2016年03月

2016年03月31日

人間の探究 477 蓮如について

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※蓮如
すぴーかー「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



人間の探究 477 蓮如について

 戦国時代の念仏の中興の祖と言われている蓮如について知る必要があります。日本の念仏宗の初代は法然(1133年―1212年)、親鸞(1173年―1263年)と続きます。中国の開祖は善導(613年―681年)です。
 仏教が日本に来るにしたがって、天台宗もそうですが、「極楽浄土に連れていってもらうために阿弥陀仏を信仰しよう」ということになり、朝は南無妙法蓮華経を唱えて、夜は南無阿弥陀仏を唱えたのです。
 南無阿弥陀仏は、昔は法華経の一部であったのです。法華経は二十八品にまとめられていますが、そのほかの経典もあったのです。例えば「観世音菩薩普門品第二十五」では、「観世音菩薩と唱えれば水にも火にも焼けず、神通力が身に就くのだ」と書いてあります。観音経も「観世音菩薩普門品第二十五」として法華経に入っているのです。
 すると様々な宗教が法華経に入っていて、「観普賢菩薩行法経」にしても、「如来寿量品第十六」も法華経の中に入っているのです。様々な教えの集大成が入って妙法蓮華経として統一されたのです。だから阿弥陀経も入っていたのです。天台宗では阿弥陀経も拝んでいたのです。
 日本では専修念仏(せんじゅねんぶつ)と言ったのです。専修と雑行があります。専修念仏とは、「念仏だけでよい」という考え方です。他は一切いらないのです。何故ならばこの世は悪人ばかりで救われないのです。この悪い人間を救うために阿弥陀様が現れたのです。阿弥陀様の慈悲は善人ではなくて悪人にあるのです。悪人を救うために阿弥陀仏は出てきたのです。
 何故、善人は救わないのかというと、「善人は一人で仏になれるだろう。善人は良いよこをやるので、自然に仏果にのぼっていけるのではないか」というのです。
 悪人は悪の循環により地獄へ向かっているのです。「悪人が善人になることはない。悪人を救うために阿弥陀様が現れたのだ。他の難しい教えや禅などはやる必要がなく、ただ、阿弥陀仏にひたすらすがっていけばよいのだ」ということを専修念仏といいます。
 他の教えを雑行(そうぎょう)といいます。
法華経も雑行ですから、一切読む必要がないのです。ただ、浄土三部経だけを励んでいくことを専修念仏といいます。
 法然は雑行が入っています。法然は比叡山延暦寺で12年の修行をしたのです。もちろん、法華経も知っています。様々な教えを学び、行もやったのですが、どうしても「女とやりたい」という煩悩がとれなかったのです。
 ものすごく苦しんで様々な行をやるのですが、「女と交わりたい」という欲望が消えなかったのです。だから「俺は僧をやめて還俗して女を抱く以外にない」と思ったのです。
 そこで阿弥陀経の教えを読んで「俺は悪人だ」と法然は気が付いたのです。「阿弥陀経は悪人を救うためにあるのだから、阿弥陀様におすがりしよう」それで南無阿弥陀仏を皆に説いていったのです。雑行念仏といいます。
 しかし、まだ法華経のことが忘れられなくて、「念仏だけでよいのだ」と言っても座禅など様々な修行をしたのです。そのようにあらゆる修行をやっていくのを雑行といいます。その中で阿弥陀経もやっていったのです。
 法然は奥さんが3人も変わったのです。80歳でも子供ができる勢いです。相当性欲が強かったのです。自分は遊び人ですから、性欲のことしか考えていません。その弟子が親鸞です。親鸞は法然と違い、雑行を一切捨てたのです。
 法然はあまりに苦しくなって、遂に法華経を読みはじめた時期があったのです。50歳近くになり、「法華経を読もう」と思って、法華経を呼んだのですが、そのことについて深く反省をしているのです。
 「念仏と言っているのに自分は救われようとして、また法華経を読んでしまった」と言うのです。念仏で救われていないということです。救われていないから法華経を読んでしまったのです。
 親鸞は最初から雑行なしです。「他の教えは一切必要ない。人間は死んだら極楽浄土に行くのだ。善人も悪人もないのだ。この悪人こそ、阿弥陀仏が救うために世に現れたのだ」このような悪人正機説を説いたのです。
 悪人ほど阿弥陀様は救ってくれるのです。悪人ほど極楽浄土に行けるのです。そのような教えです。その教えを説く会合が行われると、説法中に信者は悪人だから博打をやりだしたのです。酒を飲み、飲食をして、女がいると犯してしまうのです。ひどい状態です。
 「俺は悪人だぞ、俺こそが救われるのだ」と博打をやって、酒もガプンと飲み、すごい雰囲気だとわかります。それが説法の会場です。悪人を皆に自慢して「俺が一番の悪人だから往生するのだ」と言い出したのです。
 さすがに親鸞も「そのような意味ではない」と言ったのですが、もうおさまりません。親鸞が死ぬと墓守をつくります。教祖はいないので墓守です。「親鸞のお墓を守り、教えを伝えていきましょう」というのが墓守です。
 蓮如が第十五代留守式です。墓守という意味です。蓮如はお妾さんの子供なので役職もなく、家督も何もなく、40歳まで部屋住みです。やることがないから親鸞の教えを徹底的に読んだのです。自分の出番が来るとも思っていなかったのです。寺は誰も来ないので貧乏で米もありません。
 蓮如は「親鸞聖人の極意を体得した」と言うのです。しかも、あちこちで念仏が流行っていますが、あれはインチキです。親鸞のお墓の傍の佛光寺は仏国のような賑わいです。全国から供養の品が集まったのです。絵系図をつくり「このお寺に逆らう者は地獄へ行く。このお寺に登録されれば黙っていても極楽浄土へ行く」という教えです。
 昔は字も書けないから、過去帳に絵を書くのです。坊主が「これがお前だ。ここに書けば間違いなく極楽に行けるのだ」というと、信者は「有難うございます」と言ってお金を置いていくのです。そのような簡単な教えだから、にぎわったのです。佛光寺は仏国の如し」という勢いだったのです。
 蓮如の寺は誰も来ません。それで40歳すぎて始めたのです。親鸞が広めたので、念仏は日本全国の人が知っています。蓮如は村の有力者である名主・組頭・百姓代の村方三役に手紙を送ったのです。「親鸞聖人の教えはこれだ」という御文を書いて、どんどん三役に手紙を送ったのです。
 「蓮如様は第十五代留守職ですか」と、三役を改宗させてしまったのです。三役が改宗すれば村の連中も従います。蓮如は村ごと改宗させたのです。蓮如の全国制覇が始まるのです。
 蓮如は天台宗に属していたのです。当時、念仏宗などというものがあったのではなく、天台宗の一派だったのです。
 日蓮大聖人様が出家された清澄寺もそうで、念仏の寺ではなく天台宗のお寺です。蓮如のいた寺も天台の末寺だったのです。蓮如の寺がだんだん流行ってくると焼きもちをやかれて、比叡山延暦寺から「お前、上納しろ。上納もしないで勝手なことをやっているのか!」と僧兵が長刀をもっておしかけてきたのです。
 そして「俺たちから離脱したかったらお金を持ってこい!」と言われて蓮如は天台宗から離脱するために巨額な金子(きんす)を見せて「これでいかかですか」と言うと、「よし!」と僧兵は金子を持ち帰ったのです。それと同時に寺に火をつけて、燃してしまったのです。
 これで天台宗の末寺は消えてしまったのです。因縁も消えて、蓮如の寺になったので、蓮如は喜んだのです。これで天台宗とのつながりが消えて、自分独自の発想で親鸞聖人の教えを広めて、現在の本願寺の礎を築いたのです。
 この布教方法と、末寺と本山の関係と、教義を我々は研究する必要があります。その中には宗教の本質論も入ってきます。所詮、法然・親鸞・蓮如は法華経がわからなかったのです。それから何百年経って、日蓮大聖人様が御出現されるまで法華経の真意はわからなかったのです。念仏は途中の仮りの教えです。

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2016年03月30日

人間の探究 476 創価学会は裏切り者養成所

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※創価学会の裏切りの証拠ー『週刊文春』(8月29日号)の記事が国賊を証明!!
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人間の探究 476 創価学会は裏切り者養成所

 私の知り合いにある創価学会員がいます。これがまた裏切るのです。夫も裏切り、子供も裏切り、世話になった人間も裏切るのです。もっともよく世話をしてくれた人間を裏切るのです。
 何故、創価学会の信仰をしているとこのように裏切ることが普通になってしまうのでしょう。それは学会自体が裏切り者だからです。これに気が付いたのです。創価学会は裏切り者ですから、創価学会の信者はどんどん裏切っていくのです。夫を裏切り、家族を裏切り、お世話になった人を裏切り、平然としているのです。
 遂には周りのことが見えなくなり、自分のことだけを考えているのです。人間は自分の周りのことをいつも考えています。自分がいて、家族がいて、隣人がいて、その中で生きています。裏切り者は自分のことしか考えなくなるのです。「子供は子供、私は私、夫は夫、私が気に入らなければ何年いても関係ないのよ。私の都合でこの人はいらないのだから」という考えでポンポンと周りの者を捨てていくのです。これが学会の特性ですから、何度結婚してもそうなるのです。
 離婚は裏切りです。それをはっきりとわからなければいけません。最初は「良い」と思ったから一緒になったのです。一緒になって家庭をつくってきたのです。それが嫌になったから別れるというのは、子供に対しても明らかに裏切り行為です。だからやってはいけない行動です。
 夫の両親が痴ほう症になったら「もういらない。捨ててしまおう」、これは裏切りです。少なくとも一緒に生きてきたのですから面倒をみなくてはいけません。それを放っておくのは裏切りです。
 これは創価学会の特性です。まず、創価学会は日本を裏切っているのです。日本国に生まれてお世話になっておきながら、「母国は韓国だ」と言っているのです。これは、日本を裏切ったことになるのです。創価学会には「日本人」という考え方が全くありません。
 話してみればすぐにわかります。「人類は」という大きな話はあるのですが、「日本人」という意識もないし、話題もありません。だから日本の歴史も知りません。少しは知っているかもしれませんが学会員には必要ないのです。
歴史の上に立って今自分がここにいるのです。ということは先祖を裏切れません。先祖がいて、今自分が生きているのです。先祖を裏切るということは歴史を裏切るということです。歴史を裏切るから日本人ではありません。
 創価学会は日本の歴史を教えません。従って、日本の家長である天皇陛下を全く教えません。無関心です。靖国神社については、「悪霊がいるので行ってはならない。傍を通ってもいけない」と教えるのです。これは裏切りです。
 日本の国のために死んでくれた英霊に対する裏切りです。日本の歴史を教えないというのは、立派な裏切り行為です。日本国の中心が天皇であることも教えません。「神社は魔が住む」というので絶対に行きません。創価学会員は無国籍です。
 日本を裏切り、天皇を裏切り、日本の歴史を裏切り、靖国神社を裏切り、伊勢神宮を裏切り、あらゆるものを裏切っているのが創価学会です。だから無国籍の人間になってしまうのです。無国籍人間がずらっと周りを見てみると他所の国がよく見えるのです。自分の国の歴史に誇りをもっていないのです。
 「文化大恩ある朝鮮」などと馬鹿なことを言っているものではありません。そんなことを言っている暇があったら日本の国の歴史の勉強をしなさい。裏切っているから他所の国がよく見えるのです。
 創価学会員は本当の裏切り者、うつけもの、大馬鹿者です。学会員がこのようなことをやっていると、一家に対して誇りをもたない、日本人としての誇りをもたないで、自分の感情だけで処理していくのです。今の気分で男とくっついたり離れたり、どうにでもかわるのです。無国籍人間の見本が創価学会員です。
 創価学会がお金集めをするなど認めたにしても、これだけは許せないのです。創価学会は日本人を裏切っているのです。日本を裏切り、日本の歴史を裏切っているのです。このことを創価学会員によく教えていかなければいけません。本当に創価学会が悪い理由はこれです。
 統一教会もそうです。今は「家庭連合」に名前が変わったのですが、そんなことはどうでもよいのです。一番いけなのは「朝鮮が神の国、日本は悪魔の国」です。こんなことを教えている奴らが自民党の中にいて、いかなるよい政権だとしても関係なく悪人です。絶対に許してはいけないことなのです。
 統一教会は「韓国が母国で韓国が神の国、日本は悪魔の国。朝鮮から物を奪ったのだ」などウソを教えているのです。そんなことを考えている奴らは、絶対に許してはいけないのです。
安倍さんは統一教会員です。何を考えているかわかりますか? 舛添要一は統一教会ではありませんが、東京都の土地6千平方メートルの土地を韓国学校に与えると朴 槿惠に約束したのです。そこで反日教育を行うのです。韓国学校は「ドクトルは俺たちのものだ」と教えるのです。しかも、東京都の税金で予算は年間1千万円つけているのです。何をやっているのでしょう。このような奴は絶対に信用してはいけないのです。
 安倍さんも「従軍慰安婦は解決済みだ」と言いますが、何も解決していません。韓国では、巨大な6メートルの慰安婦像を造って皆で拝んでいるのです。馬鹿でしょう。安倍さんが韓国人であることと大いに関係しているのです。
安倍さんは朝鮮人だから日本の歴史など信用していません。頭の半分は韓国です。半分は日本の首相だから日本のことを考えているのでしょうが、安倍さんの日本とは、朝鮮人による新生日本国家です。
 韓国のことを考えているわけではないのです。朝鮮人支配による新生日本国家です。これは戦前の大日本帝国でもありません。韓国でもなく、新しい日本です。朝鮮人支配による新しい日本です。完全に裏切り者です。
 稲葉朋美もそうですが、統一教会の人間が自民党にはたくさんいます。どのように考えても、こんなことで日本がよくなるはずがありません。このような裏切り者を排斥していかないかぎりは、本当の日本は再生しません。日本人よ、目を覚ませ!

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2016年03月29日

人間の探究 475 解脱(げだつ)について

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※オスカーワイルド
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人間の探究 475 解脱(げだつ)について

 UFOディレクターの矢追純一さんはそれなりにUFOを勉強して「今やUFOが存在するとかしないとかの次元ではない。UFOはあるに決まっている」と言っています。矢追さんは宇宙塾を開いていて、「私が見たものはUFOでしょうか。矢追さん鑑定してください」と矢追さんに言ってくる人がいます。
 「私が見たものはUFOでしょうか?」と考えているのですから、自分の意識が宇宙人になっていくなど考えていないのです。これは、かなりの教養がないとそのような発想はでてきません。
 仏法でいう「成仏」ということと「宇宙人になる」という発想は普通の人からはでません。UFOと成仏は、どのような関係があるのでしょう。解脱(げだつ)とは、脱却することです。通常の間違えた観念の中に人間は生きています。
 「私」というものはないのに、「私」というものが有ると信じ込み、妄想で頭が固まっている中で現実を理解して妄想の中に生きているのです。「生きている」ということはそのようなことです。そこから脱却することが「解脱(げだつ)」です。
 妄想から脱却することが解脱でもあるのです。解脱と言っても「何から解脱するのか」ということです。解脱とは脱却することです。自分の煩悩からも脱却するから解脱です。解脱とは一つではないのです。
 「自分の妄想なのだ」と分かれば、妄想から解脱します。「今、やっていることは夢と同じなのだ」と思えば、夢からの解脱です。「自分が生きている」と思っても、それも妄想です。「生きている」と思っていることじたいが妄想です。実際は生もなければ、死もないのです。
 その妄想の中で「生きている」、「死んでいる」とやっているだけです。それからの解脱をするのです。そうすれば実存に至ります。解脱という言葉は非常に意味が深いのです。単に社会を脱して出家するというだけではないのです。
 人間をとらえている様々なもの、煩悩(悩み)、苦しみ、愛からの解脱です。愛別離苦といいます。愛があるから別れがあるのです。愛がなければ別れも関係ありません。愛するから別れると苦しみになるのです。「愛は楽しい」、「苦は苦しい」のではないのです。両方共に解脱をしていくのです。これが本当の仏法です。
 煩悩の解脱、六道からの解脱、九界からの解脱、煩悩即菩提です。妄想からの脱却です。妄想とは現代的な言い方です。昔は妄想などという言葉はありません。妄想に変わる言葉は、仮在(けざい)です。
 我々は妄想の中に生きています。絶対に間違いありません。「あそこに月がある」と認めるのも妄想です。本当はないのです。自分の頭の中で計算して、知識で覚えて「月はこうだ」と覚えていて、フッと見ると「あれが月か」と思うのです。
するとその前に自分の頭の中でできていた月があるのです。これは妄想です。「あれが月だな」と考えている人間の側は妄想なのです。
 月を見ているのではなくて、妄想しているのです。これは前にも話しましたが、オスカーワイルドの話です。一般の人には感動がありません。何故、感動がないのでしょう。芸術家とは、感動をもった人です。
 例えば湖に行きます。「湖で男女が恋愛をして別れた話があったらおもしろいな」と思います。場所はどこかというと中禅寺湖です。二人が泊まって華厳の滝に行きます。その辺りを散歩して物語ができます。妄想で書いたものが小説です。
 「日光の二人づれ」と書くのです。作家は妄想を書いているのですが、読む人はすごく感動をするのです。感動とは低いところから深いところへドーンともっていくのです。なんでもないものをドーンともっていくのです。すると感動するのです。
 誰かがその本を読んだらその妄想が頭に入ってしまい、中禅寺湖に出かけて行き、その場所に自分が立つと妄想がわいてくるのです。「中禅寺湖はロマンチックだな」と思うのです。それは自分で考えた感動ではないのです。過去に芸術家が考えた感動を頭に入れて、中禅寺湖に行くとそれを思い出して「美しい夕焼けだな。ロマンチックだな」と思うのは、小説で人が感動したことなのです。
 何も読まない人は何も感動しません。テレビも見ない、小説も読まない人が中禅寺湖に行っても何も感動しません。これはオスカーワイルドが書いた「人間の本質」という話です。
 僕は高校2年のときに先生に褒められたことがあるのです。「読書についてオスカーワイルドがこのように言っています」と言うと「君、やるな」と褒められたのです。
 UFOを見ても「宇宙人になろう」と思う人もいないし、違う次元です。「成仏とは宇宙人になることだ」と、これは僕が言ったことです。そう思う人は感動しますが、そう思わない人はUFOを見ても宇宙人にはなれません。


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2016年03月28日

人間の探究 474 池田大作が会長になったとき

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※須弥壇の池田大作レリーフ
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人間の探究 474 池田大作が会長になったとき

 戸田先生がお亡くなりになったときは、池田大作が30歳の頃です。戸田先生に皆が詰め寄って、「先生、後継の会長は誰でしょうか?」と言われたときに、戸田先生は答えなかったのです。「皆で考えて決めなさい」、これが戸田先生の遺言だと言われています。
 「池田大作を指名する」など全くないのです。何故かというと系列が違います。牧口先生は学校の校長先生であり学者です。戸田先生も学校の先生です。数学の参考書は何百万部売れているのです。ベストセラーです。
 池田大作は教育に何の縁もない男です。創価学会は、「創価教育学会」だったのです。「どのように子供を教育したら、立派な子供ができるのか」という研究会だったのです。21名の幹部は皆先生です。それが戦前から発足したのです。
 戦後になって池田大作が入ってきたのです。この人は何の教育にも縁のない人です。池田大作の職業は何かというと大倉商事の営業部長の金貸しです。場違いな者が創価学会に入り込んできたのです。
 戸田先生はお亡くなりになり、会長はいません。池田大作は高利貸をやっていたのでお金を持っています。多数派工作をして総務という役職をつくったのです。総務とは何だかわかりません。どこの会社でもあるような組織をつくり、実際は会長の役割をやったのです。
 戸田先生は100万人の信者をつくったのです。奴はその上に乗っかっただけです。会合を開けば、何万人と集まるのです。それは池田大作がつくったものではなく、戸田先生がつくったものなのです。
 総務などという役職をつくり、会長きどりでやっていたのです。当時、理事は21名いたのです。それは池田大作がつくったのではなく、戸田先生がつくったのです。それで総務などという役職をつくり会長きどりでやっていたのです。
 当時、理事は21名いたのです。「そろそろ誰かを会長に」ということで、「総務の池田大作はどうでしょう」と言われていたのです。「嫌まだ早い。まだガキじゃないか」と言っていたのです。小平芳平という頭のよい人もいて反対したのです。
 池田大作は、原島崇の親父に大量にお金を配ったのです。多数派工作です。飲ませたり、お金を握らせたり、おだてたりして、21名の理事をどんどん篭絡していったのです。原島崇の親父が「そろそろ会長をつくらなければいけない。池田総務になってもらいましょう」と言いだしたのです。
 もちろん反対する人間もいたのですが、多数派工作をして池田総務が3代創価学会会長に就任したのです。しかも、「私はやりたくなかったのですが、皆さまの要望に応じて、会長になることを引き受けます」と言って嫌々なったという形をとったのです。
 まず、やったことは反対した理事を粛清していったのです。金正恩と同じです。殺すわけにはいきませんから、どんどん左遷です。石田先生も反対派の一番強い勢力ですから、干してしまったのです。
 一番力があったのが石田先生です。保田の妙本寺に行って、大石寺に起伏させたのも石田先生です。池田大作が選挙違反で大阪の留置所につかまったときも尽力したのは、石田先生です。「重要なところはみな俺がやってきたのだ」と石田先生は言っていました。だから、石田先生だけは「大作!」と呼び捨てできたのです。
 そんなことを言えるのは石田先生しかいません。石田先生から見たらガキです。石田先生は青年部第一部隊長です。一番に部隊長になった人です。池田大作は弟四部隊の班長だったのです。そんな者が高利貸で出てきて、石田先生から見れば「何が会長なのだ。お前、何もわかっていないだろう」ということです。
 池田大作は反対した人間を皆切っていったのです。戸田先生の弟子は優秀だったのです。学校の先生であり、教学もあります。それを切って自分の言うことを聞く人間だけを弟子にしていったのです。
 戸田先生の弟子は皆邪魔だから切っていっき、自分が弟子をつくり任命して、新しい弟子をつくっていったのです。それを新弟子というのです。「この新弟子こそが本門の時代にふさわしい私の本当の弟子だ」と言ったのです。
 「新弟子は私のノートにかかれます。ここに私が赤でバッテンをして、「背きおわんぬ」と書けば、これは地獄へ行くのだ」と脅かして、皆がそれを信じ込んで「なんとか本弟子に入りたい」と思って、本弟子の奴は消されないように忠勤に励んだのです。
 池田大作が図に乗ったのは正本堂でお金が集まったときです。「正本堂を建てればすべての病人は治り、本当に幸せになるのだから、正本堂にご供養に参加しましょう」と言われて貯金箱をもらったのです。
 その貯金箱にお金を貯めたのですが、どんどん趣旨がかわってしまい「有り金を出せ! 出せば出すほど功徳がある。何万年に一度の功徳である。千載一遇の好機である。有り金をすべて出せ!」とやり方が変わったのです。
 創価学会員は正本堂に寄付に有り金を全部出したのです。僕の家もその頃は結構お金を出したのです。そのお金が360億円集まったのです。360億円といっても今のお金ではなく、40年前の360億円です。ものすごい大金です。その後に池田大作は別に100億円と言っていったのです。それを自分でバラしていたのです。
 寄付でお金が入ってくるのでいくら集まっているのか信者からはわかりません。寄付のお金を半分とって個人の懐に入れてもそれはわかりません。その360億円は、表のお金で、それ以外に100億円集まったのです。
 池田大作は本山に行って「どうか、この360億円を正本堂を御建てになってください」と言うと、日達猊下が「わかりました。これはそっくり創価学会にお願いします」と言って返されたのです。創価学会で使って建ててくださいということです。そこまでは本山と学会は仲が良かったのです。
 当時は金利が年間で10%はついたのです。銀行に1千万円預けると年間で金利が100万円ついた時代です。石原慎太郎が裕次郎に「お前、1億円貯めたか。1億円銀行にもっていれば、年間1千万円のお金が入ってきたのです。それで食べていけた時代です。
 360億円の1割で回すと36億円です。1年間に36億の金利がついてしまい、10年間経つと360億円の金利がついたのです。だから、お金を1銭も使わないで金利だけで正本堂が建ってしまったので、360億円と100億円はすべて創価学会のものになってしまったのです。
 これが諸悪の根源です。今でいうと3兆円くらいの価値があります。「これで学会は安泰だ」と言ったのです。
出来上がった正本堂に御本尊を置く須弥壇があり、その前に猊下が座り「南無妙法蓮華経」と唱題するのです。
 するとどうも須弥壇がおかしいのです。そこに一人の男が裸で寝そべっているのです。周りに裸の女が5〜6人います。「これは何だろう」と思っていると、それが池田大作の顔なのです。猊下が一生懸命拝む目の前に池田大作が寝そべって裸の女がいるのです。とんでもない奴です。この図式だと猊下は池田大作に頭を下げることになるのです。
 その辺りから喧嘩がはじまり、仲が悪くなり、分裂騒動が起きてきたのです。池田大作を後継者として認めてきたわけではないのです。そのような段階を得てきたのです。池田大作は逆らった奴には復讐を企てたのです。その内、夜郎自大になり、「何をやっても許される」そうなってしまったのです。
 巨額なお金をかかえて、多くの信者をかかえて、調子に乗ってピアノもデタラメです。「バンバンババーン!」と適当に弾くと「先生、お上手!」と学会員は言うのです。池田大作はキチガイです。
 マンガ『天魔の野望』では、最後は池田大作がキチガイになって死ぬのです。池田大作の最後はAERAによると、自分の写真も投げ出して、気が狂ったのです。御書も本もすべて投げ捨てて、滅茶苦茶になってお狂いになったのです。『天魔の野望』の通りです。日蓮大聖人様を私物化した結果として池田大作は狂ってしまったのです。

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2016年03月26日

『般若心経の大予言』■過去・現在・未来が分かるのが聖人という 10

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※三世(過去・現在・未来)を知るのを聖人という。我々は凡夫なるが故に現在しかわからない。
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<土曜特別連載>
『般若心経の大予言』■過去・現在・未来が分かるのが聖人という 10

 我々の生命はこの世だけのものなのか、あるいは死後も存在するのであろうか、これは人類が物心ついた時からの大問題であり、ある人は死ねば全てが終わりであると説き、またある人は死後霊魂となって天国か地獄へ行くと説きます。
 はたして死後の世界はあるのかないのか、またあるとすれば霊界はどうなっているのか、死後に関する物語はどんなお話でも易々と受け取られてしまいます。
 そのわけは死後に関し、どのように想像しようと否定も肯定もできないからです。否定も肯定もできなければ、自分にとって都合の良いと思われる死後の世界のお話と受け取る傾向にある事はやむを得ません。
 それがどのような架空のお話でも、それを信ずる事によって安心立命が得られるなら、他人がとやかく言う事はないのですが、架空のお話はやはり架空のお話であり、死後の世界に関する真実のお話も大変大事になってくるはずです。
 死後の生命について本当の仏教は推理・推論のお話を取らず、あくまで生命が瞬間・瞬間、現じつつある実存法を中心とした、直接把握法をとっています。「論語」の有名な言葉、「今だ生を知らず、いずくんぞ死をしらんや」のように、当時の風潮として死後について架空のでっち上げ話を作り喜んでいるのを嫌い、今の現実をしっかりと見つめるところから、何事かを得ようとしたのです。
 孔子は「生もわからんのに死などわかるはずがなかろう」と、生のみにつき興味を持ち、死については議論停止したのですが、仏教の開祖であるお釈迦様は、現実をしっかりありのままに見る事により、死後の世界も生まれる前の世界もはっきりと見てしまったのです。
 日蓮聖人も「三世を知るを聖人という」と云われている様に、いくら現実の処世を理解しても、死後の世界が分からないのならば聖人とは言えず、過去・現在・未来の三世に通暁して、はじめて本当の聖人たり得るのです。仏教と他の諸宗教(他の宗教も霊界を説くが、仏教は霊界を説いたものではない)との根本的な違いがここにあります。
 もし人間が未知の荒野を探検する場合、探検成功のカギはまず自分にとっての現実をいかに正確に把握するかがポイントとなります。一番いけない事は「思い込み」なのです。「多分、明日は晴れるだろう」とか「危険はないはずだ」などです。厳しい避けられない現実にぶつかった場合、「思い込み」は一瞬にして崩れてしまい、「しまった」と思った時はもう手遅れです。
 死後の霊魂話もこれと同じ事で、思い込んでいる間は満足しますが、厳しい死という現実に直面した時に、一瞬の間に思い込みの酔いは醒めてしまいます。
 お釈迦様は「思い込みでは死は解決できない」と、おっしゃられたのです。つまり死後に関する形而上の物語では、死は解決できないという事です。人は何を考えても、何を信じても自由であるが、真実は一つしかないのです。死後の世界は人生の最重要時で、本当に正しく三世を通暁された方は、お釈迦様をはじめとして如来の真実義を伝える正法正師しかいないと知るべきです。
 よく新興の教団などでいっているように、「人は死んだら皆仏である。死んだ先祖が生きている人を守るのを仏所護念という」ならば、人は死ねば仏陀になるのですから、生きている間は何をやっても良い事になり、悪事のしたい放題となってしまう。
 大久保清もスターリンもヒットラーも皇帝ネロも、皆仏になるのだったら、あくせく真面目に働くものはいなくなり、世界は野獣の王国となってしまうでしょう。
 現世と未来は深く繋がり、また現世は過去世と連続しているのです。仏陀の見た世界とは、時を越えて、時空間連続縁起体として六道輪廻を繰り返す人間、いや生命の浅はかさ、哀れさだったのです。それが行業因としての無限連鎖を繰り返す、人間の生命の真実の姿であったわけです。
 人はそれぞれの宿業によって、宿った命の傾向を有し、さらに空間軸からの因縁により反応し、時間軸とも縁起し、どこまでも続く無明連鎖の苦の連続体が、仏陀の見た三世の生命の実相であります。
 この事を知って生きるのが「仏陀への道」であり、知らずに生きるのが「地獄への道」なのであります。
 とあれ、仏法を学び、信じ、行ずることは、過去・現在・未来の己の三世の真実の姿を知っていく事につながります。これを正しく説くのを「正師」といい、その他のいかなる学問・知識があろうとも、それだけでは三世を知らないが故に、正師ではなく邪師になってしまいます。邪師に順えば必ず未来は地獄に生じます。
 私には多くの者が、「世間の無儀の語」に装飾された邪師に引きづられ、蟻のようにゾロゾロと地獄に向かって行進しているのが直視されてなりません。
 「生命の実相」とは、仏教の知らざる衆生の地獄への直行便の姿であり、仏教を学び行じ信ずる者が、「寂光土行きの直行便」に乗っている姿なのです。
 この事は「簡単には分かりにくい」からといって否定しようとも、「生活が豊かに便利になって、いま苦を感じない」と、言おうとも因果倶時が分かり、行業因を理解した人から見れば、最後は皆地獄に行ってしまいます。
 仏教を悟り、行業因から修行因へと自らの生命を変革させるべく歩み続けはじめた人のみが、真実の実存を得る事ができるのです。仏陀の教えを聞いても、自らの生命の変革を実行しようと励まない人は、やはり地獄への直行便なのです。
 仏教の目的は過去・現在・未来の三世を正確に知り、三世に渡る自らの行業因を知り、修行因へと変えてゆく事であり、絶対の幸福境涯を得るべく、成仏を得るべく衆生をしてどこまでも精進させる為なのです。



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2016年03月25日

人間の探究 473 ドロボウは無分別

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※インドでは夏は50度近く気温があがります。インド人は木陰に入って一休みをします。どのような意識を持っているのかというと、自分の本当の生は夢の中だというのです。夢の中こそが現実です。起きて労働している自分は夢なのです。
すぴーかー「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



人間の探究 473 ドロボウは無分別

 ドロボウの体質を持った人間は1割くらいいると思います。100人いれば、1人ドロボウがいます。昔、学校でよく物がなくなりました。体育の時間に制服など教室に置きます。昔はロッカーなどありません。必ず物がなくなるのです。ドロボウがいたのです。
 1クラス60人くらいいたら、1人のドロボウがいると思ったほうがよいのです。ドロボウはクセです。その物が欲しいわけではないのです。
 この間、キングオブコメディという漫才の高橋が女子高生の制服を何千着も盗んで捕まりました。そいつは物が欲しいのではなく、ドロボウは癖なのです。
 「ドロボウとは何か?」とよく考えてみると、人の物と自分の物の区別がつかないのです。ドロボウに向かって「お前、人の物を盗ってはいけないだろう」といくら言っても、ドロボウは人の物も自分の物も区別がついていないのです。
 ドロボウは人の物も自分の物です。だから人の物を盗るのです。ということは、ドロボウは無分別であるとわかるのです。無分別ということは、その人の生き方に論理がないのです。常識で考えればわかります。普通は「ドロボウしてはいけない。自分の物は自分の物、他人の物は他人の物」と分別して考えます。
 ドロボウは人の物も自分の物なのです。自分の物は自分の物です。分別がないのです。「大それた悪いことをした」などと考えていないので、何回もやるのです。どんな刑罰を行ってもドロボウは止めないのです。
 世の中にある物は、すべて自分の物だと思っているのです。「たまたまあいつのところに車がある。本当は俺の物だ」と考えるのです。ですから、自動車をかっぱらっても何とも思いません。「俺の物に俺が乗っているのだ」、このような考えです。恐ろしいでしょう。
 このような人間が現実的にいるのです。区別がつかない、無分別人間です。無分別の人間を馬鹿というのです。
 お利口さんとは、分別のついている人のことをいいます。分別がないほど馬鹿です。どうしようもありません。これは、なおらないのです。頭の構造を変えない限りは、ドロボウは何をやっても治りません。
 人が強制して刑務所へ入れたり、罰金を払わせたりしても治らないのです。無分別の頭を治さないと治りません。頭が治らない限りはどんな罰則を食らっても、すぐにドロボウ、かっぱらい、ウソをつくのです。
 ウソつきもそうです。昔、「ウソつきはドロボウのはじまり」とよく言いました。ウソとは、無分別です。自分が考えていることは、頭の中だけの妄想の世界です。現実の世界は違います。
 ウソつきは、妄想と現実の区別がないのです。自分の頭の中で考えたことと、現実がゴチャゴチャになっているので、「ウソをついている」と言われますが、本人は本当のことを言っていると思っているかもしれません。
 「人を騙してやろう」と思っている人はまだ軽いほうで、ウソをついていることすら自分でわからないのです。
 この話ならわかると思います。インドでは夏は50度近く気温があがります。インド人は木陰に入って一休みをします。木陰でウトウトします。ウトウトすると夢を見ます。どのような意識を持っているのかというと、自分の本当の生は夢の中だというのです。夢の中こそが現実です。起きて労働している自分は夢なのです。そのように言うとわかります。
 インド人には妄想と現実の区別がないのです。経典にもそのようなところがあります。仏様は空を飛んだとか、水の中に入っても沈まないとか、そのような話があるのです。仏は六神通(神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)を備えているのです。神足通とは、機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力です。天耳通とは、ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳です。他心通とは、他人の心を知る力です。宿命通とは、自分の過去世(前世)を知る力です。天眼通とは、一切衆生の過去世(前世)を知る力です。漏尽通とは、自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力です。夢の中の妄想の世界だから、このようなことができるのです。
 インド人は妄想と現実の区別がついていないのです。ウソつきは、それと同じです。ドロボウも同じです。「あれは俺の物だよ」と言っているだけならかまいません。
創価学会員で、そのようなことを言っていた人がいます。「みな預けてあるのだよ。この家も、あの家も、みんな俺の物だよ」と言っていたのです。「今はたまたま人に預けているのだよ」と何もない貧乏人がそのように言うのです。
ちゃんと区別をつけて「あの家はAさんの物、あの家はBさんの物、自分は何もない」と区別して、「私は一生懸命働かないと飯が食えない」この現実を直視していかなければ、ダメです。現実を直視するとドロボウなどできません。
 ドロボウもウソもすべて無分別からくるのです。

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2016年03月24日

人間の探究 472 畜生は鏡を見ない

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※気が狂った奴は鏡を見ません。薬物中毒やキチガイは絶対に鏡を見ません。鏡を見るのは人間だけです。
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紀元は2600年(キングレコードより)



人間の探究 472 畜生は鏡を見ない

 猿、犬、ライオン、畜生と言われる者達は鏡を見ることがありません。ということは、自分の姿がわかっていないということです。「私はどんな格好をしているのか」ということが、彼らはわかりません。
 猿は猿を見ているからわかると思うのですが、わからないのです。あいつはあのような格好をしているけれど、自分の格好はわからないのです。不思議です。動物の前に鏡を持っていくと逃げるのです。映っている自分の姿を見て吼えたり、或は見ないのです。
 人間もそうです。気が狂った奴は鏡を見ません。薬物中毒やキチガイは絶対に鏡を見ません。鏡を見るのは人間だけです。「鏡を見る」とは、「かんがみる」と言って、己の姿を鏡から感じ取って、反省するということが「かんがみる」ということです。
 「かんがみる」から「鏡」というのです。己の反省の材料です。これは仏教の指導でもあります。鏡とは己の姿が見えるのです。
 仏法の究極の目的は己の姿を明らかにするということです。仏というものは、「己」というものが明確にわかった人のことを仏というのです。仏法の場合は姿かたちを見るというよりも心を見るということです。
 神道もそうです。日本の神道も鏡があります。神殿に登るとそこに大きな鏡があります。そこに映るのは自分の姿です。「お前が神なのだ」と教えてくれているのです。神殿に登っていくと鏡に自分が映ります。「ほら、お前が神だろう。それを拝んでいるのだ」という構図になっているのです。
 閻魔大王がもっている浄玻璃の鏡、これも不思議です。「生前、良いことをやってきました」と言っても、鏡の前に立つと醜い姿が映ってしまうのです。「なんだ、お前は殺人をやってきたのか。お前は火あぶりだ!」と言われて、灼熱地獄へと送られてしまうのです。閻魔大王は、その人の姿を見て地獄へ送るのですから、鏡はウソをつきません。
 だから鏡というものは、「海印三昧(かいいんさんまい)」という言葉がある通り、非常に不思議な作用を持っているのです。しかも、鏡は人間しか見ることができません。人間の中でも馬鹿、キチガイは鏡を見ません。
 ヤクザなどやっていたら鏡など見ません。「いかにも俺は怖いぜ」という顔をつくるときには「うりゃー!」と言って鏡を見ます。それ以外、鏡を見ることはありません。女性もそうです。朝、鏡台に向かい30分間自分の顔を眺めるのです。眺めているから女性のほうが本当は心がキレイになっていかなければいけません。そこで女性は化けるために鏡を見ているのです。心を磨くためではなく、化けるために鏡を見ているのです。「どうやってこのシミを誤魔化そうか。もっとおしろいを塗ったほうがいいかしら」という根性で鏡を見ているのです。これではダメなのです。鏡が自分を誤魔化す道具になっているのです。
 そうではなくて、素直に自分の顔を見て、健康なのか、病気なのか、じっと鏡の前に座りなさい。座禅は黙って座りますが、鏡の前に座るのです。全身像が映る鏡の前に座りす、すみからすみまで自分を30分間眺めるのです。このほうが座禅よりよい修行になります。
 鏡を見て「これが私の顔か。いい顔をしているな」、「根性曲がりの顔をしているな」とわかるのです。鏡を見ればすべて顔にすべて描いてあるのです。だらしない口つきをしているとか、ポカンと口を開いているとか、目が鋭くて人を睨みつける目つきとか、鏡を見るのです。
女は30分間鏡台の前に座るのです。じっと自分を見なさい。ちゃんと見て体の具合を見てじっと反省するのです。己を見る、かんがみることをやるのです。それだけで人生は変わります。
 「よし、もっと顔色をよくしなければいけない」とかわかるのです。「たるんだ顔をしいるな」、「ほうれい線が出て口が曲がっている」では、ダメなのです。鏡を見るのです。
 鏡を見る人はますます美しくなります。鏡をみない人はブスになり、「もうどうでもよい」と思って掃除婦のようになってしまうのです。鏡を見るということが如何に大事かということです。
 これを如実知見(にょじつちけん)というのです。人間は物事を見ているようですが、実は見ていないのです。妄想によって見ているのです。今、現実に如如として起きていること、これが見えていないのです。如如として現実は変化しているから、如如として変わっていくのです。これを見ることが正しい見方なのですが、そのように見ていないのです。
 まず、頭の中に妄想が閃きます。妄想が閃いて、あるものを見たり、聞いたりしているのです。妄想というフィルターを通して現実を見ているから、如如として起きている現実を見ることはできないのです。だから如実知見できないのです。妄想知見しているのです。だから、とんちんかんなことになってしまうのです。人のことがわかりません。何も見ていないのです。旦那のこともわかりません。子供のこともわかりません。何もわかりません。
 自分の心の中の妄想だけはわかるのです。その妄想しか見ていないのです。だからみなとんちんかんになり、夫ともうまくいきません。妄想が原因です。子供ともうまくいきません。子供のことをきちんと見ていないのです。
 奥さん同士の井戸端会議は妄想同士で話しているのです。妄想が飛び交っているだけで、話していても何の意味もありません。この妄想を取ることはできないのです。一旦頭に中に入った妄想は次に起きてくる現実も、フィルターを通して見ているのです。一旦、妄想を頭の中に入れてしまうと、どんどんその妄想は増えてしまい頭の中は妄想だらけになってしまうのです。
 そのような人を「妄想の人」というのです。大部分、99%が妄想の人です。例えばここに水があります「水は、」というと、話を聞いている人の水は全然違うのです。水は一つのものですが、受け取る人間が4人いれば、4人とも違うことを頭で考えているのです。本当の水の姿は見えないとわかります。
 「水はおいしい」と思っている人もいれば、喉が渇いている人は「水が飲みたい」と思い、「水よりもお茶のほうがいいわ」、「海の水はしょっぱい」と思っている人もいれば、まちまちです。だから水について全然わからないのです。
 まして、人間は動いているので心は複雑です。Aという子供がいれば「この子はいい子だ」という人もいれば、「この子は馬鹿だ」という人もいれば、「この子は物忘れが激しい」という人もいれば、「几帳面な子だ」という人もいます。
 一人の子供でもこれだけのことが分類されます。どこを見ているのでしょう。子供をどのように見て育てていけばよいのかということがわからないのです。子供を育てる名人がみればすぐにわかります。
 子供の未来は妄想によりつくられていくのです。悪い妄想をいれれば悪くなってしまうのです。「お前は馬鹿ね」、「貴方は忘れっぽいね」、「もっとしっかりしなさいよ、この馬鹿者!」と言っていると、子供は本当に馬鹿者になってしまうのです。
 「貴方は偉いね。今は勉強は好きではないかもしれないけれど、だんだん好きになるよ」というように誘導していけば、子供はどんどん勉強が好きな子供になるのです。子供という実体があるかのように接して「この子はこうだ」と決めつけて評価をしていくことは間違っているのです。それはその子の実体ではないのです。
親はその子の実体など見えないのです。だから人に対して毒言葉を吐くのは止めなさい。自分の子供にどれだけ毒言葉を吐いているのかということを主婦は思い知らなければいけません。
 会社でもそうです。部下に対して自分の見た妄想だけで、どれだけの毒言葉を投げかけているでしょうか。「お前は馬鹿だ!」と言っているから自分には馬鹿に見えるのです。その社員は立派な馬鹿になるのです。「仕事ができないな。ミスばっかりやっているな」と言っていると、ミスばかりする社員に育つのです。
真実は言葉も及ばないのです。妄想も及びません。妄想もない、言葉もない、ここのところを「言語道断・心行処滅」というのです。
 言葉も届かない、心も届かない、その真実を見ていく中に仏道修行があるのです。それを如実に知見するのです。如実知見して、ありのままに見ていくということが仏道修行の大事な要素です。すると、物事を見ても曇りがなくなってくるのです。
 人間を見ても「この人はこうなるな」とわかるのです。如実知見しているからそのようにわかるのです。「この人は将来、変な事件に巻き込まれるな」、「この人は刑務所に行くな」、「病気になるな」ということが、本性を見ていくからわかるのです。そんなことは人に言わなくてもよいのですが、わかるのです。
 僕が「必ずこうなる」というと、必ずそのようになっています。仏法修行の一つの目的は如実知見していくということが大事です。人間を見ても南無妙法蓮華経は見えません。南無妙法蓮華経と見えるようになってくれば、如実知見です。人間を見ても、そのように見えないでしょう。
 人間の奥にある本当の真実は、南無妙法蓮華経です。それが見えません。悪人でも、ヤクザでも、馬鹿でも、畜生でも、南無妙法蓮華経です。形が畜生になり、ライオンになってしまっているので、ますます真実は見えません。生命の本体は南無妙法蓮華経です。それが現れて人間や動物になったりしているのです。本体は同じものなのです。
 そのように見ていくことが如実知見ということです。

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2016年03月23日

人間の探究 471 創価学会は人間のクズ養成所である

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※日本国民とは何かというと、2800年の歴史を有する大和民族の民であり、伊勢神宮を日本建国の神として崇め、先の大戦で亡くなられた英霊を靖国神社で参拝します。
すぴーかー「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



人間の探究 471 創価学会は人間のクズ養成所である

 僕は「創価学会はクズである!」と、はっきりと断言します。クズである一番大きな理由は創価学会は日本の歴史に誇りを持っていません。韓日友好と教えます。靖国神社を敬いません。従って天皇陛下を敬うこともありません。日本の歴史に誇りをもたず、靖国の英霊に頭を下げず、伊勢神宮にも行かない。それは日本国民ではありません。日本国民とは何かというと、2800年の歴史を有する大和民族の民であり、伊勢神宮を日本建国の神として崇め、先の大戦で亡くなられた英霊を靖国神社で参拝します。
 その双方とも統合しているのは天皇陛下です。天皇陛下は日本の歴史を代弁しているのです。これを教えない、敬わない創価学会員は日本人ではありません。このようなことを教えている創価学会は最低の人間のクズです。自国に誇りを持たせないで、「日本の歴史は侵略の悪い歴史」だと教え、左翼と同じ考え方をもっています。
 「日本の歴史は恥ずかしい歴史、人殺しの歴史、朝鮮半島で多くの人々を殺し、悪さをした戦争の張本人である」。何故、このようなことを教えるのでしょう。このようなことを教える奴は最低です。学会員に聞くと「池田大作がよいことをした」、「我々は世界平和のために頑張っている」と言います。
 「ワールドピースだ。世界平和だ。我々はそのために日夜頑張っている」など、例えそれが本当だとしてもこのようなことを教えている団体は絶対に許せません。自分に誇りを持たせないように考えて韓国の中に創価学会をつくり、韓国創価学会は反日をやっているのです。
 従軍慰安婦問題では、日本の着物を着た連中が土下座をして朝鮮人に謝っているのです。統一教会と同じです。本当に悪い奴らです。これは、池田大作が朝鮮人であることに大きな要因があるのです。
 朝鮮人とは、自国の歴史に誇りが持てないから、「世界平和」だと言うのです。自国に歴史を持っている日本が憎らしいのです。朝鮮人は「歴史を持っていること自体が悪だ」という考え方をするのです。
 自分たちに歴史がないので、「我々は世界人だ」と言うのです。池田大作がそのように言うのです。「日本人の誇りをもとう」など一度たりとも言ったことはありません。
 朝鮮人だから日本人を軽蔑しているのです。これが諸悪の根源です。「朝鮮人で何が悪いのよ!」と学会員は言います。「朝鮮人だっていいじゃないか。池田大作は偉大だ」と言うのです。そんなことはないのです。
 日本人に日本人の誇りを教えない偉大な先生がどこにいるのでしょう。それが僕の考える創価学会の最大の悪です。
 戸田城聖先生も牧口常三郎先生も愛国者です。牧口先生は「この戦争は日蓮大聖人様の仏法に帰依しないと負ける。戦争に勝つためには日本国中が日蓮大聖人様の仏法に帰依しなければいけない」と言われたのです。
 それを創価学会はウソをついて「戦争を反対された牧口先生」と言っているのです。違います。牧口先生は「戦争は勝たなければならない。そのためには全員が日蓮大聖人様のお曼荼羅を護持して祈りをかけなければ戦争に負けるぞ」と言われたのです。全然、違います。
 戸田先生は「東洋広布」ということを盛んに言われたのです。「日本の思想を東洋から広めていくのだ」と言われたのです。「世界平和」など当たり前のことで、そんなことは言っていません。
 朝鮮人の池田大作の代になり、そのようなことを言いだしたのです。朝鮮人は何も誇るべきものがないから、「世界平和」、「韓日友好」、「我々は恩があるのは韓国である。大恩ある韓国に足を向けては寝られない」などと言い出したのです。
 昔、池田大作は親父から「卵はケルンという」、「ソウルの夜景は美しい」と教わったのです。韓国のどこが美しいのでしょう。
 そのように何が悪いのかということを僕が徹底的に追及しています。あるところで言われましたが、「正理会は何を説いているのですか?」と聞かれましたが、明快に答えます。
 正義を説くのです。正義の中には3つあります。一つは仏法の正義です。「仏法とはどのようなことを説いたものか」という仏法の正義を極めるのです。
 次に国の正義があります。ここは韓国ではありません。日本国です。日本国には日本国の正義があるのです。どのような正義かというと、2800年の長きにわたってこの国を連続させてきたという正義があります。2800年続いた歴史は、立派な正義です。天皇も正義です。日本国創立以来、ずっと天皇は続いているのです。それを「なくせ」という奴は正義ではありません。悪魔です。すべて朝鮮人がらみです。天皇は後から絶対につくれません。経済大国になり世界一になったところで、天皇はつくれません。それと歴史をつくることはできないのです。この歴史をふみはずしてはいけません。これが第二の正義です。
 仏法を離れて、日本国を離れて、人類と見た場合、人類の正義があります。人類は大きな歴史の流れを持ち、野蛮人からどんどん進化して文明人になっているように思いますが、人間の正義とは何でしょう。その中にはヒューマニズム(人文主義)、デモクラシー(民主主義)というものが入ってきます。これは普遍の原理とも言えます。
 これはこれで価値があり、「人類」でみた場合はこれを大事にしていくことが正義です。独裁者は反対のものです。
 仏法の正義、国の正義、人類の正義、この3つを教えていくことが正理会の使命です。池田大作はすべてはずれています。だから邪教だと言っているのです。声を大にして「邪教、創価学会!」と言っているのは理由があるからです。いい加減に目覚めなさい!

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2016年03月22日

人間の探究 470 ニューヒロイズム

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※秩序ある自然が大事です。これが「ニューヒロイズム」です。
すぴーかー「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



人間の探究 470 ニューヒロイズム

 矢追純一さんは「ヤオイズム」を説いています。これは中国の「タオイズム」をもじっています。「タオ」とは儒教の教えです。道教の教えを知ることを「タオイズム」というのです。
 「ヤオイズム」と「タオイズム」の内容は非常に似ています。「タオ」とは、中国の自然を探求する道教思想です。矢追さんが言っていることは道教思想です。
 では僕も中杉弘の「弘」をとって、「ヒロイズム」をつくろうと思います。ところが「ヒロイズム」というと「英雄(ヒーロー)」という意味があります。英雄主義という意味もあるので、それをわけて「ニューヒロイズム」とします。
 一体、僕は何をやっているのかというと、「ニューヒロイズム」を広めているのです。このように答えればよいのです。「私たちはニューヒロイズムをやっているのよ」と言ってもよいのです。
 今まで、様々な思想の流れがありますが、「タオイズム」は自然に適合しようということです。無理をしてはいけません。天地は自ずから道があります。その道に身を委ねていれば自然にどこかに行くのです。
 人間が焦って「こうしなければならない」とか、「ああしなければならない」などという頑張りはやめましょう。自然のままです。雨が降ったら酒でも飲んで、晴耕雨読です。晴れたら畑を耕して、雨が降ったら本を読むのです。これは自然にそった生き方です。これも「タオイズム」です。
 仙人がこのような生き方をします。「政治の世界は嫌だ。私は竹林に入って、竹林精舎となり、「自然のまま生きるのだ」という生き方です。
 矢追さんも自然のまま生きているのです。「受験勉強など、したことがない」と言っています。受験勉強をして、頭がガチガチに固くなり、「何が何でも合格する!」などと勉強したことはないのです。それでも「中央大学に合格したのだ」と言っています。
 矢追さんが日本テレビに入社したときも、頼まれたからやっただけで「何が何でも日本テレビに入社する!」などと思ったことはありません。何も欲はないのだけれど、自然に高校を卒業して中央大学の法学部も卒業して自然に生きてきたのです。
 我利我利に勉強したことは一度もありません。しかも、すべて「楽しかった」というのです。生活も楽しむ、バイトも楽しい、妹たちの面倒を見るのも楽しい、みんな楽しいのです。毎日起きてくることにワクワクして生きているのです。
 今は「死んでみたい。死んだらどうなるのか、楽しみだな。思っただけでもワクワクするよ」と思っているのです。「長生きしたい」などという考えではないのです。自然の流れに基づいていくという考えです。
 「タオイズム」には、秩序はないのです。「タオイズム」を発展させたのが「ヤオイズム」です。僕の「ニューヒロイズム」は英雄主義ではなく、「秩序ある自然の流れ」です。自然の流れに身を任すことはよいことですが、それも秩序の中で生きなければならないのです。
 何事にも秩序があります。男には男の秩序があります。だから男はオカマになってはいけないのです。これは自然です。女には女の秩序があります。これに従って生きることが自然です。
頭のよい人間もいれば馬鹿な人間もいます。自分がだいたいどの位置にいるのかを知っていくことが秩序ある自然です。
 国家にも秩序があります。秩序がなければISISのような殺人鬼が出てくるのです。国家という自然の流れが、この日本国にはあるのです。その国家には中心点があります。中心点とは天皇です。天皇を大事にして国家(秩序)と共に生きていくということが、「ニューヒロイズム」です。これが「秩序ある自然」ということです。
 一家には一家の主人がいて、家があります。この家を支えていくということが、秩序ある自然です。「人間は自然だから、何をやっても自由なのだ」というわけではないのです。秩序ある自然が大事です。これが「ニューヒロイズム」です。
 世界もそうで、秩序ある自然でなければいけません。無秩序ではダメなのです。秩序がなければいけません。星の運行にも秩序があるし、月と地球の関係も秩序があるのです。何にでも秩序があります。この秩序を大事にして、自由に闊達に生きて行くことが一番よいのです。
 秩序とは、「分を知る」ということでもあります。「自分とは何ほどのものか」と知ることです。分不相応なことをやると、事件になってしまいます。自分の分をよく知って「私はこれができるけれども、これはできないな」という秩序をよく知ったうえで、自然に生きていくということが大事です。
 これを「ニューヒロイズム」といい、このような新しい生き方にしていきたいと思います。

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2016年03月21日

人間の探究 469 法華経とUFO

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※UFOの話と法華経は、よく似ているのです。まさにUFOのことではないかと思うことが説かれているので紹介します。
すぴーかー「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



人間の探究 469 法華経とUFO

 UFOと法華経は何の関係もないように思えます。大部分の皆さんはそのように思っているはずです。仏教とUFOはどのような関係があるのでしょう。
 法華経を何度も読んでみるとわかることがあります。「もしかしたら法華経はUFOのことを説いているのではないか?」と思える個所が何か所もあります。UFOの現れ方は、突然現れて、1つのUFOが3つに別れたり、瞬間に止まり、瞬間に消えます。まさに異次元の世界です。人間にはできないことはたくさんありますが、UFOは何でもできます。
 まず、時を超越することができます。UFOにはおそらく過去も未来もないのだと思います。空間を曲げることができます。この空間を曲げる力がないと何百光年先から地球に来ることはできません。
 ご存知の通り1光年とは、光の速度で走って1年かかることをいいます。人間の技術では光の速度の100分1以下です。光はすごく早いのです。アインシュタインは「光よりも早いものはない」と言っています。光速は超えられないのです。
 それでは、100光年先の天体に行こうと思うと、光の速度で100年かかります。そんなことは人間にはできません。ところが現実的に宇宙人は何万光年離れたところから、地球に来ているのですから光の速度で来ているわけではないのです。空間を曲げる技術を持っているのに違いないのです。
 宇宙人はテレパシーで交信します。しゃべる必要がないのです。だからUFOの中には操縦席がありません。テレパシーで操縦すると言われています。UFOは真に不思議なものです。
 ある人には見えても、ある人には見えなかったりします。こんな不思議なものは摩訶不思議としかいいようがありません。「UFOとは何だ?」と自分の頭でいくら考えても考えることはできません。考えることができないからみな「UFOはない」というのです。
 UFOがないのではなく、自分の頭で考えることができないだけなのです。客観的に見てもUFOが存在することは違いない事実です。
 まだ不思議なことがあります。矢追さんによると宇宙人は死なないのです。永遠の生命を持っているのです。計り知れない昔から生きていて、今も生き続けている存在だと言っています。
 UFOの話と法華経は、よく説いているのです。まさにUFOのことではないかと思うことが説かれているので紹介します。
『法華経 如来寿量品第十六』
 「我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり
常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり」

自分が仏になってからの時というものは、無量×百×千×万×億歳阿僧祇という、とてつもない長い間、常に法を説いてきたのです。計り知れない衆生を教化して、仏道をわからしめようとしてきたのです。しかしより無量劫の時が経っています。
「衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず」
本当は私は死なないのですが、皆のために亡くなったという仮の方便を説きます。本当は死んでないのです。
「而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以って 転倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ」
本当はいつも仏というものはいるのですが、衆生には見えないのです。ひっくり返って愚かな頭をしている衆生には、近くに行っても私を見ることはできません。
「衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し 咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず」
「私が死んだ」と聞くと、広く舎利を供養して、渇仰の心をおこすのです。
「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」
どうしたら私に会えるのかというと、素直な心で「本当に仏様はいる」、「UFOはいる」と信じている人には、私は顔を出します。まさに法華経で説いているのはUFOです。
「どのようにしたらUFOに会えるのか」または「仏に会えるのか」というと、「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」と言われているのです。
「UFOに会いたい、なんとしてもUFOに会いたい。どうしても会いたいのだ」と一心に見て、命もいらないくらいUFOに会いたい」と思っているならば、その人にはUFOが見えるのです。
「時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」
しかも、UFOは編隊をもっています。まさに衆僧です。私と共に出るのです。
「我時に衆生に語る 常に此に在って滅せず」
私は死ぬことはないのだ。宇宙人は死ぬことはないのだ。本当は死んでいないのだけれども、死んだふりもするし、消えてなくなったりもします。
「方便力を以っての故に 滅不滅有りと現ず 余国の衆生の 恭敬し信楽する者有らば 我復彼の中に於いて 為に無上の法を説く 汝等此れを聞かずして 但我滅度すと謂え」
これが方便力という神通力です。また他の誰かが供養して信楽するならば、私は無上の法を説く。
これはどうみてもUFOのことを説いています。UFOのことを説いていると言えばピタッと当てはまります。
「仏とは何か?」UFOの中の宇宙人は死なないのです。空間を曲げ、時を曲げ、重力を変えて、不思議な形で天に現れるのです。「法華経はUFOのことを説いているのではないか」と思ってみると非常によくわかります。
UFOとはおそらく仏界です。だから争いなどないのです。人間だけです。ISISが人々を虐殺したり、馬鹿みたいに大砲をバンバン撃って、人間は野蛮で低級な生き物だとわかります。
一心に仏を見たてまつらんと欲しているならば、本当にUFOは出てきて永遠の世界がそこに出てくるのです。我々が仏法を修行していくということは、宇宙人になっていくことでもあるのです。宇宙人になってしまえば、馬鹿だとか殺し合いだとか、そんなことはあり得ないのです。
そのような意味で法華経をもう一度皆さん読んでみましょう。面白いですよ。

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