2017年03月29日

人間の探究 731 今此三界等の事(いまこれさんかいとうのこと)

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※「譬喩品に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ我が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す」云云、」(釈迦一代五時継図)

人間の探究 731 今此三界等の事(いまこれさんかいとうのこと)

  妙法蓮華経比喩品第三の「今此三界等の事」についてです。
「譬喩品に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ我が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す」云云、」(釈迦一代五時継図)
三界とは色界・欲界・無色界です。この世界は3つのものから成り立っています。まず、すべての生命には欲望があります。人間は欲望からできています。欲望が実ためには材料の世界があります。これを無色界といいます。色界とは、生命が見ているの世界のことであり、この3つの世界が一念の正体と考えたらよいのです。
 一念とは何でしょう。「欲界から見る、色界から見る、無色界から見る」このように3つの世界から一念心は構成されていると見ます。命には無色界も入っています。無色界とは感覚のない世界です。
 例えば石や木や土や岩などは、切っても「痛い!」と感じる主体はありません。石そのものを切っても「痛い」とは言いません。しかし、人間というものを見た場合、人間は非情の無色界も入っています。
 髪の毛は切っても痛みはありません。爪を切っても痛くはありません。「痛くない」ということは無色界です。無色界とは、感情がないということです。そのようなものが集まって生命をつくっているのです。
 無色界が何万個か集まると欲望が現れます。この欲望がつくる世界を欲界といいます。わかりやすくいうと「山田花子さんの材料は何か?」というと、ほとんどが無色界です。山田花子さんという生命のほとんどは、無色界からつくられています。生命を持っているものは主体が出てきます。その主体は欲界です。
 欲望の固まりです。特にKさんはご飯に欲望を感じているのです。人の3倍はご飯を食べます。無色界が体なのですが、それをもっている主体は欲望であり、つまり欲界です。その欲望の世界から人間を見ることもできるのです。欲界を見ているということです。
 自分の体は欲望もあり、色界もあり、無色界もあります。これは生命のとらえ方です。その3つが一緒になって動いているのが人生です。動かしている原動力は欲界です。人間は欲望があります。「ご飯を食べたい」と思うのも欲界です。
 「魚を獲りたい」というのも欲です。「人の上に立ちたい」というのも欲です。女なら「男が欲しい」これも欲です。男は「女が欲しい」これも欲です。人生を欲望に渦巻いている世界から見ることもできるのです。すごい欲望がトグロを巻いて動いているのです。
 欲望だけの世界などありません。必ず無色界と色界の2つのものが入らないと人体を形成できません。欲だけで動いているわけではありません。欲は必ず無色界と色界の2つのものが入らないと人体は構成できません。欲だけがフワフワ飛んでいるわけではないのです。欲は無色界から形を創り形成しているのです。出てくるものは欲望の世界です。
 これが欲界・色界・無色界です。成仏とは、この3つにわたる成仏でなければ、本当の成仏ではありません。仏は三界から人間を見ているのです。我々が見ている世界とは違います。
 あそこに「山田太郎さん、山田花子さんがいる」などと見ていません。「あそこに欲界が動いている」と見ています。欲界の姿は無色界です。欲界・色界・無色界の3つが固まって、山田太郎さんが出来ているのです。そのように仏は見ているのです。
 仏は人権主義や、人間第一主義などという世界は見ていません。「あそこに欲界のすごい渦があるな」全てそのように見ているのです。人生とは蜃気楼のようなものです。その3つが固まって、一つの一念心をつくって一念心が人生になっているのです。
 各々の「欲界とは何か?」というと、これは十界論に近いのです。そのままではありませんが、十界論に近い世界です。畜生界も欲界です。人間界も欲界です。まして、修羅界などは欲の塊です。
 そのように見ていくと、「自分の命は何が一番多いのかな」「自分の欲界の命は何が出ているのかな」と反省していくのです。反省するためのものなのです。客観的に「修羅界のお爺さんが歩いている」ということではないのです。そんなことをいくら見ても仕方がありません。
 「自分がこの欲界の中の何をエネルギー源にして動いているのか?」ということを知ることが大事です。その正体を知ることが反省ということです。この欲界に従っていたのではまずいのです。例えば「サドマゾをやりたい」というのは欲界です。サドマゾなどをやっていたら、最後はとんでもないことになります。小泉純一郎のように殺すまでやってしまいます。
 首を絞めて「楽しい」と言っていますが、最終的には欲界は死に向かってしまいます。相手も殺して、自分も死ぬことになるのです。「私は欲界の塊なのだな。どのような欲界で動いているのだろうか」これが仏道修行の見方です。
 私という体を構成しているものは無色界です。欲界・色界・無色界の3つが集まって、人体もどきのものが私です。それが集合しているから、食べ物を食べると3つが集合して食べるということです。また、食べたものは血液に入って体の外側に広がっていきます。食べて離散して分解していくのです。これは欲界の働きです。
 この欲望が根本にあって、人生にアクシデントを起こしていくのです。「欲望をできるだけ出さないようにしましょう」というのが、小乗仏教の考え方です。贅沢はしない、お金はいらない、何もいらないのです。「着るものは落ちている布を拾い集めて縫い合わせて着ればよい」という考え方ですから、何の欲もありません。
なまじ少しでも欲があると「三畳間の家が欲しい」と思い、それが実現すると次に「10畳間の家が欲しい」と、どんどん欲望はエスカレートしていくのです。庶民は畑を耕していればよいので、欲などありません。ちょっとでも野菜が収穫できればよいのです。
人間が集まって王様になると何百人、何千人使うと欲望も大きくなるのです。欲望も多きくなるから「ぶっ殺せ!」という力が出てくるのです。「土地を奪って俺の物にする」ということもできます。
 金正恩もそうです。「水爆を落としてやるぞ!」と考えて、欲望が大きく動くのです。「世界中の女を集めてやる」アレキサンダー大王には3千人くらいの美女がいたのです。秦の始皇帝も3千人です。江戸城の大奥にも何千人もいたのです。すべて欲界のなせる業です。欲界の中に自分の身を亡ぼすものが最初から入っているのです。
 よく自分を見て「これは欲界だな、制御しないとまずいな」と自分を見ていかなければいけません。自分を制御できなくなるものが麻薬です。だから魔というのです。人間は一旦面白いと思ったらどこまででもやってしまうのです。欲望が広がっていくから、制御は効きません。止めることはできませんから、破滅まで行ってしまうのです。「馬鹿は死ななきゃなおらない」ということです。
欲界・色界・無色界という世界があり、それが3つ集まって生命が成り立っているのです。それを動かしている根本のエネルギーは、欲界のエネルギーです。それに命のない無色界のものまで引きずられて、自分の体の中に入ってきて一緒に行動していくということなのです。

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2017年03月28日

人間の探究 730 我慢偏執(がまんへんしゅう)

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※釈迦像の前で邪悪に笑う立正佼成会の庭野日敬(元霊友会ー豆腐屋のジジイ)邪悪な我慢偏執見本


人間の探究 730 我慢偏執(がまんへんしゅう)

 我に満じて執着することを我慢偏執(がまんへんしゅう)といいます。もっというと、頑固ジジイ、頑固ババアになって「私のことは心配してくれなくてもようござんす!」となるのです。だから「因業ジジイ」「因業ババア」と呼ばれるのです。
 因業ジジイ、因業ババアは「余計なお世話だ。余計な関心などもってもらいたくない」と言うのです。実際に折伏をすると、折伏された人はそのように言うのです。「結構でござんす。余計なことを言わないでください!」と言うのです。邪教の人間に対して折伏をするとこのように言ってきます。ところが今は創価学会が、このようになってしまったのです。
 昔は創価学会にもこのような時期があったのです。「東の佼成会、西の天理教を討て!」と大号令が下ったのです。僕は真面目だから毎日、立正佼成会をやっつけにいったのです。僕の近辺に天理教はありません。立正佼成会の本部へ行き「ちょっと宗教の話がしたいにですが」と言うと「結構です。そんな話は聞きたくありません」と言うのです。
 「帰ってください。警察呼びますよ」と言うのです。立正佼成会は本当に警察を呼ぶのです。3回言って帰らないと警察が来たのです。
 今は創価学会が立正佼成会と全く同じことをやっているのです。恥ずかしいことです。顕正会の連中が「ちょっとお話したいのですが」と言うと「結構です。話はしません」と、ドアをバタンと閉めるのです。「帰ってください!」と追い返しているのです。創価学会は自分たちが散々やってきたことを、今やられているのです。
学会が折伏に行ったのは、自分たちが正義だと思っていたからです。「自分たちは正義である。正義を知らない人に正義を教えなければいけない」そのような猛烈な使命感があって折伏に行ったのです。
立正佼成会のやっていることは正義ではありません。誰が考えてもわかるのです。立正佼成会は霊友会の支部長と婦人部長が脱会してお金儲けのためにつくった宗教です。だから教義はありません。
 長沼妙佼が口から泡をふいて倒れて「神のお告げじゃ〜!」とわめくのです。信者はそれを見るとビックリしたのです。結論は「本部に金を払え〜!」そういうことです。それは間違っているのです。
 立正佼成会員に「貴方がたは何を拝んでいるのですか?」と聞くと、「久遠元始の釈尊を拝んでいる」というのです。立正佼成会には、大きな黒い釈迦像が本殿にあります。それを拝むのです。それはおかしな話です。インドのお釈迦様の仏法はもう終わっているのです。
 正法・像法の2千年の間に終わっているのです。それをなぜ拝んでいるのでしょう。「創価学会は正しい」と思っていたので、このように言ったのです。
 日蓮大聖人様のお曼荼羅をハッピに書いたり、そんなことをやってよいのでしょうか? だいたい立正佼成会は、最初の頃は「法華経」などと一言も言っていなかったのです。霊友会のときに多少は習ったくらいでしょう。
 教義の中心になったものは、長沼妙佼がパタンと倒れてわけのわからないことをしゃべりだす霊能力です。「立正佼成会には教義がないではないか」と散々言われて、立正大学の安永辨哲に頼んでつくってもらった教義が庭野日敬の「法華経講義」という本です。
 立正佼成会は、自分たちの教義はありません。安永辨哲につくってもら;つた教義です。そして、「法華経という以上は本山がなければいけないな」と思って、身延山久遠寺に会員を連れてお参りしたのです。
そのうち、身延山久遠寺とお金を巡っての争いになって、「身延山久遠寺を本山とすることを辞めて、在家集団でいこう」ということになり、今の形が出来てきたのです。
 本当にひどい団体です。立正佼成会は色情の因縁が強いのです。支部長と婦人部長はみんなできてしまうのです。本当にそうなのです。立正佼成会は、色情の因縁があって、そこら中で男女の関係ができてしまうのです。
 それを見ていられなくなって「立正佼成会はお釈迦様の像を拝んでいながら、南無妙法蓮華経と唱えているけれども、ふざけたことを言っているものではない!」ということが創価学会の折伏の原点だったのです。
 立正佼成会の会員は真実だから答えられないのです。だから「帰ってくれ!」と言うのです。今の創価学会は立正佼成会と同じです。妙観講や法華講の言っていることの方が、よっぽど筋が通っています。
 「創価学会は筋が通っていない」と思うから、法華講員が折伏に来るのです。筋が立っていると思う方が折伏にくるのです。筋が立っていない方は、返答はできません。だから「帰ってくれ!」という言葉になります。
 これは一般的に言うと、日蓮正宗や顕正会の方が筋が通っています。顕正会は「国立戒壇を建立する」と言っています。「世界を平和にするためには、日本に国立戒壇をつくらなければいけない。それが日蓮大聖人様の御遺命なのだ。創価学会はそれを忘れてしまっているではないか!」と折伏に来るのですから、学会員は答えられません。
 創価学会は昔、「国立戒壇」と言っていたのです。それを「いつから忘れてしまったの?」と言われるとダマテンです。学会員は答えられないので「帰ってくれ!」になってしまいます。
大石寺の方が筋が通っています。創価学会員は大石寺に入信したのであり、何百万人の学会員は大石寺の信者です。それを組織して勝手に横取りしたのが池田大作です。「信者は俺のものだ。大石寺の信者ではない」ということが、喧嘩の原因です。
 池田大作は「信者は創価学会のものであり、大石寺のものではない」と言ったのです。これでは筋が通りません。そのことを追及されると創価学会員は黙ってしまいます。日蓮正宗の教義によれば、本山の管長しか御本尊は発行できません。それを創価学会員は信じてきたのです。
 それをいつの頃からか、創価学会はニセ本尊をつくりだしたのです。僕に言わせるとニセ物も本物もありません。そのような話になると、「理」は大石寺にあります。だから、樋田昌志君は調子に乗っかっているのです。樋田昌志君が正しいのではなく、大石寺の方が教学としては正しいのです。だから、天下を取ったような気持に成ってしまうのです。根本から見直せば、そんなことはありません。
 人間は理屈が通らない、反論できないときにカラに籠ってしまうのです。カラに籠った状態のことを我慢偏執(がまんへんしゅう)というのです。
 お釈迦様は法華経を説いて衆生を成仏させてあげようとしたときに、「結構です!法華経だけは聞きたくありません。私たちは充分満足していますから、法華経は聞きたくありません」と、5千人が言ったのです。これが、我慢偏執の姿です。一般世間でも素直に仏教が聞けないということは、我慢偏執している姿です。
 これがまた諸々の苦を招く原因になるのです。我慢偏執により、病気で苦しみ、或は金銭で苦しみ、人間関係で苦しみ、親子関係で苦しみ、会社で苦しみ、諸々の苦を受けるのです。この元凶になっているものは、全て我慢偏執です。
 法華経を素直に信じると我慢偏執が溶けるのです。「なんだ、自分は小さなものだったのだ。こんなものに執着して何をやっていたのだろう」と夢から覚めて素直な心になれるのです。素直な心にならなければ、お金持ちにもなれないし、健康にもなれないし、幸せにもなれません。これを教えているのが本当の法華経です。まず、自分の心の中の我慢偏執を直しましょう。

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2017年03月27日

人間の探究 729 衣座室(えざしつ)の事

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※衣座室を蘭室ともいいます。蘭の花の香りが漂う美しい所を蘭室といいます。仏様は蘭室にいるのです。そのことを衣座室ともいいます。

人間の探究 729 衣座室(えざしつ)の事

 妙法蓮華経法師品第十の「衣座室(えざしつ)の事」についてです。
不思議なことで仏道修行をしてくるとわかってくるのですが、仏様がいらっしゃる部屋を衣座室(えざしつ)といいます。ここは永遠の生命をもった人がいるところです。普通の部屋は成住壊空ですからなくなってしまいます。
 仏様がいる所は衣座室といい、これはなくなりません。霊魂の住まいです。僕も衣座室をよく感じます。衣座室にお釈迦様もいます。天台大師もいます。伝教大師もいます。日蓮大聖人様もいらっしゃるのです。戸田先生もいらっしゃるのです。石田先生もいらっしゃるのです。この部屋は和気あいあいとしているのです。
 楽しく法の話をして、和気あいあいとしているのです。馬鹿笑いなどはしていません。本当に和やかで日蓮大聖人様がいらっしゃる部屋を衣座室というのです。その部屋に入ることができなければいけません。
 「失礼します。衣座室に入ってよろしいでしょうか?」仏様「君は誰だ!」「はい、中杉です」仏様「入っていいよ」と言われればよいのです。衣座室に変な奴は入れません。そこに永遠の住所があります。そこに出入りできればよいのです。
 衣座室に入っていれば毎回、日蓮大聖人様の御説法が聞けるのです。戸田先生も、石男性もいて楽しいのです。本当の信仰をしていると、それがだんだん見えてくるのです。普通の人間には見えてきません。創価学会員のように選挙で票を誤魔化したりしていると、衣座室など見えてきません。
 創価学会員は衣座室ではなく、池田大作の病室を見ているのです。生命維持装置をつけられた池田大作の病室をいくら見ていても、何の意味もありません。
 信仰とは衣座室に行けるようにならなくてはダメなのです。「失礼します。私も入ってよろしいでしょうか?」仏様「おお君か、入っていいよ」と言われるような信仰をしていかなければいけません。
 そうでないと、「君は何のために衣座室に来たのだ? ここは朝鮮人の来るところではないのだよ」と言われてしまいます。それではダメです。衣座室には「朝鮮人お断り」と書いてあります。それは冗談です。
 衣座室を蘭室ともいいます。蘭の花の香りが漂う美しい所を蘭室といいます。仏様は蘭室にいるのです。そのことを衣座室ともいいます。
 下界の住人「君はどこから来たのかね?」と下界で聞かれて、「はい、衣座室から来ました」と言えれば一人前です。
私「昨日衣座室で寝ていましたから、今起きてきました」
下界の人間「え、君は衣座室から来たのかね」
私「はいそうです。では、お仕事が終わったので帰ります」
下界の人間「どこへ帰るのだ?」
私「衣座室へ帰ります」そのような信仰でいいのです。それがいつも頭の中に無ければダメです。
 自分が三悪道や修羅界をやっていたならば、衣座室など思いも浮かびません。そのように衣座室に入れる人だけが永遠の生命を体得できるのです。そこに入れない奴は下界の地獄をさまよっているのですから、どこにも幸せはありません。
 「あそこの部屋がいいかな。この部屋は幸せではないぞ」「この部屋がいいかな。そこにも幸せはない」「あそこにストリップ劇場がある。行ってみようかな」「あ、競馬場があった」などと、どこへ行っても幸せなどありません。
 たまたま休みで家に帰っていると、家に来るのは借金取りです。借金取りに「やっと、今日会えましたね。沼田さん。今日は競馬で儲かりましたか?」と言われてしまいます。沼田「いえいえ、私は競馬なんてやっていないですよ」そのようになって、立っているのも地獄、動くのも地獄、どこに行っても地獄になります。その内、本当の地獄界にストーンと落ちてしまうのです。
 地獄に落ちるとは、地獄の実存を得るということなのです。これは大事なことです。地獄の実存に入ってしまうのですから、動かないのです。それが無間地獄ということです。生きている間は地獄界を感じても、ご飯を食べている間や、お風呂に入ったり、一杯飲んでいると「いい気分だな」と思います。だから地獄そのものではありません。
 ところが地獄に落ちてしまうと、たまにも登れなくなって、地獄・地獄・地獄となって、地獄の実存を得てしまうのです。地獄そのものになってしまいます。そうなったら最後、もう上がれません。生命の実相はそのようになっているのです。
 無間地獄というから、どこまでも終わりがないと思うのですが、終わらないわけではありません。それも終わるのです。ただ、気が遠くなるほどの何百万年という長い間、地獄の実存を得てしまうのです。
 何故、そのようになるのかというとすべて理由があります。苦しいとき、痛いときには、時間が長く感じます。「早く終わらないかな」と思っても「痛い・痛い・痛い・・・・」と、無限に時間を感じてしまうのです。楽しい時は心が軽いから時間が早く経ってしまうのです。「もっと楽しい時間を過ごしたいな」と思ってもフワッと時間はなくなってしまいます。
 地獄は苦しくて長いのです。しかし、生命の法則から言うと、永遠に地獄であることはありません。少しは動くのです。「地獄が終わりました。これから上がり坂に入ります」というときに現れるのが、お地蔵さんです。
 地蔵をあちこに建てまくる人は馬鹿なのです。地蔵は地獄が終わるときに出てくるのです。そして、その人を助けるのです。いきなりではありません。お地蔵さんに出会う縁によって、生命が登るほうにまわるのです。
 長い間を経て、また人間界にポカッと生まれてくるのです。人間界に生まれると「地獄は恐ろしいから仏道修行をやろう」と思うのです。ところが、人間界に出てきてからすぐに三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を得るのです。
 雪山の寒苦鳥(かんくちょう)です。寒苦鳥とはヒマラヤにいる鳥です。夜になって寒くなると「小屋を造っておけばよかった」と思います。ところが昼間になると忘れてしまい、また明日になってしまうのです。夜になると「明日のお昼に寒いから小屋を造ろう」と思うのですが、お昼になると小屋を造らないのです。それをずっと繰り返しているのが雪山の寒苦鳥です。
 人間も同じです。「やっと人間に生まれたな。今度は仏道修行を始められるな」と思うのですが、できないのです。また、誘惑に負けてストリップに行ったり、パチンコ、マージャンなどの賭け事をやって、どんどん地獄界へ落ちていくのです。
 せっかく人間に生まれたのに、仏道修行をしないから、また地獄へ落ちていくのです。それを指して雪山の寒苦鳥というのです。これを覚えておくように。このようなことから衣座室を考えてみるのもよいと思います。

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2017年03月25日

『日本人に打ち込む100本の柱』南無妙法蓮華経の柱 32柱

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※神国日本に大百法である南無妙法蓮華経を建立された末法の御本仏である日蓮大聖人様。

土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
南無妙法蓮華経の柱 32柱

 これからの新日本人の精神は南無妙法蓮華経を深く学び日蓮大聖人の建立された大白法を根本にすえた人生観をもたなければならない。政治・経済・社会の上に南無妙法蓮華経をおき、能生の根源法(あらゆるものが生まれる根本の法)であり万物生成(ばんぶつができる)の根源法であるからです。南無妙法蓮華経は正義の根本であり、人類の一切を救うことのできる秘宝(これ以上の法はない)だからです。このことを深く学び極意を体得し新日本人にならなければなりません。このシリーズは日本人に打ち込む一〇〇本の柱と考えていますがその中でも一番の柱が南無妙法蓮華経の大黒柱なのです。 
日蓮大聖人が「母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(開目抄下)。
(念仏を唱えないならば母の首をはねるぞ、と驚かされても、そのほかのいかなる大難にあおうとも、南無妙法蓮華経の義が智者に破られないのなら南無妙法蓮華経の正義をやめるわけにはいかないのです。私は日本国の柱であり、日本国の眼目であり、日本国のすべての人が苦界に沈むのを救う大船であるからです。)
 これが、日本に打ち込まれた仏法の柱であり、日本人、いや全世界を救う柱なのです。いままさに日本人は柱なしのぐにゃぐにゃ国家であり、くらげみたいに骨がありません。利害だけで動く精神の支柱なき国家です。柱もなければ眼もなし、乗る船とてない泥舟に国家が乗っています。この泥海に打ち込まれたのが南無妙法蓮華経という大黒柱なのです。

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2017年03月24日

人間の探究 728 無量義は一法より生じる

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※「自然界はみな一つ」という結論に帰っていく必要があります。それを教えているのが一法ということなのです。

人間の探究 728 無量義は一法より生じる

 法華経の教えは三部あります。入り口論として無量義経があります。無量義経は三品から構成されています。法華経は二十八品から構成されています。最後は仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)です。非常にこれは意味深です。
 無量義経は非常に難しい経典です。この無量義経の中に「無量義は一法より生じる」という言葉があります。この言葉の意味がみなよくわかっていないのです。
「無量義は一法より生じる」左には「無量の義」があります。これは「あらゆるもの」という意味です。右手には「一法」と書いてあります。「あらゆるものは一法である」と読めるのです。
これは諸法実相などと同じ考えです。諸法即実相です。諸法の実相ではありません。「諸法はそのまま実相である」と読むのが諸法実相の本当の読み方です。
無量義というと、「無量のものは、一法より出ている」と思うけれども、そうではなく「無量義即一法」です。そのように考えると、この真意がよくわかると思います。この世に分別を持って見るならば、どこまででも分別をされるので、まさに無量義経徳行品第一の「34の非」としかいいようがありません。
例えば花と言っても何千種類の花があります。菜の花、たんぽぽ、蓮華、花を見ると一つ一つ違います。何万種類という花があります。木もそうです。何万種類あります。動物もゴリラ、シマウマ、カバ、ワニなどを数えたら、数限りな種があります。これらは無量です。
人間もそうです。人間の種類はアフリカの黒人から始まって、「これは人間か、猿か?」と思うような、身長1メートルのピグミー族のような人間もいます。そうかと思うと、2メートルもある黒人もいます。人間と言っても様々な人種がいます。
空を見上げても星があり、太陽があり、月があります。これは無量の義です。地面を見ると富士山があり、ヒマラヤがあり、砂漠があり、いくらでも分別されていくのです。分別は無量です。人間が進歩発展していくとうことは分別が増えるということです。
進歩発展していくと分別が複雑になるのです。分別しない人間は簡単です。「人の物は自分の物、自分の物も自分の物」です。それで分別は終わりです。それ以上、先へは進みません。これは無分別の考え方です。
この分別の思想に優れているのは、西洋人です。西洋人ではどんなものでも量にしてしまいます。音楽にしても「音」というわけのわからないものを楽譜でとらえるという考え方がすごいのです。楽譜は分別です。
その音が高い音かドかレかミかを決めるのです。それを音符で表すのです。それも八分の一拍子なのか、二分の一拍子なのか、これもちゃんと表すことができるのです。音階がとらえられて、それがどのような速さをもっている音なのか、強さをもった音なのか、弱い音なのか、すべて楽譜で表現できます。
西洋文明の特質は分別にあります。そのように考えたらよいのです。スピードにしても、すべてグラフに表すのです。しかも、細かく瞬間におけるスピードや加速度まで計算して答えを出せるのです。これが西洋文明の特質です。
ところが不思議なことに日本人は西洋人と同じことをやっているのです。しかし、表現していくことが下手なのです。数学にしても微分積分にしても関孝和がやっていました。同じことをやっているのです。ところがライプニッツなどが表した微分積分は誰でも伝授できるのです。記号の使い方がきちんとしているので、それは人に伝えていくことができるのです。
関孝和の微分積分は西洋のものと同じですが和算という手法を取ったので、人に伝えにくかったのです。そのような問題点があります。それは日本文化が無分別に根をはっているという特徴があるからかもしれません。
西洋文明は根本的に分別です。聖書の天地創造を見てもそうです。「神は誰を最初に創ったのか?」ということを正確に教えます。「神は天と地を最初に創ったのです。どのように神は創ったのでしょう。次に何を創ったのでしょう。動物を創ったのか、植物を創ったのか、人間を創ったのか?」ということを実に細かく書いてあります。
キリスト教徒達は、「神が分別している順番を絶対の真実だ」と思い込んでいるのです。例えば、世界を創るときに人間を先に創って、動物を後から創ってもよいわけです。それではダメなのです。「神はそのように言っていない。動物を先に創って人間を後から創ったのだ。これはどのような意味を持っているのか?」という考え方をするのです。キリスト教徒は聖書を絶対に疑いません。
キリスト教徒達は神が世界を創った順番を考えて、「そうか、そのような意味で人間は後から創られたのだな」とわかっていくのです。これは分別しているのです。西洋文明は無分別ではありません。分別文明と無分別文明があるとすると、日本人はどちらかというと、分別している民族ですが、根本にあるものは無分別です。
日本神道では、神も人間も同じです。人間が神に成ったのです。この「成る」という言葉は分別ではありません。日本神道では神も人間も同じです。
それはともかくとして、「無量義は一法より生じる」と書いてある法華経の言葉をどう受け止めたらよいのでしょう。無量義とは、分別して無量の義が出てくるのですから、分別したところのものは、たった一つの分別している法が原因です。このことを「能生(のうしょう)の根源」といいます。「能生の根源」とは、「物事が能(よ)くでてくる」という意味です。「能く出てくる」というから能生というのです。
何が出てきても不思議はありません。出てくるところの法は一法です。出てきたところを所生(しょしょう)といいます。出てくる源を能生(のうしょう)といいます。
そのように考えていくと、西洋のスピノザの汎神論と似ているのです。スピノザはこのように考えたのです。「自然とは神がなったものだ。神が自然と別のところにいるわけではないのだ。あらゆる地上のものは神の姿そのものなのだ」という哲学です。これを汎神論といいます。「すべてが神なのだ」という考え方です。
西洋人は分別を極めて極地に達すると、原子爆弾になってしまったのです。これは人間を幸せにはしません。破壊する悪魔のようなもので、分別の極地です。原子爆弾に至るまでは、分別・分別・分別・・・と、分別をずっと重ねてきて、その知識をもって原子爆弾を造ってしまったのです。
しかし、造った物はもともと無量の義一法なのです。我々は分別した世界にいるけれども、逆に「これも分別」「あれも分別」と、ずっと分別の根源を探っていくと、無分別法になってしまいます。
そのことを説いたのが「無量義は一法より生じる」ということなのです。人間にとって分別するということは非常に大事です。分別することにより、人間は他の動物と区別することができるのです。
あまり分別ばかりしていると、西洋人のように原子爆弾まで到達してしまいます。そうではなく「自然界はみな一つ」という結論に帰っていく必要があります。それを教えているのが一法ということなのです。

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2017年03月23日

人間の探究 727 化城の事

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※勝海舟が言われたように「心にやましいことをしてはいかんぞ」ということです。心がやましくなければ、いつまでも元気なのです。

人間の探究 727 化城の事

 妙法蓮華経化城喩品第七の「化城の事」についてです。
これはある旅をしている集団が、長い時間歩いてくると疲れてしまいます。「そろそろ中食(ちゅうじき)にすべぇ!」というようなものです。疲れてもう歩きたくありません。「お腹も空いた、足も痛い」とみなが言い出すのです。
 その時に集団の指導者は「ほら、あそこを見ろ!」というのです。今まで山が見えていたところにお城が見えるのです。すごくキレイなまばゆいばかりの城です。「もうちょっと我慢して歩けば、あの城の中に入れる。美女もいれば酒も飲めて、温泉もあるから、もうちょっと頑張ろう!」と言うのです。
 昔はそのような場所をオアシスといいます。「そこまで頑張って行こうではないか!」と歩いていくのです。足を引きずって歩いて「ここまでやっとたどり着いた!」と思うと、そのお城がパッと消えてしまうのです。今までここにお城があったのに、雲の如く、夢のようにお城が消えてしまったのです。「あれは何だったのだろうか?」という話です。
 お城は消えたけれども、先ほどいた場所よりも前進したのです。そのような化城を用いて仏教の例え話をしているのです。
 君たちが求めている富、名声なるものは幻のようなものです。この夢のような城のことを化城(けじょう)というのです。「私(仏)が諸君を連れていきたいところは、こんなところではないのだ。無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうかく)という最高の境地に諸君を連れていきたいのだ。そこには永遠の泉があり、花は咲き、欲しいものは何でもあります。果物もあります。しかも永遠にそこにいられるのです。一時しのぎに作った場所ではありません。そこに行ってもらいたいのです」と仏様が言うのです。
 化城とは、我々の生活を表しているのです。我々の頭の中で求めているものは、名誉・金・地位・権力です。それを求めてあくせく生きているのです。いくら歩いてもそれは化城のようなもので、消えてしまうのです。
 石原慎太郎は84歳で百条委員会に呼び出されてテレビに出ていましたが、見る影もありません。ちょうど石原慎太郎が百条委員会に呼び出された3月20日が、「オウム真理教の地下鉄サリン事件」の日です。心にやましいことをやると生気がありません。みなぎっている覇気がありません。これは年のせいではありません。曲がったことをやってくるからそうなってしまうのです。曲がったことをやってこなければ、年には年なりの迫力があります。
 心にやましいことをやってくると石原慎太郎のように心が萎えてしまうのです。すると本当に寿命も萎えてしまうのです。
 勝海舟が言われたように「心にやましいことをしてはいかんぞ」ということです。心がやましくなければ、いつまでも元気なのです。氷川町に住んでいた勝先生は、せんべい布団の上に座っているのです。布団は1枚しかありません。体は痩せていたのですが、冬でも合わせの着物1枚です。「俺は曲がったことをしてこなかったから、こんなせんべい布団に座って、冬でも着物1枚で平気なのだ」と言っていたのです。「曲がったことはしていない」そこに原因があるのです。曲がったことをしてこない、天地に恥じない行動をしているから、命を落とそうと、どうなると恥じることは何もないのです。命乞いをしたこともないし、それが大事なことです。
 仏教もそうです。人間社会で長生してもたかだか100年です。寿命は100年しかありません。春夏秋冬が100回来たらおしまいです。どんなによい思いをしても、何百億円のお金を持っていても、100年生きたら終わりです。
 まるで幻の城が消えるようにサラサラと消えてしまい、何も残りません。残るものは「曲がったことをしてこなかった」という心です。
 昔、武将は死ぬ時に必ず刀を添えたのです。有名な毛利元就(もとなり)が死ぬときには「わしは刀はいらん!」と言ったのです。「わしは人を斬ったりもしたが、義に恥じる行動はしておらん。曲がったことはしていないのだから、刀はいらない!」と言ったのです。この勢いがなければダメです。実際は毛利元就は死ぬ時に刀を入れたのだと思います。
 人生は化城だと知りなさい。化に非ざるもの、実を求めなさい。化城に反する言葉は実存です。実存を求めなさい。実存の正体を明らかにしていくことが、仏道修行の目的です。
 創価学会に入って選挙運動をやって「公明党が伸びた」「佐々木さやかが当選した」「松葉多美子が当選した」とか、馬鹿ではないでしょうか。そんなことは化城のことです。仏道修行とは、化城を脱出することを教えなければいけません。創価学会・公明党のように「政治権力を握ろう」など、何を馬鹿なことを言っているのでしょう。
 我々はこのように化城喩品の中からお釈迦様の教えというものをくみ取っていかなければいけません。

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2017年03月22日

人間の探究 726 鬼子母神の事

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※池袋に「恐れ入谷の鬼子母神」といわれる鬼子母神をお祀りしたお寺があります。

人間の探究 726 鬼子母神の事

 妙法蓮華経陀羅尼品第二十六の「鬼子母神の事」についてです。
池袋に「恐れ入谷の鬼子母神」といわれる鬼子母神をお祀りしたお寺があります。「恐れ入りやした」の「入りや」と「入谷(東京都台東区の地名)」を掛け、入谷の真源寺(台東区下谷)に祀られている「鬼子母神」を続けて言ったしゃれです。みんな何だかわからないでお参りしているのです。
 鬼子母神は恐ろしい魔物です。昔、インドで鬼子母神は人の子供をさらって食べていたのです。村人は困ってお釈迦様に「鬼子母神が現れてうちの子供がさらわれて食われてしまったのです。鬼子母神を何とかしてもらえませんか」と相談したのです。
 お釈迦様「鬼子母神はそんなに悪い奴なのか。子供は何人いるのだ?」
村人「はい、10人います」
お釈迦様「わかった。そのうちの一人をさらって来い」と言われて、鬼子母神の子供を村人がさらってくるのです。お釈迦様は鬼子母神の子供を隠してしまったのです。
 すると鬼子母神は子供が1人いないことに気が付いて、「子供が一人いなくなった!」と泣きわめいたのです。するとお釈迦様が出てきて、「お前は自分の子供に会いたいのか?」と聞くと鬼子母神は「会いたいです」と言うのです。お釈迦様は「自分の子供は大事で、人の子供は大事ではないのか?」と言われたのです。
 そこで鬼子母神は「ハッ」と悟るのです。「ああ、私が子供をさらって食った親たちはこんな悲しんでいたのだな。私は悪いことをしました」と、本当にそのように思ったのです。お釈迦様は「ほら、これがお前の子供だ」と子供を出してあげたのです。
 鬼子母神は「私は大変な罪を犯しました。これからは罪を贖うために仏教に仇なすもの、お釈迦様のご説法に仇なす者がいたら、ただちに飛んでいき、そいつの命を取ります。そのような働きをしてお釈迦様をお守りします」という誓いを立てたのです。するとお釈迦様は「善哉善哉(よいかな、よいかな)」とお釈迦様が言われたという話です。
 鬼子母神はお釈迦様に請願を立てて良い神になったから仏教でお祀りしているのです。入谷の鬼子母神もそうです。悪魔の鬼子母神をお祀りしているわけではありません。仏教の布教のために頑張っていると鬼子母神が働いて、仇なす者の命を取りに行ってしまうのです。
 今も同じです。一生懸命正しく法を教えようとしている者に対して、仇をなす者があれば鬼子母神が飛んでいくのです。僕をめぐって多くの人が死んでいますが、鬼子母神のせいかもしれません。
 静岡県立大学教授小島茂は死亡、九天社の出版社は倒産して、社長は死んでいます。僕に仇なす者はみんな死んでいます。僕は何をしているわけではありません。多分、鬼子母神が働いているのだと思います。皆さんもそうです。一生懸命布教している人間の悪口を言ったり、誹謗したりする人間は、ただちに鬼子母神がいってしまうのです。鬼子母神、恐るべしです。
 正理会には龍神様が2体も入ってしまいました。翡翠の龍神です。5キロの重さのある翡翠の龍神が仏教守護のためにお祀りしてあります。正理会に牙を持って向かってくると龍神様に食い殺されてしまいます。
 龍の働きは、鬼子母神の働きと同じようなものです。龍も鬼子母神も本来はエゴのために動くのです。いずれにしても畜生です。畜生は自分の利益のためにしか動きません。どんな動物でもそうです。自分が食べるために動くのであり、人に食べさせてあげようとは思いません。龍にしても鬼子母神にしても畜生です。
 ところがこの巨大なエゴイストが仏教という偉大な法にふれることによって、巨大なエゴイストを脱却して仏教を守護する側にまわるのです。このような見事な信心をしていかなければいけません。
 かつて鎌倉時代の日蓮大聖人様もそうだったのです。良観の讒訴(ざんそ)により島流しにされたのです。讒訴とは、ウソの訴えをして日蓮大聖人様を陥れようとしたのです。鎌倉で日照りが続き、良観が雨乞いの祈祷をすると、ますます雨が降らないで日照りが強くなったのです。鎌倉幕府が「日蓮を呼んで来い」と言うので、日蓮大聖人様はわずか数十人で祈るとたちまち雨が降ってきたのです。
 すると良観はメンツがないものですから、「日蓮は悪い坊主だ。大雨を降らせて鎌倉中を水浸しにしようとした」と讒訴(ざんそ)をしたのです。「日蓮はそんなことを考えていたのか。けしからん!」と執権が怒ってしまったのです。そして「島流しにしろ!」と言うので、島流しにされたのです。これはすべて良観のウソなのです。
 日蓮大聖人様をめぐっての争いはすべて讒訴(ざんそ)です。良観が「日蓮は国家転覆をたくらんでいます」と鎌倉幕府に訴えて、日蓮大聖人様は島流しにされたのです。
 日蓮大聖人様に仇をなした者はロクな死に方をしていません。平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)は、日蓮大聖人様を法華経第五の巻で三度もぶち、数々の迫害をしてきたのです。すると平左衛門尉は落馬して死んだのです。鬼子母神が働いたということです。
 佐渡島に島流しにされたときには、極寒の冬です。家もなければ死人を投げ捨てる穴の上にある祠に日蓮大聖人様は島流しにされたのです。食べるもののありません。雪が降っているのです。「これで日蓮も死ぬな」と思っていたらとんでもありません。
 佐渡にいた北面の武士(後の阿仏房)が現れて、日蓮大聖人様を助けたのです。鎌倉の首の座では空一面に光物が現れたのです。妖怪が鎌倉に遭われて「日蓮を斬るのを止めろ!」という使者と、「刀が折れて斬れなくなりました!」という使者がバッタリと出合ったのが行合川です。今でもその川はあります。
 法華経を真面目に修行していく人には、不思議なことが起きてくるのです。僕は単なる信者にすぎませんが、日蓮大聖人様に比べたらとんでもない話です。僕ごときでも守られているのです。様々な守りがありました。阿佐ヶ谷に住んでいるときは、火事があり、僕の家の直前で火事が止まったのです。花籠部屋の連中が何十人も家に入り、火事を食い止めようとしたら、不思議に燃えなかったのです。そのようなこともありました。様々な不思議なことがたくさんありました。だから今日まで生きてこられたのです。
 僕などは迫害の連続です。誰も認めません。だけど、今日まできてしまったのです。誰も文句はいえません。必ずそうなるのです。その前に信心は試されるのです。「お前は本当の信心をしているのか、どうなのだ!」と攻められて、ガクガク・ブルブル震えて、みんなそこで信心が落ちてしまうのです。
 「何があってもこの道を行く!」と決めたら行くのです。それが大事なことです。鬼子母神を奮い立たせるような、或は龍神を奮い起こさせるような、強い信力・行力を持って、この法華経を信じる者、日蓮大聖人様の弟子たる者は、その気持ちでいかなければなりません。
そうすれば所願は満足して、必ず「勝った!」という自覚ができてくるのです。「勝った!」という自覚とは何でしょう。仏教一代、釈迦一代の法門がすべてわかれば勝ちです。「勝った!」とはそのようなことです。「あいつよりも給料が1万円多い」とか、そんなことではありません。
釈迦一代の膨大な経典の真実がわかったならば、最高の正理です。誰も敵いません。そのようになるために信仰をしているのです。大いに鬼子母神に働いてもらいましょう。鬼子母神は怖いで!!

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2017年03月21日

人間の探究 725 唯神論と唯物論

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※素粒子でみると、富士山は素粒子が集まったものですから、富士山は消えてしまいます。

人間の探究 725 唯神論と唯物論

 僕たちの少年の頃は、学校の勉強が終わるとこの話題でした。「この世界は神が創ったのだ」というのは、唯神論です。「物が勝手に動いてできたのだ」というのが唯物論です。ところがこの唯神論は2つに別れます。
 法相の唯識論では「心がすべてをつくる」と書いてあります。「神が世界を創った」のではなく、唯心論です。唯神論は、唯心論と2つあります。どちらも区別しなくてよい面があります。
仏教の法相の唯識論では「心が全てのものをつくりだす」といいます。不思議な話です。昔はこの意味は誰もわかりませんでした。
 「心が全てをつくる」といいますが、心が富士山や月や太陽をつくるというのですが、ここで言う唯心論はそうではありません。「富士山を見ている」ということは、貴方の心が富士山を見ています。貴方の心が変わると富士山はなくなってしまいます。これが素粒子論です。世界は素粒子からできています。
 素粒子でみると、富士山は素粒子が集まったものですから、富士山は消えてしまいます。人間は「外界の自分以外のところに物があり、それは心では動かない」と考えていますが、そうではありません。自分の環境もそうなのです。「貧乏という環境」「病気で苦しむという環境」、この世界に入ってしまうとなかなかこの世界は消えません。貴方の世界は貧乏なのです。貴方の世界は病気なのです。
 実はそうではありません。貴方の心が貧乏なのです。貴方の心が病気なのです。これは生長の家の谷口雅春がよく言っていたことです。上手い言い方をしています。谷口雅春は「実相からみると、すべて心の影である」と言ったのです。では、「実相とは何ですか?」という質問に対して、彼は説明できていません。
 「観念的に実相というものがあり、この実相から見れば生活は心の影である」と言っているのです。これは上手い表現です。貴方の心が貧乏なのです。貴方の心が病気なのです。貴方が変われば、世界はガラリと変わるのです。これを仏教では三変土田(さんぺんどでん)の原理といいます。3つの世界がひっくりかえるのです。
 その世界には貧乏もなければ病気もありません。まして、殺しもなければ殺されることもありません。これを説いているのが仏教です。
 僕らの高校時代は、皆で集まるとその話でもちきりでした。5〜6人集まると夜中まで「唯神論か、唯物論か」という議論を徹底的にやったのです。話題はそれしかありません。唯物論を唱えている人間は早稲田大学の部落解放同盟に入ってしまいました。死ぬまで唯物論者の考え方は直りません。
 自分という存在を見たときに、自分で自分を創ったのでしょうか? 簡単な原理です。貴方は自分で心臓を創ったのでしょうか? 自分で血液を創ったのでしょうか? これは違います。自分の意思で創られたものではありません。
 誰が創ったのでしょう。人間は呼吸して酸素を取り入れて血液が流れて心臓が動きます。こんな上手く人間が創ったのでしょうか? 「違います」とすぐにわかることです。唯物論は間違いです。人間や生命を生み出している、別の力があるということは、この頃から僕はわかっていました。
 様々な原料を集めて、「えい、やー!」と言ったら生物ができるのでしょうか? 生命は絶対にできません。電気刺激を与えて生命ができるのかというと絶対にできません。生命は、物質の法則以外の不思議な力が働いているのです。
 物には物の法則があります。物の法則では、ここにある鉛が明日になると金になるということはありません。鉛は鉛です。ある一定の操作をすると鉛が金になることもあります。これを錬金術といいます。
 物から生命は生まれません。生命は独自の働きがあり、その働きによって我々は創られ、生かされ、その法則に従って生きているだけです。「我々の存在の奥には神がある」と思う人は神をみるのです。
 「その奥に心がある」と法相の唯識論は考えたのです。
「心こそが万物を生み出す源」と考えたのです。しかし、唯物論だと考えた連中は人間を「物」だと思っています「。物が全てであり、心などというものは存在しない。物理の法則、進化論の法則により低級な物から高級な物ができてきた」という進化論を深く信じています。
 従って進化論を信じている人間は唯物論者だとわかります。唯物論の考え方が進化論を生んできたのです。唯物論者に共通して言えることは、人に対する思いやりが全くありません。いらない物は排斥するのです。
 しかし、これは唯物論者の大義名分で、「社会にとって不必要な物は処分する」というのです。処分とは粛清ということです。このような考え方ですから人間を平気で殺せるのです。金正恩もそうです。人間を平気で殺せるのです。金正恩の頭の中は唯物論に違いありません。「神が存在する」と考えたらそんなことはできるはずがありません。
 この論争は学問を勉強する前に徹底的にやっておく必要があります。そのような環境を与えなければいけません。その哲学論争をやらずして、いい加減にして成人して学問を学ぶから、根本にあるものは唯神論か唯物論かわからないのです。「唯物論は間違った考えだ」ということを徹底的に教えていかないといけません。
唯物論者は「社会的科学主義」などといいます。何が科学なのでしょう。生命の力を認めない奴は馬鹿なのです。それをもっとやっつけておけばよかったと思っています。僕は随分、唯物論者は論破しています。
どうして唯物論者になるのかというと、唯神論がわからないからです。唯神論の説いている神は、唯神論なのか、唯心論なのか、これは長じてわかってきたことです。当時はなんとなく僕は「唯物論は間違っている」とわかったのです。「左翼の思想は馬鹿だな」と思っていました。
まず、人間の教育の第一番は左翼に近づかないことです。若いときに徹底的に唯神論と唯物論の違いを明確にわけて、教えておかなければいけません。そうすれば左翼思想に近づくことはありません。左翼の弁護士を見ていると馬鹿だとわかります。常識がかけている馬鹿です。
北朝鮮がこれだけ軍備をして、いつミサイルが日本に飛んでくるのかもわからないのに、「憲法を守れ」と言っている連中は馬鹿なのです。どうしようもならない馬鹿です。これを仏教で言うと「元本の無明(がんぽんのむみょう)」といいます。どうしようもならない馬鹿のことをいいます。
憲法を守って国が滅んだらどうするのでしょう。それがまともな人間の考えることです。憲法は都合により変えればよいのです。「国を守る」ということが大事です。そのようなことをみな間違えてしまうのです。
日本人は「こちらが悪意を持たなければ相手も悪意を持たない」と思うのです。ウソをつくものではありません。こちらが悪意をもたなくても、相手は悪意を持っているのです。そのようなこともわからなくなってしまうのです。
人生の入り口に立って唯神論、唯物論を学ぶことが大事です。それから学問を勉強するのです。唯物論者は「唯物論が進化論を生んで、進化論が唯物弁証法を生んで、社会は造られているのだ」といいます。そんなものではありません。まず、入り口をしっかり勉強しましょう。

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2017年03月20日

人間の探究 724 法師の事

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※法華経というのは無量義経が三品です。品とは章ということです。それから妙法蓮華経は二十八品あります。最後に観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう)です。これが法華経です。

人間の探究 724 法師の事

 妙法蓮華経法師品第十の「法師の事」についてです。
法華経の法師品とは、「末法の法師、法の師とはどのようなものか?」ということを言われています。これは言ってみると本来は「お坊さん」という意味です。だから日蓮正宗法華講の連中は「お坊さんに帰依しろ。坊さんは法師なのだ」と言うのです。
 しかし、現在この法師に当たるお坊さんがいるのかというと全くいません。法華経を満足に講義できるお坊さんもいません。「尊敬するべき法師です」などと言えるお坊さんはどこにもいません。
 お坊さんになった以上は「我法師なり」という自覚がなければいけません。法師とは、本来は僧のことです。僧は法を説く師です。それが法師という意味です。お寺の中ではお坊さんですが、創価学会の幹部も会員から多くのお金を寄付されて、教えているのですから法師でなければいけません。
 立正佼成会、仏所護念会、顕正会、みんな幹部は法師です。「我法師なり」というその自覚がなければいけません。法師とは「法をよく教える師」という意味です。その人に就けば正しく仏教が学べます。しかし、今、仏教について答えられる幹部連中は誰もいません。
 法は説かずに勢力の拡大だけを図るのです。本来ならば法の師として多くの人々を成仏させるという大事な使命がありながら、それを忘れて団体は大きくなる、信者の数が増えるということしか考えていないのです。だから幹部連中は自分も仏教がわからないし、わからないままで法を人に説けませんから、結局中身が何もないということになるのです。
本当の法師は道を求めて何十年もずっとやってきた人のことをいうのです。「道を求めて」というのですから、あそこで法を説く人がいたら聞き、東に師匠がいると思えば行き、西でも南でもどこへでも行きます。
 そして「教えてください。これはどのような意味なのでしょうか?」と修行してきて自らの信仰が完成します。今の人達は法を求めていません。「妙法蓮華経ですよ」と言っても「なんのこっちゃかわからん、俺には関係ない」と思っているのです。
 「俺の興味があるものはお金だ!」「ファッションだ!」「車だ!」「ビートだ!」これにしか興味を示さないのです。妙法蓮華経は大事な教えです。それを説いても「なんのこっちゃ?」と耳をかたむけません。これは時代の風潮です。
 しかし、法華経は意味のないものではありません。ものすごく意味がある経典です。法華経には、生命のことがすべて書いてあるのです。それをわからせるために比喩的に説いたり、様々な角度で一つのことを理解させようとしているのです。
 お釈迦様の経典は8万6千といわれる経典があります。これをすべて読んだ人はいません。皆が経典を作ったからです。「もう経典は出つくしている」と思っていたら、敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)から何万巻という経典が発見されたのです。それは皆が読んでいない経典ですから、読めば新しい発見があるのです。
 しかもサンスクリット語から漢訳された法華経は鳩摩羅什(クマラジュウ)という人が訳したのです。鳩摩羅什はインド人と中国人の両親の間に生まれたハーフです。バイリンガルですから、両方の言語がわかったのです。800人の坊さんを集め国家事業として、経典を漢訳したのです。
 この経典は一字一句たりとて間違いはありません。これがまず法華経を知る者の心がけです。800人のお坊さんが国家事業で集まって、一行ずつ訳して「この漢字でよいのか?」ということを厳密に一字ごとに研究したのです。
 「この法華経の文字は一字一字が金色の仏身だ」と日蓮大聖人様は言われています。わかった人から見ればどの字をとっても、仏教が出てきます。例えば「我(が)」という一字が出てきます。「これは仏です」というのです。
 この我(が)の正体を明らかにしていくならば、それは仏です。「我不愛身命(がふあいしんみょう」は、「我、身命を愛せず」という意味です。「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の「不」の字をみても、「不とは何だろうか?」と考えていくだけで仏教が出てきます。
 だから法華経は最高のお宝様なのです。様々な経典があり、最終的にお釈迦様は我々に「妙法蓮華経だよ」と教えられたのです。その教えをサンスクリット語で言うと「サダルマプンダリーキャソタラン」と言ったのです。これが最後に説かれた経です。
 それに至るまで仮の教え、空の教え、様々な教えを説き、最終的に「妙法蓮華経が命の根本の教えである」と説かれたのです。法華経とはお宝様です。凡夫が物語のようにサッと読んで「わかった」というようなものではありません。
 「一文字ずつが金色の仏身」と言われているのです。そのような角度で読まないと、この法華経はわかりません。法華経というのは無量義経が三品です。品とは章ということです。それから妙法蓮華経は二十八品あります。最後に観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう)です。これが法華経です。
 この中で最初に出てくる無量義経がすごいのです。「仏というものの正体とは、いかなるものであるのか?」ということを、34の非(あら)ずで説かれています。
「其の身は有に非ず亦無に非ず、因に非ず縁に非ず自他に非ず、方に非ず円に非ず短長に非ず、出に非ず没に非ず生滅に非ず、造に非ず起に非ず為作に非ず、坐に非ず臥に非ず行住に非ず、動に非ず転に非ず閑静に非ず、進に非ず退に非ず安危に非ず、是に非ず非に非ず得失に非ず、彼に非ず此に非ず去来に非ず、青に非ず黄に非ず赤白に非ず、紅に非ず紫種々の色に非ず。」(無量義経徳行品第一)
 どの教科書もわからないから何の解釈もありません。それを説いたのが戸田城聖先生です。戸田先生は牢獄の中で「法華経を理解したい」と本当に取り組んだのです。無量義経徳行品第一には、「其の身は有に非ず亦無に非ず」と書いてあります。「それは一体どのような意味なのか?」34の非ずの一つ一つにぶつかって、読んでいかれたのです。お題目を200万遍唱えて「戸田城聖はこの問題を解決する!」と言われて悟りを開かれたのです。
 そして戸田先生は「そうだったのか、生命のことを説いたのだ!」とわかったのです。「仏の其の身というものは、生命そのものを表しているのだ」ということを悟ったのです。
 これはまだ入り口論であり、それがどのようにすごいのかということは、中身によるのです。「法華経前半十四品と、後半十四品ではどちらが優れているのか?」という解釈をした人もいます。
 法華経は生命のことを説いているのです。そう思ってこの経に取り組まないとダメなのです。仏教一般のことで言うならば、仏教とは分別法ではなく無分別を説いた教えです。仏教に触れていくと無限の安らぎを得るのです。
 普通の商売で「儲かった」「損した」などの煩わしい話を世間ではずっとしていますが、仏教はそんなことを説いたのではありません。仏教とは無分別の法です。貴方達が本来持っている命というものを説いているのです。
 だから仏教に触れると命がキレイになり、濁りがなくなり、汚れがなくなってくるのです。ここに法華経の意味があるのです。読めば読むほど、命がキレイになっていくのです。法華経はお金儲けの法ではありません。それを間違えてはいけません。
 心を洗ってキレイにしていくから仏が出てくるのです。そのような意味でいうと、すべて真実なのです。真実の中に方便もあります。妙法蓮華経見宝塔品第十一では、塔が空中から出現した話があります。それも目を開いてよく見ればわかってくるのです。
 そして、我々は法師に親近しなければいけません。法を説いてくれる人から教えを聞かなければわかるわけがありません。法を説く人は常にいるのです。忘れてはいけません。戸田城聖先生もいらっしゃいました。日蓮正宗のすべてのお坊さんとはいいませんが、日淳上人という優れた人もいるのです。「南無妙法蓮華経は宇宙の法ではない。つくられた法ですから、日蓮大聖人様のお心の中にしか南無妙法蓮華経はない」という名言を残した方です。「ああ、勉強されているのだな」とよくわかります。
 戸田先生、石田先生、そして今では僕しかいません。そして法は伝えられていくのです。常に法師は出てきているのです。しかし、それを法師として認めない人、わからない人はご不幸ですが、それはやはり縁がなくてまた地獄へ行ってしまうのです。これは自業自得だから仕方ありません。「法を説いてくれる法師がいる。法を聞きたい!」そのような猛烈な気持ちで信仰をしていかないと仏教というものはわかりません。

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2017年03月18日

『日本人に打ち込む100本の柱』武士道 31柱

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土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
武士道 31柱

「花は桜に人は武士」という言葉があります。実に武士とは好いものです。武士とは嘘は言わない、二枚舌をもたない、主君に忠義をつくす、潔い責任感、これらは皆武士の持つ美徳ですが、本当の日本人は皆、これらの美徳をそなえています。           多摩の農民あがりの剣客である新撰組の近藤勇、土方歳三などは京都で水戸藩士の芹澤鴨一派に「君達のいう士道とはなにかね、水戸には弘道館士道というものがあるが、君らのいう士道とは多摩の農民士道のことかね」と揶揄される場面がありますが、これには近藤も土方も悔しかったのに違いありません。武士道といっても薩摩の武士道も有れば合津の武士道もあるのです。                              武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではなく、なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは御恩の対価である」とする観念があったためです。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は当時は主流ではなかったようです。体系付けられたいわゆる武士道とは言えず、未熟であったようです。
 江戸時代の元和年間(一六一五年‐一六二四年)以降になると、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立されました。これによって初めて、儒教的な倫理(仁・義・忠・孝など)が、武士に要求される規範とされるようになったのです。山鹿素行が提唱した士道論は、この後多くの武士道思想家に影響を与えることになりました。
 享保元年頃(一七一六年)、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「忠」「義」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは有りませんでした。
 幕末の万延元年(一八六〇年)、山岡鉄舟が『武士道』を著しました。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしています。
 明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去りました。実際、一八八二年(明治十五年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされました。ところが、日清戦争以降「武士道」が再評価されるようになりました。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとしました。いずれにしても忠臣蔵などで武士道というものを知り武士的精神が広く行き渡り日本国民の精神的支柱になっていることに間違いありません。

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