2020年04月04日

『日本建国の謎に迫る』ユダヤと日本

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※日本の修験道にもユダヤ教の痕跡が色濃く残っています。日本の山伏は、兜巾(ときん)と呼ばれる経文を入れた箱を額に結び付けています。

『日本建国の謎に迫る』

ユダヤと日本

 言葉だけではありません。ユダヤと日本には共通する習慣もたくさんあります。正月やお祭りの例は、すでに説明しました。
 ユダヤ人たちは、塩を大事にします。不浄を感じ、物事を清めたい時に、塩をパッとまきます。日本でも、相撲では土俵上で立会い前に清めの塩をまきます。塩をまいて土俵を清め、怪我をしないようにと祈る意味があります。玄関先や家の中に盛り塩を置く風習も残っています。このように、清めの塩は両者に共通しています。そのうえ神事である相撲の発祥は、「創世記」に伝えられるヤコブと天使の格闘に由来するともいわれています。
 禊(みそぎ)に水を使うことも、両者に共通しています。古代ユダヤでは、死体にふれて穢れたとされた人に、水を振りかける習慣がありました。日本で極端なものとしては水垢離(ルビ みずごり)として滝に打たれたりする修行が有名ですが、お祭りなどで水をかけたり、川や海に入ったりする例もたくさんあります。水をかぶることによって、身についた穢れを落とすのです。お風呂の入り方も、日本もユダヤも、身体を最初に洗ってから湯船につかります。中国には湯船というものがありませんし、ヨーロッパでは湯船の中で体を洗います。
 神社に参詣する時、日本では手水舎で手を清めて、口をゆすぎ、神様に会う準備をすることは常識です。ユダヤ人も神殿に行く時は、必ず同じようにします。
 日本の修験道にもユダヤ教の痕跡が色濃く残っています。日本の山伏は、兜巾(ときん)と呼ばれる経文を入れた箱を額に結び付けています。ユダヤ教徒も、聖書の言葉を収めたヒラクティリーと呼ばれる黒い小箱を祈りの際に頭に結び付けます。そして、ショーファールという角笛を吹きます。日本の山伏は、代わりにほら貝を吹いています。ショーファールとほら貝は、よく似た音だそうです。
 成人儀礼も似通っています。生まれてから三〇日目に、赤ちゃんを神社に初詣でさせる習慣は、日本とユダヤにしか見られないものですし、日本では古来から、男子が十三歳になると元服式を行っていましたが、ユダヤでも十三歳を迎えた男子は成人儀式であるバル・ミツバを行います。
 このように、特に信仰の場において、古代ユダヤ教と類似性があることがおわかりいただけると思います。それは、徐福がもたらしたからです。彼の創ろうとした理想の神の国という理念が、現在の我々に受け継がれていることがはっきりと見えてきます。
 そして、当然ながら、現在の皇室にもその痕跡は残っています。

菊の紋章とシュメール人

 2章で、ユダヤの歴史を少し見てきましたが、ユダヤ文化はメソポタミア文明の影響を古くから受けてきました。そのメソポタミア文明を築いたのは、シュメール人です。その後、この地にはいくつかの民族が登場しては新たな王国を創り上げてきたことは、2章でも触れました。
 シュメール王朝の建国神話からエデンの園の神話が生まれ、初期のシュメール王朝が大洪水に見舞われたことがノアの箱舟の神話になったとされています。バベルの塔の神話は、シュメール人の造り上げたジッグラトがもとであるともいわれています。つまり、聖書の「創世記」の原形が、シュメールの文化や神話の中に見いだせるのです。
メソポタミア文明は多神教だったのですが、このように古代ユダヤ教はメソポタミア文明から生まれた側面があります。表現を変えれば、メソポタミアの多神教を批判し、そこから一神教を生み出したのがユダヤ教なのです。それはバビロニア・タルムードが生まれる、ずっと以前のことです。
 そして、シュメールの大王の紋章が菊でした。十六菊花紋は、メソポタミアの遺跡からいくつも発見されています。時代は下りますが、ローマ時代のユダヤのヘロデ王(紀元七三年頃〜紀元前四年)も菊の紋章を使用していました。王の石棺にも菊の紋章が刻まれています。この菊の紋章は、当然、日本にも伝えられています。天皇家の紋章です。天皇家のシンボルが、中国からユダヤ、そしてメソポタミアへとさかのぼれることが、よくわかります。


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2020年04月03日

人間の探究 1507 俗諦(ぞくたい)と真諦(しんたい)

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※志村けんは、良い仕事をしてきたのですが、遂にコロナウイルスに感染してお亡くなりになってしまいました。本人にしてみたら、何が何だかよくわからないうちに死んでしまったのです。

人間の探究 1507 俗諦(ぞくたい)と真諦(しんたい)

志村けんは、良い仕事をしてきたのですが、遂にコロナウイルスに感染してお亡くなりになってしまいました。本人にしてみたら、何が何だかよくわからないうちに死んでしまったのです。志村けんが追い求めている道、そこに幸せはなかったのです。
みんなそうです。永ちゃんも歌が売れて、お金は腐るほどもっていても、何も幸せではありません。永ちゃんは「こんなはずではなかった」と言っています。「金さえつかめば、名声さえつかめば、大きな幸せをつかめると思っていた。ところが、今は何もかも持っているのに、ちっとも幸せではない。自分が追い求めてきたものは、何だったのだろうか?」と言っていたのです。永ちゃんは、空虚なものを追い求めてきたのです。
だから、寂しいのです。心に穴が開いたようなものです。「金さえ持てば、名誉さえ持てば、人気さえ持てば、幸せになれる」と思っていたけれども、ちっとも幸せになっていません。
永ちゃんはやがて、他の道を歩むことになると思います。その時はすでに「遅し」です。俗諦を追い求めてきて、星を追い求めてきて、パッカ・パッカと走り回ってくると、もう真諦などやっている時間などありません。それで人生が終わってしまうのです。
志村けんもそうです。みんなを楽しませて「ドリフは面白いな」とみんなが思っていていたのです。最期にコロナウイルスに感染してあっけなく人生が終わってしまったのです。志村けんの人生とは、一体何だったのでしょうか?
これは、ビートたけしも同じだと思います。大金をもって、500億円の大豪邸を八王子に建てて、奥さんと離婚して、何をやっているのでしょうか? そんなにお金をもっているならば、困っている人にお金を配ったらどうなのでしょうか?
そのような人達は、アフリカに学校を造ったり、小学校を造ったりしているのです。ビートたけしは何もやらないで、自分だけお金を貯めているのです。つまらない人生だと思います。心底から誰も尊敬などしていません。
お金をもっているから、人気があるから、たけちゃんにあやかりたいだけなのです。本当に尊敬などしていません。そのような無駄な人生を積み重ねて、よい年になってしまえば何も残りません。
だから、俗諦はダメなのです。そんなものをいくら積み重ねて、有名女優になろうが、人気者になろうと、政治家になろうとダメなのです。俗諦をつかんでも幸せにはなれません。
人間にとって大事なことは、真諦をつかむことなのです。「真諦とは何か?」というと、変わらない幸福ということです。永遠の存在の仏というものを「これが仏なのか」とわかった時が真諦です。
仏の世界は、永遠成住です。永遠に続く世界です。その真理に至った時に、「自分は生まれて死んで、また生まれ続いていくのだ」とわかるのです。どこまでいっても生命に終わりはありません。何故、終わりがないのかというと、始めがなきが故に終わりがありません。
生命はここから始まって、「私はここから生まれました。」と言うと、終わりがります。生命は、いつから始まったのかわからないのです。ハッと気が付くと生命が生まれているのです。
自分に気がついて体を鍛えて、知識を磨いて、だいぶ力がついてくると、今度はお亡くなりになる番です。人生とは、儚いものです。「人生とは何だろう?」と思ってしまうのです。
「永遠に生死・生死と流転していく、そこに仏の世界があるのだな」と気がついて、それを求めていくことに気が付いた人は、真諦に目覚めた人なのです。
真諦に目覚めた人のことを仏というのです。末法今日、「真諦とは何か?」というと、南無妙法蓮華経ということです。南無妙法蓮華経は、お金が儲かる法ではありません。真諦そのもののことなのです。
宇宙全体は、成住壊空・生老病死から成り立っています。その場合、成住壊空・生老病死は真諦です。宇宙は南無妙法蓮華経から成り立っているのです。これが真諦です。そのような法なのです。
生老病死が宇宙の絶対の法ならば、同じく南無妙法蓮華経という法なのです。南無妙法蓮華経という法は真諦の法なのです。
だから、熱心に探求しないとわかりません。それを俗諦の法だと思って、創価学会員のように「なむみょうほうれんげっきょう、選挙に勝つように。なむみょうほうれんげっきょう、お金が儲かりますように。なむみょうほうれんげっきょう、池田大商人様!」ガン・ガン・ガンと拝んでいたら、何もわかりません。
剣豪の修行のように、きちんと真諦に向かって厳しい修行をしていかなければ、真諦を得ることもできません。触ることもできません。本当に真諦の法というのは、有難い法なのです。
南無妙法蓮華経という言葉の中に、宇宙の始め、宇宙の終わり、宇宙の広がりが全て入っているのです。そのように感じ取ってくると、自分の中に南無妙法蓮華経という法が、涌現(ゆげん)してくるのです。
ブクブクと水面にアブクが出てきて、涌現してくるのです。それと同じように自分の中から妙法が自然ににじみ出てくるのです。そうすると、外から見ていても、「なんか、あの人違うな」と思えてくるのです。「正理会会長の秋田さんは違うな、区議会議員の佐々木さんも違うな」と自然にそのように思えてしまうのです。そのように仏教とは、真諦を求める法なのです。


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2020年04月02日

人間の探究 1506 俗諦(ぞくたい)と真諦(しんたい)

233
※誰にも通用する「赤」などという色は、存在しません。「私が見ている赤」なのです。Aさんが見る赤い色、Bさんが見る赤色、「私の見ている赤い色」なのです。「赤」という言葉は同じだけれども、実体は出てきません。これを虚妄分別というのです。

人間の探究 1506 俗諦(ぞくたい)と真諦(しんたい)

 「或は小乗経に対して勝劣をとかれ或は俗諦に対して真諦をとき或は諸の空仮に対して中道をほめたり」(報恩抄)

我々の使っている言語はすべからく虚妄(こもう)です。虚妄なる言語をもって、真実なる世界を探ろうとしてもそれは無理です。そのように竜樹は言ったのです。
我々が分別している世界は虚妄分別(こもうふんべつ)というのです。仮のものを分別しているのにすぎません。例えば、同じ「赤い色」と言っても、感じ取る世界は百人百種あります。「あの人が言う赤い色はこれなのか。自分の思っている赤はもっと違うのだ」というように千差万別です。
物事を見て、そこに現実を探ろうとしているのです。それは、言葉をもって現実を探ろうとしているのです。言葉自体が虚妄(こもう)です。「何故、言語は虚妄なのか?」というと、真実ではないからです。
主観が入っているのです。誰にも通用する「赤」などという色は、存在しません。「私が見ている赤」なのです。Aさんが見る赤い色、Bさんが見る赤色、「私の見ている赤い色」なのです。「赤」という言葉は同じだけれども、実体は出てきません。これを虚妄分別というのです。
ところが人間は、それで世界がわかったようなことを考えているのですが、本当の世界は全然違うのです。そこから出てくる話が、「バーチャルリアリティー」です。見ている世界は、現実ではありません。
全ては「私にとっての現実」です。「コロナウイルスが飛んで、多くの人が死ぬ大変な時代が来た」という客観世界があるように思いたいのです。そうではありません。全て自分の世界なのです。
どこまでいっても、虚妄分別です。虚妄分別を離れて、人間を離れて、「宇宙はどうあるのか? 客観世界はどのようにあるのか?」といことを探求してきた人はいたのです。
カントは、「独立外界は存在しない」と言ったのです。独立外界とは、誰かの世界ではなくて、真実の世界です。「Aさんの世界でもあり、Bさんの世界でもあり、Cさんの世界でもあるところの真実の世界がある」と思っているのです。
ところが、それは絶対にありません。自分を離れた世界を独立外界と言うのです。「独立外界について証明することはできない」と言ったのはカントです。証明できないとは、どのようなことかというと、どんなに世界を見ても、頭が痛くなるほど世界を見ても、感じている世界は貴方の世界です。貴方というものを離れた独立した世界はありません。
仏教は何を求めたのかというと、真諦(しんたい)を求めたのです。「自分はこのように考える」「これは私の世界だ」というのを俗諦(ぞくたい)というのです。一般の人は間違えて「俗諦こそ、真実の悟りだ」と考えているのです。
人間が言葉というものを持つ以上は、独立外界がどのようなものかわかりません。全て貴方に関係している世界です。「自分に関係しない世界とは、どのようであるのか?」ということを、貴方は絶対に知ることはできません。
何故かというと、貴方は言語で考えているからです。言語も俗諦です。言語は人間が定めたものであり、それを俗諦というのです。独立外界の真実の姿を追い求めたのが仏教です。それは至難の業です。
カントは「独立外界を知ることはできない」と言っているのです。でも、人間はそれを知りたいのです。それは私の死んだ後の世界であって、「私がいなくても成り立っている世界はどんな世界なのだろうか?」ということです。「私がいなくてもある世界」のことを真諦というのです。
その真諦を知ろうと思っても、人間は俗諦の言語をもってでしか迫っていけないのですから、答えはでないのです。人間が知りたいのは、真諦なのです。「人間もいなくなって、何もいなくなったら、この世界はどうあるのか?」ということが知りたいのです。
仏教も真諦が知りたいのです。貴方が見ている世界は仮の世界です。言語をもって感じていることは、仮の世界であって、それは宇宙の真実の姿ではないのです。
では、「宇宙の真実の姿はどのような姿ですか?」というと、空(くう)なのです。「空とは何でしょうか? 空の中味とは一体、何でしょうか?」空(くう)と言うけれども何でしょうか?
では、教えてあげましょう。それは、中(ちゅう)というのです。「この世は仮の姿である。真実の姿ではない」と知ることを仮諦(けたい)というのです。それはどのような世界なのかというと、空(くう)というのです。
空(くう)というものは、「ある」と言えばあり、「ない」と言えばないのです。これが空(くう)です。この空(くう)の中味が中(ちゅう)ということです。般若心経はここのところを一生懸命説いているのです。
「空即是色 色即是空」です。般若心経は、このことを説いているのです。真諦を知りたいのです。これを求めている人のことを俗語で言うと、僧侶です。変なお経を読んでいるのが僧侶ではありません。
「真実とは何か? 私は仮の姿なのだ。私が死んだ先には何があるのか? 世界はどうなっていくのか? 私から離れた真実の世界が知りたい」これを求めて行く人を仏教徒というのです。
これが一般に言う真諦・俗諦です。もっと易しく言うと、世間の成功の仕方、お金持ちになる方法、女にもてる方法など、全て仮諦です。天下を取る方法がわかったとしても、俗諦です。
そんなものをいくら追いかけても、幸福にはなれません。何故ならば、絶対の幸福とは、崩れ去るものであるはずがないのです。この世で「天下を取った」と思っても、そんなものに、しがみついてはいられません。どんどん過ぎ去ってしまうから、しがみつくことなどできないのです。(△紡海)


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2020年04月01日

人間の探究 1505 十界互具(じゅっかいごぐ)

231
※天界は喜びの命です。「うわー、宝くじに当たった」と思うのが天界の命です。しかし、「天界は五衰を受ける」のです。五つの衰えを受けるのです。

人間の探究 1505 十界互具(じゅっかいごぐ)

 「末代の凡夫(ぼんぷ)、出生(しゅっしょう)して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足(ぐそく)する故なり。」(観心本尊抄)

この御書は、「末代の凡夫として生まれて、法華経を信じるならば、仏になりますよ」と言われているのです。だから、法華経の修行をするのです。この場合、問題は何かというと、「仏界とは何か?」ということです。
人界はわかります。人情に泣き笑い、人界とはそんなものです。人に恋をして、辛い目にあったり、楽しい面も少しはあります。愚にもつかないことを、毎日繰り返しているのです。
人界というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道輪廻の中にあります。六道がグルグルと回っていると見たのは、天台大師です。六道輪廻が法華経に書いてあるのではありません。
そのような目で見ると「ここに書いてありますよ」と見えるのです。法華経の中で十界互具をしているのです。互具ということは、「備わる」ということです。人界の中で仏界が互具しているということは、「備わっている」ということです。
人間は修行をすれば仏になれるのです。仏道修行をしない者は、絶対に仏になれません。仏になっていく第一歩の修行は、人界を脱して、天界を得るということです。天界とは、喜びの生命です。
凡夫は病気になったり、様々な苦しいことが多いのです。天界に行くと病気はありません。天界は素晴らしいのです。何でも願い通りになるし、やることなすこと全て上手くいくのです。
天界は喜びの命です。「うわー、宝くじに当たった」と思うのが天界の命です。しかし、「天界は五衰を受ける」のです。五つの衰えを受けるのです。だから、天界で喜んではダメなのです。
「東大に入ってうれしいな!」と思うのは、合格したその時だけなのです。「うわー、東大に入れてうれしいな」と思っても、3ヶ月も続きません。
現実に直面すると、苦しみに入ってしまうのです。天界は瞬間です。「天にも昇る気持ち」と言うのです。「うわー、俺は何でもできるぜ!」というのが、天界の命です。
朝堂院大覚先生が面白いことを言っていました。「わしは、若い頃、ハブ酒をつくった。ハブを捕まえて、ビンの中にいれてハブを飼っておくのだ。割り箸をハブにかませて、ハブの毒を割りばしに染み込ませるのだ」と言うのです。ハブの毒は牙についているのです。割り箸を水で溶いて、カッと飲むのです。
「この効き目が凄いのだ」と言っていました。夜、ハブ酒を飲むとカーとなって、眠らなくてもよいのです。何だって出来る気になるのです。「世界の果てまで征服してやる!」という気持ちになるのです。
ハブの毒を毎日飲んで、1年間続けて飲んでいたら、「ハブ・ハブ・ハブ・ハブの肉を食ってやるぞ!」という気持ちになったのです。今度は、ハブを食うのです。「ハブは凄い効き目がある。わしはシャブ中ではなく、ハブ中だ」と言っているのです。(笑い)朝堂院大覚先生は面白いことを言います。本当なのでしょう。
朝堂院大覚先生が若い頃、自分の腕に日本刀を差したのです。それも痛くないと言っていたのですから、ハブ中の時にやったのでしょう。
天界は五衰を受けてなくなってしまうのです。だから、もっと上の境涯に登らなければいけません。「天界の上には何があるのか?」というと、声聞・縁覚・菩薩があります。声聞とは、「声を聞く」と書きます。縁覚とは、「縁に触れて悟る」という意味です。菩薩とは、人々を救おうとする命です。それが天界の上の境涯です。
天界は五衰を受けてドーンと落ちてしまうのですが、二乗(声聞・縁覚)に行くと境涯は落ちません。声聞とは、「仏の声を聞く」という意味です。縁覚とは、「仏のお悟りの話を聞いて悟る」ということです。声聞は仏様の声を聞くだけです。何だかよくわからないけれども、お釈迦様のご説法を聞くのです。
それによって、「わかった!」と悟るのが縁覚です。すると、どこからともなく慈悲が出てきて、「未だに悟りを得ていない人は可哀想だな。あんなことで悩んでいるのか。わずかの借金でのたうち回って首をつったりして、何と愚かなことなのでしょうか。私はそんなことにはならないよ」と思うと、そのような世界になってしまうのです。
もう天界の命はありません。仏様のご説法を聞き、悟っていき、進んでいくと、ある日突然にして等覚一転名字妙覚(とうかくいってんみょうじみょうかく)という位に入って仏になってしまうのです。
「あれ、みんなわかってしまったぞ!」と思うのです。ここが大事です。「いつからわかった」とか、お釈迦様のように菩提樹の木の下で突然「悟った!」というものではありません。毎日仏道修行を進めていくと、「あっ、わかったぞ!」と思うと、全てわかっているのです。
法華経の悟りとは、そのような悟りです。「なむみょうほうれんげっきょう。俺はパッと閃いた。今日、悟ったぞ!」というのは、妄想です。そうではなくて、毎日地道な仏道修行を進めていくと、「あれ、何だかみんなわかってしまったぞ」ということになるのです。これを目的として、仏道修行を進めていくのです。
「人界に仏界を具足(ぐそく)する故なり。」
もともと生命の中に仏界というものがあるのです。仏界はみんなにあるのです。馬にも、猿にも、豚にも仏界があるのです。「無量義は一法より生じる」です。「仏界とは何か?」というと、生命のことを言っているのです。
どんなところに行っても仏様がいるのです。必ず仏界があるのです。仏界は目に見えません。生命の源をいくら顕微鏡で見ても見えません。どうやって生命が出来てきたのかわかりません。
それは、仏界という不思議な働きがあって、「無量義は一法より生じる」のです。「仏界とは何ですか?」というと、あらゆるものがそこから生じているのです。そのことを仏界と言っているのです。
全てのものが生じていく元は、凡夫の中にもともと入っているのです。それを取り出して磨いていくと、だんだんわかっていくのです。ところが、豚とか牛とか馬はいくら言ってもダメなのです。猫に小判です。では、豚や馬は誰がつくったのかというと、それもハッキリしているのです。これも仏界がつくったのです。
理論上は仏界があるのですが、牛や豚や馬は、仏界を絶対に出すことはできません。業行の因果によって豚になってしまったら、絶対に仏になることはできません。「豚仏」などありません。そのことを言っているのです。
人間は仏界があるから仏になることができるのです。豚にも仏界があるのですが、仏を取り出すことはできません。仏になることができるのは、人間の間だけです。人間の間に声聞・縁覚・菩薩と仏道修行を進めていくと、自然に仏界に至るのです。
信仰というものは、毎日たゆまなく着実にやっていくことです。「皆人の此の経を信じ始むる時は、信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬せず。供養をもなさず自慢して悪見をなす」(新池御書)と言われている通りです。皆、そのようになってしまうのです。
みんな、これで終わりになってしまうのです。「なんだ、こんなことを俺は知っていたよ」と思うのです。本当は教わったからわかったのですが、その恩も忘れて「こんなことは、昔から知っていたよ」と言うのです。「自慢して悪見をなす」のです。そして、信仰がドーンと落ちてしまうのです。
貴方の中にある仏界に対して不軽菩薩は、礼拝したのです。どんな悪人でもペコンと頭を下げたのです。悪人「何故、お前は俺に頭を下げるのだ?」と言うので、不軽菩薩は、「はい、私は貴方の中にある仏界に手を合わせています」と言うと、悪人「バカヤロウ、俺は仏なんかじゃないよ。俺は大悪人だよ。石でぶち殺すぞ!」と言って、石を投げるのです。すると、不軽菩薩はちょっと遠くの方へ行って、また頭を下げたのです。
不軽菩薩が頭を下げたのは、無顧(むこ)の悪人の中の仏界に対して、「やがて、貴方は仏になるお方です。その仏様に対して私は頭を下げているのです」と言ったのです。これが不軽菩薩の精神です。
我々も、わけのわからない連中に法を教えているのですが、僕の説法を聞いた以上はいつか必ずわかるのです。そのように思ったほうがよいのです。毎日、ネットで説法をしていることが如何に大事かわかるのです。
しかも僕は一歩も退かず、何十年も説法を続けているのですから、それは全て功徳になって帰ってくるのです。法華経の信仰とは、そのようなものです。持続することです。燃え立つように思わなくてよいから、着実に地道に信仰を続けていくのです。ハッと気が付くと、みんなわかってしまっているのです。
素晴らしいことです。いつの頃からか、みんなわかってしまうのです。創価学会員が、「なむみょう〜ほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、・・・」とお題目を唱えていて、ある日突然にして「悟った!」というのはウソです。それは妄想です。


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2020年03月31日

人間の探究 1504 師弟ともに成仏す

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※真面目な弟子を持てば、師弟共に霊山浄土になっていきますが、悪しき弟子を持ったらどうなるのでしょうか? 池田大作のように「天下を取ったるぜ!」などという創価王国の野望をもっていたら、師弟共に地獄へ逝ってしまうのです。

人間の探究 1504 師弟ともに成仏す

 「よき弟子をもつときんば、師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくはひぬれば、師弟地獄にをつといへり。師弟相違せば、なに事も成べからず」(聖密房御書)

 「よき弟子をもつときんば、師弟仏果にいたり」

 これは、「よき弟子を持つということは、師弟共に仏果を得る」と言っているのです。ところが、反対に悪しき弟子を持った場合は、師弟共に地獄へ逝くのです。これを「師弟不二」といいます。
 先生が立派ならば、立派な弟子が出てくるのです。先生がおかしければ、良い弟子が出てくるわけがありません。まさに、これは現代の創価学会のことを言っているのです。
 みんな創価学会を仏教の団体だと思って「お題目、12時間行」などと言って、一生懸命やっています。「なむみょうほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、・・・・」、「ああこれで、2時間お題目を唱えたから、後は10時間だ」などと馬鹿なことを考えているのです。
 「なむみょう〜ほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、・・・・」ガンガンガンガンと、全くキチガイです。キチガイに刃物というわけではありませんが、「キチガイになむみょうほうれんげっきょう」です。
 創価学会の先生は、そのような先生です。「お題目を唱えれば、唱えるほど、功徳が出てくる。お題目を唱えれば唱えるほど、願いが叶うのだ」と言うのです。
 創価学会の幹部は、「願いを叶えるためのお題目なのですよ。君たちはまだまだ甘いよ。1日7時間、8時間、9時間ではダメだ。1日12時間唱えるのだよ。足が棒になってタコができるまでやるのだ」と言うのです。
 もし、それを本当に実行していたらキチガイになってしまいます。祈祷病と言うのです。祈祷だけに頼っていくと、キチガイになってしまうのです。自分の理性も働きません。
創価学会員は、「なむみょう〜ほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、・・・・。お金が儲かりますように、なむみょうほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、なむみょうほうれんげっきょう、・・・・」ガンガンガン、「病気も治りますように!」と欲張って祈っているのです。本物の信仰は、欲張るものではありませんが、学会員はそうなってしまうのです。
 そのようなことを教える師匠も悪いけれども、それを受けて立つ弟子も悪いのです。今の創価学会員で仏道を求めている者は誰もいません。では、「仏道とは何ですか?」と言うと、創価学会員は答えられません。これも簡単です。
 禅宗の修証義にあります。禅宗を学んでいく時の最初に心得ておくべきことを修証義といいます。その中に「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり。 生死の中に仏あれば生死なし。」と、これを読むのです。素晴らしい文句です。
 これは悪くありません。仏道とは何か? 何のために仏教を学ぶのでしょうか? それは、生きているということの正体を明らかにしていくのです。「生を明らめ」とは、「生きることをあきらめる」ということではありません。
 「生きているとはどのようなことか?」ということを明らかにしていくということです。また、「死ぬとは、どのようなことか?」ということを明らかにしていくのです。
 「生を明らめ死を明らむる」という、これこそが、仏教の一番大事な教えです。仏教は生死について説いたものです。「仏家一大事の因縁なり。 生死の中に仏あれば生死なし。」です。
 生死という「生きる、死ぬ」ということの中に仏教というものがあるのです。それを極めていくのが仏道修行です。それを教えようとするのが師匠です。弟子達は素直にそのように考えて、「そうか、仏教とはそのようなものだな」と思ってお題目を唱えれば、それは即功徳になって帰ってくるのです。
 「なむみょうほうれんげっきょう、祈りが叶いますように」などという仏教はないのです。それは、「生を明らめ死を明らむる」ということにはなっていません。日蓮大聖人様の仏教を学ぶということは、本当はそれ以上のことなのです。
 禅宗が悪いと言っているのは、禅宗では到達できない境地があるのです。それを学んでいくのです。カン違いしてはいけません。創価学会の祈りは全部「幸せになれますように」「会社の給料が上がりますように」「商売繁盛しますように」「病気が治りますように、日蓮大聖人様お願いします」などという祈りです。こんな馬鹿な仏教はありません。
 そうではありません。仏教とは、「生を明らめ死を明らむる」のです。禅宗ですら、そのように言っているのです。仏道修行をやってくると、命というものがわかってくるのです。
 仏道をやっているからといって、空手が強くなるということではありません。少林寺拳法は、修行がまるっきり武道です。飛びあがったり、蹴っ飛ばしたり、ぶっとばしたり、修行の方法がそうなってしまうのです。そんな修行をやっていると仏教が何だかわからなくなってしまうのです。
 「生をあきらめる」など、とんでもない話です。少林寺拳法は武道なのです。仏教はそんなものではありません。南無妙法蓮華経は最初から、最高級の教えです。禅宗の教えなどという低級なものではありません。
 「御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり」(御義口伝)から、始まる『御義口伝』の冒頭の一説は、非常に格調高いものです。「南無」と言う言葉はインド人の言葉です。中国語ではありません。何もわからない凡夫のことを「南無」というのです。わからないから「南無」というのです。
 「南無」の正体を教えましょう。これは、妙法なのです。妙法を学んでいくということが、わかっていくのです。「南無」とは、自分と言ってもよいのです。
凡夫「自分は何もわかりません。どうなっているのでしょうか、仏様」、仏様「わかった、教えてやろう。お前というものは、妙法というものから出来ているのだ。お前は法だけしかわかっていないのだ。実は妙法というものからできているのだ。妙は死、法は生、この生死の二法は一心の妙用だよ」と教えられているのです。
 そのような理解の仕方をしていくと、仏教が開けてくるのです。「あれください」「これください」という信心ではありません。そんな考え方は、全く間違っています。仏道修行をしていくと、生命というものが自然にわかってくるのです。
 「あしき弟子をたくはひぬれば、師弟地獄にをつといへり。」
 真面目な弟子を持てば、師弟共に霊山浄土になっていきますが、悪しき弟子を持ったらどうなるのでしょうか? 池田大作のように「天下を取ったるぜ!」などという創価王国の野望をもっていたら、師弟共に地獄へ逝ってしまうのです。
 これは本当にそうなのです。「中国の利益のために隣人と仲良くしないで、どこと仲良くするのだ?」と二階俊博は言っているのです。みんなそのように思っているのです。「人類はみな平等だ。中国に対しても平等でいかなければいけない」、「中国は漢字を教えてくれた。文化も教えてくれた。文化大恩の国だ」などという馬鹿なことを教えてどうするのでしょうか? 隣の国とは仲良くできません。これは、昔から当たり前です。
まさにこれは、創価学会のことです。師弟の腹はまっ黒で、「自分が選挙に出て当選したい」と考えている奴らばかり集まって、仏道のことなど考えていません。そうすると、師弟共に地獄へ逝くのです。
そのようなことから考えてみると、創価学会員は全員が地獄へ向かって突っ走っているのです。今や創価学会には、指導者が誰もいません。恐ろしい結果になるのです。そのようなことに注意しながら、正しい信仰をしていきましょう。

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2020年03月30日

人間の探究 1503 日本は神国である 

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※日本の国は、天照大神によって創られた国なのです。それが日本の神髄です。この国の神髄と南無妙法蓮華経の大法が合体したところに、日本のすごさがあるのです。

人間の探究 1503 日本は神国である 

 念仏宗は「我々は死んだら阿弥陀仏のところへ逝くのだ」と考えている連中です。神国に入った仏教は永遠の生命をもっているのです。仏様も永遠の生命です。天皇陛下は代替わりをされて、永遠の生命です。
 国民の側はそのことをわかって、国に備わった仏法を保てば、立派な国民です。そのような国を造らなければなりません。それが『立正安国論』の御精神なのです。日蓮大聖人様の仏法は、最初から立正安国という「国」が入っているのです。
 「国が入っていない仏法は亡国の業である」と言われているのです。だから、「国」が大事です。日蓮大聖人様は、伊勢神宮も行かれています。しかも、お生まれになられたのは、安房の小湊です。日本の東の端です。太陽に一番近いところに登られて、「南無妙法蓮華経」と唱えられたのです。安房の御厨(みくりや)と言うのです。天照大神がお生まれになられた御厨で、「南無妙法蓮華経」と唱えられたのです。
 そのようにわかっていないと、仏教を学んでいると言ってもダメなのです。分けられるものは分けて考えて、合するものは合していくのです。それをごちゃ混ぜに考えていたらダメなのです。
 仏教の神髄は、南無妙法蓮華経です。「日本の国の神髄とは何か?」と言うと、それは天皇陛下のことです。日本の国は、天照大神によって創られた国なのです。それが日本の神髄です。この国の神髄と南無妙法蓮華経の大法が合体したところに、日本のすごさがあるのです。
 仏教とは無分別を説いたものです。神様というものは分別を説いたものです。何故かというと、天照大神が最初にこの国を創られたのです。そして、その子孫が出てきて、この国を統一されたのです。それが神武天皇です。
物事には順番があるのです。「神様は次にどこを創ったのですか?」という順番がずっと続いているのです。要するに神様は分別法です。
仏法はそんなものを認めません。家柄も認めません。何も認めません。そこにいるのは、裸の人間がいるだけですから、皆同じです。仏法は無分別法です。
 無分別法をもって国を治めることはできません。それをきちんと治まるようにしたのが日蓮大聖人様です。日本の国に「南無妙法蓮華経」という仏法をお建てになられたのです。「南無妙法蓮華経」のことを建立と言うのです。造られた法と言う意味です。建造物と同じです。
 大仏は建造物ですが、心の中に「南無妙法蓮華経」という法を建てられたのです。その無分別法の極意たる南無妙法蓮華経と、分別法の極意たる神道がピタリと合致したのです。
 みんなそろって皇居に行って、「南無妙法蓮華経、広宣流布だ!」というようなものではありません。そのようなことがわからないで、「王仏冥合」などと言っても意味がありません。
 王仏冥合とは、何でしょうか? 王法とは何でしょうか? 王法とは天皇のことを言うのです。もっと言うと、日本人が天皇をいただいているということが王法です。仏法とは日蓮大聖人様に帰着するのです。日蓮大聖人様は、仏教の極意を説かれたのです。
 「無量義は一法より生じる」、これは哲学的に難しいのです。これがわかった人がやがて、世界の思想をまとめることができるのです。世界の人々は無明ですから何もわかりません。キリスト教は無分別ですが、「神は天と地を創った」というように分別法も説いているのです。
 仏法ではどのように説くのかというと、この世は永遠の昔からあるのです。「神様が天と地を創った」というのではありません。仏教は無分別法です。「神様が天と地を分けた」ということ自体が分別法です。そのように思うと聖書は無分別法のようなことも説いているのです。
 どの宗教も、分別法と無分別法がよくわかっていません。だから、分別法と無分別法をごちゃ混ぜにして、悪い奴に利用されてしまうのです。聖書を無分別法で見て、利用する人がいます。
「いや、分別法の極意が聖書なのだ」という人もいます。だから、「聖書の言っていることは全て正しい」という宇野正美さんのような人が出てくるのです。
 そのような見方をすると、どんどん宗派が出てくるのです。それは、本当の教えではないからです。ところが、仏法の極意と日本神道の極意を合わせた教えは誰にも分けられないし、分割もできないし、統合もできません。
正理会ではそれを目指しているのです。そのようなものをキチンと分けて、神道を学び、仏教を学び、立派な日本人になっていこうではありませんか!


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2020年03月29日

『仏法と神道』物質と心

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※「一寸の虫にも五分の魂」というように、この小さな虫の中にも心というものはあります。

『仏法と神道』

物質と心

神は、「人間に二つのものを与えた」といいました。すなわち、肉体と精神(心)です。しかし、よく考えてみると、あらゆるものに心はあります。豚でも、犬でも、それなりの心は持っています。木でも心というものはあり、生き物すべてに心はあるのです。「一寸の虫にも五分の魂」というように、この小さな虫の中にも心というものはあります。
 では、どのような状態で心があるのかというと、仏教の究極の教えでは、色心不二の状態であります。心と肉体、究極は一つです。「人間だけに心があって、他のものに心はない」という考え方は低レベルの考え方であって、本来の真実から遠いのです。犬には犬の魂があり、人間には人間の魂があるのです。人間の持つ精神性は非常に高いものであって、これは他の動物の追従を許しません。
 心と肉体は色心不二であり、同じものなのです。だから、醜い動物には醜い心があり、美しい人間には美しい心があります。そのように言うと、「美しい女に美しい心があるのか」という議論になりそうですが、よく見ると卑しい心を持った女には、美しさの奥に恐ろしい邪悪な心を持っているのです。それを見抜かなくてはいけないのです。色心は不二なのです。究極は、心と体は一体です。この究極ということが大事で、極めたところはそうなるのです。
 そうすると、心というものは、神が万物に与えたものであり、ものに沿って心があるのです。これは、ちょうど日本神道でいうと、霊魂に似ています。魂(こん)というのは、『かたまり』であり、即ち肉体のことを指します。霊とは、目に見えないものですから、万物は霊魂から出来ていると日本神道は説きます。
 この考えと同じで、仏教ではこれを色心不二といいます。仮在である体から入っていく方法と、心から入っていく方法があり、仏教とは心を見ることにより肉体を見て、世界を見て、宇宙を見ていこうとする方法なのです。
 ニューサイエンスの多くの科学者は、インドの哲学に憧れたということは、そういうことで、物質を極めていくと究極においては、わけがわからなくなってしまうのです。「あるときにはあって、見ないときには無い」というのが、現代解っている素粒子のあり方です。
 例えば、光をビームで飛ばすと無数の穴から通り抜けてしまいます。しかし、光は一つの粒子です。粒子であるとすれば、無数の穴を通り抜けることはできません。光は、波の性質を持っているのです。物質というのは、粒子でもあり、波でもあるのです。
一体、これはどのように考えたらよいのでしょうか? 素粒子論で考えると、「素粒子は見ている時にはあり、見ていないときには無い」のです。ただ、確率論を持って、我々はその存在を知ることができるのです。そのような考えにたどりつき、「これ以上人間の頭で物理学を考えることができない」という人々が仏教にたどり着いたのです。
 そして、仏教の空を学んだのです。仏教の空というのは、「ある時にはあって、無い時には無い」、「非有非無、亦無亦有」というようなインド哲学を学ぶことによって、何とか精神のバランスをとろうとしたのです。
 そのように人間は、精神と肉体は深い結びつきがあって一体のものであります。これは、仏教の究極において説かれたことであり、入り口論で説かれたことではありません。これが分からないと仏教全体がわからなくなってしまいます。
 西洋社会においては、ギリシャ哲学の伝統以来、万物の実体を求めてきました。「あらゆるものの実体とは何か?」これがギリシャ哲学の根本であり、この実体を求める思想が科学を生んできたのです。
 最初人間は、万物を地・水・火・風・空の五大要素ととらえて、これが万物の根本だと考えました。何故ならば、物質を燃してしまうと水に変わります。それから分析・手法的に原子論が生まれてきます。「根本にあるものは一体何なのか?」と考えました。金、銀・マグネシウム、コバルトとかそのような元素を次から次へと発見して現在、万物の根本と思われる元素は、一一三種類あります。
 そして、これで終わりかと思ったら終わりではなく、原子は素粒子からできているということにたどり着きます。「素粒子は何からできているのか?」というと、曖昧模糊として、今現在、素粒子の数は三○○以上(一九六○年以降次々と発見されている)発見されています。この素粒子は、粒であり、波であります。これを確率論的に処理することになり、現在物理学は一つの行き詰まりがあるのです。
 物理学とは神の創造の軌跡を知ろうとすることであり、アインシュタインの統一場理論なども神を求めたものです。西洋人達が求めてきたものは、一貫して「物の実体とは何か?」ということです。「必ずこれは、一つのものに行き当たるのに違いない」という信念があったのです。
しかし、なかなか一つのものに行き当たらないのです。これと思うとまた奥があり、そのまた奥の奥があって、素粒子が究極のものかといったら、どうもそうではないらしいのです。その領域になってくると人間は把握することはできません。だから、確率的にどこかにあるであろうというような確率的にしか論じられないのです。方程式も確率論です。
 そして、これに比例して心を求めた仏法というものは、そのような「物の根本は何であるか」ということではなく、「心とは何であるか」ということを考えたのです。「心は、空である。あるときはあり、無いときは無い。あるものであって、無いものである」これが心の実体です。
 例えば、亡くなったお爺ちゃんのことを考えると、お爺ちゃんは今居ません。お爺ちゃんは居なかったのかといったら、生きている時には居たのです。では、「お爺ちゃんを見せてくれ」と言われても見せられません。では、「お爺ちゃんは居なかったのか」といったら、かつてお爺ちゃんは居たのです。このように、心というものは認識するときに、「ある」と思ってみたり「無い」と思ってみたりということが、同時に行われているのです。これが、空という考え方の根本です。


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2020年03月28日

『日本建国の謎に迫る』ヘブライ語と日本語

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※ヘブライ語(ヘブライご、עברית, Ivrit, ラテン語: Lingua Hebraea)は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する北西セム諸語の一つ。ヘブル語とも呼ばれる。

『日本建国の謎に迫る』

ヘブライ語と日本語

 神武天皇は、自らのルーツを隠すと同時に、当時、日本各地でバラバラであった言語の統一を考えました。これは始皇帝の天下統一事業から学んだ面もあると思います。しかし、言語を中国語にしなかったところに不思議さがあります。これも、中国語にしてしまったら、「あそこは中国人が創った国だ」と思われることを恐れたのでしょう。
 徐福の一族は、ヘブライ語と中国語の両方とも話せたと考えられます。そこで、新しい国を造るにあたり、それとわからないようにカモフラージュして、ユダヤ語を日本語の中核にしました。つまり日本語は、徐福のグループが作った人造言語なのです。本書の冒頭に述べた「日本語が世界の孤立言語」であるということには、そういう秘密が隠されていたのです。
 聖書は古代のヘブライ語で書かれており、そのためヘブライ語は「神の言語」と呼ばれていました。ユダヤ人が離散することによって、次第にヘブライ語は話されなくなり、長い間、祈りの言葉としてだけ使われてきた歴史があります。ヘブライ語はそれ独自の文字を使い、アラビア語と同じく右から左への横書きです。
 この章の冒頭に紹介した『大和民族はユダヤ人だった』で、著者であるユダヤ人言語学者のヨセフ・アイデルバーグ氏は、次のように述べています。
 「私は十四年の歳月をかけて世界各地の言語を調べあげた。世界には中南米のマヤ人をはじめ、いくつも“失われたイスラエル十支族”の候補となる民族がいるのだが、日本語のようにヘブライ語起源の言葉を多数持つところはなかった。一般に日本語はどの言語にも関連がないため“孤語言語”とされているが、ヘブライ語と類似した単語が優に三千語を超えて存在している」(前掲『大和民族はユダヤ人だった』)
 そして、日本のカタカナは、ヘブライ文字起源ではないかとも推測されています。また、日本語とヘブライ語の共通性は、アイデルバーグ氏のみならず、多くの研究者たちが指摘しています。
 アイデルバーグ氏にしたがい、日本語とヘブライ語とで類似している言葉を表にまとめてみました。「ヘブライ語と類似した単語が優に三千語を超えて」いるとなると、ユダヤ人が日本語はヘブライ語に近いと思っても不思議はないと思います。
 また、ヘブライ語(特にアラム方言)とカタカナの共通性は、研究が進めばいずれ明らかになると思います。なぜかと言いますと、やまとことば由来の言葉は、漢語由来のものとは規則や性質のうえでちがうものがあるからです。

【表にする】
〈日本語とヘブライ語の類似する言葉(主なもの)〉
日本語 ヘブライ語
ミカド(帝) ミガドル(高貴なお方)
ミコト(尊) マクト(王、王国)
ネギ(神職) ナギット(長、司)
ミササギ(陵、墳墓) ムトウサガ(死者を閉ざす)
アスカ(飛鳥) ハスカ(ご住所)
ミソギ(禊ぎ) ミソグ(分別・性別)
ヌシ(主) ヌシ(長)
サムライ(侍) シャムライ(守る者)
ヤリ(槍) ヤリ(射る)
ホロブ(滅ぶ) ホレブ(滅ぶ)
イム(忌む) イム(ひどい)
ダメ(駄目) タメ(汚れている)
ハズカシメル(辱しめる) ハデカシェム(名を踏みにじる)
ニクム(憎む) ニクム(憎む)
カバウ(庇う) カバア(隠す)
ユルス(許す) ユルス(取らせる)
コマル(困る) コマル(困る)
スム(住む) スム(住む)
ツモル(積もる) ツモル(積もる)
コオル(凍る) コール(寒さ、冷たさ)
スワル(座る) スワル(座る)
アルク(歩く) ハラク(歩く)
ハカル(測る) ハカル(測る)
トル(取る) トル(取る)
カク(書く) カク(書く)
ナマル(訛る) ナマル(訛る)
アキナウ(商う) アキナフ(買う)
アリガトウ(ありがとう) アリ・ガド(幸福です)
ヤケド(火傷) ヤケド(火傷)
ニオイ(匂い) ニオヒ(匂い)
カタ(肩) カタフ(肩)
ワラベ(子ども) ワラッベン(子ども)
アタリ(辺り) アタリ(辺り)
オワリ(終わり) アハリ(終わり)


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2020年03月27日

人間の探究 1502 日本は神国である 

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※国というのは大事です。坊さんと言っても国があるから仏道をやっていられるのです。国というものは、一番大事な法なのです。それを忘れたら、仏教は亡国の法になってしまうのです。(NASAから見た日本列島。まさに龍神です!)

人間の探究 1502 日本は神国である 

 仏教の歴史を見るとこのようになっています。これは何回も僕が指摘した通りです。仏教というものは、出家の法を説くものです。これは、何回も言っています。
 「出家の法とは何か?」というと、脱社会の法です。社会にはしがらみがあります。国家の中には政府があり、役人がいて代議士がいます。そのような世界は政治の世界です。支配の世界なのです。
その中に入ると、それで頭がいっぱいになってしまうのです。「早く俺も総理になりたいな」「俺も早く事務次官になりたいな」と思うのです。そればかりになってしまうので、自分の道が歩めなくなってしまうのです。
 出世するためには、敵がいるので戦って勝たなければいけません。そのようになると自分の道など歩めません。仏道を目指すものは、社会の絆を切りなさい。全て絶ち切って、出家するのです。出家の「家」とは社会のことを意味するのです。
 仏道修行を志す者は、あらゆる社会から断絶をするのです。それを出家というのです。断絶しないと貴方は、ニルバーナという悟りを開くことはできません。半分社会に片足を突っ込んで、半分仏教に足を突っ込むなど無理なのです。
 仏教徒になりたかったら、サンガという仏教集団に入って、自分の財産を一切持たないことです。ご飯を食べるお茶椀だけをもってよろしいのです。着る服もありません。寒くてどうするのかというと、道端に落ちている糞にまみれて黄色くなった布を洗って着るのです。それを糞掃衣(ふんぞうえ)というのです。
 本来の仏教徒が持ってよいものは、茶碗1個と、身にまとう糞掃衣だけです。糞で汚れて黄色くなった布を洗って着るのです。それで、社会とのしがらみを絶つのです。ということは、仏教とは脱世間の法です。
 国をつくっている人間から言うと、どうなるのでしょうか? 国を持てば、隣の国と争いになるのです。国を持たなければ、隣の国の奴隷になってしまいます。国を持てば戦争になるのです。世界中のどこの国の歴史を見てもそうです。
 隣の国は敵なのです。敵が出てくれば、武器も持って、戦わなければいけません。仏教徒は、「戦うのは嫌です」とお釈迦様のつくられたサンガに逃げ込んで、お釈迦様のおっしゃる通り仏道修行をしていくのです。これでは、社会の役に立ちません。
 これが仏教の始まりです。よく考えればわかるのです。これが現代に続いている仏教の流れです。仏教の根本の教えは何かというと、出家の法です。大僧正になって、どんなに偉くなっているように見えても仏教とは出家の法です。
 そこで、日蓮大聖人様は、「仏教とは出家の法なのだな。では、我々が住んでいる日本国とは何か?」と考えられたのです。国と出家の法は一致しません。
 国と仏教というものを、きちんとわければよいのです。国を治める者が必要です。国を治める人のことを「王」というのです。国がまえに「王」と書いて、国というのです。「国とは何か?」と言うと、王様だけではありません。民衆もいます。国がまえに「民」と書いて、囻と言うのです。
 それから、国がまえに地域の「域」と書いた、國があります。国を造った以上は、「あそこから、ここまでが俺の国だぞ」という境界線があります。境界線がなければ国とは認められません。
 「ここから、ここまでが私の国です。貴方の国はここから向こうです」というように、境界線を決めるのです。境界線を決めるとそれを廻って争いが起きてくるのです。だから、隣とは仲良くできないのです。隣と仲良くしたら、パクッと食われてしまいます。
 隣の人間が、「私たちは仏教徒ですから、脱社会をしました。何を言われても無抵抗です」と言ったら、「お前らは無抵抗なのだな。では、俺の奴隷にしてやる、働け!」と奴隷にされてしまいます。
 「はい、結構でございます」となってしまいますから、仏教が流行ると国が滅びてしまうのです。国というものは、仏教と反対の方向にあるのです。日蓮大聖人様は、「国は大事だ」とハッキリとわかっていらっしゃったのです。
 国が滅んでしまったら、仏道も何もありません。本当の仏道は誰もいないところでやればできますが、このような社会の一員なのに、自分だけ山の中に入って、誰もいない中で「仏道をやります」などと言っていたら、社会の邪魔です。
 国というものは、一つの共同体です。それをみんなで造っているのです。「俺は出家の法に従って国を出るよ」などと言って、みんながそちらへ行ってしまったら国がなくなってしまいます。
 国というのは大事です。坊さんと言っても国があるから仏道をやっていられるのです。国というものは、一番大事な法なのです。それを忘れたら、仏教は亡国の法になってしまうのです。
 そのように言われたのが日蓮大聖人様です。顕正会は未だに「国立戒壇」だと言っているのです。何を言っているのでしょうか? 意味が違うのです。意味がわかならいで国の中心に仏教を放り込んで、「みんなで南無妙法蓮華経を唱えれば国が栄える」など、ふざけたことを言うものではありません。
 南無妙法蓮華経と言っても、仏教の法です。そんなものを「悪しく敬えば、国滅ぶべし」と日蓮大聖人様は、ハッキリと言われています。では、どうすればよいのでしょうか? それは、ハッキリと分ければよいのです。
 国というもの、仏教というものは、違うものです。しかし、両方共に大事です。国も仏教が大事です。国が強くなるような法でなければいけません。それでは、どうすればよいのかというと、それが法華経です。
 「法華経はなぜ、強いのか?」と言うと、永遠の生命を説くからです。生命は永遠です。そのように思っている日蓮大聖人様が神国日本にお生まれになられたのです。有難いことです。神国日本も永遠です。そのように考えていれば、国も強いのです。(△紡海)


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2020年03月26日

人間の探究 1501 猶多怨嫉(ゆたおんしつ)多し

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※福富太郎には猶多怨嫉がなかったのです。「この道で一生懸命、仕事をしよう」と思うと、オーナーが見ていてポンと偉くなれるのです。銀座ハリウッドは、新橋の結構大きな店でした。みんなそうです。お金持ちは後継車を探しているのです。


人間の探究 1501 猶多怨嫉(ゆたおんしつ)多し

 「夫れ以んみれば末法流布の時生を此の土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべしと見えて候なり」(如説修行抄)

 何しろ、仏道修行で一番大敵なことは、怨嫉(おんしつ)です。怨嫉(おんしつ)とは、どのような意味かというと、「羨(うらや)む」ということです。「あの人はいいな」と羨むだけならばよいのです。
 「私もあの人みたいになりたいな」と言っているかぎりはよいのですが、次に恨むのです。「なんで、あの人ばかりよいのだろうか? 私は貧乏なのに、あの人はお金をもっている。くそ〜〜〜!」ここから怨嫉が始まるのです。
 「なんとしても、あの野郎を引き摺り下ろしてやる!」と思うのです。特に猶多怨嫉は女性に多いのです。「あの人は素晴らしいわ。あの人のようになりたい」と思うまではよいのです。
 ところが、いつまで経っても自分はあの人のようになれません。誰かが出世して偉くなると、自分が貧乏のままだと「ぐやしい〜〜〜! なんで私ばかりこうなの? あの人を呪い殺してやる! 恨んでやる! これ以上の成功はさせないぞ!」と妬むのです。これが猶多怨嫉です。
 恨みが入ってくるのです。こんなことではダメです。仏道修行をやっていて、怨嫉をしている限り、その人は絶対に成仏しません。仏になっていくということは、テーマは「自分」です。
 人が帯を買おうと、着物を買おうと、そんなことはどうでもよい話です。自分の欲しいものが手に入ってくるのです。欲しくないから入ってこないのです。そうなのです。欲しかったら、何でも入ってくるのです。
 欲しくないから何も入ってきません。それが自体顕照(じたいけんしょう)という姿です。自分で自分の運命を感じ取っている姿は、自体顕照です。
 「自分はどのような運命をもっているのか? どのように境智の二法が見えるのか? 何故、そのように見えているのか?」ということです。本当は全ての原因は自分にあるのです。それなのに人を恨んでいるのです。人を恨むということは、自分を恨んでいるのです。
 本当は全て自分のものなのに、「あの人が羨ましい。私は恨んでやる。一生許さないぞ!」と人を怨んでいるのです。何を許さないのでしょうか? そのような人間を「猶多怨嫉多し」というのです。
 末法は猶多怨嫉の衆生が多いのです。根性が曲がっているのです。本来、自分の心を変えていかなければいけないのに、自分の心を変えないで人を恨んで、妬み、そねみ、邪悪な心が全て入っているのです。そのような人間は、悪口を超えているのです。
 お金持ちになったり、豊かになる方法はいくらでもあります。一番の良い方法は、お金をもっている人と仲良くすることです。すると、お金は入ってくるのです。「あの人は絵が上手いな。素晴らしいな」と思ったら、その人に弟子入りすればよいのです。
 その先生から学んでいけばよいのです。その先生の絵だけを見て「素晴らしい絵だな」と思っていても、そこに住みこんでみると、うるさい先生だったりするのです。内弟子になると、必ずそうなるのです。
 外部から絵を見て「素晴らしい先生だから尊敬します」というのではなく、本当に尊敬したならば、弟子入りしないと極意はつかめません。日常生活の24時間があって、一つの絵ができてくるのです。すると絵だけを学ぼうとしてもダメなのです。影に隠れて出てこない24時間の日常生活のほうが大事です。どのようなご飯の炊き方をして、どのような寝方をして、どのような新聞を読んで、どのような生活をしているのか?」ということが大事です。
 先生が「新聞を取ってくれ」と言われたら、「はい!」と新聞を出せるくらいの近い距離にいないと先生のことはわかりません。するとだんだん命が溶けてきて、弟子と師匠の命が似てくるのです。
 先生が「あれ」と言ったら、他の人にはわかりませんが、弟子にはわかるのです。先制に「あれをもってこいや」と言われて、「先生、あれって何ですか?」と言っているようではダメなのです。
 「あれ」と言われたら、「あれ」とわかるようにならないといけません。修行が進めばそうなるのです。そうなるために弟子入りしているのです。それを絵だけを見て「先生の絵は上手いですね」といくら言っても自分の絵は上手くなりません。
 落語家もそうです。何故、落語家の弟子になるのでしょうか? 弟子になるということは、そのようなことがわかっていくということです。剣術も、踊りもそうです。歌手もそうです。必ず作曲家に預けられて、2〜3年の修行をするのです。
 ヤクザもそうです。親分について修行をするのです。何年間もやらないと、本当の弟子にはなれません。危ない奴を組員にしたら大変です。あちこちで喧嘩をやれば、抗争になってしまいます。そのような奴ではないかを見極めるために、親分の家に住み込むのです。3年間雑巾がけをして、親分の背中を流して、表で親分として振る舞っている以外のことを学ぶのです。
 3年間くらい修行して、初めて一人前のヤクザになるのです。一人前のヤクザになり、親分から盃をもらうと、くだらない喧嘩などもうしません。喧嘩というのは、親分の許可を得て、「喧嘩をやりますけど、いいでしょうか?」とお伺いを立てないと、大変なことになります。
 勝手に出先機関が「コノヤロウ、ぶっ殺してやる!」と喧嘩を始めたら、すぐに抗争になってしまいます。そんな奴は、絶対に組員にはなれません。他の組織もみんなそうです。弟子入りして住み込んで修行しないと一人前にはなれません。
 先輩に素晴らしい人がいて、親分が可愛がっていると、それを恨むのです。最初は、「兄貴のようになりたいな」と思っていても、「なんであいつばっかり親分の目が向くのだろうか?」と、猶多怨嫉が始まるのです。それが進むと「チキショウ。よし、あの野郎を俺がぶっ殺してやる!」と考えるようになるのです。これが猶多怨嫉です。
 仏教でもそうです。「日蓮大聖人様は、素晴らしいと思ったけれども、俺は褒められない。憎たらしいな。よし、悪口を言ってやろう」と思っていて、それが進むと「殺してやろうか」となってくるのです。
 そうなると、もう仏道修行ではありません。全ての前進を阻むものは、猶多怨嫉です。お金持ちになりたかったら、お金持ちと仲良くするという話もそうです。そうすれば、お金持ちのものの考え方がわかるのです。
 「ああ、このような考え方をすればお金持ちになれるのだな」。或は、「お金持ちの考え方は貧乏人とは違うのだな」とわかればよいのです。お金持ちと仲良くしていれば、仕事をくれるかもしれません。お金持ちを敵に回して「この人ばかりお金をもっていて、変なことばかりやって贅沢な暮らしをしている。よし、呪い殺してやろう」と思えば、猶多怨嫉です。
 猶多怨嫉が始まってしまったら、もうその世界から逃れられません。地獄へまっしぐらです。本当にそのような奴ばかりです。僕と一緒に仕事をやれば、みんな得をするのです。それが嫉妬でわからなくなってしまうのです。「会長はいいな。もう何億円も貯めたらしい」などと思うのです。何を馬鹿なことを言っているのでしょうか? 僕は一銭もお金などもらっていません。しかも、何十年もです。そのような人と仲良くしないといけないのです。すると、自分もお金持ちになれるのです。
ところが、「あいつばかり羨ましいな。よし、引き摺り下ろしてやる!」と考えるのです。みんなそうなのです。それでかっぱらいを考えるのです。情けない連中です。これが猶多怨嫉です。
自分が前進して「お金持ちについて修行していこう」と思えば、自分もそうなってしまうのです。銀座のハリウッドの福冨太郎がそうです。18歳以上でないと、水商売をやってはいけません。福富太郎は、17歳の時に水商売に入ろうとして、18歳だと偽ってボーイになったのです。
それから、もの凄く働いたのです。休みの日も一人で行って、店の中を掃除して、トイレを掃除していたのです。それがオーナーに見つかったのです。「君、17歳なの? 休みの日も働いて凄いね。よし、わかった。今度、銀座にハリウッドというキャバレーをオープンするから、君が店長でやってみなさい」と言われたのです。福冨太郎には猶多怨嫉がなかったのです。
「この道で一生懸命、仕事をしよう」と思うと、オーナーが見ていてポンと偉くなれるのです。銀座ハリウッドは、新橋の結構大きな店でした。みんなそうです。お金持ちは後継車を探しているのです。
「俺は財産が出来たけれども、どうしようかな。子供はロクなものではないので、ちゃんとこの仕事を引き継いでくれる人がいるならば、全て任せたい」という目で見ているのです。
「Yは、どうだ?」「これはダメだ」「Tはどうだ?」「これもダメだよ」となってしまうので、後継者にはなれないのです。すると、その段階で「俺のことをダメだと思いやがったな。今度、引き摺り下ろしてやる!」と思うのです。これが猶多怨嫉です。
何事でも猶多怨嫉ということを頭に置いて、行動しないと成長しません。貴方が貧乏なのも猶多怨嫉してきたからです。先輩に対して、友達に対して猶多怨嫉をしてきたから貧乏なのであって、苦しいのです。仏道修行も全く同じです。

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nakasugi_h at 09:23|PermalinkComments(5)clip!