2017年09月12日

人間の探究 850 法華経講義第三回 無量義経序分一

2460313d.jpg
※ 「徳行品第一」と言うのですから、「この妙法の修行をすると、こんな素晴らしい徳が持てるようになるのです」というので、「それはどんな徳ですか?」ということが書いてあるのです。

人間の探究 850 法華経講義第三回 無量義経序分一

 前回の講義の要点は仏になる寸前の菩薩といっても、仏の傍に来て、み足を頂いて帰依するのです。何のためにそのようにしたのかというと、仏が記別を与えるためです。「お前はもう仏になったぞ」と言われないと仏になれません。勝手に仏になるわけにはいきません。記別が欲しくて菩薩は仏様のところへやってくるのです。
 菩薩の持っている神通力は、この後の経典では説いています。菩薩はすごい神通力をもっています。
 菩薩は「仏とはどのようなものか」と声をそろえて合掌して偈を説いて讃を申し上げたのです。「仏様は如何にすごいか」ということが今日の講義です。
 それが「大なる哉大悟大聖主」です。偉大なる仏というものは、大悟大聖主です。聖者の中で一番偉い人を仏というのです。どうしてかというと、仏というものは、「垢なく染なく所著なし」といいます。汚れがありません。そして何ものにも染まっていません。「所著」とは、物に執着しないことです。仏というものは、汚れが無くて、何ものにも染まっていなくて、執着がありません。
 「天人象馬の調御師、道風徳香一切に薫(くん)じ、智恬(ちしず)かに情泊(じょうしず)かに慮凝静(りょうぎょうじょう)なり。意滅し識亡(しきもう)して心亦寂なり。」「智恬かに」とは、智と情があります。智とは、「物を知りたい」という心の働きです。仏は「物事を知りたい」とは思いません。
 好きとか嫌いとか、美味いとかまずいという情は本当に静かなものです。疑う心もありません。仏は何もないのです。その感じがわかりますか? 「●●したい」という意思も滅していて、何もしたいとは思いません。
 何事かを認識する心もないのです。「勉強したい」というのは欲望の一種です。それは識が滅していないからです。「いろいろなことを知りたい」「学問をしたい」というものもそうです。仏はそのようなことがありません。
 従って「心亦寂なり」心は静かです。心は「こうしたい、あのようにしたい」という欲望があると心が乱れて苦しむのですが、仏はその欲望がないのです。何かしたいこともなく、知りたいこともないのです。いるのかいないのかわからないような感じです。
 「永く夢妄(むもう)の思想念(しそうねん)を断じて、」これは、長い間バーチャルリアリティーの世界を歩んできたということです。現実ではありません。「バーチャルリアリティーはくだらない世界だと断じて、「復諸大陰入界(またしょだいおんにゅうかい)なし。」諸々のものに出入りするのです。陰入界に出没するから生まれてきてしまうのです。
 仏は何も欲望がありません。理論的には何も無いからまた生まれることもないのです。しかし、また生まれるのです。それは何故かというと、人々を救うために生まれるのです。自分のために何かやりたいから生まれるということはありません。
 「人々に仏教を教えて救いたい」というために仏は生まれてきますが、色情の因縁によって陰入界に出たり入ったりすることによって、生まれてくるようなものではありません。
仏というもの、「其の身は」ここからが曲者です。「其の身は有に非ず亦無に非ず」「仏というものは、有あるものでもなければ、無いものでもない」これはどのような意味かというと「仏様は形がありますか?」と聞くと「形はありません」と答えます。「では形はないのですか?」と聞くと「形はないわけではないぞ!」と答えるのです。「枕かかえて横に立ってます」というようなもので、有るわけでもないし、体がないのですから無いのかと思うと無いわけでもありません。
「因に非ず縁に非ず」とは、物事の原因にもならないし、何事かの縁にもなりません。「自他に非ず」ですから、自分でもなければ他人でもないのです。
「方に非ず円に非ず短長に非ず」四角でもなく、円でもなく、短いものでもなく、長いものでもありません。
「出に非ず没に非ず生滅に非ず」出るものでもなければ、無くなるものでもなく、消滅するものでもありません。
「造に非ず起に非ず為作に非ず」造るものでもなく、起きるものでもなく、偽りに作るものでもありません。
「坐に非ず臥(ガ)に非ず行住に非ず、動に非ず転に非ず閑静に非ず、」座っているものでもなく、横になっているものでもなく、行くものでもくとどまっているものでもなく、動くわけでもなく、転がるものでもなく、静かなものでもありません。
「進に非ず退に非ず安危に非ず、是に非ず非に非ず得失に非ず、彼に非ず此に非ず去来に非ず、」進むものでもなく、退くものでもなく、安全でも危険でもなく、是でもなく、非でもなく、利得でもなく得失でもなく、彼でもなく、此こでもなく、来るものでもなければ去るものでもありません。
「青に非ず黄に非ず赤白に非ず、紅に非ず紫種々の色に非ず。」青でもなく、黄色でもなく、赤でも白でもなく、紅でもなく、紫でもありません。
 これが有名な34の非です。これを戸田城聖は読み切ったのです。「仏とはどのようなものか?」ということが書いてあるのです。誰も解釈できないのです。「出るものでもなければ、引っ込むものでもない、赤いものでもなければ、青いものでもない」一体、これは何でしょう。生命とはそのようなものです。「34の非」とは、生命のことを説いているのです。
 仏とは生命のことなのです。ノミのような一寸の虫でも生命が宿っています。大きな象にも生命が宿っています。千年も続いている大きな杉の木もあります。「では、生命とは大きいのですか?」というと、大きいのです。では、小さいノミは生命ではないのでしょうか? それも生命です。すると生命の姿は大きいのでしょうか、小さいのでしょうか? 赤い花でしょうか、白い花でしょうか? 全ての生命は仏が姿を変えて現したものです。ここが難しいところです。
 仏は姿がありません。形もありません。生命をとらえてみてください。とらえられません。人間を燃してしまえば炭素と窒素と水素になってしまいます。炭素と水素と窒素を入れて「エイッ、ヤー!」と気合を入れても生命は生まれません。
 いくらやっても生命はできません。材料を集めて電気ショックを与えても生命はできません。「人間はこのような元素から出来ています」と言われて、同じように元素記号を配列しても生命はできません。物質の世界と同時に生命の世界があるのです。
 これは肉眼で見ても見えません。人間は未だに生命はできません。ノミ一つもできません。生命ができる原理があり、自然そのものが生命とも言えるのです。部分的なものではありません。
 この考え方をもっと進めると宇宙全体が生命だともいえるのです。生命とはもともとあるものです。誰かが創ったものではありません。誰かが創ったものであれば、「In the beginning」です。生命はクリエイトしたものではありません。もともとあるものですから始まりがないのです。
 「宇宙はどこまであるのですか?」と質問すると、答えはどこまででも広いのです。全宇宙を包括して、存在そのものの奥に生命はあるのです。存在とともにあり、何にでもなるのです。月にもなるし、太陽にもなるし、人間にもなるし、猿にもなるし、山葡萄原人にもなります。生命がなるのです。生命は特定できません。
 人間が人間を殺しても人間が減ったことにはなりません。生命は殺しようがありません。一人の人間を殺して「あの世に送ってやったぞ!」と言ったところで、もともとの世界にあるだけで、何も減っていないのです。何万人殺そうと、何百万人殺そうと、減ったように思いますが何も減っていません。生命の世界は全体です。1億人殺しても何も減っていません。宇宙の理解の仕方は、壮大なスペクタルです。
 その境地は甚深不可思議で非常にわかりにくいのです。
仏様は「それを教えましょう」と言われて、生命の正体を妙法蓮華経と教えられたのですそれに対して説いているお経が「妙法蓮華経」です。
 「徳行品第一」と言うのですから、「この妙法の修行をすると、こんな素晴らしい徳が持てるようになるのです」というので、「それはどんな徳ですか?」ということが書いてあるのです。
 我々が修行すると生命が見えてくるのです。どこかの変な人が「お宅に泊めてくれませんか?」と言ってきたとします。顔色を見れば、生命の修行をした人は「これは生命が終わりの人だな」とわかるのです。「これは泊めていけない人だな」とわかるのです。それがわからなかったら、何の勉強をしているのでしょう。
 すべてがわかるようになるのです。そのような目で見ると政局もわかるのです。生命から見ると「こんなことをやって総理になっているけれど、もう終わりだな」とその次元でわかるのです。
 これをもう少し詳しく言うと、生命のわかり方というのは、生老病死とわかるのです。生命は生老病死です。生まれて来るものは必ず老いて病気になり死んでいきます。これは人間にも当てはまるし、シンゴジラにも当てはまるのです。ゴジラが出来る時、ゴジラが成長していく時、ゴジラが老化してゴジラが倒れてしまう時があります。如何なる生命にも生老病死は当てはまるのです。
 これを宇宙で言うと成住壊空(じょうじゅうえくう)です。宇宙が出来る時が「成」、今ある時が「住」、宇宙が壊れる時が「壊」、また元に戻る時が「空」です。この法則はどこまでいっても宇宙に当てはまる大法則です。妙法蓮華経はそのような法則です。
 これを進化していくと、生老病死では足りません。まだこの徳行品第一では、妙法蓮華経は出てきません。仏というものを修行によってつかみ取っていくのです。そこに実存が生まれるのです。実存とは消えないことをいうのです。
 全てのものは実存が創り出しているのです。どんな恵まれた生活をしていても、加山雄三でも生老病死は逃れられません。死んでしまうと、栄光の加山雄三の人生は何だったのでしょうか? 単なるバーチャルリアリティーの世界にしかすぎません。
 何もつかんだものはありません。「楽しかったな」「辛かったな」という感情はあります。それで終わってしまうから、経験したことは消えてしまうのです。実存を得た人の人生は消えません。
 どういうわけだか人々は、実存は求めないで、バーチャルの世界だけの幸せを求めているのです。バーチャル世界であるから、結果的には幸せにはなれません。そのようなことを説いているのです。今日はここまでです。

無量義経徳行品第一
大なる哉大悟大聖主、垢なく染なく所著なし。天人象馬の調御師、道風徳香一切に薫じ、智恬かに情泊かに慮凝静なり。意滅し識亡して心亦寂なり。永く夢妄の思想念を断じて、復諸大陰入界なし。其の身は有に非ず亦無に非ず、因に非ず縁に非ず自他に非ず、方に非ず円に非ず短長に非ず、出に非ず没に非ず生滅に非ず、造に非ず起に非ず為作に非ず、坐に非ず臥に非ず行住に非ず、動に非ず転に非ず閑静に非ず、進に非ず退に非ず安危に非ず、是に非ず非に非ず得失に非ず、彼に非ず此に非ず去来に非ず、青に非ず黄に非ず赤白に非ず、紅に非ず紫種々の色に非ず。戒・定・慧・解・知見より生じ、三昧・六通・道品より発し、慈悲・十力・無畏より起り、衆生善業の因縁より出でたり。


★★★事務局よりお知らせ★★★

アメーバブログで、「中杉 弘の徒然日記」
好評連載中です!!
     ↓
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi


人気blogランキング、よろしくね!
  ↓↓↓


         コメントは、ここにお書きください↓↓↓

nakasugi_h at 00:00│Comments(16)clip!


この記事へのコメント

1. Posted by 徒然日記のコメント欄より転載   2017年09月12日 00:38
12. すごい人気と、知性の高い読者に驚く

寄せられた質問に、すぐに解答できる知性の高さに脱帽しました。

牧田 2017-09-11 23:18:23
2. Posted by 主任教授 さえこ   2017年09月12日 09:34
5 今日の講義「法華経講義第三回 無量義経序分一」拝読しました。

邪教が多く衆生の側に「仏教とは何か? 法華経とはどのような経典か? 知りたい!」という熱烈な欲求があるようには見えませんが、仏の教えは後世まで残ります。

皆さんがわからなくても、後世の人がわかるレベルになるかもしれません。

仏さまは常にご説法されています。

しっかりと中杉博士の講義を学んでいきましょう。

今回の法華経講義、すごいですね。
徳行品第一では、生命とはどんなものか、34の非で現されています。

それに気が付いたでしょうか?

ニセ宗教をやっている幸福の科学の大川隆法、立正佼成会、創価学会は法華経講義などできません。

わかる人は本物の仏の教えを学んで仏になっていきましょう。

3. Posted by 神田美代子   2017年09月12日 12:18
5 >「仏様は如何にすごいか」ということが今日の講義です。

34の非を読んだだけでも次元が違い過ぎて目が点になります。

>仏とは生命のことなのです。

これはちょっと意外な感じがしました。私たちの頭の中では、「仏」と聞くと奈良の大仏やお寺などに飾られている仏像を思い浮かべたり、中には極楽浄土に居る阿弥陀如来みたいな架空の存在を想像しがちだと思いますが、仏とは生命の事であり、これをしっかり学んで行く事が大切だと感じます。

>物質の世界と同時に生命の世界があるのです。

これは何となく分かる気がします。どれだけ医学や科学が発達しても人間の手で生命を創り出す事は出来ません。材料をいくら揃えてもネズミ一匹作れません。生命の世界の働きが無ければただの物質、材料のままだと思います。

>この妙法の修行をすると、こんな素晴らしい徳が持てるようになるのです」というので、「それはどんな徳ですか?」ということが書いてあるのです。

生命について学べる事ほど素晴らしい事は無いと思います。世間の人々はそれを知らずに流されるように生きていつの間にか死んで行くだけですが、このブログに縁した私たちはこのチャンスを無駄にしないようにしっかり学んで行くべきだと思います。


4. Posted by 博士ご著書「仏法と神道」読者   2017年09月12日 15:51
信仰心を持つ人は、無限の智慧を仏法から頂き、どこまででも自分も無限の向上ができるのです。信仰心を失った人間は豚と同じです。「私は信仰しています」などと言っても、口先だけではダメで、向上心が大事です。

我々の人生には終わりがありません。我々は凡夫であるが故に、どこまででも向上していかなければならないのであり、信心の深きは者はその智慧もまた深いのです。

仏陀の智慧とは「法性の淵底(えんでい)、玄宗の極地」と言って、もの凄く奥深いところからコンコンと泉のように湧き上がってくるのです。

5. Posted by 参照数   2017年09月12日 17:45
ただいま1161
6. Posted by 読者   2017年09月12日 17:47
本日のご講義、博士ご著書「仏法と神道」の内容、学会の池田などは絶対出来ない内容です。
7. Posted by うっちゃん四兄弟   2017年09月12日 19:01
みんな博士ご著書を全巻読もう!!

いよいよ「ジンギスカンは源義経だった」、英語版も電子ブックで発売される!!!

乞うご期待!!!

8. Posted by ASUKA   2017年09月12日 19:03
>34の非
これを戸田城聖は読み切った

このことが池田に分かるはずありません。

戸田先生の弟子が博士の師・石田次男先生、その弟子が博士であり、正統な学会会長はやはり博士であると思いました。
9. Posted by 弥生   2017年09月12日 19:05
>法華経講義第三回 無量義経序分一

本日のご講義、先日の尼崎さん、学会員皆が拝読して欲しいと思います。
10. Posted by 一読者   2017年09月12日 19:06
>仏というものは、汚れが無くて、何ものにも染まっていなくて、執着がありません

博士であると思いました。
11. Posted by うっちゃん四兄弟   2017年09月12日 19:08
>すべてがわかるようになる
そのような目で見ると政局もわかる
生命から見ると「こんなことをやって総理になっているけれど、もう終わりだな」とその次元でわかる

みんなもそうなろう!!
12. Posted by 一国民   2017年09月12日 19:10
>人々は、実存は求めないで、バーチャルの世界だけの幸せを求めている

無信仰、学会など邪教の会員がそうです
13. Posted by 佳子   2017年09月12日 19:22
中杉博士、本日もご講義有難うございます。

>12

そうですね。

無信仰、邪教とは、以前より博士が教えられている通り、「それぞれ正反対、逆に世界、物事を見ている」状態であり、無信仰では自分の好き嫌い、朝鮮人のようにその時々で勢力の大きい方につく「事大主義」で動いたり、邪教では池田や麻原のような朝鮮人、狂人を拝むことになり、つまり自分の目先の欲や、狂人が自分の中心になるのですから、当然ながら自分の人生、家庭、心身も狂ってきます。

博士は「法華経入門」のご著書があり、そしてこのような法華経講義が出来るのは、博士お一人です。

学会、大石寺、法華講、全教団、全寺院、全て博士の法華経講義を拝読すべきです。
14. Posted by マリー   2017年09月12日 20:03
バーチャルリアリティーの世界では本当の幸福は得られないのですね。
15. Posted by そら   2017年09月14日 09:18
5 ブログを毎日拝見させて頂いております。
実存を得る、もしくは感得するにはどうしたよいでしょうか、
博士のお考えを通してみると、現在の日蓮大聖人門下はいずれも仏教本来の教えにほど遠いように思えます。
16. Posted by 主任教授 さえこ   2017年09月14日 10:29
>そら 2017年09月14日 09:18

>5 ブログを毎日拝見させて頂いております。
実存を得る、もしくは感得するにはどうしたよいでしょうか、
博士のお考えを通してみると、現在の日蓮大聖人門下はいずれも仏教本来の教えにほど遠いように思えます。

実存を得るためには、悟った仏様から学ぶことです。

現代では、悟った仏様は正理会の中杉博士ただお一人です。

衆生が「仏様に会いたい!」と渇仰の心をおこすので、必ず一時代に一人、仏様は現れるのです。

しっかりと中杉博士より学んでいきましょう。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔