2018年03月09日

人間の探究 975 画竜点睛(がりゅうてんせい)を欠く

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※ちゃんとツボにあったところに筆を入れると絵が蘇ってしまうのです。これが「画竜点睛を欠く」という意味です。

人間の探究 975 画竜点睛(がりゅうてんせい)を欠く

 昔からの諺の中に「画竜点睛(がりゅうてんせい)を欠く」という諺があります。この意味をみなよくわかっていませんが、これはこのような意味です。
 ある人が「お前は絵が上手いな」とみんなに褒められています。ところが、そこに本当の名人が出てきて「この絵は誰が描いたのだ?」と聞くと「わたくしが描きました」と言うのです。「そうか、修行は進んでいるが、まだまだだな」と名人が筆をもって、その絵にポンと一発筆を入れるのです。
 「えっ?」と思うと、その絵が蘇ってしまうのです。「こんなに違うのですか!」と絵を描いた人も驚いてしまったのです。「筆をどこに入れるのか?」ということが大事です。ちゃんとツボにあったところに筆を入れると絵が蘇ってしまうのです。これが「画竜点睛を欠く」という意味です。
 修行はみんなそうです。自分が充分修行して「満足した」と思っても、先生から見るとまだまだです。ポンと一筆入れられてしまい、蘇ってしまうのです。料理もそうです。「私は料理が上手いです」と自慢していても、そこに料理の名人がやってきて、「君かね、この料理をつくったのは」と言われて、「はいそうです。味を見てください」と言うので、料理の名人が味見をすると「よし、これは小さじ1杯のしょうゆをいれなさい」と言われてしまうのです。或は「大さじ1杯の砂糖を入れなさい」「大さじ1杯の酢を入れなさい」という一言で味はパッと変わってしまうのです。
 今まで自分では美味いものをつくっていたと思っていても、先生が来て「お塩を入れろ」と言うと味が全て変わってしまうのです。これも「画竜点睛を欠く」です。それがわからないと、「私の料理は美味いでしょう!」と粋がっていても、名人に出会うと一言も言えなくなってしまうのです。名人は一発で味を変える急所を知っているのです。料理は特にそうです。
 これは剣道でも同じです。どうしてもわからないことは、先生に聞くのですが、先生はなかなかそんなことは教えません。まず、「もうこれ以上、俺は修行ができないというところまで、修行をやってこい!」と先生に言われて、弟子は「修行をやってきました」と言うのです。「しかし、どうしてもこの一点がわからないのです」という弟子は、先生との差がまだわからないのです。
 「もう俺は先生を超えただろう」と、みんなそう思っているのです。ところが、どうしてもわからないところを先生に教わります。すると「これはこうするのだ」と一言教わっただけで、「わかりました」と全てわかってしまうのです。
 これは大事なことです。例えば、剣道の極意とは何でしょう。考えてもわかりません。先生に聞くと、「剣道の極意とは、人殺しだ」と、一言です。もっと原理があります。それは、「殺さないで敵を戦えなくする」ということです。
 殺すのは最低ですから、殺さないで戦えなくして、自分が勝利を治めることが剣の極意です。「そんなことができるのですか?」というと、できるのです。北辰一刀流の「親指切り」を見てごらんなさい。戦えなくするために、親指を切ってしまうのです。
 刀を握った左手の親指を切られてしまうと刀が握れません。親指がないと刀は握れません。だから、フラフラになってしまい、もう戦闘はできません。北辰一刀流に「親指切り」という技があるのです。他の流儀でもありますが、狙う個所は首です。
 剣道では首は禁じられていますから、肩などに竹刀を入れても一本にはなりません。剣道は、頭と小手と胴だけです。本当は首を狙います。頭を打ってもダメなのです。首を斬るのです。それで相手は終わりです。血が噴き出して身動きができなくなってしまうのです。
 或は手首を斬るのです。すると刀がちょっと触るだけで頸動脈が切れて血が噴き出してしまうので、手首を抑えないと出血して倒れてしまいます。体を真っ二つに斬るなど、野蛮なことをしなくてもよいのです。これが剣の極意です。 多くの敵を相手にして立ち回りになった場合でも、極意を知っていれば瞬間で終わりです。時代劇で、バンバンバンと討ち合うのは偽物で、本当はそうではありません。瞬間に急所を決めれば終わりです。
 まだいろいろあります。目を斬る方法、ノドを突く方法があります。もうこれで終わりです。それが極意です。僕も剣術は習いましたが、合気道と通じる面もあります。「素手の場合、どうするのか、とっさに襲われた場合はどうするのか?」これには極意があります。
 話は違いますが、山口組三代目の親分は、不良時代の修行で、目を突いたのです。練習するために因縁をふっかけて、目を突いて、目をえぐってしまうのです。眼球が取れてしまうので、医者に行ってはめてもらえばよいのですが、それを専門にやったのです。
 これはヤクザ者のやり方ですが、同じことです。剣をもって戦う場合でも極意があります。極意はなかなか人には教えません。「竹刀剣法で強くなった」と言っても、極意から見れば、相手にもなりません。極意を体得しないとダメなのです。
仏教もそうです。極意というものがあって、その極意を体得しないと、仏教はさっぱりわかりません。師匠について、極意を体得しないと修行は完成しません。
 仏教の本意がわからないから、滝に打たれたり、難行苦行をしているのです。もうそんなことは昔から禁じられています。お釈迦様は何年間も難行苦行をやって、全く悟れなかったのです。やせ衰えて体が疲れて死にそうになり、参ってしまったのです。
 お釈迦様は「私はこんな難行苦行をして悟りが開けるとは思わない。まず、静かなところに座って、悟りに向かう」と考えられて、断食を止めたのです。そこに通りがかったのがスジャータです。スジャータのくれた乳粥を食べて、菩提樹の木の下に座り、7日7晩瞑想したのです。
 そして遂に悟りを開いたのです。お釈迦様は「難行苦行をしろ」「滝に打たれなさい」「断食しろ」などとは言っていません。そんなことをやってもお釈迦様は悟れなかったのです。それなのになぜ今頃、お滝行をやったり、冬に水をザブンとかぶったり、馬鹿なことをやっているのでしょう。そんなことをしても、全く意味がありません。
 中道の悟りを開くためには、苦行は意味がありません。というと楽行でよいのかというと、そうでもありません。楽行とは食いたいだけ食い、寝たいだけ寝て、ブクブク太るのが楽行です。楽行でも中道は悟れません。
 苦行にも非ず、楽行にも非ず。それが中道の悟りを得るのですから、日蓮大聖人様のご説法を聞いて悟っていかなければいけません。悟った人から教わらないと、悟ることはできません。これが「画竜点睛を欠く」という一つの考え方です。

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この記事へのコメント

1. Posted by 簗瀬昌平   2018年03月09日 02:14
先生のお言葉有り難く拝聴させて頂きました。
下世話な事ですが食事 車の移動等 あらぬスキャンダルなど      お気を付けて ご活躍お祈り申し上げます。
2. Posted by 主任教授 さえこ   2018年03月09日 09:21
5 今日の講義「画竜点睛(がりゅうてんせい)を欠く」拝読しました。

>ちゃんとツボにあったところに筆を入れると絵が蘇ってしまうのです。これが「画竜点睛を欠く」という意味です。

絵の修行をしている人は、だんだんと自分の絵に自信をもってきます。
自分でも「絵が上手い」と思っています。
しかし、名人が「ポン」と一筆を置いただけで絵が蘇ってしまうのですから、この人の修行はまだまだということです。

これは、料理でも、剣道でも、仏教でも言えることです。

自分のことを指導されるのを嫌がる人は、仏道修行はできません。
そのような人は仏道修行のスタートラインにも立てません。
欲望のまま、業行の因果のままで生きていくのですから、どんどん流されてアブクのように消えていく人生です。

哀れですね。
人間の愚かさとはかなさを感じます。

仏道修行ができるのは、人間の間だけです。
豚に生まれてしまったら、もう仏道修行はできません。
生まれるたびに人間に食われて、何千回、何万回の畜生の生で流転していくのです。

凡夫の自分を仏に変えていくことが仏道修行です。
生きている間に、自分の命の正体がわかる人間になっていきましょう。





3. Posted by 通行人   2018年03月09日 11:42
>2
業業の因果

「業行(ごうぎょう)の因果」でしょうか?
4. Posted by 主任教授 さえこ   2018年03月09日 12:32
通行人様へ

ご指摘有難うございます。
早速訂正いたしました。
5. Posted by 空玄   2018年03月09日 17:16
お釈迦様は「断食しろ」とは言わず、また、「断食するな」とも言わず。

つまり、断食は、今までの自分の言動を悔い改めて反省し、霊的な自己再生を果たすために行う、「神への懺悔と感謝の祈り」です。

日本神道でも、祭礼の前に断食して精進潔斎(心身の浄化)をします。

断食したことない人は、人に説教してはなりません。なぜなら、そういう人は自己の食欲に支配され、五欲に溺れ、自制心のない人物であるからです。
6. Posted by 読者   2018年03月09日 18:59
>悟った人から教わらないと、悟ることはできません

池田や大川、麻原のような朝鮮人詐欺師は、何も悟ってはいません。
7. Posted by ASUKA   2018年03月09日 19:03
>中道の悟りを開くためには、苦行は意味がありません

本日の博士のご講義の通りです。

また、邪教である学会の選挙活動、大石寺の板本尊を拝んだり、立正佼成会の言う通り、霊に脅かされお布施をしても、逆に悪業を積むだけです。
8. Posted by Vega   2018年03月09日 19:52
>修行はみんなそうです。自分が充分修行して「満足した」と思っても、先生から見るとまだまだ

本日の博士のご講義の、通りです。
9. Posted by 佳子   2018年03月09日 20:53
中杉博士、本日もご講義有難うございます。

>自分が充分修行して「満足した」と思っても
先生から見るとまだまだ

以前、博士は「悟りを開き成仏しても、そこで終わりではない。悟りとは日々、年々、深まっていくもの」と教えられたことを思い出しました。

池田のように修行し折伏したと言いながら、実際は会員を選挙奴隷にし、国土交通大臣のポストを得て、「これで満足した」と思っていても、実は大変な地獄因を積んでおり、発狂し両手両足切断と言われ、会員を朝鮮奴隷にした文鮮明も、ヘリコプター事故で墜落死、黒焦げ死体となり、二人ともあれだけの個人資産がありながら何の役にも立たず、逮捕されないからと悪事や犯罪のやりたい放題、人々を不幸にし地獄に送った分、自分もその苦しみを味わうことになりました。

修行、信心とは、学問などとは違い、「これだけしたから満足した」などと言えるものでも、「ここまですれば成仏」と言えるものでもなく、博士が教えられる通り、私たちは【一念】の存在なのですから、「これだけしたから満足した」と思った瞬間【一念】、そこから精進、前進は止まります。

博士は悟られ、お悟りが深まり、大功徳、大福運を得られてもなお、毎日のブログで人々をご指導、学会員1人に対しても全力でご指導、そのお姿こそ悟り、精進のお姿であると思います。
10. Posted by 大田   2018年03月09日 21:23
今日の講義拝読させて頂きました。

以前、分別無分別の講義で分別を理解した上に無分別があると教えて頂きました。

名人と言われる方はそれぞれの道の細部にまでわたって会得した人の事を言います。
細部にまで会得をしたので全体が分かってしまうのだと思います。

会得をするまでの自分はその道の一部分が分かっただけで極めたように思ってしまいます。
また皆が「良いよ」「素敵だね」「素晴らしいよ」と言ってもらうと嬉しいし、誇らしさも感じてしまいます。

しかし褒めてくれている人が極めていない人だと言う事を忘れてしまい、自分の未熟さに気付かないまま、名人に「完成しました。お願いします」と見て頂くとスパッと未熟な所を指摘をされてしまう。
未熟さを指導されるからまた精進をし、修行が出来るのだと思います。

その繰り返しで、極意を体得する事ができ自分も名人になれるのだと思います。

難行苦行よりも先ず自分が目指す道の名人を探し門下生にして頂く事が大切だと思います。
「画竜点睛を欠く」とはこの様な事ではないでしょうか
でないと禅天魔になってしまうと思います。

博士、ご指導ありがとうございました。
11. Posted by 青山   2018年03月10日 10:44
5 御講義有難うございます

師匠について極意を学ばなければ何事も前進しないと思いました。

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