2009年06月17日

御義口伝 仁徳天皇稜の謎

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「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。紀元は2600年(キングレコードより)

仁徳天皇稜

世界最大の古墳が日本にある。それはピラミッドを凌ぎ,秦の始皇帝の陵墓をはるかに越えたものである。いま世界遺産にするとかしないとか騒いでいますが、宮内庁の反対で実現は難しいでしょう。その規模は墳長がおよそ486m、前方部は幅305m、高さ約33m。後円部は直径245m、高さ約35mである。三重の濠の外周は2,718m、その内側の面積は464,124m²である。 486mの墳長は、第2位とされる大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の422mを上回り日本最大である。これはエジプトのクフ王の大ピラミット(底辺の一辺230m・高さ146m(現在は頂上部が崩壊して137m)始皇帝稜(東西485m 南北515m 高さ76m(当初は115m) を外堀をいれると文字どうり世界最大の墳墓です。この造営者は謎で宮内庁は仁徳天皇稜と言っているが学者はこの説をとらず、大仙陵古墳あるいは大仙古墳といっています。副葬品などから5世紀前後の築造と考えられていますが良く分らないのが真相です。ユダヤの三種の神器マナの壷に似ているという説もあります。終戦後すぐGHQは日本占領にあたり機雷の浮く大阪湾を避けて和歌山に上陸しそのときある一体が仁徳天皇稜に向かったといいます。この連中は一週間かけてこの稜を発掘しさまざまものを持ち去ったといいます。しかしそれがどこにあるか誰もわからず歴史の闇に埋没しています。今外国で仁徳稜出土として展示しているのはアメリカのボストン博物館です。そこには仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されています。これらの品は、明治41年(1908年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されています。鏡は細線式獣帯鏡で、青龍、白虎、玄武、朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済の武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もあります。刀は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの柄(にぎり)と環頭(柄頭)が残っています。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。柄には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は南朝鮮の新羅や任那の古墳から出土しています。中国や韓国からの出土品が間違えられたという可能性もありますが、鏡も刀も仁徳陵出土品としてもおかしくはなく、明治5年に露呈した前方部埋葬施設から持ち出され、一時期古墳近くの在家の所蔵物になっていた出土物である可能性が大きい。宮内庁はなぜか、この稜の発掘を固く拒むのです。
天皇とはなにものか?その答えはこの”仁徳天皇稜”が知っているのです。ユダヤ失われた十部族はシナにわたり一部シナ化して秦という国を作り秦の始皇帝となりました。ユダヤ民族はエジプト時代奴隷としてピラミットの造営に携わりその技術に長けていました。この技術が秦の始皇帝稜の建設に用いられました。始皇帝稜はピラミットなのです。始皇帝の一族が徐福であり彼は始皇帝の命により約数万の軍勢を率いて日本に向かい淡路島に上陸し勢力を結集し四国を平定しやがて東征をはじめ樫原に於いて王朝を作り日本統一に乗り出し大君のちの天皇の基礎をつくったのです。その勢力は5世紀のころ最大となりあちこちの豪族も前方後円墳をつくりました。仁徳天皇稜の本格的発掘は天皇がユダヤ系シナ人であるというの証拠がいっぱい出てくるはずです。ちなみに仁徳天皇稜が宮内省の管轄であるという法的根拠は何も無いということです。

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nakasugi_h at 09:28│Comments(11)TrackBack(0)clip!


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この記事へのコメント

1. Posted by さえこ   2009年06月17日 09:42
5 おはようございます!

仁徳天皇稜は、歴史の教科書にでてくるぐらいであまり興味もありませんでした。

しかし、これが、徐福の日本上陸に関係があると思うと興味がわいてきます。

仁徳天皇稜の発掘を何故、宮内庁はこばむのでしょう。

是非、出土品を見てみたいです。

中杉博士の歴史観を聞くと、日本人のアイデンティーが目覚めてきます。

歴史のブログも是非、続けてもらいたいと思います。
2. Posted by m.y.fukushima   2009年06月17日 16:43
<仁徳天皇稜の謎>
本日の中杉博士のブログ”仁徳天皇稜の謎”についてでありますが、私事になりますが、この”稜”について興味がありました。
私の住んでる地域は通称”二子塚”という地名(部落名)なのですが(昔は双子塚と呼ばれていた)、村史の本を調べると、元々はやはり5〜7世紀頃造られた前方後円墳(豪族の墓)らしいのです。縦は東西に約1キロちょっとで、横は南北に数百メートル位で実際、塚周辺からは、(昔古来の)鉄刀などの遺物が発見され、場所によって’何とか古墳遺跡’と名がつけられております。時代の流れの中で村開発(?)の為、塚のちょうど間に道路が出来、(塚、稜自体が)東と西と(きれいに)分かれており、住民の家は塚の傾斜に沿ってに(うまく)並んでおり、皆、先祖からの土地(屋敷)として大事にしております。(ちなみに私の家は東西を分けてる道路沿いの東側にあり、地名的には二子塚東という事です。)そして(南側の)田園地帯から望むと間違いなく、古来の由緒ある稜塚である事が感じとれます。
しかし、現在、東の塚の方は新しい道路建設工事中で、道路建設工事と共に、塚の(昔の遺品の)発掘調査が行われています。この(新しい)道路が出来れば、かなり塚の景観が損なわれると思います。(新道路は自宅のすぐ脇を通る事になり、先祖からの屋敷(土地)も多少(かなり?)削られてしまいます。)そして、私としては子供(小学生)の頃、よく塚の傾斜を利用して、冬休みはそり滑りなどした思い出のある塚なので、やはり’未練’はあります。しかし、新しい広い道路が完成すれば、便利な事もかなり出てくる事も期待したいと思います。 
私事でありましたが、今回のブログを通して、地域の(出来)事をコメント出来た事に感謝したいと思います。
3. Posted by m.y.fukushima   2009年06月17日 18:22
今回の中杉博士のブログ”仁徳天皇の稜の謎”を読んで、私が住んでる”二子塚”の塚(稜、古墳)自体は、もしかしたら大変貴重ではないかと感じて来ましが、(福島県)文化財には登録されておりません。(村史には古来の前方後円墳であるのではないかと載っておりますが、’灯台もと暗しで’二子塚地域の住民及び現在の村役人は、塚自体の貴重さをよく判断出来ず、文化財にしようとする意思がないのではないか、と推測致します。)
4. Posted by 神田美代子   2009年06月17日 18:41
最近は仏法のお話が続いたので、歴史のお話が
新鮮ですね

中杉博士の歴史観はロマンがあり、日本という
国家の不思議さも感じます
5. Posted by 愛国沙門   2009年06月17日 22:21
畝傍の神武天皇御陵から、八王子の昭和天皇御陵に至る、歴代天皇御陵は、何をおいても尊敬し大切にすべきでありますが、崇敬するあまり頑なに調査を拒むことは、問題であると思います。 日本書紀の内容に基づいた調査を歴代天皇に敬意を込めながら調査を進めるならば、「神国日本」と「萬世一系の日本国天皇」の素晴らしさが再認識されると思います。
6. Posted by 城ヶ島 花子   2009年06月18日 06:57
宮内庁が、なぜこの仁徳天皇稜の発掘を固く拒むのか不思議に感じます。
7. Posted by C.Sasaki   2009年06月18日 09:07
以前の中杉博士の「日本人のルーツを探る」、個人的にも大変興味深く、斬新な新説でしたが、本日の仁徳天皇稜も合わせての新説も驚きを新たにしています。また、この続編も心待ちにしています
8. Posted by レイ   2009年06月18日 10:18
5 久々の歴史のお話しですが、日本の歴史を知るという事は、日本人としての誇りを持つ事に繋がります!
仁徳天皇陵は、私の住んでる所から車で1時間程です。昔行った事がありますが、見る者を唸らせる見事な造りでした。
9. Posted by 古事記参究   2010年04月20日 00:38
3 いずれにしても出雲安来の比婆山神陵の復権なくしてはGHQの戦後洗脳が終わらない。
10. Posted by 村井美紀   2011年05月21日 16:31
アメリカGHQが昭和13年3月15日に、世界戦争勝利者である、日本国エンペラーをMK-ULTRA暗殺。昭和12年11月15日に生まれたエンペラー長男が北の慰安婦に誘拐される。歴史的大惨事。この時点で、幼い長男以外の日本人は絶滅。「太平洋ひとりぼっち」状態から、現在、日本人の血縁は世界でたったの5人。当家の所有である、皇居、仁徳天皇陵、日本国を早急に返還して頂きたい。
http://www.facebook.com/profile.php?id=100001460459138
11. Posted by やまだ   2011年10月09日 05:10
秦の民はいわゆるシナ人(漢民族)とは違う系統であると思いますね。秦国は西戒など中国の西側に住んでいたペルシャ系やユダヤ系民族など多民族で構成されていた、という説もありますね。

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