2012年06月

2012年06月29日

謎の日本古代史(25)神武東征の物語

日向地図
「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。紀元は2600年(キングレコードより)


謎の日本古代史(25)神武東征の物語

中国地方に上陸する神武天皇の足跡を古事記と日本書紀によりもう少し探ってみます。
 『日本書紀』と『古事記』は最初の天皇を神日本磐余彦(かんやまといわれひこ)すなわち神武としており、『日本書紀』は、神武が橿原の宮で即位した年を辛酉(かのととり)紀元前660年のこととなっています。紀元前660年といえば縄文晩期(最近の炭素年代測定では弥生時代)とされる時代で、とても詳細な年次や、事件の内容が伝わるとは考えられません。しかし記紀が語る神武東征物語は、まったくの架空の物語ではなく叙福東征の記録であろうと考えられます。各地に残る伝承や、記紀の記述をもとに、叙福東征の物語を見ていただきたい。 古事記と日本書紀は中身が若干異なり、たとえば『日本書紀』は椎根津彦(しいねつひこ)に会った場所を、筑紫(九州)の宇佐に到着する前のこととしている。だとすると速吸の門(はやすいのと)は豊予海峡(大分県の速吸の瀬戸と考えられます。
これに対し『古事記』は槁根津日子(さおねつひこ)(どちらもウズヒコとする同一人物)に会ったのは吉備を出発してからとしています。だとすれば速吸の門を、明石海峡あたりとする説も生まれます。
また仮の宮を置いたとする安芸(広島)の宮を、『日本書紀』は埃の宮(えのみや)とし、『古事記』はタケリの宮としています。
ここでは記述がより詳細で、具体的な『日本書紀』の記述を中心に構成します。
『日本書紀』は叙福の出発地について明確にしないが、出発してから最初に、筑紫の宇佐に寄ったとしています。
出発地は『古事記』の日向(宮崎)を発ったとする伝承と合わせて考えれば、宮崎県あたりとなるでしょう。宮崎県日向市の南に、耳川という川がある。この河口に美々津と呼ばれる小さな港がある。
この美々津は神武東征の出発地伝承を持ちます。
伝承によると、出発が急遽早まったため、早朝里人を起こして回ったとするのですが、その伝承を「起きよ祭り」として今に伝えています。また出発にあたり、餅の餡(あん)を包んでいる時間が無かった。そのため小豆と餅を一緒につき込んでもっていった、といわれています。この餅を「つき入れ餅」といい、この云い伝えを今に残しています。また叙福岩とよばれる船団をつないだ岩が今も残されています。
日向を出発した叙福は、筑紫の菟狭(大分県宇佐市)に寄り、その後筑紫の岡の水門(みなと)にしばらく留まったとする。その場所は、遠賀川河口ということで福岡県遠賀郡芦屋町あたりとする説と、北九州市八幡西区黒崎にある岡田神社とする説があります。しかし何れにしても不思議な記述です。
東の奈良盆地を目指すなら、九州北岸の地に寄らずに、直接豊後水道から瀬戸内海に入れば、よさそうなものです。
中国地方に上陸してからはその後安芸(広島県)の埃の宮に留まった。あるいは更に吉備(岡山県)の高島の宮に移ったともいわれ、仮の宮をつくり、ここで兵船を整え、食糧を蓄え、東への侵攻の準備をしたとするのです。ただし東征の始まりの時点では、総大将と言うべき人物は叙福ではなく。長兄の五瀬命(いつせのみこと)である。しかし、五瀬は戦いで、他の二人の兄も水難に会い命を落とします。最後に残った神武が東征を果たし、大和王権を樹立したと考えられます。

※写真ー日向地図

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2012年06月28日

謎の日本古代史(24)神武東征は船団を持って行なった

宇佐神宮
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謎の日本古代史(24)神武東征は船団を持って行なった

神武の東征ということについて、注意しなければならないことがあります。それは、船団で東征を行なったということです。当時の時代背景をまともに受ければ、3000年以上か、2700年前です。年代を調整しても2100年以上前の話です。その時に、日本には航海術というものはありません。遣隋使(600年〜614年)とか、遣唐使(630年〜894年)が始まるのは、奈良時代や平安時代です。それよりも1200年前の話で時代が700年くらいずれているのです。遣隋使、遣唐使の始まる700年前に日本に船団など組める力は無いし、これは徐福の船団が中心にいなければ神武の東征は行われなかったということがわかります。
学者の皆さんは、陸を行ったように思っていますが、はっきりと「船団をもって東へ向った」と書いてあります。凄い数の船団であったと思います。これは、徐福が大陸から持ってきた船団の一部が有用に活かされたのに違いありません。徐福でなければ出来ないことであって、当時日本にそのような船団を組める技術は無かったのです。
それが、宇佐神宮(大分 宇佐市)に着いたのです。それから、博多に着いたのです。このような進み方をしています。そして、広島とか、岡山の土地に8年とか、7年居たことになっていますが、行った先々に神社を建てて記念を建てていったのです。そして、中津国では、まだあまり蛮族が多くなかったのですが、それでも8年という長い月日がかかっています。
神武の東征とは、「日本を統一する」という明瞭な意思がなければ出来ないことです。明瞭な意思を持った徐福によって初めて出来た大仕事であります。これを、後世に伝えるべく創られたのが神武東征の物語です。
だいたい神話というのは、真実が入っている場合が多いので、事実ではない事があるにしても、それはごく僅かなことで真実であることが多いのです。有名なヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン(ドイツ語: Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 - 1890年12月26日)は、ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアが実在することを発掘によって証明しました。ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアは真実だったのです。
結局、神話は何事かを現すために創られた物語なのです。他の、天孫降臨とかあっても構わなくていいのです。本筋を抑えていくことが大事です。神武天皇は、徐福であるということ。神武の東征は船で進んだということ。そして、九州(日向の高千穂)に行ってから筑紫に向い、豊国の宇沙(大分 宇佐市)に着いてから岡田宮(北九州市八幡西岡田町)に移動して、さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)(広島)を平定して、吉備国(岡山)の高島宮を平定して、また九州に行って宇佐神社(大分 宇佐市)に回って、それから博多に回って、博多から船団で本州に回り込んで行ったのです。これが、大事なことだと思います。

※写真ー宇佐神宮(大分県 宇佐市)

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2012年06月27日

謎の日本古代史(23)九州征伐

高千穂
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謎の日本古代史(23)九州征伐

神武は四国で旗をあげると、そのまま剣山で祝杯と記念のお祭りを行い、そして船団を組んで日向の国に向ったのです。九州征伐の始まりです。日向とは今の宮崎県であって宮崎から高千穂の方へ軍団が行ったのです。
そして、何処から攻めるかを神武は考えたのです。九州は蛮族が大変多いところです。隼人、熊襲、土蜘蛛、アイヌ、コロボックス、沖縄、大変な蛮族が割拠していたのです。まず隼人は恐ろしい形相をして犬の格好をして前身に刺青をしているのです。何しろ足が速いのです。早い人という意味で、隼人(はやと)と付けたのです。熊襲(くまそ)というのは、前身がヒゲだらけで顔が熊のように毛が生えているのです。けむくじゃらの腕で、一種の毛人に近い人間だと思っていいでしょう。これが、割拠していて、熊本の方面にいたのです。隼人と熊襲は、今の鹿児島県と熊本県にいたのです。その他、山の上にはコロボックスという小人の集団がいて、これもそうとうずる賢い集団で刺青をしていたのです。そして、アイヌも九州にいたのです。アイヌは顔に刺青をしていて、これら蛮族が割拠していたのです。
また、土蜘蛛(つちぐも)は胴が短く手足が長いのです。(以下日本書紀より引用)
又高尾張邑(たかをはりのむら)に、土蜘蛛(つちぐも)有り。其の為人(ひととなり)、身(たけ)短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相類(あいたぐ)へり。皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(ゆ)ひて掩襲(おそ)ひ殺す。因(よ)りて号(な)を改め其の邑を葛城(かづらき)と曰(い)ふ。
──日本書紀・神武天皇即位前紀
このように、凶暴な軍団が九州には居て、今でも九州の人間は凶暴性を持っています。示現流(じげんりゅう 薩摩藩独特の剣術)などをみてもわかりますが、よけがないのです。じげんりゅうの稽古を見て御覧なさい。受けがないのです。薩摩の刀は鍔(つば)が無いのです。鍔は不要です。少しは付いていますが、鍔が非情に小さいのです。それが、鍔で刀を受けるという発想がないのです。ともかく、「チェストー!」と言って打ちこんで、よけないで相手を斬るという流儀を持つ荒っぽい連中です。
これは、豊臣秀吉にしても九州を制定する時に、島津にはそうとう手こずりました。本来なら島津は滅ぼしてしまいたいのですが、その時には大変な犠牲が出ます。江戸時代、鹿児島県の国民の内の40%は、郷士という士族です。全員が兵隊のような所で戦って勝てるわけがないし、大和朝廷も最初は隼人に手こずるのです。後には朝廷に仕えて仲良くなるのですが、薩摩隼人というのが居たのです。
こういう蛮族が割拠していて、一つ一つ平らげていったらそうとうな時間がかかります。昨日の講義にもあったように、「阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)(広島)で7年、吉備国(岡山)の高島宮で8年過ごした。」(古事記)ということは、それは戦っていたということなのです。その地を平定するのに7年かかったとか、或いは8年で平定が終ったということです。そういうことを、「8年過ごした」という表現を使って書いているのです。大変時間がかかるのです。だから、九州の攻略は後回しにしたのです。とりあえず、本州、葦原の中津国の方から攻めていって、日本に中央政権を立てようとしたのです。「九州は後である」という決断を下したのに違いありません。これが、神武東征の第一番の物語で、「九州は後である」ということです。
これは、豊臣秀吉もそうで、九州征伐は行なわなかったのです。徳川家康も行なわなかったのです。それだけ、九州は蛮族がいるのです。だから、後回しにされて葦原の中津国(中国地方)に駒を進めたのです。その中で大事なことは、船で進んだということです。神武(徐福)の一団は船で浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった)に進みます。大量の船を持っていたということです。それから、神武の東征が始まったのです。

※写真ー高千穂の峰

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2012年06月26日

謎の日本古代史(22)古事記にみる神武東征

古事記
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謎の日本古代史(22)古事記にみる神武東征

神武東征(じんむとうせい)は、初代天皇であるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向(宮崎)を発ち、大和国を建国して橿原宮(かしわぐう)で即位するまでの日本神話の歴史説話である。

(あらすじ) 古事記 では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノ命)は、兄の五瀬命(イツセノ命)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、筑紫にでてそれから東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツ彦)・宇沙都比売(ウサツ日女の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮’北九州市八幡西岡田町)で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)(広島)で7年、吉備国(岡山)の高島宮で8年過ごした。
浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、ナガスネヒコが軍勢を起こして待ち構えていた。ナナガスネヒコとの戦いでは、戦いの最中、金色の鵄(とび)が飛んできてカムヤマトイワレビコの弓の先にとまった。金鵄は光り輝き、ナガスネヒコの軍は眩惑されて戦うことができなくなった。
ガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国’和歌山)の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。
カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。
カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で八咫烏(やたがらす)が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。

宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、カムヤマトイワレビコに仕えるかどうか尋ねさせたが、兄のエウカシは鳴鏑を射て追い返してしまった。
エウカシは軍勢を集めて迎え撃とうとしたが、軍勢を集めることができなかった。そこで、カムヤマトイワレビコに仕えると偽って、御殿を作ってその中に、入ると天井が落ちてくる罠を仕掛けた。弟のオトウカシはカムヤマトイワレビコにこのことを報告した。そこでカムヤマトイワレビコは、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)をエウカシの元に遣わた。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、その仕えるための御殿にまずお前が入って仕える様子を見せろ」とエウカシに迫り、エウカシは自分が仕掛けた罠にかかって死んでしまった。
忍坂の地まで来たとき、土雲の八十建(数多くの勇者)が待ち構えていた。そこでカムヤマトイワレビコは八十建に御馳走を与え、八十建に対して80人の調理人をつけ、調理人に刀をしのばせた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。
その後、大物主の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。

※写真ー古事記

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2012年06月25日

謎の日本古代史(21)四国上陸

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謎の日本古代史(21)四国上陸

徐福は四国の何処に上陸したのか? これは、必ず跡があるはずで、私は、現在の金毘羅神社があるところに上陸したと思います。上陸した所に記念して神社を建てたのです。金毘羅神社は、主祭神である大物主神を祀る神社です。大物主(おおものぬし、大物主大神)は、日本神話に登場する神です。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)のことであり、『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であり、別名 三輪明神ともいいます。
神の名前は、後から作ったものですが、そこに上陸した記念として金毘羅神社を建てたのです。四国にある神社を調べると何年に造って何年から始まったという記録がないのです。いつから始まったかわからないのです。そのような神社がほとんどです。「四国で一番古い神社は何処ですか?」と質問を出すと答えは無いのです。そういう不思議な所なのです。
そして、徐福が降り立った時にどのような状況かというと、弥生人達がすでに四国に入り込んでいたのです。それを恐れた縄文人達は、四国の山に逃げ込んだのです。だから、これはNHKの坂の上の雲のエンディングにも画像が出てきましたが、四国の山上の道路が出てくるのです。四国の山の上には道が通っています。
この山の上にある古代道路が出来たのは、縄文人達が弥生人達を恐れて山の上に集団疎開したからです。だから、ここに多くの人々が生活していくことが出来たのです。これが鍵なのです。何故、山の上に住んでいたか誰もわかっていません。
それを徐福は見たのです。徐福は土木工事の名人ですから、山の上に何万というため池工事を行なったのです。今でもそのため池が残っているのです。飲料水がないと山上生活は大変です。雨水を貯めたり、山を降りて水を汲みに行ったり、それを徐福が「やめなさい」ということでため池を造ったのです。ため池は全部、人工のものだと言われています。誰かが造ったのであって、それを造ったのが徐福なのです。
その勢いもあり、「徐福は征服者ではない」と尊敬され、皆が慕ってきたのに違いありません。出来るだけ山の下の方に水田を造るようにという指導もあって、あっという間に四国は徐福によって制圧されたのに違いありません。
大杉 博さんも四国山上説を唱えています。
以下、「邪馬台国は四国にあった」大杉 博氏(以下引用)
さて、私が唱えている邪馬台国(四国山上説)の範囲は図の通りであるが、邪馬台国は、四国の山上の至るところに存在していた、高地性集落の集合体の国だったのである。四国の山地には現在も高地性集落が多数残っているが、それらの集落の畑の中を注意深く探して見ると、弥生土器の破片や石器を見つけることができる。また、四国は山を焼く習慣が明治十二年頃まで続いていて、四国全体の山上はほぼ全部草山だったのである。そして山並みの稜線には全部、細い道路が通っていて、その道路から少し下った所に高地性集落があり、稜線沿いの道は古代の幹線道路だったという訳である。また、山上生活者にとっては飲料水の確保が重要であるが、四国の山上には大小無数の溜め池(又は、池跡)が残っている。全部人造の池であり、池の周辺から弥生土器の破片が出土したり(徳島県)、池の中から弥生土器の完全な壷が回収されている(愛媛県)ことなどから、これらの池はほぼ全部、弥生時代以前に造られたものと推測できる。(引用終わり)
山上にため池を造り、稲作を教えて、最後に聖なる山として徐福が置いたのが剣山です。ここには、色々な隠し事や、秘密を持っているので、剣山で不思議な儀式を行なったのです。今でも7月17日になると剣山に神輿が登ります。あんな山の上までお神輿を上げるのです。これは、そこに意味があるのです。人によっては、剣山にソロモンの財宝が隠されているとか、或いはモーゼの十戒・三種の神器が隠されているという人もいます。これは、未だにわかりません。
前回、講義したGHQはそれを探しに剣山に入ったのです。1950年8月26日、山本英輔という海軍大将が徳島・剣山でミイラ100体を発見したという記事が徳島日報で配信されたのですが、徳島日報で当記事が配信された新聞ごと消されています。ミイラをGHQが持っていってしまったのです。
剣山は、徐福が最終的に四国平定の記念碑に造った山で、聖なる山として置いたことは間違いありません。これによって、徐福は四国を平定したのです。
もう一つ、この山上の人々は、焼き畑農業を行なうのです。明治の中頃まで、四国では焼畑農業が行なわれていました。焼畑は縄文の流れです。縄文人は、焼畑でした。だから、四国は縄文人が残っていたのです。それが、なんだか分らなかったのです。私が、初めて分ったのです。

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2012年06月22日

謎の日本古代史(20)四国の謎

剣山
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謎の日本古代史(20)四国の謎

淡路島を平定して小さな王国を造った徐福は頭の中で考えていることは日本列島の統一です。そして、次の目的地に四国を考えました。軍勢を養った徐福は四国征服を考えて実行しようとしました。四国こそ日本の中心になるべき土地だと考えてとった行動です。おそらく船団にして数千隻の船があったのに違い有りません。多くの何万人という兵士を乗せて四国へ向って出発しました。
四国というのは真に不思議な国で、昭和20年(1945年)、GHQのマッカーサーは四国を調べることにしました。昭和20年9月14日、GHQの特命を受けて秘密裏に四国山地の最高峰・剣山の山頂から2百メートルほど下がった大剱(おおつるぎ)神社の辺りをアメリカ軍の発掘隊が調査しました。
契約の箱が剣山にあるらしという情報により、発掘調査をしたのです。それが、四国の剣山です。「日本人がユダヤ人」という噂があり、そして剣山に契約の箱があるのではないかと、前々から言われていました。これに対して、軍隊を送り徹底的に剣山を調べました。その結果、持ち去った物はありますが何を持ち去ったかは未だに不明です。
しかし、契約の箱が発見されたという話は聞きません。もし、契約の箱が発見されても、それは発表しないでしょう。何故かというと、日本人がユダヤ人であるとわかれば非情に都合が悪いからです。世界が日本に支配されてしまうし、本物のユダヤ人に原爆を落としたアメリカは大変な罪を負ってしまうからです。ともかく、GHQは剣山を調査して何かを持ち帰ったのに違いありません。
この剣山では毎年「神輿祭り」が行なわれますが、その日は「祇園祭り」と同じ7月17日です。「ワッセ、ワッセ!」と担いで大騒ぎをします。ソロモンの財宝が眠っているとか、三種の神器が存在するとか、昔から言われたところです。
それと同時に三木家という問題があります。これは、四国の山の奥のまた奥の木屋平村の頂上付近にある家ですが、天皇陛下が大嘗祭の時に着る「麁服」(あらたえ)を作っています。大嘗祭に欠かせない神具「麁服」は、これがなければ大嘗祭は進みません。大嘗祭は、天皇と神が一体化する儀式です。
それを四国の山奥にある三木家が作り、昭和天皇の大嘗祭の時も三木家から「麁服」が届けられました。この「麁服」は、三木家の前庭に切開かれた畑から取れる麻から作られていて、畑は竹垣で囲い鉄条網が張られ、入口には鳥居があり厳重に管理されています。
そして種蒔きから刈入れまでの約3ヶ月間、24時間体制で監視が続けられ、大切に作られるのです。それも僅か4反の麻布をつくる為にです。 大麻で「麁服」を作るのです。これは、三木家しか出来ないのです。
三木家は昔、忌部(いんべ)と言って忌部三木家といいます。「麁服」は古来から阿波国の忌部氏が調進するものと定められていたのです。それが平安時代になると明確な文書として残っています。『貞観儀式』(859年)や『延喜式』(927年)には大嘗祭に関する式文が定められていて、「麁服」については阿波忌部氏が御殿人に指名され、麁服を織って神祇官に調進する方法が、細かく定められていました。
忌部氏は中臣氏と共に朝廷を司る氏集団として歴史的に知られています。 平成天皇の時にも麁服を織ったこの徳島県木屋平村の三木家は、古来からの忌部氏の末裔なのです。
また、三木家には多くの古文書が残されているので、「麁服」についての古文書も多く残されています。最も古いものが、文応元年(1260)11月のもので、当時の三木宗時が亀山天皇の大嘗祭に奉仕した時のものです。 亀山天皇から三木宗時に命令が出され、その古文書には「先例にならって早く麁服を出すように」という内容が書かれています。
三木家が作っている「麁服」がなければ、大嘗祭の儀式が出来ないのです。それと同時に大嘗祭の「麁服」を作る三木家が四国にいるというのも不思議な話です。
四国というのは、山上に道路があるのです。山のてっぺんに道路があり、尾根を走る古代の幹線道路があるのです。ですから、四国は邪馬台国であったと主張する人もいます。山の上に道があるのです。その山の道の間に人々が住んでいます。高い所に人が住んでいるのが四国の特徴です。
四国は、「死ぬ国」ともいい、四とはそういう意味なのです。ということは、天皇家の出自がここであるから、ここを封鎖するという意味で四国としたのに違いありません。剣山は、四国のあらゆる位置から見えない位置にあるのです。高野山の御辺土さんの巡礼者が回っても剣山は見えない位置にあり不思議な場所なのです。
ここを天皇家の祖である徐福が征服をして聖地として剣山をもうけたのに違いありません。また、通信網として山の上を選び、連絡網として三木家を置いて、そして磐石の体勢を作ったのに違いありません。
しかし、四国も通過地点であり、ここで天下を取ろうというのではありません。一番の狙いは日本列島の支配であるからこれは次へ進む第二ステップです。このように四国はまだ謎が多いので、四国を研究すれば徐福の行なった事績もでてきますし、事実古墳などもそうとう出てきています。そういう不思議な所です。弘法大師も出てきて色々なことをやっていますが、ここも淡路島と同じで多くの池があります。弘法大師が作ったと言われていますが、そうではありません。昔からため池があるところで稲作に有利な土地だとわかります。
四国には蛮族もいないので四国を平定して徐福は次のステップを考えたのに違いありません。次のステップとは何か? これは九州です。

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2012年06月21日

謎の日本古代史(19)徐福が日本に上陸するまでの過程

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謎の日本古代史(19)徐福が日本に上陸するまでの過程

今わかっていることは、秦の始皇帝の命を受け出発した徐福は一度、秦に帰り、二度目に体勢を整えて蓬莱山(ほうらいざん)に渡ったということが知られています。司馬遷の『史記』に書いてあります。所説あって、徐福の出発にあたり、船団を3000隻組んだという説もあり、そのおかげで秦の財政が傾いたという話もあります。それと同時に、徐福が連れてきたのは3000隻ではなく、3000人だという説もあります。3000人と3000隻ではまるっきり規模が違います。これはどちらともいえないのでここでは触れないでおきましょう。
さて、徐福がどのようにして日本に来たのかというと、第一回目は調査に来たのです。蓬莱山と言われた日本がどのような地形を持った国であるのか? そして何処にどういうものが居るのかということを調査しないで上陸することは出来ません。必ずこれは調査をしたに違いありません。
この調査の跡が、日本全国に「徐福が来た」という徐福伝説として残っています。それは、後から作られた偽物もあるけれど、大部分は真実に基づいて作られたものだと思っていいでしょう。ここで、徐福伝説を紹介しておきましょう。
最北の徐福伝説は、青森県北津軽郡に道の駅「徐福の里」があります。日本最北の徐福像は以前,尾崎神社にあったそうですが,崖崩れで通れなくなっているため,ここに移転したとのことです。日本各地にある徐福像でも最北のものです。
愛知県名古屋市にある熱田神宮は、伊勢湾の海岸線から北へ大きく離れていますが,もともとは伊勢湾に面していました。つまり,神宮の南側は入り海だったのです。この近くには愛知の名の元になった「年魚市潟(あゆちがた)」の石碑もあり,古代は干潟に続き伊勢湾が広がっていたことがわかります。地形的に見て,後に熱田神宮が建てられたこの地に徐福が上陸したと考えてもいいでしょう。熱田の地は「蓬莱島」と呼ばれていました。海に突き出た地形が神仙思想に語られる不老不死の仙人が住むという島に見えたのでしょう。徐福が立ち寄ったことから「蓬莱」が付けられたかもしれません。
福岡県八女市には童男山古墳があり、この一帯は6世紀後半頃に造られた童男山古墳郡を形成しており,現在までに27基が確認されています。それらの中心にあるのが1号墳で,直径約48m,高さ約6.7mの円墳です。複室の横穴式石室で,玄室に凝灰岩の巨大な石屋形があります。石棚・棺床・石棺も多いのが特徴です。
このように、徐福伝説は、青森(小泊 徐福の里・権現崎・尾崎神社)、秋田(赤神神社・五社堂)、山梨(山中湖・河口湖・河口湖浅間神社・波多志神社・富士吉田市・太神社・徐福祠・聖徳山福源寺・鶴塚)、三重(熊野市波田須・徐福宮)、愛知(熱田神宮・莵足神社・本宮山・鳳来寺山・浪ノ上稲荷神社)、和歌山(熊野本宮大社・那智大社・速玉大社・徐福公園・蓬莱山・阿須賀神社)、京都(与謝郡・伊根町)、宮崎(徐福岩・宮崎市)、佐賀(諸富町・佐賀市金立町・徐福長寿館・金立山・古湯温泉・武雄温泉・黒髪山・犬走天満宮・吉野ヶ里遺跡)、福岡(八女市・童男山古墳)、鹿児島(八女市・童男山古墳)など、日本全国にあります。
そして、調査後に選んだ土地が淡路島です。結局、淡路島に上陸することが一番安全であるし、体勢を整えるためにも淡路島が必要だったのです。どのような島かというと、北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が拡がっています。シンガポール島とほぼ同じ面積を有し、本州4島を除くと対馬に次いで第7位の面積を持ちます。
全島が瀬戸内海式気候(年間平均気温約16度、年間降水量約1300mm)の区分に属し、諭鶴羽山地(ゆづるはさんち:最高峰607.9m)以南では南海型太平洋側気候の特徴も少し混じります。このため多くの農業用ため池があり、兵庫県内にある43,000のため池の半数を超える23,000が島内にあります。米は50万トンぐらい取れます。結構、よい風土です。
淡路島の特徴は、ため池が23,000もあるのです。四国にも、弘法大師が造ったというため池がありますが、淡路島には23,000もあるのです。これは、灌漑するためには最適の土地です。山は600m前後で、高い山はありません。真ん中に平野があり、非情に良い所で農業に適しているということがすぐにわかります。
徐福は、日本国中を回った結果、淡路島は結構大きな島であり、瀬戸内海で一番大きな島であるからこの島に上陸することを決定したのです。上陸した一団は老若男女で、農機具を持ってそこに一大農業国家を創ったのです。しかし、この段階では国をまだ日本とも言っていないし、大和の国とも言っていません。単なる集団です。もともとあった倭という国でもありません。不思議な一団が生まれたのです。
淡路島は、ここで力を付けて四国へ進行するために徐福が構えた土地であり、経過して行く土地です。ここで中国式の素晴らしい鍛え抜かれた大規模な農業が行なわれたのに違いありません。
今、淡路島に行くと名物は力石です。力石というものが残っているのです。何故、これが残っているのかということが不思議で、これは方位に使うのです。力石はシナから伝わったもので徐福は陰陽師だと言われているので陰陽の道具だったのに違いありません。陰陽師の名残の力石が残っています。
淡路島には古墳があまりありません。数が少なくて、あまり発見できないようなところにあります。畑の中とか、入口が狭いとか、大きな古墳でも7.5mくらいしかありません。古墳の数を見ても古代から淡路島というところは、豪族が住んでいた所とは思えません。ちょうど開いているような土地だったのに違いありません。
淡路島で力を付けて、日本の元、天皇家の元である徐福は、四国攻略を目指して進む準備を始めたのです。

※写真ー淡路島

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2012年06月20日

謎の日本古代史(18)四種類のユダヤ人

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謎の日本古代史(18)四種類のユダヤ人

マルコ・ポーロ(伊: Marco Polo、1254年9月15日 - 1324年1月8日)という冒険家が中国に渡り色々な見聞録を書いた中に『東方見聞録』という本があります。これは、ヨーロッパに持ち帰られ絶大な人気が出た本です。この中に書かれているのが東方の国、ジパングです。ジパングは黄金の国であると記述されています。
当時、中国にはかなりの数のユダヤ人がいたはずで、これは客家(ハッカ)などとも混同されています。客家というのは、漢民族の一派ですが、この中にユダヤ人も混入しているようです。勘違いした人々は、客家がユダヤ人だと言っています。そうではなくて、もともと漢民族で山岳地方に住むのを好んだ人々なのです。この人たちは山に逃げて独自の集落を作り生活していた人々です。中国語といっても客家語は別なのです。ユダヤ人の影響をかなり受けて一部ユダヤ人が紛れ込んでいるという説もあります。
世界に散った四種のユダヤ人の一つは、スハラディー・ユダヤです。スハラディー・ユダヤとはもともとイスラエルの地に居たユダヤ人達で、移民する時に取り残されて原住民と混血して出来た種族であってレベルが低いのです。
その次に多くいるのが、アシュケナジー・ユダヤであって、このアシュケナジー・ユダヤはハザール帝国に居た人々です。カスピ海の上の方に居た人々です。民族としてはトルコ系の白人種です。この人々が今から1000年くらい前にイスラム教徒に攻められて、キリスト教徒にも攻められて、ユダヤ人に相談したら「ユダヤ教徒になりなさい」と言われたのです。王様を初めとして、国家をあげてハザール帝国はユダヤ教に改宗したのです。
この人達が、ジンギスカンなどに蹴散らかされて、全世界に散らばって一部はロシアに逃れたのです。一部は東ヨーロッパに流れたのです。これが、現代世界を制覇しているユダヤ人の原型であるアシュケナジー・ユダヤの原型です。
アメリカもすでにアシュケナジー・ユダヤに支配されています。実は、この人達はユダヤ人ではありません。単なるハザール帝国人です。これが、ユダヤ教徒に改宗しただけであって、これが聖書によく出てくる偽ユダヤ人の存在です。
聖書の予言で偽ユダヤが出てくるとは、この連中のことなのです。この連中は、キリスト殺害には関係ないのです。今から約、2050年くらい前にキリストは殺されたのです。それに対してアシュケナジー・ユダヤは、約1000年くらい前に改宗した連中なので関係ないのです。
2300年前くらいから、ユダヤ帝国に居たユダヤ人はシルクロードを通り全世界に散らばっていたのです。シルクロードを通り、コショウの貿易商人になった者もいます。キリストの殺された2050年以前には、すでに世界各国にユダヤ人は分布していたのです。その一つは、アフリカにも行ったのです。そして、中国の開封(かいふう)にも、8万人から10万人のユダヤ人達が集団で行って生活していたのです。
シルクロードの駅ごとに、本物のユダヤ人達は散っていたのです。今でもそこにユダヤ人で土着している人々が居るのです。先祖はユダヤ人だけど、今は中国人です。そのように土着した人々は、ユダヤ教という宗教は持っていません。どこかに宗教を忘れてしまったという感じです。
ユダヤ人の離散は第一陣が、シルクロードを通り中国の方まで行けるとわかり、その次の人々が中国に住みついて秦の始皇帝の帝国を造り上げたのです。その一部である、徐福という人が日本にやってきたのです。流れ着いたのではありません。完全な目的を持って日本にやって来たのです。そして、日本を支配下に置いて大日本帝国の基礎になるものを作ったのです。
彼等にとっては絶対の命題があったのです。まず、中国語も入れたくない。中国語を入れれば中国の属国だと言われてしまいます。ユダヤ語も、ペルシャ語も入れたくない。ユダヤでもなければ、ペルシャでもない、全く世界から独立した国家を造ろうとしたのです。しかも、人工的に人造言語は完成したのです。これが今から2100年前です。或いは、2200年くらい前の秦の始皇帝が滅びるほとんど同時に日本に大軍でやってきて日本国家の基礎を造ったのです。
ですから、こうみると第一番目のスハラディー・ユダヤは現地に残された連中が原住民と混血して出来た種族です。質がよくないのです。第二番目は、世界に散ったユダヤ人達がコミュニティーを形成しています。第三番目の一団は、集団となり組織をもってシナに移り、シナ経由で日本に来た徐福の一団です。そして、第四番目は1000年も経ってユダヤ教に改宗したアシュケナジー・ユダヤです。アシュケナジー・ユダヤは偽ユダヤと言っていいのです。これが、四種類のユダヤ人です。
本物のユダヤ人達は一体何処か? これは、日本に大挙して来ているのです。聖書を持ってこなかったのはどのような意味かというと、聖書があれば源流を探られます。聖書をなくしてしまったのです。徐福が創ったのは新しい国です。どこの支配も受けないのですから聖書など要らないのです。その代わり、聖書の教えを神道の中に盛り込み、土着信仰の縄文信仰である神社の中に持ち込んで、聖書が無くても聖書の教えがわかるように仕組まれたのです。これが日本の歴史です。
世界には、四種類のユダヤがいるのです。今はアシュケナジー・ユダヤが原爆を造り、アインシュタインを出し、色々な偉人を出してのさばっているのです。この偽ユダヤの考え方が何故悪いかというとバビロニアのタルムードを引いているのです。
聖書は、「始に光あり」と始まっているわけで創造主の話から始まります。それから、アブラハム・ヤコブ・イサクの子孫の話になるのですが、彼らは偽ユダヤですからこの旧約聖書を読んでも何のことかわからないのです。自分達の先祖は違うのです。アブラハム・イサク・ヤコブではありません。ハザール人ですから聖書はわからないのです。読んではいるけれどもうわ言のように読んでいるだけで心の中に入っていないのです。
心の中に入ったものは何かというと、バビロニアのタルムードなのです。これは、バビロニアが繁栄した時に持っていた経典の一部です。これを、偽ユダヤ達は引き継いで、「これを俺達の経典にしよう!」と言ってタルムードを第一経典にしたのです。偽ユダヤ人達は、旧約聖書は第二、第三経典であり、第一経典はタルムードなのです。このタルムードを信じるとろくなことになりません。
タルムードの一番最初に書いてあることは、「我等のみが人間である。」ここから始まるのです。「我等のみが人間である。他は豚と呼ばれる。」豚=ゴイムです。従って、ゴイムの物を人間である我々が殺そうと、奪おうと、騙そうと、何しようと構わないのです。ここから始まるのです。そして、「自分達の子供を医者にして豚を殺せ。」「自分達の子供を弁護士にして財産を奪え。」ここから始まっているので、今の偽ユダヤの世界戦略というものも、アメリカを乗っ取り、タルムードの通りにやっているのです。
アメリカの中に組織を作り、フリーメーソン(Freemason)、CFR(Council on Foreign Relations:外交問題評議会)、FRB(Federal Reserve Board:ワシントンD.C.にある連邦準備制度理事会)、TLC(Trilateral Commission:日米欧三極委員会)、スカル&ボーンズ(Skull and Bones、S&B:頭蓋骨と骨)など、変な組織を作り裏で操っていることを見えないようにして表で悪さをするのです。アメリカは完全に姿の見えない偽ユダヤに乗っ取られてしまいました。今ではアメリカは悪の帝国です。アメリカの正義は無いのです。戦争はすべて自作自演です。自分で仕掛けて消して歩くという、そのようなアメリカになってしまったのは、アシュケナジー・ユダヤのタルムードの影響であるということを考えなければいけません。
この日本に来たユダヤ人達は、大和民族に成ったのです。これはキリストも殺していないし、タルムードも崇拝していません。純粋なる本物のユダヤ人は日本人であると言えるのです。

※写真ーアシュケナジー・ユダヤ キッシンジャー博士

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2012年06月19日

謎の日本古代史(17)天皇家と菊の紋章

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謎の日本古代史(17)天皇家と菊の紋章

人類の文明というものは古くはメソポタミヤ、そしてインドのモヘンジョダロ遺跡、エジプトの遺跡など色々ありますが、モヘンジョダロの下には更に遺跡があるらしいのです。従って人類の文明の発達というのは今で言うような5000年ぐらいの歴史ではありません。少なくとも数万年前にさかのぼって文明があったことは事実です。
そういう中で今わかっていることはシュメール文明です。シュメール文明とはバグダットの辺りにあった文明で、これは文献上では世界最古の文明と言われています。
シュメール人達は文字を作り、これはくさび型文字として今では有名です。土をこねて粘土を作って印鑑なども作っていたのです。ゴロゴロと印鑑を動かすと紋章が作れたり、非情に文字にこだわった民族です。シュメール文字は、世界最古の文字です。長年学者が研究していましたが、今ではシュメール文字は解明されています。近年、石垣島にある海底遺跡でシュメール文字らしきものが発見されました。古代においてシュメール人達は航海を行なって沖縄の方面までも足を伸ばしていたのです。非情に幅の広い文明であったのに違いありません。
このシュメール人達の考えた宗教は前回も講義しましたが多神教です。色々な神々を彼らは祭っていたのです。そして、ジグラットというピラミッドの平らなところに9人の神がいて、それを統一する神が真ん中にいたのです。これは、姿無き神であって、この神のことは決して触れてはいけないということが、シュメールの文明の考え方なのです。
それを、引きつぐユダヤ人達は、神の正体を明らかにしてパンドラの箱を開けてしまったのです。これが原子爆弾を生む原因となったものです。
そして、このシュメール文明がユダヤに入り、ユダヤの祖といわれるアブラハムはシュメールの町で生まれたのです。アブラハムに神の声が聞こえて、「アブラハムよ、こっちへ来い。」と言われて、「お前の子供を殺せ。そして、神に捧げろ。」ということを神に言われたのです。アブラハムは忠実な信徒で、「神様のおっしゃるとおりにします。」と言って、子供を山に連れて行って殺そうとした瞬間に、「待て、お前の信仰心はわかった。神はお前を試したのだ。代わりに羊でいい。羊を捧げなさい。」と神に言われて羊を殺して神に捧げました。
これと、同じ儀式が諏訪大社で行なわれているのです。御頭祭(おんとうさい)といいます。御頭祭とは、4月15日に上社で行われるお祭りのことです。別名「酉の祭り」「大御立座神事(おおみたてまししんじ)」「大立増之御頭」と言われています。 現在では、鹿の頭の剥製が使われているお祭りです。
これは、少年が出てきて、宮司が少年を縛り上げて短刀を振りかざして殺そうとすると、他の宮司が出てきて「まて、犠牲は鹿でよい。」と言うのです。御頭祭の儀式で使われた鹿の頭が75頭ずらっと並んでいます。これは、ユダヤの儀式です。
このように、この日本までシュメール文明が繋がっているのです。シュメール文明からアブラハム・イサク・ヤコブのユダヤの民族が生まれて、その流れが12部族になって、その12部族がシルクロードを通り、中国に入って、それが秦帝国の一部を成していたことは間違いありません。秦の始皇帝はユダヤ人なのです。漢民族ではありません。ユダヤ人です。
秦の始皇帝は自分一人で国を統一したのではなく、仲間がいたのです。それが徐福です。徐福にも仲間がいたのです。これが現代で我々が言っている公家です。公家は物部とか近衛とか色々いますが、秦帝国にいて、徐福と一緒に活動していた仲間なのです。
徐福は日本に来てしまいました。その時、重大な決意を持ってきたのです。我等の文明が何処から来たかということを隠したのです。そうでないと属国になってしまいます。「我々は秦の始皇帝の一部である」と言ったならば、秦帝国の一部になってしまいます。徐福が帰るつもりならいいのですが、帰るつもりは最初からないのです。或いは、「イスラエルの方から来ました」と言ったらユダヤの一部になってしまいます。
ですから、ユダヤであることも隠し、秦の始皇帝の一部であることも隠して、徐福達は中国語を使わないで、わからないようにカモフラージュしてユダヤ語を使ったのです。日本語の中心になったのはユダヤ語ですが、それもわからないようにしたのです。
そうすると、「何故、日本に聖書が入ってこないのか?」ということがわかるのです。
聖書を出せば、「これは、●●人です」とすぐにルーツがわかってしまいます。聖書は全部燃やしてしまったのです。聖書からも離れている、中国語からも離れている、イスラエル語からも離れている、というのが日本の立場であって、独自の帝王である天皇を大和の国に造ったのに違いありません。あらゆるヒモ付きを排除して、「ここは全くの独立国だよ」と言うためには言葉を作らなければなりません。徐福はそういう人なのです。天皇家はその子孫です。
徐福は、ユダヤのルーツを持っていて紋章はシュメールからあったのです。菊の紋章は、シュメールの大王の紋章です。その紋章がいつの頃から伝わって今では天皇家の紋章は菊の紋章です。ユダヤのヘロデ王が使ったという説もありますが、それよりもシュメールの中にすでに16菊花紋があって今でも遺跡に残っています。天皇家と菊の紋章。菊の紋章はそういう不思議な紋章なのです。

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2012年06月18日

番外編 日本は世界一の大金持ち

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番外編 日本は世界一の大金持ち

日本は海外資産が8500兆円あります。世界一です。それほどの大国であって、実は日本は大金持ちなのです。何故、それが増税する必要があるのでしょうか。海外資産の一部でもさばけばいいのです。1000兆円借金があると言っても8500兆円もあるのですからどうってことはありません。企業は内部留保金が増えて、今、200兆円の内部留保金を持っているといっています。ごく特殊な貧乏人を除いては、皆、金持ちなのです。
何故、増税する必要があるのでしょうか? あの野田というのはキチガイなのか? 「増税、増税!」と言っています。自民党も公明党もずるいヤツラですから、「増税路線に反対!」と言いながら、実は民主党に乗っかりたいのです。そのほうが税収が増えるから、増税すると自分達の使う予算が増えるのです。自民党は、基本的に反対するわけがありません。国民の側を向いているふりをして反対のポーズをとっているだけです。その内心を言えば、自民党も公明党も増税大賛成なのです。
そういう不思議な現象がおきているのです。それから見ると、サル芝居なのです。最初からわかっていることです。必ず増税するでしょう。8%か2%か知りませんが、そんなものはどうであっても、与野党共に「増税する」ということは初めに結論ありきです。増税すれば必ず景気は悪くなるのです。皆お金を使わなくなるので実際は税収も減るのです。
国家に対する税金が減って増税をしたら景気がよくなったという話は聞いたことがありません。なんという愚かなことを平気でやっているのでしょう。ハタから見ていると信じられません。しかも目の色を変えて「増税、増税!」と言ってやっています。国民には、「金が無い」とウソをついて実際は、海外資産は、8500兆円持っているのです。日本は世界一の金持ちなのです。それと同時に日本の金山の埋蔵量も世界一です。金の埋蔵量は、2008年1月現在で6800トンで、これは全世界の金の現有埋蔵量の約16 %にも及ぶ量です。
どこを見ても大金持ちなのです。どうして増税する必要があるのでしょうか? それよりも「国民にただで金を500万円づつ配れ!」です。そういう発想が大事です。取ることばかり考えないであげることを考えるのです。日本国の税金をすべてただにしてあげる発想があってもいいのです。官僚どもには考えられないことです。官僚が考えていることは増税だけです。「税金をいかに取るか」です。税務署は泥棒です。税務署が泥棒だということは皆実感しています。
私の知っている店はわずか3坪の店でした。それに5000万の税金をかけられて倒産してしまいました。今でも立ち直っていません。こういう馬鹿なことをやっている連中がいるのでしょうか。3坪の店に5000万の税金をかけて、重加算税をかけたら店はやっていけません。こういう血も涙もないような、情け容赦もない酷税庁。情け容赦も無い税金の取り方。後で聞いたところによると酷税庁は歩合が付いています。取り立てたお金の2割懐に入るそうです。これは本当です。税務署出身の人に聞いたので間違いありません。
もっと江戸時代に学ぶのです。江戸時代の方がまだまだ情緒がありました。徹底的にヤクザでもなんでも追い込んで行く姿勢はよくありません。生かして使うのです。皆それぞれの立場で生かしていくのです。ヤクザの親分など捕まえてはいけません。うまく折り合いをとって、下の者の面倒をみさせていけばいいではないですか。
江戸時代は、ヤクザの親分に十手を持たせ岡引にしたのです。それくらいの気持ちがなければ大衆というものは統御できません。力で抑えようとしてもダメなのです。力で抑えるのは限界があるのです。情を持って抑えていくことが大事なのです。国家は情ということを学ばなければなりません。情があるならば、企業を初めて3年目の所に税金をかけたりしません。まず、企業は育てなければいけません。育ってきたという時に、国税が来て抑えてしまい全部持っていって潰してしまうのは全く道理にあいません。
国家は情を学ばなければいけません。

※写真ーヤクザの親分 清水次郎長

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