2016年09月01日

人間の探究 587 ストゥーパ(仏塔)

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※インドではストゥーパとは、丸い屋根で屋根の天上がとんがった塔です。そこに釈尊の骨を置いて、そのストゥーパの周りを何回回るか?」という数を数えて、「周った数が多いほど仏になることができるのだ」という考え方です。

人間の探究 587 ストゥーパ(仏塔)

仏教の歴史から言うとお釈迦様は今から2500年前に生まれました。そのようなことになっていますが、これも年代の数え方にはいろいろと説があり、3000年前に生まれたという説もあり、一概には言えません。
何故かというと釈迦の書いたものは一文字もないからです。当時、文字も立派にありました。お釈迦様は王子の出身ですから字は書けますが、何も書いていません。
イギリスがかつてインドを植民地にしたときに、インドの宗教を研究するために仏教を研究したのですが、「釈迦は実在の人物ではない。架空の人物だ」と考えたのです。今になり、様々な事績がわかってきましたが、当時は何年に生まれて何を言った人なのかわかりませんでした。「経典はあるけれども、釈迦の存在は怪しいものだ」と考えられていたのです。
ところが研究の結果、今では「釈迦は実在した」とわかっています。このような研究を「仏教学」と言います。仏教ではなく、仏教学です。研究するとお釈迦様の実在がだんだんと明らかになり、それまではお釈迦様は大仏みたいで全身が金色に塗られていたのです。そのようなものが「仏教だ」と思われてきたのです。
お釈迦様は身の丈八万由旬で、手には水かきがあり、足の指紋には黄金のトグロが巻いてあり、足は偏平足で、髪の毛はクルクルで、額の真ん中には目があり、そのような釈尊を想像していたのです。ところが、調べていくと「釈尊も普通の人間だ」ということがわかってきたのです。「我々と変わらない人間である」という仏像が出てきたのです。
仏教とは、「人間がどのように生きたらよいのか?」ということを教えられたのです。お釈迦様は超能力を持って空を飛び、水の中に潜るとか、摩訶不思議な神通力を持った人物ではないということがわかってきているのです。
その結果、お釈迦様は涅槃行で「私が死んだら私の骨を奪い合うであろう。それはよくない。私の骨に教えは残っていない」と言われたのです。お釈迦様がお亡くなりになり、骨になってしまいました。「仏教が知りたいけれども、どうしたらよいのか?」とお釈迦様の骨を奪い合いになり、誰かが骨は隠したのです。
第一次結集は、釈迦滅後100年後に行われたのです。「お釈迦様は一体何を説いたのでしょう。弟子が集まって整理しよう」と行われたのが、第一次結集です。第二次結集は釈迦滅後の500年後です。
そこで、「お釈迦様は、このようなことを説いていたのだ」「このようなことをしてはいけない」「集団の教え(サンガの教え)はこれだ」と教えを整理したのです。「財産について、行動について、釈迦の弟子たちがどうすればよいのか?」と、お互いに釈迦の教えを持ち寄って、「私はこう聞きましたよ」「それは違うのではないか」と議論が行われて、だんだん経典にまとめられていったのです。
それまでの仏教は小乗教です。小乗教とは、少ない人しか成仏できないという意味です。少ない人の乗り物だから小乗教といいます。「少ない人」とは、どのような人かというと、仏教を求めて非常に真面目に釈迦の教えの通りに修行を積んで、仏陀になろうとする人です。そのような人は非常に少ないのです。そのような人のために説かれたから小乗教といいます。小さな乗り物です。
ところが衆生は錯覚して「仏教は功徳があるのだ。釈尊の骨を拝むと功徳がある」と、仏教が変質してしまったのです。「それはそれでいいよ」という考えが、大乗仏教です。
多くの人が釈尊を求めて集まります。集まったところにはストゥーパ(塔)を建てます。これが仏塔の始まりです。日本では五重塔になりました。インドではストゥーパとは、丸い屋根で屋根の天上がとんがった塔です。そこに釈尊の骨を置いて、そのストゥーパの周りを何回回るか?」という数を数えて、「周った数が多いほど仏になることができるのだ」という考え方です。
チベットには、マニ車があります。マニ車を1回まわせば、経典を1回読んだことになります。2回回すと2回経典を読んだことになるのです。経典をクルクルクルと何百回も回せば「経典を何百回も読んだのだ」ということになるのです。
ストゥーパはインド全体に広がり、釈尊の骨が足りるのでしょうか。何百とストゥーパがあるのですから、そんな数に釈迦の骨をくばりきれるわけがありません。ほとんどがインチキです。象の骨も入っています。それを「仏舎利」と言っているのです。仏舎利はストゥーパを建ててその中にご安置して、民衆は「有難い」と言ってその周りをまわるのです。
何しろ、「回る」ということが仏道修行であり、天台大師は『摩訶止観』を書いてもっともらしいことを言っていますが、修行の方法は仏像の周りを回るのです。阿弥陀像を造り、その周りを何回も回るのです。朝は法華経を唱えるのです。天台宗は朝題目の夜念仏です。
比叡山延暦寺には、阿弥陀経も法華経も入っているのです。これはおかしいのです。ストゥーパを真似して、インドから中国に渡ってつくられたのが五重塔です。本来これは釈尊の経典を治めるものです。人が住むものではありません。
インドでは仏舎利を入れたのです。それを周って歩いて「有難い」と言っていたのです。お釈迦様は涅槃行で明快に言われています。「私の骨を敬う人間が出てくる。しかし、それは仏弟子ではない」と明快に言われています。
そんなものは仏教ではありません。仏教はクルクルと回るものではなく、自らの正体を明らかにして、人生を歩んで仏になっていくことです。仏塔を何回クルクル周ろうが、いくらやっても仏になることはできません。
クルクル回るということが、権大乗経であるところの阿弥陀経にきて、「南無阿弥陀仏と何百万回唱えて阿弥陀仏の周りを回れ」と言うのです。そんなことは何の意味もありません。
日本山妙法寺も「南無妙法蓮華経、ドンツクドンドン」と太鼓をたたいて歩きますが、いくら歩き回っても何の意味もありません。「南無妙法蓮華経」の本当の意味を深く考え、深く思いを致していくならばよいのです。
太鼓をたたいてドンツクドンドンとか、ひどいのは滝に打たれて「南無妙法蓮華経」と唱えたり、断食して「南無妙法蓮華経」と唱えても、何の意味がありません。
今は冷静に勉学して仏教がわかり、心から「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながら人生んでいくことしかありません。所謂、自灯明(じとうみょう)です。自灯明とは、自らの正体を明らかにすることです。自らの正体を明らかにするということが南無妙法蓮華経です。
南無妙法蓮華経と唱えながら、自らの正体を明らかにしていくことが本当の仏道修行です。仏道修行の原点は自灯明です。自らの明かりを灯すのです。ストゥーパを建ててクルクル回る、阿弥陀仏を建てて念仏を唱える、いずれも仏教ではありません。それを改めて知る必要があります。

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2016年08月31日

人間の探究 586 生死即涅槃(しょうじそくねはん)

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※法性の大地というものがあります。何でもそこに帰ってくるのです。なんでもそこから出てくるのです。どうしてそこから出てくるのでしょう。これを明かされたのが、蓮華の法です。

人間の探究 586 生死即涅槃(しょうじそくねはん)

 この生死即涅槃はわかったようでなかなかわからないので、何度でも勉強したほうがよいと思います。まず、仏教でいう「生死」とはどのような意味かというと、「苦しみ」という意味です。生死は「苦」なのです。生死とは「生老病死」を縮めて言っているのです。本来ならば、「生老病死」となりますが、真ん中を飛ばして「生死」と言っているのです。
 生まれるのも苦、成長して老いるのも苦、病気になるのも苦、死ぬのも苦です。生老病死です。「人生とは苦のかたまりである」という教えです。生死という場合、「苦しみ」と訳します。生まれるのも苦しみ、死ぬのも苦しみ、生死は「苦」です。
 この生死がそのまま涅槃です。これは一体、どのようなことでしょう。日蓮正宗の考え方では、「生死している我々が御本尊を拝むと即涅槃になる」そのような考え方です。そのような考え方では悟りは得られません。生死というものが起きてくるところがあります。どこから生死は起きてくるのでしょう。それは「妙」から起きてくるのです。生はどこから生まれてくるのでしょう。それは妙から生まれてくるのです。
 これがわからないと生死即涅槃がわかりません。我々が「生きている」「死ぬ」ということ、すべて妙から起きてくるのです。不思議な一念として生まれて、不思議な一念として死ぬのです。ちょうど、生と死の間が人生です。これを湧き上がらせている元の物は何かというと、これが妙法です。妙法とは簡単に理解しにくいことです。しかし、妙法から出てくるのです。「この生死の二法は一心の妙用」(御義口伝巻上)と、日蓮大聖人様は言われているように、「生死というものはすべて妙法から出てくる」と説明されているのがこの御書の一説です。
 妙法とは何かというと「仏界」です。現代の言葉で言うと「実存の法」とも言えます。前回も書きましたが、我々の現実の生活はバーチャルリアリティ(仮想現実)であり、本当の現実ではありません。夢を見ているのです。
 人間の一生は夢のごときです。生まれてから、様々な夢を見て「生きている」と思い、そして死んで「夢が終わった」と思うのです。本当は違います。「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(御義口伝巻上)と日蓮大聖人様は言われております。
 法性の大地というものがあります。何でもそこに帰ってくるのです。なんでもそこから出てくるのです。どうしてそこから出てくるのでしょう。これを明かされたのが、蓮華の法です。因果倶時の法により、我々は法性の大地を生死・生死とめぐりゆくのです。
 普通の人は「何故、自分に生まれてどうなるのか?」ということがわかりません。生命エネルギーの元は因果の理法です。自分の成りたい者になって生きて、生きること自体が因果をつくってしまうのです。
 例えば、戦国時代に生まれて一国を盗ります。「一国を盗る」と発願して一国の主になります。その時には大変な因果を積んでしまっているのです。一つの国を治めるということは、何万人という人間を殺しているのです。
 殺さない限りは国主になどなれません。殺して、殺して、殺して因果をつくっていくのです。因果をつくって人生が終わります。「天下を取った!」と思った瞬間に人生は終わります。次の人生は、殺しまくってきた因果が原因となり、次の生が始まるのです。これが因果倶時です。自分のやってきたことを自分で刈り取るのです。
 馬も猫も豚も人間も自分の因果を刈り取っている姿なのです。豚は何でも食べ物に見えて、何でも食べてしまいます。腹が空いて仕方ないので、生きている動物も死んでいる動物も何でも食べてしまうという姿があるのです。
 何故、豚がそのような因果をもったのかというと、むさぼり食べてきたから豚に生まれたのです。豚に生まれた因果が終わると今度は、人間に食べられてしまうのです。また、次の連鎖が続いていくのです。人間も同じです。
 天下を取った金正恩が威張っていますが、もう人間を何千人も殺しているのです。フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領も麻薬常習者を裁判もなしに千人も殺しているのです。すべて自分の因果となって帰ってくるのです。わからないから、そのようなことをやっているのです。
 生きている人間から言うと「殺したからAさんは亡くなった」と思います。殺される人間から言うと、「あいつのおかげで俺は殺されたのだ」という恨みを持ってしまい、それは消えません。殺したから終わりではありません。「殺したという因果があり、殺された人間は恨みを持つ」というのは当然のことで消えません。人を殺したということは、因果の中に自ら入ってしまったのです。
生命を奪うということは、何であってもよくないことです。何故、よくないのでしょう。それは自分に返ってくるからです。自分に返ってこないならば関係ありませんが、必ず帰ってくるのです。だから、大変なことになるのです。
誰人も因果から逃れられません。一人殺したら最後です。「捕まるのではないか」「復讐されるのではないか」という因果がずっと続いていくのです。死んでも「殺した」という因果は消えません。
これを法性の大地というのです。あらゆるものが出てくるところです。この法性の大地という言葉を変えると、妙法ということです。「法性の大地はどうなっているの?」といくら考えても理解できません。即ちそれは、わからないから妙法と表現されているのです。
生死即涅槃ということは、「生も死も含めて、この法性の大地から出てきているのだよ」ということを表しているのです。生と死の奥に妙法というものがあるのです。妙法から出てくるのです。
これを日本の神道で言うと「神の国」ということです。キリスト教でも「神の国がある」と言います。精霊の国があり、そこから人間は生まれてくるのです。しかし、神様の心がわからないでそのまま死んでしまうのです。
キリストは神である精霊の気持ちがわかった人です。だから三位一体(精霊・キリスト・神)です。生まれて死ぬという生命の奥にもう一歩あるのです。それが天国です。
神道の場合、それは神の国です。我々日本人は神の国からこの世に出てきたのです。「神の国である」ということ自体が妙法の国、神の国であり、この世に生死として出てきたのが人間です。人間の生と死の役割が終わればどこへ帰るのでしょう。それは神の国に帰るのです。
それを具体的に言ったのが仏教です。仏教で言う神の国とは、妙法のことなのです。妙法も天国も精霊も一体のものです。同じものなのです。「仏法的に教えましょう」というのが、生死即涅槃です。
それを自覚すれば「生命とは生まれて死んで神の国へ帰り、また生まれてくるのだ」とわかります。どんな姿で生まれてくるのかというと、それは蓮華の法によるのです。そのようにわかれば、生死即涅槃です。生死以外に涅槃はありません。
生死は事実です。それ以外に法はどこにもありません。「その原型はどこにあるの? 仏国土を見せてよ」と言っても見せられません。ないのです。ないと言っても、生死として生命がポンと生まれてくるのです。そのような存在です。
言ってみると「生死が即涅槃なのだ」とわかります。生死を離れて涅槃はないのです。生死のことを煩悩とも言います。煩悩を離れて悟りはないのですから、煩悩即菩提というのです。生死即涅槃、煩悩即菩提とはそのような意味です。
生死の中において、夢のような人生を生きてきて、お金を求めて自己実現しようと生きてきて、或は戦争を求めていくのですが、そんなことはすべてダメです。「妙法に生きなさい」というのが仏教です。能生の根源とも言います。
能生の根源とは、法が生まれる根源のものです。生死が生まれる根源のところを明らかにしていくことが大事です。そのことを日蓮大聖人様は、南無妙法蓮華経と教えられたのです。
この話をちゃんと聞いた人は、生死を恐れなくなります。生死を生んでくる元のところに自分はいるのです。「今、私は生死をやっているのですが、これは夢なのです」とわかれば、死ぬことが怖くなくなるのです。夢がなくなるだけの話です。夢の中でもちゃんと仏の教えを守っていけば変な道には入りません。
娑婆世界と仏国土は別ではありません。同じです。それしかありません。「どこにあるの?」と聞かれても、「妙法の世界はここにあります」とは言えません。言えないから阿弥陀経では、西方浄土と言い、遠くにあると言います。
阿弥陀の国はどこにもありません。無いから「ものすごい遠いところに浄土がある」と言うのです。極楽浄土はつかめないのです。
法華経は「そんなものはない」と言っています。生死の中に涅槃を求めていくしかないのです。生死そのものが涅槃の姿です。どこまでいっても生死はなくなりません。それが永遠の生命です。それが実存を得るのです。
バーチャルリアリティの中に実存はありません。大臣になったり、天下を取っても、夢なのです。ただ、夢の中でもがいて、「天下を取った!」ということは残ります。夢の中の因果でやってきたことが即因果倶時ですから、今度は自分に返ってくるのです。それだけの話です。
バーチャルの話、仮想現実の話なのに、それを「実在」と思っていることが間違っているのです。実在は違うところにあるのです。それを「実存」と言うのです。南無妙法蓮華経を知っている人は、実存の法に生きるのです。板本尊は関係ありません。

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2016年08月30日

人間の探究 585 実在と実存

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※バーチャルリアリティとは、仮想現実です。現実ではありません。

人間の探究 585 実在と実存

 最近、科学者が言い出しましたが「我々が感じている世界とは、バーチャルリアリティではないか」と言っています。
 よく考えてもらいたいのです。世界は間違いなくバーチャルリアリティです。今あることは、100年先にはありません。10年先にもありません。今、我々がここに世界をつくっています。ニューヨークには摩天楼があり、東京にはスカイツリーがあり、すごい文明をつくり、謳歌しているように見えますが、実は100年先には何もありません。
 今、我々が感じ取っているビル、高速道路、新幹線など、実在だと思っていますが、100年先には間違いなくありません。今、我々が感じ取っている何もかもが100年先にはありません。
 そのように考えると「今」という現実はまさにバーチャル(仮想)です。どんなように見えても、起きて来るすべてがバーチャルです。例えば、戦争ではお互いに殺しあいます。「気の毒に」と思いますが、これもバーチャルです。みんな消えてしまうのです。
 「なんだ、この世で起きてくることは、すべてバーチャルリアリティなのか」と思えば、人間はずいぶん楽になります。バーチャルリアリティとは、仮想現実です。現実ではありません。仮に現実のように思えるけれども、これは仮につくったものですから、「仮想現実」といいます。
 そのように考えてみると、地震でペッチャンコになって死ぬのも、戦争で殺されるのも、病気で死ぬのも、「なんだ、みんなこれは夢で仮想現実か」ということが言えるのです。
 すると何事が起きても「そんな恐ろしいことはないのだ」とわかるのです。現実ではなくてバーチャル(仮想)なのです。夢の中で見ているようなものです。夢と言っても結構、実存感があります。
 夢も緊張があって、起きてみると忘れているだけです。夢の中の出来事はバーチャルリアリティなのです。これでずいぶんの人が救われると思います。「現実? これは現実ではないよ。バーチャルリアリティだよ。今、俺が殺されるのも、地震が起きて大変な目に遭うのも、バーチャルか」と思えばよいのです。自分が死んでしまえば、バーチャルは消えてしまうのです。
 死ぬまでにはそうとうな苦しい時間があるかもしれませんが、それにしてもどんなに苦しい時間があったところで消えてしまうのですから、バーチャルリアリティです。これがわかっていません。
 どんなことを経験しても、何をつかんでも、何をやっていようと、すべてバーチャルです。よいことをやっている場合はよいのです。悪い立場になっても、大したことはありません。バーチャルリアリティです。自殺してしまえばすべて夢の中です。「苦しい、俺は嫌だ!」と自殺したら、自殺した瞬間は苦しいかもしれませんが、それも過ぎ去ってしまえばすべてバーチャルリアリティだったのです。
 その人がどんなことを経験しても、何をやろうとすべてバーチャルです。夢の中の夢なのです。そのように思うと人の気持ちは楽になるのです。「起きて来ることがすべて現実だ」と思うから泣きわめくのです。本当に存在するのは、実在の法ではなく、実存の法のみです。これが大事です。
 実在はバーチャルリアリティですから、すべて消えてしまいますが、実存は消えません。どんなことをやっても消えないのが、実存の法です。人間は実存を求めています。消えない永遠の世界を求めて、「何が実存の世界なのか」ということを探求したのが仏教です。
 我々が見たり聞いたりしていることは、すべてバーチャルリアリティです。「では、何が存在しているのか?」ということです。これを探求したのが仏教です。「どの御本尊が実在か」という話ではありません。
 この変わらない法、実存の法のことを天台大師は「一念三千」と言ったのです。この一念三千の前に説かれた法門が、般若心境の「空(くう)」です。「空(くう)」とは何かというと、「すべてバーチャルリアリティだ」と言っているのです。
 当時の人々には、「バーチャル」という観念は難しいことです。「現実はすべてバーチャルリアリティです」ということを教えるために「空」と言ったのです。「これは私の実存だ」としがみついているものはすべて空なのです。すべて消えてしまうのです。今、たまたま感じているだけで、10年先にはもうありません。今ある現実もすべて空です。般若心経は空を説いた教えです。
 それから天台大師が出てきたのです。空は実存を説いていません。「この世のものはすべて空だ」と教えているのです。「空の奥には一体何があるのか?」と天台大師はそれを取り出して一念三千と証明したのです。
 我々が考えている一念というものは、何事であっても三千が実数なのです。一念はバーチャルリアリティです。「その奥に三千の実存があるのだ」と教えるのが一念三千です。
 三千という実数は犬、猫、草、木、人間、みんな実存が現れたものです。「実存とは何か?」というと、三千が一念心として現れているだけです。その奥にあるものは、三千という実存です。これで仏法は完成するのです。
 般若心経は空だけを説きました。もっと虚しいのは、四諦の法門です。この世は生老病死の四苦があり、苦しいのです。これもバーチャルリアリティを説こうとしていたのにすぎません。
「この世はみな生老病死で消えていってしまうのです。宇宙は成住壊空です。すべてのものはバーチャルなんだよ」と言ってもわからないから、まず、一つ一つ考えさせたのです。「生あるものは必ず死す」どのような意味でしょう。生ある者は必ず老いて、最後は病気になって死ぬのです。人生は虚しいのです。これも言ってみるとバーチャルを説いているのです。
説き方が実際の実相を明らかにしているのです。それを進んでくると竜樹が空と言い出したのです。「すべてはバーチャルである」と思えばよいのです。なるほど、空をそのように説いたのです。今の人にはバーチャルだと言ったほうがわかりやすいのです。
では、バーチャルだということは、何もないのでしょうか。バーチャルの奥に本当にあるものとは何でしょう。それは一念心です。一念心が三千です。三千は実数です。その中で感じているものは三千であり、出てくるものは一念であり、それに三千が出てきていると説いたから、天台大師はすごいのです。
三千が実存です。犬も猫も馬も人間も三千という数が大宇宙の根本にあり、それから出てくる一念です。それが人間なら人間の人生を歩むのです。馬も三千、人間も三千です。馬になると馬しかわかりません。人間になると三千の部分がすべて出てくるのです。そのような違いがあります。できている本体は三千に違いありません。
お釈迦様の法華経はもっと詳しくつくられたのです。三千のことを妙法といったのです。不思議な法です。三千があり、出てくるのは一念心です。宇宙には、実存しかないのです。
 これを天台大師は一念三千といい、法華経の中心は妙法蓮華経です。妙法蓮華経は一念三千のことを言っているのです。これから出てくるのです。日蓮大聖人様は、もっと法門を深められて、「南無妙法蓮華経」と言われたのです。ここでは説明はしません。
 仏教の流れはそのようになっています。まず、人生を見てください。有る時は楽しみ、有る時は苦しみ、有る時は悲しみ、有る時は希望に燃え、有る時は落胆して人生を送っています。生まれた者は必ず死に、生ある者は必ず老いて、最後は死ぬのです。この生老病死の中に人間は生きています。
 人間は錯覚して「ここに楽しみがある」「ここにグルメがある」と楽しみを追い求めて生きているのです。人生は泡のようなものであり、この楽しみを得て、この楽しみがなくなり、次の楽しみを得て、泡のように次から次へといろいろな楽しみを求めていきますが、それは泡のようなものでつかむことはできません。
 自分が何をやっているのかもわかりません。一生を送って死に、また次の泡になるだけの人生です。それをお釈迦様は最初に教えられたのです。「生まれたものは必ず老いて、病になり死ぬのだ」それがわかるならば、この虚しい人生にしがみついて、それを「現実」と錯覚して命を賭けて戦ったり、殺し合ったり、奪いあったり、愚かなことをするはずがありません。
 その現実を目の前にして、悟りというものはそれを達観して、その奥にある変わらないものを求めていくことが釈尊の教えの第一歩です。それが竜樹になり、「万物は空である」とはっきり言っているのです。現実にしがみつけないのです。何もかも消えてなくなります。これは空を教えているのです。何事もしがみつけないのです。何故ならば、すべてがバーチャルリアリティだからです。実存ではないのです。竜樹は空を教えたのです。
 この空を体得しようとするのが禅宗です。空はそこでとどまってはダメなのです。空は「人生はバーチャルリアリティだよ」と言いますが、「その奥に何があるのか?」ということは説いていません。「その奥にあるものは何か?」というと、それが中です。これを中諦といいます。仮諦・空諦・中諦です。
 バーチャルの奥に何があるのでしょうか。それを極めるのが仏教です。空を極めるのが仏教ではありません。中を極めるのが仏教ですから、空のままでは中にいけません。空を求めている禅宗は「天魔の業である」と、日蓮大聖人様は言われたのです。このように言えばわかるのです。
 空にとどまってはいけません。この中は実存についてよくわかりません。中身については説かれていません。それを天台大師は一念三千と説かれたのです。
 お釈迦様の法華経のほうが、天台大師よりも先にできているのです。すでに妙法蓮華経と言っているのです。中なるものとは、妙法蓮華経です。生命が現れてくる法則を能生の根源といいます。
 能生の根源にある実存の法とは、妙法蓮華経だと言っているのです。あらゆるものが生まれてくる根本があり、そこから出てきているのです。さらにそれを深められた日蓮大聖人様は、南無妙法蓮華経と教えられたのです。これが仏教の流れです。このように正しく仏教を理解しない限り功徳など受けませんし、わかることもできません。
この間、ネットで創価学会と日蓮正宗法華講の樋田昌志君の公開討論を聞いていました。「学会の出した本尊は功徳があるのか、ないのか」という馬鹿な論争をしていました。樋田昌志君は「御本尊とは時の法主が開眼供養しなければ効果がないのだ」と言います。学会側は「そんなことはりません。僕は効果があります」と言っています。いずれにしても「御利益」という言葉を使っています。この御本尊を拝むと御利益があるかどうかということです。御利益ではないでしょう。御利益とは、正しく仏教がわかるということです。
 正しく仏教がわかるということは、仏教の筋道がわかって、物事の見方を間違えないということです。これが正しく仏教をわかるということです。
いくらやっても日蓮正宗も創価学会も仏教が何だかわかっていません。
 竜樹、天台大師、法華経、日蓮大聖人様の関係などわからないでしょう。根本をつかんでいないから「仏教とは何を説いたものなのか?」わからないのです。根本から日蓮大聖人様の仏教に取り組んで勉強する必要があります。

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2016年08月29日

人間の探究 584 仏法とは必ず智法

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※石田先生は聖教新聞の専務理事ですから大幹部です。

人間の探究 584 仏法とは必ず智法

 僕は横浜の石田次男先生のところへ5年間通いました。通うことになったのは、石田先生が『現代諸学と仏法』を出すということを、新聞かなにかで知ったことです。「是非、読みたい」と思い、石田先生に電話をしたら「まだ本はできていない。君も話を聞きにきてもいいですよ」と言うので、出かけていったのです。
 石田先生に伺ったら聖教新聞からこの本を出すつもりだったのですが、どうやら反対があって出すことができなくなったと言われたのです。この『現代諸学と仏法』は難しい本です。「池田大作の教学が如何にデタラメか」ということを教えるために書いた本です。本橋さんという学会員の東大の先生と石田先生の2人で対談して「何が学会員は間違っているのか?」ということをよく考えながら書いたのです。この本は、1巻・2巻・3巻・4巻とあります。「これを読めば池田大作の頭もまともになるのではないか」と言っていたのです。
 僕は石田先生に非常に興味があったのです。名前だけは知っていました。僕が最初に創価学会に入ったのは小岩支部でした。小岩支部は古い支部です。初代小岩支部長は石田先生です。そのようなことでも知っていたし、ものすごく頭のよい人がいるとも知っていました。「一度会いたいな」と思っていたので、「君も話を聞きにきていいよ」と言われたので、横浜の自宅へ伺ったのです。5年間も通いました。
 「『現代諸学と仏法』は僕が出します。でも、僕は出版の素人です。どんな本になるかわかりませんが、それでいいですか?」と聞くと、「いいよ、君にやってもらって構わない」と言われたので、1巻・2巻を僕が出すことになったのです。
 この『現代諸学と仏法』は3千部つくったのですが、あっという間に売れてしまいました。今ではこの本は神田の古本屋へ行くと、貴重本ですから3万円くらいの高値がついています。主に日蓮正宗のお坊さんが買っていました。創価学会員は勉強が嫌いですから、あまり買っていません。
僕は「石田先生はアル中になったと聞いたのですが、どうなんですか?」と聞くと、石田先生は「馬鹿を言ってはいかんよ」と言いました。創価学会は、石田先生を消すために、そのようなデマを流すのです。「石田の話なんか聞いてもだめだよ。アル中でヨイヨイになっている」と言っていたのです。
当時、石田先生は聖教新聞の専務理事ですから大幹部です。新聞社で一番偉い人です。仕事は干されてしまい、なかったのですが、給料はもらっていたのです。奥さんは栄子さんと言って、初代の女子部長です。石田先生の妹は、創価学会会長の秋谷の奥さんです。弟の石田幸四郎さんは公明党の委員長をやった人です。一族がみな学会の大幹部です。
こんな先生の話を聞けるチャンスは滅多にありません。学会の成り立ちなど、僕は5年間石田先生から聞きました。ほとんど毎日通ったのです。正座をしてお話を伺うと、必ず帰りに「寿司を食っていけ」と言って、寿司をとってくれたのです。「教わりに来て、寿司を御馳走になったのでは本当に申し訳ない」と思っていましたが石田先生は「食べていけ」と言うので御馳走になり、お世話になっていました。そのような関係で僕は皆さんの知らない学会をたくさん知っています。
特に石田先生の話で面白いのは、池田大作を「大作!」と呼び捨てにしていたことです。おそらく、創価学会の中で池田大作のことを面と向かって「大作!」と呼び捨てにできるのは、石田先生しかいません。
影に隠れて「大作!」と言っていたのではなく、堂々と「大作!」と呼び捨てにしていたのです。石田先生は先輩です。戸田先生の生命論や、折伏経典の話は、全て石田先生が書いていたのです。
戸田先生は目が悪くて、左目は失明状態です。右目も悪くほとんど本が読めない状態です。御書講義も女の子が読みます。読ませてから、それを聞いて答えていたのです。だから石田先生がすべて書いていたのです。
支部長ができたのは、小岩支部が初めてです。小岩支部の初代支部長を石田先生がやられたのですから、戸田先生からの信頼も厚かったのです。青年部が出来たときの第一部隊長も石田先生です。
男子部隊は5千部隊までできたのです。女子は3800部隊できたのです。部隊旗をもらうと部隊長になるのです。石田先生が第一部隊長で、北条浩さんが第二部隊長です。池田大作は第四部隊の班長です。学会の系列からいっても格が違います。
石田先生から見ると第四部隊の班長に「池田大作先生」などと呼べるわけがありません。石田先生が皆に教えてきたのです。だから「大作!」と呼べるのは、石田先生一人だけです。実力ナンバーワンです。
大坂で池田大作が選挙違反で捕まったときも、石田先生が駆けずり回って、努力をして留置所から出してあげたのです。保田の妙本寺の万年救護の本尊の問題が出てきたときも、石田先生が出かけていって「あれは俺が解決したのだ」と言っていました。
石田先生は信頼されるのです。真面目にスッというから、信用されるのです。池田大作のようなほら吹きではありません。
そのような環境で5年間、過ごさせてもらったので多少は実力がついたのかなと思います。石田先生にはいろんな質問をしたのですが、僕が一番気に入ったことは「仏法は智法だ」ということです。
そして、「仏法は必ず智法なのだ」と言われました。「智法」とは、「知る法」ということです。この智法の反対の言葉が境法です。境法とは「物」ということです。「仏法は必ず智法」と言われたので、僕は納得したのです。
 御本尊とは境法です。石田先生が言う通り仏教は「智法(知る法)」です。自分が一生懸命努力して向上していかなければ、板本尊を持っていてもダメなのです。何の役にも立ちはしません。
 石田先生は大石寺の信者だから、御本尊の悪口は言いません。でも言っていることは「仏法は必ず智法」です。『現代諸学と仏法』は池田大作に教えるために書かれたのですが、学会員には智法を教えなければいけません。境法など教えてしまうから、未だに境法です。御本尊は、自分から見たら境法です。
 大事なことは、「自分がどうなっていくのか」ということです。どう変わるのか、何を身に着けていくのか、ということが仏教です。
これに僕は非常に感銘を受けました。仏教は智法です。境法ではありません。
 従って境法である御本尊を拝みまくることは間違っています。それを僕は納得したのです。石田先生は不思議な人で自分の頭ではわかっているのですが、大石寺の御本尊は否定しません。
 僕はよく石田先生と本尊論争をしたのですが、「御本尊は活字で書いてもいいのではないですか?」と言うと、「君は面白いことを言うな」と言うのです。こんなことを言った人間はいません。境法論から言ったらそうなるのです。
 本尊は教えです。本尊が教えだということは、誰が書いたとか、どの木に彫ったということではありません。内容をみればよいのです。そうすれば智法になります。
石田先生は死ぬまで日蓮正宗信者でした。最後は僕と喧嘩になったのです。喧嘩の内容は面白いのです。「君は大石寺の御本尊を信じていないな」と石田先生が言うので、「ハッキリ言って僕は信じていません」と言いました。すると石田先生は「それならば君とは縁切りだ」と言ったのです。
 石田先生は「僕は本山でお肉牙を見たんだよ。あれは肉がはえて最後は人間になってしまうのだよ」と言うので、「先生、おかしいのではないですか」と言うと、「僕は御本尊に会った瞬間にビリビリビリとしびれてしまったのだよ」と言われたのです。
 これは頭の良さは関係ありません。自分の頭ではわかっているのです。自分が体験してしまったことは消えません。石田先生は大石寺の御本尊の悪口は言いません。
 また、「御本尊とは必要悪だ」と言われていました。これは僕もはっきりと聞きました。智法から言えば、御本尊は悪用です。しかし、必要悪です。どうして必要悪なのかというと、集団をつくるためです。
 自分は創価学会の大幹部としてやってきたのですから、そのようなものがなかったらここまでやってこれなかったのです。「御本尊は必要悪」と言われています。石田先生は、みんなわかっていたのです。それを抜いたら学会はガタガタになってしまいます。
 そのような面白くすごい先生でした。「仏法は智法である」これは絶対の真理です。日蓮正宗法華講・妙観講、顕正会、創価学会もこの言葉を考えてみましょう。

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2016年08月27日

『般若心経の大予言』■執着するべき何物もない 32

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※仏教は、どこまでいっても反省行を中心とする修行しかないのです。

『般若心経の大予言』■執着するべき何物もない 32

     是故空中無色 無受想行識 無限耳鼻舌身意 無色声香
    味触法 無限界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至
    無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

「是の故に、空の中に色なく、受・想・行・識もなく、眼・耳・鼻・舌・身・意なく、色・声・香・味・触・法なし、限界もなく、および意識界もなし、無明もなく、無明の尽きることもなし。および老死もなく、また老死の尽きることもなし。苦・集・滅・道もなく、智もなくまた得もなし。得る所なきを以ての故に」

 今回この講義にあたり、市販されている般若心経の本をいろいろと調べてみましたが、ここの解説になると実に苦労されているのが分かります。本当の意味で空を理解していないから、ここにくると何が何だか分からなくなるようです。
 六根(耳鼻舌身意)の説明とか、十二因縁(無明・行・識・五陰・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死)の説明とか、四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)の説明に終始して、一番肝心な是故空中無(是の故に空の中に無し)が、十分説明されていません。
 今まで空が悟ったように思えても、ここで何も悟っていなかった事が思い知らされます。般若心経はそのように創られているのです。
 私も六根・十二因縁・四諦の説明をしようと思ったのですが、これらは皆様がお書きになられているように、どれも簡単なものではありません。私の解釈ですと別の本にしなければならないので、ここでは説明しない事にします。
 この著の読者は多分、一冊か二冊の般若心経の本はお持ちになっておられるはずですので、これらの本を見ていただければ通説の理解はできるはずだと思います。「真説十二因縁の秘密」は、別の機会に発表させていただきます。
 さて「空の中には何物もない」と、仏陀はここで云っておられます。空の中には五蘊も、六根も十二因縁も四諦もないと教えられます。これはどういう意味でしょうか。
 答えは簡単です。空は心の状態であり、悟った心が空なのですが、仏陀の胸中には何物も問題になる事がないといっているのです。仏様の立場から見れば、衆生は五蘊だ、十二因縁だ、四諦だと悟る為に大騒ぎをしていますが、全てを解決して空を得ている胸中には、そういうものすらないとはっきりと悟りを教えておられるのです。
 「執着すべき何物もない」これが仏陀の胸中なのです。我々が仏道修行して得る最終の結果が、ここにこなければならないのです。
 しかし、いくら仏陀の胸中には何もないといっても、仏陀として生存されている限り、やはり仏陀にとっても世界は存在します。山も木も岩も草も人も、我々と同じく見えるはずです。空を悟ったからといって、物質が消え去るわけではないのです。
 仏陀にも痛みも少しの苦もあります。仏は「小病・小脳」といって、少しの悩みと少しの病気ぐらいはあるといっています。
 しかし凡夫である我々と違うのは、いかなる事にも執着しないという事です。喜びも苦しみも一切執着しないのが空という事なのです。この境地を寂照ともいいます。三法印の諸行無常・諸法無我・涅槃寂照の寂照とは、こういう事なのです。
 では仏陀の胸中には、本当に何もないのでしょうか。一つだけはあります。一切衆生を仏陀とするという大慈悲だけが、光り輝いています。苦痛に沈む衆生が、六道九界の迷妄の世界を脱して、涅槃寂照という仏界に来るように、いつも考えておられるのです。
 昔、沖雅也という俳優が「涅槃で待っている」と遺言し、自殺した事がありましたが、同性愛で自殺しても絶対に涅槃にはいけません。本当は「地獄で待っている」と言わねばならなかったのです。
 仏教は、どこまでいっても反省行を中心とする修行しかないのです。世俗の事を反省し、さらに論法としての反省(これが仏教になる)をくり返し、自らの生命を変革していく以外、どこにも仏教などないと知るべきでしょう。
 今回調べていてこんな事がありました。空は「霊魂でありアートマン」であるという説です。かなり売れている本の話です。また空とは「一大心霊世界」というのもありました。また「存在の根本」ともありました。
 いずれも仏教の何たるかを、全く知らない人の説であります。仏教はどこまでいっても「一念心」を説いたものであり、一念のあり方を通じてしか仏道を成ずる事はできません。
 自分自身の一念を磨く事のみが、仏界を得る唯一の道と心得るべきでしょう。仏教は科学の亜流では断じてありません。

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2016年08月26日

人間の探究 583 板本尊について

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※原島嵩は140センチくらいです。写真で見るとわかりませんが、本当に小人です。

人間の探究 583 板本尊について

 はっきり言って、日蓮正宗が言う「板本尊を信じれば信仰が成立する」など、まったくのウソっぱちです。誰かが書き込みをしていますが、本尊論争ならば横浜にある本門寺の小野寺日了とやればよいのです。小野寺日了は皇族であり、今は自らが「法皇」と言っています。
 「万年救護の本尊を持っているから、我々が日興門流の正当派だ」と言っているのです。僕は見たからわかりますが、万年救護の御本尊はキレイなものです。刀は脇差ですが、後醍醐天皇から拝領された刀です。そこに「本門寺」と書かれた2メートルくらいの額があり、それを後醍醐天皇が書いたと言っています。
 そして、日蓮大聖人様の御骨を混ぜてつくった仏像があります。「変な顔だ」という人もいますが、いい顔をしています。長谷川和夫みたいなスッキリした顔をしています。「人形としてはいいな」と思います。
 小野寺日了は「日興門流は私が本流なのだ」と言っています。皇族は昔、みなお寺に入ったのです。小野寺日了が「皇族だ」と言ってもあながちウソとは言えません。しかも、大石寺は燃えてしまい、その後に再建された寺です。「私こそが正当です」ということになります。
 小野寺日了と論争してみなさい。相当な実力を持っているから日蓮正宗法華講員のレベルでは、なかなか論破できません。小野寺家の系図を持っているのです。文献を持っていて「日目の弟子が、こうなっている」とやるのですから、一般の人はわけがわかりません。
 だから万年救護の御本尊を持っているのが「正しい信仰だ」となってしまいます。後醍醐天皇が本門寺を受けたということは、広宣流布したということです。「直系が私です」と言われたら反論はできません。
 日蓮正宗法華講の諸君、この問題に答えてみてください。答えられないでしょう。大石寺の板本尊で会員を何百万人も集めて金儲けをしたのが創価学会です。今になってみたら「それはウソでした。あの本尊を否定します」と言い、猊下も否定して、本尊も否定したのです。
 それは否定してもよいのです。では、創価学会はどこへ行くのでしょう。それを考えていないのです。馬鹿だから考えられないのです。戒壇の御本尊を否定して、僧侶たちも否定して、「仏法の血脈などどうでもいいというのが、中杉だ」と日蓮正宗法華講員は言っています。
 学会員はどうしていいかわかりません。昔、創価学会には優れた人が大勢いたのですが、みんな池田大作がクビにしてしまったのです。僕も知っていますが、すごい人が何人もいたのですが、みんなクビになってしまったのです。
池田大作のやることは、ヤクザがやることと同じです。ヤクザの親分は身長が大きいのかと思ったら、みんな小さいのです。150センチくらいの人が多いのです。そいつらは、大きい子分は排斥するのです。自分と同じような身長の奴を集めるから、ヤクザはびっくりするくらい身長が低いのです。
体格がよくて、すごい奴がいると思うのでしょうが、そんな奴は最初の段階で消されてしまうのです。体の大きい奴が組みに入ってくると、小さい奴は「あの野郎、やっちまえ!」となるのです。
大きい奴は組で長生きしていけないのです。弱い小人のような奴が組織を登っていき、自然に親分になってしまうのです。
創価学会も同じです。いつの頃からかそうなったのです。池田大作が145センチです。原島嵩は140センチくらいです。写真で見るとわかりませんが、本当に小人です。僕は165センチですが、原島嵩に会ったときに、20センチくらい小さくなった気持ちで接触しないと申し訳ないような感じです。そのくらい小さい男です。少しくらい小さいならあまり違和感はありませんが、本当に小人ですから、僕も小さくなって話を聞いたものです。
池田大作の周りには、そのような小人が集まってしまったのです。小人は中身も小人です。世界的な教義などつくれる連中などいやしません。皆、イエスマンで上を見て、チョロチロ動いて、「給料が多いか、少ないか」そんなことばかり考えたきた奴らばかりですから、本当の意味での教学など生まれるわけがありません。池田大作が優秀な人材の目を摘んでしまったのです。
創価学会にはすごい人がいたのです。みんないなくなってしまったのです。だから教学ができません。それが今の学会です。教学なしの学会です。だから選挙が中心になってしまったのです。
「学会活動は選挙活動である。学会活動とは徒党を組んで筵旗(むしろばた)をあげて、政権政党に食い込んで、自分たちの生活を改善して、国家の予算をむしり取ることが創価学会である。多くの学会員を公務員にして、警視庁5千人、警察庁に1千人、送り込んで徒党を組んで国家の権力を奪う!」そのような仕事をしているのです。それが学会活動だと思っているのです。
だから学会活動の中には仏法はないし、創価学会員は仏教を信じていません。「仏法を信じる」ということは、大石寺の御本尊を信じることが信仰の中心のはずだったのです。それがなくなってしまったから、もう何を信じてよいのかわからないのです。
よく考えてもらいたいのです。日蓮大聖人様は「世みな本尊に迷えり」と言われています。世の中は本尊に迷っているのです。これを勘違いして、日蓮正宗法華講員は「一閻浮提の本尊を日本全国に知らしめることが信徒の役割だ」と言っていますが、そんなことではありません。
「本尊に迷えり」ということは、釈迦を本尊にするのか、阿弥陀仏を本尊とするのか、大日如来を本尊とするのか、そこで造られた仏像は人間が造ったものであり、「どこの本尊がよいのか?」と言っているのではありません。「何を本尊にするのか?」ということが、「本尊に迷えり」ということです。
釈迦像を造って釈迦像を拝めば、釈迦仏教です。それでいいのでしょうか? 何故、釈迦仏教があるのに、大日如来が出てくるのでしょう。大日如来は大日如来像を拝むのです。
釈尊がいるのに、念仏宗は阿弥陀仏を本尊にして拝んでいます。これを「世皆本尊に迷えり」と言っているのです。大石寺の本尊を信じない連中を「本尊に迷えり」と言っているのではありません。もっとしっかりしてください。
学会は本尊がなくなってしまったから、学会の本尊は公明党です。公明党が天下を取って、日本政府のお金を分捕り、幹部が自分たちが使うのです。創価学会を天下取りの道具にしてしまったのです。
今の創価学会は、宗教を語る日蓮宗を語る一大宗教詐欺集団です。実は「政治学会公明党」です。いい加減に騙されないようにしましょう。選挙運動をやっているということは、共産党と同じです。
共産党も徒党を組んで、国家の金を我が物にしようとしているのです。徒党を組んで国家のお金を取りたいのです。日本国を乗っ取りたいのです。そんな馬鹿な仏教はないし、そんなものは日蓮大聖人様の仏教ではありません。創価学会員は、いい加減に目を覚ましなさい!

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2016年08月25日

人間の探究 582 大石寺について

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※天皇陛下に与えるはずだった、大石寺の紫宸殿御本尊

人間の探究 582 大石寺について

 富士山本門寺の小野寺日了は「こちらが本物だ!」と言っています。それも歴史を知らないとわからない話です。
 日蓮大聖人様が御入滅されたあとに、身延山の地頭波木井実長が釈迦の仏像を造ってしまいます。そこで日興聖人は「地頭が謗法(ほうぼう)ならば、日蓮が魂は身延には住まず。」という日蓮大聖人様の遺言に従って身延山を降ります。
まず身延山を降りた日興聖人は南条郷の原っぱに帰ります。そこが日興聖人の本貫地です。地元に帰って親戚(地頭)に蓮蔵坊を建ててもらったのです。日興聖人が住むということで、大石寺ではなくずっと蓮蔵坊といったのです。いつから大石寺になったのでしょう。
 日興聖人は、「これは坊だから、4キロ先に本門寺を建てなければいけない」ということで、約4キロ離れた北山に本門寺をつくって「本門寺」といったのです。そこが中心です。日興聖人も8年間準備をして北山本門寺に移られたのです。日興聖人は30年間もずっとそこにいたのです。大石寺などありませんでした。
 北山本門寺に日蓮大聖人様の御骨も、日興聖人の御骨もあります。だから代々北山本門寺の連中は、「俺たちが正当だ」と言っているのです。大石寺など連蔵防跡に建てられたなんだかわからない寺だったのです。
 北山本門寺は、「身延派」ではなく「富士門流」といいます。身延山はもっと大きい宗派ですが、北山本門寺は、地元で広まったから「富士門流」といいます。
 もう一つあります。西山本門寺も造ったのです。何故かというと日興聖人の弟子がいるからです。「お前は北山本門寺をやれ」「お前は西山本門寺をやれ」「お前は蓮蔵坊をやれ」ということですから、代々大石寺に日興聖人の教えが伝わってきたわけではないのです。
 小野寺日了の主張に耳を傾けてごらんなさい。「万年救護の本尊を持っているぞ!」といいます。日興門流の流れにすごく詳しいのです。小野寺日了は「日目と血筋がつながっている」といいます。良く知っています。それを日蓮正宗法華講員はどう思うのでしょう。
 本尊のことに触れると、日興聖人が身延からバカでかい200貫くらいある本尊を担いで来れるはずがありません。百貫坊という弁慶のような坊主がいて、「身延山から御本尊を担いできた」という話になっていますが、いい加減な話です。
 本尊とは、「紙幅(しふく)」=紙なのです。それはもってきたかもしれませんが、それについては五人の弟子は何も言っていません。日蓮大聖人様は六老僧と言っているのですから、六老僧のみなに教えてもいません。
 日蓮大聖人様は「これが御本尊だよ。これを拝まなければいけないのだ」などと、一言も言っていません。六老僧は本弟子です。日興聖人だけにコソコソと「お前だけに言っておくけれども、これが本尊だ」と言うなどあり得ません。
 六老僧が「これが日蓮大聖人様の表された本尊だ」と言うならばともかく、いつの頃からか大石寺がコソコソと楠で板本尊をつくったのです。そのことを知っているのでしょうか。そのようなことを知らないで、小野寺日了のところへ行くから何も反論できないのです。
 小野寺日了は、僕も胡散臭いと思いますが、実際はわかりません。本当に後醍醐天皇からもらった物をもっているのです。後醍醐天皇から、「本門寺」という書をもらったというのは大変なことです。後醍醐天皇は南朝の天皇です。
 天皇からもらったということは、広宣流布したということです。だから後醍醐天皇が書いたという書の額を小野寺日了は持っているのです。冗談ではありません。後醍醐天皇はれっきとした天皇です。その天皇陛下が持った寺ですから、「法華本門寺はここです」という主張です。
 大石寺には何もありません。一つあったのです。それは「紫宸殿御本尊」です。これは広宣流布した暁には、天皇陛下に受持する御本尊です。それも日顕が「そんなものはない。弟子と師匠がもっていたから紫宸殿御本尊というのだ!」と、否定してしまいました。これは日顕のウソです。「紫宸殿」とは天皇の居場所のことです。
 それだけ見ても大石寺は滅茶苦茶です。大石寺は九歳の子供が跡を継いだこともあるのです。貫首さんがだれもいなくなってしまい、近所からみつけてきて、「お前、管長になれ!」と九歳の子供に管長をやらせたり、大工が管長の跡を継いだり、また他宗の門徒である京都の要法寺から、九人の貫首が出ています。もう滅茶苦茶だったのです。
 小野寺日了によれば、「日蓮の遺命である本門戒壇はすでに存在し、大石寺は、焼失したのち別の寺として再建されたものであり、日蓮の法脈は伝わっていない」ということです。
 戦前、大石寺は朝鮮人の宿舎になっていて焼失してしまいました。第62世日恭は焼死です。
 「次に、日恭上人の焼死の御事について述べておく。
 日恭上人は、昭和二十年六月十七日の夜半、大石寺の庫裡・客殿の焼失の時、管長室において焼死あそばされたのであるが、まず、その出火からいえば、大石寺大奥の管長居室は二階建ての座敷であって、その三間ほど隔てたところに応接室の対面所という建物があった。
 世界大戦もようやく苛烈になってきて、陸軍では、朝鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめていたが、大石寺もその宿舎となったため、数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊しておった。そして、これを訓練する将校が、二十数名も対面所に宿泊していたのである。
 ちょうど、静岡市空襲の暁に、これらの兵隊がガソリンを撒布して、将校室となっていた、その対面所の裏側の羽目に火をつけたのである。そのため、火は一瞬にして、建物の全部に燃え上がったのである。それがために将校は、身の回りの物をもって、わずか三尺の縁側の外に逃げるのがようやくであったのである。火は、やはりほとんど同時に、管長室に燃え上がったのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破って、これまた、ようやく逃がれたのである。
 この時には、一山の者が駆けつけたが、もはや、手の施しようもなかったのであって、たちまちのうちに二階建ては焼失してしまったのである。
 一同は、それよりも延焼を防ぐべく努力したが、ついに客殿、書院、土蔵を灰塵に帰せしめたのである。この間、兵隊は三門に待機して、将校が監視していたのである。まったく終戦前夜の様相であった。
 夜が明けて、さっそく管長室のあたりを調べたところ、日恭上人の御遺骸を灰の中に見出したのであった。一山の大衆はじめ村人も、ただただ涙にくれるばかりであった。それで、その御遺骸を、慎んで御墓所に埋葬申し上げたのである。何にせよ、夜を日についでの空襲に、戦火相次ぐ時、葬送は一山と近隣の村人で虔修したのである。」
『日蓮正宗布教会編・悪書板本尊偽作論を粉砕す』

 このような事実を日蓮正宗法華講の連中はわかっているのでしょうか。僕のフブログを読んで「筋が通らない」という人は頭が狂っているのです。ちゃんと筋が通るように書いているのです。

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2016年08月24日

人間の探究 581 日蓮正宗法華講員に対する破折

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※法華経

人間の探究 581 日蓮正宗法華講員に対する破折

 最近、「日蓮正宗法華講」と名乗る人から正理会に様々なメールがくるようになりましたが、低レベルでお話になりません。
 全く物事が理解できない人々です。言ってくることは一つです。「正理会の三大秘宝とは何か」「中杉さんは誰から相承を受けたのか」と、とぼけたことを言っているのです。この答えは簡単です。我々もそれに対してきちんと反論してあげていますが、反論されていることすらわかりません。
 「仏教における僧とは何か?」ということをちゃんと答えてあげているのです。僧の原理というものがわかっていないのです。僕は原理から答えてあげているのです。「そこから現在を考えなさい」と言っているのですが、わからないのです。
 僧というものは、仏道を目指す者の集団であり、仏道を極めるためには家や社会的なつながりを絶たなければ仏道は求められません。家のことが気になったり、社会における地位が心配だったら、仏道など求められません。だから、「すべて捨てなさい」ということです。
 社会的地位も家も名前も捨てるから、ホーリーネームをくれるのです。「私は伊藤太郎です」というと、「名前は捨てなさい。仏弟子になったのですから他の名前をあげましょう」というのが、ホーリーネームです。
 ホーリーネームが戒名になるのです。何故、生まれたときの名前ではなくて、他の名前になるのでしょう。戸田城聖先生は「わしは戒名はいらん!」と言われたのです。本当に仏教がわかっているから、「戒名なんて迷惑だ!」と言っていたのです。
 死んであの世にいったら、「戸田城聖君かね」と言われたら「はい、そうです」と言えますが、なんだかわからない戒名をつけられて「○○阿闍梨」などとつけられたら、「わしもわからんよ。面倒くさいから戒名はいらん」と言われたのです。戸田先生は本当の仏教がわかっている人だとわかります。
 そこで社会的身分も家も捨てて僧になると、それだけやれというのではありません。原理はそうです。「そこから考えてみなさい」と言っているのです。今になって、「阿闍梨様」「法主猊下様」「法主上人」「貫首様」「御前様」など、何を言っているのでしょう。そのような意味で言っているのです。
 「釈迦仏法の入り口をそのまま現代でやりなさい」と言っているわけではありません。仏教の発祥からみて、よくわかったうえで、それが社会的に編成されていきますが、原理はそうなのです。
 坊さんとは脱社会です。脱社会をした人が集まったところを「サンガ」と言ったのです。お堂、集団という意味です。
 僕はそのようなものの考え方をしています。現代の坊主に、「一銭ももつな!」と言っているのではありません。原点はそこにあるということを忘れてはいけません。
仏教とは何を説いたものでしょう。これも原点です。お釈迦様は最初に何を説いたのでしょう。それすらわかっていません。仏教とは四諦の法門を最初に説いたのです。四諦の法門とは何でしょう。「四つの悟り」という意味です。「四つの諦」と書いて「四諦の法門」と言うのです。
それは、「生老病死」ということを説いたのです。生まれるのは苦、生まれたものは必ず年を取っていきます。「いつまでも若くいたい」と思ってもどんどんと年を取っていくのです。年を取って老いていくことは苦痛です。最後は病気になります。これも苦痛です。死ぬときもまた苦痛です。癌になれば、全身に管を入れて麻薬を撃たれ、頭が狂い発狂して死ぬのです。痛みだけが止まりますが、頭が悩乱して真っ暗な部屋で死ぬのです。
「生まれるのも、老いるのも、病気になるのも、死ぬのも苦である」と悟るから、「四諦の法門」といいます。これが仏教の原型です。人生は生老病死の幕を追っていくのです。「僕は何とか苦しみのないように変わりたい。生まれるのも喜び。生きているのも喜び、病気になるのも喜び、死ぬのも喜び」このように変われればよいのです。仏教の救いとは、そのようなものです。
お釈迦様が最初に説かれたのが、四諦の法門です。これは今でも変わっていません。「これは小乗教だ」などとくだらないことを言うものではありません。この原理は何も変わっていません。
それは宇宙の法則とも言えます。誰も生老病死を避けることはできないのですから、宇宙の法則です。自分以外のものにあてはめると成住壊空といいます。宇宙ができたときが「成」、宇宙がいまある状態を「住」、宇宙が壊れるときがある「壊」、そして無くなるときがある「空」です。
人間も生老病死ならば、宇宙も成住壊空です。言ってみれば当たり前ですが、みなそう思っていません。「私はサプリを飲んで、どこまででも長生きをする」と言い、ドクター中松も「120歳まで生きる」と言います。中国ではこの間、260歳のジジイが発見されました。「自分だけは長生きする」「自分だけは死なない」と思っているのです。
この宇宙の法則は王様であろうと、乞食であろうと、生老病死です。地球も月も太陽も成住壊空です。そこから物事を考えていくのが仏教です。これは今でも同じです。何も変わっていません。
ところが時代が下るにつれて、人間は殺したり首を斬ったりしているのですから、のんびりしたことも言っていられません。その荒ぶる時代に「どのように仏教をわからせたらよいのか?」ということを皆が考えたのです。
竜樹が空を説き、天台大師が摩訶止観を説き、その時々にあった同じものをわかりやすく説いているのです。釈尊が法華経を説いたのもそのような意味です。初期の法華経の中には阿弥陀経も入っていたのです。法華経は仏教の集大成で8万6千巻も経典があったのですから、何を説いているのかわかりません。
「目次とエッセンスをつくりたい」と知恵ある者が考え、「仏教とは妙法蓮華経を説いたものなのだ」とわかったから、それに関連する素晴らしい教えを三十二章にまとめあげたのです。無量義経を入れて二十八品が法華経の原点です。最後の仏説観普賢菩薩行法経を入れて「法華経」としてまとめたのです。
無量義経は「法華経」とは書いてありません。仏説観普賢菩薩行法経も「法華経」とは書いてありません。真ん中の二十八品だけが、妙法蓮華経から始まります。
すべてある教えを集大成して、エッセンスをまとめて妙法蓮華経とつくられたのです。初期の頃は阿弥陀経も入れていたのです。後になってはずしたのです。
真言密教は「妙法蓮華経 陀羅尼品第二十六」です。空を説いた教えも法華経にあります。法華経の中で「何が有難いのか?」という論争になったのです。「妙法蓮華経 如来寿量品第十六は何が有難いのか?」というと、「仏の寿命は無量である」と説いたことです。
だからこれが一番有難いのです。教学的なことは、「妙法蓮華経 方便品第二」で説かれています。「何が一番有難いのか?」それは仏の寿命が永遠だということです。仏の寿命が永遠ということは、我々の命も永遠です。
それはすでに最初に説いた生老病死を脱した教えです。生老病死は苦しみです。それを脱して、仏の寿命が永遠であることを明かされたのが、「妙法蓮華経 如来寿量品第十六」です。「我らも死ぬように見えても、死は方便です。実は永遠に我々は生き続けているのです」と説いたのが如来寿量品です。
これが法華経というものです。日蓮大聖人様も「法華経を信じる行者である」と言われたのです。法華経を真剣にやってきたのです。「法華経を広める人間は難に遭う」と言われて、その通りになったのです。
佐渡島に流されて、自分の人生を振り返って、「私は釈迦仏法を修行するものではない。この末法において大白法を建立するために生まれたのだ」と気が付いたのです。そして、日蓮大聖人様は南無妙法蓮華経を建立されたのです。
南無妙法蓮華経の意味は二つあります。一つは法華経に帰命するという意味です。そのように考えるから身延山久遠寺の坊主は釈尊の像をつくり「南無妙法蓮華経」というのです。法華経に帰命するという意味が南無妙法蓮華経です。
日蓮大聖人様の仏教が知りたければ、「御義口伝」を読んでください。何と書いてありますか? 日蓮正宗法華講員は「御義口伝」を読んでいるのでしょうか? 南無妙法蓮華経と妙法蓮華経は、まったく違います。今はあえてこの説明しません。
前に僕が書いたところを読んで勉強してください。こんなことは常識なのに、それもわからずして、「ご法主猊下」「坊さんではない、ご僧侶と言え!」などと言い、なぜ坊主にはいつくばっているのでしょう。
僕は別に坊さんを否定してはいません。本来なら、坊さんは妻帯してはいけないのです。酒も飲んではいけないし、女がウロウロしてはいけないに決まっています。しかし、だからといって全面的に否定などしません。それでいいのですが、在家よりも坊さんが偉いということは、ひっくり返ります。
在家にも、維摩詰という人がいて、釈迦の十大弟子が参ってしまったのです。維摩詰は、商人で坊さんではありませんが、誰が論争をしかけても敵いません。維摩詰が来ただけで釈迦の弟子が「うわー!」と逃げてしまうのです。そのような人もいるのです。
あえて言えば、僕は維摩詰のような存在です。何の教祖でもありません。当たり前のことを当たり前に言っているのです。「狂った頭を直さなければいけない」と言っているのです。そうしなければ仏教の極意はわからないし、日蓮大聖人様が何を説いたのかわかりません。
君たちの頭では、煩悩即菩提、生死即涅槃、諸法即実相、色心不二、何もわからないでしょう。説明してみてください。このようなことを極めて原理を体得して、「日蓮大聖人様のご真意はこうだ!」と理解したのが僕なのです。
「尊敬しなさい」とは言いませんが、勉強しなさい。それを「三大秘宝とは何だ。答えろ!」などと、馬鹿な質問をするものではありません。目を覚ましなさい。何度でも答えてあげますが、もっと広く深く勉強しなさい。そうしなければ仏教はわかりません。

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2016年08月23日

人間の探究 580 日蓮正宗法華講の沼田君、御答えを読んでいますか?

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※保田妙本寺の万年救護の本尊

人間の探究 580 日蓮正宗法華講の沼田君、御答えを読んでいますか?

 最近、日蓮正宗法華講員から「これに答えろ!」という質問が入っていますが、これに答える前に、貴方がたは僕のブログを読んでいるのでしょうか? ます、それを問います。僕はブログを書いていますが、みなテーマを決めて書いています。
 最近の問題では国家と仏教について書いています。要するに神道と仏教の問題です。この問題にきちんと答えを書いてあげているのです。それを読んでいるでしょうか。
 仏教の大事なことと思われることをみな書いてあげています。それに対して何も答えはありません。読んだならば「ここが間違っている」と言わないと議論は深まりません。僕の言っていることは、まず100%間違いはありません。
 「三大秘宝」「一大秘法」と質問してきているのですが、それに対して答えを出してあげているのですが、それすらわかっていないでしょう。日蓮大聖人様の123体の御本尊の中で、「本門戒壇」と書かれた御本尊は一体しかありません。これは保田の妙本寺にある万年救護の御本尊と言われる本尊です。それとの関係性についても君たちは答えていません。
何故、弥四郎国重の本尊が「戒壇の本尊」なのでしょう。保田妙本寺の「万年救護の大本尊なり」と書かれた本尊を否定するのでしょうか。本尊に特殊な法力がかかっているならば、武田勝頼にかっぱらわれたりしません。それを誰かが質に入れて、保田妙本寺から、万年救護の本尊が出てきたいう話はあり得ません。そんなものを神秘的なものだと僕は思っていません。
 外道のキリスト教の神を、僕は神だとは思っていません。このキリストがなぜ信じられたのかということを教えてあげていますが、なぜ見抜けないのでしょう。キリストが出てきたのは、ローマ帝国に対する反逆です。ローマの市民にとって皇帝はありがたいものでした。お風呂は無料、劇場も無料、ビールも無料、パンも無料、ローマの市民にとって皇帝はまさに神です。
 反対に奴隷にとって皇帝は悪魔です。奴隷と市民は全く違います。奴隷はただ働いて奉仕するだけです。それをローマ市民が享受するという構造です。だから奴隷は「我らも神が欲しい」とキリストを持ち上げたのです。キリスト教が伸びてきた一番の原因はそこにあります。
 虐げられれば虐げられるほど、奴隷たちは自分たちを虐げるローマ皇帝を拝みません。他の者を拝みます。それがキリストです。そのようなことをちゃんと教えてあげているのです。「宗教とはそのようなものか」という理解が大事です。
 「一大秘法」などにこだわっていると、そこまでの宗教の理解ができません。「三大秘宝とは何か?」など、なぜそんなことを問題にするのでしょう。我々は全くそんなものを問題にしません。我々は大僧正、猊下、貫首など認めません。「馬鹿馬鹿しい形に仏教をもっていったのは誤りだ」と言っているのです。本当の日蓮大聖人様の仏教はそんなものではありません。
 「三大秘宝」などちゃんちゃらおかしいのです。本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇など観念論です。
もし、三大秘宝があるとするならば、それは我らの心の中にしかありません。そんなものを国の中心にそえて拝めば「国家安泰になる」など、間違った考えです。
 僕はすべてのインチキの宗教を破壊しています。人間性を貶める宗教は大嫌いです。もちろん、念仏、禅宗、真言宗、律宗も大嫌いです。四箇格言の通りです。日蓮正宗まできて、まだ「本尊に迷えり」なのです。
 「本尊に迷えり」とは、「何を根本にすればよいのか?」ということを迷っているのです。「この本尊に迷える」という意味ではありません。「仏道修行者は何を本尊にしていけばよいのか?」それは、南無妙法蓮華経が本尊です。そんな簡単なことを教えてあげているのにまだわからないのです。
 宇宙にゼロはありません。こんな自明の理を沼田さんはわかっていますか? それと同じで仏教の悟りは宇宙にはありません。宇宙にゼロがなければ仏教の悟りも宇宙にはないのです。ないものをわかっていくことが信仰です。
 「南無妙法蓮華経はこの御本尊だ」というものが、あるわけがないのです。これを言うならば、「生老病死」とお釈迦様が言いましたが、「生老病死はどこにあるのか?」ということと同じことです。お釈迦様が石像をつくり、「これが生老病死だ。これを拝め」と言われることと同じことです。
 南無妙法蓮華経と生老病死は同じことです。その時代と応用の仕方により文句が変わってくるのです。生老病死と南無妙法蓮華経が同じものだと沼田君にはわからないでしょう。違うものだと思っているでしょう。
 末法の人間が生老病死を理解することは簡単です。南無妙法蓮華経と同じことなのです。それと同じで天台大師の一念三千の法理と、妙法蓮華経と、南無妙法蓮華経は同じものなのです。すべて仏様のお悟りです。仏様の悟りが違うなどあり得ません。同じものをみな悟っているのです。
 その時代に応じて、或は言語の違いによって、内容の表現の差はありますが、中身は同じものなのです。妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の違いについて、沼田君たちはわからないでしょう。君たちの教学は、まったくトンチンカンの方向へ行っています。日蓮正宗法華講は本尊奴隷、坊主奴隷です。そんな宗教は間違っています。
 その宗教を信じることにより生から解放されて、宇宙の根本に到達していくということが、本来の宗教です。君たちの質問はレベルが低くて仕方ありません。「正理会の三宝は何か?」そんなものはありますが、三宝とは大事にするという意味の「お宝」です。
 正理会の三宝は、杉田昭二作「龍神刀」です。君たちに見せることはありません。これは宝刀であるが故に見せることはしません。もう一つあります。「龍神」が正理会にはいます。ヒスイに彫った5キロの龍神です。もう一つ、うっちゃんがいます。
 「うさぎの神様のようなうっちゃんとは何か?」と質問してきた人がいます。うっちゃは、いつの頃からか正理会に来た神様です。君たちが言う神様ではありません。精霊界に通じている神様です。
これをあえて理解させようとするならば、三島由紀夫の『金閣寺』という小説の中にあります。「金閣寺の上には鳳凰がいます。この鳳凰は本当の鳥なのでしょうか。空を飛ぶ鳥と、金閣寺の鳳凰では、どちらが本当の鳥か? 普通の鳥は空間を飛びます。金閣寺の鳳凰は時空という時を旅しています。本当の鳥とは鳳凰ではないのか」三島由紀夫は、このように解釈しています。
 そのような解釈をしてみればわかります。うっちゃんは神様と言っても考え方が違います。時空を旅している精霊界の神様です。これは作り物だからこそ精霊界なのです。生きている物は動物の宿命を負っています。そのような意味での軽い話です。
 龍神様はヒスイでできています。正理会に逆らうと龍神様が大罰を与えにいくのです。これはあるかもしれません。正理会に龍神様が来た話は、僕のブログに載っています。これもよく読んでごらんなさい。とにかく、もっとレベルをあげなさい。
 正理会で御本尊セットを販売していると言っていますが、御本尊は修行のアイテムです。法華経も修行のアイテムです。初心の人は南無妙法蓮華経が何もわからないので、そのような初心の修行者に修行のアイテムとしておわけしています。「これが神様だ」「絶対に帰命するものだ」ということではありません。
 我々が考えている絶対に帰命するものは、南無妙法蓮華経だけです。御本尊にもインドの神や、鬼子母神も入っていますが、そんなものを我々は信じていません。「南無妙法蓮華経 日蓮」だけを頂いています。
 この国には日本の神様がいますから、インドの神はいりません。

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2016年08月22日

人間の探究 579 「200年先を見よ!」という創価学会

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※仏教は百済人達により日本に入ってきたのです。しかも最初に来たのは経典ではなく、「これを拝んだら如何でしょうか?」と仏像が入ってきたのです。ここに重要な意味があるのです。

人間の探究 579 「200年先を見よ!」という創価学会

 ここのところ創価学会は汚点が2点出ています。自民党と共に舛添要一を推薦したことは、見事な失敗で大恥をかきました。次は増田寛也を応援して、これは見事に落選しました。創価学会はやることなすこと滅茶苦茶です。
 このことを指摘して学会員に聞くと「200年先を見ていなさい!」と言います。このようなことを言うようになったということは、学会は理論的に破たんしたのです。どうしていいかわからないのです。今、何を頭に立てて戦っていくのかということがわからないのです。
昔はスッキリしていたのです。大石寺の御本尊を世界に広めることが目的であり、そのために魔と戦うのが公明党です。
 ところが創価学会本体が壊れてしまっているのです。何をする団体なのか、わけがわかっていません。「池田大作会長のお言葉を永遠の指針にする」と言っても、本人は口も聞けなくなって歩けないのですから、何も発言できません。ある程度の推測はつきますが、死んでいるか、生きているかはわかりません。
 ともかく、創価学会は中心軸がなくなってしまったのです。誰が学会員を指導するのでしょう。東大出身の原田稔会長が指導するのでしょうか? 誰も原田の言うことなど聞きません。頭がいいか知りませんが、池田大作のイエスマンの腰ギンチャクです。
 原田稔は昔、新宿で飲み歩いていたのです。原田のグループがそろって、毎晩新宿を遊び歩いていた時期があったのです。ホステスのいる店に行って飲み歩いていたのです。僕もちょうど新宿で飲み歩いていたころで、エレベーターで原田とバッタリ出会ったことがります。原田は学生部の時から頭の真ん中にコブがあったのです。それがいつの頃からかコブを取って、いつの頃からか会長になったわけのわからん男です。この男がどのような指導者なのでしょう。創価学会には誰も中心点になる人物はいません。
 創価学会は理論的に破綻しているのです。「広宣流布とは何か?」「仏教とは何か?」「日蓮大聖人様と他の仏教との関係」「世界平和と創価学会の目的」もわかりません。
 なぜかと言うと、創価学会は最初に「日本」ということを落としてしまったのです。「日本」と「天皇」が抜けているのです。日本の伝統とは、天皇に行きつくのです。天皇は誰がつくったものでもなく、昔から天皇はいるのです。
 日本の歴史は天皇から出ています。文化、文芸、伝統、和歌、ものの考え方など、すべてのものが天皇を発祥としています。それを創価学会は最初から落としてしまったのです。
 「日本に天皇はいらない。わずかな小島の主だ。日蓮大聖人様の仏法が広まれば、天皇などなくなるのだ」このような考えですから、皇室を敬わないのです。それと同時に日本の歴史を教えません。民族の歴史も教えません。日本古来の古事記も日本書紀も教えません。
 創価学会員は何も知りません。一番教えなければいけない「日本」ということが、創価学会の教義から抜けているのです。「文化大恩ある韓国。我々は東洋の人々と仲良くしなければいけない。インドこそが仏教伝来の国である。次に中国に来て、朝鮮に来て、日本に来たのだ。世界の大国はインドだ」と言うのです。
 創価学会はしばらく前に、「インド展」をやりました。東南アジアの法華経を集めて「大法華経展」という展覧会を開催したのです。もうどうしていいかわからないのです。結局、日蓮大聖人様ではなくて、「法華経に帰ろう」と言い出したのです。
 創価学会は日蓮正宗と喧嘩をして波紋になってしまいました。そちらには行けないから、「法華経の原点に帰ろう」ということです。それでも上手くいきません。その原因は簡単です。創価学会から「日本」「天皇」というものが落ちた教学をつくってきたので、結局仏教同士の争いになってしまい、どこに中心点をもっていけばいいのかわからないから、教学が「無国籍」になってしまうのです。だから教学に何も訴える力がないのです。
 きちんと「仏教とは人々が成仏するためにあるのだ」と教えないから、目標がなくなってしまったのです。だから「お仲間宗教」になってしまったのです。
 主張するものは何もありません。ただ学会員が口で言っている「世界平和」とは、抽象的な言語です。今、世界各国でISISが暴れまくっています。ロシアとウクライナの紛争、中国が尖閣列島の領海侵犯をしています。争乱ばかりです。世界平和とは、お題目だけです。「どうしたら世界平和ができるのか?」という路線は何もありません。そのようになってしまったのです。
 創価学会は何を目指して進んでいくのかわからなくなってしまったので、「200年先を見ろ!」と会員に教えたのです。これも抽象的な言語です。今のことが何も言えないから、「200年先を見ていなさいよ。必ずわかる時がくるから」と教えて、会員を騙しているのです。「200年先?」今は何もないということを証明しています。
 これは無責任な言葉です。その言葉を聞いて僕は「遂に創価学会も200年先と言い出したな」と思いました。「200年先」と言うならば、それには重要な理念がなければいけません。創価学会は理念が何もありません。哲学がないということです。あったとしても、低級な哲学です。仏教がなんたるかも知りません。仏教が何であるのか知らないということは、「日本神道とは何か?」ということは、まったく知りません。
 「神社は悪魔である」と言い、ばかげたことを言ってきた創価学会に神罰が下っているのです。「日本」を教義の中に入れておけば、いくらでも立ち直れます。今は日本的なものがどんどん目覚めてきています。すると創価学会はどんどん薄まってしまいます。学会の主張に「日本」はありません。
 今回の都知事選では桜井誠さんが11万票も取りました。学会の主張は、どんどん薄くなってきているのです。自民党と組んで舛添を押して、増田を押してきたけれども、ろくでもない結果です。小池百合子さんに票が集まってしまいました。創価学会は未来が見えないのです。だから、「200年先を見ろ」と言うのです。学会員は「200年先を見ていなさいよ、わかるから!」と言います。200年先は何もわかりません。
 これは日蓮正宗も同じです。日蓮正宗の過ちも天皇がありません。本来、「開かずの門」は、天皇陛下の勅使門です。そこを天皇陛下の勅使が通り、広宣流布を宣言するという約束だったのに、いつの間にかそれを言わなくなってしまったのです。
 日蓮正宗は創価学会と結託して「天皇」を抜いてしまったのです。大石寺には紫宸殿御本尊がありました。「紫宸殿」とは、天皇陛下に与える御本尊です。それを日顕が「そんなものはありません。紫宸殿とは、師匠と弟子が一緒になってつくる御本尊だ」などと馬鹿なことを言ったのです。天皇に与えるのが「紫宸殿」です。そのための御本尊があるのに、そのようなウソを言ったのです。日蓮正宗も現罰が出てきたのです。
 樋田昌志君、君は天皇をどのように考えるのかね。君たちの頭の中には天皇はないだろう。天皇がないということは、日本の歴史が抜けているのです。だからダメなのです。
 仏教伝来は538年です。仏教とは蛮神=異国の神です。その前から日本には神道がありました。2800年の歴史があるのです。仏教は百済人達により日本に入ってきたのです。しかも最初に来たのは経典ではなく、「これを拝んだら如何でしょうか?」と仏像が入ってきたのです。ここに重要な意味があるのです。
 「日本以外の他の国ではこの仏像を拝んでいます。日本も拝んだらどうでしょうか?」と百済人が言ってきたのです。天皇は悩んで蘇我の一族に拝ませたのです。それが日本の仏教の始まりです。
 仏教の基本は偶像崇拝です。教義は後からきたのです。教義は滅茶苦茶です。様々な教えが八万四千もあります。法華経の中に昔は阿弥陀経が入っていたのです。法華経二十八品とは、仏教を整理してまとめてエッセンスをつくり集大成したものです。だから阿弥陀経も入っているのです。
 般若心経も入っています。真言密教も陀羅尼品に入っています。法華経の中には入っているのです。それがお互いに矛盾したことも言っているのです。教義はわかりません。「まだあります」とどんどんつくっていくのですから、仏教の実像がわからないのです。
 日蓮大聖人様の言われた法華経とは、法華経二十八品ではありません。その奥にある南無妙法蓮華経という教えを取り出されたのです。法華経二十八品は究極のところは、一品になるのです。だからみな「妙法蓮華経 如来寿量品」と「妙法蓮華経」をつけているのです。それをさらに統一されたのが、南無妙法蓮華経です。日蓮正宗法華講の樋田昌志君も、沼田君も、そのようなことをよく勉強してください。

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