「ケルト人」 ゲルハルト・ヘルム 1979年 河出書房

 副題は「古代ヨーロッパの先住民族」となっているが、「先住民族」の定義によっては、この表現は不適切です。明らかに、ケルト人は欧州に住みついた最初の人類ではないからです。その出自が謎だらけのケルト人。現代のDNA分析でも不明のままです。ケルトは「民族」ではなく、「文化」だと捉えるべきものです。

*wikipediaに拠れば、ケルト人は・・・
 中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車と馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語である。
 ケルト人は、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアの影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。
 ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立した。彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されている。紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになった。また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服。ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻した。
 やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになる。ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服される。ガリアのケルト人(フランス語ではゴール人)は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していく。
*ケルトを受け継ぐフランズが、残虐非道の軍事国家なのは昔からことで、ユリウスをして「世界で最も野蛮な人間」と言わしめています。

 ケルト文化に興味を持ったのは、ブリテン諸島に残るケルト文化が、生禿の主張する「辺境文化論」の有力な証拠であるからです。日本列島に古モンゴロイドの文化の底流があるように、ブリテン諸島にはケルト文化の残影があり、辺境の地の文化諸相として通底するからです。

 この本は、ケルト人の歴史を描いています。ケルトの戦いに関する記述も多く、ゲーム作者には必読のものです。ケルト文化についての大胆な推論も(賛否は分かれるでしょうが)魅力です。ケルト人のありようを知る上では必須の文献であることは間違いありませんん。古書の展示会で見つけて大喜びで手に入れました(アマゾンで検索して買う気にはなりませんでしたが)。 以下は、この本の要約と引用です。


《1. 暗闇から出てきた民族》

前400年 ケルト人がイタリアに侵入し、ポー平野からエトルリア人を追う
前390年 クルシウム付近で、ローマ人と衝突
前387年 ローマ軍を破って、ローマへ侵攻する

 前218年に、ハンニバルはピレネー山脈を超え、不タンスを通って、イタリアへ進攻した。ハンニバルの叔父は、ケルト人に殺されていた。

*wikipediaに拠れば、ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca, 紀元前247年 - 紀元前183年/紀元前182年)は、カルタゴの将軍。第二次ポエニ戦争で連戦連勝を重ねた。ローマ史上最強の敵として語り伝えられた。

 ケルト人は、派手な色の刺繍した肌着を着ている。肩のところをブローチでとめた肩掛けを掛けている(スコッチ肩掛)。村には、防御施設は無く、藁の上で眠り、肉を食べ、生活は質素だった。個人の財産は、家畜と金。どんな場合にでも持ち運びができた。

《2. ローマの悪夢》

前380年 ローマ市の再建 以降、ケルト人と争いが続く
前264年 第一次ポエニ戦争 ケルトの傭兵も参加
前225年 ケルト人がローマへ侵攻
前218年 第二次ポエニ戦争 ハンニバルはケルト諸族と同盟を結ぶ

 ローマ遠征軍は、ケルト軍と戦うことをせず、リミニのセメネース族の居住地に向かう。そして、計画的な皆殺しをを実施した。無防備な村は焼き払われ、女子供は惨殺された。
*アラハバキの民を虐殺した坂上田村麻呂と全く同じ戦法です。田村麻呂は200の村の女子供を虐殺し焼き払ったと桓武天皇に報告すると、天皇は飛び上がらんばかりに喜んだという記録が残っています。残虐非道な天皇家を代表する桓武天皇に愛された田村麻呂は、ローマ人の末裔だった?かも。

 王たちはローヌ川上流に住むケルト諸族に傭兵を要請した。彼らが、中世のスイス湯兵の祖だと推測されている。

 攻撃のみに焦点を合わせた軽装のケルト人は、。長い槍を密集して移動する城壁のようなローマ軍とぶつかった。ローマは、ようやく悪夢から免れつつあった。ローマ軍の最後のケルト族との戦争は、征服ではなく、集落を破壊していく広域作戦であった。

《3. アレクサンドロスの後継者とケルト人》

前335年 アレクサンドロスがドナウ川へ進出し、ケルト族とぶつかる
前323年 アレクサンドロスがバビロンで死ぬ
前279年 カルト人がギリシャに侵入

 マケドニアのアレクサンドロスは、教育によってヘラス人なのだ。マケドニアの人々の生活は、バルカン半島の諸部族に近かった。こうして、ギリシャ=ガリアが建設される。ケルト語は、ギリシャ語と同じインド-ゲルマン語系である(インド-ゲルマン語は、現在では、インド-ヨーロッパ語と呼ばれています)。ガリアの神は、ゼウス・ブッスリギオスとして崇拝されていた。

 ケルト族は、トルコの権力闘争に積極的に参加した。今日、ガラテヤの存在を想起させるものは、ケルト人の家に因んだ「ガラタ」と名付けられた地区である。

《4. 四人のギリシャ人がガリアを発見する》

 前1200年以後にミュケーナイのギリシャに住みついたドーリス諸族は、北方の民族であり、ケルト人との共通点を多く持っている。また、ケルト人は、初期ヘラスの英雄たちとも似ている。

 男たちが集まって飲食する習俗が、インドゲルマン語族の間では、連帯感を表す儀式の意味を持っていた。最も優れた男が最上の肉をもらうという習わしも、その儀式の中に含まれており、古代アイルランドでは、その特権は剣で守らなければならなかった。

 ドルイド神官の英知は、ドイツでもフランスでもイギリスでも、無数の伝説の中に残った。

 豚カツと羊の腿肉は、ケルト人の好物だった。がリアの住民は塩漬け肉をイタリアへ輸出していた。

《5. それはヴォルガ河畔で始まった》

前3000年 アジアの草原民族(クルガン人など)が馬を飼い馴らす
前2400年 クルガン人がコーカサス地方に侵入し、黒海へ進出する
    インドゲルマン語族の特徴を持つ、混合文化が生まれる
前2200年 インドゲルマン語族のヒッタイト人が、アナトリアに入植する
    インドゲルマン語族がギリシャに出現する
前1600年 アウンイェティツ文化が生まれ、そこから古代イタリアの住民であるウェネティー族、イリュリア人、ケルト人が出てくる

*アウンイェティツ文化
 チェコスロバキアのプラハ郊外にあるウネティチェ(アウンイェティツ)遺跡を標準遺跡とする青銅器時代前期の文化。この遺跡で多量の青銅器が発見され,中部ヨーロッパで青銅器時代の始まったことが示された。

クルガン文化地域

 ケルト人のように欧州を渡り歩いた民族が、土地と結びついていたとは考えられない。農業を生業とする人間は土地から離れることはできない。農民は、冒険家にはなれない。ケルト人は少なくとも初期の段階では、遊牧民であった。ケルト人の小屋が住むのに必要最低限のものであった。財産は持ち運べるものだけだった。

 ケルト人は、優れた騎兵・戦車兵だった。ローマ軍が恐れたのは、騎馬の投槍兵の突撃と、迅速な退却だった。ケルト人には速い動きが性に合っていた。騎馬民族はいつもこういう行動をした。ケルト人の歴史は、おそらく、足の速い野生馬を飼い馴らした遡るだろう。その時、人類の歴史は変貌し始めた。戦士階級が形成され、貴族が生まれ、騎士の行動様式が発展した。

 民族は、言語共同体である。言語学者はケルト語を復元した。ラテン語に入ったわずかな単語・ブリタニー語・アイルランドのゲーリック語・ウェールズ語・コンウォール語・マン島語などから作り上げた。古代インドのサンスクリットは、初期のヨーロッパの諸語族と親近感系にある。サンスクリット語とラテン語とケルト語は、共通の語源を持っている。

 インドゲルマン語族の諸言語を用いた多くの民族が、バルカンへ、バルト海へ、ヒンズークシへと散っていった。その起点は、ヴォルガ川下流地域に求められる。アーリア人の定住したペルシャにも、古いインドゲルマン系のヒッタイト人に占領されたトルコへも遠くない。

 原インドゲルマン語には、「銅」の語彙がある。新石器時代(前2200年)に、銅の鋳造技術が現れる。これは、馬が飼い馴らされ時期に一致する。紀元前2000年より前に、ヴォルガ川下流地域に住むステップ民族の諸集団が馬に勒をつけ、新天地を求めて旅立った。欧州の温和な気候の、肥沃な土壌と豊かな森を求めて。氷河が後退すると、東方から人類が浸透していった。そのきっかけは、人口増加だと考えられる。カザフスタンの狩猟遊牧民は、現民族の可能性がある。

 クルガン人は、エウフラテス河谷のシュメール文明やアッカド文明を知る。クバン盆地の遺跡(王墓)は、金・銀・陶器・宝石で飾られたハンマー斧・牛とライオンの彫像・トルコ石の数珠・銅製の装飾武器(短剣と槍の穂先)が副葬されていた。闘斧と縄文土器の文化は、中央アナトリア(現トルコ)の北部にまで及んでいた。

 ヒッタイト人は、前2000年にアナトリア(現トルコ)に侵入し、400年後に強力な国家を建設した。ヒッタイト人の祖先が移動を始めた頃、アルメニアにいたクリー族も故郷を出て、メソポタミアに、戦車部隊に支配されたいくつかの国を造った。コーカサス山脈の斜面、今日のグルジアとアゼルバイジャン・アルメニアに、戦士民族が育ってきたと推測できる。この民族が、西欧へ遠征する。

 高塚墳(積石塚のマウンドを伴う墳墓/墳丘墓の一種/クルガン)と闘斧と縄文土器文化の要素は、前2000年以後にはバルカン半島に跡づけられる。それから西に移動して、西欧に広がる。しかし、鐘形坏人がいたフランスには入れなかった。

*バルカン半島は、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、コソボ、ヴォイヴォディナ、トルコのボスフォラス海峡以西からなる地域。

 東方からの侵入者は、入り込んだ土地の影響を受ける。そこから個々の民族、最初のゲルマン人、バルト人、スラブ人、キンメリー人、スキュタイ人が成立する。スキュタイ人は、後にケルト文化に影響を及ぼす。

 彼らの住んだベーメンとラウジッツ地方は、ヨーロッパ史の交差路/中心点であった。そしてまた、ベーメンと中部ドイツの山岳は、鉱石に富んでいた。ケルト人誕生の地に住んでいた草原の人々は、財産を蓄える機会を持つ同時に、それらを守る必要があった。

 前1500年(中期青銅器時代)に至るまで、ベーメン・中部ドイツ文化の特徴は、高塚墳(クルガン)であった。前1300年になると、ラウジッツ文化とアウンイェティツ文化の担い手たちは、死者を焼いてその灰を容器に納め、それを墓地に埋め始めた(骨壷葬地文化)。

インドゲルマン人

 インドゲルマン人の末裔は、アレクサンドロス大王の帝国、ローマ帝国、大英帝国、スペインの植民帝国を建設し、南北アメリカの入植し、ロシアからシベリア全土に浸透し、アフリカを植民地化し、今日、世界の富を制するわずかな国々の大部分を作り上げた。それに反して、モーセ、キリスト、マホメットは、別の世界から現れた。ブッダは、クルガンの末裔だろう。