2016年06月25日

『般若心経の大予言』■うぬぼれた悟りは地獄因 23

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※前世の因縁によりふと人生の無常を悟ってしまい、山中にいて人の交わらない、これを縁覚という。

『般若心経の大予言』■うぬぼれた悟りは地獄因 23

 声聞界と縁覚界の衆生を二乗といいます。縁覚道とは独覚(どくかく)・辟支仏(びゃくしぶつ)ともいい、仏陀のいない世に生じて飛花落葉(花が空にヒラヒラと舞い落ちる自然現象)を見て、全ては苦・空・無常・無我(四諦(したい)の法門)と悟り、仏法の一分を得て満足し、一人法悦をかみしめて、化他(けた・人を導く事)に出て人を救わざるが故に、この名がつけられました。
 古代から今にいたるまで、ヒマラヤの山中に篭り座禅瞑想し、小分の悟りを得て、誰にも会わず一人死んでいく隠者はいるはずです。人に知られないのだから、何人いたかなど知れるはずもないのですが、このような人達をインドでは聖者と言い、深く尊敬を集めていますが、むしろ聖者より隠者の方が正しい呼び方ではないでしょうか。
 誰にも教わらないのに自然の飛花落葉を見て、一分の悟りを得るとは不思議な事ですが、三世の生命観に立てば、仏様は縁覚(独覚)の因果を明確にお説きになられています。
 これらの者は過去世に、十戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)を固く守り、見惑(全ての物に実体ありと考え、自分の我が常に存在すると考える事)を破して、無常・無我と悟った故であります。
 惑(迷い)には大別して三惑と呼ばれる、見思惑(けんじわく・見惑・思惑)・塵沙惑(じんじゃわく)・無明惑があり、これらの惑を全部破して仏陀となるわけですから、見惑だけ破しても仏陀にはなれないのです。さらに思惑・塵沙惑・無明惑を破さなければならないのに、一分の悟りで満足してしまうから辟支仏、独覚とかいわれ、法華経が説かれる以前では、二乗(声聞・縁覚)は不成仏(未来永劫に成仏しない)として、お釈迦様よりしかられたのであります。
 自分に満足してしまって、一切人の言を聞かないのです。仏陀の悟りがさらに上にあるのを知らないのです。そこで慈悲を発せられたお釈迦様はまず叱って、目を覚まさせる必要があったのです。
 「お前は成仏しないぞ」と弾詞されたのでしょう。もう少し詳しくみてみます。

「聖人に三道あり、見道とは見・思の内、見惑を断じ尽くす。此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す。此の人は欲界の人、天には生れども永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちず、天台曰く「見惑を破るが故に四悪趣を離る」文、此の人は未だ思惑を断ぜず貪・瞋・痴・有り、身に貪欲ある故に妻を帯す、而れども他人の妻を犯さず、瞋恚あれども物を殺さず、鋤(くわ)以て地をすけば虫・自然に四寸去る、愚痴なる故に我が身、初果の聖者と知らず、娑婆論に云く「初果の聖者は妻を八十一度、一夜に犯す」と、天台の解釈に云く「初果地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なり」と、第四果の聖者、阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う。永く見惑を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず。見惑の煩悩無きが故なり、又此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず、身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智(けしんめっち・肉体を灰にして智を滅す)と申して見も心もうせ虚空の如く成るべし習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗これなり」(一代聖教大意)
 以上は修行の果としての二乗論ですが、命を一念と見る立場からの声聞・縁覚とはどのような命でしょうか。私はこう考えます。
 我等凡夫の命は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を、車のように毎日毎日、いや瞬間・瞬間、輪廻しています。その人生に虚無を感じて、「何とか幸福になる道はないものか」と考えたとします。
 そこでお釈迦様の仏教にめぐり合い、仏陀の説法に一心に耳を傾けたならば、その命そのものが声聞であるといえます。
 さらに、仏教を学ぶにつけ、分分に悟っていくわけですが、仏陀の真意の奥深いのも知らず「我大悟せり」などと思い、一切の人の言に耳をかそうとしなくなれば、この命の正体こそ独覚・縁覚と知る必要があります。
 また大事な事があります。自然界に存在する命は、六道までという事です。いくら自然を感じても、そこから出てくる命の最高は天界の第六天(精神世界の満足)の果であり、声聞・縁覚は仏陀の胸中の一部から発しているということです。
 前世に仏陀の法の一分を修行して、今世に声聞・縁覚となったのですから、今世で仏陀を見ないといっても、声聞・縁覚になった真の原因はやはり仏陀にあるのです。
 いくら仏教を求めて、聞く耳を立てても、仏陀がおられ、あるいは経が無ければ何も聞こえるはずも無く、悟りようもありません。
 声聞にしても縁覚にしても、最初に聞いたのは「仏陀の説法ありき」だからであります。我等の凡愚の一念でも同じことで、仏陀の教法が無ければ声聞も縁覚も成立しないのです。
 仏道を修行する者の陥りやすい声聞・縁覚の二乗心を冷静にながめ、どこまでいっても慢心する事なく精進に励む事が大事です。

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2016年06月24日

人間の探究 538 身口意(しんくい)の三業

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※体でやる修行は座禅・滝行・水行・断食などです。身業(しんごう)といいます。身業とは、(からだのごう)です。

人間の探究 538 身口意(しんくい)の三業

これは、修行が先です。身の修行、口に出す修行、心の修行です。お題目を唱えるのは、口でやる修行です。体でやる修行は座禅・滝行・水行・断食などです。身業(しんごう)といいます。身業とは、(からだのごう)です。
心で「空について考える」「空仮中の三諦について考える」など、様々なことについて考えるのは口を使うわけでもなく、体を使うわけでもありません。それは心による修行です。修行といっても様々な修行があり、体の修行をやるのか、口の修行をやるのか、心の修行をやるのか、3つに分解されます。これを身口意(しんくい)の三業といいます。
反対に体の業があります。体の業とは、悪い面でいうと理論物理学者のスティーヴン・ホーキング博士にように体がだんだん動かなくなることです。ホーキング博士は、体は動かない、手はほんのちょっとしか動きません。徳洲会の徳田虎雄氏も体が動かないので、ご飯も食べさせてもらわないと自分では食べられません。体が動かないのです。脳卒中もそうで、体に業が出てしまうのです。
体に業が出ているからといって、心に業が出ているとは限りません。ホーキング博士はしゃべれないけれども頭は動いています。理論物理学者としての最高の頭脳を持っています。ホーキング博士の体は動かなくても、教授です。心は働いているのです。心は業を受けていませんが、体は業を受けて動きません。
今度は口という問題があります。口とは言葉です。日本語をしゃべっているのも業です。英語をしゃべっているのも業です。韓国語をしゃべっているのも業です。人間は様々な言葉を使って考えています。口の業では、舛添のようにコテンパンに悪口を言われる人もいます。これは口の業です。相手は悪口を持って攻めてきます。それに受け答えをしているのですから、口が業を積んでいるのです。
体が業を受ければ、片輪になったり、両足がなかったり、体が動かなかったりするのです。口が業を積めば、人に悪口を言われて、あることないことを言われて苦しみを受けます。
ホーキング博士の話をしましたが、ホーキング博士はまだよいほうで、心が業を受けていません。心が業を受けて、「業が満ちる」状態はキチガイです。心がキチガイでも、立派な体を持っている奴もいます。女で結構美しい体を持っているのに、頭がノータリンでキチガイだったら仕方ありません。
そのように考えていくと、身口意の三業がよくわかるのです。普通の人の身口意の三業はバラバラです。身口意は本来は三つではなくて、一つです。一つのものをバラバラに分解してみると、体があって、口があって、心があります。元々は一つのものです。身口意がバラバラになっているということは。現罰の姿です。
口で唱えることと、頭で考えていることと、体がやっていることがすべて違うのです。これはキチガイです。身口意がバラバラです。この身口意の三つが、信仰が進んで一つになると、健康な体を持ち、健康なことを考え、口から出る言葉も仏様の説法やお題目です。
その三つが集まって、初めて成仏に向かっていくことができます。それを考えたときに、「自分は何が足りないのかな。今までウソばかり言ってきたからな。体は健康だけれども、ウソばかり言ってきたから来世は口の業が出てしまうな」とわかってくるのです。ウソばかりついてきたということは、来世はウソでやられてしまうのです。
池田大作のように、ウソのことを教えてきたら、最後は自分がキチガイになってしまいます。皆を捕まえて苛めて鞭でぶったり、権力をつかって人々を苛めてくると、来世は最低の体を持つのです。
修行がちゃんと進んでいくと身口意の三業がそろってきて、すべて妙法に向かっていくと成仏に向かっていきます。「貴方の体は健康だけれども心が曲がっている」そんな奴ばかりです。「貴方は足が達者で動くけれども、口から出ることはすべてウソだね」これは身口意の三業がバラバラなのですから、来世はその報いを受けるのです。
僕に対して陥れようとして、僕の悪口を言ってきた人間がいます。最後は大変です。来世は終わりです。みんなが攻めてきて、その人間は身口意がバラバラになってしまいます。
身口意の三業は整えていくのです。妙法によってだんだんと整えていき「私はここが抜けているな」「またウソを言ってしまったな」「また変なことを考えてしまったな」「今の亭主と別れて、新しい男と一緒になろうかな」などと考えていると、これは悪いことだから、その結果について知りなさい。
心が曲がった場合、口が曲がった場合、体が曲がった場合、どのようになるのか考えていかなければいけません。いつも寝そべって酒ばかり飲んでいる奴はもう体が落ちているのです。
「身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ」(四条金吾殿御返事)ということを日蓮大聖人様は言われています。口で「妙法を信じています」と言っても。妙法を唱えない、これはダメです。正しい行動をしない。信仰していく人の深い戒めだと思います。

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2016年06月23日

人間の探究 537 正理会は真理会ですか?

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※正法とは、中道を説いた正しい教えということです。真理を極めていくと正理です。

人間の探究 537 正理会は真理会ですか?

真理ということをまず考えてみなければいけません。真理とは、相対的にして出てくる言葉です。比較する相手がいないと、真理はありません。「AさんとBさん、どちらが真理ですか?」というのは成り立ちます。
Aさんだけしかいないのに「Aさんが真理ですか?」と聞いても答えはでないとわかります。Aさんはそこにいるのですから、よいも悪いもないのです。2人いると「AさんとBさんのどちらが真理ですか?」ということが成り立ってきます。「どちらが真理ですか?」ということが成り立ってきます。一人だと関係ありません。真理とは相対して出てくる概念です。
「絶対の真理」などありません。「絶対の真理」などないのに、宗教ではこれを言うのです。「キリストが絶対の真理を説いている」「マホメッドが絶対の真理を説いている」「仏陀が説いているのはすべて真理だ」と説きます。
真理を突き詰めていくと、3つも4つも出てきてしまいます。だから、その集団にとっての心理にしかすぎないということがわかります。キリスト教というものを信じている集団の中での真理、イスラム教を信じている集団の中での真理です。
それは比較することができます。「イスラム教とキリスト教のどちらが真理ですか?」と比較することはできるのです。「仏教とキリスト教を比べた場合、どちらが真理ですか?」ということは、すぐに結論がでます。
仏教が真理であって、キリスト教は真理ではありません。これはイスラム教においても同じです。「神の教え」と言いますが、キリスト教にしても、イスラム教にしても虚妄(こもう)の真理だとわかるのです。
虚妄の真理であるから、他の宗教を迫害するのです。イスラム教は簡単なことで、「イスラム教に改宗するのか?信じるならば命は助けてやる。信じないならば殺すぞ」と言い、何人か見せしめのために殺して「こうなりたいのか?なりたくなければイスラム教に改宗しろ!」原理はこのようなことです。
真理だから信じるのではありません。宗教とは国の規律のようなものです。「仲間の掟」このように考えたらわかります。「お前、俺たちの仲間に入るか?入ればこのような規律があるぞ。ムハンマドを神として信じるか? 信じるならば助けてやる。信じないならばお前を殺す」このような掟です。
暴力団と同じです。「お前は●●組に入るのか?入らなければぶっ殺すぞ!」と脅かすと、気の弱い奴は「では、入ります」と言ってしまいます。すると「入った以上は、刺青を入れろ。親分をお前の命と思え」と言われるのです。暴力団と宗教の構図は同じです。
真理を求めて山口組に入る奴はいません。真理を求めて宗教に入信した人もいません。宗教とは仲間の掟です。「今日からお前はイスラム教徒になったのだからこうしろ。仲間になったのだから、毎日メッカに向かって5回祈れ。これが我々の仲間の掟である」ということです。イスラム教には、まだまだ細かい掟があります。
「浮気した女は石で打ち殺せ」「ドロボウをした奴の腕を切り落とせ」「これが我らの仲間の掟だから、この掟に従え」これが宗教です。「真理だ」など誰も思っていないのです。仲間の掟だからそうなるのです。
キリスト教もそうです。「キリスト教徒になりたい」と言うと、神父が「では、神とイエスと精霊が一体であると信じますか?」と聞かれます。普通の人は、信じていません。だから「信じますか?」と迫るのです。神父に「三位一体を信じますか?信じるならば、アーメンと言いなさい!」と言われて「アーメン」と言ってしまうのです。
それから神父に「これがキリストの血だ」と言われてパンを渡されて、「これを食べろ」と言われて、葡萄酒を渡されてそれを飲むと「これはキリストの血である。今日からお前はキリスト教徒になったのだ。安息日を守れ。日曜日になったら必ず休むのだ。これが仲間の掟だぞ!」と言うのです。信者は「わかりました。アーメン、信じます」と言います。宗教とは、信者に掟を守ることを約束させるのです。真理などありません。
仏教はそうではありません。「今日からお前は釈迦を信じろ。信じなければ殺すぞ!」そんなものではないのです。信じなくてもよいのです。「仏弟子になり、仏陀を目指したければ、わが教団に来て学びなさい。そのときにはこうしなさい」という掟はありますが、「五戒」という簡単な戒めです。肉を食べない、人を殺さない、ウソをつかない、姦淫をしないという教えです。それを信じれば仏教徒です。キリスト教やイスラム教とは、まるっきり違う教えです。
どちらが真理かと言ったら、キリスト教とイスラム教に真理はありません。どちらも間違っています。人間が掟をつくったのです。
仏教とはそうではなく、真理を探究したものです。だから、仏教が真理です。仏教の中にもたくさんの教えがあります。何が真理でしょうか。2つ集まれば、その中において真理はでてきます。3つ集まれば、3つの真理があります。どんどん集まってくればくるほど「真理はこうだ」と言えるのです。
真理の中身について検討すると、「どうも真理とは、正理(しょうり)らしい」とわかってきます。正理とは、真ん中ということです。何故かと言うと、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十とランクがあり、「正(しょう)」とは、五です。「正(しょう)」とは、真ん中です。「真理は真ん中にある」という考え方です。
極端に右に触れて、左に触れていたら、一か、十かで、そんな考え方は狂っています。正理とは、正しい真ん中の位置にあるということが大事です。真ん中の位置にあるということを「中道」ともいいます。一は中道ではありません。十も中道ではありません。
全ての真ん中の真ん中を煮詰めていき、「すべての中心になるものは何か?」と検討していくと正理が出てきます。正理とはそのようなものです。出てきた正理は真理です。人間は「全体を統一する真理がある」と思うのですが、そんなものはないのです。
2つのものが集まったときに、どちらかのものが真理です。そのような考え方です。それをずっと重ねていくと、全てで見た場合は、五が正理です。
正法とは、中道を説いた正しい教えということです。真理を極めていくと正理です。正理が真理だと言ってもよいのです。

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2016年06月22日

人間の探究 536 諸法実相について

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※諸法の実相とは、因果倶時のことを言っているのです。

人間の探究 536 諸法実相について

 昔、生長の家の谷口雅春が『生命の実相』という本を出していて、大人気を博したことがあります。成長の家は戦後、ラジオで布教したのです。成長の家の内容をラジオで聴いていて、感動した人が成長の家に入会したのです。
 今でも原宿にあり、活動しているのかわかりませんが、結構な勢力をまだ持っています。成長の家は、アメリカのクリスチャン・サイエンスを基礎にした考えです。原理はこうです。「生きているということは、心の影である。心が一番大事なのです。心が病気になるから、肉体が病気になるのです」そのような教えですから、結構納得できる面もあります。
 心が治れば、肉体の病気は消えるのです。これで実際に多くの人々が救われたのです。仏教でいうと唯心論です。唯心論とは、「ただ心のみ」ということです。心のみが実相であり、肉体は心の陰である。貴方が貧乏を直そうとしても治りません。心を直さなければダメなのです。
 このような教えですから、当時わかりやすかったのか、結構信者ができたのです。「クリスチャン・サイエンス」という考え方です。仏教の諸法実相ということは、生命の実相を説くのですが、このような説き方とは違います。
 諸法実相という言葉が法華経の中に出てくる以前、仏様は最難解と言われる最も難しいとされる問題を明らかにされた人なのです。それは長い長い修行の結果そのようになったのです。誰も仏様に追いつくことなどできません。誰も仏の悟りを理解することはできません。そのくらい難しい「難解(なんげ)の法」といわれています。難解の法を成就されて仏陀になったのです。
この世界には諸々の物があります。「様々な物がある」ということを、諸法といいます。仏法はとくに心の諸法です。様々な心があります。ドロボウする奴、人殺しをする奴、様々な心があります。千差万別です。人間の心は万法です。クルクル変わり、縁にふれれば泣いたり笑ったりします。
心の実相とはどのようなものでしょう。心は、物質界にも影響を与えているのです。「心が中心だ」ということは間違いありません。様々な物も心から出ているのです。心が諸法であるから、この世に出てく物も千差万別です。
生命だけ見ても何千種類とあります。恐竜、魚、鳥、様々な生き物がいます。この生き物ごとに心を持っているのです。千差万別、諸法です。このような差別、違いというものを最初に見た人は「諸々の法(諸法)の実相というものは、どのようなものでしょう」と見たのです。
日蓮大聖人様の教えはそうではありません。諸法の実相ではなくて、この経典の意味は「諸法即実相」と読むのです。「即」という字は入っていません。それを日蓮大聖人様は「諸法即実相」とよんだのです。これは難しいのです。
実相が別にあるならよいのです。現象界があり、その奥に実相があるならば、「諸法の実相」になります。しかし、「諸法即実相」というのですから、これを考えてみなければいけませんが、考えた人はあまりいません。
諸法の実相とは、因果倶時のことを言っているのです。あらゆるものは原因があって結果があります。原因が様々であるから、結果も様々で諸法になります。あらわれている諸法が、そのまま実相を表しているのです。
これが仏様のお悟りです。岩があり、この岩の奥に実相があるのではないのです。岩そのものが実相です。そこにいる馬、馬がそのまま実相です。猫も犬もそのまま実相です。猫の奥に何かがあるわけではないのです。
その実相をじっと見ていくと、生命は実相によってつくられたのです。その実相の正体が妙法ということです。それ以外に実相はないのです。実相というものがあり、地上界に存在するものとかけ離れた存在はないのです。人間がいくら見ようとしても実相は見えません。
どうやったら実相がわかるのでしょう。貴方が見ている物が実相です。貧乏で苦しんでいる人がいる、サラ金だらけになってパチンコに行く人がいます。それが実相です。諸法即実相とは、桁違いに深い教えです。
実相とは見ている物そのままです。そこに石があります。石の実相は何かというと、石そのものが実相です。月があります。月の実相などというものはありません。そこにある月そのものが実相です。何故、それが実相になっているのでしょう。それを因果倶時の法というのです。
物事には原因があって、結果があります。因果の理法にすべてに通じていくのです。因果の理法で見ると、石そのものが実相です。或は不幸な人間の姿そのものが実相です。幸福な人間がそのままが実相です。男もそのままが実相です。女もそのままが実相です。
ありとあらゆるものは因果倶時によって、実相を表しているのです。そのように見ていくのです。だんだん修行が進むと実相に見えてきます。「ああ、諸法実相とは、このようなことなのだな」とわかれば、因果倶時がわかったことになります。因果倶時がわかれば成仏です。
南無妙法蓮華経の南無は無明です。悟っていない自分が南無です。悟っていない私の心はそのまま実相です。それは妙法だと教えられています。「妙法とはどのような法ですか?」と聞かれたら、答えは「蓮華の法」です。
それは因果倶時不思議の一法です。これが集まっているのが「自分」であり、南無・妙法・蓮華・経です。仏の教えであるから経というのです。
お寺に行くと塔婆が建っています。塔婆は人間の形を現しているのです。塔婆は妙法蓮華経を表しているのです。貴方そのままが実相です。ちょうど鏡を見るようなものです。貴方の実相を見たければ鏡を見なさい。鏡を見るとそこに実相が映っているのです。
シワだらけのバアサンなのか、若い青年なのか、腰の曲がったオジイサンなのか、鏡に映ったそのままが実相です。それ以外に実相はありません。何かほかに実相があるように思いますが、それ以外ないのです。
みんなそれが引き続いて行き、生まれ変わって、生まれ続いて、どんどん変化をしていくけれども、因果により実相になっているのです。来世は石や馬や豚になるかもわかりません。豚になった貴方はそのまま実相をやっているのです。豚にとって、豚は事実であり、これは実相です。やはり、人間という実相をもって生まれたいのです。生命の中では人間が一番よいのです。
そのように来世、人間に生まれるためには正しい道を歩まなければ何になるかわかりません。来世は人間になるとは限りません。豚になるか、ゴキブリになるか、何になるか全くわかりません。
因果倶時の法によって、来世の生命になるのですから、豚になるような因を積まなければ豚にはなりません。食べたいものをバクバク食べて「食べることが唯一の楽しみだ」という人は危ないのです。貴方はもう人間の体ではありません。姿かたちは豚に見えます。では、来世はもっと豚らしくなりましょう。これが因果倶時であり、諸法実相です。自分がつくった心によって豚になるのです。
豚になったら最後、もう仏様の説法など聞けません。「貴方はなぜ豚なのか?」と言ってもわかりません。人間でも精神障害がある人に「貴方はなぜキチガイなのか?」と言ってもわかりません。豚に向かって「なぜお前は豚なのか?」と聞いてもわかりません。
人間だけがわかるのです。「あいつはこのようなことをやって、豚の生命になったのだな」とわかるのです。豚にはなりたくないのです。「今度は人間に生まれて、仏様の説法を聞いて畜生界に落ちないように頑張りましょう」ということです。畜生界に落ちた奴は、畜生界がそのまま実相です。人間界に生まれた人は、人間であることがそのまま実相です。
このように仏教は、不思議なことがたくさん説いてあります。徐々に解き明かしていきたいと思います。

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2016年06月21日

人間の探究 535 文底秘沈(もんていひちん)

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※牢獄で体が飛べないのですから、心が飛びたいのです。戸田城聖は、何度も小説の申請をしても、不思議と法華経が送られてきたのです。

人間の探究 535 文底秘沈(もんていひちん)

日蓮大聖人様の仏法というのは、文底秘沈(もんていひちん)と呼ばれています。文底秘沈について教えられた御書があります。
文底とは、「文の底に沈めたるもの」という意味です。表面の文章読むのは、「文上(もんじょう)」です。文に現れていないけれども、真実を説いている部分があります。これを文底といいます。
法華経を何百回、何千回と文の上で読んでいる人は、文の奥にある文底秘沈がわかるはずがありません。文底秘沈を理解していくことが、信仰の本意です。文の上で穴のあくほど法華経を読んでもわかりません。
これは一般の文章でも通じることです。「行間を読む」といいます。文章は言葉になり一つのセンテンスが出てきます。また次のセンテンスが出てきます。次の文章が出てきて話が伝わっていくのですが、それだけなのかというとそうではないのです。
目に見えない部分に、それを書いている人の教養がすべて入っているのです。例えば、俳句の文章を書きます。芭蕉の俳句で言うならば、「古池や蛙飛びこむ水の音」「初雪や二の字二の字の下駄のあと」、という短い文章です。
この短い文章の奥に無限のものが入っているのです。それは書いてありません。ただ、それだけの文章です。俳句は、わずか五・七・五の文字の中にあらゆる風景が入っているのです。「その風景がわかるのか?」ということは、読み手に教養がないとわからないと、読み切れません。
「なんだ、池に蛙がドボンと飛び込んだのか」それで終わりです。「雪の中を誰かが下駄で歩いたらしい」それで終わりです。「誰が歩いたのだ、お前か?」そんな話になってしまいます。違うのです。
観る人から見ると、実に幽玄な目に見えないところのものがにじみ出てくるのです。一般の本でもそうです。文章は行間を読むのです。行間は言葉になっていません。言葉になっていないものを読むのです。
法華経もそうです。法華経に書かれた文上を何百回も読んでいくと、何かが見えてきます。その見えてくるものを文底(もんてい)というのです。仏教とはそのように、ことごとく文底の話をしているのです。文上の話ではないのです。法華経は、文上で観るおとぎ話であったり、空中から塔が出てきたり、宝塔に呼び寄せられて釈迦が空中に上がっていったなど、そんな話です。それらの話に何の意味があるのでしょう。一般的な話は通用しません。だから、何度も読むのです。
何度も読むと目に見えない底にあるものが見えてくるのです。お題目もそうです。何百万遍唱えるのです。「南無妙法蓮華経」は、一つの言葉です。お題目を唱えていくうちに、少しずつその奥にあるものが見えてきて、成仏するのですから、同じことです。それを文底秘沈というのです。
大石寺教学の間違いは、文底秘沈まではよいのです。それが御本尊になってしまうところが間違いです。「南無妙法蓮華経の奥に御本尊が見えるのか?」というと、いくら見ても見えません。文底秘沈はそんなことではないのです。仏像が後ろに埋めてあるだとか、そんなことではありません。
行間を読んで、その深みを体得して、じっくりと読んでいく中で、ジワジワと法華経が本当の姿を現してくるのです。そのような読み方をしないと、法華経は文の上だけで読んで、「七つのたとえ話がある」というだけで何だかわかりません。
待ちなさい、それだけではありません。ここからが法華経のすごいところです。ここが仏法のカッコいいところです。
戸田城聖先生は、牢獄に入れられたときに、法華経は読みたくなかったのです。本当は小説が読みたかったのです。架空の話を読まないと、牢獄の中にいられないのです。三国志などの英雄談を読めば、なんとなく心が飛べます。
牢獄で体が飛べないのですから、心が飛びたいのです。戸田城聖は、何度も小説の申請をしても、不思議と法華経が送られてきたのです。また新しい本を申請すると、「おい、戸田君、新しい本がきたぞ」と見ると、それがまた法華経です。三度くらい本の申請するのですが、法華経が送られてきたのです。
三度目のときに戸田先生は決意したのです。戸田先生は教学がなかったのです。「こんなに法華経を何回も送ってくるということは、俺に法華経を読み切れという意味かな。よし、読み切るぞ!」と決意するのです。
戸田先生は数学の先生ですから、推理して物事を論理的に考えられる人ですから、法華経の取り組みが始まったのです。法華経には普通、漢文と読み下し文がついていますが、白文しかないのです。すべて漢文で書いてあります。それを一字一句、読み切っていったのです。
まず、一番に「如是我聞(にょぜがもん)」が出てきます。これは、どのような意味なのでしょう。他の経典には確か「我聞如是(がもんにょぜ)」と書いてあります。戸田先生は「この如是我聞から始めよう!」と思い、お題目200万遍を唱えて「これを読み切る!」と思ったのです。
ですから牢獄の中が非情に忙しくなり、朝掃除をしてから、お題目を唱えて、まず「如是我聞から読み解く」と、お題目を唱えていくうちに「如是我聞」の意味が「ああ、そのような意味だったのか!」とわかったのです。そのようにして法華経に毎日取り組んで、一つの言葉をいい加減にしないで、題目を唱えて読み切ったのです。
「如是我聞」とは、「是の如く我聞き」という意味です。「如是我聞」の反対のものは、我聞如是でといい、「私が聞いた」のです。
法華経以外の経典は、一番に「我聞如是」と出てきます。「私はこのように聞きました」という意味です。お釈迦様の説法を、私の心で聞いたのです。
法華経は違います。如是我聞です。「私はよくわからなかったこともありますが、是の如く仏様はこのように言われました」というから、如是我聞です。戸田先生は、その意味がわかったのです。
「そうか、法華経は仏様の説法の中心であり、優しく説いたものではないのだな。わからないままに説いたのだ」と受け取った人間は如是我聞です。法華経は、「是の如く仏様の説法を聞きました」ということで書かれたのです。
戸田先生は「この意味がわかったぞ。次は何だ」と一つ一つ、解き明かしていったのです。戸田先生は数学者でもあり、真面目な人ですから、法華経をすべて読み切ったのです。200万遍のお題目を唱えた結果、全てわかったのです。
「わかったぞ、仏教とはこのようなものだ! 俺はこの牢獄から必ず生きて出て、この法を広めなければならない!」というのが、創価学会・戸田先生の原点です。そのような気迫で取り組んでいったのです。
戸田先生は、法華経の文の底に沈めたる文底、「文に書いていないところに何が書いてあるのか?」ということを読みきったのです。文上と文底です。文の上の話を何百回読んでもわかりません。「読み切るぞ!」と思わなければできません。
例えば、一字でもよいのです。「愛」という字があります。この一つの字から仏教はすべて解けてしまいます。愛があるならば、慈悲という言葉もあります。慈悲と愛とはどう違うのでしょう。どこが違って、どこが同じなのでしょう。そのように考えていくと、次々と出てきます。何を愛するのでしょう。それは人間性を愛するのです。
では、人間性とは何でしょう。人間と人間性はどう違うのでしょう。そのように考えていくと、全てのものがつながってきます。愛という一字から八万四千の経典がすべて解けてしまうのです。
わかる人が一字を見ても「こうだ!」とわかってしまうのです。その文の根底に沈んでいるものを文底秘沈というのです。
大石寺は。文底秘沈まではよいのです。「文底秘沈とは御本尊だ。御本尊が隠れているのだ!」とわけのわからないことを言うから、文底にあるものが見えなくなってしまうのです。

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2016年06月20日

人間の探究 534 判断とは何か?

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※「仏法とは何か?」というと、実はこの反省判断です。

人間の探究 534 判断とは何か?

判断を英語で言うと「Judgment」といいます。いろいろな事件が起きて裁判官が、「裁判官の判断によると、自衛隊は合憲である」或は「違憲である」という判断も、裁判官によって違います。何が違うのかというと、一つの事件をめぐっての判断が違うのです。
実は人間はみな判断をしているのですが、人それぞれ判断が違うのです。犬や猫でも判断をしています。犬や猫は毒になるものを食べません。本能という判断がありますから、変な匂いがすると「これは体によくない」と判断して食べません。
草にしてもそうです。「これは体に良い草なのか、悪いのか」これは判断です。判断を謝ったら毒草でも食べてしまいます。判断は非常に大事です。
実は「人間が上等かどうか」ということは、判断により決まります。判断は下級判断から、高級判断まであります。ペンキ屋のオジサンが、何も考えていなくても総理大臣になれば、判断が違ってきます。総理大臣と一般人の判断は違って当たり前です。
日本国全体のことを考えるから総理大臣です。「日本国全体」と考える判断と、自分のことだけを考えていればよい庶民の判断では、違うのが当たり前です。
この判断はわかりやすく言うと、3つあります。まず、直接判断があります。直接判断とは、「花は花」というだけです。花を見ます。何も判断しないので、「花」というだけです。これを直接判断といいます。
「赤・黄色・青・冷たい・熱い」、人間は言葉ではなく、そのようなものを感じます。どんな動物でも「お腹が空いた」「熱い」「寒い」と感じます。これは直接判断です。直接判断をいくら重ねても何も生まれません。見る物、聞いたことがそのままです。
「赤い花」という判断もないのです。「花がある」と見ているだけです。犬や猫の見ている世界は直接判断だけですから、言語はないのです。
まして、犬の場合は色盲です。人間が7色に見えて総天然色が見えるのは、人間は五感を持っているからです。それがない犬は色盲の世界でしか見えないのです。色盲ということは、赤い花も黒く見えるのです。犬の世界は、黒と白しかないのです。直接判断の世界です。
人間はもっと利口ですから、直接判断が叙述判断に変わります。叙述判断とは、「これは花である」ということです。それまでは花という言葉がないので、ただ見ているだけです。「これは花である」と決めます。どちらかというと、分別判断です。
或は「これは森である」「これは林である」「これは滝である」「これは川である」これを叙述判断といいます。叙述判断は、直接判断よりだいぶ進歩しています。叙述判断は、無分別から分別を切り取った判断と言えます。
「である」と決めることにより、そのものがいきなり飛び出してくるのです。自然界は一つです。「これは花である」と言うと、花がボンと飛び出してきます。これが叙述判断です。
物事を叙述するのです。「これは森である」という「である」とは、見ている人が決めることです。だから分別判断とも言えます。これが叙述判断です。それで人間は言語をつくっていくのです。「富士山はキレイだ」これは、叙述判断です。「富士山は大きい」の「大きい」とうのも叙述判断です。人間らしい判断です。
さらにその上に判断があります。これは反省判断といいます。これは、「花なのか?」という判断です。「花」と名付けていますが、「これはどのような花なのか?僕にはこれは花ではなくて薬草に見える」というように、一つの物を見て、叙述判断した物の中から選び取って、反省しなおして出てくる判断です。
「これは赤なのか、いや違う。黄色かもしれない」と反省するのです。「自分は今これが正しいと思っている。しかし、正しくないのかもしれない」と反省することにより、判断が一歩高まります。
「仏法とは何か?」というと、実はこの反省判断です。「これは花だ」と言っている限り、仏法ではありません。「このように見えるけれども、これが本当の世界なのだろうか?」だから、虚妄や虚妄仮は、反省判断から生まれるのです。
今は生きているけれども、実はすべてなくなってしまうのです。富士山も1万年〜2万年経てば、今の形と違って富士山はなくなってしまうのです。
今、美しい女も50年経てばババアになってしまいます。それどころか、今は自分の命が「ある」と思っていますが、自分の命すらなくなってしまうのです。このような判断が反省判断です。
この反省判断が高級人間の判断です。哲学もそうです。哲学は、反省判断から生まれてくるものです。「これは本当なのか、真実は何であるのか?」と追及していくことです。
仏法とは、諸行無常の世の中において、何かが常住している面があります。「この常住している面とは一体何か?」という物の考え方は、反省判断から導きだされてくるのです。これは、直接判断、叙述判断からは絶対に生まれません。
ということは、反省心です。己を顧みる反省心から、真実の仏法は出てきます。反省心のない人は、仏教徒とは言えません。創価学会の池田大作は。反省心がゼロです。陰謀、金で頬を叩き、人々を騙してきたのです。人を騙してはダメなのです。正しい判断を教えていかなければいけません。池田大作は全く逆のことをやり、自分も滅び、学会ももう滅んでいるのです。
仏法を学ぶ者は、判断に重点を置いて、日常の修行のメルクマール(指標)にしていく必要があります。

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2016年06月18日

『般若心経の大予言』■声聞界になると国土が変わる 22

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※同じ部屋に同じ時刻に数人の人がいたとしても、六道の衆生にとってそこは娑婆世界ですが、声聞・縁覚の二乗界の衆生にとっては方便土であり、菩薩にとっては実報土であり、仏陀ならば寂光土になるのです。

『般若心経の大予言』■声聞界になると国土が変わる 22

 今までの六道と異なり、行者が声聞界に達すると、住する国土がかわってしまいます。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道が住する国土は娑婆世界(穢土)ですが、声聞・縁覚界の住する世界は方便土といって、異なる世界なのです。
 声聞と縁覚界の住む世界が方便土なのですが、菩薩界の住む世界は実報度(じっぼうど)であり、仏様の住んでいる世界は寂光土(じゃっこうど)なのです。
 一切の衆生は、その果報により住む国土が違うのです。これは何を物語るかというと、空想話をしているわけではないのです。仏教はかなりの空想話のように見えても、実は大変重要なことをご説法されている場合がほとんどなのです。
 だいたい仏教の相手取ったものは「一念」という事であり、主人公はもともと「一念」なのです。この一念を徹底的に悟ったのが仏陀であり、生も死も一念の生死です。
 あらゆる経典の不思議な物語も、一念の世界と智るところに経典は全て真実となるのです。我々は自分の人生を何十年生きていると思い込んでいますが、仏教的見方は何十年生きようと、それは単に六道を輪廻してきたにすぎないと見ます。
 人生とは一念の事であり、一念と一念の関係、一念の国土・衆生・五隠であり、一念の相・一念の性・一念の体であり、一念の力・作・因・縁・果・本来究意等なのです。
 例えば「修羅界は八万由旬」といっても、この意味するところは、修羅界の一念は自らを八万由旬にも大きく感ずるということですから、「どこかの世界に修羅界という化け物がいて、とてつもなく大きい」、というわけではないのです。
 我々は娑婆世界に住んでいるといっても、六道輪廻する一念の世界の国土を、娑婆世界といっているのです。しかし、娑婆世界という実在があるわけではなく、同じ国土でも衆生の果報によってはガラリと変わってしまうのです。
 同じ部屋に同じ時刻に数人の人がいたとしても、六道の衆生にとってそこは娑婆世界ですが、声聞・縁覚の二乗界の衆生にとっては方便土であり、菩薩にとっては実報土であり、仏陀ならば寂光土になるのです。
 このことはいかなる環境であっても、自分の一念によってどのようにでも変わる事を意味します。例えば一人の悪人がいたとして、通常は仏教の事などまるで考えた事のない人が、たまたま仏様の説法を聞くチャンスがあったとします。真剣に聞いたならばその瞬間、悪人は声聞界を得た事になります。
 しかし過去世の悪行の数々によって、仏様のご説法が終わればまた三悪道に帰ります。この悪人は娑婆世界から方便土に遊びに行ったのですが、三悪道が本地ですから、もとの住み家である娑婆世界に帰ったということなのです。
 修行して声聞・縁覚界に入ったということは、主たる世界という意味なのです。自分の住所番地が「娑婆町なのか」「方便町なのか」、ということです。どこの町を自分の本拠地とするのか、その人の業によって決まる事であり、我々が真に目指すのは、菩薩様が住む実報町でもなく、仏様のおられる寂光町なのです。
 しかし娑婆といい方便土といい、実報・寂光といっても、地球上のどこかにあるという空間的なものではなく、実存という一念の中にしかないのです。
 昔の人は、この事が理解されなかったが故に、「西の方に西方極楽浄土がある」と地理上に考えたのでしょう。現代人も同じ事で、仏教の世界を「とても信じられない」と考えるのは、頭の中に地理上の世界しか浮かばないからです。
 科学が空間を問題にしたならば、仏教は時間を問題にしたものだともいえます。科学と仏教が相補って、はじめて時空間が完成するのです。声聞界に入る為には、五戒を持し苦・空・無常・無我を観ずれば良いとされます。
 つまり、一念に殺生の心なく、一念に盗みの心なく、一念に邪淫の心なく、一念に偽りの心なく、一念に飲酒の心なく、常に人生の苦を見抜き、無常を感じ、空を悟り、無我と思うならば、声聞の一念であり、この修行を持続して果を受ければ、「声聞町に住所が持てる」という事であります。

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2016年06月17日

人間の探究 533 裏切り者、竹入義勝!

竹入義勝
※元公明党委員長の竹入義勝が90歳で結婚したのです。

人間の探究 533 裏切り者、竹入義勝!

週刊新潮6月9日号に「90歳で再婚した元公明党委員長“竹入義勝”老いらくの恋」という記事が掲載されています。元公明党委員長の竹入義勝が90歳で結婚したのです。
家族の反対はあったのですが、無事に結婚したそうです。相手のご婦人は日蓮正宗で知り合った信心仲間です。「ずいぶん元気だな」とびっくりした人もいると思います。何故ならば、学会の中では竹入義勝は裏切り者であるし、学歴詐欺であるし、私腹を肥やした大悪人であり、「これ以上欲の深い人間はいない」と書かれていたのです。
本当の竹入義勝さんは良い人で、ものすごい庶民です。元鉄道の切符売りをしていた人です。そのような仕事をやっていた人だから、面倒見もよくて庶民です。この庶民の竹入義勝さんをいきなり、政治家の委員長として送り出したのは、創価学会です。創価学会は庶民政党です。
「公明党は庶民の政党です」という触れ込みですから、庶民が党首でよいのです。庶民に敵対する者はエリートです。東大法学部を中心としたエリートたちがこの国を支配しているのです。
だから良い面もあれば、悪い面もあります。庶民をないがしろにしています。東大法学部出身の連中は庶民ではありません。それに対して創価学会は弓矢を1本引いたのです。庶民の代表として政党をつくったのです。元公明党委員長の竹入義勝さんは良い人です。
頼まれたことは「嫌」と言えない人です。何しろ、小学校卒ですから、エリートとは反対のところにいるのです。
そこで、創価学会は小細工をやったのです。政界に出るのに無名の人間が「小学校卒」では具合が悪いので、竹入義勝さんに政治大学校の学歴をつけたのです。これは高田馬場で朝鮮人が経営していたインチキ学校です。卒業証書を発行する学校です。
竹入義勝さんは「政治大学校卒」という証明書をもらったのです。それで、肩書がついたのです。当時は「政治大学校」など話題にも上りませんでした。それで竹入義勝さんは「小学校卒」の低学歴がカバーできたのです。
そのうち、「政治大学校は朝鮮人が経営していて、1日行けば卒業証書をくれる学校らしい」とウワサが広まったのです。公明党の議院はみな学歴がなかったのです。「俺にもくれ」と押しかけて、公明党の議院の経歴を見ると「政治大学校卒」と書いてあるのです。
それが広まって具合が悪くなり、朝鮮人の親父が「ヤバイ」と思って逃げてしまったのです。創価学会は竹入義勝の経歴に困ってしまったのです。学会幹部「お前、軍隊にいたのだろう」竹入「いました」学会幹部「軍隊で何をやっていたのだ」竹入「整備兵をやっていました」
整備兵とは飛行機の整備員であり、搭乗員ではないのです。学会幹部「いいや、お前は陸軍航空士官学校を出たことにしてしまえ!」そのように学会幹部は、いい加減に経歴を決めて、竹入義勝さんに「陸軍航空士官学校卒」という肩書をつけて、当選させたのです。
要するに公明党の仕事とは、都営住宅に入れてあげたり、潰れそうな中小企業に口をきいてあげてお金を貸してあげるとか、寝たきりの老人を老人ホームに入れてあげるとか、そんなことばかりやっていたのです。
或は創価学会のやっている悪事をもみ消していたのです。池田大作はインチキですから、ポロポロとボロが出て、それを政治の力ですべてもみ消していたのです。
例えば、藤原弘達の「創価学会を斬る」という本がありますが、これは大問題になったのです。その時に「本を出すのは辞めろ!」という交渉を竹入義勝さんが、すべてやっていたのです。裏で田中角栄にお金を持って、一切本を出させないよう出版妨害をしたのです。そんな話はたくさんあります。
そのような仕事をやってきたのです。選挙違反だとか、妨害とかヤバイ仕事をやってきたのです。そのような使いパシリを竹入義勝にやらせてきたのです。だから、創価学会のヤバイネタをたくさん握っているのです。
公明党の委員長が次に矢野絢也に変わって、委員長を辞めたときに、「私がもっているネタをバラします。創価学会もいい加減にしてもらいたい。私はこんな悪いことをしてきました」と発言しだしたのです。
すると創価学会は聖教新聞で「竹入義勝は裏切り者である!」と、とたんに叩き出したのです。散々、竹入義勝にお世話になってきたクセに「学歴詐称だ!」と自分たちで言い出したのです。「竹入義勝は航空士官学校など出ていない。士官学校の名簿はない。整備兵じゃないのか!」と言い出したのです。
学歴詐称の話でバンバン追及して「竹入義勝は裏切り者」「恩知らず」「恩を受けた池田先生に後ろ足で砂をひっかけるような悪さをした人物だ!」と学会員全員で叩いて、総攻撃をしたのです。
だから竹入義勝さんは「委員長を辞めます」と、学会を辞めて、大石寺の信者になってしまったのです。それでも攻撃はやまなかったのです。
その後、どうなっているのかと思っていたら、やっと週刊誌で写真が出てきて、今90歳で新しい人と結婚したのです。にこやかな顔で笑っているのです。もう日蓮正宗に行ってしまったから、学会は何も言えないのです。
まあ、竹入義勝さんはよかったと思います。苦労したのです。僕は竹入義勝さんのことをよく知っています。このようなウソの報道の被害者が竹入義勝さんでした。本当は良い人で真面目な人です。
しかし、小人物です。竹入義勝さんは、小人物であるが故に、池田大作の野望についていけなかったのです。池田大作は野望を持って「天下を取る」と言っていたのですから、天下を取るために学会があるわけではありません。偉い迷惑です。池田大作は、様々な事件を起こしてくるのです。
池田大作から言えば、「天下を取るためには、このくらいの策謀は必要だ」と思っているのだろうけれども、後始末をさせられる方はたまったものではありません。気が小さい人は、「もういい加減にしてくれ。こんなことは嫌だよ」と、そこでもう参ってしまいます。
ヤクザのところへ行ったり、警察に裏金を使ったり、「勘弁してくれ!」ということです。これが竹入義勝さんの実態です。

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2016年06月16日

人間の探究 532 波動について教えてください。

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※石の中で特別に波動が大きいものが水晶です。水晶は清浄で健康で運をよくする、人々を幸せにするという波動を出します。

人間の探究 532 波動について教えてください。

 波動というものは、あらゆるものがもっています。特定の人だけが波動をだしているとか、どこの宝石が波動を出しているのかということではなく、あらゆるものは波動を出しています。
 ニコラテスラも「宇宙の秘密を見つけたければ、エネルギー、周波数、振動について考えよ」と、この問題に触れています。その辺に落ちている石も波動を出しています。水晶にも、ヒスイにも波動があります。もちろん、ダイアモンドや、様々な宝石も波動を出しています。
 波動は動物も持っています。動物の細胞の一つ一つが波動を持っています。ここにもし、健康な人がいたら健康な人の波動は健康です。癌になって死にそうな人がいたら、その人も波動を出しています。外部に向かって「私は癌です」という波動がピッピッピッと出ているのです。
 石も波動が出ています。水晶は特に波動がよくわかります。水晶に電圧をかけると、振動が激しくなって目に見える振動になってきます。これを利用したのがクオーツ時計です。水晶に電圧をかけて、波動を大きくしたのです。それが水晶の波動として永遠に続いていくのです。それで時計が動くのです。
 水晶の時計を見ても、波動があることが事実だとわかります。時計のエネルギーの原動力は水晶の波動だけです。するとすぐに人間は「水晶だけが波動を持つのだ」と考えますが、それは大きな間違いです。
 水晶は波動を出していますが、様々な石も波動を出しています。ただし、良い波動もあれば、悪い波動もあります。強い波動もあれば、弱い波動もあります。そして、生体が持っている波動と鉱物が持っている波動は共鳴します。
 人間は人間の波動を石に向かって流しています。石は石の波動を人間に向かって発信しているのです。
 良い宝石と言われているものは、良い波動を出しています。「人間が幸せになりますように」「人間が健康になりますように」「明るく朗らかで生きることができますように」、という波動をピッピッピッと出しているのです。
 人間が出す生体波動はもっと邪悪です。悩み・苦しみ・欲望で充満しています。そのような波動がピッピッピッと流れているから、石はそれをキャッチするのです。石の波動が大きい場合は、人間の波動を吸い取って記憶するのです。
 石は良い波動を出しているから、それを人間がキャッチできれば、人間の病気は治ります。人間から癌細胞の波動が出ていても、石の波動はそんな邪悪な波動ではありません。ピッピッピッと石の波動が伝わり、癌細胞が治るのです。
 不幸もそうです。生きものだから人間が不幸の波動を出すのです。人間が出す波動は「苦しい」「欲しい」「憎い」という波動です。石はそれを受け取って、石は命令を出すわけではありませんが、健全で清浄な波動を出すのです。しかし、人間の波動のほうが大きいのです。だから人間は不幸になってしまうのです。
石の中で特別に波動が大きいものが水晶です。水晶は清浄で健康で運をよくする、人々を幸せにするという波動を出します。しかも水晶の波動は大きいのです。時計が動くくらいの波動です。水晶の波動が人間にピッピッピッと波動が伝わり、その波動にふれると、生命体の持っている波動が打ち消されて、人間が健康になってしまうのです。
 或は「貧乏だ」という波動を出していた人が、水晶を持つことによって、貧乏な波動が消えて、金持ちの波動が入ってくるのです。そのように人間にとって有益な波動を出して力が強いものが水晶とヒスイです。
 素晴らしい水晶を持った人、およびヒスイを持った人の運命は変わります。病気は治るのです。黙ってその石を家の中に置くだけで波動が変わってきてしまいます。部屋中に水晶の持っている良い波動の波が家中に広がってしまうのです。「病気を治す」という波動です。
 水晶にも強い波動のものと、弱い波動のものがあります。良い水晶とは波動が強いものです。それに触れたり安置したりすると、人間の波動が変わって病気が治ります。これはあまり知られていない話です。
 良い水晶を持たなければいけません。ところが水晶と言ってもガラスでつくった偽物が多いので、注意しないといけません。ガラス玉の場合は、本物の波動はでません。
 ヒスイの場合は、古代において金より高かったのです。ヒスイは金よりも価値あるものとして尊重されていたのです。古代人はそれが何だかわからなくても、それが波動だと知っていたのです。
今、世界で有名な7つの水晶ドクロがありますが、なぜこのようなドクロができたのかわかりません。水晶は固いので、簡単に加工できません。その簡単に加工できない水晶を、鉄もなかった時代にドクロにしたのです。世界には7つの水晶ドクロがありますが不思議な波動を発しているのです。
 どんな波動なのかライトを当ててみればわかります。特にレザー光線を当ててみればガイコツ全体が光ります。ガラスではできません。波動がそうしているのです。自分の身の周りをよく見て、どんな石がありますか? 石は良い波動を出しています。悪くする波動などありません。動物の波動は悪い波動がたくさんあります。
 例えば、「水晶の玉を買いましょう」と古道具屋から買ってくると大変なことになります。水晶は人間の波動を吸い込んでいますから、前もっていた持ち主の波動をすべて吸い込んでいるのです。不幸な波動を持っていたら大変です。
 それを安置すると人間から吸い込んだ悪い波動が水晶から発信されるのです。家にもってくる場合は、土に何年間埋めて、前の人の波動を消して、リセットした水晶を持ってこないととんでもないことになります。
 その水晶の前で殺人が行われた場合、水晶の波動がすべて記憶しているのです。そこから殺人をされたという波動をピッピッピッと出していくのです。石を持つときには、そのようなことを注意しなければいけません。
 水晶かヒスイの石を持ちましょう。それに龍の彫刻がしてあれば最高です。

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2016年06月15日

人間の探究 531 竜女変じて男子となる

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※法華経にきて初めて「女は成仏できない」と言われたのに、竜女という竜の女の子が、男子に変成したのです。成仏する寸前に男子に成り代わって生まれて、姿かたちが男子になってしまうのです。

人間の探究 531 竜女変じて男子となる

 法華経の提婆達多品第12に「竜女が男子になって成仏した」という話があります。何故かと言うと、「女性は成仏しない」と昔から言われていたのです。
 比叡山延暦寺にしても、女性は入れないのです。最近になって、瀬戸内寂静が女で坊主になった例はありますが、それはごく最近の話です。昔のお寺は「女人禁制」です。女はお寺に入ってはいけないのです。
 女性でも菩提心を持つ人はいます。女でも「私たちも成仏したい」という気持ちがあります。女性が「仏門に入れてもらえませんか?」と言ってもダメなのです。「お寺に女性は入れません」と言われたのです。
 この女性蔑視の観念は「女性は汚れている」という観点からくるのです。男子に比べて女子は智恵が劣っていて、煩悩が多いのです。何故、煩悩が多いのでしょう。子供を産むということは大変なことです。男は子供を産めません。女は子供を産みます。子供を産むということは、大変な苦痛です。死ぬような苦しみを味わうのです。
 それから見ても、女性のほうが罪深いともいえるのです。しかし、反対にそんな苦しみを受けながら子供を産むのですから、SEXの関心は女性のほうが強いのです。不倫など、全て女性が絡んでいます。だから女性のほうが「業が強い」と言われています。
 「男百まで、女灰になるまで」という言葉があります。男は百歳まで生きてくると、そんなことは考えなくなりますが、女は死ぬまで、灰になるまで頭からSEXのことが抜けないのです。
 テレビで瀬戸内寂静の話を放送していました。現在94歳ですが、90歳まで煩悩が消えなかったのです。とっくの昔に坊主になって、天台宗の大僧正になっているのですが、煩悩が消えないのです。もっとはっきり言うと「男とやりたい」ということです。
 90歳まで「男とやりたい」という欲望があったのです。だから業が深いのです。「男百まで、女灰になるまで」とは、そこから言われているのです。
 女は弱いのです。いい男が出て来れば、コロリとなってしまうのです。コロリとなってしまえば何もかも忘れてしまうのです。瀬戸内寂静は子供を捨てて家出したのです。「小説のために家出した」と言っていますが、ウソをつくものではありません。
 本当は男のために家出したのです。SEXに火がついてしまったら、なんといってもやめられないのです。どんな理屈を言ってもダメです。子供まで平気で捨ててしまうのです。子供を捨てるということは、それだけSEXが面白いということです。
 子供を捨てられるくらいSEXの快感があるのです。恐ろしいことです。だから仏道修行をやろうと思っても変な魔がくると、クラクラッとなって初心を忘れてしまうのです。「私は仏になるまで頑張ります!」と言っても、ちょっと姿のいい坊さんでも出てくれば、クラッとなってしまうのです。
 だから、「女は成仏できない」「女は欲望の塊だ」と言われたのです。全体的に見ても、だいたい女はウソつきであり、欲が深くて、男でも何でも独り占めしようと思います。女は男よりも業が深いのです。因縁が深いのです。だから「成仏はできない」と言われてきたのです。お寺では女が「お坊さんになりたい」と言っても「ダメです」と断ったのです。
 ところが法華経にきて初めて「女は成仏できない」と言われたのに、竜女という竜の女の子が、男子に変成したのです。成仏する寸前に男子に成り代わって生まれて、姿かたちが男子になってしまうのです。
 そして、「成仏した」ということが説かれています。「あれ、法華経にも竜の話がでてきているな」と思いました。ここのところ、僕に竜の因縁が出てきているのです。法華経も竜が出てきます。日蓮大聖人様の御書も竜と関係があります。
 「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし、」(開目抄下)
 竜は畜身です。畜生なのですが、変身するのです。竜の子供だから「竜女」といいます。それが男子に変じて成仏するのです。竜は超能力を持っています。ある面において竜は、人間以上です。
 竜はすごい働きをします。空を飛び、五次元にも行き、あらゆるところにすっ飛んでいく、UFOのような存在です。
 この法華経を信じていると竜女よりも法華経の行者のほうが偉いのです。そのように受け取ればよいのです。我々は竜を使っていくことができます。南無妙法蓮華経を信じていく人は、朝になり日になり夕になり、竜が守ってくるのです。
 そのように竜に守られるような力強い信心をしていこうではありませんか。

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