2007年09月02日
貧乏旅行
234: 08/29 07:20
学生時代、貧乏旅行をした。
帰途、寝台列車の切符を買ったら、残金が80円!
もう丸一日以上何も食べていない。家に着くのは約36時間後…。
空腹をどうやり過ごすか考えつつ、駅のホームでしょんぼりしていた。
すると、見知らぬお婆さんが心配そうな表情で声を掛けてくれた。
わけを話すと、持っていた茹で卵を2個分けてくれた。
さらに、私のポケットに千円札をねじ込もうとする。
さすがにそれは遠慮しようと思ったが、お婆さん曰く、
「あなたが大人になって、同じ境遇の若者を見たら手を差し伸べてあげなさい。社会ってそういうものよ」
私は感極まって泣いてしまった。
お婆さんと別れて列車に乗り込むと、同じボックスにはお爺さんが。
最近産まれた初孫のことを詠った自作の和歌集を携えて遊びに行くという。
ホチキスで留めただけの冊子だったので、あり合わせの糸を撚って紐を作り、和綴じにしてあげた。
ただそれだけなんだが、お爺さんは座席の上に正座してぴったりと手をつき、まだ21歳(当時)の私に深々と頭を下げた。
「あなたの心づくしは生涯忘れない。孫も果報者だ。物でお礼に代えられるとは思わないが、気は心だ。せめて弁当くらいは出させて欲しい。どうか無礼と思わんで下さい」
恐縮したが、こちらの心まで温かくなった。
結局、車中で2度も最上級の弁当をご馳走になり、駅でお婆さんに貰ったお金は遣わずじまいだった。
何か有意義なことに遣おうと思いつつ、その千円札は14年後の今もまだ手元にある。
腹立たしい老人を見ることも少なくないけれど、こういう人たちと触れ合うことができた私は物凄く幸運だ。
学生時代、貧乏旅行をした。
帰途、寝台列車の切符を買ったら、残金が80円!
もう丸一日以上何も食べていない。家に着くのは約36時間後…。
空腹をどうやり過ごすか考えつつ、駅のホームでしょんぼりしていた。
すると、見知らぬお婆さんが心配そうな表情で声を掛けてくれた。
わけを話すと、持っていた茹で卵を2個分けてくれた。
さらに、私のポケットに千円札をねじ込もうとする。
さすがにそれは遠慮しようと思ったが、お婆さん曰く、
「あなたが大人になって、同じ境遇の若者を見たら手を差し伸べてあげなさい。社会ってそういうものよ」
私は感極まって泣いてしまった。
お婆さんと別れて列車に乗り込むと、同じボックスにはお爺さんが。
最近産まれた初孫のことを詠った自作の和歌集を携えて遊びに行くという。
ホチキスで留めただけの冊子だったので、あり合わせの糸を撚って紐を作り、和綴じにしてあげた。
ただそれだけなんだが、お爺さんは座席の上に正座してぴったりと手をつき、まだ21歳(当時)の私に深々と頭を下げた。
「あなたの心づくしは生涯忘れない。孫も果報者だ。物でお礼に代えられるとは思わないが、気は心だ。せめて弁当くらいは出させて欲しい。どうか無礼と思わんで下さい」
恐縮したが、こちらの心まで温かくなった。
結局、車中で2度も最上級の弁当をご馳走になり、駅でお婆さんに貰ったお金は遣わずじまいだった。
何か有意義なことに遣おうと思いつつ、その千円札は14年後の今もまだ手元にある。
腹立たしい老人を見ることも少なくないけれど、こういう人たちと触れ合うことができた私は物凄く幸運だ。
Posted by nakeru2ch at 18:58
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│
2007年07月29日
とある豆腐屋さんでの出来事
14: 07/06 21:40
とある豆腐屋さんでの出来事
俺も嫁さんもそこの豆腐が大好きでよく買いにいくのね、
その豆腐屋さんは城下町の路地裏ですごく小さいんだけど
堅実に商売やってて近所の婆ちゃんとかがずっと買いに来る。
去年の7月頃いつものように豆腐と厚揚げを買ってたらふらっと40代くらいの白人男性が入ってきて
トニュートニューって言ってたので、店のおばちゃんが豆腐を入れようとしたら
NONONO!!トニュー
って言って飲む真似をしたんで、
あ!!!お前豆乳かよ!!!
って俺も嫁さんも、おばちゃんもビックリしたあと吹き出した、
だって外人さんが豆腐屋に豆乳買いに来るなんて思ってもなかったからorz
その店は豆乳を分けて貰う時は何か入れ物を持って行くようになってて、店の大将もどうせ捨てる物だから格安で売ってくれるのね(ひしゃく一杯50円くらい)
勿論成分無調整なべに張ったら湯葉が出来るぐらい濃いの。
続く
15: 07/06 21:41
続き
それでおばちゃんが
何か入れ物持ってるか??ボトル、ボトル?
ってなぐあいで聞くんだけどなかなか通じなくて僕らに意味深な視線を投げかけてきた。
外人さんもおばちゃんにつられてこっち見るし・・・
そこでうちの嫁さんが(そこそこ英語出来る)間に入って何とか通訳
嫁「何か入れ物持ってますか?」
外人さん「いや持ってない、なんで?」
嫁「ここのお豆腐屋さんは、豆乳を買うとき何か入れ物を持ってくるんですよ。」
外人さん「へーそうなんだ、今もってない(ちょっと寂しそうな顔)」
おばちゃん「これでよかったら入れたげようか」
と言って透明のナイロン袋を出してきた
外人さん、ニコニコ顔でそれでいいですウンウンみたいな感じ
外人さん「この豆乳今ここでのめますか?」
嫁「いや、それは無理じゃないかな?」
そこでおばさんと話していると、奥から大将が出てきて
事情を話すと、ニコッと笑ってコップに豆乳を汲んできて
外人さんに手渡すとアリーガトーって右手にコップ持ったまま、
変な発音と、変なお辞儀に一同爆笑www。
飲み終えた外人さんは
すごく美味しい!!GREAT!!
とか言いながら大将とがっちり握手してその日は去って行きました。
16: 07/06 21:42
御免遅くなって、色々思い出しながら書いてるので。
続き
それからしばらくして、店先に縁台が出来たので大将に聞いてみると
あの外人さん(ジョウさん大将が勝手に付けた名前)がちょくちょく
顔を出すらしく、(観光ではなくて仕事で来てるみたい)
その時にそこに座って豆乳を飲んでるんだってさ。
店の中の販売スペースが狭いから(一畳ぐらい)ホームセンターで大将が買ってきたらしい。
大将が暇なときや、婆ちゃん連中が一緒に座って、言葉がなかなか通じないけど雑談してるんだって(どんな雑談だよww!!)。
大将いはく草の根外交だとwww。
年のいったお客さんもそこで一休みしてから帰るから置いて良かったみたい。
頑張って書いてるのでちょっと待ってね。orz
17: 07/06 21:43
続き
夏は冷奴(ミョウガ抜き)、秋は秋刀魚
(焼き魚は最初気持ち悪くて食べれなかったんだって、
でも食べだしたら大のお気に入り、でもワタヌキ、味噌汁、大根おろし最高だと。)
冬は湯豆腐、豆乳鍋、焼き牡蠣、牡蠣フライ等でビールを飲むのが大好きだそうです。
この頃日本酒に挑戦しだすw。
挙句の果てには大将の奥さんから家庭料理の作り方を習いだす。
帰ったら奥さんと一緒に作るんだってさw。
今年の春は、櫻の下でのドンチャン騒ぎ
(ジョウさんの奥さんも来日されていて、僕らも行きました
櫻は初めて観たそうですが、樹全体が緑ではなくピンク色にお化粧することがエキゾチックでファンタスティックらしいです。)
僕が個人的に大好きで、真夜中に歩くお堀端の櫻並木をお勧めしたら奥さんと夜中に散歩したらしいです。
静寂の中で一年に一度だけ咲き乱れる花の生命力を観ていると
心がかき乱され、心が締め付けられ??多分こんな感じ
亡くなられたお爺さんを思い出して思わず涙ぐんでしまったそうです。
ジョウさんいはく、昼の櫻が、美しく楽しい(ポジティブ)であるならば、夜中にみた櫻は怖れや不安(ネガティブ)な要素が浮かんでくるが、それら全てを包み込んでくれる優しさを感じた、とおっしゃっていました。
20: 07/06 22:31
そんなジョウさんでしたが無事にお仕事が終り、
先月6月末でロサンゼルスに帰国されるとのことでした。
帰国される日お店に立ち寄られたそうです。
さてお別れの挨拶をしに来たジョウさん。
大将、今から帰ります・・・(皆が大将って呼ぶから覚えたみたい)
ジョウさん、もうこの時すでに涙でぐちゃぐちゃだったらしいです・・・・
お別れ会(大将いはく壮行会?)をしたときは絶対に泣かない、絶対泣かない
ジョウさんのこれからの人生に水を差すから俺は絶対に泣かないって目頭押さえて頑張ってた大将も
帰国の挨拶に立ち寄ったジョウさんの次の一言で心が折れて、号泣したそうです。
21: 07/06 22:44
アリガトー、アリガトー
マター サクラノー キノシターデー オーアイー シーマショウー
ニホーンニ コレナクテーモ ワターシハ サクラノー ニュースヲ
ミルタビーニ ミナーサンノコート オモイダシマース
相変わらず変な発音だったそうですが、ジョウさんの心意気はしっかりと大将に届いたみたいよと話してくれた、
おばちゃんも俺も嫁も大将も涙と鼻水と笑顔でじゅるじゅるになっていました。
大将いはくジョウさんは、日本人の気構えを持ったアメリカ人だと言っておりました。
ひょんな事から始まった
とある豆腐屋さんでの出来事
おしまい。
とある豆腐屋さんでの出来事
俺も嫁さんもそこの豆腐が大好きでよく買いにいくのね、
その豆腐屋さんは城下町の路地裏ですごく小さいんだけど
堅実に商売やってて近所の婆ちゃんとかがずっと買いに来る。
去年の7月頃いつものように豆腐と厚揚げを買ってたらふらっと40代くらいの白人男性が入ってきて
トニュートニューって言ってたので、店のおばちゃんが豆腐を入れようとしたら
NONONO!!トニュー
って言って飲む真似をしたんで、
あ!!!お前豆乳かよ!!!
って俺も嫁さんも、おばちゃんもビックリしたあと吹き出した、
だって外人さんが豆腐屋に豆乳買いに来るなんて思ってもなかったからorz
その店は豆乳を分けて貰う時は何か入れ物を持って行くようになってて、店の大将もどうせ捨てる物だから格安で売ってくれるのね(ひしゃく一杯50円くらい)
勿論成分無調整なべに張ったら湯葉が出来るぐらい濃いの。
続く
15: 07/06 21:41
続き
それでおばちゃんが
何か入れ物持ってるか??ボトル、ボトル?
ってなぐあいで聞くんだけどなかなか通じなくて僕らに意味深な視線を投げかけてきた。
外人さんもおばちゃんにつられてこっち見るし・・・
そこでうちの嫁さんが(そこそこ英語出来る)間に入って何とか通訳
嫁「何か入れ物持ってますか?」
外人さん「いや持ってない、なんで?」
嫁「ここのお豆腐屋さんは、豆乳を買うとき何か入れ物を持ってくるんですよ。」
外人さん「へーそうなんだ、今もってない(ちょっと寂しそうな顔)」
おばちゃん「これでよかったら入れたげようか」
と言って透明のナイロン袋を出してきた
外人さん、ニコニコ顔でそれでいいですウンウンみたいな感じ
外人さん「この豆乳今ここでのめますか?」
嫁「いや、それは無理じゃないかな?」
そこでおばさんと話していると、奥から大将が出てきて
事情を話すと、ニコッと笑ってコップに豆乳を汲んできて
外人さんに手渡すとアリーガトーって右手にコップ持ったまま、
変な発音と、変なお辞儀に一同爆笑www。
飲み終えた外人さんは
すごく美味しい!!GREAT!!
とか言いながら大将とがっちり握手してその日は去って行きました。
16: 07/06 21:42
御免遅くなって、色々思い出しながら書いてるので。
続き
それからしばらくして、店先に縁台が出来たので大将に聞いてみると
あの外人さん(ジョウさん大将が勝手に付けた名前)がちょくちょく
顔を出すらしく、(観光ではなくて仕事で来てるみたい)
その時にそこに座って豆乳を飲んでるんだってさ。
店の中の販売スペースが狭いから(一畳ぐらい)ホームセンターで大将が買ってきたらしい。
大将が暇なときや、婆ちゃん連中が一緒に座って、言葉がなかなか通じないけど雑談してるんだって(どんな雑談だよww!!)。
大将いはく草の根外交だとwww。
年のいったお客さんもそこで一休みしてから帰るから置いて良かったみたい。
頑張って書いてるのでちょっと待ってね。orz
17: 07/06 21:43
続き
夏は冷奴(ミョウガ抜き)、秋は秋刀魚
(焼き魚は最初気持ち悪くて食べれなかったんだって、
でも食べだしたら大のお気に入り、でもワタヌキ、味噌汁、大根おろし最高だと。)
冬は湯豆腐、豆乳鍋、焼き牡蠣、牡蠣フライ等でビールを飲むのが大好きだそうです。
この頃日本酒に挑戦しだすw。
挙句の果てには大将の奥さんから家庭料理の作り方を習いだす。
帰ったら奥さんと一緒に作るんだってさw。
今年の春は、櫻の下でのドンチャン騒ぎ
(ジョウさんの奥さんも来日されていて、僕らも行きました
櫻は初めて観たそうですが、樹全体が緑ではなくピンク色にお化粧することがエキゾチックでファンタスティックらしいです。)
僕が個人的に大好きで、真夜中に歩くお堀端の櫻並木をお勧めしたら奥さんと夜中に散歩したらしいです。
静寂の中で一年に一度だけ咲き乱れる花の生命力を観ていると
心がかき乱され、心が締め付けられ??多分こんな感じ
亡くなられたお爺さんを思い出して思わず涙ぐんでしまったそうです。
ジョウさんいはく、昼の櫻が、美しく楽しい(ポジティブ)であるならば、夜中にみた櫻は怖れや不安(ネガティブ)な要素が浮かんでくるが、それら全てを包み込んでくれる優しさを感じた、とおっしゃっていました。
20: 07/06 22:31
そんなジョウさんでしたが無事にお仕事が終り、
先月6月末でロサンゼルスに帰国されるとのことでした。
帰国される日お店に立ち寄られたそうです。
さてお別れの挨拶をしに来たジョウさん。
大将、今から帰ります・・・(皆が大将って呼ぶから覚えたみたい)
ジョウさん、もうこの時すでに涙でぐちゃぐちゃだったらしいです・・・・
お別れ会(大将いはく壮行会?)をしたときは絶対に泣かない、絶対泣かない
ジョウさんのこれからの人生に水を差すから俺は絶対に泣かないって目頭押さえて頑張ってた大将も
帰国の挨拶に立ち寄ったジョウさんの次の一言で心が折れて、号泣したそうです。
21: 07/06 22:44
アリガトー、アリガトー
マター サクラノー キノシターデー オーアイー シーマショウー
ニホーンニ コレナクテーモ ワターシハ サクラノー ニュースヲ
ミルタビーニ ミナーサンノコート オモイダシマース
相変わらず変な発音だったそうですが、ジョウさんの心意気はしっかりと大将に届いたみたいよと話してくれた、
おばちゃんも俺も嫁も大将も涙と鼻水と笑顔でじゅるじゅるになっていました。
大将いはくジョウさんは、日本人の気構えを持ったアメリカ人だと言っておりました。
ひょんな事から始まった
とある豆腐屋さんでの出来事
おしまい。
Posted by nakeru2ch at 11:49
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祖父の願い
191: 06/25 22:55
三年前死んだ祖父は末期になっても、一切治療を拒み医者や看護婦が顔を歪めるほどの苦痛に耐えながら死んだ。
体中癌が転移し、せめて痛みを和らげる治療(非延命)をと、息子(父)や娘たち(伯母)が懇願しても絶対に首を縦に振らなかった。
葬式の後、親しかったご近所の将棋仲間が家族に宛てた祖父の手紙を渡してくれた。
祖父が生前用意していた物だそうだ。
手紙の中には自分が家族を悲しませ、苦しませるのを承知で苦しみながら死んだ理由が書かれていた。
20年近く前、孫の一人が生存率20%を切る難病で闘病していたとき、祖父は神様に誓ったのだそうだ。
自分は今後どんな病気や怪我になろうとも、絶対に医者にもかからないし薬も飲まない。
だから孫を助けてくれと願を掛けたのだそうだ。
幸いその孫は無事手術も成功し、成長して成人もした。
孫の成長を見届けることができたのだからもう思い残すことはない。
あとは神様との約束を果たすだけだ。
だから家族は悲しまないで欲しい。
自分は満足して一生を終えるのだから。
そう綴られていた。
孫は当時一歳にもならない赤ん坊で、病気だったことも覚えていない。
祖父は自分の決意を貫いて一生を終えた。
その孫である兄は葬儀でわんわん泣いていた。
もちろん、兄弟もみな泣いた。
うまく書けないのが悔しいなあ。
本当に祖父はすごい人だったんだよ。
三年前死んだ祖父は末期になっても、一切治療を拒み医者や看護婦が顔を歪めるほどの苦痛に耐えながら死んだ。
体中癌が転移し、せめて痛みを和らげる治療(非延命)をと、息子(父)や娘たち(伯母)が懇願しても絶対に首を縦に振らなかった。
葬式の後、親しかったご近所の将棋仲間が家族に宛てた祖父の手紙を渡してくれた。
祖父が生前用意していた物だそうだ。
手紙の中には自分が家族を悲しませ、苦しませるのを承知で苦しみながら死んだ理由が書かれていた。
20年近く前、孫の一人が生存率20%を切る難病で闘病していたとき、祖父は神様に誓ったのだそうだ。
自分は今後どんな病気や怪我になろうとも、絶対に医者にもかからないし薬も飲まない。
だから孫を助けてくれと願を掛けたのだそうだ。
幸いその孫は無事手術も成功し、成長して成人もした。
孫の成長を見届けることができたのだからもう思い残すことはない。
あとは神様との約束を果たすだけだ。
だから家族は悲しまないで欲しい。
自分は満足して一生を終えるのだから。
そう綴られていた。
孫は当時一歳にもならない赤ん坊で、病気だったことも覚えていない。
祖父は自分の決意を貫いて一生を終えた。
その孫である兄は葬儀でわんわん泣いていた。
もちろん、兄弟もみな泣いた。
うまく書けないのが悔しいなあ。
本当に祖父はすごい人だったんだよ。
Posted by nakeru2ch at 11:37
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│
2007年07月24日
次世代ゲーム
337: 07/14 06:14
ちょっと書かせてもらう、
俺の友達でゲームがすげー好きなやつがいたんだよ。
ドラクエとか、誰より一番に解いたり、俺たちにヒントくれたりさ。
中学2年のとき、そいつ事故にあって、右手なくなっちゃったんだ。
やっぱ片手じゃうまくゲーム出来ないみたいで、というか出来なくて、「俺もうゲームとか卒業したから、子供のあそびじゃん」とか言うわけ。
でもさ、そいつの家に行くと、隠してるつもりなんだろうけど、ベッドの下にゲーム雑誌とかあるんだよね、普通エロ本だろうにw
でまぁ、そんなこんなで年月はたって、Wiiがでてこのドラクエがでたわけよ、これならやつでもできるんじゃね?と思って、誕生日ってのもあって、本体とセットでくれてやったんだ。
そしたら「こんなもんいらねーよー、出来るわけねーだろ、嫌味かよw」
とかいって開けもしなかったんだ。
んで、帰ってしばらくしたら、そいつの親から電話きて、
あの子が泣きながらゲームしてるんです、ほんとにうれしそうに・・・、ありがとうね!って。
深夜何時だよって感じだったんだけどさw、もう俺まで号泣だよw
ごめん、チラ裏でした、寝れなくて、こんな時間だし誰にも言えないし、ここに書かせてもらいました、すまん。
ちょっと書かせてもらう、
俺の友達でゲームがすげー好きなやつがいたんだよ。
ドラクエとか、誰より一番に解いたり、俺たちにヒントくれたりさ。
中学2年のとき、そいつ事故にあって、右手なくなっちゃったんだ。
やっぱ片手じゃうまくゲーム出来ないみたいで、というか出来なくて、「俺もうゲームとか卒業したから、子供のあそびじゃん」とか言うわけ。
でもさ、そいつの家に行くと、隠してるつもりなんだろうけど、ベッドの下にゲーム雑誌とかあるんだよね、普通エロ本だろうにw
でまぁ、そんなこんなで年月はたって、Wiiがでてこのドラクエがでたわけよ、これならやつでもできるんじゃね?と思って、誕生日ってのもあって、本体とセットでくれてやったんだ。
そしたら「こんなもんいらねーよー、出来るわけねーだろ、嫌味かよw」
とかいって開けもしなかったんだ。
んで、帰ってしばらくしたら、そいつの親から電話きて、
あの子が泣きながらゲームしてるんです、ほんとにうれしそうに・・・、ありがとうね!って。
深夜何時だよって感じだったんだけどさw、もう俺まで号泣だよw
ごめん、チラ裏でした、寝れなくて、こんな時間だし誰にも言えないし、ここに書かせてもらいました、すまん。
Posted by nakeru2ch at 14:22
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│
2007年07月20日
控えめな企業の鏡
新潟地震関連スレにて
186: 07/18 15:23
NHKのラジオで外食大手によるカレーの提供〜みたいな事言ってたんだけどやっぱココイチかな?
あまり取り上げられてなかったけど、前回の地震の時にもココイチのカレー車が何百食も無料配布してくれたんだよな
恐ろしく寒かったから、本当あったかいカレーが有り難かったのを覚えてる
めっちゃ忙しそうな中「頑張って下さいね!」って声掛けられたのも嬉しかった
特にプレス発表する訳でもなく
ただ黙々とカレーを作り
すっからかんになった車に
弁当の容器とかのゴミを詰め込んで帰る
その企業姿勢に心を打たれた
187: 07/18 20:46
日清のチキンラーメン号とココイチ号は震災には出動するらしいね。
188: 07/18 20:51
アンパンマンカーみたいだな。
素敵だ。
189: 07/18 21:08
※チキンラーメン号

拾ってきた。
186: 07/18 15:23
NHKのラジオで外食大手によるカレーの提供〜みたいな事言ってたんだけどやっぱココイチかな?
あまり取り上げられてなかったけど、前回の地震の時にもココイチのカレー車が何百食も無料配布してくれたんだよな
恐ろしく寒かったから、本当あったかいカレーが有り難かったのを覚えてる
めっちゃ忙しそうな中「頑張って下さいね!」って声掛けられたのも嬉しかった
特にプレス発表する訳でもなく
ただ黙々とカレーを作り
すっからかんになった車に
弁当の容器とかのゴミを詰め込んで帰る
その企業姿勢に心を打たれた
187: 07/18 20:46
日清のチキンラーメン号とココイチ号は震災には出動するらしいね。
188: 07/18 20:51
アンパンマンカーみたいだな。
素敵だ。
189: 07/18 21:08
※チキンラーメン号

拾ってきた。
Posted by nakeru2ch at 23:11
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│
IDカード
280: 07/09 01:00
今日のことなんだけど、会社のIDカード(首にストラップでかけるやつ)がいつも置いてある場所になかった。
結果的には応接間で見つかったんだが、次男(小2)のしわざだった。
「勝手に触ったらだめだろ!」などと結構きつく怒って問い詰めたところポツポツ理由を話し出した。
「お父さんの会社イスあるやろ?」
「椅子?・・・あるな」
「お父さん座って仕事してるやろ?」
「座ってるな」
「それ首にかけて、イスに座ってお父さんの気分をあじわってたん」って言われた。
理由とか聞く前に声を荒げてしまった自分が最低のクズになった気分だった。
こんなクソ親父にあこがれてくれているのかと思うと涙が出てきた。
今日のことなんだけど、会社のIDカード(首にストラップでかけるやつ)がいつも置いてある場所になかった。
結果的には応接間で見つかったんだが、次男(小2)のしわざだった。
「勝手に触ったらだめだろ!」などと結構きつく怒って問い詰めたところポツポツ理由を話し出した。
「お父さんの会社イスあるやろ?」
「椅子?・・・あるな」
「お父さん座って仕事してるやろ?」
「座ってるな」
「それ首にかけて、イスに座ってお父さんの気分をあじわってたん」って言われた。
理由とか聞く前に声を荒げてしまった自分が最低のクズになった気分だった。
こんなクソ親父にあこがれてくれているのかと思うと涙が出てきた。
Posted by nakeru2ch at 23:08
│Comments(4)
│
2007年06月19日
CDのプレゼント
676: 12/04 23:27
ちっちゃい妹がドラマのCDプレゼントに応募した
ちっとも届かないから落選確実。しかし健気に待ち続けて今夜とうとう
「CDどうしたかな…」と悲しそうにしてる。
見かねて「買ってやる」と言ったら届くのを待つと言って提案を拒否。
仕方ないので密林で「オメデトウ!」のメッセージ付きで注文した。
数日で届くだろう
密林での注文なんかしょっちゅうなのに、なんか今回は特別ドキドキする
喜んで貰えたら嬉しい
ちっちゃい妹がドラマのCDプレゼントに応募した
ちっとも届かないから落選確実。しかし健気に待ち続けて今夜とうとう
「CDどうしたかな…」と悲しそうにしてる。
見かねて「買ってやる」と言ったら届くのを待つと言って提案を拒否。
仕方ないので密林で「オメデトウ!」のメッセージ付きで注文した。
数日で届くだろう
密林での注文なんかしょっちゅうなのに、なんか今回は特別ドキドキする
喜んで貰えたら嬉しい
Posted by nakeru2ch at 23:13
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2007年01月13日
親へのプレゼント
718: 11/29 12:03
社会人になって初めて迎えた母さんの誕生日。
「いつもありがとう」ってプレゼントを渡したかった。
でも照れくさいし、もし選んだプレゼントが気に入ってもらえないと怖かった。
だから「選ぶのめんどいから」って嘘ついてデパートに連れて行って、
「何でもいいから適当に買えよ」とぶっきらぼうに言うと、
「高いエプロンだけどいい?」とおずおずと見せに来て、値札見たらたった3000円。
「こんな安物かよ」とひったくって後ろ向いて、泣きそうな顔を見られないようにレジに走った。
服でもバックでも、ほかに何でもあるだろ、財布の中に給料全部入れてきたんだぞ!って涙が出たけど、トイレで急いで顔洗って、そ知らぬ顔で袋を渡した。
そしたら、母さんがうれしそうにそれを抱きしめたのを見て、また泣きそうになった。
いまでも帰るたびにそのエプロンつけて飯作ってくれて、ありがとう。ほんと美味いよ。世界一だ。
いつも素直になれなくてごめん。
マザコンでもいいよ、母さん大好きだ。
おまいら生きてるうちに親孝行しとけ。いなくなってからじゃ後悔しかできないぞ。これはマジだ。
社会人になって初めて迎えた母さんの誕生日。
「いつもありがとう」ってプレゼントを渡したかった。
でも照れくさいし、もし選んだプレゼントが気に入ってもらえないと怖かった。
だから「選ぶのめんどいから」って嘘ついてデパートに連れて行って、
「何でもいいから適当に買えよ」とぶっきらぼうに言うと、
「高いエプロンだけどいい?」とおずおずと見せに来て、値札見たらたった3000円。
「こんな安物かよ」とひったくって後ろ向いて、泣きそうな顔を見られないようにレジに走った。
服でもバックでも、ほかに何でもあるだろ、財布の中に給料全部入れてきたんだぞ!って涙が出たけど、トイレで急いで顔洗って、そ知らぬ顔で袋を渡した。
そしたら、母さんがうれしそうにそれを抱きしめたのを見て、また泣きそうになった。
いまでも帰るたびにそのエプロンつけて飯作ってくれて、ありがとう。ほんと美味いよ。世界一だ。
いつも素直になれなくてごめん。
マザコンでもいいよ、母さん大好きだ。
おまいら生きてるうちに親孝行しとけ。いなくなってからじゃ後悔しかできないぞ。これはマジだ。
Posted by nakeru2ch at 14:38
│Comments(44)
│
お爺ちゃんの思い出
491: 04/26 12:51
皆さんのお話を読み、俺が高校生の時に逝った爺ちゃんの事を思い出しました。
乱文かと思いますが綴らせてもらいます。
俺は爺ちゃんにとって4番目の孫でしたが他の孫達は皆地方に住んでいて、自営業の寿司屋を継いだ親父の子である俺を爺ちゃんは内孫として特に可愛がったそうです。
でもまだ俺が小さい頃は、爺ちゃんが苦手でした。
小学生の時、俺は少年ラグビークラブに通っていて毎週日曜日の練習後は仕事で迎えに来れない両親の代わりに爺ちゃんが迎えにきてくれました。
けど昼飯でたまにファミレスなんかに入ると爺ちゃんは昭和初期からの職人気質で(寿司屋の板前です)中々届かない料理にウエイトレスを度々呼んではいつも怒っていました。
その時の爺ちゃんは子供ながらに怒らせちゃいけない存在なんだと思っていました。
ある時、赤いファイアーパターンが自慢のMTBを爺ちゃんが勝手に真っ黒に塗ってしまったことがありました。爺ちゃん曰く、
『赤い自転車なんて女の子の乗り物だぞ!』
らしく、流石に両親に泣き喚いて親父が爺ちゃんをこっ酷く注意したそうです。
普通の祖父なら新しい自転車を買うのかもしれません。けど爺ちゃんは俺を地元の馴染みの喫茶店に連れてってこう言いました。
『俺が死ぬまでお前は此処でアイスくりぃむ食べ放題だぞ!』
あの恐い爺ちゃんがアイスって、可笑しかったのを覚えています。
いつも額に皺を寄せて恐い顔をした爺ちゃんでしたが甘いモノは大好きでその間だけ笑顔になるのが俺自身とても嬉しかったんです。
それと癖なんですが俺は小さい頃から皺などの柔らかい部分を撫でるのが好きで爺ちゃんに逢った時はよく顎下辺りを撫でさせてもらいました。
この時も爺ちゃんは嬉しそうに笑ってくれたんです。
492: 04/26 12:55
中学に入る頃、爺ちゃんは足を怪我して歩かなくなりました。
家族に甘えていたんだと思います、リハビリをしっかりすればまだ歩ける可能性はあったのに爺ちゃんは全然リハビリを受けませんでした。
日に日に身体も衰弱し、入退院を繰り返しました。
俺自身、中学生になってからは色々忙しくなり、あまり爺ちゃん家にも顔を出さなくなりました。
高校の入学式、久々に爺ちゃん家に行った時には爺ちゃんは身体も小さくなり、一歩もベッドから出れない状態になっていました。
自宅療養を願い、もうあまり時間も無いと医者も言ったので週2でヘルパーを頼み、婆ちゃんと一緒に介護をしていました。
あまり喋ることも出来なくなっていて名前を呼ぶのが精一杯という感じです。
それでも爺ちゃんの好きな苺ジャムパンやアンパンなんかを持っていくと爺ちゃんは笑顔になって顎下を指で指してきました。
俺はやるせない気持ちで爺ちゃんの顎下を撫でました。
もっと、もっと撫でてあげたかったよ、爺ちゃん。
春、爺ちゃんの好きな桜が咲いた日の夕方、爺ちゃんは天国に逝きました。
親父に呼ばれて急いで駆けつけて、死に目には逢えませんでしたがその顔はうっすらと、口端を上げて笑っていました。
婆ちゃんが泣きながら俺の手を握っていました。とても、とても強く。
皆で身体を拭いてあげました。
上着を脱がして背中、胸、腕…。俺の番になりました。
その時、初めて俺は涙を流しました。嗚咽も無く、ただひたすら涙だけが頬を伝っていました。俺は握ったタオルを顎の下にもっていきました。
皆が泣きました。俺がその部分を好きだというのは皆知っていました。
俺は涙で前が見えないのにゆっくりと、優しく、あの柔らかい部分を撫でてあげました。
まだ暖かく、爺ちゃんの顎下はとても柔らかかったです。
葬式は自営業の店で上げる事にしました。戦後の焼け野原から築いた場所で還してあげたかったんです。白袴も断りました。
生前爺ちゃんのお気に入りだった茶色のジャケットとストライプの入ったパンツを履かせてあげました。死化粧を施してジャケットを着こなした爺ちゃんは、あの頃の元気な爺ちゃんに戻ったようでした。
493: 04/26 12:56
沢山の人が通夜に来ました。親戚、近隣住人、数少くなった友人達、若い頃世話になったというヤクザ者まで、本当に沢山の人が集まりました。
遺影はまだ爺ちゃんが元気な頃に撮ったと思われる写真が使われました。
どうも爺ちゃん自身が用意していたものらしく棚に封筒で包んでしまってあったそうです。ただ何故か荒画質の荒さが目立っていました。
それでも爺ちゃんの表情は、俺の大好きだったあの笑顔でした。
それから数日後、後片付けをしていたオカンから電話があって爺ちゃん家に行きました。するとそこには涙を流したオカンと婆ちゃんと親父がいました。親父が俺に何かを差し出しました。
『見てみろ、お前が、あの爺さんの笑顔を作ったんだ』
俺は差し出されたものを見ました。写真のようでした。
ジャケットを着た爺ちゃんが写ってました。袴を着た幼い俺が写っていました。
俺の七五三の写真でした。爺ちゃんの顔の部分に印がついていました。
遺影に使われた笑顔は、俺の七五三で笑った笑顔でした。
俺は写真を見た瞬間、初めて人前で声を上げて泣きました。
息が出来ませんでした。息の仕方も忘れてただ泣きました。
婆ちゃんが抱きしめてくれました。オカンが手を握ってくれました。
爺ちゃん。俺、出棺の時コンビ二に走ってジャムパンとアンパン買ってきたんだ、天国で売ってるなんて限らないからさ。
爺ちゃん。あの後、喫茶店に行ったんだ、爺ちゃんと一緒に食べた同じ席に座って同じ抹茶アイスを2つ頼んでさ、美味かったろ。
爺ちゃん。最後、あまり行けなくてご免な、優しくない孫でご免な。
爺ちゃん。それでもあんたは、最高の爺ちゃんだったよ。
爺ちゃん。本当に、本当に、有難う。
皆さんのお話を読み、俺が高校生の時に逝った爺ちゃんの事を思い出しました。
乱文かと思いますが綴らせてもらいます。
俺は爺ちゃんにとって4番目の孫でしたが他の孫達は皆地方に住んでいて、自営業の寿司屋を継いだ親父の子である俺を爺ちゃんは内孫として特に可愛がったそうです。
でもまだ俺が小さい頃は、爺ちゃんが苦手でした。
小学生の時、俺は少年ラグビークラブに通っていて毎週日曜日の練習後は仕事で迎えに来れない両親の代わりに爺ちゃんが迎えにきてくれました。
けど昼飯でたまにファミレスなんかに入ると爺ちゃんは昭和初期からの職人気質で(寿司屋の板前です)中々届かない料理にウエイトレスを度々呼んではいつも怒っていました。
その時の爺ちゃんは子供ながらに怒らせちゃいけない存在なんだと思っていました。
ある時、赤いファイアーパターンが自慢のMTBを爺ちゃんが勝手に真っ黒に塗ってしまったことがありました。爺ちゃん曰く、
『赤い自転車なんて女の子の乗り物だぞ!』
らしく、流石に両親に泣き喚いて親父が爺ちゃんをこっ酷く注意したそうです。
普通の祖父なら新しい自転車を買うのかもしれません。けど爺ちゃんは俺を地元の馴染みの喫茶店に連れてってこう言いました。
『俺が死ぬまでお前は此処でアイスくりぃむ食べ放題だぞ!』
あの恐い爺ちゃんがアイスって、可笑しかったのを覚えています。
いつも額に皺を寄せて恐い顔をした爺ちゃんでしたが甘いモノは大好きでその間だけ笑顔になるのが俺自身とても嬉しかったんです。
それと癖なんですが俺は小さい頃から皺などの柔らかい部分を撫でるのが好きで爺ちゃんに逢った時はよく顎下辺りを撫でさせてもらいました。
この時も爺ちゃんは嬉しそうに笑ってくれたんです。
492: 04/26 12:55
中学に入る頃、爺ちゃんは足を怪我して歩かなくなりました。
家族に甘えていたんだと思います、リハビリをしっかりすればまだ歩ける可能性はあったのに爺ちゃんは全然リハビリを受けませんでした。
日に日に身体も衰弱し、入退院を繰り返しました。
俺自身、中学生になってからは色々忙しくなり、あまり爺ちゃん家にも顔を出さなくなりました。
高校の入学式、久々に爺ちゃん家に行った時には爺ちゃんは身体も小さくなり、一歩もベッドから出れない状態になっていました。
自宅療養を願い、もうあまり時間も無いと医者も言ったので週2でヘルパーを頼み、婆ちゃんと一緒に介護をしていました。
あまり喋ることも出来なくなっていて名前を呼ぶのが精一杯という感じです。
それでも爺ちゃんの好きな苺ジャムパンやアンパンなんかを持っていくと爺ちゃんは笑顔になって顎下を指で指してきました。
俺はやるせない気持ちで爺ちゃんの顎下を撫でました。
もっと、もっと撫でてあげたかったよ、爺ちゃん。
春、爺ちゃんの好きな桜が咲いた日の夕方、爺ちゃんは天国に逝きました。
親父に呼ばれて急いで駆けつけて、死に目には逢えませんでしたがその顔はうっすらと、口端を上げて笑っていました。
婆ちゃんが泣きながら俺の手を握っていました。とても、とても強く。
皆で身体を拭いてあげました。
上着を脱がして背中、胸、腕…。俺の番になりました。
その時、初めて俺は涙を流しました。嗚咽も無く、ただひたすら涙だけが頬を伝っていました。俺は握ったタオルを顎の下にもっていきました。
皆が泣きました。俺がその部分を好きだというのは皆知っていました。
俺は涙で前が見えないのにゆっくりと、優しく、あの柔らかい部分を撫でてあげました。
まだ暖かく、爺ちゃんの顎下はとても柔らかかったです。
葬式は自営業の店で上げる事にしました。戦後の焼け野原から築いた場所で還してあげたかったんです。白袴も断りました。
生前爺ちゃんのお気に入りだった茶色のジャケットとストライプの入ったパンツを履かせてあげました。死化粧を施してジャケットを着こなした爺ちゃんは、あの頃の元気な爺ちゃんに戻ったようでした。
493: 04/26 12:56
沢山の人が通夜に来ました。親戚、近隣住人、数少くなった友人達、若い頃世話になったというヤクザ者まで、本当に沢山の人が集まりました。
遺影はまだ爺ちゃんが元気な頃に撮ったと思われる写真が使われました。
どうも爺ちゃん自身が用意していたものらしく棚に封筒で包んでしまってあったそうです。ただ何故か荒画質の荒さが目立っていました。
それでも爺ちゃんの表情は、俺の大好きだったあの笑顔でした。
それから数日後、後片付けをしていたオカンから電話があって爺ちゃん家に行きました。するとそこには涙を流したオカンと婆ちゃんと親父がいました。親父が俺に何かを差し出しました。
『見てみろ、お前が、あの爺さんの笑顔を作ったんだ』
俺は差し出されたものを見ました。写真のようでした。
ジャケットを着た爺ちゃんが写ってました。袴を着た幼い俺が写っていました。
俺の七五三の写真でした。爺ちゃんの顔の部分に印がついていました。
遺影に使われた笑顔は、俺の七五三で笑った笑顔でした。
俺は写真を見た瞬間、初めて人前で声を上げて泣きました。
息が出来ませんでした。息の仕方も忘れてただ泣きました。
婆ちゃんが抱きしめてくれました。オカンが手を握ってくれました。
爺ちゃん。俺、出棺の時コンビ二に走ってジャムパンとアンパン買ってきたんだ、天国で売ってるなんて限らないからさ。
爺ちゃん。あの後、喫茶店に行ったんだ、爺ちゃんと一緒に食べた同じ席に座って同じ抹茶アイスを2つ頼んでさ、美味かったろ。
爺ちゃん。最後、あまり行けなくてご免な、優しくない孫でご免な。
爺ちゃん。それでもあんたは、最高の爺ちゃんだったよ。
爺ちゃん。本当に、本当に、有難う。
Posted by nakeru2ch at 14:36
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2007年01月06日
沖縄に行かない?
799: 09/25 04:21
「沖縄に行かない?」
いきなり母が電話で聞いてきた。
当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。
「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。
「どうしても駄目?」
「今大事な時期だから。就職決まったらね」
「そう・・・」
母は残念そうに電話を切った。
急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。
それから半年後に母が死んだ。癌だった。
医者からは余命半年と言われてたらしい。
医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。
父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。
沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。
叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。
パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。
絵日記には
「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」
・・・というような事が書いてあった。すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。
自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。
というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。
母はそれをずっと覚えていたのだ。
そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。
自分は母が電話をしてきた時、どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。
もう恩返しする事が出来ない・・・
涙がぶわっと溢れてきて止められなかった。
「沖縄に行かない?」
いきなり母が電話で聞いてきた。
当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。
「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。
「どうしても駄目?」
「今大事な時期だから。就職決まったらね」
「そう・・・」
母は残念そうに電話を切った。
急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。
それから半年後に母が死んだ。癌だった。
医者からは余命半年と言われてたらしい。
医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。
父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。
沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。
叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。
パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。
絵日記には
「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」
・・・というような事が書いてあった。すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。
自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。
というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。
母はそれをずっと覚えていたのだ。
そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。
自分は母が電話をしてきた時、どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。
もう恩返しする事が出来ない・・・
涙がぶわっと溢れてきて止められなかった。
Posted by nakeru2ch at 21:05
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2006年12月07日
夫婦の絆
1: 12/04 01:04
オンタリオ州セントトーマスで、ごくごく平凡に暮らしてきたベーカー夫妻は、妻のドロシーさんの方が夫のグレンさんより6つ年上だった。
妻がどこかへ行くときには必ず夫が付いて来る――そんな夫婦だった。いつも一緒にいる二人だった。
1946年にダンスホールで出会ったときからして、グレンさんはドロシーさんの“後を追い”続けてきた。
そのときグレンさんは、ダンスホールで偶然見かけたドロシーさんに一目惚れしてしまった。
ダンスに誘ったが最初は断られた。でも、彼はあきらめることなく、ドロシーさんの後を追った。
根負けしたドロシーさんは、結局、ダンスの誘いに応じた。これが二人の馴れ初めだった。
翌1947年の6月に晴れて夫婦となった。夫妻は、グレンさんのホームタウンであるセントトーマスに居を構えた。
ドロシーさんは、いくつかの会社で事務員として働いた。グレンさんは、30年にわたってデパートの家具売り場で働いた。
二人の間に生まれたのは、娘のリンさんただ一人である。
一人娘のリンさんが成人した後、旅行好きなドロシーさんが海外旅行に出かけるときは、必ずグレンさんが嬉しそうに付いて行った。
そうして二人で世界中を旅してきた。
定年後のグレンさんは、家の中でいつもドロシーさんの傍にいたがった。
ドロシーさんが付いて来てくれないと、外出したがらなかった。
しかし、ドロシーさんは老いと共に持病の肺疾患が悪化していった。
今年の11月5日、ドロシーさんは体調を大きく崩してセントトーマス病院に入院した。
彼女の肺はもはや治療可能な状態ではなく、緩和ケアを受けることになった。
家に残されたグレンさんは、その2日後に体の不調を訴えて同じくセントトーマス病院に運ばれるが、翌日に退院する。
だが、体調が戻らず、11月14日に再入院することとなった。
緩和ケア病棟に入院したドロシーさんは、ますます容態が悪くなり昏睡状態に陥った。
別病棟に入院していたグレンさんの方は、意識こそあったが衰弱が進んでいた。
そして、12月1日、いよいよドロシーさんの命の炎が消える時が近づいていることを悟った病院スタッフたちがグレンさんをベッドごとドロシーさんの病室に運び込んだ。
そして、意識レベルが下がりつつあるグレンさんのベッドを昏睡状態のドロシーさんのベッドの横にぴったりと寄せて配置した。
グレンさんは薄れゆく意識の中、ドロシーさんの手に自分の手を伸ばし、手を繋いだ。
午後7時、ドロシーさんが息を引き取った。享年88歳。そのとき、グレンさんも既に昏睡に落ちていた。
ナースたちは、亡くなった妻と昏睡状態の夫の手をすぐにほどこうとはしなかった。妻の臨終後2時間にわたって、夫婦の手は繋がれたままだった。
2時間後、ドロシーさんの遺体を安置所に移すためにナースたちが夫婦の手をほどいた。
手がほどかれた直後、グレンさんの容態がみるみる急変した。
30分後、グレンさんは、まさしくドロシーさんの後を追うように息を引き取った。享年82歳。安らかな死に顔だった。
一人娘のリンさんは言う。「両親は互いに尽くし合っていて、深く愛し合っていました。死さえも二人を分かつことはなかったということでしょうね」
ドロシーさんの緩和ケアを担当していた医師の1人は、グレンさんがドロシーさんの後を追うように息を引き取ったことについて、こんなふうなことを話している。
「旦那さんは奥さんといつまでも一緒にいたかった。その強い思いが二人を天に導いた。医学的にあれこれ説明するよりも、そう考えて二人の冥福を祈りたいと思います」
リンさんは、衰弱していく父を死に瀕した母の病室に運んでくれたナースたちの思いやりに心から感謝している。
病院スタッフたちにとって、二人の最後を見届けたことは涙なしには語れない体験となった。
緩和ケア担当のシャロン・ベーカー医師(夫婦と同姓だが親戚ではない)は、こう話している。
「その場にいた皆の心に熱いものがこみ上げてきました。愛の絆・・・それがあるからこそ、私たちはこうして日夜この仕事に取り組んでいるのです」
二人の遺体は、セントトーマスの墓地に仲良く並んで埋葬されることになっている。
リンさんは言う。
「父は、どんなときも母と一緒にいたがっていました。純粋な愛、真の愛の絆で二人は結ばれていました。
こうして、両親は永遠に二人一緒にいることができるのです。そう考えると、悲しいことではない気がします」
オンタリオ州セントトーマスで、ごくごく平凡に暮らしてきたベーカー夫妻は、妻のドロシーさんの方が夫のグレンさんより6つ年上だった。
妻がどこかへ行くときには必ず夫が付いて来る――そんな夫婦だった。いつも一緒にいる二人だった。
1946年にダンスホールで出会ったときからして、グレンさんはドロシーさんの“後を追い”続けてきた。
そのときグレンさんは、ダンスホールで偶然見かけたドロシーさんに一目惚れしてしまった。
ダンスに誘ったが最初は断られた。でも、彼はあきらめることなく、ドロシーさんの後を追った。
根負けしたドロシーさんは、結局、ダンスの誘いに応じた。これが二人の馴れ初めだった。
翌1947年の6月に晴れて夫婦となった。夫妻は、グレンさんのホームタウンであるセントトーマスに居を構えた。
ドロシーさんは、いくつかの会社で事務員として働いた。グレンさんは、30年にわたってデパートの家具売り場で働いた。
二人の間に生まれたのは、娘のリンさんただ一人である。
一人娘のリンさんが成人した後、旅行好きなドロシーさんが海外旅行に出かけるときは、必ずグレンさんが嬉しそうに付いて行った。
そうして二人で世界中を旅してきた。
定年後のグレンさんは、家の中でいつもドロシーさんの傍にいたがった。
ドロシーさんが付いて来てくれないと、外出したがらなかった。
しかし、ドロシーさんは老いと共に持病の肺疾患が悪化していった。
今年の11月5日、ドロシーさんは体調を大きく崩してセントトーマス病院に入院した。
彼女の肺はもはや治療可能な状態ではなく、緩和ケアを受けることになった。
家に残されたグレンさんは、その2日後に体の不調を訴えて同じくセントトーマス病院に運ばれるが、翌日に退院する。
だが、体調が戻らず、11月14日に再入院することとなった。
緩和ケア病棟に入院したドロシーさんは、ますます容態が悪くなり昏睡状態に陥った。
別病棟に入院していたグレンさんの方は、意識こそあったが衰弱が進んでいた。
そして、12月1日、いよいよドロシーさんの命の炎が消える時が近づいていることを悟った病院スタッフたちがグレンさんをベッドごとドロシーさんの病室に運び込んだ。
そして、意識レベルが下がりつつあるグレンさんのベッドを昏睡状態のドロシーさんのベッドの横にぴったりと寄せて配置した。
グレンさんは薄れゆく意識の中、ドロシーさんの手に自分の手を伸ばし、手を繋いだ。
午後7時、ドロシーさんが息を引き取った。享年88歳。そのとき、グレンさんも既に昏睡に落ちていた。
ナースたちは、亡くなった妻と昏睡状態の夫の手をすぐにほどこうとはしなかった。妻の臨終後2時間にわたって、夫婦の手は繋がれたままだった。
2時間後、ドロシーさんの遺体を安置所に移すためにナースたちが夫婦の手をほどいた。
手がほどかれた直後、グレンさんの容態がみるみる急変した。
30分後、グレンさんは、まさしくドロシーさんの後を追うように息を引き取った。享年82歳。安らかな死に顔だった。
一人娘のリンさんは言う。「両親は互いに尽くし合っていて、深く愛し合っていました。死さえも二人を分かつことはなかったということでしょうね」
ドロシーさんの緩和ケアを担当していた医師の1人は、グレンさんがドロシーさんの後を追うように息を引き取ったことについて、こんなふうなことを話している。
「旦那さんは奥さんといつまでも一緒にいたかった。その強い思いが二人を天に導いた。医学的にあれこれ説明するよりも、そう考えて二人の冥福を祈りたいと思います」
リンさんは、衰弱していく父を死に瀕した母の病室に運んでくれたナースたちの思いやりに心から感謝している。
病院スタッフたちにとって、二人の最後を見届けたことは涙なしには語れない体験となった。
緩和ケア担当のシャロン・ベーカー医師(夫婦と同姓だが親戚ではない)は、こう話している。
「その場にいた皆の心に熱いものがこみ上げてきました。愛の絆・・・それがあるからこそ、私たちはこうして日夜この仕事に取り組んでいるのです」
二人の遺体は、セントトーマスの墓地に仲良く並んで埋葬されることになっている。
リンさんは言う。
「父は、どんなときも母と一緒にいたがっていました。純粋な愛、真の愛の絆で二人は結ばれていました。
こうして、両親は永遠に二人一緒にいることができるのです。そう考えると、悲しいことではない気がします」
Posted by nakeru2ch at 23:28
│Comments(12)
│
職場での出来事
183: 09/25 14:55
書かせてくれ。
大卒から勤続8年目。
俺は上司含め、同僚が苦手、というかあまり好きではなかった。
ワイワイと騒ぐ職場で馴れ合いもせず、昼飯や飲みも付き合いはするが仲良い同僚なんてのもいなかった。
そんな俺の性格を理解してか、周りもあまり俺に近づいてこようとはしなかった。(仕事外ではね)
ある日外回りから帰ってさっさと席につきコツコツと事務処理をやっていた時の事。
上司が近づいてきて、「○○く〜ん、このあいだの件(極秘な)ゲットできたらしいな、よくやった!」
…普段どんないい事しても褒めもしない上司が、褒めた。
しかも超笑顔。
さらに部下が
「○○さん、明日某客先に行くんですけど、教えてもらえますか?」
って、普段怖がってか俺に聞かないで俺より下の奴に質問してるおちゃらけ若者が俺に質問してくる。
とどめに女の子がコーヒー持ってきてくれたり。
明らかに俺は優遇されすぎていた。おかしい。
この時期に昇進か?まさか転勤…妻子も家もあるのに。
って考えてたら。
やたら背の低い影が俺に近づいてきた。
息子だった…
びびって椅子からころげ落ちた。
どうやら幼稚園で父の仕事を発表する事があるらしい。
聞いてない。
のは俺だけで、嫁が事前に上司に許可もらってたと。
それで皆おかしかったのか、息子もなんだか嬉しそうだしいいのかな。
普段の俺を見たら寂しそうだなぁとか思ってただろうな。
その夜飲み会があった。今回の件、課長が根回ししてくれてたり、うるさい若者が自ら話しかけにきたいと言った事とか、いろいろわかった。
泣いた。
それからは仕事に感情をだせるようになった。
仕事が、職場が楽しいと思えるようになった。
そして息子の発表会は行けなかったが、とても誇らしげに語ったみたい。
皆大好きだ!
書かせてくれ。
大卒から勤続8年目。
俺は上司含め、同僚が苦手、というかあまり好きではなかった。
ワイワイと騒ぐ職場で馴れ合いもせず、昼飯や飲みも付き合いはするが仲良い同僚なんてのもいなかった。
そんな俺の性格を理解してか、周りもあまり俺に近づいてこようとはしなかった。(仕事外ではね)
ある日外回りから帰ってさっさと席につきコツコツと事務処理をやっていた時の事。
上司が近づいてきて、「○○く〜ん、このあいだの件(極秘な)ゲットできたらしいな、よくやった!」
…普段どんないい事しても褒めもしない上司が、褒めた。
しかも超笑顔。
さらに部下が
「○○さん、明日某客先に行くんですけど、教えてもらえますか?」
って、普段怖がってか俺に聞かないで俺より下の奴に質問してるおちゃらけ若者が俺に質問してくる。
とどめに女の子がコーヒー持ってきてくれたり。
明らかに俺は優遇されすぎていた。おかしい。
この時期に昇進か?まさか転勤…妻子も家もあるのに。
って考えてたら。
やたら背の低い影が俺に近づいてきた。
息子だった…
びびって椅子からころげ落ちた。
どうやら幼稚園で父の仕事を発表する事があるらしい。
聞いてない。
のは俺だけで、嫁が事前に上司に許可もらってたと。
それで皆おかしかったのか、息子もなんだか嬉しそうだしいいのかな。
普段の俺を見たら寂しそうだなぁとか思ってただろうな。
その夜飲み会があった。今回の件、課長が根回ししてくれてたり、うるさい若者が自ら話しかけにきたいと言った事とか、いろいろわかった。
泣いた。
それからは仕事に感情をだせるようになった。
仕事が、職場が楽しいと思えるようになった。
そして息子の発表会は行けなかったが、とても誇らしげに語ったみたい。
皆大好きだ!
Posted by nakeru2ch at 22:42
│Comments(10)
│
2006年11月20日
あめふり
342: 11/20 22:18
誰もが一度は耳にしたことがあるだろう童謡の1つに、「あめふり」ってのがある。
僕は子供時代、その歌が嫌いで嫌いでたまらなかった。
小学校にあがる少し前、母は僕の入学式に出席することができないままこの世を去った。
車での買い物の帰り道、大型ダンプと正面衝突をして、ダンプの運転手ともども即死だった。
覚えているのは人の大きさをした大きな布の膨らみと、それにすがりつきながら「痛かったろう、痛かったろう」と大声で泣き喚く父の後ろ姿だけ。
あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
ちょうど事故で母が死んだ日も、路面が滑りやすい雨の日だった。
この歌が雨の日の給食時間に放送で流れると保育園に迎えに来てくれた優しい母の顔を思い出し、僕は耳をふさいだ。
その日もそんな雨の日で、ごたぶんに漏れず給食時間の放送からはあの歌が流れていたと思う。
朝の天気予報では晴れマークが出ていたので、傘を持ってくるのを忘れた僕は、下校のときのことを想像するたび憂鬱な気分になっていた。
母の件のせいにするつもりは毛頭ないけれど、その頃の僕はおせじにも可愛い子供ではなかった。
当然友達なんかいないから傘に入れてくる人なんかいるはずないし、父は仕事で今日も遅いから、まさか僕の傘のために仕事を抜け出して迎えに来てくれるはずもない。
むしろ当時の僕は本当に可愛くなくって、「もし父がそんな風に迎えに来てくれたとしたら、一体どんな顔をしたらいいんだろう」
なんていう風に、子供らしくないネガティブな悩みかたをしていたのを覚えている。
343: 11/20 22:18
でもそんな悩みなんかもとから不必要で、結局父が迎えに来てくれることはなかった。
当然だ。片親で子供一人を学校に通わせるのは今思えば楽なことではない。
大工であった父はその日も屋根の上で雨に濡れながら家族のために必死に働いていたんだろう。
どんどん強まっていく雨足と、ぽつりぽつりとクラスメイトが減っていった薄暗い教室は、今思い出しても寂しい気分になる。
一度寂しいと思うと、その寂しさはどんどん膨らんでいくもので、そんな時に母の顔を思い出してしまった僕はもうどうしようもなかった。
もしお母さんがいてくれて、傘をさして迎えにきてくれたら、この雨もどんなに楽しいだろう。
そう考えたとたん、涙がぽろぽろこぼれてきて、僕はまだクラスメイトもちらほら残っている放課後の教室で泣き出してしまった。
それに気づいたクラスメイト達も何事だとこっちをうかがいはするが、もちろんなぐさめてはくれない。
やりきれなさと寂しさで胸がいっぱいになっていたところへ、担任の先生が声をかけてくれた。
当時僕の担任の先生というのは結構なお年の女性の方で、杉本先生といった。
ぽっちゃりした体型と人懐っこい笑顔に派手めな眼鏡で、生徒からはおばあちゃん先生なんて呼ばれていたけど、本人はむしろその呼び方に愛着を感じているらしく、微笑みながら応対していたように思う。
344: 11/20 22:18
どしゃ降りの雨がふる教室のなかで、小学校2年生の子供が泣きじゃくりながら事情を説明する言葉なんて、一体どれだけ聞き取れただろうか。
先生は膝をおって同じ高さまで顔をもってくると、僕の背中を優しくさすりながら「そうね、そうね」と独特の九州なまりであいづちを打ってくれていた。
僕がやっと泣き止むと、杉本先生は僕に「そんなら先生と一緒に帰ろうか」というと、やっぱり派手めな赤いチェックのはいった小さな傘を差し出した。
途中杉本先生の家にあがらせてもらい、色んな話をした。「今度から雨の日は先生と一緒に帰ろう」と言ってくれたのが、僕は嬉しくてたまらなかった。
なんだかんだで恥ずかしさも伴い、一緒に下校したのはそれっきりだったけど、僕はそれからは雨がそれほど嫌ではなくなっていた。
杉本先生、お元気にしてらっしゃいますか?
僕は今年、夢だった教師になることが出来ました。
先生のことを思い出したのも何かあるのかも知れない、なんていう言い訳を抱えて実家に帰省した折にはご挨拶に伺わせて頂きたいと思っています。
誰もが一度は耳にしたことがあるだろう童謡の1つに、「あめふり」ってのがある。
僕は子供時代、その歌が嫌いで嫌いでたまらなかった。
小学校にあがる少し前、母は僕の入学式に出席することができないままこの世を去った。
車での買い物の帰り道、大型ダンプと正面衝突をして、ダンプの運転手ともども即死だった。
覚えているのは人の大きさをした大きな布の膨らみと、それにすがりつきながら「痛かったろう、痛かったろう」と大声で泣き喚く父の後ろ姿だけ。
あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
ちょうど事故で母が死んだ日も、路面が滑りやすい雨の日だった。
この歌が雨の日の給食時間に放送で流れると保育園に迎えに来てくれた優しい母の顔を思い出し、僕は耳をふさいだ。
その日もそんな雨の日で、ごたぶんに漏れず給食時間の放送からはあの歌が流れていたと思う。
朝の天気予報では晴れマークが出ていたので、傘を持ってくるのを忘れた僕は、下校のときのことを想像するたび憂鬱な気分になっていた。
母の件のせいにするつもりは毛頭ないけれど、その頃の僕はおせじにも可愛い子供ではなかった。
当然友達なんかいないから傘に入れてくる人なんかいるはずないし、父は仕事で今日も遅いから、まさか僕の傘のために仕事を抜け出して迎えに来てくれるはずもない。
むしろ当時の僕は本当に可愛くなくって、「もし父がそんな風に迎えに来てくれたとしたら、一体どんな顔をしたらいいんだろう」
なんていう風に、子供らしくないネガティブな悩みかたをしていたのを覚えている。
343: 11/20 22:18
でもそんな悩みなんかもとから不必要で、結局父が迎えに来てくれることはなかった。
当然だ。片親で子供一人を学校に通わせるのは今思えば楽なことではない。
大工であった父はその日も屋根の上で雨に濡れながら家族のために必死に働いていたんだろう。
どんどん強まっていく雨足と、ぽつりぽつりとクラスメイトが減っていった薄暗い教室は、今思い出しても寂しい気分になる。
一度寂しいと思うと、その寂しさはどんどん膨らんでいくもので、そんな時に母の顔を思い出してしまった僕はもうどうしようもなかった。
もしお母さんがいてくれて、傘をさして迎えにきてくれたら、この雨もどんなに楽しいだろう。
そう考えたとたん、涙がぽろぽろこぼれてきて、僕はまだクラスメイトもちらほら残っている放課後の教室で泣き出してしまった。
それに気づいたクラスメイト達も何事だとこっちをうかがいはするが、もちろんなぐさめてはくれない。
やりきれなさと寂しさで胸がいっぱいになっていたところへ、担任の先生が声をかけてくれた。
当時僕の担任の先生というのは結構なお年の女性の方で、杉本先生といった。
ぽっちゃりした体型と人懐っこい笑顔に派手めな眼鏡で、生徒からはおばあちゃん先生なんて呼ばれていたけど、本人はむしろその呼び方に愛着を感じているらしく、微笑みながら応対していたように思う。
344: 11/20 22:18
どしゃ降りの雨がふる教室のなかで、小学校2年生の子供が泣きじゃくりながら事情を説明する言葉なんて、一体どれだけ聞き取れただろうか。
先生は膝をおって同じ高さまで顔をもってくると、僕の背中を優しくさすりながら「そうね、そうね」と独特の九州なまりであいづちを打ってくれていた。
僕がやっと泣き止むと、杉本先生は僕に「そんなら先生と一緒に帰ろうか」というと、やっぱり派手めな赤いチェックのはいった小さな傘を差し出した。
途中杉本先生の家にあがらせてもらい、色んな話をした。「今度から雨の日は先生と一緒に帰ろう」と言ってくれたのが、僕は嬉しくてたまらなかった。
なんだかんだで恥ずかしさも伴い、一緒に下校したのはそれっきりだったけど、僕はそれからは雨がそれほど嫌ではなくなっていた。
杉本先生、お元気にしてらっしゃいますか?
僕は今年、夢だった教師になることが出来ました。
先生のことを思い出したのも何かあるのかも知れない、なんていう言い訳を抱えて実家に帰省した折にはご挨拶に伺わせて頂きたいと思っています。
Posted by nakeru2ch at 23:28
│Comments(23)
│
2006年11月07日
扇風機
521: 11/03 18:14
貧乏だったため、十年近く同じ扇風機を使っていた。
今日、その扇風機が不自然な壊れ方をした。突然羽が折れたのだ。
毎年猛暑の度、「もう少し頑張ってくれよな、相棒」と俺が話しかけても、ひたすら首を横に振り続けた扇風機。そんなことを思い出して、少し寂しくなった。
今年は経済的に少し余裕が出来ていたため、これを期にクーラーを買ってみることにした。
電車に乗って、チラシを見ながら某家電量販店に向かう。
その日は蒸し暑かったため、買い物ついでに少し、冷房の効いた店で涼んでいくことにした。
携帯を適当に眺めていたとき、不意に地面が揺れ出した。
後に知る事になるが、そのときの地震は震度6になる大地震だったらしい。
店内にいて事なきを得た俺だったが、もしあの日、扇風機が壊れていなかったとしたら。
怪我も無く家に帰れた俺は、箪笥の下で首を変な方向に曲げた扇風機が、俺にお帰りとでも言うように、首を振って待っているのを見た。
ありがとう、と俺は独り言のように呟いた。
扇風機は、その日初めて、首を縦に振ってくれた。
貧乏だったため、十年近く同じ扇風機を使っていた。
今日、その扇風機が不自然な壊れ方をした。突然羽が折れたのだ。
毎年猛暑の度、「もう少し頑張ってくれよな、相棒」と俺が話しかけても、ひたすら首を横に振り続けた扇風機。そんなことを思い出して、少し寂しくなった。
今年は経済的に少し余裕が出来ていたため、これを期にクーラーを買ってみることにした。
電車に乗って、チラシを見ながら某家電量販店に向かう。
その日は蒸し暑かったため、買い物ついでに少し、冷房の効いた店で涼んでいくことにした。
携帯を適当に眺めていたとき、不意に地面が揺れ出した。
後に知る事になるが、そのときの地震は震度6になる大地震だったらしい。
店内にいて事なきを得た俺だったが、もしあの日、扇風機が壊れていなかったとしたら。
怪我も無く家に帰れた俺は、箪笥の下で首を変な方向に曲げた扇風機が、俺にお帰りとでも言うように、首を振って待っているのを見た。
ありがとう、と俺は独り言のように呟いた。
扇風機は、その日初めて、首を縦に振ってくれた。
Posted by nakeru2ch at 21:33
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2006年11月01日
幸せってなんだろう?
19: 03/19 00:18
俺、数年前半年デスマーチが続いて死にたくなった事があったよ。
毎日会社行ったらクライアントが来て職場の椅子に座ってんのね。
そん時向かいの席の先輩が客先に人質になってて、席が空いてたのよ。
でね、俺のクライアントがその空いた席に座ってノート広げて向かいの席で報告用の書類作ってんのよ。その状態が半年。そう半年。
職場の上司もそのお客さんには頭が上がらないから、俺に押し付けてる。
フォローもしてくんない。職場は禁煙でそのお客さんは喫煙者だから、しょっちゅう喫煙室に行くわけよ。で、帰ってきたらまた不機嫌そうに向かいの席でわざと視線合わさないでプレッシャーかけてくんの。
息抜きもできない状態で休日も1日も無い状態で、さすがに精神が参っちゃって、ある日朝家を出て、駅まで歩く途中で突然、そうホント突然、死のうと考えたわけよ。
20: 03/19 00:20
でね、職場は千葉の柏だったんだけど、なぜか俺神奈川の関内に行ったわけよ。
何で関内かっつーと、今まで一番好きだった子と学生時代によくデートした町なんだ。そこから1日中歩いた。風が強い秋の日だったよ。
知らない間に猛暑の夏も終わってて、そんな事も気付かずに半年も働き詰めたのに初めて気付いて、それもショックだった。
その子とも別れて1年、新しい彼女ができるでもなく、そういう感覚も忘れてた。
そんな事を考えながらふらふら桜木町まで歩いて、名物のガード下の落書き眺めながら横浜まで歩いて、一緒によく朝まで過ごしたファミレスの近くまで歩いた。
もう夕方になってた。そのファミレスの前に大きな歩道橋が掛かってて、下には車がぶんぶん。
でね、ここだ!って決めたわけよ。
でもね、不思議な事にそういう時ってなぜか人目を気にしちゃうんだよね。
歩道橋を通る人がなかなか途切れてくれなくて、踏み出せないのよ。
ずぅ〜っと待ってて、やっと途切れて、今だ!って手すりに乗り出そうとした瞬間そのファミレスの店員さんと目が合っちゃったんだ。
店員さんは凍りついた感じでこっち見てた。
何故か俺走って逃げちゃったんだよね。
21: 03/19 00:22
でね、またふらふら歩いてそのまま何故か伊勢崎町。横浜の人なら地理解ると思うけど、一日かけて関内〜横浜を往復しちゃってたの。
でね、ずーっと歩いて京急日の出町の駅まで来ちゃった。
そこね、俺がその子に告白した場所だったんだ。
その瞬間、その日一日デートコースを一人で歩きながら一度も思い出せなかったその子の顔や表情、しぐさ、声を急にはっきりと思い出しちゃって、一人で泣いちゃったんだ。
あの頃は輝いてたのに。
俺今何やってんだろう、って。
ひとしきり泣いて、泣きつかれて、そのまま藤沢の実家に帰ったよ。
実家に着いたのはもう深夜。俺が帰ったらお袋が泣きながら俺に抱きついてきた。会社から電話が掛かってきてたらしい。
朝寮を出て出社してない、彼の勤務が最近厳しかったので疲れているんじゃないか、会社としても非常に心配している、何かあったらすぐに連絡して欲しい、との事だった。
警察からも連絡があったらしい。
関内の駅で捨てた鞄が警察に届けられてて、中の携帯から実家に連絡が行っていたそうだ。
親父が受け取ってきたその携帯には上司や先輩や同僚や後輩からバカみたいに沢山着信が入ってた。
普段口うるさい親父が一言、「よく生きて帰って来た、今日は安め」
って言ってくれたのを憶えている。
22: 03/19 00:24
結局死ななかったけど、その夜は眠れなかった。
一晩じゅう「俺の幸せってなんだろう?」って自問自答してた。
翌日昼から出社して、上司に全部話した。
上司も何も文句を言わなかった。
結局その案件は先輩が引き継いでくれた。
クライアントはもう来なくなってた。担当も替わってた。
引き継いだ後、1週間休みを貰った。
1週間、横浜の大桟橋の脇の船着場の浮き桟橋で波に揺られて毎日ぼぉ〜っとした。「俺の幸せってなんだろう?」って。
俺はやっぱりこの板のみんなと同じでコンピュータが好きだ。
プログラミングが好きだ。誰かとその事で議論するのも好きだ。
後輩に教えるのも好きだし、先輩から昔の話を聞くのも好きだ。
お客さんがすっげえ喜んでくれるのも好きだ。
でね、1週間の長い休みが明けて会社に行って、上司に「やっぱりこの仕事が好きなので続けます」って言ったら喜んでくれた。
こんな事があって、絶対辞めると思ってたらしい。
それから、適当に息を抜く技を身に付けた。
お客さんのアオリのかわし方もうまくなった(と思う)。
23: 03/19 00:26
それから数年、今のカミさんには話した事無いけど、カミさんとその脇で寝ているガキの顔を見て、つくづくあの時死ななくて良かったと思う。
>>1
耐えれば幸せになれる訳じゃない。
でも、死んでしまうとその後の幸せにも出会えなくなっちゃうよ。
上手く言えないけど、俺は君に生きていて欲しい。
君なりの幸せがどこかに必ずあるはずだよ。
俺、数年前半年デスマーチが続いて死にたくなった事があったよ。
毎日会社行ったらクライアントが来て職場の椅子に座ってんのね。
そん時向かいの席の先輩が客先に人質になってて、席が空いてたのよ。
でね、俺のクライアントがその空いた席に座ってノート広げて向かいの席で報告用の書類作ってんのよ。その状態が半年。そう半年。
職場の上司もそのお客さんには頭が上がらないから、俺に押し付けてる。
フォローもしてくんない。職場は禁煙でそのお客さんは喫煙者だから、しょっちゅう喫煙室に行くわけよ。で、帰ってきたらまた不機嫌そうに向かいの席でわざと視線合わさないでプレッシャーかけてくんの。
息抜きもできない状態で休日も1日も無い状態で、さすがに精神が参っちゃって、ある日朝家を出て、駅まで歩く途中で突然、そうホント突然、死のうと考えたわけよ。
20: 03/19 00:20
でね、職場は千葉の柏だったんだけど、なぜか俺神奈川の関内に行ったわけよ。
何で関内かっつーと、今まで一番好きだった子と学生時代によくデートした町なんだ。そこから1日中歩いた。風が強い秋の日だったよ。
知らない間に猛暑の夏も終わってて、そんな事も気付かずに半年も働き詰めたのに初めて気付いて、それもショックだった。
その子とも別れて1年、新しい彼女ができるでもなく、そういう感覚も忘れてた。
そんな事を考えながらふらふら桜木町まで歩いて、名物のガード下の落書き眺めながら横浜まで歩いて、一緒によく朝まで過ごしたファミレスの近くまで歩いた。
もう夕方になってた。そのファミレスの前に大きな歩道橋が掛かってて、下には車がぶんぶん。
でね、ここだ!って決めたわけよ。
でもね、不思議な事にそういう時ってなぜか人目を気にしちゃうんだよね。
歩道橋を通る人がなかなか途切れてくれなくて、踏み出せないのよ。
ずぅ〜っと待ってて、やっと途切れて、今だ!って手すりに乗り出そうとした瞬間そのファミレスの店員さんと目が合っちゃったんだ。
店員さんは凍りついた感じでこっち見てた。
何故か俺走って逃げちゃったんだよね。
21: 03/19 00:22
でね、またふらふら歩いてそのまま何故か伊勢崎町。横浜の人なら地理解ると思うけど、一日かけて関内〜横浜を往復しちゃってたの。
でね、ずーっと歩いて京急日の出町の駅まで来ちゃった。
そこね、俺がその子に告白した場所だったんだ。
その瞬間、その日一日デートコースを一人で歩きながら一度も思い出せなかったその子の顔や表情、しぐさ、声を急にはっきりと思い出しちゃって、一人で泣いちゃったんだ。
あの頃は輝いてたのに。
俺今何やってんだろう、って。
ひとしきり泣いて、泣きつかれて、そのまま藤沢の実家に帰ったよ。
実家に着いたのはもう深夜。俺が帰ったらお袋が泣きながら俺に抱きついてきた。会社から電話が掛かってきてたらしい。
朝寮を出て出社してない、彼の勤務が最近厳しかったので疲れているんじゃないか、会社としても非常に心配している、何かあったらすぐに連絡して欲しい、との事だった。
警察からも連絡があったらしい。
関内の駅で捨てた鞄が警察に届けられてて、中の携帯から実家に連絡が行っていたそうだ。
親父が受け取ってきたその携帯には上司や先輩や同僚や後輩からバカみたいに沢山着信が入ってた。
普段口うるさい親父が一言、「よく生きて帰って来た、今日は安め」
って言ってくれたのを憶えている。
22: 03/19 00:24
結局死ななかったけど、その夜は眠れなかった。
一晩じゅう「俺の幸せってなんだろう?」って自問自答してた。
翌日昼から出社して、上司に全部話した。
上司も何も文句を言わなかった。
結局その案件は先輩が引き継いでくれた。
クライアントはもう来なくなってた。担当も替わってた。
引き継いだ後、1週間休みを貰った。
1週間、横浜の大桟橋の脇の船着場の浮き桟橋で波に揺られて毎日ぼぉ〜っとした。「俺の幸せってなんだろう?」って。
俺はやっぱりこの板のみんなと同じでコンピュータが好きだ。
プログラミングが好きだ。誰かとその事で議論するのも好きだ。
後輩に教えるのも好きだし、先輩から昔の話を聞くのも好きだ。
お客さんがすっげえ喜んでくれるのも好きだ。
でね、1週間の長い休みが明けて会社に行って、上司に「やっぱりこの仕事が好きなので続けます」って言ったら喜んでくれた。
こんな事があって、絶対辞めると思ってたらしい。
それから、適当に息を抜く技を身に付けた。
お客さんのアオリのかわし方もうまくなった(と思う)。
23: 03/19 00:26
それから数年、今のカミさんには話した事無いけど、カミさんとその脇で寝ているガキの顔を見て、つくづくあの時死ななくて良かったと思う。
>>1
耐えれば幸せになれる訳じゃない。
でも、死んでしまうとその後の幸せにも出会えなくなっちゃうよ。
上手く言えないけど、俺は君に生きていて欲しい。
君なりの幸せがどこかに必ずあるはずだよ。
Posted by nakeru2ch at 23:58
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│
2006年10月28日
迷わないように
512: 10/25 11:52
働きながら学生してた頃、仕事で京都北部の全然知らない町に出かけた。
駅から目的地まではバス。本数が少なく、不安なのでそばにいた人に
「○○へ行くのはこの乗り場から出るバスですか?」
と聞いてみた。
すると周りに何人も集まってきて、話し合いを始めた。
「もうすぐ迎えが来るから送ろか?」
「迎えを待つよりバスの方が早よ着くん違う?」などなど。
結局、同じバスに乗った人が降りる停留所を教えてくれた。降りてからの道順も丁寧に教えてくれた。
無事に仕事を済ませ、帰りのバスを待っていると駅で話し合いに参加していた女性の一人が猛スピードで自転車こいでやってきた。
「あーよかった。家についてから、迷ってないか心配で探しに来たんよ。仕事は終わったんやね?ここのバス停から乗ったら駅へ戻れるからね。」
雪がちらつくほど寒かったのに。赤の他人なのに。
お陰で無事に帰れました。職場の人間関係・学校との両立に疲れてたから、泣きそうになったよ。
ありがとう。
働きながら学生してた頃、仕事で京都北部の全然知らない町に出かけた。
駅から目的地まではバス。本数が少なく、不安なのでそばにいた人に
「○○へ行くのはこの乗り場から出るバスですか?」
と聞いてみた。
すると周りに何人も集まってきて、話し合いを始めた。
「もうすぐ迎えが来るから送ろか?」
「迎えを待つよりバスの方が早よ着くん違う?」などなど。
結局、同じバスに乗った人が降りる停留所を教えてくれた。降りてからの道順も丁寧に教えてくれた。
無事に仕事を済ませ、帰りのバスを待っていると駅で話し合いに参加していた女性の一人が猛スピードで自転車こいでやってきた。
「あーよかった。家についてから、迷ってないか心配で探しに来たんよ。仕事は終わったんやね?ここのバス停から乗ったら駅へ戻れるからね。」
雪がちらつくほど寒かったのに。赤の他人なのに。
お陰で無事に帰れました。職場の人間関係・学校との両立に疲れてたから、泣きそうになったよ。
ありがとう。
Posted by nakeru2ch at 22:38
│Comments(7)
│
2006年10月26日
エリ
838: 10/17 01:30
俺が小3の時に家で生まれた犬がいてコリーって種類で
近所でも評判になるくらいに頭のいい犬なんだよね
エリって俺が名前つけて兄弟のような感じで一緒に大きくなったのよ
俺が学校から帰ってくる時間がわかるのか5分前には玄関の所で座ってまってて寝るときも毎日一緒に寝てた
ほんとに賢い犬で放課後一旦家に帰って犬を連れてまた校庭に遊びに行ってた
先生もエリは賢い犬ってわかってるからなんも言わないんだよね
絶対噛まないしめったな事じゃないと吠えないし
散歩の時も教えてもないのに俺の横を離れないしほかの犬に興味を示さない
俺より賢かったかもしれんねw
で高校になっても一緒に寝てたし散歩も毎日行ってたけどさびしい事に
大学に行くために上京することになったのよ
続く
840: 10/17 01:47
大学に入る前に済むアパートを借りないといけないから親とエリもいっしょにアパート探しに行って無事住む場所が決まった
「ここに春から住むんだよ〜お前も遊びに来いよ〜」
ってエリに冗談で話かけたんだよね
ちなみに実家は広島ね
で春になって一人で東京に行く時にエリと一緒に暮らせないのがさびしくなっちゃって不覚にも泣いてしまったね10年近く毎日一緒にいたしね
一人暮らし始めて一ヶ月ぐらいした時に親から電話があってエリがさびしがって元気がない
って話されてかわいそうでペット可のアパートを探してこっちに連れてこようかと本気で考えてた
続く
841: 10/17 02:11
それから一週間ぐらいしてペット可のアパートも見つからずに4年の我慢か〜とかって思ってたら
また親から電話があってエリがいなくなったでも事故にあった様子でもないから
もしかしたらK(俺ね)くんを探しに行ったんかもしれんって言うのよ
どーしよーかと思いつつ不思議とこのままいなくなるとも思わなかったんだよね
探しようもないしすぐ実家に帰ってくるっしょと思ってた
それから毎日実家に帰ってきたか電話するけどまだ帰らんKくんを探しながら
どっかで事故にあったかもしれんとかって話を毎日してた
そのまま20日ぐらいたった時に来たのよ俺のアパートまで
ほんと汚くなってたけどエリなのよ
あれはびびったね
どっかで死んだなって勝手に落ち込んでた時だったから余計に
動物は人間にない第6感みたいなのがあるってテレビでやってたけどまさにそんな感じ
匂いなわけないし冬にアパート見に来たときの道順を覚えてるわけないし
10年一緒にいたからなんか説明できない何かがあったとしか言えないね
続く
842: 10/17 02:27
幸運だったのが大家さんに直接広島から歩いてここまで来たんですよ
2〜3日部屋にいてもいいですかって言ったらいいよって言ってくれて
3日たったらおとなしい犬だから苦情がでるまで様子見てあげるよ
ってことで結局4年間飼えたんだよね
アパートのマスコット兼番犬みたいな感じになってたw
その辺はぼろアパートのいい所だったね
今は実家の近くの会社に就職してまた実家で暮らしてるって書きたい所だけど
昨日18才で息を引き取りました
ペットレスは辛いねほんとにつらいさびしい
エリありがとうな東京まで来た時はほんとにうれしかったよ安らかに眠ってください
あまりに思い出深い犬だったから書き込みました
改行も文章もへたくそなのにここまで読んでもらってありがとう
信じれないかも知んないけど本当の話です
俺が小3の時に家で生まれた犬がいてコリーって種類で
近所でも評判になるくらいに頭のいい犬なんだよね
エリって俺が名前つけて兄弟のような感じで一緒に大きくなったのよ
俺が学校から帰ってくる時間がわかるのか5分前には玄関の所で座ってまってて寝るときも毎日一緒に寝てた
ほんとに賢い犬で放課後一旦家に帰って犬を連れてまた校庭に遊びに行ってた
先生もエリは賢い犬ってわかってるからなんも言わないんだよね
絶対噛まないしめったな事じゃないと吠えないし
散歩の時も教えてもないのに俺の横を離れないしほかの犬に興味を示さない
俺より賢かったかもしれんねw
で高校になっても一緒に寝てたし散歩も毎日行ってたけどさびしい事に
大学に行くために上京することになったのよ
続く
840: 10/17 01:47
大学に入る前に済むアパートを借りないといけないから親とエリもいっしょにアパート探しに行って無事住む場所が決まった
「ここに春から住むんだよ〜お前も遊びに来いよ〜」
ってエリに冗談で話かけたんだよね
ちなみに実家は広島ね
で春になって一人で東京に行く時にエリと一緒に暮らせないのがさびしくなっちゃって不覚にも泣いてしまったね10年近く毎日一緒にいたしね
一人暮らし始めて一ヶ月ぐらいした時に親から電話があってエリがさびしがって元気がない
って話されてかわいそうでペット可のアパートを探してこっちに連れてこようかと本気で考えてた
続く
841: 10/17 02:11
それから一週間ぐらいしてペット可のアパートも見つからずに4年の我慢か〜とかって思ってたら
また親から電話があってエリがいなくなったでも事故にあった様子でもないから
もしかしたらK(俺ね)くんを探しに行ったんかもしれんって言うのよ
どーしよーかと思いつつ不思議とこのままいなくなるとも思わなかったんだよね
探しようもないしすぐ実家に帰ってくるっしょと思ってた
それから毎日実家に帰ってきたか電話するけどまだ帰らんKくんを探しながら
どっかで事故にあったかもしれんとかって話を毎日してた
そのまま20日ぐらいたった時に来たのよ俺のアパートまで
ほんと汚くなってたけどエリなのよ
あれはびびったね
どっかで死んだなって勝手に落ち込んでた時だったから余計に
動物は人間にない第6感みたいなのがあるってテレビでやってたけどまさにそんな感じ
匂いなわけないし冬にアパート見に来たときの道順を覚えてるわけないし
10年一緒にいたからなんか説明できない何かがあったとしか言えないね
続く
842: 10/17 02:27
幸運だったのが大家さんに直接広島から歩いてここまで来たんですよ
2〜3日部屋にいてもいいですかって言ったらいいよって言ってくれて
3日たったらおとなしい犬だから苦情がでるまで様子見てあげるよ
ってことで結局4年間飼えたんだよね
アパートのマスコット兼番犬みたいな感じになってたw
その辺はぼろアパートのいい所だったね
今は実家の近くの会社に就職してまた実家で暮らしてるって書きたい所だけど
昨日18才で息を引き取りました
ペットレスは辛いねほんとにつらいさびしい
エリありがとうな東京まで来た時はほんとにうれしかったよ安らかに眠ってください
あまりに思い出深い犬だったから書き込みました
改行も文章もへたくそなのにここまで読んでもらってありがとう
信じれないかも知んないけど本当の話です
Posted by nakeru2ch at 23:46
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うだつの上がらない教師だった父
414: 10/26 15:19
父は中学の教師でした。
教師とはいえ定時には家に帰ってくるし、カメラや車の修理などの趣味のほうが熱心な、うだつの上がらない風の教師でした。
定年退職した後「もう働きたくない」と、昼ぐらいに起きてきて趣味三昧!
そのころは毎日、車の塗装に精を出し、近所中にシンナーのにおいを充満させてました。
そこに目をつけた近所のシンナー中毒の不良ども。
ある日「車の修理したいからシンナー分けて下さい」ってやってきました。
あんなのシンナー欲しいからに決まってる〜。とっとと追い返せばいいのに!!
と、やさしく対応する父をばかじゃないの?と思いつつ影から見てました。
「そうか、そうか!」と、昔の生徒が来たのでうれしそうに丁寧に対応する父。
不良たちを応接間に案内して、とても優しく修理や塗装の仕方を馬鹿丁寧に語ってました。
人の良い父をうまくだましてシンナーをもらいたい一心で、不良たちは延々とその話を聞くふりをしてました。
その話が半端じゃなく長かった!!
さすが元教師。延々とものすごく丁寧にいつまでも語ってました。
そして、最後に
「方法はわかっただろう。シンナーは使わなくてもできるからね。」と一言。
「は、はい・・・ありがとうございました・・・」と、不良たちは帰っていきました。
後から聞くと、はじめから不良たちの意図はわかっていたけど、そのまま返すのもなんだし、暇だったのでわざと難しく長々と教えたらしいです。
あまり尊敬してなかったけど、なかなかやるじゃん!と思った出来事でした。
父は中学の教師でした。
教師とはいえ定時には家に帰ってくるし、カメラや車の修理などの趣味のほうが熱心な、うだつの上がらない風の教師でした。
定年退職した後「もう働きたくない」と、昼ぐらいに起きてきて趣味三昧!
そのころは毎日、車の塗装に精を出し、近所中にシンナーのにおいを充満させてました。
そこに目をつけた近所のシンナー中毒の不良ども。
ある日「車の修理したいからシンナー分けて下さい」ってやってきました。
あんなのシンナー欲しいからに決まってる〜。とっとと追い返せばいいのに!!
と、やさしく対応する父をばかじゃないの?と思いつつ影から見てました。
「そうか、そうか!」と、昔の生徒が来たのでうれしそうに丁寧に対応する父。
不良たちを応接間に案内して、とても優しく修理や塗装の仕方を馬鹿丁寧に語ってました。
人の良い父をうまくだましてシンナーをもらいたい一心で、不良たちは延々とその話を聞くふりをしてました。
その話が半端じゃなく長かった!!
さすが元教師。延々とものすごく丁寧にいつまでも語ってました。
そして、最後に
「方法はわかっただろう。シンナーは使わなくてもできるからね。」と一言。
「は、はい・・・ありがとうございました・・・」と、不良たちは帰っていきました。
後から聞くと、はじめから不良たちの意図はわかっていたけど、そのまま返すのもなんだし、暇だったのでわざと難しく長々と教えたらしいです。
あまり尊敬してなかったけど、なかなかやるじゃん!と思った出来事でした。
Posted by nakeru2ch at 23:30
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2006年10月07日
姉の手作りお弁当
まっとうな姉萌え、妹萌えのガイドライン7
759: 10/01 00:11
お母さんが作るお弁当とはちょっと違いますが・・
現在中一の娘が、妹の幼稚園のお弁当を作っていた時期がありました。
当時、小3。
下の娘は幼稚園の年中組でした。
別にわたしが強制した訳ではなく、自主的に。
毎朝6時に起きて、台所でゴソゴソと作っていました。
普通の小学生の料理なので、当然それなりの中身でしたが妹は毎日とても喜んで、残してきた事なんてありませんでした。
あまりに妹が、姉の作るお弁当をうれしがるので、結局、卒園までの2年間作り続けたのでした。
お弁当が最後の日、帰ってきたカラのお弁当箱には
「お姉ちゃん、今まで毎日お弁当を作ってくれてありがとう。
いつもみんながうらやましがってたよ。おいしかった。大好きだよ。」
という手紙が入っていました。
そのお手紙は今では、生徒手帳に大事にはさんであるのをみつけました。
幼稚園の卒園証書と一緒に、お姉ちゃんにも園長先生が
「2年間、お弁当作りがんばったで賞」という賞状をくださいました。
必ず入れてた卵焼きは、今ではきっちりきれいでおいしいです。
自分の娘だけど、心底尊敬した出来事でした。
わたしも、こんなお姉ちゃんが欲しいと思ったのでした。
長々とすみません・・ちょっと自慢してしまいました。
759: 10/01 00:11
お母さんが作るお弁当とはちょっと違いますが・・
現在中一の娘が、妹の幼稚園のお弁当を作っていた時期がありました。
当時、小3。
下の娘は幼稚園の年中組でした。
別にわたしが強制した訳ではなく、自主的に。
毎朝6時に起きて、台所でゴソゴソと作っていました。
普通の小学生の料理なので、当然それなりの中身でしたが妹は毎日とても喜んで、残してきた事なんてありませんでした。
あまりに妹が、姉の作るお弁当をうれしがるので、結局、卒園までの2年間作り続けたのでした。
お弁当が最後の日、帰ってきたカラのお弁当箱には
「お姉ちゃん、今まで毎日お弁当を作ってくれてありがとう。
いつもみんながうらやましがってたよ。おいしかった。大好きだよ。」
という手紙が入っていました。
そのお手紙は今では、生徒手帳に大事にはさんであるのをみつけました。
幼稚園の卒園証書と一緒に、お姉ちゃんにも園長先生が
「2年間、お弁当作りがんばったで賞」という賞状をくださいました。
必ず入れてた卵焼きは、今ではきっちりきれいでおいしいです。
自分の娘だけど、心底尊敬した出来事でした。
わたしも、こんなお姉ちゃんが欲しいと思ったのでした。
長々とすみません・・ちょっと自慢してしまいました。
Posted by nakeru2ch at 11:43
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11年前の8月1日
819: 10/02 03:19
11年前の8月1日の俺へ
こんにちは。11年後の君です。
儲け話いっぱい知ってるし、彼女になる女の子も知ってます。
でも君には教えてあげません。その代わりもっと大事な事教えてあげます。
明日、君の弟が死にます。高3なのにくも膜下出血なんてジジィみたいな死にかたで
風呂の中に浮いてます。まあ今の時点で避けられないだろうから、せめて君が最初に見つけなさい。母さんを第一発見者にするな。
あとせめて弟に言ってあげなさい、「俺も イケメソでモテモテのお前が自慢だ!」と。
君の弟は「俺はバカだけど俺の兄貴は大学生でこの後大学院に行くんだぜ!」
と無邪気に自慢していたことを、葬式に来た弟の友だちに知らされます。
君は内心弟を恥じていますね?バカな弟と。でもバカは君の方です。
避けられない別れなら、せめて弟に言ってあげなさい。
「お前は俺にとって自慢の弟だ!」と。
11年前の8月1日の俺へ
こんにちは。11年後の君です。
儲け話いっぱい知ってるし、彼女になる女の子も知ってます。
でも君には教えてあげません。その代わりもっと大事な事教えてあげます。
明日、君の弟が死にます。高3なのにくも膜下出血なんてジジィみたいな死にかたで
風呂の中に浮いてます。まあ今の時点で避けられないだろうから、せめて君が最初に見つけなさい。母さんを第一発見者にするな。
あとせめて弟に言ってあげなさい、「俺も イケメソでモテモテのお前が自慢だ!」と。
君の弟は「俺はバカだけど俺の兄貴は大学生でこの後大学院に行くんだぜ!」
と無邪気に自慢していたことを、葬式に来た弟の友だちに知らされます。
君は内心弟を恥じていますね?バカな弟と。でもバカは君の方です。
避けられない別れなら、せめて弟に言ってあげなさい。
「お前は俺にとって自慢の弟だ!」と。
Posted by nakeru2ch at 11:39
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