2018年06月12日

人間の探究 1042 同時存在する宇宙

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※未来にも真実があるわけで、どこに過去・現在・未来が存在しているのかというと、同時に存在しているのです。この考え方は並行宇宙論に近い考え方です。

人間の探究 1042 同時存在する宇宙

 時というものは過去・現在・未来があると言われています。ということは、「過去にある者が存在した」ということと、「現在ある者が存在している」ということは同時に存在しています。
 人間は「過去は過去で今は現在だ」と考えていますが、「消えた過去はどこにあったのか?」と考えてみます。人間は「過去・現在・未来」と時間が流れているように思いますが、縦軸からひっくり返して横に並べてみると、実は過去は隣にあるのです。それで現在があり、未来も横にあるのです。
 未来の現在と、過去の現在は限りなく同時に並んでいるのです。「どこの存在が真実なのか?」ということも言えません。現在だけが真実なのかというとそうでもありません。過去にも真実があり、現在も真実です。
 ということは、未来にも真実があるわけで、どこに過去・現在・未来が存在しているのかというと、同時に存在しているのです。この考え方は並行宇宙論に近い考え方です。
 未来とは、今だ来たらぬものを未来といいます。過去に過ぎ去ったことを過去といい、現在は現在です。そのような考え方ではありません。自分のことを考えてみても、子供の頃は過去です。存在していたことは事実です。
 おおざっぱに過去・現在・未来ではなく、ミリ単位で刻まれている事実があります。そのすべてが存在しているのです。自分が「何年何月何日の昔に帰りたい」ということしかないのだと思います。
 過去・現在・未来は連続性をもっています。もっと精密にいうと、「何年何月何日何時何分何秒に帰りたい」という時計を合わせると、今でもその時計は動いているのです。過去があって現在がありますが、それは同時に動いていて、消えていないのです。
 「何年何月何日何時何分何秒に帰りたい」とチャンネルを合わせると、今でもその現実はあるのです。それが同時に存在しているから、並行宇宙論というのです。過去はどのような次元だと考えたらよいのかというと、過去は過去に行くものです。これは異次元の世界です。
 現在から過去は取り出せませんが、現在は過去の続きです。過去に入ろうと思うと、異次元を通してしか入ることはできません。この理屈を上手く考えていけば、タイムマシンにつながってくるのです。
 過去に行くとはどのようなことでしょうか? 昔に帰るように思いますが、実は横に行くのです。過去は同時に存在するのです。我々が感じてきた過去の世界は同時に存在するのです。未来もそうです。
 現在が全て消えてしまって未来が出てくるわけではありません。現在と未来もつながっています。分刻みに「瞬間・瞬間・瞬間」がつながって未来が出てくるのです。未来は、横にあるのです。キョロキョロと見渡すと、右が過去で、左が未来というようなものです。
 上を見て「未来がある」、下を見て「過去がある」というようなものではありません。過去・現在・未来は同時に進行しています。そのうちの何処に自分が入り込むかによって瞬間が決まってくるのです。
 この見方をもっと変えると「時というものは無い」とも言えるのです。過去・現在・未来を一つにまとめたものを「瞬間」といいます。実際は過去・現在・未来というものがあるわけではありません。
 あるのは、瞬間だけなのです。この瞬間をわかっていくというとが、「刹那成道」です。刹那がわかったということが、成仏という意味です。「刹那に成道する」とは、そのようなことです。
 時間は存在しません。時間とは錯覚です。過去も未来もないのです。「同時に存在する」ということは、無いということです。そんなものは溶けてしまい分別できないのですから、無いのです。
 ということは、過去もない、実は未来もないのです。それと同時に現在もないのです。これがホログラフィー理論です。我々は錯覚して見ているのです。今、見ている現実は瞬時になくなるのです。
 人間は過去・現在・未来を区別して見ることはできないのです。あらゆるものは、瞬間しかないのです。そのことを説いたのが、因果倶時です。因と果は時間がずれています。当たり前のことです。「このようなことをしたら、このような結果になる」というように時間がずれています。
しかし、瞬間しなかないのですから、因も果もないのです。因と果は分けられません。現実は、同時です。因は過去で、結果が果だと思っています。因果倶時ということは、因と果はないのです。
 日蓮大聖人様は「因果倶時不思議の一法之れ有り、之を名けて妙法蓮華と為す」(当体義抄)と言われています。仏様の見方は、そのような次元に立たれているのです。
 織田信長は「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」(敦盛)、そのことがだんだんわかってきて、信長は残酷になったのです。秀吉も晩年は残酷になってくるのです。秀吉の晩年はやたらと人を殺したのです。
 朝鮮出兵で最初は首を送ったのですが、重荷になるので「耳でよい。2つ送れば一人殺したことになる」と言い、その次は「鼻を削いでこい」と言ったのです。鼻や耳が塩漬けにされて送られてきたのです。京都には、朝鮮人の鼻塚、耳塚があります。
 何故そのように残酷になるのかというと、「人殺しなどということは、たいしたことはない」とわかってくるのです。「どうせ、瞬時に命がなくなるのだから、俺が殺してやるよ」ということです。年とともにそのような感覚になってくるのです。
 「人の命を奪うことは容易いことだ。生きていても、そいつはやがて死ぬのだよ。ちょっと死期を早めただけだろう。俺だったやがては死ぬのだ。この世界は夢か幻の世界なのだ。その世界で邪魔な奴を殺しても夢の中で殺しているようなものだ」と思うのです。おそらくそのような感覚が目覚めてくるのです。
 すると人を殺すということが、虫を踏み潰すような感覚になり、そのような感覚で世界を見ているのです。「殺生などないよ。そんなものは一瞬ではないか。楽しいことも苦しいこともないのだ。今殺すのだ」という感覚です。
 金正恩は、あの若さでそのような感覚が目覚めたのだと思います。450人殺したと言われているのですから、虫けらを殺すように「殺せ」と言うのです。国を維持するということは、実はそのようなことです。
 天皇の大事な資質を前にも書きましたが、人殺しが瞬時にできなければ天皇ではありません。天皇の性質はそうです。国を維持していくのが天皇の仕事です。そのためには、異分子が蛆虫のように湧き上がってくるのです。それを殺さないと国は維持できません。
 国の中心者は、邪魔者はぶっ殺すのです。その性格がなければ天皇ではありません。ニコリともせず人を殺せる性格でないと天皇ではありません。殺された人間からみると天皇は残酷です。
 しかし、国家全体から見るとそのような人が必要です。そうでなければ国家は維持ができません。異分子が必ず出てくるのです。
 因果倶時の考察を極めていくと、「自分の生死もたいしたことではないな」と思えてくるのです。それが「生死を超える」ということです。「なんだ、そんなことか。この世は夢か幻なのだ。何をやってもよいのだ。どんな目に遭ってもどうってことないのだから、大地震が起きてペッチャンコになって死んでも、戦争で殺されようがどうってことないのだ」とわかるのです。だんだんそのような心境になってきます。すると怖いものはありません。
 生きていることにこだわると、死ぬのが怖くなり、「命が大事だ」と言いだすのです。命は、儚いもので消えていくのですが、実は消滅もありません。
 命とは滅するものもないし、生じるものもありません。一瞬の夢みたいなものです。過去の苦しかったことを考えてみてください。過ぎ去ってみれば、「何であんなことで苦しんだのだろう」と思います。苦しんだことは夢のようなことで苦しんだのです。
 歌手の天地真理もそうです。若い頃はアイドルでも、今では生活保護を受けています。過去の栄光は消えてしまい、意味がありません。全ての人間が経験する過去・現在・未来はないのです。刹那成道です。瞬間しか存在しません。
 これを空間に置き換えると「宇宙は何処まであるのか?」ということです。宇宙の始めはビックバンだとか、膨張宇宙論だとか言っていますが、それもウソです。そんなものは存在しません。だいたい宇宙の始めなどありません。「始めがある」と考えることがおかしのです。
 「我々はいつから時を持ったのか?」と言っても、時はずっと変化して常にあるのですから、「ここから始まった」という考え方が間違っているのです。「ここから始まった」のではないのです。
 空間もそうです。「広大無辺の宇宙」と言いますが、何と比べて大きいというのでしょうか? 比べるから「大きい」「小さい」が出てくるのです。宇宙全体から見ると、大きいも小さいもありません。
 人間から見ると「大きい・小さい」、「近い・遠い」があるのです。人間の頭で考えると膨張宇宙を考えますが、本当は違うのです。この現実はバーチャルリアリティーです。時間もなければ大きさもありません。だから不大不小といいます。これが仏の境地です。仏の目から見ると不大不小です。大きなものでもなく、小さなものでもありません。
 「混然一体となった刹那の夢」だと、このように生命をとらえていくことが仏法の見方です。仏法を学ぶということは、そのようなことを学んでいるのです。宇宙にあるものは、南無妙法蓮華経しかありません。
 南無妙法蓮華経だけが実存の法です。そこから生まれた後の法は、虚妄分別です。分別していることじたいが、実は虚妄です。分別できないものを分別しているのですから、虚妄です。宇宙の真実は大きくもなく、小さくもなく判断できません。時というのもない、瞬間しかないのに何を判断するのでしょう。それは虚妄なのです。虚妄判断です。金持ちも貧乏人も何もありません。全て虚妄です。
 「人間がいつ頃から出てきたのか?」というのは、進化論の考え方です。人間は瞬間に何処かから出てきたのです。それでよいのです。猿から原人になって、人類が現れたのではありません。何処からポンと出てきたのです。何処から出てきたのかはわかりません。
卵と鳥を考えてもわかります。鳥が先にいたから卵が生まれたのです。鳥は何から生まれたのでしょうか?鳥は卵から生まれます。そうなると、「どちらが先か?」という論争になり、意味がありません。鳥と卵はどのような関係かというと縁起しているのです。卵を離れた鳥はありません。鳥を離れた卵もありません。この両方はどのような関係かというと縁起した関係です。
 時間軸で考えると「どちらが先か?」という話になります。宇宙には時間も何もありません。何処からかポンと出てくるのです。因果無視です。たまにはこのようなことを考えるのも面白いと思いますよ。

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この記事へのコメント

1. Posted by 主任教授 さえこ   2018年06月12日 09:12
5 今日の講義「同時存在する宇宙」拝読しました。

今日の講義は、非常にワクワクする講義です。
生命の本質の確信をついています。

過去・現在・未来は縦軸にあると思っていたら、横にあったのです。

横にあるからタイムマシン理論も可能になるのだと思います。

同時に過去・現在・未来の自分が存在しているなんてワクワクしますね。

同時に過去・未来の自分にも「南無妙法蓮華経」のエールを送ってあげたい気持ちです。

並行宇宙論はある程度、事実だと思います。

私たちは夢で異次元を体験しています。
しかも、リアルに驚いたり汗をかいたり、恐怖したり・・・、それは異次元にあるのだと思います。

同時に複数の自分が存在するなどワクワクしますね。

>「混然一体となった刹那の夢」だと、このように生命をとらえていくことが仏法の見方です。

生きているということが刹那の夢です。

そのように理解していくと、あらゆる夢を体験しているのだと思います。



2. Posted by 歴男   2018年06月12日 22:48
>歌手の天地真理
若い頃はアイドルでも、今では生活保護

創価学会芸人の末路は誠に哀れである・・・
3. Posted by 一国民   2018年06月12日 22:51
>2. Posted by 歴男
>創価学会芸人の末路は誠に哀れ

同じ学会芸人の朱里エイコも激太り、生活保護になり、次は久本の番でしょうか。
4. Posted by マリー   2018年06月12日 22:56
昔に帰るように思いますが、実は横に行くのです。過去は同時に存在するのです。我々が感じてきた過去の世界は同時に存在するのです。未来もそうです。

因果俱時が分かれば時間は一瞬しかなく過去も未来も同時に存在するということでしょうか。
5. Posted by なきむし   2018年06月13日 07:47
正理の理法を持つて、過去と過去世のハツシキことを、よきもにして 、現世とし さらに9識に成仏したもうたまえ。たとい命つきぬとも南無〜
6. Posted by 青山   2018年06月13日 13:29
5 御講義有難うございます

未来の現在と、過去の現在は限りなく同時に並んでいると思うと
因果は大事であると思いました

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