2018年11月21日

人間の探究 1159 但説無上道(たんせつむじょうどう)

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人間の探究 1159 但説無上道(たんせつむじょうどう)

法華経『方便品』「正直捨方便・但説無上道(しょうじきしゃほうべん・たんせつむじょうどう)」「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(訓読)
 「私は、無上に至る真理を求めて前進していきます。無上道に向かってただひたすらに進みます。他のことは考えません」、これが本当の仏教僧です。ただひとえに「最上の法とは何でしょうか? 釈尊のお悟りになられた最上の法とは何でしょうか? 私はそれが知りたい」と思い、仏道に入ったのです。
 「最高の悟りである無上道をどんなことがあっても、この世で得ます。そのために努力を惜しまず頑張ります」と言うのです。そのくらい仏道修行は厳しいのです。仏教とは、「お経を唱えていればよい」「お布施が出るらしい」「今夜の葬式では、美味いものが出るらしい」というものではありません。
 仏教とは、但説無上道です。仏様のお説きになられた法は非常に大事です。法華経にある通り、仏は無分別の法をお説きになられたのです。
 「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」(三世諸仏総勘文教相廃立)「仏は無分別の法を説き給う」と言っているのです。

 我々は通常、分別して生きています。分別しないと一日たりとて生きておられません。「お金をいくら持っているか?」というのは分別です。「今日、このお金で美味いものを買おうか」というのも分別です。
 みんな分別です。「もっとよい仕事はないのか?」「道にお金は落ちていないか」「今日はパチンコで儲かるだろうか?」みんな分別です。朝から晩まで分別しているのです。分別・分別・分別・分別が、一般世間の法なのです。分別法の世界の中に我々は生きています。
 分別しないと一日たりとて生きておられません。大学の教授も分別した学問を教えています。機械を使っている技術者も分別しています。「この材料とあの材料は違う。どちらの材料をロケットに使ったらよいだろうか?」と分別しています。みんな、分別して生きているのです。
 「ここのラーメンは美味しいけれども、あそこのラーメンはまずい」これも分別です。分別することに喜びを見出して人生を生きているのだから、人生とは分別を楽しんでいるのです。「あいつは100メートルを9秒で走るらしい」「あいつは10秒かかるダメな奴だ。8秒で走る奴は素晴らしい」「相撲は誰が勝ったか?」「ボクシングのチャピョンは誰か」「野球の優勝はどの球団か?」というように、みんな分別しているのです。我々は、分別の洪水の中に生きているようなものです。
 一瞬たりとて分別しなければ巻き込まれて、自分が塵のように散ってしまうのです。そのようなことをやって生きているのですから、人々は疲れるのです。そんなに毎日、瞬間で分別していたら、「俺は疲れてしまったよ」と、こうなるのです。
 その時に上を見るとお釈迦様がにこやかに笑っているのです。「ハッハッハッ、分別している君たちの世界に幸せはないのだよ」と言うのです。何処までいっても分別は終わりません。やればやるほど分別です。
車でもそうです。車を買うと「やはりベンツが欲しい」と思い、ベンツを買った人は「次はこのベンツが欲しい」と思うので、キリがありません。
 「あそこの中華は美味い」「あそこのフランス料理は美味い」「あの映画は面白かった」「あの映画は面白くない」と毎日分別しているのです。
 これでは疲れてしまいます。それを正確に感じ取っているのが仏というのです。「君たちの世界に幸せはありません。何故か? 無分別の法を知らなければ、君たちは幸せになれないのだ」と言われているのです。
 但説無上道の「これ以上に道は無い」というのは、無分別を意味しています。仏法というものは無分別の法を求めるものです。宇宙もそうです。地球があり、月があり、太陽があり、みんな分別です。惑星があり、銀河系があります。宇宙は、何処まで行ってもキリがありません。「何百という世界があり、その宇宙の終わりはどうなっているのか?」と分別でとらえても意味がありません。人間にはわからないのです。
 宇宙は多重構造です。下を見れば、どんどん小さく見えて、バイキンのようなものがあり、うごめいています。原子構造を見れば、原子があり、原子核もあります。もっと小さく見ると、素粒子があります。素粒子があれば、ヒックス粒子があり、粒子もどんどん小さくなります。何処まで小さくなるのかわかりません。とらえられないのです。
 大きく空を見ても世界はとらえられません。分別法で世界を捕まえようとするからとらえられないのです。「世界は一つだよ、何を慌てているの? 君も馬も豚もみな、同じものなのだよ」これが無分別です。
 草も木も山も海も魚も同じものです。魚と言っても、何万種類の魚がいて「生きている」ということについては、みんな一つのものです。何故それに気が付かないのでしょうか? そのような世界から切り取って「これは私」と分別して、分別すればするほど小さい世界になっていくのです。
 現実的に東大受験で勉強していることは分別です。「この言葉とあの言葉は違う」「これがわからないなら、考えろ」と問題を沢山出して分別しているのです。東大を受験するために、毎日受験勉強をしていると分別の塊になってしまうのです。
 悠々とした無分別の法を学びません。無分別の法を学ぶことにより、「AさんとBさん、俺とお前は同じなのだな」とわかるのです。そのように思うから慈悲が生まれるのです。「ああ、気の毒だな俺と同じだな、助けてあげよう」と思うのが無分別です。
慈悲は無分別から出てくるのです。分別している人から言うと、「前は馬鹿だから苦しむのは当たり前だ」「お前は、黒人だから奴隷なのだ」というのは、分別です。そうではありません。
 人間だけではありません。犬も豚も馬も野生動物もみんなひとつながりのものなのです。だから、人間は「犬は可愛い」と思うのです。「犬は可愛い」というのは、分別している人間からは出てきません。無分別で見るから「自分と同じものなのだ。こいつは気の毒だな。同じものだけれども、「はかなきを畜生」と言うのだから知恵もなく畜生だから、これだけの範囲でしか動けないのだよ。俺が面倒を見てあげよう」と思うことが慈悲です。
犬は「ご飯を食べて美味しい」、それだけです。言葉もわかりません。何もわかりません。犬や猫は仏様の説法を聞くことはできません。だから、「気の毒だな」と思うことが慈悲です。「来世は人間に生まれてこいよ」。このような気持ちで慈悲が生まれてくるのです。
 それが仏法であり、但説無上道です。無上の法とは、「無量義は一法より生じる」という原理です。これは自分でつかみとるものです。これは言葉を覚えても意味がありません。「無量義は一法より生じる」です。「その一法とは何か?」と自分でつかんで、だんだんとわかってくるものですから、最初からそのように思っていない人は、全然つかむことができません。仏法を習っても上の空です。何をやっているのかというと、言葉遊びをやっているのです。そのようにして、仏の唯一の法、無分別の法、無量義一法を我々は、くみ取っていかなければいけません。


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2018年11月20日

人間の探究 1158 従藍而青(じゅうらんにしょう)

646※剣道着は藍(あい)によって染められています。

 


人間の探究 1158 従藍而青(じゅうらんにしょう)

 

「天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりもなをそむればいよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきはいよいよあをきがごとし。」(上野殿後家尼御返事)

 これは、「青は藍より出でて藍よりも青し」と言うのです。青という色はどのようにしてつくるのかというと、藍の実を煮て布を漬けてつくるのです。藍染といいます。元の藍は薄い色ですが、布に染めるとものすごくキレイな青色になるのです。青は藍という実からとれるのですが、藍の色よりも青色のほうが美しいという意味です。

 これは様々な例えがあります。例えば、先生がいます。弟子は先生より偉くならなければいけません。先生に教わったのだから、「僕は何処まででも先生の教えを守っていくぞ」などと言ったら、従藍而青ではありません。「青は藍より出でて、藍と同じ」ということです。藍よりも青くならなければいけません。

 それは先生次第です。法華経には、それが書いてあるのです。法華経の教えは藍のごときものです。この藍によって法華経に染まって出てくる人格というものは、これを説いた人よりも凄い人間ができてきます。そのような意味です。それは、日蓮大聖人様のことなのです。

 法華経というものを修行されて、出てきた日蓮大聖人様の仏教体系は、前の法華経よりもはるかに優れた教えです。すると、元は何処から出てきたのかというと、法華経です。法華経から出た日蓮大聖人様が釈尊よりも偉い人なのです。よく法華経を読むとそうなのです。日蓮大聖人様は本仏です。

 お釈迦様も仏です。お釈迦様がどうして仏になったのかというと、「我本行菩薩道」です。「我、菩薩の道を行ぜしとき」と読みます。菩薩には仕える仏様がいます。お釈迦様は誰に仕えて修行したのでしょうか? お釈迦様が前世で仕えた仏様のことを本仏といいます。

 その本仏に仕えて修行したから、この世で生まれてお釈迦様になったのです。お釈迦様は一体誰によって仏になったのでしょう。最初の仏には、師匠がいません。その最初の仏のことを久遠元初自受用報身如来とも御本仏ともいいます。

 久遠元始元初の昔に、お釈迦様が修行して仕えた仏様は、「それは私だ」と日蓮大聖人様は、言われたのです。まさに従藍而青です。日蓮大聖人様は、法華経の修行をして、法華経の文底に書かれている「御本仏とは、自分である」とわかったのです。

 日蓮大聖人様は、折伏をやってこられたからそうなったのです。法華経よりも偉いものになってしまったのです。それが南無妙法蓮華経です。従藍而青の教えとは、日蓮大聖人様のことを言われているのです。

 我らはどうなのでしょうか? 法華経の勉強をするけれども、日蓮大聖人様の弟子ということは、最初から法華経を脱しているのです。だからと言って、日蓮大聖人様より偉くなるということはありません。それは増上慢ですから、そんなことはありません。

 日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経という教えは、それだけ大きな教えです。少なくとも自分も法華経の教えよりも大きくなれることは間違いありません。信心到達して立派な人間になることができるのです。事実立派になってくるのです。

 昔は「小僧だ」と思っていたけれども、だんだん知らない間に一生懸命やっている間に、小僧ではなくなっているのです。「この人は一体何だ?」と言われるような人になるのです。本当にそうなのです。すると、みんなわかってしまうのです。僕は一生懸命、折伏をしてきたので、みんなわかってしまうのです。今でも一貫して折伏行をしています。1万人が僕のブログを見てくれているのです。

 僕は折伏行の一貫としてブログを書いているのです。「仏法は摂受折伏時によるべし」(佐渡御書)と言うのです。優しく仏教を説くときもあれば、強い態度で「邪教を止めろ」と説くときもあります。これは修行です。この修行をずっとやってきているから、気が付いてみると何でもわかってしまうのです。そんじょそこらの坊主がわからないことでも、わかってしまうのです。そのような不思議な境涯になってしまうのです。

 しかし、いくら頑張っても日蓮大聖人様の教えを超えることはできません。それが我らの限界です。

 これを日本の国で言うならば、どんなに偉くなっても天皇陛下にはなれません。天皇の男系の血の流れがないと天皇にはなれません。でも、人間として頑張れば最高峰くらいにはなれるのです。従藍而青の本質を知って修行に励んでいきましょう。


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2018年11月19日

人間の探究 1157 法華経の兵法

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人間の探究 1157 法華経の兵法

 

「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候、恐恐謹言。」(四条金吾殿御返事)

戦にあたり、一番強いものは法華経です。兵法というものは、古来より色々とあります。孫子の兵法、呉子(ごし)の兵法、六韜戦略(りくとうせんりゃく)などがあります。それを熱心に学んだのです。一番有名なものが「孫子の兵法」です。

ところが、日蓮大聖人様は「一番強いものは、法華経の兵法である」と言われたのです。これは、なかなか理解できません。仏教は兵法を説いたものではありませんが、日蓮大聖人様は、「法華経は兵法なのだ」と言われているのです。

単純に考えると法華経を信じて、「南無妙法蓮華経」を頭に頂くならば、それは何よりも強いのです。そのような意味にもとれますが、そんな単純なものではありません。法華経には戦のことなど書いてありません。

何故、法華経が兵法になるのでしょうか? そのことについて考えてみましょう。人間はみなそれぞれの考えをもっています。人間にはみなそれぞれ根本に芯があります。「俺はキリストを信じているのだ」「俺は阿弥陀様を信じているのだ」というように、芯があります。根底に信じているものがあるのです。

加藤清正は、「南無妙法蓮華経」の旗を立てて「これが私の芯です」という意味で、旗を立てて戦ったのです。加藤清正は結構強かったと思います。もっと深く言うと、生命の根本から出てくる兵法が一番強いのです。

武将の人生を見ると、まず若い頃に兄弟殺しが始まります。織田信長もそうです。まず、自分の兄弟から殺しています。秦の始皇帝も自分の兄弟を一番に殺すのです。それから、武田信玄は父親を追放して、伊達政宗は弟を殺しました。源頼朝は木曽義仲と弟の義経を殺しています。

戦というものは、身内殺しから始まります。これから武将として世の中に立って戦をしていくのです。すると権力が必要です。権力を二分している兄弟がお互いに邪魔になるのです。家臣の方から見ると、「兄につくか、弟につくのか」と思っているのです。

相続からいうと長男が家督を相続します。反乱を企てる者は弟を立ててくるので、権力が二分化してしまいます。金正恩がそうです。自分が権力を握るために、叔父さんを殺して、兄の金正男を殺してしまいました。

才覚でやるのですが、何を根本にしてやっているのかが問題です。「戦争に勝てばよい」というならば、権謀術策をやるのです。相手を陥れたり、待ち伏せしたり、「夜討ち朝駆け武士の習い」ですから、そのような謀略をやりながら、戦争・戦争・戦争に明け暮れていくのです。それだけの知恵です。武将の才覚は人殺しです。

人を殺して人の権力を奪うのです。さらに人を殺して、自分の権力も奪われるのです。それで、自分も殺されたら、それでお終いです。武将は、そのような非常に単純な考え方で、兵法をいじくっているのです。

「法華経の兵法を用いなさい」とは、どのようなことでしょうか? 法華経には、何も書いてありません。法華経の兵法とは、「深い人間性の中から湧き上がってくる慈悲によって人々を治めていく」ということです。

「あの武将についたら、いつ裏切られて殺されるかわからない。一言逆らったら殺されてしまう」という人に人間はついていけません。金正恩がいるのに横を向いただけで「お前、銃殺刑だ!」と言われるのです。そんなところは怖くて務められません。みんな怖くて従っているだけで、尊敬しているわけではありません。

それと反対によく物を思い、優しい気持ちで下々まで接していくならば、信頼されるのです。それが本当の実力です。そのような人間性が沸き上がってくることを「法華経の兵法」と言うのです。

「弱い者は助ける、裏切る者は許さないけれども、すぐに殺さない」ということです。すると尊敬されます。我が家の先祖の北条早雲がそうです。他の武将が「6公4民だ」と言っている時に、「3公7民」にしたのです。北条家は「3割もらえばよい。後の7割は自分で使いなさい」ということをやったのです。「年貢は3割でいいのかよ? あとの7割は自分で使えるのか!」と領民は喜んだのです。

領民に対しては、北条早雲21箇条です。

■早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)

一 上下万民に対し、一言半句にても虚言を申べからず、かりそめにも有のままたるべし、そらこと言つくればくせになりて、せせらるる也、人にやがて見かぎらるべし、人に糺(ただ)され申ては、一期の恥と心得べきなり。 (第十四条)
 何人にも、一言半句たりとも嘘をついてはならない。ありのままを申し上げるのが大切である。嘘が習慣化すれば、信用を失う。物笑いの種となる。信が置かれず、他人から聞き質されるようになったら一生の恥と思え。(第十四条)(現代訳)

北条早雲は、「絶対にウソをついてはならない。ビタ一文もウソを言ってはならない」と言っているのです。ウソをつかないのですから、家臣は信用がおけます。安倍晋三のようにウソをペラペラとつくのではありません。あんな者とは正反対です。

そのようにウソをつかないでやっていくことが法華経の精神です。北条早雲が法華経を信じていたかどうかはわかりませんが、仏教の精神に「ウソをついてはいけない」というのがあるのです。

人間性を磨いて、暖かい人間性で一家をつくり、国を造り、やっていくならば、誰にも負けません。「やりやがったな、ぶっ殺せ!」「チクショウ来たな、逃げろ!」という人生とは違います。

領民は可愛がり、部下も可愛がり、「ウソを言わない」という人間性ならば、みんなから信頼されます。「あの殿さまは凄い人だ。ウソを言わないのだ」という人は強いのです。

「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」と言うのは、小手先の芸で権謀術策を求めてやるのではなく、人間の総合的な力でもって人に接していくことを「法華経の兵法」というのです。

それを学ぶことが法華経です。法華経を学び、法華経を信じて、南無妙法蓮華経の旗を立てた人は、最高に強い人です。小手先の芸で誤魔化す人とは違います。そのことを「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」と言われたのだと思います。

 


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2018年11月17日

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』宗教と奇跡 7 集団催眠とトランス 

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※青森県 イタコのおばあちゃん

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』

宗教と奇跡 7 集団催眠とトランス 

 

 催眠療法はかなりの効果があり、長い間、人類の病気治しの主流だったのです。今でもアフリカでやっています。タバコを吸わせて、麻薬(コカ)を吸わせて、太鼓を「ドンドコ・ドン・ドン」と叩いているうちに、トランス状態に入ってしまい、「ギャ〜〜〜」と叫んでバタンと倒れてしまうのです。

 倒れてしまい口から泡を吹いていると、「ホラッ、起きなさい。貴方から悪霊が抜けた。病気は治ったのだ!」と言うと、キョトンとしてしまうのです。そのような療法があるのです。

 そのような現象がなぜ起きるのかというと、本当のところはまだよくわかっていません。一応、心理学的な説明はありますが、「何故、人はトランス状態に入るのか?」ということはわかっていません。

 祈祷師自らトランスに入る宗教もあります。青森県の“イタコ”は呪文を唱えているうちにトランスに入ってしまうのです。「私はお前の先祖であるぞ。お前をずっと見ていたぞ。何か聞きたいことがあるのか?」とイタコが言うので「はい、ご先祖様、この問題はどうでしょうか?」と聞くと、イタコがちゃんと答えるのです。青森県の恐山に行くとイタコが大勢います。一つの宗教です。

 その他には、集団催眠術があります。九州にある宗教団体は「教祖様はどんな病気でも治してくれる」と言うのです。目が見えない、耳が聞こえない、喉が痛い、腰が痛いという、病人ばかり集めて合宿をさせるのです。合宿の内容はほとんどお話です。よい話を沢山するのです。

 「さて、いよいよこれから貴方がたの病気を治します。皆さん、集合してください」と言われて狭い部屋へ連れていくのです。そこに100人くらい入れられてしまうので、熱気でムンムンしてきます。

 多くの人間が集まると異様な雰囲気になってきます。そこに「いよいよ教祖様が現れます。救われたい者、病気を治したい方、教祖様に少しでも触れば治りますから!」と言うのです。

 「いよいよ教祖様の登場です!」と言うと、教祖が出てくるのです。「私は貴方がたを救います。救うぞ〜!」と言うと「うわー、神様お願いします!」と、100人ぐらいの信者が同時に教祖様に触りに来るので、熱狂的な雰囲気になるのです。

 すると教祖様が「はい!」「はい!」「はい!」と信者に少しずつ触っていくのです。触られた人はトランス状態に入ってしまうのです。

 「おしずまり〜」と言われて、教祖様が「私のタッチで今ここで、病気が治った方、腰が治った方、足が治った方、手をあげてください」と言うと、多数の信者が「はい!」と手をあげます。

 「前のほうへ出てきてください」と言われて信者が前へ出てくると、みんなが一斉に拍手をするのです。「はい、これで病気は治りました!」と言われるのです。全ての病気が治るわけではありませんが、治る人は大勢いるのです。

 そのような宗教があります。九州の黒住教だったと思います。そのようなことをやって病気を治しているのです。全ての病気が治るわけではありませんが、治る人は大勢いるのです。(に続く)

 



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2018年11月16日

人間の探究 1156 仏教渡来は何をもたらしたのか?

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※中杉弘著『仏法東遷』に、日本に仏教が入ってきた流れが詳しく書いてあります。

人間の探究 1156 仏教渡来は何をもたらしたのか?

538年、百済の聖明王によりもたらされた仏像が、日本の仏教伝来の始まりです。仏教とは、教えであるから、始めに教えが入ってきたのか?」と思いますが、最初に入ってきたのは、約1尺の金銅製の仏像です。
どのようにして日本に入ってきたのかというと、百済の聖明王から仏像が送られてきて、「この仏陀は世界各国で拝まれています。拝んでいないのは日本だけです。日本でもこの仏像を拝んでみませんか?」ということで、仏像が入ってきたのです。
仏教は、異国の宗教です。異国の宗教を国に入れると、その国は滅びるのです。日本の神道とは全く違う統一教会を日本で広めて、多くの日本人が信者になったら日本は滅びてしまいます。統一教会は、「文鮮明が王様であり、天皇は臣下だ」と言うのです。そんな教えを広めたら、日本はなくなってしまいます。
それと同時に仏像もそうです。「これを世界の人が拝んでいます。これを拝むと幸せな世の中になるのだから、日本の皇室も当然仏像を拝むべきだ」ということで仏像が来たのです。欽明天皇は「さあ、どうしたらよいのか?」と悩んでしまったのです。
これを拝んでも我が国には神々がいるのだから、異国の神を拝むわけにはいきません。折角、百済の聖明王から仏像が送られてきたのに、「これは拝めません」と断るのもおかしいから、「誰か拝んでみるものはいないか?」と聞くと、蘇我が手をあげたのです。「私が拝んでみます」と言ったのです。蘇我氏は帰化人です。日本の体制の中に入っているのですが、立場は弱いのです。「仏像を拝んでみます」と言って、蘇我氏の一族が仏像を拝みだしたのです。
簡単なことです。仏教は、異国の宗教です。すると物部氏は昔から日本の神をお祀りしているのだから、「異国の神を拝んではならない。そんなことをすると日本の神々が怒って、よからぬことが沢山起きてくるぞ」と言ったのです。
一旦預かった以上は「拝んでみるのだ」と蘇我氏は仏像を拝んだのです。最初は巫女さんが拝んだのです。最初は神道と仏教の区別がついていません。仏像の後ろに巫女さんが5〜6人並んで、仏像を拝むようなことをやっていたのです。まだ、坊さんなどいません。そのような感じで拝んでいたのです。
ところが、蘇我氏が仏像を拝みだしたら、よくないことが起こってきたのです。疫病が流行り、多くの人が死んだのです。欽明天皇はびっくりしてしまい、「これは我が国の神の祟りに違いない。この仏像を池の中に捨ててしまえ!」と言って、池の中に投げ捨ててしまったのです。
すると悪いことがまた沢山起きてきたのです。今度は、蘇我氏が「ほら見ろ。仏像を池の中に捨てたからこんな祟りが起きてくるのだ」と、災いをうまく利用してそのように言ったのです。欽明天皇は、「池をさらって仏像を拾いだせ!」と命令して、池をさらい仏像を見つけて洗ってキレイにして、また蘇我氏が拝みだしたのです。
物部氏は「止めろ」と言うので、国内が二分化してしまったのです。仏教が争いを鎮めるというものではありません。逆に仏教が争いをつくっているのです。神道派の物部氏と仏教派の蘇我氏に分かれて戦争になってしまったのです。一つの宗教をある国にもっていくならば、戦争が起きるのです。
それを見ても「仏教はあまりよい役割をしていない」とわかるのです。物部氏と蘇我氏は戦争になり、物部氏が負けたのです。蘇我氏が勝ったから、仏教寺院が数多く建立されてきたのです。勝った蘇我氏が仏教寺院を造り、負けた物部氏は力が弱くなってしまったのです。蘇我氏が力を持ち、やがて日本は仏教大国になっていったのです。
仏教の本当の歴史を知らなければいけません。仏教を持ち込んだ百済の聖明王の国は滅びてしまうのです。
我が国に仏教を伝来した百済(4世紀前半〜660年)の聖明王(〜554年)は死後106年目に国が滅んでいます。中国の天台大師(538年〜597年)は像法時代の仏です。あれだけ立派な摩訶止観を説いた天台大師の隋(581年〜618年)の国は、天台大師滅後21年で国が滅んでいます。お釈迦滅後、お釈迦様のコーサラ国(BC1100年〜BC500年頃)は50年で滅んでいます。
仏教は考え方によれば、亡国の業なのです。それはそうです。仏教は社会を否定します。仏教は「国」という概念はありません。「国などは人間が造ったものだからいらない」と国を否定して仏門に入るのです。仏門に入ることを「出家」と言うのです。出家とは、「家を出る」ということです。「家を出る」ということは、「社会を出る」ということです。それと同時に心の中で国からも出るのです。国という意識をなくしてしまうのです。
出家したら家がないのですから、国もありません。何もありません。ただ釈迦を中心にして集まったサンガというものがあり、そこで生活をするのです。俗世間を否定するから、釈迦にホーリーネームをつけてもらい、そこで生活していたのです。もってよいものは、ご飯を食べるお茶椀と、糞掃衣の衣一枚です。糞掃衣とは、牛の糞で真っ黄色に汚れた布を洗って身にまとうだけです。これが全財産です。出家した者は、これ以上持ってはいけません。人間は財産を持っているから心配するのです。財産がなければ何も心配はいりませんから、もう楽になってしまいます。心配は何もいらないのです。
出世する心配もいらないし、ご飯はもらって食べるので、ご飯をつくる心配もいりません。そんな連中が大勢集まってザワザワやっていたら国が滅びてしまいます。全ての国民が出家してしまったら、国は成り立ちません。
そのようなことを知らないで仏教を中心に生活をしているとダメなのです。仏教は「出家して社会を出る」という性質を持っているのです。その中で「国」という概念をもっているのは、日蓮大聖人様ただお一人だけです。
「国が大事である」そのことは、立正安国論に繰り返し書かれています。国というものは大事です。国には、3つあります。国がまえに、「王」と書いた国、くにがまえに、「民」を書いた国、国がまえに地域の「域」を書いた國があります。
立正安国論には、この3つの国が適切に書かれています。日蓮大聖人様は3つの国を書き分けられているのです。日蓮大聖人様の頭の中にも、「国」がちゃんとあるのです。「仏教というものは、国を興すためのものである」と、日蓮大聖人様の頭の中で変わっているのです。
仏教は仏像を拝んだりするようなものではありません。仏像など拝んでいたら国は滅びます。道理をもって国を建てるのです。天皇陛下がいる「玉(ギョク)」、これも大事な国です。それから地域の域が入った國、これは大事なことです。「国という以上、ここからここまでが俺の国である。中心者は天皇であり、そこに民がいる」。
僕が今主張していることは、これなのです。立正安国論から言っているのです。「国とは何ですか?」というと、「ここからここまでが俺の国だぞ」ということです。そこに人々がいます。「これは俺の民だぞ」ということです。そこには天皇がいます。天皇は「玉」です。それで国が治まっていくのです。それを言っているのです。
「国とは何ですか?」と聞かれて、この三つの内、一つでも欠けたら国ではありません。玉がいない国はあり得ません。民衆がいない国もあり得ません。地域が無い国もあり得ません。3つの宝としてこれらを立てると、守らなければいけません。
宝は取りに来る奴がいるのです。国を守るのが軍隊です。人の物を奪うために軍隊をつくるのではありません。我が国は、ドロボウから国を守るために軍隊をつくるのです。西洋は人の物を奪うために人を殺す軍隊をつくるのです。
我が国の軍は皇軍です。西洋の略奪のための軍隊と意味が違います。我が国の軍隊は天皇をいただいた皇軍です。だから皇軍はウソをついたり、原子爆弾をつくったり見苦しい行動はしないのです。それが後でわかってくるのです。
先の大戦では莫大な犠牲を払ったけれども、日本は原爆が出来ていたのですが、天皇陛下の御命令で使わなかったのです。もし、原子爆弾を使ったら、「日本民族は恐ろしい。原子爆弾をつくった」と後世まで言われてしまいます。そんなものを使えば皇軍ではなくなります。日本は大量殺戮など断じてやりません。
皇軍があり、始めて国が守られるのです。民衆はその中で生活をするのです。そのようなことをきちんとわかっていくことが真の仏法です。そのように日蓮大聖人様は教えられているのです。
御本尊の中にも「日本国」と書いてあります。「天照大神、八幡大菩薩」と書かれています。国がなければ原始時代に戻ってしまいます。仏教はどんどん原始時代に戻っていく作用があるのです。
日蓮大聖人様によって「仏法は国を守るためのものである。国に法味を与えるものである」と言われているのです。法味とは、「法の味」と書きます。法味を与えるものが仏法です。豊かになるということです。
貧しい国もあれば豊かな国もあり、国と言っても色々とあります。日蓮大聖人様は、日本国を豊かな国にするために法味をもって南無妙法蓮華経を建立されたのです。この違いをきちんとわかっていかないと、何年仏教を学んでもわかりません。
まして邪教にはまって頭が混乱して攪乱していたら、いつまで経っても国は幸せにならないし、本人も幸せになりません。個人においては家庭もできません。人生が滅茶苦茶になってしまいます。何事も筋道を通していくのです。仏法が初めて道理を持つことになったのは、日蓮大聖人様のおかげです。


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2018年11月15日

人間の探究 1155 臨終正念(りんじゅうしょうねん)

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※結論を先に言うと、「臨終の時に何を思うのか?」ということが、臨終正念(りんじゅうしょうねん)です。

人間の探究 1155 臨終正念(りんじゅうしょうねん)

「相構えて相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、」(生死一大事血脈抄)
「この世は仮想現実、バーチャルリアリティーだ」ということは、何度も申し上げてきたので、皆さんもだいぶわかってきたことと思います。ところが、仮想現実だろうが、人間は必ず臨終を迎えます。日本では臨終の時に辞世の句を読みます。
「この世をばどりゃお暇(いとま)に線香の煙とともに 灰(はい)左様(さよう)なら」(十返舎一九)
戯作者はかなり面白い本を書いているのです。「灰(はい)、左様(さよう)なら」と辞世の句を歌っています。江戸時代の辞世の句は面白いのです。高杉晋作は、「おもしろき こともなき世を おもしろく」で切れてしまっているのですが、それを自分流に語句をくっつけているのです。そのような軽い感じで辞世の句を詠んでいます。
本当の臨終はそんな軽い感じでいきません。いくら戯作者が臨終を冷やかして書いても、死というものは重いものです。結論を先に言うと、「臨終の時に何を思うのか?」ということが、臨終正念(りんじゅうしょうねん)です。
命が終わる時、最期の一点で人生が止まる時が来るのです。命は動いているから、十界をクルックルと回ります。それが「何処で止まるのか?」ということです。ガラガラガラとおみくじを回して、「何処で止まるのか?」と、ピタリと止まったところが臨終です。
ピタリと地獄で止まってしまうと大変です。「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界」と円に書いてあるのです。それをガラガラと回すと「地獄はすぎたな。あ〜あ、畜生で止まってしまったな!」と言うのです。そのような感じです。
「最期に人間は何を思うのか?」ということによって、来世が決まってくるのです。もっと厳密に言えば、散々悪いことをやってきたヤクザで、やりたい放題のことをやってきて、地獄で止まりそうで最期でクルッと回って、仏界で止まってしまう奴がいるかもしれません。それで生まれてしまうのです。
臨終の時に正しく一念心を持てるようにしていくということが、信心修行です。なかなかそうは思いません。人間には欲があります。「自分の貯めたお金が心配だ」と思うと、来世は大蛇に生まれるのです。何故かというと、昔は壺に金貨を入れて隠したのです。
天井に置いたり、地面に埋めたりしたのです。その金貨の周りには必ずヘビが守っているのです。暗い所、湿った所に金貨は隠してあるのです。死んだ時に「俺の金が心配だ」という一念心が残ると来世はヘビに生まれてしまうのです。本当です。そうならないように修行していかなければいけません。
「俺は死ぬ時だけ、よいことを考えるのだよ」と思ってもそうはいきません。天下を取った秀吉でも惨めな最期です。立ち上がって「うおーーー!」とうなされるのです。それを「殿!」と言って、みんながそれを抑えるのです。そのくらい苦しいのです。
今まで人殺しや謀略ばかりやってきたのですから、死ぬ時は苦しいのです。それも武将は何万人と殺してきているのですから、最期に穏やかな死を迎えることなどできません。武将の最期は、苦しいのです。全員がそうです。
「うわーーー!」と怯えて、何もないのに虚空をつかんですがろうとするのです。「虚空をつかむ」ということは、この現世につかまりたいのです。「現世につかまって生きていたいのだ」と思うから、虚空をつかもうとするのですが、何処にもつかまるところはありません。目はカッと見開いたままで、虚空をつかんで死んでいくのです。武将の死に方はだいたい同じです。
1ヶ月間くらいうなされて、それを何度でも繰り返して、最期に虚空をつかんで御臨終で終わりです。見守った人達は、「ああ、やっと逝ってくれたか」という気持ちです。このような気持ちになるのです。
石原裕次郎もそうだったのです。石原慎太郎が書いています。石原裕次郎は肝臓癌だったので、何度も苦しくて転げまわったのです。石原慎太郎は、「頼むから逝ってくれ」と言っていたのです。「兄貴として生きてもらいたい」と言うのではありません。そんな生易しいものではありません。「ゆうちゃん、頼むからもういいよ。役目は終わったのだからもういいんだよ」と、何度もそう言ったのです。それで冥途へ送ったのです。
出鱈目な生き方をしていると最期は苦しむのです。今は、薬でわけがわからなくしてしまいますが、最期は苦しむのです。僕の友人は癌でまっくらな病室に入れられたのです。すると薬が切れてきて、モルヒネ(麻薬)を注射するので、妄想がわくのです。良い妄想ならばよいのですが、悪い妄想がわくのです。それが「うわー」と襲ってくるのです。大変ですが、誰も代わってあげることもできません。自分であの世に送らなければいけないので、誰も代われないのです。
 釈迦の弟子である目連のお母さんが地獄へ逝ってしまい、助けてあげようとして食べ物をあげようとしても食べ物が燃えてしまうのです。結果的には食べ物は送れないのです。あそこにお母さんがいて痩せおとろえていくので、「せめて食べ物を」と思って送っても燃えてしまうのです。目連の母が餓鬼界に落ちたのは、過去世の罪業のためです。罪は死んで終わらないのです。
 仏法の目的とは、最期の臨終の時に迷わないことです。それは普段からやっていないとできません。悪いことを散々やってきて、「そうか、いいことを聞いたな。最期に南無妙法蓮華経と唱えればいいのだな」と思っても、実際に自分が死ぬ時になると、そうはいきません。怨霊が襲ってきて、お題目を唱えられることなどできません。みな自分が死ぬ時には、そう簡単にお題目など唱えられないのです。
 「仏法とは何ですか?」というと、臨終の時に正しい念を持たなければいけません。それを臨終正念といいます。その時にお題目が唱えられれば立派です。「私のやってきたことに一切間違いはなかった」と思える最期でなければいけません。


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2018年11月14日

人間の探究 1154 賢きを人と云い、はかなきを畜といふ 

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※安倍晋三は人相が悪くなりました。片山さつき地方創生担当相と、桜田五輪相はもう「辞めろ!」と言われています。片山さつきも麻原彰晃の処刑前に自民亭に集まって、親指を立てて「イエ〜イ!」とやって喜んでいました。しっかりと写っています。この連中は、麻原彰晃の亡霊に憑りつかれてしまったのです。

人間の探究 1154 賢きを人と云い、はかなきを畜といふ 

外国人労働者の問題について、高橋洋一さんは「せっかく我々が苦労して人手不足の時代をつくったのだ」と言っています。
人手不足とは「景気がよくなった」ということです。経済が活性化して、各企業が儲けだしてきて、人手不足の世の中になってきたのです。苦労して人手不足の世の中にしてきたのです。その次には人件費が上がるのです。介護をやっている人は、本当に安い給料です。「給料を上げましょう」と言えば、介護にも人が集まります。介護資格をもってパチンコをやって遊んでいるような奴でも「介護をやると給料がいいから、働こうぜ」となります。介護に人が集まってくるのです。日本には遊んでいる人間が何百人といるのです。そのような人間は給料が高くなれば来るのです。
自衛隊もそうです。今は5万人くらい不足しているのです。待遇がよくないから人が集まらないのです。「自衛隊の給料は月給で50万円もらえる」と言えば、すぐに大勢集まります。
財務省は人手不足なるように、産業界にお金をまわしてそのような状況をつくったのです。そこで外人を入れてしまったら、安い給料で使えるのですから、「日本人を採用しよう」と言う気持ちはなくなりますから、給料の値上げはストップです。
誰が喜ぶのかというと、財界が喜ぶのです。財界の連中は国のことなど考えていません。自分たちのことだけを考えているから、安い給料で人件費を抑えたいのです。そのようなことになるのです。それに税金を払わないパチンコ業界を援助しているのです。こんなことは誰もよくならないのです。
外国人労働者が大量に入ってきたら、反乱分子の工作員が入り込んで、内側から城の鍵を開けるようなものです。外国人労働者を入れるということは、ダメなのです。
安倍晋三は人相が悪くなりました。片山さつき地方創生担当相と、桜田五輪相はもう「辞めろ!」と言われています。片山さつきも麻原彰晃の処刑前に自民亭に集まって、親指を立てて「イエ〜イ!」とやって喜んでいました。しっかりと写っています。この連中は、麻原彰晃の亡霊に憑りつかれてしまったのです。麻原彰晃は悪人ですから執念深いのです。並みの人間の亡霊ではありません。
「やりやがったな。コノヤロウ。親子7代まで祟ってやるぞ!」という連中です。オウム真理教の連中は悪党です。片山さつきは、親指を立てて「イエ〜イ」などと調子に乗っているから、麻原彰晃を含めた13人の悪霊に憑りつかれているのです。
安倍晋三の顔は、太っているのではなく、むくんでいるのです。健康状態がよくない証拠です。もう亡霊に憑りつかれているので、安倍内閣の不祥事はまだまだ沢山出てきます。安倍内閣は立ち行かなくなり、安倍晋三の体も悪くなります。亡霊がそのように言っているのです。僕にはわかるのです。
処刑されたオウム真理教の13人の悪霊は「憑りついてやる」と言っているのです。「よくもやりやがったな。13名まとめてあの世に送ったつもりだろうが、俺たちは死んでいないのだ。亡霊になって祟るのだ」と言っているのです。それが自民亭で親指を立てて「イエ〜イ」と喜んでいた連中は、それがわからないでしょうか? この恐ろしさがわからないでしょうか?
「このようなことをやれば、このような因果関係が返ってくる」、このようなことがわからないから、畜生というのです。人々を苛めれば、自分が苛め返されるのです。朝鮮人によくすれば、日本人によくしないということです。
二者択一です。日本人によくしようと思ったら、他国から来た外国人に生活保護をあげようなどできません。両方はできないのです。だから、憲法では「日本国民でない者に生活保護を与えてはいけない」と言っているのです。ここは日本国です。
日本国なのに、朝鮮人と外国人に目がいって、外国人を優遇すれば、日本人は薄くなります。それは因果関係があります。薄くなった日本人は頭にきます。それが外国人を排斥する方向に向かうのです。もうその闘いに入っているのです。
創価学会の人間には全く道理がありません。道理が全くなければ、話し合いはできません。話は道理でするのです。「これが道理だから、これはよくないでしょう」と言われても学会員は「関係ありません。公明党のやっていることはみんな正しいのです」と言います。これは道理ではありません。
そのような道理のない人間は、どんどん畜生に向かっているのです。創価学会をやっている人間は、畜生に向かって突進しているのです。自分の理性をなくし、正しい判断をなくし、学会幹部の奴隷になるために、一生懸命修行しているのです。奴隷が楽しいかどうか知りません。学会オバチャンは、「私は学会が楽しいからやっているのだから、文句を言わないでちょうだいよ」と言うのです。
では、学会オバチャンは「人の宗教が悪い」などと言ってはいけません。矛盾していませんか? 自分達は創価学会に入れるために他宗教の悪口を言って創価学会に勧誘しているのです。矛盾するようなことを平気で言うことを「道理が無い」と言うのです。いくら理屈を述べても矛盾していなければ道理はあるのです。それを創価学会は、道理が無い方向へどんどん誘導していくのですから、ダメなのです。
安倍晋三は日本国を道理のない方向へ引っ張っているのです。移民導入など日本人はみんな反対しています。とんでもない考えです。消費税を上げるのも大反対です。全員が反対しているのです。財務省のごく一部の人間だけが賛成しているだけです。何故、こんなことをやるのでしょうか? 
安倍晋三のやっていることは、どんどん道理が無い方向へ向かっています。大臣2人におかしなことが出てきて、そのうち安倍内閣は道理がないことにより滅びるのです。道理がない連中は、来世はみんな畜生になるのです。僕は警告しているのです。道理が無い人間は、畜生に向かって歩んでいるのです。道理が無い奴、ウソつき、これは畜生になるのです。
ウソというのも道理がありません。実体がなければ道理はありません。空体語で物事を処理していけばウソになるのですから、それは畜生になるのです。
安倍晋三は麻原彰晃たちに憑りつかれたのです。安倍さんの顔と姿をよく見て御覧なさい。背中に妙なものが乗っかっています。
学会員もそうです。畜生顔がどんどん増えています。創価学会は、畜生を増やすべく、やっているのです。何故、学会がよくないのはハッキリと僕は言っています。韓国の創価学会は反日をやっています。これをどうして学会が支持するのでしょうか? 反日でないと韓国での宗教の布教は許さないのです。だから反日をやっているのです。
反日をやってまで創価学会を広める意味があるのでしょうか? これも道理が無い考え方です。「反日をやります。だから広めさせてください」と創価学会は、韓国で広めているのです。何を韓国で広めるのでしょうか? 「反日を広めるのか?」ということになってしまいます。全く道理もイロハもわからない人間が増えているのです。
「賢きを人と云い、はかなきを畜といふ」(崇峻天皇御書)
みんな立派な日本人になっていかなければいけません。そのための教育でなければいけません。しっかりせんかい、創価学会の畜生候補生!


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2018年11月13日

人間の探究 1153 賢きを人と云い、はかなきを畜といふ 

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※回転ずしへ行って食事します。余った寿司を持ち帰ると、8%の税金がかかります。店内で食事したものは10%の消費税です。わけがわかりません。そんな細かい計算は誤魔化しです。消費税を見せなくして、庶民の頭が「これは、8%か10%か?」となるように仕組んでいるのです。

人間の探究 1153 賢きを人と云い、はかなきを畜といふ 

 「賢きを人と云い、はかなきを畜といふ」(崇峻天皇御書)
これは日蓮大聖人様の御書『崇峻天皇御書』に書かれています。「賢きを人と云い」と言うのはわかります。「はかなきを畜といふ」「はかなき」の意味がわかりますか?
これは「道理がなくなる」ということを言っているのです。畜生に道理はありません。道理があるわけがありません。だから、畜生なのです。豚や馬にいくら道理を説いても道理はわかりません。
犬は「お手」「はいはい」、その程度のことはわかりますが、それは道理ではありません。餌を与えたら「ちょうだい」をするとか、それは道理ではありません。絶対に人間以外の生き物で道理がわかる動物はいません。「道理がない」人間のことを畜生といいます。道理がないことをやっている人間は、来世は人間に生まれません。生まれるわけがありません。「賢きを人と云い、はかなきを畜といふ」と言っているのですから、道理がない人は畜生を目指して進んでいるのです。現代の創価学会員、顕正会、日蓮正宗、統一教会は、何を目指して進んでいるのかと言うと、はかなくなるために修行をしているのです。修行すればするほど道理が通りません。
統一教会は姿を隠して「自分は統一教会だ」とは決して言いません。言ったらそこで議論が始まります。議論のことを道理というのです。また、創価学会員も絶対に議論をしません。今の学会員は議論ができないのです。ますます議論できなくなり、遂には人と話ができなくなってしまうのです。
「人間と人間が話をする」ということは、道理を通すということです。「貴方の言っていることは、道理ですか、道理ではないのですか?」「私の話は道理でしょうか?」というのが、話し合いです。学会員は話し合いを一切しません。
学会オバチャンは「私は創価学会を信じているのですから、誰が何と言っても信仰は止めません。私は創価学会が大好きなんだから、絶対に止めません」と言うのです。「どうして創価学会が好きなのですか?」と聞かれて、それに答えることが道理です。
「このようなわけで、私は創価学会を信じます」というのが道理です。それが創価学会員には全くありません。「私が何を信じようと信仰の自由でしょう。貴方にとやかく言われる筋合いはないわよ!」という答えが返ってきます。
例えば、「公明党やっていることは道理がありますか? 消費税の増税にどのような道理がありますか? 移民導入についてどのような道理がありますか? お話しましょう。移民導入は良いことでしょうか、悪いことでしょうか、貴方はどのように思いますか?」と聞くと、学会オバチャンは、「そんなことは知らないわよ! 公明党が決めていることは、みんな正しいのよ!」という答えが返ってきます。
学会員は道理が飛んでしまったのです。こちらが道理をもって話をしているのに、道理で受け答えできないのです。「公明党のやっていることは全て正しいのよ。創価学会だけが世界平和を目指しているのよ。だから、そんなくだらない議論をする必要はないのよ」と言うのです。創価学会は、道理が全く通りません。
高橋洋一先生は「消費税の導入は全く意味がない。消費税を増税したら国力は落ちてくるのだ。税収は上がらなくなる」と言っています。何故、税収が上がらなくなるのかというと、三橋貴明によると「国家が物を買ったら罰金をかけるのだ。消費税の増税は物を買ったら罰金をかけるようなものだ」と言っています。「物を買うと10%の罰金をかけるぞ」と言われたらみんな物を買いません。「200万円の車を買ったら罰金をかけるぞ」ということです。庶民は罰金を払って車を買うのです。消費税は罰金を払うようなものです。消費税の増税はそのように理解すればよいのです。僕もその通りだと思います。
儲けた企業は、400兆円〜500兆円もっています。「儲けたら罰金を取るぞ」それでもよいのです。それはやらないで、「庶民が物を買ったら罰金を取るぞ」とやるので、庶民は物を買わなくなります。
増税すると消費税という国家の収入は上がりますが、庶民は物を買わなくなるから、経済全体は落ち込むのです。落ち込めば税収は減ります。「消費税の増税をすると税種が減るので、それは得策ではない」と言っているのです。消費税をあげれば物が売れなくなって、国家の税収は減ります。国家としては減収になります。
それにもかかわらず、どうして税金を増税するのでしょうか? これが高橋洋一さんの主張です。その通りです。何故、誰も得をしない増税をするのでしょうか? 
おかしなことを言っています。回転ずしへ行って食事します。余った寿司を持ち帰ると、8%の税金がかかります。店内で食事したものは10%の消費税です。わけがわかりません。そんな細かい計算は誤魔化しです。消費税を見せなくして、庶民の頭が「これは、8%か10%か?」となるように仕組んでいるのです。
何故、増税をするのかというと、一度増税をすると、また増税をしやすくなるのです。一度、10%にしておけば、足らなくなれば「今度は15%にしましょう」と言えばよいのです。「消費税を20%にします」と次の増税がしやすくなるのです。政府は次の増税を考えているということがわかります。
10%にしてしまえば、「次は15%にしようか、20%にしようか」というだけです。庶民は理屈をつけられれば、抵抗しなくなります。欧米諸国でも35%取っている国がありますが、その国は本当に社会福祉が充実しています。
ちゃんと社会福祉が充実していれば、老後の不安もないし、学費もかからない、医療費もかかりません。それならば、25%取られても文句はありません。年を取ればみんな老人ホームに入れるのです。それならば、何の心配もいりません。スウェーデンは、ちゃんと福祉が出来ているのです。
日本の場合は、そんなことはできません。誤魔化しです。財務省で消費税を導入した人はどんどん偉くなって局長(事務次官)になってしまうのです。財務省で出世するのは、新しい税金システムを創った人です。全くヒドイ話です。(△紡海)

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2018年11月12日

人間の探究 1152 色心不二なるを一極と云う 

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※見ている世界は自分の色(しき)により構成されているのです。色(しき)がなければ何も見えません。このことを仏典では第八識と言っているのです。

人間の探究 1152 色心不二なるを一極と云う 

 豚も馬も人間も、衆生はみな自分だけの世界をもっているのです。「その世界はどのようにして出来たのか?」というと、自分がつくった世界です。自分以外に充満する世界だけれども、その中で「これが私ですよ」と切り取ってくるのです。「これは他の動物です」と切り取るのです。そこに犬の世界、人間の世界が出来るのです。だから、バーチャルリアリティーと言っているのです。
見ている世界は自分の色(しき)により構成されているのです。色(しき)がなければ何も見えません。このことを仏典では第八識と言っているのです。外界のものを見ている世界を集合して「このように見ているのです」という色(しき)があるから、それが人間の記憶になったり、或は反応するのです。
見ている世界は自分だけの世界です。どのように見えても、自分以外に世界はありません。全て自分です。それを宿命といいます。何故、自分はこのような夢を見ているのでしょうか? 
大金持ちの夢を見ているのか、美人で恵まれて楽しい世界を見ているのか、或は才能に恵まれていてピアノやバイオリンが弾ける世界を見ているのでしょうか? それは、自分がつくりだしている世界です。
 反対にヤクザに入り、豚箱に入って苦しんでいる世界もあります。どんなものでも切り取れる世界から、自分で切り取った世界を「我が家」としているのです。これが私です。「これが私です」と決定するのは、「色心」の心(しん)なのです。
それもよく突き詰めていくと、外界に物があるから物が認識できるのです。何もなければ物は認識できません。この考え方と、自分の色(しき)というものは、何によってつくられているのかというと、外界があるからつくられているのです。
外界がなければ何も見えません。光もない何も無い真っ暗な世界です。音もない何もない世界があって、その中から明かりのように自分というものをつくりだしているのです。これは外界があるから心が生まれるのです。心があるから外界が見えるのです。「あそこに物がある」と見えるのです。
そして、それを究極的に考えていくと、これは不二です。二つに分けられないのです。「これは外界、これは貴方の心」ということになってしまうから、心などという独立した概念があるわけではありません。外界をもって心をつくるのです。心をもって外界を認識するという、「行って来い」の関係になっています。仏教の究極はそのようなことを説いています。
しかし、変えられる部分はあります。自分の一念心は変えられるのです。殺伐とした心をもって生活していても、ある時仏様に会って、説法をされて「ハッ」と気が付いて、「俺の人生はまずいな」と思えば、その瞬間にパッとその人は変わるのです。
「刑務所暮らしの自分を止めて、仏様の世界に行ってみたいな」と本当に思えば、瞬間に変わるのです。するとそれがその人の始めになり、だんだん良い方向へ向いて行くのです。このことを刹那成道(せつなじょうどう)ともいいます。世界は瞬間に変わるのです。そして、色心不二ともいいます。心が変われば、外界は変わるのです。外界が変われば、心も変わります。究極は、「行って来い」の関係になっています。
その心の方面を説いたのが成唯識論(じょうゆいしきろん)です。心だけが単独で存在することはあり得ません。何も無かったら、心など存在しません。それに生命が吹き込まれて、自分と他人の区別がついて、それが自分の心になり、外界をもって心をつくるのです。
人ごとにつくる世界は違うから、色(しき)というのです。「貴方が見ている世界はこのような世界です」「この人が見ている世界はこのような世界です」と様々に違う世界を見ています。だから色(しき)と言うのです。これが究極の姿です。
南無妙法蓮華経とは、究極の姿を現しているのです。南無妙法蓮華経という法が、本当にわかってくると、「なるほど!」と全てがわかって、色心は不二になってくるのです。南無妙法蓮華経がわからない人が、「色心は不二になる」といくら言ってもわかりません。「色心不二、色心不二・・・」といくら唱えてもわかりません。南無妙法蓮華経と唱えて修行していく人に色心不二の境地は開かれてくるのです。それを刹那成道といいます。


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2018年11月10日

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』宗教と奇跡 7 トランスに入ると病気が治る

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※古代には万病を治すと言われたエジプトの医学があります。エジプトの医学では神官が出てきます。病気になった人々を集めて神官が洞窟に案内します。香油や香水を使い神官が長い祈りを捧げると、病気の人達がトランス状態に入ります。

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』
宗教と奇跡 7 トランスに入ると病気が治る

 人間の望みの中でこんな望みがあります。「自分を超える者になりたい」と思うのです。人間の能力には限界があります。空を飛ぶことはできません。長時間海に潜ることもできません。そのようなものを「超越したい」と思うのです。それを奇跡(miracle)と言います。それを求めて「宗教に惹かれる」という場合があります。
 古代には万病を治すと言われたエジプトの医学があります。エジプトの医学では神官が出てきます。病気になった人々を集めて神官が洞窟に案内します。香油や香水を使い神官が長い祈りを捧げると、病気の人達がトランス状態に入ります。それで眠るのです。眠りから覚めると「貴方達の病気は治った」と言われます。
 頭が痛い人、お腹が痛い人、神経痛の人もいれば様々な病気の人がいます。病気になった人達が眠りから覚めると病気が治ってしまうのです。病気の人は神官に「病気を治してください」とすがってきたのです。
 事実病気は治ったのです。これは後でわかったことですが、人間にはトランス現象があります。通常の状態ではない状態に導かれるのです。すると本人から見ると「奇跡が起きた」と感じるのです。
 これは現代の催眠療法と似ています。催眠術にかかり、「貴方の胃の痛みは消えた」「神経痛が消えた」「目が見えるようになった」というように病気が治るのです。心理的な要因で目が見えなくなった場合は、催眠術で治るケースもあります。座骨神経痛が治ったりするのです。
 現代でこれを応用している宗教団体が真光教団です。真光教団は、岡田金玉が創った宗教団体です。信者同士お互いに向き合って、痛いところに触らないで手をかざすのです。長時間手かざしをするとトランス状態に入ってしまうのです。するとお互いに治ってしまうのです。不思議ですがトランス状態になると、目が開かなくなったり、腰が抜けて立てなくなったりするのです。「治った!」と言われると本当に病気が治ってしまうのです。
 マホメットの場合は「どんなものでも私は動かしてみせる」と言ったのです。すると「あの山を動かせますか?」と言った人がいるのです。マホメットは「私が祈れば山はこちらに来る」と言ったのです。これから「山が動く」という言葉が生まれたのです。ところが、マホメットが祈っても山は全然動きません。するとマホメットは「山が動かない場合は、こちらから歩いていくのだ」と言ったのです。
 イエス・キリストの場合は、洞窟を使ったのです。「貴方は目が見えないのか? 腰が痛くて動けないのか? では、私が治してあげましょう。目をつぶってアーメンと言いなさい。神にすがればただちに治ります。さあ、治りました。貴方の目は見えるようになっています。貴方の腰の痛みは消えています」と言うのです。
 すると、「私はまだ目が見えないのですが」という人がいます。イエスは「それは私の言葉を信じていないからだ。神様は信じる者を救うのであって、いくらおすがりしても、自分で神を信じるという力を忘れたならば、貴方の病気は治りません。貴方は信じていなかったのですね」と言ったのです。
 「私が目が開くと言ったのですから、信じている人は目が開きます。貴方は信じていないから、目が開かないのです。腰が痛いという貴方に私が「治った」と言ったのですから、その私を信じるならば治ったのだから、立ちなさい」、というようにしてイエスは病気を治していったのです。
 「信じる者は救われる」とは、そこからきているのです。信じない者は如何なる神も救いません。(△紡海)


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