2020年07月08日

人間の探究 1575 過去・現在・未来を三世という

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※戸田先生は「何故、飛行機が落ちるのか? そこに100人、200人乗っているだろう? みんな飛行機が落ちるという宿命を持っているのだ」と言われたのです。

人間の探究 1575 過去・現在・未来を三世という

「衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去現在未来の三世の虚夢を見るなり」(三世諸仏総勘文教相廃立)

 ある人が質問したことに対して、伝教大師がこのように答えました。「私が今見るところ、戦乱に遭うのも、放火されるのも、地震に遭うのも、全て前世の因縁です。前世の因縁に非ざるものは、髪の毛一本もありません。髪の毛の色が茶色いのも、髪の毛が白いのも、全て貴方に関係しています」と言われたのです。
 貴方は金髪の髪の毛を持ってこの世に生を享けています。或は黒髪を持ってこの世に生を享けています。何故、貴方は金髪の髪の毛を「自分」と思うのでしょうか? 黒い髪の毛を自分と思うのでしょうか?
 このようなことは、過去・現在・未来の三世に関係があるのです。どんな小さなことでも三世に関係があるのです。目を凝らして見るならば、全て前世の現れたものなのです。交通事故に遭うのも、飛行機が落ちるのも、因果関係が全くないわけではありません。因果関係があるから飛行機が落ちるのです。
 しかも、「その因は何処でつくったのか?」というと、前世でつくったのです。だから飛行機は落ちるのです。戸田先生は「何故、飛行機が落ちるのか? そこに100人、200人乗っているだろう? みんな飛行機が落ちるという宿命を持っているのだ」と言われたのです。
 全員が「飛行機が落ちる」という宿命を持っているから、飛行機は落ちたのです。そのように言われていました。人生は厳しいのです。気が付いていませんが、今世の行動は全て来世に現れてくるのです。
 「秘とはきびしきなり三千羅列なり」(御義口伝巻上)これは天台大師の言葉です。「秘(ひ)」とは秘密の秘(ひ)です。「秘とはきびしきなり」、どうしようもならないくらい、全て出てくるのです。誰かが僕の講義を聞いていて、中断してトイレに行ったとします。それも全て来世に出てくるのです。
 「秘とはきびしきなり」です。髪の毛一本にしても、前世と関係のないことはありません。「来世において、どのような夢を見るのか、どのような生活をするのか?」というのは、前世の通りです。
 そのことを易しく言うと、一念三千です。難しく言うと、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等です。覚えなければいけないことは、どんなことでも前世と関係を持っているのです。
 どんなことでも、目の前で家が一軒火事に遭うのも、船が沈むのも、台風に遭うのも、地震に遭うのも、全て貴方の前世でやったことが因果を廻って果となって出てくるのです。そこで戸田先生のご指導がよくわかるのです。
 一人ではありません。「飛行機が落ちる」という宿命を持った人が集まるから、飛行機が落ちるのです。500名いても、「飛行機が落ちる」という因縁を持った人間が一人しかいないと、飛行機は落ちません。
 500名の前世の因縁が「飛行機が落ちる」という因縁を持った人が集まるから、飛行機が落ちるのです。500名いても、一人しかそのような因縁がなければ飛行機は落ちません。500名が乗った飛行機が落ちたら、「飛行機が落ちる」という因縁を全員が持っていたということです。
仏に花を供えるにしても、「功徳善根に非ざるものはなし」です。朝、起きて仏壇のお花を供えて、お水を捧げます。これは功徳善根です。そのこともちゃんと来世に出てくるのです。それをきちんとやっていると、良い家に生まれてくるのです。「何故、私はこんなよい家に生まれたのか?」というと、前世の因縁です。
 貴方は毎日、お花を供えて、お水を差し上げて、仏様にご挨拶をしてきましたね。それは凄い功徳なのです。功徳善根です。それが、ちゃんと善根になって帰ってくるのです。仏教はいい加減なものは一つもありません。
 また、どんなくだらないことをやっても、来世に出てくるのです。「何故、自転車で車にぶつかったのか?」本人はなぜだかわかりません。そこにはちゃんと因縁があるのです。
 「自転車に乗って車にはねられた」というのも因縁があります。突然、「宝くじに当たってお金が入ってきた」、これも前世の因縁です。前世の因縁がないと宝くじなど当たりません。いくら買っても当たりません。
 これを「毎自作是念(まいじさぜねん)」と言います。毎日、何を考えているのか? 何を念じているのか? 「毎自作是念(まいじさぜねん)」です。それが来世の生命の元になってくるのです。毎日博打をやったり、酒を飲んだり、女を買ったり、競輪・競馬をやっているような奴が、来世の何を期待するのでしょうか? そんな奴が期待できるわけがありません。
 毎日、社稷を大事にして、仏を敬い、神を敬い、仏と神の道を進んでいくならば、全てが善根となり、来世は大果報を受けること間違いありません。これがわかれば、一念三千がわかったということです。
 世の中で自分に関係のないことは何もありません。全て関係しているのです。「これがどのように関係しているのか?」ということがわからないだけです。
親に向かって「バカヤロウ」という人間もいます。親に「ぶっ殺してやる!」という人間もいます。それは一つ残らず全て来世に出てくるのです。そのような奴は親無しの家に生まれるのです。良い年頃になってお金もなく、ほっつき歩いて、浮浪者の仲間になってしまい、ヤクザになって、そこから人生が始まるのです。修羅界の道を歩むことになるのです。
 我々の決意としては、如何なることがあろうとも、神の道から離れてはいけません。仏様の道からは離れてはいけません。普通の人は神も仏も知らないから信じないのです。自分の宿命のまま流れていくしかありません。
 川があって誰かがドボンと落っこちて、流れていても他の人は気が付きません。自分はアップアップと空気を吸ってまたドボンと沈んでしまうのです。何処へ流されていくのか、何処へ行ってしまうのかわからないのが人生です。
 自分の人生にちゃんと行くべき方向と道筋をつけていくのが、神の道と仏の道です。それは両方わからなければいけません。両方わかれば今世も幸せになり、来世も幸せになるのです。これを現当二世(げんとうにせい)というのです。
 今世も、来世も幸福になるのです。そのためには、自分の身に出てくる様々なことを反省しなければいけません。「何故、私はこうなのか? 何故、私は人に苛められるところに生まれたのか?」というと、それは前世の反省をしなさい。今世とは、前世の反省の場所なのです。
 それを繰り返していくと、来世から見ると今世は因なのです。「どのような因を積めば、来世はどのような果になるのか?」ということがわかってくるのです。だから、現当二世で両方ともに大事なのです。今世で前世の反省行をしていくのです。
 そのことを教えていくのが南無妙法蓮華経の道でもあります。以上。

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2020年07月07日

人間の探究 1574 雪山(せっさん)の寒苦鳥(かんくちょう)

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※夜になると「寒いな。昼間に巣をつくっておけばよかった」と思うのです。昼間になるとまた怠けてしまい巣をつくりません。それを雪山の寒苦鳥といいます。

人間の探究 1574 雪山(せっさん)の寒苦鳥(かんくちょう)

「末代の凡夫出生(しゅっしょう)して、法華経を信ずるは、人界に仏界を具足(ぐそく)する故なり。」(観心本尊抄)

 末代の凡夫とは、我々のことです。末代の凡夫は、お釈迦様のように修行を積み重ねて位をあげて仏界に到達するということはできません。
 凡夫だからそんなことはできません。凡夫は欲が深くて、「修行をしよう」などという者は一人もいません。だから、自分の我欲のままに生きているのです。領土が欲しければ戦争を起こし、相手が憎ければ陰謀を企み、弱い者がいれば徹底的に苛めるのです。末代の凡夫はひどいものです。
 多少の慈悲があり、「可哀想だな」と思う心が人界です。十界論で言うと、人界といえども仏界を持っています。生命は仏界を持っていますが、花や木や豚や牛になったら、仏界は出ません。
 人間に生まれると六道輪廻しているので、地獄界が出たり、餓鬼界が出たり、畜生界が出たり、修羅界が出たり、人界が出たり、天界が出たりします。人界の中に仏界も具足しているのです。場合によっては仏界が出てくるのです。これを称して「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す」と言うのです。
 悪いドロボウでも、人殺しでも、家に帰ると、急に優しくなり子供に対しては、「可愛い我が子よ」と言うのです。奥さんにも「可愛い妻だ」と言うのです。無顧の悪人(どうしようもならない悪人)でも、仏界を具足しているから、そのように思うのです。
 豚や牛には、子供が可愛いという感情はありません。生まれた時には「可愛い」と思うかもしれませんが、大きくなるとバラバラになってしまいます。人間だけは「これは俺の子供で可愛い」と思っているのです。畜生界の凡夫でも、仏界を持っているのです。だから、その仏界が出て来るのです。
 畜生界の凡夫に仏界がないわけではありません。仏界を出そうと思えば人間は、仏界が出るのです。豚や牛は仏界を出そうと思っても出ません。どんなことをやっても豚が仏になるなど、そんなことはあり得ません。豚は畜生界に沈んでしまい、仏界は出ません。
 ところが人間として生まれると、本当に仏界が出てくるのです。修行して法華経を信じて、「南無妙法蓮華経」と唱える中から仏界が涌現(ゆげん)してくるのです。仏界は涌現(ゆげん)という言葉がピッタリと当てはまります。
 清い水はブクブクと地面から湧き出てきます。仏界も涌現してくるのです。何処かにあるものではありません。自分の中から自然に仏界が湧いてくるのです。「仏界が涌現(ゆげん)する」というのです。
仏道修行を積んでいくと仏界が強くなってくなり、人界が小さくなってくるのです。「人界とは何か?」というと、「美味しいものを食べたい」「権力を持って威張りたい」「人の財産が欲しい」というのが人間です。人間は、「あいつには絶対に負けたくない」と憎んだり、わけもなく悲しんだりしているのです。どうしようもない出鱈目ぶりです。
 それはまだいいのですが、酒など飲みだして暴れるのです。こうなるともう仏界など出てきません。酒を飲んで暴れたり、怒りに燃えて人殺しをしてしまうのです。こうなってしまうのです。
「人間」というものは、我欲が強くて、独りよがりなのです。そんな人間でも、仏界があるからこそ、仏界がチョロリと出てきて、だんだん人を殺すようなことは止めるようになってくるのです。だんだん仏になっていくことができるのです。
 これは人間でなければできません。人間に生まれたことを本当に感謝しなければいけません。人間に生まれたことを感謝しないと、また来世、地獄界に入ってしまうのです。来世に生まれて、暗い夜道を進むことになるのです。
 それは自分のやっていることがわからないからそうなるのです。凡夫は、我欲と本能で動いているからそうなってしまうのです。「自分が今、どのようなことをやっているのか?」ということが全然わかりません。
 それを業行(ごうぎょう)の因果と言います。業行の因果としてやったことが果になり、果になったものが因となり、どんどん流れていくので、何処へ行くのかもわかりません。だから仏道修行ができるのは人間のうちなのです。人間のうちでなければ仏道修行はできません。
 そのように思って反省して、地獄の底から這いあがって、やっと人間に生まれても、雪山の寒苦鳥になってしまうのです。「夜は寒いから、昼間のうちに巣をつくっておこう」と思う鳥がいるのです。ところが昼間は暖かくなり、居眠りしてしまい巣をつくらないでいると夜になってしまいます。
 夜になると「寒いな。昼間に巣をつくっておけばよかった」と思うのです。昼間になるとまた怠けてしまい巣をつくりません。それを雪山の寒苦鳥といいます。それと同じことです。
 「人間に生まれた時に仏道修行をしておけばよかったな」と思うのです。苦しくなって、苦しくなって、「なんで、俺の人生は苦しいのだろうか? ああそうか、仏様の教えを聞いていなかったのだな」と思って「苦しい・苦しい・苦しい」と思って、仏道を求めるのです。
 また仏道を求めて人間に生まれると強欲が出てきて、雪山の寒苦鳥と同じです。「えっへっへっへ・・・。仏の教えよりも女と遊んでいるほうが楽しいぜ!」となってしまうのです。
 「世の中には楽しいことが沢山あるぜ。博打だ、女だ、酒だ、ドロボウだ、人殺しだ!」となってしまうのです。面白いから、そちらの方向へ行ってしまうのです。それで仏の教えを聞けなくなってしまうのです。それを雪山の寒苦鳥というのです。

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2020年07月06日

人間の探究 1573 日蓮の大悲

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※日蓮大聖人様は「また、日蓮に再び会いますよ。今度はちゃんと接触してきなさい。未来において、私に会います」と言われているのです。それでも、救われない奴がいます。改心が薄いのです。でも、そのように何度も生まれ変わって日蓮大聖人様に出会う度に、いつかは救われるのです。

人間の探究 1573 日蓮の大悲

「大悲とは母の子を思う慈悲の如し。今日蓮等の慈悲なり」(御義口伝巻上)

 大慈悲とは、大悲とも言えます。母が子供のためを思うのは大悲です。目の中にいれても痛くありません。母親は、我が子のことをこのように思うのです。だから、大変な問題があっても耐えていけるのです。
 しかし、子供が大きくなると生意気になってきて、自己主張するようになってくるのです。「お母さんなんか、何よ!」と言うようになるのです。そうなってくるともうお終いです。子供は大きくなると、自己主張をしてくるのです。
 子供の育て方はそこが大事です。上手に教えていかないと、いつの頃からか大悲が効かなくなってくるのです。何と言うのかというと、「俺は生んでくれと頼んだ覚えはない!」と言いだすのです。
 「勝手に俺のことを生んだのだろう? 後は知らねーよ。生んでくれと頼んだわけでもない!」と生意気なことを言うのです。本当はそうではありません。子供は「うちのおっ母はよ、学問がなくてどうしようもならない」と生意気なことを言いだすのです。
 学問がないにもかかわらず母親は、子供に学問をつけてくれたのです。まさに、大悲の現れです。常に仏様は上から見ているのです。「これでいいのかな?」「こうやればわかってくれるのかな」そのような仏様の大悲の心がわかるためには、親への愛や、感謝の気持ちがないとわかりまえん。
 「憎らしい親だな。クソー」と思っているようでは、仏様の大悲はわかりません。子供というのは、「お母さんのことが好きでしょうがない」というくらいでちょうどよいのです。すると、教えもちゃんと入ってくるのです。
 「お母さんは嫌いだ」と自分で宣言をしてしまうのです。それで、親と断絶してしまうのです。「何を言っているのだ。俺はババアなんか大嫌いだ。何の影響も受けていないよ!」などと生意気なことを言うと、親子の絆が切れてしまい断絶してしまうのです。
 そうではありません。どのような場合でも、親が子供を見捨てることはありません。「バカな子供だな。物分かりがよくないな」と思っても、どうなっても親は子供を見捨てられません。
 母親のほうから見るとこれが大悲なのです。大慈悲を持って母親は子供を見ているのです。父親もそうです。子供の成長を見て、「こっちへ行くとまずいよ。あっちへ行くともっとまずいよ。この子はどっちへ行っているのかな?」といつも親は子供を見ているのです。
 親は「こんな所につかまっていたら、崖から落ちるよ」とわかるのです。親は、子供に対して「全体的によくない」と言うのです。でも、子供はわかりません。親は「子供がわからなくても、根気強く負けないで指導をしていこう」と思えば、必ず何とかなるのです。
 変な進み方をすると、子供は犯罪者になってしまうのです。犯罪者になると親を恨むのです。親を恨むとは一体、どのようなことなのでしょうか? 親は恨まれる覚えはありません。
 父親「絶対にお前を許さんぞ!」、子供「わかったよ、俺も父さんを許さないよ!」と意地を張ると、お互いに許し合わないで、ガッチン・ガッチンとぶつかってしまうのです。
 大悲の心を持ちなさい。仏様は凄いのです。我が子だけではなくて、全ての衆生に対して大悲の心を持っているのです。
 仏様は、「生きとし生きるものは、我が仏子である」と思っているのです。仏様は「皆、我が子供である」と思っているのです。ライオンだろうが、ゴリラだろうが、チンパンジーだろうが、仏様から見たら、仏子です。
 周りの人が「あいつは悪い奴だな」と思っても、仏の子供です。これは、生命論から言っているのです。生命とはそうなのです。豚も犬も猿も生命を持っています。その生命の源は仏です。
 草も木も成長します。命そのもののことを仏というのです。動物になってしまい、畜生界に落ちると仏道はできません。動物は仏様の説法を聞く耳も持ちません。動物は人間の言葉は通用しません。キチガイもそうです。言葉が全く通じません。
しかし、仏様は見捨てないのです。仏様は「皆、我が子なり」と思っているのです。それが本当の慈悲というものです。「あの子は可愛いけれども、この子は可愛くない」と言っているようではいけません。それは大悲ではありません。
 「生きとし生きるものは、我が仏子である」という境涯は、やはり仏様の心境にならなければわかりません。どんな大悪人も、どんな馬鹿でも、「我が子なり」とは思えません。それは仏様の境涯にならなければそのように思えません。
 事実、どんな馬鹿でも、どんな大悪人でも、我が子なりです。
「今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子」「今此の三界は、皆是れ我が有なり。その中の衆生、悉く是吾子なり」(妙法蓮華経 譬喩品第三)
そのような大慈悲を持って仏様は衆生に接しているのです。仏道修行する人は、そのような人格を作り上げていくのです。だからと言って、「中国人も人間だ。朝鮮人も人間だ。差別をしてはいけない」と言うのはダメなのです。中国人や朝鮮人にいくら目をかけてもよくなりません。
 もうすでに曲がっているのです。不良の道を進んだら直りません。不良の道をスタスタと歩いているのに、「おい、待てよ。そっちの道は不良の道だぞ」と言うと、「うるせい、コノヤロウ!」となってしまうから、何を言ってもダメなのです。
 それは行き着くところまで行かないと直りません。それを「定め」とも、「運命」とも言います。悪運に染まったら、本当に後悔するまで進まなければいけません。僕たちは仏の子供だから、殺し合いなどしません。
 そのような世界には入りませんが、入ったら最後です。行き着くところまで行ってしまいます。それは「やるか、やられるか」の世界です。ヤクザは「タマを取ったろうか!」と言うのです。そのような世界に入ってはダメなのです。
 ウソばかりついていると、知らない間にそのような世界に入ってしまうのです。ウソをつくと、その場は誤魔化せます。ウソをついているうちに、だんだん人のいないところを歩きだして、泥沼にドボンと落ちてしまうのです。そうなったら、もう間に合いません。
 「ここへ上がって来いよ!」と言っても、もがけばもがくほど、泥沼にはまってしまうのです。沼は下に沈んでしまいます。そのような状態になると、誰も助けられません。そのような人間はどのようになるのかというと、「復遇日蓮なるべし」と言われています。
 「御義口伝に云く若し法華誹謗の失を改めて信伏随従する共浅く有りては、無間に堕つ可きなり、先謗強きが故に依るなり。千劫無間地獄に堕ちて後に出づる期有つて又日蓮に値う可きなり復遇日蓮(ぶぐうにちれん)なるべし。」(御義口伝巻下)
 日蓮大聖人様は「また、日蓮に再び会いますよ。今度はちゃんと接触してきなさい。未来において、私に会います」と言われているのです。それでも、救われない奴がいます。改心が薄いのです。でも、そのように何度も生まれ変わって日蓮大聖人様に出会う度に、いつかは救われるのです。そこなのです。
 今世が終わって急に来世はよくなるということはありません。もう泥沼の人生を歩みだしたら、ずっと流れてしまうのですから、誰も助けられません。「助けて!」と言っても、益々仏様を恨んでいるのだから助けられません。
 行きつくところまで行って、初めて改心して、仏様の姿を求めて渇仰の心を起こしてくるのです。要するに飢えてくるのです。「助けてくれ〜。仏様、助けてください!」と求めてくるのです。
 そこで初めて、「復遇日蓮なるべし」です。仏様の説法を聞きたくなって、最後は成仏するのです。朝鮮人がそのまま成仏することはありません。ちゃんと罪を償い終わって、初めて仏陀に会えるのです。その間は地獄です。
 地獄にいる人間は救えません。「あなた、このままでいくと地獄へ逝くわよ。可哀想だね。誰も救えないから、地獄の道を真っ直ぐ行って御覧なさい」と言ってあげることは大事です。
 地獄の道は凄いのです。人殺しから始まって、借金取りが来たら、そいつをぶっ殺してしまい、刑務所に入り終わりがありません。どんどん悪くなっていくのです。そうならないように、日蓮大聖人様が真の仏様だとわかったら、しっかり仏道修行をして、仏様が見えてこなければいけません。仏様が見えない人は、信心がないのです。
 信心がある人は仏様が見えてくるのです。見えて初めて、仏様のご説法がわかるのです。そして、救われていくのです。


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2020年07月05日

『仏法と神道』言葉は神

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※自然界は一繋がりなのです。人間が勝手に、A地点からB地点の間にあるものを『富士山』と名付けているだけで、自然界は混然一体として一つのものです。

『仏法と神道』

言葉は神

 毎日、僕の講義を読み勉強されている諸君は、実に目覚ましい成長があります。正理会で学んだ者のみが真のインテリです。そのように僕は感じています。知識を持った者はたくさんいますが「人間にとってどのようなものが必要なのか」ということが分かってくるということは、大変なインテリになっているのです。
 本会で勉強している人には、誰一人かかってきません。表面だけでなく、物事の本質を根本から教えているのです。『謎の日本古代史』もそうです。根本にあるものを出しているから誰もかなわないのです。みな、表面の勉強しかしていないのです。
 例えば、経済学の勉強をしたら「経済学とは一体何なのか」ということを考えていません。お金の動きを勉強しても、「お金とは何なのか」ということを深く考えていないので分からないのです。
 科学というものを考えてみても、表面だけとらえて色々な計算などはできたとしても、「科学(Science)とは、どういうものなのか」ということを考えていません。仏教についても同じです。「これが仏教だ」と言っても仏教について考えていません。キリスト教といっても、「宗教とは一体何か」という大前提から考えていないので、物事が分からないのです。
 科学とは、限りなく「科」を立てるということです。科とは、短く区切って考えるのです。分断するということです。例えば、自然界には区別など無いのです。自然界をよく見ると、我々は「山」、「海」と言いますが、そんなものは自然界には無いのです。自然界は一繋がりなのです。人間が勝手に、A地点からB地点の間にあるものを『富士山』と名付けているだけで、自然界は混然一体として一つのものです。
 それでは物は考えられないので、「AからBの間を考えましょう」という事で科学というものを作っていくのです。科学というものは、人工的なものだとすぐに分かります。自然界は無分別であって、一繋がりのものなのです。これは、素粒子から始まって宇宙の果てまでも、全て同じ原料で出来ているということを意味しています。人間の側が分断して物を考えているだけです。
 ですから、宇宙にはゼロは存在しないのです。ゼロというものは、人間が勝手に考えた概念であり、ゼロという実体は何処にも無いのです。望遠鏡で見ても、自分の目で見ても、宇宙の中にゼロは見えません。人間の頭の中にしかゼロはありません。このように理解することが大事です。
 だからと言って、科学はダメだという意味ではないのです。科学というものの限界性と、分別の限界性と、無分別を説いた仏教の限界性を、そこから導き出していかなければいけません。
 今日は、言葉と言うことについて考えてみます。旧約聖書にいわく、「初めに言葉ありき」神様は、最初に言葉をもって人間の前に現れたという意味です。
また、仏典にいわく、「声仏事を為す之を名けて経と為す」(御義口伝)とあります。これは、どういう意味かというと、犬はワンワン、猫はニャーニャーと鳴き、様々な動物は声=音を出しています。音は何を表しているのかというと、その動物の「境涯」を表しているのです。
人間界に例をとってみると、地獄界に居る人間は、地獄の声を出しているのです。その言葉は、「苦しい」、「ギャー!」、「殺すぞ!」など、汚い言葉の連続であって、いつもそのような言葉を発しているのです。「声仏事を為す」のです。
サルは、サルの経を読んでいると分かります。サルは自分の宿命をサルと感じ取っているから、「キャッ、キャッ、キャッ」と言っているのです。サルの奥にあるもの、それは神であり、仏なのです。ですから、「声仏事を為す」ということは、声というものをよくみれば、その奥には仏がいるのです。仏から出るから「声仏事を為す」というのです。万物は、仏の現れたものであります。このように仏典では説いています。
 我が国の神道では、言葉は言霊(ことだま)であり、魂なのです。魂というと、すぐに「良い魂」、「悪い魂」があるように考えますが、言霊というのですから、善も魂で、悪も魂なのです。良い神ばかりではないのです。悪い者、良い者、全て神なのです。これが日本神道の根本なのです。あらゆるものは神であり、神から出てくるのです。ですから言霊なのです。誰かが話している事を聞いてみると、神が、その人を通して言霊として境涯を表しているのです。
例えば、サルという動物が存在して、サルというものを通してサルが「キャッ、キャッ、キャッ」と言っているのは、サルの神を表しているのです。サルは、神を表しているのです。その表し方が、「キャッ、キャッ、キャッ」なのです。
人間は色々な言葉を話します。言葉というものは、神が出している声であるということが、言霊思想なのです。良い言葉も神、悪い言葉も神、世界にある神の秘密というものを、みな言葉を出してしゃべっているということなのです。だから、言霊思想は大事で、目に見えない神様は、言葉を通してこの世界に出てくるということなのです。その言葉の組み合わせを考えたのが、論理ということであり、これはユダヤの神概念なのです。
日本ではあまり論理を考えません。言葉が全て神であるのですから、論理はあまり出てきません。言葉というのは神が現れたものです。そして、話している言葉は、神が自分の上に現れて話ているのであり、話した言葉は全て神の言葉であるという考え方です。聖書では言葉が論理であるということが大事なことなのです。


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2020年07月04日

『日本建国の謎に迫る』頭椎大刀(まぶつちのたち)

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※柄頭 (つかがしら) が倒卵形でやや傾いたような形をしている,日本の上古時代特有の大刀拵 (たちこしらえ) 。この部分は鉄製もあるが金銅製であることが多い。後期古墳から出土することが多く,実戦用というより儀仗用と思われる。

『日本建国の謎に迫る』

頭椎大刀(かぶつちのたち)

 舶来系の部族は、刀・剣・兜・鎧・馬などで物々しく武装して日本列島にやってきました。何種族も来ているので、兜や、刀など全部に共通するものは見られません。刀にしても円頭大刀といい、柄頭が丸くなった大刀もあり、これは大陸系のものです。丸い輪の中に鶏や龍が透かし彫りで入れてあるものもあります。これは、環頭太刀(かんとうたち)といいます。あるいは、方形大刀(ほうけいたち)という刀もあり、これは主に朝鮮系の渡来系のものだと思われます。
 中国からの渡来の刀はいまの青龍刀にも見られるとおり、柄の部分に丸い輪が付いています。昔から中国大陸系の刀は円形の円頭大刀を持ったのにちがいありません。その中に、頭椎大刀(ルビ かぶつちたち)というものがあります。これは出土例が兵庫県に二例ありますが、東海地方より東の関東・東北で見られるものです。頭椎大刀が群馬県立歴史博物館にあるというので見にいき、びっくりしました。ものすごく長大なものでこの大刀を持っていた人間は二mを超えていたであろう、というぐらい長大で太くて大きな大刀です。では、単なる飾りかというとそうでもなく、人間が現実的に帯刀したものにちがいありません。
 そこに一つの兜(かぶと)がありました。古墳にセットで埋められていたのであって、この蒙古鉢形冑はどこにも類例がない形をしていると説明がありました。これは、三センチくらいの小札(ルビ こざね)という小さい鉄の板を鉄鋲(てつびよう)で留めて作った兜で、頂上にまっすぐに生えた角のような突起があります。目の部分がちょっとだけ開いていて、鼻の部分もちょっとだけ開いていて、これは西洋の兜に似ていて、確かに日本では他で見ることはできません。日本の兜には眉ひさしが付いていて兜につばが付いています。このような鉄で鋲留めした顔全体を覆いかぶる兜は珍しいのです。解説には、これはモンゴル系の兜であろうと推測されますが、「我国ではまことに珍しい形をしている」と書かれてありました。
 この兜と、壮大な頭椎大刀がセットになっているのです。こんなものをだれが持っていたのでしょうか。まず、大きさにびっくりしました。しっかりとした太い握りで頭椎も大きいのです。頭椎とは柄の部分についている拳のようなもので、鍔も付いています。刃はもちろん見られませんが、壮大なものです。群馬で勢威を誇っていた豪族が、日常的にこれを持ち歩いていたのだと思います。長大すぎるので、儀式には不向きだと考えられます。
 頭椎大刀は、頭の部分が中空になっていて、空気が入る状態になっています。その頭椎は金銀銅できらびやかに作られています。そして、真っ直ぐの直刀です。頭椎大刀の頭椎は、刀を杖のようにしてつく場合があるからです。そこで、豪族が。手を頭椎の上に乗せて威厳を示すのです。それで、刀が大きく見えます。
 説明には古墳時代の中期以降のものとありましたが、これは疑わしいと私は考えます。紀元一〇〇年くらいのものではないかと推測しています。地方に勢力を張るにしても、そんなに簡単なことではありません。古墳時代の後期なら大和朝廷はすでにできているので、そこで朝廷の許しもなく豪族を名乗ることはできないでしょう。大和朝廷が誕生する以前に渡来してきた氏族の持物だったと思います。


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2020年07月03日

人間の探究 1572 毒気深入(どっけじんにゅう)

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※今でもチベットのほうへ行くと、マニ車があります。マニ車には経典が書いてあります。経典をクルッと1回回すと経典を1回読んだことになるのです。

人間の探究 1572 毒気深入(どっけじんにゅう)

 「毒気深入とは権教(ごんきょう)謗法(ほうぼう)の執情深く入りたる者なり、之に依つて法華の大良薬を信受せざるなり。服せしむると雖(いえど)も吐き出だすは、而謂不美(にいふみ)とてむまからずと云う者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは而謂不美(にいふみ)の者に非ざるなり。」(御義口伝巻下)

 「毒気深入とは権教謗法(ほうぼう)の執情深く入りたる者なり、之に依つて法華の大良薬を信受せざるなり。」

 「毒気深入とは何か?」というと、日蓮大聖人様は権教(ごんきょう)だと教えられているのです。仏教は、権教と実教に分かれます。権教とは、阿弥陀経のことを言うのです。実教とは法華経のことを言うのです。何故、権教というのかというと、権教は仮の教えなのです。
 ちゃんと権教は、「権(かり)の教え」と書いてあるのです。仏様は阿弥陀仏が存在するなど、様々なことを説いています。それは権教です。仮の教えです。
 仏教とは最初、行じるものだったのです。お釈迦様に言われて修行します。どのように修行するのかというと、「滝に打たれて修行しなさい」或は、「座禅を組みなさい」と自分が行じるものが仏教だったのです。
 拝みまくるなどという仏教は、最初は存在しません。「座禅を組んで己を見つめなさい。それが修行です」と言ったのです。そのうち、「悟るまで、座禅をやりなさい」と言われたのです。このような教えだったのです。ところが、大乗教になると修行の方法が変わってしまったのです。
 どのように変わったのかというと、仏教というものは崇め奉るものになってしまったのです。だから、お釈迦様が死んだ時に荼毘に付してお骨にしたのです。すると弟子たちが「仏舎利を分けてくれ」と言ったのです。
 お釈迦様は「舎利を供養するべからず」と言われたのです。何故、舎利を欲しがるのでしょうか? 弟子は大勢、お釈迦様の体は一つです。それを奪い合って、ほんの少しでもお釈迦様の骨を持ち帰り「仏舎利である」と言ったのです。
 そのうち、世界に仏教が広まるうちに、仏舎利がどんどん増えていったのです。他の骨も混ざっているのです。日本にも仏舎利があるのです。読売ランドに仏舎利がありますが、仏舎利は高値で取引されているのです。
 仏教は自分が修行するものから、釈迦を崇めるように変わったのです。それでストゥーパという塔を建てて、仏舎利を中にいれて、お経を唱えながらその周りをグルグルと回ったのです。それが仏道修行です。
 今でもチベットのほうへ行くと、マニ車があります。マニ車には経典が書いてあります。経典をクルッと1回回すと経典を1回読んだことになるのです。みんな必死になって、「ほらっ!」とグルグルグルグルと回して、「俺は経典を10回読んだぞ!」とやっているのです。今でもそのようなことをやっているのです。
 それは、仏教が自分で修行するものから、仏様を崇めるものに変わったからです。その次にどのように変わったのかというと、「経典がここにもあった」と言うのです。その中で阿弥陀経を引っ張り出してきて、「これで一般大衆を救える。阿弥陀経は悪人のために仏様が説いてくれたものだ。何故ならば、善人は自分で修行できるけれども、悪人は修行できない。阿弥陀経は悪人ほど救ってくれるのだ」と言ったのです。悪人を救うために阿弥陀様が現れて阿弥陀経を説かれたのです。
 阿弥陀仏の名前を唱えれば、「どんな悪人でも往生できる」という教えです。だから、誰でも簡単に信者になれるのです。信仰というものが行じるものから、崇めるものに変わって、崇めるものから頼るものに変わったのです。
 仏に頼ることを他力本願と言います。「阿弥陀経の神通力にすがって、往生しましょう」というように変わったのです。あくまでも、阿弥陀経は仮の教えですから権教です。
 阿弥陀仏など存在しません。「頼る、崇める、信じる」ということを教えるために、説かれた教えです。ごく一部の人が救われても、一般大衆は救われません。阿弥陀経は権大乗教です。日蓮大聖人様の教えは実大乗教です。実大乗教だから仮の教えではありません。
 そのように仏教の歴史を見てみると、修行するものから、崇めるものに変わり、最高の教えにくるのです。その前に権大乗教を説いたのが阿弥陀経です。それで、「いよいよ、本当の教えを説くぞ!」と説かれたのが、法華経です。
 お釈迦様は8年間にわたり、法華経を説かれたのです。法華経を理解するための前段階の教えが阿弥陀経です。法華経は、「阿弥陀仏の名前を唱えると助けてくれる」という教えは、説いていません。
 昔、阿弥陀経は法華経の中に入っていたのです。「妙法蓮華経 阿弥陀経」です。「妙法蓮華経 阿弥陀経」があれば、二十九品です。そのような時代もあったのです。それはどちらでもよいのです。
 本当のことを説いたのが、法華経です。今でもそれは理解されていません。それが妙法ということです。妙法蓮華経は一切の根本です。その根本であるという前に説かれたのが、無量義経です。『無量義経三品』です。
 「さあ、みんな集まって。これからお釈迦様の凄い説法が始まるよ。みんなよく聞いてね。無量義経の始まり〜」と言うのです。無量義経は、「無量義は一法より生じる」と説かれています。「その一法とは何か?」ということは、無量義経では説かれていません。
 これから、始まる釈尊の教えは一法について説いたのです。「無量義は一法より生じる」と言うのです。無量義経はカッコイイのです。それで、初めて「妙法蓮華経 序品第一」から始まるのです。法華経は、全二十八品です。
 二十八品がまるで舞台のようになっているのです。二十八回の舞台替えをして、「さあ、これで妙法蓮華経は説き終わりました。次には仏説観普賢菩薩行法経です」と言うのです。仏説観普賢菩薩行法経というのが最後に付いているのです。
 無量義経三品と、法華経二十八品と、仏説観普賢菩薩行法経を合わせて法華経です。仏説観普賢菩薩行法経は、「法華経を信じたら、こうなるよ」ということを説いています。法華経そのものを説いたわけではありません。「それを体得した人は、このような功徳を受けますよ」ということです。入り口論が無量義経で、本文が法華経で、仏説観普賢菩薩行法経が応用です。そのような舞台構成です。
お釈迦様がそんなものを説いたわけではありません。後世の弟子たちが、様々な経巻を整理すると、「ここにも経典があった」「あそこにも経典があった」と、膨大な経典が出てくるのです。
 「仏教は何が言いたいのだろうか?」と考えて、集大成して舞台のようにしたのが、妙法蓮華経です。その中には全て真実が入っています。法華経はそのような教えです。
 「服せしむると雖(いえど)も吐き出だすは、而謂不美(にいふみ)とてむまからずと云う者なり」
 権教を信じている人間に対して、「君たちね、法華経こそがお釈迦様の説きたかったことで、阿弥陀経は仮の教えだよ。法華経しか仏教はないのだ」と言われて、「そうですか、法華経は有難いですね」と言って、ガブッと法華経に食い付く人もいます。
 しかし、ガブッと食い付いても権教の教えによって、心の奥まで濁っている人は、法華経を吐きだしてしまうのです。「ウエ〜〜」というように吐き出してしまうのです。法華経を服しても、薬になりません。これを毒気深入失本心故(どっけじんにゅうしっぽんしんこ)とも言います。
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは而謂不美(にいふみ)の者に非ざるなり。」
 日蓮大聖人様と弟子たちは、南無妙法蓮華経と法華経に帰命することを言っているのですから、毒など受け入れません。我々は最初から受け入れません。だから、吐くこともありません。
前世の因縁で、まだ権教に執着している人間がいます。それは、「ウエ〜〜」と言って吐き出してしまうのです。「心配するな。私についてくる者は、毒気深入ではないよ。大良薬として法華経が効いてくるから、安心して法華経を服してよいのだ」と日蓮大聖人様は言われているのです。このような教えです。


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2020年07月02日

人間の探究 1571 十如是(じゅうにょぜ)

295
※我々から言うと、十如是(じゅうにょぜ)がわからなくてもよいのです。南無妙法蓮華経に全て入っているのです。妙法蓮華経の中に全て入っているのです。蓮華とは、因果の法です。出てきたところが妙法です。南無妙法蓮華経を修行していくと、全て入っているのです。

人間の探究 1571 十如是(じゅうにょぜ)

 「御義口伝に云く此の品には十如是を説く此の十如是とは十界なり。此の方便とは十界三千なり。」(御義口伝巻下)

 法華経如来寿量品第十六の中に十如是(じゅうにょぜ)というものが出てきます。これは、具体的に言うと、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・本末究竟等です。これが十如是(じゅうにょぜ)というものです。
 「十如是(じゅうにょぜ)とは何か?」というと、読めば読むほど、何が書いてあるのか、何を言っているのかわかりません。十如是(じゅうにょぜ)とは、命というものの発動の仕方を説いているのです。命というものは、仏です。仏の命というものを説いたのが十如是(じゅうにょぜ)です。
 命を十に分解して、「仏とはどのような働きをするのか?」ということです。十に分けて説いたのが十如是(じゅうにょぜ)です。そのように覚えればよいのです。十如実相ともいいます。これが天台大師の一念三千の論拠になっているところです。
 一念三千論は、十如是(じゅうにょぜ)から生まれているのです。凄い教えです。命というものを瞬間で見ます。命というものは動いているから、つかまえようがありません。数学的に瞬間のことを「微分する」とも言えるのです。
 命という方程式は動いているから、つかまえられません。「ここでつかまえた!」と思うと、もう命は移動しているのです。命はつかまえられません。「ここでつかまえよう!」と思うと、もう違うところに行っているのです。
 だから、命はつかまえられません。微分という数学の概念を用いて、「ここで動いているものは、ここから出たものだ」というように、関数関係で捉えて極限値を求めたほうがわかりやすいのです。
 命は流れていくのです。微分方程式は、流れていく方程式をつくり、極限値を出すのです。ゼロに向かっていくときに、「これはどのようなスピードを持つのか?」ということです。それと似ているのです。
 命の瞬間をとらえるのです。瞬間と思ったものは、もういなくなってしまうのです。もう次の瞬間が来るのです。命は如如(にょにょ)として来るから、「十如(じゅうにょ)」と言うのです。
 命は止まっていません。動いているのです。動いているものは、「如(にょ)」なのです。如如(にょにょ)として動くのです。命は変わります。「待ってくれ、今の瞬間を止めて命をよく見るから、あっちから、こっちから見たいのだよ」と言っても、そんなことはできません。
 命はどんどん動いていくのです。ここと思ったらまたあちら、あちらと思ったらもうこちらです。命は絶対に人間がつかまえられません。人間は「どのような心が仏の心なのか?」ということを見ようとして努力してきたのです。
 「命は動いているのだから、止めればよいのだろう」ということが、座禅の考え方です。「動いている仏の命が見たいな。では、自分が動かないようにしよう。動かないようにして、命そのものを見たら少しは瞬間がわかるのかな?」ということです。
 天台大師も座禅について触れています。「やらなくてよい」などとは言っていません。『摩訶止観』はほとんど、座禅の行法です。それで、自分の命を見るのです。他人の命は見えません。仏教は自分の命を見ようとするのです。
 ところが、座禅を組んで自分の命を見ようと思うと、命はコロコロと動いているのです。今、泣いていた子供がすぐ次の瞬間には「ワッハッハッ・・・」と笑います。それは、命が動いているからです。
 何しろ「命よ、止まってくれ。俺は命がよく見たいのだ」と思っても、止まってくれません。どんどん動いてしまうのです。それを動かないようにするのが、座禅の行法です。『摩訶止観』と言うのです。止観(しかん)とは、「止めて観る」ということです。「命が動いているのを止めて観るのです。そこに偉大な摩訶(仏)の姿が少しでも見えてくるのではないか?」ということが、十如是(じゅうにょぜ)です。
 そして、瞬間ではとらえられませんが、十の実相があるらしいのです。だから、十如是(じゅうにょぜ)と言うのです。まず、何が見えてきたのかというと、如是相が出てきます。如是相とは、仏の姿です。
如是性とは、仏の性分です。もっと言うと命の性分です。これが見えてくるのです。動いているのは、命です。「動いている命は形があるのだろうか?」というと、あります。
 人間として動いている場合の命の形があります。ライオンが「ウォー」と吠えます。ライオンにはライオンの形があるのです。命は如如として来るのですから、瞬間に人間の心が出たり、ライオンの心が出たりするのです。命というものは必ず、性分があるのです。
 それには如是体があるらしいのです。性分があって、体がなければおかしいのです。ライオンの性分があり、ライオンの体がないとおかしいのです。必ずライオンの体がついて回るのです。
 もっとわかりやすく言うと、修羅界を出して怒っている人がいます。この修羅界という性分は、一体何かというと、怒っている姿を持っています。「この野郎、ちゃぶ台返しだ!」と怒って、ちゃぶ台をひっくり返します。それが体なのです。これが修羅界の体なのです。性分には必ず形があります。
 そして、それには力を持っているのです。この力のことを如是力と言います。怒って、ちゃぶ台返しをする力を持っています。ライオンは食い殺すという力を持っています。だから、ライオンの性質があり、ライオンにはライオンの体があり、ライオンにはライオンの力を持っているのです。
 それでだいたい命の正体が絞れてきたのです。これは十界とは違います。十界の一つ一つに十如是(じゅうにょぜ)がついているのです。必ずついているのです。だから、三如是(相・性・体)と言うのです。
 それをもっと詳しく見ると、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等といいます。「怒っている」という性分らしいものがあります。それは力を持っていて、「怒る」という因縁があります。「お前が変なことをやるから怒ったのだ」というように、縁があるのです。
 最後は本末究竟等(ほんまつくきょうとう)です。最初から最後まで命というものは、つながっていて一つです。これが本末究竟等という意味です。怒るならば、「怒る」という性があり、「あの野郎」と怒って、怒った体をとらせていく性分というものがあります。
 怒るという力があります。力がなければ怒ることもできません。もっと詳しく見ると、それには因と縁があります。怒る因があるのです。それで縁にあって怒るのです。怒るという果が出てきて、本末究竟等です。
 これが十界の正体です。以前、大田さんが「十界がわかりません」と言っていたので、十界を知りたかったらこれを何回も読んでください。
 そして、十如是(じゅうにょぜ)というものがあり、十界が加わってくるのです。十界というものは、地獄の相、地獄の性、地獄の体、地獄の力・地獄の作・地獄の因・地獄の縁・地獄の果・地獄の報・地獄の本末究竟等が全て備わっているのです。本末究竟等だから、全て一緒です。分けると因、縁、果になりますが、一つの動作であって、これが生命の働きです。
 これは、1回聞いたくらいでは簡単にわかりません。ずっと思索して考えて、行を積んでいかないと、わからないのです。仏教というものは、命をとらえようとしたのです。このことがわからないと、何を読んでいるのか何をやっているのかサッパリわかりません。
 仏教を勉強していくことによって、自分が反省されるのです。「ああ、これが修羅界だな」「これが畜生界の姿なのだな」とわかるのです。仏界の上から、地獄界の下まで十如是(じゅうにょぜ)があるのです。
 そのように反省しつつ、行じていくごとに十如実相ということがだんだんわかってくるのです。十如是(じゅうにょぜ)以外に自分の命を反省する方法はありません。天台大師は、目に見えない、つかまえどころのない命をつかまえた人です。
 でも、我々から言うと、十如是(じゅうにょぜ)がわからなくてもよいのです。南無妙法蓮華経に全て入っているのです。蓮華とは、因果の法です。出てきたところが妙法です。南無妙法蓮華経を修行していくと、全て入っているのです。
 天台大師の『摩訶止観』を修行しても構いませんが、南無妙法蓮華経を修行するとそれが体験されてくるのです。「命とはこのようなものだ」とわかってくるのです。人の命ではありません。仏法は自分の命を説いたものです。
 俺の命はこのような命だ。今まで怒っていたのが、パッと天界に変わるとワッハッハッと笑っている。今まで「コノヤロウ!」と怒っていた自分を瞬間に「ああこれが俺の命だな」と悟り、「修羅界はいけない。天界に入ろう」と思うと、「ワッハッハッ」と笑うのです。
 天界に入れば対象物も天界に見えるのです。今まで怒りの対象だったものが、自分が天界に入れば「ウワッハッハッ。面白い話だな」と思うのです。何でもそうです。これが仏界に入れば、同じ話でも「どうってことないよ」と変わるのです。
 菩薩界に入っているならば、対象物を見ると「気の毒だな。こんな話もわからないのか。気の毒な人だな」と思うのです。そのような目で見れば菩薩界です。
 そのように仏道修行をすると、人間を見ている見方がグングンと変わってくるのです。それで初めて、仏法が生きてくるのです。まだまだこの話は広がりますが、今日はここまでです。


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2020年07月01日

人間の探究 1570 創価学会オバチャンとの対話 

65
※中国ではコロナウイルスの第二波が広まっています。


人間の探究 1570 創価学会オバチャンとの対話 

 中国は自信をつけたから、一帯一路をやっているのです。一帯一路を賛成する日本人はどこの国の人間なのでしょうか? 「中国が世界制覇をするのをお手伝いします!」というのが、二階俊博です。二階俊博は、「習近平チャマが世界支配をするのを日本がお助けします!」と言っているのです。
 ふざけた奴らです。侵略国家中国に対して、世界中が怒っているのです。それで、今起こっていることはインド紛争です。インドと中国は国境を廻って争っているのです。中国兵がインド兵の頭を石でかち割ったり、鉄の棒に釘をつけて滅多打ちをしたので、釘のついた鉄棒にはべったりと血がついているのです。中国軍の攻撃を受けて、インド兵が20人以上死んだのです。
 それは、インド人も怒ります。インド人はやられたら、ちゃんと復讐するそうです。ロシアから最新鋭の戦闘機、戦車も購入して、国境は一歩も譲りません。やられたら、やり返すのです。だから、中国はインドとの領土争いは身動きが取れません。台湾との領土争いでも、台湾は「台湾は中国の領土ではない」と言っているのです。そのようになってきたのです。
 すると、今度は香港で問題を起こして、香港人も怒って「我々の領土は中国領ではない!」と言いだすでしょう。あちこちで言いだすのです。これを四面楚歌といいます。中国はあちこちを征服して、気がついてみたら、四面に敵の旗が上がっているのです。
 中国は敵に包囲されてしまい、身動きが取れません。中国は「エイ、ヤア!」とウイルスをばらまいて、「これで世界をやっつけてやる!」と思っているのです。これも狂っています。普通、細菌兵器をばらまく時には、ワクチンをつくっておかなければいけません。
 自分達はワクチンを打っておいて、「中国共産党の幹部は、コロナウイルスに感染しませんよ。ほら、ウイルスをばらまくぞ!」と言うならば、わかります。中国は、ワクチンもまだできていません。それなのにコロナウイルスを世界中に広めてしまったのです。
世界中にコロナウイルスが広まり、「中国は収束した」と思うと、また中国にコロナウイルスが再上陸して、第二波で何千万人も死んでいるのです。
それが学会オバチャンはわかっているのでしょうか? すると学会オバチャンは「そんな話は聞きたくないのよ。中国はよい国なのよ!」と言うのです。その悪い中国を後押してしたのが日本です。
日本の誰かというと、公明党です。公明党が日中国交回復をやったのです。公明党は一体どこの国の政党なのでしょうか? 北海道の土地の20%が中国人に買われているのです。
こんなものは、条例一つでできなくなるのです。「外国人が日本の国の土地を買う場合は、許可を必要とする」という条例をつくればよいのです。それで終わる話なのに、公明党の議員はやらせないのです。
ということは、「中国様、日本の土地をどんどん買ってください。日本には水資源のついた美味しい土地があるから、どんどん買ってください」と言っていることと同じです。それを公明党の議員は止めようともしません。
尖閣列島に軍艦を入れられて脅かされているのに、公明党の国土交通大臣が「海上保安庁は1発も撃ってはいけない」と言うのです。日本人はみんな頭にきています。明らかに中国は領海侵犯をやっているのに、「撃ってはいけない」など、日本の国土交通大臣が一体どのようなつもりなのでしょうか? 学会オバチャンは、これをどのように思っているのでしょうか?
学会オバチャンは「そうね。人命が大事だから。戦争は何よりいけないのよ。尖閣列島なんかあげてしまえばよいのよ。竹島もあげてしまえばよいのよ。そうすれば戦争にならないでしょう」と言うのです。
これが今の創価学会の考えていることです。「相手の国の言い分を全て聞けばよい。そうすれば戦争にならない」と言うのです。全く笑ってしまいます。
聖教新聞には、「心に御書を 池田先生がおくる指針」ということが書いてあります。「智者と申すは国のあやうきをいさめ人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ」(頼基陳状)と言っているのです。これは(頼基陳状)で日蓮大聖人様が言われているお言葉です。
智者という優れた者は、国が間違って進もうとしている時に、「間違っていますよ」という人こそ、本当の智者というのです。間違っているまま、そのまま放っておいて、諫めないならば、それは邪見の人というのです。
まさに今の創価学会は邪見の人です。日本は中国にドロボウをされているのに、「いいじゃないか。やがてよくなるのだから。ドロボウを差別するのは、人種差別である。我々は差別をしません」ということを言っているのです。まさに邪見の人です。
人間には人間の違いがあります。犬でも、シェパードもいれば、チワワもいます。同じ犬でも全然性格が違います。犬と一言では言えません。シェパードは、人間でも食い殺してしまいます。
シェパードよりももっと獰猛な犬もいます。人間を見ただけで食いついてきます。狼もそうです。人間を見たら襲い掛かってきます。図体がでかくて、世界一危険な犬もいるのです。そのような犬もいるのです。
そのような犬もいれば、可愛いパグちゃんのような犬もいるのです。犬といっても全く違うでしょう。中国は、15億人の人口を持った獰猛な犬です。これを日本と同じだと思って、反対に助けることはよくないことです。やがて、日本の国が盗られてしまいます。 
その反対に中国を助けるような指導をしているから、創価学会の指導者である池田大作は、間違いなく朝鮮人です。創価学会の幹部も朝鮮人です。
日本人らしく闘う時は闘い、ダメなものは、「ダメだ」と言い、「やるならば来い!」と言わなければ日本人にはなれません。何が「心に御書を」なのでしょうか? 
僕が「学会オバチャン、わかりましたか?」と言うと、「うるさいわね。そんな話は聞きたくないのよ!」と言うのです。
「今によくなる」わけがありません。中国は今も昔も悪くて、益々悪くなるのです。価学会も全く同じです。創価学会員は益々馬鹿になり、道理がわからない悪い人間になるのです。


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2020年06月30日

人間の探究 1569 創価学会オバチャンとの対話 

068
※尖閣諸島周辺海域における中国公船の活動状況について(外務省プレスリリース等)
https://biboroku.net/senkaku_china/

人間の探究 1569 創価学会オバチャンとの対話 

 前回の僕との対話で学会オバサン、中国がいかにダメなのかわかったでしょう。
学会オバチャンは、「私はそうは思いません。中国は今に必ず立派になります。ほら、これを見てみなさい」と言って出してきた本があります。それは、『第三文明』です。この中にラスプーチンと言われた佐藤優が出てきて「世界の文明はやがて創価学会を頼るようになる。池田大先生は大思想家である」と、3P〜4Pに渡って書いているのです。
 「貴方がたは佐藤優がどのような人間なのか知っていますか? 佐藤優は、元外務省の職員です。社会主義者の共産主義者です。もう一皮むくとキリス教徒です。同志社大学時代にキリスト教の洗礼を受けているのです。もう一つの顔があり、それは仏教徒です。
 これが佐藤優の顔なです。共産主義者であり、キリスト教徒であり、仏教徒です。全て矛盾した顔を持って、何を言っているのでしょうか? 唯仏論である共産主義者と、唯心論であるキリスト教徒と、共存できるわけがありません。
 まして、仏教の流れを汲む創価学会は、今は仏教ではありません。邪教です。しかも、佐藤優は前科がある男です。確か、外務省の職員の時に豚箱に入っていましたよね? 前科のある人間を持ちだしてきて、「『第三文明』で、佐藤優さんが言っているから、間違いない。佐藤優さんは、凄い権威のある人だ」と学会オバチャンは言っているのです。
 学会オバチャンは、「だから、未来はそうなるのよ」と言っているのです。「創価学会が世界的な宗教になる」と言っているのです。
 僕は「佐藤優さんは、外務省時代に豚箱に入った人ですよ。信用おけるのですか?」と聞くと、学会オバチャンは、「・・・・」と無言です。聖教新聞に掲載されていましたが、「池田記念講堂」を造るらしいのです。
 馬鹿げた連中です。池田大作は、間違いなくもう死んでいるのでしょう。だから、「記念講堂」を建てるのです。このコロナウイルスの時代に、こんな立派な建物を造って、誰がここに行くのでしょうか? 
 創価学会が広大な建物を建てると、珍しいから信者が集まってきたのです。そのような時代はもう終わったのです。コロナ時代は、みんなを集めて聖地の周りをみんなでグルグルと回って歩くことなど、もうできないのです。
 イスラム教のメッカ巡礼も制限されてしまい、人数が5分の1くらいになってしまったのです。それでも、100万人は礼拝に来るのです。それがメッカの回りをグルグル周って、最後はコロナウイルスをもらって帰るのです。死への巡行です。そうなってしまうのです。
 池田大作が生きているならば、「記念館」などと言うはずがありません。今、生きていたら、「記念館」とは言いません。創価学会は死をも偽造するのです。中国の尖閣列島の動きを学会オバチャンは知っているのでしょうか?
学会オバチャン「・・・・」無言です。
 尖閣列島は日本の領土です。それをいきなり中国人が侵入してきて、「俺たちの領土だ!」と言いだして、軍艦を入れてきているのです。
 「日本と中国は仲良くしましょう」と言いながら、中国は日本の領海に軍艦を入れてくるのです。しかも、軍艦4隻を入れてきたのです。海上保安庁も日本の漁民を守るために船を出しているのです。
 中国の軍艦4隻に対して、海上保安庁の船を10隻くらい出しているのです。海上保安庁の船は千トンです。中国の軍艦は5千トンです。名前だけは、「公船」ですが、それはウソで実際は軍艦です。
 中国は軍艦を白くペンキで塗って、「公船だ」と言って誤魔化しているのです。だから、装備は軍艦そのものです。それが尖閣列島にズラリと来ているのです。中国が「公船だ」と言うと、日本は軍艦をだせません。こちらも海上保安庁の船を出すのです。
 「変なことをやるのではないぞ!」と睨み合っている状態です。真ん中に日本の漁民がいて逃げ回るのです。中国の公船が「待て!」と追いかけてくるので、日本の漁船は逃げ回るのです。すると、海上保安庁が漁船をガードするのです。
 それでお互いにマイクで「ここはうちの海だ、出て行け!」とやっているのです。中国はそんな汚いことをやっているのです。中国は人の領地を盗ろうとしているのです。
 中国の地図を見ましたが、中国大陸は東のヨーロッパの入り口にウイグルがあり、その下にはチベットがあります。東の方角にはモンゴルがあります。中国の学校では、それらを含んで「中国だ」と教えていますが、それらの国を省くと実は中国は小さな国になってしまうのです。
 中国は「台湾も中国の領土だ」と言っているだけで、実は歴史的に見ても台湾が中国領だったことは一度もありません。むしろ、「一緒になりたい」と言った時期には、「台湾はいらない」と言われたのです。
 清朝の時には、「万里の長城より外の土地はいらない。海を渡る台湾はいらない」と言ったのです。それが、いつの頃からか、「台湾は中国の領土だ」と言いだしたのです。中国共産党は全て、武力制圧です。モンゴルも中国軍が侵略して領地を奪ってしまったのです。
 中国人に「中国の地図ですよ」と教えても、西はウイグルとチベット、東はモンゴルですから、本当の中国はほとんど真ん中だけで、全て占領地です。中国の外国を侵略して領地を増やしていく考え方は、侵略国以外の何者でもありません。
 学会オバチャンは、これをどのように思うのでしょうか? すると学会オバチャンは「今に中国はよくなるわよ。そんなことをやっても、世界が放っておくわけがないでしょう?」と言うのです。
 「今によくなる」わけがありません。中国は今も昔も悪くて、益々悪くなるのです。「人の領土をかすめ取って、自分の領土にする」というのは、野望です。中国の野望は全世界に向いているのです。こんなことは絶対に許してはいけません!(△紡海)


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2020年06月29日

人間の探究 1568 滅不滅(めつふめつ)の滅(めつ)

06
※弟子たちが「最後のお言葉をください」と言ったのです。お釈迦様は「では、最後の言葉をあげましょう。私が滅したら、自灯明(じとうみょう)ですよ。貴方たちは、私を頼りにして生きてきましたが、これから私は入滅するのだから、私を頼ってもダメなのです」と言われたのです。

人間の探究 1568 滅不滅(めつふめつ)の滅(めつ)

「第六即滅化城の事 御義口伝に云く我等が(めっ)滅する当体は化城なり、此の滅(めつ)を滅(めつ)と見れば化城なり。不滅(ふめつ)の滅(めつ)と知見するを宝処とは云うなり、是を寿量品にしては而実不滅度(にじつふめつど)とは説くなり」(御義口伝巻上)

 生きている者は誰でも死する存在です。滅しない者はいません。天下を取った織田信長にしても、飛ぶ鳥を落とす勢いで、「さあ、これから天下を取るぞ!」という時に、謀反に遭って襲われて滅してしまうのです。
 人生はそうなのです。生きとし生きる者は、必ず滅する存在です。お釈迦様が最初に説かれたのが、「生老病死」です。「生老病死」の段階を得ないものはいません。最期は誰でも死を迎えるのです。死とは、「滅する」ということです。
 このようなことを知っているから仏教を求めて、「俺は滅したくないのだ。永遠の生命が欲しいのだ」と思って仏道に入った人もいます。言葉はちょっと違いますが、内容はそうなのです。
 「永遠の幸福が欲しい。永遠の生命を体得したい」と思うのです。それは、「滅しない自分をつくりたい」ということです。滅しないのですから、不滅です。しかし、いくらそのように考えても、生老病死という宇宙のリズムがある限りは、「生あるものは必ず死す」のです。
 ところが、仏様になると反対です。お釈迦様は「これから涅槃をする」と言うと弟子たちが、「お釈迦様、涅槃をしないでください」と言ったのです。お釈迦様は「もう時間が来た。私は涅槃をする」と言われたのです。
 弟子たちが「最後のお言葉をください」と言ったのです。お釈迦様は「では、最後の言葉をあげましょう。私が滅したら、自灯明(じとうみょう)ですよ。貴方たちは、私を頼りにして生きてきましたが、これから私は入滅するのだから、私を頼ってもダメなのです」と言われたのです。
 弟子たちが「では、何を頼りにすればよいのでしょうか?」と聞くと、お釈迦様は「自分を頼りにしなさい」と言われたのです。これが涅槃経の教えです。お釈迦様は「誰かを頼るな」と言われているのです。
 「阿弥陀様、助けてください」と言っても、そんなものは出てきません。自分の力で人生を歩んでいくのです。もっと言うと、自分がやってきたことの因果の法則(カルマの法則)によって、これらも続いていくのです。
 この世でよく修行した者は、自分のカルマを脱して、幸せになっていくのです。悪いことをしてきた者は、自分のカルマは消えていないのだから、カルマを自分で摘み取るのです。自分で蒔いた種を自分で刈り取っていくのです。これが自灯明の教えです。
 自ら明かりを灯して進むのです。自分がこのような行動をすれば、このような結果が出てきます。ということをお釈迦様は教えたのです。「みんなわかっているな。自分で明かりを灯して、人生は一人で歩んでいくのだ」と言われたのです。
 「わかりました」と弟子たちが言うと、お釈迦様はご入滅されたのです。しかし、「滅不滅の滅」です。本当は、不滅なのです。お釈迦様は亡くなったように見えますが、不滅なのです。お釈迦様は永遠の存在で生きているのです。
 このことを説いたのが、寿量品です。「仏の寿命は無限である」と言っているのです。「滅不滅の滅」なのです。滅したように見えますが、実は滅していません。だから、「寿量品が一番有難い」というのは、それなのです。
 ということは、仏様が滅不滅であるならば、我々凡夫も滅不滅なのです。「お釈迦様だけお隠れになってしまって、ずるいよ」と思っても、「大丈夫だよ、お前もお隠れになるのです。お隠れになっても、滅不滅なのだから、永遠に亡くなることはないのだ。私を信じてきた者は、永遠の生命を体得できるのです」と言われたのです。
 「この世に滅するものがあるべきや」ということです。姿かたちは滅するけれども、仏道を目指した者、仏様の教えを聞いた者、精進した者は滅不滅の滅です。死んだように見えるけれども、実は生きているのです。
 我々の命というものは、実は永遠の生命です。みんなそうなのです。どんな悪人でも永遠の生命です。だから、たまらないのです。悪道に転がり落ちたら、永遠に続くのです。たまらないでしょう。
 生まれるたびにヤクザの親父の家に生まれて、蹴っ飛ばされて、「ガキどけ、コノヤロウ!」と、ゴツンと殴られて、「ウワー」と泣くのです。「父ちゃん、痛いよ。止めてくれよ」と言うと、「うるせえ!」と言ってゴツンとまた殴られるのです。
 「おっかあ、酒を買って来い!」と言って、髪の毛をつかんで引きずり回されるような、そんな家に生まれてくるのです。それが、何度生まれても永遠に続くのです。そんな家に生まれたら子供は、ロクな育ち方をしません。
 だから、青年になるとヤクザになってしまうのです。「コノヤロウ、やりやがったな!」という命が出てきて、それを繰り返して、途中で殺されたりするのです。それが終わらないのです。
 「滅不滅の滅」だから、殺されて死んでもまた生まれてくるのです。同じような人生を何万回でも繰り返すのですから、恐ろしいのです。悪人は永遠の悪人です。本人は、たまらないと思います。
 そのようにわかって、仏道修行を真剣にしていかなければいけません。我々が渇仰の心を起こして「仏様にお会いしたい」と思うと、多くの衆僧と共に現れてくるのです。貴方は信仰心がないから、「お釈迦様が存在している」「日蓮大聖人様がいらっしゃる」ことがわからないのです。
 でも、貴方が信心修行をして、「仏様がいる」とわかってくると、多くの衆僧と共に、貴方の前に現れて貴方を救うのです。貴方には孤独というものがなくなるのです。そのために仏道修行をするのです。
 今の人間達は三世などというものを考えていません。「人間は死んだら終わりだから、やりたいことをやるのだ!」と、自ら唯物論であることを宣言しているのです。「私は物だ」と言っているようなものです。
 「憎い奴は苛めてぶっ殺してやるのだ!」と思っているのです。そのような、荒んだ心では、「滅不滅の滅」が見えません。人間は1日生きたら、1日死に向かっているのです。「今世で終わりだ」と思って、他人を憎んでいるのです。
 もっと大きな人間の生き方が存在することを教えてくれているのが仏教です。それが経典でいうと、法華経の如来寿量品です。仏道修行とは、如来寿量品に出てくる仏を信じて生きていくことです。
 
 
■妙法蓮華経 如来寿量品第十六 自我偈 真読
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
為衆生度故 方便現涅槃
 而実不滅度 常住此説法

■訓 読
我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり 衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 
而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く

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