「マザー・テレサ」 沖守弘 1984年 講談社文庫

 ホスピスの研修を受けていて、読みたくなった本です。以下に、この本の要約と引用をさせて下さい。*印の部分は、生禿の意見です。


○ プア・イズ・ビューティフル

 人間として最も悲しむべき事は、自分はこの世に不要な人間なのだと思い込むことだ。そして、最大の悪は、そう言う人に対する愛が足りないことだ、とマザー・テレサは確信している。

*宗教は、生きる意味とか価値が有るとか無いとかいう浅薄な議論を特徴とします。それは致し方ないことで、庶民が浅薄だからです。生れたから生きている。それ以上でも以下でもない。生きている価値があるなら、死んだらその価値は無くなるの?生きている価値があるとすれば、・・・トランプ大統領や安倍総理のような非人にも生きている価値があるとでも言うの?という疑問が出てしまいます。それも可笑しいですよね。生きている価値なんてお笑いです。そんなものありはしない。生きているから生きている、それだけです。そこに意味や価値を見い出そうとする薄っぺらい人間の浅はかさには同情はしますが共感はできませんネ。なのですが、その人間の「哀れ」を丸ごと抱きかかえて愛そうとするマザー・テレサの志は、その行為において尊敬に値するものです。

 「貧しい人達はね、お金を恵まれたり、物を与えられるよりも、なによりもまず自分の気持を聞いて欲しいと望んでいるのよ。」声は出なくとも、手を握り合い、肌を触れ合うことによって、彼等の声は聞こえてくる。

 1937年、ベンガル区の聖マリア高等学校で地理の教師となる。

 修道女が修道院外に出ることは許されない。例外として修道院外で働く許可が出たのは、許可を求めてから2年後だった。パトナにあるアメリカ医療宣教修道会で医療看護の訓練を受け、子供や病人の面倒を見た。子供達に読み書きを教えるための青空教室も始めた。

 1950年、マザー・テレサの生活共同体は、ローマ法王から、修道会「神の愛の宣教者たち」として許可された。創立者シスター・テレサは、マザー・テレサと呼ばれるようになった。

 マザーは、金が無ければ托鉢に出掛ける。最初のキリスト者たちの多くは奴隷だった。キリスト教は、奴隷のための宗教だ。だから物乞いは当然の活動だと、マザーは信じている。

 「死を待つ人々の家」「孤児の家」に続いて、マザーたちは、ハンセン氏病患者の救済活動にのりだす。1968年に、ハンセン氏病患者が自給自足する「平和の村」を作り上げる。

 マザーは、医療や社会事業のための国庫補助金は受け取ったことがない。政府へ提出する収支報告書を作るのは、マザーにとっては、人手と時間の浪費なのだ。

 空港などにマザーが現れると、大スターを一目見ようとするファンのように、人が集まってくる。マザーは綿でも摘むように無造作に献金をボストンバックに詰め込んでいく。マザーは世界各国からお寄付金は喜んで受け取る。どう使ったかという明細報告書や領収書を要求されない限りは。欧米の習慣として、献金の受取を書いてくれという者はいない。

 成人の精神病棟やスラムスクール、脳性小児麻痺の子供たちの施設を作り、カルカッタ市内では給食活動も始まった。移動診療所は、インド全土へ医薬品や食糧を運び、定期診療や食糧配給をしている。マザー・テレサの活動拠点は、ニューヨーク・ロンドン・メルボルンなど世界82ヶ所に及んでいる。

○ マザーとその姉妹たち

 「プア・イズ・ビューティフル」とは「聞く耳」を持つことだ、とマザーは言う。

 1947年のインド・パキスタン分離と印パ戦争で、多くの難民が流入した。世界一の過密都市カルカッタの市街の一部はスラム化し、そこにすら入れない路上生活者は、路上で子供を産み育てている。

 インドの上流・中流家庭の生活は豊かである。大邸宅に住み、使用人を何人もかかえている。そんな恵まれた家庭のお嬢さんがマザーの修道会のシスターには多い。カルカッタのインド人ボランティアの大多数はヒンズー教徒である。

親切で慈しみ深くありなさい
あなたに出会った人は誰でも
前よりももっと気持ちよく、明るくなって帰るようにしなさい
親切があなたの表情に、まなざしに、微笑みに
温かく声をかける言葉にあらわれるように
子供にも貧しい人にも、苦しんでいる孤独の人すべてに
いつでも歓びに溢れた笑顔を向けなさい
世話するだけでなく、あなたの心を与えなさい
(マザー・テレサ)

 彼女たちが貧しい人を愛する理由の一つに、貧しい者は金持ちよりよく笑うからという。そして、マザーとその姉妹たちのいるところはどこでも、笑いがあふれている。

 スラムの子らは栄養不足なので、授業の後、ミルクとビスケットなどの給食を与える。ビスケットは割って与える。そうしないと、子供たちは持ち帰ってお金に換えてしまう。