2014年09月

2014年09月30日

人間の探究 92 大難きたる

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※元寇(日蓮大聖人様は蒙古調伏をされました)
「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



人間の探究 92 大難きたる

 「虎(とら)うそぶけば大風ふく竜(りゅう)ぎんずれば雲をこる野兎(のうさぎ)のうそぶき驢馬(ろば)のいはうるに風ふかず雲をこる事なし、愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は国もさわかず事もをこらず、聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時一国もさわぎ在世にすぎたる大難をこるべしとみえて候」(上野殿御返事)
 大なり小なり人生では不幸なことが起きてくることがあります。不幸なことが起きてこない人も中にはいますが、大部分の人は多くの困難に遭っています。
 まず、病気の問題です。自分が病気になったということは、人生の障害です。或いは親が病気になったり、兄弟が死んでしまったり、或いは親が死んでしまうなど、自分にとって様々な災いが襲ってきます。これが難というものです。
 その中でも、とてつもなく大きな難が起こることを大難というのです。日蓮大聖人様は「大悪起これば大善来る」とも言われています。素晴らしいよき事が起きてくる前兆が大難なのです。
 大難の後は、素晴らしいよい事がたくさん起きてくるのです。このよい事が起きてくるう前兆として大難としてとらえておく必要があります。
 日蓮大聖人様の時代の大難は、蒙古襲来です。蒙古という巨大な帝国が攻めてきたのです。これは、日本国民にとっては大難です。日蓮大聖人様は、このことを予言されているのです。鎌倉幕府に「蒙古が攻めてきます。これに注意してください。日本の国民は捕まって奴隷にされますよ」とまで、言われているのです。日蓮大聖人様の予言の通りに蒙古は攻めてきたのです。
 日蓮大聖人様は、当然そんなことになってもらいたくはないのです。蒙古調伏のために祈られたのです。晩年は、『蒙古調伏御本尊』をつくり、祈られたのです。
 鎌倉幕府には「法華経を用いないと外国の侵略を受けますよ」と言いながら、御自分としては「そんなことは起こさせないぞ」というお気持ちで、南無妙法蓮華経の法をもって蒙古を調伏されたのです。
 現代で考えてみると、「世界を取り巻いている大難とは何か?」というと、宗教戦争なのです。日本人が、日本人だけのことを考えていれば、大難など起きないのです。外国を見た場合、まず宗教が違うのです。宗教が違うということは、世界観が違い、習慣が違い、言語も違い、全てが異なるのです。
 ユダヤ教を保っている人、イスラム教を保っている人、キリスト教を保っている人では、物の考え方は全く違います。同じ人間でも、宗教が違うとサルと人間ほどの差があるのです。
 だから、日本人の常識は世界に通由しないのです。反対に彼等の常識も日本人には通用しません。ちょっと日本を離れて、地球規模で見てみると、世界はそのような渦の中にあるのです。その渦の最も本質的なものは、宗教問題なのです。宗教から、文化・文明が生まれてくるのです。
現在のアメリカの繁栄、ヨーロッパの繁栄は、キリスト教から生まれているのです。「本当かな?」と思うでしょうが、よく考えてみると現代文明はキリスト教が産んだ社会なのです。或いは、イスラム教が産んだ社会もあります。
世界にはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教が渦巻いているのです。中国は無宗教です。無宗教と言っても、共産主義という大きな宗教です。それらが渦巻いているのです。
世界を見ると、その大きな渦に囲まれているのが日本教です。だから大難が起きてくるのです。日本的なものをやろうとすれば、諸外国とぶつかってしまうのです。イスラム教とぶつかり、キリスト教とぶつかり、ユダヤ教とぶつかり、共産主義とぶつかり、互いにぶつかり合ってしまうので、日本的なものを実現することは難しいのです。
日本は日本の世界観をもって世界を統一しようとなど思っていないのです。「俺達は日本人の感覚をもって日本的な事を実行するのだから、外国を感化しようなど思っていない」ということです。日本人は、日本教を世界に広めていこうなどないのです。
しかし、外国が許さないのです。「日本人独自の考え方など、許さんぞ!」それが、世界が日本を苛める理由になるのです。キリスト教15億人、イスラム教14億人、これだけで30億人いるのです。
皆でよってたかって「日本はけしからん。日本人の考え方は分からない。不気味な国である」と思われているのです。世界は、日本人を分かろうとしないのです。異質なものとして見ているのです。
ですから、これは大難になるのです。世界という単位でものを見なければ、日本国だけの問題ですから小難です。一歩目を開いて、自己を主張すれば、大難が押し寄せてくるのです。このような構図にあると理解する必要があるのです。
そうか、「大難(壁)は破れないのだな」と理解することが大事です。日蓮大聖人様の仏教(日本的なもの)を広めるということは、この壁を理解することなのです。同化していったら、日本的なものはなくなってしまいます。イスラム教に同化したり、キリスト教に同化したら、日本的なものはなくなってしまいます。
同化しないで、宗教の違いを理解して、「我々は如何に優れているのか」ということを示していかなければいけないのです。「日本人は優れているな」と相手が思ってくれればよいのです。
「日本人の人生観、宗教観とは、何だろうか?」と興味をもってくれて勉強していくことが、世界を邪宗教から救う一つの方式になると思うのです。このような時代においては、それなくして、日本もないのです。
前進して世界の大海に入れば、入るほど大難の風は大きく成ってくるのです。これを覚悟していくことが、日蓮大聖人様の仏法を世界に広めるということなのです。

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2014年09月29日

人間の探究 91 我慢偏執(がまんへんしゅう)

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※国家内国家をつくろうとした池田大作
「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
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人間の探究 91 我慢偏執(がまんへんしゅう)

 「我(が)に慢(まん)ずる」と、人間はありもしないことに執着します。この姿勢のことを『我慢偏執(がまんへんしゅう)』といいます。
仏法とは、我慢ではないのです。我がないのですから、我慢することなど原理的にありえないのです。我慢偏執(がまんへんしゅう)している人は、邪教の人だと分かります。創価学会の池田大作は、我慢偏執(がまんへんしゅう)そのものです。
「我(が)に慢(まん)ずる」と、「俺くらい偉い者はいない!」と思うのです。偏執(へんしゅう)とは、執着することです。何に執着するのかといと、「日本を取りたい!」ということです。「一番偉い自分が、日本の国の王になるのだ。そして、偏執(へんしゅう)して日本の権力を全て奪い取るのだ!」そのようなことから物事を考えているのです。
そこで、総体革命「全ての所で天下を取らなければいけない」「政治権力及び警察権力及び司法権力、実業家など、あらゆるところを奪いつくさなければいけない」こんな考え方は、我慢偏執(がまんへんしゅう)以外のなにものでもありません。国民は大変迷惑です。
こんなことをやるから「国家内国家」ができてしまうのです。日本の国家の中の国家です。外務省には鳳会(おおとりかい)という組織があり、500名くらいいるらしいのですが、この人たちの頭の中に「日本国」はないのです。「池田大作先生」が頭にあるので、「先生がいつ来るのか?」「先生が、いつ外遊するのか?」と、そんなことばかり考えているのです。「池田大作先生が外遊する時には、国賓待遇で優遇してもらおう」などと考えているのです。国家の金をつかって、池田大作のための外交官なのです。「我慢偏執(がまんへんしゅう)」です。
国民のために働く公務員ではなくて、創価学会のために働く公務員などいらないのです。それを「国家内国家」というのです。裁判もそうです。正義を持って裁判官は独立して、いかなる圧力にも屈せず、自分が法により裁いていくところに裁判官の意味があるのです。それが、上から命令を下して「このような考え方以外の奴は悪だ!」と決めつけて、自分達が悪と決めつけた人間に対して、不利な判決を下していくということがあってはならないので。それが堂々と行われています。
一説では、創価学会の幹部警察は5千500名いると言われています。検事3千名、裁判官が3千名も創価学会員がいるのです。創価学会の会員を創価大学に入れて、卒業生を組織的に送り込んだのです。「そんなにいるのか?」と思うでしょうが、100名送り込んで30年経てば3千名になります。一挙に3千名入ったわけではないのです。組織的に送り込んで30年経ったということです。
最初は、100名しかいなかったのです。10年間で1千名、30年もやれば3千名入ってしまいます。しかも、勉強させているので幹部警察官です。池田大作の我慢偏執の「天下を取りたい!」という執着心で会員は動かされて行動するのです。成仏などどこにもないのです。
創価学会により国家の法は曲げられ、国家の正義はなくなり、朝鮮人の宗教が流行るのです。だから一時流行った「韓日友好」という言葉がありました。聖教新聞では、「韓日友好」ということを言ってきました。これも我慢偏執です。自分が朝鮮人ならともかく、日本人なら「日韓友好」です。日本人に「韓日友好」と言わせるのは、どういうことなのでしょうか。我慢偏執なのです。
池田大作は、「母なる国韓国」「文化大恩たる国、韓国」「韓国には足を向けて寝られない」「韓国の朝は美しい」「卵はケルンという」そんな馬鹿な事を言う人間は我慢偏執なのです。自分に執着しているのです。「韓国の事実はどうなのか?」ということを、日本人は分かってきています。
「韓国はどのような国なのか?」というと、エベンンキ人がつくった侵略国家なのです。韓国などという国は、女真族、エベンキ族、満州族、韃靼族という北方の騎馬民族がやってきて、現地人を皆殺しにして、奪った国なのです。
それと同時に韓国は倭人の国であったのです。そのことが明らかになってきているのです。その証拠に、朝鮮半島の南から前方後円墳が70基も発見されています。北方の蛮族が倭人の男を皆殺しにして、そこに残った倭人の女性と混血をしてできた民族が朝鮮人です。これが真実です。しかも、韓国は独立した国であったことは一度もないのです。シナの属国だったのです。
元が起きてくれば、元の属国となり、清が起きてくれば清の属国となり、一度も独立国たることはなかったのです。これが韓国の実状です。貧しいからお茶も飲めなかったので、朝鮮人にお茶を飲む習慣はなかったのです。
日韓併合前の写真を見てみれば、よく分かります。朝鮮人は、白い服しかなかったのです。染料がなかったのです。衣服は、小便、大便を垂れ流す川で洗うので、茶色くなってくるのです。そんな服を着ていたのです。既婚の女性は、オッパイを丸出しして歩いていたのです。車も無い、貨幣も無い、奴隷階級がいて税金の定めもない、法の定めもない、字も読めない、何が「文化大恩の国」なのでしょうか。ウソをつくものではありません。これが朝鮮の実体です。
我慢偏執のよい例は、シナです。「創価学会が日中友好を果たした!」と言っていますが、その結果どうなりましたか? 友好を結んでいるのに尖閣列島に何故手を出すのでしょうか。今、分かってきたことは、中国などと言う国はなかったのです。
漢民族のための国家など、50年くらいあっただけで、後は異民族支配です。モンゴルに支配された国は元です。満州国に支配された国は清です。何が「チベットは中国のもの」なのですか? 
そんなことをやっている中国と友好を結び、得意になっているのが創価学会です。中国は仲良くなれない国なのです。そのような大失敗をやっているのです。これを我慢偏執というのです。
もっとよく正体を見て、行動して、「日本人を愛する」という気持ちがあれば、そんな軽はずみなことはしません。友好するから、ドロボウが来るのです。個人の家でも戸をあけるからドロボウが来るのです。友好と同時に相手の正体をきちっと見定めてから、自分の家に入れなくてはいけません。「みな平等だから誰でもいいから家に入りなさい」と言うのでしょうか。そのような過ちを犯しています。
創価学会は、そのような過ちを犯しても謝らないということが、我慢偏執というのです。「我(が)に慢(まん)ずる」ので、「自分だけは正しい」と思うのです。そして、自分が狂ったような欲望に執着するのです。これが我慢偏執です。
我々の周りを見てみても、「これが正しいのですよ」と教えても耳を傾けません。朝日新聞のように「中国の言うことはよいことだ!」という馬鹿もいるのです。日本共産党は「悪いのは日本人だ!」と言って毎日「赤旗」を書いているのです。これも我慢偏執の姿です。
仏道修行をする者は、虚心坦懐(きょしんたんかい)となって正義を求めていかなければいけないのです。「これは、道なのか?」「道にはずれているのか?」そのようなことから物事を判断していくことが修行になるのです。

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2014年09月27日

<土曜特別連載>◎「蒙古文字」のルーツは日本だった! 35

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※蒙古文字
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<土曜特別連載>
成吉思汗=源義経だったこれだけの理由
◎「蒙古文字」のルーツは日本だった! 35

7歳から15歳まで実に8年間の幼・少年期を鞍馬寺で修行した義経は、本来ならば僧職に就くはずでした。その期間に仏教に関する教義知識をマスターしただけでなく、平安末期社会と宗教界のつながりを深く理解していたに違いありません。具体的にいえば、当時の有力な宗派や寺院は僧兵を抱えるなど、極めて政治色の濃い活動を展開していました。最初の家来となった武蔵坊弁慶なども、一般民衆よりも悪事に手を染めた破戒僧・荒法師として知られています。
また、奈良時代に遡る神仏混交思想「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」も平安時代にはしっかりと定着し、先史日本列島の原始信仰にルーツを置く修験道、ヒンズー教にルーツを置く毘沙門天信仰や弁財天信仰、中国道教起源の陰陽道、さらには民間の巫者が布教するあまたのカルト信仰などが渾然一体化して、まさに八百万神がひしめき合うような状況でした。一家の中に仏壇と神棚を置く習慣なども、この頃から定着しています。武家に限ってみても、ときの運に支配されがちな戦の勝敗を有利に導くために、特定の神仏に帰依することが多かったのもご承知のとおりです。そもそも武家に殺生はつきものなので、その贖罪(しょくざい)のためにも宗教は不可欠な存在でした。
では、義経の宗教観とは、いかなるものだったのでしょうか? 兄の頼朝は三島大社の八幡大菩薩に祈願をしてから旗揚げしました。鎌倉に本拠を定めた後も、多くの仏閣を建立して信心深さのほどを示しています。しかし、それに対して義経は神仏への帰依心は希薄(きはく)だったように思えます。全国各地には義経ゆかりの品々を所蔵する神社仏閣は数多くありますが、それらが本当に義経と関わりがあったかどうかは証明できません。義経が神仏の加護を実感したとすれば、修験行者に身をやつして幾度もの逃避行を成功させたときくらいでしょう。鞍馬寺での修行、さらには蝦夷地に渡ってアイヌの固有信仰のあり方にもふれた義経は、中世日本のなかで最も豊富な宗教関連知識を身につけていたのです。それだけに、最後に頼るべきものは神仏の力ではなく自分自身の才覚だということを人一倍実感していたでしょう。そうした宗教に対する深い造詣と距離感、あえていえば政治的な道具としてとらえる姿勢が、後に成吉思汗の征服地統治策に反映されたと私は考えます。
また、モンゴル帝国の文化政策のひとつとして、成吉思汗は大カーンに即位した年から始まる蒙古暦を制定しました。これについても『成吉思汗ハ義経也』のなかで小谷部全一郎は日本と同じ「十二干支(えと)」が採用されている事実を指摘しています・
≪…この蒙古暦は、子丑寅(ね・うし・とら)の配列順序から甲乙丙丁(こうおつへいてい)の並びまで、日本の十二干支とまったく異なるところはない。日本の十二干支は支那から伝来したもので、支那へはインドから伝わり、インドの十二干支は十二獣を配して子丑の次は獅子だが、支那に獅子はいないため寅に改めたものが日本へ伝わった。そして日本の暦では支那文字(漢字)の十二干支に仮名を付して使っている。蒙古の十二干支暦も同じく三番目は寅だが、支那とインドとは地続きなのに漢字や梵字を使わず蒙古文字で表記している。このことからみて十二干支暦を蒙古に伝えたのは、支那、インドではなく日本人(義経)だと考えられる≫(著者現代語訳)
この論述だけでは少し説得力に欠ける気もしますが、むしろ留意すべき点は「蒙古文字」にあるのです。この表音文字もまた成吉思汗の生存中に作られたモンゴル固有文化のひとつとして知られており、小谷部はこう自説を展開しています。
≪…蒙古文字の形は漢字とはまったく異なり日本の平仮名によく似ている。字音もまた日本の五十音と同じで、日本語のアイウエオ、カキクケコは、蒙古ではアエイオウ、カケキコクとなる。(中略)わが国の平仮名は奈良時代末から平安時代初期にかけて発達したものであり、支那はもとよりインドや西域にもないことから、蒙古の五十音字は日本から伝わったことは疑いない。『元朝秘史』によれば、成吉思汗が新文字を創ってからは、これを軍務全般に使うようになったという。したがって、このモンゴル文字を創った成吉思汗の正体が誰であったかについては、多くを説明する必要もないだろう≫
成吉思汗が行政面でも斬新な改革を行なったことは、史実として認められています。そのひとつが「戸籍制度」」で、18歳から60歳までの男子すべてが登録されました。それは課税のためよりは軍事面での必要性から定められた制度のようで、仮に一家族に戸籍登録年齢にあたる男子4人がいる場合は、それを一隊として1人を騎兵とし、有事には2名が出征し2名が残るなどの規制が設けられました。よく似た義務規定は鎌倉幕府のご家人にも課せられているので、ここにも義経および日本から同行した武士の存在が読み取れます。
これ以外にも、成吉思汗が登場してからは大人数の軍団を指揮するモンゴル武将が「タイシャウ」と呼ばれたこと、また側近たちが成吉思汗を「クロー」と呼んだこと、モンゴル帝国から元国へ移り変わっていく過程で鎌倉幕府と酷似した強固な主従関係が出来上がっていたことなど、小谷部全一郎は多くの興味深い調査事実を列挙しています。
テムジンの戦記には、義経の「鵯越(ひよどりご)えの戦い」と、兄・頼朝が経験した石橋山の危機を焼き直したとしか思えないものがあることは紹介済みですが、成吉思汗が晩年に陣頭指揮をとった金国侵攻でも奇妙な事例がみられます。この戦いで成吉思汗は矢傷を負ったため、前線を離れてゴビ砂漠に近い熱河省まで退いて傷の治療に専念しました。その土地が、なんと後世に「平泉(ヘイセン)」と呼ばれるようになったのです。この中国北部の平泉は、奥州平泉とよく似た丘と川に囲まれた風光明媚な土地だといいます。この地で老いた成吉思汗は遠い昔の思い出にふけりながら、生涯を費やしてきた壮大な野望の総仕上げに向けて鋭気を養ったのかもしれません。
平泉といえば、これは私個人の直感ですが…数千キロ彼方のホラズム王国へ大遠征した際の成吉思汗の脳裏には、一種複雑な思いが去来したのではないでしょうか。つまり、ホラズムと平泉の語感の類似です。それ自体は完全な偶然の一致で片付けられます。しかし歴史の流れには、ときとして偶然的必然(シンクロニティ)あるいは共時性と呼ばれる、理屈では説明できない不思議な事象の一致が発生します。そして結果的に、かつて兄の頼朝率いる奥州追討軍がなだれを打って平泉に攻め込んだように、義経もまたホラズム王国を蹂躙(じゅうりん)し尽くしました。その皮肉な歴史の因縁は、想像を逞(たくま)しくすれば義経自身が欲したとも考えられるのです。


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2014年09月26日

人間の探究 90 因縁

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※「袖そりあうも多少の因縁」
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人間の探究 90 因縁

 とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じてと云うなりとは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故にと云うなり」(三世諸仏総勘文教相廃立)
よく不良が「おい、おまえ。因縁をつけるのか!」という場面があります。この場合の因縁とは、「眼(がん)をつけた」とか、「見た」ということなのです。それに因縁をつけて、喧嘩になるのです。
仏法でいう因縁は、そのようなことではないのです。これも必ずしも当たらないわけではなく「袖そりあうも多少の因縁」ということがあるのです。全く知らない人と袖が触れてしまっても、袖が触れたことにも因縁があるのです。
もっと大きな因縁は、「自分がこの世に生を受ける時に、どのような親を選んでこの世に生を受けたのか?」ということです。お父さんと、お母さんがいなければ、絶対に子供は生まれないのです。
子供と親との因果関係があり、必ずそこには深い因果関係があるのです。だから、●●家に「オギャー」と生まれたのです。そこに因縁の第一歩があるのです。
それと同時にその家が「貧乏な家であるのか?」或いは「豊かな家なのか?」、「夫婦の仲がよいのか?」或いは「夫婦の仲が悪くて、いつも罵り合っているのか?」など、「どのような家に生まれたのか?」ということが、因縁によるのです。
夫婦仲が悪くて「あんた、女がいるのでしょう!」と年がら年中、旦那さんを怒鳴り飛ばしている奥さんがいます。それから、明日食べる物もなく、親父は酒飲みで「酒買って来い!」と親父がどなっている家もあります。それで、奥さんが自分の物を質屋に入れて酒を買ってくる家もあります。そのような家庭が本当にあるのです。
音楽家で有名な人の家ですが、その人の家では毎日親父が酒を飲んでいました。ドブロクを毎日飲んで真っ赤な顔をした、タコ入道のような親父がいたのです。そのような親父が本当にいるのです。そのような所に生まれてくるのも因縁です。
また、在日の親の所へ生まれてくる人間もいるのです。子供は親と無関係ではないのです。どのような関係があるのかというと、親と自分につながる命ですから、関係は“大あり”なのです。
もっと言うと、自分が過去世にやってきたことが、この世に生を受けるための舞台装置です。今世、「誰の家に生まれてくるのか?」ということは、前世で自分がつくった舞台装置の関係で生まれてくるのです。
 これを“境涯(きょうがい)”というのです。人間に生まれるのは、まだよいほうです。豚に生まれる命もあるのです。豚に生まれて聞こえてくるのは、「ブーブーブー」という豚の鳴き声です。そのような所に生まれてくるのです。
 或いは、寒い日に野原で生まれてくるノラ犬もいます。これが、因縁なのです。場合によっては、すぐに他の動物に食べられてしまうので、大変危険です。そんな所に生まれた命は、怖くて震え上がってしまいます。これも、因縁なのです。
 もっと小さい境涯に生まれるとノミとか、シラミとか、蚊になったりして、ブーンと人の血を吸おうと思ったら、パチンと殺されてしまったりするのです。「何の因果もないのにパチンと殺された」と蚊になった自分は思うのですが、本当はちゃんと因縁があるのです。そのような因縁もあるのです。
 因縁は恐ろしいのです。そこのところをよく調べて、説かれたのが天台大師です。日蓮大聖人様は、「仏法は時によるべし。日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大楽をうくべければ大いに悦ばし。」(開目抄下)で言われています。
因縁は、日蓮大聖人様も御承知のことなのです。

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2014年09月25日

人間の探究 89 全ての宗教の否定

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※世界の最初にあったものは、「光と言葉」です。
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人間の探究 89 全ての宗教の否定

 「中杉博士の教えは全仏教の否定ですね!」でのコメント欄に、「全ての宗教の否定をしてください」という、コメントがありました。それに答えてというわけではないのですが、僕は仏教のみならず、全ての宗教を否定しています。これが僕の基本的なスタンスです。逆に宗教くらい悪いものはありません。「宗教が人間の救いである」などと思ったらとんでもない事です。
実は宗教とは、人間を縛り付けておく奴隷製造のようなものが宗教だという認識があります。しかし、そうはいっても世界の宗教の中で二つの宗教は価値があると思っています。ユダヤ教の神概念と、日本の神道の神概念です。これは、否定できないと僕は考えています。
その他の宗教は、神がいて予言者に語りかけて、予言者が神の言葉を翻訳して「これが神の声だ」と伝えるという形態です。キリストもそうです。神の声を聞いて、「宇宙唯一の神と自分と精霊が一体である」という三位一体説を唱えます。
全ての宗教は形而上学(けいじじょうがく)です。形而上学とは、形の無い学のことです。形而下(けいじげ)とは、目に見える世界のことです。形而上学で“神”という人はいるけれども、見て帰ってきた人はいないのです。「死んだ先に天国がある」、或いは「死んだ先に地獄がある」と言っても、天国を見た人もいないし、地獄を見た人もいません。これは、本当にあるのか、ないのかということは分からないのです。
分からないものは、どうすればよいのかというと「信じなさい」というのです。「理解しなさい」ではないのです。「天国と地獄があるのです。神が存在して、悪魔が存在するのです。それを信じなさい」と言うのです。だから形而上学なのです。
ギリシャ時代にも形而上学はあるのですが、形の無い世界をつくることを形而上学というのであり、「世の中の全ての宗教は形而上学によってつくられている」と言っても過言ではありません。
しかし、ユダヤ教というものは、多少形而上学的なところはありますが、形而上学ではないのです。モーゼが見た神というものは、「姿・形がない」「みだりに人間が神の名前を読んではならない」神です。
もちろん、名前がないから呼べないのですが、あえて名前を言うならば「ヤハウェの神」というのですが、「神の名はみだりに呼んではならない」ということが、第三番目にでてきます。第二番目に「偶像を造って拝んではならない」のです。「我以外の神はいないのだ」と言えば、形而上になりようがないのです。
偶像崇拝とは、目に見える形で表したものであり、ユダヤ教はそれを否定するのです。「目に見えないものを神と呼ぶ」のです。これは優れた達見です。
聖書の創世記・第一章に「神は「光あれ」と言われた」のです。世界の最初にあったものは、「光と言葉」です。これは優れた見方であり、この二つの見方が現代文明をつくった基礎になっている考え方だと思います。「イデアとロゴス」というのです。
言葉はロゴス、閃きはイデアです。人間の頭の中にパッと閃くのを「イデア」というのです。イデアだけでは何も生まれません。それを言葉でつなぎ合わせてイデアを結びつけるのです。
例えば「大きな船を造りたい」と思います。これは、イデアです。いくらイデアが閃いても大きな船はできません。大きな船を造るためには、「大きな木を伐り出して削ってつなぎ合わせてだんだん大きな船を造る」と言葉で考えるのです。「10本の木をたばねて、このようにすれば大きな船ができる」これを考えている経緯はロゴスです。イデアだけでは物はできません。ロゴスが伴い、初めて物ができるのです。
現代の企業で「ロボットを作ろう!」と考えたならば、ここまではイデアです。具体的に「どのようにお金を調達して、どのような材料で作り、工場に受注して、販売するのか?」ということは、ロゴスで考えていかなければ、この世に物はできません。
この世に走っている車や、様々な物はイデアから出発してロゴスで仕上げたものだと分かります。「これが、神の正体だ」ということを聖書では言っているのです。神の正体とは、「イデアとロゴス」であります。この考え方は面白い考え方で、「この世界以外に完璧な世界があるのだ」と言っているのです。そこからパッと閃いてくるのです。
この現実の世界には、完璧な円や三角形は絶対に存在しないのです。円も三角形も人間がつくったもので、宇宙にはないのです。どうやって円や三角形を作ったのでしょうか? それは、イデアなのです。「宇宙には三角形があるのに違いない」という閃きです。
音楽もそうです。音楽も何処からか聴こえてくるのです。「その音は何処にあるのでしょうか?」というと、それはイデアの世界にあるのです。イデアの世界から、人間をアンテナにして音が降ってくるのです。降ってきた音を楽譜に書いたり、演奏したりしているのです。頭はアンテナになっていて、元はイデアの世界から聴こえてくるのです。
イデアの世界には、完璧な旋律があるのに違いありません。そして、完璧な幾何学があるのに違いありません。あらゆる完璧な数学があるのに違いりません。あらゆる芸術の源はイデアから出てくると分かるのです。
イデアでキャッチした人が絵を描くから、この世にない絵ができてくるのです。ピカソの絵は目や鼻がバラバラについていて、この世にはありません。ピカソは、それを感知したのです。それを表現すると絵になるのです。感知したものを表現すれば、音楽になります。感知したものを筆で書けば、文学になります。
有名な話ですが、アインシュタインの統一場理論は、「神がいて逆に数式でたどっていくならば、神に到達するのではないか」という考えです。これがアインシュタインの物理学です。「神の創造の道筋を知りたい。どのようにして神は世界をつくったのか?」ということは、神の側からは分からないのです。人間の側から逆に数学でたどっていったのが、アインシュタインです。「私の物理学は神の創造の源を知ることだ」と言っていたのです。
天才は神の道筋を知りたいのです。これは人間の方からでは分かりません。その間に予言者(詐欺師)が出てきて「目に見えない神が私にこう言った。私の言うことを信じなさい!」というのが宗教です。その予言者(詐欺師)を信じたら、人間を信じることになります。
だからモーゼが言った通り「偶像崇拝を禁じる」のです。キリストもそのような意味でいうと、偶像崇拝になるのです。人間崇拝ではダメなのです。
そして、ユダヤ教と同じようなものが日本の神道にあるのです。神道は否定しようがありません。あらゆるものが一つのものなのです。これは誰も否定できません。
命というものは、草の葉っぱ、葉の一枚、山、海すべてが命の現れたものです。これも否定できません。あらゆるものは、何からできているのかというと天之御中主神から出来ているのです。「天之御中主神とは何ですか?」というと、一番はじめの働きでいうと生魂(いくむすび)です。素粒子みたいなものですが、素粒子の奥に一つのものがあるのです。
一つのものが様々な物に変化をしてあらゆる現象の世界が生まれているのです。これが神道の教えです。これは否定できません。そこで、「天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は並独神と成り坐して、身を隠したまひき」まさに、その通りです。元素があり、高い方向へ集めていくから物ができるのです。それが木になり、動物になったりしていくのです。
生きているものは、必ずいつかは朽ちてしまい元の姿に帰るのです。これが、万物の自然であり、ここからあらゆるものを説き現している日本神道は誰も否定しようがありません。
この二つの宗教を除いて、他の宗教は人間がからんでくるので邪教なのです。全ての人間は偶像崇拝をしやすいのです。人間はすぐに変なものを信じるのです。
この世に現れた生き神様を信じて、騙されて、奴隷にされて宗教という名の奴隷にされるのです。宗教的な奴隷から一歩も出ることができないのです。キリスト教、イスラム教、現代のユダヤ教もそうです。この二つの神を除いてすべての宗教は否定してしかるべきです。

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2014年09月24日

人間の探究 88 三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)

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※人体によい草を”薬草”といいます。
「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
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人間の探究 88 三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)

 法華七喩の中に、『三草二木(さんそうにもく)』があります。草には色々あります。人間の体によいものを“薬草”といいます。身体に悪い者を“毒草”といいます。草にもよいものもあれば、悪いものもあり、法華経で説かれている仏の教えはよい教えです。この教えを聞いた者は、すべて体に受容され、命が甦ってくる素晴らしい教えです。
 これは、ちょうど雨が降って木が潤い、大地に水がしみ込んで井戸から水がコンコンと湧き出して綺麗な水になり、人間が摂取して大地に流れて水は循環しています。また、水は雲になり、雨になり、雪になり、水は大地(海)から出て、大地(海)に帰っていくのです。
 水は草も木も潤すことができるのです。この草だけしか潤さないということはありません。その草が潤えば、動物も草を食べられるから動物もまた元気になるのです。
 そのように法華経の教えとは、命の根本を説いているのです。命というものは、クルクルと回っているのです。同じ物なのです。我々は木を見て、山を見ると、「自分と違うものだ」と考えていますが、実はあそこにある木は貴方のものなのです。あそこにある山は貴方のものなのです。そこにいる動物は貴方のものなのです。根っこは一つなのです。
 たった一つの命は、「命とは、これです」と例えることができないのです。全ての草が潤い、木が潤い、全てのものが潤っているのは、命があるからです。命というものは、目に見えないものなのです。脳を開いてみても、どこに命があるか分かりません。人体をバラバラにしても、顕微鏡で見ても、命そのものは見えないのです。肉体は見えるけれども、命そのものは見えません。
 命というものは、目に見えないものだということがすぐに分かります。馬鹿は、形而下の物しか分からないので、形のある物しか分からないので「形がないから命は無い」と思うのです。
 人間を100万人殺しても「物の動きが止まるだけだ」と考えているので、人の命などどうってことはありません。ただ、人が死んでも「動きが止まった」と考えて共産主義者は、人間を「成分」という捉え方をするのです。
 人間は、国家を形成する成分です。どこかが腐った場合は、「成分を手術して取り去ればよい」と共産主義者は考えるのです。人間を「成分」だと思っているので、何百万人でも殺せるのです。「成分」が減ったと考えるので、「人間を殺した」という自覚はないのです。
 それは、目に見えない命が分らないからです。頭が馬鹿だから目に見えないものが分らないのです。本当に良いものは目に見えないものなのです。「目に見える物だけしか世界が無い」と考えたら、それは唯物論者です。目に見えない物の中に、文学や芸術や音楽があり、本当は政治も目に見えないのです。
命もそうなのです。死んだ人間と生きている人間は、どのように違うのでしょう。「お爺ちゃんが死んじゃった。お爺ちゃんは何処へ行ったのか?」命は目に見えません。死んだお爺ちゃんの姿形はそっくり寝ていて、何も変わっていないのです。しかし、お爺ちゃんはもう動かないのです。何が動かないのでしょう。「フウー」と息を吹きかけたら動くのかというと、動かないのです。命は何処へ行ってしまったのでしょう。いくらお爺ちゃんを見ても命は見えないのです。
この世界というものは、目に見えないものが根底にあって出来ているのです。根源のものを「妙法(みょうほう)」というのです。妙法でないものは、目に見えるものであり“法”なのです。
太陽が真っ赤に燃えて地上の上に光り輝いています。太陽は、“法”です。だから、見えるのです。山も法ですから、よく見えるのです。「あそこに海がありますね」海も法だから見えるのです。
「何が海になり、どのようにして海がつくられ、山ができ、太陽ができてきたのか?」、「その源にあるものは一体何か?」というと、一つのものなのです。では、「一つのものとは何ですか?」というと、それが命です。
「命を見せてくれますか?」というと、命は見えないのです。このようなことなのです。目に見える物の奥に目に見えない存在があるのです。このことを「妙法」というのです。
日本神道では、そのことを「霊魂(れいこん)」と言っているのです。霊とは目に見えません。魂(こん)とは、塊(かたまり)だから目に見えます。この世の中は、霊魂からつくられているという教えが日本神道の教えです。これは、妙法と同じ事なのです。
目に見えない霊と、目に見える塊(かたまり)によって、霊魂(れいこん)というものが根本になってこの世界が成り立っているのです。今、我々が話したり、見たり、聞いたりしている世界は塊(こん)の世界です。
その奥に霊の世界があるのです。これが分るようになって人間として一人前です。「人間の存在とは何ですか?」というと、霊から生まれて、霊魂としてできて、霊に帰るのです。どうってことはないのです。人間は元々は、霊なのです。身体が無い所から生まれてきたのです。精子と卵子がくっついて、どんどん成長して人間らしきものができてきたのです。その元にあったものは、何もない幽(ゆう)の世界から出てきたのです。
それが今、人間となりしゃべったり、見たり、聞いたりしているのです。この人間はいつか死んでしまうのです。死んでしまうと何処に行ってしまうのかというと、霊の世界に帰るのです。霊の世界から出て霊魂の世界を生きて、死んだらまた霊の世界へ帰るのです。
仏教で言うならば、生命は妙法(みょうほう)から出来ています。
妙法とは法の世界と妙なる世界です。妙とは目に見えない世界です。このことを指して「妙とは死、法は生なり。生死の二法は一心の妙有」と言うのです。「一心の妙有」とは、「命の現れ」ということです。
妙は死です。死後の世界はどのようになっているのか分からないのです。だから妙なのです。今、生きているから、「私の名前は、山田太郎です」と分かっているのです。法の世界を生きているのです。
「死ぬと何処へ行くのですか?」というと、また妙に帰るのです。「妙とは死、法は生なり。生死の二法は一心の妙有」これが生きているということです。これを分かりやすく草木に例えて説かれたのが、薬草喩品の中の三草二木の話です。

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2014年09月23日

人間の探究 87 衣裏珠の喩

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※末法の大百牛車(だいびゃくごしゃ)は、南無妙法蓮華経です。
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人間の探究 87 衣裏珠の喩

 法華経の中には、七つ喩話があります。法華七喩(ほっけしちゆ)ともいい、『三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)・長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)・三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)・化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)・衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)・髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)・良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)』です。
 この中の一つで、『衣裏繋珠(えりじゅ)の譬え』について解説をしたいと思います。この話はある長者がいて、その長者が何故成功したのかというと、不思議な力で成功したのです。そこに友達が来て長者は酒を飲みかわします。長者は「私はこれらか旅に出ます。」と言ったのです。酒を飲んでいるうちに友達が寝てしまうのです。「寝ている間に私は旅立たなければいけないので、この友達が永遠に困らないように衣裏(えり)元に宝を埋めていきます」と言うのです。この宝物さえあれば、どんな願いも叶い、どんな病気も治り、何でも祈りが叶う不思議な宝なのです。その宝を友達の衣裏に入れて、長者は旅に出てしまうのです。
 友達は酔いがさめてみると、長者はいないのです。友達はさまよって、乞食になってしまうのです。何年か経って長者が旅から帰ってくると、友達が乞食になっているのです。「どうしたのだ? お前には何でも祈りが叶う衣裏珠(えりじゅ)という宝が衣裏(えり)に埋めてあるだろう。それが何故乞食になってしまったのだ?」という話なのです。
 これは、法華経に出てくる『衣裏珠(えりじゅ)の喩』です。ここで大事な事は、「仏性というものが全ての人間にある」ということを教えているのです。全ての生きている者には、困らないように仏様は仏性というものを与えているのです。ところが、この仏性は知らないと光り輝かないのです。持っていることを知らなければ意味がありません。大部分の人間は、仏性があるのに、「仏性がある」ということを想像もしません。
 ただ、自分の本能のままに生きているのです。「それは間違っています。貴方は仏から埋められた衣裏珠(えりじゅ)という宝を持っているのだから、その衣裏珠という宝を磨いていくならば、人生に困ることは無くなるのです。どんな問題でも解決するのです。
 仏性を磨いていくことを「修行」と言っているのです。どうやって磨くのかというと、「法華経で磨く」と言っているのです。法華経とは、衣裏珠のような立派なもので、これを修行すればどんな願いも叶うようになるのです。「願いとしてかなわざるなり」です。
 末法の法華経は、南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経と唱えるならば如何なる病も消えてしまうのです。「祈りとして叶わざることなし」です。どんな祈りでも必ず叶うのです。
 ただし、「仏性を磨くならば」ということなのです。そう思って、南無妙法蓮華経としっかりと唱えていくと、自分の中に埋められた仏性が光り輝いて、病気にもならず、貧乏にもならず、人間関係もうまくいって、最高に幸せな人生を送ることができるのです。仏道修行とは、衣裏珠の宝を磨くことです。


三車火宅の喩

法華七喩(ほっけしちゆ)の中に『三車火宅(さんしゃかたく)の喩』があります。これには、長者が出てきます。必ず仏法には「長者」が出てくるのです。大金持ちという意味でもあり、城持ちという意味でもあり、大王という意味でもあるのです。
王様が大邸宅の中に住んでいました。その中に三人の子供がいたのです。ある日、この大邸宅に火がついて燃えてしまったのです。王様が「そこは危険だから早く城の外に出なさい!」と言うのですが、子供たちは玩具に夢中で王様の声が聴こえないのです。その内周りから火が出て、子供たちの方へ向かいだしたのです。
そこで、王様は一計を案じてウソをつくのです。「子供たちよ、大好きな牛の車が表にいるぞ。もう一つの門には鹿の車がいるぞ。もう一つは馬が引く車がいるぞ!」このようなウソを言うのです。子供たちは玩具が大好きだから「えっ、そんないいものが表にあるの?」と、それを見に行こうとして表に走って行ったのです。すると、家は燃えてしまうのですが、子供たちの命は助かったのです。
子供達がウシの車・鹿の車・馬の車に乗って遊んでいるところに、真っ白な物凄い牛の車が来るのです。これが、大白牛車(だいびゃくごしゃ)です。「僕達、こんなので遊んでいても仕方ないな。あれに乗りたいな」という話なのです。これは例え話で、三つの車は声聞(しょうもん)・縁覚(えんかく)・菩薩(ぼさつ)の例えです。
ある程度修行して声聞界・縁覚界・菩薩界に登っていった人達に対して、牛車・鹿車・馬車という三つの車を与えたのです。「それに乗れば助かるぞ」という話なのです。本当はその三つの車では助からないのであり、その上には真っ白い車があり、現代でいうと自動車のような凄い車が来たのです。その車に乗った人だけが成仏に進めるという話なのです。
『声聞界(しょうもんかい)』とは、「声を聞く」という人で、学者みたいな人です。色々なものに興味をもって勉強して、色々なことも知っているのです。現代流に言うと「学問をよく治めている人」ということです。
ところが、いくら学問を治めても成仏できないのです。万巻の書を読んだとしても、絶対に成仏することはできないのです。学者になったり、大学教授になったりすることはできますが、仏に成ることはできないのです。
『縁覚界(えんかくかい)』とは、声聞の上にいる人たちで、相当修行も進んでいます。仏の一声かかれば、縁によって悟ることができるのです。経典によく出てくる「舎利弗(しゃりほつ)」とは、縁覚界なのです。相当修行を積んで辟支仏(びゃくしぶつ)になっていて、ほとんど仏と同じくらいに境涯が進んでいるのです。しかし、仏ではないのです。このような人を縁覚界と言います。「縁によって悟る」のです。ちっと仏に声をかけてもらえば、成仏できるというところまで修行が進んだ人です。
『菩薩界(ぼさつかい)』とは、「人を助けること」です。仏の教えをよく聞いて、仏の教えを人に教え示していこうという菩薩、これから転じて人を助けるような仕事をしている人はみな菩薩界です。看護婦・医師・製薬会社で研究している人は、みな菩薩です。車を造っている人も菩薩です。「みなを楽にしてあげたい。いい車に乗せたい」と思い車を造る人は菩薩です。船をつくる人も菩薩です。お百姓さんがお米を一所懸命つくり「皆さんに食べてもらいたい」と思うなら、菩薩界です。
「米をつくって儲けようぜ!」という人がいたら、それは菩薩界ではないのです。「みなさんにおいしお米を食べてもらいたい。そのために私はおいしいお米をつくるのだ」と考えている人は、農業菩薩です。漁師も同じです。「みなさんに美味しい魚を食べてもらいたい」と思えば漁師菩薩です。このような気持ちで仕事をやらなければいけないのです。
しかし、いくら人のために菩薩行を励んでも仏にはなれないのです。仏から認可されて「お前は仏だぞ。よく菩薩道を頑張ってきたな。何年も何十年も修行してきたので、成仏させてあげよう」と仏が手を差し伸べて、仏の教えを聞いて初めて仏になるのです。これを「三乗(さんじょう)の教え」というのです。声聞・縁覚・菩薩は、世の中の役には立ちますが、これをいくら修行しても仏にはなれないのです。
法華経の生命の実相を仏より教わり、仏に成ることができるのです。現代は末法ですから、法華経では人々は救えません。南無妙法蓮華経が末法万年尽未来際まで衆生を救うのです。
「南無妙法蓮華経とは何ですか?」というと、『三車火宅の喩』の最後に出てきた「大白牛車」というのが南無妙法蓮華経です。法華経に説かれている内容は全て真実であるから、南無妙法蓮華経という法だけが一切の衆生を成仏させて仏にしていくことができる経なのです。

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2014年09月22日

人間の探究 86 長者窮子の譬え

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※インドのお城
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人間の探究 86 長者窮子の譬え

 法華経の中には、七つ喩話があります。法華七喩(ほっけしちゆ)ともいい、『三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)・長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)・化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)・衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)・髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)・良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)』です。
 この中の一つで、『長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え』について解説をしたいと思います。長者とは、昔から金持ちのことを言うのです。「長者様」と言えば、大金持ちの事をいうのです。小金を持った横丁の隠居さんが「長者」ではないのです。
 王様と同じくらいの莫大な富をもった大商人を長者というのです。この話の舞台は、インドの方ですが、長者がいてお城に住んでいたのです。そのお城を嫌って飛び出した王様の息子がいるのです。
 子供はみな自分の家が嫌なものなのです。「自分の親が一番よい」という子供は、希でだいたいが「家を飛びだしたい」という気持ちがあるのです。長者の子供はお城を飛びだして、何になったのかというとホームレスです。ホームレスか、ヒッピーになってあちこち放浪して好きなことをやっていたのです。
 放浪も楽しいのです。我々は毎日「この仕事をする」と決めて来ていますが、誰にも命令されずにあちこち放浪すると結構楽しいのかもしれません。寝たい時に寝て、食べたい時に食べて、飲みたい時に飲んで、何の責任もないので放浪はラクなのです。風のまにまに放浪していくのです。ロックンロールも放浪です。
 社会生活は責任が伴うから重たいのです。何十年か経って、長者は「そろそろ私の命も終わりに近づいたな。この膨大な財産を誰に譲ればよいのか?」と考えたのです。そこで、「あっそうだ。私には昔、失踪した子供がいたな。その子に私の全部の財産を渡そう」と思ったのです。
 家来を遣わして「私の子供を見つけてくれ」と探させたのです。すると、ヒッピーがいたのです。得意になって昼間から酒を飲み昼寝をしていたのです。そこに「おい、起きろ。俺と一緒に来い」と家来が子供に言ったのです。
 すると、子供は「殺される」と思ったのです。苦しみに陥っている人の事を「窮子(ぐうじ)」というのです。その子供は「嫌だ!」と言って走って逃げたのです。それを家来が追って捕まえたのですが、また逃げて、なんどもそのような事を繰り返して家来は子供をお城に連れ帰るのです。
 お城へ連れていくと、子供は「殺される!」と恐れたのです。「違うよ。ここにいる長者は、貴方のお父さんです。貴方はこのお城を継ぐべき王子なのです」と教えるのです。何十年か経って、子供は王様になっていったという話です。
 これは、何を物語っているのかというと、豊かなもの、何でもあるのを「長者」というのです。これは法華経を信じている我々のことなのです。法華経を信じている者は、何でもあるのです。智恵もあり、何でもできるのです。
その我々が折伏をします。「貴方も入信したほうがいいですよ。南無妙法蓮華経を信受した方が幸せになれますよ」と言うのですが、嫌なのです。乞食になりたいのです。「私の人生ですから、私は勝手に生きますから信仰は結構でござんす!」と言うのです。まさにこれは『長者窮子』そのものの姿なのです。
 正しい者を嫌い、豊かな物を嫌い、幸せにしてくれるものを嫌うのです。エベンキ人のように自ら汚くて不潔な所が好きなのです。そのような所へ行きたいのです。我々が入信を進めるとそのような場面にいくらでもでくわします。
 入信したところで「嫌だ!」と逃げだすのです。「やっぱり俺は元の生活のほうがよい」と逃げ出していき乞食となって、我々の前にみじめな姿を現しにくるのです。『長者窮子の譬え』の通りです。
 「正しい者、力がある者、富がある者、健康な者を人間は好む」と思っていますが、違うのです。そのような人間はごく少数で、ほとんどの人間が不潔で汚くて、だらしが無くて、健康によくないことを好むのです。
 脱法ハーブを吸ってもよいことは一つもありません。タバコにしてもそうです。アルコールにしても飲みすぎれば体によくないのです。このようなものを人間は好むのです。人間は「自由にやりたい」と自由を好み、束縛を嫌います。束縛されなければ、お金は入ってきません。「それでも乞食がいい」とホームレスになるのです。
 そのような性質が人間の中にあるのです。それを目覚めさせるために捕まえて、「本当は大金持ちなのですよ。貴方の中の仏性を磨くならば、貴方はハッピーな生活を送ることができるのです。そして、人生の大目的を遂げることができるのです」ということを教えてあげることが如何に大事かということがわかります。
 我々の目的は、ここにあります。

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2014年09月20日

<土曜特別連載>◎義経と成吉思汗の同一性癖 34

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※12世紀から14世紀の世界地図
「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



<土曜特別連載>
成吉思汗=源義経だったこれだけの理由
◎義経と成吉思汗の同一性癖 34

諸部族の大統合とユーラシア征服戦争を経てモンゴル帝国が中世東西世界の檜舞台へ躍り出たプロセスをみていくと、これまで紹介してきた事例以外にも成吉思汗(ジンギスカン)と源義経の同一性を裏付ける共通項がいくつも浮かび上がってきます。それは敵に勝つための方法論だけでなく、人間性についてもあてはまることです。モンゴル統一後の成吉思汗が法律「ヤサ」と自らの訓言・格言集「ビリグ」を公布したことは先にふれましたが、「ビリグ」のなかで、‘飲酒’について次のような訓言を述べています。
≪酒を嗜む人間は、耳を聾(ろう)し目を盲し、理性を失う。酒を飲めば心を平静に保つことができず、まるで頭を打たれたように眩暈(めまい)を起こしてしまう。その人間が身につけたせっかくの知識や才覚までが、ことごとく役立たずになり、ただ酔いつぶれるしかない。帝王が酒を嗜(たしな)むときは、何一つ堂々たる王業を行えず、将軍が嗜むときは、その軍団をしっかりと統制できなくなる。誰でも酒を嗜むときは徳が歪み、その身を滅ぼすことになる…≫
モンゴル民族は大昔から「馬乳酒」を好んで飲用してきました。この伝統的な発酵アルコール飲料は日常的な水分補給と栄養補給、さらには儀礼や宗教儀式でも重要な役割をもっていたので、誰もが心の底では成吉思汗の禁酒令に等しい言葉に戸惑いと抵抗感を覚えたはずです。その一方、絶対的君主の父親イェスゲイが酒に毒を盛られて謀殺されたという忌まわしい伝聞が実際に当時のモンゴルの人々の間に流布していたとすれば、異議を唱えることもできなかったでしょう。ところが、成吉思汗の訓言には落としどころともいえる続きがあるのです。
≪…もし、どうしても飲酒をやめられないのであれば、少なくとも節酒を心がけ、ひと月に三回ずつ飲むことにせよ。一回ならば、さらによし≫
この成吉思汗の人間味ある譲歩案には、さぞかし臣下たちもホッと胸をなで下したことでしょう。ともかく、成吉思汗には酒を飲まないという側面があったわけですが、実は義経も同じく飲酒を避けていた事実が『義経記』などにくり返し記されています。平家追討の大功を遂げて一躍時の人となった義経は朝廷に招かれて連日連夜の接待攻勢を受け、権謀術策(けんぼうじゅっさく)に長けた後白河法皇に籠絡(ろうらく)されてしまったという印象を抱きがちですが、実際には宴席でも酒杯を固辞し続けていたのです。これは中世日本の武家社会では珍しい人物個性だったからこそ、特筆すべき事柄として後世へ記し残されたのでしょう。源義経は鞍馬山の修行時代から少しも変わらぬ謹厳なライフスタイルを保ち続け、その延長に成吉思汗という大器が生まれたわけです。
今さら、いわずもがなですが、成吉思汗が単なる蛮族の親玉ではなかったことは明々白々です。義経が幼い頃に修得していた強い自制心によって、多くの臣下と民心を束ねる王の中の王に上り詰めました。また、ユーラシア征服の過程では、状況に応じて臨機応変な決断を下す軍略の才をいかんなく発揮しました。一般に成吉思汗は投降する者には慈悲を示し、反抗する者には徹底した破壊と死をもって報いたと理解されていますが、刻々と状況が変わる実戦の場では、必ずしもそうした単純な二者択一の対応をとったわけではありません。1219年〜1221年の西域ホラズム王国への侵攻では、基本的に工芸技術者と婦女子以外のホラズム国民はすべて抹殺しています。
首都サマルカンド攻略の後にモンゴル軍が向かった大オアシス都市バラフでは、成吉思汗の到着とともに市民たちは莫大な財宝を献上して恭順の意を示しました。通常ならば、その願いを聞き入れてモンゴル帝国の隷属都市として延命させたでしょう。ところが、時を同じくしてサマルカンドから逃亡したホラズム主力軍が勢力の建て直しを図っているという情報を得たため、成吉思汗はただちに方針を変えました。人口調査と偽り数万人の全住民を市外の平原に集めて一人残らず殺し、バラフの市街とオアシスも二度と人が住めないように破壊し尽くしたのです。この非情な判断は、成り行き次第でサマルカンド軍がバラフを拠点に再生する可能性があるので存続させておくわけにはいかないという、ひとえに戦略上の理由に基づいていました。国家対国家の存亡を賭けた戦場において、武将には善悪を越えた行動原理が求められます。その点において義経=成吉思汗は、歴史上最高レベルの軍人だったといえるでしょう。
もうひとつ、成吉思汗と宗教に関する一般的な理解についても掘り下げて考える必要があります。モンゴルに仏教を導入したのは成吉思汗であり、自身はモンゴル民族が古来から大切にしてきた天神信仰に心の拠り所を求めたともいわれています。その一方、あらゆる宗教に対して寛容な政策姿勢を示し、孫のフビライにこう語ったと伝えられています。
「アラビア人はマホメット、ユダヤ人はモーゼ、キリスト教徒はキリスト、また他の民族は偶像を神として崇めている。私としては、これらすべての神々を敬い加護を祈ることにしている。なぜならば、その中には必ず真の神がいると思うからだ」
見方によっては‘下手な鉄砲も数打ちゃ当たる’式の信仰姿勢にも思えますが、これが本当に成吉思汗の言葉だったかどうかは定かではありません。また、すべての宗教を許容したわけではなく、他宗派指導者の暗殺を教義の主軸に取り入れた「アサシン」などの狂信的教団、無政府思想を掲げたり戦闘能力をもつキリスト教分派などには徹底的な弾圧を加えています。おそらく成吉思汗がフビライに教え諭した内容は、為政者にとって諸刃の剣になりかねない取り扱い要注意の宗教問題に対して、どう対応するべきかという帝王学の一環だったと思います。
古来、アレクサンダー大王にしてもシーザーにしても世界帝国を実現させた為政者たちは、いずれも支配地域の宗教政策に細心の注意を払いました。それは必ずしも信心深さの反映ではなく、あくまでも政治的な動機によるものだったのです。そして成吉思汗についても、冷静な立場から巧妙な宗教政策を推進できたのは、源義経の体験知識が役立ったからだと推察できます。


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2014年09月19日

人間の探究 85 毒気深入失本心故(どっけじんにゅうしっぽんしんこ)

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※酒を飲んで正体を失うと毒気深入です。
「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



人間の探究 85 毒気深入失本心故(どっけじんにゅうしっぽんしんこ)

 「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入失本心故は是なり」(曾谷殿御返事)
酒を飲みすぎると自分の正体がわからなくなってしまいます。自分で何を言っているのかもわからないし、昨日何があったかもわからない状態になります。これを泥酔状態(でいすいじょうたい)といいます。この泥酔状態の事を、『毒気深入失本心故どっけじんにゅうしっぽんしんこ)』と言うのです。
この場合の毒というのは、アルコールです。飲みすぎると酩酊(めいてい)して正体をなくしてしまうのです。これは、自分もなったことがあるだろうし、よく見る風景です。
その他、薬物、脱法ハーブなどによって日本国内では47人くらい死んでいるのです。身体に毒が入り正体を失うのです。脱法ハーブの場合は、口から泡をふき、よだれをたらしてひどいものです。日本国内で47人も死んでいるのですから、中毒になった人は、500人以上いるでしょう。これも“毒気深入(どっけじんにゅう)”です。
それから、覚せい剤を注入したり、吸引したりすると、やはりこれは通常の意識ではありません。高揚したり、幻覚がわいたり、興奮したりするのです。これも“毒気深入”で正体を失った姿です。
それから大麻、コカイなど、人を狂わせる薬物はなんでもあります。人間は「正体を失いたい」という欲望があるのか、自らこのような薬物を飲み、わけが分からなくなるのです。そのようになりたいのです。“毒気深入”で、そのような欲望があるのかもしれません。
しかし、このような薬物による“毒気深入”もありますが、思想が深く人間の中に入ってしまい本当の自分の正体をなくしてしまう人がいます。仏法では、このことを『毒気深入失本心故どっけじんにゅうしっぽんしんこ)』と言います。薬物でこのような姿になるのではなく、“思想の毒”のことなのです。
思想には、念仏思想・キリスト教の思想・イスラム教の思想・ユダヤ教の思想、様々な思想があります。これによって人格が破壊されてしまうのです。本来人間が持っているよい命、素晴らしい命が破壊されてしまうのです。「おい、起きろよ!」と言っても起きないのです。
この姿が創価学会員の姿です。“毒気深入”で、毒が深く入っているのです。日蓮正宗の理境坊・妙観講(りきょうぼう・みょうかんこう)、冨士大石寺顕正会(けんしょうかい)、身延山久遠寺もそうです。みな“毒気深入”の姿なのです。統一教会の信者も“毒気深入”の姿です。毒を飲む事によって、正しい正体を失ってしまうという姿です。
これは、日蓮大聖人様も厳しく言われていて、“毒気深入”している者を呼びさますのが、折伏です。今の人間はみな“毒気深入”です。一人残らず“毒気深入”の姿です。これは、日本だけではありません。まさに韓国などは“毒気深入”そのものです。韓国は国ごと正体を失っています。
これは、日本に対する嫉妬心です。朝鮮人は「悔しい」という妄想がわいて「苛められた!」と思い込み、そのような感情が毒気になり、毒が深く入り「日本人が憎い」と思っているのです。これも“毒気深入”の一つです。
ユダヤ人達が持っている「我らのみが人間であって、他は豚と呼ばれる」タルムードの思想も“毒気深入”の姿なのです。このような考え方があるのでしょうか。ところが、毒というものは深く入ってしまうのです。
日本ではオウム真理教が毒をふりまいて、多くの信者が発狂しました。毒気が深く入ってしまって、元にはもどらないのです。まだ、浅い人は戻れますが、深く入った人は毒を取り除く事ができません。医者もさじを投げるのが、“毒気深入”です。
我々は常に先祖代々の宗教や、悪思想を受け継いでいるので、“毒気深入”ということは、本当に注意をしなくてはいけません。「貴方は毒を飲んでいるのです。毒を飲まされて、毒気深入なのです」というように教えていかなくてはなりません。
“毒気深入”で狂った頭を治す事を、正法というのです。日本全国の上から下まで、なかなか治りません。政治家も、実業家も、みな狂った頭で判断しているのです。それは“毒気深入”の姿です。我々はこれを注意していかなければいけません。

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