2021年06月13日

『仏法と神道』 死の恐怖に打ち勝つ方法を教えてください

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※三島由紀は自分の肉体を積み木のように考えていました。肉体を改造して肉体はちょうど自然が与えてくれたおもちゃです。そのような解釈で、肉体とは神様が与えてくれたおもちゃですから、自分の意志でコントロールできるのです。ボディービルをやる前の三島は、着物を着て青病たんで結核で死にそうになり歩いていたのですが、何かの拍子にそれを恥じたのです。「こういう姿は恥ずかしい。自分で自分の肉体を鍛えて積み木のように作っていかなければならない」だから、ボディービルを始めたのです。それから、ボクシング、剣道を始めました。

『仏法と神道』

死の恐怖に打ち勝つ方法を教えてください

 人間は死を恐れる動物です。しかし、死を恐れるのは人間だけではなく、生きているものはすべて死ぬのを嫌がります。せっかく自分が作ってきたものが一瞬にして無くなってしまい、自分が土に帰るのですから嫌がるのは当たり前です。
 しかし、死ぬ事がない人間などいないのであり、必ず人間は死にます。古来から、この問題をなんとか解決したいと人間は思ってきました。古くは秦の始皇帝は、不老不死の薬を求めて徐福に「取ってくるように」と頼みました。死ぬことだけは秦の始皇帝もどうすることもできなかったのです。
万里の長城を造り、始皇帝陵を造り、度量衡を調整し、道路を整備し、多くの事業を成し遂げてきても「自分が死ぬ」ということだけは、どうすることもできない運命です。それがいつくるかも分からないし、しかも死は自分では支配できません。死はいつ来るかもわからず、支配することもできませんから始皇帝も恐れたのです。
死を恐れたのは当たり前で、ローマの皇帝も死を恐れました。エジプトのピラミッドも人間が死を恐れるが故に造られたと言われています。天国に昇天してまた地上に戻ってくると信じられていたのでミイラも造りました。ここにミイラとして残しておけば、必ず甦るのだと信じて永遠の生命を求めたのですが、それは不自然な行動であり永遠の生命を得た人はいません。
昔は「人生わずか五十年」だったのですが、今は百年近く生きられるようになり、それが二百年になったり、三百年になったりするかもしれません。特にIPS細胞など発見されたのですから、臓器の入れ替えにより人間は二百歳くらいまで生きられるのかもしれませんが、死ぬことには変わりありません。
なんとかして、この問題を解決したいと考えたのがお釈迦様です。「人間は必ず死ぬ。この問題を解決しない限り人生の問題は解決しない」このように考えてお釈迦様は仏門に入ったのです。当時、仏門はないので修行者の仲間に入り、この問題を明らかにしようと思ったのです。
解決できたのかというと、「解決できた」とお釈迦様は言っています。これが、無上等正覚(むじょうとうしょうかく)です。これが、お釈迦様の三十二歳の時の成道の姿です。菩提樹の木の下で座禅を組み、七日七晩の魔との戦いに応じて、遂に降魔成道(こうまじょうどう)、魔を下して仏と成ったのです。仏と成ったとは永遠の生命を体得したのであり、これが仏法の始めです。
これが仏法ではなくて小説家なども同じで、やはり皆死を恐れました。文学者はよく自殺をしますが、これは何故かというと文学者は感性が強いので、死という問題に真っ向からぶつかるのです。芥川龍之介、川端康成、太宰治、三島由紀の自殺もそうです。
何故、自殺するのかということ、「死ぬ」ということを自分で選ぶことにより死の恐怖から脱却しようとするのです。死というものは黙っていても誰にでもやって来ます。だからそれを自分で選ぶのであり、自分で選べばその分怖くないのです。
「今死ぬぞ!」と言って自分で死ぬのですから怖くないのです。いつか事故に遭ったりり、地震でつぶされたりしたら大変なことですが、少なくとも自分の意志で「死ぬ」ということは死の恐怖から脱することができます。
三島由紀は自分の肉体を積み木のように考えていました。肉体を改造して肉体はちょうど自然が与えてくれたおもちゃです。そのような解釈で、肉体とは神様が与えてくれたおもちゃですから、自分の意志でコントロールできるのです。ボディービルをやる前の三島は、着物を着て青病たんで結核で死にそうになり歩いていたのですが、何かの拍子にそれを恥じたのです。「こういう姿は恥ずかしい。自分で自分の肉体を鍛えて積み木のように作っていかなければならない」
だから、ボディービルを始めたのです。それから、ボクシング、剣道を始めました。そして、今度は自衛隊にも参加しました。積極的に動くことにより、ちょうど四十五歳の時に完璧な肉体が出来上がりました。完璧な肉体とは何かというと、いかなる軍隊の皇軍にも耐えられる肉体、それから敵の攻撃を受けた場合、五〜六人の敵ならば一瞬にして打ち破る能力、頭の中身は文学者なのですから最高です。
この凄い文学者の頭に肉体をつくっていったのです。三島由紀夫の一つのテーマであり、「優秀な肉体をもった人間に何故、馬鹿が多いのか?」ということを昔から言っていました。「ギリシャでは、立派な肉体に立派な心が宿り、貧弱な肉体には貧弱な心が宿る」と言ったのです。事実、スポーツ選手で気が弱かったり、自殺した人もたくさんいます。どうもそぐわないという気持ちがあったので自分が鍛えてみたのです。
それから、お神輿を担いでいる若者たちは陶酔しています。「あのお神輿を担いで、『ワッショイ、ワッショイ』と言っている人たちは何を見ているのか、それを知りたい」これは、自分がやってみないと知りえないことなのです。だから、三島はお神輿を担いだり、ロッキードF-104戦闘機への搭乗体験で「音速で飛ぶパイロットは何を考えているのだろうか」ということを体験したかったのです。自衛隊の一か月の行軍にも一兵卒として参加して厳しい訓練を二十歳くらいの若者に交じって本当にやったのです。
そして、肉体と精神がどのような関係になっているのかということを充分に勉強したうえで、彼は積み木が積みあがったように、ちょうど四十五歳の時に完成したのです。立派な建物ができた時に、「それを壊すのは誰だ? 俺だ!」ということです。立派な肉体を作ったけれども、今度は壊さないといけません。自然に任せていたら、だんだん老いて自然の力で滅びるのですが、「それは嫌だ! 自分で肉体を作ったのだからこれを自分で壊したい」と思ったのです。これは潜在的な欲望です。「壊したい」という一つの希望があったのです。
彼は『花盛りの森』という小説を書いた時に、セバスチャンの処刑の姿があり、弓矢で打たれ、苦悶にあえいで死ぬというセバスチャンの銅像を見た時に「銅像の人物は何を感じたのだろうか? 苦悶を感じたのか、快感を感じたのか知りたい」ということが、子供の頃からの欲求でした。だから三島はサド的なことも言うのです。「苛められてうれしいのか、悲しいのか、快楽なのか知りたい」という自虐的な考え方です。
三島は「ホモだ」とか、「マゾだ」とか言われていますが、マゾとは聖セバスチャンにつながります。ホモというのは、「男と女が愛することは自然のことだが、男と男が愛するとはどのようなことなのか知りたい」という感情であり、三島は若い頃、美輪明宏を追い回して振られたのです。それが劣等感になって「今に何かやってやるぞ」と思ったのです。
その心と同時に論理的な憲法問題が三島の心の中にあり、「これは死ななければならない。どうせ死ぬならば意義のあることで死にたい」と思い設定したのが、三島事件(一九七○年)です。彼は演出家でもありましたので、自分の死を最も具体的にかっこよく、そして後世に残るような演出の方法を選んだのです。
三島はガラガラポンして自分を壊すことにより死の恐怖から遠のいたのです。芥川龍之介も漠然とした死への不安があり、「将来どうなるのだろうか」と思っていました。いつまで生きるか分からないことは不安です。その漠然とした不安から逃げるのは死ぬしかありません。
逆説的ですが、死という不安から逃れる為には死ぬしかないのです。自分で死を選ぶのですから怖さは半減します。誰かから殺されるというわけでもないのです。一番怖いのは癌病棟に繋がれて、あちこち鎖でつながれてもだえ苦しむような死に方は最も嫌な死に方です。
潔く「自分は死ぬのだ」と言った瞬間に死は遠のきます。特攻隊の若者達は死など無いのです。「よっしゃ、やるのだ!」ということが先行しているので、死ぬなど名誉なことで死の恐怖など無いのです。今の我々が考えて映画で「お前、いくのか」などと泣いているようなものではなく勇んでいくのです。「ワッハッハッ、死ぬぞ!」と笑って、「靖国神社で会おうな」と行ったのです。死を選び取った人に死はないのです。これが、文学者の自殺する本当の理由です。
しかし、それでは永遠の生命は体得できないので、仏法は永遠の生命を体得させるように説いています。


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2021年06月12日

創価学会 (5)

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※創価教育学会初代会長の牧口常三郎先生(右)
 創価学会に改めた、第二代会長の戸田城聖先生(左)
 創価学会は、最初は教育者の団体だったのです。

創価学会 (5)

■質問者「南無妙法蓮華経と唱える創価学会について教えてください。政治団体(公明党)なのか宗教団体なのか、その正体は何でしょうか?」

■お答えします。
創価学会とは、日蓮正宗の信徒の集まりでした。これは戦前の牧口常三郎(小学校校長)の教育研究団体である創価教育学会が、日蓮正宗の某から折伏を受け、日蓮正宗に入信したことから始まります。
牧口常三郎は独自の価値観をもっており、それは「利・善・美」という価値観でした。カントは人生に大事なものは「真・善・美」だと言っていたのです。これは、真っ向からカントを否定する哲学です。
人間にとっての真実は、価値あるものではなく、利があってはじめて価値が出るというようなものです。このような人生観を持っていた牧口先生にとって日蓮正宗の信仰は「利がある」と判断したのです。
創価教育学会の会長が日蓮正宗に入信したのですから、学会員達は全員日蓮正宗に入信したのです。これが戦前の創価教育学会の始まりです。会員のほとんどは、小学校の先生でした。幹部21名からなる学会の理事長として、戸田城聖がいたのです。
牧口常三郎は、生真面目な人でした。「日蓮大聖人のように邪教を攻撃しなければ、日本は戦争に負ける」と言っていたのです。これを聞きつけた軍部は、治安維持法で幹部を捕まえて拘置所に入れたのです。
そして、牧口先生は拘置所で死んだのです。戸田城聖先生も二年間、拘置所に入れられたのです。牢獄の中で戸田先生は、1945年7月に出所したのです。牢獄の中で法華経を読み、その真実を悟ったのです。焼け野原に立った戸田城聖先生は、「創価教育学会」から教育の二字をとり、「創価学会」として民衆相手に折伏を開始したのです。
戸田先生は創価学会第2代会長となり、組織を整備し、75万世帯の折伏を目標に掲げます。都市の低所得層や、農村から都会に出てきた病人や、失業に悩む青年が主な会員でした。
戸田先生は会員たちに対して、題目を唱えることと、折伏によって生活が向上することを約束したのです。「一年間、戸田の言うことを信じて、折伏をして願いが叶わなかったならば、戸田の首を取りに来い!」と言ったのです。
学会員は戸田先生の言葉を信じて、布教活動により75万世帯の折伏の目標を達成し、日本における基盤を確立したのです。1952年に創価学会として、宗教法人の認証を得ました。
1958年4月、戸田先生は日大病院で死去したのです。戸田の死後、第3代会長に就任した池田大作の下、さらに会員数を増やし、10数年間に、公称300万人を超える大規模宗教団体となったのです。
また、日本国外への布教も進め、51か国の団体が集い「創価学会インタナショナル」(SGI)という世界的組織(任意団体であり宗教法人ではない)を作ったです。戸田会長の時代から、学会員は無所属議員として地方議会や参議院に立候補していました。1964年(昭和39年)には「公明政治連盟」(後の公明党)が創設され、その後、公明党が結成され衆議院にも進出したのです。
創価学会は支持母体として「公明党」を後押ししています。日本国憲法の「政教分離原則」とのかねあいで論議を呼ぶことがありますが、これまでの政府見解で宗教団体による政治参加が否定されたことはありません。
 創価学会は、会員数や資金力が増大にするとともに、相対的にその比重が低下していた寺院や僧侶からの独立を志向したのです。宗門である日蓮正宗との間でしばしば摩擦が生じたのです。
1991年11月、創価学会は日蓮正宗から破門され、「宗門」と「講」という関係が解消されました。また日蓮正宗総本山・大石寺の富士宮市で富士桜公園墓地問題や百条問題、元山口組系後藤組と絡んだ市の政争事件にまで発展した経緯があります。
2002年に会則(宗教法人法上の「規則」)を変更し、それまでの教義、本尊などに関する規定を変更し、牧口、戸田、池田の三大会長を「永遠の指導者」とするなど、独立した宗教団体としての方向性を打ち出したのです。
創価学会は、日蓮大聖人を末法の本仏と仰ぎ、その日蓮大聖人の仏法を広宣流布(広く布教)することを使命とする仏意仏勅の教団であるとされ、根本目標は「人間主義」「生命の尊厳」の確立に基づく「万人の幸福」と「世界の平和」の実現だとされています。
また、「学会精神」とは「三代会長」に貫かれる師弟不二の精神と広宣流布実現への死身弘法の実践であり、これは永遠の規範であるとされたのです。ここまでが、創価学会のレ歴史です。(続く)

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2021年06月11日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 11

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※「見たこともない立派な牛舎に乗せてあげる」というのは、方便です。「お前達、熱中していることよりも、命が大事ではないのか?」と仏様は言われているのです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 11

 「亦諸の方便を以て 是の如き法を演説したもう」
 また、諸々の方便をもって、かくの如きの法を演説したのです。
 「今者(いま)の世尊の如きも 生じたまいし従(よ)り及び出家し」
 今の世尊のごときも、生まれてから出家に従い
 「得道し法輪を転じたもうまで 亦方便を以て説きたもう」
 貴方達が法輪を転じてもらうまで、仏は方便を辞めることはありません。ここのところをよく考えてみないといけません。「実相」といいながら、「方便を聞きなさい」と言っているのです。仏の方便に乗っていると、バンと成仏ができるのです。
石田次男先生に言わせると、方便は必要悪です。方便などと言わないで、本当のことを言えばよいのです。しかし、本当のことを言ったら衆生は何もわかりません。遊び戯れている子供達がいて、「三車火宅の喩え」という譬え話があります。
子供たちが家の中で遊んでいると家が火事になってしまうのです。子供たちは遊びに熱中していると、家がどんどん燃えているのです。「おい、火事になったぞ、早く出て来い!」と言っても、「今、面白いところだから放っておいてくれよ」と言って、出てきません。
仏様が方便で牛車をつくり、火事の家の前に行くのです。「おい、お前達はこんな素晴らしい車は見たことがないだろう、乗せてやろうか?」と言うと、「えっ、乗せてくれよ!」とみんな出てきたのです。
それで焼け死ぬことを免れたのです。これを、「三車火宅の喩え」といいます。法華経には七つのたとえ話があり、その中の一つです。それも方便です。「見たこともない立派な牛舎に乗せてあげる」というのは、方便です。「お前達、熱中していることよりも、命が大事ではないのか?」と仏様は言われているのです。
すると、牛舎に乗りたくて、子供達は火事の家から出てきたのです。衆生もそうです。一番大事なことは、妙法蓮華経です。これを悟ればよいのだけれども、悟れないから「お金が儲かるよ」などと方便を言うと、喜んでやるのです。
「創価学会名物、12時間お題目行をやれば病気も治ります!」と言うと信者は喜んでやるのです。病気を直すために仏法があるわけではありません。無明というのは最も大きな病気です。その病を直すために方便を使っているのですが、反対に金儲けの法華経になっているのです。
前世もそうですが、一法を説くために仏は方便をもって説くのです。衆生は一法がわかりません。この法を説いてもわからないから、仏は方便を探すのです。「このような例え話ならば、わかるだろうか?」と思って説くのです。
最後には得道するのです。法輪を与えると「仏様から法輪を頂いて仏になりました。今度は私達が法輪を投げます。一切衆生を成仏させます」という位に上るまで、方便を説くのです。それは、いつの世もそうなのです。
方便がわかって初めて法輪を転じるのです。「よし、成仏したな」と法輪を投げてくれるのです。法輪とは、ホーリーネームを与えるということです。
 「世尊は実道(じつどう)を説きたもう 波旬(はじゅん)は此の事無し」
 「波旬(はじゅん)」
とは、邪教という意味です。仏というのは、無量義一法を説くのが仏です。波道、魔道では、そのことが絶対にできないのです。
「是を以て我定めて知んぬ 是れ魔の仏と作るには非ず」
これをもって我、定めて知っています。これは魔が仏に偽ているだけで仏では非ずです。
魔物は、ニコニコと笑って仏と似ているのです。「あの人は仏様だ」と言われている人は大勢います。「生き仏だ」と言われて、良いことを言って、座禅の法を説いたりしているのですが、魔物はこの得道を説くことはありません。魔物は得道を知りません。
菩薩までは格好をつけるのです。何も得ていないのに、「私は、仏の悟りを得た」と言うのです。十二因縁・四諦の法門を説くのです。それだけでも衆生はビックリしてしまうのです。それだけ説いても「死後の生命はそうなっているのですか」と衆生はビックリするのです。そこまではよいのです。
「座禅が大事ですよ」「真言密教が大事ですよ」「阿弥陀様に西方極楽浄土へ連れて逝ってもらうのが仏法ですよ」そこまでは魔物でも説けるのです。何も悟っていない魔物が「俺は仏教徒だ」と言ってお金儲けをしているのです。それらは魔物です。だまされてはいけません。(12に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
亦諸の方便を以て 是の如き法を演説したもう
今者(いま)の世尊の如きも 生じたまいし従(よ)り及び出家し
得道し法輪を転じたもうまで 亦方便を以て説きたもう
世尊は実道(じつどう)を説きたもう 波旬(はじゅん)は此の事無し
是を以て我定めて知んぬ 是れ魔の仏と作るには非ず


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2021年06月10日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 10

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※NHKBSの『プレミアムカフェ 熱狂!100万人の山車祭り インド』(初回放送:2003年)という番組を見なさい」と言っているのです。これを見ると、法華経の世界観がわかるのです。インドの山奥の祭りです。100万人が集まってくるのです。その街では人に埋め尽くされて、まさに無量の衆生です。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 10

「今仏の音声(おんじょう)を聞きたてまつるに 宜しきに随って法を説きたまえり」(続き)
チベット仏教でも、角笛を吹きます。音が関係しているのです。ドンチャンドンチャンブォーと演奏すると、110ヘルツになるのです。すると人間の体は110ヘルツという振動音によって創られているから、宇宙と共鳴するのです。
宇宙も110ヘルツという不思議な振動から成り立っているのです。中性子の小さい粒子から、大きな物質も振動しているのです。これは、現代の物理学でいうところの超弦理論(ちょうげんりろん)と同じです。超ひも理論、スーパーストリング理論とも呼ばれています。
これは、華厳経と同じ理論です。「あらゆるものはつながっている。単独で存在するものは何もない。全てがつながっている」というのが華厳経の教えです。小さなものから、大宇宙まではつながっているのです。それが超弦理論(ちょうげんりろん)です。
これをもっと進めてみると円盤もピラミッドもどうしてそんなことができるのでしょうか? 古代には石を宙に浮かせる技術があったのです。イースター島のモアイ像は15メートル以上あります。
石切り場から15メートルもあるモアイ像を運ぶことなどできません。何か不思議な力があったのです。古代では石が宙に浮いたというのです。それで運んだというのです。
バールベックにある石は2千トンです。2千トンの石が神殿の台座に何個も使われているのです。2千トンの石など人間に動かすことなどできません。20トンでも動きません。古代は2千トンの石が動いたのです。これは一体どうしてでしょうか?
ようするに振動も万有引力とつながっているのです。110ヘルツは気持ちがよいのですが、石が浮いてしまう振動音があるのです。引力をなくさなければ、2千トンの石など運ぶことはできません。マチュピチュもそうです。石造りの空中都市です。石を浮かせる技術がなければ、空中都市などできません。
古代は石を浮かせる重力操作の技術があったのです。重力操作の基本的な力は、「音」なのです。人間は戦争になるとラッパを吹きます。ラッパを吹くと、やる気になるのです。ピアノの音ではやる気にはなりません。ところがラッパを吹いて、「パッパッパッパッパッパッパッパー、突撃!」と言われると、兵隊はやる気になるのです。それは、「音」が関係しているのです。
だから、音楽は凄く大事です。法華経でも、仏が説法をすると天は伎楽をもって賛嘆しています。「簫笛(しょうちゃく)琴箜篌(きんくうごう) 琵琶(びわ)鐃銅鈸(にょうどうばつ)」『妙法蓮華経方便品第二』で仏を褒めたたえるのです。「音」に関係しているのです。
 「将に魔の仏と作って 我が心を悩乱するに非ずや」
 まさに魔の仏となり、私の心を悩乱したのです。始め仏様の説法を大いに疑ったのです。もっとひどいことを思ったのです。「仏様は魔が仏の姿となり、我が心を悩乱するために法を説いているのではないか?」と思ったのです。
 「仏種々の縁 譬喩を以て巧みに言説したもう」
 お釈迦様は「そうか、お前は疑っているのか。では、少し譬喩話をしてあげようかな」と思ったのです。
 「其の心安きこと海の如し 我聞きて疑網(ぎもう)断じぬ」
 そのように思った仏様に対して、心が安らかになったのです。海のように静かな心になり、私は仏様の説法を聞いたので、疑いの心を断じることができたのです。
 「仏説きたまわく過去世の 無量の滅度の仏も」
 仏が説いたのは、今の仏も過去の仏も
 「方便の中に安住して 亦(また)皆是の法を説きたまえり」
 方便の中に安住したのです。方便の教えを聞いて無量義一法を理解しようとしたのです。仏は方便から入ったのです。
 「現在未来の仏 其の数量あること無きも」
 現在も未来の仏も、その数は無数の仏がいたのです。「これを理解するためには、NHKBSの『プレミアムカフェ 熱狂!100万人の山車祭り インド』(初回放送:2003年)という番組を見なさい」と言っているのです。これを見ると、法華経の世界観がわかるのです。インドの山奥の祭りです。100万人が集まってくるのです。その街では人に埋め尽くされて、まさに無量の衆生です。
千人、二千人ではありません。山が人で隠れてしまうほど多くの人が集まってくるのです。僕は「これだな、これがお釈迦様が説法された時の状況なのだな」と確信したのです。
ブータンでも、法華経の世界を再現しているのです。緊那羅(キンナラ)、摩睺羅伽(マゴラガ)のような妖怪のお面をかぶり踊りを踊るのです。その祭りにブータン中から、大勢の人が集まってくるのです。ブータンの全土から踊り子を出して、悪霊を払う踊りです。悪霊が逃げ去った後に、仏様が出てきて説法をしてくださる広大な祭りです。
法華経に説かれている、「大比丘衆万二千人と俱なりき。」『妙法蓮華経序品第一』というのは、本当なのだなとわかってきたのです。チョロチョロと人が集まってくるのではありません。インドの祭りでは、100万人が集まってくるのです。
「仏道を志求する者 無量千万億」『妙法蓮華経方便品第二』と言うのですから、100万人でも足りません。こんな数ではありません。仏様の説法を聞きに雲霞(うんか)のごとくの衆生が集まってきたのです。今でもそうなのですから、昔はもっとそうであったのに違いありません。BSの番組は是非、皆さんも機会がありましたら見てもらいたいと思います。(11に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
今仏の音声(おんじょう)を聞きたてまつるに 宜しきに随って法を説きたまえり(続き)
将に魔の仏と作って 我が心を悩乱するに非ずや
仏種々の縁 譬喩を以て巧みに言説したもう
其の心安きこと海の如し 我聞きて疑網(ぎもう)断じぬ
仏説きたまわく過去世の 無量の滅度の仏も
方便の中に安住して 亦(また)皆是の法を説きたまえり
現在未来の仏 其の数量あること無きも



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2021年06月09日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 9

898
※妙法はすぐに消えてしまうのです。有名人が活躍しても、すぐに年老いて死んでしまうのです。死んだ人は何処へいったのでしょうか? あの世でまた歌手をやっているのです。美空ひばりも歌手をやっているのです。(写真ーAIの美空ひばり)

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 9

「今仏の音声(おんじょう)を聞きたてまつるに 宜しきに随って法を説きたまえり」(続き)
仏道修行を続けていくと、「この間は、ここまではわかったのだけれども、また違うことがわかってきた」と思うのです。仏道修行とは、それを繰り返していくのです。言葉で「妙法蓮華経」と唱えても意味がありません。少しは意味がありますが、「無量義は一法より生じる」「一法とは、妙法蓮華経である」と聞いても、何を言っているのかわかりません。それを考えて、そのパズルを解いていくことが仏道修行です。
日蓮正宗では、「妙宗がわかったぞ!」と言っていたのです。日蓮正宗には、妙観講という信徒組織があります。妙観講の「妙観」という意味は、「不思議なる妙を観じる」という意味です。
一時期、大石寺は「日蓮正宗ではなく、妙宗がよいのではないか?」と言っていたのです。ようするに、「南無妙法蓮華経は何を説いたものなのか?」というと、結論は「妙」を説いたのです。だから、「妙宗と言おう」と言った時期があるのです。そこから名前を取って、「妙観講」と言ったのです。妙をわかろうとしたのです。
しかし、正しくはそうではありません。「妙法」ですから、「妙宗」だと「法」が抜けているのです。日蓮正宗のお坊さんは、「南無妙法蓮華経を突き詰めると妙になるのだ」と言ったのです。それは間違いです。南無妙法蓮華経を突き詰めていくと、「妙法」です。妙法一つにしぼったら、「妙」の一字になるということはあり得ません。
妙法はくずせません。だから、妙宗というのは間違っているのです。「妙だけを悟る」というのが仏教ではありません。「妙法」を悟るのです。よって、妙観講の「妙だけを観じる」というのは間違っているのです。
仏道修行とは、「妙法とは何か?」ということをわかろうとして精進していくのです。何故、あらゆる生物があるのでしょうか? 不思議です。小さなノミがいると思えば、恐竜は大きな体を持っています。恐竜はあんなに大きな体をしていても、ちゃんと血液が回っているのです。
これらの生命を誰が創ったのでしょうか? 「全ての生命が何から出来ているのか?」というと、妙法蓮華から出来ているのです。妙法だけではありません。蓮華だけでもありません。生命は、妙法蓮華から出来ているのです。
人間が生きている姿は妙法です。恐竜に生まれたら、恐竜という妙法です。サルに生まれたら、サルという妙法です。豚に生まれたら、豚という妙法を生きているのです。
今度は原因です。妙法が出てきて人間になり、恐竜になり、サルになったのです。その原因は蓮華の法です。妙法蓮華は一つのものです。これ以上、縮めることもできないし、削ることもできません。妙法蓮華が全ての正体です。
「何故、お前は恐竜なのか?」というと、それは妙法蓮華経です。貴方は自分でやったことを、自分で刈り取っているのです。それが貴方の姿です。自分がやったことを蓮華として刈り取って、自分の姿になったのです。
美人であるのも、ブスであるのも、全て自分が望んでなった姿なのです。誰にも文句は言えません。自分がその姿を望んだのです。
ヤクザになったのも、なりたくてなったのです。人殺しもやりたくてやったのです。全て自分の責任です。妙法として出てきたのが、今世の自分の姿です。原因は蓮華の法です。全て蓮華の法によって出てくるのです。その蓮華の法があって、出てきたのは妙法という姿です。
妙法はすぐに消えてしまうのです。有名人が活躍しても、すぐに年老いて死んでしまうのです。死んだ人は何処へいったのでしょうか? あの世でまた歌手をやっているのです。美空ひばりも歌手をやっているのです。
一舞台が終わっただけです。一休みするとまた歌手になってしまうのです。それが生命の不思議です。それはずっと仏道修行をして、考えていかないとわかりません。それを反証観察といいます。自分を観察して、他人も観察していくのです。すると、妙法蓮華という意味がおぼろげながらわかってくるのです。
面白い話があります。宇宙の万物と音との関係です。110ヘルツという音に触れると人間は非常に気持ちよくなるのです。古来のインドの寺院やアーユルヴェーダの道場では、110ヘルツの音が出るように造ってあるのです。
音楽とは、振動です。寺院の柱に触れると、ポンポンポンと音が出るのです。その振動が同じだから、宇宙に共振するのです。ピタゴラスは、「宇宙とは音ではないか?」と言ったのです。その通りです。万物の根本は振動しているのです。
原子や素粒子は制止しているのではありません。一般的には素粒子を物質だと思っているのだけれども、素粒子は振動しているのです。宇宙に振動していないものは、何もありません。全ての物質は振動しているのです。
それが集まると物質のように見えるのです。人間も振動しているのです。生きたり、死んだりするのも振動です。実は「110ヘルツに関係しているのではないか?」と言われているのです。
例えば、聖書に書いてある角笛の話があります。ユダヤ人は契約の箱を担いでエリコの砦に行き、「ブォー」と角笛を吹くと、人間が壊すことのできない城壁が崩壊したのです。それからユダヤ人が城壁の中にある街を征服したのです。そのような話があります。それは音に関係しているのです。(10に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
今仏の音声(おんじょう)を聞きたてまつるに 宜しきに随って法を説きたまえり(続き)



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2021年06月08日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 8

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※アインシュタインの相対性理論を聞いて、パッとわかる人は頭がよいからわかるのです。ところが、全然わからない人は、何度聞いてもわかりません。100回聞いてもわかりません。感度が鈍いのです。そのような人から見ると、「アインシュタインは凄い人だな」と思います。ところが全然、わからないのだから「アインシュタインは、ウソつきではないのか。こいつは詐欺師だな!」と思う人もいるのです。


人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 8

 「今仏の音声を聞きたてまつるに 宜しきに随って法を説きたまえり」
 今、仏の声を聞いて、仏様は的確な法を説いています。自分がやってきた法は的確な法ではなかったのです。相手がわかっても、わからなくても一方的に法を説いていたのです。お釈迦様は相手に応じて法を説いてきたから、大衆も集まってきて楽しいです。
反対に自分は、思い込んだ法を説いたから、みんなからはじかれて一人になって、自分の持っている神通力も失ったのです。衆生にあった法を説くと大衆に受け入れられるのです。
 「無漏は思議し難し 衆をして道場に至らしむ」
 「無漏」
とは、成仏ということです。漏れるところがなく、全てわかっていることを無漏といいます。有漏と無漏があります。無漏は何もないことをいいます。何もないけれども、体が残っている状態を有漏(うろ)といいます。無漏はどのような心境かというと、無漏の心境は考えても出てきません。
衆生はどのようにして道場に行ったらよいのかもわかりません。
 「我本邪見に著して 諸の梵志の師と為りき」
 我、本心は邪見に著していたので、悟ってもいません。一部悟ってそれを「絶対だ」と思いこんで、それを大衆に説いて大衆を悪い方向へ導いたのです。その報いで私は一人寂しく、神通力も失って、トボトボと歩いてきているのです。
 「世尊我が心を知しめして 邪を抜き涅槃を説きたまいしかば」
 このようになってしまったので、仏様、何とか私を涅槃に導いてください。
 「我悉く邪見を除いて 空法に於て証を得たり」
 そのためには私の説いてきた法の何が悪いのでしょうか? それを明解に教えていただければ、有難く思います。私は悉く邪見を除いて、空を悟ることを得るのではないでしょうか?
 「爾の時に心自ら謂いき 滅度に至ることを得たりと」
 その時に私はこのように思ったのです。「滅度しなければダメでしょうか?」私が空を悟るということは、入滅して死んで、やり直さなければダメでしょうか? 
 「而るに今乃ち自ら覚りぬ 是れ実の滅度に非ず」
 「私は滅度しなければ悟れないのか?」と思っているけれども、また悟ったのです。今、滅度を得て空を悟ったとしても、その空は本当なのでしょうか?
簡単に「空(くう)を悟った」と思っても、その空は本物なのでしょうか? 「私は滅度した」と言っても、それは本当の滅度なのでしょうか?
 「若し作仏することを得ん時は 三十二相を具し」
 本物の悟りを得ていない時には、三十二相を具足して同じ姿になります。
 「天人夜叉衆 龍神等恭敬せん」
 天人、夜叉衆、龍神等を慎み敬ったのです。仏陀の三十二相は仏ですが、私にはまだまだ天人や夜叉がくっついているのです。これは本当の悟りではありません。三十二相を持っても、まだ天人、夜叉、龍神を供養していたのです。
 「是の時乃ち謂(い)うべし 永く尽滅して余なしと」
 この時、すなわち思ったのです。永くことごとく滅びつくして余りなしです。悟っていないので、永く死んだり生きたりしているのです。
 「仏大衆の中に於て 我当に作仏すべしと説きたもう」
 仏様はいいな。大衆の中において「我、まさに仏になった」と説いているのです。私は一生懸命修行をしたのですが、そのような境涯ではありません。
 「是の如き法音を聞きたてまつりて 疑悔悉く已に除こりぬ」
 かくのごとき仏様の説法を聞いてたてまつったのです。「私はまだ修行が足りませんね」このように考えたのです。これは、「仏様と比べて」という意味です。
仏さまは大衆に囲まれて説法を説いているので、楽しそうですが、私の周りには誰もいません。非常に寂しい人生を歩んでいます。この時に私が三十二相八十種好を得たと言っても、どうも疑わしいのです。それだけで私が仏になったとは思えません。舎利弗は、落ち込んでしまっているのです。
 「初め仏の所説を聞いて 心中大に驚疑しき」
 初めに仏の所説を聞いて、心中がびっくりして、大いに悩乱したのです。仏様の説法を聞くと、余りにも深く大きすぎるので、疑念を持ったのです。「とてもではないけれども、この話は私には理解できない」と思ったのです。すると「お釈迦様はウソを言っているのではないか?」と疑念を持ったのです。
人間の理解できる範囲は、すごく小さいのです。理解できない法を説いている人を見ると、尊敬する人と、「化け物だ」と思う人がいるのです。
これは物理学の世界でも同じです。アインシュタインの相対性理論を聞いて、パッとわかる人は頭がよいからわかるのです。ところが、全然わからない人は、何度聞いてもわかりません。100回聞いてもわかりません。感度が鈍いのです。
そのような人から見ると、「アインシュタインは凄い人だな」と思います。ところが全然、わからないのだから「アインシュタインは、ウソつきではないのか。こいつは詐欺師だな!」と思う人もいるのです。
仏法も同じです。あまり立派な法を説くと自分はわからないから、「お前、ウソをついているな。お前は詐欺師だな」と言うのです。仏はそれだけ偉大です。説いても、説いても、無量義一法である妙法蓮華経を理解することはできないのです。(9に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
今仏の音声(おんじょう)を聞きたてまつるに 宜しきに随って法を説きたまえり
無漏は思議し難し 衆をして道場に至らしむ
我本(もと)邪見に著して 諸の梵志(ぼんじ)の師と為りき
世尊我が心を知しめして 邪を抜き涅槃を説きたまいしかば
我悉く邪見を除いて 空法に於て証(しょう)を得たり
爾の時に心自ら謂(おも)いき 滅度に至ることを得たりと
而るに今乃ち自ら覚りぬ 是れ実(じつ)の滅度に非ず
若し作仏することを得ん時は 三十二相を具し
天人夜叉衆 龍神等恭敬せん
是の時乃ち謂(おも)うべし 永く尽滅(じんめつ)して余無しと
仏大衆の中に於て 我当に作仏すべしと説きたもう
是の如き法音(ほうおん)を聞きたてまつりて 疑悔(ぎけ)悉く已に除こりぬ
初め仏の所説を聞いて 心中大(おお)いに驚疑(きょうぎ)しき


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2021年06月07日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 7

897
※「体感!世界の祭 熱狂!100万人の山車祭り インド・ラタヤートラの大祭」(初回放送:2003年)では、インド四大聖地のひとつ、オリッサ州・プリーの町に伝わる祭り「ラタヤートラ」は、ヒンドゥー教の寺院で行われる大規模な祭りを紹介しています。3台の巨大な山車が町を練り歩き、インド各地から押し寄せた大勢の巡礼者たちが沿道を埋め尽くす。祭りの主役は、巨大な頭を持つ3体の兄弟神。厚い信仰に支えられた祭りを紹介する。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 7

「同じく共に一法の中にして 此の事を得ず」(続き)
BSNHKで『プレミアムカフェ 熱狂!100万人の山車祭り インド』(初回放送:2003年)という番組をやっていました。仏様は「大比丘衆万二千人と俱なりき。」『妙法蓮華経序品第一』と言われています。「これはウソだろう。山の中に万2千人も集まれない」と普通は思っているのです。それで、この番組を見ると、インド中から何十万人集まってきたのです。これは、法華経の世界だとわかるのです。
それを知らないと、「小さなお寺で弟子10人くらいを集めて、お釈迦様が説法をしたのかな」と思ってしまいます。事実は違います。本当に何十万人が集まってくるのです。
ブータンでは人口70万人くらいの都市です。そこで、年に1度のお祭りが行われるのです。1か月間、行事が行われて、村人全員が参加する祭りです。広場に踊り子がいて、1つの村から20人くらい出るのです。一人で3時間から、5時間くらい踊るのです。フラフラになっても踊るのです。踊る人は大きなお面をかぶっています。「緊那羅(キンナラ)、摩睺羅伽(マゴラガ)」の鬼の面をかぶって出てくるのです。
すると坊さんたちは、悪魔が退散する踊りを踊るのです。緊那羅、羅睺羅が退散するのです。それをやってから、清浄な踊りをするのです。それはもう魔がいなくなった後の踊りです。
ブータンを開いたお坊さんが仏界から来てくれるという、儀式をするのです。全く凄い世界です。これも法華経の世界です。これを見ないと法華経の世界はわかりません。法華経に書かれている「万二千人と俱なりき。」とは、本当だったのです。一人や二人の話ではありません。何十万人集まるのです。
ブータンは仏教国ですから、70万人が集まってくるのです。鐘と太鼓を叩いて踊りを踊るのです。まさに天の伎楽と一緒です。それを見ると法華経がわかります。
僕はそのような目でいつも世界を見ています。だから、一つの出来事を見て、「これは法華経の世界だ」と思うかどうかです。「なんだ、ブータンのお祭りか」という見方では何もわかりません。
ブータンのお祭りでは、踊り子が仮面をかぶって踊るのですが、その帽子は韓国の帽子と似ています。韓国の帽子の天辺は尖っていて、羽がついています。そのような帽子を韓国の踊り子はかぶるのです。これは、あの風俗と似ています。
足を見ると手でつくったブーツです。ブータンの仏教が蒙古を通り、韓国に流れていったのです。蒙古はチベットのラマ教です。ラマ教の流れが入っているのが韓国です。そのような流れです。論より証拠です。映像で見るから同じだとわかるのです。このように仏教は伝わってきたのですが、このような仏教は日本に伝わっていません。日本は大乗仏教である法華経がモロに伝わってきたのです。
このような番組を見ても勉強になるのです。やる気になれば、全て勉強になるのです。ボーとしていたら何も勉強にはなりません。
 「八十種の妙好 十八不共の法」
 仏は味が違います。何を食べても、特別な舌を持っていて、八十種類の好みがあるのです。大根が好き、味噌汁が好き」というように、八十種類の人と違う好みがあって、それを持っているのです。
「十八不共の法」とは、十八不共仏法の定義、意味、十八不共仏法(じゅうはちふぐうぶっぽう)とは、仏だけに特有な(仏だけが有する)18種類のすぐれた能力・特性・性質・特質・境地をいいます。
 「是の如き等の功徳 而も我皆已に失えり」
 「是の如き等の功徳」とは、「八十種の妙好 十八不共の法」です。
八十種の妙好、十八不共の法も、修行した結果得られるのです。八十の衆生と違う好みを持っているのです。
しかもこの功徳を受けたのですが、我皆すでに失ってしまったのです。折角受けたこれらの法力も失ってしまったのです。
 「我独経行せし時 仏大衆に在して」
 私が一人で修行している時に、仏は大衆の中にいたのです。自分は一人で修行をしていたのです。大衆の中に仏はいたのです。凄く楽しそうです。自分は一人で修行をしていたのです。
 「名聞十方に満ち 広く衆生を饒益したもうを見て」
 仏様の名前が十方に満ち満ちて、広く衆生に知れ渡ったのを見て、
 「自ら惟わく此の利を失えり 我為れ自ら欺誑せりと」
 私は「楽しい」という利益を失ってしまった。私はこれらの自ら間違った法を受け入れてしまったと思ったのです。
 「我常に日夜に 毎に是の事を思惟して」
 我常に日夜において、つねにこのことを思惟して
 「以て世尊に問いたてまつらんと欲す 為めて失えりや為めて失わずや」
 「どうして私はこんなに孤独になってしまったのか? せっかく得た神通力も失ってしまったのでしょうか?」ということを世尊に質問したのです。
 「我常に世尊を見たてまつるに 諸の菩薩を称讃したもう」
 それに比べてお釈迦様を見ると、諸々の菩薩に賛嘆されて楽しそうですね。
 「是を以て日夜に 此の如き事を籌量しき」
 これをもって日夜にかくの如きの事を考えたのです。私から見るとお釈迦様はまさに理想です。諸々の菩薩に称賛されて、大衆からも「仏陀さま」と言われるのです。みんなと一緒にいて楽しそうですが、私は一人です。しかも、あらゆる神通力を失ってしまいました。それは、間違えた道を歩んだからなのですね。(8に続く)


『妙法蓮華経譬喩品第三』
同じく共に一法の中にして 此の事を得ず」(続き)
八十種の妙好 十八不共の法
是の如き等の功徳 而も我皆已に失えり
我独経行せし時 仏大衆に在して
名聞十方に満ち 広く衆生を饒益したもうを見て
自ら惟わく此の利を失えり 我為れ自ら欺誑せりと
我常に日夜に 毎に是の事を思惟して
以て世尊に問いたてまつらんと欲す 為めて失えりや為めて失わずや
我常に世尊を見たてまつるに 諸の菩薩を称讃したもう
是を以て日夜に 此の如き事を籌量しき


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2021年06月06日

『仏法と神道』悟りについて教えてください

783
※宇宙にゼロは存在しません。ゼロはどこに存在するのかというとありません。
では、ゼロは無いのかというと、人間の頭の中にあります。ゼロというものを考える人の頭の中にゼロはありますが、宇宙にゼロはありません。ゼロとは、そのように人間が作った法則です。

『仏法と神道』

悟りについて教えてください

 悟りと言っても二つあります。一般世間の人はそれを知りません。所謂、俗諦(ぞくたい)と真諦(しんたい)です。詳(つまび)らかにするということが悟りですから、真実を明らかにする事を真諦といいます。そうでない仮の教えを俗諦といいます。
俗諦と真諦を分けてみると、我々が学問と言っているものは全て俗諦です。哲学であろうと、科学であろうと、極めたところで俗諦です。それも、極めないと諦になりません。極めないで、「私は科学を悟りました」と言ってもダメなのです。科学というものを本当に悟ったところを諦といいます。悟らない人は俗諦にすらなりません。
真諦とは、そのようなものではありません。仏陀の悟りそのものです。実相であり、実相を真諦といいます。一般世間では、俗諦と真諦がごちゃまぜになっていて、区別が分かっていません。真諦が分かれば俗諦が分かります。俗諦は作りものです。
この世界で作ったものは全て俗諦であり作り物です。物理学・哲学など全て作り物です。ですから、万有引力の法則は、『ニュートンズ・ロウ』といい、ニュートンの作った法則です。或いは、相対性理論は、『アインシュタインズ・ロウ』といい、アインシュタインが作った法則です。
科学というものが真実、宇宙に存在する法則だと考えている人がいますが、宇宙の法則ではありません。アイシンタインの頭の中で考えた法則であり、これは俗諦です。人間がこねくり回してできた法則です。人間の頭脳は凄いのです。宇宙には、相対性理論などありません。これは何度も私が講義で言っていますが、宇宙にゼロは存在しません。ゼロはどこに存在するのかというとありません。
では、ゼロは無いのかというと、人間の頭の中にあります。ゼロというものを考える人の頭の中にゼロはありますが、宇宙にゼロはありません。ゼロとは、そのように人間が作った法則です。ゼロは発見ではなく発明であり、インド人がゼロを発明したことにより人類は、数学的な進歩をしたのです。
そのようにアインシュタインの法則というものは、宇宙にはこれっぽっちもありません。人間の頭脳は凄いのです。頭の中で作り上げた法則により、自然界を変えていくのです。人間が生み出したものは、どのようなものも俗諦です。
真実とは俗諦を離れて、真実の姿はどうであるかということを極めた人のことを真諦と言います。仏陀が極めたものを真諦と言い、俗諦ではありません。法華経は何を説いたものかというと真諦を説いたものであり、俗諦を説いたものではありません。真諦とは何かというと妙法蓮華経です。簡単なことで妙法蓮華経が真諦です。それ以外の他のあらゆる教えは俗諦であり、華厳経・念仏・真言などは全て俗諦です。
このように真実を極めようと思わなければ仏法は面白くもなんともありません。むしろ役に立たちません。まず考えることは、「貴方は俗諦をやろうとしているのか、真実を極めようとしているのか、どちらなのでしょうか」ということで、この二つの違いを良く理解することが仏法を始める入口論になります。

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2021年06月05日

仏法対話 悪夢(Nightmare) (3)

01
※悪夢にうなされたなら、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えられなければいけません。妖怪・化け物・怪物にうなされたなら、即座に「南無妙法蓮華経」という利剣で戦うのです。

仏法対話

悪夢(Nightmare) (3)

■質問者「私はときどきものすごい悪夢をみるのですが原因はなんでしょうか」

■お答えします。
 悪夢にも色々あります。気持ち悪い、怖い、淋しい、不思議、などです。一般に悪夢の原因は6つあるといわれます。その6つとは、
1.心配とストレス:夢の研究を行うIASDによると大きな手術や愛する人の喪失、大事故の目撃などトラウマになるような心の負担は悪夢の原因となります。
2.辛い食べ物:「International Journal of Psychophysiology」で発表された研究で、眠る前に辛い物を食べてもらうという実験を行ったところ、目覚めるまでの時間が長くなり、睡眠の質も低下したそうです。辛い食べ物は体温を上昇させることが原因だと考えられ、就寝直前に食べた人の中には悪夢を見た人もいたとのことです。
3.高脂肪の食事:高脂肪の食事を摂りすぎた日はよい睡眠ができないという研究がいくつかあります。またジャンクフードを食べた人と自然食品を食べた人では夢の内容が違うという研究発表があり、特定の食べ物には夢に悪い影響を与えるという推測が出されています。
4.アルコール:短期的には睡眠を促すアルコールですが、効果が切れると眼を覚ましやすくなり、摂取しすぎると悪夢を引き起こします。
5.薬物:抗うつ剤やバルビツール酸系睡眠導入剤、麻薬は悪夢を生じさせる副作用があり、麻酔に使われるケタミンで不愉快な夢が増えるという研究結果があります。また薬を止めた時に悪夢を見ることがあります。
6.病気:風邪など発熱を伴う病気のほか、ナルコレプシー(いねむり病)や無呼吸といった睡眠障害が悪夢の原因となります。悪夢は子どもの頃に見ることが多く、大人になると少なくなるもので、あまりにも怖い悪夢を頻繁に見るようだと医師に相談したほうがいいようです。これらは医学的な見地からの悪夢ですが、もうひとつの恐怖に金縛りがあります。
金縛りとは、「目が覚めたのに、体がまったく動かない」「やっとの思いでまぶたを少し開けると、なにやら怪しい影が見える…」。このような怖い体験をした人も多いはずです。
 科学的に金縛りは、霊的で異常な出来事ではなく、睡眠麻痺と呼ばれます。科学的な説明ができる現象です。筋肉が完全に弛んでいても、脳は活発に働いているレム睡眠のときに、何かの拍子で完全に意識が覚めると、いわゆる金縛りの状態を自覚するのです。
しかし問題なのは、このように医学的、あるいは科学的に説明されても、本人にしてみれば悪夢も金縛りも怖い事実と思い、霊的なものを感じてしまうことです。仏法からみると、繰りかえしみる悪夢とは前世と関係があります。
前世で犯した悪業は消えません。今世でも引きずり、前世の記録として夢の中にでてくるのです。同じ夢を何回も見る事によって、いつか罪が消えます。そうすると悪夢を見ることはなくなります。
悪夢にうなされたなら、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えられなければいけません。妖怪・化け物・怪物にうなされたなら、即座に「南無妙法蓮華経」という利剣で戦うのです。
しかし、いい加減な信仰だと、お題目で戦うことを忘れてしまい、恐怖に震えてしまうのです。人間は死ぬときも同じです。たった一人で死出の旅に向うのです。
その時は、お金・社会的地位、名誉など、何の役にも立ちません。ただ、「南無妙法蓮華経」だけが頼りです。腰に差したる一振りの剣は錆びていないか、鈍(なまくら)の剣ではないか、利剣なのか、あるいは黄金の宝剣なのか、それはあなたの信心によるのです。
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経


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2021年06月04日

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 6

133
※玉ねぎの皮を剥いてみました。何回も剥いてみました。すると、「何かがあるだろう」と思って、一生懸命皮を剥くと何もありません。では、妙法は何処にあるのでしょうか? それは貴方の掌にあります。今、玉ねぎの皮を剥いたでしょう。それが妙法です。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経譬喩品第三』について 6

 「同じく共に一法の中にして 此の事を得ず」(続き)
法華経の修行とは、玉ねぎを剥いていくようなものです。何か入っているのかと思うと何も入っていません。それと同じことです。何か入っていると思うでしょう。「妙法が入っていました!」と思うけれども、何も入っていないのです。剥いた一つ一つの玉ねぎの皮を諸法といいます。
諸法即実相です。玉ねぎの皮を剥いてみました。何回も剥いてみました。すると、「何かがあるだろう」と思って、一生懸命皮を剥くと何もありません。では、妙法は何処にあるのでしょうか? それは貴方の掌にあります。今、玉ねぎの皮を剥いたでしょう。それが妙法です。
「でも、先生は玉ねぎの皮を剥いたら、妙法があると言ったではないですか?」と弟子が聞くと、師匠は「そうだよ。それも妙法だよ」と言うのです。それを感覚的につかんで理解することは、大変なことです。それを諸法即実相といいます。
そのようなことを研究する人は大勢います。研究してもわからないから、生長の家の谷口雅春は、「諸法の実相」と言ったのです。「諸法の実相」ということは、玉ねぎの皮を剥くと、諸法です。玉ねぎの皮を剥き終わったら、何かがなければいけません。「諸法の実相」ですから、実相というものがあり、一つ一つのものを生んでくるのです。玉ねぎの皮をすべて剥いてしまえば、実相というものが残るはずです。これが「諸法の実相」です。
ところが法華経で説いていることは、諸法即実相です。ということは、「諸法しかないのですよ」と言っているのです。諸法の他に黄金に輝く生命はありません。「諸法が即実相だ」と言っているのですから、「諸法即実相」です。これが九界即仏界、生死即涅槃です。そのように変わっていくのです。これは、難しいところです。
玉ねぎの皮を全て剥いてしまわないとわからないのです。これが、修行です。「玉ねぎの皮が全て剥けたら、どのような力を持つのか?」ということも、法華経に書いてあるのです。それが三十二相と十力です。
それを現代的にわかりやすくいうと、「全てわかってしまう」ということです。玉ねぎの皮を剥くと何もありません。それと同じです。諸法即実相です。Aさんも、Bさんも、Cさんという衆生が全て実相です。個々のAさん、Bさん、Cさんは実相から出来ているのです。諸法の奥に実相はありません。出てきた衆生そのものが実相です。
例えば豚は実相なのでしょうか? 豚を殺して命を見ようと思っても、何も見えません。「豚の中に実相があるらしい」と思って、豚を殺して解剖しても、実相など何処にもありません。豚は食べてしまうと消えてしまいます。実相とはそのようなもので、何処までいっても目に見えないものです。
しかし、有るものなのです。何かがなければ豚は生まれてきません。これは人間だけが持っているものではありません。自分で選択したわけではありません。それは実に不思議なものです。
そのことを『無量義経徳行品第一』では、「其の身は有に非ず亦無に非ず」という34の非です。それは、紫でもなければ、赤でもなければ、黄色でもありません。命とは何でしょうか? 命のことを仏といいます。仏とはそのようなものです。大きなものでもなければ、小さいものでもありません。それが実相であり、これが一法です。
法華経では、このことを説いているのです。だから、玉ねぎの皮をどこまで剥いても実相は出てきません。剥いている皮そのものが実は実相そのものです。「実相に通じてきただろうか?」ということは、玉ねぎの皮そのものの意味を考えていくのです。
すると、「何故、豚なのか?」「何故、牛なのか?」「何故、悪人なのか?」「何故、善人なのか?」「何故、王様なのか?」ということがわかってくるのです。それらが諸法です。一法がわかってくると人間社会の諸法に通暁してくるのです。
それはどのようなことかというと、全て見えてくるのです。全てが見えなければ、「実相を見た」とは言えません。「王様である」ということだけを見て、「あれは王様だ」とは言えません。王様は王様であり、人間でもあります。人間の面、王様の面、全てのものが見えてきて、「この人物がこの先どうなっていくのか?」ということを実相から見て、わかるということです。
そのように見えてくるのです。「私、神通力がついてきたな」と思うと、だんだん実相に近づいてきているのです。人間にだまされる人は、仏教の入り口まできていないのです。仏道修行が進んで一法がわかってくると目に見えないものが見えてくるのです。まさにそれは仏の白毫の光で照らされて、全世界が明るくなったということです。
人間は暗闇に沈んでいます。衆生が見ているのは、肉眼です。目にもいろいろとあります。肉眼の目、仏眼の目、法眼の目があります。肉眼で見ていたら、人はわかりません。同じ言葉をしゃべり、歩いているのですから、何処が悪いのかもわかりません。それは肉眼で見ているからです。
法眼で見ると、「Y君はこのようなことをする人間だ」と見えてくるのです。「良い人間か、悪い人間か」ということは、法眼で判断するのです。肉眼で見ている人には、判断はできません。法の目で見るのです。すると、だんだん見えてくるのです。
さらに進んで仏眼で見ると、Y君だけではなく、全て見えてくるのです。「諸法の実相とは何ですか?」と追っても見えませんが、探求している人は、だんだんわかってくるようになるのです。するともう仏眼になっているのです。そうなるために修行しているのです。
だまされる人は、肉眼にもなっていません。法眼、仏眼で見ていくのです。そうでないと、この法華経は読めません。全てが本当だとわかってくるのです。(7に続く)


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