2016年12月03日

『日本人に打ち込む100本の柱』民のかまど(君臣一体)13柱

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※仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。

土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
民のかまど(君臣一体) 13柱

第十六代の仁徳天皇は即位されて四年目、高台に登って夕食時の民を見渡されました。すると民の家から炊事の煙が立上っておらず国民は食事に事欠く貧しい生活をしているのだと気づかれました。そこで三年間年貢などを免除することを決意されました。そのため天皇の新居構想を取りやめ、着物や、履物の新調をとりやめました。そうして三年、民は豊になり天皇が高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見えました。国民の生活は見違えるように豊かになったのです。それを見て天皇はおおいに喜ばれ「民が豊になることが私の願いである、したがって私は豊になった」といわれたのです。
また日本の天皇は、初代の神武天皇以来、国民を「おおみたから」と呼んでいます。中国や西洋のように国民は王や貴族が所有する奴隷として搾取する対象ではなく、宝として大切にするという姿勢です。仁徳天皇は、その姿勢で政治を行い、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したと「日本書紀」にも書かれています。このように天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛して、天皇と国民が家族的な感情で一体となった状態を君臣一体といい理想としてきました。それは他の国々には絶対に見られない世界に冠たる日本独自の思想です。このゆえに皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきたのです。
 我が国は太古より君臣民一体の国体であり、政治体制は君が中心、臣民は枝葉の関係ですが、これは自然界から学んだものです。目には見えなくとも草木にも中心と枝葉があり中心と枝葉はお互いにその分野を守ることによって栄えるのです。
 もうひとつ留意すべきことは君臣の別です。君民一体の国体だと言っても天皇陛下に国民と全く同じ待遇をさせよというものではない。皇室は一般国民の手の届かない聖域にあり、むやみに国民の常識をあてはめるべきではありません。また君臣の身分の移動もあってはならないのです。これが大事な日本精神です。



修理固成(すりこせい) 14柱

人類最大の問題は「人間は何のために生きるのか」である。人間だけではない動物も「何のために生きるのか」。
 これこそが生命最大の問題であり、宗教家はこの問題に答えようとし色々な宗教をつくりました。その中の一つのキリスト教は言います。人は神により創られ、生かされているので、人生の意味は神のみぞ知るというのです。
 この問題は人知を超えるのです。小賢しい知恵で考えてもどうなるものではないのです。
すべて宇宙の運行は神の設計図により行われているといい、これを「予定調和説」といいます。さらにキリスト教では人間は生まれながら原罪を負うと教えます。人間は全て生まれながら神に逆らった罪人だというのです。すると人間の生きる目的とは神に懺悔し神から許され、原罪を消滅させ、天国で永遠の生命を得ることとなります。
 仏教はもっとすごく生きていること自体が罪なのだといい、生存そのものが無明の産物、つまり悪だというのです。すると仏教では生まれたこと自体悪なのだから生まれないことが理想であり生まれた原因を分析し十二因縁の法を説いたのです。悟りのない(無明)が生の原因であり、生は苦であるから、(老死)苦を脱するためには無明を断てという教えで無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死です。
無明あるがゆえに老死がある、無明を断てば老死はなくなるというのです。
いずれにしても基本的には自然の生の否定なのです。これが世界の思想の源流であり今でもさほど変わらないのです。
 だが日本の思想はさにあらず、あらゆるものは神そのものだという。神そのもののあらわれそれが我らであり万物である。万物を生み出す力が神の名前になったのです。
ゆえに神は八百万の神(自然万物が神の国)なのです。
神は自らを楽しんでいるのです。人間もまた神であるから人生の目的は楽しむことにある。
自ら楽しみ人も楽しませるお祭りも神楽も神と共に楽しむのです。
 人生はそのはずなのに現実には不幸があるのか、宗教の発生にその原因があります。自然にはおのずから秩序があり、中心があり枝葉がある。中心は、はじめからあるのであり、人間が創れるようなものではない。宗教の発生はこの自然の中心を否定して新たなる中心をつくろうとする働きなのです。教祖も教義もすべて自然に反する悪魔の業、だから人生否定になり、本来の神を冒涜する、「人間の生きる目的は何か」本来の神(自己の神性)を自覚し、不完全な世界から完全な世界へと生成化育する、世界を神として修理固成することこれぞ人間の醍醐味、これぞ人生の大目的なのです。この神の教えが日本人の血の中に植え込まれていればこそ物造り世界一の日本が生まれたのです。やがて、世界はこの日本の哲学を必ず受け入れるようになります。


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2016年12月02日

人間の探究 652 沼田君お返事(3)「中杉博士はお金持ちか?」

陽気ぐらし
※天理教の陽気ぐらしのお姉さま方

人間の探究 652 沼田君お返事(3)「中杉博士はお金持ちか?」

 日蓮正宗寺男の沼田君が言いたいことは「お金持ちであっても悟りを得ているとは限らない」ということです。
 僕は裕福かどうか知りませんが、困らない生活をしているということは事実です。それが裕福かどうかはわかりません。ただし、住む家や事務所もあり、車も3台持っているから、行きたいところは何処へでもいけます。それだけの話です。
 「その生活が豊かであるから、悟ったのだ」などと僕は一言も言った覚えはありません。悟りとはそのようなものではありません。僕の考え方が間違っていたら、ここまでこれなかったでしょう。
 みんな途中で人生からリタイヤしています。年齢でいうと僕は75歳です。沼田君は75歳まで生きられるのでしょうか? それすらわかりません。戸田先生は58歳、四代会長の北条浩さんは58歳でお亡くなりになっています。
 何故、そのようなことを言うのかというと、間違っていた考えを持っていたならば、お金持ちにはなれません。これは前にも言ったはずです。もっとハッキリ言うと、馬鹿はお金持ちになれないのです。
 馬鹿はどうしていいかわかりません。だから宗教にすがるのです。そんなものにいくらすがってもお金持ちにはなれません。お金持ちになる方法は一つしかありません。それは働くしかないのです。間違えていない方法で働けば、黙っていてもお金持ちになれるのです。
 考え方が間違っているならば、何をやってもダメです。会社に行っても喧嘩してしまい、辞めることになります。辞めるたびにどんどん給料が減っていき、どんどん貧乏になって、うさばらしに競馬・競輪をやるようになるのです。
 それからパチンコへ行くと、パチンコでお金が儲かるわけがありません。お金を取られるだけです。考え方が狂うと、すべてそうなってしまいます。
 僕の年齢になるとよくわかります。ダメ人間はダメな生活をしているのです。最後は生活保護です。生活保護ももらえない、もっと悲惨な人間もいます。それはいつそうなったのかというと、実は若い頃からそうだったのです。わかりますか? 若い頃からもうすでにダメだったのです。
 その延長線上が生活保護になってしまうのです。僕は若い頃から生活態度がよかったのです。だから何も困りません。これは当たり前のことです。宗教によるわけでも何でもないことです。
 自分が「人生を正しい考えで歩んでいるか?」ということは、宗教が関係してきます。僕は若い頃に日蓮大聖人様を信仰して、それ以外一度も疑ったことはありません。創価学会などというくだらない団体で真面目に15年間やってきたのです。
 だからこそ僕は「創価学会は間違っている」とわかってきたのです。「日蓮大聖人様が間違っている」とは言っていません。日蓮大聖人様の教えをしっかり守る大石寺ならば、それでいいのです。
 大石寺は「板本尊を拝まないと効き目がない」などと言うものではありません。そんなことをやったら人間は廃人になってしまいます。僕は新しい信仰を考えているわけで、創価学会の大幹部も僕のブログは絶対に読んでいると思います。注目する人間は僕しかいません。
 「あいつの考えはすごい考えだ」と思って、大いに創価学会は参考にしてもらっていると思いますが、悪い方向ではなく、よい方向へ向かってもらいたいと思います。創造的な方向へ向かってもらいたいと思います。
 悟りとお金持ちは直接関係ありませんが、悟りとは正しい考え方の上にあるならば、正しい考えで歩んでいくならば、生活もちゃんと安定してきます。その上の信仰も正しくしていくのです。正しく信仰しているならば、その人は生活にも困らないし、体も丈夫で人よりも長生きするでしょうし、正しい考えで人生を生きていくことができるのです。
 「俺はお金持ちだから、お前らの言うことなど聞かない」などという姿勢ではありません。沼田君が貧乏なのは、何か考え方が間違っているのです。貧乏とは考え方です。その貧乏の考えで何千日過ごしても何も生まれません。貧乏の考え方の人は価値創造ができないのです。
 そこを僕は教えているのです。沼田君が日蓮正宗に入ったから、貧乏が治るなどということはないのです。日蓮正宗に入信したら、せいぜい君のように寺男になるしかないのです。天理教徒同じです。
 天理市に行くとほっぺを真っ赤にしたジジイどもが、ハッピを着て、もっこを担いでニコニコ笑いながら歩いています。天理市に行ってみてください。教団に全部寄付して、家屋敷、田畑、自転車までも寄付して、1銭もなくなって、天理教の本部に住み込むのです。
そこで与えられる仕事はもっこを担いで土を運ぶ仕事です。もう何もないのでみんな酒を飲んだような感じでニコニコ笑ってもっこを担いでいるのです。
 何故、陽気なのでしょう。もう何もなくなってしまったからです。人生のうちの半分はお金の悩みです。お金が一切関係ない乞食生活になってしまったら、もうラクそのものです。教団にいれば飯は食わせてくれるのです。お金は一切いりません。何も欲しくないのです。それが天理教の「陽気ぐらし」です。
 そんな宗教を信じていればそうなってしまいます。沼田君もそうなのです。お寺に入って、寺男になって坊主に使われて「あっちだ」「こっちだ」とやっている姿は寺男です。沼田君は「俺は職業を持っているよ」と言うかもしれませんが、心のことを言っているのです。沼田君の心が寺男です。そんなことを何年修行しても何も変わりません。
 昔、石田梅岩という人が江戸時代にいました。石田梅岩は石門心学という学問を作り上げた人です。庶民は仏教を学びたくても、そんな時間もなく学べません。修行もできません。しかし、「仏様の有難い教えを聞いて修行もしたい」という気持ちはあります。百姓・町人・武士はどうしてよいかわかりません。そのときに石田梅岩が立ち上げた哲学を石門心学といいます。「商人は商売をやることが仏道なのだ。武士は武士の道を歩むことが仏道である。職人はその職業をまっとうすることが仏道だ。そこにこそ成仏という素晴らしい果が与えられて、永遠の幸せをつかむことができる」と説いたのです。
石田哲学は江戸中で大変な人気になって、立派なものになっていったのです。それでよいのです。
 昨日も書きましたが、カトリックは神父を信じることが、神に認められることです。信者を騙すために美しいステンドグラスと天に伸びるような美しいゴシック建築があるのです。信者はそこにいる神父にお仕えすることが天国に行くことなのです。すべてウソなのです。
 それに立ち上がったのがマルチン・ルターです。プロテスタントは神様と直結する教えです。聖書があるから神の言葉は聞けるのです。「神様の教えに元ずいて生きていきましょう」というのが、プロテスタントの信仰です。
 この信仰がアメリカの資本主義を生んだのです。それをマックスウェーバーが指摘しています。アメリカ人は勤倹・貯蓄で真面目です。神の教えを信じて、神の世界を実現するために勤勉に働きます。この世界を美しいものにしようと頑張ってきたのです。だからお金を使いません。仕事は一生懸命しますが、お金は使いません。享楽をしません。今でもモルモン教徒は酒も飲まない、タバコも吸いません。いつもスーツを着ています。
 アメリカの資本の蓄積がアメリカの経済を伸ばしたのです。日本もそうでなければいけないと僕は言っているのです。大石寺のように「この本尊を信じなさい」「この坊さんを信じなさい」などとやっていたら、国民の力はなくなってしまいます。もっと元気に自分の仕事に邁進して、それが即仏道修行になっていくような教えでなければなりません。沼田君、わかりましたか?

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2016年12月01日

人間の探究 651 沼田君の過ち(2)「坊主の指導がないと仏教は理解できない」

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※中世ヨーロッパにおいて、カトリックの神父は絶対的な存在でした。神に選ばれて神父になったのです。

人間の探究 651 沼田君の過ち(2)「坊主の指導がないと仏教は理解できない」

 日蓮正宗信者の沼田君の手紙は長いので、要約して答えていこうと思います。
寺男の沼田君は「仏法は坊さんにより伝えられるものだから、坊さんがいないと伝わりようがない」と坊主が如何に大事かを切々と述べています。
 僕は僧侶を否定などしていません。それは沼田君のカン違いです。立派な坊さんもいるでしょう。悪い坊さんも大勢います。よい坊さんについた人はよいかもしれませんが、悪い坊主についた人はどうなるのでしょう。
 大事なことは今は末法です。末法は坊主も何もありません。末法の前は像法時代です。「像」とは形という意味です。形のことを像といいます。像法時代は坊さんの格好をした者もいるのです。
 仏道修行をするお寺もあり、経典もたくさんありますが、中身は何もありません。仏教の抜け殻が像法時代です。逆に言うと、経典もあり、お坊さんもいて、お寺(塔堂伽藍)もあるのですが、中身は何もありません。形だけがあるというのが像法時代です。
 その前は正法時代です。お釈迦様滅後、千年間は正しく教えが伝わります。坊さんが修行して、釈迦の教えを忠実に守っていく時代は千年間続きました。千年経つと釈迦の教えがわからなくなり、邪悪な者が出てくるのです。邪悪な者が出てきて寺社には魔物が住むようになってくるのです。
 民衆から見ていると、魔物だとはわかりません。「立派なお寺に立派なお坊さんがいる」と見えるのです。例えば中国の少林寺はカラテ拳法をやっていますが、お寺で武道の修行をしています。坊さんの格好をして、人殺しの練習をしているのです。そこには仏法などありません。嵩山少林寺で仏法の講義が行われたことなどありません。仏法の講義が行われない寺なのです。像法時代はそうなってしまうのです。
 その時代も千年続きますが、その時代も終わりを迎えます。千年経つと何もありません。形もなければ教えもありません。残ってはいるけれど、実際は何もない状態を末法といいます。この末法には仏道を修行する者もいないし、仏法を求める者もいません。仏法を求める者もいないし、修行する者もいません。そのような時代を末法といいます。
 この末法の時代に新しい仏法を御建てになられたのが、日蓮大聖人様です。それまでは沼田君も、この話に異存はないでしょう。
 僕の解釈は、2800年続いている神国日本に、百済の聖明王から仏像が入ったのです。(538年)さらに684年経って1222年に日本の国に新しい仏教を御建てになられた日蓮大聖人様がお生まれになったのです。日蓮大聖人様は最初は蓮長と言われました。長じては、「日蓮」と言われました。日蓮とは「日につらなる者」という意味です。これを君たちは読めないのでしょうか。
 「日蓮」とは、「日本国につながる日蓮」という意味です。天照大神がお住まいになる一番東の国である千葉の安房の小湊に生まれられたのです。日蓮大聖人様は日本の神の系譜を引いています。神とは、国を中心にまとめていくものですが、人間を救う道として南無妙法蓮華経を御建てになられたのです。
 日蓮大聖人様がハッキリと言われているのは、「政治は王法だ」ということです。王法と仏法は違います。仏法は人々を救うためのものです。政治は国を建てていくものです。国を建てていく法を王法といいます。民を一人一人救うのは仏法です。
 この仏法が「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」王仏冥合という道が開かれていくのです。民衆が集まって政治を行うのが王仏冥合ではありません。日ノ本の神の国が日本です。この国は神天皇を中心としてまとまった国であり、古来からそうであり、これからもそうなのです。
 その中におけるところの各々の役割を明確にしていくことが大事です。正法とはそのようなことです。仏法の正法が明らかになれば、国の正法も明らかになってくるのです。国を離れた民はないし、民を離れた国もありません。
 仏法は民のことを説き、王法は国家のことを説きます。それを創価学会は「世界主義だ」などと言い、愚かなことを主張しているのです。この大事な日本の根本の精神を忘れています。そうなっています。
 それが日本に大きな混迷が起きてきた理由です。このことを僕は何度でも言っていますが、沼田君はちゃんと読んでいるのでしょうか。我が国に仏教が入って以来、災難が起きてきているのです。天皇は神なのに「仏の奴だ」と言ったりするのでしょう。「奴」とは奴隷という意味です。何故、そんなことを言うのでしょう。天皇は神です。
 天皇は自分を神だと思い、邪教は一切受け入れてはいけません。「私は神である」と天皇がいい、国民は天皇が神であるとわかって、天皇を仰いで一つにまとまっていけばよいのです。それを補完する意味で仏法があるのですから、天皇を否定する仏法は意味がありません。
 「日蓮を用いるとも悪しく敬わば国滅ぶべし」(種種恩振舞御書)
とは、そのような意味です。日蓮大聖人様は国主になるとか、天皇になるなど全く思っていません。それを「池田大作が大王になる」などとんでもない話です。
 日蓮正宗や創価学会は国教にしたいのでしょう。国教にしたいのであれば、日本の主は誰なのでしょう。天皇です。この天皇を忘れて仏道修行をやってもダメなのです。日蓮大聖人様を悪しく敬うと、貧乏になって苦しくなって、まともな考えが出来なくなり、祖国を忘れて、流浪の民として一人称の我を張って生きていくことになるのです。そのことを教えてあげているのです。
 さて、今日のテーマに触れると「坊さんがいないと仏教は伝わらない」そうかもしれません。「必ず坊さんも通さないと仏教は理解できない」ということに対して僕は納得できません。
 坊さんにはよい人もいれば、悪い人もいます。みな正しく仏教を伝えているのかというとそうでもありません。むしろこの関係はこのように考えるべきです。
 キリスト教のカトリックとプロテスタントで考えた場合、よくわかります。中世ヨーロッパにおいて、カトリックの神父は絶対的な存在でした。神に選ばれて神父になったのです。民衆にとって神は直接見ることはできません。神様の子供として神父がいます。それが教会の神父です。
 カトリックは壮大な建物を建てます。天に神様がいるから天に伸びる建物を建てるのです。そこには神の代理人として神父がいます。神様・教会・神父がいて信者はそこに隷属をしているのです。
 信者を隷属するからカトリックの神父は莫大な権力を持っています。今でいう裁判所の仕事を神父がやっていたのです。神父は仏教では坊さんに当たります。それが裁判権を持っていたのです。「あいつは魔女だ。火あぶりにしろ」と判決を下して庶民を縛っていたのです。
 免罪符を発行して「これを持っていると天国へ行けるのだ。持っていない奴は地獄へ行く。神父に逆らったら地獄へ行く。みなこれを買いなさい」と言って、王よりも強い権力を持っていたのです。
 王も神父には逆らえません。王の任命式は神父が行います。王様が大司教にひざまずいて王の位をもらうのです。すると民衆はますます貧乏になり、教会の奴隷です。教会の奴隷、神父の奴隷、領主の奴隷です。民衆はたまったものではありません。
 マルチン・ルターが宗教革命を起こして、「神は我々に聖書を与えてくれたのだから、聖書を通して神様と直接結びつくことができる」と言ったのがマルチン・ルターです。それはヨーロッパでは認められなかったのです。ヨーロッパでは徹底的な弾圧を受けて、宗教戦争は100年も続きます。お互いに殺し合ったのです。
 その頃、コロンブスがアメリカ大陸を発見したので、「新しい土地へ行こう」とプロテスタントはアメリカに渡ったのです。そこにはカトリックがいません。「自由な国アメリカ」とは、カトリックからの自由という意味です。
 何からの自由なのかというと、「カトリックからの制約を逃れて、自由な我々の国を造ろう」ということです。「我々の国」とはプロテスタントの国です。プロテスタントは神に直結した信仰です。教会も神父もいりません。アメリカにゴシック建築の教会は一つもありません。
 教会は必要ですが、質素な教会です。神父もいりません。牧師がいるだけです。プロテスタントでは牧師といいます。牧師は仲間のようなものですから、権力などもっていません。直接神と結びつくのです。これがWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の信仰だったのです。この思想がアメリカの産業革命と資本主義を起こしたと説いたのが、社会学者のマックス・ウェーバーです。
 これは同じことです。「創価学会を通さないと成仏できない」など冗談を言うものではありません。「日蓮正宗の御本尊を拝まないと成仏できない」などという思想は、カトリックと同じくらい遅れた思想です。なんでもかんでも坊さんに相談して、「坊さんの指導通りやらなければ、地獄へ行く」など何を馬鹿なことを言っているのでしょう。
 地獄へ行きたいのは日蓮正宗の坊主奴隷の沼田です。一人で勝手に地獄へ行ってください。日蓮大聖人様の教えはもっと広い教えです。みんなに開かれている教えです。それを実行しようと思って何が悪いのでしょう。何故、寺男にならないと仏教が習えないのでしょう。そんなケチなことを言うものではありません。
 現代では御書もあるし、極意も説かれています。我らは日蓮大聖人様を御本仏としています。それでよいのです。そのような信仰の形態をわからなくてはいけません。そうすれば人間は立派になって社会活動できるのです。最高に豊かな人間になります。
 僕はそのような考えで生きてきたのです。だから今日成功しています。何も困ったことはありません。坊主の奴隷になったりしていません。
 沼田君も早く寺男を脱して自由な信仰を求めるようにしましょう。

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2016年11月30日

人間の探究 650 日蓮正宗信者の沼田君からのご返事がありました

姫路城
※2800年の歴史を持った国家など日本以外にはありません。これは世界に誇るべき冠たる日本の歴史です。

人間の探究 650 日蓮正宗信者の沼田君からのご返事がありました

 日蓮正宗信者寺男の沼田君から長い長い7枚にわたる御返事がきました。この人は何もわかっていません。文章は長く書けばよいというものではありません。「何が言いたくてどうなっているのか」という要点を絞りこんでいかないとダメです。
 要点がしまらない人はどんどん文章が長くなり、中身が何もないということになります。僕の文章は長くてもちゃんと中身があります。僕は中身を絞ってから書いています。だから中身があります。
 沼田君が第一声で言ってきたことは、「正理会は民族主義である。外国人を排斥する。敵にしている。そんなことをすると相手も敵に思う。そんなことをやっていると政治家に利用される。事実利用されている」と言いますが、ここからして間違っています。
 僕は一度たりとて、正理会は民族主義だなど言ったことはありません。民族主義とは、「日本人だけがよければよい」という考えです。これを排他的民族主義といいます。「自分達だけがよければよいのだ」ということです。
 それをもっと言うと「他民族は奴隷にしてもよい」ということです。これが民族主義です。「正理会は民族主義だ」と寺男の沼田君は言いますが、いつ正理会が民族主義だなどと言ったことがるのでしょう。僕は民族主義などという言葉は嫌いです。
 僕が言っていることは、他所の国とお付き合いするためには、その国の性格・ものの考え方、伝統など、よく知らなければいけません。民族的な地政学をちゃんと知らないと、お付き合いなどできません。
 例えば、隣に引っ越してきた人に対して「どのような人が引っ越してきたのか?」と興味を持ちます。「この人は何をやっている人なのか?」知りたいと思います。強盗をやって逃げてきた男を「よい人だ」と思っていると、自分の家も強盗されてしまいます。
 やはり、そのような人とは付き合えません。「あの人はドロボウをやってきているのだからお付き合いはできません」「人殺しもやっているから、ますますお付き合いはできません」このように言ったら差別主義者なのでしょうか。それは違います。
 正確に知るということが大事です。「その民族がどのような性格を持って、どのようなことをやってきたのか?」と知ることが大事です。それは差別をしていることではありません。
 日蓮大聖人様も随方毘尼の戒(ずいほうびにのかい)と言われています。「その人たちがやっていた宗教をちゃんと勉強してからでないと、布教してはならない」と言われているのです。
 布教するためには、キリスト教を信じている国民にいきなり仏教を持っていっても、そんなことはわかるはずがありません。その地方に応じて考えていくのです。
 これは統一教会がやっています。この日本の国ではキリスト教は広まりません。「どうすればよいのか、そうだ。観音を拝む宗教をつくろう」ということです。統一教会は信者ができれば何を拝ませてもよいのです。統一教会は、天地正教をやっています。おそらく統一教会は、100くらいの別の宗教団体を持っていると思います。信じて奴隷にさせれば、何でもよいのです。
 「幹部に向いているな」と思えば「お前、観音菩薩で宗教をつくれ」と言うのです。「お前はお釈迦様で宗教をつくれ」ということです。統一教会は人々に信じさせて奴隷にするならば、宗教は何だってよいのです。そのような戦略的宗教だから、統一教会はダミー宗教を何百もつくっているのです。
 それはともかくとして、相手にあった教えを随方毘尼の戒といいます。イスラム教の国に仏教の旗を立てて仏教を広めれば殺されます。それを知ることです。そんなことはやらないほうがよいのです。だから、「お隣の中国人はどのような人間なのか?」と知る必要があるのです。
 「個人がいるだけで中国人などいない」「朝鮮人などと十把一絡げに言うんじゃない。よい朝鮮人もいるのだから、朝鮮人などと言うものではない」と言う人もいます。「日本人」という人もいません。「山田花子」さんはいるけれど、日本人は抽象名詞です。抽象名詞だけれども、「日本人」とは抽象的に存在します。「日本人」という抽象名詞は、抽象的に存在します。
 「朝鮮人」というものはいません。確かにその通りです。しかし、朝鮮人は抽象的に存在します。抽象名詞とは「Abstract noun」です。そうでないと抽象という意味がなくなってしまいます。中国人はいません。しかし、中国人は抽象的にいます。
 どこからそのようなものが生まれてきたのかというと、個々の朝鮮人が過去にやってきたこと、個々の中国人がやってきたことなのです。それが積み重なって、「このようなこともやるな」と見たときに、立派に朝鮮人や中国人の存在は成り立ちます。
 それを勉強していくことが民族地政学です。これも僕が作った言葉です。民族地政学がわかっていないとお付き合いはできません。この研究をしないで朝鮮人や中国人と付き合うのでしょうか。まず、正確に知らないとお付き合いはできません。
 よい例が、朴 槿惠が日本に「助けてくれ」と言ってきています。ウオンが足らないから日本に「助けてください」と言ってきました。安倍さんは「助ける」と言っています。何故、助けるのでしょう。朴 槿惠はあれだけ日本の悪口を言ってきたのです。
 安倍さんは「恩を売っておくのだ」と言います。朝鮮人を知らないから、そのような言葉が出るのです。朝鮮人という抽象名詞がわかっていないとそんなことはできません。「知らないよ、もうお付き合いできないよ」と言えばよいのです。
 韓国人に恩を売っても仇で返してくる民族です。今まですべてそうです。それは歴史からきていることです。すべて仇で返されています。それなのになぜそんなことを言うのでしょう。
 沼田君が言っていることは間違いです。正理会は一度たりとも民族主義だなどと言ったことはありません。民族主義とは、「我らだけがよければ、他は奴隷にしてもよいのだ」という勝劣主義です。勝った者が弱い者を奴隷にして、自分より強い国にはオベンチャラを言って、弱い国は食ってしまうのです。それが民族主義です。正理会がいつ民族主義だと言ったのでしょう。一度も言ったことはありません。何回も言いますが、僕はそんな言葉は嫌いです。
 僕は「我ら日本人の特性を高めていく」と言っているのです。どのような点が日本民族と他の民族と違うのか、比較してみればよくわかります。日本人と朝鮮人の違いは明解に浮き彫りになってきます。
 日本人のパスポートはどこの国でも通ります。韓国のパスポートは通りません。ベトナムなど「韓国人入国お断り」です。何故、そのような違いがあるのでしょう。それは過去にやってきたことです。
 朝鮮人の猛虎部隊がアメリカ軍のお先棒を担いでベトナム人を大虐殺したのです。それをベトナム人は知っているから「朝鮮人はお断り」です。これは正しい行動です。
 僕が言っているのは、民族主義ではなく、正しく知るということです。日本人の特性を調べていくと、「日本人は偉大な民族だな」とわかるのです。まず、日本人は他の民族と何が違うのでしょう。
 日本人は2800年の歴史を持っています。するとすぐに「朝鮮にだって歴史はある」と言いますが、朝鮮にあったのは奴隷の歴史です。誰だって歴史のない民族はありません。朝鮮は属国の奴隷の歴史です。一度たりとも独立国だったことはありません。「ウリナラの5千年の歴史だ」などウソをつくものではありません。
 朝鮮人の先祖はペクトー山に降り立った熊です。自分たちでそう言っているのです。朝鮮人はこのようなことをしてきたのです。
 日本人は一度も奴隷になったことがない2800年という輝かしい歴史があります。朝鮮人にはありません。これを正しく知るということが大事です。
 奴隷になった民族はどのようなひねくれた考え方をするのか。中国人はどのようなことをやってきたのか。中国の歴史は人肉食いの歴史です。孔子もそうです。ずっと人間を食い続けてきたのです。兵隊は食料などもっていきません。殺した相手を食います。そんなことは中国人の常識です。食料がなくなったら、弱い兵隊から食っていくのです。
 これが中国の歴史です。中国4千年の歴史などウソです。中国大陸にあった国家は異民族の国家です。清帝国は満州族です。髪の毛は辮髪(べんぱつ)のおさげ髪です。これは漢人の風俗ではありません。満州国の王朝が清王朝です。元帝国はモンゴル人が造った帝国です。漢人の歴史ではありません。
 漢人は異民族に征服されるたびに言語が変わり、漢民族の統治の時代など、ほんのわずかな期間しかありません。中国大陸は異民族が支配してきた土地です。
 これらの民族と誰にも奴隷になったこともない、征服されたこともない日本民族は違って当たり前です。その違いについて研究して述べることが、どうして民族主義になるのでしょう。知らなければいけない大事な問題です。
 沼田君に、「正理会は民族主義ではない」ということをまず教えてあげましょう。全く違うものです。日本人の優秀さをもって歴史を見たときに、世界をまとめていくのは日本民族しかありません。これは征服ではありません。
 天皇を中心にして、日本人が世界に平和を教えていくのです。そのような国家の使命が日本人にはあるのです。それを嫌うのは、左翼・共産党・穢多部落の「差別された」という人間達です。それも知らなければ付き合えません。
 日本でも朝鮮部落に生まれた人の考え方は違います。穢多部落に生まれた人の考え方は違います。「朝鮮人はこのような考え方をする」「穢多はこのような考え方をする」と知った上でないと付き合えません。
 いたずらに日本人が優れているのだと言っているのではありません。ちゃんと歴史から見て、2800年の歴史を持った国家など日本以外にはありません。これは世界に誇るべき冠たる日本の歴史です。
 そのようなことを言っているのです。歴史のない人間から見たら日本がうらやましいので悪口を言ったりするのです。我らの使命は違います。何故、我々は2800年の歴史を持ってきたのかというと、天皇を中心としてきたからです。
 天皇の存在はいかに大切かわかります。今後、天皇は世界の中心になっていくのです。必ずそうなるのです。征服するのではありません。世界に秩序というものを教えていくのです。「2800年続いた国家に学べ」となったときに、日本は世界に対して大貢献をすることができるのです。
 寺男の沼田君には及びもつかない理論です。まず、一つ今日の大事なことは、正理会は民族主義ではありません。それを教えておきましょう。

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2016年11月29日

人間の探究 649 スピノザの汎神論

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※バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza、1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者である。

人間の探究 649 スピノザの汎神論

 昔、ユダヤ人のスピノザという人がいました。この人は非常に優れた学者ですが、大学教授ではありません。織物職人だったという説と、靴職人だったという説があります。
 スピノザは汎神論を唱えました。日本人がスピノザの考え方に近づいたと言ったほうがよいでしょう。日本人にはよくわかるのです。
 汎神論では「神はあらゆるものを創った」といいます。すると万物は神そのものです。地球も月も山も木も動物も神が成ったという思想です。「神が創られた」というと、神様と創られたものは違います。
 「神は人間を創った」というと、人間を創った神がいて、人間は創られたものなのです。神様と人間は別です。これが西洋のモーゼ以来の基本的な考え方です。
 スピノザは「神がなったのだ」と言ったのです。「神様が動物になった。神様が人間になった。神様が星になった。するとあらゆるものは神様が現れたものである」という考えになります。汎神論の汎は「あらゆるもの」という意味です。神様があらゆるものになったのです。
 だから、別に唯一絶対の神を求めなくてもよいのです。「神は人間と別だ」と思うから神をたてて拝むのです。ところが「自然界そのものは神がなったものだ」と考えれば、自然を敬い、悪人も神がなったものだから、すべてを敬っていくという思想が汎神論です。
 この汎神論がわかるのは、日本人だけです。何故かというと、日本人は「神があらゆるものに成った」と考えます。「成る」という考え方は、日本独自の思想です。
 日本神道では、天之御中主神(あめのみなかぬし)という材料が世界に有ったと考えます。材料も神です。その材料は素粒子のようなものです。現在で118の元素があり、様々なものを創っていますが、世界の元をつくっているものは118の元素です。
 人間もそうです。人間は鉄分、酸素、水素、炭素でできています。燃してしまえば元素に帰ります。鉄と金は原子のレベルで見ると違います。もう一歩下の素粒子のレベルで見ると、原子核と電子雲です。周っている原子の数で金になったり鉄になったりするのです。
 すると原料は原子核と電子です。そのレベルで見ると元素が118あるというレベルはすべてなくなってしまいます。世界は電子核と電子になってしまいます。どんな恐竜でも燃してしまえば同じです。5つくらいの元素が細胞を形成して造っていただけの世界です。
 原子核を造っているのが素粒子です。素粒子が何個か結びついて原子核を造っているのですが、原子核は素粒子で形成されています。そのように見ていくと、世界には様々な物があるように見えますが、分解していくと素粒子しかありません。
 素粒子が地球になったり、人間になったり、動物になったり、草になったり、馬になったりしているのです。この世界は素粒子の世界です。それを日本神道は見抜いていて、天之御中主神と言ったのです。
 この世界には天之御中主神という原料に満ちています。この世界は一つです。同じものがあるのにすぎません。
これが神様の世界です。その目に見えない小さい原料があるだけです。
 何故、草ができたのかというとその目に見えない原料が集合したのです。ちょうど煙で人間の形を創るようなものです。人間は素粒子が固まってできたのです。原料のことを天之御中主神といいます。これが宇宙創造の原理です。
 西洋人は素粒子と言いましたが、我々はそれを天之御中主神と言ったのです。真ん中の神様です。この宇宙には集合させる力と元にもどすという働きがあります。それを永遠に繰り返しているのです。
 物を創る、創ったものを元の素粒子に戻す、これが生命です。天之御中主神が習合して木がでます。そこに集まったものは素粒子の波のようなものです。海があって、波が立ちます。波が消えるとまた次の波ができてきます。それが生命です。
 生命ができて、生命が消えると何もなくなってしまいます。「恐竜ができた」「シンゴジラができた!」と言ってもそれも消えてしまいます。シンゴジラを創っていた原料も人間を創っていた原料も同じものです。それを日本神道は説いています。
 人間を創る波もまた神であり、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)といいます。高いほうへ結んでいくと何かができてきます。最高潮になると破壊の方向へ向かいます。この破壊の力を神産巣日神(かみむしびのかみ)といいます。元に帰る働きです。
 この世に人間ができて、ずっとそのままの姿でいることはできません。創られたものですから、また元の波に帰ってしまうのです。それをずっと繰り返しているのです。これが宇宙根源の働きです。宇宙は天之御中主神(あめのみなかぬし)から出来て、それがどのような力が働いているのかというと、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)といい集合させていく働きがあります。ある程度大きくなったらまた元の波に返す働きを神産巣日神(かみむすびのかみ)といいます。
 これを説いているのが古事記冒頭の一説です。「天地初發之時、於高天原成談勝天之御中主歎厩皺偲掘云阿麻。下效此、次高御產巢日叩⊆○產巢日叩此三柱端圈∧退悍胆坐而、隱身也。」
 宇宙のことを高天原といいます。宇宙とは、時間の広がりと、横の空間の広がりをもった考え方です。宇宙という言葉は西洋人が造った言葉ですが、我々は「高天原(たかまがはら)」と言っていました。すべてが高天原です。
 地球自体が高天原です。「ま」が集まったものです。「はら」は広がっていくことです。最初の微粒子が集まり世界を創ります。創られた世界のことを高天原といいます。
 万物始めのときに高天原に成った神様のことを天之御中主神といいます。古事記冒頭の一説はそこから始まります。天之御中主神が働いて宇宙ができたのです。神そのものが高天原に成ったのです。
 そこに現れた神が高御産巣日神と、神産巣日神です。これが現れて世界が成立したのです。どこからそんな宇宙観が出てきたのでしょう。古事記は一つも間違いがありません。古事記のことを神典といいます。絶対に読み間違えてはいけません。
 宇宙はどこかというと、ここなのです。神は次から次へと様々なものに成っていくのです。地球にも成り、宇宙にも成り、人間にも成り、何にでも成っていくのです。この考え方がわると、スピノザの言うことがわかりますが、当時の人間達にはスピノザのことはわからなかったのです。
「スピノザは異端者であるから捕まえろ! 火あぶりにしてしまえ」ということになってしまいます。神が人間を創ったのですから、神はいるのです。何故、神が人間になったり、動物になったりするのか、この考え方がわからないのです。日本人にはスピノザの考え方がわかります。「成る」という考え方によりわかるのです。
 「神が成った」のです。「神が創った」ではありません。このスピノザの思想は日本人にして初めてわかります。汎神論は「あらゆるものは神だ」という思想です。これを唱えたが故にスピノザは異端者になったのですが、殺されはしませんでした。スピノザはユダヤ教徒です。ユダヤ人でこのような人が現れたのです。日本神道にははるかに及びませんが、日本神道に近いことを唱えた人がいたのです。

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2016年11月28日

人間の探究 648 坊主ご乱行

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※「あげまん」芸者役の宮本信子

人間の探究 648 坊主ご乱行

 故・伊丹十三監督の「あげまん」という面白い映画がありました。僕が感動した映画でした。その中で宮本信子が芸者の役でしたが、その芸者を見初めて、水揚げして初めて女にする役が京都の大寺院の管長です。それがロールスロイスに乗ってきて、宮本信子扮する芸者を二号さんとして迎え入れるのです。大寺院の管長がロールスロイスに乗ってやってきて芸者を見受けするのです。
 ところが調べてみると京都の先斗町は坊主でもっているのです。京都のお寺は観光地ですから、お金が腐るほど入ってくるのです。クソ坊主が夜になると祇園の街を遊びまわっているのです。
 京都で言ってはいけないこと、それは坊さんの悪口です。悪口を言うと、パアーと広まってしまいます。誰がどのようなことを言ったのか、すぐにわかってしまいます。そのくらい坊主は深く祇園に食い込んでいるのです。
 言ってみれば京都は坊主でもっている街だといえます。そのくらい坊主の権力はすごいものです。権力・色欲・金欲、すごいものです。壮絶な欲望が渦を巻いているのです。今 東光も京都にいたことがるのでしょう。「あの野郎、あそこの寺の管長になりやがって」「あのゲス野郎にあんなデカイ寺の管長が務まるものか!」そんな話ばかりしていたのです。
 牛頭説法という天台宗の講義がありますが、今 東光は「あの野郎にできるはずがない」と言っていたのです。今 東光は自分にも牛頭説法が順番に回ってきたのですが、おそらくできなかったと思います。坊さんにだけしか通じない仏教用語だけ並べていい加減な説法だったと思います。
 今 東光は生臭坊主の代表だと思えばよいのです。酒はカッ食らう、女は抱く、刀はいつも隠してもっています。喧嘩はO・Kです。これが坊主のやることでしょうか。それでもやはり、仏教を少し勉強しているので、国会議員になったときに、「ここには畜生しかいない」と言いましたが、今 東光も畜生です。
 自分のことは忘れて、「ここには畜生しかいない。こんな奴らに仏法などという有難いものを説法する必要は全くない。だからわしは国会議員を辞めたのだ」と言っていました。国会には畜生しかいないのです。本当にひどいのです。
 阿含宗の桐山靖雄は横浜の生麦というところで最初に道場を開いたのです。そのときに僕の知り合いの、M氏が住み込みしていたのです。この人は電気屋さんで、桐山靖雄とお付き合いをしていたのです。桐山靖雄は「俺が祈るから電気のスイッチを入れてくれ」と言うのです。桐山靖雄が信者の前で祈るとボッと火が燃えるのです。M氏は散々それをやらされてきたというのです。
 桐山靖雄は片足がちんばで痩せていて小さい男です。最初は密教食を売っていたのです。山で修行するお坊さんが食べる密教食を売っていたのです。宗教家はそのようなものから入るのです。それを売りつけて財政をつくっていくのです。
それがある時、M氏が冷蔵庫を開けると5キロくらいある大きな肉の固まりがあったのです。M氏は「桐山靖雄先生は肉をしっかりと食べているのか」と思ったのです。だから夜の営みもすごいのです。「ビックリ仰天した」と言っていましたが、坊主などみんなそんなものです。
坊主は脂ぎった物が大好物です。酒も大好きです。色情の因縁も強く、それを隠すために、内にある汚いものを隠すために袈裟を着ているのです。
 日蓮宗のお坊さんが正理会に来たことがありましたが、袈裟を着てきたのです。電車に乗って袈裟を着ているとみな尊敬してくれるのです。「御坊様、席へどうぞ」と言ってくれるのです。まだ若いのですが、一旦味をしめると忘れられないのです。
 坊主はお葬式の日は「いくらお布施が出るのかな」とそんなことしか考えていません。それが終わったら「一杯飲みにいくぜ!」という気持ちでお葬式に出ているのです。本当にそうなのです。
 池田大作はメロンを食べたり、お寿司が好きなのです。お寿司の中でもトロが大好きです。「ワンモアトロ」「ワンモアトロ」トロしか食べないのでしょう。元々脂ぎったものが大好きです。
 池田大作が手で触るとベタッと油が付くというのです。全体が油っぽいからソファーに触るとベタッと脂ぎった指紋がついてしまい、そのくらい食べているのでしょう。
 坊主は「肉食・妻帯当たり前」、こんなものを尊敬して有難がっている連中(信者)は馬鹿なのです。宗教家はだんだん勢力が伸びてくると、自分は肉食をして精力をつけていくのですが、信者(お客さん)には「肉食しろ」と言いません。
信者が肉食をすると元気になって、教祖に逆らうようになってしまいます。それでは困るので、考える能力を奪っていくのです。信者は何も考えないでやせ衰えて、ミイラになってくれれば一番よいのです。ゾンビにするためには肉食などさせません。
 信者には「肉食などしないように」と指導していくのです。自分はたっぷりと肉食しているのです。池田大作はたっぷりと肉を食べていたと思います。寿司はトロ専門です。金正日もトロ専門でした。トロが旨いと思うのでしょう。だから金正日と池田大作は、デップリと太っていました。しまいにはアウトになってしまいます。
 瀬戸内寂聴は多分、「肉が好きだろう」と思っていましたが、ネットで調べると案の定「肉が大好きで、朝から唐揚げを食べる」と書いてありました。死刑を反対するニセ坊主は、やはり肉食大好き人間でした。宗教家などはそんなものです。

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2016年11月26日

『日本人に打ち込む100本の柱』万世一系の天皇 12柱

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※高御座に登られた天皇陛下

土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
万世一系の天皇 12柱

 日本人なら歴代天皇の歴史を知っておく必要があります。日本の歴史は天皇の歴史だからです。歴代天皇は、初代・神武天皇から明仁まで、百二十五代が挙げられます。この百二十五代のうち、第三十五代・皇極天皇と第三十七代・斉明天皇、第四十六代・孝謙天皇と第四十八代・称徳天皇は、それぞれ重祚(一度退位した天皇が再び位に就くこと。再祚)であるため、総数は百二十三人となっている。ただし、南北朝時代に、北朝(京都)で即位した天皇(光厳天皇、光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇、及び後円融天皇の五代、五人)は、この百二十五代の天皇には数えられないものの、皇室祭祀等においては天皇と扱われる。このため、現在に至る天皇の総数は百二十八人とされることもある。
明治時代以前は、神功皇后を第十五代の帝と数えていたが、歴代天皇から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。初代・神武天皇から第六十二代・村上天皇までは、崩御後の漢風諡号・追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、第六十三代・冷泉天皇から第百十八代・後桃園天皇までは、「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、安徳天皇と後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第百十九代・光格天皇のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された。 壬申の乱で敗れた大友皇子は、天皇として数えられていなかったが、『大日本史』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたとされ、一八七〇年(明治三年)
に「弘文天皇」の諡号を追贈した。


黎明期(日本の歴代天皇)

1神武天皇前六六〇-前五八五
2綏靖天皇前五八一-前五四九
3安寧天皇前五四九-前五一一
4懿徳天皇前五一○-前四七七
5孝昭天皇前四七五-前三九三
6孝安天皇前三九二-前二九一
7孝霊天皇前二九○-前二一五
8孝元天皇前二一四-前一五八
9開化天皇前一五八-前九八
10崇神天皇前九七-前三○
11垂仁天皇前二九-七○
12景行天皇七一-一三○
13成務天皇一三一-一九○
14仲哀天皇一九二-二○○

古墳時代(日本の歴代天皇)

15応神天皇二七○-三一○
16仁徳天皇三一三-三九九
17履中天皇四○○-四○五
18反正天皇四○六-四一○
19允恭天皇四一二-四五三
20安康天皇四五三-四五六
21雄略天皇四五六-四七九
22清寧天皇四八○-四八四
23顕宗天皇四八五-四八七  
24仁賢天皇四八八-四九八
25武烈天皇四九八-五○六
26継体天皇五○七-五三一  
27安閑天皇五三一-五三五
28宣化天皇五三五-五三九
29欽明天皇五三九-五七一  
30敏達天皇五七二-五八五
31用明天皇五八五-五八七
32崇峻天皇五八七-五九二

飛鳥時代(日本の歴代天皇)

33推古天皇五九二-五二八
34舒明天皇六二九-六四一
35皇極天皇六四二-六四五
36孝徳天皇六四五-六五四
37斉明天皇六五五-六六一
38天智天皇六六一-六七一
39弘文天皇六七一-六七二
40天武天皇六七三-六八六
41持統天皇六八六-六九七
42文武天皇六九七-七○七

奈良時代(日本の歴代天皇)

43元明天皇七○七-七一五
44元正天皇七一五-七二四
45聖武天皇七二四-七四九
46孝謙天皇七四九-七五八
47淳仁天皇七五八-七六四
48称徳天皇七六四-七七○  
49光仁天皇七七○-七八一

平安時代(日本の歴代天皇)

50桓武天皇七八一-八○六
51平城天皇八○六-八○九
52嵯峨天皇八○九-八二三
53淳和天皇八二三-八三三
54仁明天皇八三三-八五○
55文徳天皇八五○-八五八
56清和天皇八五八-八七六
57陽成天皇八七六-八八四
58光孝天皇八八四-八八七
59宇多天皇八八七-八九七
60醍醐天皇八九七-九三○
61朱雀天皇九三○-九四六
62村上天皇九四六-九六七
63冷泉天皇九六七-九六九
64円融天皇九六九-九八四  
65花山天皇九八四-九八六
66一条天皇九八六-一○一一
67三条天皇一○一一-一○一六
68後一条天皇一○一六-一○三六
69後朱雀天皇一○三六-一○四五
70後冷泉天皇一○四五-一○六八
71後三条天皇一○六八-一○七二
72白河天皇一○七二-一○八六
73堀河天皇一○八六-一一○七 
74鳥羽天皇一一○七-一一二三
75崇徳天皇一一二三-一一四一
76近衛天皇一一四一-一一五五 

鎌倉時代(日本の歴代天皇)

77後白河天皇一一五五-一一五八
78二条天皇一一五八-一一六五
79六条天皇一一六五-一一六八 
80高倉天皇一一六八-一一八○
81安徳天皇一一八○-一一八五

南朝(日本の歴代天皇)

82後鳥羽天皇一一八三-一一九八
83土御門天皇一一九八-一二一○
84順徳天皇一二一○-一二二一 
85仲恭天皇一二二一
86後堀河天皇一二二一-一二三二
87四条天皇一二三二-一二四二
88後嵯峨天皇一二四二-一二四六
89後深草天皇一二四六-一二五九
90亀山天皇一二五九-一二七四
91後宇多天皇一二七四-一二八七
92伏見天皇一二八七-一二九八
93後伏見天皇一二九八-一三○一
94後二条天皇一三○一-一三○八
95花園天皇一三○八-一三一八
96後醍醐天皇一三一八-一三三九
97後村上天皇一三三九-一三六八
98長慶天皇一三六八-一三八三
99後亀山天皇一三八三-一三九二

北朝(日本の歴代天皇)
室町時代(日本の歴代天皇)

(1)光厳天皇一三三一-一三三三
(2)光明天皇一三三六-一三四八
(3)崇光天皇一三四八-一三五一
(4)後光厳天皇一三五二-一三七一
(5)後円融天皇一三七一-一三八二
(6) 100後小松天皇一三八二-一四一二

江戸時代(日本の歴代天皇)

101称光天皇一四一二-一四二八
102後花園天皇一四二八-一四六四
103後土御門天皇一四六四-一五○ 
104後柏原天皇一五○○-一五二六
105後奈良天皇一五二六-一五五七 
106正親町天皇一五五七-一五八六
107後陽成天皇一五八六-一六一一
108後水尾天皇一六一一-一六二九
109明正天皇一六二九-一六四三 
110後光明天皇一六四三-一六五四
111後西天皇一六五五-一六六三
112霊元天皇一六六三-一六八七 
113東山天皇一六八七-一七○九
114中御門天皇一七○九-一七三五
115桜町天皇一七三五-一七四七
116桃園天皇一七四七-一七六二
117後桜町天皇一七六二-一七七○
118後桃園天皇一七七○-一七七九
119光格天皇一七七九-一八一七
120仁孝天皇一八一七-一八四六
121孝明天皇一八四六-一八六六

明治以降(日本の歴代天皇)

122明治天皇一八六七-一九一二
123大正天皇一九一二-一九二六
124昭和天皇一九二六-一九八九
125今上天皇一九八九-現在


 また黎明期の天皇は実在していなく古墳時代から天皇の歴史ははじまるなどという者もいますがこういう奴を「馬鹿丸出し」といい自国の天皇の歴史をないがしろにする馬鹿学者と思えばよいのです。

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2016年11月25日

人間の探究 647 死刑は廃止か?

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※人間とは、中心と分派、直毘と禍津日の区別をして、禍津日は成敗していくことが大事です。

人間の探究 647 死刑は廃止か?

 弁護士の人権擁護委員会が「死刑は廃止するべきだ」とわめいています。そこに瀬戸内寂聴が出かけていき、「人殺しの大好きな諸君に言っておく。死刑はとんでもない。止めるべきだ」と言っていました。
 死刑は人殺しではありません。何故そのように言えるのでしょう。日本には古来から、死刑がありました。一時的に、仏教の影響で死刑が廃止になったことがありますが、それを除いて死刑はずっとありました。何故かというと、これは神道の考え方からきているのです。
 神道では、第一番に人間の生きる目的を説きます。人間の生きる目的とは修理固成(すりこせい)することです。「この世界を修理して固め成せ」。神はこの世界を不完全に創ってあるので、正しい世の中を造っていくことが人間の生きる目的です。
 これは明解です。これが日本人に与えられた第一神勅です。そして、この世は直毘(なおひ)と禍津日(まがつび)が造ったのです。直毘(なおひ)とは素直な命です。真っ直ぐに考えていく日本人を直毘といいます。何を言っても屁理屈をつけて、絶対に自己反省しない朝鮮人は禍津日(まがつび)です。
 この世は直毘だけならば、何の事件もありません。禍津日がいるから様々な事件が起きてくるのです。
それによって直毘が緊張するのです。「こんな悪い奴がいるのか。これは成敗しなければいけない」と直毘は思うのです。そこで歴史が生まれてくるのです。
 要するに直毘は善玉です。禍津日は悪玉です。世の中善玉だけでは面白くありません。世の中は悪玉が次から次へとできてくるので、悪玉には刑罰を与えるのです。悪玉は禍津日なのですから滅ぼしてよいのです。悪いものだから殺してよいのです。
 「生命はすべて一緒だ。一寸の虫にも五分の魂。どんなものにも魂がある」と言い、天台宗では儀式のときに口にマスクをして虫1匹でも吸い込まないように、殺さないようにしています。蚊に刺されてもパチンと叩いて殺しません。そのような修行の方法がありますが、狂っています。
 蚊は人間に対して何もよいことをしません。人間が血を吸われて腫れて痛くなります。最近ではテングネツや、ジカウイルスに感染すると人間は死ぬ場合もあります。このような蚊は禍津日です。
 こんな蚊はパチンと殺さなければいけません。その他、人間の害をもたらす細菌があります。こんなものはバイ菌ですが「生命の尊重」などと言ったら、バイ菌までも殺せなくなってしまい、人間は何もできなくなってしまいます。蚊はパチンと殺して当たり前です。
 悪人は人の物を奪い、平和な人間を殺して財産を奪い、何でもするのですから、こんな人間は生かしておいてはいけません。直毘の社会からいうと、ぶっ殺す必要があるのです。昔は奉行所で裁かれて死罪になったり、仇討ちなど当然ありました。
 法治国家では、「罪人を国家が代わりに裁いてあげましょう」ということです。死刑がないとそいつに殺された側は無駄死にです。生命の尊重は死刑囚には及びません。何故かというと、彼らは生命を尊重していないから人の命を簡単に奪ったのです。
 武者小路実篤が、「人殺しに来る人間を殺していいのか? それはいいのだ」と言っていました。彼らは人の命をいらないと考えて奪いにくるのです。人の命はいらないのだから、その人は殺してもよいのです。
 フィリピンの大統領ドゥテルテが麻薬犯罪人を2千人も殺しましたが当然のことです。麻薬犯罪人は禍津日です。社会を混乱させて低下させていく原因は麻薬です。麻薬などは撲滅しなければいけません。「麻薬を人に売りつけて、商売繁盛しよう」などという人は禍津日です。
 アメリカのユダヤは麻薬を密売しています。歴代大統領は麻薬の元締めです。ジョージ・H・W・ブッシュもそうです。ブッシュはCIAの長官でした。それから大統領になったのです。何をやっていたのかというと、麻薬組織の親分です。CIAは麻薬で資金を造っているのです。
 CIAの職員は領収書などいりません。そんな仕事ではありません。何しろアメリカ議会にCIAの報告はしなくてよいのです。予算など報告できないのですから、領収書はいりません。後はお金を造らなければいけません。麻薬でお金を造っているのです。これは当然です。
 北朝鮮もそうです。どこから資金を得ているのかというと、覚せい剤です。覚せい剤を造って売っているのです。そのようなものは社会を悪にしているのです。ドゥテルテが麻薬の売人をぶっ殺すなど、結構な話です。麻薬の売人は震え上がってしまいます。禍津日は滅ぼさないといけません。
 いつの世も禍津日は出てくるのです。生命はそうなっているのです。日蓮大聖人様は「無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛(じあい)す、菩薩界の一分(いちぶん)なり」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)と言われています。どんな悪人でも家に帰れば子供と奥さんは大事にするのです。
 人の命は奪ってきても自分の妻と子供は大事です。無顧の悪人とは、どうしようもない悪人という意味です。その悪人の「子供が可愛い」という気持ちは菩薩界です。菩薩界があるから悪人は殺してはいけないのかというと、そうではありません。
 悪人は社会から見たら禍津日です。禍津日は成敗してよいのです。成敗されたくなかったら悪いことをしてはいけません。これは当たり前のことです。過酷な車引きの刑、かまゆでの刑、八つ裂きの刑などはよくありませんが、普通に死刑はあってよいのです。禍津日は死刑にするべきです。
 それを仏教徒である瀬戸内寂聴は「生命はみな同じだ」と錯覚しているのです。だから「生命を大事にしなければいけない」といいます。それなら瀬戸内寂聴は魚を食べてはいけません。魚だって生きています。
 瀬戸内寂聴はステーキなど食べていると思います。好きな食べ物は唐揚げです。朝から唐揚げを食べほどの肉好きです。瀬戸内寂聴の好物はお肉です。お肉を食べないと頭が回らず小説が書けないとのこと お肉は毎日食べるそうです。
牛だって生きていたのです。「生命の尊重」などと言ったら、牛も豚も魚も食べられません。蚊にさされても蚊を殺すこともできません。ノミも殺すことができない、シラミも殺すことができな、バイ菌がたくさん繁殖してもバイ菌すら殺すことができない、そんなことになったら人間ではありません。
 人間とは、中心と分派、直毘と禍津日の区別をして、禍津日は成敗していくことが大事です。そのようなことを今の政府もわかっていません。こんな死刑問題の一つを取ってみても公聴会を開いてみんなが決めるようなことではありません。ちゃんと日本の歴史を勉強して、日本人の考え方がわかれば、当然のことです。死刑廃止などあり得ません。

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2016年11月24日

人間の探究 646 すべては宗教問題から

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※「キリスト教は何を目的として何を目指しているのだろうか?」「仏教とは何を目的として、何を目指しているのか?」ということを、自分の手でつかみとりなさい。そうすれば、その後の人生は迷わなくなります。

人間の探究 646 すべては宗教問題から

 元外務省で佐藤優さんという人がいます。大変頭のよい人です。この人は、同志社大学大学院神学研究科前期課程を修了し、神学修士号を取得しています。
 それから評論家の宮崎哲弥は早稲田大学教育学部に進学するも、過度の飲酒で体調を崩し中退しています。その後、慶應義塾大学文学部社会学科に入学。同学部卒業後、さらに同大学法学部法律学科に学士入学するも中退しています。本人は仏教徒であり「仏教が専門」と言っています。
やはり、この人たちは本物だなとわかります。本物を目指す人は、まずすべての問題の根本に思想があると理解しなければいけません。すべては思想から始まるのです。
 「思想とは何か?」ということを勉強しておかないと、先へ進めません。大多数の人は「思想とは何か?」ということを明らかにしないで先へ進んでいます。経済学の専門家、社会学の専門家、政治学の専門家になる前に、政治哲学というものがあります。「政治とは何か?」「社会学とは何か?」ということです。一番の根本にあるものは哲学です。哲学とも、思想ともいいます。それを研究することが当たり前です。
 三島由紀夫先生の場合は、一番の根本にあるものは仏教です。法相唯識論に研究のテーマをおいています。
 根本である思想に興味を持たない人間は、すべて二流・三流です。土台がないのに家を建てていることと同じことです。土台がないところに柱を建てているのです。思想を勉強していないから、何もわからないのです。
 よく物事がわかる人は、根本がわかっている人ということです。そのような抽象的な言い方をしてもわからないから、具体的に言うとその人が「どのような宗教観を持っているのか?」ということです。
 宗教観になると、宗教の研究になってしまいます。「宗教の違いということについて、本当にこの人は知っているのか?」ということです。宗教家は尊敬されます。何故かというと、一番根本のことをやっているからです。
 政治などは浮ついた、上の部分のことです。一番下の根本のことを宗教家はやっているのですから政治家は宗教家に頭が上がらないのです。今回の朴 槿惠の問題もそうです。政治家は自分では判断できないから、宗教家に頼ってしまうのです。そうなってしまうのです。
 将来、自分が大きな仕事をしたかったら、必ず宗教の研究、哲学の研究、思想の研究をしていかないといけません。
 聞くところによると、昔の旧制高等学校では、3年間徹底的にそれをやらせたのです。3年間は自由に考えて自由に行動したのです。「伊豆の踊子」の川端康成が、伊豆にチョロチョロ出かけて踊子と知り合ったのも、第一高等学校の学生の頃です。旅行も自由にできたのです。それで踊り子と知り合った話です。3年間は何をしても自由なのです。
 受験勉強などやりません。「人生とは何であるのか?」と考えたのです。みんなそんなことばかり考えていたのです。小説家、芸術家と言われる人たちもみなそうだったのです。
 そのような3年間を置いたのです。高等学校は「自由にやれ」ということです。中学は受験勉強をして、高等学校に入学したならば、3年間は自由にやれたのです。だから大学受験などほとんどなかったのです。
 形式はあったのですが、第一高等学校を出ていれば黙って東大コースです。「私は京都大学へ行く」と、希望で大学が決まったのです。今度は「あの教授から教わりたい」と教授を追いかけていくのです。そのように希望していくと自然にふりわけられて大学へ行きます。
 それから学問の勉強です。大学へ行くと専門家ですから、もう高等学校時代のようないい加減なことは許されません。だから高校時代は3年間、ほんとうに楽しんだのです。それと同時にその経験が一番役に立ったのです。
 それと似たシステムを今の日本でつくろうと思っても未だにできません。短大や教養学部で2年勉強して、その上に学部の勉強です。学部では専門を学びます。教養学部ではいろんな勉強をします。その程度ではダメです。単位が取れる程度の勉強ではダメです。
 本当に根本に突っ込んで「これでいいのか?」という勉強をさせないとダメなのです。「お前の考えているマルクスレーニン主義は正しいのか? 違うだろう!」そのような論争が行われて、思想的に鍛え上げられてくるから、すごい人間ができてくるのです。立派な人間ができてくるのです。
 今の薄っぺらな人間は、「専門職は大学へ行って、ビジネススクールに行って修士号を取得したい」といういい加減な気持ちで取得したものですから、何の役にも立ちません。そうではなくて、本物を勉強しなくてはいけません。
 宮崎さんや佐藤さんは立派だと思います。彼らは専門のことは話しません。話すようなものではありません。
 僕がときどき言っている唯物論とか、汎神論などは、その段階の話です。ずっと昔に勉強して極めていなければいけない話です。大学を出て、社長になった人間には唯神論も唯物論も関係ありません。もう俗物人間です。
 俗物人間には通用しない以前の論理です。大学の学問に入る前に知っておかなければいけません。唯物論、唯物弁証法、カント、ヘーゲル、マルクスなど当然知っていて、論争が行われて豊かな人間ができてくるのです。
 僕はそこのところを一生懸命やっているのです。「日本人にとって何が大事なのか?」ということを考えて、自分でつかみとらないといけません。「日本神道とは何か?」「哲学は何か?」と勉強していくのです。
 「日本神道には哲学がない?」とんでもありません。宇宙創成の哲学がちゃんとあります。「キリスト教は何を目的として何を目指しているのだろうか?」「仏教とは何を目的として、何を目指しているのか?」ということを、自分の手でつかみとりなさい。そうすれば、その後の人生は迷わなくなります。それをいい加減にして先には進めません。

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2016年11月23日

人間の探究 645 天台宗大僧正の瀬戸内寂聴

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※夫を子供を捨てて大僧正になった瀬戸内寂聴(94歳)

人間の探究 645 天台宗大僧正の瀬戸内寂聴

 瀬戸内寂聴は天台宗の権大僧正です。今 東光の後釜です。何をわかって偉そうに説法しているのでしょう。中身が何もありません。瀬戸内寂聴は不倫女です。本名は瀬戸内晴美です。東京女子大学在学中の1943年に21歳で見合い結婚し翌年に女の子を出産、その後夫の任地北京に同行。1946年に帰国し、夫の教え子と不倫し、夫と3歳の長女を残し家を出て京都で生活していました。
若い時に子供と夫を捨てて、若い男と駆け落ちしたのです。それがどうして坊主になったのでしょう。そんな坊主は世間に認められません。不倫して家庭を捨てたのですから、それを恥じて説法するのを止めなさい。不倫男はどうしたのでしょう。死んでしまったのでしょうか? 94歳にもなってまだ如何わしいことをやっているのです。自分で「90歳までは色情の因縁が強かった」と言っているのです。体がうずいて、やりたくて仕方ないのです。そんな色情の因縁をもったクソ坊主がいるのでしょうか。
 だいたい、小説家は頭で妄想を浮かべて、妄想をダラダラと書いているような仕事です。何も仏教的な要素はありません。仏教とはそんなものではありません。瀬戸内寂聴の師匠の今 東光も何もわかっていません。
 今 東光は1965年11月、僧正となり、1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めました(1968年5月、落慶大法要執行)。両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆するが、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代までを描いたところで死去したため、未完となっています。1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。
 今 東光は「牛頭説法」などといって、難しいことを少しはわかっているのでしょうが、その目指しているものがわかっていないのです。だから、今 東光の書いたものを読むと、「あのお寺は天皇が造った門跡(もんぜき)というお寺だ」と、そのようなことはやたらと詳しいのです。
 皇族や公家が住職を務める特定のお寺を「門跡(もんせき)」といいます。そんなことや、身分制度などは、やたらと詳しいのですが、仏教の本質は何もわかっていません。今 東光の顔には「仏教不向き」と書いてあります。
 今 東光の話を読んでみると、ドロボウの話など掲載されています。プレイボーイの島地勝彦という記者とレストランに入って「あの傘をかっぱらおう!」と、そんな話ばかりしていたのです。島地と「今度は下駄をかっぱらおう!」と相談しているのです。今 東光は、プレーボーイの島地と組んでドロボウをやっていた、そんな程度の男です。
今 東光は東京のマンシンに住まいがあって、その自宅に島地が訪ねていくと80歳近いのに今 東光はしごいているのです。「和尚、止めろよ。もうしごかなくていいよ」と、島地が言うと、「いや、わしはまだ使えるかどうか確かめているのだ」と言うのです。そんなエロ和尚です。
座布団の下には短刀を隠してあって、「野郎、ドロボウが来たらぶった切ってやる!」と言うのです。今 東光のどこに大僧正の風格があるのでしょう。
瀬戸内寂聴は、腰つきがおかしいのです。今いるお寺の女とみだらな関係を持っているのではないでしょうか。そのように僕には見えるけどね。本当のことはわかりませんが、多分そうだろうと思います。
瀬戸内寂聴は色情の因縁がまだ切れていないのです。バアサン、止めなさい。小説でも書いて「エロバアサン」と言われていなさい。大僧正だの、仏教指導者などという顔をしてはいけません。恥ずかしいことです。
本当の仏教が知りたければ、僕の所へ教わりにきなさい。そうすれば、教えてあげましょう。

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