になる人物はいません。
 創価学会は理論的に破綻しているのです。「広宣流布とは何か?」「仏教とは何か?」「日蓮大聖人様と他の仏教との関係」「世界平和と創価学会の目的」もわかりません。
 なぜかと言うと、創価学会は最初に「日本」ということを落としてしまったのです。「日本」と「天皇」が抜けているのです。日本の伝統とは、天皇に行きつくのです。天皇は誰がつくったものでもなく、昔から天皇はいるのです。
 日本の歴史は天皇から出ています。文化、文芸、伝統、和歌、ものの考え方など、すべてのものが天皇を発祥としています。それを創価学会は最初から落としてしまったのです。
 「日本に天皇はいらない。わずかな小島の主だ。日蓮大聖人様の仏法が広まれば、天皇などなくなるのだ」このような考えですから、皇室を敬わないのです。それと同時に日本の歴史を教えません。民族の歴史も教えません。日本古来の古事記も日本書紀も教えません。
 創価学会員は何も知りません。一番教えなければいけない「日本」ということが、創価学会の教義から抜けているのです。「文化大恩ある韓国。我々は東洋の人々と仲良くしなければいけない。インドこそが仏教伝来の国である。次に中国に来て、朝鮮に来て、日本に来たのだ。世界の大国はインドだ」と言うのです。
 創価学会はしばらく前に、「インド展」をやりました。東南アジアの法華経を集めて「大法華経展」という展覧会を開催したのです。もうどうしていいかわからないのです。結局、日蓮大聖人様ではなくて、「法華経に帰ろう」と言い出したのです。
 創価学会は日蓮正宗と喧嘩をして波紋になってしまいました。そちらには行けないから、「法華経の原点に帰ろう」ということです。それでも上手くいきません。その原因は簡単です。創価学会から「日本」「天皇」というものが落ちた教学をつくってきたので、結局仏教同士の争いになってしまい、どこに中心点をもっていけばいいのかわからないから、教学が「無国籍」になってしまうのです。だから教学に何も訴える力がないのです。
 きちんと「仏教とは人々が成仏するためにあるのだ」と教えないから、目標がなくなってしまったのです。だから「お仲間宗教」になってしまったのです。
 主張するものは何もありません。ただ学会員が口で言っている「世界平和」とは、抽象的な言語です。今、世界各国でISISが暴れまくっています。ロシアとウクライナの紛争、中国が尖閣列島の領海侵犯をしています。争乱ばかりです。世界平和とは、お題目だけです。「どうしたら世界平和ができるのか?」という路線は何もありません。そのようになってしまったのです。
 創価学会は何を目指して進んでいくのかわからなくなってしまったので、「200年先を見ろ!」と会員に教えたのです。これも抽象的な言語です。今のことが何も言えないから、「200年先を見ていなさいよ。必ずわかる時がくるから」と教えて、会員を騙しているのです。「200年先?」今は何もないということを証明しています。
 これは無責任な言葉です。その言葉を聞いて僕は「遂に創価学会も200年先と言い出したな」と思いました。「200年先」と言うならば、それには重要な理念がなければいけません。創価学会は理念が何もありません。哲学がないということです。あったとしても、低級な哲学です。仏教がなんたるかも知りません。仏教が何であるのか知らないということは、「日本神道とは何か?」ということは、まったく知りません。
 「神社は悪魔である」と言い、ばかげたことを言ってきた創価学会に神罰が下っているのです。「日本」を教義の中に入れておけば、いくらでも立ち直れます。今は日本的なものがどんどん目覚めてきています。すると創価学会はどんどん薄まってしまいます。学会の主張に「日本」はありません。
 今回の都知事選では桜井誠さんが11万票も取りました。学会の主張は、どんどん薄くなってきているのです。自民党と組んで舛添を押して、増田を押してきたけれども、ろくでもない結果です。小池百合子さんに票が集まってしまいました。創価学会は未来が見えないのです。だから、「200年先を見ろ」と言うのです。学会員は「200年先を見ていなさいよ、わかるから!」と言います。200年先は何もわかりません。
 これは日蓮正宗も同じです。日蓮正宗の過ちも天皇がありません。本来、「開かずの門」は、天皇陛下の勅使門です。そこを天皇陛下の勅使が通り、広宣流布を宣言するという約束だったのに、いつの間にかそれを言わなくなってしまったのです。
 日蓮正宗は創価学会と結託して「天皇」を抜いてしまったのです。大石寺には紫宸殿御本尊がありました。「紫宸殿」とは、天皇陛下に与える御本尊です。それを日顕が「そんなものはありません。紫宸殿とは、師匠と弟子が一緒になってつくる御本尊だ」などと馬鹿なことを言ったのです。天皇に与えるのが「紫宸殿」です。そのための御本尊があるのに、そのようなウソを言ったのです。日蓮正宗も現罰が出てきたのです。
 樋田昌志君、君は天皇をどのように考えるのかね。君たちの頭の中には天皇はないだろう。天皇がないということは、日本の歴史が抜けているのです。だからダメなのです。
 仏教伝来は538年です。仏教とは蛮神=異国の神です。その前から日本には神道がありました。2800年の歴史があるのです。仏教は百済人達により日本に入ってきたのです。しかも最初に来たのは経典ではなく、「これを拝んだら如何でしょうか?」と仏像が入ってきたのです。ここに重要な意味があるのです。
 「日本以外の他の国ではこの仏像を拝んでいます。日本も拝んだらどうでしょうか?」と百済人が言ってきたのです。天皇は悩んで蘇我の一族に拝ませたのです。それが日本の仏教の始まりです。
 仏教の基本は偶像崇拝です。教義は後からきたのです。教義は滅茶苦茶です。様々な教えが八万四千もあります。法華経の中に昔は阿弥陀経が入っていたのです。法華経二十八品とは、仏教を整理してまとめてエッセンスをつくり集大成したものです。だから阿弥陀経も入っているのです。
 般若心経も入っています。真言密教も陀羅尼品に入っています。法華経の中には入っているのです。それがお互いに矛盾したことも言っているのです。教義はわかりません。「まだあります」とどんどんつくっていくのですから、仏教の実像がわからないのです。
 日蓮大聖人様の言われた法華経とは、法華経二十八品ではありません。その奥にある南無妙法蓮華経という教えを取り出されたのです。法華経二十八品は究極のところは、一品になるのです。だからみな「妙法蓮華経 如来寿量品」と「妙法蓮華経」をつけているのです。それをさらに統一されたのが、南無妙法蓮華経です。日蓮正宗法華講の樋田昌志君も、沼田君も、そのようなことをよく勉強してください。

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2016年08月20日

『般若心経の大予言』■諸法はそのまま実相の原理 31

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※妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり

『般若心経の大予言』■諸法はそのまま実相の原理 31

    舎利子 是諸法空相 不生不滅
    不垢不浄 不増不減

 さっき舎利子よ、と呼びかけたのに、また舎利子と呼びます。これだけ見ても、ここが重大なところだと分かります。
 262文字という短い文章の中に、仏教哲学の極意をつかむのですから、一文字も無駄にできないはずなのに、しかもこの般若心経には他の人間が誰も出てこないのに、二度も呼びかけるというのは、よほどここが大事だという事でしょう。
 「良く思索しなさい。ここはどこまでも深いのですよ」という事なのでしょう。従って、ここは私がいかに解説しても十分ではないと心得てください。
 是諸法空相(是の諸法の空相)は、法華経方便品には「諸法実相」と出てきます。日蓮聖人は、諸法の実相と読むのではない、諸法即実相と読むとご教示されています。
 諸法の実(空)相か、諸法即実相では、まるで意味が違います。諸法の実相とは、諸法の奥に実相があるという事であり、諸法と実相を分けた二元論的思想であります。
 諸法即実相は、諸法がそのまま実相なのですから、奥の裏も表もないことになります。また諸法が問題です。法というと我々はすぐに科学の法則を思ってしまい、法科出身者なら、憲法・法律の法を思い浮かべるかもしれません。
 しかし仏教での法の使い方は、|蝋堝圧範としての法 ∧陀の教えそのもの 絶対の真理 ち院´ニ楴繊´β減澆覆匹吠けられますが、この法の使い方を誤ると、仏教はまるで理解できなくなってしまいます。
 また、法の解釈によって仏教哲学の理解の深さがまるで異なってしまうのです。仏教は客観存在世界などを説いたものではないのですから、「客観論の法」は考える場合にこれを避けたほうが無難でしょう。
 諸法とは「十界論」で説明しましたように、十界の法と知らねばなりません。この事を理解していただく為に、長々と十界の説明をしておいたのであります。我々の縁起して出てくる真の実存こそ、諸法の正体なのであります。故に諸法はただちに実相となるのです。ここの「諸法空相」も同じ事で、我々に瞬時・瞬時如々として来る九界実存は、すべて空相であると教えられているのです。
 仏教はあらゆる事物が空だなどと言っているのではありません。九界の命は縁起体であり、変わらざる実体ではないという事を言っているのです。
 実存としての地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の命は、縁に触れれば必ず出てきます。故に「法」といっているのです。法はどんな性質をもっているか、「法性」は妙としかいいようがないのです。
 九界の一念が出ているときは、他の念は出ません。地獄界と天界が同時に出ることなどあり得ないからです。実存は必ず一念です。
 しかし、この一念は他の念を潜在します。今、作動しつつある一念心は他の余念も全て含むからです。そして、もし十界の一念心だけのものがあれば、怪物・妖怪です。一念心には必ず相のようなものがあります。
 地獄の一念が作動している時には、地獄を受けている自分の地獄相が働いているという事です。自己と環境ともに地獄であり、地獄の相とは自分だけの姿の事でもないし、環境の事でもないし、地獄相といっても相の如きものとしかいいようがありません。
 これが如是相という事で、地獄の性も体も力も作も因も縁も果も、本来究竟しています。その一念の実存の世界には、必ず国土があり衆生があり自分の五陰があります。
 一念は十界・十界は百界、百界は十如是で千界、国土・衆生五陰の三世間で、一念は三千を内包します。これが一念三千の概略です。一念三千であるが故に諸法なのです。
 この諸法は空相である、という事はどこにも実体などはなく、一念三千の諸法全て縁起体であるという事です。諸法の性質を全て明らかにしたのが仏陀であり、法性を妙といい九界の法は無明なのです。一念三千の正体は生じたわけでもなく、滅するわけでもない。故に不生不滅です。全てを含むが故に汚れているわけでもなし、浄化されるものでもない。
 故に不垢不浄であります。一念三千は実存の全てであるが故に、増えるわけも減るわけもないのです。故に不増不滅です・・・ここの解釈は法華経の極意である一念三千論を解らずして理解する事はできないのです。
 南無妙法蓮華経とは、事の一念三千でありますから日蓮聖人の御教示を仰がねばなりません。
「妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり、経とは一切衆生の言語音声を経とも云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或いは三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し己上」(御義口伝)

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2016年08月19日

人間の探究 578 日蓮を用いぬるとも悪しく敬まはば国亡ぶべし

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※国柱会の田中智學

人間の探究 578 日蓮を用いぬるとも悪しく敬まはば国亡ぶべし

 「日蓮を用いぬるとも悪しく敬まはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書)このような、お言葉が御書の中にあることを創価学会員も、法華講の連中も知っていますよね。これがどういうわけだか、わかりますか? 日蓮大聖人様の教えは国家に関係してきます。
戦前は「日蓮主義」と言ったのです。そこから生まれたのが、「国柱会」です。国柱会とは、「国の柱になる」という意味であり、田中智學がつくった会です。この人は最初、日蓮宗の坊主だったのですが、18歳のときに「こんなだらしいない宗門は、日蓮大聖人様の教えと違う」と考えて、身延山を降りて坊主から還俗したのです。そして、日蓮大聖人様の教えを徹底的に研究したのです。
戦前は石原莞爾や宮沢賢治も、国柱会の信者です。軍人や作家も多かったのです。日蓮大聖人様の教えである『開目抄』「我日本の柱とならむ 我日本の眼目とならむ 我日本の大船とならむ」から、「日本の柱が日蓮大聖人様の教えなのだな」と思って「国柱会」と名付けたのです。しかし、この柱という意味は、日蓮大聖人様のことであり、田中智學のことではありません。
最後はわからなくなってしまったのです。國體論については、非常によいことを言っています。国には国の体があります。個性のようなものです。日本の個性(國體)とは、どのようなものか?」ということを研究したのです。
國體の中には人工的につくった国體もあります。アメリカ合衆国はそうです。日本は一貫した伝わっている精神があり、その精神が國體になっているのです。「誰かがつくったもの」というわけではありません。日本の国體とは、天皇を中心にして成り立っているということです。
日本の國體は人工的につくったのではありません。何事も天皇を中心にしていくのが、日本の国體です。そこから生まれてきているのが、日本の文化、文学、伝統、すべて天皇に帰一するという考えです。国柱会は「日蓮大聖人様がそのように言われたのだ」という論義を立てています。
しかし、国が滅びてしまいました。戦争に負けたのです。ということは、国柱会の思想が間違っていたということになり、国柱会は今でも続いていますが、江戸川区の小岩で細々とやっています。会館もあり、ビルもあり、職員もいますが、戦前のように華々しく思想が復活することはありません。
「一人一殺」の井上日召もそうですが、「日蓮大聖人様の教えが根本だ」と言いながら、そのようなことをやっているのです。
田中智學は、2.26事件の首謀者だとされたのです。田中智學は法華経の研究者でsっひたが、同じ日蓮大聖人様を仰ぐと言っても、何かが間違っていたのです。
田中智學の信者である北一輝は「日蓮君」などと言い出したのです。「私も法華経の行者である。日蓮聖人も法華経を研究した行者である。私と日蓮聖人は何も変わらない。ただ、先輩と後輩の違いがあるだけで、私がお経をあげていると、この間、日蓮君が来たのだよ。一緒にお経をあげたのだ」と馬鹿なことを言いだしたのです。これは間違いです。「日蓮を用いぬるとも悪しく敬まはば国亡ぶべし」です。
国柱会の石原莞爾もそうです。あいつも日蓮聖人の熱心な信者です。しかし、間違ったのです。何を間違ったのでしょう。石原莞爾は「日蓮聖人の伝記を調べると、末法に仏が現れると言うが計算違いをしている。500年のずれがある。末法は今だ。だから日蓮大聖人は単なる坊さんである。この悪背末法は坊さんでは救えないのだ。だから私は将軍としてこの世界を救う。私こそが大本仏である!」とやったのです。これも日蓮大聖人様を悪しくうやまうということです。
みんなそのような誤りを犯しているのです。「日蓮君がお題目を唱えにきた」とか、「私こそが末法の救世主である」と言い出したのです。これは間違っています。
常に民衆の側は日蓮大聖人様に期待をするのです。国柱会と全然違う路線を出てきた創価学会は、国と結びついた日蓮教学ではありません。だからこそ、民衆は飛びついたのです。「国柱会の教学は聞き飽きた。石原莞爾も井上日召ももういらない」ということです。
創価学会は国に結びつかない宗教として出発したのです。「国はむしろ敵である。民衆の力で」と言い出したのです。戸田先生はそうは思っていなかったのですが、「民衆・民衆・民衆」で民衆を煽り、民衆に火をつけたのです。
創価学会は、「日蓮大聖人様の仏法は民衆の仏法なのだ」と言い出したのです。それがなぜ受けたのかというと、民衆の側が受け入れたのです。「民衆は国家権力に関係ない。民衆を救うものが日蓮大聖人様の仏法なのだ」ということを民衆が受け入れたのです。だから大きくなったのです。
創価学会の上にいた本山大石寺も、本当は国に関係してくるのですが、「我々は国に関係していないのだ。創価学会の言う通りだ」と言ってしまったのです。天皇陛下の勅使がくるときのために「開かずの門」(勅使門、または黒門)を用意してあったのですが、池田大作は「開かずの門をくぐるのは、時の創価学会会長の池田大作である!」とやってしまったのです。
本山も「絶対に違う。天皇陛下の勅使がくぐる門だ」とつっぱらなかったので、そのままになってしまったのです。それは間違いです。完全に日蓮正宗と創価学会は民衆立、民衆仏法として、日蓮大聖人様を利用したのです。
戦前に民衆はありません。国家の仏法として「一人一殺」として民衆は国家にとられていったのです。右翼、愛国者、いずれにしても「日蓮を悪しくうやまう」ということになったのです。
本当は民衆救済であると同時に、国家救済という二つの意味が通らなければ、本当の正しい仏教とは言えません。国はいらない、民主主義で仏教をつくるなどあり得ません。国というものがなければ、仏教は広まらないし、そこに住んでいる民衆も安定した生活ができません。だから日蓮大聖人様は『神国王御書』を現されて、天皇に与える仏教を教え示されたのです。
一般信者に向けてのお手紙には「天皇を敬え」などとは書いてありません。日蓮大聖人様は天皇にも仏法を与えて、民衆にも仏法を与えたのです。天皇は国法です。国法も大事、民衆も大事です。「この二つが癒合しなければいけない」という考えが、日蓮正宗にもありましたが、今ではこれを全部落としてしまったのです。だから朝鮮が母国のようなことになり、わけがわからなくなってしまったのです。そのような違いがあります。
いろいろな意味で「日蓮を用いぬるとも悪しく敬まはば国亡ぶべし」ということはあります。大きな点はこれを指摘しておきます。国法と民衆を満足させなければ、日蓮大聖人様の正しい仏法とは言えません。
大石寺はいつから天皇陛下に対するご祈念を止めてしまったのでしょう。我々が大石寺に行ったときは戦後の名残で、「代々の天皇陛下の恩ために」と言っていましたが、今はすべてカットです。「創価学会会長のご恩を」と言っても「天皇陛下の恩ために」とは一切言わなくなってしまいました。だからおかしなことになってくるのです。
「日蓮を用いぬるとも悪しく敬まはば国亡ぶべし」悪しくとはそのようなことです。

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2016年08月18日

人間の探究 577 ニセ仏教

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※横浜に富士山本門寺というお寺だか何だかわからないものがあります。そこにいた坊主の真似をした奴が小野寺日了(本名、小野寺直)といいます。

人間の探究 577 ニセ仏教

 横浜に富士山本門寺というお寺だか何だかわからないものがあります。僕も1回、マンションの1室を見に行ったことがあります。
 そこにいた坊主の真似をした奴が小野寺日了(本名、小野寺直)といいます。そこには、結構立派な板本尊があります。ちゃんと漆がかけてあり、字は金で貼ってあり、後醍醐天皇からもらった刀があります。日蓮大聖人様を荼毘に付したときの骨を入れてつくった日蓮大聖人様の像があります。それを持っているのです。
 後醍醐天皇が書いたと称する「本門寺」という看板があります。そのような装置になっています。なにしろ、そこはマンションの1室です。そこに行くと信者は「有難い」と御本尊を拝んでお金を置いて帰っていくのです。
 僕もどんなものかと思い、見に行ったこともあります。話も聞きました。どのような話かというと「大石寺の本尊は偽物です。私の苗字は小野寺です。日目上人の直系の子孫です。大石寺の直系が私であり、今の大石寺の坊主はニセ坊主です。私こそ直系です」と言うのです。
 「何故、直系ですか?」と聞くと、「これが後醍醐天皇からいただいた刀です」と言って見せてくれたのは脇差です。「後醍醐天皇はこのお寺こそが日蓮大聖人の本門寺だと言って額を書いてもらったのです。仏像は日蓮大聖人様を荼毘に付して骨をまとめてこねて造った像です」と言います。
その日蓮大聖人様の像が実にいい顔をしているのです。ちゃんと立派な顔をしているのです。そこに石田次男先生も行ったのですが、石田先生はひれ伏してしまったのです。「あれはすごい御本尊だよ」と言っていましたが、石田先生はどんな御本尊を見てもそういうのです。そのようなものをみると石田先生はしびれてしまうのです。要するに暗示が入りやすいのです。僕はそんな暗示は入りません。
 小野寺直はものすごくお寺の歴史に詳しいのです。そのようなものを文献学といいます。文献学とは、「日興聖人の弟子が誰で、その弟子が誰か」ということを実に詳しく知っているのです。日蓮正宗法華講の樋田昌志君など足元にも及ばない知識を持っています。樋田昌志君は小野寺直が苦手でしょうね。
大石寺もそれは評価しています。「小野寺は文献学をやっている」と言い、それは潰せないのです。文献学だと、「書類と書類で来い!」という話になってしまいます。そんな話になると両方とも収集がつきません。
 僕は「怪しいな」と思って見ていたのです。大石寺も「怪しいな」と思っていたのですが、攻め入ることもできなかったのです。
 小野寺直のところには「有難い」と言って、だんだん信者が来ているのです。勤行の仕方はお題目を三回「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と唱えればよいのです。お賽銭をあげて帰ってくるという簡単なものです。
 「勤行しろ!」「御書を読め!」とも言いません。どうせ信者はわかりません。「お前らは板本尊を拝めばいいのだよ」という姿勢は大石寺と同じです。それが今は結構大きくなり、横浜市戸塚区へ引っ越してお寺になっているそうです。僕は気持ち悪いから行きません。
 本門寺のマンションへ行ったときに、創価学会の青年部の部隊長を一人連れていったのです。すると、そいつはその御本尊を見て「ウェーーー!」とゲロを吐いてしまったのです。そいつは癌になって死んでしまいました。そのくらい暗示が入っていたのです。
 創価学会の青年部の部隊長は「大石寺の本尊以外、こんなお寺に入ってみたら大変だ!」と思って、ゲロを吐いてしまったのです。これは暗示の力です。暗示の力はすごいですね。そのような邪教もあります。
 邪教はまだあります。元日蓮正宗の信者で元出版社の社長の玉井礼一郎という人がいます。この人も松本勝也と同じで「どの本尊が本物か?」ということで、あちこちのお寺を訪ねて歩いたのです。玉井礼一郎はブラジル出身です。
池袋のお寺に行って、石碑になった御本尊を発見したのです。石に掘った御本尊を見て「これに違いない!」と閃いたのです。住職に頼みこんで、石に墨を塗り拓本したのです。
そして、「これで本尊を造らなければいけない!」と言い出したのです。玉井礼一郎の本尊は黒塗りで字が白抜きです。印刷屋ですから、それで本尊を印刷したのです。「これが本物の本尊だ。他の本尊はすべて偽物である!」と始めたのです。
 玉井礼一郎は御書のことは実によく勉強しています。御本尊を出してから奥さんに「お聖人様と呼べ!」と言い出してのです。「お聖人様」と言わないと奥さんでも口を聞きません。
 僕は「馬鹿だな」と思いました。何故、この男と知り合ったのかというと、石田先生のお宅に説法を聞きに伺っているときに、玉井礼一郎もいたのです。石田先生の説法を聞いていたのです。その後で池袋で本尊をつくって売り出したのですが、まあ信者は何人いるか知りませんが、そんな馬鹿があちこちに大勢います。
 僕はこのような奴らと一線を画していたから、相手もしないし、友達にもなりません。でも、創価学会員が論争したら、この連中にも負けてしまいます。なにしろ、御書を丸暗記するくらい勉強しているのです。小野寺直も御書はすべて知っています。教祖が言ったことなどよく知っていて、弟子は誰でどうなったのか実に詳しく知っています。
 「私は小野寺だから日目上人の直系の子孫である」と言うのですから、大石寺も手が出せないのです。日興聖人は聖僧だから子供はいません。いないはずですが、この人は小野寺の直系だと言っているのです。玉井礼一郎は教学の面から「本尊が間違っている」と言います。
 そのような馬鹿馬鹿しいことを死ぬまでやっていなさい。大石寺、創価学会、小野寺直、玉井礼一郎、この連中のどこにも仏教などありません。

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2016年08月17日

人間の探究 576 義に依つて語に依らざれ

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※仏教は鳥瞰(ちょうかん)するのです。僕は鳥瞰することが大好きです。上から見るのです。

人間の探究 576 義に依つて語に依らざれ

最近、日蓮正宗法華講の信徒と称する、沼田君が馬鹿な頭で因縁をふっかけてきていますが、チャンチャラおかしいのです。
「中杉博士が仏陀であると言っているけれども、誰によって任命されたのか、その文章をあげろ」と言うのです。馬鹿ではないでしょうか。
盛んに「お前たちが正しいという文証を出せ!」と言うのです。沼田君は「日蓮大聖人様は、「義に依つて語に依らざれ」と言っている。どこに正しいという語があるのか?」と言って逃げます。これを犬の遠吠えといいます。
 沼田君は「義に依つて語に依らざれ」の意味がわからないようですから、教えてあげましょう。仏法には様々な言葉があります。言葉の意味を知らずして、言葉尻だけを捕まえて捻じ曲げて解釈をしてはいけません。「義」によらなければいけません。
「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」(法華初心成仏抄)
 「義」とは何でしょう。「義」とは正義ということです。「ここにこのように書いてあるから正しい」というのは「語」によっている姿です。日蓮正宗がそのような言葉を使っているということは、「義に依つて語に依らざれ」という意味なのです。
 「日蓮正宗だから正しい」など、日蓮大聖人様の御書のどこにも書いてありません。どこにも書いていないから「だから正しくないんだよ」と言えば、新しいものは生まれません。新しい解釈も生まれないし、発展的な解釈も生まれません。
 今、新しいことを考えている人に700年前の人の「語」があるのでしょうか? 「語」などありませんが、700年後の人はその意味を吸い取って、「ここにこう書いてあるけれども、日蓮大聖人様の御真意はこうである」と立てていくことが、「義」です。
 「義に依つて語に依らざれ」とは、そのような意味です。もっといってみると、「徳川家の子孫だから偉いのだ。お前は誰の子孫だ?」ということです。徳川家の家系は偉くて、北条と比べて、「徳川の方が偉い」という理論と同じです。
 そうではありません。徳川家の子孫でも偉い人もいれば馬鹿もいます。北条家の子孫でも偉い人もいれば馬鹿もいます。何でもそうです。新しいものは出てくるのです。仏教もいろいろ解釈されて変わっているのです。同じものではないのです。
 当然、新しい解釈をする人が出てきてよいのです。どの人の解釈を根本にしているのかということが大事です。
 日蓮大聖人様の仏教を勉強しているとわかりますが、何が根本なのかというとこれは簡単なことです。それは正理(しょうり)です。一貫して貫いているのは、正理です。「予が弟子等は我が如く正理(しょうり)を修行し給え。」と『十八円満抄』に書いてあります。
 日蓮大聖人様は、正理を極められたのです。何の正理を極めたのでしょう。仏教すべてを研究して、全国のお寺を歩いて「この教義の中心になるものは何か?」と考えて、求めていったものは正理です。「仏教とはどのようなものか?」それを極められたのです。
 仏教には流れがあります。日蓮大聖人様は念仏のお寺に入り念仏の勉強もして、真言宗の勉強もしました。天台宗の勉強もしました。その結果、「釈迦の法華経が大事だ」と気が付いたときに、佐渡島に島流しに遭い、佐渡で猛勉強されて、そのときに直達正観されたのです。「私はお釈迦様の仏教を修行する僧ではなかったのだ」とわかったのです。お寺で修行したのでわかっているのです。釈迦の跡継ぎではないのです。
 本当に仏教がわかったから、釈尊の極意を超えた、悟りの境地を「南無妙法蓮華経」と立宗宣言されたのです。それから後の日蓮大聖人様は誰の弟子でもありません。その前は「天台沙門」、「真言宗27代の祖」、「本朝沙門」と言ってきましたが、それは一切捨てて、独自の法を御建てになられたのです。これが、南無妙法蓮華経です。それが日蓮大聖人様の正しい教えです。
 日蓮大聖人様は仏教を勉強して「仏教とは何か?」「何故、天台大師はこのように説いたのか?」「何故、禅宗は生まれたのか?」「念仏宗はどのような位置にあるのか?」という極意を極められたのです。「日蓮大聖人様の言いたかったことはこれだ!」とわかることが、日蓮大聖人様の信者です。
 仏教を勉強しないと何もわかりません。それを「板本尊を信じることが仏教だ」などと日蓮正宗は何を言っているのでしょう。創価学会は「世界平和を唱える池田大商人を信じることが仏法だ」などと言い、どちらもチャンチャラおかしいのです。
 樋田昌志君と学会青年部が戦って、樋田昌志が黙ってしまい逃げてしまったのです。ネットに出ています。日蓮正宗法華講がお得意の文証の話です。「この文証は知らないだろう!」と学会青年部に言われて逃げてしまったのです。そんなものは仏教ではありません。
 仏教は鳥瞰(ちょうかん)するのです。僕は鳥瞰することが大好きです。上から見るのです。細かいお寺の教義の中に入ってしまったら、仏教の全体が見えません。鳥のように上から鳥瞰して、仏教の全体や流れを見て、「日蓮大聖人本仏論は本当かどうか」「末法は南無妙法蓮華経しか人々を救えない」ということや、生命の実相を極めて、結論として「日蓮大聖人様の仏法は正しいのだ」と言えることが、日蓮大聖人様の信者です。
 「ここに書いてあるからこうだ!」「池田大商人の考えと違う」など、何を馬鹿なことを言っているのでしょう。坊主は酒を食らって遊んでいるのに、ふざけるものではありません。池田大商人はミイラになっていると言われています。自分を中心にしたばかりに、ミイラになってもまだ使命が終わらないのです。
 自分が消えてしまえば、池田教はなくなってしまいます。ミイラになっても、生きていることにしないと池田教は成立しないのです。そのような馬鹿同士が争っているのです。まだ、争えばよいのです。顕正会も妙観講も、みんな出てきなさい。馬鹿は退治してあげましょう。
ただ、僕のやり方は違います。馬上から一突きで首を刎ねてあげましょう。君たちと一緒にならんで肩を並べてなどやりません。僕が出かけていくときは馬に乗り、馬の上から串刺しにします。やられたい奴は出てきなさい。

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2016年08月16日

人間の探究 575 仏法と国法

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※「国法とは何か?」と煎じ詰めると天皇の法であり、国を治める法です。

人間の探究 575 仏法と国法

世の中には2つの道があります。1つは国を維持していく国の法律「国法」です。「国法」に従わないと罰せられて現実的に牢獄に入ることになります。国でつくった法が国法です。日本でいうと六法です。
それと同時に、「仏法」というものもあります。仏法とは仏がつくった法です。一見して「どちらが強いのか?」というと国法が強いのです。
国法は軍隊・武器・警察を持っています。「国法に従わない者は牢獄へぶち込むぞ!」というのですから、国民は権力には逆らえません。
反対に仏がつくった仏法に従わなくても罰せられることはありません。仏法に従わない場合は、自分が地獄へ行くだけです。仏が人を捕まえてきて「仏の教えに反することをやっているな。許さんぞ!」ということはありません。
日蓮大聖人様はこのことについて、「仏法は国法に必ず勝つ」と言われています。しかし、現実的にはそうではありません。権力を持っている側のほうが強いのです。「仏法が勝つ」ということは、仏法は道理だからです。
国法には道理はありません。
だから、「人を殺してはいけない」ということは、国法には書いてありません。「ドロボウしてはいけない」とも書いてありません。人を殺すと懲役刑が課せられます。「物を盗むと懲役何年」と書いてありますが、「やってはいけない」と国法には書いてありません。みなそのことには気が付いていません。
仏法は「人殺しはいけない」「ドロボウをしてはいけない」「人の奥さんを犯してはいけない」とはっきり言います。「何故なのか?」それは、やった本人が地獄へ行くからです。
だから仏法に従わなければいけません。仏法は軍隊を持ってきて「仏法に従え!」と抑え込むもことはありません。それが国法と仏法の違いです。国法では人殺しをやってもいいのです。「人殺しをしてもよい」とは書いてありませんが、人殺しをすると「懲役15年」「麻薬をやるとこうだよ」と書いてあるのです。「やってはいけない」とは書いていないのです。
これが国法と仏法の大きな違いです。国法を保っているからといって、立派な人格者になれるのかというとなれません。国法は人間をつくりません。罰せられるからやらないだけです。国法は「やってはいけない」という思想はもっていません。
国法では、軍隊で人殺しをすると罰する人はいません。それは国に主権があるかです。主権者である国が「戦争だ!」と言って人殺しをしてくると、誰も罰せられることはありません。他国が「あいつを死刑にしろ!」と言ってきても内政干渉です。お互いの国々でやっていることは何をやろうが口を出せないのです。
イスラム圏では、「姦淫した女は石を投げてぶち殺せ」というのです。姦淫した女は地中に首だけ出して埋められます。通った人が女の顔に石を投げるのです。みんなが石を投げるので女は徐々に死んでいくのです。「こんなことは残酷だからやめなさい!」と言っても、サウジアラビアのイスラムの法ですから、それは止められないのです。
「人道的ではない」と言っても、死刑制度そのものが人道的ではありません。そんなことは干渉しなくてよいのです。国法内で治まっていれば何をやっても許されるのです。
戦争へ行って人を殺してくれば英雄です。「私は敵兵を100名殺してきました!」と言えば、「たいしたものだな。君は英雄だ!」と言われます。「私は戦争で人を殺すのが嫌だから逃げ回りました」と言えば、「お前、牢獄へいれるぞ!」と言われます。戦争では価値観が反対になるのです。
外から人間の行動を規制するやり方は野蛮人です。法律に従わないと人が動かないというならば、それは野蛮人です。法律などなくてよいのです。本当は仏法だけあればよいのです。「人殺しをした牢獄だぞ」ということは、本人のために言っているのです。本人は「人を殺しても捕まらなければよい」と思っていますが、それは仏様からみた法律によりちゃんと罰せられるのです。人殺しはやってはいけません。
南無妙法蓮華経で考えてみましょう。南無妙法蓮華経は国法ではありません。「南無妙法蓮華経と唱えないと首を刎ねるぞ」とは言われません。自分が南無妙法蓮華経という仏法律である仏様の教えに従って生きていかないと、「とんでもないことになるぞ」という教えです。
それを池田大作大商人は、「今は天皇の国家ではないから民衆律だ。民衆が議会で決めることが国法だ!」と言っているのです。仏法とはそのようなものではありません。池田大作は仏法を知りません。
国法は民衆律ではありません。日本の国の国法は天皇からきているのです。憲法も天皇からいただいたものであり、その中で国民は生きているのです。「国法とは何か?」と煎じ詰めると天皇の法であり、国を治める法です。その下に議会があります。池田大作は、そのような理解ができないので、「今は民主律だ」と言います。
では、仏法も民衆です。国法の民衆と仏法の民主では何も生まれません。だから池田大作は「馬鹿だ」というのです。人々を治める法を国法といいます。内面を治める法を仏法と言うのです。
この仏法と国法がぴたりと一致したときに、人間は幸せになれるのです。天皇も南無妙法蓮華経の教えがわかり、国民も天皇のお心がわかり、無事何事もなく、「皆で楽しくやりましょう」というのが本当の理想国家です。

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2016年08月15日

人間の探究 574 妙法がわかっていない立正大学の安永辨哲

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※富士山西山本門寺

人間の探究 574 妙法がわかっていない立正大学の安永辨哲

安永辨哲先生は、有名な先生です。立正大学の学部長でもあり、教授でもあった人です。この人が昔書いた本が『板本尊偽作論』です。当時、大石寺の御本尊が写真に撮られているものが1枚だけありました。大石寺は御本尊を見せないのですが、どういうわけだか1枚だけ写真がありました。そこから判断して、「これは日蓮大聖人様がつくられた本尊ではない」ということが証明されたのです。字体から、何から何まですべて違います。
何故、大石寺の本尊の願主が弥四郎国重なのでしょうか。弥四郎国重など、どこにも実在しません。大石寺がその答えに対して因縁をふっかけて「いないからこそよいのだ!」と言ったのです。そんな馬鹿なことはありません。御本尊とは、「誰の求めに応じて書いた本尊です」と書きます。
大石寺は「願主・弥四郎国重が本尊をつくってくれと言ったのです。その願いに応じて与えられた弘安二年十月十三日の弥四郎国重の本尊だ」というのです。これを完膚なきまで破折したのが、安永辨哲先生です。当時は大変な話題です。偶像崇拝者が大石寺の板本尊を信じ切っていたのです。創価学会は発狂するくらい怒ったのです。
笠原一男先生は「一向一揆」という本を書いて、「創価学会は一向一揆だ」と言ったのです。それを言われた創価学会は真っ青になってしまったのです。そこで、安永辨哲に「偽本尊だ」と言われて、立ち直れないくらいのショックを受けたのです。
大石寺の板本尊が「変だな」と思う人は「先生、どうなんでしょうか」と、安永辨哲のところへ聞きに行ったのです。
学会の民音にいた松本勝也は安永辨哲先生から、いろいろ教わったのです。それから奴の「本尊を求めて」日本行脚が始まったのです。本当に北海道から九州まで日蓮宗のお寺を訪ねて周ったのです。安永辨哲先生の紹介もあって「御本尊を見せてくれませんか?」というと御本尊を見せてもらうことができたのです。全国の日蓮宗のお寺を訪ねて歩いたのです。
松本勝也は東海大学の物理学科を出ています。自費で徹底的に調べたのです。泊めてもらったりもしているので、日蓮宗のお寺については実に詳しく知っています。この松本勝也はなぜ有名になったのかというと、「創価学会は正本堂の供養金を取っただろう。本尊が偽物ならば供養金をもらう資格はないだろう。おれは裁判をかける!」と言って、創価学会本部職員のクセに、創価学会相手に訴訟を起こしたのです。
宗教関係の問題は裁判所が感知することではありません。そのような結論が出たはずです。信仰の問題を裁判で決着をつけることはあり得ません。そのようなことです。松本勝也は悩んで随分勉強した男です。
今は何をやっているのかというと、富士山西山本門寺の学頭になったのです。坊さんの学僧になったのです。すごい執念の男です。
この秘密もわかりました。学頭になったというから、お寺におさまって毎日お経を唱えているのかと思ったら、松本勝也はお寺にはいません。西山本門寺は草ボウボウでガタガタのお寺です。母屋は物置状態で窓からはダンボールが見えます。戸も傾いて、誰もいません。掃除もしていません。母屋の後ろに「信長の首塚」がひっそりとあったくらいです。
松本勝也も東京に住んでいて、行事のある時だけ行くのでしょう。何もやっているわけではないのです。日蓮正宗の猊下と同じです。そのようなことを感じました。
僕は安永辨哲先生に知り合って聞いたことがあります。「先生、妙法とは何ですか?」と僕は質問したことがあります。安永辨哲先生は盛んに「甚深微妙な法は、・・・」と言うから、わかっているのかと思って聞いてみたら、「妙法? 何のこっちゃ、わしゃさっぱりわからんよ」と言ったのです。これが答えです。
立正大学の学部長が「妙法」について、何もわかっていないということがあるのでしょうか? ということは、身延山の教学の親分は「妙法」をわかっていないのですから、誰もわかっていないのです。
正理会にも身延山崩れの愛国和尚が来ました。立正大学の学部長が何もわかっていないのですから、何もわかっていません。これは安永辨哲に代表される話ですが、「妙法とは何ですか?」と創価学会員に聞いても、日蓮正宗法華講員に聞いても、妙観講員に聞いても、顕正会に聞いても、まず答えられません。
これが答えられるということは、かなり学が進んだということです。わかってきたということです。これはよい質問です。「妙法とは何ですか?」「妙法蓮華経と南無妙法蓮華経はどう違うのですか?」「貴方が妙法について思っていることを述べてください」この三つの質問をすれば、だいたい信者のレベルがすぐにわかります。
誰も答えられません。僕のブログを読んでいる創価学会員、日蓮正宗法華講員、顕正会員、答えてみなさい。妙法がわからなければ何もわからないのです。仏教とは妙法を説いたものです。
このような頭の使い方をして頭を訓練していくのです。学部長や教授になって、「妙法とは何のこっちゃか、さっぱりわからん」などと言ってはならないのです。
「何のことかさっぱりわからん。信じればよいのだ」という言葉が次に出てきます。わからないものを「信じろ」とはどういうことでしょう。わかるから信じられるのです。わからないものを「信じろ」と言われても信じようがありません。
正理会で本当の教学を学びましょう。

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2016年08月13日

『般若心経の大予言』■空とは心のあやまちない判断 30

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※ 役者は舞台を降りれば休息できます。どんな悲劇を演じても、それは舞台の上だけの事です。我々の人生も、役者が自宅に帰って一杯飲んでお風呂に入って休めるように、帰る家を持たねばならないのです。

『般若心経の大予言』■空とは心のあやまちない判断 30

   舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
   空即是色 受想行識 亦復如是

 ここは般若心経の中心をなす部であり、もっとも有名な部分であります。ちょっと見ると、同じ事が二度いわれているようでもありますが、仏教のエッセンスを262字にまとめあげているこの般若心経で、無駄な文字など一字でもあるはずがありません。
 二度同じ事を書くというだけで、深い意味があると思わねばなりません。まず最初の色不異空・空不異色ですが、「色は空に異らず」といい、続いて「空は色に異らず」と続きます。
 色は前項で説明したとおり、物質や肉体などでなく、我々一人一人が見ている一切の世界の事です。その世界は一人一人異なり、自分の心を離れてどこにも実在の世界は無いと知る事が空という事です。
 それが確実に理解できる為には、自分に見えている世界は自分だけの世界(一人称現象世界)であり、客観の実在世界などはどこにも無いと知る事から始まりますから、これが非有という事です(客観世界は有に非ず)。
 有は、客観の実在世界を意味します。しかし自分にとって、一人称現象世界(色)は無いわけではないので、非無(主観世界は無に非ず)と表現できます。従って、空とは非有非無という事なのです。「色は空に異ならず」という事は、一般の人は色の世界と空の世界を二元論でとらえている事が分かります。
 まず一般の人は、有我論・霊魂説・万物実体説にかたまっていますから、それらの人に理解させるべく色と空と分けておき、これが不異と説明します。「同一」と「不異(ことならず)」は同じ内容であっても、見方がまるで違います。まず二を認めて「二に異らず」と考えるのが不異であり、「二ではなく最初から一なのだ」というのが同一であります。
 つまり「色(見ている世界)は良く考えると、非有非無ということと異なっているわけではない」と、やんわり教えます。さらに「空といっても色なのだよ」と逆からもやんわり教えます。
 本当に言いたい事は次です。「今、色と空に分けて説いたが、もともと色と空は分けられるようなものではなく、まったく同じものなのです」と、教えられるのが色即是空なのです。つまり「色(現象世界)はそのまま非有非無と知りなさい」という事です。
 現象世界は自分だけの一人称世界であり、客観的実在世界では無いと客観世界実在を遮って非有とし、では何も無いのかというと、自分にとっての主観一人称世界は有るわけですから、無を遮って非無といったのです。これが有も無も両方遮るので、双遮(そうしゃ)という事です。
 空とは心の過ちの無い判断であり、空は実在でもなく概念でもなく「判断」なのであります。空とは心に観ずる事であり、物質の本質が空というわけではなかったのです。非有非無と双遮をしますと、今度は「そうか、全てが心の影だったのか」となりますので、この観念論を正すのが、次の亦無亦有(やくむやくう)という事で、空即是色という事です。
 非有非無といっても色(現象世界)があっての事です、といって無も有も生かします。これが双照(そうしょう)という事なのです。また空仮中三諦から見れば、色即是空は空諦を示し、空即是色は中諦を意味しているのです。これは色を一人称現象世界と見抜いたところから始まるわけですから、色は仮諦・色即是空は空諦・空即是色は中諦と瞬時に悟り、空仮中の三諦を得ます。
 悟ったところは妙法であり、これを悟った方を仏陀(大覚世尊・三世の諸仏)といっているのです。従って妙法は仏陀・如来の胸中にしか存在しないのです。
 またこうも言えるでしょう。色不異空・空不異色は、衆生の立場から悟りに向かう論であり、色即是空・空即是色は仏陀・如来の立場からの解説といえます。
 これほど親切に解説されているところを見ても、ここは仏教を理解する上で大変重要なところだと知る事ができます。
 さて、最初に出てきた「舎利子」ですが、「舎利弗(しゃりほつ)」ともいって、お釈迦様在世中の十大弟子の一人で、サーリプッタの事であります。
 お釈迦様がご説法される相手を対告衆(たいごうしゅう)といい、どのようなレベルの内容かが、この対告衆により分かるようになっています。舎利子は智慧第一といわれた、もっともすぐれた仏弟子であったと伝えられています。
 お釈迦様の十大弟子とは、舎利弗(智慧第一)・目連(神通第一)・摩訶迦葉(まかかしょう、頭陀{ずだ}行第一)・阿那律(天眼第一)・須菩提(しゅぼだい、解空第一)・富桜那(ふるな、説法第一)・迦旃延(かせんねん、議論第一)・優波離(うばい、持律第一)・羅?羅(らごら、密行第一)・阿難(多聞第一)であります。
 舎利子は、一番弟子の中の一番弟子なのです。従って、経典の大事な部分には必ず舎利子が出てくると思って良いでしょう。
 さて、受想行識も復た是の如し、と続きます。これは前項の説明で、色即受即想即行即識が分かれば、ただちに理解できるはずです。
 色即是空・空即是色を我々の具体的な生活に約すとどうなるかといいますと、まずあらゆる執着心が雪のように消え去ります。生も死も、全て空と知るからです。これが人生の舞台裏です。
 そして、人生は舞台のようなものであると悟れます。自分は舞台にいるのか、現実の人生なのか区別がつかないのが「空」を知らざる人の人生ですから、舞台の上の悲しみに泣き、喜び怒ります。
 役者は舞台を降りれば休息できます。どんな悲劇を演じても、それは舞台の上だけの事です。我々の人生も、役者が自宅に帰って一杯飲んでお風呂に入って休めるように、帰る家を持たねばならないのです。
 「自分の本当の帰るところはどこか」それは地球上のどこを探しても、見つかるわけではありません。仏陀の説法を聞き、仏道を行じ、空を悟って「一心欲見仏」(一心に仏陀を見たてまつる)ところにしか、本当の安心立命できる実存の世界はないと知るべきです。
 あらゆる悟りの無い人が「苦」の世界にいる、この事が本当に分かった時に、慈悲の心がふつふつと湧いてきます。戦争・非劇、あらゆる不幸は真実の「生命」を知らざる愚かからくるのです。世界の人に仏の教えを伝え、地球を真の仏国土にしなければならないと思います。

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