なきにしもあらず

ある事ない事、あり得ない事まで不定期更新の日記を綴ります。 ボンクラ親父の備忘録です。

温故知新(おんこちしん)=故(ふるき)を温(たずね)て新(あたらしき)を知(しる)
昔のことを知り、そこから新しい知識や道理を得ること。 そうかな?
古きを温めて新らしきを知る。 とも言うんだよね。
だけど、小生が学生時代に先生から習ったのは、
古きを捨てて新らしきを知る。 だったよ。
どうでもいいけど、過去を捨てきれず未来も作れないニート親父がこのブログで過去に未来に、地獄に天国に、地球に宇宙に、仏界にも神界にも、ふらふらと想いを巡らせて参ります。 
 ...閉じ篭りながら...

京都の旅 13. 『耳塚・鼻塚』★これも解いちゃる。

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『耳塚・鼻塚』


『三十三間堂』を出てから、“大槻さん”は食事に誘ってくれた。

その途中、そう離れてないところで、『耳塚(鼻塚)』の看板が
目に入った。(耳、鼻、目、って洒落たわけやないで。)

オイラ、初めて“大槻さん”にお願いした。
「すみません、ちょっと止まっていただいていいですか?」

なんでやろ? すごく氣になったんや。

オイラの「脳内鬼菌」が騒いだ理由が、前記事『三十三間堂』を
を書いて後、つい先日はっきり判ったんや。

謎を解くってことだけやない、
韓国の日本に対する恨みを、少しでも和らげろと言うことなんやて。



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写真はこの3枚しか撮れんやった。

これは、前記事
『京都の旅 12.『蓮華王院 三十三間堂』 なんとここは!?』
に目を通してから読んでほしい。



耳塚・鼻塚
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さて、
小さな塚なんやけど、なんで氣になったんやろか?

ここ数日、かなり調べてみた。

Wiki(ウィキペディア)に投降された方の元サイトも読ませていただいた。

『耳』を切り取る際に、人に
『耳』は二つあるけん『左耳』だけ切り取るとか、
『鼻』を削いだ方がいいとか、いやそれじゃ男か女かわからんけん
髭が付いたままの上唇ごと
『鼻』を削ぐとか、それを塩漬けして樽に入れて
韓国から運んだとか、切り取る奴らのことや検分する奴らのことも想像して
吐き気を催してしょうがなかった。 切り取られた人たちも可哀そうやけど、
『耳』『鼻』を切り取った後、人を食べたという話まであった。『耳』数を揃える
ために、民間人まで殺されたんやろうか...

韓国ドラマ『火の女神ジョンイ』に「豊臣秀吉」が登場してたけど、
『耳』『鼻』
を削いだ話は無かったなあ。

韓国じゃ、暫く『鼻』や『耳』が無い人たちが居たって話もあったようやけど。。。


まあ、ウィキでも見てちょうだい。



『耳塚』(ウィキペディア)

耳塚(みみづか)もしくは鼻塚(はなづか)とは戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚である。文禄・慶長の役における朝鮮および明兵の戦死者の鼻を弔ったものが有名。これ以外にも日本全国に耳塚と呼ばれるものは多数存在するが、実際に耳や鼻が葬られているものは確認されていない。


京都市の耳塚
京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。
 
古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。昭和44年(1969年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。
 
この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われたようである。
 
周囲の石柵は大正4年5月に正面は、歌舞伎役者 片岡仁左衛門他、左側は、浪曲師 桃中軒雲右衛門他、 俳優 川上音次郎他、右側は、義太夫 豊竹古靭太夫他、をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物で、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」小畑岩次郎。なお塚前の焼香台・石段も彼の発起によって築造されたものである。また、正面側に、中村歌右衛門、左側に、桃中軒雲右衛門、吉田奈良丸、京山小円他の大石柵があったが今は残っていない。
 
当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。
 
耳塚修営供養碑
明治31(1898)年に耳塚とその周囲が整備された際に、耳塚に隣接して耳塚修営供養碑が建てられた。


福岡市香椎の耳塚
福岡市東区香椎(香椎宮脇)にも耳塚(馘塚)と呼ばれる塚が存在する。伝承では神功皇后による三韓征伐の際に作られた塚とされ、その伝承は江戸時代の多くの書に記録されている。巷間の元寇や豊臣秀吉の朝鮮征伐関連の塚という説は現代になって出てきたもので根拠はまったくない。


その他の耳塚
・耳塚 (安曇野市) - 長野県安曇野市(旧・耳塚村→旧・穂高町)にあり八面大王の耳が埋められていると伝えられる。
・耳塚古墳 - 長野県松本市寿にあり耳塚古墳として親しまれている。
・対馬の耳塚 - 対馬にも現在3カ所「耳塚」と呼ばれているものがあるが、地元の研究者によれば昔は「新羅人の墓」と呼ばれていたものがいつのまにか「耳塚」と呼ばれるようになったとのことで、文献上豊臣秀吉の朝鮮征伐と関連付けることは出来ない。
・日本人の姓や屋号として、稀に見られる。<以上、ウィキより引用。


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こんなサイトもあった。

朝鮮出兵時の「耳鼻削ぎ」は常軌を逸していた
手段と目的が倒錯して起こる"狂気"
 http://toyokeizai.net/articles/-/74916

“耳鼻削ぎ”とは穏やかではない。というか、野蛮。現代人はそう感じるだろう。日本の歴史上で耳や鼻を削ぐといえば、戦国時代の話かな。敵の首をいくつとったか戦功を証明するのに、首だと持って帰るには重いから耳。いや耳だと左右二つ削いで数をごまかせるので鼻になったんだっけ。いやはや、戦国時代は血腥い…。

日本各地の耳塚、鼻塚を調査

著者は日本各地の“耳塚”“鼻塚”を訪ね歩き調査する。無惨に討たれた武士たちの耳や鼻が何百と葬られたというのなら、さぞや怨念が染み付いているだろう、怨霊話もあるだろう。耳や鼻を削ぐという行為の意味もみえてくるだろう、と思いきや。なぜかどこへいっても「耳の神様が耳の聞こえをよくしてくださるところ」という話ばかりだったのだという。

私は日本中の耳塚・鼻塚を訪ねてまわり〜(中略)けっきょくのところ、どこの耳塚・鼻塚からも不気味な怨霊譚が聞かれることはなかった。それどころか〜(中略)土地の人から愛され、ご利益を信じられている耳塚はほかにも確認することができた。おどろおどろしげな耳鼻削ぎの伝承とは対照的な、霊験あらたかな耳塚への地域の人たちの思い。このギャップは、いったいどう考えればよいのだろうか?

じつは民俗学の二大巨頭、柳田国男と南方熊楠は、この件について正反対の意見を持ち、その論争ゆえに絶縁状態になったほどだという。日本社会に耳鼻削ぎなどという「いたって惨酷なる風習」があったことを認めるか否か。
          <抜粋ここまで。



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大体ねえ、、、

・そんなに何万人もの『耳』や『鼻』を切り取ったんか?
 まあ、【取】って漢字が『耳』を手に取ることらしいけど。

・で、塩漬けにした『耳』を検分した後、捨てずに葬る?

・しかも「方広寺」や「豊国神社」の真ん前に?

・んで、参拝者は『耳』が聞こえる様になったってご利益が?





日本
も昔は首切りなんかやってたし、外国じゃ耳削ぎ鼻削ぎも
やっとったようやけん、秀吉の話は事実かも知れんね。

ばってん、
福岡県香椎の『耳塚』の話、「神功皇后」が実在した人物かどうかは
疑わしいけど、少なくとも「秀吉」の時代より遥か昔のことやけん、
京都の『耳塚』は二番煎じやろうね。

だけんね、
この『耳塚』は、秀吉が韓国や日本国民に対して力を誇示するために
造った可能性もあるけど、まさか「豊国神社」の前に埋葬やらせんやろ。

この『耳塚』は、明らかに『パワースポット』や。 神社と同じ。

細かく言えば、神社の神籬(ひもろぎ)や、「狛犬」さんや。

大きく言えば、ピラミッドの前の、『スフィンクス』や。


スフィンクス7

そやけんね、

絶対に、『耳塚』には、
切り取った『耳』は埋葬されとらん。



おそらく、こんなことはどこにも書いとらんやろう。

だけん鵜吞みにせんでほしいんやけど、氣に留めてほしい。

オイラ、確証は無いけど確信はある。


説明しようかね。


『耳』

まず、前記事『三十三間堂』を読んでほしいけど、

この『三十三間堂』からほんの少し北へ行っただけの『耳塚』や。

なんか氣が付かん?

そう、『三十三間堂』の『三十三』と同じ、

『耳』は、『33・三三』で『カバラー』やで。



因みに『鼻』は、『87・八七』や。 これも『カバラー』や。



そもそも、架空の人物であれ、「神功皇后」は「カバラー」の人。
皇子の「応神天皇」も、パートナーの「武内宿祢」もやね。

三韓征伐に行ったかどうかも確かじゃないけど、彼らもあちらから
来た人たちやろ。歴代の天皇も百済だの新羅ゆかりの人たちや。

それが切った『耳』を日本で埋葬する? 残酷極まりない。


福岡の『耳塚』は、「香椎宮」の所属のようやけど、
「香椎(かしい)」は、「春日(はるひ)」が元で、「春日(かすが)」から
「春日(かすひ)」⇒「かしい」と変化。 「糟日」とも「樫日」書くが、

大元は、「ハル(春)」=「バアル神」のこと。 『カバラー』やで。

福岡の
『耳塚』の下には、3つに折れた刀が埋まっとるそうやけど、
これも「縦三本(III)」の『カバラー』を意味しとるんやろう。


京都の
『耳塚』に戻るけど、『耳』=『三三』は、『カバラー』。

「縦三本に横三本」、『生命の樹』や。

申



『鼻』


『鼻塚』で説明しようか?

『鼻』=『八七』。 これも漢字の形での話やけど、

【七】の漢字は【十】の変形文字や。


『漢字 OK辞典』 さんから引用

指事文字です。 縦・横に切りつけたさまから、「切る」の意味を
示しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、
「ななつ」を意味する「七」という漢字が成り立ちました。

【七】漢字成り立ち2


だけんね、「鼻」を漢字に直すと【八七】やけど、
形は、『八十』にして、こうなる。


八十図

八十の7


  (八十のことも五重のことも書いとるよ)

ひもろぎ


それからね、

『鼻』は漢字にしなくてもいいよ。


『鼻』がいかに大事か。 
「素戔嗚尊」がなんで「イザナギ」の『鼻』から産まれたのか
ずっと考えとったけど、この意味が分かった。

携帯おちんちん

この「携帯曼荼羅」である『合掌の手』よりも、もっと小さい
誰でも持ち運びできる『携帯曼荼羅』が「人の『鼻』」やった。

『曼荼羅』は、普通言う『曼荼羅』と同じ、
「三×三」の『カバラー』であり、『生命の樹』、『心御柱』や。

宇宙の構造・システムでもあろうが小宇宙である人体内部の
エネルギー器官(スシュムナー・イダー・ピンガラ)の、象形、
【忄】(りっしんべん)、『心』や。

鼻3


これも入れておこう。

漢字辞典―OK辞典さんから【鼻】の漢字成り立ち

【鼻】 漢字成り立ち
【鼻】漢字成り立ち図


「縦三本」(鼻)や、「縦三本に横三本」(耳)は、これや。


申


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塚の上のこれ、『五重の塔』みたいやけど、
『五輪塔』って言うんや。


『五輪塔』(ウィキペディア)

五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種。五輪卒塔婆、五解脱輪塔とも呼ばれる。
一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。
教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。
石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。


構造
五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形または団形=空輪(くうりん)によって構成され、古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた五大を象徴する。これらは「大日経」などの経典に現れる密教の思想の影響が強い。それぞれの部位に下から「地(ア a)、水(ヴァ va)、火(ラ ra)、風(カ ha)、空(キャ kha)」の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。四方に種子を刻む場合は四転、例えば地輪に刻むアなら→アー→アン→アクという具合に刻む方角によって変化する。種子は密教の真言(密教的な呪文のようなもの)でもあるので下から読む。
宗派によって、天台宗・日蓮宗では上から「妙・法・蓮・華・経」の五字が、浄土宗では上から「南・無・阿弥・陀・仏」の文字が、禅宗では下から「地・水・火・風・空」の漢字五文字が刻まれる場合もあるが、宗派をとわず種子を彫ることも多い。日蓮正宗では必ず上から「妙・法・蓮・華・経」の五字を刻む。また、種子や文字のない五輪塔も多く存在する。
木製の板塔婆(板卒塔婆)も五輪塔の形態を持つ。これには表に下から「地(ア a)、水(ヴァ va)、火(ラ ra)、風(カ ha)、空(キャ kha)」の梵字による種子を、裏には仏教の智慧をあらわす金剛界の大日如来の種子鑁(バン van)を梵字で書くことが多い。木製には他に角柱の卒塔婆もあり、真言や念仏がかかれることが多い。
          <抜粋終了。


IMG_3119

『五輪塔』も『カバラー・生命の樹』やね。


この『五』は、「均衡の柱」の『五』。

カバラ三柱

「妙法蓮華経」も『カバラー』(バアル)。


大曼荼羅6

「阿弥陀如来」も『アメン・ラー』、『カバラー』(バアル)。

阿弥陀三尊像

その真ん中の柱なんよ。もちろん『生命の樹』やけど、

『バアル』でもあり、『心御柱』や。

人体内の霊的器官で言うたら、真ん中は、脊髄の中にある、
『スシュムナー管』や。
両端は、『イダー管』と『ピンガラ管』。

3つ合わせて、
【忄】(りっしんべん)、『心』や。

おまけや。
【心】漢字成り立ち


こんな感じや。

耳塚りっしんべん

お墓と同じ、両端の花立てと合わせて『三本』や。

「神籬(ひもろぎ)」もそうやね。

ひもろぎ



だけん、ピラミッドから見た「スフィンクス」て言うた。

スフィンクスのお尻の心



スフィンクス7

潜在意識が理解する『曼荼羅』なんよ。

手を合わせ、その向こうの『鼻』を見る。
鏡の中の自分の『鼻』でもいいやん。

「心」という文字の『曼荼羅』や。

きっとご利益あるでえ。 


合掌


さて、『耳塚』の前の、「方広寺」

本尊は「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」=『バアル神』。

「阿弥陀三尊」=『バアル神』。

「大黒天」=「大国主命」=「シヴァ神(リンガ)」=『バアル神』。

重要文化財の「梵鐘(国家安康の鐘)」=「ベル」=『バアル』。

(銅鐸や鈴やお鈴も『Bell・ベル』で『Bar・バアル』のことや。)

そもそも「方広」(ほうこう)と言う名は、「豊公」(ほうこう)を捩ったようやけど、
同じやん。 「方舟」の「方」が「はこ」なら、「豊」は「壷」。・・・「チャクラ」や。

それで大仏さんを造ったり、巨大な「梵鐘」を造ったり。


『バアル』ずくめなんやけど、「寺紋」を見てみようか?



 本山である方広寺の寺紋は、本山のウェブのトップページに、本山の名称とともに載っている、「五七の桐に十六八重菊」です。桐も菊も皇室に縁のある家紋です。当山の開山様である無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、後醍醐天皇の皇子として誕生されています。この由緒がこの寺紋を用いていると思われます。
 
方広寺寺紋

「十六八重菊」の紋は、「チャクラ」と「クンダリーニ」(中心)。
(梵鐘も上から見るとこの紋と同じ、チャクラや。)

左の「五七の桐」紋は、誰でもわかる、『生命の樹』や。

五七桐五七桐カバラ

さあこの「方広寺」、元の敷地は『三十三間堂』まで含むんやて。


それから、お隣の『豊国神社』

【豊】の漢字は「壷・器」で「ベースチャクラ」。

【国】の【玉】は、「クンダリーニ」を意味する。

つまり、

【豊国】って漢字は、
「梵鐘」と同じ、『ベル(バアル)』なんよ。



糸玉亀

この一帯、全部合わせりゃ完璧。

『カバラー(バアル}』ずくめやね。

 そうそう、いつもの 「どん爺の曼荼羅」を...
小宇宙図クリックで拡大できるよ。
           (リンク先は、「どん爺の曼荼羅」だよ。)

ばってんなんやね、「秀吉」はいつどこで勉強したんやろうか、
『カバリスト』やで、この人。

もしかしたら「秀吉」のバックに「八のカラス」が居ったかもね。

異例のスピードで出世したり、巨額の富を得たり、
そんなミラクル💗人間は、『カバラー』のご利益が。。。



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最後にちょっと氣になったことを...

あのね、『耳塚・鼻塚』の看板を見て笑うたんよ。ヾ(=^▽^=)ノ

案内板この左上の、ロゴマーク。

文化財シンボルマーク1

文化財シンボルマーク3
この画像は『カメラを持って出かけよう~』さんのサイトから拝借。

このロゴ(マーク)は、「文化財保護」のシンボルマークや。

文化財シンボルマーク4


『東京文化財研究所』さんから引用。

文化財保護委員会では30日、かねて公募していた文化財愛護運動のシンボルマークを決めた。図柄は、手首をつけてひろげた両手のひらを三つ重ね、文化財を過去・現在・未来にわたって伝承する愛護精神を象徴したもので、応募2,232点から選ばれた大阪市西成区山王町2ノ8、乃村工芸社勤務の阪井敬子(24才)の作品。同委員会はバッジや旗などの標識に使うほか、観光地や公共の場所にある紙くずかご、吸いがら入れなどにも取入れ、愛護精神の普及に努めることにしている。


それからこちら。
斗栱


『やまがっこう』さんのブログから引用。
「文化財愛護シンボルマークのこと」

日本建築の重要な要素である斗栱(ときょう)のイメージなのです。
斗栱とは、上のお写真にもあるように、「斗(ます)」と「肘木」との組み合わせたもので軒の荷重を支えます。
斗栱のお写真とシンボルマーク、似ていますよね。 <ここまで。


図柄は、手首をつけてひろげた両手のひらを三つ重ね、文化財を過去・現在・未来にわたって伝承する愛護精神を象徴したもの」だそうやけど、この「斗栱」も同じ意味で造ったかもしれんし、“阪井さん”は「斗栱」からイメージしたのかも知れん。

ばってんオイラにゃ、『カバラー』に見えるんよね。(^◇^)

五七桐カバラ

もしかしたら、
“阪井”さんの勤務先の『山王』と言う文字が意識にあったかも。

かも知れんよ。
“阪井”って名前も、「大阪」の意味も、「シャクティ」なんやろうけん。

そうや、
「三十三間堂」「豊国神社」「方広寺」『耳塚』が在る地名の「東山」。  
「東」も「山」も『縦三本』や。 「八坂神社」も「八とシャクティ」や。

大体、神社仏閣は所在地と同じような意味を持つ名前やで。

『耳塚』の所在地は、「山」の字が付くところが多かろ?

君の名は?

人の名前も、両親が付けただけやない。
『カバラ』の筋書き(システム)にそって、神さんが手伝っとるんや。

とおもう。のだ。


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『耳塚・鼻塚』

耳(みみ)=「33・三三」
鼻(はな)=「87・八七」


オイラの話、鵜呑みにしないでって言ったけど、

信じてみてんね。

秀吉はパワースポットを作ったんや。

『耳』や『鼻』は埋まっとらんでぇ。


韓国は、怒りを鎮めちゃらんね。



と、韓流ドラマが大好きな “どん爺”が言うとりますと。



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京都の旅 12.『蓮華王院 三十三間堂』 なんとここは!?

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『三十三間堂』


蓮華王院 三十三間堂
本坊 妙法院門跡
妙法院『神仏霊場(京都)39番』
住所 : 〒605-0941 京都市東山区三十三間堂廻り町657
開門時間 : 8時~17時(11月16日~3月は9時~16時)
      受付終了は各30分前(年中無休)




「『三十三間堂』に行くよ。」って、大棚さんが連れて行ってくれた。

「ここはね、お堂の長さが三十三間(さんじゅうさんげん)あるから
『三十三間堂』と言うんよ。」と説明された。

オイラは、『三十三』と聞いた時点で、「あっ、カバラや...」って、
思ったけど口にゃせんかった。

大槻さんに話しても理解できんやろうし、
説明するのもおこがましかろうしね。

だけん、オイラの能書きは休み休み... 最後にするね。ヾ(=^▽^=)ノ


京都旅‐190


京都旅‐191


『三十三間堂』の正式名称は、『蓮華王院』で、

ここの入り口は、『普門閣』て言うんや。



『普門』ってね、
衆生のために「普門(あまねく開かれた門)」と言う意味。

『法華経』に、『観世音菩薩普門品第二十五』って観音経があるけど、
特に重要なのがこの『普門品』。観音功徳への誘い(いざない)やね。


おっと、能書き(脳餓鬼)は最後に垂れようか。(*^▽^*)


京都旅‐192

『普門閣』をくぐると、『三十三間堂』の入り口(奥)になるんやけど、
ここからは靴を脱いで上がらんといかんのや。

んで、残念なことに、お堂の中は撮影禁止や。

なんでやねん! フラッシュを焚いたらいかんっちゅうことやろ?

👇これ、買うけん写真を撮ってもよかろ? フラッシュは使わんちゃ。

京都旅‐193


お坊さん、ニコニコ顔で印をくれた。

御朱印帳 三十三間堂


御朱印帳 三十三間堂2

「御朱印帳」を買うのは大山祇神社以来かな?
「納経帖」って書いてあるけど、同じものだよ。

★御朱印集め!神社とお寺での違いやマナーは?



『三十三間堂』
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・リンク:『蓮華王院 三十三間堂』
      
http://sanjusangendo.jp/


・リンク:『蓮華王院 三十三間堂』(ウィキペディア)
      
https://ja.wikipedia.org/wiki/三十三間堂



以下、ウィキペディアから転載>

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都府京都市東山区にある寺院の仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で、蓮華王院は千手観音の別称・蓮華王に由来する。
 


沿革
この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
 
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。
 
桃山時代には、豊臣秀吉の東山大仏(方広寺)造営により、三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の土塀や門などが整備された(『伽藍』の項参照)。
 
「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」(#構造)に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。
 

千手観音立像の安置状況
千手観音立像の安置状況


江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである(右上浮世絵画像参照)。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったのである。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる。弓道をたしなむ新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものである。
 
三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。
 
なお、これより前、後白河上皇の父・鳥羽上皇は平清盛の父の平忠盛の寄進により、鴨東白河に聖観音をまつる得長寿院千体堂(三十三間堂、文治地震で倒壊したとされる)を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進により寺院を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。



「三十三間」の由来と構造
三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋・身舎)で、建物外部から見る柱間は35ある。正面に7間の向拝を付けるが、これは慶安2?4年頃の増築である。

ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。
三十三間堂の柱間寸法は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する」として堂の全長は33×2×1.818で約120m、と説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである(ただし実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する)


三十三間堂
本堂(国宝、北東より)


伽藍

本堂

国宝。現在の堂は文永3年(1266年)に完成したもので、洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである。入母屋造、本瓦葺き、桁行35間、梁間5間とする。実長は桁行が118.2メートル、梁間が16.4メートルである。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)、組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いる。柱間装置は正面はすべて板扉、側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓、背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓とする。正面中央に7間の向拝を設ける。現状の向拝は慶安3年(1650年)のものであるが、後白河上皇による創建当初から現状のような形式の向拝が取り付いていたとみられる。
 
内部は板敷で、桁行33間、梁間3間の身舎(もや)の四方に1間幅の庇を設けた形になる。身舎が内陣すなわち仏像を安置する空間にあたる。内陣は中央の桁行3間分を内々陣とし、本尊千手観音坐像を安置する。その左右、各桁行15間分は10段の階段状の長大な仏壇とし、千手観音立像1,000躯を安置する(千手観音立像は他に本尊の背後にもう1躯ある)。天井は内々陣部分が折上げ組入天井、左右の部分は二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょう かえるまた)に化粧屋根裏(天井板を張らず、垂木を見せる)とする。庇部分(背面を除く)は各側柱(建物外周に立つ柱)から身舎柱へ繋梁を上下二重に渡す。各身舎柱間を飛貫(ひぬき、頭貫の一段下に位置する水平貫通材)で繋ぐこと、繋梁のうち下段のものが身舎柱を貫いて突出し、その部分に大仏様(よう)の木鼻(装飾的な彫り)を設けることなどが特色である。これらの特色は鎌倉時代の新たな工法を示すものである。

現状では堂の内外に彩色はみられないが、1930年の修理時に、虹梁下面に貼付された装飾鏡の座をはずした下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色でおおわれていたことが判明した。

その他
築地塀(太閤塀)(重要文化財) - 桃山時代、本瓦葺。豊臣秀吉によって寄進された築地塀。現境内の南端を区切る。方広寺大仏殿が創建された時、蓮華王院も方広寺の境内に含まれたためその工事に伴って築造された。修理の際に「天正十六年‥‥大ふつ殿瓦」と刻んだ瓦が発見されている。軒丸瓦には豊臣家の桐紋が見られる。かつては西にも存在したが、現在は南の塀のみ残っている。塀は高さ5.3m、長さ92mに及ぶ桃山期の豪壮さを示す建造物である。
 
南大門(重要文化財)- 桃山時代、 切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門。境内東南側の敷地外に建つ。虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年に新築したものと推測されている。かつては西大門もあったが、明治期に東寺の南大門(現存・重文)として移築されている。



道内の諸仏
堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。その左右には長大な階段状の仏壇があり、1,000体の千手観音立像が各10段50列に並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にも1体あり、計1,001体である。内陣の左右両端には向かって左(南端)に風神像、右(北端)に雷神像を安置。千体仏の手前には二十八部衆像が横一列に並ぶ。ただし、二十八部衆像のうち四天王像4体は本尊の周囲に配置されている。昭和12年から20年計画で責任者の新納忠之介を中心に全1001体の修理が行われた]。昭和48年から美術院国宝修理所によって全1001体の修理が行われている。
 
木造千手観音坐像(附 木造天蓋)
国宝。寄木造、漆箔、玉眼。十一面四十二臂に表す通有の千手観音像である。像本体の高さは334.8センチ、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超える。台座心棒の墨書から、作者は大仏師法印湛慶、小仏師法眼康円および小仏師法眼康清であり、建長3年(1251年)に造り始め、同6年(1254年)に完成したことがわかる。湛慶の名の後に「生年八十二」とあり、湛慶がこの時82歳であったこと、生年が逆算して承安3年(1173年)であったことがわかる。この銘記は慶安4年(1651年)の修理時に書かれたものであるが、像内の腰のあたりにある仕切り板に朱書された造像当初の銘記(現状では剥落が多く全文は不明)を忠実に写したものと考えられている。本像は保存状態がよく、後世に補作されることの多い台座、光背、天蓋も、本像の場合は当初のものが残っている。光背は宝相華文透彫の上に、観音三十三応現身を表したものである。三十三応現身とは、法華経観世音菩薩普門品に説くもので、観音が衆生救済のために33種の姿に変じて現れる姿をいう。


本尊千手観音像(湛慶作)
本尊千手観音像(湛慶作)


木造千手観音立像(1,001躯)
重要文化財。寄木造または割矧ぎ造、漆箔。玉眼を用いた像は5躯のみ。像高は166 - 167cm前後。1,001躯のうち876躯は鎌倉復興期の作で、建長元年 (1249) の火災の際、救い出された平安期の像は124躯である(他に室町時代に追加された像が1躯(32号像)だけある)。平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は二百数十躯に作者銘があり、湛慶をはじめ慶派、院派、円派など、当時の主要な仏師たちが総出で造像にあたったことがわかる。重要文化財指定名称のト書きには「足?台座等ニ建長、弘長、文永等ノ年記並ニ湛慶、康円、隆円、院恵、院賀、院永、昌円、栄円、院豪、勢円、院祚、院海、院有、院玄、院遍等の銘記アリ」とある。各像の内部には像内納入品がある。主要な納入品は千手観音種子月輪牌(檜材製)、千手観音および二十八部衆摺仏、千手観音陀羅尼などで、摺仏や陀羅尼の紙片を多数折りたたみ、これに木牌を添えていた。他に阿弥陀如来の摺仏、願文、毛髪などの納入品も確認されている。昭和の修理時にこれら納入品の一部は取り出されたが、納入状況の確認のみを行って、取り出されなかったものも多く、全容は未詳である。

1,001躯のうちの5躯は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている。
兵庫県・朝光寺本尊である2躯の千手観音菩薩立像のうち1躯は三十三間堂の観音像と様式が一致し、当堂から移されたものと推定されている。

千手観音立像1001躯のうち20号像(湛慶作)
千手観音立像1001躯のうち20号像(湛慶作)

千手観音立像1001躯のうち40号像(湛慶作)
千手観音立像1001躯のうち40号像(湛慶作)


木造風神・雷神像
鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。寄木造、彩色、玉眼。像高は風神が111.5センチ、雷神が100.0センチ。風神は風袋を負い、右膝を突き、左膝を立てる。手指は4本、足指は2本である。雷神は連鼓を負い、両手にそれぞれ桴(ばち)を持ち、風神とは対称的に左膝を突き、右膝を立てる。手指は3本、足指は2本である。風神雷神の図像は中国由来のもので、敦煌莫高窟第249窟(西魏、6世紀前半)には阿修羅像と並んで風神雷神像がみえる。日本における風神雷神の彫像としては三十三間堂像が最古のものである。

雷神
風神雷神像のうち雷神

 
木造二十八部衆立像
寄木造、彩色、玉眼。像高は最大の大梵天が169.7センチ、最少の摩和羅女が153.6センチ。『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王、金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、金大王、満仙王のように由来のはっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされるが、三十三間堂の各像の名称は必ずしも経典と一致していない。また、図像的にみて、寺伝による像名が必ずしも本来の像名でない例もみられる。これらの像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった。やせ衰えた老人の肉体をリアルに描写しつつ、崇高さを失わない婆藪仙人(ばすせんにん)像は28体の中でもよく知られている。
                <ウィキから転載、ここまで。



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まず
は感想から。

神・神」像は、凄い迫力があった。
等身大(人の背丈)より小さ目かな。

ばってん、像の大きさで言うんやないけど、少ししゃばい感じもした。

すごい迫力でしゃばいっちゃ可笑しかばってん、
そうやね、なんとなく「烏天狗」の雰囲気やった。

「千手観音」も、よく作っとるなと思った。
ばってん、なんで同じ観音さんがこんなにたくさん?

少し怖い感じもした。

有り難いようでもあり、観音様のお墓のようでもあった。

木彫りの像に神は宿らない。

像の中にお経や、大切な書なんか入れとるようやけど、
人々が、像に願ったり拝んだりした、念が籠っとるんやろうね。

これがただの霊なら問題ないけど、これだけの念はオイラには
力不足やろうね。 できるだけ像に気が付かれんように進んだ。



さて、『三十三間堂』ねえ。。。


密教の曼荼羅では観音像は「蓮華部」に分類されている。千手観音を「蓮華王」とも称するのは観音の王であるとの意味で、蓮華王院(京都の三十三間堂の正式名称)の名はこれに由来する。   <「千手観音」(ウィキ)から。

『蓮華』と言えば、「ベース・チャクラ」を暗喩するけど、
『三十三』は、この蓮華の上に立つもんやね。

「生命の樹」を意味する数字やでえ。
本当に、「カバラー」やで。


大曼荼羅6


「カバラー図」はこれ。

生命の樹_Wiki

『三十三』が意味するのは、「三縦に三横」の「カバラー」。

熊野権現の所縁もあって、バアル神の「観音様」まで。

『三十三』に拘ってますなあ。


大体ねえ、「1001体」の千手観音様ってなんやねん?

「千手」に合わせて「千体」でもよかろうもん。

それが、観音様は「33」の相があるけん、「1001×33」で、
「三万三千三十三」やて。
 カッコええなあ。

計算機で出る答えは、
「1001×33」=「33033」や。

こりゃやっぱり、漢字で書かなあかんわ。

「0」が入るより、「百」の漢字が抜けとる方が気にならんね。(☆゚∀゚)

と言うことで、

『三十三間堂』は、『33間堂』やなくて『三十三間堂』、

漢字で書かないかんとよ。





【川】【水】【
】は、縦三本。

【三】は、横三本。

【田】【由】【甲】【申】【用】は、縦三本に横三本。

「観世音菩薩」の、観音さんの真ん中にある【世】の漢字も
縦三本に横三本の変形文字やね。

ばらして、【三川】なんてのもいいね。




申

666纏め

「縦三本」は、『心御柱』でもあり、『バアル神(カバラー)』や。


「666」のヘブライ文字も「縦三本」で『カバラー』や。
『獣』と言われるけど、『十』でもあるんや。

ばってんこれも、「縦三本」がヘブライ文字の「666」と言うことで、

「666」の、アラビア数字を使ったらダメ。


悪魔、あくまでも「縦三本」の、鉤付きの棒(Bar)や。

それから、
「通し矢」とか「楊枝の加持」(ヤナギのかじ)等のお祭りも、
真ん中の「棒」、『心御柱』を意味する。
まあ、人体内部の「スシュムナー管」やね。

「楊枝」で「ヤナギ」って読むんか? 「ヤナギ」は「楊」やけん、
「楊枝」は「ヤナギの枝」かな。

本当は、「楊枝」は「ようじ」なんやけどね。

まあ、「ようじ」にしても、「矢」と同じ、
真ん中の「棒」、『心御柱』を意味する。
人体内部の「スシュムナー管」やんね。
暗喩だよ、暗喩。 メタファーや。


楊柳

 北海道でよく目にするのはナガバヤナギ(長葉柳)、ケショウヤナギ(化粧柳)、シロヤナギ(白柳)、エゾヤナギ(蝦夷柳)などで、主にが湿地や河岸に自生しています。上へ上へと葉を伸ばす仲間が多いようです。

さて、中国ではヤナギの木を「柳」と「楊」と二つに分類していました。下へ下へと葉を伸ばす種類を「柳」、その反対を「楊」としたのです。
「柳」の字の旁(つくり)は「留」の上半分と同じです。そして「留」の上半分は、流れるものを留めておくことを意味します。ですから「柳」は枝が流れるように下に垂れている木ということになります。まさに枝垂れ柳です。 
一方「楊」の字の旁は「昜」です。「昜」はお日様が地平線から昇っていく姿を表しています。それで「昜」は、暖かい、上るなどを意味します。「楊」は枝が上へ上へと伸びる木ということになります。北海道に自生するケショウヤナギ、タチヤナギの類は「楊」で示されるヤナギです。
 
日本語のヤナギは中国語で「yang」と発音される楊からきているとされますが、現在の日本では専ら「柳」です。そんな中で楊枝(ようじ)には「楊」の字が使われます。元は「楊」だったのでしょう。
ヤナギ類は一年で1mと言われるほど成長が早く、挿し木でも増やせるため、北海道でも川づくりや河畔林の造成に利用されています。土の流出を防ぎ護岸に役立つからです。創成川などの人工水路は、流れの緩い下流の平野部に多いので、水面に映える姿が美しい「柳」が多用されます。自然河川では近くに自生している「楊」を使います。どちらも多くの昆虫、大量の落ち葉を河川に供給しますから、魚たちにとって重要な木になっています。        <引用ここまで。


ちなみに、「横三本」の代表的な紋がこれ。
折敷に三2

これも『カバラー』の紋やで。

今日はこの辺で。

お立ち寄り、どうもありがとう。<m(__)m>


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京都の旅 11. 『本願寺』

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『本願寺』 だよ~(^O^)/



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これはクリックで拡大できるよ。
ばってん拡大してもハッキリ文字が読めんけん、
最後にパンフレットをスキャンしたのを載せとくね。

本願寺案内板
 


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ごめん。(-"-) 龍に興味があるもんで...


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唐門かな?

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阿弥陀堂
 
 
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唐門や。

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こっちはクリックで拡大できるよ。
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こっちはクリックで拡大できるよ。

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『本願寺』
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『浄土真宗本願寺派』(公式ウェブサイト)


『本願寺』ウィキペディア)

以下、ウィキペディアから引用>

本願寺(ほんがんじ)は、寺院の名称である。
各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。浄土真宗における寺号の由来は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)であるとされる。


本願寺系各派の本願寺
 
西本願寺
京都市下京区堀川通り花屋町下る本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山。
正式名称は「本願寺」。
東本願寺
京都市下京区烏丸通り七条上る常葉町にある真宗大谷派の本山。
正式名称は「真宗本廟」。(1987年〈昭和62年〉までは「本願寺」が正式名称。)
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺
東京都台東区西浅草一丁目にある浄土真宗東本願寺派の本山。
元は真宗大谷派の別院「東京別院東京本願寺」。
1981年(昭和56年)6月15日、お東騒動の影響で大谷光紹により真宗大谷派から離脱・独立し「東京本願寺」となる。
1988年(昭和63年)2月29日、「東京本願寺」と大谷派からの離脱に賛同寺院により「浄土真宗東本願寺派」が結成され、「東京本願寺」が本山と定められる。
2001年(平成13年)に、本山の名称を「東京本願寺」から「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」へと変更することが文部科学省に認証される。
 
本願寺 (京都市山科区)
「お東騒動」によって真宗大谷派から離脱した財団法人本願寺維持財団理事長の大谷暢順とその長男・光輪らにより設立する。1999年(平成11年)に宗教法人として認証。京都市山科区上花山の東山浄苑を拠点として活動しているが、法人としての登記は京都市伏見区下鳥羽北三町89である。
正式名称は「本山本願寺」であるが、「浄土真宗大谷本願寺派」とも言う。

本願寺
(京都市右京区)
京都市右京区嵯峨鳥居本北代町にある寺院。お東騒動によって真宗大谷派から離脱し、大谷本願寺(本願寺寺務所)として活動してきた大谷光道が2005年(平成17年)に設立。2007年(平成19年)に宗教法人となる。

築地本願寺
東京都中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。
通称として「(地名)本願寺」が使用されている各派の「本願寺別院」については「浄土真宗本願寺派」、「真宗大谷派」の項目を参照。
 
東西分立前の本願寺

大谷本願寺
その他の本願寺と区別するため本項では、「大谷廟堂」が寺格化した「本願寺」を「大谷本願寺」と呼称する。
1321年(元亨元年)、本願寺第三世 覚如が「大谷影堂」を寺院化し「本願寺」と号する。(寺格は天台宗青蓮院の末寺)
1465年(寛正6年)、比叡山の僧兵によって破却される。

山科本願寺
1483年(文明15年)、本願寺八世 蓮如が山城国宇治郡山科(京都市山科区)に建立する。
1532年(天文元年)、六角氏などにより破却される。
※現在は、本願寺山科別院(本願寺派)、真宗大谷派山科別院長福寺(大谷派)が跡地付近に存在している。

石山本願寺(石山御坊)
1497年(明応6年)、摂津国石山(大阪市中央区)に建立する。本願寺十世 証如の時代、山科本願寺破却後に本山となる。1580年(天正8年)、焼失する。

鷺森本願寺(雑賀御坊)
1486年(文明18年)、蓮如が紀伊国で布教。
1581年(天正8年)、織田信長との和睦によって大坂の石山本願寺から退去した本願寺十一世 顕如が紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市鷺ノ森)滞在し、浄土真宗の本拠となる。
※現在は本願寺鷺森別院(本願寺派)となっている。

貝塚本願寺
1583年(天正11年)、顕如が和泉国貝塚(貝塚市)にあった末寺(後の願泉寺)に一時滞在し、浄土真宗の本拠となる。
※現在は願泉寺(本願寺派)となっている。

天満本願寺
1585年(天正12年)、豊臣秀吉との和睦によって顕如が鷺森本願寺から退去し、摂津国中島(大阪市北区天満)に転居する。
1591年(天正19年)、秀吉より堀川六条に寺地を寄進され天満から移転する。
※現在は、真宗大谷派天満別院(大谷派)が跡地付近に存在している。

浄土真宗以外の本願寺

金峯山 本願寺
福岡県福岡市西区野方一丁目にある浄土宗の寺院。天文の頃の開山と伝わる。

本廟本願寺
(浦安市)
千葉県浦安市北栄三丁目にある単立の寺院。

本廟本願寺
(たつの市)
兵庫県たつの市御津町岩見三山尻にある単立の寺院。

本願寺
広島県福山市鞆町にある時宗の寺院。蓮如の母親が尼住持をしていたといい、それを知った遊行上人の命で「本願寺」と称したという。

燾法山 光明院 本願寺
(徳島市)
徳島県徳島市南島田町にある新真言宗の寺院。

           <以上、ウィキペディアより引用。




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以下は、第一ホテルにあったパンフレットをスキャンしたもの。

結構綺麗にスキャンできたと思うけん、クリックしてみて。


本願寺パンフ2


本願寺パンフ1


本願寺パンフ4


本願寺パンフ3


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