2025年02月14日
新編版 法華経講義 3

※これは、一番大事な場面です。お釈迦様が説法をされたのは、人間ではありません。これが大事なところです。「お釈迦様の説法を聞きたい」と言って、衆生が集ってくるのですが、その連中は、「天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽」などです。
新編版 法華経講義 3
法華経二十八品の講義は、2020年8月より始まり、2024年3月に終わっています。法華経講義は終わっているので、それを同じ角度で説いても仕方ありません。
今度は角度を変えて、法華経講義をしていこうと思います。法華経二十八品の読み下し文の講義は終わっているので、僕の講義で法華経の全体像がわかるようにしていきたいと思っています。
本体の講義はすでに終わっているので、さらにそれに上乗せして、「なんとなく法華経がわかっていく」というような講義にしていこうと思っています。そのように角度が変わったのです。
まず、法華経は『妙法蓮華経序品第一』から始まります。『妙法蓮華経序品第一』は法華経の始まりですから大事です。「法華経の入り口は、何ですか?」ということです。「入り口について考えてみたい」というのが、これから始める講義の内容です。
法華経は、『妙法蓮華経序品第一』、『妙法蓮華経方便品第二』と続いていきます。『妙法蓮華経序品第一』では、何を説いているのでしょうか?
その前は、『無量義経』三品を説いています。
『無量義経徳行品第一』(本文)
是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。菩薩摩訶薩八万人あり。天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽あり。諸の比丘・比丘尼及び優婆塞・優婆夷も倶なり。
『無量義経徳行品第一』では、お釈迦様が初説法をするときに、「天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽」などの畜生が集ってきたのです。耆闍崛山の山中でお釈迦様の説法を聞いたのです。
これが『無量義経徳行品第一』の始まりです。この中で大事なことは、お釈迦様の説法を聞きにきたのは、人間ではありません。妖怪が集まったのです。読んだ人は『無量義経徳行品第一』で参ってしまうのです。
戸田先生は、このように言われたのです。「耆闍崛山の中に万2千人も集まって、お釈迦様の説法を聞いたのですが、お釈迦様は拡声器でも持っていたのかな」と言っていたのです。拡声器を持って「皆さん、これから説法をします」と言ったのでしょうか?
そうでもないかぎり、万2千人もいる中で一人の人間が大声を出しても聞こえるわけがありません。戸田先生は、その疑問に対して「拡声器のようなものを持っていたのだろうか?」と言っていたのです。
僕の解釈は全然違います。『無量義経徳行品第一』で、お釈迦様が「これから、説法をします」と言われて集まってきたのは、法華経の衆生ではありません。
「お釈迦様が説法をするんだって、どんな説法をするのかな。みんな、聞きにいこうぜ」と言って集まってきたのは畜生です。それらの衆生が山の上に大勢集まってきたのです。
これは、一番大事な場面です。お釈迦様が説法をされたのは、人間ではありません。これが大事なところです。「お釈迦様の説法を聞きたい」と言って、衆生が集ってくるのですが、その連中は、「天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽」などです。
人間ではない連中が大勢集まってきたのです。それで、お釈迦様の説法を聞いたのです。お釈迦様の周りには、怪獣が集っていたので、その後ろにいる一般大衆に説法は聞こえません。それが『無量義経徳行品第一』で最初に行われたお釈迦様の説法です。
これは、どのようなことを物語っているのでしょうか?それを僕は明らかにしたのです。今でも仏教の説法をするとそうですが、お釈迦様の説法を聞きに集まってきたのは、畜生ばかりです。お釈迦様が説法をしてくださるから、菩薩の人々が説法を聞きにきたというのではありません。
「釈尊が面白い説法をするらしいから、聞きにいこうじゃないか」ということです。『無量義経徳行品第一』で集まった衆生は、「天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽」等です。多くの怪獣が集って、お釈迦様の周りに集まって説法を聞いていたのです。
これを現代流に解釈すると、もっと優しく解釈できます。お釈迦様の説法が聞けるような連中が集まったのではありません。畜生ですから、ほど遠い連中です。身は畜生で、人間界までたっしていない連中です。
その連中が「お釈迦様はどんな説法をするのか聞いてみようぜ」ということで集まったのです。なるほど、だから多くの怪獣が集ってきたのです。『無量義経徳行品第一』には、怪獣の名前まで書かれています。
畜生どもが集って、お釈迦様の説法を聞いていたのです。そして、『妙法蓮華経序品第一』から、二十八品に進むに従って、その連中が成仏をするという教えです。それが法華経です。(4に続く)
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2025年02月13日
新編版 法華経講義 2

※老人になっているのに、海外旅行に行って、ヨーロッパを全て回って、エジプトのピラミッドを見て、ファーストクラスの飛行機に乗って、世界中を旅してまわったところで、終わりはありません。「ああ、これで終わった」ということはありません。
新編版 法華経講義 2
80歳、90歳になって、100億円のお金をもらっても、使い切ることはできません。90歳になれば、単なる老人ですから、何もできません。上層部の連中は、みんな同じです。100億円持っても、何千億円ももったところで、そんなお金を生きている間に使いきるわけにはいきません。そんなお金は自分の身に余ってしまうのです。
余った財産によって自分の身が滅びてしまうのです。いい年をした重役が若いアナウンサーを求めて、夜な夜なパーティーを開いて、ふんどし一丁になって、パーティーをやるのでしょうか?そんなことをしたら身体が持ちません。
それにも関わらず血走った目で女を求めてきたのでしょうか?やっても、やってもやりたいのです。やっても、やっても欲しいのです。それを餓鬼界というのです。餓鬼界はどんどん欲しくなるのです。
使いもしないのに「あの山も欲しい。富士山も欲しい。日本列島もみんな欲しい。みんな俺の物だ!」と言っても、俺の物など何もありませんが、欲望は無限大ですから、そのように思ってしまうのです
世界を征服する大王も同じです。プーチンは、ウクライナを盗ろうとしているのです。ロシア兵が足りなくなると、北朝鮮兵を使っているのです。もう100万人くらい死んでいるのです。
プーチンは、それでもまだ戦争を止めません。何という愚かな人間なのでしょうか?プーチンは、無明の塊です。「これは俺の物。あれはあいつの物。あいつの領土が欲しい」と分けてきたから、餓鬼界が続いているのです。
自分はやがて死んでしまうのにも関わらず、「俺の物だ」という餓鬼界の心がずっとあるのです。それがマスコミ、政界、官僚にもつながっているのです。
人間というものは、それに気が付いて、「どこまでいっても、きりがないな」ということをわからなければいけません。老人になっているのに、海外旅行に行って、ヨーロッパを全て回って、エジプトのピラミッドを見て、ファーストクラスの飛行機に乗って、世界中を旅してまわったところで、終わりはありません。「ああ、これで終わった」ということはありません。
人間は、どこまででも行きたくなるのです。どこまででも物は欲しくなるのです。それで苦しむのです。「物が欲しい」ということは、「苦しい」ということです。「欲しい」のですから、それが手に入るまでは苦しみになるのです。
海外旅行など最初からあきらめている人は、行きません。そんなものは、なくてもよいのです。いったん「欲しい」という心がでてきたならば、それは全て自分の物にしないかぎり苦しむのです。
仲良かった人類は、元々は一つのものだったのです。それが、2つに分かれて「俺が」という心がでてきたのです。「これは俺の物だ。他人のことはどうでもよい」という自我が芽生えてきたのです。
元々は仲がよかった一つの世界が、2つに分かれて争いに突入したのです。それが現代の世界です。人の命よりも大事なものがあるのでしょうか?人の頭を迫撃砲で吹っ飛ばして、大量殺戮をして、喜んでいるのです。何という愚かなことをやっているのでしょうか?
それが元品の無明です。一つであったものから、自分が飛び出してきて、それが現代の競争社会を創り上げてきたのです。そこに幸せはありません。
初めは、一つのものであり、良いも悪いもなく、静かで一体となった世界があったのです。元品の無明を退治して、最初の命にかえっていくべきです。これが、法華経の教えです。
邪教にどっぷりとはまっている人は、「法華経には神通力が身につく教えが書いてある。なんぼでも、欲しい物が手に入る」などと考えているのです。ふざけたことを言うものではありません!法華経の教えはそんなくだらないことではありません。
元品の無明を退治して、皆で仲良くやればよいのです。「仲良く」というのが、「自他彼此の心」です。自分と他人を区別して、「これは俺、あれはお前」というような区別をなくしていくのが現代文明です。
法華経の教えは、そんな辺鄙な教えではありません。法華経の目的は、本来の一つの世界に戻していくことです。
「俺はオリンピック選手」「俺はボクサーだ」「俺は野球の選手だ」などという目覚めた自我を主張しているのです。そんなものをいくら追求しても幸せにはなれません。
だから、仲良くして、いかなければいけません。お互いに助け合っていかなければいけません。「自他彼此の心なく水魚の思を成して」と言っているのです。水の中に魚がいますが、魚も水も区別がありません。
「俺は魚だぞ。お前は水だぞ」と言ったら、区別です。区別すればするほど、苦悩を受けていくのです。現代人は平気で他人の物を奪っているのです。そのようなバカな心を捨てて、本来の自分に返りましょう。
本来の自分の命である一つの世界に帰って、本当の幸せをつかもうではありませんか。これが法華経の目的です。現代社会における法華経の意味は、そのようなところにあるのです。
それをわかって仏道修行をしていかないと、誰も幸せにはなれません。「私が、私が」「俺が、俺が」と自己主張をしていたら、いつまで経っても、幸せにはなれません。それが法華経の教えの神髄です。(3に続く)
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2025年02月12日
新編版 法華経講義 1

※今回の講義は、法華経講義のやり直しではありません。『新編版 法華経講義』をこれから始めたいと思います。僕が思いついたことを書いていきますので、それを重ねていくと法華経講義に厚みがでてきます。
新編版 法華経講義 1
法華経講義は、第一回目は終わっています。今回の講義は、法華経講義のやり直しではありません。『新編版 法華経講義』をこれから始めたいと思います。僕が思いついたことを書いていきますので、それを重ねていくと法華経講義に厚みがでてきます。
まず、第一番に言いたいことは、「元品の無明(がんぽんのむみょう)」です。「元品(がんぽん)」と言うのですから、生命がもともともっている明かりの無い状態を「無明」といいます。
「宇宙の始まりはどうだったのか?」というと、明るくもありませんが、暗くもありません。寒くもなければ、暑くもありません。ただ、しくしくと輝く塊があったのです。その塊は、何となく存在していたのです。
その塊は、大きくもなければ、小さくもありません。法華経はそのような世界観です。良くもなければ悪くもありません。黒い塊があったのです。今でいうブラックホールのようなものです。
ブラックホールのような塊があり、それが宇宙の始まりにあったのです。宇宙の始めにあったものは、憎しみでもなく、悲しみでもなく、自分も他人もありません。
そのことを、日蓮大聖人様は「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(生死一大事血脈抄)と言われています。
そこには自分も他人もありません。みんな一緒です。俺も、お前もありません。皆、仲良くして「南無妙法蓮華経」と唱えていたのです。これが宇宙の始めだったのです。
そこには、自分を自覚する意識(consciousness)はありません。ところがちょっとした縁で、自覚する心がでてきたのです。それは、ちょっとした縁です。自分も他人もなく溶け合う時代があったのです。
それからちょっとした縁で「己」を感じる心がでてきたのです。「あれ、今までとは違うぞ。なんか、はぐれたぞ。どうしてだかわからないけれども、独自で動いている」と自覚したのです。それを「無明」というのです。
真っ暗闇の中で、一人ポツンといるような生命を感じるのです。そこで感じた命は、「自他彼此の心なく」ということです。それは、自分と他人を区別する心です。それまでは、そんな心はありません。自分も他人も区別はありません。
「これは私、あれは他人」「これは私の物、あれは他人の物」というような心がちょっと目覚めてくるのです。それが自我の形成です。それまでは自我などありません。
「自他彼此の心なく水魚の思を成して」というように、全体が溶け合った、一つのものだったのです。そこには自分も他人もありません。そのような時代が先にあったのです。その中で欲心に目覚めてある日、「これは私の物、あれはあの人の物。あれを取りたいのだよ」という悪い心が目覚めてきたのです。これが生命の始まりです。
そこに生まれてきた心は、何だかわかりません。真っ暗の中から生まれてきて、それを「自分」と思ったのです。その「自分とは何か?」というと、自分はやがて死んでしまうのです。
「私はポツンと生まれたけれども、やがては死んでなくなってしまうのかな。嫌だな」と思うのです。外の世界を見ると、他人が財産を持っています。「俺はあいつを殺してでも、財産を取りたい」と思ったのです。
ところが、あいつを殺して財産を盗ってしまうと、わびしいのです。いくら盗っても人の物は盗り切れません。盗っても、盗っても、まだ欲しいのです。余計な心だとわかるでしょう。
生命の発生から言うと最初は何もなく、自分と他人の区別もなく、仲良くやってきたのです。「これは俺のもの」「あれは貴方のもの」「これは俺の命」と分けていくのです。生命とは人間だけではなく、小さなトンボだったり、大きな恐竜だったりするのです。
恐竜は「ガォー、俺は一番強いのだぞ。30メートルもあるのだぞ!」と相手を威嚇するのです。
ところが仏法の目で見ると、30メートルあろうが、50メートルあろうが、みんな死んでしまうのです。ポツンと生まれた生命は、永遠の存在ではありません。そこで恐竜も悲しみを感じるのです。「ガォー」と相手を威嚇しても、自分はやがて死んでいくのです。
これは、現代人にも言える話です。フジテレビの日枝会長が、80億円もらって引退するのもよいでしょう。87歳で80億円のお金をもらって、どうするのでしょうか?
80億円のお金があっても、自分で使い切ることはできません。人間は年をとっても、使い切れないお金を自分の財産にしたいのです。「これは俺の財産だ。これは俺の山だ。これは俺の豪邸だ。お前ら触るな!全て俺の物だ、俺の物だ、俺の物だぞ!」という死に欲が、どんどん強くなっていくのです。
それを我執(がしゅう)といいます。人間は年を取るとますます、我(が)に執着するのです。ところが何もない人は、財産に執着することはできません。80億円、100億円もらっても、そんなお金をどうやって使い切るのでしょうか?人間が死ぬと、財産などもっていくことはできません。(2に続く)
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2025年02月11日
立正安国論を読む 89

※武宗は、唐の第18代皇帝。
立正安国論を読む 89
「そもそも、近年の災を以って往代(おうだい)を難(なん)ずるの由(よし)、あながちに之を恐る。聊(いささ)か先例を引いて汝(なんじ)が迷いを悟す可し。」
そもそも、近年の災を以って往代(おうだい)を難(なん)ずるの由(よし)、あながちに之を恐れています。いささか、先例を引いて貴方の迷いを悟します。
「止観(しかん)第二に史記を引いて云く「周(しゅつ)の末に被髪(ひはつ)・袒身(たんしん)にして、礼度(れいど)に依らざる者有り」。弘決(ぐけつ)の第二に此の文(もん)を釈するに、左伝(さでん)を引いて曰わく「初め平王(へいおう)の東に遷(うつ)るや、伊川(いせん)に被髪の者の野に於いて祭るを見る。識者の曰わく{百年に及ばじ。其の礼先ず亡びぬ}と」。」
『摩訶止観』第二に史記を引いて云く「周(しゅつ)の末に髪を振り乱し、帯から上の着物を脱いで肌を出して、礼節をわきまえない者があり」。
妙楽大師による『摩訶止観』の注釈書である『止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)』の第二に此の文(もん)を釈するに、『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)を引いて曰わく「初め平王(へいおう)の東に遷(うつ)り、伊川(いせん)に髪を振り乱している者の野に於いて、祭るのを見たのです。識者の曰わく{百年も続かず、其の礼が先ず亡びる}と言ったのです」。
「爰(ここ)に知んぬ徴前(しるしさき)に顕(あらわ)れ、災(わざわ)い後に致(いた)ることを。「又阮藉(げんせき)が逸才(いつざい)なりしに蓬頭(ほうとう)・散帯(ざんたい)す。後に公卿(こうけい)の子孫、皆之に教(なら)いて、奴苟相辱(どこうあいはずか)しむる者を方(まさ)に自然に達すと云い、撙節(そんせつ)・兢持(きょうじ)する者を呼んで田舎(でんしゃ)と為す。是を司馬氏の滅(ほろ)する相と為す」已上。」
ここに知らなければいけません。徴(しるし)が前(さき)に顕(あらわ)れ、災(わざわ)い後に致(いた)ることを。「又、中国三国時代の思想家である、阮藉(げんせき)が人並み以上に優れた才能があり、よもぎのようにぼうぼうに伸びた頭髪をして、喪服の麻の帯の先端を垂らしたのです。
後に公卿(こうけい)の子孫、皆之に教(なら)って、奴苟相辱(どこうあいはずか)しむる者を、方(まさ)に自然に達すと云い、撙節(そんせつ)・兢持(きょうじ)する者を呼んで田舎(でんしゃ)と為す。是を司馬氏の滅(ほろ)する相と為す」已上。」
公卿(くぎょう)とは、朝廷の最高級官僚で、大臣(公)と大納言・中納言・参議などの貴族(卿)を指す言葉です。
「又慈覚大師(じかくだいし)の入唐巡礼記(にっとうじゃんれいき)を案ずるに云く、「唐(とう)の武宗皇帝(ぶそうこうてい)、会昌(かいしょう)元年、勅(ちょく)して章敬寺(しょうきょうじ)の鏡霜法師(きょうそうほっし)をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令む。寺毎に三日巡輪(じゅんりん)すること絶えず。同二年、回鶻国(かいこつこく)の軍兵(ぐんぴょう)等、唐の堺を侵す。同三年、河北(かほく)の節度使(せつどし)忽ち乱を起す。其の後大蕃国(だいばんこく)また命(めい)を拒み、回鶻国(かいこうこく)重ねて地を奪(うば)う、およそ兵乱(ひょうらん)は秦項(しんこう)の代(よ)に同じく、災火邑里(ゆうり)の際に起る。何に況んや、武宗大いに仏法を破し、多く寺塔(じとう)を滅(めつ)す。乱を撥(おさ)ること能(あた)わずして、遂に以て事有り」已上取意。」
又、慈覚大師(じかくだいし)の入唐巡礼記(にっとうじゃんれいき)を案ずるに云く、「唐(とう)の武宗皇帝(ぶそうこうてい)は、会昌元年、勅して章敬寺(しょうきょうじ)の鏡霜法師(きょうそうほっし)をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令む。
寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年、回鶻国(かいこつこく)の軍兵(ぐんぴょう)等、唐の堺を侵したのです。同三年、河北(かほく)の節度使(せつどし)は、たちまち乱を起したのです。
其の後、大蕃国(だいばんこく)また命(めい)を拒み、回鶻国(かいこうこく)重ねて地を奪(うば)う、およそ兵乱(ひょうらん)は秦項(しんこう)の代に同じく、災火が村落に起ったのです。何に況んや、武宗は大いに仏法を破り、多く寺塔を破壊したのです。念仏を信仰するということは、仏法破壊です。乱をはらいさることはできません。遂に以て事有り」已上、あとすぐに続くことがあります。
■本文
そもそも、近年の災を以って往代(おうだい)を難(なん)ずるの由(よし)、あながちに之を恐る。聊(いささ)か先例を引いて汝(なんじ)が迷いを悟す可し。」
そもそも、近年の災を以って往代(おうだい)を難(なん)ずるの由(よし)、あながちに之を恐れています。いささか、先例を引いて貴方の迷いを悟します。
「止観(しかん)第二に史記を引いて云く「周(しゅつ)の末に被髪(ひはつ)・袒身(たんしん)にして、礼度(れいど)に依らざる者有り」。弘決(ぐけつ)の第二に此の文(もん)を釈するに、左伝(さでん)を引いて曰わく「初め平王(へいおう)の東に遷(うつ)るや、伊川(いせん)に被髪の者の野に於いて祭るを見る。識者の曰わく{百年に及ばじ。其の礼先ず亡びぬ}と」。
爰(ここ)に知んぬ徴前(しるしさき)に顕(あらわ)れ、災(わざわ)い後に致(いた)ることを。「又阮藉(げんせき)が逸才(いつざい)なりしに蓬頭(ほうとう)・散帯(ざんたい)す。後に公卿(こうけい)の子孫、皆之に教(なら)いて、奴苟相辱(どこうあいはずか)しむる者を方(まさ)に自然に達すと云い、撙節(そんせつ)・兢持(きょうじ)する者を呼んで田舎(でんしゃ)と為す。是を司馬氏の滅(ほろ)する相と為す」已上。
又慈覚大師(じかくだいし)の入唐巡礼記(にっとうじゃんれいき)を案ずるに云く、「唐(とう)の武宗皇帝(ぶそうこうてい)、会昌(かいしょう)元年、勅(ちょく)して章敬寺(しょうきょうじ)の鏡霜法師(きょうそうほっし)をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令む。寺毎に三日巡輪(じゅんりん)すること絶えず。同二年、回鶻国(かいこつこく)の軍兵(ぐんぴょう)等、唐の堺を侵す。同三年、河北(かほく)の節度使(せつどし)忽ち乱を起す。其の後大蕃国(だいばんこく)また命(めい)を拒み、回鶻国(かいこうこく)重ねて地を奪(うば)う、およそ兵乱(ひょうらん)は秦項(しんこう)の代(よ)に同じく、災火邑里(ゆうり)の際に起る。何に況んや、武宗大いに仏法を破し、多く寺塔(じとう)を滅(めつ)す。乱を撥(おさ)ること能(あた)わずして、遂に以て事有り」已上取意。
※今回、『立正安国論を読む』の講義は、ここで終了いたします。
明日からは、『新編版 法華経講義』が始まります!
ご期待ください。
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2025年02月07日
立正安国論を読む 88

※念仏は、仮の教えであるから、権教です。実教は、法華経のみです。
立正安国論を読む 88
「釈尊説法の内、一代五時の間に先後を立てて権実(ごんじつ)を弁ず。而るに曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)、既に権(どん)に就いて実(じつ)を忘れ、先に依(よ)って後を捨つ。未だ仏教の淵底(えんてい)を探らざる者なり。」
釈尊の説法の内、一代五時の間に先後を立てて、権実(ごんじつ)を弁ず。而るに曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)は、既に権教に就いて、実教を忘れて、念仏に依(よ)って、法華経を捨てたのです。未だ仏教の淵底(えんてい)にたどり着けない者たちです。
一代五時とは、お釈迦様が生涯にわたって説いた教えを華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃の五つの時期に区分したものです。
権実相対とは、日蓮大聖人様の教判である五重相対の一つです。内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対があります。念仏は、仮の教えであるから、権教です。実教は、法華経のみです。
「就中(なかんずく)法然は、其の流れを酌(く)むといえども、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経(だいじょうきょう)六百三十七部二千八百八十三巻、並びに、一切の諸仏菩薩及び諸の世天(せてん)等を以って、捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の字を置いて、一切衆生の心を薄んず。是れ偏に私曲の詞(ことば)を展べて全(まゆた)く仏経の説を見ず。妄語(もうご)の至り悪口(あっく)の科(とが)、言っても比(たぐ)無く、責めても余り有り。」
就中(なかんずく)法然は、其の流れを酌(く)むといえども、法華経の源を知りません。どうしてでしょうか。大乗経(だいじょうきょう)六百三十七部二千八百八十三巻、並びに、一切の諸仏菩薩及び諸の世天(せてん)等を以って、捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の字を置いて、一切衆生の心を法華経から離れさせたのです。是れ偏に私曲の詞(ことば)を展べて、全て仏経の説を見ていません。念仏は妄語(もうご)の至りであり、悪口(あっく)の科(とが)があり、それは比べるものがないくらい悪であり、責められても当然のことです。
「人皆其(そ)の妄語(もうご)を信じ、悉(ことごと)く彼の選択(せんちゃく)を貴(たつと)ぶ。故に、浄土の三経を崇めて衆経を抛(なげう)ち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。誠に是れ諸仏・諸経の怨敵(おんてき)、聖僧(しょうそう)・衆人(しゅにん)の讎敵(しゅうてき)なり。此の邪教、広く八荒(はっこう)に弘(ひろ)まり、あまねく十方に遍(へん)す。」
人皆其(そ)の念仏の妄語(もうご)を信じて、悉(ことごと)く彼の選択(せんちゃく)を貴(たつと)んだのです。故に、浄土の三経を崇めて、衆経を抛(なげう)ち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘れたのです。誠に念仏は諸仏・諸経の怨敵(おんてき)です。聖僧(しょうそう)・衆人(しゅにん)は、恨みのある敵です。此の邪教、広く八荒(はっこう)に弘(ひろ)まり、あまねく十方に遍(へん)す。(89に続く)
■本文
釈尊説法の内、一代五時の間に先後を立てて権実(ごんじつ)を弁ず。而るに曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)、既に権(どん)に就いて実(じつ)を忘れ、先に依(よ)って後を捨つ。未だ仏教の淵底(えんてい)を探らざる者なり。
就中(なかんずく)法然は、其の流れを酌(く)むといえども、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経(だいじょうきょう)六百三十七部二千八百八十三巻、並びに、一切の諸仏菩薩及び諸の世天(せてん)等を以って、捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の字を置いて、一切衆生の心を薄んず。是れ偏に私曲の詞(ことば)を展べて全(まゆた)く仏経の説を見ず。妄語(もうご)の至り悪口(あっく)の科(とが)、言っても比(たぐ)無く、責めても余り有り。
人皆其(そ)の妄語(もうご)を信じ、悉(ことごと)く彼の選択(せんちゃく)を貴(たつと)ぶ。故に、浄土の三経を崇めて衆経を抛(なう)ち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。誠に是れ諸仏・諸経の怨敵(おんてき)、聖僧(しょうそう)・衆人(しゅにん)の讎敵(しゅうてき)なり。此の邪教、広く八荒(はっこう)に弘(ひろ)まり、あまねく十方に遍(へん)す。
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2025年02月06日
立正安国論を読む 87

※近年の災害は、お釈迦様の教えをおろそかにして、阿弥陀を信じる人が増えたからです。
立正安国論を読む 87
「其の上一夢(いちむ)の霊応(れいおう)を蒙(こうむ)り、四裔(しえい)の親疎(しんそ)に弘む。故に、或(あるい)は勢至(せいし)の化身と号し、或は善導(ぜんどう)の再誕(さいたん)と仰ぐ。然れば則ち十方の貴賤頭(きせんこうべ)を低れ、一朝の男女歩を運ぶ。爾しより来た春秋推移り、星霜(せいそう)相積(あいつも)れり。」
其の上、一夢の神仏が現わす不思議なしるしをたまわり、国の果てに親しく、疎く広め、故に或(あるい)は勢至菩薩の化身と号し、或は善導(ぜんどう)の再誕(さいたん)と仰いだのです。然れば則ち十方の身分の高い人、低い人を下げて、一朝の男女歩を運ぶ。爾しより来た春秋が移り変わり、年月が相積り。
「而(しか)るに忝(かたじけな)くも釈尊の教を疎(おろそ)かにして、恣(ほしいまま)に弥陀の文を譏る何ぞ近年の災を以て聖代(せんだい)の時に課せ強ちに先師を毀(そし)り更に聖人を罵(の)るや。」
近年の災害は、お釈迦様の教えをおろそかにして、阿弥陀を信じる人が増えたからです。近年の災害は、徳のすぐれた君主が治めるめでたい御代(みよ)をつくった先師を誹り、さらに聖人を罵倒したのです。恐ろしいことです。
「毛を吹いて疵(きず)を求め、皮を剪(き)って血を出す。昔より今に至るまで、此くの如き悪言(あくごん)いまだ見ず。惶(おそ)るべく、慎(つつし)む可し、罪業(ざいごう)至って重し。科条争か遁(のが)れん。」
念仏を求めるということは、自分の毛を吹いて疵(きず)を求め、皮を剪(き)って血を出すようなものです。昔より今に至るまで、此くの如き悪言(念仏)をいまだ見たことがありません。念仏を信じた罪業は、惶(おそ)るべく、慎(つつし)む可し、罪業(ざいごう)は至って重いのです。罪を免れることはありません。
「対座猶(たいざなお)以(も)って恐(おそ)れ有り杖(つえ)に携(たずさ)えて則ち帰らんと欲す。」
客人は、主人との対座を恐(おそ)れて、杖(つえ)を携(たずさ)えて則ち帰らんと欲っしたのです。
「主人咲(え)み、止(とど)めて曰(い)わく、辛(から)きことを蓼(たて)の葉に習い、臭(くさ)きことを溷厠(こんし)に忘る。善言(ぜんごん)を聞いて悪言と思い、謗者(ぼうじゃ)を指して聖人と謂(い)い、正師(しょうし)を疑つて悪侶(あくりょ)に擬(ぎ)す。其の迷誠に深く、其の罪浅からず。事の起りを聞け。委(くわ)しく其の趣(おもむき)を談ぜん。」
主人は微笑み、客人を止(とど)めて曰(い)わく、辛(から)きことを蓼(たて)の葉に習い、臭(くさ)きことを溷厠(こんし)に忘る。お釈迦様の善言(ぜんごん)を聞いて悪言と思い、念仏の謗者(ぼうじゃ)を指して、聖人といい、正師であるお釈迦様を疑つて、念仏の悪侶(あくりょ)に惑わされているのです。其の迷誠に深く、其の罪は浅くありません。その罪は深いのです。事の起りを聞きなさい。委(くわ)しく其の趣(おもむき)を談じましょう。(88に続く)
■本文
其の上一夢(いちむ)の霊応(れいおう)を蒙(こうむ)り、四裔(しえい)の親疎(しんそ)に弘む。故に、或(あるい)は勢至(せいし)の化身と号し、或は善導(ぜんどう)の再誕(さいたん)と仰ぐ。然れば則ち十方の貴賤頭(きせんこうべ)を低れ、一朝の男女歩を運ぶ。爾しより来た春秋推移り、星霜(せいそう)相積(あいつも)れり。
而(しか)るに忝(かたじけな)くも釈尊の教を疎(おろそ)かにして、恣(ほしいまま)に弥陀の文を譏る何ぞ近年の災を以て聖代(せんだい)の時に課せ強ちに先師を毀(そし)り更に聖人を罵(の)るや。
毛を吹いて疵(きず)を求め、皮を剪(き)って血を出す。昔より今に至るまで、此くの如き悪言(あくごん)いまだ見ず。惶(おそ)るべく、慎(つつし)む可し、罪業(ざいごう)至って重し。科条争か遁(のが)れん。
対座猶(たいざなお)以(も)って恐(おそ)れ有り杖(つえ)に携(たずさ)えて則ち帰らんと欲す。
主人咲(え)み、止(とど)めて曰(い)わく、辛(から)きことを蓼(たて)の葉に習い、臭(くさ)きことを溷厠(こんし)に忘る。善言(ぜんごん)を聞いて悪言と思い、謗者(ぼうじゃ)を指して聖人と謂(い)い、正師(しょうし)を疑つて悪侶(あくりょ)に擬(ぎ)す。其の迷誠に深く、其の罪浅からず。事の起りを聞け。委(くわ)しく其の趣(おもむき)を談ぜん。
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2025年01月23日
立正安国論を読む 86

※龍樹菩薩
立正安国論を読む 86
「客殊(きゃくこと)に色を作(な)して曰(い)わく、我が本師釈迦文(ほうししゃかもん)浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師(どんらんほっし)は四論(しろん)の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は涅槃(ねはん)の広業(こうごう)を閣(さしお)いてひとえに西方(さいほう)の行を弘め、善導和尚(ぜんどうおしょう)は雑行(そうぎょう)を抛(なげう)って専修(せんしゅ)を立て、慧心僧都(えしんそうず)は諸経(しょきょう)の要文(ようもん)を集めて念仏の一行を宗(むね)とす、弥陀(みだ)を貴重すること誠に以って然(しか)なり。又往生の人、其れ幾(いく)ばくぞや。」
客人にいわく、「我が本師であるお釈迦様の浄土三部経を説いて以来、曇鸞法師は、四論の講説を捨てて、一向に浄土に帰したのです。
四論とは、龍樹菩薩造の『中論』『十二門論』『大智度論』と、提婆菩薩造の『百論』を指します。これらは空の思想を明らかにしたもので、四論宗の所依の論です。
道綽禅師は、涅槃の広業をさしおいて、ひとえに西方の行(念仏)を広めて、念仏の開祖である善導和尚は、雑行をなげうって専修念仏を立てたのです。専修念仏とは、浄土に往生するため、念仏以外の行をせず、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることです。
慧心僧都は諸経(しょきょう)の要文(ようもん)を集めて、念仏の一行を中心とする。弥陀(みだ)を貴重すること誠に以って大事なことなり。又往生の人、其れどれほどのことでしょうか。
「就中(なかんずく)法然聖人は幼少にして天台山(てんだいさん)に昇り、十七にして六十巻に渉(わた)り並びに八宗(はっしゅう)を究(きわ)め、具(つぶさ)に大意を得たり。其の外、一切の経論(きょうろん)七遍反覆(ひちへんはんぷく)し、章疏伝記(しょうしょでんき)究め看(み)ざることなく、智は日月に斉(ひと)しく、徳は先師(せんし)に越えたり。」
就中(なかんずく)法然聖人は幼少にして天台山(てんだいさん)に昇り、十七歳にして六十巻に渉(わた)り並びに八宗(はっしゅう)を究(きわ)めて、具(つぶさ)に大意を得たのです。
八宗とは、俱舎宗・成実宗・三論宗・法相宗・律宗・華厳宗の南都六宗に、平安時代の天台宗・真言宗を加えたものです。八宗に浄土宗・禅宗を加えると十宗です。これが、日蓮大聖人の時代までに日本に伝えられた仏教の全宗派です。
「其の外、一切の経論(きょうろん)七遍反覆(ひちへんはんぷく)し、章疏伝記(しょうしょでんき)究め看(み)ざることなく、智は日月に斉(ひと)しく、徳は先師(せんし)に越えたり。」
其の外、一切の経論(きょうろん)七遍反覆(ひちへんはんぷく)し、章・疏・伝・記(しょうしょでんき)の注釈書は究めて見ようとしないで、智は日月に斉(ひと)しく、徳は先師(せんし)に越えたのです。
「然(しか)りと雖も、猶出離(なおしゅつり)の趣(おもむき)に迷いて涅槃の旨(むね)を弁えず、故に、徧(あまね)く覿(み)悉(ごと)く鑑(かんが)み深く思い、遠く慮(おもんばか)り遂に諸経を抛(なげう)ちて専ら念仏を修す。」
然(しか)りと雖も、なお煩悩を離れて、煩悩の趣(おもむき)に迷いて、涅槃の旨(むね)を得られないのです。故に、徧(あまね)く覿(み)悉(ごと)く鑑(かんが)み深く思い、遠く慮(おもんばか)り遂に諸経を抛(なげう)ちて専ら念仏を修すのです。
恐ろしいことです。煩悩に悩み、迷い、涅槃を得ることができないので、専ら念仏だけを信じてしまうのです。その結果、鎌倉では大災害が起きたのです。(87に続く)
■本文
客殊(きゃくこと)に色を作(な)して曰(い)わく、我が本師釈迦文(ほうししゃかもん)浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師(どんらんほっし)は四論(しろん)の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は涅槃(ねはん)の広業(こうごう)を閣(さしお)いてひとえに西方(さいほう)の行を弘め、善導和尚(ぜんどうおしょう)は雑行(そうぎょう)を抛(なげう)って専修(せんしゅ)を立て、慧心僧都(えしんそうず)は諸経(しょきょう)の要文(ようもん)を集めて念仏の一行を宗(むね)とす、弥陀(みだ)を貴重すること誠に以って然(しか)なり。又往生の人、其れ幾(いく)ばくぞや。
就中(なかんずく)法然聖人は幼少にして天台山(てんだいさん)に昇り、十七にして六十巻に渉(わた)り並びに八宗(はっしゅう)を究(きわ)め、具(つぶさ)に大意を得たり。其の外、一切の経論(きょうろん)七遍反覆(ひちへんはんぷく)し、章疏伝記(しょうしょでんき)究め看(み)ざることなく、智は日月に斉(ひと)しく、徳は先師(せんし)に越えたり。然(しか)りと雖も、猶出離(なおしゅつり)の趣(おもむき)に迷いて涅槃の旨(むね)を弁えず、故に、徧(あまね)く覿(み)悉(ごと)く鑑(かんが)み深く思い、遠く慮(おもんばか)り遂に諸経を抛(なげう)ちて専ら念仏を修す。
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2025年01月13日
立正安国論を読む 85

※円珍(えんちん)は、平安時代の天台宗の仏教僧。天台寺門宗(寺門派)の宗祖。諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。宝号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」。
立正安国論を読む 85
「仍(よ)つて伝教・義真(ぎしん)・慈覚(じかく)・智証(ちしょう)等、或は万里の波濤(はとう)を渉つて渡せし所の聖教、或は一朝の山川(さんせん)を廻りて崇(あが)むる所の仏像、若しくは高山の巓(いただき)に華界(けかい)を建てて、以て安置し、若しくは深谷(しんこく)の底に蓮宮(れんぐう)を起(た)てて、以て崇重(すうちょう)す。」
最澄は、平安時代初期の仏教僧であり、日本の天台宗の宗祖です。最澄の死後、貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号(しごう)が勅諡(ちょくし)されました。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号です。
義真(ぎしん)は、平安時代前期の天台宗の僧であり、修禅大師とも称されています。
円仁(えんにん)は、第3代天台座主です。慈覚大師(じかくだいし)とも言います。
円珍(えんちん)は、平安時代の天台宗の仏教僧であり、天台寺門宗の(寺門派)の宗祖です。諡号(しごう)は、は智証大師です。
この4人は、万里の大きな波をこえて、唐に渡り聖教、或いは一朝の山川をめぐり、仏像を崇めて、或いは高山の頂にお寺を建てて、敬って大事にしたのです。
「釈迦・薬師の光を並ぶるや、威(い)を現当(げんとう)に施(ほどこ)し、虚空地蔵(こくうじぞう)の化(け)を成すや、益(やく)を生後に被(こうむ)らしむ。故に、国主は郡郷(ぐんごう)を寄せて、以て灯燭(とうしょく)を明にし、地頭は田園を充(あ)てて、以て供養に備(そな)う。」
お釈迦様や、薬師如来の光を並べて、その威厳を施し、虚空地蔵菩薩の仮の姿をなし、その利益を生まれたあとにこうむったのです。
その故に、国の主は村々で灯を明らかにして、地頭は田園を供養するために備えたのです。
「而るを法然の選択(せんちゃく)に依(よ)つて、則(すなわ)ち教主を忘れて西土の仏駄(ぶった)を貴(たっと)び、付属(ふぞく)を抛(なげう)つて東方の如来を閣(さしお)き、唯(ただ)四巻三部の経典を専(もっぱら)にして空(むな)しく一代五時の妙典(みょうてん)を抛つ。」
而るを法然の選択集に依(よ)つて、則(すなわ)ち教主であるお釈迦様を忘れて、西方極楽浄土の阿弥陀仏を貴(たっと)び、法華経を抛(なげう)つて、東方の如来を閣(さしお)き、唯(ただ)四巻三部の経典を専(もっぱら)にして空(むな)しく一代五時の妙典(みょうてん)を抛(なげう)ったのです。
「是を以て弥陀(みだ)の堂に非ざれば皆供仏(くぶつ)の志を止(とど)め、念仏の者に非ざれば早く施僧(せそう)の懐(おも)いを忘る。」
是を以て阿弥陀の堂に非ざれば、皆供仏(くぶつ)の志をやめて、念仏の者に非ざれば、早く施僧(せそう)の弥陀の本願を忘れてしまうのです。
「故に、仏堂零落(れいらく)して瓦松(がしょう)の煙老い、僧房(そうぼう)荒廃して庭草(ていそう)の露深し。」
故に、仏堂は荒廃して、古びた屋根に松がはえて煙もしけり、僧房(そうぼう)は荒廃して庭草の露は深いのです。
「然りと雖も、各(おのおの)護惜(ごしゃく)の心を捨てて、並びに建立の思を廃(はい)す。是を以て、住持(じゅうじ)の聖僧(しょうそう)行いて帰らず、守護の善神去つて来(きた)ること無し。是れ偏(ひとえ)に法然の選択(せんちゃく)に依るなり。」
然りと雖も、各(おのおの)が仏法を護り惜しむ心を捨てて、並びに法華経のお寺の建立の思をやめてしまうのです。是を以て、住持(じゅうじ)の聖僧(しょうそう)は、帰ってきません。守護の善神は去ってしまったので、来ることはありません。是れ偏(ひとえ)に法然の選択集に依るのです。
「悲いかな、数十年の間、百千万の人、魔縁(まえん)に蕩(とろ)かされて多く仏教に迷えり。傍(ぼう)を好んで正(しょう)を忘る。善神怒を為(な)さざらんや。円(えん)を捨てて偏(へん)を好む。悪鬼便りを得ざらんや。如(し)かず、彼(か)の万祈(ばんき)を修(しゅ)せんよりは、此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには。」
悲いかな、数十年の間、百千万の人々は、魔縁(まえん)に蕩(とろ)かされて、多く仏教に迷ってしまったのです。
仏教ではない、かたわらのものを好んで、正法を忘れてしまうのです。善神は、怒っています。人々は、円(えん)を捨てて、偏(へん)を好んでいるのです。それで、悪鬼の便りを得るのです。如(し)かず、法華経の万祈(ばんき)を修行しなければいけないのに、人々は念仏を好んでそれを捨てようとしません。此の一凶(いっきょう)を禁じなければ、国は滅びてしまうのです。
日蓮大聖人様は、「此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには。」と、言われています。一凶とは、念仏のことです。一凶を禁じなければ、国が滅びてしまうのです。(86に続く)
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仍(よ)つて伝教・義真(ぎしん)・慈覚(じかく)・智証(ちしょう)等、或は万里の波濤(はとう)を渉つて渡せし所の聖教、或は一朝の山川(さんせん)を廻りて崇(あが)むる所の仏像、若しくは高山の巓(いただき)に華界(けかい)を建てて、以て安置し、若しくは深谷(しんこく)の底に蓮宮(れんぐう)を起(た)てて、以て崇重(すうちょう)す。釈迦・薬師の光を並ぶるや、威(い)を現当(げんとう)に施(ほどこ)し、虚空地蔵(こくうじぞう)の化(け)を成すや、益(やく)を生後に被(こうむ)らしむ。故に、国主は郡郷(ぐんごう)を寄せて、以て灯燭(とうしょく)を明にし、地頭は田園を充(あ)てて、以て供養に備(そな)う。
而るを法然の選択(せんちゃく)に依(よ)つて、則(すなわ)ち教主を忘れて西土の仏駄(ぶった)を貴(たっと)び、付属(ふぞく)を抛(なげう)つて東方の如来を閣(さしお)き、唯(ただ)四巻三部の経典を専(もっぱら)にして空(むな)しく一代五時の妙典(みょうてん)を抛つ。是を以て弥陀(みだ)の堂に非ざれば皆供仏(くぶつ)の志を止(とど)め、念仏の者に非ざれば早く施僧(せそう)の懐(おも)いを忘る。故に、仏堂零落(れいらく)して瓦松(がしょう)の煙老い、僧房(そうぼう)荒廃して庭草(ていそう)の露深し。然りと雖も、各(おのおの)護惜(ごしゃく)の心を捨てて、並びに建立の思を廃(はい)す。是を以て、住持(じゅうじ)の聖僧(しょうそう)行いて帰らず、守護の善神去つて来(きた)ること無し。是れ偏(ひとえ)に法然の選択(せんちゃく)に依るなり。
悲いかな、数十年の間、百千万の人、魔縁(まえん)に蕩(とろ)かされて多く仏教に迷えり。傍(ぼう)を好んで正(しょう)を忘る。善神怒を為(な)さざらんや。円(えん)を捨てて偏(へん)を好む。悪鬼便りを得ざらんや。如(し)かず、彼(か)の万祈(ばんき)を修(しゅ)せんよりは、此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには。
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2025年01月10日
立正安国論を読む 84

曇鸞(どんらん)は、中国南北朝時代の僧であり、中国浄土教の開祖とされています。浄土宗では、「浄土五祖」の第一祖とされています。
立正安国論を読む 84
「之に就(つ)いて之を見るに、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)の謬釈(みょうしゃく)を引いて、聖道(しょうどう)・浄土(じょうど)・難行(なんぎょう)・易行(いぎょう)の旨(むね)を建て、法華真言惣(そう)じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆(みな)聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣(きしお)き、或は抛(なげう)つ。」
日蓮大聖人様は、繰り返し念仏の害毒について言われています。それほど、念仏は悪いのです。
曇鸞(どんらん)は、中国南北朝時代の僧であり、中国浄土教の開祖とされています。浄土宗では、「浄土五祖」の第一祖とされています。
道綽(どうしゃく)は、唐代の中国浄土宗の僧侶であり、浄土宗では、「浄土五祖」の第二祖とされています。
善導(ぜんどう)は、ch動く浄土宗の僧であり、「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立しました。浄土宗では、「浄土五祖」の第三祖とされています。
この3人は、誤った考えを引いて、「聖道(しょうどう)・浄土(じょうど)・難行(なんぎょう)・易行(いぎょう)の旨(むね)を建て、法華真言惣(そう)じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆(みな)聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣(きしお)き、或は抛(なげう)て」と言ったのです。
「此の四字を以て多く一切を迷わし、剰(あまつさ)え、三国の聖僧、十方の仏弟を以て皆群賊と号し、併せて罵詈せしむ。」
曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善導は、「法華経の聖道門、難・雑行を捨てなさい。法華経を閉じなさい。放置しなさい。或いは、捨ててしまいなさい」と言ったのです。
この4つの言葉で、多くの人々を惑わし、三国の聖僧、十方の仏、仏弟子を皆、悪人の集団だと言い、あわせて罵倒したのです。
「近くは、所依の浄土の三部経の「唯、五逆と誹謗正法を除く」の誓文(せいもん)に背(そむ)き、遠くは、一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)せば乃至、其(そ)の人命終つて、阿鼻獄に入らん」の誡文(かいもん)に迷う者なり。」
最近では念仏宗の浄土三部経の「ただし、五逆と誹謗正法を除く」と言われた仏のご誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)せば乃至、其(そ)の人命終つて、阿鼻獄に入らん」のご誠文に迷う者である。
「是に於て代は末代に及び、人は聖人に非ず。各(おのおの)冥衢(みょうく)に容(い)って並びに直道(じきどう)を忘る。悲いかな、瞳矇(どうもう)を樹(た)てず。痛ましいかな、徒(いたずら)に邪信を催(もよお)す。」
ここにおいて代は末代に及び、人は聖人に非ず。各(おのおの)念仏への道を受け入れて並びに法華経の直道(じきどう)を忘れているのです。悲いかな、邪宗教に目がくらみ、正法を樹(た)てず。痛ましいかな、徒(いたずら)に邪信しているのです。
「故に、上(かみ)国王より下(しも)土民に至るまで、皆、経は浄土三部の外(ほか)の経無く、仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂(おも)えり。」
故に、国のトップである国王から、下々の土民に至るまで、皆、経は浄土三部の他の経はありません。仏は阿弥陀三尊の他には無いと思えるくらいです。
このような国には災害が起こるのです。(85に続く)
■本文
之に就(つ)いて之を見るに、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)の謬釈(みょうしゃく)を引いて、聖道(しょうどう)・浄土(じょうど)・難行(なんぎょう)・易行(いぎょう)の旨(むね)を建て、法華真言惣(そう)じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆(みな)聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣(きしお)き、或は抛(なげう)つ。此の四字を以て多く一切を迷わし、剰(あまつさ)え、三国の聖僧、十方の仏弟を以て皆群賊と号し、併せて罵詈せしむ。近くは、所依の浄土の三部経の「唯、五逆と誹謗正法を除く」の誓文(せいもん)に背(そむ)き、遠くは、一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)せば乃至、其(そ)の人命終つて、阿鼻獄に入らん」の誡文(かいもん)に迷う者なり。是に於て代は末代に及び、人は聖人に非ず。各(おのおの)冥衢(みょうく)に容(い)って並びに直道(じきどう)を忘る。悲いかな、瞳矇(どうもう)を樹(た)てず。痛ましいかな、徒(いたずら)に邪信を催(もよお)す。故に、上(かみ)国王より下(しも)土民に至るまで、皆、経は浄土三部の外(ほか)の経無く、仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂(おも)えり。
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2025年01月01日
明けましておめでとうございます!

左ーうっちゃん大王様、右ーうっちゃん皇太子様
(うっちゃん大王は、精霊界の議長、うっちゃん皇太子様は、精霊界の副議長です。)

※うっちゃん大王様の差料(さしりょう)です。(本身です)

※うっちゃん皇太子様の差料(さしりょう)です。(本身です)
2025年1月1日
新年の辞 巻頭論文「分別と無分別について」
「方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云」(上野殿後家尼御返事)
新年になりました。今年の初めは、「分別と無分別」について考えてみましょう。これは、大事な問題ですから、皆さんの役に立つ話です。
分別とは、分別することです。無分別とは、分別しないことです。学問は、全て分別です。物事を比較して、その違いを考えていくのです。分別しないと違いがわかりません。「植物も動物も生きているのですから、皆同じものです」と言ったら、無分別です。無分別では、物事は考えられないとわかります。
分別する場合、日本人とアメリカ人を比べてみます。「日本人とアメリカ人は、どのような部分が同じで、どのような部分が同じではないのか?」ということを考えていくと、「分別する」ということがよくわかってきます。
人間の生活は、分別と無分別の両方を使っています。一方通行ではダメなのです。「あいつは目が青い、俺の目は黒い」という分別をしても、何も生まれません。「青い目の人は、このような特徴がある。目の黒い人は、このような特徴がある」というのが分別です。分別することにより、学問はますます精密になってくるのです。学校の勉強では、分別を習うのです。
例えば、無分別で考えると、国というものは皆、同じです。「国(くに)」という名前は同じです。ところが共産主義国と、自由主義国の国の形態は、全然違います。無分別だと、国というものは考えられません。
「国」というものを論じる場合は、違いを明確に分けて論じていかないと、「国とは、どのようなものか?」ということがわかりません。
例えば、人種というものを考えてみます。「人種」と言った場合は、無分別をあらわしています。いろんな人間がいます。黒人、白人、黄色人種がいます。白人の中には、アメリカ人、ヨーロッパ人、北欧人がいます。民族で考えると、その違いがよくわかってきます。
それを勘違いして、「民族は、みんな同じ人間だ」と考えているのが、創価学会員です。これはとんでもないことです。民族で考えた場合は、人間は皆違います。
全ての病気は、中国から生まれています。中国人は何でも食べるのです。テーブルの四つ足以外の生き物は、何でも食べるのです。コウモリも食べれば、アルマジロウも食べるのです。コウモリは、病原菌が集っているのです。
中国の長安には世界中の貿易商が集ってきたのです。異民族が集まるから、いろんな病気が流行ったのです。コロナウイルスもそうです、あらゆる病原菌の発生場所は中国です。
あまり他民族同士で仲良くしてはいけません。南米のインカ帝国は、2千万人の人口だったのです。そこにフランシスコ・ピサロというスペイン人がやってきて、インカ帝国を征服したのです。たった200人のスペイン人でインカ帝国を滅ぼしたのです。
インカ帝国には、「白い肌の色をした神が下りたつ」という伝説があったのです。インカ人は、白人を見て「この人達は、神の使いではないのか」と思って、従ったのです。スペイン人がもってきたものは梅毒です。
2千万人のインカ人にあっという間に梅毒が流行ったのです。梅毒になると鼻は落ちて、歯も欠けてしまうのです。梅毒は怖い病気です。多数の人間と性行為をするとそうなってしまうのです。𠮷原の遊女は、ほとんどが梅毒だったのです。梅毒は治りません。
いろんな地域から様々な民族が集まると、そのような問題が起きてくるのです。伝染病が拡散してしまったら、ワクチンなど打っても効きません。南米で流行ったエボラ出血は、民族が交流していないので、世界中には広がっていません。都会に様々な民族が集まると、伝染病が流行ってしまうのです。
それを見ると、「他民族同士が集まってはいけない」という結論が出るのです。他民族とは距離を置いて、接触しないことです。家族と接するように長い間一緒にいると、病気が移ってしまうのです。人類の一番大きな問題は、病原菌です。中国では、またコロナウイルスが流行っています。
一度、ウイルスに感染すると、菌に対する抗体ができて、強くなっているのです。すると、違う病原菌がでてきて、それによって死んでしまう人もでてきます。
一番よい方法は、他民族と接触しないことです。現代では、異文化交流が進んでいるので、全然接触しないわけにはいきませんから、挨拶程度にとどめておくのです。そうしないと、人類が滅びてしまいます。
神様が、人類を創った場合、どうして人類の言葉を変えたのでしょうか?民族ごとに言葉は違います。神様はそのように創られたのです。現代では、アメリカ人が世界を制覇しているので、英語が全世界の共通語になっています。
神様は人間同士があまり近寄らないように、地域ごとに人間をつくって、地域の中で生活できるようにしたのです。そのようなことをわかっていくことを分別といいます。「分別しないで、民族は大いに交わりましょう」という考え方がありますが、それは間違っています。
そのような問題は、このように考えたほうがよいのです。例えば、日本の中にいる外国人をどのように考えたらよいのでしょうか?共通言語は、「人類」です。人類という共通言語の中には、全ての民族が入ってしまうのです。黒人も、白人も、黄色人種も、みんな「人類」です。
人類の中身を分析していくと、分別になるのです。黒人、白人、黄色人種を分けて、それぞれの民族性を研究すると、対処する方法がかわってきます。民族を考えた場合、無分別では、いけません。分別して民族の特性をわかっていかなければ、人類は痛い目に遭うのです。
人類は分別で物を考えなければいけません。無分別ではいけません。無分別ということは、「人類は皆同じ」ということです。「人類」という項目があると、人間はみんな入ってしまうのです。人類の中には様々な民族がいます。民族を分別して、それぞれの特性を考えていけばよいのです。
宇宙の問題も同じです。宇宙から地球に飛んできた、隕石があります。地球には、金、銀、鉄などの鉱石があります。これを無分別で考えると、隕石も、地球の鉱石も、同じ鉱石です。「どのような鉱石なのか?」ということが、分別です。
人間にとって一番大事なことは、分別です。分別は学問を生んだのです。物事を細かく考えていく場合、分別は必要です。
それでは、無分別とは何でしょうか?無分別とは、「分別しない」ということです。人間と動物は、違いがあります。でも、「生命」という枠の中では、統一されてしまいます。「生命」と言うと、人間、動物、魚、植物までみんな入ってしまうのです。
そこで、「どのような種類の動物なのか、どのような種類の植物なのか?」ということを、分別しないと種類はわかりません。
では、「無分別はいらないのか?」というと、そうではありません。無分別は大事ですが、無分別では何もできません。無分別で考えたら、飛行機も、自動車もできません。飛行機や、自動車や、道路や、橋を造っていくためには、分別をたくさんしていかないと、素晴らしいものはできません。
では、「無分別はいらないのではないか?」というと、これまた違います。分別だけだと人間は、心がわからなくなってしまいます。あまり細かく分けてしまうと、冷たい人間が出来上がってしまうのです。
「統一されたものは何か?」というと、それが生命です。生命は無分別です。「命」というものを考えた場合、命というものは、どこから生まれたのでしょうか?このことを考えた場合、これは僕の考えですが、命というものは無分別から生まれたのです。
環境と己というものを分けられない世界があります。環境と己を分けることが分別です。環境と己を分けない世界ですから、無分別です。
無分別で考えると、生命は動物で統一されてしまいます。人間も犬も豚も蛇も鹿も全て「動物」に入ってしまいます。植物もそうです。バラも、サボテンも、蓮も、「植物」の中に全て入ってしまうのです。それらの元になるものは、無分別です。
実は、仏教のものの見方は、そこにあるのです。人間が分別して物事を分けていくと、何ができたのでしょうか?それが原子爆弾です。これは、究極の分別をした結果です。
現代では量子力学が学ばれていますが、その前は原子力学がありました。量子と原子は、どのように違うのでしょうか?これは、分別です。分けることによって、量子の世界が開かれてきたのです。
素粒子の種類は、200種類くらいあります。物質の最小単位は、これで終わりでしょうか?それは、違います。まだあると、僕は思います。物質の最小単位を追求していくと、無分別の世界になってしまうのです。
これ以上分けられないから、これ以上考えても意味がありません。あらゆるものは、素粒子からできているのです。「最初は、どんな生命がでてきたのか?」というと、おそらく無生物しかなかったのです。
太陽があり、地球があり、月があり、ブラックホールがあります。ブラックホールからは、物質がでてくるのです。物質は、物質同士で衝突して、違う物ができてきたのです。これが生命です。
生命というものの元を訪ねると一つです。生命世界と物質世界があります。その生命は、我(が)を持ってしまったのです。「俺は山田太郎だぞ」「私は山田花子です」という我(が)ができてきたのです。我(が)ができたおかげで人類は、無数の分別を持ってしまったのです。
「無数の分別をしてしまった人間は、幸せなのか?」というと、幸せではありません。無数の分別の結果、原爆を造ってしまったのです。原爆を投下すれば、皆殺し(genocide)です。
最初の生命は、元品の無明です。これは、動物でもなければ、植物でもなければ、鉱物でもありません。ブラックホールが関係しているのです。そこから生命がポンッと生まれたのです。
「あれ、俺はここにいるぞ」と思ってしまったのです。誰が貴方をつくったのでしょうか?「それは、俺も知らないよ。昔から僕はいるのです」と言うのです。「貴方はどこから出てきたのですか?あちこにも似たようなものがいますね」これが、生命の始めです。これが元品の無明です。
元本の法性とは、最初にあった生命の状態のことを言います。無明とは、最初にあったのですが、何だかわからない状態です。法性は、「わかる」ということです。無明は、わかりません。
生命は、他の命を奪って増殖しているのです。牛は草を食べます。それまでは、「食べる」などという行為はなかったのです。それから、動物が、動物を食べます。動物が生きていくためには、全て分別です。
それを自覚したとしても、人間は食べていかないと生きてはいられません。何を食べるのでしょうか?牛や豚を食べるのです。他には、米や野菜などの無生物も食べるのです。それで私という我(が)が満足をするのです。
人間は食事でエネルギーを補給して、たっぷりの睡眠をとり、己を形成していくのです。己を形成していくと、力のもった者がいろんなものを食べられるのです。
そこで、「俺は恐竜のような大きな動物になりたい」と思うと、恐竜ができてくるのです。
大きな恐竜は、30メートルもありますから、いくら食べても体が満足しません。身体が大きければ強いのです。「ガォー」と雄叫びをあげると、他の動物は震えあがってしまいます。小さい体の動物は、大きい動物に食われてしまうのです。そのようにして生物がどんどんできて、現代社会ができてきたのです。
「元品の無明、元品の法性、これをどのようにとらえるのか?」ということが大事です。これは、無分別の極意です。無分別とは、分別しない状態のことです。
無分別についてわかろうとしたのが、仏教です。仏様の教えとは、分別する前の「最初は、どうであったのか?」ということです。それを、解き明かしたのが仏様です。その結論が出たのです。
無分別法で考えると、我(が)はありません。あるわけがありません。ブラックホールができてきて、生命はそこからポコッと生まれたのです。「俺はどこから産まれたのだろうか?」と言ってもわかりません。貴方はもう生まれてしまったのです。
「生まれると、お腹が空くでしょう。あの動物を殺して食ってしまえばよいのだよ。すると、あんたは長生きできるのだよ」と教えられるのです。貴方は「えっ、本当ですか?では、あの動物を殺して食ってしまおう」となるのです。内面から言うと、それで生命が誕生してきたのです。
仏様は「この世界の根本は、無我であり、我(が)はない」と言われたのです。「我(が)はない」ということは、無分別です。我(が)があるから、分別です。
貴方は「俺が、俺が」と分別していますが、本当の姿は無分別です。そのことを学んでいかなければ、貴方の本当の正体はわかりません。現代科学は、分別の結果です。仏様が教えるのは、無我の教えです。
これを現代文明に当てはめると、新幹線も、高層ビルも、飛行機も全て分別してきた結果です。人間は、分別することにより、様々な物を生み出してきたのです。その根本にあるものは無分別です。それを忘れてはいけません。
貴方の本当のお母さんは、無明です。それをお釈迦様が教えてくださっているのです。それを学ぼうとしていない人は、仏道修行者とは言えません。
神の智恵は分別の智恵です。神は分別で、仏法は無分別です。仏法をいくら勉強しても物はできません。仏教は最初から「物を持つな」と言っています。
分別をする思想が神を創ったのです。仏法は違います。「無分別を忘れているのではないですか?」ということを教えているのです。仏法では、人間性を問題にしているのです。
妙法を学ぶ者は、様々な奇跡を体験するでしょう。妙法を学ぶということは、量子の世界を学ぶということです。素晴らしい奇跡が貴方におきますように。
「分別と無分別」の講義が、今年の新年の辞です。

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第18回、12月16日(土曜日)0:00に公開!
是非、ご覧ください!
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