2022年06月27日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』について 4

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※爾の時に、学無学の声聞の弟子二千人、皆、座より起ちて、偏(ひと)えに、右の肩を袒(あらわ)にし、(右の肩をあらわにするのは袈裟を着ているからです)

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』について 4

「羅睺羅は是れ仏の子なり。」(続き)
自分が「何故、自分になったのか?」という原因と結果を探り、「未来はこうなりたい」と思えば、自在になってくるのです。「貴方は妙法蓮華経なのですよ」と教えられてわかったならば、未来はどのようにでも変えることができるのです。
 「来世はお金持ちの家に生まれたい」「頭がよく生まれたい」「美人に生まれたい」、何でもよいけれども、ちゃんと思い通りになるのです。これが最大の救いになるのです。
豚の場合は、今は豚になってしまったのですから、説法も聞けません。どうすることもできません。それだけ、豚は業が深いのです。
 豚に生まれると「ブーブーブー」としか鳴けません。仏様に出会っても、尊敬することもできません。豚は、何が何だかわかりません。夢中にいるようなものです。そうなってはいけません。
人間は、人間に生まれたのですから、仏様の説法を聞くことができるのです。だから、本当の自分の姿を知ることができるのです。
 知ってどうするのでしょうか? 自分の正体を知ることが出来ると、これから先の人生を自由自在に操っていくことができるようになるのです。自分の成りたいものになることが出来るのです。
それには2つの方法があります。今まで、自分が無意識にやってきた罪を消すことです。それを罪業消滅といいます。罪をたくさん犯してきたから、このような姿になったのです。
 それを反省するのです。「私は未熟者でした。真に申し訳ありません、南無妙法蓮華経」と言うと、過去の罪は消滅するのです。
 未来はまだ来ません。自分の正体がわかり、「南無妙法蓮華経」と唱えると、未来は思い通りになるのです。貴方は何になりたいのでしょうか? 過去に行ってきた罪は消えて、未来は自分が成りたいものになれるのです。そのようになれば、何回生まれても、何処に生まれても楽しいです。
 生まれるたびに、ちゃぶ台返しの家に生まれたら、たまりません。生まれる度に、親父が「ふざけるな、コノヤロウ!」とちゃぶ台返しをして、子供をぶん殴るのです。そのような親を選んで生まれてきたのは、自分の宿命です。朝鮮人は奥さんに「おい、ババア、お金を出せ」と言うのです。
 奥さんが「お金はありません」と言うと、「バカヤロウ、お前が働いて来い」と言って、ぶん殴るのです。最後は、ちゃぶ台返しです。たけしの朝鮮人が主人公の映画でも、そのような話がありました。
 貴方は、その家がよく見えて、生まれてきたのです。「そのような家に生まれたいな」と思って、生まれてきたのです。
 元皇族の眞子は、KKと結婚する前には、「極道の妻でもいい。Kさんと一緒になりたい」と言っていたのです。そのように言っていると、本当に極道の妻になるのです。極道の妻に生まれたら、三悪道です。人間に生まれても極道の妻になったならば、来世は地獄、餓鬼、畜生に落ちてしまうのです。そのようなことを仏様は教えてくださったのです。
 「若し仏、阿耨多羅三藐三菩提の記を授けられば、我が願既(すで)に満じて、衆の望み亦足(た)りなん。」
 若し仏が阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたならば、我が願い既に満じて、衆生の望みが成就するのです。
 「爾の時に、学無学の声聞の弟子二千人、皆、座より起ちて、偏(ひと)えに、右の肩を袒(あらわ)にし、」
 爾の時に、学無学の声聞の弟子二千人、皆、座より起ちて、偏(ひと)えに、右の肩を袒(あらわ)にし、
 「仏の前(みまえ)に到り、一心に合掌し、世尊を瞻仰(せんごう)して、阿難、羅睺羅の所願の如くにして、一面に住立(じゅうりゅう)せり。」
 仏の前(みまえ)に到り、一心に合掌して、世尊を瞻仰(せんごう)して、阿難、羅睺羅の所願の如くにして、一面に住立(じゅうりゅう)せり。
 「爾の時に仏、阿難に告げたまわく、」
 爾の時に仏、阿難に告げたまわく、
 「汝来世に於いて、当に作仏することを得べし。」
 汝、来世に於いて、当に作仏することを得るべし。お前は仏になりたいのだが、今世はまだ修行が足らないから成仏はしません。来世において、成仏させてあげましょう。この世では仏にはなれません。
また生まれ変わった時に再び私が説法をしましょう。その功徳によって成仏させてあげましょう。阿難は、来世において仏になることができるのです。(5に続く)


『妙法蓮華経授学無学人記品第九』
羅睺羅は是れ仏の子なり。(続き)
若し仏、阿耨多羅三藐三菩提の記を授けられば、我が願既(すで)に満じて、衆の望み亦足(た)りなん。
爾の時に、学無学の声聞の弟子二千人、皆、座より起ちて、偏(ひと)えに、右の肩を袒(あらわ)にし、
仏の前(みまえ)に到り、一心に合掌し、世尊を瞻仰(せんごう)して、阿難、羅睺羅の所願の如くにして、一面に住立(じゅうりゅう)せり。
爾の時に仏、阿難に告げたまわく、
汝来世に於いて、当に作仏することを得べし。


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2022年06月26日

神国王御書 講義(1)神代の国

神国王御書 講義(1)神代の国

[本文]
夫れ以れば日本国を亦水穂の国と云い亦野馬台又秋津島又扶桑等云云、六十六ケ国・二つの島已上・六十八ケ国・東西三千余里・南北は不定なり、此の国に五畿・七道あり・五畿と申すは山城・大和・河内・和泉・摂津等なり、七道と申すは東海道十五箇国・東山道八箇国・北陸道七箇国・山陰道八ケ国・山陽道八ケ国・南海道六ケ国・西海道十一ケ国・亦鎮西と云い又太宰府と云云、已上此れは国なり、国主をたづぬれば神世十二代は天神七代地神五代なり、天神七代の第一は国常立尊乃至・第七は伊奘諾尊男なり、伊奘册尊妻なり、地神五代の第一は天照太神・伊勢太神宮日の神是なりいざなぎいざなみの御女なり、乃至第五は彦波瀲武〓〓草葺不合尊・此の神は第四のひこほの御子なり・母は竜の女なり、已上地神五代・已上十二代は神世なり、人王は大体百代なるべきか・其の第一の王は神武天皇此れはひこなぎさの御子なり、乃至第十四は仲哀天皇八幡御父なり・第十五は神功皇后八幡御母なり・第十六は応神天皇にして仲哀と神功の御子今の八幡大菩薩なり、乃至第二十九代は宣化天皇なり、此の時までは月支漢土には仏法ありしかども日本国にはいまだわたらず。

[講義]
この御書は、健治元年(1275)聖寿54歳のときの著述です。対告衆(御書の相手)は明らかではありません。正本は京都の妙顕寺にありますが、対告衆が書かれていないということは重要な意味があり、誰もそれに気がついていません。
神国王御書とは、天皇に与えられた御書と見ることができます。天皇を対告衆にするとは、まことに恐れ多いことですので、タイトルでそれがわかるようにされたのでしょう。
 神国の王(天皇)に与えられた御書と読むべきでしょう。まず、「この日本国とは、どのような国なのか?」ということから説きはじめられています。この日本の国は古来より、“水穂の国”といわれ、稲が豊かに実る黄金の国だと言われてきたのです。
また、トンボが多く美しい国であるから秋津(トンボの古名)島などといわれていました。また扶桑国(桑が豊かである)などとも言われたのです。上代人の日本人観は、この国のことを大八州(おおやしま)、あるいは豊葦原千五秋瑞穂国(とよあしはらちいほあきみずほのくに)。あるいは浦安の国、あるいは大日本豊秋津などと呼んでいたのです。いずれにしても、「作物が豊で穏やかで神の国のようだ」という名前です。
しかし、中世の時代にはいると、日本人の日本観はガラリと変ります。「仏教の宗主国から見た日本の見方」に変わるのです。中世人の日本の呼び名は、辺土、辺州、粟散国(ぞくさんこく:粟のように小さい国)などと卑下した呼び名になるのです。日本は、天竺(インド)から一番遠方にあり、シナ大陸からみれば粟粒のように小さいと思ったからでしょう。
 日本国は、本州六十六ヶの国からなり、九州・四国の二つの島をあわせて、六十八ヶ国から出来上がっているのです。東西は三千余里、南北は確かではありません。
そして、この国に五畿・七道があります。五幾とは山城、大和、河内、和泉、摂津です。七道とは東海道の十五ヶ国、東山道八ヶ国、北陸道七ヶ国、山陰道八」ヶ国、山陽道八ヶ国、南海道六ヶ国、西海道十一ヶ国、ほかに鎮西があり大宰府があります。
 これらはすべて日本国なのです。これらの国主を尋ねれば、神代(かみよ)十二代は、天神七代・地神五代です。天神七代の第一は、国常立(くにのとこたちのみこと)至・第七は伊奘諾尊男(いざなぎのみこと)であり、伊奘册尊(いざなみのみこと)はその妻なのです。
地神五代の第一は、天照太神・伊勢太神宮日の神であり、いざなぎいざなみの御女なのです。乃至第五は、彦波瀲武〓〓草葺不合尊・(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、此の神は第四のひこほの御子であり母は竜の女です。已上地神五代・已上十二代は神代です。
人間の時代の天皇は、約百代続いているのでしょうか。其の第一の天皇は、神武天皇です。此れは、ひこなぎさの御子であり、乃至第十四は仲哀天皇八幡御父なのです。第十五は神功皇后八幡御母です。第十六は応神天皇にして仲哀と神功の御子今の八幡大菩薩なり、乃至第二十九代は宣化天皇なのです、此の時までは月・支・漢・土には仏法あっても日本国にはいまだわたってきませんでした。



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2022年06月25日

開目抄 講義(11)無上等正覚

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※天台大師は「天の月を知らず池に写った月しか知らない」といったのです。

開目抄 講義(11)無上等正覚

[本文]
此等は言うにたらず只耳目を・をどろかす事は無量義経に華厳経の唯心法界・方等・般若経の海印三昧・混同無二等の大法をかきあげて或は未顕真実・或は歴劫修行等・下す程の御経に我先きに道場菩提樹の下に端坐すること六年阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たりと初成道の華厳経の始成の文に同せられし不思議と打ち思うところに此は法華経の序分なれば正宗の事をいはずもあるべし、法華経の正宗・略開三・広開三の御時・唯仏与仏・及能究尽・ 諸法実相等・世尊法久後等・正直捨方便等・多宝仏・迹門八品を指して皆是真実と証明せられしに何事をか隠すべきなれども久遠寿量をば秘せさせ給いて我始め道場に坐し樹を観じて亦経行す等云云、最第一の大不思議なり、されば弥勒菩薩・涌出品に四十余年の未見今見の大菩薩を仏・爾して乃ち之を教化して初めて道心を発さしむ等と・とかせ給いしを疑つて云く「如来太子為りし時・釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり、是より已来始めて四十余年を過ぎたり世尊・云何ぞ此の少時に於て大いに仏事を作したまえる」等云云、教主釈尊此等の疑を晴さんがために寿量品を・とかんとして爾前迹門のききを挙げて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏・釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり」等と云云、正しく此の疑を答えて云く「然るに善男子・我実に成仏してより已来無量無辺・百千万億・那由佗劫なり」等云云。華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうて・かへりみれば華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を 大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんと・をもひ或は縄を・つけて・つなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云。

[講義]
 これらのことは言うまでもないが、世間の耳目を驚かすのには十分であり、それは無量義経に華厳の極意である唯心法界(ただ心は法界である)、または方等・般若経の海印三昧(海が荒れているときには月はその姿を海に浮べない、人間もそうで、その心がすさんでいたなら対象が見えない)。混同無二(混じりあい無差別ならばなにも見えない)の大法が無量義経にあるといったようなものです。
 もし華厳経に未顕真実(いまだ真実をあらわさず)あるいは歴劫修行(なんども生まれ変わり修行する)とあったならば、仏が先に菩提樹の下に六年間端座して無上等正覚を得た、と書いてあるのを華厳経の“始成”(初めて悟る)の文をみて不思議だと思うでしょう。華厳経は法華経の序文であるから法華経の正宗分のこともいわねばならないでしょう。
 法華経の正宗分・略開三(三乗“声聞・縁覚・菩薩”を開いて一仏乗となす)・広開三(広開三顕一)のとき唯仏と仏のみが諸法の実相を極め、世尊はこの法を久しくしてのち正直に方便をすてて多宝仏が迹門八品をさして皆是真実と証明しました。なにごとも隠すことなどないのに、久遠の寿命をば秘密にされて、私は始めて道場に座して修行しました。これが最大不思議なのです。それで弥勒菩薩は誦出品で四十余年の未見今見の大菩薩を、仏これを教化して道心をおこさしめたと説かせました。しかし疑って如来が太子であったとき、伽耶城を去り、近くの道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たのです。
 それからすでに40余年が過ぎました。しかるに今、それをひっくり返す大事な仏事をなんでいわれるのでしょうか? この疑いに「しかるに善男子よ、われ実に成仏して以来無量無辺・百千万億・那由佗劫なり」等云云。華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説くのを隠しているのです。これらの爾前の経には二つの失があります。一つには布教を考えるゆえに権教を説かず迹門の一念三千の法門を隠していることです。二には”始成”(初めて仏となる)を主張するために本門の”久遠実成"(永遠の昔から仏であった)を隠しているのです。一念三千の法門と久遠実成は仏法の肝心要であり最重要なのです。
 法華経迹門は二乗の作仏を説き理の一念三千の法理を明らかにしました。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前経の二種の失・一つを脱しました。しかし未だに永遠の生命と久遠の成仏を明らかにしませんでした。しかしいまだ発迹顕本(本当自分を明らかにする)がないのでまことの一念三千(事の一念三千)もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとしなのです。根なし草の波の上に浮べるに似ています。
 法華経本門にいたりて始成正覚を破れば四教の果(蔵・通・別・円の仏果)を破れ、四教の果が破れるならば、四教の因(仏因)やぶれます。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果を説き顕すことによって、本当の成仏を明らかにします。これが、本因本果の法門なのです。九界(無明)も無始の仏界に具し仏界も無始の九界(無明)に備って、真の十界互具・百界千如・一念三千となるのです。
 かへりみれば華厳経の台上十方(華厳世界)・阿含経の小釈迦・方等般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権(かり)仏等は・此の寿量品にでてくる仏から見れば、まるで仏の天月に光り輝くをしばらく器の水に写しかえ、仏の影を諸宗の学者たちは真実だと思いその水に映れる月をとろうとするのに似ています。これを天台大師は「天の月を知らず池に写った月しか知らない」といったのです。

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2022年06月24日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』について 3

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※ガンダーラ美術の釈迦像

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』について 3

「羅睺羅は是れ仏の子なり。」(続き)
羅睺羅は、お釈迦様の実子です。お釈迦様は、19歳で出家したという説と、29歳で出家したという2つの説がありますが、実際のところはわかりません。
「何故、わからないのか?」というと、「これが仏教です」とお釈迦様が書かれたものは、一つもありません。お釈迦様の書かれた経典は、一枚もありません。それは、釈迦滅後、500年経ってから経典がつくられたからです。お釈迦様は2500年前の人ですが、自身で書かれたものは一つもありません。
イギリスはインドを植民地にして、統治しました。イギリス人がインドにおける仏教を研究すると、「昔、釈迦という人物がいた」という伝承はありますが、「本当に実在したのか?」と調べていくと、経典は出てきますが、釈迦の書いたものは一つもありません。「これは、架空の人物だな」とイギリス人達は考えたのです。
釈迦滅後、第一次結集は500年経ってから行われたのです。お釈迦様がご入滅してから500年も経っています。「ここらでお釈迦様の教えを整理しましょう」と、弟子たちが集まったのが第一次結集です。
それから、第二次結集、第三次結集が行われ、経典の原型がつくられたのです。それが事実です。お釈迦様が書かれた経典は一つもありません。「お釈迦様は字が書けなかったのか?」というと、そんなことはありません。
お釈迦様は王様の子供です。当然、教育を受けていたので字も書けます。文武両道に渡って優れていたのです。「どうして字を書かなかったのか?」というと、お釈迦様の教えは、難しい文字を用いて説いたようなものではありません。
例えば、涅槃経にある教えですが、お釈迦様が「私は明日、入滅します」と言うと、弟子たちは「私達はどのように生きたらよいのでしょうか?」とお釈迦様に質問したのです。それは、「自灯明だ」と言われたのです。
難しい字を並べて、「これはこのような解釈だ」と言うようなものではありません。理論の教えではありません。「自灯明」とは何でしょうか? 自らを照らして、正しい方向に進んでいくことを「自灯明」と言うのです。そのように言えばわかるでしょう。
「なるほど、自分を照らすのですね。それは、鏡を見ているようなものですね」とわかるのです。鏡を見ないと人間は、自分がどのような姿をしているのかわかりません。鏡を見ると「私はこんな顔をしているのか。これが私なのか。もっと反省して、よい顔にしていかなければいけませんね」とわかるのです。
「自分は美人だ」と思っていても、鏡に自分の姿を映すとブスだったりするのです。「私ってブスだったのね、これは、変えていかなければいけませんね」とわかるのです。自分の本当の姿がわかれば、人間は変わっていくのです。自分とは違う姿だと思い込んでいるのです。それでは、変われるわけがありません。お釈迦様の教えは、「自灯明」です。
自ら明かりを灯して、自分の姿を見て反省していくのです。「私は、どのような顔をしているのか? 言っていることは正しいのか?」と鏡で照らすようにして、自分の正体を明らかにして進んでいくのです。
人生とは、そのようなものです。これを「自灯明」と言います。自ら明かりを灯して進むのです。では、「自灯明とは何ですか?」というと、その答えは、「妙法蓮華経」です。これは、ちょっとわかりません。
自灯明の結論は、妙法蓮華経です。お釈迦様は、インドの言葉で「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧(さだるまふんだりきゃそたらん)」と言われたのです。それが無量義一法です。それは何でしょうか? 自分を極めていけば、自分の本当の正体がわかってくるのです。それが「自分がわかった」ということです。そのわかった理由は、妙法蓮華経です。
「私とは、何でしょうか?」と聞かれたら、「鏡を見なさいよ」と言われてしまうのです。「貴方はなぜ、このような運命を歩んでいるのでしょうか? 鏡をよく見て御覧なさい。自分の正体を明らかにするために、妙法蓮華経と修行していくと、貴方の正体がわかってきますよ」と仏様に言われるのです。
自分の正体が本当にわかれば、未来はどのようにでも変えることができるのです。日蓮正宗では、そのことを「本因妙の仏法」と言ったのです。「南無妙法蓮華経とは、何ですか?」と聞くと、日蓮正宗では、「本因妙ですよ」と答えたのです。本因として立てていくのです。本因とは、仏が成仏した根本の因のことです。本因は、思議することができない境涯であるので妙というのです。
「何故、貴方はそのようになったのか?」という原因があります。その原因について論じているのが、妙法蓮華経です。
「豚も、馬も、鏡を見て御覧なさい。目が小さくて、細長い顔が鏡に映っています。それがお前の姿です。どうしてお前は、このような姿煮なったのか? どうして人間に生まれなかったのか? それを教えてあげましょう。」というのが仏様です。
「何故、私は豚なのか?」「何故、私は馬なのか?」「何故、私は牛なのか?」ということがわかって、「来世は、このようになりたい」と歩んでいけば、来世はそのようになることができるのです。これを本因妙の仏法といいます。南無妙法蓮華経は本因妙の仏法です。(4に続く)


『妙法蓮華経授学無学人記品第九』
羅睺羅は是れ仏の子なり。(続き)



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2022年06月23日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』について 2

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※阿難(あなん、梵/巴:Ānanda आनन्द アーナンダ 阿難陀)は、釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』について 2

 仏法を学ぶと無分別の智慧がその人を飾っていくのです。そうなるのです。頭がよくても、人は頭を下げません。頭を下げるのは、オーラがにじみ出ているからです。「あの人は東大卒で頭がいいらしいですね」と言っても、人格が劣っている人間は大勢います。そんな人には頭など下げません。「貴方は東大に行ったのですか? でも、人格は大したことがありませんね」と言われてしまいます。
 オーラがにじみ出ている人は、そのようなことは言われません。学歴で勝負をつけて「俺は東大だ」と言っても、それは本当のオーラではありません。何も言わなくても、財産があっても、財産がなくても、オーラのある人は人々を巻き込んでいくのです。
 正理会の主任教授のさえこ先生は皆から尊敬されています。もうオーラが出てきているのです。自分では、わからなくても、「あの人には敵わない」と皆が思うのです。
 今は、仏教を学んで受ける功徳についてお話をしているのです。仏教を学ぶということは、無分別の法を学んでいるのだけれども、それがわかってくるとオーラに変わってくるのです。
 オーラが身についてくると、何でも言うことを聞かせられるようになるのです。それは、命令して言うことを聞かせるのではありません。「ああ、お聖人様ですか、私に何かやることはないでしょうか?」と言われるようになるのです。
 「お前はこれをやっておけ!」と命令するのは、オーラではありません。向こうから「何かお手伝いさせてください」と言ってくるようになるのです。そのような人間にならなければいけません。
 オーラがにじみ出ていないと人は言うことを聞きません。坂東忠信さんが言っていましたが、まだ警察官の在職当時、皇后の美智子さんがお忍びで買い物に来たのです。それでも、オーラがにじみ出ているのです。お忍びでも、「皇后陛下がいらっしゃった」とわかるのです。そのオーラは隠せません。
 仏教を学んで身についてくるオーラは、そんなものではありません。仏教を学んだ人には、東大卒の人でも叶いません。
 そのような人が選挙に出れば当選します。反対に貧乏神のような人が立っていて、「私に一票入れてください」と言っても誰もいれません。
 法華経の修行をしていくと、凄いオーラがにじみ出てくるのです。これを、『妙法蓮華経授学無学人記品第九』で勉強していきましょう。
「爾の時に阿難、羅睺羅、而も是の念を作さく、」
 爾の時に阿難、羅睺羅、而も是の念を作さく、
阿難と羅睺羅はお釈迦様の十大弟子です。羅睺羅は、お釈迦様の子供だと言われています。
 「我等毎(つね)に自ら思惟(しゆい)すらく、設し授記を得ば、亦快(こころよ)からずや。」
私たちはいつもこのように考えています。もし記別を受けたならば、快く嬉しいのですが、
 「即ち座より起ちて、仏前に到り、頭面に足(みあし)を礼し、倶(とも)に仏に白(もう)して言さく、」
 即ち座より起って仏前に到り頭面に足を礼し、倶に仏に白して言さく、
仏様がいると、仏様は座禅を組んでいるので、その足を頂き、礼をするのです。
 「世尊、我等此に於いて、亦応(まさ)に分有るべし。」
 世尊、我等は此に於いて、亦分別があります。
 「唯如来のみ有(ましま)して、我等が帰する所なり。」
 様々な先生がいますが、私達は仏陀のみに帰依します。他の教えは聞きたくありません。他の教えは分別法です。仏様がお説きになっている無分別法だけが聞きたいのです。それが我等の目的です。
 「又我等は、為(これ)一切世間の天、人、阿修羅に知識せらる。」
 又、我等はこれ一切世間の天、人、阿修羅に知識せらる。
 「阿難は常に侍者(じしゃ)と為(な)って、法蔵を護持す。」
 阿難は常に侍者となって法蔵を護持す。
 「羅睺羅は是れ仏の子なり。」
 羅睺羅は是れ仏の子なり。羅睺羅は、お釈迦様の子供です。仏門に入る前に生まれた子供で、ともに仏道修行をしたのです。
仏道修行をすると、どのような力が身に就くのか? そのようなことを皆、言いません。わからないから言えないのです。「この歴史の勉強をすると、このような力が身につくよ」ということを教えないから、歴史の勉強が進みません。
要するに「先生がいない」ということです。細かい年号を覚えても、何も面白くありません。鎌倉幕府の成立の年号を覚えても何も面白くありません。「歴史を勉強したら、このような力が身についてくるのですよ」ということを教えないと、人格も向上しません。仏教もそうです。分別、無分別もわからないままで、ただ法華経の文字だけを追っていくようになってしまうのです。それではいけません。
法華経を学ぶと無分別がわかり、立派な人間になってくるのです。仏道修行をすると、立派な人間が出来てくるのです。中身は天皇よりも偉いのです。日蓮大聖人様は「わずかの小島の主」だと言われているのです。
日蓮大聖人様は、「わずかの小島の主になって、威張っているものではない。私は仏ですよ」と鎌倉幕府に対して言ったのです。仏様は時の権力者とは、格が何千倍も違います。そのような気持ちでやるのです。それだけ偉大な力が身についてくるのです。(3に続く)


『妙法蓮華経授学無学人記品第九』
爾の時に阿難、羅睺羅、而も是の念を作さく、
我等毎(つね)に自ら思惟(しゆい)すらく、設し授記を得ば、亦快(こころよ)からずや。
即ち座より起ちて、仏前に到り、頭面に足(みあし)を礼し、倶(とも)に仏に白(もう)して言さく、
世尊、我等此に於いて、亦応(まさ)に分有るべし。
唯如来のみ有(ましま)して、我等が帰する所なり。
又我等は、為(これ)一切世間の天、人、阿修羅に知識せらる。
阿難は常に侍者(じしゃ)と為(な)って、法蔵を護持す。
羅睺羅は是れ仏の子なり。


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2022年06月22日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』 1

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※ 木には年輪があります。それを数えると何年生きてきたのかがわかります。50年生きた場合は、50の年輪があります。そのようなことを知ると「学がある」ということです。学とは、分別のことを言うのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』 1

 今日から、新しい講義、『妙法蓮華経授学無学人記品第九』に入ります。ちょっとタイトルが難しいと思います。
お坊さんの世界では、「私は学があります」と言うと、バカということです。「私は学がありすぎましてね」とお坊さんが言ったら、それは自分の事を褒めているのではなく、「私はダメな人間です」と言っているのです。
 これは覚えたほうがよいのです。お坊さんが、「私は学がありましてね」などと言うから、威張っているのかと思うとそうではありません。仏教では、無学といいます。いろんな小説でも「無学」という言葉が出てきますが、それは仏教の無学からきているのです。
 「学がある」ということは、どのようなことなのでしょうか? これは、僕がよく教えていますが、「よく分別する」ということです。法華経は、無分別を教えているのです。
 「学というものは、何処から出てくるのか?」というと、分別するから出てくるのです。学とは、どのようなものでしょうか? 例えば、ここに木があります。木にも様々な種類があります。檜、杉の木など、様々な木があります。その木について知ることが学です。
 「お前、これが何の木かわからないのか? これは栗の木、これは杉木だよ。栗の木と杉の木とは、性質が違うよ」というように物事を見ていくと、学が身についてくるのです。
 木には年輪があります。それを数えると何年生きてきたのかがわかります。50年生きた場合は、50の年輪があります。そのようなことを知ると「学がある」ということです。学とは、分別のことを言うのです。
 木といってもいろんな木があります。十把一絡げに木とひとくくりにはできません。様々な木について勉強すると、学が身についてくるのです。勉強するということは、そのようなことです。
 例えば、紙について勉強します。古代の紙は、何から出来ていたのでしょうか? エジプトの、パピルスから紙は出来てきたという説ありますが、中国人が最初に紙をつくったという説もあります。そのような紙の歴史を調べて学んでいくと、様々な知識が身についてきます。
 様々な知識が身についてくるということは、分別です。紙というものを分別して、「どのような種類があるのか?」と勉強していくのです。トイレットペーパーもあれば、ティッシュペーパーなど、様々な種類があります。
 「紙は皆、同じだ」と言う人は、紙についての勉強はしていません。紙は全て違います。西洋の紙も、日本の和紙も違います。学が身に付くということは、分別が身につくということです。仏教は違います。仏教は、無分別を習うのです。
 この違いがわからないと、法華経を勉強しても何もわかりません。学問は分別です。仏教は無分別を習うのです。無分別のことを「無学」と言うのです。分別することを「授学」と言うのです。だから、『妙法蓮華経授学無学人記品第九』と言うのです。
 これだけ知っていても、大したものです。普通の人は参ってしまいます。「貴方、知っていますか? 仏教は無分別を説いたものですよ」と言えば、普通の人は「えっ、それは何ですか? 無分別など聞いたことがありません」と言うのです。
 一般世間の人が学んできたものは、分別です。無分別は、「あらゆる生命は、たった一つのものから出てきている」ということを教えられているのです。「その一法とは何ですか?」というと、これが無分別です。
 「ここにAさん、Bさん、Cさんがいる」と見ていくのは、分別です。みんな同じ物から出来てきたのですから、Aさんも、Bさんも、Cさんも同じです。
 もっと言うと、豚も馬も鹿も人間も皆、同じです。木も山も、同じです。それらは、たった一つのものから出来ているのです。それが無分別です。これを勉強するのが仏教です。仏教を勉強しても東大に入れるわけでも、頭がよくなるわけでもありません。「本当に頭が良い」ということは、無分別がわかるということです。
仏教を習うと知識が身につくというものではありません。何が身につくのでしょうか? それは、得も言われぬ人格が身についてくるのです。人格が磨かれてくるのです。わかりやすい言葉で言うと、オーラがにじみ出てくるのです。
 もし、我々がお釈迦様に会えたら、「物凄いオーラだな」と思うでしょう。普通の人間とは違いますから、オーラで輝いているのです。日蓮大聖人様がいらしても、もの凄いオーラがにじみ出ているのです。
 そのオーラとは、どのようなものでしょうか? 仏教で学んでいるものは、無分別です。仏が説いている法は、無分別の法です。この無分別の法を説く人は、オーラがにじみ出てくるのです。
 オーラがにじみ出てくると、自然に頭が下がってくるのです。「あの人には敵わない」このようになってしまうのです。大学者であり、何かを知っているわけではありませんが、人々の頭が下がってしまうのです。
 終いには、「偉大な人が歩いてきたな」と言われるようになってしまうのです。「強敵を伏して始て力士をしる」(佐渡御書)という日蓮大聖人様のお言葉があります。強敵を伏して、初めて自分の力量を知るのです。
 三下奴の前を横綱が通れば、横綱はオーラがにじみ出ているのです。相撲はわかりやすい例です。「あの人はオーラがある」という人は、光り輝いているのです。そのようになってしまうのです。
 すると、相手の人が「この人には敵わない」と思ってしまうのです。法華経の信者には、絶対に敵いません。手も足も出ません。「この人は気さくな人だけれども、普通の人とは違う人だ」というオーラがにじみ出てくるのです。(2に続く)


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2022年06月21日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経五百弟子受記品第八』について 27

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※仏法も同じです。皆さんの中には、何でも祈りが叶う無価の宝珠が縫い付けてあるのです。「それは何か?」というと、仏界です。人間の中には仏界があるのですから、それを磨けば仏に成るのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経五百弟子受記品第八』について 27

 「珠(じゅ)を与えし親友 後に此の貧人(びんにん)を見て」
 珠を与えし親友は、後に此の貧人を見て
 「苦切(ねんごろ)に之を責め已って 示すに繋(か)けし所の珠(たま)を以ってす」
 苦切に之を責め已って、示すに繋けし所の珠を以ってす。
 「貧人(びんにん)此の珠を見て 其の心大に歓喜し」
 貧人は此の珠を見て、其の心大に歓喜したのです。「そんな有難い宝珠を私の衣に縫い付けてくれたのですか!」と喜んだのです。
仏法も同じです。皆さんの中には、何でも祈りが叶う無価の宝珠が縫い付けてあるのです。「それは何か?」というと、仏界です。人間の中には仏界があるのですから、それを磨けば仏に成るのです。
仏界があっても、豚は仏界を磨くことはできません。豚は豚です。人間は仏性があり、それが無価の宝珠です。仏法を求める気持ちになり、それを磨いていくならば、どんどん光を増すのです。皆さんは、何でも祈りが叶う無価の宝珠を持っているのです。全ての生命は仏なのですから、無価の宝珠を磨けば、小さな個人から脱却して、仏へと変わっていくことができるのです。
すると何でも祈りが叶うのです。「あれが欲しいけれども得られない」と言ったら、仏ではありません。仏は全て自分のものなのです。一般の人から見ると、「これはAさんの物、あれはBさんの物」です。
皆、個人の我を張っているのです。個人の我を取ってみれば、全て自分のものです。すると、何もいらなくなってしまうのです。わかりますか? 全てが自分の物ならば、いらないでしょう。貧乏人ほど、いろんな物を欲しがるのです。それを貧窮下賤(びんぐげせん)と言うのです。
欲しがれば欲しがるほど、必要なものは入ってきません。必要な人も来ません。それが、無価の宝珠です。仏様は、みんなの中に無価の宝珠を埋めてくださったのです。それを見て、「私の仏界だ」とわかり、磨いていくのです。「仏性も磨かば、輝かず」です。磨かないと珠は光りません。「そのようなことがわかりました」と言ったのです。
 「富んで諸の財物有って 五欲に而も自ら恣ならんが如く」
 富んで諸の財物あって、五欲に而も自ら恣(ほしいまま)ならんが如く
 「我等も亦是の如し 世尊長夜に於いて」
 我等も亦是の如し。世尊は長夜に於いて
 「常に愍(あわれ)んで教化せられ 無上の願を種(う)えしめたまえり」
 常に愍んで教化せられ、無上の願を種えしめたまえり
 「我等無智なるが故に 覚らず亦知らず」
 我等無智なるが故に、覚らず亦このことを知りません。
 「少しき涅槃の分を得て 自ら足りぬとして余を求めず」
 少しでも涅槃の悟りを得るならば、涅槃を求めた人は少しの悟りで満足してしまうのです。ご飯を茶椀一杯食べれば、満足してしまうのです。「もっと美味しいものを食べたい。美味しいもの三昧じゃ!」とギャル曽根のように山のように食べ物を積んで、バクバク食べるのは餓鬼界です。「足る」ということを知らないのです。「足る」とは、「満足する」ということです。満足するということを知らないから、ギャル曽根のように爆食をするのです。
人間は、生きるために必要な量だけ食べればよいのです。爆食をする必要は全くありません。仏教徒は、適切なものを必要な量だけ食べたら満足するのです。「美味しいものを頂きました。今日も元気で過ごします」となればよいのです。ギャル曽根のように、5キロの食べ物をバクバクとお腹に詰め込んでいたら、「足る」ということを知らないのです。
仏教徒は「足る」ということを知っているので、足りれば他は求めません。日常で困らない分だけ食べれば、満足するのです。お金もそうです。お金は全くないと困りますが、生活に困らない程度のお金があればよいのです。
「1億だ、10億だ、100億だ」とお金を求めていくと、それによって失うものは、大きいのです。「俺は100億を稼ぐのだ」と思うと、自分の心を消耗してしまうのです。100億円を稼ぐためには、どれだけのエネルギーを消耗するのでしょうか? 心ががさついて、100億円得ると、「1千億円欲しい!」と思うのです。
そうなると、もう限りがありません。ずっとお金を追い求めていくことになるのです。「足る」ことを知って、余りを求めないことです。
 「今仏我を覚悟して 実の滅度に非ず」
 今、仏様は覚悟して滅度されるのですが、それは実の滅度ではありません。
 「仏の無上慧を得て 爾して乃ち為れ真(しん)の滅なりと言(のたも)う」
 仏の無上慧を得て、爾して乃ち為れ真の滅なりと言う。仏様はお亡くなりになり、涅槃に入ってしまったならば、「仏様がいなくなってしまったから、大変だ」というものではありません。仏様は、いつもそこにいるのです。隠れていないように見えるのですが、「いないいないばあ!」です。
実は、仏様はいつもここにいるのです。貴方達には見えないだけで、何も変わっていません。仏様は永遠の生命を得ているのです。永遠の生命ならば、死ぬことはありません。仏が涅槃するというのはおかしいのです。だから、「涅槃する」というのは、方便です。「方便現涅槃」と言うのです。方便を持って、涅槃をすることを見せているのです。本当は涅槃などしていません。
 「我今仏に従って 授記荘厳(しょうごん)の事」
 我、今仏に従って、授記荘厳の事。「お前は仏になったよ」と、華々しく授記をされて、
 「及び転次(てんし)に受決せんことを聞き奉って 身心遍(あまね)く歓喜す」
及び転次に受決せんことを聞きたてまつりて、身心遍く歓喜したのです。
今世で授記をされると、また来世においても仏はまた授記をしてくださるのです。そのようなことを聞いて、仏様に出会えたことを心も体も歓喜したのです。


『妙法蓮華経五百弟子受記品第八』
珠を与えし親友 後に此の貧人を見て
苦切に之を責め已って 示すに繋けし所の珠を以てす
貧人此の珠を見て 其の心大に歓喜し
富んで諸の財物あって 五欲に而も自ら恣ならんが如く
我等も亦是の如し 世尊長夜に於いて
常に愍んで教化せられ 無上の願を種えしめたまえり
我等無智なるが故に 覚らず亦知らず
少しき涅槃の分を得て 自ら足りぬとして余を求めず
今仏我を覚悟して 実の滅度に非ず
仏の無上慧を得て 爾して乃ち為れ真の滅なりと言う
我今仏に従って 授記荘厳の事
及び転次に受決せんことを聞きたてまつりて 身心遍く歓喜す



※これで『妙法蓮華経五百弟子受記品第八』が終わりました。明日からは、『妙法蓮華経授学無学人記品第九』です。ご期待ください!

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2022年06月20日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経五百弟子受記品第八』について 26

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※重要文化財ー金銅火焔宝珠形舎利容器こんどうかえんほうじゅがたしゃりようき)


人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経五百弟子受記品第八』について 26

 「是の因縁を以って、甚だ大に歓喜して、未曾有なることを得たり。」
 是の因縁を以って甚だ大に歓喜して未曾有なることを得たり。このことがわかっただけでも、私達は歓喜します。「仏の悟りとは、どのようなものか? 声聞、縁覚、菩薩の悟りとは何か?」ということが明確に、人生の目的がわかりました。阿耨多羅三藐三菩提のことを無量義一法と言うのです。
「無量義は一法より生じる」ということがわかりました。その一法をどうしても授けてもらいたいのです。そして、最高の一乗の法を得たいのです。「私はお釈迦様と同じ仏陀となって、多くの人々を救いたいのです」、このように言ったのです。
 「爾の時に阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)等、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、」
 爾の時に阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)等、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、
 「我等無上 安穏の授記の声を聞きたてまつり」
 我等無上、安穏の授記の声を聞きたてまつり
 「未曾有なりと歓喜して 無量智の仏を礼したてまつる」
 未曾有なりと歓喜して、無量智の仏を礼したてまつる。お釈迦様の無量義一法を聞いて、我等は本当に安穏しました。仏様は本当にすごい所にいるのだなとわかりました。そして、この歓喜は未曾有です。今まで感じたことのない歓喜を受けました。
従って、そのような歓喜した我等は、「無量智の仏を礼したてまつる」のです。今までいた無量の仏様は皆、そのようなことをしてきたのです。我々とは、全然違う世界です。娑婆世界を泳ぎまわっている我々の上には、仏様がいるのです。しかも、そこには一人の仏様がいるのではありません。無量の仏様がいるのです。無量の仏様は、成仏して、仏様になっているのです。
「早く私も、そのような仲間に入らなければいけませんね」、と歓喜しているのです。すると、仏様は「そうですよ。一生懸命、仏道修行をして早く仲間に入りなさい」と言われているのです。
「無量義は一法より生じる」これが、鍵です。無量義一法と言ったところで、仏様のお悟りがわかったわけではありません。「無量義」の中に声聞も縁覚も菩薩もいるのです。それは、すでに差別があります。
「私は声聞です」「私は縁覚です」「私は菩薩です」という差別があります。そのようなものを全てを含めて、全てに共通するものが悟りです。声聞、縁覚、菩薩は、娑婆世界の話です。菩薩道などいくらやっても、娑婆世界の話です。娑婆世界の雲の上の仏界にいかなければいけません。
 「今世尊の前(みまえ)に於いて 自ら諸の過咎(とが)を悔い」
 今世尊の前に於いて、自ら諸の過ちを悔います。私は仏道をやってきていなかったのです。いろんな修行をしてきましたが、仏道とは違うものだとわかりました。私は間違っていました。
 「無量の仏宝に於いて 少しき涅槃の分を得」
 無量の仏宝に於いて、少し涅槃の分を得ました。いろんな仏様に接して、「仏とはこのようなものだ」ということが少しわかりました。
 「無智愚人の如くして 便ち自ら以って足りぬと為(な)しき」
 無智の愚人において、便ち自ら以って足りぬと為しき。今まで自分はそれで満足しきってきました。
 「譬えば貧窮の人 親友の家に往(ゆ)き至りぬ」
 譬えば、貧乏な人が、親友の家に往きました。
 「其の家甚だ大に富んで 具(つぶ)さに諸の肴膳(きょうぜん)を設け」
 其の家は甚だ大に富んで、具に諸の肴膳を設けて、
 「無価の宝珠を以って 内衣(ないえ)の裏に繋著(けいじゃく)し」
 無価の宝珠を以って、内衣の裏に繋著し、
 「黙し与えて捨て去りぬ 時に臥して覚知せず」
 黙って与えて捨て去りぬ。時に臥して覚知せず。これが衣裏珠譬です。
 「是の人既已に起きて 遊行して他国に詣(いた)り」
 是の人既已に起きて、遊行して他国に詣り。
 「衣食を求めて自ら済(わた)り 資生(ししょう)甚だ艱難にして」
 衣食を求めて自ら済り、生活の道具にも甚だ艱難にして、
 「少しきを得て便ち足りぬとなして 更に好き者を願わず」
 少しを得て便ち足りぬとなして、更に好きな者を願わず、
 「内衣の裏に 無価の宝珠あることを覚らず」
 内衣の裏に、無価の宝珠あることを覚らず。貧乏になった友達は、衣の裏に宝珠が縫い付けてあることを知らなかったのです。(27に続く)


『妙法蓮華経五百弟子受記品第八』
是の因縁を以って、甚だ大に歓喜して、未曾有なることを得たり。
爾の時に阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)等、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、
我等無上 安穏の授記の声を聞きたてまつり
未曾有なりと歓喜して 無量智の仏を礼したてまつる
今世尊の前に於て 自ら諸の過咎を悔い
無量の仏宝に於いて 少しき涅槃の分を得
無智の愚人の如くして 便ち自ら以って足りぬと為しき
譬えば貧窮の人 親友の家に往き至りぬ
其の家甚だ大に富んで 具に諸の肴膳を設け
無価の宝珠を以て 内衣の裏に繋著し
黙し与えて捨て去りぬ 時に臥して覚知せず
是の人既已に起きて 遊行して他国に詣り
衣食を求めて自ら済り 資生甚だ艱難にして
少しきを得て便ち足りぬとなして 更に好き者を願わず
内衣の裏に 無価の宝珠あることを覚らず


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2022年06月19日

立正安国論 特講(4)人類の未来

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※「自らを知る」ことを探求して、正法を求め日蓮大聖人の教えに耳を傾けるこが大事です。日蓮大聖人は、『御義口伝』に於いて仏の悟りに触れています。

立正安国論 特講(4)人類の未来

[講義]
人類の文明を転換しなければ、人類は滅亡します。世界から念仏思想をたたき出さない限り、真実の人類の夜明けはきません。
 人類の未来とは、地獄か天国のどちらなのでしょうか? このままいけば人類の未来は無く、必ず地獄に突入することでしょう。それは人類が文明の方向を間違ったがゆえに、地球という神様から見放されるからです。
人類は、いままで地球という神様と、太陽という神様に護られてきました。それが科学を知ってから生意気になった人間は、大恩ある地球という神様蔑ろにしだしたのです。
 神様を親とするならば、人間は子供です。子供が親を蔑ろにしたのですから驚きです。その結果として、環境問題を引き起こし、地球温暖化となり、砂漠化現象が起きたのです。
今こそ文明を転換させなければいけません。それにはまず「人間は何のために生きているのか?」という意味を問い直すことが必要です。2500年前インドに出現した釈尊が悟られたように、人間「自らを問う」という文明です。釈尊の悟りとは、「自らの正体を知った」ということです。己を知ることこそが文明の転換なのです。
今までの文明は、己を知るということではなく、己の欲望を知り、それを追求して作り上げた文明です。その結果として人間は、人類を何十回も皆殺しできる核爆弾を所持し、殺人光線をもち、数多くの毒ガスを所有し、人類を滅亡させる生物兵器を持ったのです。
地球資源である石油を湯水のように使い、70億人の人口は、美食を求めて爆食いし、その楽しみは食うこと、セックス、娯楽、スポーツ、酒、麻薬などであり、これらは基本的に野獣となんら変わりがありません。これら人間の欲望に急ブレーキをかけ、方向を転換させねばなりません。それは、仏の教えに静かに耳を傾ける文明です。
「自らを知る」ことを探求して、正法を求め日蓮大聖人の教えに耳を傾けるこが大事です。日蓮大聖人は、『御義口伝』に於いて仏の悟りに触れています。「人間が仏になるとはどのようなことなのか?」、ということを教えてくださり、『立正安国論』では、「国に正法を立てることが大事だ」と教えられ、開目抄では、「一切の思想の正邪」を教えられ、報恩抄では、「一切衆生が持たねばならぬ“恩”」について教えられ、人間の生き方を教えられています。人間の生きる目的とは、欲望追求などではなく、「仏陀になる」「成仏する」ことにあるのです。
 これからは、「貴方は、なんのために生きていますか?」と質問されたら「はい、僕は仏陀になるために生きています」と答える文明に変換するのです。そうすれば神様である地球は、その人を応援して、災害をもたらすこともないでしょう。
それが『立正安国論』の教えです。このことを深く知っている人は、「国師」であり、日蓮大聖人は「大国師」なのです。我等は日蓮大聖人門下として、「国師」の自覚をもち、政治家にも、教育者にも、天皇にも正法を教えていく必要があります。国に十万の国師があれば、必ずその国は栄えます。(終わり)

※これで、『立正安国論』講義を終わります。次回からは、『神国王御書』講義が始まります。ご期待ください!

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2022年06月18日

開目抄 講義(10)華厳初説法

7
※『華厳経』(けごんぎょう、梵: Avataṃsaka Sūtra, アヴァタンサカ・スートラ)、正式名称『大方広仏華厳経』(だいほうこうぶつけごんきょう、梵: Buddhāvataṃsaka-nāma-mahāvaipulya-sūtra[1], ブッダーヴァタンサカ・ナーマ・マハーヴァイプリヤ・スートラ)は、大乗仏教仏典の1つ。

開目抄 講義(10)華厳初説法

[本文]
二には教主釈尊は住劫・第九の減・人寿百歳の時・師子頬王には孫・浄飯王には嫡子・童子悉達太子・一切義成就菩薩これなり、御年十九の御出家・三十成道の世尊・始め寂滅道場にして実報華王の儀式を示現して十玄・六相・法界円融・頓極微妙の大法を説き給い十方の諸仏も顕現し一切の菩薩も雲集せり、土といひ機といひ諸仏といひ始めといひ何事につけてか大法を秘し給うべき、されば経文には顕現自在力・演説円満経等云云、一部六十巻は一字一点もなく円満経なり、譬へば如意宝珠は一珠も無量珠も共に同じ一珠も万宝を尽して雨し万珠も万宝を尽すがごとし、華厳経は一字も万字も但同事なるべし、心仏及衆生の文は華厳宗の肝心なるのみならず法相・三論・真言・天台の肝要とこそ申し候へ、此等程いみじき御経に何事をか隠すべき、なれども二乗闡提・不成仏と・とかれしは珠のきずと・みゆる上三処まで始成正覚と・なのらせ給いて久遠実成の寿量品を説きかくさせ給いき、珠の破たると月に雲のかかれると日の蝕したるがごとし不思議なりしことなり、阿含・方等・般若・大日経等は仏説なれば・いみじき事なれども華厳経にたいすれば・いうにかいなし、彼の経に秘せんこと此等の経経にとかるべからず、されば雑阿含経に云く「初め成道」等云云、大集経に云く「如来成道始め十六年」等云云、浄名経に云く「始め仏樹に坐して力めて魔を降す」等云云、大日経に云く「我昔道場に坐して」等云云、仁王般若経に云く「二十九年」等云云。

[講義]
(二)には釈尊の誕生は成・住・壊・空と宇宙は輪廻しますが、その二番目にあたる住劫の人寿100歳のときに、師子頬王(ししきょうおう)の孫にあたり、浄飯王の嫡子であり、名前を童子悉達太子(どうししったたいし)といい、のちに一切義成就菩薩となったのです。
19歳のとき出家して、30歳で成道した世尊は、説法を開始するのにあたり、この世界が実報土(仏の住む世界)となるようにとの儀式を行い、十玄(華厳経の極意:法界の一切は相互に関連しているという、‘瓜具足相応門因陀羅網境門H詭穏顕倶成法門そ柔こ嵋^枩門諸蔵純雑具徳門О貘秦衢読堝洩膈┰法相即自在門唯心廻転善成門託事顕法生解門のこと)、六相(華厳宗でたてる法界観、一切法に相がある、〜軈雖∧盟雖F荏雖ぐ杼雖ゲ相)、法界円融(あらゆる事象は互いに円融しているということ)、頓極微妙(すみやかに微妙の法をうること、直達正観と同じ)これらの大法を釈尊は説いて、その説法を聞くために十方の仏菩薩もあつまったのです。
釈尊がその国土を清め、説法を聞くための機根といい、集まった諸仏といい、“初説法”といい、そんな大事な説法なのに、どうして大法を秘密にしておく必要があるでしょうか。
そこを経典では、「顕現自在力・演説円満経」と説かれているのです。華厳経一部六十巻は一字一点までも円満経(完璧)です。たとえば如意宝珠という一つの珠も無量珠も同じ珠であり、これは一玉でも万珠でも“宝を産む”ことには変わりはないのと同じです。
華厳で説いていることは、一字でも万字でもみな同じことを説いているのです。心仏及衆生(心も仏も衆生に及ぶ)の文は、華厳宗の極意であるのみならず法相宗・三論宗・真言宗・天台宗の極意であろうと思われます。これらは大変すばらしきことなのですから何も隠すことなどないのです。
しかし、二乗(声聞・縁覚)と一闡提は成仏できないと説かれているのは珠に疵と思われます。さらに三度までも釈尊はこの世で始めて仏になったといわれ(始成正覚)、釈尊の本当の姿、久遠の昔から仏であった(久遠実成)を説かなかったのです。これは宝珠に瑕があることと、せっかくの月に雲がかかっているのと、太陽が欠けるようなものです。
阿含・方等・般若・大日経などは皆仏説なので、すべて重要ですが、これらは華厳経に比べるとお話にもなりません。華厳経に秘められたることは、阿含・方等・般若・大日経などには説かれていません。華厳経は釈尊が始めて説法されたものです。その内容は極めて難解で、誰も理解できなかったといわれています。法界無尽縁起の難しさゆえに釈尊は、教えの質を落として、阿含経の説法に変えたのです。その証拠は、雑阿含経には、「初め成道」とあり、大集経には「如来成道初め十六年」、あるいは浄名経には「始め仏樹に坐して力めて魔を降す」、大日経に云く「我昔道場に坐して」等云云、仁王般若経に云く「二十九年」等云云。とあるのです。


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