July 08, 2013
殿様と天気予報
空梅雨として心配されていましたが、梅雨後半は大雨もふっており、何とか水不足は免れそうです。
そんなつい先日、居酒屋で飲んでいるとき突然の大雨が断続的に。そして、落雷。
「雷が鳴ると、梅雨も終わりですね。」
ふとそんな話をすると、どうやら通じない模様。
話したのが、高松出身の人だったので、どうやら、瀬戸内では使わないらしい。
山田吉彦氏の「天気で読む日本地図 各地に伝わる風・雲・雨の言い伝え」を先日ネットで購入したのだが、その冒頭「天気見伝書」を記した平戸藩士中小姓大船頭の山崎家のエピソードが記されている。
平戸家はご存じだと思うが、日本の西の端のそのまた西に位置する。
江戸時代には参勤交代があるため、何年かに一度は江戸へ行き来しないとならないが、意外と陸路は平坦な道のりではない。
手元に平戸街道の本があるが、現在も佐世保に出るまでは山道が多く、佐世保に置いても今でこそ交通網が整備されているが、当時は、現在の市街を眼下に見下ろす、山側に街道が存在した。
また、平戸家はその歴史的な経緯もあり、この時代には珍しく軍船の所持も許可されていた。
とすれば、陸路より海路をとることは特に難しくなく、陸路での煩わしさもなく(松浦家は、その歴史的背景から宿泊地にて南蛮渡来のの品々を所望されることもあったようで、なかなかそれも煩わしかったのかもしれない。)
海路を選択した場合、やはり一番問題なのは天気である。
藩主を乗せた船が転覆など目も当てられないため、気象には十分気をつける必要がある。
また、長崎の警備も任されており、外国船の出入り等の為の気象にも注意する必要があった。
その平戸藩のいわば気象予報士というか気象庁そのものというかが山崎家である。
当然、当時に気圧計や科学的な物差しによって気象を予測するすべはなかったが、先ほどの「雷が鳴ると〜」などの地域伝承の類を代々記録し検証(!)することが仕事であった。
(記録することだけではなく、検証まで行っているところがさすがである。)
この「天気見伝書」実際に現存しており、平戸の松浦家博物館に保管されている。
このわざわざ博物館に保管されているのには、記録が貴重なものであるほかにも理由がある。
この書。山崎家の門外不出の書であるため、保存されているのは写しではあるが、これを移したのは平戸の殿様その人だと言うこともまた、貴重であるゆえんである。
写したのは、甲子夜話を表したことで有名な松浦静山の息子である煕である。
煕も静山に勝るとも劣らない学問に優れており、早く隠居し晩年を平戸で過ごしている。
ちなみに、煕があまりにも学問に優れているため、偉くなり過ぎて転封となり先祖代々の土地から離れざるを得なくなるのを、防ぐために無理矢理隠居させたとの話もある殿様で、隠居してから、静山を見習って藩内の景勝地をまとめた今で言うガイド本を編纂させたり、南蛮渡来のお菓子の作り方を編纂した今で言うレシピ本を作らせています。
この煕が天気に非常に興味を抱き、山崎家に無理を言って無理矢理写しを取らせます。
門外不出の書であったためか、藩主である煕本人が写しを取っているというのが、ほほえましいところではあります。
現在は、携帯でも簡単に見れる天気予報。
「雷がなると〜」や有名な「夕焼けが発生すると次の日は雨」などの伝承も、当時の人々にとっては貴重な情報であり、それを調べたいという山崎家やお殿様の思いが、その後の気象予報の発展に寄与したのではないでしょうか?
ちなみに、この本にはいろいろな人や時代のそれぞれの伝承がかなりの数収録されています。
意外と当たっている伝承がいろいろあるのかもしれません。
ちなみに、伝承での正解率は約5割との説も。科学技術がなかった時代にしては高いのではないでしょうか?
June 02, 2013
軍事トリビア B-52編
知らない人は「でっ?」という。
そもそもそんな話、誰も興味がないし、
何より話す友達も知り合いもない。
そんな、明日すぐ使える軍事トリビア(震え声)をご紹介。
B-52ストラトフォートレス
といえば泣く子も黙る戦略爆撃機。
第2次大戦中、日本本土を焼け野原にしたB-29の後継機(B-36,B-47もあります。)です。
B-52
ここでトリビア。
「B-52戦略爆撃機は、核(実弾)を搭載したまま墜落したことがある。」
へ、へぇー。
しかも、2度も
へ、へぇー・・・。
恐ろしい話ですが実話です。
詳しくはWikipediaに記載されていますが、
パロマレス米軍機墜落事故
チューレ空軍基地米軍機 墜落事故
2件とも、4発の核弾頭を積んだまま墜落。
よく、核を製造するのはたやすいが、起爆装置を製造するのが難しいと言いますが、まさにその起爆装置が起動しなかったのがせめてもの救い。
当然、広範囲の放射能汚染を引き起こします。
そして、未だ一部の核弾頭は引き上げられないまま海の底に・・・。
いやいや、冗談ではすまない、背筋が凍る様な話。
せめて不発でよかったと心から思う。
そんなトリビアでした。
June 01, 2013
お風呂でタブレットを見たーい。
うーん。これ何処に置いて見ればいいのやら。
と思ったことはありませんか?
悩んだあげく、手に持って入ったり、横に置いて無理な体勢で見たりして、せっかくゆっくりリラックスしながらみようと思ったのに、思っていたのと違うなんて事に。
かといってもググっても、お店に聞いてもそんな使い方のための専用のパーツなんて売ってないし、何となく気づくと使わなくなったなんて事にもなりかねません。
せっかく貴重なお給料の中から奮発して買ったその、防水タブレットや、スマフォ。
防水という何物にも代え難い機能は使わないともったいない。
せっかく買ったその防水携帯を簡単にお風呂仕様にできる安い裏技を伝授します。
答えは!「百円ショップにあり。」
なんだ。と思う方も多いかもしれません。
「ああ、百円ショップにあるのね」という方や「百円ショップに行ってもいいのがなかった」という方もおられると思います。
かく言う私も、百円ショップ好きで職場で使うノートなんかもすべて、100円ショップで買ったものです。
しかーし。ぱっと見、何となく良さそうな物があっても、意外と使ってみると全然使えない。
例えば、こんなものや
(横向きに置いても、安定しない。)
こんな物や
(同上。加工すれば使えるかもしれませんが。)
こんな物も。
(一見すると、使えそうに見えるのですが、全く使えません。)
いくつもの商品を購入し、ようやく見つけたのがこれ。
吸盤付き風呂栓ホルダー。
そう、石鹸置きでも、タオルかけでもなく、風呂栓ホルダー。
しかし、これが使い勝手がいい。
もはやこれしかないと思えるほどの、相性の抜群さ。
とにかく見ていただけると解ります。
まあ、あまりきれいとはいえない我が家の風呂で恐縮ですが。
見ていただくと解るように、壁にタブレットの両側を支えるようにセットするだけ。
ちょっとタブレットが重いので、4カ所で止めていますが、ふつうのスマフォだったら両側の2カ所で十分でしょう。
湯船に使って、リラックスして見れる位置にセットすれば、もう快適。
ちなみに、我が家では風呂に入りたがらない娘二人をなめこ動画やお気に入りの動画で釣って、お風呂に入らせています。
さあ、たった200〜400円あれば、何も作業もいらないタブレット、スマフォフォルダー。
もしよかったら使ってみてください。
May 31, 2013
山口について
広島に来てあまり今まで行くことがなかったが、仕事と個人的な旅行を含めてここ二ヶ月で3回目である。
以前職場の慰安旅行で、来たことがあるがその時の職場の先輩の一言を思い出した。
山口と言えば大内氏である。この大内氏が西ノ京とといえるような都市を造ったおかげで、今も県庁所在地であることには異論がないと思われる。
しかし、出張してみて解ったことが一つある。
交通の便が悪いのだ。
現在も新幹線が止まるの新山口駅で小郡市にある。
山口駅には、特急も止まらない。
唯一、一定の季節のみ新山口駅からでるSL山口号が止まるだけで、特に山口駅は県庁所在地の駅としては、非常に寂しい部類にはいる。
新山口駅から山口駅まで5から6駅かかることから、あまり近いとも言いづらい。
先輩の言「大内氏が何故本拠を山口にしたか解らない」
確かに。
今も昔も交通の要衝からは離れすぎている。
特に瀬戸内における海路が主流だった時代、海からこうも離れている山口を本拠にしたのは何故だろう。
考えられるとすると、萩などの日本海側との都市との連携を考えるとしても、逆に瀬戸内に近すぎる。(毛利氏の本拠吉田郡山城は、山陽、山陰の便を考えもっと中間地点よりにある。)
何か理由があるのか?
瀬戸内における海賊の襲撃をおそれたのかよくわからない。
ちなみに、山口市は日本でもっとも人口が少ない市で有名で、これほど室町戦国から幕末まで続く由緒ある都市にしては意外である。
May 27, 2013
的島大島と大島氏について(1)
(的島大島とかいて「あづちおおしま」と読む。)
平戸島の右上。度島のもう少し北側にその島はある。
面積は15.19m2で、生月島よりも若干小さい。
江戸時代は生月島と同様に捕鯨で栄えた。
今は、小さな漁港と自然が生んだ景観による観光収入がある程度である。
的島大島は、戦国期において大島氏が領していたが、地理的条件から平戸島の平戸松浦氏と密接な関係にあった。
特に大島氏は、生月の籠手田氏や一部氏と並び平戸松浦氏の関連する合戦にも多く登場し、ある意味、籠手田、一部両氏より活躍している場面も多い。
停戦の使者としての交渉や、軍船を率いての戦あり、陸戦での奮戦もあり、ある意味平戸松浦家と運命を共にした一族といっても差し支えはない。
平戸弘定の時代には、命を懸けて主君を助け、隆信の時代には、相神浦の戦いで殿として奮戦し命を落とした。
しかし・・・。
同じく重臣だった籠手田氏、一部氏と同じように、平戸との溝が深くなり。(それぞれの経緯は違うが)その子孫は鎮信の時代には平戸を出奔し筑前黒田藩に鞍替えをしている。
平戸家の重臣である大島氏になにが起こったのか?
まずは、平戸家の隆盛の礎を作った平戸弘定と箕坪城の戦いで主君を救った大島胤政から見ていきたい。
May 26, 2013
相浦について
といっても、相浦といわれても知らない人が多いはずで、日本の端の長崎のさらにその端の漁港を中心とした、現在は佐世保市のベットタウンとして存在している町である。
厳密にいうと、相浦といっても、相浦地区のことであり、周辺の町も相浦地区には一般的に含まれている。
相浦地区にある佐世保富士とも言われる愛宕山は、特に海から見た姿が秀麗で、福岡西部から長崎県にわたる、このリアス式海岸の中で、例に漏れず古代から漁業が盛んだった周辺住民の灯台代わりであり、それがこの場所に人を住まわせた理由の一つであろう。
話は遠回りしたが、というのも相浦に住む祖父が昨年亡くなり、最近また相浦に住む叔父が亡くなった。
幼い頃から、祖父や叔父の家に頻繁に遊びに行っていた私にとっては、少しずつ細くなっている様に感じられる。
「愛宕山には、昔殿様が住んでいたらしい。」
という話をよく聞いた覚えがある。
しかし、それ以上聞いても満足がいく回答はなく、この佐世保に住む人は皆歴史については、興味がないらしいということだけはわかった。
当たり前と言えば当たりまえで、海軍鎮守府がくるまでまさに名も無き村であり、さらに言えば、祖父も父親も厳密な意味では地元の人間ではない。
しかし、愛宕山への何となくな畏敬の念はそのときに生まれ、その後、松浦党に興味を持つきっかけの大きなきっかけの一つにはなっていると今でも思う。
すでに、祖父や父親の代から1〜2代過ぎた。
この町には、私を含めて、ここが地元でありこの町の歴史を少しでも多く知りたいと思う人たちもいる。
将来的にはできれば、そういった部分の一部でも占めることができることができればと、改めて思った。
May 25, 2013
Xperia acroにBluetooth用のキーボードを接続してみた。
買ったのは、buffaloの充電式ワイヤレスキーボードBSKBB15BK
ネットではどうもうまくすんなりとは接続できないような記載もあったので、多少の緊張を持って購入。
開封を待ちきれず、自宅に戻る前に近くのいすに座って開封。
とりあえず、電源を入れ、スマフォ側のBluetoothの設定画面を機動。
周辺の対象機種を検索させると同時にキーボードのマッチングのボタンを押すと・・・。
すんなり接続。
あれ?アプリとかいれなくてもいいの?
とりあえず、メモアプリを起動し打ち込む。
いやいや全然快適。
キーボード自体になれるまでちょっと時間はかかると思いますが、慣れてしまうとそんなに違和感がない。
予算の面であまり高いのは買えなかったのですが、以外と十分使えそう。
ちなみに、価格は4,980円。
全然使えそう。
あと、充電がどのくらいもつかやね。
とりあえず、ブログ程度の更新には全然使える。
これで、休止状態だったブログの更新もはかどりそう?
July 03, 2011
生協さくらの謎を追う。
3.11に発生した東日本大震災で活躍した自衛隊において、本日自衛隊震災対応の統合部隊が解散されました。
自衛隊、震災対応の統合部隊解散 支援活動に一定のメド :日本経済新聞
つい最近まで、一部の左翼勢力から”穀潰し”や”税金泥棒”、”暴力装置”などの言われ無き罵声を浴びせかけられ続け、それでも万が一の“有事”に対して備え続けた彼ら達。
それでもなお、”来るべきでない日”のその日のためにずっと鍛錬を続けてきた。
そして今内の未曾有の災害。
本来では、”来るべきでない日”ではない。
自衛隊は軍隊であり、その毎日はあくまで“有事”のためにあるのであり、それは端的に言って戦争のためである。
しかし、自衛隊には災害派遣に任を任されており(当然各国の軍隊でも災害の際は軍も出動する。)、ここ二十年来の地震や大雨等の災害が本来任務と思われる状況であり、特に阪神大震災、地下鉄サリン以降については、日本国民の間でも災害派遣が自衛隊の本来任務と勘違いしている市民も多くなっているところである。
その災害派遣においても、一部の事実を歪曲してしかつたえないマスゴミや、自分の行動や考え方に責任を持たない一部政党によって重箱の隅をつつくような監視活動や言われ無き非難により、自らの食事さえ冷えた戦闘食で済まさざるを得ないような劣悪な環境の中で、今まで救助活動を行ってきたのである。
当然、働いて当たり前、そして何かあれば非難を受ける・・・。そんな自衛隊員を密かに支え続ける女性が一人。
その名を”生協さくら”。
まあ、前置きが長くなりましたが、
防衛省共済組合
(共済組合とは?)
組合員である職員が負担する掛金(長期掛金・短期掛金・介護掛金・福祉掛金)と、国・地方公共団体等の負担金・掛金を財源とし、短期給付(組合員の疾病、負傷、出産、死亡、休業若しくは災害又は被扶養者の疾病、負傷、出産、死亡若しくは災害における給付)、長期給付(年金等の給付)等を行うものが共済組合である。
防衛省には防衛省共済組合が存在し、自衛隊員の文字通り支えとなっている組織です。
当然、防衛省共済組合ですから、掛金を払うのも給付対象も防衛省や自衛隊員になるわけで、その為か知名度はほとんどありません。
そんな、誰も知らない防衛省共済組合にちゃんとキャラクターが設定されていることが判明。
生協さくら
実は、アニメや漫画に精通した隠れヲタが多いと言われる自衛隊ですが、まさしく。
私が確認したのは、海自Ver(画像右)と空自Ver(画像左)。ご丁寧に右下に”生協さくら”との記載が。
どの様な経緯で、誰が書いたのかはわかりませんでしたが、災害派遣で疲れた隊員に対しての一服の清涼剤になった?のではないのでしょうか?
いままで、萌える防衛白書や防衛省公式キャラクターのパピルス王子、そして隊員募集のポスターなど萌えに力を注いで来た自衛隊。
“生協さくら”は恐らくその性質上、あまり公になることはないと思いますが、折角の完成度の高さからこのまま表に出ないのももったいないような気がするのは私だけでしょうか?
いつか、自衛隊以外でも見れることを楽しみにしたいと思います。
June 12, 2011
西肥前における運命の1年、永禄六年(1563)
戦国期における肥前と言えば、肥前のクマーこと、龍造寺隆信が有名です。
しかし、肥前では隆信以前、有馬仙厳こと晴純が肥前の雄として君臨していました。
当時の将軍にも認められたその実力と、海外貿易を独占したその経済力。
天文15年(1546年)、隆信の祖父、家兼の代だった龍造寺も有馬晴純に破れています。
そして、永禄六年(1563)その有馬家と龍造寺家が一戦交えます。
西肥前を実質的に支配する有馬家、そして、徐々に頭角を現し東肥前を勢力下に納めつつあった龍造寺隆信。
肥前の両巨頭である両者が小城郡丹坂峠を中心に戦い、そして、有馬家が敗れます。
龍造寺と大友が戦った今山の戦いは有名ですが、それ以前、実質的な肥前の覇者を決めるこの戦い。
当時、平戸を中心に戦国大名化しつつあった松浦隆信とそのライバルであった海賊松浦党の本家筋である松浦丹後守親の周辺を中心に、戦いの影響とその後の動きを書き連ねたいと思います。
1.平戸松浦家と相神浦松浦家の状況
当時、平戸松浦家は、宿敵である相神浦松浦氏に対し攻略準備を進めてはいたが、相神浦松浦氏は少弐家より得た養子鎮を廃嫡し、肥前の雄として名を馳せていた有馬家から有馬晴純の三男盛を迎え養子としていた。
当然このままでは手が出せないと考えた道可は、相神浦松浦氏の外堀から孤立させようと画策する。
まず、道可は対丹後守への足がかりとして、元から懇意ではあったが、諫早を治めていた有馬家家老である西郷純尭との縁を深める。そして、懇意である純尭の娘を長男鎮信の嫁に迎えようと計画する。
有馬氏の有力な家老である西郷氏と縁戚関係になることは有利であるが、さらにその娘を西郷氏から迎えるのではなく、一度有馬家の養子とさせ、有馬家の息女として鎮信の妻として迎える。丹後守と有馬家は養子で結ばれており、そして、姓別は違えども、同様に養子で平戸松浦家と有馬家が結ばれるという点にある。
現在は有馬家は相神浦松浦氏と縁戚関係である。これは、もし相神浦松浦氏が窮地に貧した場合、有馬家より援軍等の何らかの援助を得られる可能性があると言うことである。
そして、道可の策が計画通りに行けば、有馬家は平戸家の後ろ盾になり最低でもこちらに兵が向かうことはない。おそらくは、どちら側にも加勢しない可能性が高い。
現状では平戸と有馬の間には縁戚関係が無く、平戸方が相神浦方を攻めた場合、最悪有馬家は敵に回るか、最低限でも介入してくる可能性が高い。
隆信の父興信は以前、丹後守に同様な煮え湯を飲ませられたことがある。
丹後守の後ろ盾が少弐家だった、平戸と相神浦の抗争に介入され、相神浦方に有利な条件で講和させられ、一時滅ぼしたはずの相神浦松浦氏の勢力が相神浦地方における支配体勢を確立させてしまった。
平戸家も後ろ盾として、以前から大内家と昵懇にしていたが、栄華を誇った大内家もすでに内乱や毛利の台頭により解体。その後、大内に変わって九州北部を支配した大友義鎮を後ろ盾にしていたが(嫡子鎮信の鎮は、義鎮から一字もらっている。)、松浦義の時代から数代続いていた関係ほど強固な物ではなく、安泰というわけには行かない状況であった。
そこで、遠交近攻の法則に乗っ取り、現在有力な勢力である有馬氏との密接な関係を築きあげ、長年の宿敵である相神浦松浦氏を攻め滅ぼすことを狙っていた。
2.当時の有馬家の状況
当時の有馬家の当主は有馬義貞ではあったが、肥前の雄として名を馳せた有馬仙厳こと有馬晴純は健在。しかし、キリスト教を積極的に推し進めようとする義貞と晴純は激しく対立しており、1.で登場した義貞の義兄である西郷が幅をきかせ始めたことにすでに有馬家崩壊の一端を垣間見ることができる。
したがって、当時の有馬家の状況としては、龍造寺が着実に実力をつけ東肥前を支配下に入れ台頭著しく、その中で仙厳が積み上げてきた肥前の雄との名が先行しており、内実は前述の数々の問題により有名無実化していたのが実情であるかもしれない。
しかし、台頭する龍造寺氏を疎ましく思っているのは有馬氏だけではなく、九州北部を領していた大友義鎮もその龍造寺氏の台頭に快く思っていなかった。
(両者は後年、元亀元年(1570)今山にて激突。)
大友義鎮は、以前龍造寺氏と抗争を繰り広げた少弐氏の末裔を立て、さらにそれに有馬氏が呼応して攻め入ることとなった。
有馬氏は、仙厳、子の義純、大村純忠、波多氏や後藤貴明らが小城へと攻め寄せる。
しかし、龍造寺と手を結んでいた肥前千葉氏配下のの鴨打胤忠・徳島道可・持永盛秀らが奮戦し撃退される。
さらに7月、再度侵攻した有馬氏らは、龍造寺・千葉連合軍により迎え撃ったが、龍造寺隆信や鍋島信生も前線に駒を進める。さらに、龍造寺氏は、有馬方の総大将であった島原弥七郎が策にはめられ、3月と同様に龍造寺の同盟者、千葉氏等の龍造寺方にさんざんに打ち破られ、ここに有馬氏の東肥前への進出はおろか、すでに崩壊の兆しを見せていた有馬氏は、この戦の圧倒的な敗戦により決定的な打撃を受けてしまう。
3.丹坂の嵐の余波
丹坂における、肥前の雄有馬氏の完膚無き敗退。
その余波は、確実に、しかも圧倒的な早さで西肥前を駆け巡る。
最も早く行動を起こしたのは、肥前武雄の後藤貴明。丹坂の戦いの直後、有馬方として戦った同士であるはずの、大村氏を攻撃。目的を達成しなかったものの、有馬仙厳の次男でもある大村純忠を攻めたことは、有馬氏方への明確な反旗であり、圧倒的な支配により子息を周辺豪族の跡継ぎにさせ、有馬王国を作り上げていた西肥前に、嵐が吹き荒れることになる。
平戸から佐々を支配している平戸松浦氏、そして相神浦〜佐世保地方を支配下に置く相神浦松浦氏。その相神浦松浦氏の後背である地域、日宇〜早岐〜針尾地方は、相神浦松浦氏と大村氏の影響の影響下に置かれており、相神浦松浦氏と大村氏が同じ有馬方ということにより、特に諍いはなかった。しかし、肥前武雄の後藤貴明が、有馬氏に反旗を翻し大村氏を攻撃する際に、その相神浦松浦氏の後背を攻め後藤領となる。
道可は、その後藤貴明とすぐさま同盟を結ぶ。
衰えたりとはいえども、肥前の雄有馬氏に対して反旗を翻したことは、孤立から避けられず、また、佐賀の龍造寺氏の圧力から味方はいくらでも欲しかった後藤氏と、相神浦松浦氏攻めの足がかりを作りたい平戸松浦氏との利害が一致する。
当然、有馬氏の力が健在であればこのような同盟を簡単に阻止するはずであり、それすらもできなくなっていたことに、衰退の一面を見ることができる。また、道可は、前述の西郷純尭をすでに取り込んでおり、その力を十分に使い上手くある意味騙したのかもしれない。
道可は一見すると理知的でないような印象もあるが、対外的なしたたかさは、特筆すべきであり、このような工作を有馬氏だけでなく上松浦党の波多氏に対しても行っている。 この道可の能力はこの後もいかんなく発揮され、波多氏の家老であった日高氏の寝返りと壱岐の所有を達成。そして、その能力は子の鎮信にも受け継がれ、平戸城の自身による焼き打ちによる平戸藩の存続や出島完成までの間ではあるが、平戸における海外貿易、そして藩の明治までの存続につながっていく。
そして道可は、今度は有馬だけではなく後藤貴明と同盟を結ぶ。
まず、永禄6年(1563)9月次男弥次郎惟明を後藤貴明の世継ぎとすることとし、後藤貴明の娘を3男九郎親の妻とすること、そしてその化粧料として、攻め取った日宇〜早岐などを平戸松浦氏に引き渡すこととした。
すでに8月隆信は、佐々東光寺城に本陣を進め、待ちに待った相神浦松浦氏攻めを敢行しており、まさに隆信の思い通り、有馬家はすぐに援軍を寄越すことはなく、また、日宇〜早岐などの地方も平戸領に移ったことから、まさしく相神浦松浦氏を完全に包囲。
戦いの詳細は別に述べるが、相神浦松浦氏は予想外の抵抗を見せ半坂で平戸軍を破り、その後も頑強な抵抗を続ける。しかし、有馬家には往年の力はなく、丹後守親の養子、盛も有馬に戻り、相神浦は孤立を深め、とうとう平戸は相神浦松浦氏をその軍門に下すことに成功した。
その後も、有馬氏の衰退による嵐は続き、永禄十二年(1569)佐世保宮村の宮村三河純種が大村純忠に謀反、平戸方に。元亀三年(1572)には、松浦、後藤、西郷による大村氏三城攻めも行われる。
しかし、すでに東肥前では龍造寺隆信が大友を破りその力は強大な物となっており、西肥前のコップの中の嵐ともいえる争いは、肥前統一をはかる龍造寺隆信によってコップもろとも飲み込まれていくのである。
August 01, 2010
最後の晩餐
カップ麺と冷凍食品の残り。
それが沖縄最後の晩餐。
正直、仕事は最悪。
得る物は少なく、徒労ばかり多くて成果はあまりなかった。
ただ、長女ことはとそして次女さくら。
ことはは幼稚園に毎日喜んで通学し、さくらは育ちすぎるほどすくすくと成長中。
(1歳になってないのに、家中歩きまくり。)
二人とも大病もなくアレルギーもなく、二人ともすくすく成長しつつあるのは、この時代、ある意味一番の幸福と言うべきことだろう。
最後は思ったよりバタバタで、感謝の言葉も伝えることができなかった人もたくさんいたが、いつかまたお会いできる日を楽しみに。
明日の今頃は広島。また知らない土地へ向かう。
私と妻とそして二人の娘に祝福がありますように。
段ボールが積み上げられ、嫁も子供も去りがらがらになった我が家にて。
ぬけがらの 我が家に響く 夜蝉かな
柿崎春宵
北中城城と琉球の空
June 06, 2010
May 15, 2010
松浦松之介 推参!
日頃、あまり沖縄に長崎情報は入ることがないので知りませんでした。
「松浦松之介」というのは松浦市のキャラクターなんですね。
松浦市−wikipediaより
松浦市(まつうらし)は、長崎県北部、北松浦半島に位置する市である。松浦党発祥の地として知られる。
2004年9月15日に周辺離島部の北松浦郡福島町および鷹島町との間で松浦地域合併協議会を設立。2006年1月1日に新設合併を実施して新市制による松浦市となった。
場所はここです。
ちなみに、原図はこちら
松浦市シンボルマークの使用に関する要綱
そして、これが、本人。
松浦市HPより「平成22年3月の広報日記」
頭の鉢巻きに書かれているのは、三ツ星で、松浦家の家紋です。
松浦松之介
誕生日 :応永7年(1400年)1月1日
家 族 :5人。(父 今之助、母 まつ、兄 蔵之介、妹 松子)
身 長 :5尺8寸(約175センチメートル)
体 重 :16貫(60キログラム)
特 技 :居合い抜刀、友だちづくり、近頃始めたカラオケなど
好きな食べ物 :母が作るサトイモの炊き合わせ、平成に来てからは松浦の旬魚と野菜
好きな言葉 :義をもって成す
松之介は平成4年10月1日、18歳のとき、時空のゆがみによるタイムトンネルをとおり、今福町梶谷城跡に時の旅人として来臨。時の旅人として平成の世に生きることとなり、来臨後の年齢を重ねることはなくなった。
松浦市を散策していると会えるかもしれませんね。
ちなみに、
>来臨後の年齢を重ねることはなくなった。
18歳教ですね。わかります。
松浦党を世界中に広げるためがんばって欲しいものです。
なも☆彡は、18歳の松浦松之介君がカラオケでなにを歌うか非常に気になりますが、ともかく応援しています。
February 07, 2010
沖縄・春季中日キャンプ〜その1〜
沖縄の2月といえば、プロ野球キャンプ!ということで、
中日のキャンプ地である北谷球場に。
どうやら今回は週末ドアラも来るそうでに楽しみ・・・。
にしてましたが、あいにくの悪天候。
天気も悪く、練習も屋内。
何ともはややることなす。
球場周辺をうろついてみたものの、外のグランド等で練習している選手がちらほら程度。
話を聞くと、ドアラもすでに北谷球場からどこかへ行ったみたい。
残念と言うことで、読谷球場へ。
まあ、読谷も同じ様な感じでしたが、移動する選手がいたのでパチリ。
いろんな意味で期待されている「デブの星」ことブーちゃん中田選手。
(左 背番号50が中田亮二内野手 右 背番号37は岩崎恭平選手 奥は堂上剛裕外野手)
中田選手はこの日、ブーで有名な高木ブー氏の訪問も受けたようで・・・。
また来週も行くつもりなので、今度はいい絵が取れるといいなぁ。
January 02, 2010
あけおめことよろ。
すでに2日になっていますが。
まあ、第一誰が見ているか分からないようなこのブログ。
いまさら、どうでも良さそうな気がしますが。
まあ、今年の目標としてはもうちっと更新したいですな。
ネタもありませんが。
というわけで、世界遺産中城城から撮った、おめでたい初日の出画像でもみてお茶を濁して・・・。
”オタを濁す”
第3者が、オタク趣味を披露された場合において、一般人がつっこみも何も入れず受け流す言動を取ること。
まあ、そんなころで今年もよろしくお願いします。
November 08, 2009
相神浦松浦家 悲劇の武将との思いがけない縁
相変わらず、肥前松浦党の事を調べているのですが、
相神浦松浦家とのほんの少しだけ縁が。
母方の実家は現在の相浦。
昔は、相神浦(あいこのうら)と呼ばれていましたが、戦国時代に松浦丹後守親が飯盛山城を築き、平戸松浦家と壮絶なる攻防を繰り広げました。
永禄十年(1568)に相神浦松浦家は平戸松浦家に実質的に降伏。
平戸隆信の三男、九郎親を養子に迎え、丹後守親(隠居して宗金)は隠居します。
これで、相神浦地域は名実ともに松浦隆信の支配下に入り、飯盛山城には九郎親が入ります。
しかし、相神浦を継いだ九郎親は、天正二年(1574)丹波守親の家臣であった東時忠に討たれます。(当時二〇代)
(東時忠も討ち死に。)
この時、九郎親には一人の子供がおり、その名を源次郎定(さだむ)。当時五歳でした。
五歳で相神浦家を継ぎますが、五歳では何もできるわけでもなく。
初陣としては、それから数年後の九州征伐に対する出陣が初陣で当時十六歳くらいだったそうです。
その後、豊臣家への忠誠のあかしとして人質となり上洛。
大阪・堺で三年間を過ごします。
そこで、筑前の秋月種実の娘で豊臣家に奉公に出ていた女子と出会い、結婚。
当時、松浦氏と秋月氏とは付き合いがあったと考えられず、また、定も松浦家の嫡子でもない身分。
詳細は伝えられていませんが、政略結婚というより恋愛結婚だったのかもしれません。
しかし、幸せもつかの間。
文禄元年七月十七日(1592)
定は松浦鎮信と共に朝鮮に出兵し平壌で討ち死に。
享年二十一歳。
あくまで私の推測ですが、平戸隆信が相浦愛宕山に勝軍地蔵を祀ったのはこの事も一因があったのではないかと思います。
自分の三男親の忘れ形見である定。
その定が二十一歳の若さで異国の地に倒れる。
すでに晩年にさしかかり、若い頃から仏教好きだった隆信は何らかの行動をとらずにはいれなかったのかもしれません。
ともあれ、定は討ち死に。
秋月種実の娘との間に一男がいましたが、実質的に相神浦家はこの定で終わります。
短い間でしたが、戦国時代の下松浦地方に輝いた相神浦家。
もし、定が朝鮮で死ななければ・・・・また相浦の景色も違ったものになったのかもしれません。
(相神浦松浦家は、政、九郎親、定と、丹後守親を除き短命)
で、前置きが長くなりましたが、前述したとおり母は相浦の出身で母方の墓も相浦にあります。
今年の夏、祖父と母と一緒に墓がある寺に行きました。
その時はまだ不勉強で全くわかりませんでしたが、その寺に前述の松浦源次郎定が葬られているそうです。
相浦・金照寺。
もし、次回墓参りに行く際には、先祖と共に、妻と小さな子を残し異国で散った定にも思いを馳せたいと思います。
なお、定の子は信正といい、その後平戸で過ごしたそうです。
(松浦党伝統の一文字名でなく、信の字を付けたことから、相神浦家の影響は限りなく薄くなっていたようです。)
また、信正の子、信貞の時代にようやく家の再興がなり、今福に千五百石の知行を持ちます。
”今福”は、松浦宗家ゆかりの地であり、相神浦家=松浦宗家の裏付けになるかもしれません。
なお、その子孫は(理由はよくわかりませんが、登用されたとの説もあり)江戸に登り旗本として残ったそうです。
肥前松浦党についての詳しい情報は、下記のHPへどうぞ。
まつ☆すた
〜戦国期における松浦党の軌跡〜
http://maturatou.web.fc2.com/index.html
October 31, 2009
中日の今回のドラフトと近年の傾向と状況について
高校生No.1左腕菊池に湧いた今年のドラフトでしたが、
今年の中日ドラゴンズは以下のとおり。
菊池を狙ったのですがはずれ。
まあ、菊池以外はまあまあの結果。
1位 岡田 俊哉 投手(左投げ 左打ち) 智弁和歌山 91年度生
2位 小川 龍也 投手(左投げ 左打ち) 千葉英和 91年度生
3位 中田 亮二 内野手(右投げ 左打ち) 亜細亜大 87年度生
4位 松井 祐介 外野手(右投げ 右打ち) 大阪商大堺 87年度生
5位 大島 洋平 外野手(左投げ 左打ち) 日本生命 85年度生
6位 諏訪部 貴大 投手(右投げ 右打ち) ホンダ 88年度生
7位 松井 雅人 捕手(右投げ 左打ち) 桐生第一 87年度生
8位 吉田 利一 捕手(右投げ 左打ち) 奈良産大 87年度生
育成枠
矢地 健人 投手(右投げ 右打ち) 高岡法科大 87年度生
赤田 龍一郎 捕手(右投げ 左打ち) 愛知大 87年度生
まず、山本昌、小笠原の後継者である高校生左腕が2名。
そして、動ける左打ちのデブこと171cm 115kgの亜細亜大の中田。(通称ブーちゃん)
和田の後継者か?右打ち外野手の松井。
野本、藤井のライバルか?左打ちの外野手大島。
即戦力との評価も高い右腕の諏訪部。
そして、谷繁、小田の後継者であり今後最も重要な捕手に3名。
しかも、すべて右投げ左打ち。
あまり派手はないですが、まとまった指名だったのではないでしょうか?
注目すべきは、1位、2位の高卒左腕。捕手の3人指名。そして捕手含めた、野手5人の左打者。
中日の左腕としては、山本昌、小笠原、チェン、川井。
チェンは別格としても、昌はうまくいって1〜2年、小笠原もあと3〜4年。
川井も終盤の成績から行って来年以降どうなるか。
ということで、3〜4年後を見据えての1位、2位指名ということでしょうか。
そして、スタメンは言わずもがな、代打陣も立浪、井上の引退に伴う左打者不足。
なにより、谷繁に続く捕手の育成。
まあ、一通り弱点の補強と言うところ。
上位指名はもちろんのこと、下位指名の育成にも定評がある中日ですので、下位指名の選手もがんばれ!!
(井端もドラ5位)
これからの活躍を期待しています。
今年入団する10人の選手。北谷・読谷キャンプでサインをもらいたいな。
そして参考に、最近のドラフト。
野手
2009年 中田 内野手 左 87年生 3位
2009年 松井 外野手 右 87年生 4位
2009年 大島 外野手 左 85年生 5位
2009年 松井 外野手 右 87年生 7位
2009年 吉田 捕手 左 87年生 8位
2009年 赤田 捕手 左 87年生 育成
2008年 野本 外野手 左 84年生 1位
2008年 岩崎 内野手 左 86年生 3位
2008年 井藤 外野手 左 90年生 7位
2008年 加藤 外野手 右 86年生 育成
2008年 小林 外野手 右 86年生 育成
2007年 谷 内野手 右 85年生 3位
2006年 田中 捕手 右 84年生 1位
2006年 岩崎 内野手 右 84年生 5位
2006年 西川 内野手 左 84年生 7位
2006年 堂上弟 内野手 右 88年生 1位
2006年 福田 内野手 右 88年生 3位
2005年 藤井 外野手 両 81年生 3位
2005年 新井 内野手 右 83年生 4位
2005年 柳田 内野手 右 81年生 5位
2004年 平田 外野手 右 87年生 1位
2004年 中村一 外野手 右 82年生 7位
2004年 澤井 内野手 両 79年生 11位
2003年 中川 内野手 右 85年生 1位
2003年 中村公 外野手 右 81年生 5位
2003年 堂上兄 外野手 左 85年生 6位
2003年 小川 捕手 右 79年生 8位
投手
2008年 伊藤 投手 右 91年生 2位
2008年 高島 投手 右 90年生 4位
2008年 岩田 投手 右 86年生 5位
2008年 小熊 投手 右 90年生 6位
2007年 山内 投手 右 85年生 1位
2007年 赤坂 投手 右 89年生 1位
2007年 赤坂 投手 右 89年生 1位
2007年 樋口 投手 右 89年生 3位
2006年 浅尾 投手 右 84年生 3位
2006年 菊池 投手 左 84年生 4位
2006年 清水 投手 右 83年生 5位
2005年 吉見 投手 右 84年生 1位
2005年 斎藤 投手 右 81年生 6位
2005年 佐藤亮 投手 左 83年生 7位
2004年 中田 投手 右 82年生 2位
2004年 川井 投手 左 80年生 4位
2004年 鈴木 投手 右 83年生 5位
2004年 金剛 投手 右 79年生 7位
2003年 佐藤充 投手 右 78年生 4位
採用年度ではなく、年齢(年度生まれ)に整列すると・・・。
野手
2003年 小川 捕手 右 79年生 8位
2004年 澤井 内野手 両 79年生 11位
2003年 中村公 外野手 右 81年生 5位
2005年 柳田 内野手 右 81年生 5位
2005年 藤井 外野手 両 81年生 3位 ○
2004年 中村一 外野手 右 82年生 7位
2005年 新井 内野手 右 83年生 4位 △
2006年 田中 捕手 右 84年生 1位
2006年 岩崎 内野手 右 84年生 5位
2006年 西川 内野手 左 84年生 7位
2008年 野本 外野手 左 84年生 1位 ○
2009年 大島 外野手 左 85年生 5位
2008年 岩崎 内野手 左 86年生 3位
2008年 加藤 外野手 右 86年生 育成
2008年 小林 外野手 右 86年生 育成
2009年 松井 外野手 右 87年生 4位
2009年 松井 外野手 右 87年生 7位
2009年 吉田 捕手 左 87年生 8位
2009年 赤田 捕手 左 87年生 育成
2004年 平田 外野手 右 87年生 1位 ○
2009年 中田 内野手 左 87年生 3位
2006年 堂上弟 内野手 右 88年生 1位 △
2006年 福田 内野手 右 88年生 3位 △
2008年 井藤 外野手 左 90年生 7位
投手
2003年 佐藤充 投手 右 78年生 4位 △
2004年 金剛 投手 右 79年生 7位
2004年 川井 投手 左 80年生 4位 ○
2005年 斎藤 投手 右 81年生 6位 △
2004年 中田 投手 右 82年生 2位 ◎
2006年 清水 投手 右 83年生 5位 △
2005年 佐藤亮 投手 左 83年生 7位
2004年 鈴木 投手 右 83年生 5位 ○
2006年 浅尾 投手 右 84年生 3位 ◎
2006年 菊池 投手 左 84年生 4位
2005年 吉見 投手 右 84年生 1位 ◎
2007年 山内 投手 右 85年生 1位
2008年 岩田 投手 右 86年生 5位
2007年 赤坂 投手 右 89年生 1位
2007年 赤坂 投手 右 89年生 1位
2007年 樋口 投手 右 89年生 3位
2008年 高島 投手 右 90年生 4位
2008年 小熊 投手 右 90年生 6位
2008年 伊藤 投手 右 91年生 2位
さすがに、投手に比べて野手はなかなか芽が出ないなぁ。
堂上、福田はまだ若いのでこれから期待。
新井、岩崎はそろそろ活躍しないと厳しいかな・・・。
投手はさすが、中田、吉見を中心にいい投手が結構。
これからもっと活躍してほしいなと。
しかし、ドラフト後この中から戦力外も数人出るんだろうな・・・。
October 19, 2009
地元もちょっと松浦党の話題で盛り上がってる?
「まつ☆すた」を立ち上げた記事を書いたのですが。
地元の佐世保市でもほとんど知名度がない松浦丹後守親。
しかし、歴女ブームに乗ってか、ほんのちょっと露出が。
記事が載ったのは、ライフさせぼという地元の情報誌。
結構創刊から歴史もあり、私も子供の頃から見てた覚えがあります。
そのライフ佐世保が”佐世保の戦国武将”特集。
たまたまなのか、なんなのか。
松浦丹後守親、遠藤但馬守盛胤、松浦惟明、針尾伊賀守の四名。
内容的にはあまり新しい発見はさほどありませんでしたが、
気になったのが、松浦親の養子、松浦鎮が非業の死を遂げたということくらい。
廃嫡されたのは聞いたことありますが、非業の死は聞いたことはなかったのでちょっとはてな。
あと、針尾伊賀守はまだよく調べてないのでなんとも。
とりあえず、地元で歴史の話題が出ること自体が希なので、少しうれしい。
ちなみに、何で沖縄にいるのにわかったのか。
友人から電話がかかってきたのと、親がわざわざ記事を送ってきたから。
何というか。さすがです。
あと、ライフさせぼさんのHPにある「歴史散歩同行二人」。
これ、復活しないんでしょうか?
すごく勉強になる内容なのに・・・。
October 18, 2009
商品化する方もする方だ。
近所のヤマダ電機で発見。
ニコニコ動画で、動画は知っていましたが、商品化までしていたとは。
イタすぎて飾れない!!限定版アイマス痛戦闘機
個人的には、Su-47ベールートだったら、速攻買ったかも。
しかし、Su-47は、前進翼がきもくてかっこいい。
October 12, 2009
バスむすめ
現在、なも☆彡は沖縄でバス通勤。
まあ、沖縄には電車がありません(モノレールはあるけど一部区間)のでしょうがなく。
高校時代はバス通学でしたが、それ以来の約10年ぶりのバス通勤をやってはや2年半。
就職してから電車通勤に慣れてしまってるので、さすがに未だに辛いと思うことも少々。
1.本数少なすぎ。
ちなみにうちの近くのバス停は1時間に2本程度しか走っていません。
2.時間通りに来ない
特に那覇の街を通ってくるバスは平気で15分遅れてくる。
1時間に2本しか来ないバスが、平気で15分以上遅れるのはもうどうしようも。
正直歩いても(片道約50分)あんまり時間的には変わらない。
3.当然乗り換えなんて運次第。
もうね。幅がありすぎてどうにも。
4.当然時間なんて計算できない。
同じ距離を出発時間も同じで最速70分〜最遅110分。
朝通勤に40分も違うというのはもう交通機関としての使命を果たしてないというか。
とまあ、バスにはもう不満ばかりなのですが。
と思っていたら、定期を更新に行った所に、ある1枚のポスターが。
最近不勉強でよく知りませんでしたというか、たぶん沖縄では誰も知らない。
2008年9月だからもう発売から1年ってるのね。かなり激しくいまさらですみません。
ヲタ成分の少ない沖縄。
この娘のポスターをバスに貼りまくればいらいらも多少解消?
October 04, 2009
肥前松浦党〜戦国期における下松浦党の動向〜
http://maturatou.web.fc2.com/
以前このblogにも書きましたが、
地元長崎〜佐賀で活躍した松浦党。
特に長崎北部地方で活躍した下松浦党に注目しています。
とくに田舎の佐世保地方では、江戸時代の一漁村から軍港により急激に街が大きくなり他県人が多く流れ込んできたため、厳密な意味で地元の人間としては多くはありません。
(私も父は鹿児島人です。)
このため、明治期以前の佐世保史に興味がある人も少なく(私もその一人でしたが)、学校でも全く教えてもらうこともありませんでした。
しかし、何となく各所に残る城跡。
正直、誰に聞いても正確な答えが返ってくることなく、三十路近くになるまで全く不思議にも思いませんでした。
それが・・・ふと、調べてみると、おもしろい事実が続々と発見されます。
確かに資料もほとんどないので、限られた範囲ですが・・・。
平戸まで含め長崎県北地域のすばらしい歴史。
なぜ、興味を持ったのか?
それは佐世保が田舎だからです。
父の田舎は鹿児島ですが、私の田舎は佐世保。
前述したとおり、他県人が多いため1〜2世代までは、佐世保を田舎として認識する人は少ないと思います。
しかし、2〜3世代までになると、佐世保を田舎として認識する人も多くなってきたはず。
また、それは、特に遠距離に離れて住んでより強く感じることかもしれません。
すでに実家を離れて10年以上。
「故郷は遠くにありて思うもの。」だからかもしれません。
しかし、遠く離れているからこそ、望郷の念は増すもの。
我々の世代で、佐世保を田舎として言える人は多くなっているはずです。
そんな人にも、少しだけでもこんな歴史が佐世保を含め県北地方にはあるんだと言うことを知ってもらいたいと思います。
まあ、どこまで史実的に正しいのかはわかりませんが、とりあえず下松浦党ファンページとして読んでいただければありがたいと思います。
もし、戦国期の下松浦党に詳しい人がいれば、ご教授ください。