2017年05月01日

人間の探究 754 色心不二について

93961bf4.jpg
※実際、ボクシングや剣道をやってみないと、心がどのように変わっていくのかわかりません。これが武道にのめった動機です。三島由紀夫は、なかなか面白いのです。

人間の探究 754 色心不二について

 御義口伝の中に「色心不二(しきしんふに)なるを一極と云うなり」というお言葉があります。これは、なかなか難しいのです。まず、色心不二(しきしふに)ということがわかりません。学会の教え方は「人間の肉体と精神は同じものである。従って精神をしっかり持てば肉体の病気は治る。貧乏は心の影である。心が貧乏だから貧乏なのだ」といいます。これではまるっきり、生長の家の教えです。そのような解釈をするのです。だから、色心不二がわからないのです。
 御義口伝の中では、「一極と云うなり」と言っています。色心不二とは、極意の一つです。だから、簡単にはわかりません。心と体ということは、昔から人間のテーマであり、三島由紀夫先生は面白いことを言っています。
 「雲付くような立派な肉体を持った大男にゴミのような精神を持った奴がいます。ハンサムで美しい男性でも、心は醜い奴がいます。女でも美しい顔をして、美しい肉体を持っているのですが、一皮むけばエゴイストの実に醜い心を持っています」。こんなことを言っています。三島由紀夫は「僕は昔から疑問に思っていた」というのです。
立派な精神を持っていると言われた文士や作家は、ヒョロヒョロの肉体をしています。ヒョロヒョロの肉体を着物で隠して、下を向いて歩いています。
 ボディービルをやっているたくましい男たちには、まるでノミのキンタ●のような心を持っている奴がいます。何故なのだろうか? 健全なる肉体に健全なる肉体が宿ると言ったギリシャ時代の言葉はウソではないのか? 事実、ウソであったのです。
 これが三島由紀夫がボディービル、ボクシング、剣道をやり、自衛隊に入隊して、肉体を鍛えだした理由です。肉体を変更することによって、自分の肉体がどのように変わっていくのかということを確かめたかったのです。
 実際、ボクシングや剣道をやってみないと、心がどのように変わっていくのかわかりません。これが武道にのめった動機です。三島由紀夫は、なかなか面白いのです。
 御義口伝の中では、「色心不二(しきしんふに)なるを一極と云うなり」と言っているのです。「一極」とは、「極意」ということです。ということは、極意を体得するまでは、色心は不二ではないとわかります。色心不二を極めていくと、この関係が遂には一つになってしまうのです。極めない間は、心と体は別々です。
 このように言えば少しはわかるかもしれませんが、本当の色心不二の深いところはわかりません。肉体と言うならば、なぜ「肉体」と言わないのでしょう。「肉体と心は不二である」と言えばよいのです。何故、色(しき)という言葉を使うのでしょう。
 ここに鍵があるのです。色(しき)とは、インドの言葉でルーパといいます。自分にとって見ている世界すべてが色(しき)です。肉体だけではありません。山、川、海、木、森、自分が見ている世界をすべて色(しき)というのです。これは肉体とは違います。肉体とは、自分に所属するものをいいます。見ている世界すべてを色(しき)といいます。
 不二とは何でしょう。「それが心だよ」ということです。だから色(しき)というのです。「心身不二」とか、「心と体は一つだ」と言っているのではありません。見ている世界すべてが貴方なのです。ここで極意がわかってくるのです。
日蓮大聖人様の御書では「爾前の経経の心は 心の澄むは月のごとし 心の清きは花のごとし、法華経はさにあらず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり。」(白米一俵御書)という御書があります。これは、そのような意味です。
 「心とは何か?」というと、貴方が感じ取って見ている世界すべてが貴方なのです。だから「月こそ心よ」というのです。月は自分の外部にあるものです。外部にある「月こそ心」とは、そのような意味です。全て貴方の世界なのです。
 良い結果も、苦しい結果も、楽しかろうが、苦しかろうが、全て貴方が見ている世界なのです。それは、貴方の世界なのです。見えている世界は物凄く苦しくて、生活保護を受けています。17万円の生活保護をもらって苦しくて仕方ない人もいます。でも、それは貴方なのです。それは、自分がつくったものなのです。自分の世界なのですから、自分がつくったのです。人がつくったのではありません。
 だから、グチを言ってもはじまりません。「私はなぜこんなにお金がないのだ。生活保護をなぜ受けているのだ?」と言ってみても、生活保護を受けているのが現実です。それを見ているのは貴方なのですから、貴方の世界は貴方がつくったのです。人の世界には成り代われないのです。
 我々が天皇になれないように、「天皇がどんな世界を見ているのか?」など、想像もできません。天皇は「日本国」のすべてが頭の中に入っていて、「日本国は私のものだ」と考えているのです。そのような人の境遇は我々にはわかりません。
 大臣の生活も、どんな生活なのかわかりません。ロールスロイスに乗って、お城のような家に住んで生活している人は、どのようなことを考えて、どのような世界なのかわかりません。貴方は四畳半に入って生活保護を受けているのですから、想像もできない世界です。
 しかし、それはすべて自分の世界なのです。人生は自分がつくってきたことなのです。人が成り代わることもできないし、貴方が他の人になることもできません。それを宿命、或はカルマ(業)ともいいます。
 それがわかったときに、それからが本当の仏道修行です。自分が見ている世界ですから、なくなることもありません。「生命が永遠」ということは、この問題を考えないと答えはでてきません。
 自分がつくった世界だからなくならないのです。貴方だけの世界です。この色心不二の、問題を解くと、永遠の生命がわかり、宿命がわかり、カルマ(業)ということもわかってきます。「仏」というものの正体もわかってくるのです。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(5)clip!


2017年04月29日

『日本人に打ち込む100本の柱』織田信長の精神 37柱

4dcbc84a.jpg
※織田信長 天文三年五月十二日(一五三四年六月二十三日)生誕

土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
織田信長の精神 37柱

日本を代表する精神の一つに織田信長の精神があります。日本人はとくにこの信長が好きな人が多いようです。信長が何を行ったのかは、皆がすでに知っていることですから、くどくど、のべることはしません。
織田信長のめざしたものそれは天下布武であり、日本国家の統一です。信長は新し好きであり、西洋に興味があり、合理主義者であり、伝統にしばられない、自由な発想をもち、自分の信念を強力に推しすすめようとする情もなさけもあり、不正は許さない、潔癖な戦略に長けた武将のなかの武将といったところでしょうか。凄い精神が日本で生まれたものです。
天文三年五月十二日(一五三四年六月二十三日)生誕、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城(なごや)で生誕。幼名は吉法師。なお、長じてからは織田三郎信長,官名は上総守、上総介、右大将である。その一生は戦国そのものであり、まさに戦国の風雲児と言ったところでしょう。
_涯拘屬寮錣いら清洲同盟へ 美濃攻略と天下布武 上洛と将軍擁立 っ羆幕府の情勢 ド霤鳥瓩箸粒宛髻´β利義昭上洛の警護 О棒侵攻と北畠家簒奪 第一次信長包囲網 第二次信長包囲網 室町幕府滅亡と「天下」の継承 長島一向一揆の制圧 長篠の戦い 越前侵攻 右近衛大将就任および安土城築城 第三次信長包囲網 或ヅ鎚面軍団の編成 叡羚饋攻 乙都御馬揃えと高野山包囲 撹霤沈伐 緩槐住の変で 死没 天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)
この信長なきあとその天下布武の構想は豊臣秀吉にひきつがれ天下は徳川家康により布武されます。織田信長の精神は間違いなく日本人の精神なのです。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(15)clip!


2017年04月28日

人間の探究 753 渡部昇一さんについて

7ba0c0e0.jpg
※故・渡部昇一さんが「歴史は虹を見るのだ」と教えてくれて、非常に参考になりました。素晴らしい人です。

人間の探究 753 渡部昇一さんについて

 渡部昇一さんがお亡くなりになったと聞きました。この人は非常に優れた人です。僕が尊敬している人の一人です。この人が「歴史は虹を見るのだ」と教えてくれて、非常に参考になりました。素晴らしい人です。
 しかし、渡部昇一さんには変なところがあります。それは、上智大学の19歳の学生の時に、キリスト教に入信したのです。洗礼を受けたのです。だから、本物のクリスチャンです。これが解せないところです。
 愛国的なことを言い、「日本の歴史は素晴らしい」と褒めている先生がクリスチャンであるということは「何事か?」と思います。クリスチャンの「神の国」とは、キリストの国のことを言うのです。
 クリスチャンは、天皇を神だとは思いません。思ったら神に対する謀反です。神の国とはキリストの国なのです。神の国が頭にあると、日本の歴史は客観視しているのです。
 クリスチャンは「神の国しか真実ではない」と思っているのです。日本の歴史は神の国から見たら、ゴミみたいなものです。ゴミみたいなところだけれども、「よい歴史もあります」と言っているのです。一番根本の神の国はどこへいったのでしょう。
 これは統一教会にも言えるのです。統一教会の頭の中は文鮮明がキリストです。何故、文鮮明がキリストなのでしょう。今から2千年前に出てきたキリストは人類を救うために出てきたのですが、「救世に失敗した」という理屈です。
 救世に失敗したのですが、キリストはまた再び現れたのです。どこの国に現れたのかというと、韓国に現れたのです。何故か? 韓国は歴史上最も悲惨なことが起きた国です。日本に植民地にされて、モンゴルも侵略して、シナからも脅かされて、最も悲惨なことが続いた国を救うためにキリストは、この世に再臨したのです。
 この地上に神の国をつくるのです。それが文鮮明の使命です。統一教会の信者は文鮮明のことを「キリスト」と呼んでいます。我々からいうと、文鮮明とキリストは結びつきませんが、統一教会の信者から言うと、文鮮明とキリストは一体です。
 彼らが「キリスト」と言うときには、文鮮明を意味しているのです。統一教会は、復帰原理という思想を持っています。
復帰原理とは、「すべて世界は神のものである。これは、言葉を変えると文鮮明のものです。日本は韓国を植民地にして、略奪したのです。38年間にわたって韓国から略奪して様々な物を奪ったのです。日本は神の国から奪ったのだから、最も悪い国なのです。だから日本は悪魔の国なのです。」このようにいうのです。これを信者に刷り込んでいるのです。
 「神の物は神に返すのが当たり前だろう。朝鮮から奪った物は全て朝鮮に帰すのだ!」というのです。これが統一教会の連中があっちへ行ったり、こっちへ行ったりしてご奉仕している行動原理です。
統一教会宣教師「日本は悪魔の国、朝鮮は神の国。世界はやがて朝鮮王によって統一される。わかりましたか!」信者「ネッ!」と朝鮮語で答えます。
 こんな宗教は最低です。何故かと言うと、日本は神国です。神国にそんな宗教が必要なわけがありません。神国であるということと、悪魔の国であるということは、全然違います。そんな邪宗教を日本に入れたのは、岸信介です。
 その孫が安倍晋三です。だから安倍は世界中から「ムーニー(統一教会)だ」と言われています。昭恵夫人もムーニーだと言われています。この連中は悪魔です。
 安倍さんはいろんなことをやっていますが、何か企んでいるのです。それが時々、シッポをふって出てくるのです。統一教会と安倍さんは「日本を普通の国にしよう」と言っているのです。「日本は悪魔の国で劣った国だから、普通の国にしなければならない」、これが安倍さんの発想です。普通の国は軍隊があります。「日本も軍隊を持たなければいけない」と考えます。普通の国は戦えます。だから、「自衛隊も戦わなければならない」と考えます。普通の国には徴兵制度があります。だから「徴兵もしなければいけない」と考えるのです。
 海外で国際協力をする、これも普通の国になるのですから、やらなければならないのです。普通の国では天皇にあたるのが、エリザベス女王です。だから、日本も女性天皇でよいと考えているのです。「普通の国より劣った国、日本」と見ているのです。統一教会の理論で言えば、そうなります。
 日本は悪魔の国だから劣っているのです。安倍さんは日本を普通の国にするのです。「外国のために戦える軍隊をつくろう」このような考えです。だから、安倍さんは胡散臭いのです。安倍さんはムーニーです。
 僕が主張しているのは、そうではありません。我が国は優れた国です。どこの国よりも優れた国なのです。何故、そのような自覚を持たないのでしょう。他の国のことは知りません。我が国独自のシステムでよいのです。
 2800年の歴史を持った天皇が、200〜300年の国家の真似をしなければいけないのでしょうか? こんなことをする奴は馬鹿です。その点は、渡部昇一さんはどう考えたのでしょう。一度、お会いしたら聞いてみたいと思っていました。残念ながらお亡くなりになってしまいましたので、もう聞くことはできません。
 渡部昇一さんの発言は正しいことが多いのです。憲法問題でマッカーサーが上院で証言したという話は渡部昇一さんが言いだしたのです。「マッカーサーがこのように言っています。日本は侵略したのではない。自衛のための戦争であった」ということを話したり、頼山陽の思想を説明したりしていますが、どうも渡部昇一さんの根底のところが見えてきません。
 渡部昇一さんは、統一教会の世界日報(セゲイルボ)にも文章をよく出していました。キリスト教ということで、共鳴した点があったのかと思います。しかし、それはダメなのです。本当の愛国者はそうではありません。
 日本の国は神国です。他の国とは違います。それでよいのです。我々はそのように考えます。それは、他国の人を馬鹿にしているのではありません。我が国の特性はここにあると知って、相手の特性を見抜いてお付き合いをしていくということが大事です。無理にこちらの価値観を押し付けたりする必要はありません。
 我々は日本人として立派になっていけばよいという考え方です。それがやがて世界から認められるのです。始末に負えないのが朝鮮人です。本当に始末に負えません。「約束を守る」という概念がないのです。
 従軍慰安婦の問題では、お金を10億円もらっておいて、「なかったことにする」などと言っていますが、そんなことは国際社会のルールではあり得ません。不動産でもそんなことを言ったら詐欺で逮捕です。お金をもらったままで土地を売らないで「それは知らない」と言えば、詐欺罪で逮捕です。
 そのような民族もいます。シナ人のように人間を食べる民族もいます。様々な人間がいるのです。その時に「我々の正体はこうだ」ということを明らかにしていくことが大事です。
 自分の正体を持たない者が外国に行ってもダメなのです。自分の正体を持っているから尊敬されるのです。正体がなくて外国へ行っても、馬鹿にされるだけなのです。そのようなことをよくわかるためにも、この正理会の教えは大事です。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(19)clip!


2017年04月27日

人間の探究 752 聖俗理論

423204ee.jpg
※ 日本の神道では、しめ縄を張れば、そこは神様の領域です。しめ縄の中は、聖なる場所です。では、「どのようなところにしめ縄をはるのか?」ということは、学ばなければわかりません。

人間の探究 752 聖俗理論

 宗教学という学問があるのは、ご存知でしょうか? 大学で授業をとっている人は当然知っていますが、一般の人は宗教学など知りません。宗教学とは何を習うのでしょうか? 宗教の教義を習うのでしょうか? そうではありません。
 まず、一番に習うことは、「聖」と「俗」の分離を習います。この世には聖なるものと、俗なるものがあります。これは「仏教による聖なるもの・俗なるもの」と、「キリスト教の聖なるもの・俗なるもの」と、「日本の神道の聖なるもの・俗なるもの」はすべて違います。
 日本の神道では、しめ縄を張れば、そこは神様の領域です。しめ縄の中は、聖なる場所です。では、「どのようなところにしめ縄をはるのか?」ということは、学ばなければわかりません。
 キリスト教にも聖なる場所があります。カトリック教会は聖なる場所です。そこに1歩でも入れば、俗なる法律は及びません。聖なる聖地です。
 ユダヤ教も聖なるもの、俗なるものがハッキリとわかれています。豚は邪悪なものであるから、ユダヤ教徒は絶対に豚を食べません。ユダヤ教徒は「あんな汚い豚をよく食べるな」と思っているのです。だから絶対に豚は食べません。
 ユダヤ教徒の口をこじ開けて豚の肉を入れたら、失神して死んでしまうかもしれません。そのくらい絶対に食べません。ユダヤ教徒は聖と俗をしっかりとわけています。ユダヤ教徒の料理は、1滴でも豚のエキスが入ってもダメなのです。
 この「聖と俗を何に決めているのか?」ということが、宗教学の聖俗理論です。日本人にとって聖なるものとは一体何でしょう。子供が生まれると「七五三」があります。三歳・五歳・七歳になると神社にお参りにいきます。これは通過儀礼の行事の一つです。各宗教によって、通過儀礼があります。
 神社に行くと必ず手を洗い、鳥居をくぐり、神様の本殿の前で柏手を打って頭を下げます。これも聖なる儀式です。成人式も俗世間での聖なる儀式です。暴走族が赤い袴をはいて暴れるようなものではありません。本来は聖なる儀式です。現代では、それがお祭り騒ぎになり、全く違うものになっています。
 この聖と俗のけじめをきちんとつけることが大事です。お酒を飲むということは、普通は聖なる日に飲むのです。そのような気持ちで飲むのです。今では年がら年中お酒を飲んでいますが、それは間違っているのです。
 「ワッショイ、ワッショイ!」とお神輿を担ぐのは、聖なる行事です。だんだん時代が経ってくると、聖と俗がごちゃ混ぜになってしまうのです。ごちゃ混ぜになってしまうと、聖も俗もなくなってしまうのです。これをカオスといいます。
 「ユダヤ人がなぜ豚を食べないのか?」これには理屈などないのです。これは、ユダヤ教徒にとっての掟(おきて)です。宗教には必ず掟(おきて)があります。「どうして豚を食べていけないのか?」ということは、本当はわからないのです。
 このようなことによって、団結できない人々が聖なるものを守ることにより団結するのです。御神輿を担ぐときには、暴走族も担ぐのです。ヤクザのお兄ちゃんも担ぐのです。大工さんも、魚屋さんも、みんな「ワッショイ、ワッショイ!」とお神輿を担ぐのです。聖なる行事には区別がありません。武士も百姓もお神輿を担いだのです。
 その時は、聖なる行事であるから、楽しくやって一杯飲むのです。これが聖なる行事です。「何故、豚を食べてはいけないのか?」考えてもわからないのです。理屈はないのです。
 人間が団結するためには、まず掟をつくるのです。長老「今日はお祭りの日だ!」若い衆「なぜ、お祭りの日なのか?」長老「そんなことはわからなくてよいのだよ。今日はお祭りの日だ!」と言えば、皆が何故お祭りの日なのか、わからなくてもその日はお祭りの日になるのです。
 肉を食べないということもそうです。日本人も昔は肉食をしませんでした。普段の日はご飯と味噌汁とおしんこです。魚も食べません。聖なる日には肉や魚を食べたのです。
自分の身の周りを見渡して「これは聖なる日だな」「これは俗なる日だな」「私はこれを聖としている」「私はこれを俗としている」ということができたならば、自然にそれを守っていくのです。誰かに強要されているわけではありません。共通の日を祝うのです。
 そのような日がなくなると、一家は滅びてしまいます。「今日はお父さんの命日よ」でもいいのです。その日は親族一同が集まるのです。遠くにいる家族もみな集まってきて、お料理を食べたり、お線香をあげたりして、お坊さんのお経の声を聞くのです。それで団結ができるのです。その日は家族特有のものであり、他の家族と一緒にするわけではありません。
 聖なる日をつくっていくと家族が団結できるのです。日常生活の中で「何のために聖なる日と俗なる日を区別するのか?」と見極めていくのです。
 仏教徒は肉を食べませんから、全体が聖なる日です。仏教徒になると人の悪口を言いません。殺生はしませんから、殺人もしません。「何故、殺人がよくないか?」などということはどうでもよいことです。ひとを殺してはいけないのです。これが仏の教えだから守っていくのです。仏教徒の聖なることをやるのです。
 人殺しをする仏教徒などいません。創価学会に入って人を殺した奴は大勢います。この連中は仏教徒ではありません。この連中は、何も聖なるものを持っていません。創価学会員の「聖なる日」とは、大石寺にある御本尊を拝むことだったのです。それが一番大事なことであり、それさえやっていれば、何をやろうと構わなかったのです。
ところが、創価学会幹部は大石寺に行くことを禁じたので、学会員は聖なる日がなくなってしまったのです。学会員にとって、大石寺の御本尊を拝む日が「聖なる日」です。それ以外は「俗なる日」だったのです。学会員は「聖なる日」がなくなってしまったので、毎日が「俗なる日」になってしまったのです。このようなことは間違っています。
 皆さんも自分の聖なる日をつくっていこうではありませんか。ジンクスともいえます。「私は、この日に行動を起こす」でもいいのです。「この日は何もしない日」でもよいのです。例えば、「日曜日は何もしない、洗濯もしない」でもよいのです。
 昔は本当に何もしない日がありました。1月1日は何もしません。お風呂も2日目の朝に行くという習慣がありました。そのような習慣は続けてもよいのです。
 自分の聖なる日と俗なる日を考えながら決めていったらよいと思います。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(19)clip!


2017年04月26日

人間の探究 751 神国王御書について

8cfc939c.jpg
※中杉弘著『神国王御書』

人間の探究 751 神国王御書について

 日蓮大聖人様の御書の中に『神国王御書』があります。これは、創価学会でも、日蓮正宗でも全く教えません。教えないから『神国王御書』を知らないのです。御書全集には入っているのですから、教えなければいけません。
 ところがこの『神国王御書』が、「何を説いたものなのか?」ということがわかっていません。だから、教えられないのです。
 この『神国王御書』の大事なところは、日蓮大聖人様は我が国を「神国」と言われているところです。その証明が『神国王御書』です。日蓮大聖人様は、我が国のことを仏国などと言われていません。「この国は神国である」と言われているのです。
 神国の王は誰であるのか? これは間違いなく天皇です。この神国の王である天皇に与える書であり、天皇に「仏教を教えます」という内容です。これが『神国王御書』の謂れです。だから、創価学会幹部は会員に教えたくないのです。
 これを教えると、「日本は神国ある」ということが証明されてしまいます。これを読めば、日本は神国になってしまいます。創価学会はどうしても日本を仏国にしたいから、この御書を教えません。日蓮大聖人様は「神国」とハッキリ言われています。
 中心をなしている思想は、天皇が仏教を間違えているということです。天皇に「仏教とはこのようなものです」と教えられた書なのです。これを読めば、「何が仏教なのか?」ということがよくわかってきます。
 それと同時に大事なことは、日蓮大聖人様はこの国のことをハッキリと「神国」と自覚されていたということです。日本は、池田王国でもなければ、仏国でもありません。日蓮大聖人様は、「神国」と言っているのですから、衝撃的な事実です。
 仏教は、百済の国から欽明天皇の時代に伝えられたのです。天皇が正しい法を保たないと、本当にこの国が神国であるという実力は出せません。正しい法とは何かというと、南無妙法蓮華経です。
 これはインド伝来の仏教ではなく、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経です。「この南無妙法蓮華経が神国の中に建ちます」ということです。これが日本国を救い、神国に力を与える最高の法だと教えられているのです。だから、創価学会は『神国王御書』を読めないわけです。
 この日本の国という入れ物の中に、仏教が入ってきたのです。だから、神国が本(ほん)、仏教が迹(しゃく)です。儒教のみならず、道教や、様々な教えが日本の国に入ってきたのです。キリスト教も入ってきたのです。どこに入ってきたのかというと、神国に入ってきたのです。これを忘れてしまうと、皇室もおかしなことになってしまうのです。
 天皇の奥方様はキリスト教の洗礼を受けた方もいるようですが、本来、天皇は神であるから、その御自覚がなくなれば天皇はいらないのです。天皇は人にして神なのです。孤独かもしれませんが、天皇は変な宗教を求めてはいけないのです。
 正しい南無妙法蓮華経は求めてよいのです。それ以外に求める方法はありません。天皇陛下が念仏を信じるのでしょうか。そんなことはあり得ません。念仏はこの世を穢土(えど)と言っているのです。
 しかし、神国では「この世は最高の神の国だ」と言っているのです。それがどうして、穢土になるのでしょう。念仏の阿弥陀仏が広がって、日本国中が念仏を唱えたならば、日本は本当に穢土になります。一時、そうなってしまったではないですか。それは、天皇が阿弥陀仏に帰依してしまったのです。或は後醍醐天皇のように真言密教に帰依したのです。
 神国の仏教は、南無妙法蓮華経しかないのです。御本尊を見ても「南無妙法蓮華経」と真ん中に書いてあり、その真下に「日蓮」と書いてあります。右には天照大神、左には八幡大菩薩です。天照大神と八幡大菩薩の治められている神国の中に、南無妙法蓮華経という大法が日蓮大聖人様によって建てられたということです。これは、明解です。
 仏本神迹論などふざけたことを言ってはいけません。神が本に決まっています。それを忘れると日本中に災害がはびこり、おかしなことが起きてくるのです。天皇と宗教の関係を調べてみるとわかります。
 日本の政治が狂ってきたのは、聖武天皇が大仏を立てたことによるのです。「私は仏の奴(奴隷)だ」と馬鹿なことを言いだしてから、日本全体が狂ってきたのです。「私は仏像はいらない。私は神である」この一言が大事です。
 三島由紀夫が『英霊の聲』で言っています。「天皇は、どんな山奥に入ろうとかまわない。どんな小さな祠でもよいのだ。なくしてはいけないことは、「私は神である」というこの一言だ。神国を相続しているということは絶対に忘れてはいけない」というのです。
 「そうでなければ400万人の死んだ英霊達に対して申し訳ないだろう」ということです。天皇は「私は人間である」と言ったというのは間違いです。それを知らないと三島由紀夫の言うように、「神と信じて死んだ400万人の魂は何処へ行くのか?」そうなってしまいます。
 これは、三島由紀夫の間違いです。「天皇は神話でつながるのみならず、人間としてのつながりも深めていきます」ということが、人間天皇の人間宣言の主旨です。今まで天皇は、神話だけでつながってきました。しかし、天皇は人間ですから人間の面もあります。人間としての面としてお付き合いしますが、神話の面が消えたわけではありません。それが天皇のご意向です。三島由紀夫はそこまでよんでいません。
 これが大事なことです。この『神国王御書』を読むことをおすすめします。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(17)clip!


2017年04月25日

人間の探究 750 立正安国論を理解するために

天皇
※神国の中心者は天皇です。天皇は神の子孫です。我々も神の子孫です。この天皇を中心にして、国をまとめ上げていくことが我が国の正義です。

人間の探究 750 立正安国論を理解するために

 立正安国論と言えば有名な言葉は、「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(立正安国論)です。
 立正安国論は、仏教の中の極意であり、創価学会ごときが解釈したり、講義できたりするものではありません。何故かというと、創価学会は俗諦も真諦もわかりません。正理会では教えていますが、学会では俗諦も真諦も教えていません。
 立正安国論は、どこまで行っても仏教なのです。仏教は真諦を説いたもので、俗諦を説いたものではありません。この入り口を間違えてしまうから、わけがわからなり、とんちんかんなことになってしまうのです。
 俗諦も真諦もわからない人に、立正安国論がわかるはずがありません。立正という「正(しょう)」とは、真諦のことを言っているのです。俗諦の「正(しょう)」ではありません。
 創価学会は「国を安泰にさせるためには、教えを正しくしなければならない」と解釈するのです。では、何が正しいのでしょう。何が間違っているのでしょう。このことがわかっていません。だから、そこで錯覚して「御本尊を皆が拝むことだ」、或は「立正とは国立戒壇を造ることである」と、そのような解釈をするのです。
 すると、御本尊も創価学会にはないし、国立戒壇もありません。創価学会の立正とは、一体何でしょう。それは「世界平和を説いたものが、立正安国論だ」と、このようになってしまうのです。世界平和などというものは、俗諦であり、真諦ではありません。
 人間の生存を深く見ていないと、この立正という理解はできません。何が正しいのでしょうか? 世の中には正しいことと、間違っていることがあります。一般世間では、「何が正しくて、何が間違っているのか?」ということが、全くわかっていません。だから、立正安国論の講義はできないのです。
 僕に言わせれば、簡単なことです。創価学会は、「この御本尊を拝め。日本国中が御本尊を拝むことが立正安国なのだ」と考えています。このような考え方は出鱈目で間違った考え方だとすぐにわかるのです。
 立正安国の立正という物事を正しくしていくのです。仏教においても真諦を極めていくのです。俗諦においても「何が正しくて、何が間違っているのか?」をハッキリさせるのです。立正とは、「正義を貫く」ということです。
 俗諦及び真諦についても正義を極めて正義を貫いていくのです。それが立正安国の「立正」ということです。そうでないと、何を立てるのでしょう。統一教会の邪義を正しいとするのでしょうか。そんなことをしたら、国は滅びてしまいます。
 キリスト教をこの国の中心にするのでしょうか。そんなことをしたら、国は滅茶苦茶になってしまいます。わかるでしょう。立正について、幸福の科学も、他の宗教団体も「正しい」ということがわかっていないのです。
 仏教というものは、正邪を明らかにして、「何が正しくて、何が間違っているのか?」ということを明らかにしていくことです。これを個人から国に至るまでも、蔓延させていくことが、立正安国の立正ということなのです。
 「国には正義はあるけれども、個人には正義がない」などと言ったら、その社会は滅びてしまいます。国にきちっとした正義感ができれば、「立正」です。この国の正義とは何でしょう。この国の正義とは、「我が国は神国である」ということです。我が国は神国から成り立っている国です。それを極めていくことが神国です。
 神国の中心者は天皇です。天皇は神の子孫です。我々も神の子孫です。この天皇を中心にして、国をまとめ上げていくことが我が国の正義です。天皇が無い我が国の正義などありません。これを皆カン違いしています。
 我が国の正義とは、天皇のことです。何故ならば、天皇は国のことしか考えていません。天皇とは公の人なのです。我々庶民は自分のことしか考えていません。だから、私民といいます。庶民が私の利益で動くことは結構なことで、別にそれは否定しません。
 私の利益の上に公(おおやけ)というものがあります。公とは、全体の利益です。これを体現されているのが、天皇であるから、公の意識を持つということは、素晴らしいことです。公の意識がないのが、朝鮮人やシナ人です。そのような連中には公という意識はありません。だから、ろくでなしばかりがいるのです。
 立正という2つの文字を見ればすぐにわかります。「国に正義を立てる」ことが、「立正」ということです。正義を立てるとは、どのようなことでしょう。それは、我が国の謂れを知り、我が国の伝統を知ることであり、我が国の中心者の存在を正しく知ることです。
 一家には主人がいて、主人を中心にまとまっていくべきです。国というものは、主人がいて、主人である天皇の下に国民がまとまっていくことが大事です。それが無くなった家や国は滅びてしまうのです。これは、一番大事なことなのです。それを知ることが「正(しょう)」ということです。立正の「正(しょう)」という意味です。
 これが創価学会員は、全くわかりません。安国とは国のことをいいます。日蓮大聖人様は、国について3つ言われています。くにがまえに玉を書いた国、くにがまえに域を書いた國、くにがまえに民と書いた国があります。立正安国論では、これを使い分けられています。
 国土としての國、王様を中心にした国、民を中心にした国、この3つがあります。これを説かなければいけません。今の民主主義には、玉体がありません。中途半端に「私」しかない民衆が集まって、ワイワイ議論をやっているのが今の現状です。それを衆愚政治といいます。中心点を忘れた議論は、何百万遍繰り返しても意味がありません。くだらない結論にしかならないのです。
 国の秩序を高めて、国の中心が何であるのかということを知ること、それが仏教から見た最初の立正安国論なのです。南無妙法蓮華経は真理の中の真理ですから、当然それは南無妙法蓮華経が入ってくるのですが、その前に「国を安んずる」「正しいとは何か?」ということを説かれたのが立正安国論なのです。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(17)clip!


2017年04月24日

人間の探究 749 立正安国論を学ぶ創価学会

f6d7998a.jpg
※公明党は、29回も外国人参政権の法案を国会に提出しているのです。創価学会は国賊です。その目的は簡単です。単に外国人を公明党の票にしたいから、そのように言っているのです。

人間の探究 749 立正安国論を学ぶ創価学会

 ある学会婦人部がこのように言っていました。「立正安国論に書いてあるような世界になってきている。なんとか頑張って創価学会を広めて、この立正安国論に予言されている世界を避けたいものだ」と言うのです。
 「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(立正安国論)と書いてあります。
 権力者がいい加減な考えでやっていると、このような、問題が出てきます。創価学会は権力者です。これを勘違いしてはいけません。お前たちの政治の方向が悪いから、こうなってくるのです。それはそうです。外国人に参政権を与えようなど、何を馬鹿なことを言っているのでしょう。そんな立正安国論があるのでしょうか?
 身内も敵もわけがわからないで、何が立正安国論なのでしょう。立正安国論の「立正」とは、「正しく物事を見る」という意味です。一でもない十でもない、真ん中が「正(しょう)」です。中道の教えです。物事を正しく見ていくのです。それを学ぶことが立正安国論の精神です。
 本当の姿は右でもない、左でもありません。これは言葉を変えていうと、日本人というものは、世界人の中においては日本人です。日本人から世界を見るという考え方と、世界人から日本を見る世界は、上手く中庸していなければいけません。
 「日本人だけがよければよいのだ」という「ジャパン・ファースト」になったならば、これは世界を見ていないということです。創価学会は世界から日本を見ていくのです。すると日本は小国です。世界で大きいのはアメリカと中国です。その中で「民族差別をすることは、とんでもないことだ」という考え方です。それは、世界から日本を見ているということです。
 日本からも世界を見ることができます。日本から見た世界、世界から見た日本、この両方を正しく融和させていくところに真実の道があります。世界人であり、我々は日本人です。日本人であって世界人です。
 世界人といっても、世界人の中の朝鮮人もいます。世界人の中の中国人もいます。この人達のものの考え方が、世界人たる日本人と、どのように違うのでしょう。日本の歴史だけふりまわして「我らの歴史は最高だ!」と言っているわけではありません。
 これが混同しているときには、立正安国の「正(しょう)」の字は無いのです。創価学会は「外国人に参政権を与えろ!」といいます。どうして、このような理論が起きてくるのでしょう。何が立正安国論なのでしょう。
 中国人というものは、或は韓国人というものは、「このような民族である」ということを知らなければ、正しいお付き合いはできないのです。隣にどのような人がいるのかということがわからなければ、お付き合いはできません。
 「あの人、刑務所から出てきたのよ。人殺しをしたらしい」という人に近寄れますか? 良い人はいません。そのような人とお付き合いするのは御免です。それでも学会員は「あの人にも仏性があるのだから、近づいていかなければいけない」などと、馬鹿なことを言うのです。理と事の区別もついていません。
 創価学会員は、そんな狂った頭で考えて、何が立正安国論なのでしょう。立正の「正(しょう)」の字を立て分けて考えていきなさい。「正しく見る」とは、どのようなことでしょう。そんなことを教えない創価学会は、「外国人に参政権を与える」と言っているのです。それを公明党は、29回も国会に提出しているのです。創価学会は国賊です。
 その目的は簡単です。単に外国人を公明党の票にしたいから、そのように言っているのです。公明党は外国人を都営住宅に入れたり、公営住宅に入れたり、生活保護を受けさせて、随分多くの外国人を助けてきました。助けてきたのではありません。国のお金を横取りしてきたのです。
 公明党は外国人を助けてあげたのに票になりません。これをやはり票にしたいから、外国人にも参政権を与えるというのが、公明党の意見です。参政権を与える前に考えることがあるでしょう。韓国は敵国なのか、味方なのか、北朝鮮は敵か、味方なのか、彼らは日本を仇み、日本を亡き者にしようと国際社会で躍起になって、慰安婦像をおきまくり、「日本はこんな悪い国だ」と大ウソを言っているのです。シナ人は、ありもしない南京大虐殺を振りかざして、大ウソをついているのです。そのように日本を貶めようとする国に外国人参政権を与えるのでしょうか?
 しかも北朝鮮は日本人を拉致して未だに返しません。約束はすべて破棄しています。北朝鮮は敵国です。敵国に参政権を与えるという考え方があるのでしょうか? 100歩譲ってもそんな考え方はありません。敵国は警戒しなければいけません。
 隣にドロボウがいれば警戒します。仲良くする必要はありません。「あいつ、いつドロボウするのかな?」と思ったら近づかない方がよいのです。それと同じことです。それが、立正安国の「正(しょう)」につながるのです。そのような正しいものの考え方ができないで、創価学会は何が立正安国論なのでしょう。
 創価学会は日蓮大聖人様の仏教が何たるかを全く知らないで、朝鮮人の幹部によって会員は奴隷にされています。立正安国論を学ぶならば、そのような基礎的なことをしっかりと学んで、私に教わりにきなさい。それ以外に創価学会が立正安国論を語る資格はありません。全く要素がないのです。とんちんかんな狂った学会幹部の頭で立正安国論が読み通せるわけがありません。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(16)clip!


2017年04月22日

『日本人に打ち込む100本の柱』切腹の美学 36柱

切腹
※切腹は武士にとって名誉の死!

土曜日特別講座『日本人に打ち込む100本の柱』
切腹の美学 36柱

人間一度は死ぬ。この世に生を受け滅せぬ者のあるべきや、これが人生観の根本であるべきです。どんなに富を蓄えても名誉やら勲章をかかえたところで誰でも死ぬのは同じなのです。一度は死ぬ人生をどのような形で死を迎えたらよいのか? これを理解しなければ切腹の美学は理解できないでしょう。日本で一番最初に切腹したのは、身長七尺三寸、三尺五寸の太刀をもち五人力の強弓をもち大暴れした源為朝(一一三九年 ‐一一七〇年?)が日本で最初に切腹した武将といわれていますが、彼は伊豆の大島から琉球にのがれ、琉球王となったと琉球正史に書かれていますが定かではありません。
江戸時代に入り切腹も様式化され見事なものになりました。行くもの送るものの見事な死に様です。癌になって病室につながれ注射針だらけになり、苦しみぬいて死ぬのと、お互いに分かり合えた人間同士により、一瞬にして介錯してもらうほうが美学でしょう。切腹の美学とは究極の日本精神であろうと思われます。失敗したら切腹する覚悟でことにのぞむ! これが日本精神でしょう。
戦国時代後期から徐々に切腹の概念が変わってきました。豊臣秀吉が高松城を攻めた際、講和条件として城主・清水宗治の命を要求した際、宗治は潔く切腹して果てた。その時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったため、秀吉も感服し、それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まりました。近くでは特攻の父こと大西瀧治郎海軍中将、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣であった阿南惟幾陸軍大将の切腹が有名です。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(14)clip!


2017年04月21日

人間の探究 748 三変土田(さんぺんどでん)について

57ad481d.jpg
※仏様から見たら、すべて常寂光土です。貧乏なのも、お金持ちなのも、すべて受け止めて、素晴らしい人生に変えていくのです。

人間の探究 748 三変土田(さんぺんどでん)について

 三変土田(さんぺんどでん)は、法華経宝塔品第十一に出てきます。釈迦が三度国土を変じて一仏土となしたことであり、三変浄土・三変土浄とも言います。
その人の心が変わると、世界は三度変わるという意味に解釈すればよいのです。これを三変土田といいます。心が変わると国土が変わってしまうのです。「心が変わったら、どうして国土が変わるのか?」と思います。例えば、人を恨んでいる人は、「何故、私はこのような境遇に生まれたのか?」そのような恨みを持っています。誰かをジーと怨んでいるのです。
 韓国人が日本人を恨んでいるようなものです。日本人は韓国人に何もしていません。何もしていないものを韓国人は怨むのです。「クソっ!何故、日本人ばかりがあんなに運がよいのだろうか」そのような心で世の中を見ると、この世の中は穢土(えど)になるのです。
 「こんな嫌な世の中、土も日本国の土である。汚らわしい!」と在日朝鮮人は思うのです。実は自分が汚らわしいのです。自分が変われば、すべて変わるのです。これは戸田先生の教えにもありました。
 「夫婦喧嘩など存在しないのだよ。何故かと言うと、境涯の同じ者が一緒になるから喧嘩が起きるのだ」とよく言われていました。夫婦で「あんたが悪いのよ!」「お前が悪いのだ!」とやり合っているのです。すべて人に押し付けて「うちの娘が不良になったのは、貴方のせいよ!」「馬鹿者、お前がしっかりしていないから娘が不良になったのだ!」という争いが永遠に続くのです。
 戸田先生は「どちらかが成長してしまえば、夫婦喧嘩はなくなるのだよ」と言われていました。その通りです。絶対に喧嘩など起きません。もう境涯が違うのです。女房がいくらくってかかってきてもダメなのです。もう太刀打ちできないのです。そこまで境涯が進んでしまえば、喧嘩というものはなくなります。
 余談ですが、戸田先生は妻について教えられています。どのような妻がいるのか、母親のような妻がいます。兄妹のような妻がいます。女中(下女)のような妻がいます。人間には品格があるから、品格は変えられません。結婚した頃はわかりませんが、もし自分の妻が下女だとわかったならば、下女としてみれば腹も立ちません。妻として対等な立場で見ると腹の立つこともありますが、下女がそこにいると思えば腹も立ちません。
女から見てもそうなのです。夫と言ってもいろいろいます。ヒモのような夫もいれば、一生懸命貢いでくれる夫もいれば、色男のような夫もいれば、ボケてウロウロしている夫もいます。「夫がボケているな」と思ったら、自分が看護婦のような妻になればよいのです。他の男が頭にあって「このようにならないのかな」と思っても、ボケてしまったら、そうはなりません。
 そのように相手の正体をよく見ていくならば、三変土田するのです。仏教的に言うと凡夫がいるところは娑婆世界です。仏がいる世界は寂光土です。寂光土も娑婆世界も土に違いがあるわけではありません。
 己の心によって寂光土と知り、或は娑婆世界だと知るのです。これは当たり前の話です。水を住処にしている魚が水の無い世界においやられたら地獄です。河童も冷え上がってしまうと大変です。お皿に水がなくなると、プルプルして地獄になってしまいます。しかし、仏法の力によって心を変えると、世界も瞬間に寂光の世界に変わるのです。ここが大事です。瞬間にして世界が変わるのです。
 河童が水がなくなり、寂光の世界に変わったと言えるのでしょうか? それが変わるのです。河童は水がないから生きられません。生きられなければ「死ぬ」ということです。死ぬのですが、心を変えれば死ぬのも怖くなくなって、そのまま安心して死ねるのです。心が変われば急に豊かになるという話ではありません。
 心が貧乏でなくなると、貧乏ではなくなるのです。あらゆるものが大切な財産に見えてくるのです。心が変われば、鉛筆1本、紙1枚、どんなものでも財産です。「有難い、ここに鉛筆1本と紙がある。これで毎日起こったことを日記に書いていこう。素晴らしい人生だな!」このように思えば、何もなくても紙と鉛筆があれば寂光土に変わります。
 「お金がない、なんとか質屋でお金をつくり、競馬で儲けよう!」そのような奴は5万人といます。「質屋に行って、競馬、パチンコで儲けよう!」と思うのですが、儲けることはできません。ますます地獄に入って人を恨めば、どんな環境でも地獄に変わります。
 勝負事をやっている人間は、人間の幸せなど目に入りません。勝ち負けの、一天地六の世界です。一天地六の獄道が、いくら賭け事をしても地獄のままです。お金をあげてもお金は賭け事で消えてしまうのです。
 同じ世界でも、一天地六の世界でのたうち回って生きているのか、紙1枚鉛筆1本で寂光土になれるのか、本人の心次第です。
 戸田先生もよく言われていました。「勉強机がなかったらみかん箱でよいではないか。みかん箱を机にして勉強すればよいのだ」。すると、貴方のいる三畳間は最高の修行の場になるのです。それを証明されたのが、戸田先生です。
 牢獄に2年間入れられて「この牢獄を最も過ごしやすい道場に変える」と決意して朝早く起きて、隅から隅まで掃除して、差し入れられた法華経を読んだのです。何時間、時間があっても足りません。
 忙しくて仕方がないのです。お題目を200万遍唱えて、法華経に取り組んで、またわからない個所があると、お題目を唱えたのです。だいたい教科書がないのです。戸田先生には、白文の法華経が差し入れされたのです。白文とは、漢文の法華経です。お題目を唱えながら、一句づつ「わかったぞ!」と取り組んだのです。戸田先生は牢獄を最高の修行の場に変えたのです。
 そして、遂に仏を得たのです。牢獄が寂光土に変わった最高の瞬間です。戸田先生は有難くて涙がボロボロ出て、「遂にわかった、仏教とはこのようなものだったのか!」と歓喜に打ち震えたのです。
 独房は三畳間もありません。三畳間よりも、皆さんの部屋の方が広いでしょう。四畳半にいる人もいれば、六畳間にいる人もいます。もう、最高の道場です。そのように思って、まず自分の環境に感謝をすることです。
 自分が正社員ではなくバイトでもよいのです。月給で10万円入れば、「どのようにすればよいのか」と考えて生活をするのです。10万円しかなければ、米を買ってくるのです。2万円も買えば米はたっぷりあります。麦を1万円買います。1日何倍食べられるか量ってしまうのです。その他にお金はかかりません。白米が3杯、麦飯が1杯と計算して、米櫃(こめびつ)に入れておくのです。毎日、それだけで最低の食費はおさえられます。風呂などという贅沢なものは行きません。手塚治虫のトキワ荘は、水道がアパートの外にあったので外で行水です。お風呂などありません。毎日キレイにしていられるのです。歯磨き粉などなかったら、塩で磨けばよいのです。本当にお金に困ったら、お金を使わない生活に切り替えれば、生活など困りません。
 スーパーでは、捨てられた野菜があるからそれをひろって食べればよいのです。稼げなかったらそのような生活をして、価値あることをやればよいのです。どんな生活でも寂光土に変わるのです。
 病気の人もそうです。「病気で死ぬ」と言われたら、それでよいではないですか。反発しないのです。「死ぬか、生きるのかは神様にお任せして、精一杯頑張ろう」と思えば、死ぬことは怖くありません。ドクター中松も「癌で死ぬ」と言われていますが、まだ生きています。
 彼は癌になったときに「しめた!」と思ったのです。「これで俺は癌の薬を開発することができる!」と考えたのです。発想が違います。その成果は知りませんが「死ぬ」と言われてから、まだ彼は元気に生きています。
 ある面では自然に逆らわないということが大事です。「病気を治してください」と1日、12時間くらいお題目を唱えてもダメなのです。「治りたい」と祈っていると、反対になってしまいます。もうラクに構えていればよいのです。「ああそうか、死ぬときは死ぬのか。それまでは明るく一生懸命頑張りましょう」と思っていると、癌が消えてしまいます。すべてが消えるとはいいませんが、消える人もいるのです。
 病気というものは瞬間にかかって、瞬間に治るのです。風邪もそうです。ハッと思うと風邪を引いています。徐々に風邪を引いたのではなく、瞬時に風邪を引いているのです。治る時も瞬間です。どんな病気もそうなのです。気にしつつ、気にしないのです。
 それはそれで運命として受け取ればよいのです。昭和天皇もそうでした。医者のなすがままです。自分でなんとかしようと思わないのです。死んでもいい、生きてもよいのです。「どうぞご自由にやってください」という感じでラクに死ねるのです。
 僕の知り合いのA君は元左翼でしたが、癌で死にました。喉頭癌は、ひっくり返るのです。本当はそこで死ねるわけですが、家族が病院に担ぎ込むのです。すると延命措置がとられて、管を通されて、モルヒネを打たれて、終いにはモルヒネ中毒でわけがわからなくなってしまうのです。昼も夜もわからない真っ暗闇の中で最後を遂げるのです。だったら、ひっくり返った時点でそのまま死んだほうがラクだったかもしれません。
 人間は、一度は死ぬのです。永遠に生き続ける人間はいません。ある面においては「自然におまかせする」と言う気持ちが大事です。「自然におまかせする」ということは、「神様におまかせする」ということです。自分の体は、自分でつくったのではありません。1ミリにも満たない卵子が精子と結合して、大きくなってきたのですから、自分で設計したものではありません。
 自分を設計したのは神様です。自分はこの世に送り出されてきたのです。人間が生まれたということは、元々は神様のベースですから、人間の意思だけで「すべてを自由にしよう」などという考えは間違っています。
 北朝鮮のように銃殺される場合は、恐れてはいけません。銃殺されたところで弾はまだ飛んできていません。弾が当たるまで恐れる必要はありません。仏様から見たら、すべて常寂光土です。貧乏なのも、お金持ちなのも、すべて受け止めて、素晴らしい人生に変えていくのです。誰人も「素晴らしい人生に変えてみせる!」という決意が大事です。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:01|PermalinkComments(9)clip!


2017年04月20日

人間の探究 747 中道に対する誤解

1110caf0.jpg
※「自分たちのファーストは言うけれども、他の国の言えばよいではないか」という考えです。他の国も自ら「ファースト」と言えばよいのです。必要なことは何でもやればよいのです。トランプは、よく知っているという面もあります。

人間の探究 747 中道に対する誤解

 公明党は、中道ということを言っています。しかし、中庸と中道は違います。西洋流の中道とは、「A+B÷2」です。AとBを足して2で割れば真ん中ができます。
 これがアリストテレス流の中道論です。物事は真ん中にあります。仏教の中道論は全く違うことです。中道とは、有無の二偏見でとらえられないことをいいます。中道は難しいのです。
例えば、戦争論で置き換えてみて、北朝鮮とアメリカの戦争を西洋流の中道論で考えてみましょう。アメリカの言い分、北朝鮮の言い分を足して2で割って、お互いの言い分を整理していこうというのが中道論です。これは政治的な意味の中道論です。
ところが、仏教の中道論はこのようなことではありません。Aにも正義があり、Bにも正義があります。足して2で割るのではなくて、お互いに論議を尽くしていくならば、いきつくところに行くのではないでしょうか。Aの極地とBの極地、入り口は違うけれども、お互いに行きつく境地は一つではないでしょうか。これを中道と言っているのです。
もっと政治的な言い方をすると、共産主義も人々が幸せになるための思想です。資本主義も人々が幸せになるための思想です。それが何故、戦争という妙な雰囲気になってくるのでしょうか? それはお互いに人民を幸せにする極意に到達していないからです。
極意に到達しているならば、共産主義でも、資本主義でも、人々を幸せにすることができます。また、お互いに極意に到達しているならば、これは一緒になってしまいます。
そこからは「アメリカ・ファースト」のように、「自分達だけがよい」という考え方は生まれませんが、トランプは結構、中道論的なことも言っています。何故かというと、「自分たちのファーストは言うけれども、他の国の言えばよいではないか」という考えです。他の国も自ら「ファースト」と言えばよいのです。必要なことは何でもやればよいのです。トランプは、よく知っているという面もあります。
その極意から言えば、「アメリカ・ファースト」と「ジャパン・ファースト」は矛盾してしまい、「ファースト」が2つあります。そんなことはあり得ません。それは世界の基準であり、「国民の幸せ」という視点ならば、お互いに排斥しなくても「アメリカの国民の幸せ」と「日本の国民の幸せ」は、共に達成できます。
「日本引っ込め」と言うのではなく、「国民の幸せ」を考えるならば、お互いに共に繁栄していけます。それが実業家としてのトランプの基本的な考え方です。日本が原爆を持つことはよいことです。アメリカの軍部は、そうさせえませんが、トランプはそのように考えているのです。
「日本が原爆を必要としているならば、持てばよいではないか。何も遠慮することはないよ。アメリカの商品に対して関税をかける? いいではないか。日本が幸せになるならばやれよ。こっちも関税をかけるからね」ということです。
お互いに極意に到達すれば、極左も極右もないのです。それがなぜ極意に到達しないのかというと、極左をいじる人間がいるからです。「俺のための極左」です。「俺のための極右」です。「俺のための」と言うならば、極意には到達できませんから、本当の喧嘩になってしまいます。
究極は一つです。民衆がそのように思えばよいのです。「アメリカは国民を幸せにすればよいのだよ。日本も国民を幸せにするためにやっているのだから、話あえばわかるではないか」というように理解すればよいのです。ところが話し合いができないということは、そこにエゴイズムが入ってくるからです。
「アメリカはこうするよ」「日本もこさせてもらうよ」と言えばよいのです。アメリカにいちいち遠慮して「これはやっていいでしょうか」などと言う必要はありません。どんどんやればよいのです。それが国民の本当の幸福になっていくならば、問題はありません。とことん行きつく先は中道です。
仏教の中道論は、生を極めていけば死にいたります。生きているということは、毎日死に向かっているのです。生の中に死があるのです。生きているということと同時に死も発達しているのです。50年生きてきたということは、50年生きてきた自分がいるけれども、死に向かっていくものも50年積み重ねているのです。自分の中で死もどんどん育っているのです。
これが70〜80歳になると死が完全に育ってしまうのです。生きているエネルギーは小さくなってしまい、死に近づいたものが大きくなってきます。これは当然のことです。生の中に死があるのです。
誰人も生まれたとこから人間には、死が約束されているのです。死から考えてみると、死んだということはその死の中に生があります。生が出てくるのです。これを表しているのが太極図です。2つの勾玉があります。白い勾玉の真ん中に黒点があります。黒の勾玉の真ん中に白点があります。それが逆転していくのです。
生の中に死があり、死の中に生があるのです。生まれたときに生は、限りなく小さいのです。まだ死の世界です。その中の生がどんどん大きくなってくるのです。また目が見えるようになり、口がきけるようになり、五感を感じて「生きている」と実感するのです。すると死は小さくなります。
成人に成長してくると、死はほとんどありません。しかし、見る人からみれば「貴方の中にもう死が育ってきている」とわかります。生の中に死があり、死の中に生があるのです。これが中道です。
生についてのみ考えたり、死についてのみ考えるのは、中道ではありません。両方正しく生と死をわかっていくことが、「中道を生きている」ということです。「妙は死、法は生なり、この生死の二法は一心の妙有」です。そのことを言っているのです。
一心というものは、常に生と死があり、黒の中に白があり、白の中に黒があります。これが生命の実相です。妙法もそうなのです。そのような意味で、仏教は中道といいます。「A+B÷2」のような、中道論ではありません。
生と死を足して2で割っても、何も出て来ません。生と死からは、妙法が出てきます。これが中道です。中道で見ないと、この話はわかりません。
公明党も中道政治と言っていますが、何が中道政治なのでしょう。政治はどちらかに偏るのに決まっています。お金持ちに偏るのか、貧乏人に偏るのか、貧乏人に偏れば極左になってしまいます。金持ちに偏ればトランプのようになってしまいます。
政治的中道と仏教の中道を間違えないようにしましょう。

★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00|PermalinkComments(7)clip!