2010年01月

2010年01月30日

外国人参政権は否定された!(土曜随筆)

30f49d42.jpg「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。紀元は2600年(キングレコードより)


外国人参政権は否定された!(土曜随筆)

外国人参政権に理論的根拠を与えた中央大学教授長尾一紘氏が産経新聞によると自らの論文の間違いを反省し「外国人参政権は亡国の法である」と反省したとあります。この人はドイツで外国人に参政権をあたえるべきという本を読みこれは法律論として合憲だと判断し論文を書いたのですが、民主党が大勝したあたりから外国人参政権付与法案に妙な動きがでてきたのがきっかけでこの法案について考え直したのです。「鳩山首相の提唱する地域主権論とアジア共同体構想はコインの裏表です」またもうひとつは「状況の変化であり韓国は在外選挙権を成立させ在日は韓国の政治に参加できることになった」からです。もう一つは愛国心の問題で「外国人には日本に対する愛国心がない愛国心なきものに参政権をあたえることは根本的に間違いです」といい近日中に本を出版するといいます。鳩山・小沢の主張する外国人参政権はとんでもない亡国の法案なのです。日本と韓国・日本と北朝鮮・日本と中国、顔は似ていても中身はまるで異なります。文化的には近いようですがけっして同じものではありません。日本はシナの科挙(かきょ)を受け入れませんでしたし宦官)かんがん)も纏足(てんそく)も犬食いも、泣き女も、人肉食いも受け入れませんでした。古代より自然と調和した天皇(おおきみ)を中心とした世界にまれにみる精神文明を発達させてきた神の国です。選挙権はこの国の国民になって初めて与えられるべきでしょう。
小沢の政治資金問題よりもはるかに外国人参政権問題は大きいのです。

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2010年01月29日

三世諸仏総勘文教相廃立講義(5)即身成仏

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「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。紀元は2600年(キングレコードより)


三世諸仏総勘文教相廃立講義(5)即身成仏

無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり、法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来如是性一切衆生の心性本覚の報身如来如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり、此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩も無く障りも無き衆生の運命なり果報なり冥加なり、夫れ以れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家も臥所も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なり身も只一身にて二の虚と実との事有り之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上


無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」とあります。この意味は”無相・不相の一法”とは心のことで、心には相(形)などなく、また心はどんな形容もできないがゆえに一切衆生の一念の心を無相・不相といっているのです。この心より無量の義(あらゆるものがうまれる)が作り出されるのです。これを天台大師の法華文句には「(心は)生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余(小乗教の涅槃)・無余(大乗経の涅槃)の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」とあります。有余とはすべての執着を断ち切っても体が残っていることで、無余とはなにものものこっていないことをいいます。無相・不相の心の不思議さを説いたのが経典であり、心こそが経典の肝心要(かなめ)なのです。心の不思議さを知る人を如来といっているのです。その後は十界は我が身である、我が心である、我が形である、本覚(もともと)の如来は我が身心であると知り、之を知らないときを無明というのです。無明は明かなること無しと読むのです。
我が心の有様を明かに覚らないのです。これを悟り知る時を名けて法性と云うのです。故に無明と法性とは同じ心の異名なのです。名前と言葉とは二ですが心は只一つであり、心としてしかあらわされません。ですからもし無明をば一刀のもとに断ずるならば悟りの心も断ずることになるのです。総じて円教(法華経)の意は一毫(ごう:わずか)の惑をも断ぜず「一切の法は皆是れ仏法なり」と言えるのです。法華経に云く「如是相一切衆生の相好:本覚の応身如来、如是性一切衆生の心性:本覚の報身如来、如是体一切衆生の身体:本覚の法身如来」この三如是より後の七如是(はたらき)をして、三如是(相・性・体)と七如是(力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)合して十如是と成るのです。此の十如是は十法界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)を生みます。この十法界は一人の一念の働きを説いたものですが、これは万人に通ずることで、万法は心より出で八万四千の法門となります。いま一人を手本としてあげましたが一切衆生も同じことでだれも十法界を超えでることはできません。法華経は三世の諸仏の総勘文ですから、まちがいないという印鑑を慥(たし)かに印された正本の文書なのです。仏の印鑑とは”実相の一印”のことです。印とは判の異名であり、他の一切の経には実相の印がありませんので正本の文書ではありません。法華経以外には全く実の仏がありません。そのゆえに法華経以外の教えは夢の中の文書なのです。十法界は十なれども十如是は一なのです。譬えば水中の月は水を浮かべる洗面器を多くならべればそれぞれに写りますが虚空に浮かぶ月は一つのようなものです。九法界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・)の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如しであり、仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なので虚空の月の如しなのです。この故に仏界の一つの十如是が顕れれば九法界の十如是の水中の月の如きも一つも闕減(けつげん)無く同時に皆顕れて体と用と一緒にして一体の仏と成る、十法界をおたがいに備えた平等なる十界の衆生であれば、虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕(か)けることがないのです。故に十如是は本末究竟して等しく差別が無いのです。”本”とは衆生の十如是なのです。”末”とは諸仏の十如是なのです。諸仏は衆生の一念の心より顕れて衆生はこれ”本”なのです。諸仏はこれ”末”なのです。然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」とあります。仏は成道の後に化他の為に迹(しゃく)の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うのです。智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説いたのです。衆生は本覚の十如是だといっても、一念の無明は眠りの如く心を覆って、生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋(かみすじ)を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るのです。仏は寤の人の如くなので生死の夢に入つて衆生を驚かすことができるし智慧は夢の中にて父母の如く、夢の中なる我等は子息の如くなのです。此の道理を以て悉是吾子(ことごとく我が子)と言っているのです。この理を思い解けば諸仏と我等とは”本”の故にも父子なり、”末”の故にも父子なり、父子の天性は本末是れ同じなのす。
これに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるのを即身成仏と云うのです。即身成仏は今我が身の上の天性・地体であり、煩(わずらい)も無く障(さわり)りも無い衆生の運命なのです。果報でもあり冥加(みょうが)につきるのです。夢の時の心を迷いに譬え、寤の時の心を悟りに譬へて一代の聖教を覚悟すれば跡形も無き虚夢を見て、心を苦しめ汗水と成つて驚けば我身も家も臥所(ふしど)も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なのです。身も只一身にて二の虚と実との事有ります、之を以て知れるでしょう。九界の生死の夢見る我が心も、仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず、心法も替らず在所も差はなく、夢は皆虚事で、寤は皆実事なのです。天台大師の摩詞止観に云く「昔荘周と云うもの有り、夢に胡蝶と成つて一百年を経たり、苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、妙楽大師の弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上

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2010年01月28日

三世諸仏総観文教相廃立講義(4)心は工なる画師

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「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。紀元は2600年(キングレコードより)


三世諸仏総観文教相廃立講義(4)心は工なる画師

声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経論の 言説なり無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり、此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり、生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり、此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い 求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、華厳経に云く「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上

音色の近名とは扇と樹のように、山に隠れた月を扇であらわす、月が樹に隠れるように、これらは夢中の迷妄でありこれが法華経以前の一切経の言説なのです。無相の極理とは心が月のように澄んで、月にかかる雲を風が吹き飛ばすように、自分の心性(月)の汚れを落とした本当の寂光の極楽なのです。この極楽とは十方の法界(空間をあらわす)に正法(こころ)をもつ有情(生きているもので心があるもの)と十方法界の依報(環境)の国土と和合して(溶けあって)一体となり報法応(智慧・心・体)の三身は即一であり、四土(娑婆世界・方便土・実報土・寂光土)は衆生の境涯によって変わるだけであり、客観世界ではない。いずれも同じであり、分けることはできないのです。四土不二なのです。十界をわが身と感ずるのは法身であり、十界を心と思うのは報身なのです。十界をわが身の形とするのは応身なのです。これでわかることは、十界の他に仏は無く、仏の他に十界はないので依正不二であり身土不二なのです。仏のお住まいになるところそれは寂光土であるから、寂光土即仏の身体ともいえるのです。
それゆえ仏と国土を分けられない故に無相の極理というのです。また生滅無常を仏は離れているので、故に無相といい、これは法性の淵底・玄宗の極地なのであり、ゆえに極理というのです。この無相の極理たる寂光の極楽は一切の有情の心性の中にあって清浄無漏(なにごとにもとらわれない)なのでこれを妙法の心の蓮台(妙法がでてくるところ)というのです。このゆえに心外無別法(心のほかに法なし)と云うのです。ここをさして「一切法は皆是仏法なり」と通達解了すということなのです。わが身を生と観、あるいは死と観る二つの理は生死の夢の理であり妄想であり、顛倒なのです。
本覚の寤(悟り)を以て我が心性をただすならば「生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し」これは既に生死を離れた心境ではないでしょうか。
劫火(炎)にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射られず、芥子(けし)の中に入るれども芥子も広からず、心法も縮まらず、虚空の中に満ちても虚空も広からず心法も狭からず、善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う、故に心の外に善は無く悪は無いのです、この善と悪とを離るるを無記と云うのです。善悪無記・この外には心無く心の外に法は無いのです。故に善悪も浄・穢も凡夫・聖人も、天地も大小も、東西も南北も、四維も上下も言語道断(言葉がおよばない)し、心行所滅(心もおよばない)して、心に分別してできた思いを言い顕すのが言語ですから、心の外には分別も無分別も無いのです。言葉と云うのは、心の思いを響かして声に顕すことを云うのです。凡夫は我が心に迷って、わが心を知らず覚らないのです。
仏はこれ(心)を悟り、その働きを神通と名けたのです。神通とは神の一切の法に通じて礙(さわり)無いことをいいます。此の自在の神通は一切の有情の心なのです。故に狐狸(きつね、たぬき)も分分に通を現ずることがあるのは皆心の神の分分の悟なのです。この心の一法より国土世間も出来てくるのです。釈尊一代の聖教とはこの事を説いたものなのです。これを八万四千の法蔵と云うのです。これ皆悉(ことごとく)一人の身中の法門なのです。
然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書ともいえます。この八万法蔵を我が心中に孕(はら)み持ち懐(いだき)持ち、我が身中の心を以て仏と法と浄土とを、我が身より外にあると思うのを迷いと云うのです。この心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出すのです。華厳経に云く「心は工(たくみ)なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上

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2010年01月27日

三世諸仏総勘文教相廃立講義(3)無作の三身

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三世諸仏総勘文教相廃立講義(3)無作の三身


故に知んぬ十方の仏土に無き方便の教を取つて往生の行と為し十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして成仏す可き道理有る可しや否や一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く三世の諸仏同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり云云、方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周〓して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり、此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり、我仏に成りて後に穢土に立ち還りて穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して方便の教を説くを化他の教とは云うなり、故に権教と言い又方便とも云う化他の法門の有様大体略を存して斯くの如し。
二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり、是の経は寤の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて寤の本心を訓る故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈との意此くの如し、之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり、但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり、譬えば衆流を大海に納むるが如きなり仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取て己心に摂むるが故に心の外に法無きなり己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」此れを三如是 と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周〓して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず、仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云う只一つの法門なり、十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり、十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理は一なるが故に無分別なり百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり、夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり、過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり、一切経の語は夢中の語とは譬えば扇と樹との如し法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり、故に止観に云く「月・重山に隠るれば扇を挙げて之に類し風大虚に息みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文、弘決に云く「真常性の月煩悩の山に隠る煩悩一に非ず故に名けて重と為す円音教の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し四依の弘教は扇と樹との如し乃至月と風とを知らしむるなり已上、夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり故に文と語とは扇と樹との如し」文、上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く、故に釈籤に云く「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」と已上



故に知るでしょう。三世十方の仏国土には真実しか無いので、方便の教である、極楽浄土に往生するための行をおこない、十方の仏国土にいく一乗の法(南無妙法蓮華経)を嫌って、南無妙法蓮華経を行じなくて成仏するはずがないのです。もっともここでは仏になるという成仏という言葉もなく極楽に往生する(生まれる)ということが目的ですからですから、注意が必要です。一代の教主釈尊は一切経を説き、しかも経を整理して言うのには、三世の諸仏の諸法は一つ語を使い、一つ心に与える説法の儀式なので、我(日蓮大聖人)もまた是くの如く一言も違わざる説教をやろうというのです。方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」、無分別の法とは一乗の妙法のことを言います。善悪を簡(えらぶ)ぶこと無く、草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足しています。我が心の妙法蓮華経の一法は十方の仏国土に周徧(しゅへん)して闕(か)くることがありません。十方の仏国土の依報は如何なる正報の功徳荘厳によるのかと考えて見ますに、我が心の中に有つて片時も離れない三身即一身(無作の三身)の本覚(もともとの)の如来にて是の外には法はありません。此の一法計り十方の仏国土に有って余法はありません。故に他に法がないので無分別法と云うのです。此の一乗妙法の行をば取らないで、全く仏国土には無き方便の教を取つて、成仏の行と為そうとするのは迷いの中の迷いなのです。我は仏に成って後に穢土(この世界)に立ち還って穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して方便の教を説くを化他の教とは云うのです。故に権教と言い又方便とも云い化他の法門の有様大体略を知ってかくの如しなのです。 二に自行の法とは法華経八箇年の説なのです。是の経は寤の本心を説き給うのです。唯衆生の思いは夢中の心地ゆえに夢中の言語を借りて寤の本心を教えようとするのです。故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を教えようとする法華経の文と釈との心があるのです。これを知らなければ経の文と釈の文とに必ず迷ってしまいます。但し此の化他のための夢中の法門も寤の本心に備わっている徳用の法門なので夢中の教を取つて寤の心に摂(おさむる)が故に四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて「心の外には法無きなり」此れを法華経の開会とは云うのです。これは譬えば諸々の河の流を大海にいれるようなものであり、仏の心法、妙・衆生の心法、妙とこの二つの妙を取って己心に摂めるために、「心の外に法無きなり」といい、己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来(無作三身)なのです。これを経に説いて云く「如是相(応身如来)・如是性(報身如来)・如是体(法身如来)」此れを三如是 と云のです。この三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為すのです。この故に我が身は本覚三身如来の身体であり、法界に周徧して一仏の徳用なれば「一切の法は皆是仏法なり」と説き給うのです。その座席に列(つらなりし)諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目(ひがめ)・僻思(ひがおもい)・立所に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ずるのです。仏は寤の人の如く、衆生は夢見る人の如しなのです。
故に生死の虚夢を醒(さま)して本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云う只一つの法門なのです。十方の仏土はいろいろありますが、分けられてもそれを貫く法は一つで一乗(南無妙法蓮華経)なのです。ここでは方便はありませんので無分別法なのです。十界の衆生はそれぞれ異ってるといっても、実相の理(南無妙法蓮華経)は一なるが故に無分別なのです。百界千如・三千世間の法門はその名が異なっているといっても、十界互具するが故に無分別なのです。夢と寤と虚と実とそれぞれ異なってといっても中得も各別異なりいっても一心の中の法なるが故に無分別なのです。過去と未来と現在とは三なりといっても、一念の心中の理なれば無分別なり、一切経の語は夢中の語とは譬えば扇と樹との如(扇は樹からつくられるが役割は異なる)法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し(月は風で動くことを知る)、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う、故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしめるのです。この故に夢の余波を散じて寤の本心に帰すのです。故に止観に云く「月・重山に隠るれば扇を挙げて之に類し(月が山に隠れたならば扇を上げて月を教え)、風大虚に息みぬれば樹を動かして之を訓(おしゆる)が如し(風が存在することは樹が動くことで知れる)」文、妙楽大師の弘決に云く「真常性の月、煩悩の山に隠る、煩悩一に非ず故に名けて重と為す円音教の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し四依の弘教は扇と樹との如し、乃至月と風とを知らしむるなり已上、これは夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如くであり、本来の心(月)を隠しているのです。煩悩の数は八万四千の塵労にて心性本覚の月輪(悟り)を隠しているのです。扇と樹との如くなる教えの文字言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知させようとする聖教なのです。故に文と語とは扇と樹との如し」文、上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓(おしえ)知らすのを南無妙法蓮華経と名くるのです。故に妙楽大師の法華玄義釈は「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」(姿や声から無相の 極理を知る)已上

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2010年01月26日

三世諸仏総勘文教相廃立講義(2)夢の善悪

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三世諸仏総勘文教相廃立講義(2)夢の善悪

故に三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て終りに仏に成らんと思えば我が身より火を出して灰身入滅とて灰と成つて失せるなり、通教を修行すること七阿僧祇・百大劫を満てて仏に成らんと思えば前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり、別教を修行すること二十二大阿僧祇・百千万劫を尽くして終りに仏に成りぬと思えば生死の夢の中の権教の成仏なれば本覚の寤の法華経の時には別教には実仏無し夢中の果なり故に別教の教道には実の仏無しと云うなり、別教の証道には初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し始めて之を見れば別教は隔歴不融の教と知つて円教に移り入つて円人と成り已つて別教には留まらざるなり上中下三根の不同有るが故に初地・二地・三地・乃至・等覚までも円人と成る故に別教の面に仏無きなり、故に有教無人と 云うなり、故に守護国家章に曰く「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏無作の三身は覚前の実仏なり後の円教の観心の仏」又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」此の釈を能く能く意得可きなり、権教は難行苦行して適仏に成りぬと思えば夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、極果の仏無ければ有教無人なり況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり、此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解を開かしむるなり九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、三三九品なり、此くの如く説き已つて後に又上上品の根本善を立て上中下・三三九品の善と云う、皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意、此の上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば此れを善の本と云うと説き聞かせ給し時に夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり、是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此れは別教の中道の理是の故に未だ十界互具・円融相即を顕さざれば成仏の人無し故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なり、只暫く之を用いて衆生を誘引し給う支度方便なり此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕けざるなり、四教一一に各四門有つて差別有ること無し語も只同じ語なり文字も異ること無し斯れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云う是の方便の教は唯穢土に有つて総じて浄土には無きなり法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し仏の方便の説をば除く」已上


ゆえに三蔵経(小乗教)を長い間(数えることもできない長期間)修行して仏になろうとすればついにはなにも残さないために我が身から火を噴出して全身を燃やして灰となってしまうのです。同じく通教を修行して数えることもできないほどの長い間修行しても、ついには全身を燃してしまって灰(灰身入滅)になってしまうのです。また別教を修行して同じく仏になろうとすればこれは(生死の中の夢)のようなものであり、法華経に比べれば夢の中での成仏のようなものです。成仏したと思っても醒めてみれば夢なのです。別教での修行の方法はまず五十二位の内で初地の位で一分の無明を断じて、一分の中道の理を顕して別教をみると三諦・三身がばらばらに説かれていることに気づき円融円満の円教である法華経を信じてけっして別教にとどまるということがないのです。人の機根には上根・中根・下根があって一様ではないのでその説き方も初地・二地・三地ないし等覚までどこから入っても最終的には法華経を信ずることになるので、別教で成仏した人はいないのです。ゆえに有教無人(教えがあって悟った人がだれもいない)というのです。ゆえに伝教大師 の守護国界章には「前三教に出てくる仏とは夢の中の権果であり、無作三身は本当の実仏なのです」
また「権教の三仏は法・報・応の三身がばらばらであり、これでは実仏、実教の円融円満の仏とは違うのです。権教を難行苦行してやっと仏になったと思ったらこれが夢の中のできごとであり、実際の仏からみればお話にならない夢の中の悟りなのです。これらの教えによって仏になったものがいないならば有教無人なのです。しかもその教えも中身がなく実ではありません。こういう教えによって悟りを得ようとするのは釈尊一代の聖教に迷ったからなのです。この前三教には仏になれない証拠がたくさんあるのです。これは末代の衆生がみてわかるようになっているのです。九界の衆生は命が一念であることを知らず九界夢の中の生死をおこなっており、寤は「生ずべき初めも無きが故に死すべく終わりも無し」で永遠の生命を自覚します。本来の自分(無作三身)を忘れ九界に執着して暗きより暗い世界にいるのです。このゆえに如来は、我らの夢の中に入って顛倒(てんとう)の衆生に同じて夢中の語をもって夢中の衆生をいざない夢中の善悪の差別を説いて漸漸(ぜんぜん)にに誘導し夢中の善悪がかさなりますが、まず善事のことから上中下をたてたのです。これが三乗の法なのです。衆生を上品・中品・下品とわけさらに上品を上中下に分け中品も三にわけ下品も三にわけて九品とするのです。
みなすべて夢の中のことでありこれを総じて邪見外道とします。これらの衆生の上に上々品の善心がありこれは本覚の寤となりますので善心のもとなのです。夢中の善悪の悟の力をもって、寤の本心の実相の理を始めて知ったのです。是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一つです。眠の縁に値えば夢を、眠去りがされば寤の心なのです。心法は只一念なのです。悟っても悟らなくとも心は一つということは、悟りの下地を造り置かれたのです。方便であり此れは別教の中道の理、是の故に未だ十界互具・円融相即を顕されなければ、成仏の人無いのです。
故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なのです。只暫く之を用いて衆生を誘引する支度方便なのです。此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有って権実の法があるのです。四教一一に各四門があって、差別はありません。語も只同じ語なり文字も異ること無いのです。これに由つて語に迷って権実の差別を分別しないときに仏法滅すというのです。是の方便の教は唯穢土に有つて総じて浄土には無いのです。法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し仏の方便の説をば除く」已上

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2010年01月25日

三世諸仏総観文教相廃立 講義(1)権実について

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三世諸仏総観文教相廃立 講義(1)権実について

                   弘安二年十月     日蓮これを選す

夫れ一代聖教とは総べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり、此れを分ちて二と為す・一には化他・二には自行なり、一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり此れをば権教と云い亦は方便と名く、此れは四教の中には三蔵教・通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等・般若なり法華より前の四時の経教なり、又十界の中には前の九法界なり又夢と寤との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤をば実と云うなり、是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す、故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う、斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり、故に権をば権と読む権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり、故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う、是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上、未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊等 とは夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なりと云う釈なり、故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯す」已上、四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なる此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり、然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり、法華に取寄る可き方便なるが故に真実には非ず、此れは仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、今法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時・仏自ら勘文し給える教相なれば人の語も入る可からず不審をも生す可からず、故に玄義に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う、故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し。

お釈迦様一代の聖教とは三十成道から八十の御入滅までの五十年の説法のことを言います。この聖教を二つに分類することができます。一には化他(人の為)二には自行のためなのです。化他の経とは法華経を説かれる以前の教えで四十二年の間に説かれた諸経のことです。これを権経とも方便ともいうのです。これを教えで分ければ蔵・通・別の三教であり、時で分ければ五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)の中には華厳時・阿含時・方等時・般若時でありこれらは法華経以前の四時の経説なのです。また十界で分ければ九界であり、また夢と寤(うつつ:さめる)で分けると法華経以前の教えは夢であり法華経は寤なのです。法華経以前の教えは夢で善悪をみるようなものであり、その実体はありません。ゆえに夢の教えを権教といい寤の教えを実というのです。夢は仮であってどんな夢をみたにしてもその実体がありません。ゆえに権というのです。寤は起きても覚めても常住に我らが感ずることですから実というのです。故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言うのです。夢の中にいる衆生を誘引し転倒虚妄法を驚覚(覚醒させる)させ法華経の寤をあたえるための準備の法なので権教というのです。このゆえに文字のとり扱いを注意しなければなりません。権と書いて権(かり)と読むのです。このたとえは夢をもってあてるのです。夢には実体がないから権(かり)なのです。
また実と書いて実(まこと)と読むのです。これは寤が実の手本なのです。我々が毎日繰り返しているなにげない一日は(生死の夢)であり正体なくゆえに妄想というのです。我々の命は永遠であり、滅することもなく不変常住であると知ることを実相というのです。このことをもって権実の二字を正して一代聖教の化他のための権と自行の実との差別を知るべきなのです。ゆえに四教(蔵・通・別・円)に配するならば最初の蔵・通・別は権教であり、五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)に配するならば前の五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)に配すれば前四時は権教であり、十界に配するならば前の九法界は権であり、これらは皆夢の中の話であり、夢の中の善悪のことなのです。故に権教というのです。この経典上の事実を無量義に四十余年未顕真実と説いているのです。この未顕真実(しんじつをあらわさず)の諸教は夢の中の権教なのです。ゆえに釈籤(妙楽の妙法蓮華経玄義釈籤)に「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」とあるのは皆夢幻の中の方便であり性雖無殊等とは夢みるのも心であり寤のときも心であり、同じ心でありながら、その心をみる我の心なりという意味です。故に摩詞止観には「前の三教の四弘・能も所も泯す」とあり、四弘とは四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願成)のことで教える仏も教えられる衆生も前三教は皆夢の中のできごとという意味です。法華以前の四十二年の間の説法である諸教は未顕真実であり権教であり方便なのです。やがて説く法華経に導入する為のものであり方便であり、真実ではないのです。仏は法華経を説かんとしてまず序分の開経である無量義経を説いたのですが、この教は仏の隋自の教えですから誰も口だしできません。ゆえに天台大師の法華玄義には「九界を権と為し仏界を実と為す」とあるのです。九法界とは四十二年の説法であり、仏界の実は八年にわたり説かれた法華経のことなのです。、故に法華経をば仏乗と云うのです。九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云うのです。故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けてくもりないのです。


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2010年01月22日

開目抄特講(2)思想界の王者

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開目抄特講(2)思想界の王者

折伏は仲良しグループのためのお付き合いの誘いとはちがいます。創価学会のように選挙運動が折伏のわけがありません。
折伏とは相手の命の根本を変えることですから選挙運動に参加させても相手の命も変わらず自分の修行にもなりません。折伏は慈悲が根本でなければいけません。慈悲とは相手を思う心であり「彼の悪を除くのは真に彼の親」だからこそできるのです。
折伏によって、はじめて折伏した人は師、折伏された人は弟子となり、師匠と弟子の関係になれるのです。師とは邪義を取り除いてくれる人、仏道に正しく導いてくれる人のことです。法華経の行者である我々にカラオケだとかマージャンだとかゴルフだとかパチンコだとか一切必要がないのです。お互いに仏をめざし切磋琢磨していく修行の道があるだけなのです。われらの目的は成仏であり、そのための学びとは御書の学びなのです。そのための行とは折伏行と唱題行なのです。唱題行によって、くめども尽きない命の泉が湧きあがり仏界の歓喜につつまれます。御義口伝の学びによって生命と仏界の何たるカを知り狂った頭(迷妄・虚妄分別)が癒されます。友を隣人を折伏することによって仏道は急速にすすんでいくのです。南無妙法蓮華経を信じた人は思想界・世界の宗教界の王者なのです。それにふさわしくこの開目抄を学び深く理解していかねばなりません。余裕あれば世界の思想を学び人類を狂わしてきたその邪を知り、折伏のために勉強していかねばなりません。シナ思想と仏教思想はどう違うのか、インドのバラモン思想と仏教思想とはなにがどのように違うのか、また初期仏法といわれる阿含経・華厳経・方等経・般若経・法華経・涅槃経の違い、法華経の迹門と本門の違い、さらに末法における法華経とはなんなのか、日蓮大聖人と末法の関係、法華経と南無妙法蓮華経の違い、さらに踏み込んで形而上学の正体、キリスト教の本質ユダヤ教の本質、イスラム教の本質、西洋哲学の問題点、さらに日本の思想などについて学び国家の師としての力を蓄えていかなければなりません。それでこその日蓮大聖人門下といえるでしょう。日蓮大聖人はお釈迦様の法華経を指差す人ではなく末法の一切衆生を救う本仏なのです。
末法の本仏の建立された一切の衆生を救う南無妙法蓮華経の大法を広めることが唯一の仏法であり、これは僧侶も在家もありません。南無妙法蓮華経を広める僧俗ともに尊く大事で仲良くしてゆくのが道でしょう。以前、僕が石田次男先生に「先生はどうして仏法がそんなにわかるのですか?」と質問したところ「南無妙法蓮華経という最高の教えを信じているから皆わかるのです」と教えていただきました。南無妙法蓮華経を信ずる人は何でもわかるのです。もし日蓮正宗の御僧侶がいなければ、われらは仏法を知らず、いま今日こうして仏法をいただけるのも、元はといえば日蓮正宗の伝統と御僧侶のおかげです。ここに深く感謝し御尊敬申し上げます。

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2010年01月21日

開目抄 特講(1)破壊

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「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。紀元は2600年(キングレコードより)


開目抄 特講(1)破壊

開目抄の講義も無事どうやら終わりました。終わってみると現代人にはこの開目抄を「そのまま受け入れてよいのだろうか?」、という疑念が生まれることでしょう。昔から日本有数の観光地帯となっている京都・奈良ここには大仏があり五重塔があり、奈良仏教の遺跡がいまでも観光名所として生きています。これらはすべて邪教なのでしょうか?坊さんといっても人でありその中には良い人もいるに違いないのです。しかし開目抄はこれらの邪教の命根を絶てというのです。
まさにそのとうりなのですが、この命根を断てという意味について考えてみたいとおもいます。たとえば念仏を信ずる人がいて「わかりました。これからは南無妙法蓮華経を信じます」といって南無妙法蓮華経を信仰するとします。しかしその人の精神構造の骨格は南無阿弥陀仏でありその南無阿弥陀仏の山のうえに南無妙法蓮華経の幕をかけたに違いないのです。するとこの人は南無妙法蓮華経を南無阿弥陀仏という深層意識で受け取ることに成ります。この南無阿弥陀仏を粉砕することが命根を断つことであり謗法の命を絶つということなのです。折伏とはこのような深層意識の南無阿弥陀仏の徹底的破壊であり、これを破壊しないで、その上に正法を建設することはできないのです。摂受とは南無阿弥陀仏を認めながら南無妙法蓮華経を信じさせていくという作業なのです。これは末法今日ではだめなのです。いまは徹底的な破壊を必要としています。折伏しなければならないのです。邪義・悪法を徹底的に破壊してこそが折伏なのです。創価学会のようなお仲間宗教(選挙・座談会)では本当にその人を救うことはできないし、国家も世界も救うことはできないのです。
世界の悪思想・宗教を徹底的に破壊してこそ、日蓮大聖人門下といえるのです。世界は広いといっても意外と簡単な構造から成り立っています。ユダヤ教潜在意識、キリスト教潜在意識、イスラム教潜在意識、ヒンズー教潜在意識、仏教潜在意識、共産潜在独裁意識、などです。これらの潜在意識が花が開くように文明を作り世界を作っているのです。実は人類の根本問題は宗教問題なのです。それを開目抄は教えてくれているのです。開目抄を学ぶことは比較思想を学ぶことであり、世界の思想を学ぶことなのです。その悪を指摘しその悪を徹底的に破壊する人こそが開目抄を学んだことになるのです。そうです折伏とは悪思想の徹底的破壊であり命根を立つことなのです。

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2010年01月20日

開目抄下巻講義(22)日蓮が流罪(おわり)

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「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。紀元は2600年(キングレコードより)


開目抄下巻講義(22)日蓮が流罪(おわり)

問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に・あだまれたる・いかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。
夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住・故来至此」等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを法然いたはしとも・おもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき 狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云、無道心の者生死をはなるる事はなきなり、教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、日蓮が御勘気を・かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざんなり・かつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法は骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし。


質問します。念仏者や禅宗らを責めて彼らにあだまれてどんな利益があるのでしょうか。答えて言うには涅槃経に「もし善比丘があって正法を破る者をみて徹底的に攻撃しなければその人は仏法の中の仇となるのです。それと反対に徹底的に攻撃するならば、これは本当の仏の弟子であり、声聞なのです。悪の道に行く人を彼の悪を除くのは彼の親なのです。良く悪を責める者はこれ本当の弟子であり、責めなければ仏法の敵となるのです」法華経の宝塔品には釈迦・多宝・十方分身が集まったと言うのはどういう意味があるのか、それは法をして久しく住しめん(令法久住)ゆえにここに来た(古来至此)のです。三仏(釈迦・多宝・十方)の未来に一切の仏子に法華経を与えて救わんとするに法然はその心に反して法華経への門を閉じて、ここえ人々を入れないようにし、これはまるで狂った人を騙して宝をすてさせるようなもので、この法華経を憎む心こそ哀れなのです。自分の父母を殺そうとする人がいてそれを知ったなら父母に告げない人がいるでしょうか。狂った人間がいて父母を殺そうとするのにそれを制しない人がいるでしょうか。悪人が寺に火をつけようとするのにこれを止めようとしない人がいるでしょうか。子供が重病になってお灸を与えない親がいるでしょうか。これが「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」というのです。日蓮(大聖人)は日本国民にとって主・師・父母なのです。天台宗の人々は念仏にとって大敵なのです。「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」道を求めない者は生死を離れることはできないのです。釈尊は一切の外道に「大うそつきの大悪人」といわれ、天台大師も南三北七の論師ならび得一法師に「拙きもの智公(天台)よ、汝誰の弟子か、三寸の舌をもって釈迦の諸説を謗じ五尺の仏身を断つものである」から時嘘つきだといわれまた「最澄未だ唐都を見ず(いなかもの)」などと蔑まれたのです。これらは皆法華経ゆえのことなのですからかえって名誉なことなのです。また日蓮(大聖人)はこうして佐渡に流され佐渡にいれば天台・真言・念仏の法師どもは「ざまあみろ」と大いに喜んでいることでしょう。釈尊は娑婆世界に生を受け、羅什三蔵は秦の国に来たり、伝教大師 はシナにわたり、提婆師子は法のために身をすて、薬王菩薩はその臂をやき、上宮は手の皮をはぎました、釈迦菩薩は肉を売り、楽法は骨を筆としました。天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし。

                          開目抄下巻講義終了

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2010年01月19日

開目抄下巻講義(21)仏法は時を知るべき

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「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。紀元は2600年(キングレコードより)


開目抄下巻講義(21)仏法は時を知るべき

問うて云く摂受の時・折伏を行ずると折伏の時・摂受を行ずると利益あるべしや、答えて云く涅槃経に云く「迦葉菩薩仏に白して言く如来の法身は金剛不壊なり未だ所因を知ること能わず云何、仏の言く迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり、迦葉我護持正法の因縁にて今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり、善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣弓箭を持つべし、是くの如く種種に法を説くも然も故師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず、是くの如き比丘自利し 及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩は懈怠懶惰なり能く戒を持ち浄行を守護すと雖も当に知るべし是の人は能く為す所無からん、乃至時に破戒の者有つて是の語を聞き已つて咸共に瞋恚して是の法師を害せん是の説法の者・設い復命終すとも故持戒自利利他と名く」等云云、章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず」等、天台云く「時に適う而已」等云云、譬へば秋の終りに種子を下し田畠をかえさんに稲米をうることかたし、建仁年中に法然・大日の二人・出来して念仏宗・禅宗を興行す、法然云く「法華経は末法に入つては未有一人得者・千中無一」等云云、大日云く「教外別伝」等云云、此の両義・国土に充満せり、天台真言の学者等・念仏・禅の檀那を・へつらいをづる事犬の主にををふり・ねづみの猫ををそるるがごとし、国王・将軍に・みやつかひ破仏法の因縁・破国の因縁を能く説き能くかたるなり、天台・真言の学者等・今生には餓鬼道に堕ち後生には阿鼻を招くべし、設い山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも空閑にして三密の油をこぼさずとも時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき。

質問します。摂受の時に折伏を行ずるのと折伏の時に摂受を行ずるのは功徳があるのでしょうか?その答えは涅槃経には「迦葉菩薩が仏にむかって如来はその身(法身)は金剛不壊です。どうしてそうなったかを知ることができません。その迦葉菩薩に対する仏の答えは私は正しく正法を護持するのがその因縁なのです。その功徳によって迦金剛不壊の身になったのです。菩薩よ善男子は正法を護持する者は五戒(不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒)を受けることなく戒律をもつ必要もありません。まさに刀剣弓箭で武装すべきなのです。かくのごとく色々の法を説いているけれど、なお相手を屈服させる獅子吼をだすことができません。破法の悪人を正すことができません。このような比丘は自分を利益することもできず人を利益することができません。このような人は怠け者(懈怠乱惰)なのです。良く戒をたもち清い法を守ってもなにもできないのです。また時に破戒の者があって、この話を聞き終わって皆この法師に怒りをなして害そうとしました。この説法の者たとえ命終してもなお持戒自利他利となずけるのです」章安大師は「取るか捨てるかは時によって判断すべきで一つにするべきではない」また天台大師は「時に適うのみ」といっています。たとえば秋の終わりに種をまき田畑をたがやすとも稲はみのりません。建仁年間に法然と大日という悪僧がでて念仏宗と禅宗をつくりました。法然は「法華経は末法においては誰も仏にせず千人修行しても一人も悟りはありません」といい大日の言うのには「悟りは法華経によるのではなくだまって座ればよいのだ(教外別伝)」といい今の日本にはこの邪義が充満しているのです。これをみて天台・真言の学者たちは大旦那をおそれてこびへつらいまるで犬が尾っぽをふるようなことをしています。また鼠が猫を恐れるようにしています。日蓮「(大聖人)は国王・大臣に破仏法の因縁を徹底的に明らかにしようとしてるのです。天台・真言の学者たちは今生に餓鬼道におち来世は阿鼻叫喚地獄にいくでしょう。たとえ三林に交わって一念三千の観をこらしても静かなところにいて不動の座禅を組んでも時期を知らず摂受・折伏の二門を知らなければどうして生死をたつことができるでしょうか。

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