2007年04月

2007年04月30日

三内丸山遺跡

40279429.jpg今月のGWの後半、僕は青森県の三内丸山遺跡を見学したいと計画しています。前から気になっていたのですがどうしても一度は訪れてみたい遺跡なのです。日本人のルーツは遺伝子レベルで26%が中国系、26%が半島系残りの14,5%が原住民(アイヌ)あとは不明とありますが、日本の原住民、あるいは北方民族がどういう文化をもっていたのかを直接目でみたいと思っているのです。
紀元10.000年から5,000年ほどの集落だということですがともかく興味があります。この現場にたてば、なにがしかのインスピレーションが閃くかもしれないのです。日本歴史の謎解きとは、北方民族、蝦夷、アイヌ、騎馬民族、ユダヤ、華北人、南方民族、日本語成立、大王(おおきみ)成立邪馬台国、などであろうが、これらの謎解きは三内丸山遺跡の開明から始まるのではないだろうか?果たしてそれは単なる東北地方文化の源流なのか、あるいは後世の大和民族の原型なのか、この遺跡は江戸時代から知られており野球場建設予定地となり、大規模な集落跡が発見されたところから始まる。
有名な掘っ立て柱とはなんなのか?古代出雲大社のような強大な神殿のルーツなのか、また長野の諏訪大社の御柱祭りにつながるものなのか、あるいはカナダインデアンに残る巨大なトーテムポールのようなkものなのか、ともかく、直接目で、臭いで確かめなくては分かりようがない。感想はブログで発表するつもりです。

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2007年04月27日

対馬が韓国に狙われている!

af5f59d4.jpg対馬とは長崎県に所属した紛れも無き日本の領土である。しかし最近は日本人より朝鮮人の來島者がおおく、いたるところにハングル文字と朝鮮語が飛び交い、ここは朝鮮かと錯覚するありさまだ。数十人の韓国人は大声で喚きながら食堂にはいると注文もせずに弁当箱をだし、キムチをとりだしお茶をとりだし、店には1銭も払わず、人の店で勝手に自分の弁当をくらうのだ。
立小便はあたりまえ、痰や鼻をまきちらし、朝鮮語の怒声が飛び交う、朝鮮人の町のようだ。ゴミは山のように捨てられ、あわびは取り放題(違法)食い散らし、捨て散らされ、あげくの果ては「ここは韓国の領土」だと言い出している。この問題を歴史的に考えてみよう。(以下wikpedeaより引用)

「対馬の地理」:対馬島は、九州本土より玄界灘と対馬海峡の東水道をはさんで約132km、朝鮮半島へは対馬海峡の西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5kmである。南北に82km、東西に18km、面積は約700km平方。南北に細長く延びる形をした主島 対馬島と、百を超える小島から形成されている。主島の面積は696.29km平方であり、すべての島を合わせた面積は、708.61km平方である。
有人島は、主島・泊島・赤島・沖ノ島・島山島・海栗島の6島である。耕作に適した平地は少ない。また、陸上交通も不便である。
対馬島のこのような地形は、人々の生活や歴史に大きな影響を与えてきた。全体に山がちであり、特に下島の方に標高の高い山が多い。対馬島の外周は上島の東海岸の一部と下島の西海岸の一部を除くほぼ全域がリアス式海岸で囲まれ、その総延長は915kmに及ぶ。特に浅茅湾はリアス式海岸で有名であり、天然の良港となっている。また、風光明媚なため、重要な観光地となっている。海岸には断崖絶壁もまま見られ、高さが100mに及ぶものもある。
自然環境:気候は対馬の周りには暖流である対馬海流が流れているため、その影響で比較的平年を通して暖かく、雨が多いという典型的な海洋性の気候を有している。夏は30℃を超える日は滅多になく、比較的涼しく過ごしやすい。秋は比較的雨が少なく、冬は大陸から吹く季節風の影響で寒さが厳しくなる。
「対馬の歴史」;古代の建国神話である『古事記』では、最初に生まれた島々の1つとして「津島」と記されている。また『日本書紀』には「対馬洲」「対馬島」と記されている(国生み)。対馬島は古くから大陸との交流があり、歴史的に朝鮮半島に近い地理的関係から両国の中継地として日本と大陸との接点となった。魏志倭人伝(正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条)には倭の一国として「対馬国」の記述が登場する。対馬国は邪馬台国に属しており、他の倭の国にも見られる卑狗(ヒコ)いう大官と、卑奴母離(ヒナモリ)いう副官が置かれ統治していた。そこには千余戸が有り、人々は海産物を採集し、南北に交易を行って生活したと記されている。
古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、管玉、鉄剣部分等が出土。前方後円墳は大和地方で発達した古墳の形態で、出土した有茎柳葉式銅鏃は、古式畿内型古墳の典型的出土品であり、この時代にすでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示している。島の首長について『先代旧事本紀』の「国造本紀」に津島県直とある。 古墳時代は大和朝廷が度々朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代であり、対馬はその中継地として重要な役割を担ったと考えられる。
663年の白村江の戦い以後、倭国は、唐・新羅の侵攻に備え、664年、対馬に防人(さきもり)が置かれ、烽火(とぶひ)が8ヶ所設置される。防人は東国から徴発された。667年には浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞となる。このため国府や、多くの神社などがおかれていた。674年 厳原(いづはら)に国府を置く。674年 対馬国司守忍海造大国が対馬で産出した銀を朝廷に献上。これが日本で初めての銀の産出となる。 701年対馬で産出したと称する金を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって日本最初の元号「大宝」が建てられた。741年聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬国分寺建立。平安時代には、894年新羅の賊船大小100、約2500人が佐須浦(さすうら)に攻めてくるが撃退する。1019年正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃。島民36人を殺害、346人を連れ去る。
のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、刀伊の入寇と呼ばれるようになる。中世12世紀には宗氏の始祖・惟宗(これむね)氏が対馬に入国する。惟宗氏は、元々太宰府の官人であったが、筑前の宗像郡から対馬に来た。1196年宗家の始祖・惟宗氏の名前が、対馬の在庁官人の中に初めて見られる。対馬守護・地頭の少弐氏の代官として次第に島での実権を握り、武士化する。それまで対馬では阿比留氏が勢力を持っていた。阿比留氏は当時国交がなかった高麗と交易を行っていた。太宰府は咎めたが、従わなかったため、1246年大宰府の命により惟宗重尚(これむねしげひさ)が、鶏知(けち、美津島町)を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討し対馬の支配を確立する。鎌倉時代には、2度に渡る元(モンゴル帝国)とその属国高麗による日本への侵略(元寇)を受ける。対馬はその最初の攻撃目標となり、受難の時を迎える事となった。 1274年蒙古兵25000人、高麗兵8000人及び水夫等6700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦に殺到する。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃する。しかし兵力の差は如何ともし難く、勇戦及ばず玉砕した。『日蓮註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえ付たという。これが文永の役である。 1281年に二度目の日本への侵略弘安の役が起こる。元・高麗軍の陣容は、東路軍(合浦より侵攻)蒙古兵15000人、高麗兵10000人、水夫等17000人。江南軍(寧波より侵攻)旧南宋兵100000人。弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、《其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。》と記されている。元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の一つとなっていた。1366年高麗が和好と海寇の取締を請うと、宗経茂はこれに答え高麗との通交が始まる。朝鮮半島で高麗に変わり李氏朝鮮が成立すると、宗氏は引き続き李氏朝鮮と通交するが、1419年6月倭寇征伐を大義名分とした応永の外寇が起こる。李氏朝鮮は兵船227隻・軍兵1万7285人で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き、続いて小船越を襲い、更には、仁位浦に進撃して如加岳(糠嶽 ぬかだけ)で対馬の兵と激戦となり多数の戦死者を出し撤退する。1441年主家の小弐嘉頼は周防の大内氏に敗れ対馬に逃れ来て三根の中村に居を構える。これにより小弐氏・宗氏と共に筑前を失った。 1443年宗氏は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮の官職を受け、歳賜米200石を支給されて、朝鮮に来航する日本船に文引(許可証)を発行する役割を与えられた。近世、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では中継基地として利用され、宗氏も出兵した。江戸時代には引き続き宗氏が対馬府中藩をおこして支配した。鎖国体制の中、朝鮮通信使を迎える等の、日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝の中央権力から釜山で倭館貿易を許されていた。近代江戸時代後期の1861年にはロシアの軍艦が浅矛湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件が起こり、5月には外国奉行の小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックがロシア軍艦を退去させた(対馬事件)。1871年、廃藩置県により厳原県となり、その後一時伊万里県へ編入された後すぐに長崎県へ編入された。14世紀後半から江戸時代にかけて、対馬の宗氏は一貫して日本の中央権力に忠誠を誓ってきたが、朝鮮から官職を与えられ、特殊な役割を果たして来たことも事実である。ある日本史研究者はこれを対馬の境界性と表現している。
「朝鮮半島との関係、韓国人の根拠なき領有権主張の嘘」第二次世界大戦後日本を占領した連合軍総司令部 (GHQ) に対し、韓国の李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても日本からの割譲を要求したが、GHQから「根拠がない」として一蹴された。現在でも一部の韓国人が領有権を主張しているが、韓国政府は対馬領有を主張しているわけではない。2005年3月18日慶尚南道馬山市(マサン)市議会は島根県議会の「竹島の日」に対抗して「對馬島の日」(대마도의 날)条例を制定した。韓国政府は馬山市に条例の撤回を要請している。李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟が1471年に編纂した『海東諸国紀』は日本国対馬島の図を掲載し、本文では対馬島を日本国西海道に属すとして島内の事情を詳述している。ただ、16世紀に刊行された朝鮮の地理書『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」には対馬島を朝鮮の領土であるかのように描かれていたため、この地理書が刊行されて以後、朝鮮半島の地図では対馬が日本国の領土でないと描くことが多くなった。なお、歴史上においては対馬を支配していた宗氏は一貫して日本の歴代政権に従属している。さらには応永の外寇において李氏朝鮮が対馬に侵略行動を起こし一般民衆を虐殺、宗氏に従属を要求しているがそれは一蹴され、結局宗の配下の軍勢だけで大損害を被り、最終的に和平提案に応じて撤退している。(以上 wikpedia より引用おわり)

以上の引用でわかるとうり、どうみても対馬は日本領であり韓国領であるということは根拠無き妄想に過ぎない。しかし油断はできない、竹島問題があるように実効支配という手があるからだ。もはや対馬を韓国人どもは我が物顔にのし歩いている。対馬の正しい歴史を学んでおけば彼等に騙されることはなくなる。国土とは一歩譲歩したものはやがては全部取られてしまうことになるからだ。

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2007年04月26日

ミツバチが消えた?

68fa029b.jpgアメリカではミツバチが24州から突然いなくなったという。原因は不明であるがミツバチが消えるのは天変地変の前触れだと心配する人もいる。2007年3月1日の新聞によれば全米各地で、ミツバチの巣から女王バチを除く大半のハチが突然消える異常現象の報告が相次いでいるという。ミツバチの「いないいない病」と命名された異常現象は昨秋以降、東海岸から西海岸へと広がり、被害地域は20州を超えた。原因は分かっておらず、ミツバチに授粉を頼るアーモンドやリンゴなどの収穫にも影響が出るのではないかと心配されている。米国でミツバチの失跡が確認された州は 昨秋にペンシルベニア、ジョージア、フロリダの3州で発生した後、全米に拡大した。
民間調査会社ビー・アラート・テクノロジーによると、2月13日現在、確認された被害地域は22州にのぼる。その後、ワシントンなど2州からも報告が寄せられているといい、被害の拡大が続いているとみられる。 ミツバチが巣から突然消える現象は米国では19世紀から知られ、1960年代にはテキサス州などの南部で大規模に起きた。その後は限定的な発生にとどまっており、ブロメンシェンク教授は「今回は前例のない、広域かつ深刻なものだ」と述べた。 原因について、教授は「はっきりは分からないが、感染性の病気でハチが大量死しているのではないか」と言う。ミツバチを連れてアーモンドの授粉を請け負う業者の移動経路が、今回の「いないいない病」の拡大経路と重なることが根拠だ。  一方で、農薬をはじめとする化学物質の影響も指摘されている。また携帯電話のためミツバチが消えている、との見方が出ている。携帯電話で発生する電磁波がミツハチの航法システムを撹乱し、ミツハチを巣に帰れなくするとのこと。 英日刊紙・インディペンデントが15日に伝えたところによると、蜂群崩壊症候群(CCD=ミツバチの集団不明現象)と呼ばれる現象が米国でスタートし、欧州大陸と英国に拡散している。
米国では昨秋初めて警告が下された後、現在まで米全州の半分でこうした現象が確認されている。西部海岸地域では全体の60%、東部海岸地域では70%ほどのミツバチが消えた。 これについて、ドイツ・ランダウ大の研究チームは、携帯電話がミツバチの近くにある場合、ミツバチが巣に戻れないとの事実を確認した。研究チームは、ミツバチが電線付近で異常な動きを見せるのを発見、それをもとに実験を行なった結果、携帯電話の電磁波がミツバチの帰宅を妨害できる、との点を究明した。米政府と業界の後援のもと携帯電話の危険に対する研究を主導してきたカルロ博士も「ドイツ科学者の主張に信ぴょう性があると確信する」と同調した。北米全体で発生しているので、もしかしたら大規模な地磁気の乱れが発生しているのではないか?しかし産経新聞、「過剰なノルマがハチに与えるストレス」というのはちょっと厳しいんじゃないか。いずれが原因であるにせよ、ミツバチがいなくなれば困るのはハニートーストやホットケーキ好きだけではない。先にも書いたようにミツバチは多くの果樹や作物の授粉を行っているからだ。リンゴもナシもイチゴもトマトも豆類も、ミツバチなしで実を結ばせることを考えたら気が遠くなる話だ。
多くの野菜も実やタネを結ばなくなる。 相対性理論のアインシュタイン博士が次のような言葉を残しているそうだ。
「もしミツバチがいなくなったら、人類は4年しか生き続けられないだろう。ミツバチがいなくなり、受粉ができなくなって、植物が消え、動物が消え、人間が消える」これが「予言」とならないことを祈る。
この現象が異常気象の前触れ大災害の予兆にならなければよいと思うのは僕だけではあるまい。聖書にはミツバチは予言者と書かれているそうだ。なんか気持ち悪い現象ですね。

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2007年04月25日

郷士(ごうし)とはなんぞ?

4e1aa2b3.jpgよく時代劇では庄内郷士(ごうし) 清川八郎などというのがでてくる。この郷士というのが、なかなか分かりにくいのだ。郷士と紛らわしいものに庄屋、寺侍,(てらざむらい)、用人、足軽などがあるが、この連中は刀は二本差して侍のようでもあり、たとえば土佐の郷士・坂本竜馬などは酒屋であり、屋号まである商人である、商人でありながら二本差した武士なのだ。郷士というのが、なぜ分かりにくいかというと、各藩ごとに呼び方が違うのと、時代によっても役割がちがうのだ。新撰組の近藤勇、土方歳三などは、百姓とも言われるが、両人とも百姓は百姓でも豪農の生まれで近藤の生家は宮川という姓をもつ。おなじく土方も姓をもつ。
彼等はお城に登城する徳川家臣団の武士でないことは事実であるが、近藤・土方の実家は共に刀をもつことを許された、苗字帯刀の豪農(郷士)である。土方家には家業があり、土方歳三は若いころ、この石田散薬という家伝の薬を売り歩く薬屋の行商もやっており、刀は茣蓙(ござ)に入れて背中に担いでいたらしい。薬屋が両刀差していたのではさすがに様にならないからだろう。あと、武州三多摩は天領(徳川家の直轄領)であり、代官はいるが大名はいない土地であり、将軍様の百姓は大名の百姓とは身分が違うという自覚があったのではなかろうか?だから、近藤も土方も農業をやる百姓でありながら、苗字帯刀を許された郷士である。
郷士とは地侍ともいい、米だけ作るのではなく、武芸も漢学も治めた、誇りも高い大名も一目おく、村の実力者であった。このあたりを調布市の郷土博物館の金井氏にお伺いすると、近藤と土方は郷士ですというお答えをいただいた。ともかく百姓でありながら武士であるという郷士と言うのはわかりにくい存在なのだ。身分的には城下侍の下、百姓の上ということだ。いくら苗字帯刀でも、郷士はお城に登城する侍に対し劣等感があったことだろう。近藤たちが将軍の大名・旗本などに憧れたのは当然であろう。歴史的にも、土佐郷士は山之内一豊が遠州・掛川から土佐に移封になったとき、滅びた長宗我部家の遺臣であり、山之内の家来を上士とし、長宗我部の遺臣を下士(郷士)として待遇したのだ。おなじ侍でも郷士は上士に道で出会うと土下座しなければならなかった。しかし郷士も武士のはしくれであることはまちがいない。郷士の中には商売するものもおり、坂本竜馬の家はこれであり、武士にして商売人という変なことになったのだ。明治維新の立て役者・武市半平太、中岡慎太郎、坂本竜馬はこの土佐郷士であった。、庄内郷士・清川八郎は庄屋の倅である。新撰組の局長芹沢鴨は水戸郷士、新撰組の屯所となった八木源之丞も郷士である。、越中国・郷士・江戸練兵館を開いた神道無念流の達人斉藤弥九朗など皆、郷士と呼ばれる階級の人である。明治維新は郷士によって開かれたと言えるほどだ。また、郷士ではないが、村役人として領主と領民の間をとりもつ庄屋という身分があったが、これは全員が苗字帯刀を許されたわけではない。大庄屋という数村を束ねるものもあったが、これらの中には立派な大屋敷に住み小名みたいな生活をしている者もいた。「本間様には及ばぬが、せめてなりたや大名に」と歌われた酒田の本間家などがその代表だ。もちろん、酒田家は苗字帯刀の大庄屋であり、これも規模は大きいが郷士といってよいと思います。村に庄屋、町には名主がおり、名主も町人を纏める役割りだが、この身分は世襲だけではなく、選挙(いり札)で選ばれた名主も存在した。世襲の中には苗字帯刀を許された者もあり、これらは町郷士とでもいえるのだろう。医者・儒者・武芸者などは勝手に名字を名乗り帯刀をするのが常であり、これも郷士といえるのだろう。徳川家の足軽を御家人といい、旗本には登城の義務があるが御家人(足軽)にはなく、御家人は一生無役が普通で貧乏長屋住まいなのだ。
勝海舟の親父の子吉のように、道具屋をやったり、用心棒をやったり,傘貼りやったり、おもちゃの内職などの浪人だか、武士だかわからなない生活を送っていた者がほとんどだ。市中の者と違うのは武士であるというプライドだけである。年間に米10俵ほどが給料の全てであり、それで全ての生活をするのだから貧乏そのものだ。徳川の御家人とは他藩の郷士のようなものではなかろうか!明治以後は大名・武士を廃して華族、士族、平民、新平民の身分ができるが、しばらくの間、卒族(明治3年)なるものがあった。これは(明治5年)廃止されるが足軽、郷士をめぐっての身分問題で、足軽は士族なのか、平民なのかで揉めたのである。その結果、足軽でも二本刀を差していたものは士族となり、一本差しのものは卒族となったと言います。しかしあまりにもくだらない身分制度なので2年で卒族は廃止になったそうだ。
一般の郷士と呼ばれた家は士族か平民か、それは分からないのでもし知る人がいたらご教授願いたい。
それはともかく、江戸時代のこの辺の身分制度はあまりにも面白すぎる。また、大きなお寺には寺侍と称する者が住み着いていたが、寺侍とは寺を警護する武士ということなのだが、ずいぶんいいかげんな素性の者もお寺にお金を納めて寺侍と称し二本刀を差していたらしい。これも寺郷士ともいえるものだろう。また、武士も大身ともなると、二本差しの家来をもっていたが、これは武士なのか(股者)といってサンピン(年給が3両一分からそういわれた)は一番馬鹿にされたものだ。いまでも、「このサンピン野朗」などの言葉にのこっている。このサンピンは武士なのか、なんなのか?不思議ですね!
   ともかく時代劇はおもしろすぎる。!


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2007年04月24日

幽霊騒動

僕らは神奈川県城ヶ島に「城ヶ島クラブ」という料亭旅館を経営しているが、ここに宿泊した者の何人かが幽霊がでたという。
城ヶ島はもと三浦水軍の城があったところで、小田原北条軍となんどか決戦の場所になったところだ。そのため施設は埋蔵文化財の指定になっており、工事のとき遺跡がでれば調査が入ることになっている。近くの油壺湾は三浦軍が北条軍に負けて残党が飛び込んで自害したところで、その血が湾いっぱいに広がり、まるで油をまいたように見えたところから、つけられた名前だと言われる。したがって城ヶ島に幽霊が出ても不思議ではない。ましてや、ここは廃屋になっていたところを買って修理したので、なおさらである。開店オープン初日のことである、母屋に泊まったK君とT君が夜中に天井あたりから人の歩いている音が聞こえたといいだした。猫ではない、鼠でもない,鳥でもない、間違いなく「ひたひた」という人間の歩く音が天井から聞こえたと二人そろっていうのだ。翌日念のため五人泊めてみると、全員が「ひたひたばたばた」という原因不明の音が聞こえたというのだ。全員真っ青になり泊まるのが嫌だと言い出したのだ。近くのおばさんに聞くと「やはり出ましたかね。私達もよくみるで、暗くなると、その辺で変な奴(幽霊)が座っているで」という話を聞いてがくがく震えがとまらなくなった。噂が噂をよびあまりひどいので、日蓮宗の高僧、道岡権僧上においでを頂き、祈祷お払いをお願いした。そのご幽霊話はぴたっとなくなったのだが、それから4年たった2007年4月22日、再び幽霊騒動が起き上がった。最初の幽霊騒動からこの五年間になにがあったかというと、まん前の料亭の女将さんが若くして蜘蛛膜下で一夜にして亡くなられたこと、我々を追い出そうと懸命に活動した船頭が原因不明の船逆立ち事件でお亡くなりになったことなどがあったが、4月22日、この夜、絶対ありえないはずのどこからともなく「カーンカーン」という道路を掘るような音を一時間以上聞いたというのだ。これは宿泊したもの全員が聞いているので何らかの音がしたことは事実である。これは幽霊ではないが宿泊した人はよく晴れた夜には、海の上にUFOを見るという。星の動きとはまるで異なる不思議な光の点滅を見るみという。幽霊・UFOそんなものは無いというのは簡単だ。しかし、あるという人間にとってはこの結論は納得できない。なにしろ自分が見たのだから、見た本人にとっては絶対の事実なのだ。幽霊とUFOが好きな人間は「城ヶ島クラブ」にとまると運が良ければ幽霊とUFOに遭遇できるかもしれない。城ヶ島は未知との遭遇に最適なばしょなのだろう。

城ヶ島クラブ http://www006.upp.so-net.ne.jp/j-kurabu/

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2007年04月23日

勝海舟に学ぶ

98875bb6.jpg勝がまだ若く臨太郎といって「貧乏書生のころ、浅草を歩いていると乞食のような落ちぶれた易者に「そこの若いの、お前はみるところ、なかなか見所があるので、話しておきたいことがある」と呼び止められた。「俺はいまではこんなにみすぼらしい姿になってしまったが、これでも、若いころは勢いがあったものじゃ。占いなども良くあたり、易をみてもらいたいお客が鈴なりで、毎日溢れておったものだ。しかしあることから易は当たらなくなり、お客もいつしか遠ざかり、しだいに、こんなにみすぼらしく、おちぶれてしまったのだ。あることとは、一つは、ある美人の女将がきて言うのには、”富くじ”を是非とも当ててもらいたというのだ。亭主がどうしてもお金が必要なので、御代は今はお金が無いので自分の肉体で支払うと言うので若気の至りで、小股が切れ上がった良い女であったので、女将を抱いてしまったのよ。」
富くじは見事に当たり、お礼にきた女将をみた俺はまたムラムラと発情してしまったのだ。すると女将はきっと怖い目で睨み、『この乞食坊主、あたしゃ、亭主が可愛いからこそ、おまえのような乞食坊主に体を許したのさ、それを一度ならず二度までも求めるとは、とんでもない奴だ』その剣幕と目の恐ろしさ、その目が一生消えなく成ってしまったのだ。
もうひとつは、行者として精をつけるために、すっぽんを食おうと思ってすっぽんの首を刎ねようとしたらもの凄い目で睨まれたが「ええい、かまうもんか」と首を切り落とし食ってしまったことがある、それからというもの、この二つの目が頭から消えず始終気になって、気になって、それからというもの、俺の八卦はあたらなくなり、いつしかこんなに落ちぶれてしまったのだ。「若いの、お前は見所のある奴だと思うので、教えておくが絶対に、心に気になることをしてはならんぞ、そうすれば福は増し寿命は延びいつまでも元気でおれるのじゃ」これを聞いた勝海舟は,合点するところがあり”心に気かりになることをせず”維新動乱を生き抜き長寿でここまで生きてこれた、とある(氷川清和)
これはなかなか、良い話です。とくにいまの若い諸君には是非参考にしてもらいたい話です。私ごとで恐縮ですが、僕などは無責任ネットで悪口・誹謗されつづけていますが、勝海舟のこの話を知っているので、毛筋ほども、動揺しないし、びくつかない。それは”心にやましいことが何一つないからです”。僕の経験でも”騙し、裏切り、破壊、暴力、いじめ”などをやった人間は僕の年まで生きてはいないし、生きていても廃人同様の生き様となっています。人生長生きしたかったならば、”裏切るな、心に気になることをするな、弱い者いじめをするな、無理をするな、いじめをするな”の原則を守ることだとおもいます。

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2007年04月20日

正気と狂気

dbe1d543.JPG三島由紀夫自決(昭和45年11月25日)のとき、時の内閣総理大臣・中曽根康弘は新聞紙上で「狂気の沙汰」であるといった。
また、226事件(昭和11年2月22日)の決起直前、安藤大尉はハンカチに「我れ狂か愚か知らず・・・」と記した。人がテロ・革命・自決・暗殺などの政治的行動に走る時、すでにそこには狂気が含まれているのです。いずれも行動者はそこで人生が終わるのだから、狂気がなければ成しえないことだ。戦争もそうだが正気では人は殺せないし、戦場ほど恐ろしいところはないはず、これが正気であり、殺し合いが好きで平和な日本を捨てて、フランスの外人部隊にわざわざ志願しあちこちで戦っている人間もいる。これは正気ではなく狂気のなせる業である。何処までが正気でどこまでが狂気なのか、この判断はむずかしい。まるでメビウスの輪のように、正気と思って走っているうちにいつのまにか、狂気になっていたり、狂気な行動が後世に正気として評価されたりするからだ(三島由紀夫)。狂気を演出する、これは正気でなければできない。正気と思いつつも、いつのまにか狂気の世界に入り込んでしまうこともある。一般大衆の思考から離れてしまう。それが、100年先の考えであれば天才であり、単に少し離れただけなら変わり者か変態で終わるが、接点が無くなるほど離れてしまい一般大衆と永遠に交われなくなれば、人はその人を狂人と呼ぶ。
信仰というのは怖いもので、最初正気ではじめたのが信仰がすすむにつれていつしか強信ならず狂信の世界に突入する。やがて拝んでいるうちに祈祷性精神病になる。教祖が”気違い”の場合その信者は確実に”気違い”になる。”気違い”はウイルスよろしく伝染する。オーム真理経の麻原彰晃、人民寺院のジム・ジョーンズ(1978年11月18日900名以上集団自決)一人一殺の血盟団の井上日召(1886〜1967)いずれも、教祖の狂気が伝染し弟子を殺したのである。ゲーテの若き「ウエルテルの悩み」という小説が流行した時に多くの若者が主人公よろしく黄色いチョッキを着て自殺したらしいが、是も狂気のあらわれであろう。真言密教の坊主には頭の狂ったのが圧倒的に多いがその理由は不思議な超能力を身につけるべく行う、求聞持聡明法・日輪観・月輪観・加持祈祷などにある。祈りをかけて祈りを叶えようとすると、祈りが叶えばそれでよいが、もし叶わざる場合には自分が壊れてしまうのだ。
熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。これを空病という。導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ。政治的行動も天下国家などの大言壮語(妄想)に遊んでいるうちに、いつしか現実と虚妄の世界が区別がなくなり、狂を発し戻れない世界に旅立つのです。ご用心ご用心!

※三島由紀夫は、正気か狂気か
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2007年04月19日

帝国ザインの法華経観

ae44fc58.jpg帝国ザイン軍師 伯壬旭(小島露観)氏の第13講話「ZXプログラムと法華経」を大変興味深くをみせてもらいました。最近、僕は師について、その独特のファッションと、数学を使いながら説法する手法に興味をいだいており、共鳴するところも、同意できないところもあるという感じです。第13講和「ZXプログラムと法華経」の中に、「法華経には中身がないという」指摘があったが、まともに(信仰心無くという意味)法華経を読めば、誰でも法華経には中身が無いと思うはずです。この問題はすでに江戸時代の儒学者・富永仲基(1715〜1746)によって指摘されています。・富永仲基は陽明学を学び神・儒・仏を歴史的に批判し、法華経・加上説(法華経は28章からなるが各章の成立は時代が異なりそれを積み重ねたのが法華経だという当時としてはまことに大胆な説)で有名であるから、これは伯壬旭師のオリジナル説ではない。しかし「1は0からできた」という説は大変興味深く拝聴しました。通常では0と1は対立関係にあり、「なにもないか」「存在するか」の関係と捉えられている。そのなかで「1は0から生まれた」という説は斬新的である。またこうも言っている、「精神と精神性」の問題である、精神とはそれを説いた教祖の中にしかなく精神性といったとき、それを説くものは全て偽者である、という指摘も優れた見方であると思います。「法華経にはこの経を説くものにはこのような功徳が在り、謗ずるものにはこのような仏罰が下る、とあるが、この経という説明が無いのだ。この経の中身とは”神のプログラム”だ。」と師はいう。本当に法華経には中身がないのだろうか?中身のない経典を天台大師(天台宗の開祖538〜597中国隋代の人,摩訶止観・法華玄義などで有名)また日本の天台宗比叡山延暦寺の開祖、伝教大師も日蓮大聖人(1222〜1282)も法華経最第一といっているのは、なぜなのか、を考えてみられたらどうかと思います。「仏法とは何を説いたものなのか」これが僕の求道の始まりです。仏法は科学などではなく、また論理を大切にする哲学などでもなく、数学でもない。いってみれば「直感」の法であり、お釈迦様の菩提樹の下における「大なる悟り」からはじまるものです。ではなにを悟ったのでしょうか?答えは「永遠の生命」を悟ったのです。これは直感の法であり、理論で理解できるものではありません。この直感の法をお釈迦様は「妙法蓮華経(サダルマ・プンダリーカ。ソタラン)」といわれたのであり、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経」とお悟りの立場から言われたのであります。法華経の中身とは表題部であり、お題目が法華経の中身だったのです。こういうことを知っている人間からみれば、「1は0から生まれる」とは0とは妙であり1とは法であると分かります。彼のいう「1」とは客観存在などではなく人間が生み出した概念だとわかります。人間なくして「1」はないのです。「妙は死、法は生、生死の二法は一心の妙有」ですから、本当は0から1がうまれるのではなく0も1も同じもので人間の心が0とみるか1とみるかなのです。「精神と精神性」の問題も、仏法の法は宇宙に存在する客観法などではなく、法を建立された仏様の中にしかないのです。客観法でないからこそ、仏様の教えを信じその御境涯に近よるべく修行が必用になるのです。でも伯壬旭は面白い人で狂気の人であることは事実です。
片意地はった人間ばかりのなかでこういった人間は貴重な存在でしょう。氏の中に「狂気の中の正気」をみようとしているのは僕だけであろうか?

(写真:帝国ザイン軍師 伯壬旭(小島露観)氏)

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2007年04月18日

新撰組 土方歳三は大人気

3a978a7d.jpg僕の孫(女子)は某美術系大学の中学3年生であるが、最近、土方歳三の研究にこっているという。
聞くところによると、土方歳三は女学生の人気のNO10にはいるらしい。この数字はこの学校の中の話なのか、あるいはクラスの中だけの話なのか、は知らないが、相当熱心に色々の資料を集めている。
司馬遼太郎の「燃えよ剣」をはじめ新選組のDVD5枚セット(50,000円)やら写真集やらすっかりマニアとなっている。「TVの土方役(俳優・山本耕史)が気に入ったんだろう?」と聞くと、違うという、土方歳三そのものに興味があるというのだ。いったい、女学生からみて、沖田総司なら美青年で背が高くハンサムで、と分からぬこともないが、ニヒルなイメージの新撰組副長・土方歳三のどこが気にいったのだろう。
質問しても、なかなか親切には答えてくれず、推理するしかないのです(w 。土方歳三の写真は数枚現存しているが、一番有名なのが函館五陵郭での髷を切り落とし洋装で刀(日本刀)をさした不思議な土方の写真です。この写真の指に注目すると、細く長い指と10本の指がみてとれます。細く長い指は文士や芸術家特有のもので、繊細な感性をもっていることが伺えます。それと、新撰組時代から何度という白刃の修羅場をかいくぐってきた土方なのに、10本の指が残っているのは驚きです。通常、切りあいの現場では指がばらばらと落ちているのが普通だそうです。実践では鍔があるぐらいでは指は守れない。木刀の試合でもしてみればわかるが指に木刀があたるのは常識で、これが真剣なら指はなくなるはずです。それが指10本まるまるある。これは不思議なことです。土方は桁外れに剣が強かったのか。あるいは戦いのときは必ず鉄の手甲をつけていたのか、あるいは実践は後ろで指揮しただけなのか?そういえば顔にも刀傷はないようだ。日本刀は良く切れる、松下村塾の久坂玄瑞など(蛤御門の変)のとき気がついたら右手がなかったという。北辰一刀流の免許皆伝・千葉道場・塾頭の坂本龍馬でさえ京都・寺田屋で追っ手に襲撃されて右の親指の付け根をざっくりやられ以後人前で手をだすことを極端に嫌がったといいます。日本刀が鼻をかすれば鼻が落ち、耳をかすれば耳がなくなるのです。切りあいの現場とは悲惨なもので、どうして土方は五体無事でおれたのだろうか?僕の答えはこうだ、土方は切りあいの現場では用意周到に鎧をつけていたのに違いない、頭の鉢金は現在保存されているがガッチリした相当なものである。鉢金のみならず鎖帷子に鉄胴鉄甲の完全武装で臨んだに違いない。映画や演劇では鎧兜はあまり絵にならないので(素面素小手の人間を甲冑武者が襲うのは絵になるまい)軽装に描かれているが、これが新撰組の強かった最大の理由ではあるまいか。
それにしても、土方歳三女好きするいいおとこだなぁ!(もてる理由は・・ハンサム!)

(写真はクリックすると拡大できます。)

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2007年04月17日

風林火山の応用

孫氏の兵法に「速きこと風の如し、静かなること林の如し、侵略すること火の如し、動かざること山の如し」とある。ちじめて「風林火山」」、NHK大河ドラマのテーマである。これは兵法の極意のみならず、平時の人生学の大切な教えにもなる。人生は山あり谷ありであり、順風の時も逆風の時もある。誰でも順風満帆を永遠に続けることはできない。僕は人生とは不確定要素半分・確定要素半分から成っていると考えている。確定要素とは努力であり、以って生まれた才能であり、生まれた門閥や環境などであり、不確定要素とは運ともいえよう。
僕の親戚にも成績優秀であり、麻布中学には入ったが、バス停でバスを待っている間に車に突っ込まれて死んだ子供がいた。またA君は日比谷高校から東大目指すも2浪失敗、早稲田の理工からN電気に行ったのがいるが奥様が早死に、子供が引きこもりとなって、てひどく苦労したのがいる。こういった例は数多くあるし、総合すれば人生の半分は不確定要素だと思って良い。仏法ではこのことを定業・不定業という、前世から引き次ぎ、自分ではどうすることもできないのを定業といい、自分の力で変化できる部分を不定業という。男や女に生まれたのは自分の努力で変えられないから定業、デブになるかヤセになるかは変えられるから不定業、寿命は定まっている面もあるが 定まっていない部分もあるから定業・不定業である。定まっている部分は法則であるから、「法の世界」であり、定まっていない世界は計算できないので「妙」の世界である。人生は「妙法」であると見る仏法の人生観は正しい。人生は妙法からできていると知れば「俺が、俺が」の我の世界は半分になる。あえて、妙の部分を「運」というならば人生は努力はもちろんのこと、「運」を良くしなければならない。日蓮大聖人はこの問題に、こう答えられている。

 「永遠の定業などというものはない。強い祈りによれば、不定業はともかく
  定業すら変えることができる。これが法華経の信仰だ」

さて、これらのことをふまえて「風林火山」を解釈すると、人生勝利し強運に恵まれた人生を送るためには

 風  人生は風の如し、風に順風と逆風の時あり、逆風あせるべからず、
    順風驕るべからず
 林 人生は林の如し、林に静あり、静を尊び焦りは禁物、咆えるな、
    跳ねるな、走るべからず
 火 人生は火の如し、火に燃・照の二義あり、燃は情熱。照は英知なり、
 山 人生は山の如し、山に不動・偉大・障害の三義あり、不動の障害を克服して
   偉大なる人生となる。

決して人は羨まず、人は人、他人は他人、比較せず、静かに神の声(自然の道)を聞き毎日精進し風に逆らわず煽られず、走るべき時に走り、走らざるを知り、時いたれば、英知をもって道を開き情熱をもって全力疾走し数々の障害を乗り越え不動の壁を打ち破って人生に勝利する。風林火山とはかくなる教えと知るべきである。まちがっても
      風   逃げること風の如し  
      林   怠けて静かなること林の如し
      火   裏切ること火の如し
      山   隠れること山の如し
のような人生にならないようにしましょう。 

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