2010年12月28日

民主党政権の左翼性とは2

菅直人も仙石氏も学生運動家だった経歴を持ち、

暴力措置と言う古い左翼用語とやらも目覚めさせているのであるわけですが、

マイナス面の宣伝ばかりのように思えます。


小沢一郎の変革の意思や左翼性は、未知数であるのですが、


そもそも2011年を待つ、現在にとって、

左翼性とは何であるのかを考えていかなくてはならないと思っています。

それは、前回書いた「三浦つとむ」の書き込みにも同じものがあります。




理論ではなく、実践としての「民主党」「小沢一郎論」までを含めてかんがえていかなくてはならないと思っています。
namifukukun at 03:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)政治問題 

三浦つとむ2

三浦つとむ(1911明治44年ー1989平成元年)


三浦つとむ選集

1.スターリン批判の時代  1983年4月第1版
2.レーニン批判の時代
3.言語過程説の展開
4.芸術論
5.ものの見方考え方

廣松渉の独創性に魅せられていて地道な努力が見えづらかった時代もあったように思えます。
三浦つとむ氏の全体像と
言語学、数理論理学とは何か?

今、マルクスやヘーゲルをどう位置づけるのか?
それは、これまでも考え続けてきたことであるわけですが、

三浦つとむ選集が、1983年に出て以来
いたずらに、時間を過ごしてきたようにも思えます。

白土三平選集は、僕にとって色あせることはないのですが、
三浦つとむ選集やスターリン批判の時代、昭和の時代も色あせたまま
誰も振り向かないものとなっているようなのを猛省しなくてはならないと思っています。

吉本隆明が、「遺書」を生前に書き、そして、新しくならない時代を葬り去る意図とも思える、過去を客観化し、考古学的視点へと追いやろうとする意図を持っていたのではないかと思えるのも

もう、全て、遠い記憶となりつつある中で、

新しいマルクス研究を焚きつけていきたいと考えています。 
namifukukun at 03:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)三浦つとむ 

2010年11月15日

久し振りに戻って来た

長文は書くは、良いが読む気にならないものが多い。
namifukukun at 08:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年05月13日

tokoya@共同ハンドル(政治部)氏の右翼革命的ロフト知識人の姑息さ大暴露に大賛成なみふくくん2

[1885] tokoya@共同ハンドル(政治部)氏があまりにもロフトプラスワン的知識人のあり方を露骨に代表されているので、目の敵にされているのが今のこの掲示板の状況であると思えるのだが、tokoya@共同ハンドル(政治部)のフットワークから考えるならこれから先、10年は、持つだろうし、席巻され続けるだろうね。ジャスティス氏も西岡氏も見習うべきだと思っているのです。 投稿者:tokoya@共同ハンドル(政治部)氏の右翼革命的ロフト知識人の姑息さ大暴露に大賛成なみふくくん 投稿日:2007/05/13(Sun) 23:34


LPO的知識人の代表格である唐沢俊一氏が、
『反日マンガの世界』と言うほんの帯にて
「『反日マンガ』はこの程度で俺たちを洗脳しようとしているのか、と」帯に書いているものの小型化したものをtokoya@共同ハンドル(政治部)氏はしているに過ぎないと思っているのだ。
http://item.excite.co.jp/detail/ASIN_4883806243

それは、平野氏と「おじさんとの語らい」取り巻きよいしょマン派と同じであり、ただ、tokoya@共同ハンドル(政治部)氏は、それらの深層心理なるものにある反左翼性の温床であるロフトプラスワン的知性に大衆的に反抗的暴露しているに過ぎないと僕は考えている。

ここで自称左翼や元左翼と称する片鱗と良心を発揮したい人たちは、ただただtokoya@共同ハンドル(政治部)氏の大衆的な無知を指摘するのみに止まっており後追いになっている事は歪めないだろう。
大きな勇気と真摯さを持って書き込みをしているのは、
リンクばかりをしていてヨイショを目的としているみにもに氏ではなく、ただただtokoya@共同ハンドル(政治部)氏としか言いようのない状況に陥っているのだと言わざるおえない。

本当は、現状に満足しきっていて何も変える気のないポーズばかりの平野氏もたじたじになっている。
その気持ちを見透かされていると言う訳なのだ。

また、北朝鮮の核実験を礼賛していたのは、ロフトプラスワンの講演にての宮台氏であり、宮台氏は、左翼とは言えない改憲論者であることは今更、言う必要もないことである。
北朝鮮をあおり、そして、日本においても改憲を宮崎哲哉などと推し進めようとする売名的体制知識人のあおりの中にロフトプラスワンの中にあったと述べているのだろう。

ただただ、ここで、tokoya@共同ハンドル(政治部)氏を攻撃したい人々は、この掲示板をtokoya@共同ハンドル(政治部)氏のネタを元に、ただただこの「よいしょの対象である」おじさんとの語らい掲示板を守りたいとしているだけなのだ。
ナタふりは、tokoya@共同ハンドル(政治部)氏しかできていない現状がそれであり、姑息な疑似左翼、元左翼を語る偽良心の温床となっているこの掲示板にもはや読みとるものなしと言うところまで来ているのがわかるし、その功績として
tokoya@共同ハンドル(政治部)氏を褒めないわけにはいかないと僕は考えているのです。

ハイエク自由論

反日マンガの世界

namifukukun at 22:27|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑記 | 雑記

2007年01月30日

何が実現されているのか?(序説)2

先週のTVタックルでは、「ゆとり教育の失敗」がテーマで、数学屋のメガネさんの好きな鈴木寛氏(ネクスト文部科学大臣)なんかも出ていましたが、給食費を納めない親の話などモラルの欠如以上に、知能の欠如としていじめ問題以上に、野生化しているサマ、無教育状態の学力低下を感じていた。
教育といっても数学屋のメガネさんやその他、ブログ書き込み手などは、楽しんで、哲学や歴史を語ったりしているのだけれども、その理解は、更に遠いものとなっている世間を感じざるおえないものがあった。

なんの為に、僕らは、ブログを書き続けているのだろう?
周辺が、野生化している状況の中で、取り残されつつあるのかも知れない。

小泉ポピリズム政治期以来、団結を模索するカムイ伝の大衆を理想としながらも漫画以下の知能しか持ち合わせない野生化し小泉劇場に踊らされるバックラッシュする日本の中流ブルジョワに絶望も勿論感じていないわけではない。

自民党が体たらくをやってのけ、知事の汚職があったり、そのまんまショックがあったと言っても、民主党は、受け皿になり得ていず、政党政治そのものが沈没しているのだと、TBSラジオアクセスでも嘆きの視聴者の声を田中康夫氏は聴いていたようだった。

小泉劇場放送以来のサンデープロジェクトやTVタックルには見切りを付け、更に、宮台氏にも見切りを付けている僕としては、今度は、逆に、主題的に田原総一郎的TV、たけし的TVの席巻はいかなる弊害を持っているのか?それを主題的に語りたいと思っているのだけれども日々の雑事に追われていて出来ないでいる。

TVが、最大の公報性を持ち、そして、ラジオがあり、インターネット放送があり、そして、僕達のブログがあるのだけれども、ここにも格差があり、階層が勿論、存在している。

話は、変わるが、ケーブルTVにて、伊丹十三監督丸ごと24時間を正月に日本映画専門チャンエルでやっていたが、マルサの女は、改めて観ると良くできていたので感心していた。この調子で、田中康夫知事改革や衆議院議員ルポ的映画なんかもセミドキュメント的に作ったり、そのまんま東知事ルポへも誰か展開しながら公報して貰いたいものだ。

TVと映画など視覚的に訴えるものが力強いインパクトを与えているのは確かだ。

そして、それをおとぎばなしやフィクションとしない視聴者や目撃者の小さな勇気をあつかった作品「マルタイの女」が遺作となっていたのが印象的であり、その小さな声が僕達のブログではないかと考えていたのでした。

今月末の朝まで生テレビは、「格差社会」問題だったが、いよいよ朝生も批判をする為にしか観られない自民党宣伝番組三兄弟(サンデープトジェクト、TVタックルの兄弟)と成り下がりつつあるのを感じる。
自民党の宣伝と言うよりも体制宣伝と言った方がわかりやすいかも知れない。

観るだけ時間の無駄となりつつあるのを感じている。

この国の崩壊は、北朝鮮よりも早いのではないかと感じる今日この頃である。
(走り書き、続く…)
namifukukun at 07:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑記 | 映画論

不可知論と歴史の相対性について4

数学屋のメガネさんに僕の拙文を取り出していただいたことを感謝しております。

しかし、僕は、不可知論批判は、誤っているのではないかと思っています。

これを指摘するのは簡単であり、
「歴史」と言う言葉を「正義」と言う言葉に置き換えるとわかりやすいと思います。

以下のように数学屋のメガネさんも書かれている通りだと僕は思っているのです。

『全体主義というのも、真面目で厳格な正義の人から生まれ、育っていくような気がします。正義の人は、他人が正義でないことに我慢が出来ないような気がするからです。

しかし、その正義の判断が、絶対的に正しいものでないことに正義の人は思い至らないように感じます。スターリン主義の問題は、悪意に満ちた悪魔のような人間が残酷なことをすると理解するのではなく、善意にあふれた正義の人こそがもっとも恐ろしいという認識を持つことが大事なのではないかと思います。

「左翼」がそれを乗り越えられないのは、「左翼」が自分自身を絶対的に正しい正義だと勘違いしているからではないかと思います。適度な反対勢力が存在することがバランスを保つのだと思います。』


僕は、不可知論によって、全てが、不能に陥るとは考えていません。
寧ろ、民主主義や近代の大前提だと思っているのです。
「人間が六十億人いるならば、六十億通りの「歴史」がある。」それで良いと思っているのです。それぞれの考え方によって、正しいと思っている方向性によって、投票行動によって、選択権が認められているのが、近代であり、民主主義国家です。
法則と言っても絶対ではありませんし、ニュートンの絶対時間、絶対空間としての座標軸が、相対性理論によって書き換えられていったように、絶対の法則なども存在してはいないし、法則や数学の中にピュタゴラス派として新たな神や絶対君主を認めるべきではないと思っています。

養老孟司氏の一文は、司馬遼太郎の遺産について語っている文章の抜粋であり、歴史論及び司馬遼太郎から学んだものを中心にしている事からも本来は、考えられなくてはならないと思っています。

しかし、養老孟司氏は、この一文によって、マルクス主義を批判しているわけですからそれが、官許マルクス主義であっても、スターリン主義的マルクス主義であっても僕も養老孟司氏への反論を述べていなくてはならないと思っています。

つまり、不可知論を肯定しながらマルクス主義を養護するとどの様な考えが可能になるのかと言うことです。

僕自身は、養老孟司氏を『バカの壁』の著者だとは知っていましたが、知名度ほどに興味をそれまでは持っていなかったのですが、カムイ伝の推薦文によって、四方田犬彦氏同様に評価を高めて、上記の文章へとぶつかったわけなのです。

白土三平氏の『カムイ伝』は、百姓や非人など群衆を描いているのだけれども、司馬遼太郎の歴史小説やその様な群衆、群像を具体的に思い描いて「人間が六十億人いるならば、六十億通りの「歴史」がある。」と述べているのだなと僕は思っていたのです。

「人間が六十億人いるならば、六十億通りの「正義」がある。」ので良いのであって、それは、人間やプロレタリアートへの信頼によって、述べられていると僕は考えているわけです。

論理や宮台氏的知性にリスペクトを感じていると暗黙のうちに大衆蔑視となってしまったり、「人間が六十億人いるならば、六十億通りの「歴史」がある。」なんてことになったら収拾がつかなくなり、亜インテリだらけになってしまうだろうと思い、歴史にもなんらかの科学法則があり、そしてそれを研究する真のインテリへのリスペクトが必要だと言う前提から出発することになり、決定論的な硬直した官僚型のスターリン主義(養老孟司氏の批判するマルクス主義)となるのだと僕は、考えるわけです。

近代国家、民主主義国家が、ヒットラーを生みだし、人類の歴史は、戦争の歴史であり、進歩などないとよく10代の頃、友人から聴かされていたのだけれども、それこそが、僕の不可知論的歴史観との出会いだったのだけれども、確かに、それは、外観的に歴史を見ていて暗記ばかりの世界史に根を上げていているんだなとおもったし、実際に、ベトナムやら中東などで、爆弾を落とされている身になったならそんな他人事のようにも言っていられないだろうとブルジョワ的不可知論にも反発を覚えたりもしていたのだけれども、カムイ伝の推薦文を書き出した後の養老孟司氏の文脈については、一律のものとして、不可知論を否定できないと僕はその文脈がどのような形にあるのかによって読み方を違えているわけです。

唯物史観が、絶対的なものとは思っていないし、歴史の進歩性については、別な時に語るとしても、六十億人の百姓や非人、そして、工業者がいたとしても、一致団結することや善を行ったり、真理に近づくことは可能だと思っていますし、本来のマルクス主義の相対性と何ら僕は、対立するものではないと思っているのです。

寧ろ、学者やインテリゲンチャーへのリスペクトの方が、官僚型のマルクス主義への傾向としてあやまちに満ちているのではないかと考えているわけです。

マルクス主義は、カントもドイツ観念論も包括し、相対性を肯定する思想であるが故に、大衆運動の理論であり続けていると考えているのです。

マルクスの出生について3

時間がないので、一ヶ月に一度のペースとなってしまっているのだが、少しづつでも書き出して行こうと思う。
(数学屋のメガネさんを真似て、「思う」「だ」調にしてみました。)

昨年の抜粋「数学屋のメガネさんの左翼批判」の読解から始めることとします。


 「存在は意識を決定する」という命題が、マルクス特有なものであったり、根本的なものであるのか枝葉的で些末なものでしかないのか僕にはわからない。
しかし、形のないものである意識を決定するのものが存在(物質または、肉体)であることは、唯物論の考え方としては肯けるものだとは思っている。
その考え方が、教条主義へと向かうのだとしたなら僕は、それを解釈する側の思惑の方に問題があるのではないかと思う。
修正主義や社会民主主義が本当に、マルクス主義にとって論理的に誤ったものとして登場してきた時代のこともあっただろうし、三浦つとむさん自身、『マルクスの復権』と言う本の中で「マルクスのことはマルクスに聴け」と言っているとおりメガネさんは、逆のことを述べているようにも思える。
レーニンや毛沢東は一流のマルクス主義者であるから間違わないだろうと言う信頼感が裏切られた時代に生きている我々の世界にとって、スターリンによるマルクスの改竄性や修正解釈こそが、問題になっているのではないだろうか。
勿論、マルクスと言えども万能ではないし、限界を持っているのであり、神を否定して自ら神に変わろうとしたのではなくそのような考えを永久に無神論者は否定しているところだと思っているところだ。

教条主義の根は一体、どこにあるのかについてはまた別なところで具体的な問題の一つ一つを紐解きながらソビエト史や現代中国史について言及をしていかなくてはならないと思う所であるのだけれどもここで、問題にしたいことはそのことではない。

『これが「教条主義」であることは、「マルクス主義」の創始者であるマルクスのことを考えればすぐに分かるのではないかと思う。マルクス自身はプロレタリアートの出身ではなく、ブルジョア階級の出身だろうと思う。そうでなければ、当時の状況の下で学問など出来るものではない。だから、「存在が意識を決定する」という命題は、そのようなときもあるし、そうでないときもあると理解しなければならない。結局は、この命題が正しくなるのはどのような条件の時かと言うことを深く考えなければならないのだと言うことになる。当たり前の平凡な結論だが、それが大事なのだと思う。』

この部分に異論を感じていたので、簡単に説明を加えて置かねばならないと思った次第なわけなのだ。

僕は、この部分で語られているものこそが、根本的にも潜在的にもマルクスを見誤らせているものではなかったろうかと思っているのだ。

かつて、朝まで生テレビで西部 邁氏が、「マルクスと言う鬼子を作ったのは、その時代の亜インテリであり、正教授となれずジャーナリストに甘んじた故だ」的な発言をしたことがあったと思うのだが、それは、僕はあたらないと思っている。
これは、マルクスを観る上で根本的なものとなると思っているので、繰り返し問わなくてはならないと僕は思っている箇所でもある。

キリスト教が支配的な当時の社会にて、ヘーゲルへの批判を持って登場したマルクスの思想は、正教授となれなかった故に、無神論的であったのか又は、無神論的であったが故に正教授である選択肢を拒否してジャーナリストに甘んじたのか?と言うことになるのだけれどもそもそも当時にとっても現在にとっても正教授であることとジャーナリストであることにおいて、職業的な差がどの様にその人の思想を歪めると西部氏は指摘していたのだろうか?
(正教授になった後に、追求の後、無神論者となったニーチェのような人物もいるのだが…)

無神論や唯物論、科学主義的であることが、宗教と言う教条が支配的な世界にとって、そして、現在の21世紀の社会にとって、位相がどの様に変わったかは、ここでは問題ではないのだが、いずれにしてもジャーナリストに甘んじたが故に、鬼子としてのマルクス主義を生み出したと言う考えには、根拠を持つことはないだろうと思う。

更に、その考えを展開しながら
マルクスを中流の出、もしくは、ブルジョワ出身とするのは、固定観念と再びなっているように僕は、思っているのだ。
マルクスの父は、弁護士であり、出身は、中流であると考えることは可能だと思うが、当のマルクス自身は、借金に追われる身でもあり、自らをも社会の犠牲者の側=プロレタリアであると考えていなかったとは僕は、思っていないのだ。

ここにマルクスを考える上での認識上の大きな分岐点があったように考えている。

ルソーも『社会契約論』にて「人は鎖につながれている。自らを主人と思っている人でさえその社会の奴隷でしかないのだ」と冒頭にて述べている様に、その意味で、マリーアントワネットもラストエンペラー溥儀も天皇も産まれる場所を選べないのは確かなのだと思う。

そして、今日においてもアジアの国々にとっては、日本人は、全てお金持ちに見られていたり、自らも中流意識を持っていたりかつてはしていたのだとしてもそれは、相対的なものであり、本当に、全ての日本人がお金持ちなわけではなくイメージでしかないだろうと言うことなのは、わかりきったことなのではないかと思うのだ。

医師の子供が、妹を殺し犯罪者になったり、東大生が競馬に狂い、定職に就かずニートやパラサイトとして生活していても小学生が携帯を持って歩いていたとしてもそれは、豊かさとして中流を示してはいなかったことは、当然であり、その様なかつて栄光を持っていた人が没落をしていたり、なんだりの混乱をマルクスは、問題にしているのではないと言うことだ。

ブルジョワジーと言う人格を問題としているのではなく、人を奴隷としている社会機構を問題としているのであり、構造をまず、問題としていると言う考え方に僕は、立っている。

マルクスは、ブルジョワジーの立場に立ち、「同情」としてプロレタリアートを語っているのではない。
それでは、慈善事業を行う財団と同じであり、マルクスは、永遠にマルクスとはならないと僕は、考えている。
ロックフェラーやブッシュお坊ちゃん大統領とは、根本的に違うのであって、マルクスは、プロレタリア自身としての自分を語っていたのであり、戦っていた相手は、資本家という「人」「人格」ではなく社会構造であり、世界そのものの構造であったと言うのが、明確にされていなくてはならないと思っている。

マルクスを中流の側に引きつけたいとする人々の考えの人には、ブルーカラーや肉体労働者、さらには、ホワイトカラーであっても専門的な学業に従事しているものでしかマルクスの知識基盤も経済学もわかるまい、「マルクスは、東大生のおもちゃでしかない」と平然と言ってのける輩であり、法律用語の様に、マルクスをエリートの素養として良しとしているのと同じだと思うのであり、これまでも排他主義的であり、エリート主義的でわかりづらいものとしていたのが、安易なるマルクスブルジョワ観念論者説を語る人々のものであったと僕は思っているのだ。

そして、それが、自明な知識であるとして疑わないものとして、数学屋のメガネさんの書き込みの中にも現れていることについてまずは、指摘していかなくてはならないと思っていたわけなのだ。

教条主義は、その本人には、気づかれないものであり、自明であると思われる潜在的な知識として現れているのではないだろうか?


だが、確かに、マルクスも経済学も難しい用語に満ちあふれていて、庶民や大衆民衆のものとは言い難いものがあるとは感じている。
法律用語が、一般的ではなく、映画『それでもボクはやっていない』の解説にて監督が述べていた様に、おかしなものを沢山含んでいるのと同じく、学問を専業的に支配しているものと支配を受ける庶民とに分かたれるものを容認するものが、スターリン主義であったり、共産主義的でも資本主義的でも官僚主義的支配となっているのだろうし、それを認めた段階で、共産主義は、挫折の運命にあるのだと言えるし、教条主義が、誤った知識や論理を持つのなら、その都度、具体的な問題で指摘して行くと良いのであって、それ以前の前提であるプロレタリアとしてのマルクスを忘れてはならないと僕は、思っているのだ。

この前提を崩すなら、マルクスは、東大生の玩具であり、哲学科のアカデミックな言語ゲームとして、中流意識を助長させるものでしかなく、革命思想でも実践思想でもなくなり、内ゲバの温床でしかなくなるだろうと思っている。

ただ、衣食住だけで満足する人がいたとしても、教育は財産であり、友情や愛について考えることや文学作品や交流を持つ事としての広がりの延長としてマルクスもあり、民主主義と近代化思想もあったと思うのだけれども、やはり、あいかわらず、エリート思想として、言葉面を捕らえるだけの読解力ゼロ社会の混乱は、続いているのであり、
多くの子供は、教育を受けることを自ら放棄させられているように思えているのだ。

教育の危機は、その社会の精神の危機でもあり、格差を生むものでもあり、やはり、マルクスを考えさせるものだと僕は、考えている。

2007年01月02日

亜インテリ論にまつわる様々な抜粋・覚え書き

 どこから書いたら良いか迷ってしまいますが、
仲正昌樹さんの「ネット時代の反論述」の読解の部分は、とても面白く感じていました。
コメントしたいものも沢山ありましたが、僕も宮台氏よりも仲正さんの方にシンパシーを感じている方なので、時間もないのでこのままにしておこうと思います。
また、時間のある時に暇をみてと言うことにしようと思っています。

さて、宮台先生の年末の動向なのですが、午後11時近くに家に戻りラジオを付けると昨年は聴かなかったけれどもまだ、↓がやっていました。

TBSラジオアクセス
2006年12月29日(金)のバトルテーマ
29日は
「M2のウラ紅白・テレビじゃ聞けないJ-POP批評2006」
宮崎哲弥&宮台真司の年末恒例サブカルぶった切り!


 サブカルとアカデミックなものを行き来するのが、社会学者である宮台先生の学問領域なのでしょうけれども「亜インテリ論」の丸山眞男論の硬直?の中では、これまで宮台先生を感じては来なかった僕ですし、意外な宮台先生的なバックラッシュ?の様にも感じていました。

インテリゲンチャーと言う言葉に失望を感じ、ともするとマルクス主義とも一緒に葬り去られてしまっているのではないかと忘却の彼方のものだったからです。
日本には、真のインテリなどと言うものは、大昔に死滅してしまったのではないかと思っていました。
少なくとも死語となっているものと感じていたのです。

しかし、数学屋のメガネさんの言う意味での真のインテリとは、仲正昌樹さんの「ネット時代の反論述」でも語っていられた「まともな論争」の出来る論理を備えた人の事だと僕も理解し賛同はしているのです。

真の論理とは何か?
真のインテリとは何か?
それぞれが主観的に認める一流の学者とは何か?

それについては、また、時間をかけて語って行かなくてはならないと思っています。

上記の番組で、もう説教爺と呼ばれる立場となり10代からは、遠く感性が離れてしまった宮台先生でありながらも、録音でありながらも生肉声に近いものがあり、
米澤代表が亡くなった後のコミケも動員力を失ったのではないか?と言う統計を交えない推測を述べていたのでは単に説教爺なりはてサブカルから気持ちが離れている自己心境ではないだろうかと思えていたのと同時に

「来年の抱負」と聴かれて
「来年は、理論の方へもう一度戻ろうと思っています。理論オタクなるものがいるので、些末な事にこだわりすぎて一度、手放したのですが…」と述べていたのは、
数学屋のメガネさんを意識して述べているのではないかと思っていました。

インターネットの世界は、広いようで狭い世界なので、
良質なレポートを書くKawakitaさんや
良質で平明な論理学入門のブログである数学屋のメガネさんを注目していないはずはないのではないかと思えていました。

宮台先生にも仲正昌樹さんの「ネット時代の反論述」を越えるような論理学入門及びバックラッシュ現象分析を学術理論上で展開をお願いしたいものです。



既に、丸山眞男さんの「亜インテリ論」については矛盾点や弱点の指摘が、優れた反証として、コメント欄にも寄せられているので、改めて繰り返したり、量を増やす必要もないと思っていますが、

竹内 洋著「丸山眞男の時代」を早速、図書館で借りてきて、手に取ってみると
蓑田胸喜には、逆に、知らない世界でもあって、感銘すら受けてしまうものがありました。
僕自身も西洋かぶれでもあり、論理(ロゴス)や理性に重心がこの世界や神道の世界を亜インテリとして逆に排斥や拒絶してよいものなのだろうか?と思うものがあるのを感じていました。


『 だから、南原に日本政治思想史の研究をするようにいわれたときに、蓑田や原理日本社に代表されるような日本精神論をおもったのであろう。「あんなのはいやです」と丸山は躊躇なく答えた。南原は、「いやだからやる必要がある。自分は今の軍部や右翼のいっているような日本精神というのはおかしいと思うけれども、残念ながらわれわれは日本の思想を勉強していない。そうすると同じ土俵で勝負できない」といった。新カント学派の理想主義の西欧思想史研究者であった南原は、日本精神論などは「非常に非科学的」とみていたが、プラトンやカントをもってきても「それはヨーロッパの思想だ」と一蹴されてしまう。だから「これからはどうしたって日本の思想史を科学的にやっていかねばならない」、と丸山にいった。』(「丸山眞男の時代」P92)


僕も上記の引用部分に共感を覚えますし
数学屋のメガネさんの「ファシズム研究」や「バックラッシュ現象論」の展開を楽しみにしている一人なのですが、蓑田やその他、右翼思想としての亜インテリ性は、特殊なものであり、現代の敵の中心ではないように感じたりしていましたし、「ミイラ取りがミイラになる」の例えのように興味が持てないし、深入りしたくないとも思っている部分です。

現代のバックラッシュは、右傾化と言っても敵の本質的な部分は、自民党的な官僚支配であり、寧ろ、学閥階層であり、大衆の保守は、オタクやサブカル世界に代表されている知識が、亜インテリを構成しているのではないかと単純に考えたりもしています。

亜インテリを排除するばかりに、再び、意図せずともインテリゲンチャーを貴族階級とするような隷属関係を作っているのではないかと危惧せずにはいられません。
勿論、真のインテリ探しは、真の論理を中心に行っているのでしょうが、
真理は、絶対的なものではなく相対的なものであり、それぞれの歴史的過程や時代の中にあるものだからです。


それには、養老孟司の一文なんかもあります。
『 そもそも「歴史(history)」とは「イストワール」「ヒズ・ストーリー」つまりは「物語」であって、極めて個人的な営みであろう。そこには主観しかなく、客観などありはしない。中国、韓国が主張する「正しい歴史認識」などあるはずがない。人間が六十億人いるならば、六十億通りの「歴史」がある。それをマルクスが「歴史科学の法則は客観的だ、一つの正しい歴史があるのだ」云々と、背筋が寒くなるようなインチキを言ったあたりからおかしなことになったのである。』
(2006年1月号文藝春秋「司馬遼太郎さんの予言」P98昨年1月の雑誌ですが、もちろん図書館で読めます。)


ただ客観的で絶対的な神が作った歴史があるなんて言っていないだろう…弁証法的なはずだと思いながらも、やはり、論理主義もピュタゴラスのような神学も絶対的な真理に似通った独我論へと入ってしまうものに注意しなくてはならないといつも思っているのです。


中島みゆきさんの「地上の星」を聴くにつれ、指さしている指先や中島みゆきさんのスター性や真のインテリ性をめでてしまい本来、何によって輝いているのかと言う天上ではなく地上を語っている内容を忘れてはならないと考えているのでした。

これは、マルクスを考えることについても同じだろうし
塩見氏が、民衆第一と述べているものについても亜インテリの種を第一と言っているようなものだと言う逆説を生み出しかねないと思うのです。
当たり前の考えなのですが、亜インテリや民衆が悪いのではなく蓑田氏が持っていたような排他主義的な日本思想だったり、右翼思想でしょうし、

亜インテリ論的な硬直は、民主主義の否定であり、ヒトラーの選民思想やエリート主義的な限界しか感じられないのです。

民衆とは何かと言うことを
亜インテリと真のインテリの峻別に時間を割くよりも、第一に考えたいと僕もマルクスの延長で考えるのですが、

民衆の「衆」や集団に対しては、重きを置きたいとは今は、考えていないのです。
集団は、いじめを生んだり、ファシズムを生んだりしてきましたが、
個々人の民やブログを作っている数学屋のメガネさんや新しくブログを始めたかつさんのような個を尊重していきたいと思っているのでした。

それは、中島みゆきさんの歌詞に現れる弱き存在や惨めな存在
「嫌われ松子の生涯」のような存在であっても、北朝鮮で飢えている民であっても
「ぎりぎりの人間の尊厳」に抵触するものが、共産主義の精神であると考えているのであって、民衆と言う集団ではないと理解が進んできているからです。

民衆がファシズムを作ったり、中間層である亜インテリを作ってきたと思うのですが、個の中に存在する「ぎりぎりの人間の尊厳」と「真の論理を持つインテリ」は、僕には、イコールである、そのことの説明をこれからもしていきたいなと思っている訳なのです。


しかし、元旦の「朝生」宮崎哲弥は、サイテーでしたね「戦後憲法なんてフィクションであり、嘘っぱちだよ」と机を叩き、そして、社民党、共産党を「あんたら」呼ばわりをした上で、弱体化しているとは言え戦後民主主義の全否定のような発言をして顰蹙(ひんしゅく)を買っていました。
あれこそ、バックラッシュであり、亜インテリ的感情の発露だと僕は思っているのですが…。
吉永小百合さんも広島原爆記念館も否定してまで自民党や官僚や右傾化した視聴者に媚びを売りたいのでしょうか?

やはり、M2は、最低の亜インテリだと僕は思ってしまいました。(つづく)

2007年01月01日

亜インテリ論

2006年12月04日

言葉の浸透力とは何か?5

586fe4b1._SS500_SCLZZZZZZZ_V35779152_右翼は夜 忘れさせる夜 つらさ悲しさを忘れさせる翼
左翼は海 思い出させる海 忘れたくなかった人を映す海


(ララバイSINGER)

宮崎哲弥氏のような体制的知識人さえ驚かせた
直球勝負にて、中島みゆきの王道的アルバムと言われる作品が、2006年11月22日に発売になっている。

塩見掲示板投稿者から

四方田犬彦著のドキュメンタリー(の筈)自伝「ハイスクール1968」に無断実名で書かれた当事者が真の事実を明かし、筆者及び出版社「新潮」を批判糾弾する。
四方田犬彦「ハイスクール1968」を斬る


中島みゆきさんの歌詞に
「日本中が、大きく挫折したことがあるから誰もそのことを語らない」
とあるので、語り出すことは、良いことだし、
そのきっかけを作った四方方犬彦氏の功績は、逆に大きいと僕には感じられています。

それ以上に、問題なのは、
運動や実戦への固定観念と教条がここでも危険なものとしてしか
受け取られないものがあろうことだと思います。

2006年12月03日

北朝鮮の核は本当に悪なのか!?

宮台氏が、北朝鮮のミサイル実験や核保有をすることによって、
良いことばかりが、北朝鮮の論理の中にあると述べているとおり、
北朝鮮に引き続いてイランも核開発を進めているとの報道の中で
この問題は、吟味しなくてはならないと思います。

核拡散防止条約は、アメリカ他「持てる国」が勝手に決めたことであり、
アメリカとの同等の外交カードとして必要悪として、論理をはねつけられないことは、日刊ゲンダイの二木氏も述べている通りだと思います。

この「必要悪」
アメリカと言う悪に立ち向かう筋論として、はね除けられず
更に、それでは、日本も核保有しなくてはと言うせめて、議論くらいはしなくてはと言うあわてふためきの滑稽さは、とても見物となっていたでしょう。


既成の左翼もオウムも何だけれども
美句麗句の建前論の中で、現実の分析を怠ってきたのが、僕は、
これまでの駄目な所ではなかったかと思っています。


2006年 11月 15日
「先軍政治」と
核実験、核武装

-朝鮮労働党政治の誤りの
核心の一つについて

数学屋のメガネさんの左翼批判4

 とても昨今、時間も暇もないので、短いコメントのみを入れながら後に時間のある時に論を深めることにしたいと思っております。
そのための抜粋、覚え書き程度に今回は、収めました。


2006年11月12日
内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 2

(再び、官許マルクス主義批判の部分を含む)


2006年11月17日
教育基本法改正のメンタリティ


日教組=左翼と言うのは、乱暴な議論なのですが、先日の「朝まで生テレビ」にて、日教組委員長が出演されていたので、興味を持っています。



2006年11月18日
左翼(学校)の全体主義


この問題は、左翼自身も批判しているスターリン主義の問題点だと思います。
しかし、この問題点を左翼自身まだまだ乗り越えたとは言えないものだと思っています。
時間をとって分析をしていかなくてはならないと思っています。


2006年12月03日
バックラッシュの必然性

これまでの議論のあり方や問題の解題の仕方では僕は高く「数学屋のメガネ」の論評を評価しておりましたが、再び、宮台的誤謬に落ちいているエントリーでもあるので、残念です。
これでは、民主主義も丸山真男の学問的成果も否定しかねない矛盾に陥らざるおえないと思っています。

「亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、あるいはアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。」

東大信仰や学歴信仰は、日教組や権威を求めてばかりいる先日の「朝生」の出演者と同じく基本的害毒ではないかと思われるからです。
イチローの評価ほど宮台の評価は世間的に高くないのは、正当な位置づけのように思っています。
松坂投手に60億円の値を付けている資本主義社会が、宮台氏の所にはお金が集まらないとの状況を嘆いているのだとしたなら稚拙な比較ではないかと言わざるおえないでしょう。

2006年11月29日

オールニートニッポン

オールニートニッポン

塩見孝也氏出演
11/24(fri)■ 13:00〜15:00 「雨宮処凛のオールニートニッポン」 ネットラジオ公開生放送
ゲスト出演します @渋谷T's salon
namifukukun at 01:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2006年11月06日

ぱとり

ぱとり

中島みゆき主義者でもある僕としては、
いよいよナリシズム〈=自己顕示欲〉批判としての共産主義的創造を語っていきたいと思っています。

自我と自己顕示欲によって塩見氏や連合赤軍が見失った大衆運動を
正常なものへと戻していく真の運動を語っていく行く予定ですよ。

気が向いたならね〜。

2つの左翼の区分について3

数学屋のメガネさんの「左翼の嘘」のエントリーについて若干の私見を書き出しておこうと思います。

 先週のディキャッチでは、若松監督の次回作来秋公開予定の「連合赤軍」の脚本に参加してるとの話で、しおらしいばかりの語り口でもあったのが印象的であった宮台氏が八方美人的になるばかりで、自分を見失い、かつての高橋監督の「光る雨」の二番煎じの作品として、何の記憶にも残らない作品とならないことを今から望むばかりでしかないのだが、今は、見守るしかないだろう。

今回は、その話ではない。

江川氏は小泉政権の最大の功績は「北朝鮮に拉致の事実を認めさせたこと」と言い切る。その理由は「そのことで戦後日本の言論を支配してきた左(ひだり)が総崩れとなり、より正確で公正な歴史認識が可能になった。その一点をもってして小泉政治の功績を大とする」というものだ。

江川氏の述べるこの部分には、異論があり、左の総崩れは、それ以前から始まっていたと考えているし、小泉の功績ではなく、総崩れとなってから久しくある結果であり、始まりとは思わないと感じていることです。
 再び、北朝鮮の核保有問題によって、拉致問題は、北朝鮮へは、致命傷とはされず一進一退の状態である事には、変わらないままだと歴史認識上考えざるおえない状況となっていると考えています。

拉致問題の暴露によって致命傷を与えられたのは、社民党と田島陽子元議員のゴタゴタに代表される混乱と退行であり、北朝鮮本体ではなかったことから、更に考えるなら
社民党の様な旧来の社会民主主義的大衆政党の更なる退行だけが拉致問題のもたらしたものであり、その結果としては、
官僚出身者を中心とした小泉チルドレンと万年野党確定の民主党と言う図式でしかなく、政治を大衆から切り離すことの貴族政治的退行を「左翼の嘘」=「左翼の首を取った」と言っているようなものだと思うのですし、危機感を強めるべきところを、問題点を取り違えているだけではないかと思っているのです。


歴史認識については、正して行かなくてはならないと思っています。
Kawakitaさんも感動したと言う映画「パッチギ」で「日本のガキに俺たちの気持ちがわかってたまるか」と言うセリフの真意は、今にして思えば何であったのでしょうか?
現在、日系ブラジル人や日系アメリカ人と会う機会などもあるのですが、自国に失望して他国へ夢を追って出ていった民族移動の時期があっちこっちにあったようですので、この事も容易に想像できることの範囲だと思っています。
「地上の楽園」と称されて北に渡った人々についても現在の日本へ密航によってでも押し寄せてきている中国系の方々についても同じ状況ではないかと思っています。

「強制連行」がどの位の規模であり、今になって「従軍慰安婦」問題で訴えている女性たちの事実についてどう向かい合うかは、それぞれの良心の問題であり、
「昔のことだ」「自分には、関係ない人の不幸でしかない」と言うなおざりな本音を持つならこの問題について迫ることは出来ず
「日本に生まれたのだから難しい事は抜きにして、靖国神社にお参りにいくのは、心情的にわかる」と言う表層的情報に甘んじていることと同じ事になるのではないかと思うのです。

歴史のフィクションを信じる心の背景には、その検証を断念する
又は、断念させられる労働者やサラリーマンの忙しさの中にもあり、誰もが、疑似評論家のような暇をもてあましているわけではない中での「信頼関係」の問題の中で問題を捕らえ返さなくてはならないのではないかと僕は、考えています。

「南京大虐殺」についても「ライジングサン」のような映画もあったのだけれども
検証をするには手間暇がかかるだろうし、もはや、断片的な資料しかないが故に、想像が先行して議論されているのかも知れません。
 いずれにしても、労働者やサラリーマンが、その疑似学者、評論家の立場に立てようはずもなく、どのような「信頼関係」をそこに構築出来るのかの問題設定の中で、
文部科学省のカリュキュラムに盲進するのではなく、左翼も「新しい左翼教科書」を作る努力をしていくべきだったと言う結論でしかないと思っています。

結論としては、これまで左翼と思われてきた「全称命題」は、「朝日新聞的権威主義」に代表される左翼エリート主義の事であり、新しい創造を何ら付加してきたのでも大衆運動化してきたものでもなく既存のものに依存してきた意味では、西部ススム氏が、田中康夫アクセスで語っていた「保守」及び「支旧派」と同じ者でしかなかったと言うことではないかと思っているのです。

論理主義を表明すればする程、そして、宮台主義的リスペクトを表明すればする程、
上記のような社民党的な社会民主主義が致命傷を受けて、自民党官僚小泉チルドレンと民主党(官僚オチこぼれ組)のエリート貴族政治のみを後押しすることにしかならず、階級的格差社会の是認にしか働かない、「利用されている」と言うことにしか組みしていないと言うことなのです。

勿論、僕自身、今だに「拉致はなかった」「全てが強制連行である」と言わんとしている思ったりはしないでしょう。

宮台氏の言う「左翼の嘘」とは、左翼という全体集合の概念「全称命題」には、届いてはいないのであって、「特殊命題」である「朝日新聞的権威主義」「大本営発表的エリート主義」であるとの区分をしながらやっていくのでなくては、
漫画家江川氏の様に小泉信仰の後押しをしたり、上記の社民党退行に荷担する事にしかならない階級的格差社会の是認としてしか動いていないと言うことです。

マル激に保坂氏を呼んだとしても同じであり、八方美人化した宮台氏の弊害は、変わらないと僕は思っているのです。

だが最近の考察で抽象論としてたどり着いた考えは、「イズム(主義)」で語られる言説は、マルクス主義にその典型を見るように、「全て」を主張するものになっているということだ。マルクス主義では、「全て」の歴史を階級闘争の歴史だと見る。それは、抽象され、捨象されたものだと今までは理解していたが、それをあまりにもベタにそのまま現実に押しつけすぎたのではないかとも感じる。現実には、捨象出来ない階級闘争が存在しない歴史だってあったのではないか。

資本家が「全て」搾取する存在であるというのも、抽象出来るのかどうか疑問を感じる。板倉聖宣さんは、資本の発明の素晴らしさを語ったことがあった。歴史の進歩をもたらした資本主義という制度が、全くの悪であって、いいところが一つもないということはないだろう。だが、マルクス主義は、資本主義の「全て」を否定してしまったのではないか。


↑この部分のマルクスについても実は、マルクス批判者の側の喧伝するものを数学屋のメガネさん程の人でも採用して、「左翼の嘘」と言うタイトルの上で、あっさり自明の論理の様に書き出されているのに驚かざるおえないのです。

かなり前に出たガルブレイスの『不確実性の時代』でも、
「資本主義の成果を賞賛するマルクスと資本主義批判をする改革者マルクスの間に歯ぎしり顔の学者が指摘するような矛盾はない」と説明しているところでもあります。

>「全て」の歴史を階級闘争の歴史だ
と言うのは、プロパガンダとしての『共産党宣言』の文言であるのだけれども、
「全ての大衆の苦しみの根源には、階級的なものがある」と僕は、考えているし、
階級や格差を離れたオタクの場所やフリーターの場所やニートや刑務所や精神病棟の場所も生活保護や「墓場からゆりかごまで」の年金制度の場あるだろうと言うのは、問題意識が到達していないか歴史認識として未教育な世界史の授業を割愛する公立のような関連であるとしか僕には思えていないと言うことです。

マルクスは、主著にして到達点である『資本論』にて、精密に資本主義を分析しているのであって、経済学批判は、アダムスミス以来の経済学を踏踏してなされているのであって、資本主義の「全て」を否定はしていないし、そのような単純化は、マルクス批判者側の捨象でしか得られていないことの表明で、日本の教育現状未熟さの表明でしかないと言うことです。


 『共産党宣言』と『資本論』の間に、ガルブレイスの言うように、矛盾はないのであるし、そもそも階級とか格差とは何か?と言う歴史認識の分析がここには、欠如しているだけのことでしかないと僕は思っているし、「左翼の嘘」は、ここにはないと言うわけです。
 簡単に言うと市民革命やパリコンミュンを賞賛したのであり、それは、靖国神社や絶対王政神授説たるアミニズムの天皇制さえも合理主義によって資本主義は、壊す力を持っていたことの賞賛であり、資本主義を賞賛して当たり前であり、日本は、資本主義的合理主義さえも徹底されていない前近代的天皇制と言う歴史フィクションを持っていると言うことだと言う当たり前の考えでしかない中で歴史を考えるべきだと言う教育的配慮しかここにはないと言うことです。

漫画家江川氏から始められた議論でもあるので、
白土三平氏の『カムイ伝』にもみられる様に、マルクスの共同性は、まずは、
教育組織としての共同性であり、大衆側の自治であって、
朝日新聞や東大信仰者の宮台氏の様なエリート主義への依存関係を作ることとは似ても似つかないのだと明確にしていかなくてはならないでしょう。

その様な共同性としての自治教育組織をインターネット上でも文部科学省的な管理教育に取って代わって作り出してから「強制連行」についても「従軍慰安婦」についても歴史検証を大衆のものとしていかなくてはならないと言うことなのです。

教育の場は、教師から生徒への一方通行ではなく
自治組織としての議論の場でなくてはならないし、
「生きた教育」は、その様な場所でしかない。

宗教性やエリート信仰としての朝日新聞主義や宮台信仰主義は、イデオロギーであり、
アルチュセールの言う「国家措置」などこそが、イデオロギーの最たるものなのだろうけれども

長らくマルクス主義には、国家論がないと言われてきたが、
国家は、消滅すべきものであり、インターナショナルとしてのグローバリズムと脱イデオロギーを呼びかけたものが、
マルクス=科学的社会主義であり、ニーチェであったと言う当たり前の大前提からもう一度確認が必要な程に
似非管理教育の暗記、記号主義、知識主義がこの日本の国を覆ってしまったことへ抵抗をしていかなくてはならないと言う
基礎の基礎を確認することから始めなくてはならないのです。

マルクスは、唯物論であるが故にイデオロギー(=観念形態)ではないし、イデオロギー批判でしかない原初があり、イデオロギーとか宗教的であると言う喧伝は、アメリカや右翼の側の喧伝としての表層的で表面的な深みのない無教育性の現れとしてしかないと言うことが数学屋のメガネさんをしても理解に到達していないのを今更に驚かされると言うわけです。

「生きた教育」の中では、いじめは、本来は、起こりようもないだろう。
格差も階層性も「確認出来ない」未満の事流れの教育者の犠牲の上に、
官僚も政治家も乗っかっていると言う理解をもって、
論理と科学分析を明確に広めて行かなくてはならないと思っています。


次回は、左翼権威主義の弊害として、
教育現場の問題を踏まえて語っていきたいと思っています。
イタリア映画の「鉄道員」を思い出しながら…。
教育現場もひどいが、TBSアクセスで藤井誠二氏が言っていた労働組合幹部組合費での飲食宴会ぶりや海外視察など慰安旅行の労働貴族ぶりも酷いものがあり、マーロン・ブランドの「波止場」以上のようなので、月曜日アクセスの田中康夫元知事にぶった切りながらの放送をお願いしたいものです。
(基本的に最近は、ディキャッチもアクセスも聴いている暇がなく、月曜日の田中康夫元知事の時間しか聴いていないので、議論は、月曜日アクセスだけに集中したいとしているスタンスとなっているのです。仕事が忙しいので仕方がない…朝生「核保有」は録画したがまだ観ていないので、とてもマル激までは手が回らない状況と言うわけです。)


 時間がない中で書いているので、今回も推敲している暇がないが、
幾度、考えても同じ道筋を論理はたどると思うので、このまま不備なままでも書き出しておくことにしています。

2006年10月24日

アクセス投稿(田中康夫。核保有問題)

アクセス


核を拡大していくことは、破滅への道であると思っています。
原発など平和利用でさえ核廃棄物の問題は、未来の不安を払拭出来ないままに、オブラートしている状態だと思っております。

実際に、核が戦争で使われる事もないと言うのも確かです。

しかし、問題は、実際に戦争で使われるかどうかではなく、核を持てることを北朝鮮が「どうせ失敗しているかも」と言われながらも核を持てる技術としての先進性と国家としての統率力を示している事が問題なのです。
最初に、田中元知事が述べていたように
これまでは、持たせない事にヤッキであったものが、いざ、持たれてしまうと「どうか捨ててください」と頼む側になってしまっていると述べたとおりに、その既成事実として、「核を持つ側」となってしまった事、持てる側になってしまった事が、
フランスやインド、パキスタンなどが、非難されながらも既成事実として、アメリカやロシアや中国と対等の発言権を持つ側、意見を無視させたり一笑にふして「子供扱い出来ない」立場に追い込むことが問題となっていると言うことなのです。

簡単な例で述べますと
これまで、子供があれ買ってこれ買ってとだだをこねても大人は素手なら言いくるめることも簡単でしたが、ナイフを持ち、拳銃を持っている場合ではもはや子供扱い出来なくなると言うことです。

核は、実際に使うことではなく、発言権としての問題として効力を発するのであり、国連などでの発言権の威力として
「持つ側」「持たざる側」とした場合持つ側として
大国に対してもまさに対等と認めざるおえなくなると言うことです。

核戦争は、全人類の一瞬の破滅であるからこそ
核を持っての国際社会でのその国の発言力は、全く無視出来なくなるでしょうし、日本も世界と差し支えるつもりであるなら自衛隊その他全ての軍備を放棄して核だけを持って「平和の尊さをとく」ことも可能だと思います。
これによって、日本に攻め込む国があったとしたなら全人類を道連れにされてしまうと言うことで
話しに耳を傾けないわけにはいかない。

「持てる国」
「北朝鮮のようにようやく持てるようになった国」
「持ちたいが持てない国」がある中で
「持てるが持たない国」の日本としては、あえて持たない子供の状態に甘んじているのだけれども
「既成事実として持てる国」側の蛮勇に対してそれ以上の言論を研ぎ澄まさなくてはならないはずであり、子供でありながらもナイフや拳銃、核を持たずともその様な駄目な大人を説得できる意識の高い国民を増やしていかなくてはならないと思っています。

上記のように「平和の尊さ」を説く話しに耳を傾けて貰うために核武装をする自己矛盾として示すのか?
言っても判らない奴には力でと言う「目には目を」を認めるのか?の論議が、「核保有」の論議であって、日本の国連理事国入りの近道もあることに権力欲に目のくらんだ自民党の代議士は、考えを巡らせていると言う話しなのです。

核を既成事実として持つ側でありそして、認めずにはいられない事によって
「技術力の到達」
「核のコントロールと国家の統率力」
更に、その「国民の国際的意識の高さ」などなどを
まさに既成事実として世界に示し、具体化する選択だと思います。

核を持つことによって
大国、小国の違いがなくなり、否が応でも北朝鮮のような国でさえ、大人と認めねばならない状況にあり、日本は、門前の議論で、未成熟な国民性であることを世界に示し続けているということでしかないのです。

核は、実際に使うことが問題なのではなく
国際的な国家の発言力としての問題であると言うことです。

僕の結論としては、国際的に成熟した考える国民による水準の「持てるが持たない国」であり続けることの努力でありますが…。

2006年10月22日

[666] 日本がアメリカからも世界からも見放される日が来るのは間近だ。5

[666] 日本がアメリカからも世界からも見放される日が来るのは間近だ。 投稿者:日本帝国崩壊のシナリオ序説なみふくくん 投稿日:2006/10/22(Sun) 04:23


 田原総一郎も恐れる大衆好感度を持つメディア男みのもんたの朝の番組を観ているだけでも、
小国がアメリカなどの大国に対して小さいながらも市民国家権を持てるのは、ただ「核保有」においてのみでしかないと言うことに気がつきはじめ麻生太郎その他日本の政治家も北朝鮮の勇気を羨望と嫉妬の目で見始めていることに気がつかれはじめているのがわかるのが痛快としか言いようがない。
 いずれにしてもその中で日本は取り残され始め、半ばをとうに通り越してしまい腐りきった中流平和ボケのブルジョワ国家として、自らの首を絞め続けていることにも気がつかない状態であることを今更ながらに述べても哀れな存在を更に哀れな状態に貶めていくだけのものでしかないので誰もがみてみぬふりをし始めていること知るのだ。

アメリカと肩を並べる大国主義の中国と共産圏の日本の様に中国の保護を受けている北朝鮮と言う図式の中で北朝鮮にまだ社会主義国家としての頭脳の片鱗が残されているのかは、塩見孝也大匠の分析をも踏まえて展開する方が無駄な重複や労力の軽減にもなるものでもあるので、ここでは、必要以上に語らないでおくが、

日本のブルジョワ国家性は、世界の害毒でしかなく滅びていくのを促進することに僕自身は、大賛成であるので、この場合は、何もしないのが良いのだとも思っている。
それだからと言って逆説的ながら「平和憲法」に対して敵対視する立場は、僕のものではないのだが、この逆説も勿論、思考停止状態のままの宮台氏を筆答するロフトプラスワン知識人には、まだわかりづらいものかも知れない。

さて、その前に「失われたロフトの10年史」に対して決着をつけておかなくてはならない事だろう。

インターネットと「おじさんとの語らい」が開始されはじめた当時、
公安のスパイ容疑を払拭できない宮崎学氏を焚きつけてか塩見孝也氏を荒 岱介氏をパージした理由とは別に、ロフトプラスワン出入り禁止とした事件があった。
(ナイフだか日本刀だかわからない写真の貼り付けてあったあの宮崎学氏の失われた10年を掲示板へ持ち込んだあの一文のことですよ。)
自らも既成左翼的でありながらも更に既成左翼的なものをパージし続けたのが、ロフトプラスワンであり、平野氏であった。
平野氏は、「俺は、アメリカが好きだ」と当時、現在の小泉純一郎や宮崎哲弥的アメリカ志向を発言の中心においていたのだ。
左翼的言論を封殺しつつ、なみふくくんを恐れていたのが、当時の平野氏であり、ロフトプラスワンであるといっても差し支えないのではないだろうか?

『過去には日本に原爆を投下し、ベトナムには枯葉剤を撒き、最近ではアフガンやイラクで劣化ウラン弾を落とし続ける。人類史上最悪の殺人国家であるアメリカの犯罪性を、私は許すことができない。究極の意見としては、世界を平和にするには、アメリカという国家そのものを消滅させるしかないという想いさえある。』


だが、「アメリカ好き」を公言し、左翼を敵視していた平野氏であったのだが、10年の間に何があったと言えるのだろうか?
イラク戦争を起こしたアメリカによって、ようやく目覚めたと言うわけではあるまい。
上記には、原爆投下からベトナムについても書き出されているのであり転向者でもあり左翼の裏切り者こうもりであっても若干の良心の呵責が残されていたと言うことなのだろうか?

そうではない。
ここで、面白がられているのは、観念の混乱であり、好戦性だけであり、人々や大衆を苦しめて喜ぶ、インターネット上でかつて「ハチャメチャ錯乱する平野」と揶揄られたブルジョワ性だけでしかないのだ。
(ここで、憤怒を隠さずブルジョワ性と言う言葉を採用してはいるが、悪しき意味での中流性の意味と解されたい)

なみふくくんに愛想を尽かされてから久しく経ち新掲示板へと変え、塩見孝也氏も復活させ、
左翼パージの上に、左翼不在としたロフトプラスワンにおいて自らのものとして、疑似左翼的な鬼子の思想のみを良心と正義の様に、発言する手法であるのが、上記の実体であると僕は、怒りを隠すことが出来ない。

きっと、平野氏は、学生運動当時のエリート運動的な既成左翼の運動を改めて、大衆運動、労働運動を身近なものにしようとしているんだと思う若者がいたとしたなら、
ロフトプラスワンや平野氏、そして、自己犠牲の上に、縁もゆかりもない下北沢の住民運動へ手助けをしようとしたとしたならその「ハチャメチャ錯乱」ぶりに再び裏切られ、代表的なものとしては、まさし氏や見沢氏のような似姿をあっちこっちでみることになるだろうし、いずみちゃんもその中の裏切られた者の一人であったのかも知れないと言うことを検証していかなくてはならない段階に来ているだろうと言うことなのだ。

それでも、まだロフトプラスワンや「おじさんとの語らい」掲示板に幻想を抱いている書き込み常連は、平野氏的権威に対して群がっているのであり、事の事実関係を検証する能力を欠いた人々であり、古い言葉で言うならメジャーの奴隷としてのよいしょマン以外のものではなく依存症と言うことになるのだろうと言わざる終えない。
その平野氏の持つ権力とは、何か?をロックや若者に与えている害毒性と共に検証を強め、ロックを錯乱する観念論者の元凶である平野氏から解放するのが、新宿歌舞伎町問題としても急務であり、転向者である疑似左翼である平野氏を糾弾しながら行っていくことは、10年前からその前からも避けられない問題であったことの確信を強めるだけの結果でしかないのだ。

『[583] パパラギの里での不思議な体験ー1。 投稿者:平野悠 投稿日:2006/10/05(Thu) 00:27
なんとも短い間だったけどとても質の高い価値ある旅をしてきた。

9,23の下北沢のキャンドルナイトで何か疲れ果てたというか、何か
燃焼しつくしたと言う感じがあって、やはりちょっと、みにもにさんと同
じように「鬱状態」に入ってしまった。

とするといつもながら私の「鬱」からの脱出処方箋は「無期限の放浪旅」
しか思いうかばない。』


『[503] 自慢の・・・・ 投稿者:平野悠 投稿日:2006/09/16(Sat) 01:29

自慢の電動自転車が盗まれた。

う〜っ、悲しい。

4年前、フィジョン250を70万で買って、1年半乗って
盗まれ、その時フィジョンが好きで又同じ奴買って
一週間で又盗まれた。』



この一文を読んでいても平野氏の散財ぶりは、荒 岱介氏のポルシェを避難出来るものではないだろうし、目くそ鼻くそを笑うとはこのことだろう。
(ポルシェではなく世界旅行であるだけの事だ!)
(平野氏の世界見聞は、「仁義なき戦い」の広能が刑務所で暮らしていた時に金子信雄が熱海旅行をしていた程度の薄っぺらいものだろう。しかし、ドラマでの主役は、菅原文太であり、熱海旅行以下の平野氏の世界見聞は、ブランド志向以上のものではなく唾棄すべきものでしかなく、羨ましがる人の気が知れないのだ。若者よ!惑わされるな!大志を抱け!)
三島由紀夫の古い文献の中でも「今は、共産党幹部でも別荘を持っている」と出てくるが、共産主義とは、私有財産の否定ではないと幾ら説明しても
便宜的に個人財産を避難したり、レベルの低い争いへと疑似左翼的転向者平野氏は、押し込めておきたいとして左翼パージを続けてきているのだ。
ここでは、良心は、殺され人間不信のみをまさし氏の様に植え付けられる場所でしかないのだ。
私有財産の否定ではなく生産手段の共有についてが共産主義的命題であると言うのは、古くから言われていることであり、今更、言う必要もないことだが、平野氏は、歪め続けてきた。

[657] さんの
『ただ私としては、マスコミを騙す手法で、もっといろんなポジションの
方々の実態を暴く方が政治的に重要だと思う。少なくとも、今の文脈でいえば。』
に賛成するもののそれは、平野氏や「おじさんとの語らい」掲示板に自己満足的に書き付けるではなく自ら行うか宮台HPで展開するなど場所を変える実践性にいつも欠けているから壊れた百科事典、知識の羅列、「マルクスを語る資格がない」「運動をしたことがない」と自らも進歩のない傍観者として相手にされずにあることにそろそろ気がつくべきだと言っておきましょうね。

しかし、平野氏は、ネイキッドロフトを繰り返しなみふくくんが書いた歌舞伎町の裏の未教育状態で疎外状態にある在日やアジアの同胞へ呼び込みながらの対話の努力をしているのか!?の声には、擬似的であっても答えてきた経緯は確かにあるが、やはり、日本人の似非インテリやその虎の威を借りたい日本人しか集まってはいない状況であるのだろね。

“Save the 下北沢”も独立した感慨や意見で「おじさんとの語らい」などへ新しい書き込み常連として目に見える様に自立を勝ち取っているわけでもなく、第2第3のなみふくくんを産み出しているとは言えない段階で何ら見える成果となっていないと言うことだね。


[649] 正義は常に負け続けるもんだ。 投稿者:平野悠 投稿日:2006/10/19(Thu) 01:41
下北沢はこれからゼネコンやヤクザが入り込んできて、すざまじい工事
の嵐になる。
(→これは全く実感のないデマゴギーの一部としか感じられないですね。)
26メートルの道路だけでなく、周辺は高さ60メートルものビルの
建設が許可されることになる。

当初私の意識は「おいおい、今度はあの文化的な街、下北沢が土建屋と税
金をまるで自分たちの所有金だと思っている利権政治家や官僚どもに狙わ
れているのか?と言う意識だった。
(→土建が悪で、演劇やライブがアート、高尚の様な第一次産業よりサービス業第3次産業の方が優位のような書き込みにしか読みとれない。本当に土建やゼネコンは、悪であり、利権=搾取の構造があるのだとしたならその構造分析を今は、読めなくなってしまった資本論を具体的な税金搾取、公共事業搾取として、原理論的に暴く学習会を展開していけばいいことだと言うことでしかないのだが、その基礎の基礎をハチャメチャ錯乱させて、不能にする平野氏でしかないのだ。土建国家批判は、田中角栄批判にもなり真紀子批判ともなり、民主党批判となり、小泉自民党以来のポピリズム政治への後押しにしかなっていない事の時事性も理解出来ない原理表明としかなっていない。)

諫早湾の堤防によるムツゴロウ殺しや、不必要なダムや土岸工事による長
良川や四万十川の水質汚染等々、いくら市民や知識人やマスコミが騒いで
もその工事は止まらなかった。

長野県では

「ダムは作ります。補助金を国からいただいてきます」

と言う知事が誕生し、知事も県民も哀れな乞食になった。落選した田中康
夫は「1時間56億円の借金が増え続けている日本の現実、これでいい
の?」と訴え、軍事基地建設のための補助金ずけの沖縄では人口7000
の村に400もの土建屋があるという。

これではもう誰も地道な農業や漁業、製造業はやらなくなってしまったと
いう。
(→逆説の逆説でしかなくねじれた論法しか感じられない。)

だから私はもう土建国家日本の将来にはうんざりだった。
(→労働現状も都市状況も知らないブルジョワボンボンの平野氏の安易な切り捨て的自己弁護しか感じられない)

[657] さんは、
『平野悠や宮崎学を、左派市民運動を失敗に導く密命を帯びた
公安の犬だとみなす者が少なからずいるのも、まーわからんでも
ないというか・・・

(塩見孝也を含め、本人たちがいかに口先ではスターリン主義を批判していても、もはや自分達が昔から背負ってきた考え方
ではどうにもならない現実を認めず、前衛的地位に居座り続け
ようとしているのでは、自分達と批判対象とは偕老同穴だということでしょ)』

は、前段は、同じでも塩見孝也氏については、区分している僕ですね。そこが違うのです。
自称左翼でありながら自身の主題的積極的な意味での左翼性を語り、リードする事も出来ない事については、657さん自身偕老同穴と見なしますし、原理論的構造的に説明責任を果たしていて初めて、他者の理解に届くのあって、僕のリスペクト(尊敬)する「数学屋のメガネ」にも見劣りする相変わらず壊れた百科事典評論家ぶりを発揮し続けていて哀れさしか感じられないので、見るに見かねて批判をしてあげました。

平野・宮崎両氏と違い塩見孝也氏については、かつては、ロフト出入り禁止を喰らいながらも許されたのと同じ理由で、人畜無害な状態、良く言えば純粋な共産主義論の立場を堅持し続けている純粋さ故に僕の立場からは、評価しているのです。


[288] 人間不信発信基地としてのロフトプラスワン


の後に
続編

1.2つの左翼
朝日新聞的左翼権威主義者としての田原総一郎・たけし・平野批判と
中島みゆきとなみふくくんの真性大衆性に根ざした左翼のあり方の違いを明確にしていく予定だったのですが、色々と忙しく書いている時間がなかった。

2.ナルシズムの彼岸としての真性共産主義的個人宣言

3.新宿ロフト的ロックの腐敗から解放する運動のススメ(日本のロックを共同基盤として立て直すために)

が、挟まるはずであったが、なみふくくんもぽんぽこも忙しいので、
気が向いたら語らいしてあげるよ。
まぁ、向こう3年くらいは、ロフトプラスワンに出向きたくなることはないだろうね。

http://blog.livedoor.jp/namifukukun/




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[665] 無題 投稿者:SIN 投稿日:2006/10/21(Sat) 20:31



市丸、ロフトプラスワンでイベントすんのか。
2300円、高!

ロフトプラスワンの掲示板はゴミ箱に捨てて久しい。
今はすっかり偽物ダラ抜作が、わしに化けてくだらない事を書いてるだろう。
まぁ、今日、久しぶりに引っ張り出して行って来たんだが。
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