2017年02月23日

人間の探究 707 六根清浄の事

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※日本でも昔から富士山に登る、大山に登るときには杖をついて「六根清浄、六根清浄・・・・」と唱えながら登ったのです。

人間の探究 707 六根清浄の事

 法師功徳品第十九「六根清浄の事」があります。日本でも昔から富士山に登る、大山に登るときには杖をついて「六根清浄、六根清浄・・・・」と唱えながら登ったのです。その意味をわかっていないのです。意味はわかっていないけれども、その言葉を呪文のように唱えて山に登ったり、或は滝に打たれる人もいます。お滝行をやるときも「六根清浄、六根清浄、・・・」と唱えながら滝の中に入ります。
 すると寒さも暑さもわからなくなるそうです。修行には荒行、山行、滝行があります。山に登るのも、滝に打たれるのも苦行です。何故、このようなことをやるのかというと、「自分の体は汚い」という前提条件があります。
 清浄の反対は不潔です。生きていると人間には垢(あか)がたくさんついています。この垢をすべて取り除いた状態が成仏です。人間は汚れているのです。1日過ごせば汚れます。10日過ごせばもっと汚れます。だからお風呂に入るのです。昔はお風呂に入る習慣がなかったので、滝に打たれたり、冬でも水行で体を清めたのです。
 日本神道ではこれを禊(みそぎ)といいます。頭から水をかぶったり、海水をかぶる、池の水をかぶる行もあります。体についた汚れを落とすことが修行です。
人間は楽をしたいものです。安楽なことをやりたいのです。その心を打ち破るために山に登るのです。山道を登るのは苦行です。山登りとは、道なき道を登るのです。真冬に海水を浴びる禊も体がプルプル震えます。体についた汚れを落とし、楽になれた体を鍛えるために、水をかぶったり、山登りをして体を丈夫にするのです。
 いずれにしても目的は体の汚れを落とすことです。六根とは我々の生命の姿です。生命は目があり、耳があり、鼻があり、舌があり、身体があり、意思があります。これを六根といいます。
 命というものが発動するときには、必ず目がなければいけません。そうでないと命が発動したことにはなりません。何もない無生物の状態から生命が出てくるのです。生命が出てくるときには外界と自分を区別しなければいけません。区別するから生まれたのです。
 「山の中にいるのです」と言っても「山のどこにいるのだ」と聞かれて「山と一体です」と言われれば生命とわかりません。生命は区別するのです。分別してこの世に出てくるのです。下界に下ることを下天ともいいます。
 そして、赤ちゃんが「オギャー」と生まれたときには、もう目があります。最初は見えませんが目があります。その「目になるであろう」というものを眼根(がんこん)といいます。根(こん)があるから目ができるのです。根っこがなければ目はできません。生まれたときに眼根はもっているのです。
 皮膚の感覚もあります。耳の感覚もあります。「オギャー」と生まれる寸前ならば、赤ちゃんはお母さんのお腹の音を「ドクドクドク・・・」と聞いているのです。この世にパッと生まれ落ちると外界と自分の区別がついて、外界の音が聞こえてくるのです。これが六根ということです。命の元になるものです。
 生きてくると人間は、だんだん濁ってくるのです。生まれたときは清浄です。お腹が空いて「オギャー」と泣けば、お母さんがオッパイをくれるので、不自由なことは何もありません。それが年を取っていくたびに、人殺しもできるようになるのです。毛沢東は1億人殺したのです。このようなキチガイが出てくるのです。毛沢東はドップリと六根が垢にまみれて汚れてしまったのです。洗濯してももう消えません。人殺しなどしたら、それは消えません。「人殺しをした」という記憶はずっと残っています。何十年経っても、殺しの場面を思い出すのです。生命の中に垢がしみ込んでしまい、取りようがありません。
 それを仏様が見て「気の毒だな」と思い、「六根を清浄にして、仏界を求めていきなさい」と教えられたのです。
 日蓮大聖人様の仏教から言うと簡単で六根清浄は「南無妙法蓮華経」です。結論は、これで終わりです。六根をキレイにするということは、南無妙法蓮華経を修行していくのです。これは全く正しい結論です。
 「苦しいときも、悲しいときも、辛いときも、うれしいときも、すべてのときに南無妙法蓮華経と唱えて六根を清浄にしていく」という気持ちで仏道修行をしていかなければいけません。
 「うれしい」と思っても六根が汚れてしまうのです。「たらふく食べてうれしいな、美味しいな」と言っていれば、それだけで六根が汚れているのです。食べるときも「南無妙法蓮華経」です。「うれしい」と思っただけで天界に入ってしまいます。
「東大に受かった!」などと言ったら、もう天界に入ってしまうのです。天界に入ってしまうから六根が汚れてしまうのです。ですから、うれしいときも、南無妙法蓮華経です。
 生きている以上、人間には悲しいときもあります。それはそれで「南無妙法蓮華経」と浄化をしていくのです。常に24時間、寝ても起きても「南無妙法蓮華経」が頭にわいていないと、六根清浄していないのです。
 山に登っても六根はキレイになりません。あらゆる生命が出てくる、宇宙に存在する生命の源が清浄です。この源に帰すことを南無妙法蓮華経というのです。それを意識して「自分は小さいな。もっと六根が清浄になって、大宇宙そのものの生命になっていくように自分も修行しなければいけない」と思うことが南無妙法蓮華経です。
我々が「六根清浄」と言うときは、六根の奥に精霊を見るのです。摩訶不思議なる偉大な大宇宙に満ち満ちている生命の力というものを見ることが修行の第一歩だと思います。

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2017年02月22日

人間の探究 706 不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)について

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※「時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」と書いてあります。こんなに多くの仏様を従えて、衆生を見ているのです。

人間の探究 706 不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)について

 法華経如来寿量品第十六の自我偈「一心欲見仏 不自惜身命」と書かれています。法華経とは永遠の生命について説いたものです。
 法華経は「生命は永遠」ということを教えています。それと同時に仏は永遠に生き続けているということを説いた経典です。しかも、仏様はいつでもこの世界にいらっしゃるのです。我々はその仏様が見えないので、「仏様はいない」と思い込むのです。
ところが仏様は常にいるのです。仏のいない時はありません。いつの時代でも、どのような時代でも、仏様はいらっしゃるのです。我々を上から見てくださっているのです。
 「その仏様をどのようにしたら見えるのですか?」という質問に対して、「一心欲見仏 不自惜身命」と言われたのです。「一心に仏を見奉らんと欲して、自ら身命を惜しまず」と読みます。相撲の貴乃花が「不惜身命で頑張ります!」と言っても本当の意味をわかっていないのです。相撲道を励んでも不自惜身命ではありません。「仏を見奉らんと欲して」「自らの身命を惜しまず」ということになるのです。
 永遠の生命を説いたものが法華経です。仏は常住して、この世にいらっしゃるのです。しかし、我々は凡夫であるから仏の存在が信じられません。そして、「神も仏もあるものか!」と思って、朝鮮人は「ア〜リラン」と歌い踊るのです。
 神も仏もいるのです。それが貴方には見えないだけです。「信仰する」ということは、「神も仏も実在する」と思えてくることです。どのように仏が出てくるのかというと、寿量品の自我偈に書かれています。
 「時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」と書いてあります。こんなに多くの仏様を従えて、衆生を見ているのです。そして「我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」と言われています。「仏様は様々な神通力をもって常にここに住んでいるのですが、衆生の心が転倒しているので、仏様は近くにいるのに見ることができない」のです。その仏様と共に生活していくことが大事です。これが自我偈の文証です。読んでみればわかります。
 不自惜身命と言っても人間はみな何かに不惜身命をやっているのです。芸人は芸道に励み、相撲取りも一生懸命、相撲道に不惜身命をしているのです。野球選手も野球に命を賭けて不惜身命をして、サッカーの選手もサッカーに命を賭けて不惜身命しているのです。
 しかし、そこから得るものは実は何もありません。高額なお金はもらえるかもしれませんが、年を取って栄光が過ぎ去ってしまえば、虚しいものです。巨人軍の長嶋茂雄は脳梗塞になり、終身名誉監督になっても手は動きません。
 池田大作は名誉会長になっても、手足がなくなっているのか、救命装置をつけられて、やっと息だけしているそんな状態です。それぞれの仕事では一生懸命やってきているのです。政治家は政治において不惜身命をやっています。それではダメなのです。
仏道において、不自惜身命をしていかないと、本当に幸せにはなれません。仏を見ることはできません。スポーツや政治など、そんなことをいくらやってもダメなのです。仏道において、不自惜身命をするということは、根本からひっくり返すことですから、「私は仏様と共にいく」という決意が大事です。貴方には仏はいません。私はいつも仏様と一緒です。私の周りには多くの菩薩もいつも一緒にいるのです。
 夜になると蘭室の交わりをするのです。蘭室の交わりとは、仏教の話です。そこには、日蓮大聖人様、お釈迦様、天台大師、伝教大師もいるのです。その部屋に入り、淡々と仏教のお話を聞き、本当に楽しい時間を過ごすのです。
 そうではない世間の部屋では、お金儲けの話や欲ボケの話ばかりです。仏道修行をしていない人間はロクなことをやっていません。
 蘭室に仏様はいるのです。そこで説法を聞いて「また、頑張るぞ!」と思い下天するのです。「蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」(立正安国論)とはそのような意味です。そこに入るために「一心欲見仏 不自惜身命」をしていくことが大事なことなのです。
 
「妙法蓮華経 如来寿量品第十六 自我偈」

 自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
(我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり)
 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
(常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり)
 為衆生度故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
(衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く)
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
(我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ)
 衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
(衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し 咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず)
 衆生既信伏 質直意柔軟 
一心欲見仏 不自惜身命
(衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず)
 時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
(時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず 我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず)


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2017年02月21日

人間の探究 705 無作三身(むささんじん)の事

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※人生そのものが欲望だけしかないのです。欲望のまま様々な物を手に入れていくのです。「家も欲しい、お金も欲しい、車も欲しい」と分別してどんどん自分の物にしていくのです。

人間の探究 705 無作三身(むささんじん)の事

 如来寿量品第十六に「無作三身の事」があります。これについて考えてみましょう。「はたらかさずつくろわずもとの侭(まま)」(御義口伝巻下)を無作三身といいます。「もとの侭(まま)」のことを無作三身(むささんじん)といいます。
 我々は創られたものですから、有作(うさ)です。創られたものからどんどん引き算をしていくのです。みんな引いたところが無作三身といいます。「はたらかさずつくろわずもとの侭(まま)」とはそのような意味です。
 ここで大事なことは、仏教は足し算ではないということです。仏法は引き算です。仏教で祈りをかけて自分の能力を高めようという人がいますが、とんでもない話です。どんどん能力を高めていくならば畜生にでもなってしまいます。仏教は反省行です。反省行とはこのようなことから言われているのです。
 反省心のない人は仏教を理解することはできません。また、「仏教徒」と名乗る資格もありません。反省心のない人は、どんどん有作になろうとしているのです。無作を説いているのが仏教です。これは前にも言いましたが仏教は無分別法です。
分別して様々なものになっていくのは有作です。すると分別だらけになってしまうのです。「分別ジジイ」「分別バアア」になってしまうのです。だから年を取ると醜くなってしまうのです。顔も醜い、歩く姿も醜い、これは分別してきた結果です。
 「これは私の物」「どんどん私の物が欲しいのよ」などと考えている人は欲の塊です。人生そのものが欲望だけしかないのです。欲望のまま様々な物を手に入れていくのです。「家も欲しい、お金も欲しい、車も欲しい」と分別してどんどん自分の物にしていくのです。
 すると体はどんどん老いて醜くなっていくのです。賤しい顔で嫌らしい目つきをして、若い女を眺めるようになってしまうのです。これは有作なのです。有作三身はまったく仏教とは違うことです。仏教を学ぶということは、自分の中で生命が濁っていく汚れを取っていかなければいけません。
 池田大作は昔、「目が澄んでいる」と言われたのです。池田大作は目薬を1日1本くらい使っていたので目が澄んでいたのです。目薬を使うと目が澄みます。しかし、年を取ると自分の本当の如是相が出てくるので、目薬も効かなくなってしまうのです。
 悪いことをしていると目力(めぢから)がなくなってしまうのです。純粋な人はまだ目力があります。俳優もしばらくテレビで見ないと、目力がなくなっています。加藤剛は、昔は目力があってよい役者でしたが、今は目がショボショボで目力がありません。目は大事です。
 仏教は引き算をしていくのです。「何を引き算したらよいのか?」ということを教えてくれるのが仏教です。「お前の心は汚れているぞ。この汚れを取りなさい。これもなくしなさい」と言われなければダメです。
 自分の汚れを取るためには指導者が必要です。自分の汚れはどうやって取るのか自分ではわかりません。「私の顔にくすみができてしまった。なんとか治らないかな」と鏡を見ても治りません。やはり、人に効くのです。「何かよい薬はない?」と聞くのです。すると「ああ、あれが効くよ」ということはよくあります。自分が知らないだけです。
 「シミには白酵プラセンタが効く」など、様々なよいものがあります。本人が知らないだけで、知っている人に聞けばすぐにわかります。
仏教も同じです。「貴方の心は濁っています。鏡をみてごらんなさい。こんなに汚れているのよ」と言われて「どうすればいいですか?」と聞く人は素直な人です。「ではこうしなさい。こうすれば毒は抜けますよ」と教えてくれる師匠がいて、実行してみたら毒は消えて治ったということと同じことです。
 「何を消したらよいのか?」ということを学ぶことが仏教です。それをわかりやすく言うと五戒です。次に十戒を学びます。それくらいでいいでしょう。
 五戒とは、在家の信者が守る基本的な戒律です。不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、不邪婬戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)です。
十戒とは、仏教において見習いの僧侶(男・女)が守るべきとされる10ヶ条の戒律です。
1. 不殺生(ふせっしょう):生き物を殺してはならない。
2. 不偸盗(ふちゅうとう):盗んではならない。
3. 不淫(ふいん):淫らな性行為をしてはならない。
4. 不妄語(ふもうご):嘘をついてはならない。
5. 不飲酒(ふおんじゅ):酒を飲んではならない。
6. 不塗飾香鬘(ふずじきこうまん):世俗の香水や装飾(貴金属)類を身に付けてはならない。
7. 不歌舞観聴(ふかぶかんちょう):歌や音楽、踊りを鑑賞してはならない。
8. 不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう):膝よりも高い寝具や、装飾を伴うベッドに寝てはいけない。
9. 不非時食(ふひじじき):食事は一日二回で、それ以外に間食をしてはいけない。
10. 不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう):お金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有してはならない。

 仏教徒になったら殺生してはいけません。真剣になって豚殺しをする僧侶など見たことはありません。仏教とは基本的に殺生をしてはいけません。ウソをついてはいけません。ウソをつきまくる朝鮮人はいかにも仏教になじめないかわかります。だから朝鮮人は仏教ではなく、キリスト教を信じるのです。
 朝鮮人はウソばかりなので、反省したら自分がなくなってしまいます。「ウソはいけない」と自分の行いを反省したら、自分がなくなってしまいます。言っていることはすべてウソなのです。二枚舌もいけません。二枚舌はあちらと、こちらで言うことが違います。これも禁じられています。不淫もダメです。不淫が好きな人間は大勢います。酒を飲んではいけません。
 現代では酒を飲んでもよいのですが、反省すればよいのです。「また飲んでしまいました。飲まないようにしましょう」と、在家はそのように反省すればよいのです。
 しかし、人を殺した場合、反省しても因果は消えません。一番大事な不殺生戒は守っていく必要があります。ウソも多少ついてよい面があります。死にそうなお婆ちゃんを見て、「お婆ちゃん、もうじき死ぬよ」とは言えません。「お婆ちゃんは長生きするよ」これもウソのうちです。その程度のウソはよいのです。
 相手をだまして破滅させるようなウソはダメです。仏教徒であれば、そのような戒律を学ばなければいけません。仏教徒は十戒に始まって十戒に終わります。戒律はよくよく吟味するのです。十戒があると「これをやってはいけないな」と思います。焼き鳥を食べると美味しいのですが、「焼き鳥を食べてはいけない」と言うのは、本当のお坊さんの場合です。大乗仏教の場合、比丘は250戒、比丘尼は350戒あります。
 在家は焼き鳥くらい食べてもよいのです。無反省に食べるのではなく、五戒を学ぶと「この鳥も焼き鳥になるために生まれてきたのかな」というくらいの気持ちがわきます。豚を食べる場合でも、「豚も生きていたのだな」と思います。我々のために焼き豚になったのです。「これは有難いことだな。できるだけ食べないようにしましょう」という反省でよいのです。
 そのようなことを繰り返していくと、立派な反省ができるようになってくるのです。無作三身にどんどん近づいていくのです。
命の正体を教学上で教えられる場合は、十界を教わり、最後に仏界がわかり、十界に帰っていくのですから、仏教は十界の範疇から出ることはありません。
 目指していくものは無作三身です。無作三身とは無分別の極地のことです。

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2017年02月20日

人間の探究 704 不軽菩薩の礼拝住処の事

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※「すべての生命には仏性がある」とは、理論上だけのことです。悪人に仏性が出ることはありません。

人間の探究 704 不軽菩薩の礼拝住処の事

 釈尊の前世の話として、妙法蓮華経不軽菩薩品第二十に「不軽菩薩の礼拝住処の事」が書かれています。不軽菩薩は会う人ごとに「貴方は仏様だ」と拝んだのです。
 ホームレスのところへ行って、「貴方も仏様です」と言うのです。すると「バカヤロウ、俺はホームレスだよ!」と言われます。ヤクザを見れば「貴方は仏様です」と言うと、「ウルサイこのガキ、ぶっ殺すぞ!」と言われます。
 皆が怒って不軽菩薩を棒でぶったのです。逃げると石を投げられたのです。棒でぶたれたり、石を投げられたりするから不軽菩薩は怖いので、遠くのほうでまた拝んだのです。これがお釈迦様の前世である不軽菩薩の修行時代の話です。
 何故、このような話をするのかというと、理と事をわからせるために言っているのです。草、木、馬、人間、生命あるものはみな仏性があります。仏性を持つものは生命です。仏とは生命のことだとわかります。生命が出てくるカラクリが仏です。生命そのものが仏ではありません。生命を起こしてくるところのカラクリに仏界があります。出てきたものは生命を持っています。生命を持っていても、それがそのまま仏ではありません。
 この区別をしないといけません。これを「理の上の法性」というのです。「生まれたものは、みな生命をもっています。生命をもっているということは、仏界を持っています。すべての生命は仏です。貴方達はすべてが有難いのです」と拝んだ不軽菩薩は、このことを言っているのです。
 今、ヤクザをやっている人間に仏性など出るはずがありません。何故かというと、ヤクザ者は人の物を奪うことを仕事としています。彼らは産業をやっていません。どうやって飯を食っているのかというと、親分をつくって、徒党を組んで、「金を出せ!」と脅して暴れているのです。
 ヤクザは一種の政府と同じです。暴力団は政府と同じです。親分をつくって、徒党を組んで、「●●組だ!」と脅して集金するのです。個人がいくら集金しようと思っても、誰もお金をくれません。
 ところが、名の通ったヤクザの組になると、みんながお金を払ってくれるのです。これは税金と同じです。政府は自分達と同じような仕事をしているヤクザ者を嫌います。政府にとってヤクザは同業者です。
 政府もヤクザと同じで、税金を取りにきます。ヤクザは、「みかじめ料」を取りに来ます。「この範囲内で税金を取っていいよ」というのが縄張りです。それは徒党を組むからできるのです。親分が有難いのではなく、親分をつくっていくのです。親分を「ワッセ、ワッセ」と担いで「●●組だ!」と徒党を組んで庶民から「みかじめ料」を盗るのです。
 そのような仕事ですから、いいことをやっているわけではありません。ヤクザ者は一つもよいことをやりません。庶民に迷惑をかけることをやるのです。庶民に迷惑をかけないとお金儲けはできません。恐喝にしても巧妙です。名前を言えば通ってしまい、お金が集まるようになっているのです。
 要するにヤクザはよくないことをやっています。それに向かって「貴方方は未来、仏だから」と頭を下げている不軽菩薩はおめでたい奴だといえば、おめでたいのです。ヤクザは仏でもなければ何でもありません。
 「同じ人間だから」と錯覚しているのですが、理屈の上では豚も牛も仏性があります。「豚に仏性がある」と言っても豚がお経を唱えたり、お経を読むことはできません。お釈迦様の説法を聞いても豚は絶対に理解できません。豚は人間とは全く違う世界ですから、豚がお経を聞いてもチンプンカンプンです。
 「豚の命がある限り仏性はある」というのは、事実ですが、それは理の上の話です。悪人に仏性があるというのは、理の上の話です。悪人は仏教など学べないし、仏様に会ってもわかりません。豚と同じです。豚の傍に仏様が来て、豚の頭をなぜてくれても豚はわかりません。「仏に頭をなぜられた」とは思いません。
 仏様が何万回も豚の頭をなぜてあげても、豚は何もわかりません。「豚に仏性がある」「畜生に仏性がある」というのは、理屈だけの話です。これを勘違いしてはいけません。このような話はたくさんあります。
 創価学会信者や人権主義者は「人間はみな平等だ。差別はいけない!」と言います。この差別(さべつ)とは「世間」という意味です。差別(さべつ)は、もともと仏教用語です。差別「しゃべつ」といいます。これが「差別(さべつ)」になったのです。もともとは「差別(しゃべつ)がある」と言っているのです。差別があることを「世間」というのです。だから様々な問題が起きてくるのです。
 生命は差別をもっています。一緒ではありません。民族問題もそうです。仏界が出て仏性を持っている民族もいれば、畜生界でまるっきり仏性などない民族もいます。不軽菩薩は「誰にでも仏性がある」と頭を下げたのです。「それはすごい菩薩様だ」という見方と、「畜生に頭を下げてもムダなのだよ」ということを、教えている面もあります。畜生に頭を下げても意味がありません。
 「すべての生命には仏性がある」とは、理論上だけのことです。悪人に仏性が出ることはありません。これを勘違いしてはいけません。

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2017年02月18日

『日本人に打ち込む100本の柱』日本刀を持つ 26柱

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※小鳥丸

土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
日本刀を持つ 26柱

 男は日本刀を持たねばならない。これが僕の持論です。日本刀は日本精神そのものです。女子といっても心ある人は懐剣をもちます。こころみに僕は備前長船祐定の名刀を所持しています。一年に一回の手入れを行いますが約一時間はかかります。名刀を手入れしながら一年を反省し亦来る年を思います。名刀をギラリと引き抜き懐紙で旧くなった油をふきとり、そのあとで打粉(丸くなった袋に砥石の粉が入っている)をふり青光りする刀身をながめていると心が澄み渡り、勇気凛々、精神統一ができます。
「この刀は人を切るものではない。自分の心の魔を切るものであり、無明を断ち切るものだ」と言い聞かせます。そして何時かは和泉守二代目兼定(のさだ)が手にはいるように祈っています。
今年になって通信販売で鬼平犯科帳の長谷川平蔵の愛刀である粟田口綱國(あわたぐちつなくに)の美術刀(本物ではなくコピー品)を買い求め事務所におきたいと考えています。(まだ商品がとどかない)日蓮大聖人も名刀をおもちで(小烏丸)と言われています。
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず」(四条金吾殿御返事)
日本人くらい刀を愛した民族は世界にありません。不思議な民族です。元寇のときも凶暴な高麗・蒙古連合軍にたいし日本刀一本で闘い撃退しました。日本人にとって日本刀は神なのです。世界に誇る神風特攻隊たちも腰には日本刀があったのです。日本人なら一家に一本日本刀をおきましょう。あなたの運勢が変わります。


大国・小国 27柱

大東亜戦争の終戦により誇り高き大日本帝国は終わり、自国に誇りを持たない豚のような国民に日本人はなり下がったってしまった。GHQ司令官マッカーサー元帥の洗脳工作、占領基本法(日本国憲法)がその原因である。日本人は反民主主義であり、残虐で政治的小児であり、かつてない大侵略と大残虐を行った国民であると洗脳されたからだ。いわゆる自虐史観主義者となったのだ。しかし考えてみるがいい、終戦は昭和二十年、日本の独立は昭和二十六年、その間は占領中であり、憲法の公布は昭和二十一年であり、こんなことは絶対に許されない国際法違反である。この日本人をがんじがらめに縛り付ける憲法を廃止することから新生日本が始まるのです。
そして、今は日本は経済大国であるが、それ以外に日本は小国であるという意識に固まっています。考えてみるとこれは今に始まった事ではない。古代人は此の国を神の国と呼び大国意識をもっていました。そこに異国の宗教である仏教が五百三十八年に伝来し、思想が二分化し、宗教の混乱これが小国論の初めである。
神の国に持ち込まれた輝く黄金の仏像、偶像崇拝の習慣の無い神の国に持ち込まれた「仏像」を人々は混乱し崇仏・廃仏に国論は揺れ割れたのです。やがて崇仏派は仏教を第一原理とする仏教信者へと育ち、自国に誇りを持たない人間の始めとなったのです。仏教伝来以前、我が国民の国土観は大らかなものでした。自国を誇り自国の事を神州大八州(おおやしま)豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらちいほあきみずほのくに)浦安の国(うらやすのくに)大日本豊秋津島(おおやまととよあきつしま)・・・いずれも作物に恵まれ平和で水が綺麗なこの世の天国と言う意味である。まさに日本原理そのものである。
仏教がかなり浸透した六〇八年ですら聖徳太子はシナの国王に対し「日出づるところの天子書を日没するところの天子に致すつつがなきや」と轟然と胸を張った。しかるに仏教が深く深く浸透するにつれ中世になると辺土・辺州・粟散国(あわをちらしたような小国)・・・と呼び自らの国を卑下したのである。仏教原理主義者から見れば日本は恥ずべき仏教後進国であった。理想の国土は唐・天竺であり日本は無知・悪国の代名詞これが中世人の日本小国論であり世界観でした。自国の事を小国で後進国で野蛮国だと思い込んでいるのは今に始まった事ではないのです。
 しかるに蒙古襲来(一二七四・一二八一年)を撃破したあたりから国民の認識は変わるのです。日蓮大聖人も仏法は日本のものだと言います。
「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(諌暁八幡抄)
 日本大国論の復活は「大日本国は神国なり」から始まり北畠親房の「神皇正統記」などに代表されます。これは山鹿素行の「中朝事実」にも影響を与えたのです。このエネルギーは幕末、尊皇攘夷となって顕れ明治維新を成功させたのです。昭和の終戦により日本原理主義者は敗退したように見えたが心配はいらない! 日本原理主義者は復活します。しかもより完全な形となって、「我国は神国である。神々います神国である。」と主張するのです。 神の国という器に仏教・儒教・キリスト教・西洋の思想が入って世界の思想は完成したのです。これらは日本という神国により煮詰められ磨かれ禊され、悪思想も神国により禊され有用なものへと変化するのです。仏教も現世否定の厭世思想から現世肯定の素晴らしいものに生まれ変わり、儒教もその煩瑣を消されキリスト教ですら日本型有益キリスト教へと変わろうとしている。世界の秩序の根本に日本があり世界の混迷の中に神国の光が輝く。戦後ダメ日本から神国日本に変成する時が来たのです。これが日本原理の根本の理念である。

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2017年02月17日

人間の探究 703 龍神について

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※龍の子供。七男・ヤーズ(睚眦):問答無用で戦いを挑む睚眦は戦いを好み、そのため刀の環に立ち、刀剣の鯉口に飾りとして彫られています。魔除けや厄除けの力が強く、あらゆる邪気から家族を守ってくれます。また、ヤーズの目の鋭さは神様の目と同じとされ、その眼力で願いを叶えてくれるとも言われています。

人間の探究 703 龍神について

 出世することを昔から、「龍にも登る」という表現をします。中国の皇帝の玉座には龍が彫ってあります。琉球の王様もそうです。龍の彫り物の船に乗ります。日本では刀の鞘に龍が彫ってあるものもあります。
 この間、僕がつくらせたご宝刀も龍でそろえました。龍の一般の話は皆さんもご存知の通りです。龍には子供が9匹います。
長男・ビシ(贔屓):重いものを背負うのを好み、石碑を背負うことで龍の役に立ってます。
次男・リチ(リフン、チフン):屋根の上から遠くを眺めるのが好き。火に強く、家の守り神として屋根や梁に飾られることが多いです。
三男・プロ(蒲牢)(ホロウ):龍のミニチュア・蒲牢は吼えるのを好み、鐘の音がよく響くように願って鐘の上部分の模様になっています。
四男・ゲイカン(ヘイカン):力が強く犯罪人を憎み、正義の味方。獄門に立っているがおしゃべり好きな面も。トラに似ています。
五男・トウテツ(饕餮):飲食を好み食いしん坊、鼎や杯、食器などの飾りになっています。
六男・バシャ(覇下):水を好み、橋や水路の出口、雨樋、故宮などの建物に使われています。
七男・ヤーズ(睚眦):問答無用で戦いを挑む睚眦は戦いを好み、そのため刀の環に立ち、刀剣の鯉口に飾りとして彫られています。魔除けや厄除けの力が強く、あらゆる邪気から家族を守ってくれます。また、ヤーズの目の鋭さは神様の目と同じとされ、その眼力で願いを叶えてくれるとも言われています
八男・スアンニ(狻猊):煙や火を好み、寺院の香炉や仏座の飾りになっています。金猊。獅子に似ています。
九男・ジョクト(椒図):閉じるのを好み、門番として門の扉についています。螺蚌に似ています。

最近では、「龍は宇宙人だ」という説があります。宇宙人の乗り物を古代人が見て「龍」とカン違いして、「龍」と表現したのではないかという説もあります。
 最近、中国で龍が発見された写真がネットで公開されていました。それを見て驚きました。胴体が3メートルくらい長く、角がはえていて、ヒゲもあり、手もかぎ爪です。想像で描かれる龍とまったく同じです。その龍は白くウロコではなく、ウサギの毛のようなものでおおわれています。
 それが鶏を襲っているところを人間に見つかって撃ち殺されてしまったのです。ネットでその写真が公開されています。創造されていた龍と全く同じです。本物の龍です。
 最近では「空飛ぶ龍」という話がたくさんあります。渡り鳥が空に飛んでいくときに、集団で龍の影のように見えるときがあります。鳥は何万匹と飛んでいるのですが、1体の龍にも見えます。
 法華経の経典では龍が一番に仏教の話を聞きにきます。無量義経徳行品第一に書いてあります。「是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。菩薩摩訶薩八万人あり。天・・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩�羅伽あり。諸の比丘・比丘尼及び優婆塞・優婆夷も倶なり。」キンアラ・マゴラガ・龍・夜叉などが登場します。
 昨年、僕は龍づいていて、伊勢神宮へ行ったときに迷い込んでしまった道があります。あとで聞いたらそこは「龍の道」というそうです。車が99の曲がりくねった細い道を行くのですが逃げ場がありません。引き返すこともできずに、進むしかありません。すると突然山の頂上に出てきてから下っていく道になっているのですが、後で聞いたらそれは「龍の道」だったのです。昨年はそれから始まったのです。
 それから群馬県の水上温泉に行ったときに、龍洞という源泉かけ流しの温泉宿に泊まりましたが、そこは龍伝説がある宿でした。源泉かけ流しの個室がたくさんあり、それが龍の形をしている面白い温泉宿でした。それも龍づいています。
 ある日突然、天から声が下って、「甲州の昇仙峡に来い」という声が聞こえて、行ってきたのです。宿を探すと1軒だけ甲府の真ん中に宿が空いていたのです。常盤ホテルといいますが、街中にあります。そこだけが開いていたので、行ってみるとビックリしました。そのホテルは皇室が泊まるホテルだったのです。値段はそんなに高くありませんが、夜はホタルの鑑賞会があり、今まで泊まったホテルでは一番よいホテルでした。皆さんも行ってみたらよいと思います。甲府の街中にある源泉かけ流しの宿です。
 そこに1泊して翌日、神の声に従い昇仙峡の道を車で走っていくと、オバサンが出てきて「どこへ行くだ?」と聞くので、「昇仙峡に行きます」と言うと、「では、おらの車についてきなさい」とオバサンが言うので、その車のあとをついて一番奥までいくと、昇仙峡の一枚岩があり、すごい景色です。昇仙峡は水晶で有名な産地です。
 その中で龍神様にお会いしたのです。翡翠に龍が2体彫ってあり玉を持っているのです。重さが5キロくらいあります。2〜3センチの翡翠の勾玉でも5〜6万円します。5キロの翡翠の龍神様は値段が高いとわかります。あまりよいものなので、「これ、いくらするの?」と聞いたら、「●百万円」といいます。僕は「わかった、買うよ!」と言って、そこで買ってしまったのです。
 それが我が家にきた龍神様です。最初は、本当に恐ろしいと思いました。本当に恐ろしくて、傍には近寄れない感じでした。僕は「龍神様」と言わないで「龍ちゃん」と名付けました。「龍ちゃん、いざというときは頼みますよ!」と龍ちゃんに語り掛け、龍ちゃんを大事にして毎日お供えをして、お酒も飲ませています。「龍ちゃん」といいます。まだ、皆さんには正式に発表していません。これが僕と龍との出会いです。
 ご宝刀は前からあったのですが、それに外装をつけて龍づくしで仕上げたのです。これは正理会のご神刀です。龍ちゃんも正理会の「ご龍神」にして、正理会を守る龍神がきたのです。
 考えてみたら、『中杉弘の徒然日記』の写真にも写っていますが、僕は龍のステッキを前からもっていました。龍は出世や運に関係してきます。龍は大事にすることです。神様ではありませんから、拝んではいません。「龍ちゃん、頼むよ!」という感じで接していくとよいのです。それを龍神にして拝むものではありません。龍神は大事にするものです。
 僕はこのように考えています。龍は霊界とつながっているのです。翡翠に彫った龍神様は、時という空間を飛んでいるのです。生きている動物は生きている間しか命はありません。創られたものは終わりがあります。象の寿命は100年、馬は25年くらいです。命があるものは時間があります。
 ところが龍ちゃんのようにつくられたものはしゃべることもしません。何もしません。けれども、五次元とつながっているのです。そう思って大事にしているのです。生きている動物とちがって、龍ちゃんのほうが本物です。
三島由紀夫は「金閣寺の上を飛んでいる鳳凰が本当の鳥であり、空を飛んでいる鳥は偽物だ。金閣寺の鳳凰は時という空間を飛んでいる」と言ったのです。お人形でも大事にしていけばよいのです。
 昔、僕が犬を散歩しているときに、毎日棒で木を叩いて気合を入れていたのです。すると通りがかりの親父に「あんまり木を苛めてはいけない」と言われたので、「すいません」と言ったのです。「木も生きているのだから、大切にしていけなければいけないな」と思ってそのようなことは止めたのです。
 そのようにこちらの境涯で決まってしまうのです「。精霊界とつながっている龍だ」「精霊界とつながっているうっちゃんだから大事にしなければ」と思って、大事にすればちゃんと答えてくるのです。「大事ではない」と考えている人は馬鹿なのです。
 「目に見えないものを感じ取っていく」ということが、信仰を持つ人間の大事なことです。目に見える物しかわからない人を馬鹿といいます。このような人は唯物論者です。唯物論者は生命を「物」だと思っています。人間を1千万人殺そうと、2千万人殺そうと、心は何も痛まないのです。成分を除去しただけなのです。癌になると癌を除去します。唯物論者は、癌と人間を同じと考えているのです。社会の中で癌ができたら、それを殺せばよいのです。何万人殺そうと心は何も痛まないのです。
 とは言っても毛沢東の晩年の顔はすごい人相です。地獄に行っている顔です。実際は、1億人くらい殺しています。そのように生命を「物」としかとらえられない唯物論者は馬鹿です。日本にも日本共産党という馬鹿がいます。
 我々は物の奥にある精霊を見ているのです。人間も精霊が現れたものです。あらゆるものが精霊から現れたものですから、あらゆる物は大事にしなければいけません。そのような気持ちで生きると精霊がわかってきます。今日は龍神様のお話でした。


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2017年02月16日

人間の探究 702 自我得仏来(じがとくぶつらい)の事

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※「大きい」とは、大宇宙の話です。大きな仏を掘ったところで、大宇宙は表すことはできません。限りなく大きく、広いのです。

人間の探究 702 自我得仏来(じがとくぶつらい)の事

 戸田先生は如来寿量品の中の「自我得仏来(じがとくぶつらい)」というお言葉が経典の中にありますが、それについて以下のように講義をされていました。
 自我得仏来(じがとくぶつらい)とは、「自ら仏を得てよりこのかた」と読みます。これは一般的な読み方です。そうではなくて、「自我得仏来は自得なり」と読みます。この意味の違いがわかりますか? 「自我得仏来」を「私が仏になってよりこのかた」と、普通はそのように読んでいます。それを「自我得仏来は自得なり」と読みます。これは日興聖人の『御義口伝』に書いてあります。どのような違いがあるのでしょう。
 「自我得仏来は自得なり」とは、「仏界を得たのは、自ら得たのだ」という意味です。人に教わって仏に成ったのではありません。これは、本仏だから言えるのです。本仏には師匠はいません。お釈迦様にも師匠がいたのです。天台大師にも師匠がいます。誰かについて仏教を習うのです。
 ところが、世界が始まって以来、仏に成った最初の方を「本仏」というのです。この人は誰にも教わらないのに、仏に成ったのです。これを「本仏」といいます。日蓮大聖人様の仏教では、これを言っているのです。
 日蓮大聖人様は仏教を勉強されて様々なことがわかって集大成されたのではありません。最初から仏です。しかも、これは難しい教学になりますが、お釈迦様の出世以前にインドの五百塵点劫という長い長い昔がありました。
 その時にお釈迦様は初めて仏になることができたのです。何故かというと、お釈迦様は「我本行菩薩道」と言い、「我、本菩薩の道を行じて」と言われています。菩薩の道を行じるためには師匠がいります。ある仏に仕えていくことが菩薩道です。菩薩道を極めるには、必ず師匠がいなければいけません。
 この師匠についてお釈迦様はどのような師匠がいたのか述べられていません。お釈迦様は五百塵点劫の昔に修行をしたのです。どのような修行をしたのかというと、菩薩道を修行したのです。菩薩の道とは、仏に仕えるという道です。仏様に仕えることによって、仏になることができた」と言っているのです。
 では、「どのような仏様にお仕えしたのか?」ということは言っていません。だから、日蓮大聖人様の仏教は「文底」と言われるのです。「文底」とは「文の底」という意味です。「お釈迦様が仕えた仏とは、実は私(日蓮大聖人様)であった」ということです。
 日興聖人の教学はすごいのです。お釈迦様は日蓮大聖人様に仕えたのです。だから、日蓮大聖人様のことを「本仏」といいます。本仏とはそのような意味があります。では、「本仏はどのようにして仏になったのか?」という議論になりますが、本仏は誰にも仕えていません。
 それを「自我得仏来は自得なり」と言われているのです。これには、すごい意味があるのです。「仏を得た」ということ、これは「自得」です。自分で勝手に得たのです。天地の原理と、生命の原理をその段階で悟ったのです。この宇宙にはずっと生命があります。その生命の本体のことを「本仏」といいます。
 それをお曼荼羅にしてしまったらとんでもないことです。見るものも見えないし、わけもわかりません。これが法華経の極意です。それがわかったところで、どうってことはありませんが、仏界というものを考えたときにはじめてわかってくることです。
 「仏界とはどのようなものですか?」というと、仏がわかることです。「仏とはどのようなものですか?」と聞かれても見せられません。ものすごく大きいものです。この大きいものに注目すると大仏ができてきます。「仏は大きい」と言っているのですから、山を削って莫高窟に仏を掘ったり、奈良の大仏を造るのは、仏が大きいことに注目しているのです。
 そんなものを造っても、たかが知れています。「大きい」とは、大宇宙の話です。大きな仏を掘ったところで、大宇宙は表すことはできません。限りなく大きく、広いのです。そして、限りなく小さくもあるのです。そのような表現しかできないのです。
それを説いたのが無量義経徳行品第一の「34の非」です。
「其の身(仏という意味)は有に非ず亦無に非ず、因に非ず縁に非ず自他に非ず、方に非ず円に非ず短長に非ず、出に非ず没に非ず生滅に非ず、造に非ず起に非ず為作に非ず、坐に非ず臥に非ず行住に非ず、動に非ず転に非ず閑静に非ず、進に非ず退に非ず安危に非ず、是に非ず非に非ず得失に非ず、彼に非ず此に非ず去来に非ず、青に非ず黄に非ず赤白に非ず、紅に非ず紫種々の色に非ず。」
「仏とはどのようなものですか?」と質問されると、「このようなものです。大きいものでもなく小さいものでもない」ということが、「34の非」ということです。絶対に表現できないのです。仏は無分別だから、言語を持って表現できないのです。それを「体得しよう」ということが仏道修行です。
 体得していくにはどうしたらよいのかというと、「南無妙法蓮華経と修行しなさい」と日蓮大聖人様は言われています。南無妙法蓮華経は最初の法であり、自得の法です。お釈迦様の法は妙法蓮華経で、南無妙法蓮華経ではありません。
 「南無」がつくか、つかないでは大変な違いです。「南無」とは凡夫です。妙法蓮華経は仏です。お釈迦様は妙法蓮華経から説かれたのです。「妙法蓮華経はお釈迦様の悟りですが、その前は凡夫だっただろう」と日蓮大聖人様は言われています。
凡夫がそのまま悟って「自我得仏来は自得なり」と悟ったところが仏の悟りです。だから「南無」という凡夫が入っているのです。お釈迦様の仏教は、妙法蓮華経だけです。日蓮大聖人様の仏教は「南無」が入っています。どちらが大きいのかというと、南無妙法蓮華経です。南無妙法蓮華経は無限大の広がりを持つのです。そう思って修行していくことが大事なことです。

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2017年02月15日

人間の探究 701 無上宝聚不求自得(むじょうほうじゅふぐじとく)の事

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※宝珠

人間の探究 701 無上宝聚不求自得(むじょうほうじゅふぐじとく)の事

 法華経の中に「無上宝聚不求自得(むじょうほうじゅふぐじとく)の事」とお言葉があります。法華経を修行していると、無上の宝が得られます。「無上の宝とは何ですか?」という質問の答えは「何でもできるようになり、どんな祈りも叶うようになる。希望の人生を歩める。そして結果的に仏になることができる」ということです。この「仏になることができる」ということが一番大事です。
 皆さんが世間のことで困っていることは、大部分がお金のことです。「お金が豊かになりたい」と思っている人がほとんどです。「仏に成りたい」とは思っていないけれども、「お金持ちになりたい」と思っています。法華経を信じるとお金持ちになれるのかというと、お金持ちにはなれません。これはハッキリと言っておきます。
 しかし、仏には成れるのです。仏に成ると、仏様はお金には困りません。貧乏でホームレスの仏様などいません。ちゃんとそれなりのお金は天から与えられるのです。仏になってしまうと天から何でも与えられえるのです。これが不思議なところです。
 皆さんは「お金持ちになりたい」「出世したい」「病気を治したい」、様々な思いをもって信仰しているのでしょうが、そんなものを求めていたのでは仏にはなれません。仏になってしまえば、様々なものはすべて天から与えられるのです。何も困らなくなります。明日の米を心配している仏陀などいません。
 仏陀は世界を救わなければいけないから、仏になってしまうと天の加護があるのです。「私の使命は法を広めることである」と自覚すると、「よいかな、よいかな、これは功徳ではないけれど、困らないようにしてあげよう」という天の加護があるので、仏様はみなお金持ちです。
 インドのお釈迦様は王子様です。王子様が出家をしたので、お金もお城も持っていたのです。日蓮大聖人様もお金はたくさん持っていました。仏様はお金を使いません。雑貨屋で何かを買うとか、着物を買うなどしません。仏様はお金を使いません。ご供養でもらったお金を使わないのでお金持ちになってしまうのです。
 日蓮大聖人様は、信者が訪ねてくるとお小遣いをあげたのです。佐渡島から身延山までご供養品を持ってきた阿仏房に、「ご苦労さん、よく来たね」と言われて、帰りにはお土産をあげたのです。だから仏様はお金に困らないのです。
 皆さんもそのようになっていってもらいたいと思います。変な地位やお金を求めて信仰するのではなく、「仏に成ろう!」と一心不乱に不惜身命していくならば、いつか仏になることができます。
 必ず「私は仏に成った」と自覚が得られる時がくるのです。そうなったときに、周りを見るとすべてにおいて何も困らない自分を発見するのです。明日の米を心配している仏陀はいません。何も困らない自分がいるのです。
 気が付いてみると「これが仏陀に成ることなのだ」とわかってきます。お金の心配などなくなっているのです。病気で寝込んでいる仏陀などいません。寝込むのは、死ぬ数日でよいのです。
 体も健康になり、物事もすべてわかり、正理がわかり、社会のこともわかり、政治のこともわかり、すべてのことがわかってしまうのです。
 それには、仏教だけ勉強していればよいというものではありません。様々な勉強をしなくてはいけません。日蓮大聖人様は『貞観政要』を勉強されたのです。「貞観政要こそが仏教だ」と言われています。
 『貞観政要(じょうがんせいよう)』は、唐代に編纂された太宗の言行録です。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」のことです。全10巻40篇からなります。
 『貞観政要』は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきました。主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たちとの政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られています。太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにあります。
 日蓮大聖人様はこの『貞観政要』を離さなかったのです。だから政治のことはすべて知っていたのです。日蓮大聖人様は『貞観政要』を何回も読んだのです。政治もわかっていく、人情の機微もわかっていく、それでこそ「仏に成った」ということです。必ずそのように成るのです。そのために修行していくのです。
 「自分が仏になってしまえば、それでいいのだ」というのは独覚(どくかく)・辟支仏(びゃくしぶつ)といいます。これは、穴倉に入ってしまい、自分で「悟った」と思い込んでいるだけです。自分だけが悟ってどうするのでしょう。
 自分が悟ったならば、全身全霊を込めて「この有難い甚深微妙の法を広めていく」という決意をしなければいけません。折伏も自分が悟るためにやるのです。何故ならば、法を伝えようとすることにより自らの仏性も光輝くのです。
 それと同時に折伏された相手にも仏性が出てくるのです。その関係で切磋琢磨していくことが大事です。折伏もしない、何もしないで仏に成れるわけがありません。これは大事なことです。
 それは仏様の真似でもあります。寿司屋に入ったら、寿司屋の真似をしなければ立派な寿司屋にはなれません。仏教を入門したならば、仏様の真似をしないとダメなのです。仏様の真似とは折伏です。相手の間違いを正して、正しい方向へリードしていくのです。
 よく思われようと、悪く思われようと関係ありません。可哀想だから一生懸命法を伝えていくのです。まさに仏を真似た姿です。凡夫が仏様の位置に立って、「貴方、このような教えを信じたほうがいいですよ」ということが教えていけるのですから、有難い立場です。その姿自体が仏の姿に成っていくのです。
 寿司屋の小僧になって、「親方すごいな」と言っている段階では立派な寿司屋にはなれません。自分がご飯を炊いて、掃除して、魚を切って、「どこからでも来い!」ということを学んでいかないと寿司屋にはなれません。
 それと同じで、仏様に成ろうとしたら、仏様と同じことをやって法を広めていくのです。しかも、全身をなげうって不惜身命です。命を惜しまず励んでいくならば、仏に成れるのです。いい加減な怠け心で修行したら、仏にはなれません。
 仏様の真似をして一生懸命法を広めていくと、無上宝聚不求自得が得られるようになっていきます。「幸せになろう」と思っているのは甘い考えです。「幸せにならなくてもよい」と思うのが修行です。仏教は幸せになる法ではなく、永遠の生命を体得する法ですから、最高の教えなのです。

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2017年02月14日

人間の探究 700 如是我聞(にょぜがもん)の事

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※特に武道は形から入ります。弓道も最初から的を射ることなど教えません。作法から教えます。「何故、こんなことをするのですか?」と聞かれたら「黙って言う通りにやるのだ!」と言われてしまいます。

人間の探究 700 如是我聞(にょぜがもん)の事

 「如是我聞(にょぜがもん)」は、仏教をかなり勉強した人には問題になるところです。経典には「如是我聞(にょぜがもん)」と書かれているところと「我聞如是(がもんにょぜ)」と書かれているところがあります。
 法華経は如是我聞です。他の経典は我聞如是から始まります。我聞如是と如是我聞の違いは以下の通りです。「かくの如く私は聞きました。わからないところもありましたが、聞いたままを書きます」これが如是我聞です。「わからなけれどもお釈迦様はこのような説法をしました。私が聞いたことを書きます」、これが如是我聞です。「かくの如く我聞き」という意味です。
 「私は経典を聞きました。私はこのように理解しました」これが我聞如是です。我聞如是は「私が聞いた」ということです。「私がわかる範囲でお釈迦様の説法を聞いて書いておきます」ということです。
 本当は「如是我聞」は法華経だけです。法華経は難しくて誰も質問ができません。質問ができないことをお釈迦様が説くのですから、「わかっても、わからなくていいからこれから法を説く。私の寿命はあと8年だから、その間に真実を伝えておこう」ということです。法華経は「如是我聞」から始まっています。
 法華経は28品ありますが、すべて如是我聞から始まっています。「かくの如く我聞き」ですから、我々が聞いてもわからないところがたくさんあります。それは当たり前です。法華経はお釈迦様の境地から説いているのですが、創価学会員はこんなこともわかりません。
 無分別の話もそうです。「法華経方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり」(三世諸仏総勘文教相廃立)と読んでも、「無分別の法」がわかりません。お経を唱えても意味はわかりません。それは研究して「無分別とはどのようなことなのか?」「何に対する言葉なのか?」ということをわかっていかないとわかりません。
 無分別の反対の言葉は分別です。分別して反対のところに無分別があります。大人になるにしたがい人間は、「分別臭いジジイ」と言われます。長い間生きてくると人間は分別してきます。「あれはあれ」「これはこれ」「どこで焼かれた焼き物がいい」と言うのは、分別です。分別の結果、ジジイになるに従って変な焼き物の皿や壺を愛しているのです。これは分別の結果です。
 仏教はそんなものを説いたのではありません。仏は無分別法を説いたのです。無分別は分別の反対ですから、何も区別しないことです。この世界のすべてを「区別しない」という目で見てみると何も無いということがわかります。
 この世界は人間が区別して、分別して、人間の観念が創り上げた世界だとわかります。観念を取り去ってみれば、そこに無分別の世界が出てきます。これが仏教です。これは一例ですが、経典はわからないことがまだまだあります。何故、それを質問しようとしないのでしょう。
 「諸法実相」についても、「諸法の実相について説いている」と思いますが、そうではありません。これは「諸法即実相」と読みます。これは日蓮正宗の日興聖人が教えられたことです。
 「諸法の実相」と言うと、「あらゆる諸法の奥にある真実」という意味になりますが、「諸法即実相」は、「諸法がそのまま実相だ」という意味です。全然意味が違います。このようにわからないことがたくさんあります。「わかりたい!」と思うことが大事です。それで人間は成長するのです。
 僕はそれで成長してきました。しかし、一般の人は「わからないことはわからない」ままです。わからないことを知ろうともしないで、反対に経典を怨むのです。「こんなわからないことをグチャグチャ説いて俺には関係ない」と思うのです。
 一般世間の法でもそうです。如是我聞で聞いているのか、我聞如是で聞いているのかにより全然違います。如是我聞で聞くならば、「相手の言う真実がわかってくる」ということです。
 今の創価学会は相手が全然わかっていません。我聞如是ですから、相手を全然見ていません。自分の言いたいことが先にくるのです。我聞如是の「我」が最初にきてしまい、我で相手の話を聞くのです。聞いても自分が理解できる範囲しかキャパシティ(capacity)はありません。それから外れた教えは何回聞いても、キャパシティ外のこととして聞いているのです。だから前進しません。
 自分にわからないことを教えてくれる人が先生です。先生の話を聞いて、自分の範囲以内に納めようとしても収まりません。だから「どうなっているのですか?」と聞いて少しずつ自分がわかっていくことを、「境涯を開く」といいます。
 境涯を開かないと仏にはなれません。そのためには自分があらゆるものに注意を持ち、素直にそのものの真実を知ろうと思って「如是我聞」の姿勢で聞かなければわかりません。
 「我聞如是」の姿勢で「私が聞きました」では、どんな指導を受けても、何も上手くなりません。先生は「グチャグチャ言うな。私の言う通りやりなさい」と言います。「形から入るのだ」と言います。
 特に武道は形から入ります。弓道も最初から的を射ることなど教えません。作法から教えます。「何故、こんなことをするのですか?」と聞かれたら「黙って言う通りにやるのだ!」と言われてしまいます。
剣道もそうです。「竹刀はこう持つのだ」と教えられます。「私はこうやって持ちたいのですが」と変な持ち方をすると否が応でも直されます。
 刀も出鱈目にふっても物は切れません。「このようにふるのだ」と教えられて刀で切れるのです。それには100万回型をやるのです。するとだんだん少しずつわかってきます。剣道に理屈などありません。その奥にある理屈はあとです。
先生が教えたいことは、言葉以上のことですから如是我聞です。「俺の話を聞け。言う通りにやれ!」ということです。そうすればだんだん力が身についてくるのです。自己流にやってもダメなのです。
 自己流とは我聞如是ですから「私が聞いている」のです。先生の話を聞いても「先生の話はこうだけど、こうやってもいいんじゃないですか?」「先生が100万回型をやれと言うけれどやらなくてもいいんじゃないですか?」と思って聞いているのは自分です。
 このような人に修行はできません。それに注意していかなければいけません。このような人は修行ができません。上の人は、結論がわかっているのです。わからないのが自分の境涯だからそれを変えていかなければいけません。それには素直な心を養っていくことです。とくに最初に仏教を学ぶにあたり、如是我聞と我聞如是は非常に大事な教えです。

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2017年02月13日

人間の探究 699 因果倶時の不思議

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※「時がない」という瞬間の中には因も果も含まれてしまいます。すると因果倶時ということがわかってきます。

人間の探究 699 因果倶時の不思議

 「因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(当体義抄)
仏教の寺院では蓮の花が飾ってあります。蓮は花ができるのと同時に実ができます。普通は花ができてから実がなります。蓮は同時にできてしまうのです。真に不思議です。これは因果倶時(いんがぐじ)を表しています。これがわからないので、誰も説明できないのです。因果倶時の一法がわかれば仏教はわかるということです。
僕も若い頃、「原因と結果が同時だと言われても、そんなことはあり得ない」と思っていました。例えば、東大に入ろうと思って努力します。これは因です。東大に合格したら果です。すると因と果の間には、何年という時間がかかります。或は努力して仕事をしても最初は貧乏です。それを持続して頑張っていくと大会社になって社長になりました。努力をしているのが因、会社が発展したのが果です。因と果はずれています。
 この世の中で因果倶時のものは一つもありません。「原因と結果が同時」などと言ったらオバケのようなものです。これは不思議なことだと考えて、僕は若い頃から学会幹部に質問をしましたが、幹部もわかりません。「そのうちわかるよ」「もっと行を積むんだな」という答えがほとんどです。詳しく教えてくれた人はいませんでした。
 僕は「これを解くことが仏教の鍵だな」という匂いを感じ取っていました。「いつか解いてやるぞ!」と思っていました。すると『当体義抄』を読むと「因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」と書いてあります。まだわかりませんが、「因果倶時を不思議の一法」と言っています。それを「妙法蓮華」と言っているのです。
 僕はこれを解くために創価学会に来たようなものです。石田次男先生にも質問しましたが、直接的な答えはなかったと記憶しています。「これはこうだよ」と答えられたことはなかったと思います。
 僕にはまだ理解できないだろうと思ったのでしょう。石田先生はとっくの昔にわかっています。ある質問があった場合、「この人はまだわからないだろう」と思った場合は、直接答えなくてよいのです。
 そのようなときは他の例を出して「これを考えなさい。そうすればだんだんわかってくるよ」という答え方をすればよいのです。わからない人に百万遍言葉を尽くしてもわかりません。
 何故かというと、仏教は「言語道断・心行処滅」といいます。仏教の難しいところは、「言語道断」といい、言語が通じません。「心行処滅」といい、心も及びません。いくら頭で考えてみても、概念がつかめません。言葉は通じない、心もつかめないから、「言語道断・心行処滅」といいます。そこに法がありますから、百万遍の言葉を尽くしてもわかりません。
 自分で体得してわかる以外にはありません。今、僕がこのようなことを説いていても、わからないところがあって当然です。わかる部分のとっかかりが少しでもつかめればよいと思っています。
 三世のことを考えてみると、未来は現在が因、現在の果は過去の因です。過去の因があって現在の果があります。現在だけかというと、現在は未来に向かっての因になっています。
 「ああそうか、因果倶時だな」とわかるのです。そうなのです。因と果が同時です。未来に向かっての現在は因、過去から見ると現在は果です。すると因と果が同時にあります。「このことを言っているのかな」と考えた時期もありますが、本当の意味はちょっと違います。
 しかし、この考え方は参考になります。現在は過去からの果であると同時に未来への因なのです。どちらかと言えば、因果並常に近い考え方です。ズバリ言うと、因果倶時はどのような場合に成立するのかというと、「時が無い」と考えたときです。
 最近、物理学者が言い出しました。アメリカの学者3名くらいが、「時というものは無いのではないか」と、そのように言っています。それと同時に「時間も無ければ空間もないという世界ではないのか?」と言い出しています。これは量子力学の発達に従って、そのように思われてきたのです。「アインシュタインの相対性理論は間違いだ。引力すらないのではないか」と言われるようになってきたのです。
 石田先生は「時というものは業の相続を見る形式である」と言われました。すごく意義深い言葉です。時という実体があるのではなくて、時間が経つということは、本当は自分の業が相続されているのです。それは形式にすぎないのです。だから実際時はありません。
 そこから仏教を考えていくと「刹那(せつな)」という考え方があります。大宇宙は刹那しかありません。人間の一生もそうです。「何十年間生きた」と考えていますが、過ぎ去った昔のことを考えてみれば一瞬です。昔があったのか、ないのかもわかりません。
 「昔は様々なことを経験した」と言っても、その昔を今再現できるのかというとできません。過ぎ去ったものは手でつかむことはできないし、「未来はどんな人生を歩んでいくのか?」ということもわからないのです。
 時というものがなければ過去もないし、未来もありません。では、何があるのかというと現在しかありません。これがわかるでしょうか? 「過去・現在・未来がある」と思っているのは、時を実体化して見ている人の謝った判断です。
 仏道が進んで真実の実相を見ようと思った人に時はありません。錯覚というわけでもありません。業の相続としての時はあります。物理学的な時はありません。そのように考えていくと、初めて因果倶時がわかってきます。因と果が離れているということは、時を認めているということです。「時という実体があり、原因と結果が離れている」と思います。
ところが「時はない」といえば、「今が即過去」です。過去も実は今であり、未来も今であり、過去も未来です。すべて含まれてしまうのです。どこに含まれているのかというと瞬間の中に含まれています。「時がない」という瞬間の中には因も果も含まれてしまいます。すると因果倶時ということがわかってきます。因果倶時とは時がないということをあらわしている面もあります。それば蓮華の法です。蓮華の法には時間がありません。そう思って眺めてみると、この問題が少しはわかってくると思います。

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