2019年10月

2019年10月31日

人間の探究 1401 法華経の一字は大地の如し 

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※全てのものはつながっているのです。田んぼに植えた稲は成長して米になります。それを人が食べるのです。人が米を食べると命の根は人をつなぐことになるのです。人間はご飯を食べないと死んでしまいます。

人間の探究 1401 法華経の一字は大地の如し 

「法華経の一字は大地の如し、万物を出生(しゅっしょう)す、一字は大海の如し、衆流(しゅる)を納(おさ)む。一字は日月の如し、四天下を照す、此の一字変じて仏となる、稲変じて苗となる、苗変じて草となる、草変じて米となる、米変じて人となる、人変じて仏となる、女人変じて妙の一字となる、妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし」(王日女殿御返事)

日蓮大聖人様は、「貴方が仏に変わってしまえばこの世界は常寂光土になる」と言われているのです。これが法華経の教えです。常寂光土とは、寂光が常に満ち満ちている世界です。寂光とは何かというと、光り輝いて永遠に消滅しない輝きです。貴方が仏に変われば、永遠の寂光土になるのです。これが人間の生きる道なのです。それを法華経では教えてくれているのです。
現代人はそのような生き方をしていないから、「そんなものは迷信だ」と思うのです。迷信ではありません。日蓮大聖人様は、「貴方が変わりなさい」と教えているのです。そうすれば世の中は変わるのです。
自分が「貧乏だ」とわめいている人は、永遠に貧乏です。稼いだお金はすぐに使ってしまったり、パチンコに持って行くのです。すぐに競艇・競馬に持っていくようではいけません。
「おれはお金を使わなくなってしまったな」と思えば、どんどんお金が入ってくるのです。使わないから入ってくるのです。「お金が入った!」と飢えたる狼のように、「これでパチンコへ行くぞ!」「競馬で一儲けするぞ!」などと言っても儲かるわけがありません。するとお金はパッとなくなってしまうのです。また貧乏になってしまうのです。
その人の境涯が貧しいと、お金に使われてしまうのです。境涯が豊かになってくるとお金を使える立場になるのです。「これはくだらないから買わないよ」ということになるのです。何でもかんでも通信販売で買って「0123・・・」とフリーダイヤルに電話をしていたらお金はアッという間になくなってしまいます。
そのようなムダは省くのです。健康食品をテレビで見て全て買っていたら、30種類も飲むようなことになってしまいます。化粧品もそうです。あれも塗って、これも塗って、とやっているとキリがありません。1回くらい試すのはよいけれども、効かないと思ったらすぐに止めて、5個くらいに絞っていくように考えないと無限にお金を使ってしまうことになってしまうのです。
今は本当に上手くやれば、ほとんどお金を使わないで生活できるようになっています。これは境涯です。各家庭には、必ずテレビはあります。テレビがあれば、膨大な情報が入ってきます。漫才、ニュース、教養番組などが楽しめるのですから、テレビを中心にして「如何に楽しい人生を送るのか?」ということもできるのです。それもパラダイスです。
今はそれにパソコンが加わっています。パソコンの情報量は凄いものです。しかも、パソコンはテレビと違って自分で情報が発信できるのです。「これは楽しいな」とやっていれば、お金など一銭も使いません。事実、そのほうが面白いのです。万物は法華経の一字から出ているのです。
「一字は大海の如し、衆流(しゅる)を納(おさ)む。一字は日月の如し、四天下を照す」
「一字は日月の如し」
と言っているのは、仏法は宇宙も説いているということです。心だけの問題を説いているのではありません。日と月は自分の外にあるものです。それも妙法から出てきたのです。全てのもの、日月さえも妙法から出来ているのです。
「此の一字変じて仏となる、稲変じて苗となる、苗変じて草となる、草変じて米となる、米変じて人となる、人変じて仏となる、女人変じて妙の一字となる、妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし」
全てのものはつながっているのです。田んぼに植えた稲は成長して米になります。それを人が食べるのです。人が米を食べると命の根は人をつなぐことになるのです。人間はご飯を食べないと死んでしまいます。
全てがそのようにつながっているのです。最終的には人間が変じて、何になるのかというと仏になるのです。今まで食べてきたものが、全て人間の中に取り入れられて人間が仏になると全て一緒に成仏してしまうのです。そのような教えです。
あくまでも修行する人間が大事です。世界のものは全てつながっているのです。これは華厳経の教えです。世界はつながっています。それはたった一つのものから出来ているのです。それは、「無量義は一法より生じる」という無量義経です。一法のことを法華経といいます。
法華経は一法なのです。南無妙法蓮華経を煮詰めていけば「妙」という一字になるのです。この世界は「妙」というのですから、不思議なのです。人間が見ているような世界ではありません。悲しく見ている人もいれば、楽しく見ている人もいます。打ち震えて見ている人もいます。
「妙」の一字から全てのものが出来ているのであって、「妙」の一字で全てつながっているのです。海や山や木や全ての動物も、「妙」から出来ているのです。しかも「人間が魚を食べてしまった」と思いますが、仏の世界から見ると魚など食べてはいません。
全て同じものなのです。同じものが人間の餌になり、小魚を食べた魚もまた人間に食べられるのです。全てが終結しているのが人間です。人間が一番上にいるから偉いというわけではありません。
人間が仏道修行をして仏界に到達した瞬間に今まで食べてきた動物も魚も米も野菜も全て揃って成仏してしまうのです。素晴らしい御書です。そのような話です。

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2019年10月30日

人間の探究 1400 法華経の一字は大地の如し 

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※法華経は人間だけを説いているのではありません。大宇宙を説いているのです。とてつもなく大きい大宇宙を説いているのです。

人間の探究 1400 法華経の一字は大地の如し 

 「法華経の一字は大地の如し、万物を出生(しゅっしょう)す、一字は大海の如し、衆流(しゅる)を納(おさ)む。一字は日月の如し、四天下を照す、此の一字変じて仏となる、稲変じて苗となる、苗変じて草となる、草変じて米となる、米変じて人となる、人変じて仏となる、女人変じて妙の一字となる、妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし」(王日女殿御返事)

 この御書は極意に触れているので、易しいようで結構難しいのです。この御書を与えられているのは女性なので、ちょっと複雑なところがあります。大事なところは、「全ては一緒のものです」と言っているのです。
 「法華経の一字は大地の如し、万物を出生(しゅっしょう)す」
法華経は一字ではありません。法華経は三字です。或は、妙法蓮華経の五字です。「何故、法華経と書いて一字と言っているのか?」このようなところに意外と深い意味があるのです。
 法華経は、所詮は一道を説いたものです。「法華経の一字」と言っている時は、内容が違うのです。この法華経が説かれた内容は、「無量義は一法より生じる」と言われたことと同じことなのです。法華経は妙法を説いたものです。妙法を分解すると「妙」なのです。それを説いているのですから、法華経に万物が含まれてくるのです。
法華経は人間だけを説いているのではありません。大宇宙を説いているのです。とてつもなく大きい大宇宙を説いているのです。最近の物理学、天文学では、「この銀河系の宇宙の中で人間以上の文明を持っている生命はどのくらいいるのか?」ということを見ているのです。これをドレイクの方程式というのです。それにより計算すると、40億以上の生命がいるというのです。人間よりも知能が上で、文明が進んでいる生命体です。それが銀河系の中だけで40億です。恐ろしい数がいるのです。
本来、この世界は形がないものであり、素粒子のようなものが広がっているのです。形はありません。そこから物体が出来てくるのです。山も海も川も土も地球も太陽も、素粒子が集まっているだけです。それを人間が見ると、そこに月があるように思い、そこに地球があるように思うのですが、実体はありません。
実体はないのですが、人間はそこに月があるように思うのです。天体があるように見えるのです。様々な星があるように見えるだけなのです。見えるだけで中身はないのです。
「この世界は何か?」というと、何もないのです。しかし、それが人によって「このような世界がある」と見えるのです。犬が見ている世界は、人間が見ている世界とは全然違います。鳥が見ている世界もまた違うのです。魚が見ている世界もまた違うのです。では、「どの世界が真実なのか?」ということはわかりません。
世界は沢山あります。「人間が見ている世界が真実で犬や猫が見ている世界は間違っています」などとは、言えません。「猫が見ている世界は間違いで、人間が見ている世界が正しいのだよ」と人間は考えたいのですが、そんなことは全くありません。猫は猫で大きな目を開けて、ちゃんと世界を見ているのです。それは、我々の見ている世界とは違うのです。
人間は地球上に70億人いますが、人事に見ている世界は全て違います。同じ世界など見ていません。ある人は「苦しい」と宿命に泣いて、「何故、俺ばかりこんなに苦しい生活を送るのだ?」と怨みぬいて、いびつな性格になると、世界が全ていびつに見えてくるのです。そのように考えて生きている人もいるのです。
この世界は人間の数プラス、生物の数ブラス、無生物の数プラス、無限大です。同じものを見ているのかと思うと違う世界を見ているのです。犬が見ている池の水と、人間が見ている池の水は違うのです。どちらの世界が正しいのでしょうか? 
犬は色盲で近眼です。その代わり、人間の何千倍も匂うのです。同じ世界にいても犬が見ている世界と人間が見ている世界は全然違います。
この世界には実体がありません。貴方が見ている世界です。それだからこそ、人の見ている世界を計算しても仕方ありません。まずは、貴方の見ている世界を完璧にしないと完璧な世界など見えてきません。
「この世界の根本には何があるのか?」というと、妙法蓮華経しかありません。見ているものは「妙」なのです。全て違います。妙は何処から出てくるのかというと、妙法です。「無量義は一法より生じる」というこの法は、一つなのですが、花火が上がったように生命が出てくるのです。そこで見ている世界は全て違います。だから、実体はないのです。
「自分が変わると世界が変わる」とは、そのことを言っているのです。自分の見方がガラリと変わると三変土田(さんぺんどでん)の原理でガラリと変わってしまうのです。「この世界は悲しい世界だ。何故、俺ばかりこんなに悲しいのだろうか?」と見ている人が修行によってパッと世界が変わると、「この世界は素晴らし世界だな」と思えてくるのです。
「ちょっと心を変えただけなのに、黄金の世界になった。何もかも成長の過程の段階だと思えてきて、素晴らしい世界だな」と変わるのです。もっと変わるのです。「うわー、ここは天国だ。見るもの聞くもの全て天国だ」というようになるのです。
仏法の原理とはそうなのです。まずは己が変わりなさい。今まで憎たらしい奴がいて、「うらめしい」と思っていても境涯は変わりません。自分の心がコロッと変わって「結構よい人だったな」と思えばそれでいいのです。
ドロボウをやった奴がいても「国を盗ろう」と考えている大悪人から比べたら、「可愛いものだよ」と思った瞬間にパッと許すことができるのです。するとまた友達になってしまうのです。
「あの野郎」「この野郎」などといつまでも言っていたのでは境涯は変わりません。自分がどんどん変わるのです。「どのように変わっていけばよいのか?」というと、「最終的には仏になりなさい」と日蓮大聖人様は言われているのです。(△紡海)

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2019年10月29日

人間の探究 1399 よき師・よき法・よき檀那(だんな)

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※天台宗の坊主は偉そうな格好をして「阿闍梨様」だとか言われて、「千日回峰行をやり遂げた」と言っていますが、そんなものは「よき師」でもなければ、「よき法」でもありません。

人間の探究 1399 よき師・よき法・よき檀那(だんな)

 「よき師と、よき檀那と、よき法と、此の三寄り合いて祈を成就し、国土の大難をも払ふべき者なり、よき師とは、指したる世間の失(とが)無くして、聊(いささか)のへつらうことなく、小欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて、法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉(よき)第一の法師なりと讃(ほ)められたり、吉(よき)檀那とは貴人にもよらず賎人(せんにん)をもにくまず、上(かみ)にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用いずして、一切経の中に法華経を持(たも)たん人をば、一切の人の中に吉(よき)人なりと仏は説給へり。吉(よき)法とは、此の法華経を最為第一(さいいだいいち)の法と説かれたり」(法華初心成仏抄)

 「よき師と、よき檀那と、よき法」
の三つがそろうと地震や災害などなくなるのです。これは仏国土の原理からきているのです。人間の心は宇宙とつながっています。そこに住む衆生が悪いことをやっていると、天が罰を与えるのです。創造主の罰が当たらないためには、人間は、よき法を保たなければなりません。
 衆生は、よき法を保った師匠が出てきたら、その師匠に対して尽くしていかなければなりません。これが「よき師・よき法・よき檀那」という意味です。
この「よき師とは誰か?」ということをハッキリさせておかなければいけません。それは、日蓮大聖人様です。日蓮大聖人様以外に「よき師」はいません。日蓮大聖人様の信者は、これをきちんと守りぬいていくことです。
 「よき法」とは、南無妙法蓮華経のことです。「よき檀那」とは、仏教の指導者です。これは今でいうと僕のことかもしれません。
皆さんも立派になれば、「よき檀那」になるのです。仏教は、一人だけが偉いわけではありません。
 皆さんも正法を学び実践していくと「偉くなってきたな」と思えば、「よき檀那が増えてきた」ということです。檀那とは、「よき師」と「よき法」を保った人です。信者の我々は「よき檀那」にならなければいけません。
 信者は、「よき師」にはなれないのです。「よき師」とは、日蓮大聖人様ただお一人です。「私が師だ」などと言うと、満州の関東軍参謀の石原莞爾や、2.26事件の北一輝のようになってしまうのです。皆、「師」に迷ってしまうのです。
 「師」とは、日蓮大聖人様しかいません。それなのに、「今、僕は日蓮君と一緒にお題目を唱えていた」などと、わけのわからないことを言いだしたら、もう気が狂っています。自分は、「よき師」「よき法」を守っていく、「よき檀那」でなければいけません。これが信仰の本質です。
 何を広めるのかというと、「よき師」の教えを広めるのです。日蓮大聖人様の教えを広めるのです。「よき法とは何か?」というと、南無妙法蓮華経です。「よき師・よき法・よき檀那」とは、日蓮大聖人様の教えを広めていく人のことです。それがよき檀那です。
 檀那などどうでもよいのです。「よき師・よき法」を間違えていなければよいのです。これを広めていく人が、「よい檀那」になるのです。
 「私は日蓮大聖人様を信じています」「私は法華経を信じています」と言っても、その2つを信じていなければ、その信者は偽物です。我々は絶対に日蓮大聖人様の教えから離れてはいけないのです。
 日蓮正宗大石寺の御本尊様が「よき師」ではありません。日蓮大聖人様が「よき師」です。すると、「池田大作が師である」「浅井昭衛が師である」というように、くだらないことを言っているのは間違っています。日本全国を探しても、仏法の「よき師」は日蓮大聖人様しかいません。何処を探しても仏教の指導者は他にはいません。
 天台宗の坊主は偉そうな格好をして「阿闍梨様」だとか言われて、「千日回峰行をやり遂げた」と言っていますが、そんなものは「よき師」でもなければ、「よき法」でもありません。
 千日回峰行をやったからと言って、どんな法を広めたのでしょうか? 千日回峰行が「よき法」なのでしょうか? それは、まったく違います。「よき法」とは、南無妙法蓮華経のことなのです。
 それを深く信仰して深く解釈できて、「日蓮大聖人様の教えはこれなのだ」と見抜くから、南無妙法蓮華経は「よき法」であって、それを説かれたのは、「よき師」である日蓮大聖人様です。「貴方は檀那として、この2つを広めていきなさい」というのが、この御書の目的です。非常に明確です。創価学会員は、これすらわかっていません。
 池田大作も自分のことを「よき檀那だ」と言ったのです。檀那が両手両足を切断して、口もきけなくなってしまったのでは、「よき檀那」ではありません。ニセ檀那です。信者から集めたお金は自分の懐の中に入れてしまった奴のどこが「よい檀那」なのでしょうか?
 池田大作は、「よき檀那」ではありません。「悪しき檀那」です。池田大作は第六天の魔王の化身です。第六天の魔王が仏弟子のような顔をして、この世に出てきて信者からお金を搾り取ったという事件です。池田大作は、「よき師」も、「よき法」も広めていません。
 このことは、信仰の根本に関することです。これを間違えると成仏できません。「よき師」と言ったら、日蓮大聖人様しかいません。「よき法」とは、南無妙法蓮華経です。残った一つは何でしょうか? 自分が「よき檀那」になっていけばよいのです。「私は法を守る檀那なのだ。これが私の修行なのだ。私の修行の目的はここにあるのだ」。そのように思った時に正しい信仰ができるようになるのです。

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2019年10月28日

人間の探究 1398 即位礼正殿の儀

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※これは「天皇の虹の奇跡」です。天・地・人を貫くのを王といいます。神までつながるのを皇といいます。王は天までしかいっていません。天の上に神がいるのです。天皇は神まで行ってしまうのです。だから、「天皇」なのです。

人間の探究 1398 即位礼正殿の儀

 10月22日は、天皇陛下の即位礼正殿の儀でした。この日は朝から雨でした。相当、激しい雨でした。ガラスの窓には、雨があたり滝のように流れていました。竹田恒泰さんは、「天皇陛下の即位礼正殿の儀では、絶対に晴れるのだ!」と言っていました。有本香さんは「どうなのかしら」と言っていました。
 竹田恒泰さんは、「必ず晴れます!」と断じて言い切っていました。天皇陛下が皇太子の時代にイギリスに行った時もそうだったのだそうです。天皇がイギリスに着いた瞬間に雨がやんで晴天になったのです。
 天皇は「天の子」です。天皇は「日の御子」です。僕はそんなことは感心がなかったのですが、虹を見てびっくりしました。いきなり晴れて、皇居一面に虹が出たのです。まさに奇跡です。天皇が敬われているのは、奇跡の人だからです。やはり天皇は、神様なのです。
 天皇陛下を戴く日本の憲法は、天皇を日本国の象徴と言っていますが、象徴ではありません。天皇は神なのですから、敬われるのです。「天皇は象徴だ」と言ったのは、GHQです。日本人は天皇陛下を神だから大切にしているのです。
 ここのところを明確にして憲法を変えなければいけません。天皇がいるところは常に素晴らしかったのかというと、そうでもありません。天皇の歴史は、ドロドロの歴史です。何故ならば、権力闘争による殺し合いだからです。
 今に至るまで同じです。その殺し合いが今では選挙に変わっただけです。昔は、「どちらの勢力が強いのか?」ということは、戦争により決着をつけたのです。そのようなドロドロの上に天皇の歴史が成り立っているのです。
 その中で天皇が敬われてきたのはなぜなのでしょうか? 天皇は神だからです。しかし、天皇自体もドロドロの歴史があるのです。雷に打たれて死んだ天皇もいます。怨霊になった天皇もいます。必ずしも、良い奇跡だけを起こしてきた天皇だけではありません。悪い方向へ行ってしまった天皇もいるのです。
 しかし、天皇は神なのです。天皇がお出ましになると、激しい雨もピタリと治まるのです。神武天皇が来ると国も治まるのです。治まるだけで神なのです。アメリカと中国が戦争になったら、誰も止められません。戦争によって、勝ち負けを決めないかぎり決着はつきません。
 ところが、タイには王様がいます。革命軍と政府軍が争って戦争になると、国王が2つの勢力を呼ぶのです。すると革命軍も政府軍も国王にはひれ伏すのです。王様が「そろそろ争いは止めなさい」と言うと、「はい」と言って止めるのです。この作用は、まさに神なのです。お互いに殺し合っているのです。そこに王様が現れると、ピタリと争いが治まるのです。
 「王様の御足をいただく」というのです。国民は両手を広げて、国王に頭を下げます。その上に国王が乗るのです。すると、国民は黙ってしまうのです。「もういい加減に止めなさい」と国王が言うと、両方の勢力共に「わかりました」と言うのです。
 人類にはそのように王が必要なのです。争っている所に神武天皇が現れると「争いは止めなさい」と言います。すると「ははー」と言って争いを止めるのです。神様は人間が創りだした智恵なのです。その役割を何千年も保ってきたということは、実に素晴らしいことです。奇跡が起こらない限り、2800年も天皇を保つことはできません。
 歴史の中には、「天皇を殺して自分が天皇になろう」とした奴もいます。天皇になり代わろうとして、いろんな連中が出てきたのですが、悉く弾き飛ばされたのです。弾き飛ばされていくところが神なのです。
 天気が荒れても、天皇の即位礼正殿の儀が始まれば、ピタリと雨がやみ、空が晴れて虹が出て、富士山も顔を出すのです。普通は、こんな奇跡はあり得ません。
 昔、池田大作が天皇の奇跡の真似をして、「池田大作が通ると枯れ木に花が咲く」と言うので、前日に婦人部が来て、花が咲いた造花をつくり、池田大作が通ると造花を出して、「先生、花が咲きました!」ということをやったのです。所詮は偽物だからダメなのです。そんなウソは続かないから、池田大作はあっという間に滅びてしまいました。
天皇は偽物ではありませんから、2800年も続いているのです。滅びることもありません。「いざ!」、という時に奇跡が起きるのです。不思議な天皇です。
 これは「天皇の虹の奇跡」です。天・地・人を貫くのを王といいます。神までつながるのを皇といいます。王は天までしかいっていません。天の上に神がいるのです。天皇は神まで行ってしまうのです。だから、「天皇」なのです。
 そのようなことを考えると、天皇の奇跡は不思議だと思います。

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2019年10月27日

『生きている大日本帝国』大日本帝国の意義

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※建国以来、日本国はずっと天皇が治めてきました。その帝(みかど)の国だから、「大日本帝国」なのです。

『生きている大日本帝国』

大日本帝国の意義

 日本が開国を迎え、どうして「大日本帝国」という国号にしたのか、考えられたことはありますか? 建国以来、日本国はずっと天皇が治めてきました。その帝(みかど)の国だから、「大日本帝国」なのです。単純なことです。そして、現在も厳然として天皇は存在しているのですから、国号を「日本国」に変えたからといって、その本質は「大日本帝国」であることに変わりはありません。先ほども説明しましたが、青山さんが結婚して吉田さんに姓を改めても、同じ人であることに変わりがないのと同じです。
 そこで、視点を変えますが、人間というものは、この世にオギャーと生を享けます。生を享けても、自分が何だかはわかりません。成長して欲望がふくらんでくると、その欲望を充足させることに生活のほとんどが充てられます。欲望を満足させるために生きているというのが、ほとんどの人の姿です。そうだとすると、その人は動物と変わらないということです。動物は欲望だけで生きています。動物は「あそこに獲物がいる。やっちまえ!」とガブッと獲物を喰らいます。食欲を満たすための本能だけで生きているのでは、動物と同じということです。
 そのような人間に対して、「お前たちの本当の正体を教えてあげよう」というのが仏様です。「生きているとはどのようなことなのか、何を目的に生きたらよいのか?」と教えてくれるのが仏教なのです。その答えを仏教では「無上等正覚(むじょうとうしょうかく)」と言い表しています。つまり、「これ以上の悟りはないという境智を目指して、人間として完成しなさい」という教えです。人間として完成していくということは、欲望の世界ではないのです。その境智を解脱とか、成仏と表現しています。
 一方、神道の教えは、先ほど述べた「修理固成」のように、「神は不完全にこの世をつくってあります。それを人間が完全な世界にしていきなさい」と、人間が存在する目的を諭しています。日本が「神国」と言われるゆえんは、そうした目的を持っているからです。
 ところが、サラリーマンのオジサンに「あなた何のために生きているのですか?」と聞けば、答えられません。「俺は、会社のために生きている」「家族のために生きている」「出世のために」などとしか説明できないことでしょう。そんなものは人生の本当の目的ではありません。目的のない人間の生に、意味などありません。「自分だけ金儲けをすればいいのだ」と言うのでは、動物と同じことです。
 この世界を本当に素晴らしい一つの家のようにしていく、これが神様のご命令です。そのように思うことが神様を保つということです。『古事記』に残されている神様から与えられた私たちの目的とは、「修理固成」、「天壌無窮」、「八紘一宇」です。これを目指して私たちが進んでいくことが、人生最大の生きる目的です。大日本帝国の臣民にはその自覚が重要です。そこに神の力も働き、仏の力も働き、我々は神からも仏からも守られているという、そのような境涯に入っていけるのです。

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2019年10月26日

『日本建国の謎に迫る』モーゼの十戒

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※十戒の石板をもったモーゼ

『日本建国の謎に迫る』

モーゼの十戒

 次に、「モーゼの十戒」についてくわしく見ていきましょう。モーゼが神から授かったとされる二枚の石板には、神の文字が刻まれていました。二枚の石板は右と左に分かれていて、それぞれ五つずつ言葉が書かれています。二つの石板を合わせて十戒といいます。
 一番目は、「主が唯一の神である」です。この説明は先ほど述べました。
 第二番目に書いてあるのは、「汝は偶像を作ってはならない」です。偶像というのは、神や仏などの存在をかたどって造られた像のことです。仏教の仏像はこれにあたります。キリスト教もそうで、キリストの像は偶像にあたるのです。そのためユダヤ教徒はキリスト教徒を、「偶像崇拝者」と呼んでいます。
 偶像崇拝の禁止は、簡単に見えますが、非常に重要大事な人類の大発明です。これは、旧約聖書の『詩編』にもあります。「人間は口がきける。そして、考えることができる。あるいは、動くことができる。この考えて、しゃべって、動くことができる人間が、なぜ、木偶の坊である偶像を崇拝するのでしょうか? 偶像は動くことができない。しゃべることができない。なにもしません。動いて、考えることのできる人間がなぜ、偶像にひれ伏すのでしょうか?」。ひれ伏した者はすでに人間ではありません。偶像の奴隷になってしまうという考えです。
 そして、この偶像崇拝をしない人間たちは、「神がどのようにして世界を創造したのか?」ということを考えて、科学を生んだのです。この点は後でくわしく述べます。
 日本人はユダヤ人の本家本流であるため、神社には偶像がありません。拝む像が一つもないのです。狛犬のようなものはありますが、それを我々は信仰したり、崇拝しているわけではありません。
 第三番は、「神の名をみだりに唱えてはならない」です。人間は困ると、すぐに「神様助けてください」と言いたくなりますが、神の名を唱えてはならないのです。神の名前すらないのです。あえてそれをいうならば、「ヤハウェ(Yahweh)の神」なのですが、その神の名を人間は唱えてはならないのです。
 以上の三つを見ると、それだけでユダヤ教は、ものすごく厳しい宗教だとわかります。人間は弱い者であるから偶像を拝みたい。「神様、お助けください」と言いたくなります。しかし、それはダメなのです。この三つを禁じることでなにが働くかというと、自分の中の神性が見えてくるのです。「人間は神が創ったものであるから、お前の中に神がいるのだ。その神に気がついて神を見ようとしなければならないのだから、お前はじっと耐えて、ものを考え、対処することによって、神が見えてくる。それまで、簡単に神の名を呼んだり、偶像崇拝してはならない。偶像崇拝は奴隷の思想なのだ。ユダヤ人は奴隷になってはならない」ということです。
 これは、人間が非常に強くなる教えです。今の多くの日本人に教えてあげたいことです。簡単に「神さま助けてくれ」と叫んだり、邪教を信じたり、わけもわからない偶像を拝んでいます。
 第四番は、「安息日を実行せよ」です。これもすごい言葉です。神様は六日間で世界を創りました。そして、七日目に休まれたと聖書に書いてあります。だから、そのようにして人間も休まなくてはなりません。これをユダヤ教では安息日といいます。キリスト教とは一日ちがい、金曜日の日没から土曜日の日没までがユダヤ教の安息日になります。
 人間は働き尽くめで生きていることはできません。力が弱まります。力を強めるためには、必ず休息してエネルギーを養い、そして次の仕事に向かわなければなりません。そのために、安息日の厳守が戒律に組み込まれているのです。この戒律も厳しく、万が一、安息日に敵に攻められてこられて、皆殺しになろうとも、「安息日を実行せよ」と言われています。そうしないと、安息日はなくなってしまうからです。
 第五番は「汝らの父母を敬え」です。当たり前で何気ない教えのように、現代の日本人は思うかもしれません。安息日で力を取り戻したら、今度は自分たちのルーツを再確認しなければなりません。ルーツとは父母のことです。「お父さん、お母さんが、お前を産んで育ててくれたから、いまのお前がある。そのルーツを大事にしていかなければならない」ということです。先祖を大事にするとそこに団結ができるので、先祖崇拝がさらにパワーを増すのです。
 ここまでが右側の石板に書かれていたことでした。我々には少し耳が痛い言葉があったかもしれません。安息日がないから、日曜日にゴルフに行ってしまい、漫然と翌週を過ごすことになるのです。しかし、以上の五つは、いわばアクセルなのです。これらの教えを忠実に実行すれば、人間の奥底に眠る偉大なパワーが覚醒するのです。
 そして、左の石板に書かれていた五つの神の言葉は、むしろブレーキです。右の石板の教えで力が付きすぎてバランスを崩してしまうことを恐れ、神はユダヤ人にブレーキをかけなくてはなりません。
 第六番は「殺してはならない」です。バビロニアの宗教ならば異教徒は「なんでも殺してしまえ」とし、そのことでパワーアップしていきます。しかしユダヤ教では、神は「殺してはいけない」と言うのですから、踏みとどまらなくてはならないのです。ところが現在においては、アシュケナジー・ユダヤ人たちは、人殺しをバンバンやっています。これは戒律違反です。その点からも、彼らに古代ユダヤの精神が根付いていないことがわかります。
 第七番は「姦淫してはならない」です。これで、ずいぶん失敗した大王もいるのです。自分の臣下を戦争に行かせ、その隙に奥さんを娶ってしまったのはダビデ王です。
 第八番は「泥棒をしてはならない」です。人のものと自分のものを区別しなさい。人のものを盗んではいけないのです。
 第九番は「隣人に対して偽証するな」です。相手の人間を罪に陥れるくらい悪いことはないのです。つまり、嘘をつくなという戒めです。
 最後の十番目は「隣人のものを欲しがるな」です。人のものを欲しがってはいけません。自分のものは自分のもの、人のものは人のものです。
 これが、モーゼの十戒です。易しく書き改めましたが、非常に大事なことであり、人間が社会生活を営む基本が、戒律として示されていることがおわかりだと思います。ところが、先ほど触れたように、現在のユダヤ人はこの戒律を守っていません。それは、彼らがアシュケナジー・ユダヤ人という偽ユダヤ人だからです。彼らは平気で戦争を起こし、略奪し、株式投資でお金をだまし取っています。
 それでは、この戒律を伝統的に守っているのはだれでしょうか。それが日本民族です。私たちは神社を中心とした信仰を持ち、偶像崇拝をしていません。「神様、助けてくれ」などとみだりに言いません。安息日も守っています。父母も敬っています。人殺しはしません。姦淫もしていません。泥棒もしません。隣人に対して嘘を言いません。隣人の物を欲しがりません。
 もちろん、そこから逸脱したり、放埓な暮らしぶりをしている日本人はいます。しかし、私たちの伝統文化の基底には、この十戒の精神が脈々と流れていることは、みなさんにくどくどしく説明するまでもないでしょう。日本人は常識として、この戒律をわきまえているのです。ここから、日本神道が古代ユダヤ教から生まれたものだと、よくわかります。
 そこで次に、現在、ユダヤ人と呼ばれている人たちが、どうして変質してしまったのか、その理由をはっきりさせたいと思います。日本人の祖先が古代ユダヤ人であると私が考える理由が、そのことで明瞭になってきます。

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2019年10月25日

人間の探究 1397 怒りを捨てよ!慢心を除き去れ!

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※安倍政権は、「失業者数が大きく低下した」と言っていますが、現実的に見て御覧なさい。商店街は閉まっています。仕事は無く、台風19号の被害に遭った河川は71河川、堤防が決壊したのは128ヶ所です。大被害です。このような時は何かがおかしいのです。「安倍を倒せ!」と、怒らなければいけません。

人間の探究 1397 怒りを捨てよ!慢心を除き去れ!

 「怒りを捨てよ!慢心を除き去れ!」という仏陀のお言葉があるそうですが、「怒りを捨てよ!」と言われても、怒りを捨ててはいけません。
 社会の不正に向かって起きてくる怒りは正当です。正しい怒りです。これはおかしいのではないでしょうか? それは怒るのが正当です。例えば、領主が百姓のつくったお米を全て持っていきます。それでは百姓は怒ります。所得税を10%に値上げしたということは、それと同じです。
 税金を10%も上げれば、それだけ税金がもっていかれるのです。怒らないほうが不思議です。人間は怒るべきときに怒らないといけません。その時にヘラヘラと笑っていたのではいけません。怒れば、場合によっては戦争になるかもしれません。怒れば国と国とのバトルです。戦争になるかもしれません。
 しかし、戦争を恐れてはいけないのです。そのような場合は、恐れないで言いたいことを言わなければいけません。相手が不正だと思ったならば、自分は正しいことのために怒るのです。それは当然のことです。怒りを持って戦うのです。それが人間の本能であり、正しく生きる道なのです。
 日本の歴史は神武天皇の時代から始まります。百田尚樹さんは、「神武天皇は怪しいから、天皇の歴史は2千年前にしておこうかな。2千年前から歴史に現れてくるのであって、その前の天皇は神話だな」と言うのです。それで、800年くらいの歴史を吹っ飛ばしているのです。日本の歴史はそんな歴史ではありません。
 神武天皇は何を思って戦ったのかというと、怒りをもって戦ったのです。「慈悲を持って戦った」などは、あり得ません。群雄割拠で豪族が出てきて、民衆を虐げています。それを見ると「この国を一つにしないと戦が絶えない。民衆は気の毒である。よし、我が立とう!」と思って神武東征が始まるのです。
 神武東征の怒りは正当です。平和な時をぶち破って自分の天下を立てる人のことを、「梟雄(きょうゆう)」といいます。これはいけません。神武天皇の戦いは正当であったと思えるのです。現代まで様々な戦いがありますが、正しい戦いと、正しくない戦いがあります。無茶なことばかり言っていると、いけないのです。
 安倍さんの政治は、ウソばかりです。それに対して国民は、怒らなければいけません。何故、怒るのかというと、安倍さんはウソばかりです。予算審議をされて、予算が合わないと「帳簿をつくりなおせ」と言うのです。そんな馬鹿がいるのでしょうか? それで、誤魔化すのです。
 消費税など値上げしなくても充分やっていけるのに、「財政が苦しい」とウソをつくのです。財政はちっとも苦しくなどありません。そのようなウソをついて消費税を上げるのです。それで、庶民が苦しむのです。
 本当に今の若者はヒドイものです。職もない、家もない、ネットカフェで過ごしているのです。こんな男や女は大勢いるのです。気の毒に、もう乞食です。何が原因なのでしょうか? それは日本の政治が悪いのです。
 大企業ばかり儲かるような仕組みにして、中小企業を潰して、外国人を大勢入れて、日本人の職を奪っています。そして、外国人に生活保護を優遇して、日本人に生活保護を受けさせないのです。
 こんな馬鹿な政策をとっているのだから、安倍政権に対して怒ることが当たり前です。これを見て、ヘラヘラ笑っていたらおかしいのです。怒る時には、「これはおかしいだろう!」と激しく怒るのです。安倍政権は、実に巧妙におかしくないようにデータが偽装されているのです。安倍政権は、「失業者数が大きく低下した」と言っていますが、現実的に見て御覧なさい。商店街は閉まっています。仕事は無く、台風19号の被害に遭った河川は71河川、堤防が決壊したのは128ヶ所です。大被害です。
 このような時は何かがおかしいのです。「安倍を倒せ!」と、怒らなければいけません。「怒りがいけない」と言ったら、それも言えなくなってしまいます。怒ることが悪いことではありません。正しいことのために怒るならば、それは正義なのです。
 今の青年たちは、怒りを忘れています。世の中は政治の匙加減(さじかげん)でガラリと変わってしまうのです。良い政治が行われれば、失業者もなくなり、老人たちも元気になり、何でもかんでも匙加減一つです。
 「慢心を除き去れ!」と言うけれども、「慢心とは何か?」というと、自己に満ずることを言うのです。「俺くらい大した者はいない」と思うことです。「この慢心はよくないのだ。」とお釈迦様が言ったというのですが、必ずしもそうではありません。
 慢心というものがあって、「俺がやってやる!」という気持ちがあって、物事は進んでいくのです。「私みたいなものが前へ出ても仕方ないのです。私は何もできません」と言っていたら、永久に何もできません。
 世の中の不合理なものを見て、「よし、俺ならばやれる!」というのは慢心です。「よし、世の中を直してやろう!」これは慢心です。そのようなところから始まるのですから、「自分は何もできません」と言って、慢心しない、怒らない、などと言っていたら、物事は何も進みません。
 自信をもって「やったるぜ! 新しい世界をつくる。俺でなければできない!」という慢心で、世の中が良い方向へいくならば、良い慢心です。正理会というのは、実は正しい心を教えているので、このような慢心は許されるのです。
 そのように自然に思えてくるのです。勉強していないと、「何が正しくて、何が間違っているのか?」ということがわからないので、正も邪もなくなってしまうのです。だから、正理会は、「人間の道」を教えているのです。
 それで得られた強い力は慢心です。「俺がやらなければ誰がやるのだ?」これは良いことです。お釈迦様の言葉は、非常に良い言葉もありますが、仏教というものは、非常に退廃的ですから、社会生活ができなくなってしまうのです。
 それはそうです。仏教というものは、本来は出世の法です。出世の世(せ)とは、「世間」という意味です。世間を出て出家して、世間のことに関心を持たないのが本来の仏教です。自分のことだけに関心を持つことが、お釈迦様の仏法の目的ですから、それではダメなのです。正しく仏教を理解していきましょう。

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2019年10月24日

人間の探究 1396 眷属妙(けんぞくみょう)

88
※まず、自分の眷属の根拠というものを知る必要があります。僕は眷属などいないほうです。いないのを誇りにするべきです。何故かというと、僕は皆とは違うのです。そうなのです。眷属は群がるのです。

人間の探究 1396 眷属妙(けんぞくみょう)

 「此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり」(兄弟抄)
「涅槃経には父母兄弟妻子眷属にはかれて流すところの涙は四大海の水よりもををしといへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり」(諸法実相抄)


眷属というのは、親戚のようなものです。仏教でいう眷属妙(けんぞくみょう)とは、親戚とか、親類という言葉とちょっと違います。血液の流れはなくてよいのです。「親戚」というと、血液の流れは同じです。
血液の流れがなくても、命が似ている人のことを「眷属(けんぞく)」といいます。このほうが合理的です。「血の流れ」と言っているほうがおかしいのです。天皇でも血の流れというと、何が出てくるのかわかりません。
自分の眷属をよく知ればよいのです。眷属とは親兄弟、親戚、親友、クラスメイト、そのようなものを集めて眷属というのでしょう。この眷属の不思議な働きについて、『兄弟抄』には書かれています。
ドロボウは、ドロボウ同士集まるのです。他人でも同じドロボウの眷属です。血はつながっていなくても、ドロボウはドロボウ同士で集まるのです。ヤクザ者は、ヤクザ者同士で集まるのです。「よお、兄弟!」「よお、おじき!」「親父!」と言ったら、それは親族の話ではありません。組の中の話です。似た者同士が集まるのです。
酒飲みは酒飲み同士集まるのです。博打打ちは博打打ち同士で集まるのです。競輪・競馬・ゴルフが好きな奴はそれなりに群れをつくるのです。人間は似た者同士が集まるという習癖があるのです。
夫婦もそのような意味でいうと、眷属です。どこか似ているのです。夫婦も眷属ですから、似た者同士で集まるのです。「何故、あの夫婦は2人でいるのかな?」と思うと、実は眷属なのです。夫婦ですから、影でやっていることは同じです。
まず、自分の眷属の根拠というものを知る必要があります。僕は眷属などいないほうです。いないのを誇りにするべきです。何故かというと、僕は皆とは違うのです。そうなのです。眷属は群がるのです。
そこに行けば麻薬中毒患者が群がって、平気な顔をして麻薬を打っているようなものです。孤高の人は群がらないのです。仲間はいません。全ての人と合わないのです。僕などはそうで、友達は一人もいません。
友達というのは眷属です。僕と同じような人がいたら眷属として集まってくるのですが、僕に似た人は絶対にいないのです。「眷属なきを恨むことなかれ。眷属なきを誇りと思え」ということです。
僕と同じ人間はいません。僕は仏法の道を求め、正義を求め、そして、国の正義を求め、政治に正義を求めています。そんな人間はいません。
眷属が大勢いればいるほど敵はいません。普通の人は、敵がいなくなるように考えています。大学に入学する目的はそうです。早稲田大学、慶應義塾大学、東京大学などは、眷属がみな集まっているのです。
頭でっかちで、馬鹿なのです。いい年をして、くだらない学校の自慢をまだしているのです。「俺は早稲田大学の何期生だけど、君は何期だね?」とくだらないことを聞いているのです。眷属でつながっているのです。早稲田大学も慶應義塾大学も東大も似たような奴が集まるのです。
眷属だから友達がそこでできるのです。それが官僚になっても眷属ですから、出世コースでずっとそのつながりで行くのです。お互いに守り合って、自分達だけに利益を与えながら行くのです。そんな眷属は止めてしまいなさい!
「天上天下唯我独尊」と言える生き方をしていかなければいけません。「眷属など、糞食らえ!」です。仲間などいりません。本当に強い人間は、一人で強いのです。仲間が大勢できると、気が強くなったような気がするのですが、そんなものは烏合の衆です。
普通の人は眷属をつくることに熱中します。僕は眷属などいりません。何故ならば、僕と同じ人はいません。孤高に生きていく、こんな素晴らしいことはありません。これが本当の自由人と言うのです。
普通の人は眷属に縛られて、兄弟・両親・ご学友・会社の先輩など、様々なことに縛られているのです。付き合いも大変らしいのです。付き合いがあると、一カ月で3万円くらい包みます。10人や20人の眷属を持っていると、「今日はあそこの葬式だ」「今日はあいつの結婚式だ」などとやりだしたら、ムダなお金が10〜20万と出ていくのです。
それをやったからと言って、「どうなるのか?」というものでもありません。「寂しから、仲間外れにされないように」と思って努力しているのです。そんな眷属は止めてしまいなさい! 気の小さい人間です。やっている奴はみんなそうです。仲間外れになるのが怖いのです。
そして、良い道を歩んでいる人には、必然的に良い眷属が集まってきます。悪い眷属はいらないのです。良い眷属だけが集まって、自分と同じ志を持った人と巡り合うのです。それで一致してくるのです。そして、「初めて本当の眷属に会えてうれしい」となってくるのです。それでよいのです。
まず、初めに孤独ありです。最初に一人ありです。一人の道が正しければ、だんだん眷属が集まって、良い人がみんな集まってくるのです。そのようなことが、どうやら宇宙の真実らしいのです。
似たようなものが宇宙でも星でも集まるのです。宇宙から降ってくる隕石は鉄が集まった隕石や、ニッケルばかり集まった隕石があるのです。ニッケルはニッケル、鉄は鉄同士で集まるのです。金は金で集まってくるのです。そのようなことです。眷属を求めることなかれ。己の道を、前へ進め!


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2019年10月23日

人間の探究 1395 心の師とはなるとも、心を師とせざれ

86
※日蓮大聖人様は、「心を師としてはいけない」と言われているのです。心を師とする人の人生は全て失敗するのです。心などというたよりない、フワフワでいい加減なものを頼りにしたらいけません。

人間の探究 1395 心の師とはなるとも、心を師とせざれ

「方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり、唯相構えて相構えて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし、心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文ぞかし、委細は見参の時を期し候、恐恐謹言。」(曾谷入道殿御返事)

 どこの本を見ても、何を読んでも「心は厄介なものだ」と書いてあります。しかし、大部分の人々は、この厄介な心を自分の師匠としているのです。
 「貴方は大きくなったら何になりたいのでしょうか?」と聞くと、「私は政治家になりたい」「弁護士になりたい」「医者になりたい」と言うのです。それは、心が思っていることです。
その心に従って行動すると、「あの人は嫌い」「この人は好き」というように感情で動いているのです。心を師とするとこのようなことになってしまいます。全てそうです。心を師としているのです。
 日蓮大聖人様は、「心を師としてはいけない」と言われているのです。心を師とする人の人生は全て失敗するのです。心などというたよりない、フワフワでいい加減なものを頼りにしたらいけません。
テレビの劇でも「貴方の心次第よ」とよくいいます。何が貴方の心次第なのでしょうか? 心などというものは、ありはしません。そのないものを師匠にして、どうやって人生を歩んでいくのでしょうか? 心を師とした人は、必ず人生は失敗してしまいます。
 何を師匠にするのかというと、日蓮大聖人様の教えを師とするのです。仏様の教えを師とするのです。「あの野郎は憎いから殺してやる」というのは、自分の心を師としているのです。
 「それはよくないよ」というのが仏様の教えです。「人を殺したら、貴方の人生も滅茶苦茶になってしまいますよ。だから、人を殺してはいけません」と言われて、「わかりました」と従っていくのが仏様の教えです。
 自分の心を師としていたら、女は「好きな男と一緒になりたい」と思います。まさに眞子ちゃんです。眞子ちゃんは、自分の心を師としているのです。眞子ちゃんは、心の師として日本国を思わなければいけません。
 「私がプー太郎と一緒になったら、国民はどう思うかしら? 許してくれないな。これはもう止めましょう」、と思うことが、心を師としない生き方です。「私が好きになったのだから、無職で乞食男のプー小室と一緒になりたい」など、お話にもなりません。
 結婚というものは、親の感情、兄弟の感情など、そのようなものを考えてやらなければいけません。それを無視して、「親は関係ない、兄妹も関係ない、私が好きな人と一緒になるのよ!」と言うので、人生を失敗してしまうのです。
 瀬戸内寂聴もそうです。何故、あんなババアに説法されて喜んでいるのでしょうか? 瀬戸内寂聴は、若い頃、男をつくって子供と夫を捨てて家を出たババアです。それが好きなことをやって、最後は坊主になって格好をつけているだけです。
 瀬戸内寂聴の人生など、何も幸せになってなどいません。自分が幸せになっていなければ、人を幸せにすることなどできません。結局、瀬戸内寂聴は仏教徒といっても、自分の心を師としているのです。
 長生きのババアです。90歳過ぎて、牛肉をたらふく食べているのです。「牛肉を食べたい」というのも、自分の心が欲しているのです。普通はいい年になって、朝から牛肉をバンバン食べているババアなどいません。
 年を取ったら、「殺生はよくない。あまり牛肉は食べないほうがいいよ。ほどほどにね」と言うものです。毎日朝からステーキなど、「いますぐステーキ」「いきなりステーキ」では、ありません。おかしな奴です。
 「大学へ行きたい」と目標を決めて、自分の心に従って遊んでいたならば、大学には入れません。また、自分の心以上のものをもたないと、大学教授などにはなれません。「どのような心を持ったらよいのか?」というと、「日本国」とか、「日本国のために」というのは自分の心ではありません。
 「日本のために頑張ろう」「ノーベル賞をとるぞ」という心は、自分の心を師としていません。或は、仏道修行をして、お釈迦様、日蓮大聖人様のご説法に耳を傾けて、自分の心を向上させていくのです。
 自分の心は向上させていくものです。心を師としている人は、向上しません。同じところで、心がグルグル回っているのです。ところが、自分以外に心を置いた人は、どんどん成長していくのです。
 「あれ、昔はこのような人だったけれども、今はまるっきり違って偉い人になってしまったな」、こうでなければいけません。心を師としていたら、同じところをグルグルと回っているのです。それでは心は向上しません。しっかりと、心を師としないで、人生を歩んでいくと決めましょう。

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2019年10月22日

人間の探究 1394 天上天下唯我独尊

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※お釈迦様は生まれた時に、スクッと立ち上がって天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と言ったと言われています。

人間の探究 1394 天上天下唯我独尊

「釈迦仏は誕生し給いて七歩し口を自ら開いて「天上天下唯我独尊・三界皆苦・我当度之(さんがいかいく・がとうあんし)」の十六字を唱へ給ふ、今の月満御前は、うまれ給いてうぶごゑに南無妙法蓮華経と唱へ給ふか」(月満御前御書)

 お釈迦様は生まれた時に、スクッと立ち上がって天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と言ったと言われています。これは様々な解釈がありますが、「全てのものは尊い」と言ったというのです。そうではありません。
「本当に尊いものは私だけである。私の悟りだけが唯一の悟りであり、世界で一番尊いものはこれだということを私は知った」ということです。それが悟りということです。
 お釈迦様はいろんな修行をして悟っていくのです。ところが、「究極のこれ以上の悟りはないという悟りは何か?」というと、これを悟ったから天上天下唯我独尊と言われたのです。
 ということは、「天下の人々は、私に帰依しなさい」ということを言われているのです。全てのものは平等で「唯我独尊」と言っているわけではありません。「私が悟った悟りこそ、本物の悟りであって、これが全人類を救い、全生物を司っていく唯一の悟りなのです。」ということです。
 それは何のことなのでしょうか? それが、「妙法蓮華経」ということです。「妙法蓮華経ということを私は悟ったのです。これが一番尊いことです。それ以外に尊いものはない」と言われたのです。それが「天上天下唯我独尊」と言われた意味なのです。
 これ以上尊いものはありません。「全ての者は、この妙法蓮華経という悟りを目指して進みなさい」と言われているのです。それがわからないと、「全ての人間は、唯我独尊で尊いのです」ということになってしまいます。馬鹿なことを言っているものではありません。
 尊い人もいれば、殺人者も強姦魔もいます。殺人者や強姦魔が尊いのでしょうか? 世田谷一家殺人事件のように一家4人皆殺しをして逃げている奴がいます。それが尊いのでしょうか?
 ヤクザをやって、多くの人に迷惑をかけています。その人間がみんな唯我独尊なのでしょうか? そのような意味ではありません。お釈迦様が心の中に開かれたお悟り、それは妙法蓮華経なのです。それが一番尊い悟りです。
 無量義経において、「無量義は一法より生じる」といい、「世界の法はみなこの一法より生じるのです」と言われているのです。だから、妙法蓮華経は尊いのです。そのように無量義経で言われているのです。
 これは、どのような意味なのでしょうか? この妙法蓮華経という生命の法に従って、完璧に生きていくならば、地震もない、大風も吹かない、不幸な死に方もしない、何も起こりません。妙法蓮華経は宇宙大です。それを因果の始めにして、人間は因果・因果と巡り、妙法蓮華経の方に行っているのか、業行の因果に行っているのか、それによって様々なものが生まれてくるのです。
 その結果動物に生まれたり、ネズミに生まれたり、豚に生まれたり、それは妙法蓮華経により決まってくるのです。ということは、自分の因果によって次の生が決まってくるのです。
 「神様は面白いから生命を創ったのだ」と僕は冗談のように言いますが、生命は自分で面白いように生命になっているのです。「生命は面白いように進化をしている」と思っているけれども、気が付いたらカバだったりするのです。カバはそれに気が付きません。自分の道を歩んでいるのです。毎日草を食べて、歩いているのですが、カバの道を歩いているのです。それが正しい道だと思って因果を踏んでいるのです。
ライオンもそうです。ライオンは動物を殺して食べるのです。その因果を負いながら、ライオン道をどんどん歩んでいるのです。そのライオン道の一歩手前にいるのが、ハイエナです。そのハイエナ道を目指して一生懸命歩んでいるのがヤクザです。
 ヤクザは何処を歩んでいるのかというと、ハイエナを目指して、因果倶時と歩んでいるのです。妙法蓮華経は、最終の教えです。これで全て説明できてしまうのです。これだけ多くの動物がいて、何百万種類の生命がいて、何をやっているのかというと、因果・因果・因果と歩んでいるのです。海の中を泳ぎ回っている生命もいます。砂漠の中を転げまわっている生命もいます。穴倉に入ってネズミになっている生命もいます。
 もともと生命がないところから出てきてネズミになっているのです。ネズミになっても気が付かないのです。ネズミになっても、自分がネズミであることも気が付かないのです。自分が何だかわからず、無明の道を一生懸命歩いているのです。
 生命は何もわからないのです。豚や牛は、実は「自分が殺される」ということもわからないのです。豚は食べて肉をつくり、食べて肉をつくり、「充分太ったね。では行きましょう」と言われて連れていかれて、パカッと殺されて肉の固まりになるのです。豚はそれがわかりません。
 豚の目を見ればわかります。自分が何だかわからない目をしています。それが真相であり、これが宇宙の真相です。宇宙には星があり、月があり、太陽があります。地球には、山があり、海があります。全て因果倶時の法則によって出来ているのです。それがお釈迦様のお悟りです。
 お釈迦様の最初の悟りは、「生老病死」です。これを四苦といいます。これが小乗経の時代にお釈迦様が説いた四諦の法門です。四つの苦を悟ったのです。何を悟ったのかというと、「人生は苦である」と悟ったのです。
 「人生は楽しいものである」と悟ったのであれば、人生は楽と悟ったのです。お釈迦様は四苦と悟ったのですから、「人生は楽しくなどない」と悟られたのです。本当は四苦が充満しているのです。これは誰にでも当てはまるのです。
 美人にも当てはまります。星にも当てはまります。太陽にも当てはまります。太陽は、今は爆発して燃えている時です。やがて冷えて壊れてしまい、なくなってしまうのです。生命は生老病死、宇宙は成住壊空です。これは全てに通じる法則です。
 どんなものでもこの4つの法則を逃れることはできません。それをお釈迦様は悟ったのですから、大事な悟りです。そうでないと、「俺は生老病死にはならないぞ」と増上慢になるのです。秦の始皇帝がそうです。「俺は死なないのだ。永遠に皇帝なのだ」と思っていたのです。
 それはお釈迦様から言うと間違っています。秦の始皇帝であろうと、生老病死からは逃れられないのです。生まれた者は、必ず死ぬのです。何故ならば、それが生命の法則だからです。そのように生命の法則を教えていくのですが、根本の法が妙法蓮華経です。そのようにとらえていくのです。
 それが宇宙の法則であり、生命の法則である南無妙法蓮華経に帰依していくのです。すると宇宙と一体の無理のない、自然の法(生老病死、妙法蓮華経)を送ることができるのです。
 それを生活に取り入れている人は、だんだんもの凄い神通力が出てくるのです。妙法蓮華経は、宇宙の法則です。宇宙の法則は妙法蓮華経です。それを知っている人と、「宇宙の法則は何だかわかりません」という人は、比べ物にならないのです。
 ところが、「法華経を信じた」と言っても、ちょっと信じた人と、本当に信じた人もいます。信心の深さが全然違います。だから、信心が深くなるように修行していくと、どんどん境涯が上がり、最後は等覚一転名字妙覚(とうかくいってんみょうじみょうかく)の位に登り、仏果を得るのです。信仰の目的はそうなのです。
だから、天上天下唯我独尊ということを「一切衆生はそのように思え」などという教えは、如何に愚かな教えなのかわかります。「自分のみならず、人も唯我独尊だ。自分だけが正しい」ではありません。
貴方は貴方の道を歩んで、そうなってきたのです。世界には、そのような道ではない道が沢山あります。仏様の道を歩まなければいけません。仏様の道を歩んだということが、唯我独尊です。これが一番大事なことです。これは皆さんが一番大事にしていかなければいけない教えです。

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