街で話したカナダ人から勧められたリヴァーデイル・ファーム(Riverdale Farm)に行ってきました。観光案内書でもらったトロントの地図を見ると、その農場は大きな公園の一部になっていて、農場と公園を見てみたかったのです。バンクーバーでもいろいろな公園を見て回りましたが、トロントにも多くの公園や緑のスペースがあります。どこでも好きなスポーツが出来そうです。

506番の路面電車に乗って運転手に指示された駅で降り少し歩くと公園の入り口でした。高い樹木が夏の日を遮っています。家で作ってきたサンドイッチを少し影になったベンチを見つけて食べました。

カナダでは、イタリアやフランス産の生ハム、サラミソーセージ、ハムなどが豊富に売られています。輸入品ですから少し割高でしょうが、日本に比べると安いと思います。また、うれしいことにフランス産の美味しいチーズがスーパーで買えます。日本で買うよりも安いし種類が豊富です。バゲットは日本と同じくらいの値段ですが、ドイツや北欧の人が好む全麦のパンが美味しいのでそれを使いますが、これは少し割高です。

サンドイッチを食べながらビールでも飲みたいところですが、野外でのアルコール摂取は法で禁止されています。教会の前で横になっていたホームレスがワインの瓶を持っていましたが、彼らは法を恐れないのでしょう。アル中も多いのだそうです。

 大きいテーブルが置かれてあるあたりではピクニックに来ている家族が集まって食事をしています。目の前の浅いプールでは小さい幼児達が水遊びをしています。周囲には乳母車を持った母親や父親が子供を見守っています。月曜日なのに、父親の姿が見えるのはイクメンなのでしょうか。

食事の後、リヴァーデイル農場を散策しました。馬や牛、ヤギに羊、豚や鶏などが野外の囲いの中にいます。昔の農場主の住まいには誰も住んでいません。近くにかなり大きな建物があり集会場になっていて、どうやらサマーキャンプなどで利用されているようでした。

PIC_2297
農場主の館
PIC_2294

PIC_2300
ヤギ
PIC_2301


動物を世話する係員はトロント市の職員なのでしょう。動物を飼う小屋や道具を収納する納屋は実際に使われていますが、多くの人が遊びに来る公園にもなっていてトイレの設備もありましたし、広い農場には水飲みがありました。二つの池があり、ちょうど谷間になっている土地を利用した農場は坂もあり格好の散歩道になっています。ジョッギングをしている一団ともすれ違いました。

PIC_2293

石を組み上げた建物 門番小屋でしょうか

名古屋の農業センターに似ていますが、別に土産物も農産物も売っていません。商売っ気が無いのですが、かわりに落ち着いた休息の場所になっているのです。また、墓地にも隣接していました。

散策しながら動物の写真を撮ったりしてゆったりとした時間を過ごした帰り道に、上から見た子供用の野球場がすごく贅沢に見えました。やって来た時は試合をやっている子供達がいたのですが、帰る時には芝生のスロープに寝そべって日光浴をしている人がちらほらいるだけでした。


71日から現在816日までのカナダ滞在で、数人の日本人と立ち話をしました。

名古屋から北京経由でバンクーバーまで来たのですが、北京で20歳代の元気な青年に話しかけられました。ワーキングホリデイ(ワーホリと皆さん言います)制度を利用してバンクーバーで指圧の仕事をしながら1年間暮らすのだと楽しそうに話してくれました。残念ながら、飛行機の席も離れていたこともありその後、話をする機会が無かったのですが、彼も1人旅で少し心配だったのでしょう。

ワーホリを利用してカナダに来ている日本人にはよく会いました。ラーメンを食べに行った二つの店で日本人らしい店員に話しかけると、ワーホリで来ていると言っていました。またバンクーバーで、主に外国人を対象とした英会話の集まりに2度参加したのですが、ワーホリで来ている男性に会いました。彼も指圧の仕事を1年間したあと、現在は観光ビザで滞在ているとのことでした。彼と英語で対話したのですが。彼の英語はまだまだという感じでした。

これもバンクーバーでのことですが、大阪から2か月の語学留学に来ている二人の女子大生に会いました。また、会いましょうと言ったのですが、会えませんでした。バンクーバーはやはり大きな都市ですから、偶然に何度も会うことは無いようです。2週間ほど語学学校に通った家内によると、数人の日本人に会ったそうです。女性で英語留学のようです。英語学校の費用や下宿代も馬鹿にならないので、それなりに覚悟を決めてやって来ているのでしょう。学校には韓国人の学生が多かったそうで、裕福そうな人が多かったと言っています。町でアジア系の女を見かけると言葉から、韓国人であることが分かります。中国人も多いですが、韓国人の海外進出熱は高いようです。

宿に比較的近いスーパーで買い物をしていた時に、行動やしぐさから日本人かなと思った人と話しました。彼女は、ワーホリの後、こちらに移民して働きながら英語を勉強していると言います。家内が長いこと話しているので、勤務中で叱られないかなと心配したのですが、それほど日本語を話したかったのでしょう。

トルジャ(TORJA)という立派な日本語のフリー月刊誌に紹介されていた日系文化会館(Japanese-Canadian Culture Center,通称JCCC)を訪れて、カナダにおける日系移民の歴史を少し勉強しました。バンクーバーで退職した老人と話した時に、日本人の強制収容所送りが話題になり、興味を持っていたからです。

PIC_2306
日系文化会館

このブログの前のほうでニューカレドニアの日系移民の強制収容所送りを取り上げましたが、カナダはアメリカの同盟国で隣国です。日本が真珠湾奇襲攻撃の成功に湧いているとき、カナダでは日系移民の苦難が始まったのでした。

展示によると、最初の移民は1877年とありましたが、調査の方法でいろいろな説が出てくるのでしょうが、確かなことは、明治維新の後、19世紀後半にかなりの日本人が貧しい日本からカナダ、特に西海岸のバンクーバー付近に出稼ぎに行ったことです。主に漁業や農業に従事していたのです、カナダは鉱物資源の多いところですから、鉱山で働いていた人もいました。そこでカナダに定住する人が出てきて、彼らが1世になります。

その頃の移民は教育レベルの低い人たちで、英語など知らなかったので自然と日本人同士で固まって生活するようになります。それでバンクーバーには日本人街があったそうです。そこで日本の食品や雑貨を手に入れたり、情報を交換したりして相互援助をして暮らしていました。アジア人に対する差別の強い時期で日本人街の商店が襲われて窓ガラスが割られた写真も展示されていました。

そのような厳しい中でも、カナダの生活に順応して生活し日本から写真花嫁を貰って家庭を作り、日系2世の子供も生まれます。彼らは家庭では日本語、学校では英語ですから、バイリンガルに育ち、カナダ人としての自覚も強いものがありました。中には大学教育を受けて優秀な成績を収めて将来を嘱望されていた人もいました。

PIC_2309

写真花嫁
PIC_2311

博士号まで習得した2世の女性

そこに戦争が起こったのです。人権を無視した日本人移民や日系人(カナダ生まれですからカナダの国籍を持っていたのですが)の強制収容所への追放です。大急ぎの処置ですから、住居環境は悪く中には寒い冬に粗末なテント暮らしを余儀なくされた人もいました。教育を受けた2世達が人権無視で憲法違反であると収容に反対すると逮捕されて収監されたのでした。

PIC_2313

粗末なテントの収容所

カナダ国籍を放棄して日本への帰国を選んだ人も4,000人ほどいたのですが、大半の人が後悔したそうです。彼らに対する日本政府の対応はだいたい想像が付きます。

カナダの強制収容所で強制労働に従事していた2世達の中には、自分たちはカナダ政府に忠実な国民であることを証明するために、軍隊に入隊する人達がいました。彼らはヨーロッパ戦線で勇敢に戦ったのでした。東南アジアでは日本語を話し日本文化に精通している2世は諜報活動員としての任務に就きました。

PIC_2314

カナダ軍に入隊

戦後、強制収容所が閉鎖されると、カナダ政府は彼らに二つの選択肢を示しました。カナダ国籍を放棄して日本に帰国するか、または太平洋岸から離れたロッキー山脈以東に移住することを条件にカナダに残るか、でした。ニューカレドニアの日本人や日系人はニューカレドニアの家族の元に帰ることを許されず、すべての人が日本に強制送還されたことを考えると、まだましかとも思いますが、それにしてもひどい対応です。
 カナダに残ることを選んだ日系人は今ではトロントに多く住んでいるそうです。戦後生まれの3世達は、日本語をほとんど話さず、カナダ社会にどうにか適応して行きました。3世達の大半は非日系人と結婚しているそうですから、4世は混血児が多いと言うことになります。しかし、3世や4世は、日系人に対する差別の歴史を学び、政府に対して謝罪と賠償金を請求する運動を始めます。この運動を支援してくれたのはユダヤ人の団体だったそうです。1988年、カナダ政府が日系人に対して正式に謝罪し、強制収容所の生存者に一人あたり、2万1千ドルの賠償金を支払うことでこの運動は終焉しました。

PIC_2315

アフリカ系のパートナーと同居する3世の女性
PIC_2316

日系人への謝罪と賠償請求運動

しかし、4世達は日本語を理解しない人が多いようです。移民社会であるカナダの典型的なカナダ人になりつつあるわけです。

1967年以降、日本から多くの移民がカナダに定着して、新移民、あるいは第5世代の移民と言われています。彼らの多くは教育程度の高い人たちで、「人間を幸福にしない日本というシステム」の中で息苦しさを感じていた人達でしょう。とは言っても、新1世ですから、英語よりも日本語の方が得意ですので、日本語のフリーペーパーなどが役に立つわけです。戦前の1世のように集団で生活する必要は、インターネット等の通信・情報手段の発達もあって、あまり感じないようです。しかし、自分の中の日本人性を確かめ、日本文化を維持して行こうという意欲があり、この第5世代の大量移民がカナダの日系社会に活力を与えているのだそうです。

このような日系移民の歴史を学んで、カナダに日本人街が存在しない理由が分かるような気がしました。強制収容所の記憶が群れることに対する警戒心を与えているのでしょう。トロントには、ハングル文字があふれるコリアン・タウンがありますが、日本人街はありません。

実は、トルジャに「J-Town」が紹介されていて、行ってみたのですが、地下鉄とバスを使って1時間以上もかかる郊外にあり、日系の小さなスーパーを中心に、少数の店がいくつかある陰気な商店街でした。

買物としたときに、「不便な所にありますね。何か特別な事情でもあるのですか」と中年の店員に尋ねたところ、「ありません」とつっけんどんな答えが返ってきました。カナダで初めて経験する白けた雰囲気でした。不便な所にあると私が言ったので、相手の癇に障ったのかもしれませんが、家内にも印象を聞いたところ、「日本と同じよう」と言いますから、私の独断でもないようです。

現金の手持ちが少なくなったので両替をしたいと思い、また家内がカナダのデニーズに行きたいの言うので、路面電車(こちらではStreet Carと言います)降りたところがコレッジ(College)というヤングストリート(Yonge)にある地下鉄の駅でした。そこからヤングストリートを南に下って行くと、多くの店が並んでいます。そこで両替をすまし、デニーズでカナダ的と言うハンバーグを食べました。

その後、ヤングストリートのダンダスストリート(Dundas Street)が交差する所にでいました。そこは様々な催し物ができるような広場になっています。我々が通りかかった時には、同じ服装の団体が太極拳をやっていたり、中国風の龍の獅子舞のようなものも見えました。中華文化の披露なのだろうと思ってあまり気に留めませんでした。トロントには50万人とも言われる中華系の人間が住んでいるそうです。

そのスクエアーには、通行人を引きとめて熱心に話をしている人たちを見かけますし、単に金をねだるのではなく、物を作って売ったり、地面に白墨でモナリザの絵をかいて募金を募ったりいる人もいます。たんに、金を要求したりしている乞食がいます。

ホームレスに関しては、通行人の多い道路に堂々と寝そべっている人がいるので驚きです。社会保障も行き届いていると思われるカナダでもドラッグやアルコール中毒などでドロップアウトする人間が多いのは、日本と変わりませんが、堂々と乞食をしている姿は私には異様に見えます。

トロントの街は、バンクーバーの街ほど都市開発が進んでいないとは言いながらも、古い界隈を高層ビルに変えていく傾向が見られます。ガラス張りの高層ビルが多くみられますが、その中でこの広場のようなものがあるとどこかホッとします。

家内が買い物をしている間に、その広場の椅子に腰かけて地図を見ていたら、横にいた青年がどこに行くのかと話しかけてきました。そして地図を見ながら、近くに教会があってきれいだから行ったらいいとか、農場があり一見の価値ありとか、地元の大リーグの一員のブルージェイズのドーム式の野球場は面白いとかいろいろ話を聞かせてくれました。彼は近くのビルの外壁を修理する石工だと最後に教えてくれました。

PIC_2286
教会通り(Church street)にある教会
PIC_2287
教会通り(Church street)にある教会2 前庭にはホームレスが寝そべっていました。
PIC_2288
教会通り(Church street)にある教会の尖塔が見えます。

一般にカナダ人は親切ですが、ざっくばらんに話しかけてくれるのもこの広場の雰囲気故なのかとも盛った次第です。そんな意味でここは少し人間臭い場所なのです。


↑このページのトップヘ