戦争

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    642: ヤマト 02/01/22 20:37
    菊水一号作戦時の駆逐艦部隊の奮闘は胸が熱くなります。
    この時の海戦で撃沈を免れ、結局、同日夜までに辛うじて浮き得ていたのは
    「雪風」「冬月」「初霜」「涼月」これら四隻の駆逐艦のみであった。
    「大和」乗組員をはじめとして特攻艦隊の戦死者総数三千七百二十一人。
    敵軍に与えた損害わずかに「撃墜確認二十二機」のみ(防衛庁資料)
    出撃前の連合艦隊司令長官のゲキ電にあった
    「帝国海軍力ヲ此ノ一戦二結集シ」というには、余りにも無残な結果だった。
    一方的な虐殺とも言うべき戦いであった。

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    640: 名無し三等兵 02/01/21 22:19
    吉田満 「戦艦大和ノ最後」より

    ------------------
    「大和」被弾モトヨリ夥シキモ、スデニ状況全ク不明 艦内通信機能寸断サル
    ・・・・・・・
    怱忙ノ間、第5波、前方ヨリ急襲 百機以上
    時に「矢矧」、本艦前方三千米ニ停止シ、「磯風」ヲ横附ケセントシツツアリ
    ・・・・・・・・
    「矢矧」魚雷数本ノ巣ト化シ、タダ薄黒キ飛沫トナッテ四散
    「磯風」モ停止、黒煙ヲ吐キツツアリ
    辛ウジテ轟沈ヲ免レタルモ、爆弾数発命中セルカ

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    637: 名無し三等兵 02/01/21 07:02
    歩兵第47連隊第2大隊第5中隊小隊長として北支へ出征した立山英夫中尉は、
    昭和12年夏、河北省辛荘の戦闘で戦死されました。

    中尉の軍服は血まみれでした。
    そのポケットの中から中尉のお母さんの写真が見つかりました。
    そして、その写真の裏面には母を想う中尉の言葉が記されていました。

    ------

    若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見るまでは
    出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず

    己れ生あるその中は 子の身に代らんこと思ひ
    己れ死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ

    あゝ有り難き母の恩 子は如何にして報ゆべき

    あはれ地上に数知らぬ 衆性の中に唯一人
    母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む

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    593: 名無し三等兵 02/01/17 23:48
    敗将はかたらず。
    戦後、帝國海軍の将官たちの多くは沈黙を守った。
    最後の聯合艦隊司令長官小澤冶三郎もそうであったが、
    彼は後進たちに経験を伝えるために自衛隊の記録作成にだけに積極的に証言したそうだ。
    ある時、マリアナ沖海戦の話になり、ある自衛隊員が
    「ほかにやり方はなかったんですかね」
    と、小ざかしくも小澤にいったのに対して、小澤は一言
    「なら、どうすればよかったのかね」
    と、静かに答え絶句させたそうだ。
    あと知恵でこざかしいこというやつは、いつの時代でもいるなあとしみじみ思った。
    なけないか・・

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    578: T.K 02/01/16 21:53
    先週の西日本新聞のコラムに載っていた話・・・

     台湾の高雄に昭和の初め頃に生まれた少年がいました。
     まだ太平洋戦争が始まっていなかった頃の高雄に日本海軍の空母が入港し、その雄々しさに魅せられた彼は、
    「よし!、僕も大きくなったら水兵になってあの空母に乗ってやるぞ!。」
     と、誓ったのでした。

     それから数年後。 少年から青年となった彼は、少年の日の誓いを果たすべく海軍に志願して水兵となったのですが、その頃の海軍には既に満足に動ける空母など残っておらず、それどころか数ヶ月後には海軍そのものが無くなり、台湾も日本では無くなってしまいました。
     そして国共内戦に敗れた中華民国が台湾に押し込められた後も、彼は将校として台湾海軍に残り、台湾が国際的に孤立した苦しい状況下にありながらも、ねばり強く海軍の錬成に努めつつ昇進を重ねました。

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