2016年07月01日

人間の探究 543 如実知見(にょじつちけん)していく

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※集大成のアカシックレコードにあたるものを、仏教では南無妙法蓮華経と言われたのです。

人間の探究 543 如実知見(にょじつちけん)していく

 『御義口伝』寿量品廿七箇の大事、「第四 如来如実知見三界之相無有生死の事」とあります。「如来は如実知見(にょじつちけん)して之(これ)三界の相(そう)無し、生死(しょうじ)の有ることなし」と読みます。どのような意味かと言うと、「如来がこの世界を正直に見ると、この世界は全然違う」ということです。
 この世界は、「欲界・色界・無色界」といいます。これからして違うのです。欲界とは欲望がある世界です。色界とは肉体がある世界です。無色界とは精神の世界です。これを三界といいます。
 人間は、「Aさん、Bさんが歩いている」と見ますが、仏はそのように見ていません。人間というものをそのように見ていないのです。犬も豚も馬も人間もすべてをひっくるめて、世界はどのようなものかというと、「欲界・色界・無色界」だと見ているのです。仏法で見ると、これが世界です。
 すごい世界です。仏教の見方では一人一人の人間などいません。この世界にあるのは欲望(欲界)、精神的な欲望(無色界)、体の欲望(色界)です。これが世界です。これが歩いているのです。向こうから人が歩いてくると「欲界が来たな」と見えるのです。プロレスラーのなりそこないがノッシノッシと歩いてくると「色界が来たな」と見えるのです。
 眼鏡をかねた痩せたお爺さんが一生懸命本を読んでいると、これは「無色界」です。欲界・色界・無色界がこの世界の実相です。この世界を「三界の相」と見たときに、すでに悟りに入っているのです。
 仏にはそのようにしか見えないのです。「山田太郎さんが死刑になる」「山田太郎さんが殿様になった」など、仏の眼中にはないのです。「欲界の中に入ったな」「色界の中に入ったな」としか見ていないのです。
 仏教とは、一念を説いたものであるから、「一念心とは何ですか?」と問うと、「欲界・色界・無色界です。
 スマホをつくったスティーブ・ジョブズは面白いものを見たのです。スティーブが若い頃は、アメリカの禅寺に通って禅を学んでいました。黙って座ると、どのようなことが起きてくるのかというと、「時の流れが遅くなる」というのです。
 我々はスピードを持って常に変化をしています。時間は目に見えません。目に見えないけれども、座禅すると時間があって、時間がゆっくりと過ぎていくように感じます。ゆっくりと時間が過ぎていくということは、あらゆる変化をしていくものが遅くなってくるのです。
 時間の流れが遅くって止まったとき、これが「空(くう)」です。時が流れて動いていたら空(くう)ではありません。時がピタリと止まってしまった状態を空(くう)といいます。それをスティーブは「体験した」と言っているのです。
 仏教で見ると、一つのものの時間が変化して、次のものが進んでいきます。その時に生命の実相はどこで見るのかというと、時間が止まらなければ見えません。動いている状態を見ても見えません。
 時間がどんどん遅くなってピタリと止まったときに生命の実相が見えてくるのです。これを刹那成道(せつなじょうどう)といいます。刹那とは、時間がないことをいいます。その時に道を成じることを刹那成道といいます。
 仏様はそのようにして相手の正体を見ていくから、「Aさんは欲界だ」ということがわかってくるのです。相手の正体を見るには、時間を止めないと見れないのです。人間は常に動いています。ダンサーが踊っていたら顔などはっきりとは見えません。だんだんスローモンションになってきて、ピタリと止まると正体が見えてくるのです。
 時の流れを止めることにより、あらゆるものの正体が見えてくるのです。そのときにスティーブは宇宙からのメッセージを受け取り、ゆったりとした心の中で、時間が流れていくときの中でメッセージが閃いたのです。これがアカシックレコードです。そして、そこからスマホの技術を悟ったのです。
 何を悟ったのかというと、「世界は一つだ」ということです。「世界は一つ」なのだから、人間の持つツールも世界が一つになるツールをつくればよいのです。インターネットもそうです。国を超えてつながり、世界中の人が様々な情報を共有出来て、人類が持っている情報を世界中の人が引っ張り出すことができます。
 スティーブがやろうとした中に「世界は一つ」ということが入っているのです。スティーブがやってくれたおかげで、それを我々は共有しているのです。辞書も本も読めます。どんな勉強もスマホ一台あれば、何でもできてしまいます。
 スマホ一台あれば、人類が共通する巨大な情報を共有できるのです。「これが宇宙の構造だ」とうことをジョブズは悟ったのです。どこかに人類だけではなく、馬、犬、様々な生命の情報を集めた集大成であるアカシックレコードがあるのです。
 これはインド人の考えたことです。アカシックレコードには、特定の人しかキャッチできなかったのです。アインシュタインはアカシックレコードにアクセスして、そこからE=MC2などの方程式が出てくるのです。
 例えば、数学のできない人間が頭を打ったら数学ができるようになった例もあります。その人は頭を打ってから、頭の中に数学が出てくるのです。それはアカシックレコードとつながったのです。
或は、ピアノを弾いたこともない人が頭を打ったら突然、ピアノが弾けるようになったのです。どんどん頭の中に音楽がわいてきてしまうのです。それで大音楽家になった人もいます。これは実話です。
 これはアカシックレコードとつながった証明です。一般の人はつながっていません。自分の世界だけの情報だけで生きています。自分が情報を取って、やりとりしているのですから、非常に狭い情報です。宇宙から見れば、国家レベルの情報もほんの小さな情報です。
 スティーブは、「このような物を造れ。全世界がアカシックレコードを使える」というメッセージを受け取ったのです。どんな馬鹿でもアカシックレコードが使えて、どんな計算でもでてしまいます。これが天才の生み出した世界です。
 禅定が天才をつくったのです。しかし、座禅を下手に組むと野狐禅になり精神病になったり、おかしな病気になるので簡単にやるべきではありません。その集大成のアカシックレコードにあたるものを、仏教では南無妙法蓮華経と言われたのです。
 南無妙法蓮華経の修行をして極意に到達すれば、アカシックレコードから、どんなものでも入ってきます。仏になるということは、実はそのようなことです。

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2016年06月30日

人間の探究 542 妄想と現実(リアリティー)

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※現実のことをリアリティーといいます。妄想のことをバーチャルリアリティーといいます。我々は妄想から始まって、現実に終わります。すべての行動の原点は妄想です。

人間の探究 542 妄想と現実(リアリティー)

妄想と現実、この2つは離れているように見えるけれども、本当のところは一つです。例えば、ある人間の心の中に「人を殺そう」と妄想がわきます。これは妄想です。
「人を殺したいな」「あのジジイとババアをぶっ殺してやりたい」と思ったら、それは妄想です。まだ現実に殺していないのですから、その段階では妄想です。これからが問題です。普通の人はそこで生まれてきた妄想を「こんな考えはよくないことだ」と退けるのですが、そのうちフッとしたきっかけで「人を殺すのか。どうやって人を殺すのかな」と考えだすのです。すると妄想が一歩進んだということです。
「人を殺そう」と思っていることは妄想です。「どうやって殺そうかな」と思うことは、妄想が一歩進んだということです。
「海に突き落とそうかな」「首をしめて殺そうかな」「ハンマーで頭を叩き割ろうかな」と、そんなことを考えだすのです。かなり、これは現実に向かって一歩進んでいるのです。これは妄想が第二ステップに進んだということです。
そのうちに、「殺すのはいいけれども、自分が捕まってしまうな。捕まらないようにするためには、どのようにしたらよいのかな。海に突き落とすのが一番よいけれども、ハンマーで殺した場合、死体の処理をしなければいけない。では、ノコギリで死体をバラバラにして、どこかに捨ててこようかな」などと思うと、妄想は第三ステップにきているのです。しかし、「まだ、やろう」と思っていないのです。本人の妄想です。
それがもう一歩進むと「やってみたいな。これは面白いな。スリルがあるな」と思ってくるのです。「でも捕まってしまうと意味がないな。大丈夫、俺は捕まらない。俺はこんなことで捕まったりする人間ではないよ」と考えるのです。
これも妄想です。「捕まらない」という妄想が、どんどん肥大化してしまうのです。「そうか、俺は捕まらないのだ。だから海に突き落とすのだ。その前に、こいつに保険をかけておこうかな」と、妄想がサッサと進むのです。
それで「やるぞ!」と決めるのです。「やるぞ!」と言ってもまだこれは妄想です。この妄想が具体化すると、興味がわいてくるのです。「殺人は面白いな。マスコミも騒ぐだろうな。みんな騒ぐだろうな。俺はこれを見てひっひっひっと笑っていればいい。よし、いつかやるぞ!」と決めると、現実に人殺しをやってしまうのです。
最初に考えたことは妄想です。何段階も進んで、妄想がふくらんできて、具体化して「行動する」というアクションに変わるのです。
 最初は妄想です。普通は妄想がわいても「これはよくない妄想だな」「こんなことをしたら大変だ」と思って打ち消します。
 犯罪を犯す人間の特徴は「俺は捕まらない」と思っているのです。だからやるのです。犯罪者は「自分は捕まらない」と思っているのです。もっと言うと、捕まるまでやってしまうのです。
 「この1件は捕まらなかった、だから俺は次の事件を起こす」と思うのです。そして、次の事件を起こします。そして、捕まるまでやってしまうのです。ドロボウもそうです。1件で止めておけばよいのですが、「あのときは捕まらなかったな。もっと他の物もかっぱらってやる」と思って、どんどんエスカレートしていくのです。
 最初は妄想です。ドロボウの場合、「あれが欲しいな。でもお金がないから買えない。どうしたらいいかな。そうだ、かっぱらえばいいや」これは妄想です。
 現実のことをリアリティーといいます。妄想のことをバーチャルリアリティーといいます。我々は妄想から始まって、現実に終わります。すべての行動の原点は妄想です。
 「この心理を知りたい」これも妄想です。「本当の因果関係を知りたい」これは、バーチャルリアリティーです。実際に真理に向かって進む出すと、先ほどの原理で進むのです。
 例えば、「本当の御本尊について知りたい」と思えば、あちこち飛び回るようになるのです。これが松本勝也です。御本尊を探して、全国を歩いたのです。最初は妄想です。「真実を知りたい」というバーチャルリアリティーです。妄想が進んでいくから、最後はリアリティーに変わるのです。
 仏法ではこの妄想のことを一念心といいます。「一念心」と何気なく使っているけれども、「一念心、されど一念心」です。今ちょっと思った程度のことに憑りつかれてしまうと、妄想が広がり現実の世界になって自分に返ってくるのです。
 人間の動機は簡単なものです。自分の一念心をよく知って、一念心を見て「この一念心は悪いな」とすぐに消すのです。どのようにして消すのでしょう。「南無妙法蓮華経」と消していくのです。
 お題目を唱えると、その時の妄想が成仏するのです。「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えていくうちに、妄想が消えてしまうのです。南無妙法蓮華経とは、波動と言ってもよいのです。南無妙法蓮華経という波動を出せば、悪い一念心は消えていくのです。
 そのような悪い一念心に勝ちつづけていくことが成仏するということです。悪い一念心に負けてしまうと網走行になってしまうのです。「一念心、されど一念心」です。こうして自分の心を磨いていくということが、真実の仏道修行です。
 創価学会が1票取るために、お婆ちゃんを騙して選挙に連れていくなどという一念心は、必ずとんでもないことになるのです。創価学会員は、池田大作君のように両足切断になりたいのでしょうか。

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2016年06月29日

人間の探究 541 未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん

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※坊主は悟ってもいないクセに紫の着物を着たり、赤い着物を着て偉そうにやっています。

人間の探究 541 未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん

「法華経の怨敵は経に云く「悪世中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」等云云」(開目抄下)
これは具体的に日蓮大聖人様の御在世のときのことです。多くの堂々伽藍が立ち、京都にも大きなお堂が建ち並び、仏道修行も盛んに行われています。
比叡山には延暦寺があり、高野山には金剛峯寺があり、至るところに仏法は広まっています。しかし、そこにいる坊主どもは金の衣を着たり、三角の頭巾をかぶったり変な格好をして偉そうに見えます。このことを指して言われたのです。
「未だ得ざるを為れ得たりと謂い」まだ誰も仏法を悟ってはいません。悟ってもいないクセに紫の着物を着たり、赤い着物を着て偉そうにやっています。当時のお坊さんの位は皇室から与えられたものです。
皇室が位を与えるということは、坊さんよりも皇室の方が偉いのです。大僧正・権大僧正は、皇室が与える官位です。正式な位ですから、自分で勝手に「大僧正」と名乗るわけにはいきません。
今はお寺の坊主ならば「大僧正」と名乗れます。「私は大僧正です」とお寺の坊主が言えば、大僧正になってしまいます。昔は天皇に命じられた官位を名乗らないと、とんでもないことになったのです。官位とは権力です。
この構造は天皇が坊主に位を与えるのですから、天皇がお寺の上にいるとわかります。しかし、それで官位を与えられた坊主は悟ったわけでもなく、世間的な権力を天皇から認められたというおごりなのです。
坊主は何も悟っていません。皇族の場合は、お寺に出家すると大僧正になってしまいます。皇族が大僧正になり、皇族が入るお寺を「門跡(もんせき)」と言ったのです。
「門跡」がついていたら、その寺には皇族が入っているのです。皇族ですから、下から修行もしないでいきなり大僧正になってしまうのです。
傍から見ていると「お坊さんは偉そうだな。あんな立派なお寺に入って、紫の着物を着て、金の袈裟をかけて偉いお坊さんだな」と思ってしまうのです。当時の庶民は字が読めません。お経を読めるだけで「偉いお坊さんだな」と思ってしまったのです。
しかし、その中身を問うと何もわかっていません。このことを「未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」と言います。坊主は何も仏教の極意を知っていない、研鑽もしていないのに、「自分は大したものだ。自分より偉い者はいない。皆、頭が高い、わしが通るのじゃ」という感じで偉そうに歩くのです。
庶民も馬鹿だから、それが偉いと思うのです。「殿さま」「猊下様」「御前様」が行列をつくって歩くのを見て、「ありがたや」と言って、拝んでひれ伏すのです。
比叡山延暦寺の千日回峰行もそうです。朝の2時に起きて、1日40キロ山の中を千日間歩くのです。それを3年間続けるのです。千日回峰行といいます。それが終わったお坊さんは「一番偉い」と言われています。すごく過酷な行です。
いついかなる時があるかもしれないので、その場合は短刀で切腹して命を絶つのです。短刀を持って山の中を走り回るのです。千日の回峰行が終わると、「お聖人様」になるのです。
「たいしたもんだ。千日回峰行をやった偉いお坊さんが山から降りてくるべ」と、お坊さんが山から降りてくると庶民が道にむらがったのです。すると、坊主が「まあまあ」と歩くのです。「お聖人様、私の願いを叶えてくださいませ」「病気を治してくださいませ」と庶民がすがるのです。
そんなのはまだ行をやっているからよいのですが、お寺に入った坊主で行をやっていない坊主は大勢いたのです。そんな行をやったからといって悟りを得られるものではありません。ただ、普通のお坊さんよりも「少し頑張ったな」という程度であり、仏法が何を説いたものか、肝心かなめのものを知りません。知らないのに大僧正になったり、千日回峰行をやって自慢をしているのです。
「未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」そして、「俺よりも偉い者はいない」と思っているのです。
日蓮大聖人様の御在世当時も、今もそうです。坊主は何も知りません。私からみたらゴミみたいな奴らです。それが偉ぶって多額のお布施をもらい、シャナリ・シャナリと歩いているのです。これらの坊主は偽物です。
本当に命がけで仏法を求めないと仏法はわかりません。「仏法とは何か? お前、答えてみろ!」と聞くと、仏法を勉強していないから答えられません。
世界のクソ坊主は、私に頭を下げなさい。仏法の教えを聞きにきなさい。私は庶民ですが、それだけの自信があります。何の位もありませんが、仏法について教えられるのです。
「我慢の心充満せん」「我高し」と思っていて、坊主は人の話は聞きません。すると威張るのです。中身がないのですから、威張るだけになってしまうのです。「おい、どけ!」「おい、靴!」と怒鳴り、小僧さんをバチバチ殴るのです。中身がないから、そのようになってしまうのです。何もわかっていないのです。
そうならないように中身を高めていかないと仏道修行ではありません。大石寺さん、大丈夫ですか? 妙観講さん、大丈夫ですか? 顕正会の皆さん、会長先生に「伏せ拝」などしている場合ではありません。「浅井会長先生が中杉博士を折伏してください」と言ってみなさい。浅井はふんどし担いで逃げ出します。
創価学会の原田は何を教えているのでしょう。正月になると有名人が1千名もくるらしいのです。経団連の会長、三菱東京UFJ銀行の頭取、あらゆる者が来てお伺いをたてにくるらしいのです。それは、創価学会の持っているお金に群がってくるのです。仏法について頭を下げているのではありません。それを忘れて、金いじりの創価学会です。お金を貯めることが創価学会なのでしょうか。違います。
創価学会はまさに「未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」です。この御書をしっかりと勉強して、修行をやり直しなさい!

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2016年06月28日

人間の探究 540 あらゆるものは心の影である

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※「九識心王真如の都」と言って、そのところを説いたのが、実は南無妙法蓮華経です。

人間の探究 540 あらゆるものは心の影である

西洋の精神科医であるユングにしてもフロイトにしても、最後は「あらゆるものは心の影である」、このような考え方になってしまったのです。物理学を研究している最前線の連中もだんだんそうなっているのです。
物質の世界が心をつくっていると思ったら違います。物質を超えて心という存在があるのではないでしょうか。「心という存在がホログラフィーのように現実をつくっているのではないか」ということを言いだしたのです。
今の人々は「心は肉体の影」だと考えています。肉体が上で心が下です。肉体を殺してしまえば、心はなくなります。心がすべてであり、心の影が肉体であるというならば、それは心が中心ですから、人間を殺しても、心は殺すことはできません。だから心が残ってしまうのです。
どうやらそうではないかということに気が付いてきたのです。肉体は心の影です。だから、いつも病気の人は心が病気です。反対に健康な人は心が健康です。どうやら心の方に重きがあって、この世に生まれてくる仕組みは、心があり、心が形づくってくるのです。そのようにして人生をつくっていくのです。心が中心です。
人間は彫刻されたように成人になります。何が成長させているのでしょう。それは、心が成長させているのです。これは、矢追さんの言う「宇宙エネルギー」です。どうやら宇宙エネルギーは不滅らしいのです。
自分の体はすぐに病気になったり、死んだりしてしまいますが、宇宙エネルギーは不滅です。このことを仏教では説いています。これは無量義経の中に書かれています。
無量義経の中では「不大不小」の心というものは、「大なるものではなくて、小なるものでもなくて、滅するものでもなくて、滅せざるものでもない」という意味で書かれています。肉体を殺しても、心はあります。それがエネルギー不変の法則のようなもので消えないのです。
心がどれだけ大きいのかというと、無限大です。どれだけちいさいかというと、どれだけでも小さくなります。一つの心があちこちにも広がります。Aさんの心、Bさんの心、人間の数だけ心があります。その元は一つです。一にして多なのです。心はたくさんあるように見えるのですが、根源を探っていくと一つです。
このような法則性を心はもっています。あらゆる現象は心が引き起こしている、ホログラフィーだとも言えます。それを詳しく説いたのが法相の成唯識論(じょうゆいしきろん)という経典です。これにはユングやフロイト以上のことが説かれています。
まず、意識とは心です。意識を分類します。すると、五識、六識、七識、八識と別れます。「識」とは、「認識する」ということです。この認識があります。まず、我々は五感を持っています。五感とは、目・耳・鼻・舌・皮膚です。人間は五感が感覚を持っていますから、「自分」を感じるのです。
この五感というものがなければ我々は「自分」を感じることができません。舌がなければ味がわかりません。鼻がなければ匂いはありません。耳がなければ音は何も聞こえません。実際にそのような人はいます。ドカンと大きな爆発音がしようと、音は聞こえないのですから、音が感じないのです。
目が見えなければ皆の形が見えません。だから何もないのと同じことです。五感を閉じてしまったら、人間は生きてはおれません。逆にこの五感を差別して、さらに意識を統合して一つの生命体を造り上げているのです。
ここまでは通常の意識です。コンシャスネスという意識活動です。その奥にフロイトやユングが発見したとも言われる「無意識」があります。この無意識が西洋では問題になったのです。自分でありながら、自分ではないのです。自分でありながら、自分のことがわからない状態です。それを無意識といいます。
例えば、ここに夢遊病の患者がいて、フラフラと立ち上がり、あちこちを歩きます。歩いているときは、その人なりに必ず意識はあるのです。だからぶつかりもせず、フラフラとしながら歩けるのです。
それが眠ってしまい、次に起きたときに「貴方、あちこち歩き回ったことを覚えている?」と聞くと、全然覚えていないのです。では、覚えていなかったときの行動は何かというと無意識というのです。
ベッドに寝ているのも、歩き回ったのも同じ人間です。しかし、歩き回ったことは覚えていないのです。意識できないのですから、無意識というのです。そのような無意識的な行動が人間にはたくさんあります。意識できないけれど「自分」という面を誰でも持っているのです。
夢もそうです。「このような夢を見よう」と思って夢を見る人はいません。恐ろしい夢など因果関係はありませんが、夢の中でも「自分」です。「恐ろしい」「楽しかった」など、「自分」が感じるのです。夢は覚めた人からみれば無意識です。
今、意識して考えている世界はConsciousness(コンシャスネス)の世界です。無意識の世界はSubconsciousness(サブコンシャスネス)です。これが存在するとフロイトは言いました。何故、そのような現象が起きるのかというと、人間は嫌なことは無意識、好きなことは記憶しています。
 昔、親父に苛められた、お母さんに苛められた、お母さんが強姦されてしまったなど、そのようなことを子供の頃に経験すると、そんなことを覚えている必要はありません。どんどん忘れてしまうのです。
 しかし、「知らないよ」と言っても見てしまっているのです。それを忘れて思い出さないようにしているだけで、嫌なことは心の奥底に沈んでいるのです。すると嫌な心が沈んでいる部分は、どのような働きをするのかというと病気になってしまいます。
 「女性を見ると結婚したくない。性欲も起きない」という人間がいたとします。これは通常ではありません。それをフロイトが研究したのです。心理分析をしていくと、やっと思い出したのです。
 思い出したということは、無意識の世界に入っていた体験を意識の世界に引っ張り出したということです。「私はお母さんが強姦されるところを見てしまった。それから女が嫌いになった」原因はそのようなところにあったのです。
 そのようなものを「マザーコンプレックス」と言ったのです。意識に沈んでしまい出てこないことをコンプレックスといいます。何がコンプレックスになるのかというと、人それぞれ違います。
 お父さんが偉大で子供の頃に「お前も俺のようになれ」と言われると、ものすごい圧力になります。お父さんが大嫌いになってしまうのです。「何故嫌いなのか?」本人は覚えていないのですが、昔、コンプレックスがあって今でもそれは続いているのです。これは「ファザーコンプレックス」です。心に沈んでしまったものを引っ張り出して精神分析をしたのです。
仏教でいうと六感があり、その奥に自分が知らない意識があります。それを末那識(まなしき)といい、第七識です。それで終わりではありません。
ユングは「集合無意識」と言いました。集団無意識ともいいます。例えば、「貴方は日本人です。貴方の中には日本人の経験がたくさん入っているのです。貴方は経験していなくても、戦争で死んだ人達などの様々な経験が入っているのです。」
それは貴方を形成している意識の中にはありませんが、外側にあり、貴方を形成している意識です。日本人などという意識は集団意識です。日本人に生まれたということは、日本人が持っている意識を無意識にしまい込んでもっているのです。これが集団無意識です。
八識(阿頼耶識)にいくと、すべての生命が持っている意識があります。それは豚や馬や牛も恐竜もすべて入るのです。混然と一体になり、個人の意識と、それを外に開いていくと、自分が経験した仲間内と、もっと開いていくと日本国家という大きなものが貴方を形成しています。
日本国家など、普通は意識していません。そのような集団無意識があります。ユングは「集団無意識とはどのようなものか?」ということをととらえようとしたのです。それは「夢の中に現れるのではないか」と思い、毎日夢を日記に書いていったのです。
すると恐ろしいことが起きてきたのです。夢が実現しているということがわかったのです。夢はなぜ見ているのでしょう。これは自分の意識ではありません。集団無意識を見て細かくキャッチをしていくと、非常に様々な経験をしているのです。今の自分が経験したことがないことです。
僕は夢の中で空を飛ぶ夢を見たことがあります。実際に空を飛んだことはないのですが、僕が知らない太古の昔に鳥だったのかもしれません。そのような意識があって、空を飛べるのです。それを書いていくのです。
ユングは恐ろしくなって止めたのです。「恐ろしい。もうこれ以上書けない」夢日記がどんどん実現してしまったのです。そこまでがユングの世界です。さらに奥に行ったのが仏法の世界です。「九識心王真如の都」と言います。
それはどのような世界かというと、時・永遠の過去、我々が生まれた最初の時から最後まで、動物ならび、植物、石も山も川もすべてが入った世界があります。これは国を超えています。全人類、全動物、全植物、全鉱物も入った共通意識があるのです。
これが第九識です。これこそが、「九識心王真如の都」と言って、そのところを説いたのが、実は南無妙法蓮華経です。勉強しましょう。

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2016年06月27日

人間の探究 539 一味同心

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※茶室に集まった全員で一杯のお茶を飲むのです。一味同心といいます。

人間の探究 539 一味同心

千利休はなぜ秀吉に殺されたのでしょう。これはいろいろな説があり、定説は定かではありません。千利休の寄進したお寺の門の上に千利休の木像を天井に置いたので、その下を秀吉が通るのは「けしからん!」となり、千利休に切腹を命じたという説があります。
その他様々な説があります。しかし、この問題点はそんなことではないのです。これは権力争いです。政治は秀吉です。秀吉は天下を取るために何百万人という人間を殺してきたのです。
天下を取るために何百万人の人間を殺して、その殺した上に立って政権を維持していたのです。これは事実です。千利休は町人ですが、天皇からお坊さんの位をもらい、「千利休」と名乗ったのです。千利休はお坊さんと思ってよいのです。刀も持っていないし、何も持っていないのです。一人も殺していません。
百万人も殺している俺様(秀吉)が天下を取っているのに、天下の人気は千利休のほうへいってしまうのです。秀吉は千利休に焼きもちを焼いたのです。千利休が侘茶をつくれば、千利休の言い値になってしまうのです。千利休が「よい」と言ったお茶碗は千両くらいするのです。千両とは、今の値段で1億です。千利休が進めたお茶碗はそれくらい高価な値段がついたのです。
千利休が竹を切って花を一輪挿します。「うわー、いいですね」となってしまいます。竹を切って自分で道具をつくると、「その道具をくれませんか?」と言われるのです。千利休は何をやってもお金になってしまうのです。
やっていることは、全然お金をかけていません。やっていることは侘茶です。侘茶は、一番小さい部屋は2畳です。畳2枚です。簡素につくった囲炉裏です。その真ん中に炉がきってあるのです。2畳しかないのですから、人数の入りようがありません。
入れたとしてもせいぜい3人です。しかも、その入り口には躙口(にじりぐち)があります。躙口は1メートル四方の穴です。かがんで頭を縮めて入るのです。侍は刀をもって躙口から入れなかったのです。刀がつっかかるので、刀を置いて、どんな大名もネズミのようにかがんで躙口から茶室へ入ったのです。
するとそこに亭主がいて丁重にもてなすのです。「もてなす」とはどのようなことでしょう。山海の珍味を持ってきて「御馳走だぞ。ほら、食べろ!」と言われて、皆がバクバク食べることがもてなしでしょうか。西洋型のもてなしはそうです。
ところが千利休のもてなしは違います。茶室の廊下に何人も並んで待っているのです。すると、お茶を沸かして中で用意ができると、ドラが鳴るのです。すると「お招きがあった」と客人は躙口から入るのです。
茶室の広さは3畳はあるので、4〜5人は入れます。中に入ると豪華な物は何もありません。あるのは炉です。炭火を起こして、そこにお湯が沸いています。それだけです。そして作法があります。それを千家流と言っています。
まず客人は茶室に入ったらガヤガヤしゃべりません。黙って座ります。まず一番にお茶菓子が出てきます。落雁(らくがん)など小さいお茶菓子が出てきます。それを大事にいただきます。その次にお茶が出てきます。
お茶菓子を頂くのが一座です。二座でお茶をはじめていただけるのです。その時に、「一味同心」ということが出てきます。「ここにお集まりになりました、5名様のお客様は同じお茶を飲んでいただきます。どのお茶を飲んでも同じ味です。」
たった一つのお茶碗を時間をかけて皆で飲むのです。亭主が「どうぞ」と言うと、お客は居を正して一口飲みます。一口飲んだら、飲んだ口をふいて、手でお茶碗を回して、次の人に「どうぞ」と渡すのです。一杯のお茶碗を30分くらいかけて「けっこうでございます」と言って飲むのです。
その前にお茶碗を褒めたりしますが、そこで一味が生まれるのです。茶室に集まった全員で一杯のお茶を飲むのです。一味同心というのです。「一杯のお茶を皆さんで飲んだのですから、皆さんの心は一つになりました。争いの心、嫌な心を払って、静寂なる境地をお楽しみください」ということが茶の湯です。
それが終わるとご飯などでます。ご飯を終わると、「御酒」と言ってお酒も出ます。一座、二座、三座、四座、五座くらいありますが、流儀によって違います。最後にお酒がでます。お酒と言ってもおちょこに半分くらいしかでません。盃でグビグビ飲むのではなく、おちょこ半分くらいの酒です。それを飲んでおしまいです。
お茶会では、7時間くらいの時間をかけます。それが終わると、一味同心の何とも言えないよい気持ちになるのです。心が静かになり落ち着いて、素晴らしい境地になり、「ご接待になりました」という気持ちになるのです。それが茶の湯です。
その茶の湯の接待をつくったのが千利休です。戦国武将もみな接待を受けたのです。利休はお金を使わないのに、そのような接待ができたのです。戦国武将も「素晴らしい、俺もあんな接待がしたい」と思って千利休の弟子になったのです。その弟子が帰って同じことをやるのです。
百万人も殺した秀吉は、血の海の上に乗った天下です。千利休は血の海に乗っていないのです。秀吉はだんだん違いがわかってきて「ぐやしい〜、生意気だ!」と思ったのです。
そして、こう考えたのです。「もし、千利休が天下を取ろうとしたら、弟子の大名に声をかけるな」と思ったのです。千利休の茶の湯は楽しい、秀吉は血にまみれているのですから楽しくないのです。
だから大名が千利休を選ぶ可能性があるのです。すると「俺は殺されるな」と秀吉は感じ取ったのです。だから因縁をふっかけて「許さん、千利休を殺してしまえ!」と命令したのです。だいたい秀吉はおかしいのです。
当時、坊主を殺すことはやらなかったのです。千利休は坊さんですから、島流しにするなどの決着の方法もあったのです。それを「切腹しろ!」と言い、切腹・打ち首を命じたのです。
千利休はそのことを知って、「私の首を斬る介錯は待ってくれ。私が手をあげるまで待ってくれ」と言って、短刀で腹を十文字に斬ったのです。十文字に腹を斬ると臓物が飛び出してきます。それを引きずり出して、利休は手をあげて介錯させたのです。
その首を秀吉のところへもっていくと、首桶を見もしないのです。「鴨川にさらせ!」と言って、千利休の木像に千利休の生首をふませてさらしたのです。ひどいことをやります。秀吉は千利休を憎み、千利休も秀吉を憎んだのです。
権力者は、少しでも疑いのある者は殺してしまうのです。これが文化です。最近でも金正恩が部下を100名も殺しています。ちょっとでも疑いのある者は「殺す!」のです。これが大事なことです。
そのような文化に飽き飽きした人が仏教の精神に基づいたのです。それを「侘(わび)・寂(さび)」といいます。「侘・寂」とは、刀を持って斬り殺して血の海の中に出てくるものではないのです。
「侘・寂」は、すごい芸術だと思います。その中に生まれた「一味同心」という思想は、「みな同じ」です。すごい思想です。ぶち殺したりするようなものではありません。みんな同じです。一味同心の教えとは、そのような教えです。
このようなことは、我々も大いに参考にしてよいと思います。

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2016年06月25日

『般若心経の大予言』■うぬぼれた悟りは地獄因 23

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※前世の因縁によりふと人生の無常を悟ってしまい、山中にいて人の交わらない、これを縁覚という。

『般若心経の大予言』■うぬぼれた悟りは地獄因 23

 声聞界と縁覚界の衆生を二乗といいます。縁覚道とは独覚(どくかく)・辟支仏(びゃくしぶつ)ともいい、仏陀のいない世に生じて飛花落葉(花が空にヒラヒラと舞い落ちる自然現象)を見て、全ては苦・空・無常・無我(四諦(したい)の法門)と悟り、仏法の一分を得て満足し、一人法悦をかみしめて、化他(けた・人を導く事)に出て人を救わざるが故に、この名がつけられました。
 古代から今にいたるまで、ヒマラヤの山中に篭り座禅瞑想し、小分の悟りを得て、誰にも会わず一人死んでいく隠者はいるはずです。人に知られないのだから、何人いたかなど知れるはずもないのですが、このような人達をインドでは聖者と言い、深く尊敬を集めていますが、むしろ聖者より隠者の方が正しい呼び方ではないでしょうか。
 誰にも教わらないのに自然の飛花落葉を見て、一分の悟りを得るとは不思議な事ですが、三世の生命観に立てば、仏様は縁覚(独覚)の因果を明確にお説きになられています。
 これらの者は過去世に、十戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)を固く守り、見惑(全ての物に実体ありと考え、自分の我が常に存在すると考える事)を破して、無常・無我と悟った故であります。
 惑(迷い)には大別して三惑と呼ばれる、見思惑(けんじわく・見惑・思惑)・塵沙惑(じんじゃわく)・無明惑があり、これらの惑を全部破して仏陀となるわけですから、見惑だけ破しても仏陀にはなれないのです。さらに思惑・塵沙惑・無明惑を破さなければならないのに、一分の悟りで満足してしまうから辟支仏、独覚とかいわれ、法華経が説かれる以前では、二乗(声聞・縁覚)は不成仏(未来永劫に成仏しない)として、お釈迦様よりしかられたのであります。
 自分に満足してしまって、一切人の言を聞かないのです。仏陀の悟りがさらに上にあるのを知らないのです。そこで慈悲を発せられたお釈迦様はまず叱って、目を覚まさせる必要があったのです。
 「お前は成仏しないぞ」と弾詞されたのでしょう。もう少し詳しくみてみます。

「聖人に三道あり、見道とは見・思の内、見惑を断じ尽くす。此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す。此の人は欲界の人、天には生れども永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちず、天台曰く「見惑を破るが故に四悪趣を離る」文、此の人は未だ思惑を断ぜず貪・瞋・痴・有り、身に貪欲ある故に妻を帯す、而れども他人の妻を犯さず、瞋恚あれども物を殺さず、鋤(くわ)以て地をすけば虫・自然に四寸去る、愚痴なる故に我が身、初果の聖者と知らず、娑婆論に云く「初果の聖者は妻を八十一度、一夜に犯す」と、天台の解釈に云く「初果地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なり」と、第四果の聖者、阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う。永く見惑を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず。見惑の煩悩無きが故なり、又此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず、身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智(けしんめっち・肉体を灰にして智を滅す)と申して見も心もうせ虚空の如く成るべし習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗これなり」(一代聖教大意)
 以上は修行の果としての二乗論ですが、命を一念と見る立場からの声聞・縁覚とはどのような命でしょうか。私はこう考えます。
 我等凡夫の命は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を、車のように毎日毎日、いや瞬間・瞬間、輪廻しています。その人生に虚無を感じて、「何とか幸福になる道はないものか」と考えたとします。
 そこでお釈迦様の仏教にめぐり合い、仏陀の説法に一心に耳を傾けたならば、その命そのものが声聞であるといえます。
 さらに、仏教を学ぶにつけ、分分に悟っていくわけですが、仏陀の真意の奥深いのも知らず「我大悟せり」などと思い、一切の人の言に耳をかそうとしなくなれば、この命の正体こそ独覚・縁覚と知る必要があります。
 また大事な事があります。自然界に存在する命は、六道までという事です。いくら自然を感じても、そこから出てくる命の最高は天界の第六天(精神世界の満足)の果であり、声聞・縁覚は仏陀の胸中の一部から発しているということです。
 前世に仏陀の法の一分を修行して、今世に声聞・縁覚となったのですから、今世で仏陀を見ないといっても、声聞・縁覚になった真の原因はやはり仏陀にあるのです。
 いくら仏教を求めて、聞く耳を立てても、仏陀がおられ、あるいは経が無ければ何も聞こえるはずも無く、悟りようもありません。
 声聞にしても縁覚にしても、最初に聞いたのは「仏陀の説法ありき」だからであります。我等の凡愚の一念でも同じことで、仏陀の教法が無ければ声聞も縁覚も成立しないのです。
 仏道を修行する者の陥りやすい声聞・縁覚の二乗心を冷静にながめ、どこまでいっても慢心する事なく精進に励む事が大事です。

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2016年06月24日

人間の探究 538 身口意(しんくい)の三業

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※体でやる修行は座禅・滝行・水行・断食などです。身業(しんごう)といいます。身業とは、(からだのごう)です。

人間の探究 538 身口意(しんくい)の三業

これは、修行が先です。身の修行、口に出す修行、心の修行です。お題目を唱えるのは、口でやる修行です。体でやる修行は座禅・滝行・水行・断食などです。身業(しんごう)といいます。身業とは、(からだのごう)です。
心で「空について考える」「空仮中の三諦について考える」など、様々なことについて考えるのは口を使うわけでもなく、体を使うわけでもありません。それは心による修行です。修行といっても様々な修行があり、体の修行をやるのか、口の修行をやるのか、心の修行をやるのか、3つに分解されます。これを身口意(しんくい)の三業といいます。
反対に体の業があります。体の業とは、悪い面でいうと理論物理学者のスティーヴン・ホーキング博士にように体がだんだん動かなくなることです。ホーキング博士は、体は動かない、手はほんのちょっとしか動きません。徳洲会の徳田虎雄氏も体が動かないので、ご飯も食べさせてもらわないと自分では食べられません。体が動かないのです。脳卒中もそうで、体に業が出てしまうのです。
体に業が出ているからといって、心に業が出ているとは限りません。ホーキング博士はしゃべれないけれども頭は動いています。理論物理学者としての最高の頭脳を持っています。ホーキング博士の体は動かなくても、教授です。心は働いているのです。心は業を受けていませんが、体は業を受けて動きません。
今度は口という問題があります。口とは言葉です。日本語をしゃべっているのも業です。英語をしゃべっているのも業です。韓国語をしゃべっているのも業です。人間は様々な言葉を使って考えています。口の業では、舛添のようにコテンパンに悪口を言われる人もいます。これは口の業です。相手は悪口を持って攻めてきます。それに受け答えをしているのですから、口が業を積んでいるのです。
体が業を受ければ、片輪になったり、両足がなかったり、体が動かなかったりするのです。口が業を積めば、人に悪口を言われて、あることないことを言われて苦しみを受けます。
ホーキング博士の話をしましたが、ホーキング博士はまだよいほうで、心が業を受けていません。心が業を受けて、「業が満ちる」状態はキチガイです。心がキチガイでも、立派な体を持っている奴もいます。女で結構美しい体を持っているのに、頭がノータリンでキチガイだったら仕方ありません。
そのように考えていくと、身口意の三業がよくわかるのです。普通の人の身口意の三業はバラバラです。身口意は本来は三つではなくて、一つです。一つのものをバラバラに分解してみると、体があって、口があって、心があります。元々は一つのものです。身口意がバラバラになっているということは。現罰の姿です。
口で唱えることと、頭で考えていることと、体がやっていることがすべて違うのです。これはキチガイです。身口意がバラバラです。この身口意の三つが、信仰が進んで一つになると、健康な体を持ち、健康なことを考え、口から出る言葉も仏様の説法やお題目です。
その三つが集まって、初めて成仏に向かっていくことができます。それを考えたときに、「自分は何が足りないのかな。今までウソばかり言ってきたからな。体は健康だけれども、ウソばかり言ってきたから来世は口の業が出てしまうな」とわかってくるのです。ウソばかりついてきたということは、来世はウソでやられてしまうのです。
池田大作のように、ウソのことを教えてきたら、最後は自分がキチガイになってしまいます。皆を捕まえて苛めて鞭でぶったり、権力をつかって人々を苛めてくると、来世は最低の体を持つのです。
修行がちゃんと進んでいくと身口意の三業がそろってきて、すべて妙法に向かっていくと成仏に向かっていきます。「貴方の体は健康だけれども心が曲がっている」そんな奴ばかりです。「貴方は足が達者で動くけれども、口から出ることはすべてウソだね」これは身口意の三業がバラバラなのですから、来世はその報いを受けるのです。
僕に対して陥れようとして、僕の悪口を言ってきた人間がいます。最後は大変です。来世は終わりです。みんなが攻めてきて、その人間は身口意がバラバラになってしまいます。
身口意の三業は整えていくのです。妙法によってだんだんと整えていき「私はここが抜けているな」「またウソを言ってしまったな」「また変なことを考えてしまったな」「今の亭主と別れて、新しい男と一緒になろうかな」などと考えていると、これは悪いことだから、その結果について知りなさい。
心が曲がった場合、口が曲がった場合、体が曲がった場合、どのようになるのか考えていかなければいけません。いつも寝そべって酒ばかり飲んでいる奴はもう体が落ちているのです。
「身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ」(四条金吾殿御返事)ということを日蓮大聖人様は言われています。口で「妙法を信じています」と言っても。妙法を唱えない、これはダメです。正しい行動をしない。信仰していく人の深い戒めだと思います。

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2016年06月23日

人間の探究 537 正理会は真理会ですか?

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※正法とは、中道を説いた正しい教えということです。真理を極めていくと正理です。

人間の探究 537 正理会は真理会ですか?

真理ということをまず考えてみなければいけません。真理とは、相対的にして出てくる言葉です。比較する相手がいないと、真理はありません。「AさんとBさん、どちらが真理ですか?」というのは成り立ちます。
Aさんだけしかいないのに「Aさんが真理ですか?」と聞いても答えはでないとわかります。Aさんはそこにいるのですから、よいも悪いもないのです。2人いると「AさんとBさんのどちらが真理ですか?」ということが成り立ってきます。「どちらが真理ですか?」ということが成り立ってきます。一人だと関係ありません。真理とは相対して出てくる概念です。
「絶対の真理」などありません。「絶対の真理」などないのに、宗教ではこれを言うのです。「キリストが絶対の真理を説いている」「マホメッドが絶対の真理を説いている」「仏陀が説いているのはすべて真理だ」と説きます。
真理を突き詰めていくと、3つも4つも出てきてしまいます。だから、その集団にとっての心理にしかすぎないということがわかります。キリスト教というものを信じている集団の中での真理、イスラム教を信じている集団の中での真理です。
それは比較することができます。「イスラム教とキリスト教のどちらが真理ですか?」と比較することはできるのです。「仏教とキリスト教を比べた場合、どちらが真理ですか?」ということは、すぐに結論がでます。
仏教が真理であって、キリスト教は真理ではありません。これはイスラム教においても同じです。「神の教え」と言いますが、キリスト教にしても、イスラム教にしても虚妄(こもう)の真理だとわかるのです。
虚妄の真理であるから、他の宗教を迫害するのです。イスラム教は簡単なことで、「イスラム教に改宗するのか?信じるならば命は助けてやる。信じないならば殺すぞ」と言い、何人か見せしめのために殺して「こうなりたいのか?なりたくなければイスラム教に改宗しろ!」原理はこのようなことです。
真理だから信じるのではありません。宗教とは国の規律のようなものです。「仲間の掟」このように考えたらわかります。「お前、俺たちの仲間に入るか?入ればこのような規律があるぞ。ムハンマドを神として信じるか? 信じるならば助けてやる。信じないならばお前を殺す」このような掟です。
暴力団と同じです。「お前は●●組に入るのか?入らなければぶっ殺すぞ!」と脅かすと、気の弱い奴は「では、入ります」と言ってしまいます。すると「入った以上は、刺青を入れろ。親分をお前の命と思え」と言われるのです。暴力団と宗教の構図は同じです。
真理を求めて山口組に入る奴はいません。真理を求めて宗教に入信した人もいません。宗教とは仲間の掟です。「今日からお前はイスラム教徒になったのだからこうしろ。仲間になったのだから、毎日メッカに向かって5回祈れ。これが我々の仲間の掟である」ということです。イスラム教には、まだまだ細かい掟があります。
「浮気した女は石で打ち殺せ」「ドロボウをした奴の腕を切り落とせ」「これが我らの仲間の掟だから、この掟に従え」これが宗教です。「真理だ」など誰も思っていないのです。仲間の掟だからそうなるのです。
キリスト教もそうです。「キリスト教徒になりたい」と言うと、神父が「では、神とイエスと精霊が一体であると信じますか?」と聞かれます。普通の人は、信じていません。だから「信じますか?」と迫るのです。神父に「三位一体を信じますか?信じるならば、アーメンと言いなさい!」と言われて「アーメン」と言ってしまうのです。
それから神父に「これがキリストの血だ」と言われてパンを渡されて、「これを食べろ」と言われて、葡萄酒を渡されてそれを飲むと「これはキリストの血である。今日からお前はキリスト教徒になったのだ。安息日を守れ。日曜日になったら必ず休むのだ。これが仲間の掟だぞ!」と言うのです。信者は「わかりました。アーメン、信じます」と言います。宗教とは、信者に掟を守ることを約束させるのです。真理などありません。
仏教はそうではありません。「今日からお前は釈迦を信じろ。信じなければ殺すぞ!」そんなものではないのです。信じなくてもよいのです。「仏弟子になり、仏陀を目指したければ、わが教団に来て学びなさい。そのときにはこうしなさい」という掟はありますが、「五戒」という簡単な戒めです。肉を食べない、人を殺さない、ウソをつかない、姦淫をしないという教えです。それを信じれば仏教徒です。キリスト教やイスラム教とは、まるっきり違う教えです。
どちらが真理かと言ったら、キリスト教とイスラム教に真理はありません。どちらも間違っています。人間が掟をつくったのです。
仏教とはそうではなく、真理を探究したものです。だから、仏教が真理です。仏教の中にもたくさんの教えがあります。何が真理でしょうか。2つ集まれば、その中において真理はでてきます。3つ集まれば、3つの真理があります。どんどん集まってくればくるほど「真理はこうだ」と言えるのです。
真理の中身について検討すると、「どうも真理とは、正理(しょうり)らしい」とわかってきます。正理とは、真ん中ということです。何故かと言うと、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十とランクがあり、「正(しょう)」とは、五です。「正(しょう)」とは、真ん中です。「真理は真ん中にある」という考え方です。
極端に右に触れて、左に触れていたら、一か、十かで、そんな考え方は狂っています。正理とは、正しい真ん中の位置にあるということが大事です。真ん中の位置にあるということを「中道」ともいいます。一は中道ではありません。十も中道ではありません。
全ての真ん中の真ん中を煮詰めていき、「すべての中心になるものは何か?」と検討していくと正理が出てきます。正理とはそのようなものです。出てきた正理は真理です。人間は「全体を統一する真理がある」と思うのですが、そんなものはないのです。
2つのものが集まったときに、どちらかのものが真理です。そのような考え方です。それをずっと重ねていくと、全てで見た場合は、五が正理です。
正法とは、中道を説いた正しい教えということです。真理を極めていくと正理です。正理が真理だと言ってもよいのです。

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2016年06月22日

人間の探究 536 諸法実相について

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※諸法の実相とは、因果倶時のことを言っているのです。

人間の探究 536 諸法実相について

 昔、生長の家の谷口雅春が『生命の実相』という本を出していて、大人気を博したことがあります。成長の家は戦後、ラジオで布教したのです。成長の家の内容をラジオで聴いていて、感動した人が成長の家に入会したのです。
 今でも原宿にあり、活動しているのかわかりませんが、結構な勢力をまだ持っています。成長の家は、アメリカのクリスチャン・サイエンスを基礎にした考えです。原理はこうです。「生きているということは、心の影である。心が一番大事なのです。心が病気になるから、肉体が病気になるのです」そのような教えですから、結構納得できる面もあります。
 心が治れば、肉体の病気は消えるのです。これで実際に多くの人々が救われたのです。仏教でいうと唯心論です。唯心論とは、「ただ心のみ」ということです。心のみが実相であり、肉体は心の陰である。貴方が貧乏を直そうとしても治りません。心を直さなければダメなのです。
 このような教えですから、当時わかりやすかったのか、結構信者ができたのです。「クリスチャン・サイエンス」という考え方です。仏教の諸法実相ということは、生命の実相を説くのですが、このような説き方とは違います。
 諸法実相という言葉が法華経の中に出てくる以前、仏様は最難解と言われる最も難しいとされる問題を明らかにされた人なのです。それは長い長い修行の結果そのようになったのです。誰も仏様に追いつくことなどできません。誰も仏の悟りを理解することはできません。そのくらい難しい「難解(なんげ)の法」といわれています。難解の法を成就されて仏陀になったのです。
この世界には諸々の物があります。「様々な物がある」ということを、諸法といいます。仏法はとくに心の諸法です。様々な心があります。ドロボウする奴、人殺しをする奴、様々な心があります。千差万別です。人間の心は万法です。クルクル変わり、縁にふれれば泣いたり笑ったりします。
心の実相とはどのようなものでしょう。心は、物質界にも影響を与えているのです。「心が中心だ」ということは間違いありません。様々な物も心から出ているのです。心が諸法であるから、この世に出てく物も千差万別です。
生命だけ見ても何千種類とあります。恐竜、魚、鳥、様々な生き物がいます。この生き物ごとに心を持っているのです。千差万別、諸法です。このような差別、違いというものを最初に見た人は「諸々の法(諸法)の実相というものは、どのようなものでしょう」と見たのです。
日蓮大聖人様の教えはそうではありません。諸法の実相ではなくて、この経典の意味は「諸法即実相」と読むのです。「即」という字は入っていません。それを日蓮大聖人様は「諸法即実相」とよんだのです。これは難しいのです。
実相が別にあるならよいのです。現象界があり、その奥に実相があるならば、「諸法の実相」になります。しかし、「諸法即実相」というのですから、これを考えてみなければいけませんが、考えた人はあまりいません。
諸法の実相とは、因果倶時のことを言っているのです。あらゆるものは原因があって結果があります。原因が様々であるから、結果も様々で諸法になります。あらわれている諸法が、そのまま実相を表しているのです。
これが仏様のお悟りです。岩があり、この岩の奥に実相があるのではないのです。岩そのものが実相です。そこにいる馬、馬がそのまま実相です。猫も犬もそのまま実相です。猫の奥に何かがあるわけではないのです。
その実相をじっと見ていくと、生命は実相によってつくられたのです。その実相の正体が妙法ということです。それ以外に実相はないのです。実相というものがあり、地上界に存在するものとかけ離れた存在はないのです。人間がいくら見ようとしても実相は見えません。
どうやったら実相がわかるのでしょう。貴方が見ている物が実相です。貧乏で苦しんでいる人がいる、サラ金だらけになってパチンコに行く人がいます。それが実相です。諸法即実相とは、桁違いに深い教えです。
実相とは見ている物そのままです。そこに石があります。石の実相は何かというと、石そのものが実相です。月があります。月の実相などというものはありません。そこにある月そのものが実相です。何故、それが実相になっているのでしょう。それを因果倶時の法というのです。
物事には原因があって、結果があります。因果の理法にすべてに通じていくのです。因果の理法で見ると、石そのものが実相です。或は不幸な人間の姿そのものが実相です。幸福な人間がそのままが実相です。男もそのままが実相です。女もそのままが実相です。
ありとあらゆるものは因果倶時によって、実相を表しているのです。そのように見ていくのです。だんだん修行が進むと実相に見えてきます。「ああ、諸法実相とは、このようなことなのだな」とわかれば、因果倶時がわかったことになります。因果倶時がわかれば成仏です。
南無妙法蓮華経の南無は無明です。悟っていない自分が南無です。悟っていない私の心はそのまま実相です。それは妙法だと教えられています。「妙法とはどのような法ですか?」と聞かれたら、答えは「蓮華の法」です。
それは因果倶時不思議の一法です。これが集まっているのが「自分」であり、南無・妙法・蓮華・経です。仏の教えであるから経というのです。
お寺に行くと塔婆が建っています。塔婆は人間の形を現しているのです。塔婆は妙法蓮華経を表しているのです。貴方そのままが実相です。ちょうど鏡を見るようなものです。貴方の実相を見たければ鏡を見なさい。鏡を見るとそこに実相が映っているのです。
シワだらけのバアサンなのか、若い青年なのか、腰の曲がったオジイサンなのか、鏡に映ったそのままが実相です。それ以外に実相はありません。何かほかに実相があるように思いますが、それ以外ないのです。
みんなそれが引き続いて行き、生まれ変わって、生まれ続いて、どんどん変化をしていくけれども、因果により実相になっているのです。来世は石や馬や豚になるかもわかりません。豚になった貴方はそのまま実相をやっているのです。豚にとって、豚は事実であり、これは実相です。やはり、人間という実相をもって生まれたいのです。生命の中では人間が一番よいのです。
そのように来世、人間に生まれるためには正しい道を歩まなければ何になるかわかりません。来世は人間になるとは限りません。豚になるか、ゴキブリになるか、何になるか全くわかりません。
因果倶時の法によって、来世の生命になるのですから、豚になるような因を積まなければ豚にはなりません。食べたいものをバクバク食べて「食べることが唯一の楽しみだ」という人は危ないのです。貴方はもう人間の体ではありません。姿かたちは豚に見えます。では、来世はもっと豚らしくなりましょう。これが因果倶時であり、諸法実相です。自分がつくった心によって豚になるのです。
豚になったら最後、もう仏様の説法など聞けません。「貴方はなぜ豚なのか?」と言ってもわかりません。人間でも精神障害がある人に「貴方はなぜキチガイなのか?」と言ってもわかりません。豚に向かって「なぜお前は豚なのか?」と聞いてもわかりません。
人間だけがわかるのです。「あいつはこのようなことをやって、豚の生命になったのだな」とわかるのです。豚にはなりたくないのです。「今度は人間に生まれて、仏様の説法を聞いて畜生界に落ちないように頑張りましょう」ということです。畜生界に落ちた奴は、畜生界がそのまま実相です。人間界に生まれた人は、人間であることがそのまま実相です。
このように仏教は、不思議なことがたくさん説いてあります。徐々に解き明かしていきたいと思います。

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2016年06月21日

人間の探究 535 文底秘沈(もんていひちん)

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※牢獄で体が飛べないのですから、心が飛びたいのです。戸田城聖は、何度も小説の申請をしても、不思議と法華経が送られてきたのです。

人間の探究 535 文底秘沈(もんていひちん)

日蓮大聖人様の仏法というのは、文底秘沈(もんていひちん)と呼ばれています。文底秘沈について教えられた御書があります。
文底とは、「文の底に沈めたるもの」という意味です。表面の文章読むのは、「文上(もんじょう)」です。文に現れていないけれども、真実を説いている部分があります。これを文底といいます。
法華経を何百回、何千回と文の上で読んでいる人は、文の奥にある文底秘沈がわかるはずがありません。文底秘沈を理解していくことが、信仰の本意です。文の上で穴のあくほど法華経を読んでもわかりません。
これは一般の文章でも通じることです。「行間を読む」といいます。文章は言葉になり一つのセンテンスが出てきます。また次のセンテンスが出てきます。次の文章が出てきて話が伝わっていくのですが、それだけなのかというとそうではないのです。
目に見えない部分に、それを書いている人の教養がすべて入っているのです。例えば、俳句の文章を書きます。芭蕉の俳句で言うならば、「古池や蛙飛びこむ水の音」「初雪や二の字二の字の下駄のあと」、という短い文章です。
この短い文章の奥に無限のものが入っているのです。それは書いてありません。ただ、それだけの文章です。俳句は、わずか五・七・五の文字の中にあらゆる風景が入っているのです。「その風景がわかるのか?」ということは、読み手に教養がないとわからないと、読み切れません。
「なんだ、池に蛙がドボンと飛び込んだのか」それで終わりです。「雪の中を誰かが下駄で歩いたらしい」それで終わりです。「誰が歩いたのだ、お前か?」そんな話になってしまいます。違うのです。
観る人から見ると、実に幽玄な目に見えないところのものがにじみ出てくるのです。一般の本でもそうです。文章は行間を読むのです。行間は言葉になっていません。言葉になっていないものを読むのです。
法華経もそうです。法華経に書かれた文上を何百回も読んでいくと、何かが見えてきます。その見えてくるものを文底(もんてい)というのです。仏教とはそのように、ことごとく文底の話をしているのです。文上の話ではないのです。法華経は、文上で観るおとぎ話であったり、空中から塔が出てきたり、宝塔に呼び寄せられて釈迦が空中に上がっていったなど、そんな話です。それらの話に何の意味があるのでしょう。一般的な話は通用しません。だから、何度も読むのです。
何度も読むと目に見えない底にあるものが見えてくるのです。お題目もそうです。何百万遍唱えるのです。「南無妙法蓮華経」は、一つの言葉です。お題目を唱えていくうちに、少しずつその奥にあるものが見えてきて、成仏するのですから、同じことです。それを文底秘沈というのです。
大石寺教学の間違いは、文底秘沈まではよいのです。それが御本尊になってしまうところが間違いです。「南無妙法蓮華経の奥に御本尊が見えるのか?」というと、いくら見ても見えません。文底秘沈はそんなことではないのです。仏像が後ろに埋めてあるだとか、そんなことではありません。
行間を読んで、その深みを体得して、じっくりと読んでいく中で、ジワジワと法華経が本当の姿を現してくるのです。そのような読み方をしないと、法華経は文の上だけで読んで、「七つのたとえ話がある」というだけで何だかわかりません。
待ちなさい、それだけではありません。ここからが法華経のすごいところです。ここが仏法のカッコいいところです。
戸田城聖先生は、牢獄に入れられたときに、法華経は読みたくなかったのです。本当は小説が読みたかったのです。架空の話を読まないと、牢獄の中にいられないのです。三国志などの英雄談を読めば、なんとなく心が飛べます。
牢獄で体が飛べないのですから、心が飛びたいのです。戸田城聖は、何度も小説の申請をしても、不思議と法華経が送られてきたのです。また新しい本を申請すると、「おい、戸田君、新しい本がきたぞ」と見ると、それがまた法華経です。三度くらい本の申請するのですが、法華経が送られてきたのです。
三度目のときに戸田先生は決意したのです。戸田先生は教学がなかったのです。「こんなに法華経を何回も送ってくるということは、俺に法華経を読み切れという意味かな。よし、読み切るぞ!」と決意するのです。
戸田先生は数学の先生ですから、推理して物事を論理的に考えられる人ですから、法華経の取り組みが始まったのです。法華経には普通、漢文と読み下し文がついていますが、白文しかないのです。すべて漢文で書いてあります。それを一字一句、読み切っていったのです。
まず、一番に「如是我聞(にょぜがもん)」が出てきます。これは、どのような意味なのでしょう。他の経典には確か「我聞如是(がもんにょぜ)」と書いてあります。戸田先生は「この如是我聞から始めよう!」と思い、お題目200万遍を唱えて「これを読み切る!」と思ったのです。
ですから牢獄の中が非情に忙しくなり、朝掃除をしてから、お題目を唱えて、まず「如是我聞から読み解く」と、お題目を唱えていくうちに「如是我聞」の意味が「ああ、そのような意味だったのか!」とわかったのです。そのようにして法華経に毎日取り組んで、一つの言葉をいい加減にしないで、題目を唱えて読み切ったのです。
「如是我聞」とは、「是の如く我聞き」という意味です。「如是我聞」の反対のものは、我聞如是でといい、「私が聞いた」のです。
法華経以外の経典は、一番に「我聞如是」と出てきます。「私はこのように聞きました」という意味です。お釈迦様の説法を、私の心で聞いたのです。
法華経は違います。如是我聞です。「私はよくわからなかったこともありますが、是の如く仏様はこのように言われました」というから、如是我聞です。戸田先生は、その意味がわかったのです。
「そうか、法華経は仏様の説法の中心であり、優しく説いたものではないのだな。わからないままに説いたのだ」と受け取った人間は如是我聞です。法華経は、「是の如く仏様の説法を聞きました」ということで書かれたのです。
戸田先生は「この意味がわかったぞ。次は何だ」と一つ一つ、解き明かしていったのです。戸田先生は数学者でもあり、真面目な人ですから、法華経をすべて読み切ったのです。200万遍のお題目を唱えた結果、全てわかったのです。
「わかったぞ、仏教とはこのようなものだ! 俺はこの牢獄から必ず生きて出て、この法を広めなければならない!」というのが、創価学会・戸田先生の原点です。そのような気迫で取り組んでいったのです。
戸田先生は、法華経の文の底に沈めたる文底、「文に書いていないところに何が書いてあるのか?」ということを読みきったのです。文上と文底です。文の上の話を何百回読んでもわかりません。「読み切るぞ!」と思わなければできません。
例えば、一字でもよいのです。「愛」という字があります。この一つの字から仏教はすべて解けてしまいます。愛があるならば、慈悲という言葉もあります。慈悲と愛とはどう違うのでしょう。どこが違って、どこが同じなのでしょう。そのように考えていくと、次々と出てきます。何を愛するのでしょう。それは人間性を愛するのです。
では、人間性とは何でしょう。人間と人間性はどう違うのでしょう。そのように考えていくと、全てのものがつながってきます。愛という一字から八万四千の経典がすべて解けてしまうのです。
わかる人が一字を見ても「こうだ!」とわかってしまうのです。その文の根底に沈んでいるものを文底秘沈というのです。
大石寺は。文底秘沈まではよいのです。「文底秘沈とは御本尊だ。御本尊が隠れているのだ!」とわけのわからないことを言うから、文底にあるものが見えなくなってしまうのです。

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