2011年03月

2011年03月31日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(72)日蓮大聖人の誕生

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(72)日蓮大聖人の誕生

産湯相承事         日興之を記す

 御名乗りの事、始めは是生実名は蓮長と申し奉る後には日蓮と御名乗り有る御事は悲母梅菊女[童女の御名なり平の畠][山殿の一類にて御座す云云]法号妙蓮禅尼の御物語り御座す事には、我に不思議の御夢想あり、清澄寺に通夜申したりし時汝が志真に神妙なり一閻浮提第一の宝を与えんと思うなり、東条片海に三国の太夫と云う者あり是を夫と定めよと云云、

日蓮大聖人のお名前ですが、幼少の頃は是生といい、実の名前は連長といいました。さらにお名前を変えられ日蓮となのられたのです。母のお名前は梅菊女(平の畠山家にの一門)にてこの母の法名は妙連禅尼といいますが、この母の語るには、結婚前にまことに不思議な夢をみたのです。
清澄寺にお参りした夜「汝が志しがまことに結構である。よって汝に一閻浮提第一の宝を授けよう。東条方海に三国の太夫というものがいるからこれを夫とさだめよ」とおつげがあったのです。

其の歳の春三月廿四日の夜なり正に今も覚え侍るなり。 我父母に後れ奉りて已後詮方なく遊女の如くなりし時御身の父に嫁げり、或夜の霊夢に日く叡山の頂に腰をかけて近江の湖水を以て手を洗うて富士の山より日輪の出でたもうを懐き奉ると思うて打ち驚いて後月水留ると夢物語りを申し侍れば、父の太夫我も不思議なる御夢想を蒙むるなり、虚空蔵菩薩貌吉き児を御肩に立て給う、此の少人は我が為には上行菩提薩・なり日の下の人の為には生財摩訶薩・なり、亦一切有情の為には行く末三世常恒の大導師なり、是を汝に与えんとのたもうと見て後御事懐妊の由を聞くと語り相いたりき、さてこそ御事は聖人なれ。
 
その年の3月24日の夜、このことは今もはっきり覚えております。私は早い時期に父母とわかれ遊女の如くなりさまよっておりましたが、そんなとき貴方の父に出会ったのです。或る夜の霊夢に叡山の頂に腰をかけ近江の湖水をもって手を洗い富士山の頂上から日輪が登り月の水が滴りおちる夢をみて汝の父を起こしたところ、太夫は私も不思議な夢をみました。虚空蔵菩薩が稚児をかつぎこの子は上行菩薩なり日本人にとっては生財摩詞薩なり、また一切有情のためには三世常業の大導師なのです。こういう夢を両親ともにみて日蓮大聖人は懐妊されたのです。

又産生まるべき夜の夢に富士山の頂に登つて十方を見るに明なる事掌の内を見るが如し三世明白なり、梵天帝釈四大天王等の諸天悉く来下して本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給う御誕生は唯今なり、無熱池の主阿那婆達多竜王八功徳水を応に汲み来るべきなり、当に産湯に浴し奉るべしと諸天に告げ給えり、

生まれる夜には富士山の頂に登って十方を見るに明らかなること掌をみるがごとし、三世明白なのです。梵天・帝釈・四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)ことごとく来下して本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給う、その聖人の誕生はいまであるぞ無熱池の主、阿那婆達多・竜王八功徳水を応に汲み来るべきなり、当に産湯に浴し奉るべしと諸天に告げ給えり、

仍て竜神王即時に青蓮華を一本荷い来れり、其の蓮より清水を出して御身を浴し進らせ侍りけり、其の余れる水をば四天下に灑ぐに其の潤いを受くる人畜草木国土世間悉く金色の光明を放ち四方の草木花発らき菓成る。
 
そのとき竜神王が青蓮華を一本かついであらわれました。その蓮より清水を湧き出させ沐浴させたのです。そのあまった水を空中にふりまくとそれにふれた人・畜・草木・国土・世間が金色に輝き季節はずれの花がひらいたのです。

男女座を並べて有れども煩悩無く淤泥の中より出れども塵泥に染まず、譬えば蓮華の泥より出でて泥に染まざるが如し、人天竜畜共に白き蓮を各手に捧げて日に向つて今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子唯我一人能為救護と唱え奉ると見て驚けば則聖人出生し給えり、毎自作是念以何令衆生得入無上道速成就仏身と苦我・き給う。
 
男女がならんでいても煩悩なく汚れた泥のなかにいても汚れがなく蓮華が泥の中に咲いても汚れが無いが如くです。人・天・竜・畜共に白き蓮を各その手に捧げて太陽に向かい今此の世界は皆、是れ我が有なり、其中の衆生は悉く是れ吾が子なり唯だ我れ一人のみ能く救護すと声が聞こえ驚けばたただちに聖人が生まれました。毎日、自ら是の念をなす、衆生をして無上道にいれしめんがためなり速に仏身を成就す、と私は聞いたのです。

我少し寐みし様なりし時梵帝等の諸天一同音に唱えて言く善哉善哉善日童子末法教主釈迦仏と三度唱えて作礼して去し給うと寤に見聞きしなりと慥に語り給いしを聞し食しさては某は日蓮なりとの給いしなり。
 
私が少しまどろんだとき梵帝等の諸天一同音に唱えて言く善い哉、善い哉、善日童子・末法教主釈迦仏・と三度唱えて作礼して去し給うと寤に見聞きしなりと慥に語り給いしを聞いて某は日蓮なりと言ったのです。

聖人重ねて日う様は日蓮が弟子檀那等悲母の物語りと思うべからず即ち金言なり其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり、我中道を修行する故に是くの如く国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日仮名は是生実名は即ち日蓮なり。
 久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は我国に天下り始めし国は出雲なり、出雲に日の御崎と云う所あり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり。


日蓮大聖人はこの話は弟子達は日蓮大聖人の母の物語と思ってはならない。すなわち仏の金言なのです。その理由は自分の修行はこれが原点なのです。日蓮とは富士山の自然の名前なのです。富士とは軍妙であり実名は大日蓮華山いうのです。私は中道を修行するがゆえにこの国を日本といい日本の神を日神というのです。仏の童名を日種太子といい私の幼名を善日といい仮名は是生であり本名は日蓮なのです。久遠の下種仏法である南無妙法蓮華経の守護神はわが国の出雲に天下り、出雲には日の岬というところがあります。ここに天照大神があまくだったのでここを日の御崎というのです。

 我が釈尊法華経を説き顕し給いしより已来十羅刹女と号す、十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体の異名本地垂迹の利益広大なり、日神と月神とを合して文字を訓ずれば十なり、十羅刹と申すは諸神を一体に束ね合せたる深義なり、日蓮の日は即日神昼なり蓮は即月神夜なり、月は水を縁とす蓮は水より生ずる故なり、又是生とは日の下の人を生むと書けり。
 
釈尊が法華経を説いていらい十羅刹女が釈尊と法華経を守り始めました。天照大神と十羅刹女と日蓮は一体であり、名は違ってもその体はおなじなのです。日神と月神を合わせて文字にすれば十となります。十羅刹とは諸神を一体に束ねた意味があり、日蓮の日は日神をあらわし昼をあらわすのです。月は水を縁し連は水より生ずるからです。また是生とは日の下の人を救うという意味です。

日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり、今久遠下種の寿量品に云く「今此三界皆是我有[主君の義なり]其中衆生悉是吾子[父母の義なり]而今此処多諸患難[国土草木]唯我一人能為救護[師匠の義なり]」と云えり、三世常恒に日蓮は今此三界の主なり、日蓮は大恩以希有事憐愍教化利益我等無量億劫誰能報者なるべし。 若し日蓮が現在の弟子並びに未来の弟子等の中に日文字を名乗の上の字に置かずんば自然の法罰を蒙ると知るべし、予が一期の功徳は日文字に留め置くと御説法ありし侭日興謹んで之を記し奉る。 聖人の言く此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決唯授一人の秘伝なり神妙神妙とのたまいて留め畢んぬ。

日蓮は天上天下の一切衆生の主君であり父母であり師匠です。いま寿量品をみるに「今此三界皆是我有(主君の義なり)其中衆生悉是吾子(父母の義なり)而今此処多諸患難(国土草木)唯我一人能為救護(師匠の義なり)」と云うのはこのことなのです。過去も現在も未来も日蓮はこの世界の主なのです。日蓮は大恩以希有事憐愍教化利益我等無量億劫誰能報者なるのです。日蓮の弟子たちは名前に日の文字を必ずつけるべきです。若し日蓮の弟子で日文字をつけないものあれば仏罰をうけるであろう。日蓮の一生の仕事は日文字に有ると知るべきです。日蓮大聖人がいうにはこの相承は日蓮よりの口決相承です秘伝なるゆえに秘密にすべし。

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2011年03月30日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(71)日蓮大聖人登場

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(71)日蓮大聖人登場

日蓮大聖人の御一生略図
日蓮大聖人は、(1222年3月30日4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生しました。親鸞の誕生は、(貞応元年)1172年生まれですら親鸞より50年後の生まれとなります。親鸞の熱心な念仏布教のおかげで日本国中に念仏の哀音が響いていました。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされていますが、いろいろ異説もあります。幼名は善日麿(ぜんにちまろ)といい、ご自分のことを「海人が子なり」「海辺の施陀羅が子なり」「片海の石中の賎民が子なり」「日蓮貧道の身と生まれて」などとありますがいずれも謙遜から申し上げているようです。当時、字が読める賎民はいないし家柄がよくなければ僧侶にもなれないのです。
三国大夫(貫名次郎)は名のある武士であったが、なんらかの政治事件にまきこまれ野に下っていたようです。1233年(天福元年)清澄寺の道善に入門。1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えらました。1242年(仁治3年)比叡山へ遊学。 1245年(寛元3年)比叡山横川定光院に住す。 1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。1248年(宝治2年)薬師寺、高野山、仁和寺へ遊学。1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。1253年(建長5年)清澄寺に帰山。 1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」とお題目を唱え(立教開宗)、この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行いました。この頃、名を日蓮と改め、天台宗の尊海より伝法灌頂を受けました。1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉に出て弘教を開始。1257年(正嘉元年)鎌倉の大地震を体験、実相寺で一切経を読誦、思索します。文応元年7月16日(1260年8月24日、8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされますが、難を逃れました。 その後、ふたたび布教をおこない、1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪(伊豆法難)。1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。 1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮大聖人を訴えます。 平左衛門尉頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、奇跡が置き処刑を免れる。10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させました。1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。 1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。
1277年(建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。 1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。 1282年(弘安5年)9月8日(10月10日、10月17日)、病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。 10月8日(11月9日、11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになったのです。10月13日(11月14日、11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。享年61(満60歳)

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2011年03月29日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(70)念仏の害毒

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(70)念仏の害毒

前回の講義で念仏の邪教性は理論的にも理解されたと思います。念仏がなぜ布教に成功したかということから考えると恐ろしいことがわかります。他力本願(徹底的に阿弥陀にすがる)念仏の教えは悪人正機であり悪人を極楽浄土へ往生させるのが阿弥陀如来の本願であるというのですから悪の民衆には受け入れられるのです。仏教の本来は自分を変えるものであり(凡夫が仏になる)、それが信・行・学であり戒・定・慧の三学であります。それが阿弥陀如来を信仰すればそんなことをしなくとも直ちに極楽浄土に往生することができるというのですから美味しい話です。しかも悪人ほど阿弥陀仏は救ってくれるというのですから、人殺しという殺生を行う武士たちにとってはまことに都合よい論理です。自分を変えないで阿弥陀仏にたよれば往生できるのですから。庶民は肉食(狸汁・きつね汁・かも・鳥・魚)を楽しみ、酒を飲み、ばくちに励み、男女の交合に楽しみをみいだすのです。これら庶民の楽しみは皆仏道に反することであり、地獄にいく道なのです。今世は楽しくやっているが来世の保証はだれもしてくれないのですから不安なのです。そこに親鸞があらわれて阿弥陀如来を信ずるならば百人が百人とも極楽往生できるというのですから面白いように大衆は親鸞の救いにとびついたのです。いまから800年前に東北で布教していた親鸞にはすでに十万人の信者がいたといわれます。800年前の人口はいまよりずっと少なくおそらく3000万人ほどでしょうから、いまの人数で言うと40万人というところでしょか。その遠因で東北には昔から大地震・大津波が多いのです。近代ではこれと同じ方法で布教に成功したのが創価学会なのです。創価学会では人間の平等をいいます、男も女も社長も社員も朝鮮人も部落民もお釜も皆人間であり平等だといいます。人間という共通項でくくるのです。それを正当化させるために人間主義をいいます。親鸞の御同房という考えと同じなのです。親鸞は阿弥陀仏の下の平等を言い、創価学会は人間の名のもと平等をいうのです。どちらも無反省人間を生みます。親鸞はそれで百人が百人、極楽浄土に往生できると保証し、創価学会は公明党をつくり、これはかっての念仏の信者が各地で一向一揆をおこしたように権力に対する挑戦なのです。昔、東大の笠原一男教授が創価学会は一向一揆と同じだと指摘されたのです。笠原教授は念仏、とくに連如の研究者で鋭い指摘だったのです。創価学会は口で唱える南無妙法蓮華経、心は念仏なのです。真実は南無妙法蓮華経は反省行であり反省心のみが成仏への直道なのです。ありもしない阿弥陀仏の西方極楽浄土に頼って釈迦一代の説法を全て捨てよとはまさに悪魔の教えでありキリスト教以下の教えなのです。創価学会の念仏南無妙法蓮華経が頂点に達したところで、今回の東北関東大地震の到来です。創価学会が正法でない証拠です。創価学会は念仏です。真言です。真の仏法を破壊する悪魔です。朝鮮学会です。災害を止めるにはこの邪教をやめさせなければなりません。

世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず(立正安国論)

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2011年03月28日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(69)親鸞と法然(3)

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(69)親鸞と法然(3)

悪人正機説
親鸞の有名な言葉があります。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。(歎異抄第三章)この意味は「善人は善行によってちゃんと極楽浄土にいけるではないか、当然のことながら阿弥陀仏の請願によって悪人も極楽浄土にいけるのです。ところが世間では悪人は阿弥陀仏の請願によって極楽浄土にいけるのですから当然善人は善行によって極楽にいけるのです。」といっています。これが悪人正機説です。親鸞は自分のことを悪人と思っており(この場合の悪人とは仏道の修行が出来ないという意味です)自力で善行を積み成仏できないと自覚していたのです。これは法然もおなじで学僧として比叡山で30年も修行して自行で悟りを開こうと努力したのですが、どうしても悟りを得ることができなかったのです。そこで数ある経典をみまわしていたところ観無量寿経にめぐりあい阿弥陀仏の四十八の請願にぶつかったのです。多くの経典のなかから観無量寿経を選び取る、これが選択集なのです。多くの教えの中から自分は観無量寿経を選び取ったのでありそれは自分が自力では成仏できないと悟ったからです。その弟子の親鸞は法然の考えを超えて、「悪人こそが阿弥陀仏に救われる」と考えたのです。善人は自力で悟ればいい、悪人は阿弥陀の信仰によって直ちに救われる、と考えたのです。しかしこれは詭弁です。

「自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき」(『歎異抄』第3章)

このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫の救済を目標としていること、悪人正機の教えが親鸞の独創ではない事は指摘されていました。
法然も「選択集」に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開しています。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思えます。 しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場です。「和語灯録」「罪をば十悪、五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は悪を慎み善を努めることを勧めたのです。
法然の伝記の一つである「法然上人伝記」のなかに「善人尚以往生況悪人」「口伝鈔」に親鸞の「歎異抄」と同じ文言があり、ともに法然の口伝としていることから、末木博士は「源空門下の人達によって、口伝として伝持されたものではないか」としています。善人とは、学問・修行・禁欲・利他的な行動などの前向きな修行を積んで阿弥陀仏の救済の本願(慈悲)をさらに確実にしようとする者のことです。親鸞は阿弥陀仏の本願は「最高の救済力」をもっており、自力修行の功徳によって阿弥陀に救われるのではないと考えました。阿弥陀仏が衆生救済をする無限の慈悲の力は絶対であるから、一度、阿弥陀信仰を信心決定すれば必ず救われると考えたのです。親鸞は、自分が「煩悩具足」の悪人と自覚しており、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を唱えさえすれば、極楽浄土に往生することが出来ると説いたのです。
悪人とは、悪行を犯して恥じないというような者ではなく、「自分の煩悩に負けて仏道修行ができない」ということです。他力本願(阿弥陀仏の絶対救済)にしても救われるための努力をなにもしないということではなく、親鸞の語る他力本願というのは、「煩悩具足の衆生(煩悩を捨てられない大多数の人間)」の自己努力(善行の功徳)が到底及ばない問題に対してのみ「阿弥陀如来の本願の慈悲」の力を借りようというものです。煩悩具足の凡夫がどんなに努力しても絶対に達成できないであろう課題というのは、「輪廻(宿業)からの解脱」や「死後の極楽往生」のことであり、阿弥陀仏の本願は「奇跡的な現世利益」は一切もたらしませんから、各人の日常生活においては自己責任を通して力強く生きていかなければならないと解釈できます。つまり、阿弥陀仏の本願(救済)に他力本願ですがりきるといっても、「棚からぼた餅」てきな生活が手に入る(奇跡的な恩恵が突如もたらされる)」というような現世利益的な他力本願ではまったくなく、他力本願の念仏信仰とはそれとは反対に「現世の努力」へと向かわせるための教えでした。何故ならば、法然は30年にもわたって比叡山の修行と学問に励んだ結果、自分を救うことができなかったのです。親鸞の浄土真宗はそれまで全く無力で柔順であった農民(被統治者)に「阿弥陀仏により救われる」という自信を与えたのです。浄土真宗は、基本的に貧しい農民の大衆宗教であり、名主・地頭・領主といった武士階級(豪農を含む支配者階級)から度々弾圧されましたが、弾圧の大きな理由は、それまで無力で自虐的だった農民に「阿弥陀仏に救われた」という宗教的エリートとしての自信」を与えたのです。領主が農民を効率的に支配するためには農民を無力な状態に留め、農民同士の連帯や組織化を禁圧する必要がありましたが、浄土真宗の念仏信仰は正に民衆に自信と自覚を与えました。また、農民の浄土真宗教団への自主的な寄付によって、名主や地頭への納税が無視されるなどの事態も、支配階層の浄土真宗に対する敵意や警戒を強めることになりました。浄土真宗の秘めていた危険性とは、無力で、支配階層に搾取されるだけだった農民たちに、集団結社を組織して抵抗すれば武士勢力と対等に渡り合うことも出来るという自信と覚悟を与えたところにあります。浄土真宗の教義から考えても、親鸞「貴族・武士・富農・貧農・漁師のような身分の別」は宿業の結果であり、阿弥陀仏の本願によって宿業の輪廻は無効になると説いたのですから、そこには「封建主義社会の身分制度の根底」」をひっくり返すラディカルな平等主義の思想が胚胎していたのです。西欧社会において、キリスト教の「神の下の万民の平等」が、市民意識の誕生や民主主義の理念に大きな影響を与えたように、浄土真宗の「阿弥陀仏の下の万民の平等」も、中世日本において時代を根本から変革する潜在的な可能性を秘めていたと解釈する事も出来ます。
もちろん、親鸞自身は、来世(極楽浄土)において「身分を規定する宿業」は無効化すると説いたのであり、現世における「身分制の宿業の転換(封建主義社会の転覆)」を支持するほどに先進的な思想を持っていたわけではありませんでした。15世紀以降に、石山本願寺において実力を蓄えた浄土真宗は、次第に戦国大名の軍事勢力と衝突するようになり、武力と経済力、信徒動員数が最大になった門主・本願寺顕如の時代に、戦国の英傑・織田信長と11年にも及ぶ全面戦争へと突入しました。顕如率いる本願寺の勢力は、織田信長との石山合戦(石山戦争, 1570-1580)に敗れて石山本願寺は炎上消失しました。この敗戦以降、浄土真宗の勢力は縮小していき、身分の低い一般民衆(農民・町民)に政治的な野心や希望を抱かせるような宗教が日本で力を持つことはなくなり、封建的な身分制がより固定・強化される徳川家康の江戸幕府の時代が幕を開けることになったのでした。

日蓮大聖人に学ぶ
(立正安国論)
主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然と云うもの有り選択集を作る即ち一代の聖教を破し・く十方の衆生を迷わす、其の選択に云く道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、

立正安国論は主人と客の対話という形式をとっており、主人とは日蓮大聖人の意見であり、質問者は客ということになっております。主のいうには、後鳥羽上皇の時代に法然いう僧がおりました。法然は選択集という書を作って釈尊一代の語説法を破壊し多くの人々を騙しました。その選択集の中で道綽禅師をひかれ道綽は釈迦一代の法門を聖道門と浄土門をたて聖道門をすてて浄土門を選ぶべきであると書いています。

初に聖道門とは之に就いて二有り、乃至之に準じ之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし、然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論・此等の八家の意正しく此に在るなり、

聖道門は二つに分けられます。密教と実大経です。この二つの中に真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論・此らの八家の心はこの中に入ります。

曇鸞法師・往生論の注に云く謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道有り一には難行道、二には易行道なり、此の中、難行道とは即ち是れ聖道門なり、易行道とは即ち是れ浄土門なり、浄土宗の学者先ず須らく此の旨を知るべし、

曇鸞法師(どんらん:476−542、中国浄土教の祖の一人)の往生論の注には、竜樹菩薩(りゆうじゅ:150−250前後の活躍者の十住毘婆沙をみると、もう退転できないという不退転の位に修行が登るに二つのみちがあります。一つには難行道であり一つは易行道なのです。難行道のことを聖道門といい易行道のことを浄土門聖道門というとあります。浄土宗の学者はすべからくこのことを知るべきです。

設い先より聖道門を学ぶ人なりと雖も若し浄土門に於て其の志有らん者は須らく聖道を棄てて浄土に帰すべし又云く善導和尚正・雑の二行を立て雑行を捨てて正行に帰するの文、第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土の経を除いて已外大小乗顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、第二礼拝雑行とは上の弥陀を礼拝するを除いて已下一切の諸仏・菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名く、

もとより聖道門を学ぶ人であっても、浄土門を学びたいと想うならば、聖道門をすててなければなりません。また善導和尚(ぜんどう:613−681、中国浄土教善導流の祖)は正行と雑行の二行を立てたのです。人間は雑業を棄てて正行をおこなわねばならないと書きました。雑行とは読誦・雑行と礼拝像行に分けられます。読誦・雑行とは観無量聚経・阿弥陀経などをのぞいたすべての経典を読むことです。礼拝雑行とは阿弥陀礼拝をのぞいて諸仏・諸菩薩・などを礼拝することです。

私に云く此の文を見るに須く雑を捨てて専を修すべし豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修雑行を執せんや行者能く之を思量せよ、又云く貞元入蔵録の中に始め大般若経ろく六百巻より法常住経に終るまで顕密の大乗経総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし、

私にいわせれば、この文をみるならば雑行を捨てて専修念仏に励むべしと読めます。十人は十人ながら、百人は百人ながらみな往生するという専修念仏に執着すべきで千中無一(千人の修行者のうちで一人も成仏しない)雑行など意味がない。また貞元入蔵録に書いてある般若経六百巻法常住経までの六百三十七部に千八百八十三巻これらは読むに値しないというのか。

当に知るべし随他の前には暫く定散の門を開くと雖も随自の後には還て定散の門を閉ず、一たび開いて以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なりと、又云く念仏の行者必ず三心を具足す可きの文、

これは知るべきです、仏が衆生に合わせた法を説くときには定散(心を静める、散ずる)の門を開いて行うが随自意の法を説くときには定散の門をとざすのです。しかるに念仏の一門は定散の門を閉じないのです。また念仏の行者は三心(「観経」に説く浄土往生に必要な三種の心。至誠心・深心・回向発願心。浄土真宗では、この三心について顕説(けんぜつ)と隠彰(おんしょう)の両義を立て、顕の義では、自力の三心(諸善万行を修めて往生しようとするものの起す心)をもつべきである。

観無量寿経に云く、同経の疏に、問うて曰く「若し解行の不同邪雑の人等有つて外邪異見の難を防がん、或は行くこと一分二分にして群賊等喚廻すとは即ち別解別行悪見の人等に喩う、私に云く又此の中に一切の別解別行異学異見等と言うは是れ聖道門を指す[已上]、又最後結句の文に云く「夫れ速かに生死を離れんと欲せば二種の勝法の中に且く聖道門を閣きて選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて選んで応に正行に帰すべし」[已上]。

観無量寿経に、あるいはこれの解釈書に、質問します「もし経の理解のために正しく理解しない人がいて邪険の悪を防ぐために、我見をたて悪謙の人に例えます。私が思うに、別解・別行・異学・異見等というのはあ聖道門をさすのです。また最後の結句にいわく「すみやかに生死を離れようと思うならばすみやかに聖道門を閉じて投げ捨て浄土門にはいるべきなのです。浄土門にはいらんとすれば諸々の雑業をすてて撰んで念仏をとるべきです。

 之に就いて之を見るに曇鸞道綽善導の謬釈を引いて聖道浄土難行易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道難行雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり、是に於て代末代に及び人聖人に非ず各冥衢に容つて並びに直道を忘る悲いかな瞳矇を・たず痛いかな徒に邪信を催す、故に上国王より下土民に至るまで皆経は浄土三部の外に経無く仏は弥陀の三尊の外の仏無しと謂えり。

これについてみるに曇鸞・道綽・善導の意見を引いて聖道・浄土教・難行・易行と一代聖教を分別し法華・真言、総じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻一切の諸仏菩薩及び諸の諸天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛つ、此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人、命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者です。是に於て代末代に及び人、聖人に非ず、各冥衢に容つて並びに直道を忘る、悲いかな瞳矇を・たず痛いかな徒に邪信を催す、故に上国王より下土民に至るまで皆経は浄土三部の外に経無く仏は弥陀の三尊の外の仏無しといえり。

 仍つて伝教義真慈覚智証等或は万里の波涛を渉つて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りて崇むる所の仏像若しくは高山の巓に華界を建てて以て安置し若しくは深谷の底に蓮宮を起てて以て崇重す、釈迦薬師の光を並ぶるや威を現当に施し虚空地蔵の化を成すや益を生後に被らしむ、故に国王は郡郷を寄せて以て灯燭を明にし地頭は田園を充てて以て供養に備う。
 而るを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の教典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜の心を捨てて並びに建立の思を廃す、是を以て住持の聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏に法然の選択に依るなり、悲しいかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜん


 よつて伝教・義真・慈覚・智証等或は万里の波涛を渉つてきた聖教・或は一朝の山川を廻りて崇むる所の仏像・若しくは高山の巓に伽藍をたてて安置し若しくは深谷の底に寺院を起てて崇重する、釈迦如来・薬師如来の光を並ぶるやその功徳を示し虚空菩薩・地蔵菩薩の神通力をやぶるものです。故に国王は諸仏・諸尊を供養すべく灯燭を明にし地頭は田園を充てて以て供養に備えるのです。
それなのに、法然の選択集に依つて教主釈尊を忘れて西土の阿弥陀如如来を貴び付属を抛つて東方の薬師如来を閣き、唯四巻三部の教典を専にして空しく一代五時の妙典を捨てる。このゆえに阿弥陀弥陀の堂に非ざれば供養を止め、念仏の僧でなければ供養をしない。故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜の心を捨てて並びに建立の思を廃す、是を以て住持の聖僧行は帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏に法然の選択集に依るのです。悲しいかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜん

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2011年03月25日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(68)親鸞と法然(2)

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(68)親鸞と法然(2)

親鸞
親鸞は、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し、さらに阿弥陀信仰を高めて行く事に力を注ぎました。自らが一宗一派を開く意志は無かったと考えられています。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとりました。親鸞の周りには極楽浄土を求める大衆が集まり、これを危惧した既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になりました。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされますが、宗派として定められたのは親鸞の死後です。教行信証とは、「よろこばしきかな」で始まり、「よろこばしきかな」の言葉で終わっています。弥陀の誓願に救い摂られた親鸞の、書いても書いても書き尽くせない喜びがあふれています。『教行信証』は、「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」「化身土巻」の六巻から構成されています。「教巻」から「真仏土巻」までの五巻は、阿弥陀仏に救われた世界(これを信後という)が書かれてあり、最後の「化身土巻」には、救われるまでの道程(これを信前という)が書かれています。

生涯 
親鸞は、1173年京都の東南にある日野の里に父日野有範、母吉光女の子として生まれ、幼名を松若丸とよばれていました。日野家は、公家の家系でしたが、当時は、藤原家、平家、源家が権力争いをして、貴族政治から武家政治に変わる激動の時代でした。公家の流れを引く日野家も斜陽の現実の中で父をはじめ兄弟すべてが出家をしなければならないという、悲しい幼年時代でした。
いよいよ平家と源氏と戦いが始まり日野家も、悲況に追いこまれていく中で、1181年親鸞9歳の時、京都東山の青蓮院で得度(出家)の式を受け、出家され、名前を範宴(はんねん)と改められ、出家をして比叡山に登っていきました。親鸞は、比叡山で堂僧として、ひたすら仏のさとりを求めて、夜を徹して経典を読み、血のにじむような修行に専念されました。親鸞は、どれだけ修行に励んでも煩悩が消えず、清らかさも、まことも、持ち続けることができず、あさましい自分ばかりが目立つばかりでした。自力の行を励んで、仏の悟りを得る聖道門の教えに次第に疑問を持ちました。その時比叡山の横川で源信僧都が浄土教の教えを説いていたので親鸞は、横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で堂僧として念仏の修行に入りました。これは、道場にこもり、身は、阿弥陀仏の像のまわりをぐるぐるまわり、口は、常に阿弥陀仏のみ名を称え、心は常に阿弥陀仏を念じることによって、阿弥陀仏とひとつに融け合って三昧(悟り)の境地に至ることが出来るという教えです。
しかし、親鸞は、どれほど一心不乱に念仏を称えても、救われる喜びの心をもつことができなかったのです。親鸞の心は、苦悩の闇につつまれ、悩み、ついに29才の時に悲哀山を降り法然を訪れました。京都の吉水の草庵に源空(法然)がいて「弥陀の本願(南無阿弥陀仏)は、もとより凡夫を救うためにおこされたものであるから、信じて、念仏を称えるばかりである」と親鸞に教えられたのです。この念仏の教えを大きな感動をもって受け止め、「源空の行かれるところならば、それがたとえ地獄であろうとも、私は喜んでついていく」とまで言いきったのです。親鸞が法然の念仏の道に入ったのは、29才のときでした。
源空の教えは、「末法の衆生は機根も智慧も行力も劣っているから、どれほど修行に励もうとも、煩悩が消えず、雑念が消えず、行が断ち切れて、自分の力では、悟りきれるものではない。そこで、救いの一切をすでに用意して、この自分を救うと約束してくれている阿弥陀如来の本願を信じてその救いを信じて生きることである。この道こそが、力づよい阿弥陀如来の願力だから、迷いに沈み罪に穢れている身であっても、きっと生死を離れて、悟りに向うただひとつの道である」と説かれた。
親鸞は、源空の門下に入り名を綽空(しゃくくう)とあらためられ、33歳のとき源空の「選択本願念仏集」の写本が許され、現空の信望も厚くこのときに名前を善信と改めました。源空の念仏の教えが、盛んになると、その時の仏教を支配していた延暦寺、興福寺などから弾圧を受け、専修念仏を禁止する要望が出てきました。1206年法然の門弟が開催した念仏集会に関して、院の女官をめぐる風評が立ち、それが後鳥羽院の逆鱗にふれ、ついに1207年に専修念仏が禁止され、関係した門下生は、死罪となり、法然(75歳)は、藤井元彦と還俗させられ、土佐に、また35歳の親鸞は、藤井善信と還俗し、越後の国府に流罪になり、地獄を共にとまで誓われた恩師と東西に別れられ、その後、再会することは、出来ませんでした。
親鸞は越後では、愚禿(ぐとく)と名乗り、僻地の民衆に如来の本願を伝える良縁として、念仏の教えの布教に励んだ。そして親鸞39才のとき越後の豪族三善為教の息女、恵信尼と結婚しました。恵信尼は、親鸞を心の中で観音菩薩の化身であると敬い、お仕えしたそうです。
流罪から5年で罪が赦され、親鸞42歳の時、関東の常陸の国に移られ、みじめな状態におかれている民衆の心に信心の灯をともし、民衆を苦悩から解放されたのでした。親鸞は、生涯、寺を立てず、縁で集まる人々をおん同朋、おん同行と呼びかけ、あるときは、道端のお堂で、又あるときは民家の炉ばたで、ひざを交えて語り、自分の苦悩を自覚させ、問題を見つめる意識をよびさまし、心の底に如来の大悲が浸み透っていく教化しました。このため関東では、70人前後の門弟を中心に、念仏者の同行は、10万人をこえたと言われています。親鸞52歳の時、常陸の稲田で浄土真宗の根本聖典になる「教行信証」6巻を著わしました。
親鸞が62才の時に京都に戻りましたが念仏に対する迫害、弾圧が厳しく、聖人は、ひたすら浄土真宗の教えを後の世の人に伝えるため、教行信証を手直しされたり、「浄土和讃」「高僧和讃」「尊号真像銘文」「一念多念文意」「正像末和讃」「末灯鈔」「御消息集」等の書物を執筆され、今日親鸞の教え頂く人々の礎を作りました。親鸞は、1262年、末娘覚信尼、三男益方入道他門弟に見守られて念仏のうちに静かに90才の生涯を終わりました。

教え
親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経]が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、ただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。

七高僧論釈章疏 親鸞の思想に影響を与えた七高僧の注釈書などです。
龍樹 - インド(インドの仏教) 『十住毘婆沙論』「易行品」 「十二礼」
天親 - インド 『無量寿経優婆提舎願生偈』(『無量寿経優婆提舎』、『浄土論』、『往生論』
曇鸞 - 中国(中国の仏教) 『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』、『往生論註』) 『讃阿弥陀佛偈』
道綽 - 中国 『安楽集』
善導 - 中国 『観無量寿経疏』(『観経疏』、『観経四帖疏』、『観経義』)
『往生礼讃偈』(『往生礼讃』) 『法事讃』『般舟讃』『観念法門』


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2011年03月24日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(67)法然と親鸞(1)

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(67)法然と親鸞(1)

法然(ほうねん)は浄土宗、親鸞は浄土真宗をひらいたといわれます。そしてこの二人は師匠と弟子の関係でもあります。浄土宗と浄土真宗この違いをここで明確にします。まず法然の簡単な経歴をみてみましょう。法然の活動時期は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてです。浄土宗の開祖とされ「法然」は房号で、諱(いみな:生前の本名)は「源空」(げんくう)。幼名を「勢至丸」。通称「黒谷上人」、「吉水上人」ともいわれ。謚号(おくりな:死後に与えられる名前)は、「慧光菩薩」・「華頂尊者」・「通明国師」・「天下上人無極道心者」「光照大士」ともよばれました。
大師号は、500年遠忌の行なわれた1711年以降、50年ごとに天皇より加謚され、2011年現在「円光大師」・「東漸大師」・「慧成大師」・「弘覚大師」・「慈教大師」・「明照大師」・「和順大師」・ 「法爾大師」です。法然は『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の「邪教の元祖」とされます。また浄土宗では、善導を「高祖」とし、法然を「元祖」と崇めています。
親鸞の浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、「法然上人」・「源空上人」と称し、「元祖」と位置付けています。親鸞は、『正信念仏偈』『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、
師事できたことを生涯の喜びとしました。法然は長承2年(1133年)4月7日、美作国久米に生まれました。 『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、明石源内武者貞明の夜討によって父を失うが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父のもとに引き取られ、その才に気づいた叔父は当時の仏教の最高学府であった比叡山延暦寺での勉学を勧めました。その後比叡山に登り、初め15歳で師事。久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度。久安6年(1150年)皇円のもとを辞し、比叡山黒谷の叡空に師事しました。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の正式名は法然房源空です。
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』『観経疏』)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広めました。1175年が浄土宗の立教開宗の年とされます。文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じ(大原問答)建久9年(1198年)、九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著しました。
元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院「長講堂」(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営みました。絵巻「法然上人行状絵図(国宝)」にその法要の場面が描かれています。法然ひきいた念仏教団は吉水教団(よしみずきょうだん)と呼ばれ、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」(しちかじょうのごきしょうもん:元久元年(1204)比叡山延暦寺の専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)の訴えに対して、法然上人以下門弟が言行を正すことを誓って連署し、比叡山に送った七箇条からなる書状。「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」ともいう。親鸞聖人も僧綽空(しゃっくう)の名で署名されています。その内容は、 天台・真言の教説を破し諸仏菩薩をそしらぬこと、  無智の身で有智の人と諍論(じょうろん)せぬこと、  別解(べつげ)・別行(べつぎょう)の人に対し本業(ほんごう)を棄置し嫌わぬこと、  念仏門には戒行がなく造悪を恐れないなどと主張せぬこと、  ことごとに私義をとなえないこと、  痴鈍(ちどん)の身をもって道俗を教化(きょうけ)しないこと  仏法にあらざる邪法を説いて正法とせぬこと、です。)

門弟190名の署名を添え延暦寺に送りました。しかし興福寺の奏状により念仏停止の英断が下されたのです。この事件は承元の法難(じょうげんのほうなん:南都北嶺による吉水教団に対する弾圧に対し、朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり「法然の門弟の一部には不良行為を行う者もいるだろう」と比較的静観し、興福寺に対しては元久3年3月30日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対しては厳罰は処さずにいた。ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見が届けられ、朝廷では連日協議が続けられた。ところが興福寺奏状には「八宗同心の訴訟」であると高らかに謳っていたにも関わらず、先に訴えを起こした延暦寺でさえ共同行動の動きは見られず、当事者である興福寺側の意見が必ずしも一致していないことが明らかとなったために、朝廷の協議もうやむやのうちに終わった。朝廷が危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政に就任した近衛家実を祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷の回答遅延に反発するような動きは見られず、このまま事態は収拾されるかと思われた。そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺や興福寺が何らかの具体的な行動を起こしたことを示す記録は残されていない。
建永元年(1206年)、後鳥羽上皇が熊野神社参詣の留守中に、上皇が寵愛する「松虫」と「鈴虫」という側近の女性が、御所から抜け出して「鹿ケ谷草庵」にて行われていた念仏法会に参加する。安楽房遵西と住蓮房の『六時礼讃』の美声が、世を憂いていた松虫と鈴虫を魅了し出家を懇願する。安楽房と住蓮房は、上皇の許可が無いため躊躇するものの、二人の直向さを受け、剃髪を行う。『愚管抄』によれば、更に彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたとされています。
松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことに加えて、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことを知った
後鳥羽上皇は憤怒し、建永2年(1207年)2月、専修念仏の停止を決定。住蓮房・安楽房に死罪を言い渡し、住蓮房は六條河原において、安楽房は近江国馬渕にて処される。その他に、西意善綽房・性願房の2名も死罪に処されました。同月28日、怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。法然は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)へ配流される。 この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられました。
しかし法然は土佐まで赴くことはなく、円証(九条兼実)の庇護により、九条家領地の讃岐国(現、香川県)に配流地が変更され、讃岐で10ヶ月ほど布教しました。)

その後、法然に対し赦免の宣旨が下りました。しかし入洛は許されなかったため、摂津の勝尾寺(大阪府)で滞在します。ようやく建暦元年(1211年)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京できたものの、2ヵ月後の建暦2年(1212年)1月25日、死去しました。
建暦元年(1211年)11月、親鸞に対しても赦免の宣旨が下り、親鸞は、法然との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。雪解けを待つ内に法然は亡くなり、師との再会は叶わないものと知る。親鸞は、子供が幼かったこともあり越後に留まることを決め、後には東国の布教にも注力することになりました。

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2011年03月23日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(66) 本尊に迷えり

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(66) 本尊に迷えり

伝教大師の一乗法華寺であるはずの比叡山延暦寺は、いつのまにか念仏が行われており、真言が行われており、禅がおこなわれており、まるで宗教のデパートのようになっています。この原因はどこにあるかといいますとシナの天台大師(538-597)にその遠因はもとめられます。天台大師の摩詞止観とは禅のことであり、これは禅のカリキュラムともいえます。その最終過程では仏を見るわけで極楽浄土として仏を感ずるのですから念仏(仏を念ずると言うことになります。天台宗の本尊は阿弥陀如来なのです。法華経を主たる経とする天台宗は阿弥陀如来を念仏し止観の行法によって禅をきわめるのです。密教といえば法華経にも密教は入っており妙法蓮華経陀羅尼品二十六などは密教そのものといえます。呪(じゅもん)の連続なのです。法華経とはなにかというと法華経の名のもと仏教を統合しようとしたことだと分ります。仏教を統合できる経典こそ法華経なのです。教学的には理解したが、しかし如何なる仏を本尊にしたよいのかに迷ってしまい、観想念仏でどの仏を念ずるのかが分らなくなりある人は釈尊を本尊とし、ある人は薬師如来を本尊とし、ある人は阿弥陀如来を本尊としたのです。天台大師も一念三千を本尊とするわけにもいかず、阿弥陀如来を本尊としたのでしょう。阿弥陀如来は仮本尊なのです。本当の本尊とは法華経寿量品に説かれる久遠実成の釈尊なのです。これは目に見えないし理解しずらいのです。そこで撰ばれたのが西方極楽浄土におられる阿弥陀如来だったのです。しかし、この方便はやがて日本天台宗を宗教のデパートのようにしてしまったのです。このことは比叡山が仏教大学のようになったことを意味し人材を生み出す元になったのです。

日蓮大聖人の教え

今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師如来の日光月光西方阿弥陀如来の観音勢至乃至十方世界の諸仏の御弟子大日金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の劫初よりこのかたの日月衆星等教主釈尊の御弟子にあらずや。

法華経如来寿量品第十六で説かれる釈尊はインドで生まれて成仏したと想っているでしょうが実はずっと久遠の大昔から私(釈尊)は仏だったのです。このことがあきらかになってみれば東方の薬師如来・日光・月光菩薩、西方の阿弥陀如来、観音・勢至菩薩,十方世界の諸仏の弟子、大日如来・金剛などの諸々の大菩薩これらは皆教主釈尊の弟子なのです。これらの諸仏が釈迦如来の弟子と分かったならば釈尊こそが本仏なのです。

而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり、倶舎成実律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗真言宗三論宗法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子我が父は侍とをもうがごとし

しかるを天台宗以外の宗派は本尊に迷ってしまったのです。倶舎・成実・律宗はインドで成道した釈尊を本尊としているのです。これは天子の皇太子を庶民の子と想うようなものです。華厳・真言・三論・法相の各宗は大乗教の宗派です。法相・三論は勝応身(仏の姿)ににたる仏を本尊とします。
これは天王の太子が我が父は家来の侍の子と想うようなものです。

華厳宗真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるにつけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賎の者一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し、

華厳宗・真言宗は釈尊を本尊とせず盧舎那(びるしゃな)の大日等を本尊と定めたのです。これは素性もさだかでない者が革命を起こして天子に変わったようなものです。浄土宗は阿弥陀仏という釈尊の分身を教主とたて本家の釈尊を捨てたのです。禅宗は下賎のものが父母のあらさがしをして釈尊を捨て経をすてたのです。これは畜生が親をしらないようなものです。

寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり、故に妙楽云く「一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」等云云、

如来寿量品の久遠の釈尊を知らないものは恩知らずな畜生のようなものです。ここのところを妙楽大師は法華経をのぞいた一代経は仏の寿命が久遠であると明かしていない。いかに小手先をもって才能をもってしてもそれは意味がないことです。

妙楽大師は唐の末天宝年中の者なり三論華厳法相真言等の諸宗並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、徒謂才能とは華厳宗の法蔵澄観乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師なれども子の父を知らざるがごとし、伝教大師は日本顕密の元祖秀句に云く「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義を闕く、天台法華宗は厳愛の義を具す一切の賢聖学無学及び菩薩心を発せる者の父なり」等云云、真言華厳等の経経には種熟脱の三義名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしが(開目抄下)

妙楽大師は唐の末、天宝年中の人です。三論・華厳・法相・ 真言等の諸宗並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の久遠の仏を知らない者は父の邦に迷える才能ある畜生と同じです。いわゆる才能とは華厳宗の法蔵・澄観ないし真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師なれども子の父を知らざるようなものです。伝教大師は日本顕密の元祖、秀句に云く「他宗所が使っている経典は一分の仏母の義は説くけども、それは父母の愛だけで然も厳しさをかいています。天台法華宗は厳愛の義を具しているのです。久遠の仏は一切の賢聖学・無学及び菩薩心を発せる者の父なのです。」等云云、真言.・華厳等の経経には種・熟・脱の三義名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去を隠すのです。種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしが如し(開目抄下)

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2011年03月22日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(65) 念仏

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(65) 念仏

中国では2世紀後半から浄土教関係の経典がインドより伝えられ、5世紀の初めには廬山(ろざん)、中国は中国江西省九江市南部にある名山。峰々が作る風景の雄大さ、奇絶さ、険しさ、秀麗さが古来より有名で、「匡廬奇秀甲天下」匡廬の奇秀 は天下一である)と称えられてきた(匡廬きょうろ)とは廬山の別名・慧遠(えおん334年 - 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となりました。やがて山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(どんらん476年頃 - 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』『浄土論註』・『往生論註』)を撰述しました。 その曇鸞の影響を受けた道綽(どうしゃく562年 - 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。道綽の弟子である善導(ぜんどう613年 - 681年)が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述し、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」(心の中に仏の姿や功徳を念ずること。仏教修行の基本の一つで,仏の名を唱える称名(しょうみょう)念仏に対する。)ではなく「称名念仏」(しょうみょうねんぶつ)とは、仏の名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)をいう。「称名」とは、仏・菩薩の名を称えること。また諸仏が阿弥陀仏を称讃することもさす。宗旨により、「称名念仏」を行[として捉える場合と、非行として捉える場合があります。この経典は称名念仏を勧めている教典と解釈しました。こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立します。しかし中国ではその思想は主流とはなりませんでした。その後慧日(680年 - 748年)、善導の浄土教を基盤に、「浄土」と「禅」を並行して修法することを主張しました。その影響で中国では浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となりました。
面白い記事を見つけましたので念仏禅について転載します。

質問
ある本を読んでいたところ「念仏禅」という言葉を見つけました。
内容はあまり書いてなくて、ある時期、念仏と禅は同時に修行されていたということらしいのですが…。
念仏と禅というのは性格が正反対だと思っていたのですが、そんなことが本当にあったのかどうか、疑問と興味が湧きました。
この事についていろいろと知りたいと思いますので、詳細をご存知の方、情報をお持ちの方、どうぞよろしく教えて下さい。
(申し訳ありませんが、お礼はどうしても遅くなりますのでご了承ください。)
質問番号:346077

回答者:neil_2112 回答日時:2002/09/05 14:37
念仏禅というのは実際に行じられています。ただ、言葉のうえから想像されるような単純なドッキングではありませんので、少々説明が必要です。
そもそも、念仏というのは「南無阿弥陀仏」と名号を口に唱えることだけではありません。本来は「観想念仏」、つまり「仏の姿を思い浮かべること」が狭義の念仏の意味です。「仏様の姿を念じる」わけですね。
平安時代の阿弥陀進行の盛んな頃、三昧講などと呼ばれる講組織が発達したのですが、メンバーが病になり重体になると阿弥陀堂などに移し、講員が見守るなかしきりに病人に仏の姿を念じさせ、さかんに周囲から「どうだ、(仏の姿が)見えるか」などと励ました、などという記録が各地に残っています。
一方で念仏を広く捉えると、身口意(しんくい)の三業(さんごう)念仏などといって、体で仏を礼拝し、口で名号を唱え、心にその姿を念じる、という全てが念仏だと位置付けられます。現在の念仏は法然、親鸞らの影響下にあって、特に口称(くしょう)念仏などと呼ぶのですが、名号を唱えることが全ての念仏行を包摂する、という立場から口業だけを専一に行うことになっているものです。
そもそもの「念仏」が「仏の姿を思い描く」ことだとすると、これは精神の統一が多分に必要ですから、いわば瞑想状態にもなって、かなり坐禅と親和性が高くなることは理解できるでしょう。黄檗宗で実際に行じられているご質問の念仏禅というのは、その意味で割と違和感なく融合していると言っていいでしょう。
ただもちろん、禅宗と位置付けられるなかでの行ですから、軸足は無論、禅のほうにあります。中国では中峰明本和尚が「禅は浄土の禅、浄土は禅の浄土」という表現をしたように、あくまでも禅を基盤にして、六字の名号の中にも禅があるとするものです。
念仏公案禅などとも言いますが、いわば名号を公案のごとく扱うことで悟道を得ようとする、と言えばいいでしょうか。
その際の浄土、阿弥陀仏の捉え方は「唯心の浄土、己身の弥陀」とよく説明されます。
前半部分は、唯心と呼ばれる個人の妄想なき仏心というのは、それぞれの肉体にあるものだけでなく宇宙に遍満しているので、極楽世界でもこの娑婆世界にもあるものだ、と考えるわけです。
また後半の方は、自性の阿弥陀仏を信じれば、三世に遍満する阿弥陀仏は自覚によって自身のなかに応化して出現し得る、ということを指します。
このような(やや抽象的な)阿弥陀信仰が禅を通じて体得されることを目指すのがその目標とするところですね。
黄檗宗(江戸時代)は、先行する臨済宗、曹洞宗とはかなり性格が異なります。それは導入した当時の中国(明)における禅の気風が反映されているためです。
念仏禅が生まれた歴史的な背景は詳述しませんが、いろいろな理由があると思います。
ごく荒っぽく言えば、およそ4世紀強ほどの間に念仏禅が中国で支配的になったのは、禅の庶民化のための必然的なプロセス(悪く言えば修行の脱落者救済的な意味合い)でもあったでしょうし、悟りを強調するあまりむしろ外道に近づいてしまいがちな禅の先鋭化に対するカウンタームーブメントであった、という評価もできるでしょう。


その他に法照(? - 777年頃)が、音楽的に念仏を唱える「五会念仏」(最初は抑揚をつけずゆっくり「南無阿弥陀仏」と称える。次に、抑揚をつけず、半音ほど高くゆっくりと「南無阿弥陀仏」と称える。三回目は遅くなく早くなく、「南無阿弥陀仏」と念じる。四回目は、徐々に速くして「南無阿弥陀仏」と称える。五回目は速度を上げて「阿弥陀仏」と称える。五回目は南無をつける)を提唱し、南岳・五台山・太原・長安などの地域に広める。『浄土五会念仏誦経観経儀』、『浄土五会念仏略法事儀讃』を撰述しました。
法然は『選択本願念仏集』において、中国浄土教の法義について、慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞・道綽・善導の「道綽・善導流」と分類されます。
日本 では 飛鳥時代・奈良時代、 7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになりました。 平安時代 、 平安時代初期
円仁 承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国しました。比叡山において、その五台山の引声念仏(いんぜい‐ねんぶつ ゆるやかな曲調で阿弥陀仏の名号を唱えること)を常行三昧(天台宗において四種三昧のうち常行三昧 の行を修するために建てられた仏堂である。常行堂とも称される。 阿弥陀如来を本尊と するが、信仰の対象として建てられた阿弥陀堂と異なり常行三昧行を修するためのもの) 、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになりました。良源 (812年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備などもしました。こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わりました。まず下級貴族に受け容いれられました。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられます。

平安時代中期  平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰でした。また、(官)僧は現代で言う公務員でした。官僧は制約も多く、国家ために仕事に専念するしかなかったのです。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになりました。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)といいます。
空也 (903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行しました。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力しました。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれました。また、空也は踊念仏の実質的な創始者でもあります。五所念仏と踊念仏はまさに現代ロックに熱中するように歌と踊りで民衆を熱狂させました。この風俗は現代まで引き継がれ盆踊りとなっています。源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えました。『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じました、念仏思想の基礎とも言えます。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められました。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となりました。

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2011年03月21日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(64)伝教大師 と空海

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(64)伝教大師 と空海

最澄(伝教大師 )は国費の留学生であり朝廷からの命令(法華経をまなんでこい)で唐に留学しました。その目的は天台学を学ぶためであり、最澄の留学の目的はそれ以外にありませんでした。最澄の目的は法華経の真髄である一念三千を学ぶためであり、摩詞止観・法華文句・法華玄義のやらやらを持ち帰ることにあったのです。
空海の目的は唐で流行中の密教を学ぶためであり、それは彼の目的で、密教なんていかがわしいものに国から費用は出ず、空海はどこからか費用を捻出したようです。空海は私費留学生なのです。当時の遣唐使船は四艘で構成されましたが最澄と空海は同じ遣唐使船にのって日本を出発したのです。同じ遣唐使の船に乗った最澄の方は、予定通り天台山を訪ね、天台宗を学びました。最澄は帰国に当たって帰国港のある明州(みんしゅう)に来たとき、出発の船の準備が整っておらず、1ヶ月半ほど待たねばならなかったのです。この時を利用して最澄は今流行の密教を知るべく越州の順暁(じゅんぎょう、生没年不詳:中国唐の時代の密教の僧。善無畏の弟子義林に師事し、泰山霊厳寺に住した。その後鎮国大徳阿闍梨・内供奉に任じられ、現在の浙江省にあった龍興寺に移った。この間、一行・不空からも密教を学んだという。805年鏡湖東方の峰山道場で日本天台宗の祖最澄に灌頂を授けている。そのときの付法書が「叡山大師伝」「顕戒論縁起」に載せられている。)を訪ね、密教を学んだのです。このことがあとで大きな事件となるとは、このとき最澄は知る由もなかったのです。日本に帰国した最澄は大スポンサーである桓武天皇に報告した所、天皇は天台宗には見向きもせず、最澄が持ち帰った密教に夢中になったのです。桓武天皇はこの時期、自ら死を命じた同母弟の早良皇太子(祟延暦4年9月24日、造築中の長岡京で、工事の責任者の藤原種継が何者かに射殺されました。そしてこの事件の黒幕として9月28日、皇太子早良親王が逮捕され、乙訓寺に幽閉されました。皇太子は無実を訴えてハンストを行い、そのまま餓死してしまいます)の祟りに悩まされノイローゼになっており密教のもつ呪術に救いを期待したのです。これが桓武天皇が密教に引かれた原因なのです。伝教大師 最澄の密教は一ヶ月ほどの学びで納得したものではありませんでした。それを良く知っていたのが最澄本人だったのです。密教とはグル(導師)により”守り仏”を授けられその導師を一生の師として信仰を深めていくもので弟子にならない限りその内容を知ることは出来ないのです。ゆえに密教というのです。そこに唐で本格的に密教を学んだと称する空海が帰国します。空海は密教の目録(メニュー)を天皇に提出します。空海が唐から帰ってきて自分が密教の正式な継承者であり、それを証明する書状、相続した数々の経典、蜜具、法具の一覧表を宮中に提出したのす。最澄のスポンサーの桓武天皇は806年崩御され最澄は苦難の時代を向かえ、逆に空海のほうは平城天皇から替わった嵯峨天皇が空海の密教にに理解を示し、空海の密教を正式なものとして認めたのです。天皇も密教が知りたくてウズウズしていましたから空海から灌頂を受けて弟子になったのです。空海は天皇に密教を見せびらかすことにより一国の天皇を頂いたのです。密教は唐で盛んな仏教の最新版でそこに呪術(マントラ)も含まれていると言うことで、意味がわからぬゆえに人々の関心も高かったのです。最澄は自分は天台宗を確立することが自分に課せられた使命だと理解しており、仏教とは法華経であり、その真髄は天台大師(538-597)の一念三千であるとはっきりわかっておりました。もっというなら法華経以外の仏法とは邪教であると思っていたのです。しかし破折のためにも密教を知ることが必要である考えていたのです。それで空海から密教経典を借りたいと思ったのです。空海に経典を借りたいと申し入れたのは破折のためであり、その最澄の企みにきずいた空海は自分の弟子にならないかぎり密教を知ることはできないとと断ったのです。
天台宗を完成させるために密教を破折しようとする論理肌の最澄、若いころから山野で修行し呪術や神道も自分のなかに飲み込みペテン師、空海は修学と修行を両方必要とする”何でも屋”の空海は詐欺師なのです。密教の経典を最澄が借り続け、ついに密教の中枢経典である「理趣釈経」を借りる段階で空海は堪忍袋を切ってしまいました。以下に梅原氏が現代語訳した空海の手紙の一部を示します。

「あなたは「理趣釈経」をかりたいといっているが、理趣とはなんのことかご存知か。理趣に三つあり、耳で聞く理趣、これはあなたの言葉、目で聞く理趣、これはあなたの体、心で思う理趣、これはあなたの心、あなた自身のなかに理趣があるのにどうしてよそに求めるのか。あなたは真理を紙の上にのみ見る人のようです。紙の上より真理はあなた自身のなかにあるのです。あなたは行を修めたのか、行を修めるより、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすることは本末転倒もはなはだしい。」

こんな内容のことは最澄は百も承知で天台の一念三千を学んだ人間に言う言葉ではありません。空海は最澄の密教の学びとは破折のためだと気がつき気が狂ったようになったのです。
この手紙は空海の最澄に対する絶交状とも思える激烈なもので、ついに二人は二度とまみえることはなかったのです。
最澄を激しく怒ったという空海のインチキ性がにじみでた手紙でありこれは密教というものに中身がないことをあらわしています。

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2011年03月18日

日蓮大聖人に学ぶ仏教史(63)空海

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日蓮大聖人に学ぶ仏教史(63)空海

諡(し、おくりな、あるいは諡号(しごう:は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。)空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお(まな))。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらしました。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。承和2年(835)3月21日、高野山開山空海が死去しました。 空海は宝亀5年(774)四国の善通寺の近くで生まれました。幼名は真魚(まお) といい、大変賢い子供であったので叔父に勧められ奈良の儒教大学に学びます。しかしやがて大学で教えられる儒学では社会にあふれている不幸を解決できないのではないかと悩みます。そして、その時一人の僧と出会った事から大学をやめ、修験者の中に身を投じて自然の中で荒行を積むようになりました。 正式に出家したのは20歳の時。はじめ教海、そして如空、やがて空海と名乗ります。「空海」の名は、四国の室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵( 虚空蔵菩薩は福徳と智慧が無限に内臓されていて、衆生の願いを叶える為に蔵から自在に取り出して救済をする。密教の教主である大日如来の働きのうち、「虚空」と「蔵」という特性をもった菩薩。虚空は何ものにもうち破られないから無能勝であり、蔵はすべての人々に利益安楽を与える宝を収めているという意味です。いるというが、現世利益では記憶力を良くするという事が主です。 求聞持法(”虚空蔵”は”虚空”の母胎の意の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法”虚空蔵求聞持法”は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われます。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。空海が室戸岬の洞窟 御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮大聖人もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったといいます。また、京都嵐山の法輪寺では、(13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く十三詣りという行事が行われている)修行をしていた時「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるとのことです。 空海は自然の中で修行をするとともに、奈良の寺院にも出入りして理論的なことも学んでいますが、22歳か25歳のころ経蔵の中で「大日経」を発見、内容に興奮します。しかし、その経を解説できる者は当時日本にはいませんでした。空海は中国へ渡ることを決意します。25歳から31歳頃までの空海の足跡は全く分かっていません。また渡航に必要な巨額な費用をどうやって調達したかも分かっていません。ともかく、空海は31歳の時、私費留学生として中国へ渡ります。留学の予定は20年間でした。 当時遣唐使は「よつのふね」とも呼ばれ、4艘の船で渡っていましたが、この時一行は嵐に遭い、第3船と第4船は沈没し、多くの留学生が命を落とし ました。空海はこの時第1船に乗っており、第2船には彼の生涯のライバルとなる最澄が乗っていました。最澄は空海と違って当時既にかなり名をなしており、身分も国費留学生でした。この時はまだ二人は出会っていません。 さて、中国についた空海はまず梵語を勉強します。それは仏教の聖典が多くはもともと梵語で書かれており、それをマスターしておくことは教えの深い部分を知るためには必須と思われたからです。彼はそのほかにも当時中国にあった種々の文化を修得しました。儒教や道教はもちろん、キリスト教(景教)ゾロアスター教・マニ教なども勉強したといいます。その一方で彼は多大の資金を投入して、日本に持ち帰るための仏典の筆写をやらせ、多数の仏教の法具を購入しました。中国についてから1年近くたった時、彼は満を持して青龍寺の恵果のもとを訪れました。恵果は密教の大きな二つの流れ「大日経」系と「金剛頂経」系を共に継承した、中国密教の頂点に立つ僧でした。その恵果も彼を待っていました。空海が来るなり、恵果は他の弟子が驚くのを制止して自分の持っている全ての知識を空界に伝える作業を始めました。彼は空海が自分の持つ密教の法を嗣ぐことのできる才能を持つ逸材であることを知っていたからです。この伝授は3ヶ月後の恵果の死によって終了しますが、その間に彼は10年かからなければ普通伝えられない程のものを恵果から学んだといいます。恵果の法嗣を受けたのはこの空海と中国僧の義明の2人だけでしたが、義明はその後若くして死んでしまい中国側の法灯は途絶えてしまいます。そのため、密教の正統はこの時、中国を離れて日本に渡ることになりました。 彼は恵果が亡くなると20年間の留学の予定を切り上げてただちに帰国します。これは遣唐使になった時の約束違反ですから、本来死罪ものです。しかし彼が学んできたものは十分それをひっくり返す価値のあるものでした。彼はそのことを書いた朝廷への報告書を提出しました。そして幸いなことにその彼の報告書を理解し、その重大性を天皇に進言できる人物が存在していました。一緒に遣唐使として中国にわたり、一足先に帰国していた最澄です。最澄は留学の予定時間も短かった為、どうしても色々なものをつまみ食いするだけの留学になっていました。彼も一応密教は勉強してきたのですが、空海ほど深くは学んでいなかったのです。彼は空海の話を聞きたいと思いました。最澄の言葉により嵯峨天皇は空海を新しい平安京に呼びました。天皇が空海に彼の密教はどんなものか尋ねると、空海は「即身成仏の実際をお見せしましょう」、と言い、その場で印を結んで何か真言を唱えました。するとその時嵯峨天皇の目には空海の体が真っ赤な炎に包まれ、その姿が大日如来に変身したように見えたのです。 こうして空海は遣唐使の任を途中で放棄した罪を許され、高雄山寺で真言宗の法灯をかかげることができました。彼の許には最澄も自分の弟子を連れて 入門しました。 (二人はその後理趣経の扱いで対立、袂を分かつ)一方では彼は中国で学んだ知識を活かして各地の土木工事の指揮を取ったり また庶民教育のための学校を設立するなど、非常に精力的な活動をしています。また、彼は書道でも非凡な才能を発揮、後に彼は嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり、延暦元年(782年)? - 承和9年8月13日(842年9月24日))は、平安時代の書家・官人。橘奈良麻呂の子で右中弁を務めた橘入居の末子。嵯峨天皇皇后・橘嘉智子、右大臣橘氏公はいとこにあたる。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と呼ばれることになりました。また絵画や彫刻の才能もあったということで、彼は宗教家としてのみでなく、社会事業家・芸術家としても精力的 に活動をしたのです。しかし先行きが短いことを知り業病をはっした空海は京を離れ、高野山に籠ります。高弟の一人の真雅(真雅(しんが、延暦20年(801年) - 元慶3年1月3日(879年2月1日))は、平安時代前期の真言宗の僧。父は佐伯田公。空海は兄にあたる。讃岐国多度郡屏風浦の出身。空海の十大弟子の一人。清和天皇の誕生以来の護持僧で、天皇とその外祖父藤原良房から厚い信任を得る)。清和天皇の御願寺である貞観寺の開基。貞観寺僧正・法光大師と称さ法嗣として指名(東寺を実慧, 神護寺を真済, 東大寺真言院を真雅に託した)、伝法灌頂を授け、最後の力を 振り絞って衆生済度のために万灯万華会を行います。そして結局2年間の闘病生活を経て承和2年(835)3月21日死去しました。そして多くの伝説が生まれました。空海の伝説は全国各地にありますが、しばしば温泉を見つけたり仏像を刻んだり、また各種の奇跡を起こしたことになっています。日本の温泉の3分の1くらいは、伝説で空海か役行者(えんのぎょうじゃ)が見つけたことになっているかも知れません。天安元年(857)、文徳天皇は空海に「大僧正」の号を遺贈しました。そして更に延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号を贈り、彼の遺徳を讃えました。

日蓮大聖人に学ぶ(衆生身心御書)
像法の中に日本国に仏法わたり所謂欽明天皇の六年なり、欽明より桓武にいたるまで二百余年が間は三論成実法相倶舎華厳律の六宗弘通せり、真言宗は人王四十四代元正天皇の御宇にわたる、天台宗は人王第四十五代聖武天王の御宇にわたる、しかれどもひろまる事なし、桓武の御代に最澄法師後には伝教大師とがうす、入唐已前に六宗を習いきわむる上十五年が間天台真言の二宗を山にこもり給いて御覧ありき、入唐已前に天台宗をもつて六宗をせめしかば七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ、六宗の義やぶれぬ、後延暦廿三年に御入唐同じき廿四年御帰朝天台真言の宗を日本国にひろめたり、但し勝劣の事は内心に此れを存じて人に向つてとかざるか。
 同代に空海という人あり後には弘法大師とがうす、延暦廿三年に御入唐大同三年御帰朝但真言の一宗を習いわたす、此の人の義に云く法華経は尚華厳経に及ばず何に況や真言にをひてをや。伝教大師の御弟子に円仁という人あり後に慈覚大師とがうす、去ぬる承和五年の御入唐同十四年に御帰朝十年が間真言天台の二宗をがくす、日本国にて伝教大師義真円澄に天台真言の二宗を習いきわめたる上漢土にわたりて十年が間八箇の大徳にあひて真言を習い宗叡志遠等に値い給いて天台宗を習う、日本に帰朝して云く天台宗と真言宗とは同じく醍醐なり倶に深秘なり等云云、宣旨を申してこれにそう。
 其の後円珍と申す人あり後には智証大師とがうす、入唐已前には義真和尚の御弟子なり、日本国にして義真円澄円仁等の人人に天台真言の二宗習いきわめたり、其の上去ぬる仁嘉三年に御入唐同貞観元年に御帰朝七年が間天台真言の二宗を法全良・等の人人に習いきわむ、天台真言の二宗の勝劣は鏡をかけたり、後代に一定あらそひありなん定むべしと云つて天台真言の二宗は譬へば人の両の目鳥の二の翼のごとし、此の外異義を存ぜん人人をば祖師伝教大師にそむく人なり山に住むべからずと宣旨を申しそへて弘通せさせ給いきされば漢土日本に智者多しといへども此の義をやぶる人はあるべからず、此の義まことならば習う人人は必ず仏にならせ給いぬらん、あがめさせ給う国王等は必ず世安穏になりぬらんとをぼゆ。
 但し予が愚案は人に申せども、御もちゐあるべからざる上身のあだとなるべし、又きかせ給う弟子檀那も安穏なるべからずとをもひし上其の義又たがわず、但此の事は一定仏意には叶わでもやあるらんとをぼへ候、法華経一部八巻二十八品には此の経に勝れたる経をはせば此の法華経は十方の仏あつまりて大妄語をあつめさせ給えるなるべし、随つて華厳涅槃般若大日経深密等の経経を見るに「諸経の中に於て最も其の上に在り」の明文をやぶりたる文なし、随つて善無畏等玄奘等弘法慈覚智証等種種のたくみあれども法華経を大日経に対してやぶりたる経文はいだし給わず、但印真言計りの有無をゆへとせるなるべし、数百巻のふみをつくり漢土日本に往復して無尽のたばかりをなし宣旨を申しそへて人ををどされんよりは経文分明ならばたれか疑をなすべき、つゆつもりて河となる河つもりて大海となる塵つもりて山となる山かさなりて須弥山となれり小事つもりて大事となる何に況や此の事は最も大事なり、疏をつくられけるにも両方の道理文証をつくさるべかりけるか、


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nakasugi_h at 07:07|PermalinkComments(20)clip!