2019年08月14日

人間の探究 1345 女人成仏

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※竜女の成仏を通して記別を与えたのは、法華経だけです。この法華経は本当に有難いのです。

人間の探究 1345 女人成仏

「法華已前(いぜん)の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏往生(おうじょう)をゆるすやうなれども、或は改転(かいてん)の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば、有名無実(うみょうむじつ)の成仏往生なり、「挙一例諸(こいちれいしょ)」と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」(開目抄下)

 「法華已前(いぜん)の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず」

 仏門で尼さんがいます。本当はおかしいのです。仏教のお寺には女性は入れないのです。女人禁制です。これには2つの意味があります。女人がいると男は性欲が出てくるのです。女人は仏道修行の邪魔なのです。女人がお寺でウロウロしていたら修行の邪魔になるのです。
 坊さんがなぜ頭を剃るのかというと、色気をなくすということです。色気をふりまいて、テカテカにポマードをつけて、「カッコイイだろう」というのでは、困るのです。だから頭の毛を剃ってしまい、晴れ晴れとそのような気持ちをなくすのです。
 そのように言っても頭の底では女がチラチラと浮かぶのです。浮かぶと女人成仏などできなくなってしまうのです。女人が頭の中に住みついてしまい、そちらのご機嫌を伺うようなことになってしまうのです。
 仏道修行の足を引っ張る一番大きなものは女人だということがわかっていたのです。「仏道修行の場である女を道場に入れるな」と言われてきたのです。だから、瀬戸内寂聴のような尼さんは本来はいないのです。
 黒人と一緒になって別れた家田荘子も尼さんになったのです。今 東光も仏門に入ったのです。瀬戸内寂聴などは、不倫の成れの果です。子供と夫を捨てて男と逃げて、結果的に別れて仏門に入ったのですから、色情の因縁が強い女です。
 本人自体が色情の因縁が強いのです。家田荘子もそうです。黒人とくっついて子供を生んで、その後泥沼の離婚です。本当に変なことをやっています。家田荘子は、真言宗の尼さんになったのです。
 女人は成仏など求めていないのです。ちょっと感覚が違うのです。だから、法華経が説かれるまでは、「女人は成仏しない。一度男に生まれ変わって、仏道修行をすることにより成仏する」と言われたのです。この二段階です。
 第一番に、仏道修行をしたければ男に生まれなさい。男に生まれて仏道修行をして仏になりなさい」ということです。ところが法華経にきて、竜女の成仏が開かされたのです。竜女とは、竜の子です。竜になったら、畜生です。畜生の分類に入るものが法華経で成仏してしまうのです。
 「竜女よ、お前も仏になるぞ」とお釈迦様から記別を与えられたのです。竜女も女なのだから、女人成仏の証拠です。法華経で説かれている竜女が仏になったというのです。本当に女人が法華経を信仰するならば、女人禁制などということはありません。全く男と同じで成仏することができるのです。そのようなことを言っているのです。
 小乗経は難行苦行です。「私は滝に何回打たれた」「断食を何回やった」「川の中で眠らないで何日過ごした」など、小乗経とは、そのような修行です。そんなところに女性はいられないのです。
 滝に打たれて修行しているのに、女が出てきたら妄想が湧いてしまいます。女もそんなところへ行くべきではありません。水をかぶったりして、女はそんな苦行をやらなくてよいのです。修行者とは、男のことを言うのです。
 「諸の大乗経には成仏往生(おうじょう)をゆるすやうなれども、或は改転(かいてん)の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば、有名無実(うみょうむじつ)の成仏往生なり」
 大乗経は多くの衆生を救うから大きい乗り物という意味で大乗と言っているのです。阿弥陀経にしても大乗経典であるから多くの人を救わなければいけません。多くの人を救うということは、女人も救わなければいけません。
 女人も救います。それが進化して念仏の坊主は髪の毛も剃りません。もう色気を認めているのです。「私は男で髪の毛は剃っていません」というのを毛坊主というのです。念仏の尼さんは女性も髪の毛を剃っていません。
 当然、念仏は「煩悩をもったままで往生できる」と言うのですから、SEXも許されてしまうのです。「女人禁制」「男と寝てはいけない」と言っても、髪の毛を剃っていないのですから、一皮むけば普通の男ということです。従って、SEXもやってしまうのです。ひどいのは真言立川流です。江戸時代に流行ったのですが「仏の悟りの境地はSEXのエクスタシーの境地である」と言って、みんなでやりまくるのです。
 そのような教義ですから、そうなってしまうのです。いくらSEXをやってもよいのだ。「エクスタシーに達したか、達していないか」が問題です。達していたら相手も成仏して、こちらも成仏しているのです。「男女の差はない」と言うのです。
 それは言うだけ番長です。中身は何もありません。「成仏とは、どのようなことですか?」というと、阿弥陀経は何も説法しません。阿弥陀仏に救われれば往生です。阿弥陀様の救いにより、西方極楽浄土に救われていくことが、往生です。念仏は、成仏など目指していません。
 だから、何をやってもよいのです。「酒を飲む?いいですね」「乱交?いいですね」、そうなってしまうのです。悪いなどということは一つもありません。その前提条件の「何をやっても阿弥陀仏に救われる」という話がウソならば、往生するなど何の意味もありません。
 成仏することが仏教の目的です。成仏とは、「仏に成る」ということです。誰が仏に成るのかというと、貴方が仏に成るのです。人が成仏するところを見ても、自分は成仏していません。自分が仏に成っていくことが仏教の目的ですから、往生とは違うのです。往生という思想は偽物です。こんな偽物の仏教が流行ると国が滅ぶのです。
 法然が言ったことは、悪人は救われないのだ。何故かというと仏道修行をしないからです。したくもないのです。悪人というのは肉を食い、酒を飲み、女を抱き、博打をして、働かない人間を悪人というのです。悪人に仏道修行を進めても「何を言っているのだよ」と言われてしまいます。「貴方、地獄へ逝きますよ」と言っても、「地獄へ逝ってみたいものだな。早く閻魔大王に会いたいよ」と言うのです。とてもではないですけれども、まともな話はできません。
 そこで「悪人は成仏などできません。悪人が救われるようにということで阿弥陀様が西方極楽浄土で救ってくれるのです。本当は真面目に修行すれば仏になれるのですが、悪人は真面目に修行ができません。だから、貴方達は阿弥陀様に救われなさい」と法然は言ったのです。
 親鸞はその考えがさらに進んで、「悪人正機説」を唱えたのです。「悪人こそ救われる。善人は成仏するのですが、悪人は成仏しません。悪人こそ阿弥陀様の本願である」と言ったのです。
 阿弥陀様から見て、「善人は自分で修行して幸せになっていくのですが、悪人どもは酒・博打・女犯・かっぱらいなどして、どうしようもない悪人が可哀想だ。だから私を信じてくれば救ってあげますよ」と言うのです。
 阿弥陀様の本体というものは、悪人を成仏させるということです。善人は放っておいても自分で仏道修行をしてどんどん昇っていけるのです。悪人は人を殺し、獣も食い、どんどん反対の方向へ行くのです。その連中は救いようがないから阿弥陀様が出てきたのです。悪人正機といいます。これが親鸞と法然の違いです。
 法然はいい加減です。「悪人と善人がいて、両方共に阿弥陀様にすがれば、救われます」と言うのです。親鸞になると、「悪人こそ救われる」と言ったのです。最大の悪思想です。だから、念仏の法座に行くと酒や肉を持っていき、「おれは悪人だから生肉を食うのよ」と言い、隣に女がいれば「俺は悪人だべ」と言って犯してしまうのです。
念仏の集会に行くと悪人の自慢話です。「俺こそ悪人だぞ。鳥の首を切ってしまうぞ」と、本当にやるのです。それが、恐ろしい勢いで広がっていったのです。親鸞が「私はそんなことを言っているのではない。本意をわかりなさい」と言っても、もう遅いのです。悪人を自慢しあったのです。
 「或は改転(かいてん)の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば、有名無実(うみょうむじつ)の成仏往生なり」
 改転の成仏とは、一念三千のことを言っているのです。衆生に向かって、「お前の正体は一念なのだよ」と言うと、「え、僕は一念なんですか?」と聞きます。「一念心がしゃべったり、眠ったり、食事をしているのです。お前の正体は一念なのだよ。一念心しかないのだ」と言われているのです。
 一念心は、新しい一念心が湧いてきて、前の一念心が消えて、また新しい一念心が湧いてきて、それを繰り返しているだけで、常に貴方が意識できるのは、一念ということだけです。
 。「命とは何ですか?」というと、一念ということです。一念とは何かというと、三千種類にわけられるのです。これが一念三千論です。細かく分けて、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界と分けていくのです。それが貴方ということです。
 どこまで行っても地獄・餓鬼・畜生・修羅から逃れられないのです。人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界などでません。「凡夫が等覚一転名字妙覚(とうかくいってんみょうじみょうかく)といい、凡夫の位の者がパン跳ねて、仏になるということがある」と教えられるのです。
 「挙一例諸(こいちれいしょ)」と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」
 「成仏した」ということを念仏でも聞くことがありますが、そんなことはウソであり、一念三千の成仏でないと本当の成仏ではありません。ということは、成仏ということは一念三千が完全にわった人のことを言うのです。有名無実、名前は有名だけれども、成仏往生などということはないのです。往生とはあちらの世界に逝くことです。成仏は自分が仏になるということですから、全然違う言葉をくっつけて「成仏と往生は同じものだ」という邪義を唱えるのです。
 竜女の成仏を通して記別を与えたのは、法華経だけです。この法華経は本当に有難いのです。まして女人が仏道を目指すならば、こんなに有難い法華経はないのです。そう思って修行しなさい。

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この記事へのコメント

1. Posted by 行合84   2019年08月14日 07:06
中杉先生ブログ拝見いたしました。法華経とは実に素晴らしいご経文です!法華経に至って、はじめて女人成仏ができたのです!法華経は男女平等なのです!しかも、法華経とは成仏の法なのです!仏教の究極なのです!そして、末法の今時は日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経の教えを修業することです!僕らは、会い難き南無妙法蓮華経に出会えて、中杉先生のご薫陶をいただいております。立正安国論(折伏)の精神を持って、日本国を素晴らしい国土にして参りましょう!正理会万歳!中杉先生万歳!中杉先生講義ありがとうございました。
2. Posted by 大田   2019年08月14日 16:05
今日の講義拝読しました。

仏道修行も女性には許されませんでした。修行中に、女性を見るだけで女梵が湧き、大きな事故のもとになるから女人には仏道修行はさせられないと聞いたことがあります。

腹ただしく思った事がありますが、今は何とも思わなくなりました。

博士の下で修行をさせて頂いています、有り難い事だと思います。

博士 いつもありがとうございます。
3. Posted by 主任教授 さえこ   2019年08月14日 17:55
5 今日の講義「女人成仏」拝読しました。

法華経だけが女人成仏できる教えです。
有難い教えです。

>成仏することが仏教の目的です。成仏とは、「仏に成る」ということです。誰が仏に成るのかというと、貴方が仏に成るのです。人が成仏するところを見ても、自分は成仏していません。自分が仏に成っていくことが仏教の目的ですから、往生とは違うのです。

人が成仏しても自分が成仏しなければ、中杉博士のご説法を聞いていても意味がありません。

こんなもったいないことはないのです。

折伏を行じていけば、女人も成仏できるのです。

>竜女の成仏を通して記別を与えたのは、法華経だけです。

法華経だけが唯一女人が成仏できる教えです。
念仏などにまどわされてはいけません。

中杉博士はお盆も説法されているのです。
常住此説法です。
大変ありがたいことです。
中杉博士に感謝して、正法を信受していきましょう。








4. Posted by マリー   2019年08月15日 01:04
女の人が成仏していくのは南無妙法蓮華経です。
5. Posted by 弥生   2019年08月15日 01:59
>「成仏と往生は同じものだ」という邪義

一般の人々は宗教的、政治的無知の状態に置かれており、この違いすら分かりません。

博士より正しく学んでいきましょう!

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