2016年05月25日

人間の探究 516 常住此説法(じょうじゅうしせっぽう)

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※初期に活躍した辻武寿副会長の家も訪ねていくのですが、逃げまくっているのです。妙観講の青年部が「お話に来たのですが」というと、「いない、帰ってください!」と創価学会の幹部が追い返すのです。

人間の探究 516 常住此説法(じょうじゅうしせっぽう)

このお言葉は、法華経の中に出てくるお言葉です。「常住此説法」とは、仏は常にここにいて、法を説いています。「仏が法を説いているというけれども、なぜ私には見えないのか?」というと、貴方の心が転倒しているからです。
これを転倒虚妄(てんとうこもう)といいます。貴方の心が転倒しているのです。転倒してひっくりかえって物事を見ている人間は、正しいことが悪く見えます。間違ったことがよく思えるのです。よい例が池田大作は大悪人であるのに、「大先生だ」と思っている人間は転倒虚妄です。
これは心が転倒虚妄しているのです。池田大作は仏法を何も説いていません。「広宣流布の暁には創価学会を解散してもよい」と言っているのです。これはどのようなことを意味しているのでしょう。学会員を使い切ったら、もういらないのです。
池田大作が天下を取り、日本国に君臨して、「創価王国」を造ったならば、創価の会員はもういらないのです。だから「創価学会を解散する」と言っているのです。ということは、学会員は使い捨てです。池田大作が会員をコキ使い、会員は虚妄に踊らされているのです。
会員が踊るためには、虚妄にならなければいけません。正しいことを「正しい」と見ていたら、池田大作が創価学会を牛耳ることはできません。学会員の心をひっくり返して、大悪人の池田大作を一番よく見せているのです。
池田大作が良よく見える人は、転倒虚妄して生きているのです。池田大作の魔力から逃れて洗脳が溶けた人は「あれ、でも仏様はいるのかな?」と気が付きます。いるのです。目に見えないけれども、常住此説法されているのです。
常に正しい教えを仏は説いています。仏教が見える人からみると「この人は仏様だな」「この人も仏様だな」「このようなところに仏様が現れているのだな」とよくわかるのです。
目に見えない仏様が常に説法されているのを聞こうとすることが信仰です。「どんなことを説いているのかな?」と耳をそばだてて、仏様の説法を聞こうとすることが信仰です。
「南無妙法蓮華経」と唱えるということは、仏様の説法を唱えるということです。「南無妙法蓮華経」と唱えた瞬間に「森羅万象すべからく南無妙法蓮華経から成り立っているのだ」と、仏様が教えてくれるのです。貴方にわかりますか? わかるように一生懸命お題目を唱えていくのです。
何回もお題目を唱えて「一心欲見仏 不自惜身命」と、一心に仏様をみようとして、命がけで仏道修行に励むならば、目に見えない仏様が姿を現してくるのです。
凡夫「あれ、こんな近くに仏様がいらしたのですか。気が付きませんでした」
仏「そうだよ。私はいつもお前と共にいたのだ。お前が起きているときも、寝ているときも、常にお前と共にいたのだ。お前の目が曇り転倒虚妄しているから、私の存在に気が付かないのだろう。いつでも陰になり、日向になり、お前を守ってきたのだ。これからもそうだ。必ずお前を守るのだ。私に祈りをかけるならば、それは必ずかなうのだ。何故ならば、お前は私と一緒なのだ。」
「私は朝起きてからただちに聖教新聞を読んで、人間革命を読みます。常に仏様と一緒です。大作先生といつも一緒です。寝るときも、起きるときも、仕事をしているときも大作先生と一緒です」という馬鹿がいますが、池田大作は仏ではありません。
池田大作は天下取りの道具として学会員をコキ使って、天下を取ったときには「学会を解散する」と言っている人間です。仏道修行に解散などあり得ません。そんなことを言うだけでも、池田大作は「キチガイだ」とわかるのです。
池田大作は、うす汚い朝鮮人だったのです。創価学会の失敗は、朝鮮人である池田大作を知らないで会長に仰いでしまったことです。これを知っていたら、池田大作を会長になど選びません。朝鮮人だけはお断りです。
山口組では「会長は日本人でなければならない」という不文律があったのです。それが破られて、どんどんと朝鮮人が入ってきてしまったのです。朝鮮人は従順なフリをして正体を隠してついてくるからです。本当は自分がのさばりたいのです。
池田大作を仏と崇め、師匠として仰げば、仰いだ本人も悪人になってしまうのです。ドロボウを師匠として仰げば、ドロボウになってしまいます。寿司屋の親父を師匠として仰げば、寿司屋の親父になってしまうのです。悪人を崇めれば、悪人になってしまうのです。
創価学会員の顔を一人一人見てください。大石寺の妙観講の話がユーチューブで出ていましたが、妙観講の青年と女子が学会の幹部、副会長以上の家を一軒一軒訪ねるのです。正木正明は創価学会理事長といっても、都営住宅に住んでいて、実権を握らされていません。
初期に活躍した辻武寿副会長、創価新報の編集長の家も訪ねていくのです。皆、逃げまくっているのです。妙観講の青年部が「お話に来たのですが」というと、「いない、帰ってください!」と創価学会の幹部が追い返すのです。
学会幹部は問答もできないのです。創価学会はなぜそのようになってしまったのかとうと、折伏精神がないからです。仲間作りの精神できたので、仲間はできても、教学は教えられないのです。だから妙観講と問答ができないのです。
辻さんは最初の頃からいた大幹部です。戸田先生と共にやってきた大幹部です。その家にも行くのです。90歳くらいでしょう。それが「帰ってくれ!」と追い返すのです。偉そうなことを言っていた大幹部が、みんなそのザマです。
正木は副会長で理事です。それがボロボロの都営住宅に住んでいて、妙観講員を追い返したのです。全く話になりません。それだけ創価学会はダメになってしまったのです。それはそうです。池田大作が仏法を教えていないからです。
創価学会は、仏法の師ではなく、ドロボウを師と仰いできたから、法論ができないようになってしまったのです。創価学会が、本当に仏道を求めていくならば、「解散する」という話が出てくるはずがないのです。
創価学会は天下取りのドロボウの集団になってしまったのですから、ただ逃げまくるのです。お仲間さえいればよいのです。数されいればよいのです。「お前たちのように生意気なことを言う連中と会う必要はない!」と言い、絶対に法論に来た人間とは会わないのです。どこに折伏精神があるのでしょう。相手が求めてきたら、受けて立つのが当たり前です。
「私達はこのような理由でやっているのです。これが正しいのです」と言えばよいのです。「それは違うのではないですか」と言われたら、法論をやり返せばよいのです。その作業がなくなったら邪教です。
創価学会は「みんなを騙している」という気持ちがあるから、法論から逃げているのです。大幹部も会員もそうなってしまったのです。
戸田先生も可哀想です。知っていたのです。「敵は誰ですか?」と聞かれて、「敵は内部だ」と言われたのです。池田大作はお金儲けが上手かったので、戸田先生も使ってしまったのです。しかし、「池田大作はのさばってきて、学会を違うものに変えていくな」と分かっていたのです。だから「敵は内部だ!」と言われたのです。
戸田先生がお亡くなりになるときに、「会長は決めなくてよいのですか」と皆が聞くと「みんなで決めろ」と戸田先生は言われたのです。戸田先生は「石田次男だ」と言ったのです。石田次男は「受けない」と言ったのです。これも魔の働きです。もう後は言うことはありません。
口は上手い、オベンチャラは上手い、あの手この手の池田大作のほうが、創価学会を大きくしたりするのは便利かもしれないと思ったのかもしれません。石田先生はオベンチャラなど絶対に言いません。自然に会は伸びましたが、中身がなくなり、池田大作が朝鮮人だったので、日本的なものをどんどん抜いてしまったので、今の学会員は「区別と差別」の違いもわかりません。恐ろしい邪教の教団になってしまいました。
それを仏様だと考えたらとんでもないことです。常住此説法とはそのようなことではないのです。常に仏法を説いているのが仏なのですから、仏様は常にあなたと共にいて説いているのです。池田大作と共にいてはいけません。池田大作を追い出さないと、創価学会は成仏できません。

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2016年05月24日

人間の探究 515 正理会の組織が大きくなると組織が乱れる?

屏風
※商売と屏風は大きくすると倒れるのです。大きいが故に倒れるのです。

人間の探究 515 正理会の組織が大きくなると組織が乱れる?

「正理会の組織が大きくなると組織が乱れてきます。その辺はどのように御考えですか?」という質問があったので、お答えします。
組織が大きくなるとは、どのようなことかというと、乞食スープが広がるということです。「朝鮮人でもいい、何人でもいい」と言えば、何でも入ってきます。
組織の中に朝鮮人がいて、黒人がいて、アメリカ人がいて、それはどのような組織かというと、何の特徴もない組織です。何も言えないのです。
私たち正理会は、日本人に限っているのです。この理論的な根拠は総別の二義からきているのです。世界に仏法を広めるというのは、総じて言う意味なのです。別して言うと、まず日本国に広めるという意味です。
「創価学会は世界に向かって広げた」と言います。総じて言っているのです。総じて言うと、中身がどんどん薄くなってしまい、日本的なことは言えなくなってしまうのです。
朝鮮人がいて、アメリカ人がいたら、「日本精神は立派だ」などとは言えません。だから、正理会は日本人しか入れないのです。朝鮮人が正理会に来て「入れてくれ」と言っても入れないのです。
学会のように数を取らないので、「入りたい」と言ってもお断りしているのです。真面目に「仏道修行をしたい」という人しか入れないのです。
それには、まず総別の考え方がわからないとダメなのです。総じて言うと世界平和です。別して言うと日本の広宣流布です。
これを勘違いするとダメになってしまいます。まず、世界が理想とする日本の国家を造ることが先です。それが出来ていないのに「世界平和だ!」と駆けずり回っている創価学会も安倍も、詐欺野郎です。
「日本は素晴らしい国だな。日本を見習いたい」と思わせることが先です。それが出来て初めて世界平和に役立ってくるのです。日本が滅茶苦茶なのに、世界平和はないのです。
そのように考えているので、まず別しての理論で、日本国をしっかりとしていくことが、正理会の目的です。すると、日本人独特の歴史があります。日本人独特の文化があります。これをしっかりと教えなければいけません。これも正理(しょうり)です。
「日本は何が正しくて、何が間違っているのか?」日本が世界に誇るべき唯一のものは、天皇です。何故かというと、天皇は2800年続いている世界最古の天皇です。世界はそれを知っています。世界の王族が集まると、天皇陛下が最古の王族であり、最重要です。貫禄が違います。2800年の伝統ある天皇です。他の奴らは、200年か、300年、イギリス王室でさえ約1千年です。格違いです。
何故かと言うと、王室はもうできないのです。2800年の天皇制は誰がやってもできないのです。絶対にできません。だから尊敬されるのです。そこに日本文化の最大の特徴があるのです。
韓国では、王様はすでにいないのです。これからできるのでしょうか。絶対にできません。北朝鮮は金王朝でやろうとしていますが、まだ3代目です。5代も持ちません。もう終わりです。
何故、日本だけが2800年続いた万世一系の天皇陛下をいただいているのかというと、これが日本の文化であり、日本の正理なのです。
このことを朝鮮人に教えても仕方ありません。わからないのですから、朝鮮人には教えないのです。「私も日本人にしてください」と言う人なら教えてもよいのですが、だいたいはそのようにいきません。
朝鮮人は半分「羨ましい」と思っているから、どこかで反逆をするのです。そのような歴史です。これを教えていくのです。日本の歴史は天皇の歴史であり、庶民から見る歴史ではないのです。天皇から見る日本国家の歴史です。
我々はもっと信念をもって日本国家の文化と伝統と歴史がわかれば、世界から戦争はなくなるのです。何故ならば、天皇陛下は戦争を嫌い、平和の世の中をつくっていこうとすることが天皇陛下の御心です。
臣下の方がそれを理解しないで殺し合ったり、奪いあったりする歴史はあったのですが、それは臣下の歴史です。中心になっている天皇の御心は崩れていないのです。これは大事にしなければいけません。これが国の正理です。
それと同時に仏法の正理もあります。仏法には、念仏、真言宗、禅宗、律宗などありますが、「何が仏教なのだろうか?」ということが皆、わからないで「仏教」と言っているのです。仏教とは座禅を組むものなのか、仏法は「南無阿弥陀仏」と唱えて死ぬのを待っていることなのでしょうか。違います。
真言密教のように火をくべて加持祈祷をして、くだらないことをやっているのが仏教なのでしょうか。すべて違います。
何が正しい仏教なのでしょうか。これを研究していくと日蓮大聖人様の教えになるのです。だから正理会は、日蓮大聖人様の仏法を教えているのです。日蓮大聖人様の仏教を教えているということは、全仏教を教えているということと同じことなのです。
「間違っている」と破折していくのです。「どこが間違っているのですか」「ここが間違っている」と勉強していないと言えません。ただ、憎々しげに「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言うのは、ちゃんと理由があるからそのように言っているのです。その理由をきちんと勉強していくことが、仏教を理解していくことになるのです。
正理会は正しい仏法を教えているのです。正しい国の歴史を教えているのです。この理論的根拠は、正しい歴史を持ち、正しい仏法を保つ日本人がいるならば、それでよいのです。それも何百万人もいる必要はないのです。
戸田先生は「10万人でよい。10万人の国士がいればよいのだ」と言われたのです。「10万人国士がいれば、この国は変わるぞ」と言われたのです。
ところが、今や創価学会は10万人どころか、何百万人いるのですが、何も変わりません。間違っているのです。
創価学会は戸田先生が、「10万人でよい」と言ったことを思い出しなさい。「国士10万人を輩出せよ!」10万人の人材をつくるのです。立派な人間が10万人いなければダメです。くだらない人間が10万人いてもダメなのです。
正理会は少数、エリート、純粋主義ですから、馬鹿みたいに大きな組織をつくることは考えていません。入りたくても入れないのです。
人間の正理、日本の歴史の正理を考える人が集まり、研鑽していくならば、その限りにおいて変な奴は入ってこれません。
僕が正理研究会をつくった頃には、ひどい奴が入ってきました。信じられない奴らばかりです。教団にきて何をやっているのかというと、女の子のことをじっと見ている奴、エイズの奴、オカマも三匹いました。キチガイもいました。「これ以上ひどい奴はいない」という連中が集まってきたのです。
主婦ひっかけ専門の奴もいました。本当にひどい連中です。あっという間に窓口を広げれば、変な奴が入ってきます。奴らは法を求めて入ってくるのではないのです。「教団の初期に入ってくるとよいことがあるのではないか」「女をものにできるのではないか」「ホモ相手が見つかるのではないか」そんな連中が入ってくるのです。
そんな連中は一切いらないのです。もう正理会には入れません。「大きくなると組織が乱れるのでは」という心配はいらないのです。最初から考えています。組織を大きくしないことです。商売と屏風は大きくすると倒れるのです。大きいが故に倒れるのです。
新興宗教の寿命は60年と言われています。戦後出来た宗教は、60年の賞味期限が切れて、70年目に入っているのです。創価学会、立正佼成会、統一教会などがそうです。これらは戦後にできてきたのです。
奴らの宗教は60年が賞味期限です。後は賞味期限が切れて70年、後は腐ってきます。何が障害になるのかというと、建物が障害になってくるのです。中身がないから、大きな建物を建てたがるのです。お金を集めて大きな建物を建てるのです。
熱海の崇高真光に行ってみてください。誰もいやしません。莫大な経費です。電気代だけでも何千万かかるのです。それで宗教団体は潰れるのです。信者は減る、建物は減らない、経費がかかるのです。バランスが崩れて経営が苦しくなり、カンカン鳥が鳴くようになり、土地を切り売りしながら、どんどん小さくなってしまうのです。
そのような歴史をたどるのです。商売と屏風は大きくしたらダメなのです。我々は大きくしません。ますます中身を濃くして正しい教えを理解させていきます。

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2016年05月23日

人間の探究 514 娑婆即寂光

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※娑婆を寂光土にしていくのです。寂光土とは仏が住む素晴らしい世界です。この世を寂光土に変えていくことが信心の目的です。

人間の探究 514 娑婆即寂光

 娑婆(しゃば)の本来の意味は、「堪忍する」という意味です。堪忍しないと人間の世の中は一日たりとも生きておれないのです。人間は何もかも気に入らないのです。お母さんも気に入らない。お父さんも気に入らない。兄弟も気に入らない。近所の奴も気に入らない。学校へ行っても先生が気に入らない。人生は気に入らないことばかりです。
 人間は堪忍をしないと、1日たりとも生きてはおれないのです。だから、「娑婆世界」というのです。娑婆とは「堪忍する」という意味です。堪忍が娑婆という意味です。念仏は「この世は苦しい」といいます。だから厭離穢土(おんりえど)といい、「この世を去って、浄土を求めましょう」という思想も出てきます。
 法華経も似ている点があるのですが、この世のとらえ方は娑婆として苦しみに耐えていくのです。生まれるのも苦しみ、死んでいくときも苦しみ、その途中では受験があり、就職すれば会社に行って怒られてやけ酒を食らい、家へ帰れば女房がよい態度ではありません。すべて苦しみです。
 だんだん希望がなくなり、「人生はこんなものか」と考えて廃人になってしまうのです。それではダメです。この娑婆を寂光土にしていくのです。寂光土とは仏が住む素晴らしい世界です。この世を寂光土に変えていくことが信心の目的です。
 法華経は娑婆即寂光だけではなく、九界即仏界も同じことです。九界は苦しみです。それが「即仏界」だというのです。煩悩即菩提もそうです。煩悩は悩みです。悩みが即菩提です。菩提とは仏の境地です。生死即涅槃もそうです。生死とは、生まれて苦しむのですから、人生のことをいいます。それが「即涅槃」です。
 娑婆即寂光と、これらのことはみな同じことを表現しているのです。普通の人から見ると悩みは悩み、苦しみは苦しみ、悟りとは違うものだと思っています。九界と仏界は違うと思っているのです。だから、「九界を脱して仏界に行きたい」と考えているのです。
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩を脱して、速く仏界に行きたいと思っているのです。九界は即仏界を求めていくものだと理解しているのです。そうではないのです。人生は九界しかないのです。寂光は言葉だけでないのです。九界までしかないのです。
 この九界がすべてのからくりと知りながら、自分が自由自在に九界を行ったり来たりできる境涯を涅槃というのです。仏界という独立したものはないのです。このようなことがわかってくると、どこにいても、どんな仕事をしていても、牢獄にいても、その世界を寂光にしなければいけないのです。
 これが信仰の力です。「信」という一字を持って、この九界を仏界に変えるのです。九界を仏界に変えるという力がない限りは、仏界即九界にはならないのです。そのような原理です。
では、どのようにして仏界に変えるのでしょう。問題はそこなのです。日蓮大聖人様は佐渡島に流され、伊豆に流され、首の座に連れていかれるということは、環境としては最悪です。佐渡島はどのような環境だったのでしょう。日蓮大聖人様が島流しに遭ったのは真冬です。
死体を捨てる穴があり、骸骨が山積みになっている淵にお地蔵さんのお堂があり、そこに入れられたのです。すると板もなく風がビューと吹くのです。寒いし、ご飯など誰もくれないのです。「そこで死ね」という話です。
当時、坊さんを殺すのは幕府も嫌がったのです。島流しとは、「そこへ行って死ね」ということです。氷の壁ができて、寒いなどというものではありません。蓑(みの)を一枚だけ着てお題目を唱えたのです。「日蓮、極寒地獄を体験した」と言われています。
しかし、日蓮大聖人様は自分のおかれた境涯を極寒地獄と知り、その因果を考え、お題目を唱えて極寒地獄から脱却したのです。最悪の環境でも、お題目を唱えていくと極寒地獄から脱却できるのです。
戸田城聖もそうです。無実の罪で牧口先生と共に牢獄へ入れられてしまったのです。罪名はつかないのです。牧口先生は牢獄の中で死んでしまいました。戸田先生は何もない牢獄、いつ出られるかもわからない牢獄です。戦争中ですから、いつ爆弾が落ちるかもわかりません。自分は身動きができないのです。
戸田先生は拘束されている最低の状態で、法華経に取り組んで200万遍のお題目を唱えて、因縁を断ち切り、娑婆に出てきたのです。これは大功徳です。大功徳で出てきたときに、お題目の力が国法に勝ったのだと実感できるのです。
国が権力を持って「お前を捕まえる」と、牢獄に入れられたら、自分は権力がないので何もできません。それを受けて立つのが仏法です。それを戸田先生は言われていました。仏法と国法が争ったら、必ず仏法が勝つのです。
そのような辛い目に遭ってもよいのです。南無妙法蓮華経と唱えるならば、必ず仏法は国法に勝つのです。
日蓮大聖人様は、熱原の三弟子が幕府に捕まり「お題目をやめろ。念仏を唱えろ。念仏を唱えなければ首を斬る」と言われたのです。そのときに、「私から先に斬ってくれ」と言うのです。これが功徳だと、日蓮大聖人様は言われているのです。
普通は助けようと思うのですが、助けなくてよいのです。堂々と「先に斬ってください」と言っています。
日蓮大聖人様はこのようにも言われています。首をノコゴリで斬られるようなことがあってもたいした苦しみではないのです。ちょっと我慢すれば終わるのです。その後は仏国土に生まれるのです。そのような確信がないと、そんなことは言えません。
これが娑婆即寂光、九界即仏界、煩悩即菩提、生死即涅槃です。

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2016年05月21日

『般若心経の大予言』■反省心のない人間が畜生となる 18

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※畜身を持つ以上、必ず何物かを犠牲にしなければ生きていけないのです。

『般若心経の大予言』■反省心のない人間が畜生となる 18

 我々の回りには人間以外の生物もたくさんいます。犬・猫・猿・豚・馬・鳥・兎・・・
人間を除く生物を総称して畜生といっています。
 昔、私が江ノ島に遊びに行き、ぼんやりと海を見ていた時に、一羽のスズメがその辺りに落ちていたパン屑か何かを食べていました。空はどこまでも青く美しく、海の潮の香りもさわやかな、大変平和な一日と思っていました。そこに突如として、空から一羽の鷹か鷲が舞い降りてきて、小さな可愛らしいスズメを攻撃し襲いだしたのです。
 小スズメは必死で逃げ回っていましたが、遂につかまってしまい、私の見ている前で食べられてしまったのです。「鳥が鳥を食べる」これはものすごいショックでした。
 動物学を勉強している人なら当然の光景でしょうが、不勉強な私にはショックでした。徒然草の一節「生ける物を殺し、痛め、闘わしめて遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり」にあるように、畜生とは互いに殺し合うものの総称だと分かったのです。
 人間でありながら「生き物を殺して喜ぶ」、これは「念々に」畜生道を修行している事になります。毎週日曜日「釣りに行くのが唯一の楽しみなのです」等と言って得意になってる人もいますが、魚だろうが、鳥だろうが、捕って喜ぶ、その心は畜生道を発しているのです。来世は必ず畜生界に生を受ける業因を積んでいる事になります。
 さきほどの小スズメも、実は虫などは平気で殺して食べているわけで、海の魚もやはり大が小を食べているのです。
 畜身を持つ以上、必ず何物かを犠牲にしなければ生きていけないのです。その意味では、人間も立派な畜生の一部なのです。我が身が修行して成仏するという事は、「濁水に月を浮かべる」ようなものだということは、人間は畜身を持つが故であります。
 「私は肉食しない」と、いったところで、味噌汁には魚のだしが使ってあり、お米にしても植物という生命体なのです。
 人間と畜生の違いは心によります。心は植物にすらありますし、動物にも心は厳然として備わっています。心は人間だけの専売特許ではありません。心の中味が人間と畜生を分けるのです。
 保険金殺人の三浦、荒木、こういう連中は人間でも心は畜生以下なのです。来世には畜生界に生を受けます。人間の心とは「反省」する心なのです。
 猿も犬も猫も「反省」はしません。反省に見える事があっても、単なる条件反射にすぎません。反省とは、「自らを省みる事ができる」という意味であり、この心が科学も哲学も宗教も生んだのです。
 反省心なき人は、人間道を歩んでいない、といえるのです。反省心が人の痛みを知ります。自分がやられた事をやり返そうとするのは、反省心のない証拠なのです。自分がやられて嫌な事は人にやらない、これも反省心のしからしむるところです。
 凡夫である我々が仏陀になる事ができるのも、反省心があるからです。自分の心と仏陀の心と比べて、自分を恥じて懸命に努力して、自分の命を仏様に近づけていくのも反省心の故であります。
 現代人に一番欠けているのは、この反省心なのです。六波羅蜜経に「心の師とはなるとも心を師とせざれ」とあるのは、この意味なのでしょう。
 自分の心を師とするなら反省は必要なく、自分の心に従った畜生道を「念々に」修行してしまうからです。こうしてみると、一見便利になった現代社会は、我々に地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道を養成している事になります。三悪道の修行は、必ず地獄界・餓鬼界・畜生界に来世生を受けて、苦しみの果報を受け続けるようになります。
 ここにこそ仏様の慈悲があり、一切衆生に本当の喜びを与えて下さろうとしているのです。もう少し畜生界について、日蓮聖人の教示を頂きます。
 「畜生と申すは、其の住所に二あり、根本は大海に住す。枝末は人天に雑(まじわ)れり、短き物は長き物に飲まれ、小さき物は大なる物に食われ、互いに相恨んで、しばらくも休むことなし。或いは鳥獣と生れ、或いは牛馬と成っても、重き物を負わせられ、西へ行かんと思へば東にやられ、東に行かんとすれば西へやられる。山野に多くある水と草を飲み、思いて余は知るところなし・・・ 」(主師報御書)
 畜生界に生を受ければ、こんな思いをするようになるのです。貴方の周りに畜生が沢山いることを見て、畜生界が現実にあると疑ってはなりません。
 我が心を反省し、畜生の心を起こしていないかどうかと、常に反省するのが仏道修行のはじめです。「念々に」思う事が、現世の果と来世の果を生むことをしっかりと認識する必要があります。


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2016年05月20日

人間の探究 513 即身成仏について

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※成仏とは正理(しょうり)を目指して進んでいくことです。

人間の探究 513 即身成仏について

 即身成仏といって、すぐに頭に浮かぶのは空海です。空海は即身成仏することが人間の目的である」と言って、最後はお堂に入り、「即身成仏した」ということになっています。或は東北の出羽三山に行くと、五穀立ちをして、ガリガリに痩せてミイラのようになり、洞窟の中で息を引き取るのです。するとミイラ仏ができるのです。
 ミイラになるためには、脂肪分の多い食べ物は取らないのです。米や麦は食べないで、栄養のない物を食べ続けると枯れ木のように痩せていくのです。座禅を組んだままで、枯れ木のように息を引き取るのです。それを「即身成仏」と言っている地方もあります。
 これらは、いずれも仏教を知らない人間が言うことです。目的はいいのです。当時、眼病が流行り、多くの人が眼病にかかったのです。その人たちの眼病を治すために、「自分が即身成仏して、目の悪い人をお助けしたい」と思って自分がミイラになったのです。
 そのような例が東北ではたくさんあったのです。病気を治すために即身成仏したのです。しかし、それはすべてダメなのです。即身成仏とは、そのようなものではないのです。空海の即身成仏もウソです。空海が即身成仏をするはずがないのです。
 即身成仏というのは、南無妙法蓮華経を説の如く修行して、「一心欲見仏 不自惜身命」の心境に立ち、仏法を行じていく人が即身成仏の境地にいたるのです。
 これが念仏だったら、阿弥陀経を保ち即身成仏しようと思ってもできないのです。成仏するための経典は法華経しかないのです。だから法華経が大事なのです。末法においては南無妙法蓮華経です。
 何故なのかというと、生命の実相が余すところなく説かれているのが法華経であり、それを天台大師が「一念三千」として、この世に取りだされたのです。「この法華経がなぜ有り難いのか?」というと、一念三千が説かれているからです。
 これを明らかにした人が、天台大師です。もともと法華経の中に入っていたものを天台大師が拾いだして、「法華経にはこのようなことが書いてあるのです。だから大事なのです」と言われたのです。
 天台三部作「法華玄義」「摩訶止観」「法華文句」です。この中で余すところなく説いているのです。「なるほど、このように修行していけば人間は仏になることができる」とわかるのです。仏になることを即身成仏というのです。
 阿弥陀経で即身成仏ができるはずがないのです。阿弥陀経は、「どのようにしたら仏になるのか?」などということは、説かれていないのです。煩悩の多い苦しみに満ちた衆生を救うために、阿弥陀仏がこの世に現れたのです。「阿弥陀様におすがりすれば、極楽浄土に往生(うまれる)ができる」という教えです。念仏では即身成仏などできないのです。
 空海の教えでは、宇宙の虚空蔵菩薩が人間と一体化するのです。これが密教の修行であり、マントラを唱えるのです。そんなものをいくら唱えても、人間と宇宙が一体になれるわけがないのです。もともと人間と宇宙は一体です。わざわざ一体化するようなものではないのです。
 空海は「即身成仏した」といいながら、「最後は業病を発した」と言われています。業病とは、らい病です。らい病を発して顔が見せられなくなったために、お堂にこもって「俺の顔を見るな。俺は即身成仏する。近づくな」と言って死んだと言われています。
 空海はウソつきで、ホラふきです。あちこちの温泉で「空海が掘った湯」「杖で叩いたら温泉が出た」などという話がたくさんありますが、すべてウソです。何しろ空海は変な奴で、法華経が十界論を説けば、「密教は十二界だから、密教の方が上だ」と言ったり、何しろ朝鮮人体質です。
 空海は「法華経は十界だ。私は十二界を説く」と言ったのです。本意がまるでわかっていないのです。天台大師の本意は「十界と言えば、足りるだろう」ということです。「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界を十界として、十界と立てるならば、すべての生命が当てはまる」と言ったのです。「十二界がある」という話ではないのです。空海は何もわかっていないのです。
 法華経が説くところの即身成仏は、生きながら生命の実相を体得して、生命の法則に従って自分の目を開いてくことです。「生命の実相とはこのようなことか。僕は暗がりの中を歩んできたのだな。お話をうかがって、目の前が真っ白くなった。明るく見えるようになり、全世界を見渡すことができる」ということです。
 生命の実相というのを明らかにして悟ったことを成仏というのです。他に成仏などありはしないのです。仏法の目的とは、成仏することです。実体を教えるということです。「貴方の実体は何でしょうか」「人間をやっています」
「人間の奥に何があるのだ?」「私にはわかりません」
「では、貴方は滅茶苦茶な人生を歩んでいるのか?」「そうです。手探りで前にくるものをより分けて進んでいるだけです」
「では、死んだらそうなるのか?」「それは全然わかりません。今、与えられた生命を一生懸命生きているのです」これが普通の人です。
 目が開いている人は「この世はすべてこれしかないのだ」とわかり、その中で一本の道を引いて、「このように生きていく」と決めていくのです。人間の目的は即身成仏することであり、そのために如説修行をしなければいけません。
 法華経に書かれているとおり修行していかなければ、成仏できません。言ってみると、「成仏した」ということは「すべて悟った」という意味です。この「悟った」ということが、科学の法則、経済の法則を悟ったというのではありません。「生命の法則というものを、きちっと体得して何事も迷うことはありません。私はこの道しかないのです」とわかった状態が、即身成仏と言えるのです。
 涅槃行で弟子たちが「お釈迦様が亡くなられたら弟子は困ります。どのように生きていったらよいのでしょうか?」と聞かれたときに、お釈迦様は「自分自らを灯としなさい」と言われたのです。自灯明(じとうみょう)です。
 貴方の中にある道を明らかにして、明かりをたよりにして人生を進んでいくのであり、私にたよって「成仏させてください」などというのはダメなのです。自らの命を灯にして、それを明らかにしていくことが貴方の人生なのです。
 「その明らかにした正体とは、南無妙法蓮華経である」と日蓮大聖人様が教えられたのです。我々は、「南無妙法蓮華経」を年年歳歳、信を強めていけばよいのです。南無妙法蓮華経を体得するためにはまず、自分がその教義を学びます。南無妙法蓮華経がわからないから、お題目を唱えるのです。南無妙法蓮華経の意味などわからないのです。だから唱えるのです。
 唱えていくごとに、だんだんとわかってくるのです。そして、今度は自行化他に渡る折伏ですから、法華経はエゴイストになる教えではないのです。人々を救っていかなければいけません。折伏を行じるのです。成仏できる教えは、この法華経しかないのです。
 南無妙法蓮華経しか成仏できないのです。これを教えていくという修行があるのです。これが「自行化他に渡るところの南無妙法蓮華経」ということです。自分で行じて、人にも行じさせるのです。毎日積み重ねていく中で、成仏の道に真っ直ぐ進んでいくのです。
 創価学会のように選挙活動などやっても成仏などできません。学会に入信してウソつきの方法を習い、ごまかし、デタラメをやって、どこに成仏の法があるのでしょう。
 成仏とは正理(しょうり)を目指して進んでいくことです。正しい理、当然そのことがわかった人はウソなどつきません。ウソなどついてどうするのでしょう。朝鮮人になるだけです。
 「予が弟子等は我が如く正理(しょうり)を修行し給え」(十八円満抄)ということが如説修行です。正しい理をわきまえていかなければ、成仏など思いもよらないことです。

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2016年05月19日

人間の探究 512 戦中、大石寺の坊主は捕まらなかったのか?

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※戸田先生、牧口先生、創価学会の幹部は戦中、御本尊に天照大神が小さく書いてあるという理由で軍部に逮捕されました。同じ御本尊を広める大石寺のお坊さんは捕まりませんでした。

人間の探究 512 戦中、大石寺の坊主は捕まらなかったのか?

 戸田先生、牧口先生、創価学会の幹部は戦中、御本尊に天照大神が小さく書いてあるという理由で軍部に逮捕されました。
 同じ御本尊を広める大石寺のお坊さんは捕まりませんでした。それには鍵があり、小笠原慈聞という偉いお坊さんがいたのです。問題になっていたのは、「仏本神迹」か、「神本仏迹論」かということなのです。
 天照大神がいて、日本の神様がインドに生まれて仏になったのです。これは仏本神迹論です。仏様より神様のほうが先なのです。どちらが偉いのかというと、天照大神のほうが偉いということになります。
 大石寺は仏本神迹論です。仏が一番偉いのです。仏とは、インド生誕のお釈迦様です。大石寺の場合は本仏論ですが、一般の日蓮宗はそうなのです。それが天照大神になって、日本の神になったのだというのです。これは仏本神迹論です。
 神本仏迹論とは、天照大神がインドに生まれられたというのです。小笠原慈聞は、神本仏迹論を唱えていたのです。小笠原慈聞はそのような考えで教えてもいたし、大石寺の大僧正だったのです。
 戦後、戸田先生からその話を聞いて、青年部が決起に燃えたのです。「小笠原慈聞がくだらないことを言う。何が神本仏迹論なのだ。仏が中心に違いないだろう。小笠原慈聞を叩き出せ!」と言って、小笠原慈聞を襲ったのです。
 籠をつくって、「わっせ、わっせ」と夜中に大石寺に行って「ドンドンドン」と戸を叩いて「起きろ、クソ坊主!」と青年部が奇襲をかけたのです。小笠原慈聞は80歳です。そこへ「ちょっと問いただしたいことがある。お前は戦中に神本仏迹論と言ったのか?」と聞くと「そのようなこともあるのじゃ」と答えたらしいのです。それが「絶対だ」とは答えなかったのです。
 すると「ちょっとこちらに来てもらおうではないか」と言って、わっせ、わっせ、と小笠原慈聞を担いだのです。大石寺には川が流れています。真冬の川の中に「坊主をうずめろ!」と言って、青年部の皆が小笠原慈聞を川に放り込んで殴ったのです。石田先生も殴ったと言っていました。
 「坊主、これでもくらえ!」と殴ったのです。冬の川でもう凍えそうになって、大変だったのです。大石寺の周りの村人が気が付いて「大変だ、坊さんが殴られている」と大騒ぎになり、中止させて、そのことで本山から戸田城聖は怒られて、何か月間登山禁止です。そのような厳しい処置を受けていたのです。
 そのような話です。石田先生から聞いて、その話は今でも覚えています。大石寺は、創価学会と同じ本尊ですが、神本仏迹だと言っていたので、戦時中もお咎めなしです。
 天照大神が偉くて、垂迹して垂れ下がって、インドに生まれたので思想的には影響はないのです。神様が垂れたのが、お釈迦様や、キリストや、マホメットです。神様は何よりも偉いのです。そのような考え方です。
 坊さんはそれほど運動しているわけでもないので、お咎めなしです。ところが、創価教育学会は、運動をしていたのです。大善生活と言って、座談会をやり、どんどん会員を増やして、全国の教員に教えていたのです。牧口先生は、教員の教師です。それは影響あるから、「ちょっと来てもらおうか」ということです。坊主は牢獄へしょぴかれなかったのです。調子のよい坊主は神本仏迹論を唱えれば、軍部はお咎めなしです。
 仏法は日本に入っているのだから、「仏法が悪い」ということは言えないのです。「仏様は神様のカスのようなものです」このように言えば、軍部は喜んだのです。そのような感じだったのです。
 ともかく「狸祭り事件」とは、大変な大問題だったのです。それだけではありません。その頃の学会は「暴力宗教」と言われたのです。当時の新聞を見てください。オウム真理教どころではありません。「暴力宗教創価学会がまたもや事件」などと書かれています。バットを持っていき、「クソ坊主、出て来い。問答しよう!」と言って、お寺に押しかけたのですが、問答ではなく暴力です。
 坊主を引きずり出して、言うことを聞かないとバットでブッ叩くのです。そのようなことを平気でやっていたのです。新聞に「創価学会、またもや暴力か!」と出たのです。今は顕正会がそのように新聞に書かれています。顕正会が折伏と称して無理矢理に連れ出して、「入信させた」などと言っていますが、そんなものではありません。もっとひどかったのです。
 立正佼成会は震え上がってしまい、「創価学会員が来たら口をきくな。帰ってくださいと3回言うのだ。それで帰らない場合は、すぐに警察に通報しなさい」というマニュアルがあったのです。
 今、学会は立正佼成会と同じことをやっているのです。学会員に「間違っているぞ」と言えば、「そんな話、聞きたくありません。帰ってください。帰ってください。帰ってください!」と言うのです。どこかで聞いたセリフです。 還著於本人(げんちゃくおほんにん)です。みんな自分に返ってくるのです。
 創価学会は毎月、本山への登山会をやっていたので品川に夜の12時頃、集まったのです。3千人くらい集まるのです。列車が来るまで列をつくっているのです。すると、酔っ払いがからかいにくるのです。「おい、拝み屋か。お前、これから大石寺へ行くのか?えへっへっ、俺も連れていってくれよ〜」と酔っ払いがからんでくるのです。
 すると「お前、ちょっとこっちへ来い」と連れて行き、ボカボカに殴ってしまうのです。そのようなこともやったのです。創価学会は、いろいろな暴力事件があったのです。「自分の女房が学会に取られた」「会社で無理矢理入信させられた」など、あったのです。
創価学会の会館に皆が集まっていると、「この野郎、ぶっ殺してやる!」と、男が短刀をもって乗り込んできたのです。事件にはなりませんでしたが、そんなこともあったのです。
 それから、学会は何でも入信させてしまうから、暴力団も入ってきてしまうのです。親分が入ると30人くらい子分が入信するのです。やな組織です。すると親分が「30名折伏〜!」「ワー、パチパチパチ」となるのです。30名も折伏するともうトップですから幹部になってしまうのです。
 幹部になると都会議員や、区会議員になってしまうのです。全員ではありませんが、なった者もいれば、途中で辞めた者もいます。暴力団ぐるみで出世していった奴もいるのです。
 池田大作も半分、暴力団みたいな奴ですから、「学会をうまく利用しよう」という連中が大勢いたのです。最初はそのような連中ばかりです。学会は何でも入れてしまうのです。学会にはヤクザもずいぶんいました。

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2016年05月18日

人間の探究 511 池田大作は日顕にうなされた

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※池田大作が死ぬまぎわに「日顕が、日顕が・・・」とうなされて「日顕が俺を殺しにくるんだ〜!」とうなされていたらしいのです。

人間の探究 511 池田大作は日顕にうなされた

 このような話が伝わってきました。池田大作が死ぬまぎわに「日顕が、日顕が・・・」とうなされて「日顕が俺を殺しにくるんだ〜!」とうなされていたらしいのです。
 死ぬ最後まで池田大作は日顕が怖かったのです。日顕さんは面白い人で、あれだけの大教団をバサッと斬ったのですから、豪傑であることは事実です。普通の小さい神経なら創価学会の首は斬れません。
 何百万人いる宗教団体をぶった切ってしまったら収入がなくなってしまいます。黙っていれば、お金が入ってくるのですが、日顕さんはそれが耐えられなくなったのです。「いくらお金の力とはいえ、こんなわがままはさせんぞ! わしがぶった切ってやる!」ということです。日顕さんは豪胆です。
 日顕さんは相承もしていなかったのに、「相承を受けた」と言っていたのです。これも豪胆です。「どこで相承されたのですか?」と日顕さんに聞くと「エレベーターの中で相承された」と言っていたのです。
 そんなことはあり得ないのです。これは石田先生から聞いて知っているのです。「相承とは何ですか?」と、僕もよく質問したのです。相承など難しい決まりがあるわけではなく、儀式です。儀式をやろうが、なかろうが関係ありません。
 日顕さんは相承の本質を知っていたのです。「相承します」と言われても、何かをもらうわけではないのです。だから、「自分が相承を受けた」と言えばよいのです。こう思ったのです。
 しかし、これは面白いのです。池田大作が創価学会第三代会長になるなど、戸田先生は一言も言っていないのです。池田大作は勝手に会長になってしまったのです。これも言ってみれば、ニセ相承です。
 ニセ相承の猊下日顕によってニセ会長の池田大作は処分されたのです。因果の理法がここにも成立しているのです。何しろ、戸田先生が言われたことは、「俺が亡きあとは皆で仲良くしろ」と言われたのです。
 その前に戸田先生は石田先生に「石田次男が会長をやれ。お前の名前は次(つぐ)だろう。会長を次ぐのだ」と言われたのです。その時のことを石田先生に聞いてみると、戸田城聖の「法華経入門」「方便品講義」「寿量品講義」「折伏経典」「生命論」は、石田先生が書いていたのです。
 戸田先生は目が悪くて片目は完全に失明です。片目も視力が悪く分厚いメガネをかけていたのです。戸田先生は糖尿病だったのです。当時はまだ医療技術が発達していないから、失明状態だったのです。だから戸田先生の講義は女子に読ませて、自分が聞いていて、それを講義したのです。
 主な講義を書いたのは石田先生だったのです。誰が考えても石田先生は戸田先生を継ぐものだと思っていたのです。しかも青年部第一部隊長です。旗本の中心にいるわけですから、すごい実力です。優れた頭脳があり、勉強熱心で厳格です。どちらかというと牧口先生に似ていたのです。
 牧口先生は厳格な校長先生です。顔を見ても威厳があり「悪は許さん」という先生です。それと石田先生は似ていたのです。石田先生も頑固で「池田大作は絶対に許さん!」と言われていたのです。
 学会本部で「大作!」と呼び捨てしていたのは、石田先生だけです。大作は困り果てて、「先生、その言い方はやめてください」と言っても石田先生は「大作だから代作と言って何が悪いのだ!」と言われていたのです。
 石田先生から見たら大作は無視です。石田先生に敵う人はいないのです。しかも、聖教新聞の専務理事です。誰も文句が言えません。しかも学会初めての参議院議員です。それが「石田が会長になろうと思って、キチガイのようになって業病を発した」と大作は言っていたのです。真相は全然違うのです。
 石田先生が会長を引き受けなかった理由は、まだ悟っていなかったからです。仏教の指導者は仏教を悟らないとダメです。「私は当時35歳くらいでまだ悟っていないのだから、先生の後は無理ですと固く誇示してきたのです。戸田先生から2回も3回も会長をやれと言われたのですが、まだまだできませんと断ったのです」と言っていました。
 その石田先生が池田大作に我慢ならなくなって、「大作は教学がない。だからこうなったのだな」と見抜いたのです。見抜いたけれども、1歩見抜き方が足りなかったのです。「池田大作は朝鮮人だった!」ということを最後まで気が付いていなかったのです。僕は石田先生から「池田大作は朝鮮人だ」とは聞いたことがありません。
 「池田大作は教学がなかったから、会員を間違った方向へ指導している」と感じ取って「直してやろう」と池田大作に教えるつもりで書いたのが、『現代諸学と仏法』という本です。これを池田大作に読ませて「頭を治してやる」と考えてつくられた本です。
 どうしてこうなったのか? 石田先生も一つ見落としたのです。池田大作は朝鮮人だったのです。これは会の中で誰も知らなかったのかもしれません。大久保直彦さんにも聞いたことがりますが、「池田先生は日本人です」と言っていました。
 創価学会の問題は簡単なことで、一番問題なのは、池田大作が朝鮮人だったということです。だから朝鮮宗教になってしまったのです。日本人をだます朝鮮宗教です。
 池田大作は朝鮮人だから、『現代諸学と仏法』を読ませてもわかるはずがありません。あの程度の頭ではわからないのです。その本を出版したのは僕なのです。石田先生の本を出版するお手伝いしていたので、いろいろなことを聞いていたので知っているのです。皆が知らない池田大作のことをいろいろと知っています。
 余談ですが、石田先生の御宅に5年間毎日通っていたのです。教えていただいたあとには、必ずお寿司を御馳走してくれたのです。物を教わっているのに、最後に「寿司を食べていけ」とお寿司を出してくれて、「悪いな」と思っていたのです。
 石田先生は創価学会の専務理事だったので、お金はたくさん持っていたのです。だから有り難くお寿司をいただいたのです。そのおかげで僕の仏教は完成したのです。石田先生がいなければ完成しません。石田先生は誰から仏教を習ったのかというと、戸田先生です。
 戸田先生は牧口先生から仏法を習ってはいないのです。戸田先生は牧口先生の弟子ですが、教師としての弟子であり、日蓮正宗にはほぼ同時に入信したのです。牧口先生は仏教の師ではないのです。
 戸田先生は日蓮正宗に入信してまだわかっていなかったのですが、牢獄に入れられてしまったのです。なんだかわからない状態だったと思います。
 牢獄に入れられた理由は、御本尊の中に「天照大神」が書いてありますが、「小さく書いてあるのでけしからん!」ということです。逮捕された理由はそのようなことだったのです。
 天照大神を一番大きく書かなければいけないのに、それが南無妙法蓮華経の脇に小さく書いてあるので「けしからん!」ということです。軍部の考え方です。それで捕まったのです。捕まったけれど、罪名がないのです。まさかそんなことで捕まえたとはいえませんから黙って牢獄に放り込んでおいたのです。
 捕まったほうからいうと、「何故、捕まったのか?」わからないのです。そんなことは宗教の自由ですから捕まえる理由にはならないのです。事実、創価学会も戦争に協力していたのです。「戦争に反対していた」というのは、ウソであり、牧口先生は「日蓮正宗の力をもって、絶対に戦争に勝たなければいけない。そのためには、この御本尊を拝ませなければいけない」と言っていたのです。
 創価学会が戦争反対で動いたなど全くウソです。牧口先生は「この戦争にどうしても勝たなければいけない」と考えていたのです。それが本当です。
 日蓮正宗法華講員の樋田昌志君が言っていましたが、「学会は攻めてこないよ。今までなら攻めてくるのですが、泣いているよ」と言っていまひた。創価学会は御本尊を取り上げられてしまい、彼らの中心になるものがなくなってしまったのです。
 「御本尊しかない」と教わり、それを「拝んではいけない」と言われているから、学会は仕方なく池田大作が御本尊をつくったのです。
すると池田大作は大商人です。商売人になって御本尊をつくってしまったので、それを拝んでいる連中は、どこへ論争に出かけて行っても負けてしまうのです。「お前の拝んでいる本尊は偽物だ!」と言われて「ひえ〜!」と逃げ帰ってしまうのです。
 「本尊には偽物も本物もないんだよ」と言えないのです。それが言えれば勝てますが、言えないのです。学会員は、それだけ本尊にしがみついてしまい執着してしまったのです。本尊がないと信仰ができなくなってしまったのです。
 「信仰とは本尊に向かいお題目を唱え続けることだ」と、このような信仰になってしまったからダメなのです。樋田昌志君も自慢していました。「もう学会はかかってこれないな。あいつらパワーがないよ」と言っていました。そうならないのが正理会です。
 創価学会の戸田先生の後継者は石田先生であり、正理会があるのです。それを皆、覚えておきなさい。

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2016年05月17日

人間の探究 510 池田大作の最後

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※間違いなく池田大作は死んでいると思います。半分はミイラになっているでしょう。

人間の探究 510 池田大作の最後

 間違いなく池田大作は死んでいると思います。半分はミイラになっているでしょう。今はミイラをつくらなくても蝋人形の技術があるから、蝋人形にして寝かしておいて、それが「ミイラだ」と言っていればすんでしまう話です。
 レーニン、金日成、金正日にしても蝋人形か何かわかりません。そのようにすればよいのです。池田大作をミイラにすることが、創価教育の行きつく先です。日蓮正宗の樋田昌志君が盛んに言っています。「もう学会は勢いがありません」、最先端の教学部の理論的根拠がないのです。今まで創価学会の組織を保ってきたのは、大石寺の本尊による権威です。
 この本尊を持っているから、「日蓮正宗の猊下は最高に権威がある」と思われてきたのです。その猊下から創価学会会長は任命されたのです。最高の御本尊があり、その最高の御本尊を持っている猊下から任命されたのが、創価学会の正当性を証明できる唯一の根源だったのです。
 だから戸田先生は「絶対に本山に逆らってはいかんぞ。どのようなことがあっても、人事や財務に口出ししたりしてはならない。信者は信者としての分を尽くせ」と言われたのです。戸田先生の言われたことには道理があるのです。
 「必ず将来、この本尊を否定する者が出てくる。すると学会の権威はなくなるぞ。何故ならば学会の正当性は本尊の本尊によるものだ」ということです。「唯一絶対の本尊、日蓮大聖人様の生まれ変わった本尊、生まれ続いている本尊」という教義を否定されれば、学会は空中分解するのです。
 池田大作は戸田先生のご意向を知っていたはずなのに、いつの頃からか我が出来てきて「俺が」になってしまい、終いには「俺が本尊になればよい」と考えたのです。池田大作は「自分が日蓮大聖人の生まれ変わりだ」と言ったのです。
 傑作の話があるのです。清澄寺(せいちょうじ)に池田大作が行ったのです。清澄寺は日蓮大聖人様が最初に仏門に入られた寺です。そこで、32歳の時に立宗宣言をされているのです。その清澄寺に池田大作が行った時に、「千年松」という松があり、その松に向かい、「よお、久しぶりだな。700年前も一緒だったな」と池田大作が言ったらしいのです。その松は250年しか経っていなかったのです。まるでマンガです。
 池田大作は「自分が天下を取って思うがままにしよう」と思った瞬間に、本尊は日蓮大聖人ではなくて、池田大作になってしまうのです。池田大商人です。池田大商人が中心になってしまうのです。
 池田大作が死んでしまったら後はどうなるのでしょう。池田大商人はもういないのです。すると、自分を中心に教義を進めてきてしまったら、自分が死んだらその教団は終わりです。何を根拠にして「正しい」と言えるのでしょう。全く言えません。
 だから、それに代わるものとして「世界平和」と言い、「私は平和の戦士だ」「人類みな平等だ」とわけのわからないことを言って、創価学会はその辺に転がっている思想をバックボーンにしようとしたのです。
 立正佼成会も、真光教団も同じです。皆、そのところへ陥ってしまうのです。凡才だからです。矢野絢也も「学会本部の高級幹部の連中たちが、池田大作が死んだらミイラにしたい。ミイラにするのは日本の法律ではできない。何とか矢野さんの力で法律を変えてくれないか」などと馬鹿なことを本気で頼んだのです。この連中は何を考えているのでしょう。こんな奴らが幹部で、何の指導をするのでしょう。
 そこで、樋田昌志君が必死になってやろうとしていることは、戒壇の御本尊を信じさせようとしているのです。「我々のほうが正しいのだ。それは戒壇の御本尊を信じているからだ。」言っていることはそれだけです。それも違うのです。
 このような立場に立った正理会は初めてです。学会の立場でもありません。しいて言うならば、教学は大石寺を信じてもよいと思います。一つだけ気に食わないことがあります。それは天皇陛下を敬わないことです。日本の国體を言いません。「日本人」を強調しないこと、これはダメなのです。
 大石寺は板本尊以外を否定して「この本尊以外の本尊を拝めば地獄へ行く」と言いますが、拝んだってよいのです。大石寺が我々を認めれば、我々はいつでも大石寺の信者になります。離れる必要もないのです。
 しかし、間違っていることは「間違っている」と言っているのです。大石寺の三大迷信である板本尊・ご秘符・お肉牙、これらは間違いです。明快な間違いです。では、「この3つを除いたら大石寺には仏教はないのか?」ということを考えなければいけません。
 仏法は物の法ではないのです。そんな物を除いても仏法はあるのです。それを指導していくべきなのです。ただ、単に「板本尊を信じなさい。板本尊が万病を治すのだ。どんな願いも叶います」とやるから、人間がおかしくなって樋田昌志君のようなキチガイが出てくるのです。
 本尊論争ばかりです。本尊論争を何年やっても成仏はできません。「日興聖人は相承を受けたのか、受けていないのか」そんなことを何年考えても、何の進歩もしません。日興聖人は日蓮大聖人様から受け継いだ二箇相承というのがあるというのです。
 ところがそれは、「偽物だ」という学者も多いのです。偽物か、本物かという論争をずっとやっても、どちらの言い分もあるのですから、そんなことはどうでもよいのです。僕はそのような考えです。
 そんなことを言ったら大石寺の板本尊はどこにあったのでしょう。身延山の山の上に七つ池という池があり、そこに楠が浮いていたというのです。身延山に楠が生えるのでしょうか。しかも直径2メートル以上ある楠が生えているわけがないのです。
 そのような論争になってしまうのです。そんなことはくだらないことです。「御本尊が偽物か、本物か考える前に仏道修行をしなさい」、それが正理会の役目なのです。正理会の教義は誰からも絶対に破られません。
 二箇相承は本物かどうかなどという論証をして、「あれは偽物だった」という結論が出れば終わりです。そんなことはどうでもよいのです。「仏法とはこのようなものだ」ということを考えて、仏道修行していくと、日蓮大聖人様は本仏であるとわかってきます。日蓮大聖人本仏論は、日興聖人から大石寺に代々伝わっているのだから、大石寺も敬ってもよいでしょう。
 大石寺の三大秘宝は邪教であり、こんな物を信じるのはおかしいのです。そこから仏教が消えてしまうのです。お肉牙が人間になるとか、煤払い(すすはらい)した紙(ご秘符)を飲むと万病が治るとか、馬鹿なことを言うものではありません。その段階で、大石寺の教義を自ら否定しているのです。
 僕は文献論争はやりません。どこの連中も、そればかりです。「どこの本尊がいいのか」「次の猊下は誰か」「猊下が芸者遊びしている」とか、そんなことは信仰と何の関係もないのです。信仰とは自分を磨いて仏になったかどうかです。
 樋田昌志君も議論をふっかけてきなさい。いつでも受けて立ってあげます。結構論客で、創価学会を泣かせているらしいのです。でも彼も言っています。創価学会は大石寺から全員が破門されたのです。池田大作をまず破門しました。池田大作だけ破門すれば、信者は残るだろうと考えていたのです。
 ところが池田大作を破門したら、池田大作が開き直ったので、会員がほとんど池田大作についたので、会員も破門になってしまったのです。破門になるということは大石寺の大御本尊を拝めない立場になってしまったのです。それは本当に困ってしまったのです。
 拝みたい人は大石寺に入信した人もいるのですが、大多数の人は池田大作について、池田大作が下した本尊を代わりに受持したのです。
 そこで池田大作も言えばよかったのです。「本尊は仮の姿であり、本当の本尊は目に見えないものである」と言えばよかったのです。馬鹿だからできないのです。新しい本尊をつくって、「この本尊が本物である」という論争に入ってしまったのです。「どこの本尊が本物か」などと、永久に馬鹿なことをやっていなさい。
 僕たち正理会はそんなことはしません。中身で来なさい。これが僕の立場です。論争はいつでも受けます。質問にはすべて答えます。是非、ご質問、不審な点がありましたら、どうぞおっしゃってください。

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2016年05月16日

人間の探究 509 能生(のうしょう)・所生(しょしょう)について

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※花も南無妙法蓮華経、稲も南無妙法蓮華経、草も南無妙法蓮華経、人間も南無妙法蓮華経、馬も南無妙法蓮華経、豚も南無妙法蓮華経

人間の探究 509 能生(のうしょう)・所生(しょしょう)について

 坊さんのことを所化(しょけ)といいます。修行を積んで偉くなったお坊さんのことを能化(のうけ)といいます。所化とは教えを受ける立場の人のことをいいます。だから一般のお坊さんを「所化さん」といいます。
 能生とは仏教を勉強して極意を体得して、人に教えることができるという意味です。お寺に入って庭でほうきをはいているのが所化さんです。
 能化さんは、お経を読んで講義をしている人です。最近は、この違いもよくわかっていないのです。坊主とひとくくりにしてしまっているのです。坊主には能化と所化があるのです。修行中の坊主を所化といいます。修行が完成して人に教える立場になった人を能化というのです。
 これはお坊さんに限った話ですが、もっとひるがえっていうと、生ずるところを能生といいます。世の中には様々な法があります。法あるというとわかりにくにですが、様々な人間がいると考えたほうがよいのです。
 動物もいます。馬も豚も猫も牛もいるのです。これは能生から出て、生じたもののことをいうのです。我々が生まれてくる根本のところを能生というのです。生まれて豚・牛・馬になったというのは所生なのです。
 目に見えない法が目に見える形で動物になったり人間になったりして生じたのです。「どこから生じたのですか?」というと能生から生じたのです。坊主が修行して「私は能化です」などと言ったらチャンチャラおかしいのです。それは本当の能化ではないのです。
 生命の法則の根本のところを能生というのだから、そこまで到達したお坊さんならば確かに能化です。それを到達もしていないのに「能化さん」と言われて偉ぶっているのです。本来の意味はそのような意味ではありません。
 生命が生ずる根本の法のことを能生と言っているのです。生じたところのものを所生言っているのです。これがわかっていないのです。法華経は能生の教えです。我々衆生は所生です。
 「どうしてこの世に生まれたのか」「どうして今人間でいられるのか」「どうして男でいるのか」「女でいるのか」これを創ってくれたものがあるのです。それが能生です。これらを創ってくれたものの法則性を南無妙法蓮華経というのです。
 ということは、南無妙法蓮華経からあらゆるものが生まれてきていると言ってもよいのです。生まれてきたところのものは、南無妙法蓮華経が創ってきたものですから所生です。
 「我々の本体は何ですか?」ということを明らかにしていくことを仏道修行というのです。実に様々なものを能生は創りだしていくのです。何でも創ってしまうのです。木・草・花・みかん・りんご、不思議なもので、なんでも創ってしまうのです。種類は何百万もあり、何でもでてきてしまうのです。
 その能生の法則は南無妙法蓮華経だから、南無妙法蓮華経というとすべてがつながってしまうのです。花も南無妙法蓮華経、稲も南無妙法蓮華経、草も南無妙法蓮華経、人間も南無妙法蓮華経、馬も南無妙法蓮華経、豚も南無妙法蓮華経・・・・、生命は千差万別であるけれども、その根本を創り上げていく法則のことを、南無妙法蓮華経というのだから、南無妙法蓮華経でひとくくりにすると、すべて同じ物になってしまうのです。同じ物が様々に現れているとわかるのです。
 創価学会は「南無妙法蓮華経は宇宙の法則だ」と言いますが、そうではないのです。宇宙の法則ではないのです。南無妙法蓮華経は因果の法則です。「何故、豚になったのか」「何故、人間になったのか」「何故、馬になったのか」それには、因果があるのです。
 因果の法則のことを説いたものが、南無妙法蓮華経です。因果の法則により豚になり、馬になり、人間になり、様々な生命になってきたのです。その自分の正体というものをまず知る必要があるのです。
 せっかく人間に生まれたのだから、仏にも成れるのです。大部分の人はせっかく人間に生まれたのに仏法僧の三宝をみずして、自らの欲望に基づいて暴れまくり、闇から闇へ死んでいってしまうのです。権力や欲望を求めるからそうなるのです。
 「権力を求める、富を求めるのが人生」と考えて、実存を得ないで、自分の法則すらわからないで闇から闇へ落ちてしまうのです。南無妙法蓮華経の法則を知らないと地獄へ行ってしまうということです。自分のやったことはすべて自分に返るのです。人殺しをしたら、その因果を100%必ず受けるのです。だから「人殺しをしてはいけない」という教えを守っていかなければいけないのです。
 人は苛めてはいけない、欲をはって欲のために人を苦しめてはならないのです。これは簡単な仏の教えです。地獄へ落ちないために、南無妙法蓮華経の教えに従っていけばそうなるのです。自分のやったことは必ず自分に返るのです。
 「あの野郎、憎いから」と殺したら、殺しの因果に入ってしまうのです。殺された側は永遠に「あの野郎、やりやがったな」と恨んでいるのです。今度は殺された人が待ち構えていて、「お前、死んできたな。今度は俺がやるぞ!」とやり返すのです。
 それをやりかえして、繰り返しながら川のように流れていくから、どんどんそれが広がって四悪道、三悪道の世界に入ってしまうのです。仏法を知らないとそうなってしまいます。仏法を知っている人は、そのような道は極悪非道の道であり、人間を幸せにしないと知っています。そのような道に入らないようにしなければいけません。
 誰かに喧嘩を売られれば殴ってしまいます。そこで因果に入ってしまうのです。因果に入ってはいけないのです。向こうから「危ない奴がきたな。これは馬鹿だな。キチガイだな」と思ったら避けなければいけません。このような者には近づいてはいけないのです。
 近づけば必ず因果に引きずり込まれてしまいます。相手は因果を壊すためにくるのです。因縁をふっかけて「お前、ガンをつけやがったな!」と言い、「何もしていないよ」と言っても「なんだ、この野郎!」と相手の因果に引きずり込まれてしまうのです。
 そうならないためには、相手の因果をはずさなければいけません。変な奴とは口をきいてはいけないのです。世の中に馬鹿とキチガイはいるのだから、そのような因果に入らないことです。「貴方とは話しません。失礼します」そうしない限りは、どんどん因果に引きずられてしまいます。
不良は「自分が因果にはずれていることをやっている」と本能的に知っているのです。だから、一人でも多くの人を引きずりこんで、地獄へ行く道ずれをつくりたいと思って因縁をふっかけてくるのです。そのようなことに注意しなければいけません。
 いたるところにうじゃうじゃいるのです。人生は危険がいっぱいです。一歩間違えたら地獄へ行ってしまいます。気を付けないといけません。
 車で後ろからクラクションをならされたから、「何よ!」と車から降りて「この野郎!」と殴り合ったらもう地獄の道へ行ってしまうのです。それが始まりです。
 今まで因果がなかったのに、「殴った」「殴られた」「やり返した」「またやり返した」この因果の中に入ってしまったら逃げられないのです。
 実はそのような因果の中に入ってしまった連中が、暴走族やヤクザになっていくのです。最初から暴走族をやろうという人はいないのです。何かのきつっかけで引きずられて因果に入ってしまうのです。中でヤキを入れられて、敵対する暴走族と喧嘩した。今度、やられた方は恨みをもって仕返しにきます。遂に命まで取ってしまい、永遠の因果が続くのです。そしてお互いに地獄へ行ってしまうのです。
 そのような変な因果を見抜いて近づかないことです。悪人には近づいてはいけません。朝鮮人にも近づかない、このようなことを知ることが因果の理法を知る人の生き方なのです。

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2016年05月14日

『般若心経の大予言』■ケチは餓鬼道に生まれる原因となる 17

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※餓鬼界とは食べても食べても物足りない。これは食事だけに限らない。金・地位・名誉などに飢えた人が水を欲しがるように欲するのです。

『般若心経の大予言』■ケチは餓鬼道に生まれる原因となる 17

 欲しくて、欲しくてしょうがない、欲しいけれども手に入らない、あるいは手に入っても満足しない、手に入ったものはすぐあきてしまい、また次のものが欲しくなる。
 この命が餓鬼界の代表的なものですが、餓鬼界に落ちる業因は、慳貪(けんどん)の罪によります。慳貪とは分かりやすくいえば、ケチということであり、倹約ならざるケチは餓鬼道に落ちます。
 あなた方の身の回りにもいませんか? 相当な資産家なのに、人にコーヒーもおごらない。この間、テレビでケチ比べをしていましたが、ある静岡の事業家の話ですが、かなり成功しているにもかかわらず、その事業家は新築ビルの窓という窓に全部ベニヤ板を張って真暗にして、そのビルから外は見えないのです。
 アナウンサーの質問に答えて、「光が入ると畳が焼けますからハイ!」というのには驚きました。これなどはご愛嬌のうちですが、「知っているのに教えない」「余っているのに人にあげない」「優しくできるのに優しくしない」、これらは皆慳貪の罪であり、現世も餓鬼道に落ちると共に、来世も餓鬼道に生を受けます。
 「足るを知る」、これは大事な人間の徳目であるのに、現代は「足らざるを知らない餓鬼」を大量に養成しているかのように見えます。このケチが落ちる餓鬼界はどんなところなのでしょうか。
 アフリカの砂漠の飢餓に苦しむ人、バングラディシュの飢えた農民、現身に餓鬼道に落ちた人達です。人事ではありません。日本でも過去に何度もの天災・戦乱などにより、飢餓は経験しています。天保の大飢饉などでは、飢え死にした人が何十万人もいたと記録されています。東北では人肉まで食べたのです。
 戦後もひどいもので、「すいとん」やら「芋のつる」やら「桐の木の油」など、それはひどいものでした。道端には下腹部がふくらんだ、栄養失調の死体が転がっているような状態でした。「すいとん」でも何でも食べるものがあり、口にできればまだ良いほうです。
 勝海舟の「氷川清話」によれば、食べる物がまるでなく、木の皮を剥いで裏側の柔らかいところを木槌でたたいて食事したこともあり、それもなくなると黄土を水に溶いて小石を除き、その上澄みをかためて団子にして食べた、ともあります。「土を食べると体が黄色くなって困った」と、笑い飛ばしていますが、その当時は笑うどころではなかった事でしょう。
 戦国時代でも敵に攻められ、篭城し、食べる物が尽きると、馬を食し人を食し、遂には城の壁を破って中のワラまで食べたとあります。
 このような飢餓を体験させられるのが餓鬼道なのです。ニューヨークなどでは食はあり余っているのに、瘠せる為に絶食し、遂に栄養失調で死んだ、という記事もありましたが、これも餓鬼道に落ちたのであり、来世は餓鬼界に生を受けます。
 天台大師の摩訶止観にもあるように、「もしその心、念々に」が、現世と来世の果を招くのです。ダイエットにより「念々に」飢餓感をいだくならば、その心は餓鬼道を修行している事になり、必ず最後は餓鬼界に生を受ける事になってしまいます。
 そして死後、餓鬼道の実果を得て、餓鬼が集まる餓鬼界の衆生として生を受けるのです。現実の様々な世界の飢餓の事実を見て、「それを我が身」と感じている人がいる限り、餓鬼界の実存があるのを疑ってはなりません。
 また餓鬼界といっても一つではなく、仏典によれば三十六種類の餓鬼があるとされます。日蓮大聖人の「四条金吾殿御書」には、
  総じて餓鬼に於いて三十六種類、相わかれて候、其の中に鍔身餓鬼(かくしんがき)と申すは、目と口となき餓鬼にて候、是は何たる修因ぞと申すは人の口よりはき出す物を食し候(※嘔吐物の事)是も修因上の如し、また人の食をうばうに依り候。食水餓鬼というは、父母孝養のために手向ける水などを呑む餓鬼なり、有財餓鬼と申すは、馬の蹄(ひづめ)の水を飲む餓鬼なり。是は今生にて財を惜しみ、食をかくす故なり、無財餓鬼と申すは、生まれてより以来、飲食の名をも聞かざる餓鬼なり、食法餓鬼と申すは、出家となりて仏法を弘むる人。我は法を説けば、人尊敬するなんど思ひて、名聞・名利の心を以て人に勝れんと思うて、今生を渡り、衆生を助けず、父母を救うべき心もなき人を食法餓鬼として、法を食う餓鬼と申すなり・・・
 これだけではなく、まだまだあるのですが省略します。日蓮大聖人のこれだけの御教示を知っただけで、物事の見方がまるで変わるはずです。本人は仏法を知らざるゆえに、良いと思ってやっている事が、実は餓鬼界に生を受ける為の修行をやっているのだと知ったら、どんなにか驚く事でしょう。
 「欲しくて、欲しくてしょうがない」「自分の物はチリ紙でもあげない」、実はこれは餓鬼界という一つの心の裏表であると知る必要があります。

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