2019年02月19日

人間の探究 1219 一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず

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※ローマ法王に献上した御子原村の米

人間の探究 1219 一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず

「御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり」(檀越某御返事)

 この御書は、「どのような法華経の信心をしたらよいでしょうか?」という質問に対しての答えです。
 日蓮大聖人様は「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と言われています。多分、質問した人は武士だったのでしょう。「御みやづかい」ですから、百姓ではありません。「どのようなことが法華経なのでしょうか?」と日蓮大聖人様に質問したのです。日蓮大聖人様は、「御みやづかいで殿に仕えることを法華経とおぼしめせ」と言われたのです。「殿さまに仕えるということを、一生懸命法華経の修行をしていると思って励みなさい」という意味です。
これを現代の我々におき直してこの御書を読むと、我々も同じです。「法華経をどのようにして修行したらよいのでしょうか?」と質問すると、「はい、お寺の坊さんの下男になって、お坊さんの指導の下で一生懸命やります」。このようなことを日蓮正宗法華講員の樋田昌志君は言っています。
 日蓮大聖人様は、そんなことは一言も言っていません。「坊さんに仕えて、坊さんの下男になって生活しなさい」などとは、言っていません。「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と言われているのですから、それぞれの仕事を大切にしていかなければいけません。
樋田昌志は元ミュージシャンだったのですが、いつの頃からかミュージシャンを止めてしまい、坊さんの寺男となり、坊主の命令下で動き、坊主奴隷となって生きているのです。頭まで坊主にしてしまったのです。樋田昌志君はミュージシャンの頃、長髪の茶髪で現代風のミュージシャンだったのに、いつの頃からか髪は短髪にして、寺男になってしまったのです。
 「坊さんなどと言ってはいかんぞ。ご僧侶と言え! 猊下様の言う通りに従っていれば成仏するのだ」と言っています。こんな坊主奴隷になってしまいました。それは、違うでしょう。日蓮大聖人様は、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と言われているのです。
 「自分のやっている仕事に精を出して、一生懸命頑張ることが法華経です」と言われているのです。
 次に「一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず」と言われています。「治生産業」とは一体何でしょうか? 産業とは、物をつくることです。世の中をよくしていくために、みんなに役立つ良い物をつくり、武士ならば殿さまに仕えていくことが天下泰平につながっていくのだから、自分の持ち場の仕事を懸命に努力してやっていくのです。
 「治生産業」などというと、創価学会の連中は「詐欺も入りますか?」と言うのです。みんなで集まって酒を飲みながら「今度はあの野郎をハメてやろう。あいつは邪教だからだましてもよいのだよ。みんなで金を巻き上げてやろう!」と相談しているのです。一杯酒を飲みながら、「南無妙法蓮華経、詐欺が成功しますように!」とお題目を唱えているのです。
 詐欺から帰ってくると、「上手くいったか? 詐欺が成功したよ。では、一杯飲んで寿司を取ろうぜ!」などと言っているのです。何を馬鹿なことをやっているのでしょうか? そんなものは治生産業ではありません。
 世の中のために役立つこと、生産物をつくり、人々のお役に立てることが治生産業と言っているのです。それに励まない限りはダメなのです。オカマになり、ゲイバーに務めていたら、それは治生産業ではありません。
「私は治生産業に励んでいます」と言うので、「何をやっているの?」と聞くと、「はい、私はオカマをやっています」などと言うのでは、話にもなりません。
 結果的にはオカマをやってエイズになり、「はい、治生産業は終わりました。これからは入院生活です」など、何をやっているのでしょうか? それは治生産業ではありません。
人々のために役に立つこと、生産すること、美味しいお米を作り美味しいお米を人々に食べさせていくことが治生産業です。例えば、「私は役人だから、役所の仕事をして、人々のお役に立っていくぞ!」、というのも治生産業です。高野誠鮮先生のような人です。あのような人は治生産業のために努力しているのです。
 高野誠鮮先生は単なる「臨時雇い公務員」の身分なのに、UFO博物館をつくり、貧乏な羽咋市を全国的に有名にしたのです。すると上司に睨まれて御子原村に左遷されたのです。そこは過疎村で、ジジイ・ババアしかいません。その村にとばれされたのです。「何をやろうか」と考えた結果、「これからは農業革命だ」と思って、無農薬で最高の米を作り、ローマ法王に御子原村の米を献上したのです。それで御子原村のお米は一躍有名になったのです。当時、1キロ千円のお米を3千円で売ったのです。それで村が潤ったのです。
 すると若い人が「農業を教えてくれ」とやってきたので、過疎地だった御子原村が蘇ったのです。後継者問題も解決した凄い人です。
 今度は、日本全国の農業です。「農薬を使わない農業をやる。そうすればどのような時代がきても日本は大丈夫だ」と言うのです。まさに、スーパー公務員です。高野誠鮮先生は立正大学卒の身延山久遠寺の僧侶です。
 すると、樋田昌志君は「邪教日蓮宗を信じろというのか。その坊主を礼賛する中杉は邪教だな」とコメント欄で言ってきたのです。そんなことはありません。立派な人は、立派な人です。そのような意味で言っているのです。樋田昌志君は日蓮大聖人様のご真意がわからないのです。
 これが「一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず」ということです。治生産業を一生懸命やっているということは、実相をやっていることと同じことです。では、「実相とは何か?」というと、妙法ということです。皆、物事は妙法から出来ているのです。一生懸命やっていくと、妙法の正体がだんだんわかってくるのです。そして、自分自身の中に妙法が涌現(ゆげん)してくるのです。
 妙法が涌現した人は、立派な人になるから周りの人もみんな立派にしていくのです。人々が潤っていくのです。これが法華経の精神ということです。


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2019年02月18日

人間の探究 1218 天晴れぬれば地明らかなり

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※「天晴れぬれば地明かなり」とは、仏教が明らかになり、世法のことはみんなわかってくることです。それが本当の成仏です。

人間の探究 1218 天晴れぬれば地明らかなり

「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか。」(観心本尊抄)

 仏法を習うということは、「迷妄の闇を払って真実を表に出す」ということです。一般的に言うと我々は無明の産物です。何もわかりません。暗がりから生まれて、「自分が何者であって、何処へ行くのか?」ということは、誰もわからないのです。
 暗がりから生まれて、暗闇の中を這いずり回って、一生が終わるのです。無明から始まって無明に終わるのが人生です。仏教というものは何を説いたものなのでしょうか? 仏教とは、無明を明らかにしてくれるのです。こんな有難いことはありません。
 「お前達は自分が何だかわからないのだから、私が教えてあげましょう」というのが仏様です。これが仏様です。無明の闇を晴らして明るい人生に変えるのです。そうすれば天が晴れてくるのです。天が晴れてくれば、地がどうなっているのか明らかになってきます。
「どのような仏教が正しくて、どのような仏教が間違っているのか」ということを教えてくれる経典のことを法華経というのです。法華経を知らざる者は無明の人生を送っているのです。気の毒ですね。トンネルの中に生まれてきて、トンネルの中で生活して、何もわからず死んでいくのです。またそれを繰り返すのです。
 人間は無明・無明・無明と、繰り返していくのです。法性など出る幕はありません。無明の連続です。ということは、そこから生まれる判断は全て間違っているということです。無明ですから、それを正していくのです。すると「こんなに明るくなったな。俺の道が見えてきた。世の中は明るいのだな。死ぬという意味もわかったのだ」と、全てがわってくると、無明が晴れて法性に変わるのです。これが、法華経が教えてくれているところです。
 天地がハッキリと見えてくるということです。そのような目で見るから、全てわかってくるのです。仏教から始まり、社会を見て、歴史を見て、個人を見て、集団を見ると、そこから、言わずもがなと全貌が見えてくるのです。
 これをわかりやすい例で言うと、詐欺ばかり働いて、真実が何も無い人間がいたとしたら、そいつがどうなるのかは明らかです。この先どうなるのでしょうか? それは言わずもがなです。いうことは全てウソです。朝鮮人のような奴です。
 そんな奴は誰からも相手にされなくなってしまいます。ウソをついている奴は真実がわからなくなってしまうのです。ウソとはそのような作用があります。真実がわからなくなってしまうのです。ウソで真実を受けるから、何もわからなくなってしまうのです。
 人にウソをついているつもりが、自分に全てウソをついているということになって、何事もわかりません。政治のこともわからない、経済のこともわからない、仏教のこともわからない、芸術のこともわからない、何もわからないのです。それでまた暗闇に消えていくという運命になるのです。
それに対して法華経を信じて、日蓮大聖人様のお言葉を信じて一生懸命仏道に励んでいくならば、全てが明るくなってくるのです。
 「これはこうだったのか。よくわかったぞ」ということです。何故、日蓮大聖人様は、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言われたのでしょうか? 普通の人はわかりません。「人の宗教の悪口を言うな」くらいにしか思っていません。そうではないのです。念仏の説いている阿弥陀仏はこの世に実在しません。
 実在しないものを追い求めて行くとどうなるのでしょうか? 幻であるものを「本当にある」と思いこんで、どんどん進んでいくのです。何処まで行っても阿弥陀仏は幻だから極楽浄土には到着しないのです。気が付いてみると、最初は現実にいたのですが、阿弥陀仏を求めて架空の世界にどんどん入り込んでしまうのです。
 何処まで行って阿弥陀仏は出てきません。だから、「念仏は無間地獄である」と日蓮大聖人様は言われているのです。「ああそうか、仏教とは形而上の話ではないのだな。形而下の話なのだな」とわかればよいのです。
 「仏教とは形而下だ」と言っても、極楽浄土など存在しません。「極楽浄土が仮に存在するならば」と仮に説かれた教えが観無量寿経です。「仮に存在するとするならば」という角度から書かれているのです。
 念仏は、「存在するならば、こうなりますよ」という教えです。実際は存在しません。「法華経を説くまでの仮の教えですよ」とことわっているのです。それは、「このようなことをやれば功徳はあります。」と言うのです。実際は功徳などありません。
 法華経とどのような違いがあるのかというと、法華経は実存の法です。存在するものがなくならないのです。念仏のように架空の仏を造って、架空の場所へ行こうとする教えではありません。法華経は実存の教えです。
 実存の教えから見ると、架空の教えである念仏は地獄へ逝くのです。「念仏は無間地獄である」という答えがパッと出てくるのです。
或は、真言密教は詐欺です。手で印を結んだり、呪文を唱えたり、インドのわけのわからない仏を拝んだりしているのです。真言密教からは、何も得られません。そんなものに頼って加持祈祷などしていたら、日本は滅びてしまいます。
 個人も滅びてしまいます。「病気になったから、真言密教に頼んで呪文を唱えてもらいましょう」などと言って、「阿毘羅吽欠蘇婆訶(アビラウンケンソワカ)」などとやっていたら、病気が治るどころか死んでしまいます。これはダメなのです。真言密教の神はインドの神なのです。インド人がつくった教えですから、あれは日本の仏教ではありません。
 次に禅宗です。禅宗の教えはどのようになっているのでしょうか? 禅宗は「この世のことは嫌だから争いに巻き込まれないように座禅を組む」という教えです。座禅を何時間も組んで心を練り上げていくのです。
 面白い映画が昔ありました。禅宗の修行をして、「悟った!」と坊主が言うのです。すると侍が「お前は悟ったのか? これでもくらえ!」と片腕をスパッと斬りおとしてしまうのです。すると禅宗の坊主は「ギャアーーー!」と泣き叫んだのです。
 侍は「それが悟った姿なのか?」と言うのです。そんな悟りはウソなのです。自分で「悟った!」と思っても、世の中に対応していかなければいけません。
 日蓮大聖人様はそれらを総まとめにして、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言われたのです。それは、深い・深い意味があるのです。法華経だけが真実の教えを説いたものです。その法華経を修行することによって、仏教のみならず、あらゆることの判断ができてくるのです。「これは正しい、これは間違っている」と言えるのです。
 「皇族がキリスト教の学校へ行っている? これは間違っている」と言えるのです。何故、皇族がキリスト教の宣教師をつくる大学へ行くのでしょうか? これはおかしいと、みんなわかってくるのです。
 例えば、人生において一生懸命努力していかなければ貧乏になるのに決まっています。賢くなって、どんな商売をやってもよいのです。人々のお役に立つものが商売です。クリーング屋をやろうと、ラーメン屋をやろうと、蕎麦屋をやろうと、何だってよいのです。皆、必要に応じて商売をやっているのです。一生懸命商売をやれば、生きていけるようになります。
 それが「人をだまそう」ということばかりに興味があると、最期には自分がだまされて人生が終わっていくのです。法華経はそんなことをしなくてよいのです。真面目にやるのです。
 すると「国というものは、どのようなものか?」ということがわかってくるのです。「我が国の謂れはどのようなものか?」「これが我が国と他の国が違うところなのだな」ということが明確にわかって、「地明かなり」になってくるのです。
 「天晴れぬれば地明かなり」とは、仏教が明らかになり、世法のことはみんなわかってくることです。それが本当の成仏です。成仏とは、何でもわかるということです。「仏教とは何ですか?」ということが、全てわかってくるので執着がなくなるのです。わからないから執着するのです。
例えば眞子さま問題で言えば、プー小室は乞食です。それがプー小室の正体です。それがわからないから眞子さまは執着しているのです。乞食を好きになる奴がいるのでしょうか? 前代未聞のおかしな事件です。
 「地明かなり」とは、そのようなことです。「これは間違っている」「親子同士は仲良くしなければいけない」「馬鹿が威張っているのだな」と、みんなわかってしまうのです。「この人間がよい人間かどうか?」ということは、会えばすぐにわかってしまいます。「その人間が将来どうなるのか?」ということまでみんなわかってしまうのです。
 これが仏教を学ぶ一つの要諦です。その根底は「成仏する」ということです。成仏とは、「あらゆることがわかる」ということです。だから執着がなくなるのです。みんなわかれば、人にだまされることもなくなります。
 「何故、病気になるのか?」という、病気の原因もわかりました。みんなわかってしまうのです。そのようにして幸せになっていくのです。そのようなことができるのは、法華経以外にはありません。法華経について学んでいきましょう。

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2019年02月16日

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』念仏にみる宗教原理 11 絵系図とご聖水 

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※蓮如が布教を始めてから、福井県吉崎には多くの参拝者が集まり、それにより宿舎も増え吉崎の地はいつしか一大仏教都市にまで発展します。

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』
念仏にみる宗教原理 11 絵系図とご聖水 

蓮如は惣村の坊主も抑えたので、「親鸞上人の教えはそうだったのですか」と納得させたのです。蓮如は「第8代留主職である。親鸞上人の直系の子孫である」と言ったのです。それでみんな従ってきたのです。
この蓮如は布教に優れていたのです。頭もよかったのです。ところが布教するうちに蓮如自体が神になってしまったのです。それが有名な「蓮如上人のお通り」という話です。蓮如上人が行くと何百名の行列をつくり、蓮如は駕籠に乗っかっているのです。
すると民衆がひれ伏して「一つ、ご聖水がいただきたい」と言うのです。そうなってしまったのです。絵系図と同じことになってしまったのです。「ご聖水を頂けると、極楽へ行けるべか? 是非、蓮如上人様のご聖水をいただきたい」となってしまったのです。
蓮如の行列が行くと、蓮如が信者の家でお風呂に入ります。それを徳利に詰めて「お聖水」と言って信者に配ったのです。すると、「有難や。ご聖水を飲むと極楽浄土へ逝けるべ」と大喜びしたのです。もう「そうなってしまったのです。絵系図と同じになってしまったのです。
それで念仏は、大教団になっていったのです。蓮如は大名以上の力がついてしまったのです。魅力もあったのでしょう。
その頃はいろんな坊主が念仏を唱えだして、いい声を出して「♪なみあみだ〜ぶ、なむあみだ〜ぶ、・・」と変な節をつけて歌っていたのです。それが「御詠歌(ごえいか)」として今でも残っています。
色男の坊主だと、信者はそれにしびれて集まってしまったのです。要するに、自力で観想念仏をして念仏の世界に入っていけるのに、「念仏のお坊さんを通さないと極楽浄土へ逝けない」ということになっていったのです。
中世のキリスト教世界もヒドイのです。「この免罪符を買わないと罪は逃れられない」と言うのです。それどころではありません。キリスト教には、懺悔があります。「神父様、私は隣の旦那と寝てしまいました」と主婦が懺悔をすると神父は「そうだったのか、ではわしが調べてやる」と言って、スカートをまくりあげて性行為をやってしまったのです。
神父が「お前は、こんなに気持ちがよかったのか?」と聞くのです。もうそうなってしまうのです。神父は「わしに体を許せば天国に行くことは間違いない」と言うのです。キリスト教会には懺悔室があり、神父はそれを専門でやっていたのです。それで免罪符を信者に買わせたのです。
信者は「お前は異端信者だ!」と神父に言われたら、火あぶりと拷問です。たまったものではありません。宗教は庶民の抑圧の道具です。拷問、処刑、SEX、お金です。このようになってしまったのです。宗教は、恐ろしいものです。
結局、念仏もそのようになってしまったのです。蓮如は矛盾を指摘したのですが、自分も同じことになってしまったのです。絵系図が、ご聖水に変わっただけです。「ご聖水を飲めば極楽浄土へ逝ける」と言うので信者は「何とか一滴でもご聖水をもらいたい」となってしまったのです。ご聖水とは蓮如がお風呂に入っただけのただの水です。そんなものを信者は有難がったのです。
この流れが日蓮正宗大石寺のご秘符になったのです。大石寺は「御本尊を掃除した紙切れを刻んで飲むと万病が治る」と言ったのです。ご聖水と似ています。
蓮如は遂に偉大なる極楽への案内人となり、信者は無尽蔵に増えていったのです。これが一向一揆につながり、加賀一国を乗っ取ってしまったのです。国を念仏の信者で乗っ取り、前にいた大名は「蓮如さまにお任せする」と言って、逃げてしまったのです。そのくらいの力を得たのです。
それを見ていくとわかりますが、宗教というものは力を得る源泉です。宗教を説く者は、どうしても力を持ってしまうのです。すると信者は従っていくのです。
日蓮大聖人様は、「法に依つて人に依らざれ」(守護国家論)と言われています。「人に頼るな。法によるのだ。あの人を通して成仏するということはあり得ない」と言われているのです。仏教は法を説いているのですから、その法を守っていくならば成仏するのです。
「あの人に頼んで成仏するべ」などということはないのです。それがすり替わってしまうのです。今の創価学会もそうです。「自分では成仏できないから、人を頼って、幹部の言うことを聞いて、自動的にエスカレーターに乗って仏界へ行こう」などと馬鹿なことを考えているのです。
池田大作は「創価仏」ということを言いだしたのです。「実は創価学会が仏なのだ。学会活動をすることは、仏の道を極めることなのだ」と言い、創価仏法と言いだしたのです。創価仏法などどこにありません。出鱈目を言うものではありません。
創価学会は、もう日蓮大聖人様の仏教を離れて「創価仏法」というわけのわからないものになってしまったのです。今日はここまでです。


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2019年02月15日

人間の探究 1217 賛ずる者は福を積む

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※「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」鴨長明『方丈記』

人間の探究 1217 賛ずる者は福を積む

 「伝教大師の云く「讃する者は福を安明に積み謗ずる者は罪を無間に開く」等云云、安明とは須弥山の名なり、無間とは阿鼻の別名なり」(曾谷入道殿許御書)

 この御書は、「法華経は如何に功徳がある教えなのか」ということを教えられた御書です。法華経を誉めて「素晴らしい!」と感嘆する人は福運を無限に積んでいくことになるのです。日蓮大聖人様は、「我らは過去において悔し涙を流し、或は人に殺された血を流したことは、大海の水より多いのだ」と言われています。
 それはそうです。永遠の昔から、人間は「殺し・殺され」ということをずっとやってきているのです。泣いた涙は海の水よりも多いのです。流した血も海の水よりも多いのです。何故、そのようなことになるのかというと、法華経の反対に進んでいるからです。「法華経を信じなさい」と言っても、聞かないで「法華経など何になるのだ。今更、時代遅れだよ」と散々悪口を言ってきたのです。
 日蓮大聖人様を見ても、「何が法華経だ。見て見ろ、日蓮は島流しに遭ったりしているのではないか。何の功徳もありはしないよ。反対に地獄へ逝っているだろう」と、日蓮大聖人様を馬鹿にして、そのような言葉を吐いたのです。日蓮大聖人様を謗ずる言葉は全て自分に返ってくるのです。
 そして、謗じた者は無間地獄へ逝ってしまうのです。僕は、「この人間はどうなるのか?」ということがわかるのです。全て見えるのです。僕は「この人間はここで死んで、あとはこうなっていくのだな」とわかるのです。アブクのようなものです。わかりますか?
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」鴨長明『方丈記』に書いてあります。川の流れを見ているとアブクが「プカッ」と出てきます。するとすぐにポンとはじけてしまいます。するとまた向こうでプカッとアブクが出来ますが、またはじけてしまいます。
 川を見ているとアブクが浮かんではじけて、またすぐにアブクが出来てきます。それと同じです。「法華経を謗じた人間が、どうなるのかな?」と見ていると、アブクがはじけて消えて、次のアブクになるのです。次のアブクになって何処に流されるのかもわかりません。
川は流れています。運命に従っていくと、戦争の時代にプカッと生まれてくるのです。それが死んでも終わらないのです。また戦争の時代に生まれてきて、死んでもそれが終わらないのです。怖いでしょう。
 我々は大海よりも多い血を流して、大海よりも多い涙を流してきたのです。今後も同じです。過去がそうならば、未来もそうなのです。「未来はそんなことはないよ。法華経の教えはインチキだよ」と思う人は、そんなことを考えません。
 「俺は俺の手で幸せをつかみとってやる」「金をつかみとってやるぞ!」「出世してやるぞ!」と一生懸命頑張るのですが、どうなるのか僕には見えるのです。もうじきポッチャンと消えていくのです。次に何処に生まれるのかというと、またすぐに生まれてポッチャンと消えていくのです。アブクのように漂って流れては消えていくのです。
 法華経とは、そのようにならないようになるための教えです。日蓮大聖人様は、信者一人一人に「我日本の柱とならむ 我日本の大船とならむ 我日本の眼目とならむ」と言われたのです。これは法華経の教えです。目となり、柱となって、貴方を救っていくのは、この法華経です。法華経の原理をもって進むならば、大きな船に乗っかり、安心立命して次の生まで船で渡ることができるのです。アブクではありません。生死の川を法華経という大きな船で堂々と渡ることができるのです。
 水の上のアブクは自分がわからないから、プカプカプカと浮かんで、何処へ行くのかもわかりません。法華経のことを南無妙法蓮華経というのです。日蓮大聖人様と共に南無妙法蓮華経の大船に乗るならば、我々は黙っていてもそれさえ離さなければ「自然に仏界にいたるべし」(開目抄下)というのです。
 我々は南無妙法蓮華経の大船に乗るならば、自然に仏界に行ってしまうのです。自分の知恵や努力でそうするのではありません。「法華経は有難い。法華経の教えは凄い教えだ。南無妙法蓮華経は最高の教えだ」ということを固く信じて船に捕まっていれば、自然に仏界に登っていくのです。
 川から上がって船に必死で捕まっていたのが、船の上に乗っかり、ゴザを引いて宴会をやっているようなものです。船に乗った人は楽に生死の川を渡れるのです。船の下の川ではアブクが「ブク・ブク・ブク、・・・」と出来ているのです。それがわかるでしょう。法華経を知らない人はアブクなのです。そんな人ばかりなのです。みんなアブクです。法華経だけはアブクとは違います。わからないからみな馬鹿にしているのです。わかったら恐ろしくて寝られません。
全ての人に法華経を信じさせて成仏させようとされている日蓮大聖人様の御心をよくわかって進まないと人生は穴に落ちてしまいます。それは、今世だけではありません。来世もまた穴に落ちるのです。しかも、無明だから自分が何だかわからないのです。
犬や猫と同じです。犬に話しかけて御覧なさい。犬は自分が何だかわかりません。食べ物しかわかりません。食べ物をもっていけば犬はわかります。人間がいくら話しかけても犬はわかりません。犬は無明そのものですから、人間の言葉はわかりませんから犬は仏界が開けません。
 仏界が開けるのは人間の間だけです。人間の間だけ仏様の教えがわかって、「仏界というものがどのようなものか?」ということが聞けるのです。犬や猫になったら絶対に仏界はわかりません。
 そうなのです。犬や猫になってしまったら教えは入りません。仏がいて、そこで教えを説いていても、もし自分が犬や猫ならば、仏の教えは絶対にわかりません。「仏教がわかる」というのは、人間の間だけなのです。
 人間は「ああ仏様がいらっしゃる。これは正しい教えだから、教えを聞こう」と思うのです。また、思わない人もいます。それは人間の間だけなのです。「人間界に生まれた」ということは、仏界にも地獄界にも逝けるのです。
 ちょうどその分かれ目が人間です。人間になって仏法を聞いて「わかりました!」と信受していけるのか? 或は「いや、仏法などとんでもない。俺は無信仰だから、何をやってもいいのだよ。何をやっても俺の自由だ!」と考えて生きていると、それは地獄へ逝くのです。
 仏を目指して進む人は仏界に行くことができるのです。その選択ができるのは、わずかな人間界の間だけです。それで未来が決まってしまうのです。そのように思って仏道修行に励むのです。すると「なるほど、その通りだな」とわかってくるのです。
 「あいつは地獄へ逝くな」「あいつは、修羅界だから針の山へ行くのか」とみんな、わかってしまうのです。法華経を信仰していると、自然に見えてくるのです。自ら罰を与えて「コンチキショウ、お前を地獄へ送ってやる!」という考えは間違っているのです。自然に地獄へ逝ってしまうのです。
 仏様は「助けてあげるから、待ちなさい」と言っているのに、「いえ結構です。さようなら〜」と言って自ら水の中に溺れて埋没していくので、助けられないのです。助けられるのは、人間の間だけなのです。
我々のように仏教を固く信じることができたということは、来世も間違いありません。来世もまた法華経の教えに出合うことができるのです。必ず助け船が出てくるのです。そのような有難い法華経の悪口を言うのを止めましょう。

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2019年02月14日

人間の探究 1216 法華折伏破権門理(ほっけしゃくぶくはごんもんり)

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※法華折伏破権門理(ほっけしゃくぶくはごんもんり)とは、「法華は折伏にして権門(ごんもん)の理(り)を破(は)す」と読みます。

人間の探究 1216 法華折伏破権門理(ほっけしゃくぶくはごんもんり)

法華折伏破権門理(ほっけしゃくぶくはごんもんり)とは、天台大師が『法華玄義』で示された言葉です。「法華は折伏にして権門(ごんもん)の理(り)を破(は)す」と読みます。

 これは、「法華経は、布教しなさい」という教えです。禅宗は「余計なことをしなくてよい。黙って壁をにらんで座ればよい」と言うのです。念仏は、「阿弥陀仏にすがれば、西方極楽浄土に往生することができます」と言います。「阿弥陀仏の信仰はおかしい」という人がいても、坊主に面と向かって反論などできません。
 法華経は道理を説いた教えであるから、どこへ出しても恥ずかしくありませんが、法華経の教えは道理だけではありません。「仏は火にも焼けない、水に落ちても死なない」など、現実離れしたところもありますが、法華経は真実を説いた教えです。
 法華経で学んで、どうするのかというと、相手をやっつけてあげるのです。やっつけるということは、相手を苛めるということではなく、相手を本当の教えに導くために折伏をしてあげるのです。「貴方の教えは間違っています」「貴方がやっていることは仏教ではありません」「そんなものは、仏教の教えではありませんよ」と言ってあげて、正しい信仰を教えてあげることを折伏(しゃくぶく)といいます。
 すると「余計なことを言うんじゃないよ。俺は俺の信念で生きているのだ。人からグチャグチャと言われる筋合いはないよ!」と言う答えが返ってきます。学会オバチャンたちは、「余計なことを言わないでよ。私は私で生きているのだから悪口を言わないでよ!」そのように言うのです。
 みな自分の信念は曲げません。自分の考えも曲げません。これが一般の人の考え方です。だから折伏をするのです。末法の衆生は、仏様の教えを聞きません。「貴方の信仰は間違っている!」とハッキリ言わなければダメなのです。
 それから、摂受(しょうじゅ)という布教の方法があります。摂受とは、優しくなだめてゆっくりと時間をかけて「貴方の信仰している真言宗もいいですね。だけど、法華経もいいですよ」という感じで優しく言うことです。
 「禅宗、いいですね。座禅を組むのですか? 結構ですね。いい気持になるでしょう。それもいいですね。しかし、法華経はもっと違います。法華経もいいですよ」と優しく言うのを摂受といいます。
 折伏とは、相手の間違いをねじ伏せるのです。「貴方の宗教は間違っています。念仏はダメです。無間地獄へ逝きます」と言うのです。これが折伏です。「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」です。日蓮大聖人様の言われた四箇格言です。このように相手に教えていくのです。
 相手に教えていくためには、自分が四箇格言の意味をわからなければいけません。「何故、念仏は無間地獄へ逝くのか?」「何故、禅宗は天魔の業なのか?」「何故、真言宗は亡国の業なのか?」「何故、律宗は国賊なのか?」ということを知らないと、折伏はできません。
 その理由をちゃんとわかり、「信仰を止めなさい」と言うのです。それが折伏です。それを言うとみんなに嫌われます。普通の論理ではありませんから、みんなから嫌われるのですが、嫌われてもよいのです。
 そんなことを恐れていたら折伏はできません。「あっちにも、こっちにも良く思われよう」などと思っていたら、折伏などできません。一発「貴方の信仰は間違っている!」と言って、相手に嫌われてやるのです。
 どこで差がつくのでしょうか? それは、事実をもって差がついてしまうのです。僕は法華経を保ってから一度も退転などしたことはありません。そう思っています。誰とも仲良くしたことなどありません。「仲良くしてもらおう」など、何を言っているのでしょうか? 
最後は、法華経の法を保っている人が勝つのです。これは、どうしようもありません。相手になどしてもらわなくてよいのです。「僕は仏様に褒めてもらえばよいのだから、貴方に褒めてもらう必要などないよ」と思えばよいのです。
何故、今いる人達に「褒められよう」と考えて、弱気になっているのでしょうか? そんなことを思わなくてよいのです。「折伏をしていく」と決めればよいのです。
「私は日蓮大聖人様の弟子であるから、大聖人様の仏教を保っていきます。それ以外は一切認めません。貴方に認められなくてよいのです。結果が出て必ず勝負がつきます」と思えばよいのです。
本当に勝負がつくのです。僕の場合は、もう勝負がついてしまったのです。「私は法華経を信じています」と言っても、みんな見ているのです。「あいつがどうなっていくか見て見ろ」と見ているのです。「私のほうが立派だ」などと言われたらダメなのです。
「絶対に私のほうが立派だ」と思わせないといけません。そうなっていくのです。法華経を信受して信行学と修行していくと、「小娘だ」と思われていたのに、「いつの間にかどんどん違う人間になってきたな」と、世間は思うのです。気が付くと、もう追いつけません。法華経の信仰をした人は、遙か上を行っているのです。成仏とはそのように、境涯がどんどん上に行くことです。
創価学会のように「入会させる」ということとは違います。正理会は入会などしてもらう必要はありません。「貴方のためには、こうしなさい」と言っていけばよいのです。「私の指導に従えないのならば、いつでも離れていいのですよ」と言えばよいのです。
事実そうなのです。何もあてになどしていません。必ず真実というものはわかるのです。すると「仏の教えとは、南無妙法蓮華経なのだな」と本当にわかります。慈悲をもって根気強く教えていくことを折伏といいます。「
「仏法は摂受折伏時によるべし」(佐渡御書)と言いますが、末法は邪教が多いので折伏一本です。「貴方の信仰は間違っている!」ということを教えていかなければいけません。

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2019年02月13日

人間の探究 1215 鏡の徳

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※山に向かって鏡を差し出すと山が鏡に映ります。海を鏡に映すと海も鏡に映ってしまいます。月も鏡に映すと月が映ります。鏡はどんなものでも映ってしまうのです。

人間の探究 1215 鏡の徳

「惣じて鏡に付て重重の相伝之有り所詮鏡の能徳とは万像を浮ぶるを本とせり妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し」(御義口伝巻上)

 鏡の最大の長所は、あらゆるものを映します。山に向かって鏡を差し出すと山が鏡に映ります。海を鏡に映すと海も鏡に映ってしまいます。月も鏡に映すと月が映ります。鏡はどんなものでも映ってしまうのです。
 小さな物でも、大きな物でも、汚い物でも、キレイな物でも、どんな物でも鏡に映ってしまうのです。動物は鏡を見ません。鏡に自分の姿が映ると動物は「あそこに敵がいる」と思って「ウォー」と吼えるのです。
 このようなことは人間界にもあります。自分の姿を見ないのです。だからおかしなこと、変なことが平気でできるのです。それは鏡がもっている一番の良い点であり、徳なのです。妙法蓮華経は仏法でいう鏡と同じです。万物を全て妙法蓮華経の鏡に照らすと、どんなものでも映ってしまうのです。
 犬でも、虫でも、毒蛇でも、木でも、葉っぱでも、ライオンでも映ってしまうのです。妙法蓮華経という鏡で見ると、みんなわかってしまうのです。何故、あそこにライオンがいるのか? 普通は自然界に鏡はありませんから、自分の姿はわかりません。ライオンが鏡を見ても自分の姿だとはわかりません。
 妙法蓮華経を知っている人は、「ライオンはなりたくてなったのだな」とわかるのです。猿がいれば「猿になりたくてなったのだな」とわかります。これも一つの生命の法則です。生命は成りたいものになっているのです。
 「この人はなりたいようになって美人なのだな」「この人はブスになりたくて、なったのだな」とわかるのです。不思議でしょう。妙法蓮華経という鏡に照らすと全てが鏡に映ってしまうのです。だから法華経は大事なのです。
 仏教は最初、何が鏡になったのかというと、生老病死です。お釈迦様が説かれた四諦の法門とは、生老病死です。人間は生まれて年をとり、病気になって死ぬのです。これはいずれも苦しみです。お母さんのお腹の中から出てくるときに赤ん坊は「オギャー」と泣きます。これも苦しみです。
 生きていくことは様々なことが起こり大変です。それで病気になってしまいます。これも大変です。介護老人になるのも大変です。そして、死ぬのも大変です。死ぬのも苦しいのです。だから生きているのです。
 お釈迦様は生老病死を人生の中に見抜いたのです。「人生とは生老病死か」と悟ったのです。この場合も鏡なのです。生老病死で見ると、みんな見えてくるのです。「今、威張っているプロレスラーも、大富豪も、みんな生老病死なのだな。これを逃れる者は一人もいないのだな」とわかってくるのです。
 例えば、1万年生きる薬を発明したとしても、1万年先は死ぬのです。やはり、生老病死の四つの法則を進んでいかざるを得ません。これを四諦の法門といい、お釈迦様はこれを最初に説いたのです。そのように人生をわからせていこうとしたのです。
 この見方だと、「あそこに雄のライオンがいます。ライオンは若くて強そうです。ライオンは、今は強いのですがそのうち年を取り、ヨボヨボになり力がなくなって、衰えて死んでしまうのだな。ああそうか、ライオンも生老病死だな」とわかるのです。どんな美人でも生老病死と進むのです。そのように見ていくのです。すると人生が生老病死で見えてきます。
夜空の星を見れば、生老病死ではなくて、成住壊空です。天体は、生命ではありません。星に成る時があり、星が有る(住んでいる)時があり、そしてそれが壊れていく時、それが壊れて空(くう)なる状態があるのです。成住壊空といいます。
地球も月も太陽も成住壊空です。人間は生老病死です。生きているものは生老病死でどんなものも、この法則を外れることはありません。それをお釈迦様が説いたのです。これがわかれば、一応、仏教がわかったことになるのです。
この生老病死をお釈迦様は鏡として見たのです。「お前、見てごらん、この鏡を見れば生老病死と見えるだろう。この鏡に映っているお前が生老病死なのだよ」と言うのです。生老病死とは、法則です。
でも、中身が何もない法則です。生老病死とわかったからといっても、一応のけじめはつきます。けじめはつくけれども、中身がないのです。生老病死は、事実を現しているのですが、中身がないのです。では、どうしたらよいのでしょうか?
中身が妙法蓮華経なのです。生老病死となっていくのですが、「その中身は何ですか?」というと、それが妙法蓮華経なのです。妙法蓮華経はもっと進んで生老病死という単純なものではなくて、もっと深い意味があるのです。
妙法蓮華経を説くためにはお釈迦様は生老病死から始めなければならなかったのです。生老病死がわからない人に、妙法蓮華経と言っても全然わかりません。「妙法蓮華経は生老病死とは違うのか?」というと、同じものなのです。
生老病死という同じものをもっと深く説いたのが、妙法蓮華経です。生老病死の中身が妙法蓮華経です。その途中にあったものが天台大師の一心三観(いっしんさんかん)です。
一心三観とは、天台宗の観想法です。一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、それらは仮に現象していると観想する仮観(けがん)、この二つも一つであると観想する中観(ちゅうがん)を、同時に体得することです。円融三観ともいいます。
これも、中身を見ようとしたのです。「中身は何だろう?」と思って仮観・空観・中観と進んで天台大師も一生懸命中身を見ようとしたのですが、そこまでだったのです。それが一念三千です。一心三観とは、一念三千のことを表しているのです。
一心三観をもうちょっと詳しく説いたのが一念三千です。一念三千とは、人間の日常の一瞬一瞬の心の動きに、三千の数で表された宇宙の一切の姿が完全に備わっているということです。これは、天台宗の基本的な教説の一つです。天台大師の『摩訶止観』五ノ上に「此の三千は一念の心に在り,若(も)し心無くば已(や)みなん,介爾(けに)も心あらば即ち三千を具す」と書いてあります。三千の数は、十界が互いにそなわり合って百界となり,そのそれぞれが実相の十種(十如是)をそなえて千となり,さらにそれが衆生、国土、五陰の三世間にわたっているから三千となり,この三千で宇宙のいっさいの現象(諸法)を表現しているのです。天台大師の理解は、そこで終わってしまったのです。
日蓮大聖人様は、「なんだ、簡単なことではないか。もうすでに中身のことは、法華経に書いてあるではないか」と言われているのです。何と書いてあるのでしょうか? それは、「妙法蓮華経」と書いてあるのです。
天台大師が一心三観や一念三千を説いて、こねくりまわしてその中身を教えようとしたのですが、たいしたことはありません。それは法華経に「妙法蓮華経」と書いてあるのです。
「ああそうか、仏教はそのことを説いたものだな」とわかるのです。ということは、貴方は貴方の人生を歩んでいるのです。自分で望んだ人生を歩んでいるのです。馬鹿も、利口も、美人も、ブスも、怪獣も、恐竜も生老病死の中にある、妙法蓮華経によってつくりあげているのです。
これが日蓮大聖人様の仏法です。それで一歩進んでしまったのです。中身とは、妙法蓮華経のことなのです。もっとそれを深く言うと、南無妙法蓮華経のことなのです。このほうがわかりやすいのです。
無明の一念心を開いてみれば、妙法蓮華経です。それがわかってくると中身がきちんと見えてくるのです。「ああそうか、生命は、なりたいようにしてなり、山は山になりたくて山になり、海は海になりたくて海になったのだな」と鏡が見えてくるのです。
生命は自分がなりたいものになっていくのですが、中身は妙法ということです。「妙法はどのようにして出てくるのか?」ということが、蓮華の法です。それを貫いていくことが経ということです。南無妙法蓮華経とは、そのような法則でした。

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2019年02月12日

人間の探究 1214 魔競(まきそ)はずば正法と知るべからず

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※敦煌の莫高窟には5万点以上の経典が入っていたのです。どんな経典かわからないのです。これを翻訳すれば、もっと経典が出てきます。

人間の探究 1214 魔競(まきそ)はずば正法と知るべからず

「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。」(兄弟抄)

 「此の法門を申すには必ず魔出来すべし」

 此の法門とは、法華経ということです。法華経とは、正法です。これを言われるとみな頭が痛いのです。「念仏など信じていると地獄へ逝くよ」「余計なことを言うな、俺は念仏しか信じられないのだよ」と言います。
 或は「お前、座禅などしても悟りを得ることはできない」と言うと「仏と同じ格好をして初めて仏になることができる。従って経巻はいらない。」と禅宗は言うのです。「経巻は月を指す指だ」と言うのです。
 そんなものをいくら拝んでもダメなのです。月を指している経巻を拝むのではなくて、黙って座るのです。そして、「お釈迦様がやられた座禅を組むことが仏になっていく道なのだから、経巻はむしろ邪魔なのだ。禅宗は経巻は一つもいらず」と言うのです。まさに魔です。
 真言密教はくだらないインドの神を沢山もってきて、それを拝んでいるのです。様々な秘密の行法をつくっているのです。求聞持聡明法・月輪観瞑想法・日輪観瞑想法などをつくって人々をたぶらかすのです。「秘法によりそのような力が身に着きます」と言うのです。誰もそんな力がついたためしはありません。いくらやってもダメなのです。
 そのようなことを言うのです。法華経でないと成仏はできません。法華経のことを正法というのです。正しい法なのです。正しい法をもって、経巻を学び、行も行い、学も実践していくのです。
 この信・行・学が整って初めて成仏するのです。禅宗のように「経巻はいらない」というのでは、成仏できません。経巻は8万4千巻とも、8万6千巻とも言われています。この中に莫高窟から出てきた経典は入っていません。敦煌の莫高窟には5万点以上の経典が入っていたのです。どんな経典かわからないのです。これを翻訳すれば、もっと経典が出てきます。
 では、「莫高窟の経典で終わりなのか?」というと違います。まだあるのです。まだどこかの洞窟で経典が見つかると何千巻と増えてしまうのです。「何故、そんな多くの経典が出来たのか?」ということを考えてみなければいけません。
 それに疑問をもったのが日蓮大聖人様です。その前には天台大師が疑問をもったのです。「この経典を整理しないといけない。こちらの経典とあちらの経典は違うことが書いてある。何が大事なのか?」ということがわかりません。
 ある経典には「法華経が大事だ」と書いてあります。ある経典には「涅槃行が大事だ」と書いてあります。或は「小乗教が正しい」と書いてあったり、わけがわかりません。仏教を学ぼうと思った瞬間に8万6千巻も経典があると、わけがわからなくなってしまうのです。仕方ないから、自分の身近な仏教、例えば先祖の宗教である念仏を信じてしまうことになるのです。
経典で説かれている内容は全て違います。それをまともに考えて、「何故、経典はこんなに多いのか? 真実は一つだろう」と天台大師も考えられたのです。経典を整理して一つにしなければなりません。「何故、このような経巻を説かれたのか?」ということが、全てわかったのが、天台大師と日蓮大聖人様です。
 「何が故に正法なのか?」ということがわかったのです。これが天台大師の『摩訶止観』『法華文句』『法華玄義』にしてもそうです。日蓮大聖人様の教えは四箇格言です。仏教が全てわかったのです。「仏教とは、法華経のことを言うのだ」とわかったのです。
 何故、そのように言われるのかというと、道理が通っているからです。きちんと道理は通っています。だから「法華経を学ぶ」ということは、物事の道理がわかるということです。
 「何処まで行けば悟りなのか?」という筋道もあり、「悟りとは何か?」ということも書いてあるし、全て書いてあるからそれ以外のものは邪教だとわかります。法華経を修行するということは、頭がよくなるのです。
 頭が混乱しているから何が何だかわからないのです。混乱した頭をだんだん正しくしていくのが正法です。法華経は正法だということです。そこまでみんな到達していないのです。創価学会も日蓮正宗も身延山久遠寺も顕正会も立正佼成会も、そんな考え方をしていません。仏教が何だかわからないのです。
 創価学会は、「日蓮大聖人様が世界平和だと言った。仏教は世界を平和にするための教えだ」といいます。こんな話はウソです。平和だから仏法が広まるのです。戦乱で逃げ回って弾が飛んできたら、仏教などやっていられません。創価学会の言うことはウソだとわかるのです。
 平和だから仏教が広まるのです。「仏教が広まれば世界が平和になる」などあり得ません。ウソなのです。だから創価学会のように「仏教は世界平和をつくるためのものであり、我々は世界60か国にも布教している。だから正しいのだ」と学会オバチャンたちは言います。何を馬鹿なことを言っているのでしょうか?
 暴動の起きているベネズエラや中東で仏教が広まるのでしょうか? 国が不安定で仏教など広まるわけがありません。「仏教が平和をつくる」というのは、ウソだとわかります。平和だから、仏教が広まるのです。創価学会のように頭が狂っていると、そのようなこともわからなくなってしまうのです。
 わからなくなるから、最終的には「国際平和だ!インターナショナルだ!」と言いだすのです。終いには、「創価学会インターナショナル、これがやりたいために私たちは学会をやっているのよ!」と言いだすのです。そんなことはウソです。
 創価学会のようにみな仏教がわからないのです。仏教は何のために説いたのでしょうか? 仏教が説きたいのは、そんなことではありません。その有難い仏教を広めるためには、世界は平和でなければなりません。
 平和をつくるのではなく、平和でなければ仏教は広まらないのです。明日、食べる米もないような社会不安をつくっておいて、道端で自殺者が相次いでいる時に、仏教は広がりません。仏教は平和だから広まるのです。
 その平和をつくりだす能力は別の能力です。仏教とは違うものです。「みんな、お題を唱えなさいよ」というだけで平和がつくりだせるわけがありません。平和をつくるのは、やはり帝王学です。「人間とはどのようなものか? どのように人間を抑えていかなければいけないのか?」という帝王学がないとダメなのです。この帝王学は、歴史と伝統がある国にしかありません。西洋に生まれた帝王学もありますが、そんなものは全然役に立っていません。西洋はマキャベリ、シナの始皇帝は韓非子です。そんなもので国は、治まりません。
 やはり実践の帝王学をもっているのは、神社と天皇です。経典ではありません。天皇の原理で世の中を動かしていかないと世の中は平和にはならないのです。
 仏教もそうです。正しく仏教を広めていこうと思うと、邪教どもが騒ぐのです。すると「人と仲良くしなければいけない」と言うのです。僕もよく言われます。学会オバチャンは、「人の悪口は言わないほうがいいわよ。池田先生の悪口は言わないほうがいいわよ。学会員の悪口は言わないほうがいいわよ」と生意気にも僕に向かって言うのです。
 学会員は狂っているのですから、僕はいくらでも言ってあげます。それは、魔が出てくるという証拠です。「あいつは生意気だ」と昔ならば石を投げられたのです。僕の言っていることは、「全ての仏教はインチキだ」と言っているのです。石を投げられても仕方ありません。そんなことは覚悟して言っているのです。
 世間の評判を恐れれば、何もできません。一般世間の人は、「このようなことを言ったら嫌われる」とビクビクしているのです。みんなそうです。僕の知っているY君は本当に臆病者です。「悪口を言ったら相手にされなくなりますよ」と言うのです。馬鹿に相手にされなくていいのです。馬鹿が相手にしなければ、こちらが利口ということですから相手にされなくても構いません。何を恐れているのでしょうか? 
 何故、そんなに仲良くしてもらいたいのでしょうか? 「貴方とは遊ばない」と言われたら、遊ばなければよいのです。「遊んでもらおう」と思うから苛められるのです。子供も苛められたらそこに行かなければよいのです。
 ところがどういうわけだか苛められた子供は苛める連中のところへ行きたがるのです。I君などそうです。来れば崖から突き落とされて、指はねじられるし、「暇だな。Iをやろうぜ!」とI君に襲い掛かってボカボカと殴り、灰は目に入れらるし、口の中にも入れられて「助けてくれ!」と障子によりかかるので、障子がみんな壊れてしまうのです。
 いじめを受けてもI君はまた「遊んでくれ」と来るのです。だから苛められるのです。それと同じことです。「お前とは遊ばない。お前は悪人だろう」と言っていればよいのです。その考えが尊いのです。そこまでの信心に到達していかないと、日蓮大聖人様の仏教は成し遂げられません。
 「みんなに悪口を言われないように、遊んでもらいたい」などと世間に阿て何を馬鹿なことを言っているのでしょうか? 僕は「お前達は間違っているのだよ」と言っているのです。それは相手にされません。そのような強い心を持たないと法華経の信仰はできません。そうでないと魔に信仰を破られてしまいます。
 魔は常に自分の仲間を減らさないようにするのです。暴力団でもそうです。「お前は辞めるのか? では、指を詰めろ」と言われます。関東連合ならば「辞めることは許さんぞ」と言われて滅茶苦茶なリンチを受けるのです。
 この世間は第六天の魔王の所領地だから、そんな連中しかないのです。何処を見ても政治家を見ても、悪い連中ばかりです。そんなものを見たら堂々と「お前は狂っているのだ。それは正しい道ではない」と説いていくことが法華経の信者になる道であり、それのみが仏になっていく道です。勇気がなければ仏になることはできません。

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2019年02月11日

人間の探究 1213 法華経を持ち奉る処を当詣道場(とうけいどうじょう)と云うなり

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※大石寺には紫宸殿御本尊があり、それは天皇陛下に差し上げる御本尊だったのです。それはちゃんと用意してあったのです。それを大石寺はウソを言ったのです。「紫宸殿御本尊などありません。あれは師匠と弟子の御本尊だ」と言いだしたのです。

人間の探究 1213 法華経を持ち奉る処を当詣道場(とうけいどうじょう)と云うなり

「法華経を持ち奉る処を当詣道場(とうけいどうじょう)と云うなり此を去つて彼に行くには非ざるなり」(御義口伝巻下)

 「法華経を保つためには、法華経の本堂の道場をつくる」とみな考えています。それを「本門寺」といいます。池上本門寺、西山本門寺、北山本門寺と言い、みんな「本門寺」といいます。
 「御本尊が安置してあり、そこで修行して仏になる」というのが、「本門寺」です。池上本門寺もそうなのです。法華経を保つ本門を大事にする所を当詣道場(とうけいどうじょう)といいます。まさにお参りに行く所です。
 そこをめぐって日蓮正宗大石寺にお参りに行くのか、身延山久遠寺にお参りに行くのか、池上本門寺に行くのか、大本山誕生寺に行くのか、様々です。みんな本門寺なのです。その本門寺についての考え方が日蓮正宗は極端です。
 日蓮正宗は、「日蓮正宗大石寺に来て、御本尊を拝むことが、当詣道場だ」と言うのです。当詣道場とは、「当(まさ)に詣(まいる)べき道場」ということです。
 日蓮大聖人様は、『御義口伝』の中で、「違うでしょう」と言っているのです。「本堂を造って法華経の修行をするのだ」と言って、今いる所を去って、本堂に行った時だけ仏道修行をしても意味がありません。
 今当に、貴方のいる所が本門寺です。法華経を保って、信心をもっているならば、貴方のいる所が当に当詣道場です。何処かへ行くことではありません。我々は仕事をしながら、仕事場を当詣道場と心得て仕事をしていくのです。これが仏道修行になるのです。
 何をやっていてもよいのです。スポーツをやっていたり、仕事を通したり、ボランティアを真剣にやりながら、人々の幸せを考えて心の中では「南無妙法蓮華経」と唱えて仕事を成就していくならば、それがまさに当詣道場です。
「本門寺に行かないと修行できない」などということではありません。日蓮大聖人様は、ハッキリと言われています。身延山久遠寺も、日蓮正宗大石寺も間違っているのです。「ここに来なければ、修行はできない」など、そんなことはありません。
貴方がいるところが法華経の道場です。そのように心得て修行していくことが大事です。今度は、天皇陛下の詔勅が下り、「我が日本国は、法華経をもって日本国の国教とする」というご命令を出したとします。
国家がお金を出して法華経の道場を造ります。そうでない道場は、本門の道場であるはずがありません。天皇陛下の御命令があり、「日本国の国教は法華経です」と命令があり、法華経の本門の道場を造り、それが初めて当詣道場になるのです。
それは、日蓮大聖人様が言われている『三大秘法抄』です。三大秘法とは、日蓮大聖人様が説いた末法の人々を救う根本の教えです。三大秘法とは、本門の戒壇・本門の本尊・本門の題目です。
我々はそのようなことを心得ていかなければいけません。ただ、個人的な信仰だけの問題ではありません。天皇陛下の詔勅が下り、国の法華経の道場ができるまでは、日本の何処にも当詣道場などありません。
それが自然にある時に、仏意仏勅(ぶついぶっちょく)が下った時です。天皇陛下は一度たりとて「法華経を国教にする」と言われたことはありません。
天皇陛下が「我が日本国は法華経だ」と言ったことなどありません。天皇がもっている仏教は、念仏であり、真言密教であり、一部禅宗であり、律宗でもあります。そんなものを仏法だと思って大事にしているのです。だから天皇に力が出てきません。天皇は法華経によって命を増すのです。
天皇が法華経の修行をしないでキリスト教のような邪教の修行をしていれば、本来の力が出ないのです。それがわからないから秋篠宮さまは、娘をICUに入れたりしているのです。
ICUは牧師や神父を養成する学校です。そんなところに皇室の皇女を入学させて何をやっているのでしょうか? 天皇は日本神道一本でよいのです。天皇の法があるのです。天皇が保つ仏教は、法華経です。
そのためにご用意された紫宸殿御本尊があるのです。「天皇にはこの御本尊をもってもらう」ということです。日蓮大聖人様が四箇格言で言われている謗法を全て止めてもらうのです。「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という邪教を全て天皇に止めてもらうのです。するともの凄い力が湧いてくるのです。
天皇の命令で勅使が勅使門を通る日が来なければいけません。大石寺には勅使門があったのです。広宣流布の暁には、天皇からの勅使が来て、その勅使門を通るのです。勅使が「本門の国立戒壇をつくりたい」と猊下に伝えます。それで国立の法華経の当詣道場を造るのです。
勅使門のことを「黒門」と言ったのです。それを調子に乗って「勅使門をくぐるのは俺だ」と池田大作が言いだしたのです。池田大作は「俺は日蓮正宗の総講頭だ。自分は偉い! 当然それは天皇の勅使門ではなくて、法華経の総講頭の自分が通るのだ!」とそんな狂ったことを言いだしたのです。
大石寺には紫宸殿御本尊があり、それは天皇陛下に差し上げる御本尊だったのです。それはちゃんと用意してあったのです。それを大石寺はウソを言ったのです。「紫宸殿御本尊などありません。あれは師匠と弟子の御本尊だ」と言いだしたのです。
紫宸殿とは天皇のことです。天皇に差し上げる本尊です。それを「無い」と言って、ウソをついたのです。創価学会と大石寺は両方でウソをつき合ってしまったのです。だから大石寺は、ガタガタになってしまったのです。勅使門をどうして朝鮮人の池田大作がくぐるのでしょうか? 池田大作に勅使など務まるわけがありません。
そのような増長慢が出てくるから、創価学会も大石寺も増長慢によって滅びてしまうのです。創価学会などもう滅びています。お金はあるかもしれませんが、精神的にはもう滅びています。創価学会にはもう何もありません。
顕正会は、まだ「国立戒壇」と言っているから、まだそのような気持ちはあるのです。しかし、奴らは個人の成仏の問題点は言っていません。ともかく「国立戒壇を建てなければならない」それだけ言っているのです。
「個人の当詣道場は何処ですか?」と言うと、今、貴方がいる所です。国立戒壇がまだ出来ていないのですから、今、貴方がいるところが誰でもみんな当詣道場です。そのような修行です。このような御書の文句を出鱈目に解釈してはいけません。御書は真実を語っているのですから、自分勝手な解釈をすると全て破壊されます。

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2019年02月09日

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』念仏にみる宗教原理 11 蓮如の布教方法 

699
※惣村(そうそん)の仕組み

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』
念仏にみる宗教原理 11 蓮如の布教方法 

 第8代留主職(るすしき)蓮如は、惣村(そうそん)の乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)・坊主を相手に「貴方がたが拝んでいる阿弥陀仏は親鸞聖人の教えとは違う」ということを、コツコツと書いたのです。それを毎日・毎日書いたのです。
 セールスポイントとしては、よいところを抑えています。一番力のある村長である乙名(おとな)、沙汰人(さたにん)、坊主のインテリ階級の3人を抑えたのです。そこに手紙を送ったので、モロに効いてしまったのです。
 すると一人一人を折伏するよりは、村の有力者3人を抑えてしまえば、村ごと手中に納めることができたのです。念仏宗は蓮如一人がつくったわけではありません。法然が最初に阿弥陀仏を教えたのです。法然の弟子の親鸞が念仏を広めたのです。
 有名な親鸞の教えは「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」です。善人は黙っていても成仏するのです。しかし、阿弥陀仏の教えは「悪人こそ救ってくれる」と言うのですから、「悪人こそ救われる」と解釈したのです。親鸞の代表作は『歎異抄』ですが、自分で書いたのではありません。『歎異抄』の作者は、親鸞に師事した唯円とされています。
蓮如は「親鸞聖人の教えと違う」と手紙を全国に送ったのです。何故かというと佛光寺が出てきたのです。「お前の名前を書くと極楽浄土へ逝けるぞ。背き了(おわん)ぬと書けば地獄へ逝くのだ」と坊主が言うのです。
それを言われた信者は「助けてください。私は字が書けません。私の名前も書いてくんろ」と言うので、「そうか、顔の絵でもいいよ、絵も描いてあげよう」と書いてお金を集めたので、佛光寺が流行ったのです。
何故、佛光寺が流行ったのかというと、安易だからです。お金を払えば極楽往生の切符をもらうのですから、安易です。切符を買えば黙っていても極楽に着いてしまうのですから、わかりやすい話です。
これはキリスト教の免罪符と同じです。「神のお許しの免罪符を買うことによって罪が許されます。そして貴方は天国に生まれるのです」と言うのですから、わかりやすい話です。ここに実は問題点があるのです。
極楽浄土を思い浮かべてお念仏を唱えたのが最初です。観想念仏といいます。「極楽浄土があると思いなさい」と言うのです。これは現代で言う催眠のイメージ法にあたります。「地獄があると思いなさい」「阿弥陀仏の極楽浄土があると思いなさい」と観念するのです。
そして、修行を進めていくならば、いつの日か極楽浄土が出てくるのです。そのような修行方法です。これはバーチャルリアリティーを現しています。この現実はバーチャルリアリティー(仮想現実)ですから、実体があるものではありません。だから、「貴方は頭の中で阿弥陀仏を描いて、極楽を描いていくのです。それが本当の修行です」。このようなことを言ったのです。
だから、「お金を払って絵を描いてもらったら往生する」など、そんなことは全くありません。蓮如が言ったことが道理です。蓮如の手紙を読んで、「わかりました」と信者がどんどん増えていったのです。村の中の中心者3人つかめば村全体が信者になるのです。蓮如は村ごと抑えたのです。(△紡海)



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2019年02月08日

人間の探究 1212 大地は色法なり、虚空は心法なり

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※三島由紀夫は軍刀を吊って自衛隊の正門を堂々と歩いて行ったのです。真っ直ぐに行くのです。その結果がどうなろうと構いません。

人間の探究 1212 大地は色法なり、虚空は心法なり

 「大地は色法なり虚空(こくう)は心法なり色心不二と心得可きなり」(御義口伝巻上)

 仏法の極意は色心不二です。創価学会ではヘンテコリンなことを教えています。「色心不二とは、精神身体医学だ」というようなことを言っています。精神が肉体に及んで病気になる場合もあります。そのような教え方をしています。そうではありません。
 「大地は色法なり」と日蓮大聖人様は『御義口伝』で言われています。大地とは現実的につかめるものです。形があるものです。木があって山があって海があって、これはつかめるのです。色法とはつかめるものなのです。
 目に見えるもの、形があるものです。人間が感じる山・海・動物・魚などは全て色法です。形があるものなのです。色という字を使うところが面白いのです。色はルーパといいます。みんな色がついています。形あるものには色があります。それが色法です。
 色法が集まって大地をつくっているのですが、大地は何から出来ているのかというと虚空から出来ているのです。これが妙なところです。人間がどのように物を見ていても、実体ではありません。
例えば、ここにコップがあります。「コップとは何ですか?」と見ていくと分子であり、原子であり、中間子であり、素粒子であります。素粒子の段階まで下げて見て行くと、何もないのです。
 世界は素粒子が一固まりになっているのです。こちらにも一固まり、あちらにも一固まりあり、雲のように浮かんでいるのです。素粒子の世界から見るとそのように見えるのです。人間の世界から見るとコップに見えるのです。
 すると大地というものがあって、これは色法なのですが、それは何から出来ているのかというと、虚空から出来ているのです。虚空とは形がないものです。空(くう)には形がありません。空(くう)というところを虚空と言っているのです。
 何もない所が濃くなって、大地が出来ているのです。大地をどんどん分解していくと虚空になってしまうのです。虚空のことを「精神」と言っているのです。出来たものを「物質」と言っているのです。山、海、石、川など、みな物質です。
 何から出来ているのかというと、虚空から出来ているのです。そのような目で見ると精神と肉体は区別がつかないのです。人間は区別がついて、「俺は精神は強いけれども、肉体は弱い」と言うのです。「俺の体は頑丈だぞ」と言ったりして、心と体は別だと思っているのですが、心と体は別ではありません。
「人間が死んだらどうなるのか?」というと、死んだら虚空になってしまうのです。虚空になるだけで、何も失ったものはないのです。肉体が無くなるから、精神になってしまうのです。
 「死ぬ」ということは、体が無くなってしまうのです。体が無くなるけれども、精神は残っているのです。元は同じものです。同じものがずっと続いて見ているのです。よく「ご先祖様が空から見ているぞ」と言いますが、そのような意味です。
 「ご先祖様は死んでしまった」と思っているでしょう。本当は死んでなどいません。生きている人間から見ると死んだ人は見えませんが、死んだ人から見ると精神の世界から生きている人間を見ているのです。人間は体をもっているから物質の世界から精神を見ているのです。死んだ人は精神の世界から生きている人を見ているのです。何も変わりません。これを「不増不減(ふぞうふげん)」と言います。増えもしないけれども、減りもしません。人間が死んでも何も変わりません。
 僕が死んでも何処かに残っていて、ちゃんと見ているのです。体が死んでも精神はちゃんと残っているのです。死んだら肉体はもうないけれども、肉体はいらないのです。精神がちゃんと残っているのです。
 三島由紀夫もそうです。何が残っているのかというと精神が残っているのです。三島由紀夫がやろうとしたこと、警鐘を鳴らしたこと、そっくりそのまま残っているのです。同じ働きをしているのです。
 それを知っていると吉田松陰のようになるのです。肉体などどうでもよいのです。吉田松陰は真っ直ぐに行くのです。曲がらないで、真っ直ぐに行くのです。肉体は真っ直ぐ進めないけれども精神は真っ直ぐに行ってしまうのです。
 その精神が真っ直ぐ進むと、様々な障害が出てきて「お前は真っ直ぐ生かせないぞ!」という邪魔が出てくるのです。吉田松陰は「助けてくれ」など、言いません。邪魔されようが、障害があろうが、真っ直ぐ進むのです。その結果が死刑であろうと、一切おかまいなしです。
 吉田松陰の存在自体が肉体を超えてしまっているのです。豚箱に入れられて「明日、死刑です」と言われても「わかりました。では、よろしくお願いします」という感じです。普通は首きり役人が首を抑えつけて嫌がる罪人の首を刎ねるのですが、吉田松陰は全然違います。
 吉田松陰は精神に生きているのです。「肉体などどうでもよい」ということです。精神があるのですから精神がなくなることはないのです。肉体は無くなっても精神がなくなることはないのです。
 もともと肉体は精神をもってつくったものですから、精神のほうが上なのです。これが本当の色心不二という考え方です。精神をもって肉体が出来ているのですから、肉体などどうでもよいのです。着物を一枚脱ぐような感覚です。人間も暑いと着物を脱ぎますが、別に何もなくなりません。
 肉体も同じです。着物を全て脱いでしまっても、肉体(魂)は消えません。何も恐れることはありません。三島由紀夫もそうです。決めたら真っ直ぐ行くのです。薩摩の示現流(じげんりゅう)もそうです。まず、人にやられた場合は家に帰って鉢巻をして得物をもって「野郎、やりやがったな!」などとやっていたらダメなのです。
 やられたらその場で行くのです。殴られて面目を潰されたらその場で、「やりやがったな!」と攻撃するのです。後先のことは考えなくてよいのです。「こいつを殺したら自分が刑務所へ行く」など、そんなことを考えたら人間は行動できません。
 先の先の先を考えたら行動などできませんから、示現流は先の事は考えません。真っ直ぐ行くのです。三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乱入した時も軍刀を吊っていったのです。普通は、軍刀など吊って歩けません。
 守衛に呼び止められて「三島先生お腰のものは何ですか?」と聞かれたのです。すると三島由紀夫は「これは指揮刀です」と答えたのです。もう気迫が違うから、守衛も何も言えなかったのです。
 三島由紀夫は軍刀を吊って自衛隊の正門を堂々と歩いて行ったのです。真っ直ぐに行くのです。その結果がどうなろうと構いません。三島由紀夫はバルコニーで、「憲法改正に命を懸けて死ぬ者はいないのか。諸君は武士であろう? この憲法は諸君たちを否定しているのだ。否定している憲法に命を懸けて守るというのはおかしいだろう。私と今すぐ立ち上がろうではないか!」と演説したのです。
すると自衛隊員は「バカヤロウ、文士引っ込め。格好をつけるんじゃないよ!」とヤジを飛ばしたのです。
 三島由紀夫は、「わかった、諸君の精神はそうなのだな。そこまで言うならばわかった。俺は切腹する」と言って、「エイ、ヤー!」と切腹したのです。三島由紀夫は真っ直ぐ行くのです。
 これを陽明学といいます。陽明学でもあるし、薩摩の示現流の考え方です。後先考えません。真っ直ぐ進むのです。だから普通の人は怖がるのです。「薩摩隼人は怖い」と言われたのはこのためです。普通は先のことを考えます。パッパッと反応して、その結果、薩摩藩は何人も切腹しています。
 薩摩藩は生麦事件、英国大使館焼き討ち事件など起こしたのです。みんな切腹しています。有馬新七という薩摩藩士がいました。薩摩藩士同士の争いがあり、片や殿の命令で「反乱分子をやっつけろ!」と命令するのです。
 すると有馬新七は敵に抱き着いて「オイゴト刺セ、オイゴト刺セ」(俺ごと刺せ)として最期を遂げたのです。同じ薩摩人が、後ろから刺したのです。そのような連中が一番、恐れられるのです。陽明学の根本の思想です。色心不二は精神の存在を物語っているのです。

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