2021年04月23日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 64

934
※究極の教えは菩薩道の上にある仏界です。それを学ばせるために菩薩道を進めてきたのです。他のものになるために菩薩道を進めてきたわけではありません。「では、なぜ声聞・縁覚・菩薩と進むのですか?」という質問が出てきます。それは、声聞・縁覚・菩薩と進んだほうが貴方にはわかるからです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 64

「諸仏の本誓願は 我が所行の仏道を」(続き)
「諸仏の本当の願いは、我が修行した所の仏道を衆生に与えたい」ということです。
煩悩即菩提、生死即涅槃です。全てそうなのです。「無量義は一法より生じる」です。入り口も悟りも同じ所なのです。だから、みんなが成仏するのです。それを衆生は知らないのです。
この世界には無量の数の衆生がいます。仏は何を教えたいのかというと、「お前の入った入り口が最終結論だよ」ということを教えたいのです。
そこで、道がハッキリと見えてきて、安心立命の境地になるのです。「このトンネルは昔からあった道ですね」とわかってくるのです。そうです。今もあるのです。それがわかってくるのです。仏教の入り口は、最終結論と同時です。
それは、九界即仏界です。仏界とは、一仏乗です。九界は諸法です。諸法実相です。煩悩即菩提です。人生は悩みだらけですから、煩悩だらけです。「煩悩は嫌だ。煩悩が無いところへ行きたい」と思って、這いずり回って仏道修行をしていくと、向こうに光が見えてくるのです。すると「あれ、これはもと来た道だ」とわかるのです。そうなのです。貴方は、煩悩があるから信仰ができたのです。それが貴方の最終結論です。煩悩は即菩提です。
 「普(あまね)く衆生をして 亦(また)同じく此の道(どう)を得せしめんと欲す」
 仏はあまねく衆生を化導して、また同じくこの仏道を得せしめんと欲っしているのです。
 「未来世の諸仏 百千億」
 未来世の諸仏は、百千億人です。凄い数です。永遠の生命だからそうなるのです。
 「無数の諸の法門を説きたもうと雖(いえど)も 其れ実には一乗の為なり」
 無数の諸々の法門を説きたまうといえども、それは実は一乗の為なのです。
 「諸仏両足尊(りょうぞくそん) 法は常に無性(むしょう)なり」
 百千億人も仏になる人がいて、未来世においても、仏法を説くけれども、この無数の諸仏は何を説くのかというと、一仏乗の法を説くのです。一仏乗が法華経です。声聞・縁覚・菩薩の法を説くのが三乗の法です。本当の一仏乗を説いたのは、法華経だけです。法華経のみが一仏乗というのです。
「二なく三なし」です。どの宗教団体も「仏に成れる」と言うのですが、本当は菩薩道を説いているのです。或は、「お前は勉強して日本一偉くなりなさい」と言われて頑張るのは、声聞の法です。
菩薩道は多くの人を救うのです。多くの仏教指導者は、「菩薩道をやるのが仏道だ」と言うのです。そのようなことを習っている人は、「菩薩道も仏道も皆同じだ」と思っているのです。
仏教指導者は、「菩薩になるのも、仏に成るのも同じです。仏法では、そこを目指すのです」と言っているのです。「物知りになりなさい。菩薩を目指しなさい。或は仏の教えを聞いて多くの人を化導しなさい」と言うのです。
しかし、究極の教えは菩薩道の上にある仏界です。それを学ばせるために菩薩道を進めてきたのです。他のものになるために菩薩道を進めてきたわけではありません。「では、なぜ声聞・縁覚・菩薩と進むのですか?」という質問が出てきます。それは、声聞・縁覚・菩薩と進んだほうが貴方にはわかるからです。
そのように言えば、貴方はわかるのです。「勉強して一番の成績になりなさい」と言えば、「はい、わかりました」と言うのです。「困った人を助けるのですよ。それが仏の道ですよ」と言えば、「わかりました」と言うのです。「多くの人を助けなさい。医者になり、或は看護師になって多くの人を助けるのです。人を助ける菩薩になれば、仏になれるのです」と言うのです。
或は座禅を組んで「空観に月を澄ます修行をしなさい。そうすれば仏になれるのですよ」と言うのです、
本当の仏道はその上にあるのです。これは、声聞の道、縁覚の道、菩薩の道です。それを学んでくると、「仏に近い」と言えるのです。それをやってこなければ、仏に成ることはできません。それをみんな仏道と思っているのですが、それは違います。
本当の仏道は、一仏乗です。仏はその法しか説きません。それを説くために仏はあらゆる経典を説いて、衆生を化導して、訓導しているのです。それは、一仏乗を理解させるためです。
一仏乗を理解していないと、仏に成ったとは言えません。この「一仏乗とは何か?」というと、「無量義は一法より生じる」ということです。これをわからせたいのです。この世界には、無量の義が沢山あります。
海も山も鳥も魚もいて、いろんな種類があり、無量の義があるのです。これは、たった一つの法から出ているのです。それを理解することは一仏乗だから、難しいのです。一仏乗とは、どうなっているのでしょうか? 
「一つの法」と言っても衆生にはわかりません。サルと人間は違います。何故、それが同じだと言うのでしょうか? 衆生は「豚も私も同じなのでしょうか? どうもよく理解できませんね。豚は豚、私は私、全て違いますよね」と考えているのです。
「それは貴方の考え方が間違っているよ。「無量義は一法より生じる」と言うのです。貴方の考え方が間違っているから、教えてあげましょう。一法のことを妙法蓮華経というのだ」というのが仏です。(△紡海)


『妙法蓮華経方便品第二』
諸仏の本誓願は 我が所行の仏道を(続き)
普(あまね)く衆生をして 亦(また)同じく此の道(どう)を得せしめんと欲す
未来世の諸仏 百千億
無数の諸の法門を説きたもうと雖(いえど)も 其れ実には一乗の為なり
諸仏両足尊(りょうぞくそん) 法は常に無性(むしょう)なり



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2021年04月22日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 63

931
※妙法蓮華経の入り口から進んでいくと、トンネルの中に入って、どんどん進んでいくと、遠くに光が見えて出口が見えてきます。「ああ、悟りだ!」と出口を目指して進んでいくと、「あれ、入り口に戻ってきたぞ」とわかるのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 63

 「若し人の散乱の心に 塔廟の中に入(い)って」
 もし散乱の心の人に、仏塔の中に入ることを教えて、
 「一たび南無仏と称せし 皆已に仏道を成じき」
 一たび南無仏と称して、皆すでに仏道を成じたのです。「南無仏」とは、南無阿弥陀仏ではありません。これを間違えてはいけません。「南無、仏様」という意味です。そのような人は、仏様を崇めて、仏道を成じることができたのです。
 「諸の過去の仏の 現在或(あるい)は滅後に於いて」
 諸々の過去の仏の現在、或は釈迦滅後において、「仏様がいなくなってしまった!」ということです。
 「若し是の法を聞くこと有りし 皆已に仏道を成じき」
 もしこの法華経を聞くことがあれば、皆すでに仏道を成じたのです。
 「未来の諸の世尊 其の数量(はかり)有ること無けん」
 未来の諸々の世尊、その数は量ることはできません。不思議なことです。成仏した無量の仏がいるということです。仏は何万人、或は無数の人を仏にできるのです。「はい、貴方を仏にしました。一丁上がり!」ということです。「其の数量(はかり)有ること無けん」と書いてあるのです。量ることができないほどの多くの仏がいるのです。
 「是の諸の如来等も 亦(また)方便して法を説きたまわん」
 この諸々の如来等も、また方便を用いて法を説いたのです。如来になったのですから、仏になったのです。仏になると、どこかに仏として生まれるのです。仏法を教えようと思って説くのですが、下にいる衆生には全くわかりません。
そのような衆生に対しては、方便を持って説くのです。方便は上から下まであります。我々も布教をして教えていこうとする時には、方便を使います。方便とはその人が信じられるようにリードしていくことです。「ウソをつけ」という意味ではありません。方言から始めなければ、仏になる種の無い衆生は、成仏などできません。
仏塔をつくり、仏像をつくり、仏画を描いて、ドンチャン、ドンチャンと太鼓を叩いて音楽で仏様を称えるということは、これも方便であり、「仏道の入り口に来た」ということです。
仏様を称えると、今まで欲望に向いていた目が仏道に向くようになるのです。一旦、仏道に目を向けて、疑う心がなければ自動的に、仏になることができるのです。仏は「仏画を描きなさい」ということを教えているのではありません。
仏様は「仏像を造りなさい」などとは、一言も言われていません。「まだ見ることのできない仏様は、どんな姿をしているのかな?」ということを仏像は表しているのです。これを観想といいます。
念仏宗も最初は、観想念仏だったのです。仏の姿を想像するのです。「西方極楽浄土に阿弥陀様がいらっしゃる。阿弥陀様はどのような顔をしているのかな?」と想像するのです。それを観想念仏といいます。
「西方極楽浄土はどのような所なのだろうか? 阿弥陀様はそこにいるのだけれども、どんな顔をしているのだろうか?」これが、観想念仏です。それが信仰の最初です。それから徐々に阿弥陀如来や、無碍光如来を仏画や仏像にして拝ませるようになったのです。最初は観想念仏です。観想念仏だから、事実ではありません。仏を想像するのです。絵描きは自分で仏を想像して描いているのです。そうでないと、絵描きが仏をつくったことになり、「絵描きが一番偉い」ということになってしまうのです。絵描きがつくった仏ではありません。絵描きが感じた仏を絵に表しているのですから、本当の仏ではありません。
本当の仏は、まだ見ることもできません。自分で極楽浄土を探さないと出てきません。「これが極楽浄土ですよ」と絵に描いても、それは観想です。本当の実感はできません。言葉遊び、観念遊戯の中で遊んでいるのが、念仏宗です。
 「一切の諸の如来 無量の方便を以って」
 一切の諸々の如来は、無量の方便をもって、
 「諸の衆生を度脱して 仏の無漏智に入れたまわん」
 諸々の衆生を度脱して、仏の境地に入れてあげたいのです。
 「若し法を聞くことあらん者は 一りとして成仏せずということなけん」
 もし本当に私の法を聞いたならば、一人として成仏しないということはありません。
 「諸仏の本誓願は 我が所行の仏道を」
 諸々の仏の本当の誓願は、我が所行の仏道を説くことです。諸仏が説く法は、一仏乗です。「無量義は一法より生じる」ということです。その一法のことを妙法蓮華経といいます。それに南無をするのですから、南無妙法蓮華経です。
何しろ、一仏乗、生命の本質は、南無妙法蓮華経です。そのように言っても、すぐにわかるものではありません。「妙法蓮華経が仏の一法なのですよ」と聞いても、わかりません。わかる人はすぐにわかるのです。そこからが仏道の始まりです。
まず、「妙法蓮華経を受持します」と頂戴するのです。それが修行の始まりです。それで終わりではありません。そこから始まって仏道修行をしていくと、「ああ、妙とは、このような意味だったのだな、法とはこのような意味か、蓮華とはこのような意味だったのか」とわかってくるのです。仏道修行が進んでいくうちにわかってくるのです。
妙法蓮華経とは、入り口にして最終結論です。妙法蓮華経は、入り口であり始まりです。入り口から入り仏道修行をして法華経を学んでいくと、実は入り口が最終結論です。これが諸法即実相ということです。
妙法蓮華経の入り口から進んでいくと、トンネルの中に入って、どんどん進んでいくと、遠くに光が見えて出口が見えてきます。「ああ、悟りだ!」と出口を目指して進んでいくと、「あれ、入り口に戻ってきたぞ」とわかるのです。悟りを目指して進んでいくと、「ここはいつか来た道」そうなのです。実は、入り口が悟りなのです。(64に続く)


『妙法蓮華経方便品第二』
若し人の散乱の心に 塔廟の中に入(い)って
一たび南無仏と称せし 皆已に仏道を成じき
諸の過去の仏の 現在或(あるい)は滅後に於いて
若し是の法を聞くこと有りし 皆已に仏道を成じき
未来の諸の世尊 其の数量(はかり)有ること無けん
是の諸の如来等も 亦(また)方便して法を説きたまわん
一切の諸の如来 無量の方便を以って
諸の衆生を度脱して 仏の無漏智に入れたまわん
若し法を聞くことあらん者は 一りとして成仏せずということなけん
諸仏の本誓願は 我が所行の仏道を


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2021年04月21日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 62

930
※ジュディ・オングは71歳です。まだキレイですが、アッという間に71歳になってしまうのです。ジュディ・オングは「魅せられて」などを妖艶に歌っていました。それもまた夢のまた夢です。人生とは、夢の中を生きているのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 62

 「画像(えぞう)に供養せし 漸(ようや)く無数の仏を見たてまつりき」
 画の仏像に供養して、ようやく無数の仏を見ることができるのです。散乱の心であっても、一心に一華を画像に供養することが大事です。仏に対して供養する心があって、仏を見奉らんと欲っするのです。
 「或は人あって礼拝し 或は復(また)但(ただ)合掌し」
 或は人が礼拝して、或はまた、ただ合掌して、
 「乃至(ないし)一手(いっしゅ)を挙げ 或は復(また)少し頭(こうべ)を低(た)れて」
 ないし一手を挙げて、或はまた少し頭を低くして、
 「此れを以て像に供養せし 漸(ようや)く無量の仏を見たてまつり」
 これをもって像に供養すると、ようやく無量の仏を見奉ることができるのです。
 「自ら無上道を成じて 広く無数の衆を度し」
 自ら無上道を成じて、広く無数の衆生を度して、
 「無余涅槃(むよねはん)に(い)入ること 薪(たきぎ)尽きて火の滅(き)ゆるが如くなりき」
 仏は無余涅槃に入ること、薪が尽きて火の滅するが如くなり。ここで大事なことは、「無余涅槃(むよねはん)」です。有余涅槃と無漏涅槃があります。無余涅槃は、肉体はもうありません。心は仏になっていて、肉体に心はありません。有余涅槃とは、まだ体が残っています。仏に成り切れていません。
有余涅槃は仏に成る芽は出ているのですが、体が残っているのです。それを有余涅槃といいます。無余涅槃は体がなくなってしまった状態です。思いは何もありません。ただ一心に仏を見奉らんと合掌して、境智冥合しているのです。肉体はもうありません。
すると死のうと生きようと関係ありません。肉体はもうありません。霊魂だけになっているのです。有余涅槃はまだ肉体が残っていますが、無余涅槃は肉体がありません。
涅槃には2つあります。まだ、体が残っていると仏を見ることができるのですが、無余涅槃は体がもうありません。具体的に言うと、肉体は焼いてしまえばよいのです。体は完全になくなり、灰になってしまうのです。
これは、何を意味するのかというと、元々何も無いということです。貴方が何十年間生きて、この地上で見た夢は、何の実体もありません。過去世の宿業によって、「今度はこのような夢を見る」ということです。悪夢と同じです。「今度は、天下を取る夢を見たいのか?」「お願いします」というと、その通りの人生が始まるのです。人を殺して天下を取って大暴れをするのです。
天下を取るのですから、多くの人間を殺さなければいけません。それは、夢なのです。天下を取ったけれども、何も喜びは感じません。歌手の矢沢永吉さんがそうです。「成功すれば幸せになれる。金持ちになれば幸せになれる。有名になれば、金も名声も手に入るから、幸せになれると思っていた」と言うのです。
その道を目指して一直線にいけばエネルギーがあります。成功してみると、何も得ていません。矢沢永吉さんは、今では名声を得て、お金もあります。それでも、幸せではありません。虚しいのです。
ビートルズもそうです。あまり有名になりすぎて、何百億円というお金が手に入り、世界的な名手になったのです。その結果、お忍びでないと、どこも歩けないようになってしまうのです。何も幸せになっていません。この世のことは、全て夢なのです。
ジョン・レノンもピストルで撃たれて死んでしまいました。「俺の人生は何だったのだろうか?」と思ったでしょう。これが秀吉の辞世の句である「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」です。非常に実感のこもった辞世の句です。露として生まれてきて、露として死ぬのです。その間に「天下を取った!」という苦しみは一体何だったのでしょうか? 「今、自分は死ぬのだけれども、夢の中の夢のようなものだったのだ。悪夢を見ていたのにすぎない」ということです。この考え方は、仏教からきているのです。
秀吉がそんなことを言うはずがありません。誰かがつくったのです。そのように秀吉の人生を現したのです。人生で起きる出来事は、夢のまた夢です。みんな、それがわからないから、夢の世界にしがみつこうとしているのです。夢の世界にしがみつくことはできません。
昔、美人だった朱里栄子も生活保護を受けてヨボヨボになって死んだのです。年を取ってもまだ美しい人もいます。岩下志麻は、80歳過ぎた写真がネットに掲載されていますたが、まだキレイです。
それから、草笛光子は87歳です。年齢を重ねてもキレイな人はキレイなのです。ジュディ・オングは71歳です。まだキレイですが、アッという間に71歳になってしまうのです。ジュディ・オングは「魅せられて」などを妖艶に歌っていました。それもまた夢のまた夢です。人生とは、夢の中を生きているのです。
実存を求める人と、夢を追い求める人がいるのです。多くの人は「人間は夢を持って生きなければね」と思うのです。法華経を信じる人は、実存を求めているのです。「本当に消えないもの、本当に備わっているものは、一体何であろうか? 大宇宙の真理とは何か? 我々を操っている根本のものは一体何か?」ということを探求しようとする人は、「法華経を信じて修行をしよう」と思うのです。
他の人達は、夢のまた夢を追っているのです。「人生は夢を追わなければね。人生は夢よ。あんた、夢がないの? つまらない人間ね」となってしまうのです。「あんた、夢を持ちなさいよ」と言われても、どうってことはありません。人生は夢の中の夢です。
人生とは、実存ではありません。仮存なのです。だから、こちらで強く思うと実現してしまう場合があるのです。夢だから、「私は大きくなって、有名な演歌歌手になりたい」という夢を心に描くと、そのようになってしまうのです。
心で思うと人間は何にでもなってしまうのです。何故かというと、この世は夢なのです。今の人生は絶対に変わらないのではなくて、夢なのです。自分で人生の夢を描くことはよいことです。ただし、それを「夢」と知っていれば、夢はすぐに叶ってしまうのです。
夢の中では水の上も歩けるし、空も飛べるのです。何でも自由自在になるのです。現実はそのようにはいきませんが、現実も夢なのです。悪夢を見ているようなものですから、実存を求めていくのです。(63に続く)


『妙法蓮華経方便品第二』
画像(えぞう)に供養せし 漸(ようや)く無数の仏を見たてまつりき
或は人あって礼拝し 或は復(また)但(ただ)合掌し
乃至(ないし)一手(いっしゅ)を挙げ 或は復(また)少し頭(こうべ)を低(た)れて
此れを以て像に供養せし 漸(ようや)く無量の仏を見たてまつり
自ら無上道を成じて 広く無数の衆を度し
無余涅槃(むよねはん)に(い)入ること 薪(たきぎ)尽きて火の滅(き)ゆるが如くなりき


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2021年04月20日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 61

123
※簫笛(竹の笛)、琴、琵琶、鐃銅鈸(シンバル)でもよいのです。にぎやかに演奏して、仏様をお迎えしましょう。鐃銅鈸(にょうどうばつ)とは、シンバルです。「ガ〜ン」という音です。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 61

 「自らも作(な)し若しは人をしてもせる 皆已に仏道を成じき」
 自分で仏像を作ってもいいし、人にやらせてもいいし、皆共に功徳を受けるのです。「僕は物を作ることしかできません」「それでもいいのです。貴方は仏像を造ってください。大きな功徳がありますよ」それでもよいのです。
或は絵が上手な人に「仏様を描いてごらん」「これでよいでしょうか」それでもよいのです。
 「乃至(ないし)童子の戯(たわむ)れに 若しは草木及び筆」
 ないし、子供が戯れるように、もしは草木および筆で仏様を描いてもよいのです。
 「或は指の爪甲(そうこう)を以って 画(えが)いて仏像を作(な)せる」
 書く筆がなければ指の爪、あるいは手の甲で砂に仏画を書いてもよいのです。そのような純粋な心を持つ人は、必ず仏に会って成仏します。仏道修行は、純粋な心を持っていることが大事です。「これを拝ませて金儲けをしよう」などと思って、仏像を造ったら、功徳は受けません。
コンクリートで造った観音様が茨城の牛久にありますが、あんなことをいくらやっても、何の功徳もありません。「仏さまは、どんな姿をしているのだろうか」と自分で想像して描くのです。自分で書いた絵を拝むと、仏性が出てきて、本当の仏教に巡り会えるのです。
 「是(かく)の如き諸人等 漸漸(ぜんぜん)に功徳を積み」
 このような人達は、だんだんと功徳を積むのです。
 「大悲心(だいひしん)を具足して 皆已に仏道を成じき」
 大慈悲を具足して、皆すでに仏道を成じたのです。
 「但(ただ)諸の菩薩を化し 無量の衆を度脱(どだつ)しき」
 ただし、諸々の菩薩を化し、無量の衆生を迷いから救い出して、悟りの世界に入らせたのです。
 「若し人(ひと)塔廟(とうみょう) 宝像及び画像(えぞう)に於いて」
 もし人が塔を建てて、宝で仏像を造り、及び絵で仏様を描いても、
 「華香旛蓋(けこうばんがい)を以って 敬心(きょうしん)にして供養し」
 華の香りのした天蓋をもって、仏を敬う心で供養したのです。ドラを叩くのも、笛を吹くのも、琵琶を弾くのもそうです。皆で仏を尊敬して敬ったのです。
 「若しは人をして楽を作(な)さしめ 鼓(つづみ)を撃ち角貝(かくばい)を吹き」
 これは、リズミカルに描いているのです。人々は、音楽で仏を迎えて、鼓を撃ち、角貝を吹いたのです。角貝とは、「ブォー」というほら貝です。真心があれば楽器でもよいのです。「仏様、我々の前に姿を現してくださったのですね」、ピーヒャララ、笛を吹くのもよいのです。
 「簫笛(しょうちゃく)琴箜篌(きんくうごう) 琵琶(びわ)鐃銅鈸(にょうどうばつ)」
 簫笛(竹の笛)、琴、琵琶、鐃銅鈸(シンバル)でもよいのです。にぎやかに演奏して、仏様をお迎えしましょう。鐃銅鈸(にょうどうばつ)とは、「ガ〜ン」という音です。大石寺は太鼓です。「南無妙法蓮華経〜ドンドドドン、南無妙法蓮華経〜ドンドドンドン、・・・」このような感じです。仏を賛嘆する音楽は、お寺ごとに違います。仏様に合図を送っているのです。戦争でラッパを吹くのと同じです。こちらは、「仏陀の世界に進め!」と言っているのですから、素晴らしいのです。戦争は、「人殺しをしてこい」という合図です。
 「是の如き衆(もろもろ)の妙音(みょうおん) 尽(ことごと)く持(たも)って以って供養し」
 このような衆生は、妙音で仏様をお迎えして、供養するのです。このような気持ちでやるならば、お金をかけなくてもよいのです。指で仏様を描いてもよいのです。
 「或は歓喜の心を以って 歌唄(かばい)して仏徳を頌(じゅ)し」
 或は歓喜の心をもって、歌を歌い、仏の徳を誉めたのです。
 「乃至(ないし)一小音(いちしょうおん)をもってせし 皆已に仏道を成じき」
 ないし、一つの小さい音をもって、皆すでに仏道を成じたのです。誰かが造った仏像を賛嘆しても、仏像に魂を入れなければ仕方ありません。「仏像を作りました。なんだかわかりません」では、仕方ありません。仏像に魂を入れるのです。それは笛や太鼓などを鳴らして、にぎやかにやって「只今からこの仏様に魂が入りました。本当の仏様です」と仏を賛嘆するのです。
 「若し人(ひと)散乱(さんらん)の心に 乃至(ないし)一華(いっけ)を以って」
 「もし人、散乱の心に、ないし一つの華を添えて」と言われています。散乱とは、仏道修行と反対の心です。仏道修行とは、「一心欲見仏 (一心に仏を見、奉らんと欲して)」という心です。
散乱とは、あっちを見て、こっちを見て気持ちが定まらない人です。所謂、宗教ジプシーといわれる人達です。「日蓮正宗がいいかな、顕正会がいいかな、創価学会がいいかな? 3年ずつやってみよう」と言うのです。バカなことをやっているものではありません。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、バカなのです。それを宗教ジプシーと言うのです。
宗教ジプシーは、心が散乱している証拠です。そのような人は「仏教とは何を説いたものなのか?」ということを知ろうともしない人です。「お宝様が落ちていないかな?」というスケベ根性があるから、こっちの教団、あっちの教団をフラフラしているのです。(62に続く)


『妙法蓮華経方便品第二』
自らも作(な)し若しは人をしてもせる 皆已に仏道を成じき
乃至(ないし)童子の戯(たわむ)れに 若しは草木及び筆
或は指の爪甲(そうこう)を以って 画(えが)いて仏像を作(な)せる
是(かく)の如き諸人等 漸漸(ぜんぜん)に功徳を積み
大悲心(だいひしん)を具足して 皆已に仏道を成じき
但(ただ)諸の菩薩を化し 無量の衆を度脱(どだつ)しき
若し人(ひと)塔廟(とうみょう) 宝像及び画像(えぞう)に於いて
華香旛蓋(けこうばんがい)を以って 敬心(きょうしん)にして供養し
若しは人をして楽を作(な)さしめ 鼓(つづみ)を撃ち角貝(かくばい)を吹き
簫笛(しょうちゃく)琴箜篌(きんくうごう) 琵琶(びわ)鐃銅鈸(にょうどうばつ)


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2021年04月19日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 60

122
※マニ車は、輪蔵を右回り(時計回り)に(ボン教の場合はマシモ車を左回りに)回転させると、回転させた数だけ内蔵された経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。[

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 60

 「或は石廟(しゃくみょう)を起(た)て 栴檀(せんだん)及び沈水(じんすい)」
 諸仏を供養するために様々な石碑を建てなさい。それによって建てられたのが五重の塔です。小さな塔は道端にあるお地蔵さんです。あれでも、仏塔を造ったことになるのです。法隆寺の五重塔は大きな塔です。これは見事なものです。そのような塔を立て仏を荘厳しなさい。仏様という人が昔いたのです。この塔をみればわかるでしょう。こんな凄い塔のような人なのです。それを一生懸命拝むのです。これが大仏の発想につながるのです。
三峡ダムに沈んだ石仏があったのです。何百メートルも掘って仏像を造ったのです。それが三峡ダムの真ん中あたりです。磨崖仏といい、崖に仏を掘るのです。日本でも山を歩くと磨崖仏があります。これに基づいて銅像を造ったのです。
或は石碑を立て、栴檀及び、沈水(じんすい)して、荘厳して豪華なものを造りなさい。上には天蓋という花を飾るのです。瑪瑙や瑠璃などの宝石で造るのです。すると功徳も大きいのです。
 「木樒(もくみつ)並(なら)びに余の材 甎瓦(せんが)泥土(でいど)等をもってする有り」
 樒(しきみ)に粘土を貼って造ってもよいのです。
 「若しは曠野(こうや)の中に於て 土を積んで仏廟(ぶつみょう)を成(な)し」
 もしは、荒野の中において、土を積んで寺院を造ってもよいのです。
 「乃至(ないし)童子の戯(たわむ)れに 沙(すな)を聚(あつ)めて仏塔と為(な)せる」
  ないし、子供がたわむれて、砂を集めて仏塔を造っても、功徳になるのです。「僕が造った砂の塔です。これを仏様と思って拝みます」と言っても、功徳があるのです。木で仏像を造ってもよいのです。お金を集めて、金の仏像を造ってもよいのです。それなりに、仏様は「善哉善哉(よきかな、よきかな)」とお喜びになるのです。仏様と思ってお仕えするのです。それは、非常に功徳を受けることなのです。
 「是(かく)の如き諸人等 皆已に仏道を成じき」
 かくのごとき衆生等は、皆すでに仏道を修行したのです。
 「若し人(ひと)仏の為の故に 諸の形像(ぎょうぞう)を建立し」
 もし人、仏のための故に、諸々の仏の形をした像を建立して、
 「刻彫(こくちょう)して衆相(しゅそう)を成(な)せる 皆已に仏道を成(じょう)じき」
 或は彫刻して、仏の相を現して、皆すでに仏道を成じたのです。
 「或は七宝を以って成し 鍮鉐(ちゅうじゃく)赤(しゃく)白銅(びゃくどう)」
 或は七宝を持って成し、鍮鉐赤白銅を用いたのです。「鍮鉐(チュウセキ)」とは、熟語で金属の「真鍮(しんちゅう)=黄銅(おうどう)」のことです。
 「白鑞(びゃくろう)及び鉛錫(えんじゃく) 鉄木(てつもく)及与(よ)び泥」
 白鑞(びゃくろう)及び鉛、錫(すず)、鉄、木及びあまった泥でもよいのです。肝心なことは、真心が大事です。真心がないのに、お金をかけて仏像を造っても功徳はありません。真心があるならば、木の仏でもよいから造りなさい。泥でもよいのです。石でも、金でも、銀でも、錫でも、鉛でも何でもよいのです。それなりに仏を造って拝みなさい。
これはサービスで言っていることです。仏が教えたいのは、一乗の法です。そんなものを造っても一乗の法はわかりませんが、真心に免じてみんな成仏したのです。
 「或は膠漆布(きょうしっぷ)を以って 厳飾(ごんじき)して仏像を作れる」
 或は、膠漆布をもって、荘厳して仏像を作りなさい。これは竹人形を作るのです。これが一番簡単です。竹に膠漆布をはります。すると仏像が簡単にできるのです。竹に布を貼って仏像を作ります。その上から漆を塗るのです。それでも立派な仏像ができるのです。
 「是(かく)の如き諸人等 皆已に仏道を成じき」
 かくのごとき諸々の人達は、皆すでに仏道を成じたのです。
 「綵画(さいえ)して仏像の 百福(ひゃっぷく)荘厳(しょうごん)の相を作(な)すこと」
 仏像を絵で表してもよいのです。みんな仏像を造るので、百福が荘厳した相をなしているのです。仏像があちこちにできると、荘厳してくるのです。金の仏もあれば、銀の仏もあれば、石の仏もあります。竹で造った仏もあります。
何処へ行っても、仏像の姿を見ることができるのです。仏像の姿を見るようになるということは、仏法に縁のない人にも仏様の存在を知らしめすことになるのです。衆生は「諸法の実相」と聞いてもわかりません。そんな話はわかるわけがありません。
「仏様は有難い」という仏身を現すために仏像を造るのです。これを多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)といいます。そのような時代です。仏滅後千年経つと、多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)の時代です。これを像法時代といいます。
「仏道修行とは、どのようなことをするのか?」というと、まず伽藍を造るのです。伽藍とは、仏様が住む所です。人間が住む所ではありません。仏塔を建てて、仏舎利を安置して、それを仏と思い、その周りを回って歩くのが仏道修行の始めです。
これが進んでくると、チベットには「マニ車」があります。マニ車には、経典が書いてあります。手でクルクルと回すのです。仏塔の周りを回りながら、マニ車を回すのです。1回回すと、経典を1回読んだことになるのです。
民衆は経典など読めません。これを拝むと経典を読んだことと、同じ功徳がいただけるというのです。「経典を読んだ」と言うと、「中身は何が書いてあるのですか?」と聞いても、その段階では何もわかりません。
仏塔の周りを歩き、マニ車を回している段階では、何もわかりません。それもいいでしょう。仏道修行の始めの段階ではいいのではないかということです。
絵で仏像を描いてもよいのです。昔は岩に仏像が描いてあったのです。それでもよいのです。(61に続く)


『妙法蓮華経方便品第二』
或は石廟(しゃくみょう)を起(た)て 栴檀(せんだん)及び沈水(じんすい)」
する有り
若しは曠野(こうや)の中に於て 土を積んで仏廟(ぶつみょう)を成(な)し
乃至(ないし)童子の戯(たわむ)れに 沙(すな)を聚(あつ)めて仏塔と為(な)せる
是(かく)の如き諸人等 皆已に仏道を成じき
若し人(ひと)仏の為の故に 諸の形像(ぎょうぞう)を建立し
刻彫(こくちょう)して衆相(しゅそう)を成(な)せる 皆已に仏道を成(じょう)じき
或は七宝を以って成し 鍮鉐(ちゅうじゃく)赤(しゃく)白銅(びゃくどう)
白鑞(びゃくろう)及び鉛錫(えんじゃく) 鉄木(てつもく)及与(よ)び泥
或は膠漆布(きょうしっぷ)を以って 厳飾(ごんじき)して仏像を作れる
是(かく)の如き諸人等 皆已に仏道を成じき
綵画(さいえ)して仏像の 百福(ひゃっぷく)荘厳(しょうごん)の相を作(な)すこと


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2021年04月18日

『仏法と神道』妙法蓮華経如来寿量品第十六『自我偈(じがげ)』について

927
※仏は常に法を説いています。何の法を説いているのかというと、「仏とはこういうものだ」ということを説いています。

『仏法と神道』

妙法蓮華経如来寿量品第十六『自我偈(じがげ)』について

妙法蓮華経如来寿量品第十六(自我偈)

 自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
 為衆生度故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
 我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
 衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 
 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
 時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
 以方便力故 現有滅不滅 (省略)

 「仏はどこにいるのですか」と言ったならば仏はどこにでもいます。しかし、目に見えないのです。このことは、如来寿量品第十六(自我偈)に出てきます。これは法華経本文ですが、仏はどのようなものかと分かるのが、「自我得仏来(じがとくぶつらい)」です。「我、仏を得てより以来」とは、仏の正体を明らかにされたということです。
私(仏)が仏に成ってから「どのくらいの時間が経ったのですか」というと、「所経諸劫数(しょうきょうしゅこしゅう)」得たる所の諸々の劫数です。
「無量百千万 億載阿僧祇(むりょうひゃくせんまん おくさいあそうぎ)」ずっと長い間を過ぎてきましたが、その時間というのは無量百千万億載阿僧祇劫です。
「無量百千万 億載阿僧祇劫」とは、物凄く長い時間の単位で、無量×百千万×億載阿僧祇劫です。阿僧祇とは、「数えることのできない」という意味です。劫とは、極めて長い宇宙論的な時間の単位です。お釈迦様は、自分の命の正体が分かり、無数の時間を過ごしてきたのです。「我仏を得てよりこの方=自我得仏来」大事なところです。
「常説法教化 無数億衆生 令入於仏道(じょうせっぽうきょうけ むしゅおくしゅじょう りょうにゅうおぶつどう)」それよりずっと説法を続けてきて無数の衆生に説法を続けてきました。もっというと我々の目に見える姿は形而下の姿であり、仏と言うのは目に見えないのです。目に見えないから一般の人には無いと思えるのです。
しかし、我々は形而下の目に見える世界にいるので仏が見えないのです。その仏の姿を見るならば、そこに永遠の生命が出てきます。
 お釈迦様はインドで生まれて涅槃してお亡くなりになり、消えて無くなったように見えますが違うのです。生命はそのようなものではありません。生命は消えるものではなく、あるものです。我々の目に見えないだけです。その目に見えない仏様が、見えるようになってくるのが仏法の修行です。修行していない人は見えなくて当たり前です。「仏様を見たい。仏様はどのようなお姿なのだろうか」と思い、だんだんと仏が見えてくるのです。
 仏は常に法を説いています。何の法を説いているのかというと、「仏とはこういうものだ」ということを説いています。常に説法をして衆生を教化してきました。多くの人々をすでに仏道の道に入れてきました。その数は相当な数です。
「お釈迦様は、八十歳でお亡くなりになった」と衆生は言いますが、それは方便であって、本当の自分は滅するということがありません。「方便現涅槃(ほうべんげんねはん)」方便するのは涅槃です。涅槃を表すから方便するのであり、永遠の生命です。命そのものは無くなりません。宇宙の始めから命はあり、今もあります。また、宇宙の未来までも命はあります。どこまで行っても命が無くなったりしないのです。
 ただ、個人に属するものは無くなったように見えるだけで、実は無くなっていないのであり、人間は永遠の生命を生きています。
「而実不滅度 常住此説法(にじつふめつど じょうじゅうしせっぽう)」仏は常に滅せずして仏法を説いてきたのです。人々を仏道に入れようとしてずっと説いてきたのです。これが仏というものです。
しかし、貴方達は仏が見えないのです。何故なのかというと、ある物が「無い」と思い、無いものが「ある」と思ってひっくりかえったものの見方をしているから仏は見えません。「令顛倒衆生 雖近而不見(りょうてんどうしゅじょう すいごんにふけん)」です。仏は死んでいないのですが、貴方は死んだと見ているでしょう。それは、貴方がひっくりかえって見ているからです。
 自分の過ちに気が付いて、「咸皆懐恋慕(げんかいえれんぼ)」「仏様、どうぞ本当の御姿を見せてください。」と仏様を恋しく思い、衆生は既に信伏して、柔軟な心に成り、「衆生既信伏 質直意柔軟(しゅじょうきしんぷく しちじきいにゅうなん)」となるのです。
一心に仏道を求めて「お釈迦様の言うとおりにしますので、本当の姿を私に見せてください」と修行していく姿を「一心欲見仏 不自惜身命(いっしんよくけんぶつ ふじしゃくしんみょう)」と言います。一心に仏を見奉らんと欲して、身命を惜しまず。命も惜しまず「仏様!」という心になった時に、私は皆の前に姿を現します。しかも、一人ではありません。多くの何千人という修行僧と共に貴方の目の前に出てきます。
 この法華経は凄い経典です。永遠の生命を説いています。私の生命が永遠だから、私の弟子も永遠の生命です。従って、貴方達も永遠の生命です。これが、永遠の生命を説いた法華経の極意です。
 妙法蓮華経如来寿量品第十六(自我偈)は、大変難しいところです。それを良く分かるためには、「一心欲見仏 不自惜身命」(一心に仏を見、奉らんと欲して 身命を惜しまず)と修行した時に、仏というものが分かってきます。

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2021年04月17日

ものの見方・考え方 直真陰流 勝海舟 37

24
※勝 海舟(かつ かいしゅう)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。

ものの見方・考え方

直真陰流 勝海舟 37

 勝海舟が若い頃、親父の勝子吉からいわれたことがあります。「剣術を本当に修行すれば人に斬られるということがなくなる」と言われたのです。この言葉を信じた海舟は、直心影流の名手だった叔父・男谷清一郎の門弟に島田虎之助という天才剣士がいて、勝はこの島田の内弟子となって三年の修行を積み免許皆伝の腕前となっています。 
「勝海舟が天才剣士だった」というイメージはあまりないようです。後に攘夷派から40回も命を狙われ、北辰一刀流の免許皆伝の坂本龍馬は、「勝を暗殺しにきたものの刀を抜かさなかった」といいますから、その強さは想像できます。また、自分の刀は抜けないように、きつく紐で結んでいたといいます。
勝海舟は1823年、江戸で御家人の息子として生まれました。御家人は、旗本とは違い、将軍にお目見えすることはできません。年間に米10俵くらいの録で生活するのですから、貧乏生活もいいところです。
道具屋の手伝いやら、傘張りの内職をしたり、勝海舟のお父さんは、用心棒までしていたといいます。御家人は、他藩の足軽身分のものです。将軍家の足軽は他藩の上級武士と身分は同じです。勝海舟は、このような環境で剣術修行に励んだのです。
若いころの勝海舟は、殆ど剣術修行に明け暮れたのです。朝、昼、晩の道場での稽古が終わると王子権現の境内に行き、そこで朝まで修行する。木刀を30分振り回しては、30分座禅をする、これを交互におこなって朝を迎える。一緒に行った門人達は怖さと寒さにふるえて近所の農家で仮寝をしたのですが、勝海舟は三年間まじめに修行したそうです。
後年の勝海舟は、「この剣術と座禅が俺の土台となった」と述べています。「私心がなく、俗念を打ち払い、死の恐怖に打ち勝って、虚心坦懐の境地を体得して、幕府の難局に少しも怯まずにあたることができた」と言っています。
勝海舟が学んだ直真陰流の正式名称は、「鹿島神傳直心影流(かじましんでんじきしんかげりゅう)」と言います。一早く竹刀と防具を使用した打ち込み稽古を導入した流派です。江戸時代後期には、全国に最も広まりました。
その歴史をみると武蔵岩槻藩(永井氏)の江戸詰の家臣であった山田光徳は、木刀による試合で怪我を負って剣術修行を中断していたのですが、直心正統流の高橋重冶の道場で防具を用いて怪我を防止した稽古をしているのを見て、高橋重冶に入門したのです。
天和3年(1683年)、直心正統流の皆伝を授かった山田光徳は、流名を「直心影流」と改めたといわれています。
 他の剣術流派が組太刀(形稽古)をしている中、当流の原流派である直心正統流の頃から、いち早く竹刀稽古を導入しており、山田光徳から第8代の長沼国郷の時期にかけて、竹刀と防具を改良したのです。
第9代・長沼綱郷(長沼国郷の養子)が上野沼田藩に仕官したことから、長沼家は代々、沼田藩で直心影流を指南しました。また、長沼国郷の晩年に生まれた実子の長沼徳郷は、長沼綱郷より直心影流を学び、主家の永井氏の美濃国加納への転封により加納藩に直心影流が伝えられたのです。
竹刀稽古の導入によって直心影流剣術は盛んとなり、藤川近義に始まる藤川派、団野義高(真帆斎)に始まる団野派、男谷信友の男谷派などの多くの分派が生まれました。これらの分派と区別するため、直心影流剣術の正統である長沼家の系統を長沼派と呼ぶ場合もあります。
また、全国に広まり、示現流系の流派が大勢を占める薩摩藩にも伝わったのです。薩摩藩での伝承をみると、一般に薩摩藩には示現流系一辺倒だと思われていますが、直心影流が藩校の造士館も含め藩内で大いに稽古されていたのです。
薩摩藩では、「真影流」と呼ばれることも多かった。薩摩藩伝の直心影流は、長沼国郷の弟子である鈴木藤賢(弥藤次)によって伝えられたのです。鈴木は、元々は幕臣だったのですが、竹姫が島津氏に輿入れする際に従い、薩摩藩士となったのです。代々鈴木氏が継承して藩内にも大いに広まり、鈴木家の道場は「鈴木殿の稽古」(すずっどんのけこ)と呼ばれ畏敬されていたのです。
江戸後期の坂口兼儔(作市)は、名人といわれたのです。薩摩藩での分派に深見有安(休八)の深見流があります。深見有安の養子の深見有正は、二の丸稽古所の師範17人の一人となったのです。薩摩藩出身の著名人の直心影流(真影流)門人には、有馬新七、川路利良、牧野伸顕、等がいます。
 薩摩範以外での有名な門人としては、長沼国郷、長沼綱郷、藤川近義、藤川整斎、男谷信友、島田虎之助、勝海舟、榊原鍵吉、信太歌之助(青柳熊吉)、長沼可笑人、今井信郎、小栗忠順、得能関四郎、山田次朗吉、長沼和郷、富山圓などがいます。
 いまの剣道の正眼の構えとは、直真陰流のものであります。勝海舟の晩年の有名な言葉は、「おれが本当に修行したのは剣術だけだ。あとはみんないいかげんなものよ」というものでした。

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2021年04月16日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 59

121
※七宝(しちほう)とは、仏教において、貴重とされる七種の宝のことです。『法華経』においては「金、銀、瑪瑙(めのう)、瑠璃(るり)、硨磲(しゃこ)、真珠、玫瑰(まいえ)」とされています。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 59

 「精進禅智(ぜんち)等(とう) 種々に福徳を修(しゅ)せし」
 座禅を組んで精進していくと、種々の福徳を生じるのです。そのように書いてあるのです。布施し、持戒して、忍辱して、禅の智慧を極めるために座禅を組んで精進していくのです。また他のよい行法も修学するのです。
 「是(かく)の如き諸人等 皆已に仏道を成じき」
 このような人々は、仏道を成じます。一仏乗がちゃんとわかってくるのです。「一仏乗がわかってくるためには、どうしたらよいのか?」というと、「布施し、持戒をしなさい」と言っているのです。
仏教の戒律は厳しいのです。「嫁さんをもらってはいけない」「酒を飲んではいけない」という戒律を守るのです。仏教の十戒は、「酒を飲んではいけない」と言うのです。モーゼの十戒とほとんど同じです。
■仏教の十戒
1. 不殺生(ふせっしょう)―生き物を殺してはならない。
2. 不盗(ふとう)―盗んではならない。
3. 不婬(ふいん)―性交渉をしてはならない。
4. 不妄語(ふもうご)―嘘をついてはならない。
5. 不飲酒(ふおんじゅ)―酒を飲んではならない。
6. 不著香華鬘不香塗身(ふじゃくこうげまんふこうずしん)―化粧をしたり装飾類を身に付けてはならない。
7. 不歌舞倡妓不往観聴(ふかぶしょうぎふおうかんちょう)―歌や音楽、踊りを鑑賞してはならない。
8. 不坐高広大床(ふざこうこうだいしょう)―大きく立派なベッドに寝てはいけない。
9. 不非時食(ふひじじき)―正午以降に食べ物を摂ってはならない。
10. 不捉持生像金銀宝物(ふそくじしょうぞうこんごんほうもつ)―お金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有してはならない。

■モーゼの十戒
1. 我のみが神である
2. 偶像を作ってはならない
3. 神の名をみだりに唱えてはならない
4. 安息日を守ること
5. 父母を敬うこと
6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7. 姦淫をしてはいけないこと
8. 盗んではいけないこと
9. 隣人について偽証してはいけないこと
10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

 「諸仏滅度し已って 若し人善軟(ぜんなん)の心ありし」

 諸仏が滅度し終わって、衆生に善軟の心があれば、
 「是の如き諸の衆生 皆已に仏道を成じき」
 かくのごとき諸々の衆生は、皆すでに仏道の道に入っています。
 「諸仏滅度し已って 舎利を供養する者」
 諸仏の滅度し終わって、舎利を供養するのもよいことです。「これはお釈迦様の骨です。骨はお釈迦様だったのだから、お骨を箱に入れて拝むのです。本来ならば、五重塔の中に舎利が入っているのです。舎利と言っても、骸骨が入っているわけではありません。火葬した骨を弟子でわけたのです。仏塔に入っていると言っても、1円玉くらいです。弟子で舎利を分けるのですから、そんなに大きな骨があるわけではありません。
 「万億種の塔を起てて 金銀(こんごん)及び頗梨(はり)」
万億種類の塔を建てて、金銀及び水晶で飾ったのです。五重塔の階層は階ごとに決まっていて、最上階に法華経があります。法華経を安置するのです。下の階には小乗経の教えがあります。所謂、図書館です。
お寺に来て「お経を読みにきました」と修行僧が言うと、五重塔に入るのです。経塔といいます。五重塔の中に入って自分が読みたい経典を探すのです。経典は巻物です。持って帰るわけにはいかないので経典を書き写したのです。そのためにお寺に世話になったのです。
熱心なお坊さんは、経典を二部つくったのです。当時は印刷物などありませんから、書き写した経典をお礼に一冊置いて帰ったのです。一冊は自分で持ち帰ったのです。勝海舟も若い頃、それをやったのです。「その本を買ったらいくらですか?」と聞くと「10両です」と言うのです。「その本を二日間でいいから貸してくれませんか?」と言って、書き写して二部つくったのです。何を書き写したのかというと、オランダ語の辞書です。当時、そんな本はありません。一部は自分で持っていて、一部は売ってお金にしたのです。そのようなことをやっていたのです。
 「硨磲(しゃこ)と碼碯(めのう) 玫瑰瑠璃珠(まいえるりしゅ)とをもって」
 硨磲、瑪瑙、 玫瑰瑠璃珠(まいえるりしゅ)の珠をつかったのです。
七宝(しちほう)とは、仏教において、貴重とされる七種の宝のことです。『法華経』においては「金、銀、瑪瑙(めのう)、瑠璃(るり)、硨磲(しゃこ)、真珠、玫瑰(まいえ)」とされています。
硨磲(しゃこ)とは、世界最大の二枚貝。仏教では七宝に数えられる。 概要 南太平洋・オーストラリア北岸にすむ世界最大の二枚貝のこと。
碼碯(めのう)とは、縞状の玉髄の一種で、オパール(蛋白石)、石英、玉髄が、火成岩あるいは堆積岩の空洞中に層状に沈殿してできた、鉱物の変種である。
玫瑰(まいえ)とは、ロードクロサイト。(赤い玉)
瑠璃珠とは、つやのある美しい青い宝石。
 「清浄に広く厳飾(ごんじき)し 諸の塔を荘校(しょうきょう)し」
 清浄に広く飾り、荘厳して、諸々の塔をおごそかにしたのです。(60に続く)


『妙法蓮華経方便品第二』
精進禅智(ぜんち)等(とう) 種々に福徳を修(しゅ)せし
是(かく)の如き諸人等 皆已に仏道を成じき
諸仏滅度し已って 若し人善軟(ぜんなん)の心ありし
是の如き諸の衆生 皆已に仏道を成じき
諸仏滅度し已って 舎利を供養する者
万億種の塔を起てて 金銀(こんごん)及び頗梨(はり)
硨磲(しゃこ)と碼碯(めのう) 玫瑰瑠璃珠(まいえるりしゅ)とをもって
清浄に広く厳飾(ごんじき)し 諸の塔を荘校(しょうきょう)し


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2021年04月15日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 58

120
※神通力にもいろいろとあり、人間の心がわかる神通力、天変地異が操れる神通力、遠隔地の見えないものがハッキリと見える神通力など、諸々の神通力があります。その中で他心通という人の命が見えるという神通力が、一番大きな神通力です。いろんな神通力を見せて、仏の力を知らしめるのです。


人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 58

「天人群生類(ぐんじょうるい) 深心(じんしん)の所欲(しょよく)を知(しろ)しめして」(続き)
そこに人間が歩いていると、「衆生が歩いている」と仏は見ているのです。すると、衆生の側が自分に執着して「俺は大したものだ」と思っているのです。「俺は恐竜だぞ、ガォー! 俺に敵う奴はいないだろう」と威嚇するのです。
仏から見ると恐竜も衆生です。そのような目で見ているのです。我々も、修行が進んでいくと、そのような目で衆生を見るようになるのです。ヤクザの親分が虚勢を張って威張ってもダメです。ヤクザの親分も豚や牛と同じです。
金正恩は美味しいものを毎日食べて豚のように太り、150キロまで太ったのです。豚と同じです。豚のお化けです。そのように仏は見ているのです。
仏教の修行が進むとどうなるのかというと、神通力を発揮するのです。僕は、不思議なことに神通力を発揮しているのです。そのように思って衆生を見ているから、何も怖くありません。どんな偉い人を見ても「随分格好をつけてヒゲをはやしているね。ヤギのヒゲと同じだね」と見えてしまうのです。
美人を見ても「今は美人だね。10年経ったらどんな顔になるか楽しみだね。内面は夜叉だから、おそらく凄い顔になるだろうね」と見えるのです。幼少期、成人、ババアになっても仏の眼から見ると、区別はありません。子供の姿も、中年の姿も、ババアになった姿も変わりなくダブって見えるのです。みんなそのように見えてしまうのです。
だから、僕が見ると「怖い」と思うのでしょう。みんな自分の姿を隠して、ふすまの陰からチラリとこちらを見ている状態です。それはそうです。僕が怖いのです。こちらは全て見えてしまうのです。
相手は何も見えません。相手は仏教の修行をしていないから、人間に見えてしまうのです。その人間の中で「上か下か」という角度で見ているのです。
こちらは全て見ているのです。もっと言うと、死ぬ時まで見えてしまうということです。「お前は横死するぞ」とわかるのです。そのような法力、仏力が備わってくるのです。どんな悪人でも僕を害することはできません。法力があるからです。
勝海舟が賊に斬られなかったということと同じです。自然にそのような神通力が身に付いてくるのです。
僕が人を見たら、みんなわかってしまいます。「この人は傲慢でバカだな。あの人はウソつきの詐欺師だな。汚い奴だ」と全て見えてしまうのです。だから、騙されるということは、絶対にありません。
正理会の秋田君と佐々木君もそうなっているのです。普通の人間とは違うのです。「貴方は、畜生ですね。畜生は犬の世話でもしていなさい」と見えてくるのです。畜生界の衆生は、人格ができていません。「人格を磨く」ということは、実は仏道の修行をしていないと磨くことはできないのです。仏道修行した人の物の見方は普通の人とは全然違うのです。一朝一夕で身に着くものではありません。
僕には大した敵ではありませんが、いろんな敵が出てきたのです。敵が出てきた一つの理由は怨嫉です。何でもわかってしまう人がいると、怖がるのです。生活も別に困っていません。悠々自適な生活です。そんな人はいないでしょう。僕を見ると羨ましく思ってしまうのです。僕を見ると、矢沢永吉さんのように身長は180センチあるわけではありません。芸能人は身長が高くなければダメだとわかります。180センチないと、迫力がありません。
料理人のコウケンテツも180センチ以上あります。永ちゃんは182センチです。布袋寅泰も185センチあります。芸能人になると、身長が高くないと生き残っていけません。身長が高いと、普通の身長の人とは、存在感が全然違います。
仏になると、見た目の存在感など必要ありません。仏の存在感は、妙法がにじみ出てくるものなのです。
諸々の大聖主(だいしょうしゅ)は必ず、神通力を示すのです。神通力にもいろいろとあり、人間の心がわかる神通力、天変地異が操れる神通力、遠隔地の見えないものがハッキリと見える神通力など、諸々の神通力があります。その中で他心通という人の命が見えるという神通力が、一番大きな神通力です。いろんな神通力を見せて、仏の力を知らしめるのです。
 「更に異(い)の方便を以って 第一義を助顕(じょけん)したまいき」
 この方便を持って、その上にある第一義の法を早くわかりなさい。
 「若し衆生類(るい)有って 諸の過去の仏に値いたてまつって」
 もし、衆生類があって、過去の無数の仏に会い奉って、
 「若しは法を聞いて布施し 或は持戒(じかい)忍辱(にんにく)」
 もしは法を聞いて、仏に布施し、或は戒律を保ち忍耐すること。忍耐も神通力です。普通の人は忍耐できないことがたくさんあります。「仏様はよくあんなことで怒らないな」と見えるのです。怒ったら負けです。忍耐は「怒らない」という行です。「怒らない」ということは、「憎まない」ということです。これも神通力の結果が出ているのです。
どうしようもない悪人が電話をかけてきても、手も足も出せません。これも神通力です。そのようなことが得意な人もいます。「自分は、どの神通力が身に付くのか」と楽しんで修行をすればよいのです。「第一義の法を身に付けると、私にはどんな神通力が身に付いてくるのかしら?」と楽しみにすればよいのです。必ず神通力が身に付いてきます。身に付いてくる神通力は、人それぞれ違います。(59に続く)


『妙法蓮華経方便品第二』
天人群生類(ぐんじょうるい) 深心(じんしん)の所欲(しょよく)を知(しろ)しめして(続き)
更に異(い)の方便を以って 第一義を助顕(じょけん)したまいき
若し衆生類(るい)有って 諸の過去の仏に値いたてまつって
若しは法を聞いて布施し 或は持戒(じかい)忍辱(にんにく)


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2021年04月14日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 57

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※三悪道を極めていくと、「こんな世界は嫌だ。もうちょっと違う世界があるのかな」と思うのです。そこに出てくるのがお地蔵様です。地蔵菩薩は、地獄の底に出てくるのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経方便品第二』について 57

 「諸法は本(もと)より来(このかた) 常に自ら寂滅(じゃくめつ)の相なり」
 諸法は本よりこのかた、常に自ら寂滅の相です。勝負事や、殺し合いの上に仏はいません。仏は常に寂滅の相です。仏のいる所はいつも静かです。殴り合ったり、殺し合ったりすることはありません。「野郎、やっつけてやる!」などと暴漢が仏を襲おうとしても、仏の威に打たれてできなくなってしまうのです。仏様を害することはできません。「仏を引き摺り下ろしてやれ」と言ってもできないのです。
Y子がウソを言っても、正理会はビクともしません。全く動じません。すると、キチガイのようになって「中杉はウソつきだ!」と喚けば喚くほどY子が三悪道です。だから、怖くなってしまうのです。悪口を言っても動じない、「恐ろしい男を見たな」となるのです。
提婆達多は9回もお釈迦様は陥れようとしたのです。しかし、いつも釈尊はニコニコとして怒りません。寂滅の相ですから、心はいつも静かです。仏様はいつも寂々とした静かな所にいるのです。
三悪道を極めると、どうしようもなく苦しくなるのです。例えば、100度の温泉に入って御覧なさい。触るものが、みんな熱いのです。見るもの、触るもの、みんな自分を苦しめるのです。そこまで三悪道を極めていくと、「こんな世界は嫌だ。もうちょっと違う世界があるのかな」と思うのです。そこに出てくるのがお地蔵様です。地蔵菩薩は、地獄の底に出てくるのです。
地蔵菩薩「お前、ここが地獄の底だとわかったか!」、ヤクザ「あっちち、何でもいいから、あっちち、早く助けてくれ!」と言うのです。100度のお湯に入れられて御覧なさい。そうなるのです。「何でもいいから、助けてくれ!」と裸で飛びだしてくるのです。
それが仏道へ向かっての第一歩です。地獄の底まで自分の業行の因果で落ちていき、地蔵菩薩に救いを求めて自分の力で熱い風呂から出たのです。その力を今度は登る方向にかえてあげるのです。
そして、地蔵菩薩が「お前は仏になることができるのだ。仏様は熱いも、寒いもありません。博打もやりません。いつも静かな所にいるのです。そのような世界にお前も入りたいだろう」と言うのです。すると、「お願いします。熱い風呂だけはもう勘弁してください」と言うのです。
 「仏子道(どう)を行じ已って 来世に作仏することを得ん」
 この仏子は、極道の道を行じ終わって、来世は仏になることができるのです。
 「我方便力有りて 三乗の法を開示す」
 地獄まで逝った人には、三乗の法を説くのです。地獄へ堕ちた衆生は、仏に成ることなどわかりません。
 「一切の諸の世尊も 皆一乗の道(どう)を説きたもう」
 一切の諸々の仏様は、一乗の道を説くから仏様です。仏は三乗の法を説くために生まれたのではありません。しかし、三乗の法を説くと、貴方にはわかるのです。一乗の法はわかりません。
座禅を教えれば、「静かな境地になる」というとは、できるようになるのです。一乗の法である、無量義一法はわからないのです。この一乗の法を説くのが仏です。貴方には、その法を説いても今はムリだから、三乗の法を説くのです。
 「今此の諸の大衆 皆応(まさ)に疑惑を除(のぞ)くべし」
 今、この諸々の大衆は、皆、疑惑を抱いたのです。
 「諸仏は語(みこと)異(ことな)ること無し 唯一(ゆいいち)にして二乗なし」
 お釈迦様はウソをつかないということで有名です。それがなぜ方便など言うのでしょうか? 一乗の法を説くというならば、それでいいではないですか。二乗、三乗の法を説くことは解せません。何故、仏様はウソを言うのでしょうか? 
仏の説く言葉は、少しもウソはありません。何を説いているのかというと、唯一、一仏乗を説いているのです。二乗など仏は説きません。声聞、縁覚になるための仏の説法などありません。
 「過去無数劫の 無量の滅度の仏」
 過去の無数劫の仏、無量の滅度の仏がいます。凄い数の仏がいるのです。
 「百千万億種(しゅ)にして 其の数量(はか)るべからず」
 百千万億種の仏がいて、その数は量ることはできません。
 「是(かく)の如き諸の世尊も 種々の縁(えん)譬喩(ひゆ)」
 かくのごとく諸々の仏も、種々の縁の譬喩を用いたのです。
 「無数の方便力をもって 諸法の相を演説したまいき」
 無数の方便力をもって、諸法の相を演説したのです。
 「是の諸の世尊等も 皆一乗の法を説き」
 この諸々の仏様らも、皆一乗の法を説いたのです。
 「無量の衆生を化して 仏道に入らしめたまいき」
 無量の衆生を化して、仏道に入れたのです。この数に注目です。仏様は無量の衆生を仏道に入れたのです。
 「又諸の大聖主(だいしょうしゅ) 一切世間の」
 大聖主とは、仏様のことです。一切世間の、
 「天人群生類(ぐんじょうるい) 深心(じんしん)の所欲(しょよく)を知(しろ)しめして」
 天、人、群生類に、深心の所欲を知ろしめたのです。天人と共に群生類(ぐんじょうるい)と言っています。衆生は、人間だけのことを言っているのではありません。衆生とは、生きているもの全てを衆生と言っているのです。仏様から見たらそうなのです。
鳥が飛んでいるのも、魚が泳いでいるのも、おたまじゃくしも衆生です。「生きている」ということについて、人間と動物は全く変わりありません。人間は人間だけが偉いと思っていますが、とんでもありません。仏から見たら、みんな同じ生命です。人間=豚=牛=馬の「イコール」とは、「生きている生命」ということです。大きな恐竜も、小さなノミも同じ衆生です。仏はそのように見ているのです。(58に続く)


『妙法蓮華経方便品第二』
諸法は本(もと)より来(このかた) 常に自ら寂滅(じゃくめつ)の相なり
仏子道(どう)を行じ已って 来世に作仏することを得ん
我方便力有りて 三乗の法を開示す
一切の諸の世尊も 皆一乗の道(どう)を説きたもう
今此の諸の大衆 皆応(まさ)に疑惑を除(のぞ)くべし
諸仏は語(みこと)異(ことな)ること無し 唯一(ゆいいち)にして二乗なし
過去無数劫の 無量の滅度の仏
百千万億種(しゅ)にして 其の数量(はか)るべからず
是(かく)の如き諸の世尊も 種々の縁(えん)譬喩(ひゆ)
無数の方便力をもって 諸法の相を演説したまいき
是の諸の世尊等も 皆一乗の法を説き
無量の衆生を化して 仏道に入らしめたまいき
又諸の大聖主(だいしょうしゅ) 一切世間の
天人群生類(ぐんじょうるい) 深心(じんしん)の所欲(しょよく)を知(しろ)しめして



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