2017年03月24日

人間の探究 728 無量義は一法より生じる

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※「自然界はみな一つ」という結論に帰っていく必要があります。それを教えているのが一法ということなのです。

人間の探究 728 無量義は一法より生じる

 法華経の教えは三部あります。入り口論として無量義経があります。無量義経は三品から構成されています。法華経は二十八品から構成されています。最後は仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)です。非常にこれは意味深です。
 無量義経は非常に難しい経典です。この無量義経の中に「無量義は一法より生じる」という言葉があります。この言葉の意味がみなよくわかっていないのです。
「無量義は一法より生じる」左には「無量の義」があります。これは「あらゆるもの」という意味です。右手には「一法」と書いてあります。「あらゆるものは一法である」と読めるのです。
これは諸法実相などと同じ考えです。諸法即実相です。諸法の実相ではありません。「諸法はそのまま実相である」と読むのが諸法実相の本当の読み方です。
無量義というと、「無量のものは、一法より出ている」と思うけれども、そうではなく「無量義即一法」です。そのように考えると、この真意がよくわかると思います。この世に分別を持って見るならば、どこまででも分別をされるので、まさに無量義経徳行品第一の「34の非」としかいいようがありません。
例えば花と言っても何千種類の花があります。菜の花、たんぽぽ、蓮華、花を見ると一つ一つ違います。何万種類という花があります。木もそうです。何万種類あります。動物もゴリラ、シマウマ、カバ、ワニなどを数えたら、数限りな種があります。これらは無量です。
人間もそうです。人間の種類はアフリカの黒人から始まって、「これは人間か、猿か?」と思うような、身長1メートルのピグミー族のような人間もいます。そうかと思うと、2メートルもある黒人もいます。人間と言っても様々な人種がいます。
空を見上げても星があり、太陽があり、月があります。これは無量の義です。地面を見ると富士山があり、ヒマラヤがあり、砂漠があり、いくらでも分別されていくのです。分別は無量です。人間が進歩発展していくとうことは分別が増えるということです。
進歩発展していくと分別が複雑になるのです。分別しない人間は簡単です。「人の物は自分の物、自分の物も自分の物」です。それで分別は終わりです。それ以上、先へは進みません。これは無分別の考え方です。
この分別の思想に優れているのは、西洋人です。西洋人ではどんなものでも量にしてしまいます。音楽にしても「音」というわけのわからないものを楽譜でとらえるという考え方がすごいのです。楽譜は分別です。
その音が高い音かドかレかミかを決めるのです。それを音符で表すのです。それも八分の一拍子なのか、二分の一拍子なのか、これもちゃんと表すことができるのです。音階がとらえられて、それがどのような速さをもっている音なのか、強さをもった音なのか、弱い音なのか、すべて楽譜で表現できます。
西洋文明の特質は分別にあります。そのように考えたらよいのです。スピードにしても、すべてグラフに表すのです。しかも、細かく瞬間におけるスピードや加速度まで計算して答えを出せるのです。これが西洋文明の特質です。
ところが不思議なことに日本人は西洋人と同じことをやっているのです。しかし、表現していくことが下手なのです。数学にしても微分積分にしても関孝和がやっていました。同じことをやっているのです。ところがライプニッツなどが表した微分積分は誰でも伝授できるのです。記号の使い方がきちんとしているので、それは人に伝えていくことができるのです。
関孝和の微分積分は西洋のものと同じですが和算という手法を取ったので、人に伝えにくかったのです。そのような問題点があります。それは日本文化が無分別に根をはっているという特徴があるからかもしれません。
西洋文明は根本的に分別です。聖書の天地創造を見てもそうです。「神は誰を最初に創ったのか?」ということを正確に教えます。「神は天と地を最初に創ったのです。どのように神は創ったのでしょう。次に何を創ったのでしょう。動物を創ったのか、植物を創ったのか、人間を創ったのか?」ということを実に細かく書いてあります。
キリスト教徒達は、「神が分別している順番を絶対の真実だ」と思い込んでいるのです。例えば、世界を創るときに人間を先に創って、動物を後から創ってもよいわけです。それではダメなのです。「神はそのように言っていない。動物を先に創って人間を後から創ったのだ。これはどのような意味を持っているのか?」という考え方をするのです。キリスト教徒は聖書を絶対に疑いません。
キリスト教徒達は神が世界を創った順番を考えて、「そうか、そのような意味で人間は後から創られたのだな」とわかっていくのです。これは分別しているのです。西洋文明は無分別ではありません。分別文明と無分別文明があるとすると、日本人はどちらかというと、分別している民族ですが、根本にあるものは無分別です。
日本神道では、神も人間も同じです。人間が神に成ったのです。この「成る」という言葉は分別ではありません。日本神道では神も人間も同じです。
それはともかくとして、「無量義は一法より生じる」と書いてある法華経の言葉をどう受け止めたらよいのでしょう。無量義とは、分別して無量の義が出てくるのですから、分別したところのものは、たった一つの分別している法が原因です。このことを「能生(のうしょう)の根源」といいます。「能生の根源」とは、「物事が能(よ)くでてくる」という意味です。「能く出てくる」というから能生というのです。
何が出てきても不思議はありません。出てくるところの法は一法です。出てきたところを所生(しょしょう)といいます。出てくる源を能生(のうしょう)といいます。
そのように考えていくと、西洋のスピノザの汎神論と似ているのです。スピノザはこのように考えたのです。「自然とは神がなったものだ。神が自然と別のところにいるわけではないのだ。あらゆる地上のものは神の姿そのものなのだ」という哲学です。これを汎神論といいます。「すべてが神なのだ」という考え方です。
西洋人は分別を極めて極地に達すると、原子爆弾になってしまったのです。これは人間を幸せにはしません。破壊する悪魔のようなもので、分別の極地です。原子爆弾に至るまでは、分別・分別・分別・・・と、分別をずっと重ねてきて、その知識をもって原子爆弾を造ってしまったのです。
しかし、造った物はもともと無量の義一法なのです。我々は分別した世界にいるけれども、逆に「これも分別」「あれも分別」と、ずっと分別の根源を探っていくと、無分別法になってしまいます。
そのことを説いたのが「無量義は一法より生じる」ということなのです。人間にとって分別するということは非常に大事です。分別することにより、人間は他の動物と区別することができるのです。
あまり分別ばかりしていると、西洋人のように原子爆弾まで到達してしまいます。そうではなく「自然界はみな一つ」という結論に帰っていく必要があります。それを教えているのが一法ということなのです。

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2017年03月23日

人間の探究 727 化城の事

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※勝海舟が言われたように「心にやましいことをしてはいかんぞ」ということです。心がやましくなければ、いつまでも元気なのです。

人間の探究 727 化城の事

 妙法蓮華経化城喩品第七の「化城の事」についてです。
これはある旅をしている集団が、長い時間歩いてくると疲れてしまいます。「そろそろ中食(ちゅうじき)にすべぇ!」というようなものです。疲れてもう歩きたくありません。「お腹も空いた、足も痛い」とみなが言い出すのです。
 その時に集団の指導者は「ほら、あそこを見ろ!」というのです。今まで山が見えていたところにお城が見えるのです。すごくキレイなまばゆいばかりの城です。「もうちょっと我慢して歩けば、あの城の中に入れる。美女もいれば酒も飲めて、温泉もあるから、もうちょっと頑張ろう!」と言うのです。
 昔はそのような場所をオアシスといいます。「そこまで頑張って行こうではないか!」と歩いていくのです。足を引きずって歩いて「ここまでやっとたどり着いた!」と思うと、そのお城がパッと消えてしまうのです。今までここにお城があったのに、雲の如く、夢のようにお城が消えてしまったのです。「あれは何だったのだろうか?」という話です。
 お城は消えたけれども、先ほどいた場所よりも前進したのです。そのような化城を用いて仏教の例え話をしているのです。
 君たちが求めている富、名声なるものは幻のようなものです。この夢のような城のことを化城(けじょう)というのです。「私(仏)が諸君を連れていきたいところは、こんなところではないのだ。無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうかく)という最高の境地に諸君を連れていきたいのだ。そこには永遠の泉があり、花は咲き、欲しいものは何でもあります。果物もあります。しかも永遠にそこにいられるのです。一時しのぎに作った場所ではありません。そこに行ってもらいたいのです」と仏様が言うのです。
 化城とは、我々の生活を表しているのです。我々の頭の中で求めているものは、名誉・金・地位・権力です。それを求めてあくせく生きているのです。いくら歩いてもそれは化城のようなもので、消えてしまうのです。
 石原慎太郎は84歳で百条委員会に呼び出されてテレビに出ていましたが、見る影もありません。ちょうど石原慎太郎が百条委員会に呼び出された3月20日が、「オウム真理教の地下鉄サリン事件」の日です。心にやましいことをやると生気がありません。みなぎっている覇気がありません。これは年のせいではありません。曲がったことをやってくるからそうなってしまうのです。曲がったことをやってこなければ、年には年なりの迫力があります。
 心にやましいことをやってくると石原慎太郎のように心が萎えてしまうのです。すると本当に寿命も萎えてしまうのです。
 勝海舟が言われたように「心にやましいことをしてはいかんぞ」ということです。心がやましくなければ、いつまでも元気なのです。氷川町に住んでいた勝先生は、せんべい布団の上に座っているのです。布団は1枚しかありません。体は痩せていたのですが、冬でも合わせの着物1枚です。「俺は曲がったことをしてこなかったから、こんなせんべい布団に座って、冬でも着物1枚で平気なのだ」と言っていたのです。「曲がったことはしていない」そこに原因があるのです。曲がったことをしてこない、天地に恥じない行動をしているから、命を落とそうと、どうなると恥じることは何もないのです。命乞いをしたこともないし、それが大事なことです。
 仏教もそうです。人間社会で長生してもたかだか100年です。寿命は100年しかありません。春夏秋冬が100回来たらおしまいです。どんなによい思いをしても、何百億円のお金を持っていても、100年生きたら終わりです。
 まるで幻の城が消えるようにサラサラと消えてしまい、何も残りません。残るものは「曲がったことをしてこなかった」という心です。
 昔、武将は死ぬ時に必ず刀を添えたのです。有名な毛利元就(もとなり)が死ぬときには「わしは刀はいらん!」と言ったのです。「わしは人を斬ったりもしたが、義に恥じる行動はしておらん。曲がったことはしていないのだから、刀はいらない!」と言ったのです。この勢いがなければダメです。実際は毛利元就は死ぬ時に刀を入れたのだと思います。
 人生は化城だと知りなさい。化に非ざるもの、実を求めなさい。化城に反する言葉は実存です。実存を求めなさい。実存の正体を明らかにしていくことが、仏道修行の目的です。
 創価学会に入って選挙運動をやって「公明党が伸びた」「佐々木さやかが当選した」「松葉多美子が当選した」とか、馬鹿ではないでしょうか。そんなことは化城のことです。仏道修行とは、化城を脱出することを教えなければいけません。創価学会・公明党のように「政治権力を握ろう」など、何を馬鹿なことを言っているのでしょう。
 我々はこのように化城喩品の中からお釈迦様の教えというものをくみ取っていかなければいけません。

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2017年03月22日

人間の探究 726 鬼子母神の事

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※池袋に「恐れ入谷の鬼子母神」といわれる鬼子母神をお祀りしたお寺があります。

人間の探究 726 鬼子母神の事

 妙法蓮華経陀羅尼品第二十六の「鬼子母神の事」についてです。
池袋に「恐れ入谷の鬼子母神」といわれる鬼子母神をお祀りしたお寺があります。「恐れ入りやした」の「入りや」と「入谷(東京都台東区の地名)」を掛け、入谷の真源寺(台東区下谷)に祀られている「鬼子母神」を続けて言ったしゃれです。みんな何だかわからないでお参りしているのです。
 鬼子母神は恐ろしい魔物です。昔、インドで鬼子母神は人の子供をさらって食べていたのです。村人は困ってお釈迦様に「鬼子母神が現れてうちの子供がさらわれて食われてしまったのです。鬼子母神を何とかしてもらえませんか」と相談したのです。
 お釈迦様「鬼子母神はそんなに悪い奴なのか。子供は何人いるのだ?」
村人「はい、10人います」
お釈迦様「わかった。そのうちの一人をさらって来い」と言われて、鬼子母神の子供を村人がさらってくるのです。お釈迦様は鬼子母神の子供を隠してしまったのです。
 すると鬼子母神は子供が1人いないことに気が付いて、「子供が一人いなくなった!」と泣きわめいたのです。するとお釈迦様が出てきて、「お前は自分の子供に会いたいのか?」と聞くと鬼子母神は「会いたいです」と言うのです。お釈迦様は「自分の子供は大事で、人の子供は大事ではないのか?」と言われたのです。
 そこで鬼子母神は「ハッ」と悟るのです。「ああ、私が子供をさらって食った親たちはこんな悲しんでいたのだな。私は悪いことをしました」と、本当にそのように思ったのです。お釈迦様は「ほら、これがお前の子供だ」と子供を出してあげたのです。
 鬼子母神は「私は大変な罪を犯しました。これからは罪を贖うために仏教に仇なすもの、お釈迦様のご説法に仇なす者がいたら、ただちに飛んでいき、そいつの命を取ります。そのような働きをしてお釈迦様をお守りします」という誓いを立てたのです。するとお釈迦様は「善哉善哉(よいかな、よいかな)」とお釈迦様が言われたという話です。
 鬼子母神はお釈迦様に請願を立てて良い神になったから仏教でお祀りしているのです。入谷の鬼子母神もそうです。悪魔の鬼子母神をお祀りしているわけではありません。仏教の布教のために頑張っていると鬼子母神が働いて、仇なす者の命を取りに行ってしまうのです。
 今も同じです。一生懸命正しく法を教えようとしている者に対して、仇をなす者があれば鬼子母神が飛んでいくのです。僕をめぐって多くの人が死んでいますが、鬼子母神のせいかもしれません。
 静岡県立大学教授小島茂は死亡、九天社の出版社は倒産して、社長は死んでいます。僕に仇なす者はみんな死んでいます。僕は何をしているわけではありません。多分、鬼子母神が働いているのだと思います。皆さんもそうです。一生懸命布教している人間の悪口を言ったり、誹謗したりする人間は、ただちに鬼子母神がいってしまうのです。鬼子母神、恐るべしです。
 正理会には龍神様が2体も入ってしまいました。翡翠の龍神です。5キロの重さのある翡翠の龍神が仏教守護のためにお祀りしてあります。正理会に牙を持って向かってくると龍神様に食い殺されてしまいます。
 龍の働きは、鬼子母神の働きと同じようなものです。龍も鬼子母神も本来はエゴのために動くのです。いずれにしても畜生です。畜生は自分の利益のためにしか動きません。どんな動物でもそうです。自分が食べるために動くのであり、人に食べさせてあげようとは思いません。龍にしても鬼子母神にしても畜生です。
 ところがこの巨大なエゴイストが仏教という偉大な法にふれることによって、巨大なエゴイストを脱却して仏教を守護する側にまわるのです。このような見事な信心をしていかなければいけません。
 かつて鎌倉時代の日蓮大聖人様もそうだったのです。良観の讒訴(ざんそ)により島流しにされたのです。讒訴とは、ウソの訴えをして日蓮大聖人様を陥れようとしたのです。鎌倉で日照りが続き、良観が雨乞いの祈祷をすると、ますます雨が降らないで日照りが強くなったのです。鎌倉幕府が「日蓮を呼んで来い」と言うので、日蓮大聖人様はわずか数十人で祈るとたちまち雨が降ってきたのです。
 すると良観はメンツがないものですから、「日蓮は悪い坊主だ。大雨を降らせて鎌倉中を水浸しにしようとした」と讒訴(ざんそ)をしたのです。「日蓮はそんなことを考えていたのか。けしからん!」と執権が怒ってしまったのです。そして「島流しにしろ!」と言うので、島流しにされたのです。これはすべて良観のウソなのです。
 日蓮大聖人様をめぐっての争いはすべて讒訴(ざんそ)です。良観が「日蓮は国家転覆をたくらんでいます」と鎌倉幕府に訴えて、日蓮大聖人様は島流しにされたのです。
 日蓮大聖人様に仇をなした者はロクな死に方をしていません。平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)は、日蓮大聖人様を法華経第五の巻で三度もぶち、数々の迫害をしてきたのです。すると平左衛門尉は落馬して死んだのです。鬼子母神が働いたということです。
 佐渡島に島流しにされたときには、極寒の冬です。家もなければ死人を投げ捨てる穴の上にある祠に日蓮大聖人様は島流しにされたのです。食べるもののありません。雪が降っているのです。「これで日蓮も死ぬな」と思っていたらとんでもありません。
 佐渡にいた北面の武士(後の阿仏房)が現れて、日蓮大聖人様を助けたのです。鎌倉の首の座では空一面に光物が現れたのです。妖怪が鎌倉に遭われて「日蓮を斬るのを止めろ!」という使者と、「刀が折れて斬れなくなりました!」という使者がバッタリと出合ったのが行合川です。今でもその川はあります。
 法華経を真面目に修行していく人には、不思議なことが起きてくるのです。僕は単なる信者にすぎませんが、日蓮大聖人様に比べたらとんでもない話です。僕ごときでも守られているのです。様々な守りがありました。阿佐ヶ谷に住んでいるときは、火事があり、僕の家の直前で火事が止まったのです。花籠部屋の連中が何十人も家に入り、火事を食い止めようとしたら、不思議に燃えなかったのです。そのようなこともありました。様々な不思議なことがたくさんありました。だから今日まで生きてこられたのです。
 僕などは迫害の連続です。誰も認めません。だけど、今日まできてしまったのです。誰も文句はいえません。必ずそうなるのです。その前に信心は試されるのです。「お前は本当の信心をしているのか、どうなのだ!」と攻められて、ガクガク・ブルブル震えて、みんなそこで信心が落ちてしまうのです。
 「何があってもこの道を行く!」と決めたら行くのです。それが大事なことです。鬼子母神を奮い立たせるような、或は龍神を奮い起こさせるような、強い信力・行力を持って、この法華経を信じる者、日蓮大聖人様の弟子たる者は、その気持ちでいかなければなりません。
そうすれば所願は満足して、必ず「勝った!」という自覚ができてくるのです。「勝った!」という自覚とは何でしょう。仏教一代、釈迦一代の法門がすべてわかれば勝ちです。「勝った!」とはそのようなことです。「あいつよりも給料が1万円多い」とか、そんなことではありません。
釈迦一代の膨大な経典の真実がわかったならば、最高の正理です。誰も敵いません。そのようになるために信仰をしているのです。大いに鬼子母神に働いてもらいましょう。鬼子母神は怖いで!!

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2017年03月21日

人間の探究 725 唯神論と唯物論

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※素粒子でみると、富士山は素粒子が集まったものですから、富士山は消えてしまいます。

人間の探究 725 唯神論と唯物論

 僕たちの少年の頃は、学校の勉強が終わるとこの話題でした。「この世界は神が創ったのだ」というのは、唯神論です。「物が勝手に動いてできたのだ」というのが唯物論です。ところがこの唯神論は2つに別れます。
 法相の唯識論では「心がすべてをつくる」と書いてあります。「神が世界を創った」のではなく、唯心論です。唯神論は、唯心論と2つあります。どちらも区別しなくてよい面があります。
仏教の法相の唯識論では「心が全てのものをつくりだす」といいます。不思議な話です。昔はこの意味は誰もわかりませんでした。
 「心が全てをつくる」といいますが、心が富士山や月や太陽をつくるというのですが、ここで言う唯心論はそうではありません。「富士山を見ている」ということは、貴方の心が富士山を見ています。貴方の心が変わると富士山はなくなってしまいます。これが素粒子論です。世界は素粒子からできています。
 素粒子でみると、富士山は素粒子が集まったものですから、富士山は消えてしまいます。人間は「外界の自分以外のところに物があり、それは心では動かない」と考えていますが、そうではありません。自分の環境もそうなのです。「貧乏という環境」「病気で苦しむという環境」、この世界に入ってしまうとなかなかこの世界は消えません。貴方の世界は貧乏なのです。貴方の世界は病気なのです。
 実はそうではありません。貴方の心が貧乏なのです。貴方の心が病気なのです。これは生長の家の谷口雅春がよく言っていたことです。上手い言い方をしています。谷口雅春は「実相からみると、すべて心の影である」と言ったのです。では、「実相とは何ですか?」という質問に対して、彼は説明できていません。
 「観念的に実相というものがあり、この実相から見れば生活は心の影である」と言っているのです。これは上手い表現です。貴方の心が貧乏なのです。貴方の心が病気なのです。貴方が変われば、世界はガラリと変わるのです。これを仏教では三変土田(さんぺんどでん)の原理といいます。3つの世界がひっくりかえるのです。
 その世界には貧乏もなければ病気もありません。まして、殺しもなければ殺されることもありません。これを説いているのが仏教です。
 僕らの高校時代は、皆で集まるとその話でもちきりでした。5〜6人集まると夜中まで「唯神論か、唯物論か」という議論を徹底的にやったのです。話題はそれしかありません。唯物論を唱えている人間は早稲田大学の部落解放同盟に入ってしまいました。死ぬまで唯物論者の考え方は直りません。
 自分という存在を見たときに、自分で自分を創ったのでしょうか? 簡単な原理です。貴方は自分で心臓を創ったのでしょうか? 自分で血液を創ったのでしょうか? これは違います。自分の意思で創られたものではありません。
 誰が創ったのでしょう。人間は呼吸して酸素を取り入れて血液が流れて心臓が動きます。こんな上手く人間が創ったのでしょうか? 「違います」とすぐにわかることです。唯物論は間違いです。人間や生命を生み出している、別の力があるということは、この頃から僕はわかっていました。
 様々な原料を集めて、「えい、やー!」と言ったら生物ができるのでしょうか? 生命は絶対にできません。電気刺激を与えて生命ができるのかというと絶対にできません。生命は、物質の法則以外の不思議な力が働いているのです。
 物には物の法則があります。物の法則では、ここにある鉛が明日になると金になるということはありません。鉛は鉛です。ある一定の操作をすると鉛が金になることもあります。これを錬金術といいます。
 物から生命は生まれません。生命は独自の働きがあり、その働きによって我々は創られ、生かされ、その法則に従って生きているだけです。「我々の存在の奥には神がある」と思う人は神をみるのです。
 「その奥に心がある」と法相の唯識論は考えたのです。
「心こそが万物を生み出す源」と考えたのです。しかし、唯物論だと考えた連中は人間を「物」だと思っています「。物が全てであり、心などというものは存在しない。物理の法則、進化論の法則により低級な物から高級な物ができてきた」という進化論を深く信じています。
 従って進化論を信じている人間は唯物論者だとわかります。唯物論の考え方が進化論を生んできたのです。唯物論者に共通して言えることは、人に対する思いやりが全くありません。いらない物は排斥するのです。
 しかし、これは唯物論者の大義名分で、「社会にとって不必要な物は処分する」というのです。処分とは粛清ということです。このような考え方ですから人間を平気で殺せるのです。金正恩もそうです。人間を平気で殺せるのです。金正恩の頭の中は唯物論に違いありません。「神が存在する」と考えたらそんなことはできるはずがありません。
 この論争は学問を勉強する前に徹底的にやっておく必要があります。そのような環境を与えなければいけません。その哲学論争をやらずして、いい加減にして成人して学問を学ぶから、根本にあるものは唯神論か唯物論かわからないのです。「唯物論は間違った考えだ」ということを徹底的に教えていかないといけません。
唯物論者は「社会的科学主義」などといいます。何が科学なのでしょう。生命の力を認めない奴は馬鹿なのです。それをもっとやっつけておけばよかったと思っています。僕は随分、唯物論者は論破しています。
どうして唯物論者になるのかというと、唯神論がわからないからです。唯神論の説いている神は、唯神論なのか、唯心論なのか、これは長じてわかってきたことです。当時はなんとなく僕は「唯物論は間違っている」とわかったのです。「左翼の思想は馬鹿だな」と思っていました。
まず、人間の教育の第一番は左翼に近づかないことです。若いときに徹底的に唯神論と唯物論の違いを明確にわけて、教えておかなければいけません。そうすれば左翼思想に近づくことはありません。左翼の弁護士を見ていると馬鹿だとわかります。常識がかけている馬鹿です。
北朝鮮がこれだけ軍備をして、いつミサイルが日本に飛んでくるのかもわからないのに、「憲法を守れ」と言っている連中は馬鹿なのです。どうしようもならない馬鹿です。これを仏教で言うと「元本の無明(がんぽんのむみょう)」といいます。どうしようもならない馬鹿のことをいいます。
憲法を守って国が滅んだらどうするのでしょう。それがまともな人間の考えることです。憲法は都合により変えればよいのです。「国を守る」ということが大事です。そのようなことをみな間違えてしまうのです。
日本人は「こちらが悪意を持たなければ相手も悪意を持たない」と思うのです。ウソをつくものではありません。こちらが悪意をもたなくても、相手は悪意を持っているのです。そのようなこともわからなくなってしまうのです。
人生の入り口に立って唯神論、唯物論を学ぶことが大事です。それから学問を勉強するのです。唯物論者は「唯物論が進化論を生んで、進化論が唯物弁証法を生んで、社会は造られているのだ」といいます。そんなものではありません。まず、入り口をしっかり勉強しましょう。

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2017年03月20日

人間の探究 724 法師の事

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※法華経というのは無量義経が三品です。品とは章ということです。それから妙法蓮華経は二十八品あります。最後に観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう)です。これが法華経です。

人間の探究 724 法師の事

 妙法蓮華経法師品第十の「法師の事」についてです。
法華経の法師品とは、「末法の法師、法の師とはどのようなものか?」ということを言われています。これは言ってみると本来は「お坊さん」という意味です。だから日蓮正宗法華講の連中は「お坊さんに帰依しろ。坊さんは法師なのだ」と言うのです。
 しかし、現在この法師に当たるお坊さんがいるのかというと全くいません。法華経を満足に講義できるお坊さんもいません。「尊敬するべき法師です」などと言えるお坊さんはどこにもいません。
 お坊さんになった以上は「我法師なり」という自覚がなければいけません。法師とは、本来は僧のことです。僧は法を説く師です。それが法師という意味です。お寺の中ではお坊さんですが、創価学会の幹部も会員から多くのお金を寄付されて、教えているのですから法師でなければいけません。
 立正佼成会、仏所護念会、顕正会、みんな幹部は法師です。「我法師なり」というその自覚がなければいけません。法師とは「法をよく教える師」という意味です。その人に就けば正しく仏教が学べます。しかし、今、仏教について答えられる幹部連中は誰もいません。
 法は説かずに勢力の拡大だけを図るのです。本来ならば法の師として多くの人々を成仏させるという大事な使命がありながら、それを忘れて団体は大きくなる、信者の数が増えるということしか考えていないのです。だから幹部連中は自分も仏教がわからないし、わからないままで法を人に説けませんから、結局中身が何もないということになるのです。
本当の法師は道を求めて何十年もずっとやってきた人のことをいうのです。「道を求めて」というのですから、あそこで法を説く人がいたら聞き、東に師匠がいると思えば行き、西でも南でもどこへでも行きます。
 そして「教えてください。これはどのような意味なのでしょうか?」と修行してきて自らの信仰が完成します。今の人達は法を求めていません。「妙法蓮華経ですよ」と言っても「なんのこっちゃかわからん、俺には関係ない」と思っているのです。
 「俺の興味があるものはお金だ!」「ファッションだ!」「車だ!」「ビートだ!」これにしか興味を示さないのです。妙法蓮華経は大事な教えです。それを説いても「なんのこっちゃ?」と耳をかたむけません。これは時代の風潮です。
 しかし、法華経は意味のないものではありません。ものすごく意味がある経典です。法華経には、生命のことがすべて書いてあるのです。それをわからせるために比喩的に説いたり、様々な角度で一つのことを理解させようとしているのです。
 お釈迦様の経典は8万6千といわれる経典があります。これをすべて読んだ人はいません。皆が経典を作ったからです。「もう経典は出つくしている」と思っていたら、敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)から何万巻という経典が発見されたのです。それは皆が読んでいない経典ですから、読めば新しい発見があるのです。
 しかもサンスクリット語から漢訳された法華経は鳩摩羅什(クマラジュウ)という人が訳したのです。鳩摩羅什はインド人と中国人の両親の間に生まれたハーフです。バイリンガルですから、両方の言語がわかったのです。800人の坊さんを集め国家事業として、経典を漢訳したのです。
 この経典は一字一句たりとて間違いはありません。これがまず法華経を知る者の心がけです。800人のお坊さんが国家事業で集まって、一行ずつ訳して「この漢字でよいのか?」ということを厳密に一字ごとに研究したのです。
 「この法華経の文字は一字一字が金色の仏身だ」と日蓮大聖人様は言われています。わかった人から見ればどの字をとっても、仏教が出てきます。例えば「我(が)」という一字が出てきます。「これは仏です」というのです。
 この我(が)の正体を明らかにしていくならば、それは仏です。「我不愛身命(がふあいしんみょう」は、「我、身命を愛せず」という意味です。「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の「不」の字をみても、「不とは何だろうか?」と考えていくだけで仏教が出てきます。
 だから法華経は最高のお宝様なのです。様々な経典があり、最終的にお釈迦様は我々に「妙法蓮華経だよ」と教えられたのです。その教えをサンスクリット語で言うと「サダルマプンダリーキャソタラン」と言ったのです。これが最後に説かれた経です。
 それに至るまで仮の教え、空の教え、様々な教えを説き、最終的に「妙法蓮華経が命の根本の教えである」と説かれたのです。法華経とはお宝様です。凡夫が物語のようにサッと読んで「わかった」というようなものではありません。
 「一文字ずつが金色の仏身」と言われているのです。そのような角度で読まないと、この法華経はわかりません。法華経というのは無量義経が三品です。品とは章ということです。それから妙法蓮華経は二十八品あります。最後に観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう)です。これが法華経です。
 この中で最初に出てくる無量義経がすごいのです。「仏というものの正体とは、いかなるものであるのか?」ということを、34の非(あら)ずで説かれています。
「其の身は有に非ず亦無に非ず、因に非ず縁に非ず自他に非ず、方に非ず円に非ず短長に非ず、出に非ず没に非ず生滅に非ず、造に非ず起に非ず為作に非ず、坐に非ず臥に非ず行住に非ず、動に非ず転に非ず閑静に非ず、進に非ず退に非ず安危に非ず、是に非ず非に非ず得失に非ず、彼に非ず此に非ず去来に非ず、青に非ず黄に非ず赤白に非ず、紅に非ず紫種々の色に非ず。」(無量義経徳行品第一)
 どの教科書もわからないから何の解釈もありません。それを説いたのが戸田城聖先生です。戸田先生は牢獄の中で「法華経を理解したい」と本当に取り組んだのです。無量義経徳行品第一には、「其の身は有に非ず亦無に非ず」と書いてあります。「それは一体どのような意味なのか?」34の非ずの一つ一つにぶつかって、読んでいかれたのです。お題目を200万遍唱えて「戸田城聖はこの問題を解決する!」と言われて悟りを開かれたのです。
 そして戸田先生は「そうだったのか、生命のことを説いたのだ!」とわかったのです。「仏の其の身というものは、生命そのものを表しているのだ」ということを悟ったのです。
 これはまだ入り口論であり、それがどのようにすごいのかということは、中身によるのです。「法華経前半十四品と、後半十四品ではどちらが優れているのか?」という解釈をした人もいます。
 法華経は生命のことを説いているのです。そう思ってこの経に取り組まないとダメなのです。仏教一般のことで言うならば、仏教とは分別法ではなく無分別を説いた教えです。仏教に触れていくと無限の安らぎを得るのです。
 普通の商売で「儲かった」「損した」などの煩わしい話を世間ではずっとしていますが、仏教はそんなことを説いたのではありません。仏教とは無分別の法です。貴方達が本来持っている命というものを説いているのです。
 だから仏教に触れると命がキレイになり、濁りがなくなり、汚れがなくなってくるのです。ここに法華経の意味があるのです。読めば読むほど、命がキレイになっていくのです。法華経はお金儲けの法ではありません。それを間違えてはいけません。
 心を洗ってキレイにしていくから仏が出てくるのです。そのような意味でいうと、すべて真実なのです。真実の中に方便もあります。妙法蓮華経見宝塔品第十一では、塔が空中から出現した話があります。それも目を開いてよく見ればわかってくるのです。
 そして、我々は法師に親近しなければいけません。法を説いてくれる人から教えを聞かなければわかるわけがありません。法を説く人は常にいるのです。忘れてはいけません。戸田城聖先生もいらっしゃいました。日蓮正宗のすべてのお坊さんとはいいませんが、日淳上人という優れた人もいるのです。「南無妙法蓮華経は宇宙の法ではない。つくられた法ですから、日蓮大聖人様のお心の中にしか南無妙法蓮華経はない」という名言を残した方です。「ああ、勉強されているのだな」とよくわかります。
 戸田先生、石田先生、そして今では僕しかいません。そして法は伝えられていくのです。常に法師は出てきているのです。しかし、それを法師として認めない人、わからない人はご不幸ですが、それはやはり縁がなくてまた地獄へ行ってしまうのです。これは自業自得だから仕方ありません。「法を説いてくれる法師がいる。法を聞きたい!」そのような猛烈な気持ちで信仰をしていかないと仏教というものはわかりません。

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2017年03月18日

『日本人に打ち込む100本の柱』武士道 31柱

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土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
武士道 31柱

「花は桜に人は武士」という言葉があります。実に武士とは好いものです。武士とは嘘は言わない、二枚舌をもたない、主君に忠義をつくす、潔い責任感、これらは皆武士の持つ美徳ですが、本当の日本人は皆、これらの美徳をそなえています。           多摩の農民あがりの剣客である新撰組の近藤勇、土方歳三などは京都で水戸藩士の芹澤鴨一派に「君達のいう士道とはなにかね、水戸には弘道館士道というものがあるが、君らのいう士道とは多摩の農民士道のことかね」と揶揄される場面がありますが、これには近藤も土方も悔しかったのに違いありません。武士道といっても薩摩の武士道も有れば合津の武士道もあるのです。                              武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではなく、なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは御恩の対価である」とする観念があったためです。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は当時は主流ではなかったようです。体系付けられたいわゆる武士道とは言えず、未熟であったようです。
 江戸時代の元和年間(一六一五年‐一六二四年)以降になると、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立されました。これによって初めて、儒教的な倫理(仁・義・忠・孝など)が、武士に要求される規範とされるようになったのです。山鹿素行が提唱した士道論は、この後多くの武士道思想家に影響を与えることになりました。
 享保元年頃(一七一六年)、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「忠」「義」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは有りませんでした。
 幕末の万延元年(一八六〇年)、山岡鉄舟が『武士道』を著しました。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしています。
 明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去りました。実際、一八八二年(明治十五年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされました。ところが、日清戦争以降「武士道」が再評価されるようになりました。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとしました。いずれにしても忠臣蔵などで武士道というものを知り武士的精神が広く行き渡り日本国民の精神的支柱になっていることに間違いありません。

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2017年03月17日

人間の探究 723 日蓮を用いるとも悪しく敬わば国滅ぶべし

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※今や韓国も北朝鮮も我が国の敵国です。この敵国に対して参政権を与えるということは、無分別です。しかも、公明党はその運動を一番熱心にやっています。29回も法案を提出しているのです。

人間の探究 723 日蓮を用いるとも悪しく敬わば国滅ぶべし

 創価学会の皆さん、大石寺の皆さん、顕正会の皆さん、日蓮大聖人様は御書で以下のように言われています。この意味がわかる人、回答してみてください。
 「日蓮を用いるとも悪しく敬わば国滅ぶべし」(種種恩振舞御書)これはどのような意味で言われているのでしょうか。ハッキリと書いてあります。さあ、誰かこの問題に手をあげて答えてください。このように言っても、この意味がわからないから誰も答えられません。
 これはどのような意味なのか、きちんと教えてあげましょう。「日蓮を用いるとも」とは、「日蓮仏法」だと創価学会や大石寺は言っています。「悪しく敬わば」というのは、大石寺のようにお曼荼羅をつくって拝ませることです。
 こんなことをやっていると国は滅びます。或は創価学会のように分別・区別ができなくなって、「お題目を世界平和として唱えていきましょう」と考えて、会員に拝ませています。これは亡国の業なのです。
 顕正会は「国立戒壇の一本でいくのだ」といいます。時代錯誤も甚だしいのです。これらは、日蓮大聖人様を悪しく敬っているのです。
まず、大石寺にして、推して知るべしです。仏教を板本尊にしてしまいました。「この本尊に祈りをかければ、何でも祈りが叶うのだ」それでは、中世のインチキ宗教です。大石寺は「故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く・理としてあらわさざる無し」というのです。ただし、「この御本尊に祈れば」という条件つきです。
 それだけやっていればよいのでしょうか。まだあります。「ご僧侶様に仕えなさい。ご僧侶様といいなさい」と大石寺は言っています。これが正しく仏教を崇めていることになるのでしょうか。大石寺の坊主は女性を暴行して警察事件になっています。何故、生臭坊主を崇めるのでしょう。家に帰れば大黒様がいます。ご僧侶の何処に尊敬するものがあるのでしょう。
 「ご僧侶様が板本尊をお守りしているのだ」という理屈です。こんなことを国中でやったら国が滅びるとわかります。仏教とは無分別を説いた教えです。大石寺はこれもわかっていません。仏教は分別法を説いたと思っているのです。仏教は無分別にきまっています。
 法華経方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」と書いてあります。無分別の法が仏教なのですから、無分別の法で国が治まるのでしょうか。治まらないということはすぐにわかります。
 だいたい仏教とは出家の法です。出家の法とは世間(社会)から出るということです。世間とは分別の世界です。それが嫌で出家するのですから財産は持ちません。本来の出家はそうです。
仏教で得られるものは、無分別の極地の法が得られるのです。政治の法ではありません。それなのに「これを拝めば国が平和になる」などわけのわからないことを言ってはダメなのです。そんなことをやれば国が滅びるのです。
 国は分別法を持って治めていくものです。分別法とは「馬鹿は馬鹿、利口は利口」ということです。人間には身分があります。財産がある人、財産が無い人がいます。これはすべて分別です。
 そこから生まれている国家というものは、その法則をよく知らなければ国が治まるわけがありません。お金持ちに向かって「仏教は無分別だぞ」と言っても財産を捨てるわけがありません。そこからみても大石寺は間違っています。
 さて、創価学会を見てみましょう。一番簡単な見方は外国人参政権の問題です。今や韓国も北朝鮮も我が国の敵国です。この敵国に対して参政権を与えるということは、無分別です。しかも、公明党はその運動を一番熱心にやっています。29回も法案を提出しているのです。
 何故、そのようなことをやっているのでしょう。朝鮮人に生活保護を与えて1票にしたいのでしょうか。今は朝鮮人の面倒をみても1票にもなりません。だから、この朝鮮人に参政権を与えて、政治に参加できるようにしよう。「そうすれば公明党の勢力が伸びる」と考えているのです。
 だいたい敵国に参政権を与えるという考え方は無分別です。創価学会員は分別と無分別の区別がついていません。朝鮮人と日本人の違いもついていません。「何故、朝鮮人が日本にいるのか」という区別もついていません。
 ほとんどの犯罪は朝鮮人が行っているということもわかりません。分別がついていないので、日本人と朝鮮人は同じだと思っているのです。日本人と朝鮮人は同じではありません。それならば、参政権など与えるべきではありません。
 川崎市では在日朝鮮人の公務員は400名もいます。本来その400名の職員は日本人です。日本人の職を奪って在日朝鮮人が400名も入り込んで大きな面をしているのです。朝鮮人は最初、看護婦、保健婦などの仕事ならばいいだろうと思って入れたのです。
 それがいつの間にか一般職まで在日朝鮮人がいます。生活保護を査定する部署にも朝鮮人がいます。こうなってしまいます。その分、日本人が400名失業しているのです。まず、日本人を大一番に考えるべきです。何故、日本人の失業を400名も増やして、朝鮮人の職員を増やしているのでしょう。
 学校も同じです。在日朝鮮人の先生が増えているのです。1万人以上の在日朝鮮人が先生になっているのです。この連中が日本の歴史を教えるのでしょうか? 教えるわけがありません。本当に教えていないのです。
 朝鮮人は歴史がないから、「日本にも歴史があるはずがない」と思って教えないのです。意図的にやっているのです。外国人を公務員にしたら、そうなってしまいます。これも公明党が進めているのです。
 これを見ても創価学会・公明党は馬鹿だなとわかるのです。こんなことをやっていたら日本の国は亡国になります。そのような売国行為をやっているのです。分別と無分別の区別がついていない馬鹿なのです。
 顕正会については何をやっているか知りませんが、会員を集めて体操したり行進したりしています。いう事は一つ「国立戒壇」です。国の権力を持って大石寺の御本尊をお祀りするのです。そうすれば天下泰平になるのだという考えです。馬鹿を言っているものではありません。もうこの一言で国立戒壇論など意味がないとわかります。
 日蓮大聖人様の仏教を学ぶということは、区別していかないとダメなのです。最初に習うことは「五重相対」です。五重相対は何のために学ぶのかというと、「何が優れているのかということを比較思想しなさい」と言われているのです。
 比較思想論は日本で生まれた学問です。宗教を信じることは、それでよいのです。では、なぜその宗教を信じているのでしょう。信じている中身の実態は何でしょう。お互いに比較して考えてみる必要があります。「これを一番にやりなさい」と言われているのです。それが内外相対論です。
 「このようなわけで内道が優れている」と言われると、外道はすべて切り離されるのです。相当勉強しないとこの意味はなかなかわかりません。「内道は因果を説く。外道は因果を説かない」と教わりますが、その程度の理解ではわかりません。
 これを完成したのが戸田先生の弟子である石田次男先生です。内外相対論を表されたのが『現代諸学と仏法』です。諸学とはすべからく外道論です。外道以外のものは仏教である内道です。「内道と外道のどちらが優れているのか?」ということを明解にしたのが石田次男先生です。
 石田次男先生は「私は内外相対論をやるためにきたのだとハッキリわかった」と言われていました。この入り口を間違えてしまうから、後々まで仏教を勉強してもわからなくなってしまうのです。
 入り口が大事です。中国問題も韓国問題も同じことです。入り口を間違えてはいけません。入り口とは何でしょう。韓国の場合は、日韓併合です。韓国が議会に開いて、議会で議決をして「大日本帝国と一緒になりましょう」と言ってきたのです。
 それから日本の議会で検討して、伊藤博文は「韓国は貧乏だから、こんな国と一緒になったら国力が落ちる」と言って大反対だったのです。36年間、毎年日本の予算の15%が朝鮮の経営に使われたのです。日韓併合に大反対だった伊藤博文は朝鮮人に殺されたのです。安重根が暗殺してしまったのです。
 入り口は韓国が「一緒になりたい」と言ってきたのです。それがどうして植民地なのでしょう。今、韓国では「銃剣を持って日本の軍隊が入ってきて、女子供を殺して暴れまくって奴隷にしたのだ」と教えているのです。朝鮮に軍隊で入ったことは一度もありません。日本人と朝鮮人が戦った記録は元寇と秀吉の朝鮮出兵です。
日韓併合してから韓国とは戦っていません。朝鮮人の言う通り合弁したのです。朝鮮の王様は日本の皇族になったのです。こんな親切な話はありません。梨本宮方子様が李 垠殿下の妃殿下になられたのです。
朝鮮の両班は朝鮮貴族です。両班の72人は日本の貴族である公侯伯子男爵にしたのです。公侯伯子男は日本から給料が払われたのです。広大な屋敷が与えられて、身分は皇族です。公侯伯子男です。日本人でも成れません。どこが奴隷なのでしょう。朝鮮人の徹底的なウソです。入り口で入れてはいけないのです。
「日本が韓国を植民地にした」という朝鮮人がいたら、「ウソつくな。朝鮮は植民地ではなく合弁したのだろう」と言い返さなければいけません。朝鮮が議決に基づいて日本と合弁したのですから、相当な地位を朝鮮貴族に与えたのです。
文化の度合いが離れすぎているから、何とか早く日本人並みに朝鮮人を追いつかせたいと思って教育に全力をあげたのです。朝鮮人は字もかけなかったのです。朝鮮人の奴隷階級は字を覚えてはいけなかったのです。「白丁が字を書いたら殺してしまえ」と言われてきたのです。白丁は名前もない、死んだらお墓を造ってはいけない、そのような待遇です。学校を1万校も造り、その連中に字を教えたのです。
道路を造り、鉄道を造り、教えてあげてきたのは日本人です。これは植民地ではありません。これは断固として言わなければいけません。どこの国の植民地が学校を造り、鉄道を造ってあげるのでしょうか。
植民地の人間には字など教えなくてよいのです。「字を書いたら手を斬りおとせ」と言われるのです。アフリカの土人は手がない人が大勢います。それが植民地経営です。植民地の人間に教養をつけたら反乱します。だから字など覚えてはいけないのです。
ハングル文字も日本人が朝鮮人に教えたのです。入り口を間違えたら大変です。敵は入り口で撃退するのです。これは仏教も同じことです。内外相対論は仏教を学んだ人が一番に学ばなければいけません。内道とは仏教です。外道とは仏教以外です。これはどのように違うのでしょう。同じであれば仏教など習う必要はありません。違うから習うのです。
現代科学が外道ならば、外道にないものが仏教です。そのようにわかった上で仏教を習わないと「百害あって一利なし」です。入り口が大事です。これは日常生活すべてにおいて言えることです。「日本は侵略国家である」「東洋に迷惑をかけた」といいますが、迷惑などかけていません。これは声を大にして言わなければいけません。これは相当な学者でも「植民地にしたのだから少しくらい悪口を言われても仕方がない」と思い込んでいるのです。もう洗脳されているのです。
今の中国共産党は日本軍に対しては何も言っていなかったのです。毛沢東は「日本人に虐殺された」「南京大虐殺があった」など一言も言っていません。毛沢東は日本人の悪口など言っていないのです。
日本人ではなく自国民や他民族を虐殺しているのがシナ人です。チベットへ行って何百万人も虐殺しているのです。シナ人がやっていることが、どうして日本人がやったことになっているのでしょう。
そのように入り口が大事なのです。仏教の入り口の内外相対論は大事です。それがわからなくなると「日蓮を用いるとも悪しく敬わば国滅ぶべし」ということになってしまうのです。創価学会、大石寺、顕正会、みんな化け物です。日蓮大聖人様の前に行って詫びてきなさい。

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2017年03月16日

人間の探究 722 仏所護念の事

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※仏が仏所護念する法華経

人間の探究 722 仏所護念の事

 妙法蓮華経序品第一の「仏所護念の事」についてです。
よく法華経系の教団で使われている「仏所護念」という言葉があります。これは便利な言葉で、このように説明しています。
 「信仰すると仏に守られる。これを仏所護念というのだ。教団に一生懸命ご奉公をしている人は仏に守られる」というのです。大変便利な言葉です。これは霊友会でも立正佼成会でも使っています。これくらい間違えた言葉の使い方はありません。
 仏所護念とは、「仏に守られる」のではなく、「仏が護る所の法」という意味です。仏が大事そうに護るもの、護っている所のものを指して、仏所護念といいます。「仏が護り給う法」という意味です。これが本当の意味です。
 「教団にお金を持っていくと仏が守ってくれるのよ。それを仏所護念というのよ」などと、とんでもない出鱈目を教えるのではありません。仏は人々を幸せにするために様々な法を説いてきました。
 最初に仏が説いた教えが「生老病死」です。人間は生まれて老いて病気になって死んでいく。当たり前のことです。「そんなことを説いて何が有難いのか?」と思うのですが、この教えは有難いのです。
 衆生はそんなことを考えていません。まして、天下を取った者は「自分が死ぬ」ということがわかりません。何でも思い通りになるのです。「あそこに川を造れ!」と言えば川ができてしまうのです。「俺のお城を造れ!」と言えばお城ができてしまいます。
 「今日は気分が悪いから10万人ぶっ殺せ!」と言えば、10万人殺せるのです。まさに神です。自分が願うことは何でもできてしまうのです。これを権力というのです。人間は人間より偉い者はいません。わずかの一握りの人間に操られて、奴隷になってしまうのです。
 人間の中にはサドの資質と、マゾの資質がありますが、どうやらマゾの資質をもった人間のほうが多いということです。人を使うよりも、人に使われることを好みます。「あの人は奴隷のように働いて、楽しいのかしら」と見ている人が思っても、本人は奴隷をやっていて楽しいのです。
 「奴隷で楽しい」と思っている人に、「貴方、奴隷でいいの? 自分で考えなさいよ」と言われても苦痛です。「難しい仕事を仕上げなさい」と言われてもできないのです。それは苦痛です。
 ところが人に命じられて「これをやりなさい」と言われれば喜んでやるのです。人間はそのような性質を持っているのです。そこに目をつけたのが権力者です。権力は自然についてくると思われていました。
 しかし、今は心理学や科学的にそのようなことは研究されていて、権力はつくれるものなのです。ISISの指導者は養成してつくられたのです。普通の人間を権力者にしてしまうことができるのです。
 最初に一人の人間を中心者にして、その周りに5〜10名の子分をおきます。これは親分が偉いからではなく、お金の力でそうなるのです。「給料を払うから俺のところへ来い」と言われて行くと仕事は何もありません。仕事もしていないようなゴロツキが集まってくるのです。そして親分を中心にして共同生活を始めるのです。もうすぐに権力になってしまいます。
 10名で押しかけていき「ババア、お金を出せ!」と言えば、怖くてお金を出します。「お前、誰の道路で店を出しているのだ。これは俺の縄張りで俺が仕切っているのだから売り上げを出せ!」というようなことは、10名いればできてしまいます。これは1人ではできません。
 1人で行って「ババア、金を出せ!」と言っても「うるさいな、コノヤロウ!」と言われて、反対に殴られてしまいます。権力とはお金です。役に立たない奴をお金で集めます。それで子分にしてそこにお金を与えます。すると権力は自然に大きくなっていきます。
 ヒトラーもそうです。酒場で「ハイル、ヒトラー!」と言って演説しても組織などできません。一人の人間を決めたら、お金を落としていくのです。そのお金に群がってくるのです。食えない連中が「あそこに行けば食えるぞ」ということで集団ができるのです。
 集団ができると今度は集団の力を使って仕事ができるようになってくるのです。組はそのようにしてできています。一人一人を見ると何の仕事もできません。脳がないから組員になっているのです。もめ事があると出かけて行き、集団同士は喧嘩になります。集団同士が喧嘩して統一した者が大親分です。そのように権力はすぐにできてしまうのです。
 権力をつくっていくと、権力者は「何でも自分の力でできる」と思ってしまうのです。だから「自分が死ぬ」などということはわからなくなってしまうのです。
 信長も「わしは死なんぞ」と言っていたのです。秦の始皇帝も「私は死なない。永遠に生きるのだ」と言っていたのです。自由にならないのはそこだけです。それ以外はすべて力で物にすることができます。万里の長城も始皇帝は言うだけです。
始皇帝は「外敵が攻めて来ることができない城壁をつくれ!」と言うだけです。下の人間はゾロゾロと動き出して、万里の長城を造るのです。始皇帝は何もしません。「やれ!」というだけで出来てしまうのです。「川を造れ」と言うだけで、川ができるのです。「金を集めろ!」と言えば、ぞくぞくと金が集められてくるのです。「よい酒と女を3千名連れて来い」というと女がゾロゾロ連れてこられるのです。
 王様になると何でも自由になってしまうのです。気に入らない人間がいれば金正恩のように「公開処刑だ!」と言われて、その場で処刑です。権力者は錯覚してしまうのです。どのように錯覚するのかというと、「俺は神ではないのか」と錯覚してしまうのです。王様は多分に自分のことを「神」だと思っています。何でも自由になってしまいます。欲しい者は一言で入ってくるのです。魔法のようなものです。
「王様よ、貴方は今生きています。貴方はやがて病気になってそして老いて死ぬのです」と言われると「ドキン」とくるのです。「俺は死ぬのか」と初めて自覚するのです。
 そのためにお釈迦様は生老病死を説かれたのです。王様は驚き、庶民は喜んだのです。庶民からみれば、権力者に永久に苛められています。万里の長城は死ぬまで造るのです。「この労働はいつ終わるのか?」というと終わりません。次から次へと苦役を与えられるのです。
 人間は生まれたら死ぬのです。生老病死を教われば、「死ぬまで我慢すればよいのだな。そうれば自分も楽になれる」と救いになります。王様には教えて、庶民には救いになる教えが生老病死です。
 しかも、この法則は誰人も逃れられません。王様だろうが、百姓だろうが、奴隷だろうが、この生老病死の四苦からは逃れられません。
しいたげられている人から見ると生老病死は救いです。貧乏人にとっては生まれるのも苦です。お母さんのお腹に中にいるときは目も見えなくて苦しいのです。「オギャー」と生まれてくるのは、「苦しいよ」という意味です。
 子供に成ると病気をしたり、苦が待っています。勉強も苦です。お母さんからは「100点取りなさい」と言われるのも苦です。卒業して会社に入るとサラリーマンなどは苦しいのです。仕事が終わると一杯飲んで憂さ晴らしをするのです。生きていることそのものが苦なのです。
 王様は違います。生きていることは喜びです。「今日もこんなことができる」「明日もこんなことができる」「生きていることは楽しいな。お金をたくさん持っていることは楽しいな」「今日はみんな引き連れて大宴会へ行くぞ」と思えば、臣下は王様にオベンチャラを言ってくれます。生は楽しむのです。
 「オギャー」と生まれてきたのは、楽しむための喜びを表しています。王様は病気なっても庶民が病気になるのとは違って看護してくれる人がいます。至れり尽くせりで大事にしてもらえます。
 王様は死んでも大勢の坊主が囲んで、お経を唱えてくれて、大勢の人が死を送ってくれます。みんな楽しいのです。王様にとっては苦と思わせない娯楽があります。何でもできる、夢のように一生が終わります。反対に庶民にとって生老病死は苦です。生まれるのも苦、死ぬもの苦、生きているのも苦です。
 お釈迦様の言われた生老病死の本質は苦を表しています。この苦を抜くことが仏教の最大の目的です。仏教とは生老病死の苦しみを抜くことです。禅宗の修証義(しゅしょうぎ)に曰く「生を明(あき)らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」とあります。
仏教の一大事の因縁とは、生を離れることです。生の苦、死の苦にもあわないための修行が仏道です。禅宗では、このように教えています。
 その中で仏は様々な法を説いてきました。「本当に仏が説きたかった一番大事な教えは何ですか?」という質問に対して、その答えは「仏所護念」です。仏が護って念ずる所の法は、妙法蓮華経です。これが仏の護る法です。
 仏様は妙法蓮華経をしっかりと護っている人です。それを仏と言います。その護っているところを指して、「仏所護念」というのです。
質問「仏様は大事そうに何を守っているのですか?」
答え「それは法華経です」これが正解です。
 霊友会や立正佼成会が言うように「本部にお金を持っていけば守ってくれる」などウソです。仏は護りません。仏が大事に護っているものは、すべての人が成仏する法である妙法蓮華経を守っているのです。それを仏所護念というのです。
 仏道修行者が「見せてください」と言っても「ダメだ。お前はまだ修行が足りないから妙法蓮華経は見せられないのだ。見せてあげられるようになるまで修行しなさい。そうしたらこれを修行の最後に見せてあげましょう」このような感じです。
 仏教とはそのような高尚なものです。求めない者に仏様の宝物は見せられません。現代で我々は、いとも容易く法華経を読むことができますが、それだけ大事なことが書いてあるのです。仏が護る所の仏所護念ですから、お宝様です。そのような意味です。

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2017年03月15日

人間の探究 721 比喩品の事

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※蓮の話には比喩蓮華の話と当体蓮華の話があります。蓮が表している本物の実相という当体は、体得しがたいのです。それには、草花の蓮華を持って解釈しているのです。

人間の探究 721 比喩品の事

 妙法蓮華経比喩品第三の「比喩品の事」についてです。
法華経の中には有名な例え話が、7つあります。例え話を通して教えを説かないと内容が難しくて理解できないからです。法華経の目的は、妙法蓮華経を理解させるための教えです。あまりにも難解で甚深微妙の法なのです。五千の上慢も席を立ち、聞きたくない人は大勢います。
 その教えのすごさを7つの例え話として、比喩の話として説かれたのです。寓話で覚えればよいのです。最初は比喩品の「三車火宅(さんしゃかたく)の喩」です。家が火事になり、火だるまになっている家、その中の子供達をどのように救うのかという話です。これを「三車火宅(さんしゃかたく)の喩」といいます。
 「早く家から出ろ!」と言っても子供たちは遊びに熱中して火事に気が付きません。火事で燃えるぞ!」と言っても気が付きません。表にものすごくキレイな牛の車が出てくるのです。すると子供は「あっ、面白いものが来たぞ!」と家を飛び出してくるのです。そのような例え話です。
 五百弟子受記品の「衣裏繋珠(えりけいじゅ)の喩」というお話があります。ある大金持ちが友達と酒を飲んで、友達が酔っぱらってしまいました。お金持ちの友人は「実は明日、旅に出るのだよ。僕がいなくなったら君は困るだろう。だから、何でも願いが叶う宝を襟に埋めておこう」と友達の襟に宝を埋めてあげたのです。だから「衣裏珠(えりじゅ)」というのです。それで旅に出発してしまったのです。しばらくして、「あいつも幸せにしているだろうな。俺も楽しい旅が終わって楽しかたよ」と思って旅から帰ってきたのです。すると友達は乞食(ホームレス)になっていたのです。
 「何でお前は乞食をやっているのだ? お前にはどんな祈りでも叶う衣裏珠という珠を与えていっただろう。それがあればお金にも困らないし、何も困らないのだよ。何故、お前は乞食をやっているのだ?」という話です。
 信解品の「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩」というお話は、ある長者の子供が幼い時に家出しました。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりつきました。父親は偶然見たその窮子が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたのですが、何も知らない息子は「捕まえられる!」と思って逃げてしまいます。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻したのです。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せたのです。窮子である息子も熱心に仕事をこなし、やがて長者死ぬ前に、窮子に「お前は私の子である」ということを明かしたのです。
 その他には、薬草喩品の「三草二木(さんそうにもく)の喩」、化城喩品の「化城宝処(けじょうほうしょ)の喩」、安楽行品の「髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ)」、如来寿量品の「良医病子(ろういびょうし)」があります。
 比喩は仏教で非常に大事です。例えば「蓮華の法」というと、頭の中に浮かぶのは蓮華の花です。蓮華の花が比喩なのです。花ではなくて、本当のところを当体蓮華といいます。
 蓮の話には比喩蓮華の話と当体蓮華の話があります。蓮が表している本物の実相という当体は、体得しがたいのです。それには、草花の蓮華を持って解釈しているのです。比喩品はそう話なのです。仏典そのものが比喩を持って説かれています。そこから「くみ取る」ということが大事です。
 衣裏珠譬のなど、非常によい例えです。これは人間の持っている仏性のことを言っているのです。人間の生命には、仏性というすごい珠があります。その命の珠に触れると何でも祈りが叶います。多少は努力しなければいけませんが、何でも祈りが叶うのです。その珠をみんな持っているのです。
 それを衆生は持っているのですが、宝を持っていることを忘れてしまっているのです。それで「困った」と言っているのです。貴方の心の中に衣裏珠はあるのですが、それに気が付かないのです。「えっ、どれどれ。これか、あった!」と見つかれば、瞬間に貧乏がなくなってしまいます。
 そのような話を比喩といいます。比喩を中心にして説かれたのが、法華経の中にある比喩品です。原理がわかればよいのです。我々の中には、いかなる祈りが叶う宝物を持っているのです。
 「仏教を信じて祈りが叶う」というのはここからきているのです。衣裏珠という大きな琴線に触れれば、どんな祈りでも叶うのです。これを指して、「法華経をもっていのらむ祈りは必ず祈となるべし」(祈祷抄)といいます。すごい大功徳があるのです。
 法華経を信ずれば「青は藍より出でて藍より青し」というように、法華経がジワジワとしみ込んできて、だんだん境涯が開いて仏に近づいていくと、「青は藍より出でて藍より青し」というのです。
 変な小さな祈りをかけなくても、ちゃんと守られてくるのです。貧乏で初めても一生懸命やっていると、いつの間にか貧乏ではなくなってしまうのです。不思議なことです。おっかなびっくりやっている人はダメです。それは求不得苦(ぐふとっく)です。求めても得られません。
「私はこれで行くのだ!」と決めてやっている人は衣裏珠が輝いてきて、やることなすことが所願満足になるようになるのです。それを「水のような信心」といいます。法華経に帰依して、有難い仏様の教えを聞いて、一日日々に信・行・学と修行していくのです。気が付いてみると、「いつの間にか仏になっていたのだな」と気が付きます。
 「仏になっていたのだな」と思わなければ、おかしいのです。衆生を仏にするのが法華経の教えです。それをもっと根源的なところから教えられたのが、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経です。衣裏珠とは南無妙法蓮華経のことなのです。それを深く信じていくのです。
自分の体の中にも衣裏珠があります。その宝のことを南無妙法蓮華経というのです。困ったら「南無妙法蓮華経」と唱えていいのです。「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・・・」と道を開いていくならば、あっという間に道は開かれてしまいます。
 貧乏が治るのも瞬間です。また、お金持ちが反対に落ちるのも瞬間です。瞬間に道は開かれるのです。それを人間は不安に思うのです。「この道を歩いて本当に幸せになれるのだろうか?」「もっとよい方法があるのではないか」「だまされているのではないか」とくだらないことを考えるから、その分が引き算になってしまうのです。だから功徳にならないのです。
 「聴聞する時は・燃へたつばかり思へども・遠ざかりぬれば・捨つる心あり、水のごとくと申すは・いつも・退せず信ずるなり」(上野殿御返事)
この経を信じる時は、「始めは燃え立つように思えども、中ほどは信心も弱く自慢して悪見をなす」と、日蓮大聖人様は言われています。信心が落ちてしまうのです。自分で摘んできたものがすべて落ちて元の木阿弥になってホームレスになる人もいるのです。
 いくら「法華経は有難い」と聞いても、信じる気持ちがない人が聞いてもダメなのです。

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2017年03月14日

人間の探究 720 提婆達多の事

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※石原慎太郎は百条委員会の呼び出しや、豊洲訴訟を抱えています。これを仏罰といいます。仏罰は曲がったことをやれば自ら当たるのです。

人間の探究 720 提婆達多の事

 妙法蓮華経提婆達多品第十二の「提婆達多の事」についてです。
提婆達多はお釈迦様の有名な仏敵です。お釈迦様の従弟(いとこ)にあたる人間です。お釈迦様が説法をされる最初のときから釈迦にまとわりつき妨害工作をしたのです。
 そして、お釈迦様を陥れるあらゆる策謀を行うのです。僕もそのような策謀をされたのでよくわかります。有名な紀藤弁護士と争ったときに、ひどいことをやるのです。こちらが訴えたのですが、裁判所の床に僕の顔写真をベタと貼り付けて、僕の顔を踏まないと法廷へ入れないのです。そのような仕掛けになっているのです。
 それだけならばまだよいのですが、紀藤弁護士は裁判所に訴えたのです。「これは法廷侮辱罪だ!」というのです。
 考えてみるがよいのです。僕は自分の顔を拡大して、接着剤をたっぷりつけて自分の顔をふまれるようにわざと床に貼り付けるでしょうか? 紀藤がやったのです。このようなことをやるのです。ウソのことをいい、その後でマスコミを読んで「裁判所でこのようなことをやった。中杉の野郎が顔写真を法廷で貼り付けた」と言うのです。僕がそんなことをするはずがありません。
 お釈迦様もそうです。提婆達多が女を連れてきて、「この女は誰の弟子が知っていますか?」と聞くと「釈尊の弟子です」と皆が答えます。「この女のお腹を見てください。子供をはらんでいますね。誰の子供かわかりますか?」と提婆達多が言います。すると皆が沈黙します。
 「これはあそこで説法している釈尊の子供なのだ」と言うと「えー?」とみんなが驚いたのです。「仏教教団は妻をめとってはいけない」と言っています。それを説いている人が子供をはらましているのです。実はその女の腹に綿を詰めていたのです。提婆達多はお釈迦様を陥れるために、そのような悪逆非道なことを何度もやるのです。
 それでも飽き足らなくなり、お釈迦様を毒殺しようとしたこともあります。有名な話では提婆達多は崖から石を落としましたのです。そのときにお釈迦様は小指に怪我をされたのです。これは大変なことです。仏陀に怪我をさせて血を流すということは、仏身に傷をつけたことですから、提婆達多は大変な重罪を犯したのです。
 或は何十頭の象を集めて、象に酒を飲ませたのです。すると象は狂ったように暴走したのです。釈迦教団が説法をしているところに狂った象が踏み込んできたのです。そのようなこともやったのです。ありとあらゆる悪事をやったのです。
 僕もそのような人がたくさんいましたが、何しろありとあらゆることをやってくるのです。僕はどのようなことをされたのかというと、昔、背広を着ているときです。背広のポケットに電話帳を入れておいたのです。背広は事務所の中ではハンガーにかけておくので、そのスキに電話帳を取られてしまったのです。しばらくして、「あれ、電話帳がない」と気が付いたのです。
 「どうしたのかな?」と思うと「あの野郎だな」とわかるのです。その野郎は僕の電話帳を見て親戚、友達、みんな電話をしたのです。「サラ金だけど、金返せ!」と電話するのです。それを聞いた人達は、僕が本当にお金を借りているのだと思ってしまいます。巧妙な奴です。そのようなことをやるので、電話帳に載っていた人に僕は電話ができなくなってしまったのです。「この人はお金を借りているのか」と思うと、相手も嫌がります。みんなそのような雰囲気になってしまい、僕から離れさせようとしたのです。電話帳をかっぱらって身内や親せきに電話をする悪智恵です。ともかくあらゆる妨害したKという人間がいました。これも提婆達多の一種です。
 例えば剣道の練習のために木刀を車に積んでいたこともあったのですが、それを警察に通報して「木刀を積んでいます。北朝鮮のスパイですから、警察で厳重に調べてください」と言うのです。
警察が僕のところへ来て「木刀を持っているのですか?」と言うのです。「剣道をやっていますから持っていますよ」と僕が言うと「ちょっと暑に来てください」と言われたのです。
僕が「こんな朝から何ですか?」と聞くと、警察署でお昼すぎまでネチネチやられたのです。しかも「北朝鮮のスパイですから念入りに調べてください」と言われたので、「君は北朝鮮との関係は?」と警察官が僕に聞くのです。そんな嫌がらせをやるのです。普通では考えられない嫌がらせです。
 電話帳などはこたえます。相手は「このような電話が入ったのですが」など、言ってきません。「サラ金だけどお金を返してくれないんですよ。貴方は親戚ですか?」と言えば、相手は疎遠になってしまいます。
 今思うとお釈迦様と全く同じです。まさに「悪口罵詈(あっくめり)・刀杖瓦石(とうじょがしゃく)」です。僕の場合はそんな奴が3人もついてまわっていました。これも提婆達多の一種です。
提婆達多は悪事の限りを尽くして、お釈迦様を誹謗中傷したのです。「あれは仏陀なんかではない!」と散々苛め抜いた提婆達多は、地面が避けて地獄へ一直線に落下したと言われています。
 ところが落下した提婆達多に対して、お釈迦様は「提婆達多は地獄に落ちたのか。気の毒に。しかし、大丈夫です。未来に成仏させてあげましょう。天王如来という名前で成仏させてあげましょう」とお釈迦様は言われたのです。
 これは「地獄へ落ちて、長い無間地獄を得て」という話です。「ずっと長い地獄を得て、それで許される時が来るから、その時には仏にしてあげましょう」という話です。お釈迦様は「提婆達多は過去において私の師匠であったかもしれません。私に様々なことを教え、知恵を授けたのはきっと過去には私の師匠だったのかもしれない」と言ってあげたのです。それでも地獄行きは免れません。
 仏陀を誹謗中傷して仏陀の体から血を流したのだから、提婆達多は生きながら地獄へ行ったのです。
 我々も法華経を信じる者、法華経を説く者、本当の仏の法を説く者には魔が競うのです。個人の場合に魔が競うこともあります。個人的な嫌がらせをしてくるのです。或は石原慎太郎のように我らの前身を著しく邪魔をした連中もいます。
 この事件は私が道岡君という日蓮宗のお坊さんから寺を譲り受けたのです。「この寺を復活してください。今、自分は日蓮宗の僧侶であるから、この寺の経営はできないから貴方がやってください」と頼まれたので、その寺の管理に入ったのです。
 20年間もずっとやってきたのです。お寺には財産がないので、力をつけるために揖斐郡に1万2千坪の土地、桧原村に1万坪の土地をつけたりして、立派なお寺にするべき桧原村には神宮寺を建てたのです。都庁の役人が「お社を立ててください」と言うので努力してきたのです。「そうすれば規則書の改定と住所移転を認めます」と言うのです。
都庁の役人の指示に従ってやってきたら、最後の段階で「貴方、前の人からの任命書はありますか?」と言うのです。そんなものはありません。口頭に決まっています。「貴方を指名しますからやってください」と口頭で受けました。「口頭で受けたのですか?それではだめです。許可できません」と言ってきたのです。
 20年もかけて都庁の役人の指示に従ってやってきたことを、たった紙1枚で却下です。頭に来て、文化庁に訴えたのですが、文化庁も同じ返事です。これはふざけています。裁判もかけたのです。一審、二審、三審、すべて負けです。僕は1回も証人で呼ばれたことはありません。このようなわけで譲り受けたお寺を再建しようと一生懸命やっているのに、1回も証人で呼ばれていません。その場をつくらないで、「貴方のいう事は全て認められない」という判決です。
 認められないと言っても、都庁の役人の指導で不動産をお寺の名義にしてきたのですから、それをどうするのでしょう。「貴方は管長でもない」というのです。冗談ではありません。「貴方がつくった役員も役員ではない」と言うのです。するとお寺はカラになり、役員は誰もいない、財産だけがあります。この財産をどうするのでしょう。
 このようなひどい判決を石原慎太郎時代にやったのです。怒り心頭に達します。これも天子魔(てんしま)という公権力が邪魔をするということです。みんな理不尽なことです。日蓮大聖人様の島流しもそうです。すべて理不尽なことです。日蓮大聖人様は経典を説いてご説法しているのに、鎌倉幕府が捕まえてきて島流しにするなど、全く理不尽です。しかも、日蓮大聖人様は2回も島流しにされてるのです。これは法華経の行者の証明なのです。
道理が通じない裁判官などあるのでしょうか。しかも、それを指揮した石原慎太郎は百条委員会の呼び出しや、豊洲訴訟を抱えています。これを仏罰といいます。仏罰は曲がったことをやれば自ら当たるのです。
 我々が本当の信仰をしようと思うと提婆達多のようなものが出てくるのです。魔は「前進させない」「大きくさせない」働きをするのです。紀藤弁護士や石原慎太郎など様々な妨害が沢山出てきます。
 すべて打ち払ってきましたが、全国で僕の踏み絵大会もやられました。「中杉はキチガイだ、みんな集まれ!」と、一杯飲みながら、僕の顔を引き伸ばして「コノヤロウ!」と僕の顔を土足で踏みにじってやったのです。その連中はどうなったのでしょう。仏罰を受けています。
 みんな子供ではありません。住友銀行の幹部や、有名な大阪のキリスト教の受験校の先生や、そんな者達が全国で集まり。名古屋、大阪、東京で踏み絵大会をやってきたのです。でも、僕はすべて勝ってきています。僕が勝つに決まっています。曲がったことはやっていません。
 曲がったことをやっている奴は気が狂ってしまうのです。北朝鮮も同じことです。自分の兄を殺したり、道理の通らないことをやって無事で済むわけがありません。そのようなことがわかることを智恵というのです。道理がわからない人をキチガイといいます。
共産党の連中、左翼の連中は道理が全くわかりません。「話し合えばわかるだろう」と普通の人は思いますが、彼らはわかりません。最初から戦争だと思っているのですから、聞く耳などもっていません。これは裁判官も同じです。創価の裁判官も検事も大勢いるらしいのです。上を見ると油断できない連中ばかりです。でも、こちらが正しいが故に我らの前進は止めることはできません。今に見ておれ!

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