2019年06月

2019年06月30日

『生きている大日本帝国』中野学校とアジアとの交流

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※陸軍中野学校平面図

『生きている大日本帝国』

中野学校とアジアとの交流

 インドネシア独立戦争の中核となったペタの育成には、陸軍中野学校も大きく関わっています。中野学校は、一九四〇(昭和一五)年に、スパイや宣伝、謀略戦を教えるため、岩畔豪雄(いわくろひでお)中佐らによって設立されました。映画や小説の題材にもなっている有名な軍学校です。
 陸軍は敗色が濃厚になると、残置謀者の養成に力を入れることになります。これまでも残置謀者について触れてきましたが、敵の占領地域に意図的に留まり、そこでスパイ活動を続ける工作員のことです。スパイ活動といっても、情報収集や破壊工作などにかぎりません。現地の人間になりきってしまい、現地軍の指揮を担当したり、さらには政権中枢に食い込んである国を親日的政策に誘導することまで実現してしまうのです。
 そのため、中野学校の学生は軍服ではなく背広姿で長髪でした。「息子が軍人になった」と思っていた親は、子供が帰ってくると長髪なので叱ったという話も伝わっています。スパイ養成機関ですから、中野学校に通っているなどとは話してはいけないのです。また、記録もそれほど残っていません。名簿も残っていないので、だれが中野学校で教育を受けたのかも不明です。
 そして、大川塾同様、中野学校で学生は徹底して語学を叩き込まれました。四五年になると、東京帝大、東京外事専門学校(東京外大の前身)、拓殖大、早稲田、慶応、明治などの一般の学生を広く集めています。彼らを朝鮮から東南アジア、インドまで広く派遣し、残置謀者として活躍するようしました。中野学校は静岡にも二俣分校をつくり、ここでも人材を養成しています。第一章で触れた小野田さんは、そこの出身です。二俣分校には八〇〇人ほどの学生がいたことがわかっています。
 そして、中野学校の出身者は、第二次大戦に敗北後も、多くが現地に残ったのです。大川塾の塾生もそうです。さらには、第一章で述べた玄洋社系の黒龍会、青龍会などの要員も、アジア各地に散らばっていきました。そして、「大東亜の解放」を胸に、彼らは各地で独立闘争を闘ったのです。
 インドネシアの例と同じく、各地で将校の養成から入り、日本軍と同じ教育をして独立軍の育成に努めました。その結果、インドも東南アジアの各国も独立を勝ち取ることができました。そして、七五(昭和五〇)年にアメリカがベトナムから撤退し、大日本帝国は一応の勝利を収めたのです。すべての東南アジアで白人を追い払い、現在、白人の植民地の国は一つもありません。
 その七五年にタイの首相となったククリット・プラーモードは、記者時代に「一二月八日」と題した記事を書いています。「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。さらに八月十五日は、我々の大切なお母さんが、病の床に伏した日である。我々はこの二つの日を忘れてはならない」
 マレーシアでも、日本軍が支配すると、すぐにマレーシア独立のために訓練所を造り義勇軍を養成しています。さらに日本は、南方特別留学生制度を創設し、アジア諸国の若者を日本に集め、指導者養成を目指しました。そのため、戦後すぐマレー半島にイギリス軍が戻ってきても、激しい戦闘を避けたいイギリスから譲歩を引き出し、五七(昭和三二)年にマレーシアはスムーズに独立を果たしました。
 南方特別留学生の第一期生でのちにマレーシア上院議員となるラジャ・ノン・チックは、『日本人よ、ありがとう』(土生良樹著、日本教育新聞社)という書籍に次の序文を寄せています。「かつて日本人は親切でこころ豊かだった。アジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命つくしてくれた。……戦後の日本人は自分たち日本人のことを悪者だと思い込まされた。学校もジャーナリズムもそうだとしか教えなかったから、まじめに自分たちの父祖や先輩は悪いことばかりした残酷無情なひどい人たちだったと思っているようだ」
 大東亜戦争がアジアの解放であったことは、いまでも世界の常識なのです。

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2019年06月29日

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』仏法と宗教 19 比較思想論 

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※スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(Steven Paul "Steve" Jobs、1955年2月24日―2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家です。

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』
仏法と宗教 19 比較思想論 

仏教は、宗教学の分類では宗教学の中に入っていますが、仏教だけは全然違います。仏教はそのような意味でいうと、宗教ではありません。「仏教が何であるのか?」ということを知りたければ、『ミリンダ王の問い』があります。「これを読むと少しは仏教がわかってくる」と小室直樹先生は言われていました。これが仏教です。
仏教は、宗教ではありません。宗教学で宗教というと決まっているのです。神道では、「子供が生まれると何歳で七五三をやる」ということが決まっています。キリスト教では、バプテスト(洗礼)になります。
神道の場合は、七五三で人間社会に入っていくという区別をつけるのです。これを通過儀礼といいます。それから、教義、葬式の方法、お祀りの方法を研究していくのが宗教学といいます。
要するに宗教学とは、東大教授の中村元先生が言われた比較思想論です。みんな人間は宗教を持ちます。子供が生まれて社会に出る印が日本では七五三です。キリスト教ではバプテストです。死んだ時にはキリスト教では、「アーメン」といいます。日本人は黙とうをします。「宗教に違いはあるけれども同じではないのか?」という比較する学問が比較思想論です。 
人間が生まれて死んでいく過程があります。その過程を一つ通過するごとに宗教的な儀式になっているのです。そのようなことです。それを研究していくのが宗教学です。その中で、「どのような思想が語られているのか?」ということを研究するのが比較思想論です。
比較思想論の有名な話が「キリスト教の愛と、仏教の慈悲はどのように違うのか?」ということです。「違いはないでしょう」というのが、比較思想論です。「仏教では慈悲といいますが、西洋では愛ととらえているのだ。愛という言葉と、慈悲という言葉は違いますが、内実は同じ意味だろう」そのように見ていくのです。
すると「各宗教で様々なことを言っている話も、違うことを言っているように思いますが、よく考えてみると同じことを言っているのではないか?」ということです。思想を比較して違いを述べるのではなくて、「貴方の宗教も同じですね」ということを理解していく運動のことを比較思想論というのです。
その中で、「仏教だけは一般の宗教とは違う」と思ったほうがよいのです。スマホを発明したスティーブ・ジョブズも座禅を組んだのです。
スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(Steven Paul "Steve" Jobs、1955年2月24日―2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家です。アメリカ国家技術賞を受賞しています。1955年2月24日、シリアからの留学生で政治学を専攻する大学院生アブドゥルファター・ジャンダリと、アメリカ人の大学院生ジョアン・シーブルとの間に生まれました。
スティーブ・ジョブズは導師を求めて「インドの旅をしたい」と考えていました。インドにたどり着いたのですが、すぐに赤痢にかかって苦しむことになったうえ、放浪の末に想像とあまりにもかけ離れたインドの実態に失望したのです。
結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、曹洞宗の禅僧である鈴木俊隆を導師としてサンフランシスコで禅を学び、瞑想やスタンフォード大学の授業聴講などをして、内面の自分探しをしたのです。(△紡海)

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2019年06月28日

人間の探究 1312 鶏の暁に鳴くは用(ゆう)なり

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※夜の12時になって「コケッコッコー」と鳴いたら、本来、鶏がもっている用(ゆう)のものではなく怪物だというのです。物怪(もっけ)とは、そのような意味です。鶏は朝に鳴く鳥ですから、夜中に鳴く鶏は本来の姿ではありません。

人間の探究 1312 鶏の暁に鳴くは用(ゆう)なり

「鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪(もっけ)にあらずや、されば末法今の時法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道堕地獄の根源法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し。」(如説修行抄)

 「鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり」

 「用(ゆう)」とは、何かというと、本来のものだということです。鶏が朝になって「コケッコッコー」と鳴くのは、本来の姿です。
 それが夜の12時になって「コケッコッコー」と鳴いたら、本来、鶏がもっている用(ゆう)のものではなく怪物だというのです。物怪(もっけ、化け物)とは、そのような意味です。鶏は朝に鳴く鳥ですから、夜中に鳴く鶏は本来の姿ではありません。
 この話は僕もよく聞きました。創価学会幹部の(故)梅沢登四男から聞いた話ですが、「池田大作は物怪だよ」と言っていたのです。「あれは化け物だよ」と言っていたのです。梅沢登四男は、池田大作に近い立場にいたから、よくわかるのです。池田大作は、物怪(化け物)です。人間としての用(ゆう)を成していないという意味です。
 人間には同情心や憐れみや慈悲があります。池田大作のやっていることを見るとそのように見えるのです。しかし、実際に池田大作がやっていることは収奪です。
 学校を造って「勉強しなさい」と言っている傍らで、高い授業料を取るのです。政治家をつくって、池田大作が海外へ行く時には、公明党の議員からお金をピンハネしていたのです。立花孝志君と同じです。
 議員たちはそれで飯を食っているから、「先生、外出するのですか?」と聞いて、お金を包んで池田大作にもっていったのです。これが物怪です。議員から100万円くらい出させるのです。
 1回海外に外出すると池田大作は、3千万円くらい儲かってしまうのです。池田大作は物怪だったのです。普通の人間が考え付かないことをやるのです。
 立花君もそのような意味では物怪かもしれません。あんなお金の使い方は、物怪です。人間ではないのです。物怪なのです。
 今でも梅沢登四男の言葉を僕は覚えています。「中杉さん、池田大作は物怪ですよ。傍で見ると本当によくわかる」と言っていたのです。池田大作は、人の奥さんでも平気で手を出して妊娠させます。お金は何処まででも欲しいのです。物怪は正体を現すのです。
 だから、池田大作の次男は胃に穴が開いて死んだのです。長男は嫁が逃げて離婚です。馬鹿な一家です。池田大作の正体は朝鮮物怪です。創価学会は、朝鮮物怪が現れたのです。
 「権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」
 日蓮大聖人様は、「仏教には権教と実教があるのだ」と教えられているのです。教えているのにも関わらず、衆生は権教を信じているのです。権教とは、具体的に言うと阿弥陀経です。
 一応、阿弥陀経も大乗仏教の中に入っていますが、実教が出る前ならば、阿弥陀経を信じてもよいのです。まだ、実教は出ていません。その時ならば阿弥陀仏を拝んでよいのです。
 阿弥陀様もお釈迦様が説いたものなのです。阿弥陀経が出てきて仏教というものが、修行するものから、拝むものに変わっていったのです。そのきっかけをつくったのが、阿弥陀経です。
 山に入って滝に打たれて一人で修行するのが仏教だと思っていたのです。そのような人々に対して、「西方極楽浄土に阿弥陀仏がいるのだよ。あの極楽浄土へ逝って幸せになることが仏教の目的だよ」と言ったのです。(他力本願)
 これは、衆生に「信じる」ということを教えたのです。その時は、阿弥陀経を信じて成仏したのです。実教が出てくる前は効果があったのです。法華経はそうではありません。「極楽に往生しよう」という考えではありません。
 法華経は「成仏する」という、仏に成る教えです。何処かの仏に助けてもらうのではなくて、自分が修行して「仏に成る」という教えが法華経です。だから、法華経のことを実教といいます。実教より上の教えはありません。
 仮の教え(権教)が阿弥陀経です。その上の教えが法華経だから、法華経を教えられたら、そのまま信じればよいのです。
 それが、権実雑乱の時には、権教と実教が入り乱れているのです。日蓮大聖人様の時代は、念仏の寺が10万社あったのです。みんな「南無阿弥陀仏」と唱えていたのです。念仏を「仏教だ」と思い込んでいたのです。
 日蓮大聖人が最初に入られた清澄寺も念仏の寺です。「その寺は何宗なのか?」というと、天台宗ですから、滅茶苦茶です。天台宗の寺なのにやっていることは阿弥陀経を教えていたのです。そのようなことを「権実雑乱」というのです。
 権教と実教の違いもわからず、何だか知らないでみんなごちゃ混ぜに取り入れて、何が仏教なのかわからない状態のことをいうのです。
 仏に成る方法は、法華経しかありません。それならば、間違いを言わなければいけません。「末法に権大乗経である阿弥陀経を信じることは間違っています。今は、法華経の時代です。南無妙法蓮華経を修行することが、法華経の究極の姿です」と教えていかなければいけません。
 それを教えないで、自分が山に入って座禅を組んだり、滝に打たれたり、わけのわからないことをやっているならば、これは物怪です。物怪と同じようなものです。末法は、「法華折伏」と言うのですから、折伏を行じなければいけません。
 阿弥陀経は間違っています。禅宗も間違っています。「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」です。「法華経を信じなさい。それ以外に成仏する方法はありません」、そのようなことを声高に叫んで折伏行に励むことこそが仏に成る道です。
 折伏行をしない人は、信仰しているのは自分だけですから、自分の中でグルグルと回ってしまい、何も出てきません。外に向かって衆生の信仰を直そうと思って折伏行に打って出た時のみが、外とつながり仏に成っていくのです。日蓮大聖人様は、そのように教えられているのです。
 「されば末法今の時法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道堕地獄の根源法華経独り成仏の法なりと」
 末法においては、様々な邪教が出てきて、法華経をないがしろにしていくけれども、「成仏する法は法華経しかありません。貴方は、間違っていますよ」と、これを声高に叫んでいきなさい。成仏しようと思ったら、この法華経を信じて、折伏を行じていくしかありません。これが末法の修行です。
 末法は滝に打たれたり、お題目を唱えて歩いたり、水をかぶっても、何の意味もありません。今は折伏を行じていくことが仏道修行です。他の修行は必要ありません。末法は一重に「法華経だけが正しい」と言っていけばよいのです。その他の修行方法はありません。
 「音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し。」
 その折伏を行じていくと三類の強敵が現れてくるのです。三類の強敵とは、俗衆増上慢・道門増上慢・僭聖増上慢です。俗衆増上慢は、法華経の行者を迫害する、仏法に無智な人々のことをいいます。道門増上慢は、法華経の行者を迫害する比丘(僧侶)のことです。僭聖増上慢は、人々から聖者のように仰がれている良観のような高僧です。
 これらが敵となって法華経の信者に襲ってくるのです。「何故、阿弥陀様の悪口を言うのだ。許さんぞ!」という連中が鉈や鍬をもって押しかけてくるのです。正理会はもうそのような経験をしています。三類の強敵が、わけもわからないクセに襲ってくるのです。
 三類の強敵が現れたことをもって喜びとしなさい。貴方は充分、仏様の御使いをしているのです。仏の御使いをするのですから、いつの頃からか仏に成っているのです。仏様の御使いをしない奴は、いつまで経っても仏にはなれません。
 寿司屋に入って、親父さんの言うことを聞いているから寿司屋になれるのです。ラーメン屋も同じです。仏教の世界に入ったならば、仏様の御使いをして、その通りやっていくと自然に仏になってしまうのです。真に有難い教えです。凡夫を仏に変えていく有難い経典が法華経です。それを南無妙法蓮華経と言うのです。

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2019年06月27日

人間の探究 1311 全てのものは妙から起こる

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※今、宇宙人の話をヒストリーチャンネル「古代の宇宙人」で放送していますが、何しろ、この番組はおかしいのです。「人間は宇宙人により創られた」というテーマです。

人間の探究 1311 全てのものは妙から起こる

「天台の御釈に云く「人の地に倒れて還つて地より起つが如し」等云云」(法華証明抄)

 我々は一体、何処から生まれてきたのでしょうか? 今、宇宙人の話をヒストリーチャンネル「古代の宇宙人」で放送していますが、何しろ、この番組はおかしいのです。「人間は宇宙人により創られた」というテーマです。
 それでは、疑問が出てきます。「人間を創った宇宙人は誰が創ったのでしょうか?」そのような話は終わりがありません。「地球にいる人間は宇宙人が創ったのだ」と言うのです。「その宇宙人は何処からきたのでしょうか? 宇宙人は誰が創ったのでしょうか?」
それを追っていくとキリがありません。何処まででも追っていくことになります。そのような見方もおかしいのです。「宇宙人が地球にいた獣人と宇宙人の遺伝子を操作して出来たのが人間なのだ」ということが一貫したテーマです。
 それは間違っています。要するに、人間は何処から出てきたのか、わからないのです。我々は何処から出てきて、どの世界に向かっているのでしょうか? 
 我々の存在は宇宙人がいて、人間を創ったのではなくて、空間の中に掘っていけるものがあるのです。宇宙の果ての話ではありません。この空間の中に様々な世界があり、全て入っているのです。
 それを引っ張り出していくと、そこに不思議な世界があるのです。我々の生命というものは、妙法から出来ているのです。この場合の妙法は、生きていることを「法」といいます。その法を生みだしているものは、「妙」なのです。
 しかし、本来は妙法ととらえるべきであり、妙と法が別々にあるわけではありません。あえて説明すると、我々が生きているときを「法」といい、死んだ時を「妙」と言っているのです。
 我々はここから出来ているのです。妙法という中に何でも入ってしまうのです。妙法はどのくらい大きいのかというと、無限大です。どのくらい小さいのかというと、それも無限小です。
 妙法は何処まででも小さくもなれば、何処まででも無限大になるのです。この妙法という法は変わりません。この妙法のことを命ともいいます。別の言葉で言うと、「妙は死、法は生なり、生死の二法は一心の妙用」といいます。
 一つのものが生と現れて、或は死と現れているのです。「死んだら何かが無くなるのか?」というと、何も無くなりません。元のままです。第三者から見ると、「ああ、あの人は死んでしまった」と見えるのです。
 今まさに死にそうな人がいたら、その人にとって死などはありません。それはそうです。「もう死ぬのかな?」と思っても、「あれ、今死んだのかな?」とは思えません。いつから死んだのかわかりません。
 第三者から見ていると、「ああ、お爺ちゃん死んじゃった」と思うのです。肉体から何かが無くなったのです。しかし、人間の形はソックリそのまま残っているのです。だけれども、お爺ちゃんは動かないのです。これは、妙法がなくなってしまったから動かないのです。
 生と死は同じものなのです。ただ、妙として生きているのか、法として生きているのか、違うように見えるだけです。「物事の根本は妙法です」というけれども、ただ一言で言うならば、不思議なるもの「妙」なのです。妙の一字です。
 富士大石寺の猊下が言っていました。「妙法を縮めると妙です」だから、大石寺のことを妙宗といいます。そのように言っていた時期があるのです。日蓮正宗ではなくて、妙宗と言っていたのです。妙が根本です。妙を教える宗教だから、妙宗と言ったのです。大石寺は意味もわからないでそのように言ったのです。
 本当は妙法です。さらに縮めると「妙」なのです。妙と妙法は同じことなのです。縮めたかどうかだけの話です。
 妙法とは、万物が生まれてくる根本の法則です。我々は妙法で生きているのです。生きている世界は法です。法に従ってこの世に生まれてきたのですが、あちらの人とぶつかり、こちらの人ともぶつかって上手くいきません。「アル中になってしまいました。助けてください」「病気になってしまいました。助けてください」といっても、どうすればよいのでしょうか?
 貴方は妙から出来ていると知らないでしょう。だから、妙に触れなさい。妙に触れるのです。妙にお願いするのです。妙から出てきたのです。元気になりたかったら妙からお願いするのです。
 これをもっと正確に言うと、妙のことを南無妙法蓮華経と言うのです。南無妙法蓮華経の信仰を本当にすると若返るのです。女も美人になるのです。そして、お金にも困らなくなるのです。
 お金がない金欠病は病気です。そのようなものからだんだん遠のいて、妙法の光が輝いてくるのです。極意に到達した人は、オーラが出るのです。だから、オーラが出るまでやらないと信仰は本物ではありません。
 本当にオーラがある人に会うと、頭が下がってしまうのです。無明の中を生きている人は、どうすることもできません。こちらは妙法から生きていると知っているのです。相手は自分が何をやっているのかわからないのです。
 相手からこちらを見ると「凄いオーラだな」とわかるのです。そうなってしまうのです。そうならなければなりません。「私もオーラが出てきたな」と、感じると妙の光が輝いてきているのです。
 「人の地に倒れて還つて地より起つが如し」
 人が倒れたら、地面に手をついてまた立つのです。それと同じです。人生に行き詰まり、地面に倒れたならば妙から始めるのです。
 妙の修行をやっていくと運も開けてくるのです。病気も治るのです。人間関係も上手くいくようになるのです。全て妙から出来ているのです。妙のことをもっとわかりやすい言葉でいうと、オーラと言ってもよいのです。
 この妙の正体を明らかにするとそれが妙法です。妙法は、蓮華の法から出来ているのです。これを学んで修行していく人を「法華経の信者」というのです。
「因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(当体義抄)
この関係がわかってくるとだんだんオーラが出てくるのです。「私は法華経を信じた」と言っても、何を信じているのかわからないのです。創価学会員のように「あのふっくらしたお姿の池田チェンチェーを信じています」と言っているようでは、どうしようもなりません。
 或は「お寺の猊下様を信じています」などと言ってもダメなのです。そんなものを信じても、何も変わりません。妙法を信じていくことが信仰の極意です。


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2019年06月26日

人間の探究 1310 心の師とはなっても、心を師とせざれ

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※ 衆生は、「三車火宅の喩え」のように、燃える火の家の中にいるようなものです。ちょっと触ると、「アッチッチ」です。政治家になっても、「アッチッチ」です。三界を脱するのです。これが法華経の教えです。

人間の探究 1310 心の師とはなっても、心を師とせざれ

「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曾谷入道殿御返事)

 これは、現代人にとって非常に大事なところです。現代人はこの文章を読んで思慮してもらいたいと思います。
 現代人にとっての心とは、自分です。心の赴くままに従って旅行したり、ダンスをしたり、ゴルフをしたりするのです。これは、心が命じるのです。「今日は酒を飲みに行こうぜ」「今日はダンスをしに行こうぜ」「今日は馬券買いに行こうぜ」と、命じているものは、心なのです。心が命じているのです。
 自分の「心を師とせざれ」とは、そのようなことです。現代人は、みんなこれです。仏教とはもっと上のものであり、心の師とならなければいけません。心を師としては、いけないのです。現代人は、「心の赴くままに私は希望の人生を送る」というのです。
例えば、「私は100歳になっても、エベレストに登ります」というように、心の命じるままに従って生きているのです。その中には、何処にも人間教育はありません。欲望のまま生きているのです。
現代人の最終的な目標は、「目標達成、自己目的を完結させる」ということしかありません。自分には欲望があります。「映画俳優になりたい」「タレントになりたい」という欲望を目指していくのです。だから、それを超えられないのです。
仏教とは、そのようなものではありません。だから、現代人はまるっきり仏教がわからないのです。創価学会など一人もわかっていません。日蓮大聖人様は、「心を師としてはいけない」と言われているのです。
何故かというと、心というものはフワフワとしたものであり、欲望に突き動かされていつも定まらないものです。「オリンピックに出よう」と決めると心が定まりますが、それもくだらないことです。
「何か面白いことはないかな?」と欲望を求めて、心はいつもフワフワとしているのです。会社を発展させることも同じです。何のために会社を発展させたいのでしょうか?「俺は日本一の会社をつくる」と言っても、「日本一の企業をつくる」というのは目標です。
心がそのような目標を置いたとします。或は、「オリンピックに出る」「世界チャンピォンになる」という目標があります。では、実際に成ったからと言って、どうなるのでしょうか? そのようなことです。それが心というものです。
ところが、この心というものは、いい加減なものです。昨日まである人が好きだったのに、新しい女性が出てくると、コロリとその女性に心が奪われてしまうのです。「こっちの女のほうがいいや」と思ってしまうのです。前に付き合っていた女性とは、「白髪が生えるまで一緒にいようね」とお互いに言っていても、新しい女性が出てくればコロリと寝返ってしまうのです。新しい女性が出て来ると「これこそ、俺が求めていた理想の女だ」と言って、コロリと心が変わってしまうのです。
仕事をやっていても、こちらの人は100万円くれます。あちらの人は200万円くれるのです。すると、100万円くれる人の付き合いを止めて、200万円くれる人にコロリと寝返ってしまうのです。そのくらい心はいい加減なものです。
食べ物もそうです。この間までカレーライスが好きだったけれども、イチローのように野球を辞めたらカレーライスは食べなくなったりするのです。あるゲーマーは、朝は100倍辛いカレーライスを食べているというのですが、何処まで続くかわからないのです。ある日突然にカレーライスを食べなくなってしまうのです。「今度は、親子丼がいい」などと言いだすのです。そのくらい人間の心はいい加減なものなのです。
その心がいい加減だから、一般世間では、「目標を決めなさい」と言うのです。その目標もいい加減なのです。では、どうすればよいのでしょうか? 
日蓮大聖人様は、「自分の心を師としないで、心の師となりなさい」と言われているのです。ここが大事です。心の師になるということが、仏法です。仏法を保たない人は、自分の欲望を師としてフラリ・フラリと毎日、「何か面白いことはないかな?」「何か美味いものはないかな?」と思って過ごしているのです。それではダメなのです。
それでは、「人間の目標とは何ですか?」というと、最終的には仏になることです。そのように言うと、ビックリするかもしれません。人間の目標というのは、完全無欠な人格になり、仏になっていくことが人間の目標です。
「仏になる」ということは、三世に渡って通用していくことです。過去のこともわかり、現在のこともわかり、未来のこともわかっていくという、三世に渡る生き方をして、人格を完成させていくのです。
そして、「ああ、生まれてきてよかったな。今世も使命を果たすこともできました。来世も頑張りますよ」というのが、完全無欠の人格です。
そのような人格をつくっていくことが、人生の目標です。そのためには自分の心を師匠としていたらできません。心以上の師匠を持たなければいけません。これが仏典の教えるところです。
ハッキリと言えば、それが法華経です。法華経の心というものをつかんでいかなければいけません。何回も経典を読んで法華経の心をつかんでいくことが、仏になっていく道なのです。法華経の仏は貴方のことを見ています。
仏は、「早くこちらに来なさい」と言っているのです。貴方がいる世界は俗世間です。そこに幸せはありません。「畜生は残害とて互に殺しあふ」(新池御書)です。そこは殺し合いの世界であり、見栄っ張りの世界であり、闘争の世界です。
「三界無安猶如火宅」(持妙法華問答抄)「三界は火宅の如し」です。心が安らぐ場所は、何処にもありません。燃える火の家の中にいるようなものです。そのような意味です。 衆生は、「三車火宅の喩え」のように、燃える火の家の中にいるようなものです。ちょっと触ると、「アッチッチ」です。政治家になっても、「アッチッチ」です。三界を脱するのです。これが法華経の教えです。
その仏になるべく目指して進んでいくことが、人生の完成です。互いに殺し合って、食らい合うなど誰だって嫌でしょう。「やりやがったな!」と人をガブッと食うと、今度は自分が食われるのです。食ったり、食われたりの世界です。それが三界です。人間社会も全てそのような世界になっています。強い者が弱い者を殺す世界です。「その世界を出なさい」と仏は言われているのです。
仏は、「仏の世界にいらっしゃい」と言われているのです。「そうですか、仏様はどんな教えを説いてくれるのですか?」そのように思う心が貴方を仏教に向かわせるのです。それが貴方の心を師としなくなった状態です。
貴方の心の師は、法華経です。南無妙法蓮華経が師なのです。南無妙法蓮華経を師として、日々進んでいけば、必ず貴方は仏になることができるのです。


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2019年06月25日

人間の探究 1309 死ぬるは一定(いちじょう)

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※本照寺(ほんしょうじ)は、静岡県富士市厚原にある日蓮宗の寺院。実相寺中老日源が、熱原法難(加島法難)の殉教者を弔うため、弘安3年(1280年)に弟子教行阿闍梨日信に命じて、熱原神四郎の屋敷跡に建立されたお寺です。

人間の探究 1309 死ぬるは一定(いちじょう)

「なにとなくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人にわらはれさせ給うなよ。」(兄弟抄)

 要約すると、「死ぬるは一定(いちじょう)」ということは、「死は定まっている」という意味です。生まれた者は必ず死にます。死なない人間などいません。死ぬ時期が早いか、遅いかの違いだけです。日蓮大聖人様は、そのようなものの考え方をしています。
 法華経を信じて、首をノコギリで挽かれるようなことがあっても、そんなことは一定(いちじょう)です。痛いと言っても、苦しいと言ってもすぐに終わるのです。
 「命が大事だ」などと言っていません。「すぐ終わる」と言われているのです。日蓮大聖人様は熱原法難の三弟子には、「すぐに首を斬られなさい」と言われたのです。
熱原法難とは、1279年(弘安2)9月、駿河(するが)国富士郡熱原(静岡県富士市厚原)の日蓮大聖人の門弟や信者に加えられた弾圧です。日蓮大聖人の弟子日興(にっこう)は富士郡一帯に伝道活動を展開し、天台宗の僧侶(そうりょ)や農民から多くの弟子や信者を獲得したので、各地で他宗の僧との深刻な抗争が引き起こされたのです。
とくに熱原の真言宗瀧泉寺では院主代の行智(ぎょうち)と日弁、日秀らが対立し、農民をも巻き込んだ争いとなったのです。
行智は、院主代の田地を刈田狼藉(かりたろうぜき)したとの理由で、百姓の熱原神四郎ら20名を鎌倉に送り、さらに日蓮の信者であることを訴えた。このため侍所所司平頼綱(よりつな)の処断によって、神四郎、弥五郎、弥六郎らの3名は、題目を唱えながら斬首(ざんしゅ)されのです。ほかの者は禁獄されるなど、過酷な刑が執行されたのです。

首を斬られるなど、すぐに終わります。「死ぬるは一定」です。人間は、いつかは死ぬのです。
 今、貴方は何のために死ぬのでしょうか? それは、法華経のために死ぬのです。こんな、チャンスは二度とありません。病気になって、のたうち回って死ぬとか、ボケ老人になって死ぬとか、どちらにしても最期はそうなってしまうのです。
 今、法華経のために首を斬られるというならば、やってもらいなさい。そうすればあとは、永遠の最高の幸せを得ることができるのです。こんな有難いことはありません。信仰の極意はここなのです。
 「死ぬるは一定」です。人間が死ぬことは、もう決まっているのです。人間は必ず死ぬのです。その時になって覚悟が出来ていないと、あたふたしたり、漠然とした死の恐怖に怯えることになるのです。
 三島由紀夫は、「体に管を入れられて、ベッドに結わえ付けられて、そんな状態で命を長らえて何になるのか?」と言っています。ベッドに横たわり、意識も朦朧として、注射針を刺されて、点滴を打って、高い入院費を払い、そのような状態で命を長らえても何になると言うのでしょうか? 「その死が一番みっともない」と言っているのです。
 三島由紀夫は、「そんな死だけは絶対に迎えなくない」と言っていたのです。だから、自決したのです。
 西部邁さんもそうです。首から下が神経痛で、痛くて苦しいのです。77歳になって「俺は来年死ぬのだ」と言っていたのです。「いつとは言わないけれども、俺は来年、自決するよ」と言っていたのです。
 だから、弟子が手伝ったのです。西部邁も考えたのでしょう。魚が口に入ったりするのが嫌だったのでしょう。頭には金網をかぶっていたのです。それなりに死ぬ用意をしていたのです。
 「死ぬるのは一定」です。敦盛の「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」にもあります。人間の生は、わずか50年です。信長は、49歳で死んだのです。
 西郷隆盛は、49歳です。「せごどん」と言われようが、何と言われようが、この世のことは夢なのです。わずか50年で終わりです。
 普段は、「長生きしよう」と思って頑張ってよいのです。それが当然のことです。少しでも長生きして「お役に立ちたい」と思うのは、当然のことですが、「もうここらでよい」という腹をくくっておきなさい。
 「死ぬるは一定」です。もう死ぬことは、決まっているのです。誰も逃れることはできません。お金を何百億円貯めても、死は逃れられません。
 何であろうと、与えられた寿命は一定です。一生懸命、頑張ることは大事ですが、そんなことをいくらやっても、死ぬことを逃れることはできません。ディビッド・ロックフェラーのように心臓を7回も手術して取り替えても、必ず死ぬのです。だいたい、人の心臓を7回も持ってきて、自分の命だけ長らえようなどみっともないことです。
 覚悟をもって生きればよいのです。それが信仰の極意です。自分が死ぬ時には、「死ぬるは一定」と思いだせばよいのです。その時が来たら、「うろたえるな。腹を決めろ!」ということです。それで終わりです。
 そうなのです。我々もそうです。いつ、津波が来るかわかりません。大地震になってペッチャンコになるかもしれません。誰もわからないのです。「そんなことがあっても、うろたえるな! 死ぬならば、死ぬであろう。5時間も経てば死ねるであろう」と思えば、よいのです。
 人間が死ぬ時は、あまり苦しまないで死ねるようになっているのです。死ぬ時は、自然に催眠状態になってしまうのです。だから、泣きわめいたりしないのです。お題目を唱えて「死ぬるは一定、これが最高の人生だ」と言って死ねるように決めなさい。
 法華経のために死ねるならば、最高の人生です。これ以外の人生はありません。南無阿弥陀仏と唱えて地獄へ逝ってしまったら、大変です。針の山、血の海、そんな生活が出てきたら地獄です。
 法華経のために命を捧げるチャンスが来たならば、最高の喜びである。本当に喜んで首を斬ってもらいなさい。それが信仰の極意です。


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2019年06月24日

人間の探究 1308 祈りを叶える

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※オーラが出てくると病気などすぐに治ってしまうのです。オーラが出ないから、病気が治らないのです。

人間の探究 1308 祈りを叶える

「とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならばいかでか祈りのかなはざるべき。」(祈祷抄)

 仏法とは道理だということを教えてきました。間違いなく仏法は道理です。一番大事なものは道理なのです。道理をたがえれば、いくら祈っても悪魔が祈るようなもので、ロクな結果にならないのです。
 大事なことは、人生全般において道理を通すということです。これが大事なことです。曲がったことはしないということです。曲がったことをしていると、その結果が必ず出てきて自分に返ってくるのです。
 とは言っても人間だから、どうしようもならない時があるのです。病気などがそうです。努力しても病気になってしまう時があるのです。
 元気なスポーツマンだった人でも足腰が弱くなり、最期は介護老人です。介護がなければ何も自分のことはできなくなってしまうのです。かつての華やかなスポーツマンだった人の面影もなくなってしまうのです。
 人生には、様々なことがあるのです。その時にどうするのでしょうか? 仏法は道理だから祈ってはいけないのでしょうか? 仏教は道理を正すのです。
 病気になってしまったら、道理を正すも何もありません。「何としても病気を治したい」と思うのが当たり前です。
 そのような時は、「どうかこの病気を治してください」と強盛に祈るのです。ここが大事です。強盛に「絶対に治してください。実際に治るご利益を下さい」と祈るのです。強盛な祈り、これをよく覚えておくのです。
 中途半端な祈りなどは叶いません。強盛に祈るのです。これは効くのです。すると奇跡が起きてくるのです。普段、真面目に筋道を通してきている人には、危機が訪れて、強盛に祈った場合は、本当に奇跡が起きてくるのです。
 そう思ってよいのです。何故かというと、強盛に祈るとオーラが出てくるのです。オーラがある人に会うと、敵意をもっていても敵意がなくなってしまうのです。オーラが出ているのですから、「あの野郎、ひっぱたいてやろう!」と思って乗り込んできてもダメなのです。
 オーラが出ている人の前に来ると、ヘナヘナになってしまうのです。「そうか、オーラとは、そのようなものなのだな」とわかってくるのです。だから、「こうしてください。お願いします!」と強盛に祈る人は、だんだんとオーラが出てくるのです。
 オーラが出てくると病気などすぐに治ってしまうのです。オーラが出ないから、病気が治らないのです。オーラが出てくれば、顔もどんどんキレイになるし、頭もよくなるのです。オーラが出ている人は、どんどんオーラが出てくるのです。
 わかりやすい例でいうと、「愛子さまはオーラが出ている」と言われています。普通の顔なのですが、オーラが違うのです。愛子さまに会った人は、「皇女さま、はっはー」とひれ伏すような、何ものかをもっているのです。オーラとは、そのようなものです。
 ところが秋篠宮家の2人の娘は、オーラなど全然ありません。会った瞬間に「なんだ、このズベ公」と思われるような、オーラと反対の邪悪なものが身についてしまっているのです。まして、プー小室とやりまくっていたら、オーラなどでません。あんな邪悪な男と接触していたら、自分がどんどん汚れてしまうのです。
 もう高貴なもの、有難いものは何もなくなり、スッカラカンの状態です。今は2人ともスッカラカンのズベ公みたいなものです。何が皇女なのでしょうか? どう見ても、オーラが全然ありません。
 もうダメなのです。オーラのなくなった状態を、「オーラが枯れた」と言うのです。枯れたオーラはもう出ないのです。芸能人でも、伸びていく時には、オーラがあるのです。朝、NHKで放送されている「なっちゃん」もオーラの塊です。今はそうです。「この子はいい子だな」と思うものがあるのです。オーラが出ているのです。
 ところが、変な男が出来て悪いことをやりだすと、オーラがなくなってしまうのです。オーラがなくなるから、女優でも不幸な運命を辿ってしまうのです。没落するとは、そのようなことです。みんな不幸になってしまうのです。
 そのオーラというものを育てて、大事にしていかなければいけません。オーラは、道理を通すとどんどん増えるのです。オーラが無くなってしまったら、オーラは出ません。人生、オーラは一度きり、二度は出ないのです。オーラが出てくれば病気は治ります。
 「モーゼがシナイ山に行って戻ってきたら、顔が金色に輝いていた」というのも、オーラです。「金色に輝いて見える」という、オーラです。我々もオーラが輝く信仰をしなければいけません。
 そのためには、問題点を真正面からとらえて、祈りを強盛にかけていくのです。年がら年中祈っているのではありません。普段は、道理を通す生き方をしていて、「ここ一番!」という時には、強盛に祈りなさい。その祈りは必ず天に通じて、貴方の病気は治るでしょう。貴方の前途を阻む、どんな問題でも解決します。そのようなことです。
 僕は、安倍首相を見ていて、「いつ、オーラがなくなるか?」ということを見ているのです。まだ、ちょっとオーラが残っているようです。アメリカ合衆国に逆らうだけのオーラが少し残っているようです。


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2019年06月23日

『生きている大日本帝国』インドネシア

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※スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。 Soekarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。

『生きている大日本帝国』

インドネシア

 現在、インドネシアという国があります。人口は約二億三千万人という大きな国で、一万四〇〇〇のさまざまな島から成り立っています。インドネシアの島の数を正確に数えたことが、だれもまだないのです。この国はゴム・石油・鉱物など、非常に資源が豊かな島で、これからの経済発展を期待されています。
 白人はインドネシアを「エメラルドの首飾り」と呼んでいました。そしてオランダが、一六〇二年にインドネシアを植民地にしてしまいました。それから三五〇年間、オランダがインドネシアにとった政策は、文字を教えなかったことです。インドネシアには言語が二五〇から三〇〇ほどあるので、言語の統一もさせませんでした。言語が統一されてしまうと、分割統治という植民地支配お得意の手法が危うくなるからです。
 言葉が統一されるとナショナリズムが高まり、反乱の火種となります。ちがう言語が並存していれば、統一自体が難しくなるので、オランダは教育を普及させず、インドネシア人を黙って働かしたのです。まるで犬以下の生活を強要していたのです。
 江戸時代、日本が唯一国交を結んでいた西洋の国がオランダであったことは、ご存知のとおりです。長崎に出島を造り、そこにオランダ商館を建てました。そこで、日米関係が険悪となり、アメリカが「日本には石油を売らない」と宣言したとき、オランダは過去の友誼を捨ててアメリカ側につき、「ABCD包囲網」のD(Dutch)となりました。日本をいじめる側に加担したのです。
 そのためやむなく『開戦の詔勅』を発した後、日本は早々にインドネシアの進撃を始めます。「インドネシアをオランダの植民地から解放して、日本と仲良くする国をつくらなければいけない」と考え、今村均中将率いる陸軍の主力第一六軍がインドネシアの各島に上陸します(蘭印作戦、一九四一年)。そして、わずか九〇日ほどの戦闘でけりがついてしまいました。
 白人が日本兵に追い立てられているさまを見て、現地のインドネシアの人々は大変喜んだのです。それまで、「オランダ人とインドネシア人では、天界と地上界ほどの開きのあるまったく別の人間だ」と白人は教えていました。ところが、そんなことはまったくのうそっぱちであることがわかり、インドネシア人は「白人なんてたいしたことはない」と気づくことになったのです。
 少し話が脇道にそれますが、幕末に、桜田門外の変で大老井伊直弼が浪士の集団に斬り殺されてしまったことがあります。そのインパクトたるや強烈たるものでした。なにせ、当時の最高権力者があっさり殺されてしまったのです。この事件で徳川幕府の絶大な権威は地に堕ちてしまいました。そして、一気に倒幕への機運が盛り上がったのです。
 このように権威というものは、いったん失墜してしまうと、元にもどらないのです。日本人が追い回し、白人が逃げ回って「降伏するから助けてくれ!」と叫んでいる光景を見てしまうと、もうダメなのです。こうして、「白人何するものぞ!」という自信がインドネシア人の身についたのです。
 今村均は人徳あふれる将軍で、敵味方から尊敬されています。のちにニューブリテン島のラバウルに進駐し、そこを航空基地の要塞化しました。補給が途絶えると、将軍自ら率先して畑仕事に精を出しています。そして今村も、「八紘一宇というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べています。
 一方、日本軍は、インドネシアに義勇軍をつくりました。日本人の将校が、軍隊の右も左も分からない農村の青年たちを教育し、インドネシア人が立派な幹部になっていくように指導したのです。のちにこれが、インドネシア人指揮官が率いる郷土防衛義勇軍(ペタ)へと成長します。それまで、鉄砲の撃ち方も知らなかったインドネシア人に、近代的な戦闘のノウハウをあますところなく教え込んだのです。
 そして、日本が戦争に敗れたとき、日本軍はインドネシア側に武器を全部譲渡し、さらに約三千名の日本軍人がインドネシア軍に身を投じています。捕虜収容所に入らず、インドネシア軍に入ったので、彼らは脱走兵扱いとなってしまいます。そうすると、日本から恩給がもらえません。それにもかかわらず、彼らはインドネシア解放に尽力したのです。陸上戦においては、将校の役割が大変重要です。そうした人材を鍛え上げ、軍の規律を叩き込んだところに、日本軍の最大の功績があるのです。
 日本軍の武装解除後、インドネシアにオランダやイギリスが再び参入しようとすると、すぐに独立戦争が始まりました。元日本兵の活躍もあってイギリス軍は早々に撤退し、一九四九(昭和二四)年にインドネシアは独立を勝ち取ります。それまでに戦死した元日本兵は千名を越えていると言われます。彼らはジャカルタのカリバタ英雄墓地など、各地の英雄墓地に葬られています。こうしてインネシアにも大日本帝国は残っているのです。インドネシアでは独立記念日の記念パレードで、今でもインドネシア人によって日本の軍歌が誇らしげに歌われています。
 そのため、五八(昭和三三)年に訪日したスカルノ・インドネシア初代大統領は、「我々が(オランダから)独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことが出来ないわけはないと発奮したからである」と、日本に深い感謝を伝えています。
 アラムシャ元第三副首相は、「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、三五〇年間に亘(わた)り幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である」と謝意を表しています。
 同じくインドネシアのサンバス将軍は、「今、インドネシアでもその他の国でも、大東亜戦争で日本の憲兵が弾圧したとか、労務者を酷使したなどと言っているが、そんなことは小さなことだ。いかなる戦場でも起こり得るし、何千年前もそうだったし、今後もそうだ。日本軍がやった最も大きな貢献は、我々の独立心をかきたててくれたことだ。日本人はインドネシア人と同じように苦労し、同じように汗を流し”独立とは何か”を教えてくれた。これはいかに感謝しても感謝しすぎることはない。このことはペタの訓練を受けたものは、一様に感じていることだ。特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍約千人(一説には三千人以上:筆者注)帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと闘い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績をたたえて殊勲賞を贈っているが、それだけで済むものではない」とまで述べているのです。


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2019年06月22日

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』狂気と宗教 18 狂人を教祖にしてはいけない

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※庭野日敬という朝鮮人と長沼妙佼の2人で始めたのが、立正佼成会です。この2人は、霊友会の信者だったのですが、一山当てようと思って立正佼成会を創ったのです。

土曜日特別講義『やさしい宗教原論』
狂気と宗教 18 狂人を教祖にしてはいけない

宗教などは、自動書記があります。「私は自動書記をした」と言っている人は、狂ってしまうのです。「ひえ〜〜〜」と言って狂ってしまうのです。庭野日敬もそうです。庭野日敬という朝鮮人と長沼妙佼の2人で始めたのが、立正佼成会です。この2人は、霊友会の信者だったのですが、一山当てようと思って立正佼成会を創ったのです。
長沼妙佼は神がかりになり信者の前で、「ギャアアアアア〜〜〜」と叫んで、バタンと倒れるのです。すると目つきが変わってしまい、「お前は何しに来たのだ? こっちへ来い!教団に寄付をもってきたのか?」と聞くのです。
「わしはお前の五代前のジジイだ。お前の生活態度はよくない」と言うから、言われた信者は「本当にご先祖様が現れた!」と思って、「ありがたい」と思って、教団に寄付をするのです。それで立正佼成会の信者が増えていったのです。
立正佼成会の本部まで、信者がズラリと並んで人垣が出来たのです。そのくらい繁盛していたのです。立正佼成会は、小さな家から始まったのです。
長沼妙佼が神がかりになるだけでは、宗教になりません。神様が降臨して、神様の言葉を伝えるサニワが庭野日敬です。「今、神様がこんなことを言われています」と解釈するのです。庭野日敬には、教義など何もありません。教団が儲かるから神がかりをやっていたのです。当時は、宗教法人がすぐに出来てしまったのです。それだけの話です。
立正佼成会は、庭野日敬が字も知らないから、「佼(わるがしこくなる)佼成会」と言われていたのです。にんべんの交わるは、「佼(わるがしこい)」という意味です。その佼成会になってしまったのです。庭野日敬は、そのようなこともわからない無教養のジジイだったのです。
それが立正大学の安永辨哲に『法華経の心』という教義を書いてもらったのです。それが庭野日敬著となり、教科書となって、在家仏教集団という位置をつくって、のし上がってきたのです。立正佼成会は出鱈目です。
狂った真似をする者を教祖に担ぎ出すのです。オウム真理教もそうです。全員が狂人です。陰謀論もありますが、教祖の麻原彰晃は狂っていたのです。目も見えたというのです。要するに全盲ではなく、「よく見えない」というだけです。それで盲学校に入ったのです。
麻原彰晃は狂人だったのです。それを朝鮮人どもが担いだのです。上祐 史浩も朝鮮人だと言われています。オウム真理教は、朝鮮人軍団だったのです。
それをおだて上げた連中がいるのです。それが島田裕巳(しまだ ひろみ)です。「新しい形の仏教で、これが宗教の原型だ。オウム真理経を高く評価する」などと、くだらないことを言ったのです。
島田裕巳(しまだ ひろみ)は当時、日本女子大学の教授だったのです。オウム真理教の事件以来、教授が務まらなくなってしまったのです。「仏教とは、このようなものであったのに違いない」と識者の連中が高く評価したのです。
それは、シュペングラーの「文明の終焉」を意味しているのです。西洋文明が終わって、あれは西洋文明と全く違うものです。狭い部屋に入って、マントラを唱えていたのです。できもしない空中浮揚などをやっていたのです。オウム真理教の連中は、狂人です。それに相当なインテリがはまったのです。
一人の狂人ができると、バタバタバタと狂人の真似をするのです。だから、狂人は精神病院に入れなければいけないのです。泳がしておくと、キチガイは伝染するのです。殺人事件もそうです。
尼崎事件の角田美代子も精神病です。それに引きずられて教祖のようになって、親族の6名くらいの上に君臨したのです。命令して殺人をやらせるのですから、一種の教祖です。小さいカルト教の教組になってしまったのです。
このような宗教をよく見て騙されてはいけません。アメリカの人民寺院(英語: Peoples Temple、ピープルズ・テンプル)という913人の集団自殺事件がありました。或は人肉を食う宗教もあるのです。
宗教に入るということは、狂人になるということを意味するのです。創価学会の池田大作も狂人です。あのくらい欲が深い男はいません。取っても、取ってもお金が欲しいのです。取れば取るほどお金が欲しいのです。
そのようになると一種の狂人です。お金だけ集めるというのは守銭奴です。そのように見れば池田大作の正体がすぐにわかります。キチガイについてはいけません。キチガイは宗教を生みだします。

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2019年06月21日

人間の探究 1307 邪教は毒の如し 

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※お灸は殺菌などしないから、バイキンが入るとお灸の痕が腐ってしまうのです。それと邪教は同じです。本人は病気を治そうとして邪教を一生懸命やっているのですが、腐ってしまうようなものです。

人間の探究 1307 邪教は毒の如し 

 安倍晋三は、「日本の大崩壊が近い」と無責任に言っています。総理大臣が何を無責任なことを言っているのでしょうか? そんなことが言えるのでしょうか? 大崩壊が近いならば、国民に武器を配りなさい! それもしなくクセに、「大崩壊が近い」など、総理大臣の分際で無責任なことを言うものではありません。
 アメリカ人は武器を持っているから、まだよいのです。それもできないクセに、国民を押さえつけて、「お前らは死んでもよいのだ」ということです。「国民に武器を与えて、騒乱につかわれたら大変だ」と思っているのです。日本でも、「そのような時代がもうじき来る」と言っているのです。
 「日蓮が法華経を弘通し候を上一人より下万民に至るまで御あだみ候故に」
 この国の思想の乱れを直そうとして、日蓮大聖人様は法華経を広めてきました。しかし、猶多怨嫉(ゆたおんしつ)といい、法華経を広めれば広めるほど、悪口を言われて恨まれたのです。
 法華経は正法ですから正しいのです。それを妬んだ連中が、「日蓮は法華経などというわけのわからないものを広めておる。仏教は念仏じゃ」「仏教は山に入って修行しなければ悟りは得られないのだ。庶民には仏教などは縁がない。仏教を専門に修行する人は偉い人なのだ。ご僧侶さまと言って尊敬しろ。庶民と我々は違うのだ!」ということです。
 日蓮大聖人様の仏教は、「男女僧尼は嫌うべからず」(四条金吾殿女房御返事)です。男も女もありません。そして、僧も民衆も貴賤もありません。身分もなく、誰でも法華経により成仏できるのです。日蓮大聖人様は、そのような教えを日本国に広めてしまったのです。
 「一切の神を敬ひ一切の仏を御供養候へども其の功徳還つて大悪となり」
 日本国には、念仏の寺がだいたい10万社あるのです。凄い数です。僧侶も50万人くらいいたのです。そのような連中がいくら神様に向かって加持祈祷をしたり、大仏にひれ伏してもダメなのです。成仏できる法は法華経しかありません。
 その他の教えを信じて阿弥陀仏を一生懸命供養しているということは、薬ではなく毒を塗りこんでいるということです。「これでもか? まだ、足らないのか。これでどうだ、もっと毒を塗りこんでやる。ご僧侶は偉いのだぞ。ご僧侶さまと言いなさい。お前ら下々の者は信者どもなのだぞ!」ということです。
 坊主たちは、神様に祈ったり、仏に祈ったりしているのですが、そんなものが広まれば広まるほど、実はどんどん毒を塗りこんでいるのです。毒気深入失本心故です。
 「やいと(灸治)の還つて悪瘡となるが如く薬の還つて毒となるが如し」
 昔は病気になったりすると、お灸をしたのです。お灸とは、もぐさを体の上に乗せて火をつけるのです。すると火傷をするのです。吉原の女郎たちは、背中を見ると大きなお灸の痕があったのです。一般の庶民でもお灸をすえたのです。「胃が悪い? では、お灸をすえましょう」「頭が悪い? では、お灸をすえましょう」という具合に、病気になるとお灸をすえていったのです。
 ところがお灸は殺菌などしないから、バイキンが入るとお灸の痕が腐ってしまうのです。それと邪教は同じです。本人は病気を治そうとして邪教を一生懸命やっているのですが、腐ってしまうようなものです。
 体に合わない薬を飲んでいると、どんどん病気が悪化してしまうのです。これが名医にかかると、病気は簡単に治ってしまうのです。ヤブ医者に診てもらったら大変です。返って病気が悪くなってしまいます。
 ヤブ医者(邪教)に診てもらおうと、お灸をしても、薬を飲んでも、どんどん悪化してしまうのです。今の日本はそれと同じです。皆、一生懸命神様や仏様に加持祈祷をしているのですが、一生懸命やればやるほどおかしくなってしまうのです。
 何故かというと、邪教だからです。邪教を人々に注入するならば、必ずそうなるのです。現代で言うならば、創価学会の教えは邪教そのものです。創価学会の薬を飲めば飲むほど学会員は病気になってしまうのです。
 釈尊会など、わけのわからない宗教団体が山ほどありますが、あんなものはみんな毒です。飲めば飲むほど不幸になるのです。幸福の科学も毒入り宗教です。顕正会も創価学会も毒入り宗教です。日蓮正宗の坊主も毒入りです。薬を飲めば飲むほど、坊主奴隷になってしまうのです。「信者ども、ご僧侶と言え。猊下様と言わなければいかんぞ!」「猊下様のお通りじゃ、頭が高い!」などと言われて、信者は坊主に毒を飲まされているということです。飲めば飲むほど正常な判断が失われて頭が狂ってしまうのです。
 樋田昌志君は、ますます寺奴隷になっているのです。このように、仏教の道理というものをちゃんと考えなさい!


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