2019年12月29日

">★★★年間ランキング発表★★★第3位!

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お待たせしました。今年の第3位を発表します!

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★★★第3位に輝いたのは、9月7日掲載『日本建国の謎に迫る』「北海道の縄文遺跡について」です。どうぞ、お読みください!!

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※北海道の遺跡

『日本建国の謎に迫る』

北海道の縄文遺跡について

 さて、オホーツク人と称される民族がマンモスハンターとして北海道に渡り、それがさらに一万年くらい経つと日本各地に定着し、竪穴式住居を持った縄文文化を築きました。これらの人々は、アイヌなのか、あるいはオホーツク人なのか、いったい何人なのかということが、我々が古代史を研究していくうえでぶつかる第一の問題です。
 そこで一つだけわかってきたことがあります。縄文文化は三内丸山遺跡を中心に青森の地だけに栄えたと思われがちですが、それと同じような遺跡は北海道にも多数あって、規模も同じくらい大きいものなのです。三内丸山遺跡は北海道の遺跡と対応しているわけで、北海道の文化が押し寄せて青森県三内丸山に花を咲かせたことが推測されます。
 この北海道に栄えた文化の下で暮していた人々は、カラフトから原日本人が南下してくる途中、北海道に住み着いた人たちです。本州以南に住みついた人たちは、各地に村落を形成して広く縄文文化を創ったのち、中国大陸から来た農耕民と出会います。そこで米作を取り入れたりして、弥生人へと変質していきます。
 その一方で、北海道では独自の文化が形成されていきました。主な遺跡を図に示してみました。

【図化する】
●東山遺跡 ●館崎遺跡 ●湯の里遺跡群 ●札苅遺跡 ●添山遺跡 ●聖山遺跡 ●サイベ沢遺跡 ●函館空港中野A・B遺跡 ●函館空港石倉貝塚 ●豊原4遺跡 ●戸井貝塚 ●浜町A遺跡 ●日ノ浜遺跡 ●八木A・B遺跡 ●磨光B遺跡 ●ハマナス野遺跡 ●臼尻B遺跡 ●垣ノ島A・B遺跡 ●大船遺跡 ●鷲ノ木遺跡 ●栄浜1遺跡 ●野田生1遺跡 ●コタン温泉遺跡 ●入江・高砂貝塚 ●北黄金貝塚 ●有珠モシリ遺跡 ●静川遺跡 ●美々貝塚 ●キウス周堤墓群 ●カリンバ遺跡 ●紅葉山49号遺跡 ●大谷地貝塚 ●忍路環状列石 ●西崎山環状列石 ●岩内東山円筒文化遺跡(東山史跡) ●音江環状列石 ●野花南 周提墓群 ●タンネトウ遺跡 ●神居古墳 ストーンサークル遺跡 ●無頭川遺跡 ●船泊遺跡 ●道指定史跡 朱円周提墓 ●常呂川河口遺跡 ●静内御出殿山墳墓群 ●大正3遺跡 ●八千代A遺跡  ●共栄B遺跡 ●東釧路貝塚 ●緑ヶ岡遺跡 ●初田牛20遺跡  ●伊茶仁ふ化場第1遺跡他

 北海道からはまだまだ遺跡が出てくる可能性があります。この遺跡群は、全部が一万年前から五〇〇〇年前くらいにかけて造られたものです。各遺跡からは共通して、ヒスイ、黒曜石、アスファルトなどさまざまなものが発見されています。各遺跡を結ぶ交易のルートが確立していたことがわかります。ヒスイなどの装飾品は弥生人に近い印象です。女性は、耳飾りを付け、首飾りを付け、男性はチョンマゲを結っていたのです。
 そして、船を浮かべて貝を獲り、クジラを獲り、イルカを獲り、アシカを獲り、勇ましく漁業に従事して、各遺跡でだいたい五〇〇所帯は住んでいたと言われています。これまでのイメージとはずいぶんとちがうのではないでしょうか。北海道は無人の地などではなく、多くの縄文人が旺盛に生活していたところだとわかります。
 その一つである、船泊遺跡(ルビ ふなどまり)は北海道の礼文島にある、相当に大きな遺跡です。島北部の船泊湾に面した船泊砂丘の西側の久種湖と海岸の間にできた高さ一〇m前後の砂丘上に立地しており、以前から、縄文時代中期から後期にかけての土器や人骨が発見される遺跡として知られていました。
 一九九九年に行われた町教育委員会の発掘で、貼床などのある生活面二四基、墓壙二四基、土壙一九基、屋外地床炉二九基、集石炉五八基などが発見されました。そして、ここで発掘された人骨を復元してみると、本州で見られる典型的な縄文人の顔と一致したのです。ですから、北海道の文化が青森以降に南下していったことがわかります。彼らの持っていた高い文化が縄文日本を築き上げたのです。
 こうして見てくると、日本人の本当のルーツは、ハンターであるともいえるのです。はるかシベリアのブリヤートからマンモスを追いかけて、日本列島になだれこんできました。大きなマンモスを四〇人くらいの人数で共同で、沼地へ追い込んでいって溺れさせてしまうのです。そして一匹しとめれば、四〇人くらいならば一カ月くらいは充分食べられると計算されています。
 その時に使った槍が細石刃という槍で、これも世界的な大発明です。こんなものを作った民族は他にいないのです。骨で槍の柄を作り、穂先に溝を掘り、そこに細石刃という小さい石器をはめ込んで、アスファルトで固定したものです。こうすることにより、石器を交換していけば槍は長持ちします。このように、細かい物を加工できる優秀な部族であったのです。
 彼らが日本列島に来た時には、マンモスは小型化(ナウマンゾウ)していました。しかし、そのうち大型動物を食い尽くしてしまいます。北海道で食い尽くすとさらに南下していったのでしょう。ところが、氷河期が終わるといまよりも温暖な気候となり、森には多くの動物が生息するようになりました。そのうえ、どんぐり、栗、しいの実などを採集して食べるようになったのです。
 そこで一番の問題になるのは、現在、北海道を中心に暮しているアイヌの人々は、この縄文人の末裔にあたるのでしょうか。だれもこの問題には触れようとしません。少数の研究者が、北海道にいた縄文人の子孫がアイヌだと主張していて、私も最初はそう思っていましたが、しかし、どうしてもつながりません。時々、青い目をしたアイヌの人もいて、それで「白人」とも呼ばれていたのです。
 ですから、この問題を推理すると、アイヌ人は縄文時代のずっと後、シベリア方面から渡ってきた部族だと私は考えます。そしてカラフトアイヌ、シベリアアイヌ、沿海州アイヌなど、さまざまな部族があります。ずっと時代は下りますが、カラフトアイヌはミイラを作っていたことで有名です。酋長などの貴人が亡くなると、その内蔵を取り出して乾かし、水で掃除して一年間ぐらい放置しておくとミイラ化するようです。このカラフトアイヌと北海道のアイヌの言語は共通していていました。同じ言葉をしゃべっていたのです。そうすると、相当な広範囲にアイヌ文化というものが栄えていたということがわかります。
 そして、アイヌ文化と縄文文化はよく似ています。住居は穴を掘って柱を建てて造る竪穴式住居です。アイヌは神様のことをカムイと呼びます。そして、アイヌの自然観は、この世の中は目に見える世界と目に見えない精霊の世界から成り立っているというものです。その精霊の世界が、山にもなり、川にもなり、海にもなり、木にもなり、動物にもなり、あらゆるものに成り代わっていくのです。そして、その本体は一つであるという結論が出てきます。これは日本神道に非常に近い自然観です。アイヌ民族と日本人とに近しい交流があったことが推察できます。

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この記事へのコメント

1. Posted by 行合84   2019年12月29日 07:10
中杉先生ブログ拝見いたしました。縄文時代の遺跡のお話、とても興味深く拝見させていただきました。マンモスバスターと、カラフトから南下して来た、現日本人が、そして、中国大陸からの農耕民族との出会いもあった、入り交ざり相い溶け合って、縄文時代が花を咲かせたのです。そして、弥生時代へと進んでいくのです。僕も、アイヌ民族と日本人は近い存在であると思います。そして、後世に、ユダヤ民族が、日本国に使命を持って上陸されたのです。現在の日本国に至るまでの雄大な歴史的ロマンは心を高揚させますね。中杉先生講義ありがとうございました。
2. Posted by 古都   2020年01月03日 20:18
5 講義頂き有難うございます。
> アイヌ文化と縄文文化はよく似ています。住居は穴を掘って柱を建てて造る竪穴式住居です。アイヌは神様のことをカムイと呼びます。そして、アイヌの自然観は、この世の中は目に見える世界と目に見えない精霊の世界から成り立っているというものです。

アイヌの自然観は、神道に通じるものがあると思います。精霊界の存在をアイヌ人はわかっていたのですね。

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