Namuraya Thinking Space

― 日々、考え続ける。 ―

電池ネタでもう1つ。電気自動車といえばバッテリー切れが心配だが、高速道路を走りながら充電することが可能になるかもという記事を目にした。最近、無線充電という言葉をよく聞くが、これをさらに発展させたもの。道路の下に無線充電の装置を埋め込んでおき、走りながら充電させるのだそうだ。

そもそも「電車」というのは、走りながら電気を得ているのであり、発想は同じ。これを有線でやるか、無線でやるか、だけの違いである。とはいうものの、こんなことが実現できたら、さぞかし便利になるであろうなぁ。

感電はしないのか? 電気代はどうやって払うのか? などなど、疑問は尽きないが、こういった革新的な技術というのは、何となく胸躍るものである。インフラに属するものなので、公共投資の一環として進めるのだろうか。高速道路需要の盛んな国々への輸出も考えられる。今のうちからデファクトスタンダードを作りこみ、是非とも日本にリードしてもらいたい分野である。

◇1465 『続・道をひらく』 >松下幸之助/PHP

非常に感銘を受けた『道をひらく』の続編。本書もトイレに持ち込み、じっくりと読み込んだ。

これは個人的な好みの問題なのであろうが、前作に比べると、本書の方が四季折々の自然を見て考えたことなどが随筆的に書かれており、感激は薄めであった。と、書きつつ、ページを折った箇所は前作よりも多くなってしまった。全文引用という気分でもないので、気になったところだけを。

・愚直の人:正直すぎるのはいけないことなのか。ひたすらなのはいけないことなのか。機転がきかなくて融通がきかないのはいけないことなのか。

・知恵は無限:なすべきことをなすという勇気と、人の声に私心なく耳を傾けるという謙虚さがあったならば、知恵はこんこんとわき出てくるのである。

・次善の策:最善に越したことはないけれど、現実にはそれがゆるされない場合がしばしばあるのである。それを押せば無理が起こる。悩みが起こる。そこで次善の策ということが大事となる。次善は最善ではない。しかし次善だからとて軽んじてはいけない。落胆してはいけない。次善は最善に達する一つの大切な道程なのである。

・転機:今まで通りではいけないのである。今まで通りに安住してはいけないのである。思いを一新しなければならぬ。やり方を一変しなければならぬ。日本も世界も、今日ただいまはそういうときなのである。そういうきびしい転機に立っているのである。危機とは転機の自覚のないことをいうのである。

・のりうつる:たえず自分をムチうって、乏しいなりにも自分の力を精いっぱい出し切って、その自分の力が、相手の人にのりうつるぐらいの迫力ある働き方をしたいのである。

・りくつ:少々つじつまが合わなくてもよい。りくつに合わなくてもよい。そんなことにとらわれるよりも、人を心から愛し、敬し、そしていたわり合う素直な思いのままに語り合えないものか。トツトツとした語りでもよい。大事なことは、りくつのやりとりではない。心が通じ合うことである。

・自分のもの:どんなものでも本当は、自分のものというのは一つもないのである。自分のものがあると思っていても、それはかりにそう定められているだけのことであって、本当は何もないのである。授かったものである。預かったものである。つまり、あるということは、ないということでもある。だからこそ、どんなものでも、これを大事にしなければならない。

・自己反省:ゆきづまりは、みずからを省みる心が失われたときにあらわれるのである。

・脚下照顧:まず、脚もとを整えよ。この際、家をキチンとし、周囲を整え、姿を正し、心を定めて、お互いの繁栄のために、我、何をなすべきかを、静かに考えてみたいものである。

・世の中:世の中はいい先生である。寛大なところはあるが、最後には正邪をちゃんと弁えている。だから馬鹿にしてはいけない。すじみちの通ったことはやはり通してくれるのである。なぜ自分の思うようにならないか、世の中を先生に一度よく考えてみたいものである。

充電可能な電池を二次電池というが、現在の主流は液体の材料を電池内に閉じ込めておくもの。このため、液漏れや発火などの事故が起こる可能性が生じるのだ。こういった発火事故を防ぐべく、「固形電池」が開発されているという。要するに、固体を使用した二次電池であり、液漏れや発火が防げるという技術らしい。

我々消費者にとっては、身近で使うスマートフォンなどが発火したり爆発したりしては、たまったものではないので、安全性が向上するというのは喜ばしいこと。しかしながら、組立の技術が簡単になるということは、誰にでも作れるようになるということでもある。

従来の二次電池は、液体の配合だの、液漏れを起こさないパッケージングの技術だの、発熱を防ぐリミッター機能だのと、技術の蓄積が求められた世界。これが簡単に組立てられるようになると、パソコンやテレビといったデジタル製品と同じような、労働集約型、設備集約型のビジネスになってしまう。

日本のお家芸ともいえるすり合わせが生きる分野がまた一つ減ってしまうのではなかろうか。

◎1464 『道をひらく』 >松下幸之助/PHP

本書も少しずつ時間をかけて読み進めたもの。以前、何かの雑誌で、本書を常にカバンの中に入れておき、隙間時間に読み返しているという経営者の方がいらっしゃったのを思い出した。経営、という観点だけに絞れば、中国の古典などにも匹敵するような名著だと言えよう。一つひとつの文章が平易で、謙虚で、素直で、幸之助翁のお人柄が伝わってくるよう。

本書は、手元に置いておき、何度も読み返したい本の一冊になるだろう。今日のところは、特に感じ入った3編のみを引用しておきたい。

■素直に生きる

逆境−それはその人に与えられた尊い試練であり、この境涯にきたえられてきた人はまことに強靭である。古来、偉大なる人は、逆境にもまれながらも、不屈の精神で生き抜いた経験を数多く持っている。

まことに逆境は尊い。だが、これを尊ぶあまりに、これにとらわれ、逆境でなければ人間が完成しないと思いこむことは、一種の偏見ではなかろうか。

逆境は尊い。しかしまた順境も尊い。要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きることである。謙虚の心を忘れぬことである。

素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚を生む。逆境、順境そのいずれをも問わぬ。それはそのときのその人に与えられた一つの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい。

素直さは人を正しく聡明にする。逆境に素直に生き抜いた人、順境に素直に伸びてきた人、その道程は異なっても、同じ強さと正しさと聡明さを持つ。

おたがいに、とらわれることなく、甘えることなく、素直にその逆境に生きてゆきたいものである。

■日々是新(ひびこれあらた)

年があらたまれば心もあらたまる。心があらたまればおめでたい。正月だけがめでたいのではない。心があらたまったとい、それはいつでもおめでたい。

きのうもきょうも、自然の動きには何ら変わりはない。照る陽、吹く風、みな同じ。それでも心があらたまれば、見るもの聞くものが、みな新しい。

年の始めは元日で、一日の始めは朝起きたとき。年の始めがおめでたければ、朝起きたときも同じこと。毎朝、心があらたまれば、毎日がお正月。あらたまった心には、すべてのものが新しく、すべてのものがおめでたい。

きのうはきのう。きょうはきょう。きのうの苦労をきょうまで持ち越すことはない。「一日の苦労は一日にて足れり」というように、きょうはまたきょうの運命がひらける。きのうの分まで背負ってはいられない。毎日が新しく、毎日が門出である。

日々是新なれば、すなわち日々是好日。素直で謙虚で、しかも創意に富む人は、毎日が明るく、毎日が元気。

さあ、みんな元気で、新しい日々を迎えよう。

■自分の非

人間は神さまではないのだから、一点非のうちどころのない振舞などとうてい望めないことで、ときにあやまち、ときに失敗する。それはそれでいいのだが、大切なことは、いついかなるときでも、その自分の非を素直に自覚し、これにいつでも殉ずるだけの、強い覚悟を持っているということである。

昔の武士がいさぎよかったというのも、自分の非をいたずらに抗弁することなく、非を非として認め、素直にわが身の出処進退をはかったからで、ここに、修業のできた一人前の人間としての立派さが、うかがえるのである。

むつかしいといえばむつかしいことかもしれないが、それにしても、近ごろの人間はあまりにも脆すぎる。修練が足りないというのか、躾ができていないというのか、素直に自分の非を認めないどころか、逆に何かと抗弁をしたがる。そして出処進退を誤り、身のおきどころを失う。とどのつまりが自暴自棄になって、自分も傷つき他人も傷つけることになる。これでは繁栄も平和も幸福も望めるはずがない。

自分の非を素直に認め、いつでもこれに殉ずる−この心がまえを、つねひごろからおたがいに充分に養っておきたいものである。

転勤してから、日経ビジネスの購読をやめてしまった。情報量のコントロールというのは難しく、読まないものは読まないと、ある程度割り切って考える必要がある。そんなことを考えて、購読を中止したのだが、未来テックのように最新技術に関するトレンドを追いかけている記事を読めなくなったのは残念。

私は技術者ではないので、世の中の技術トレンドを事細かに追いかける必要はないのだが、世情に疎くなってしまうのもまずい。そう考えて、新聞記事や他の雑誌などでも、技術に関することが書かれていたら、ちょっと目を止めるようにしている。

そんな中で気になったのが、「顔認証」の技術がかなり進んでいるという記事。例えば、入館のゲートを社員証などなしに、顔認証で管理することもできるというのだ。

この技術が進化するということは、機械が人間の顔を判別できるということ。サングラスをかけていたりマスクをしていたりした場合にどうなるかまでは書かれていなかったが、顔だけでなく、体全体の歩き方などを捉えることで、顔が隠れていても認証できるようになるかもしれない。

そうなると、小型のドローンに特定の人物の顔を認識させておき、暗殺することも可能になってしまう。

先日のアメリカの黒人殺害に関するデモ運動で、機械の兵器が使われたというニュースを聞いて非常にショックを受けた。アシモフが唱えた3原則など、簡単に乗り越えてしまい、非常に危ない領域に入りつつあるのではなかろうか。

◇1463 『インクルージョン思考−複数の問題を一気に解決する』 >石田章洋/大和書房

引っ越してきてから、家の周りに本屋がなく、本を買う機会が激減している。ここぞとばかりに、積読本の消化に走っているのだが、それでもたまには本を買いたくなる。本社に出張した際の、駅の本屋などは、そんな欲求を満たしてくれる絶好のスポット。今回は、発車まで10分ほどの待ち時間しかなく、あわただしい中で選んだ一冊。

表紙を見て、さらに目次も眺めて、「複数の問題を一気に解決する」という謳い文句に魅かれたのだが結果は今一つ。結局、東京から茨城への帰りの電車の中で流し読みして終わってしまった。巷によくあるアイデア発想法と何ら変わり映えのしない内容。残念。

気になった箇所も少なく、ちょっとだけ引用。

・「アイデアとは、複数の問題を一気に解決するものだ」 任天堂・宮本茂氏(ドンキーコングをジャンプさせるというアイデアで、ゲームのバリエーションを広げた)

・「偉大な作曲家たちは、意欲が湧いたから作曲に取り組んだわけではない。取り組んだので意欲が湧いたのだ」 音楽評論家・アーネスト・ニューマン

・異質な意見、自分とは異なる意見に出会ったときは、いったん「留保」して掘り下げる。

・「異縁連想」 一見何のつながりもないようなかけらが、異分子として結びつくことで、それまでになかったアイデアが生まれる。

・笑いのメカニズム「緊張と緩和の理論」 緊張したあとに、それが緩和してほぐれた、あるいはくだけた状態になると「笑い」が生まれるというもの。落語家の2代目・桂枝雀師匠の持論であり、松本人志もよく口にする理論。

・マインドフルネス。日常的にボーっとする時間を、意識的につくることで、直観力が磨かれる。

オバマ大統領の広島訪問を見て、急に行きたくなってしまった。米国人に影響を受けて訪問、というのは日本人としては恥ずかしいのかもしれないが。小学生のころ、修学旅行で一度訪れたように思うのだが、記憶が定かではない。当時は、冷戦の真っただ中で核の脅威が現実に迫っていた頃なのだが、幼い頭では、きちんと認識できていなかったようだ。

冷戦は終わったが、新たな脅威が世界を取り巻いている。北朝鮮の核開発も怖いが、それよりも、イスラム国などのテロ組織に核が渡ることを考える方が、現実味があって本当に恐ろしい。

大規模な戦争はなくなったが、今でも一般市民が空爆の巻き添えを食ったり、突然のテロに巻き込まれたりして命を落としている。ヒロシマは、核被害の象徴のみならず、一般市民が無差別に殺戮されたという象徴でもある。

「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という石碑を目にして、思わず涙ぐむとともに、言いしれない怒りが湧いてきた。今まさに、過ちを繰り返そうとしている人類に対する怒りが。

【原爆ドーム】
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【原爆投下の目標になった相生橋】
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【原爆の子の像】
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【約束が刻まれた石像】
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【オバマ大統領からの折り鶴】
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所要があって広島へ行ってきた。少し時間ができたので厳島神社へ足を運んでみた。JRの広島駅から宮島口という駅まで約30分、そこから歩いて数分でフェリー乗り場があり、フェリーに乗ってしまえば10分程度で到着してしまう。もっと遠いかと思っていたのだが、意外に近い。

島にたどり着くと、外国人の観光客だらけ。少し前に訪れた大宰府も外国人観光客でにぎわっていた。大宰府は中国人が多かったが、厳島神社のほうは欧米人の観光客の方が多いように感じた。赤い神社はいかにも東洋的だが、中国人にとっては見慣れた建物なのかもしれない。

世界遺産に登録されているだけあった、海上に浮かぶ神社や鳥居は壮観。写真でみるとけばけばしい感じがしなくもないが、本物は何となく厳かでさえあった。

天気が良かったので神社以外も散策。外国人観光客は、ガイドブックなどに紹介されているところ以外は興味がないのか、外国人だけでは行きづらいのか、少し歩いただけで急に人通りが少なくなる。おかげでのんびりと緑の中を散策。

主要スポットをすべて見て歩くと3時間程度かかるとのことだが、2時間程度で切り上げて広島に戻る。時間配分の関係で厳島神社を先に見学したが、広島へ来て本当に行きたかったのは原爆ドームなのだ。

【赤い柱が美しい厳島神社】
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【有名な海に浮かぶ大鳥居】
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【多宝塔】
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【千畳閣】
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◇1462 『成功への情熱』 >稲盛和夫/PHP

下世話な話で恐縮だが、トイレの中というのは、集中して読書ができる場所の1つ。個人的には電車の中も集中できるのだが、工場勤務になってからは徒歩通勤なので、トイレが唯一の場になってしまった。もちろん、書斎でも本は読むのだが、なぜかはかどるのはトイレの中。他に気をそらすものがなく、集中できるのであろう。

しかしながら、トイレの中は少し難易度の高い本を、線を引き引き読むには適していない。そこで最近は、1つのテーマが1〜2ページに収まっている、PHPの本を好んで読むようになった。松下幸之助、土光敏夫、稲盛和夫といった名経営者の一言ひとことを噛みしめながら読んでいく。原理原則について書かれているものが多く、ふとした気付きを与えてもらえる。

第1弾は稲盛和夫の『成功への情熱』 稲盛さんの著書は数多く読んできたので、どこかで聞いたことのあるものばかり。しかしながら、このような含蓄のある言葉は、何度も何度も少しずつ表現を変えて味わうことで、自分の血肉となろう。この手の本は、読むタイミングによって感銘を受ける場所が毎回異なってくるもの。今の私が、これだと感じた箇所を引用しておきたい。

・読書で視野を広げる。自らの直接的な経験と、読書を通して得た間接的な経験は、人生で成功を収める上での精神的な基礎を作ってくれます。

・細部にまで注意を払う。集中するということは習慣性の問題です。もし細部にまで注意を払う習慣を身につけていれば、どのような状況にあってもたちどころに集中することができるでしょう。

・潜在意識を働かせる。あらゆることを真剣に繰り返すことにより、潜在意識が迅速に正しい判断を下せるようになるのです。

・夢を持ち続ける。素晴らしいチャンスは、ごく平凡な情景の中に隠れています。それは強烈な目標意識を持った人の目にしか映らないものなのです。

・できると思い込む。強烈な願望を描き、心からその実現を信じることが、困難な状況を打開し、物事を成就させるのです。

・両極端をあわせ持つ。ひとつの人格の中に、相反する両極端をあわせ持ち、局面によって正常に使い分けられるのが、バランスのとれた経営者なのです。

・大善をもって導く。「大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり」という言葉があります。小善をもって部下を導いていくリーダーは、つかの間の名声や成功しか手にすることはできないのです。

・心の次元を高める。複雑な現象というのは、単純な事実の投影に過ぎない。複雑な問題を解決するには、まず自分の心の次元をひとつ高めて物事を見ることが必要なのです。

・自己の可能性を限りなく追及する。「何か良いアイデアはないか」と、人はインスピレーションを外に求めがちです。しかし私は、内に求めます。自分が今やっている仕事の可能性をとことん追求して、改良を加えていくと、想像もつかないような大きな革新を図ることができるのです。


特に感銘を受けたのは、最後に引用した「アイデアを内に求める」というもの。私自身、読書から得たものは果てしなく大きいが、ともすれば受け身になりがち。このブログを始めた当初に掲げていた「能動的読書」、考えながら読む読書を今一度、実践していきたい。

まるで村上春樹の小説にでも出てきそうな夢。書斎の床に寝転がって、本を読んだまま寝入ってしまう私。うとうとと浅い眠り。ふと目が覚めると金縛りにあって動けない。眼だけは動くので、入り口の方を見ると、寝る前に脱ぎ散らかした靴下が、かすかに動いている。

靴下は、よく見ないと気付かない程度の速度で少しずつ動いていく。不思議だなぁと思い、さらにじっと眺めていると、小人が靴下を引っ張っているではないか。靴下よりももっともっと小さな小人のため、靴下ですら重くてなかなか動かない様子。だからこんなにゆっくりとしか動かないのだろうか。

小人がようやく靴下を部屋の外へ運び終えたあたりで、目が覚めた。普段は本を読んでいて寝入ったりはしないのだが、目が覚めた私は、夢の中と同じ格好で寝そべっていた。。。

◇1461 『イノベーションと企業家精神』 >P.F.ドラッカー/ダイヤモンド社

今や「イノベーション」というカタカナ言葉はすっかり定着しており、至るところで見かけるようになった。これはやはりクリステンセンの『イノベーションのジレンマ』に負うところが大きいであろうか。本書がベストセラーとなり、イノベーションという言葉が市民権を得たように感じる。

さて、本書はドラッカーによるイノベーション論。1985年の著書であり、『イノベーションのジレンマ』が出版されたのが1997年であることを鑑みると、その先見の明はさすがである。

まずは気になったところを引用。

・プロセス・ギャップは、なかなか見つけられないような代物ではない。消費者がすでに感じていることである。(中略)欠けていたものは、それらの声に耳を傾けることであり真剣に取り上げることだった。製品やサービスの目的は消費者の満足にある。この当然のことを理解していれば、プロセス・ギャップをイノベーションの機会として利用することは容易であり、しかも効果的だった。

・イノベーションが成功する5つの前提:(1)完結したプロセスについてのものであること、(2)欠落した部分や欠陥が一か所だけあること、(3)目的が明確であること、(4)目的達成に必要なものが明確であること、(5)「もっとよい方法があるはず」との認識が浸透していること、つまり受け入れ態勢が整っていること。

・産業構造の変化が起こっているとき、リーダー的な生産者や供給者は必ずといってよいほど市場の中でも成長しつつある分野のほうを軽く見る。急速に陳腐化し、機能しなくなりつつある仕事の仕方にしがみつく。だが、それまで通用していた市場へのアプローチや組織や見方が正しいものでありつづけることはほとんどない。

・産業構造の変化をとらえるイノベーションが成功するには、1つだけ重要な条件がある。単純でなければならないということである。複雑なものはうまくいかない。

・産業や市場の外部における変化のうち、人口の増減、年齢構成、雇用、教育水準、所得など人口構造の変化ほど明白なものはない。いずれも見誤りようがない。それらの変化がもたらすものは予測が容易である。しかもリードタイムまで明らかである。

・コップに「半分入っている」と「半分空である」とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が「半分入っている」から「半分空である」に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる。

・いかなる分野にせよ、イノベーションに成功する人たちは、そのイノベーションを行う場所に近いところにいる。彼らがほかの人たちと違うのは、イノベーションの機会に敏感なところだけである。

・知識によるイノベーションの第一の特徴は、リードタイムが長いことである。新しい知識が出現してから技術として応用できるようになるには長いリードタイムを必要とする。市場において製品やサービスとするにはさらに長いリードタイムを必要とする。

・科学上の新理論が、ほぼ同じリードタイムを要することは偶然ではないと思われる。トーマス・クーンは、その画期的な書『科学革命の構造』において、科学上の新理論がパラダイムとなり、ほかの科学者によって認められ、それぞれの研究に組み入れられるには30年を要することを明らかにしている。

・私の知る限り、創業者が企業家精神のためのマネジメントを組織の中に確立していなかった企業で、創業者がいなくなっても企業家的でありつづけたところは1つもない。

・最も重要なタブーは管理的な部門と企業家的な部門を一緒にすることである。企業家的な部門を既存の管理的な部門のもとに置いてはならない。既存の事業の運営、利用、最適化を担当している人たちにイノベーションを任せてはならない。既存のもののための原理や方法を変えることなく企業家的たろううとしても無理である。失敗は必至である。片手間に企業家的たろうとしてもうまくいかない。

・真に企業家的な企業は、自らの産業、技術、市場におけるイノベーションのパターン、リズム、タイムスパンを知っているものである。


後半部分は、箇条書きにした方が分かりやすそうなので、要約して列挙。

・知識によるイノベーションに成功するには、(1)知識そのものに加えて、社会、経済、認識の変化などすべての要因を分析する必要がある。(2)戦略を持つ必要がある。(3)マネジメントを学び実践する必要がある。

・科学や技術によるイノベーションを行おうとする者にとっては、時間が敵だ。

・イノベーションに成功するには焦点を絞り単純なものにしなければならない。凝りすぎてはならない。多角化してはならない。未来のために行ってはならない。現在のために行わなければならない。

・イノベーションは集中でなければならない。強みを基盤としなければならない。つまるところ経済や社会を変えなければならない。

・企業家精神には4つの条件がある。(1)イノベーションを受け入れ、変化を脅威でなく機会とみなす組織をつくりあげなければならない。(2)イノベーションの成果を体系的に測定しなければならない。(3)組織、人事、報酬について特別の措置を講じなければならない。(4)いくつかのタブーを理解し、行ってはならないことを知らなければならない。


私自身は会計関係の部門に属しており、イノベーションとは一見無縁のようにも思える。しかしながら、考えようによっては、会計の世界といえどもイノベーションは存在するはずであり、実務の手法を根本的に変えてしまう発想などを取り入れることが可能であろう。本書を読んで得た気付きは、そういった変革(=イノベーション)を起こすためには集中が必要であること、そして一定の時間が必要であること、の2点である。

何かを変えようと思えば、「集中」して取り組む必要があり、一方で、いくら集中して取り組んでも、それなりに「時間」がかかるもの、とあきらめる。リソースを集中できずに失敗してしまったり、せっかく集中しても時間を待てずに途中であきらめてしまったり。そんな失敗が転がっていそうである。

○1460 『ねじまき鳥クロニクル』 >村上春樹/新潮文庫

仕事が少し立て込んでおり、かつ、以前に比べると仕事でパソコンに向かう時間が増えたせいか、家に帰ってまで文字を打つのが億劫になってきた。(以前は、パソコン仕事よりも書類を見たり打ち合わせをしたりする方が多かったのだ) 書評というのは、少し時間を置いてしまうと、読了直後のビビッドな感想が書けなくなる。そうして、余計に筆を執りたくなくなるという悪循環。

そんなこんなで10冊以上、感想を書かないままとなっている本が溜まってしまった。このままではまずいので、一番印象的だった本書から感想を。

読書記録をたどると1997.10.27から10.30の間に、一気に読み切っている。当時の感想は、村上作品にしてはさほど面白くないなぁというもの。今一つだった印象のみで、詳細は覚えていない。

それでも出だしの部分は何となく記憶にあるような気がしたのだが、これはもしかしたら短編の『ねじまき鳥と火曜日の女たち』の記憶かもしれない。なぜなら、第2部あたりから、自分でもびっくりするくらい何も覚えていないのだ。どんな小説でも、再読すればワンシーンくらいは思い出すのに。人間の記憶の不思議さを感じる。

初読から20年を経て、まったく新しい小説を読むかのように向かい合った作品。私の年齢が上がったことで、今回は楽しみながら読むことができた。それでも若いころのように、4日で読み切ることは出来なかったが。

本書を読んでいて一番印象的だったのは深い井戸の存在。村上さんが別のエッセイで、小説を書くという行為は自分の深いところに降りていくような作業、と語っていたが、まさにその「深いところ」を象徴するかのような井戸。若いころは、単なるストーリーとしてとらえていた小説だが、今になって深く読み込むと、哲学的な示唆(筆者自身はそんなもの意識していないだろうけど)をも感じさせる作品であった。

「井戸」のほかにも、「水」「痛み」「あざ」といった言葉が、象徴的に、哲学的に散りばめられていく。本田さんの水、井戸の水、加納クレタの痛み、そして僕のあざ。噛めば噛むほど、味が出てきそうな小説なのだが、残念ながら何度も繰り返して読むには少々長い。また時を経て、20年後に再読したら面白いであろう。その時の私は、どのような感想を抱くであろうか。

最後に、象徴的な井戸について語られているセリフを抜粋して筆をおきたい。物語の中盤に登場するシーンなのだが、私が感じた本書のクライマックスでもある。

「私は外蒙古の兵隊たちによって蒙古の平原の真ん中にある深く暗い井戸の底に放り込まれ、脚や肩を痛め、食物も水もなく、ただ死ぬのを待っておりました。私はその前に、ひとりの人間が生きたまま皮を剥がれるのを見ておりました。そのような特殊な状況下にあって、私の意識はきわめて濃密に凝縮されており、そしてそこに一瞬強烈な光が射し込むことによって、私は自らの意識の中核のような場所にまっすぐに下りていけたのではないでしょうか。とにかく、私はそこにあるものの姿を見たのです。私のまわりは強烈な光で覆われます。私は光の洪水のまっただなかにいます。私の目は何を見ることもできません。私はただ光にすっぽりと包まれているのです。でもそこには何かが見えます。一時的な盲目の中で、何かがその形を作ろうとしています。それは何かです。それは生命を持った何かです。光の中に、まるで日蝕の影のように、その何かが黒く浮かび上がろうとします。でも私にはその姿をはっきりつ見定めることができません。それは私の方に向かってやってこようとしています。それは私に何か恩寵のようなものを与えようとしているのです。私は震えながらそれを待ちます。でもその何かは、思いなおしたのか、それとも時間が足りなかったのか、結局私のところにはやってこないのです。それは形をはっきりつ作り上げる直前でふっとその姿を溶解させ、再び光の中に消えてしまうのです。そして光が薄らいでいきます。光の射し込む時間が終わったのです。

惰眠をむさぼると、奇妙な夢を見るのは毎度のこと。

年配のママさんと、その娘の二人でやっているスナックのような店。同僚と飲みに来たのだが、娘の方は昼間、銀行で働いているらしい。どんな仕事をしているのかと聞くと、「特殊係」で勤務しているとのこと。特殊係? 特命係なら『相棒』なのだが。

面白そうなので、具体的には何をしているのかと聞くのだが、秘密の任務であり、誓約書まで書かされているので言えないとのこと。母親にも仕事の内容は話していないらしい。言える範囲でよいからと、しつこく食い下がると、絵画を保管していると教えてくれた。

大きな地下金庫に、富裕層から預かった絵画が保管してあり、それを毎日チェックするのだそうだ。壁にかかっているわけではなく、油紙のようなもので梱包された絵画を、毎日、員数があっているか、保管状態は良好か、など見ていく。

楽でよさそうだねといったところ、神経を使って大変だとのこと。ふーん、そんなもんかと頷いたところで目が覚めた。それにしても、何と何が結びついて、こんな夢を見るのだろうか???

週末のドライブ。せっかく茨城県に転勤してきたのだから、地の利を活かして行けるところには行っておきたい。旅行、というほどではないが、少しでも非日常を感じられるのはよいこと。

まずは大洗海岸で、ボーっと海を眺めてリフレッシュ。その後、大洗磯前(いそざき)神社から、鳥居越しに海を眺め、最後は海鮮料理。ハマグリが一袋1200円。他にも海鮮丼が800円など、東京だったら1.5〜2倍の値がはりそうな昼食を堪能。

15時には家に到着して、惰眠をむさぼる。至福の週末。

【大洗海岸】
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【大洗磯前神社】
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【ハマグリ・ホタテ・貝三昧】
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◇1459 『プラチナタウン』 >楡周平/祥伝社文庫

新聞の記事で、政治家の誰か(誰だったかを失念してしまった)が、話題にしていたのを記憶しており、古本屋で見つけて購入。最近、積読の小説を手に取ったり、図書館で借りてきて読んだりすることはあったのだが、小説を買うのは久しぶりだ。

楡周平のビジネス小説はなかなかに面白く、本人に会社勤めの経験があることもあって、リアルな描写も多い。本書も、上司が依頼してきたコネ入社を断ってしまい、上司の逆鱗に触れたことがきっかけとなっている。これをきっかけにして主人公は大手商社を辞職し、赤字財政に苦しむ出身地にUターン、町長に就任するのだ。

町の財政状態は主人公の想像以上に悪く、過去に景気対策や雇用対策として打ってきた箱物建設という施策が、大きく足を引っ張っている。利用者よりも従業員(=公務員)の方が多いという状態。これが後々の伏線にもなってくるから面白い。

一方で、町が持つ利点も徐々に明らかになっていく。地方都市のため生活費は安く、そのため人件費も下げることができる。自然に囲まれた土地であり、釣りやキャンプをする地にはことかかない。ゴルフ場も近い。その気になれば仙台までも遠くはない。そして、先ほどの箱物、たとえば病院などは、CTやMRIを予約なしで受診できるなど、メリットに化していく。

こういったメリットを享受すべく、工場を誘致しようと整備したまま放置されていた土地に、大規模な老人ホーム(本書では、老人向けテーマパークタウンと呼んでいる)を設立しよういうのが本書の肝となっている。安い労働力を使い、安価な土地を活用して、定年を迎えたお年寄りに第二の人生を謳歌してもらえる町づくり。しかも、介護が必要になっても追い出されることはなく、個室に近い形の小さな部屋で、安らかに余生を送ることができる。

後半にかけては、ほとんど大きな障害もなく、トントン拍子に話が進んでしまうのは、若干拍子抜けした感もなきにしもあらずだが、まぁ小説としては、非常に楽しめる内容であり、日本が抱える問題点と、それに対する解決策を一定の形で描き出しているのは、大したものである。実際には、これほどの好条件が整っていることはないのかもしれないが、条件など作り出してしまえばよいのだ。

老人を一か所に集めて集中管理する、というと冷酷に聞こえるかもしれないが、スモールタウンという発想は、昔からある。過疎化した山道を走り回って、食料や生活用品を運んだり、医者が訪問したりするよりも、一か所に集まったほうが効率がよいし、何よりも話し相手ができる。長年住んだ地を離れるのを嫌がる人も多いだろうが、本書では転勤などが多かった団塊の世代を対象にしており、一昔前に定年を迎えたご年配の方とは、少し感覚が違うと論じている。

私自身、両親は健在だが、年々体が弱っていくのは致し方のないことであり、こういった問題は他人事ではなくなってきている。ご老人一人ひとりの尊厳を大切にする、という理想や美談よりも、1カ所に集まって機能的に楽しく暮らす方が、良いと思うのだが、日本人特有の村社会的なモラルが、それを妨げているのではなかろうか。いろいろと考えさせられる作品であった。

犬を飼っているのだが、その愛犬と素潜りする夢を見た。グランブルーのように、青く透き通った海を私と愛犬とでゆっくりと潜っていくのだ。私は頭を下にして足をバタバタさせて潜っていくのだが、愛犬の方は頭を上にして、あぐらをかいたような体制で、潜るというよりも沈んでいく、といった感じ。

私のほうは、だんだんと苦しくなってくる感じがするのだが、愛犬は平気で沈んでいく。「お前、大丈夫なのか?」と頭に思い浮かべると、声は聞こえないのだが、頭に直接愛犬の声が響く。テレパシー。「はい、大丈夫です。エラ呼吸ですから」

◇1458 『播磨灘物語』 >司馬遼太郎/講談社文庫

大河ドラマの「軍師・官兵衛」が始まったのと、ほとんど同時に読み始めた本書。全4巻なのだが、前半の2冊を読んだところで挫折してしまい、1年半ちかく放ったらかしになってしまっていた。このまま読むのをやめようかとも思ったのだが、ようやく手に取ることができた。

きっかけは福岡城址を訪れたからであるが、もう一つ理由がある。4月から工場勤務となり帰り道に本屋がないせいで、積読本が増えない。また、図書館も車でなければ行けないところにあるので、なかなか通う気にならない。結果として、ずっと読まないままになっていた本をどんどん消化していけるのだ。

読書ノートを紐解いてみると、本書は2001年の1月に読了している。2週間ほどで読み切っているのだが、やはり若い頃の方が読書体力があったのだろうか。それにしても、まったく覚えていないとはどういうことか。一度読んだ本は、大半を忘れてしまっていても、断片程度は記憶に残っているものなのだが。。。

後半の2冊は週末に一気読み。前半は小寺氏とのしがらみに縛られて大きな動きもなく面白くなかったのだが、さすがに3巻以降は官兵衛が牢獄にとらえられたり、その後秀吉と伴に中国大返しを実行したりと、見どころがたくさん。しかしながら、晩年の如水に関する記述は少なく、九州征伐もほとんど筆が割かれないまま終わってしまった。何となく、尻切れトンボのような、宙ぶらりんのような。

本書を読んでいて感じたのは、男の嫉妬の怖さ。秀吉が官兵衛に抱く嫉妬の深さには、背筋に冷たいものを感じるほど。2001年に読んだときには、おそらく意識もしなかったであろう、このような心理描写が面白く感じるのは年を取ったせいか、組織に長く身を置いたせいか。

それでは気になった箇所を引用。

・人はおれを利口なやつとよんできたが、人間の利口など、たかが知れたものだ。囚われになれば、どう仕様もない。智恵誇りの者がたどりつくのはたいていこういうところだ。智恵など、たかが道具なのだ。

・秀吉も常人である以上、嫉妬をもつことがありうる。むろん秀吉はこの感情が劣情であることを知っていたし、この感情ほど人と人との関係を損わせ、その関係を饐えさせてしまうものはないということを知っている。このため、秀吉はつねにそれを押さえていたが、しかし官兵衛と竹中半兵衛に対しては、ときに露わにした。むろんかれは多くの場合、それを押し殺して、気取られぬようにはしている。

・信長という男は、他の者にない原理というめずらしいものを持っている。官兵衛にはそれが魅力であったが、しかし原理というのはそれが鮮明で強烈であればあるほど、他者を排除し、抹殺する作用がある。信長においてはとくにそれが強く、味方でさえ、やがてそれがやりきれなくなり、それがために自分が排除されそうな恐怖感をもつようになる。

・竹中半兵衛の才能は、栄達への野心を捨てたところに息づいていた。錯綜した敵味方の物理的情勢や心理状況を考えつづけて、ついに一点の結論を見出すには、水のように澄明な心事をつねに持っていなければならない、と官兵衛はつねに考えている。囚われることは物の判断にとって最悪のことであり、さらに囚われることの最大のものは私念といっていい。それを捨ててかかることは、領土欲や栄達欲が活動のばねになっている小領主あがりの武士にはなしがたいことなのである。

・ひるがえっていえば、策士というのは、第一条件として人が好くなくてはならないであろう。策士は人の機微を見ぬいて策をたてるために、逆に人に疑われやすい。自分自身に関しては飛びきりに人が好いというふうでなければ、世間の信用は持続しないのである。官兵衛にこの面がなければ、かれはいつかの時期に秀吉から殺されていたにちがいない。

・かれは(官兵衛は)栄達欲よりも構想をたてることをよろこび、その構想を実現させることでかれの欲望のすべてが充足してしまう。かれにも本来の私欲があるにせよ、かれが構想をたてるときは常にそれは抑制されている、というよりも、計算外に置かれていた。このことはかれの無意識によるものではなく、「智者とは、そういうものだ」とみずから言いきかせていたし、自己の欲望や利益や事情に囚われては物が見えなくなるか、物の像(かたち)がゆがんで見え、そこから引き出される判断は使い道のないものだということを知っているのである。

・独裁者が物吝しみするときが、功臣の危険なときであった。所領を返せなどとはいわず、非曲をみつけ、罪状をつくりあげ、その悪を天下に公表して、公々然と功臣の生命もろとも所領をとりあげるのである。

・秀吉は、この時代において大衆の労働意欲をかきたてる工夫を最初にやった人物といっていい。工事に参加する百姓、町人に、土俵を一俵いくらという値段を決めて買いとった。土が金になる。というので、備前、備中両国の百姓から俵という俵が飛ぶような勢いであつまった。

・官兵衛はこのころから智恵者であるといわれることを好まなくなっていた。かつてはたしかにかれは智恵誇りするところも見えた。しかし伊丹で牢暮らしをして以来、智恵などは、とくに自分の智恵などは大したものではないことを、心から思うようになった。

・かれは年少のころから物事の姿や本質を認識することが好きであった。さらにはその物事の原因するところと、将来どうなるかを探求したり予想したりすることに無上のよろこびをもっていた。認識と探求と予想の敵は、我執である。如水がうまれつきそれに乏しかったことでかれは右の能力においてときに秀吉をあきれさせるほどの明敏さを発揮したが、同時に我執が乏しいために自分をせりあげることを怠った。

大宰府だけでは夕方までの時間が潰せず、福岡城址のある大濠公園まで歩いてみた。大宰府から電車で天神へ戻り、そこからテクテクと。途中、パラパラと小雨が降ったりしたが、涼しくなって逆に快適であった。

城址のみというのは寂しい限りだが、それでも歴史の雄大さを感じることができる。ここに、あの黒田官兵衛が起居していたのかと思うと感慨深い。

小雨のせいもあるだろうか、大宰府と異なり、観光客はまばら。おかげでのんびりと散策を楽しむことができた。途中、歴史館のものがあったので立ち寄ってみたところ、オリジナルのCGを見ることができた。

CGの解説の中で、福岡は城下町、博多は商人の町、というのを改めて知ることができた。以前にも、福岡県にはなぜ福岡と博多があるのか、という理由を聞きかじったことはあったようにも思うが、きちんと認識したのは、恥ずかしながら今回が初めて。

ちなみに福岡という地名は、黒田氏が持ち込んだものであり、地元の人たちからすると、あくまでも「博多」という名前に愛着をもっているとのこと。また、当時は、福岡と博多は区分けされており、その接点となっていたのが中洲だとか。歴史の面白さを感じるエピソードである。

【福岡城址】
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【天守閣跡からみた街並み】
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【多聞櫓】
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九州へ出張だったのだが、福岡空港から茨城空港へは、一日一便で、夕方の便のみ。土曜日の朝から時間ができてしまったので、太宰府まで足を伸ばしてみた。東京に住んでいた頃は、上野や浅草で外国人観光客の多さを感じたことがあったが、大宰府では日本人よりも外国人の方が多いのではないかというくらい、海外からの観光客でにぎわっていた。

インバウンド、インバウンドとニュースで連呼されているが、今更ながらその勢いを肌で感じることができたように思う。個人的には、もう少し人気がいないところをゆっくりじっくり見て回りたいと思ったのだが、日本経済のためにはたくさんの人に来ていただく方がよいわけだし、これは痛しかゆしであろうか。

などと考えていたのだが、少し裏手へ回ると、人影のまったく見当たらない一角に出ることができた。小道が続いているので、進んでいくと「天開稲荷」というところに出ることができた。深い緑と赤い鳥居のコントラストが美しい。森の中の神社であり、木陰で涼しくて快適。ひんやりとした空気を感じながら、帰路についた。

【太宰府天満宮】
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【裏手の緑の小道】
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【天開稲荷大明神】
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◇1457 『ガラスの動物園』 >テネシー・ウィリアムズ/新潮文庫

背表紙あらすじ:不況時代のセント・ルイスの裏街を舞台に、生活に疲れ果てて、昔の夢を追い、はかない幸せを夢見る母親、脚が悪く、極度に内気な、婚期の遅れた姉、青年らしい夢とみじめな現実に追われて家出する文学青年の弟の三人が展開する抒情的な追憶の劇作者の激しいヒューマニズムが全編に脈うつ名編で、この戯曲によってウィリアムズは、戦後アメリカ劇壇第一の有望な新人と認められた。

勢いに乗って古典をもう一冊。本書も150ページ程度の短い物語。しかも、脚本形式なので余白も多く、さらりと読了できてしまう。作品自体は1945年のもので、解説によると戦後にかかれたものとのこと。終戦直後の作品ということであろうか。先に読了した古典2冊とは異なり、物語から戦争の臭いは感じられない。

たった4人の登場人物で完結する戯曲なのだが、その濃密さは、長年読み継がれてきた作品だけあり、濃厚である。内気な姉と文学青年の弟。その母と友人。微妙な気遣いと人間関係。。。面白く読めはしたのだが、最近文学作品から遠ざかっているせいか、本書の本当の面白さが理解できたかというと、残念ながら疑問。ラストはどうなるのかと期待させるストーリー展開や、ラストに向けてのカタルシス、遣る瀬無さは流石なのだが。

もう少し余裕のある時に、読み返してみるべき作品なのかもしれない。今の自分には、ちょっと合わなかったであろうか。

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◇1456 『異邦人』 >カミュ/新潮文庫

背表紙あらすじ:母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

『変身』に続いて、九州出張の帰りの便で読了した作品。本書は1940年代、第二次世界大戦のさなかに書かれたもの。その割には、戦時下という雰囲気はなく、むしろ退廃的な青年たちの日常と非日常を描いた物語である。

文学的にはすぐれた作品なのであろうが、残念ながら私には、そのよさが今ひとつ分からなかった。出張疲れの頭で読んだせいかもしれないが、もう少しさまざまな意味を考えながら、深く読み込まないとこの小説の良さは分からないのかもしれない。

救いのなさ、やりきれなさは、『変身』と共通している。この時代の人たちは、戦争という恐怖を間近にして、人生のやりきれなさを、日々感じていたのかもしれない。だからこそ、これほど退廃的な空気を本書から感じるのであろうか。

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◇1455 『変身』 >カフカ/新潮文庫

背表紙あらすじ:ある朝、気がかりな夢から目をさますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する男グレーゴル・ザムザ。なぜ、こんな異常な事態になってしまったのか…。謎は究明されぬまま、ふだんと変わらない、ありふれた日常がすぎていく。事実のみを冷静につたえる、まるでレポートのような文体が読者に与えた衝撃は、様ざまな解釈を呼び起こした。海外文学最高傑作のひとつ。

随分と更新が滞ってしまった。5月はよいペースだったのだが、6月に入って急に忙しくなってきたのだ。4月から工場勤務となったが、はじめは右も左も分からず、相談事なども少ないため比較的時間に余裕があったのだが、2カ月経ち、少し慣れてくるといろいろな仕事にインボルブされるようになってきた。出張など外に出る機会も本社の時より増えており、充実している。

さて、本書は九州へ出張の飛行機の中で読了した本。出張のお供に、薄くて軽めの本がよいなと考え、ずっと積読になっていたものを引っ張り出してきたのだ。100ページ程度の物語で、九州までの片道で読了できてしまう分量なのだが、何とも言えない余韻を残す物語であった。

執筆されたのは1912年、第一次世界大戦以前である。100年以上まえの作品であるから、古さは否めないものの、その発想の斬新さは少しも色あせておらず、不条理小説の傑作のひとつと言えよう。

朝、目覚めると、いきなり虫になっていたという不条理。そこには何の説明もない。挿絵も何もないのでどのような形状の虫に生まれ変わったのかは不明だが、私はカブトムシのような姿を想像してしまった。(解説にはムカデのような形態では、と推測されている

その虫となってしまった主人公が受ける、無視、虐待、同情。。。何を象徴しているのか、と解説で疑問が呈されている。歴史の中で虐待されてきたユダヤ人だというと、あまりにも短絡的かもしれないし、ヒトラーによる大虐殺は歴史を待たなければならない。

虫を描いた意図は、もしかしたら筆者自身にも分かっていなかったのかもしれない。ただそこに不条理な世界を描いてみたかっただけ。そんな空想をしながら、2時間弱の読書を楽しんだ。それにしても、100年前の読者たちは、よくもこのような突拍子もない物語を受け入れたものである。この作品を広い間口で受け入れた、当時の読者にも賛辞を送りたい。

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欲望、欲求、など、「欲」というものについて、考えてみた。やりたいこと、ほしいものなどが、いかほどあるか?

仕事ではきちんとした成果を出したい。かといって、出世がしたいかというと、それは目的ではない。やりがいのある仕事を任されることに喜びを感じるし、その結果として出世も伴えばありがたい。

ほしいもの。考えてみると、あまり無い。どこかで読んだが、人生の前半はいろいろなものを得ていくステージで、後半はさまざまなものを捨てていくステージ。前後半で考えると人生80年、40歳が折り返し地点である。少し早いような気もするが、どちらかというと余計なものは持ちたくないという感覚になってきている。

少し前までは、身に着ける小物や文房具に凝っていたが、自分なりの高価ではないが使いやすいものを愛用しており、十分満足している。例えば先日紹介したペンなど。モンブランのようなペンが欲しいなと思ったこともあるが、普段使いとしてはどうだろうか。道具は使ってナンボ。ステータスとしては、持ちたくない。

あえて挙げるなら、腕時計か。これとて、今使っているもので満足といえば満足。10年以上愛用しており、シンプルで飽きの来ないデザインだ。

物欲よりも、やりたいことの方が増えてきているのだろうか。たまに家族で旅行したり、おいしいものを食べたり。あとは、好きな本が読めれば十分。旅行は、もう少しいろんなところへ行ってみたいな。

以前、ある人から「お前は欲がなさ過ぎる」と言われたことがある。言われてみれば、思い当たる節もなきにしもあらず。しかしながら、一方で何とも言えない、渇望感を胸に抱えてもいる。この渇望感を言葉にするのは難しい。いわゆるマズローの「自己実現欲求」だろうか。ぼんやりと、いつか本を書いてみたいという思いは、これにあたるのかもしれないなぁ。

引っ越し前に、某古本チェーン店で文庫本をまとめ買いしたのだが、最近の価格設定は高めだと感じる。以前からこんな値段設定だっただろうか。例えば定価が2000円の書籍だと、1600〜1800円くらいのイメージ。一方、仕入れ値、つまり買い取り価格は定価の10分の1程度なので、200円程度。粗利が1400〜1600円ということになる。

多くの店舗を展開しており、スタッフもたくさんいるので固定費がかかるのはわかるが、新品と数百円の差しかないのであれば、新品を買おうと思ってしまう。そもそも私は本好きでもあり、できれば新品をきちんと買いたいと思っている。そうしないと、筆者に印税が入らないから。ところが、本にはいくらでもお金をかけるべきだというモットーで買い漁っていたところ、家計に響くようになってしまったので、少し自粛中。図書館や古本屋を活用しているのである。

以前であれば、資源ごみとして古紙回収に出されていたであろう本が、リサイクルされて、別の人の楽しみや教養に変わるのはとてもよいことだと思う。しかしながら、そこにあまりにも大きな価格ギャップがあるのは、いかがなものか。個人的に、古本の適正価格は定価の半額だと思う。2000円の本が1000円で手に入るのであれば、購買意欲も湧くというものだ。

自分で書きながら、セコイ議論をしているようにも感じるが、古本の趣旨が、良い本をより多くの人に読んでもらうというものなのであれば、是非とも適正価格の維持に努めてもらいたいものである。

筆記用具には、こだわりがあり、とにかく書き心地がよく筆がさらさらと進むことを重要視している。

紙のほうは表面がざらざらではなく、すべすべしているもの。出来れば方眼のものがよい。これを満たすのは、オキナ社のプロジェクトペーパーか、アピカ社のCD NOTEBOOK。プロジェクトペーパーはA4サイズのレポート用紙を、CD NOTEBOOKの方は、会社ではA6サイズ、家ではA5サイズのものを愛用している。

筆、つまりペンの方は(以前にも書いたかもしれないが)、三菱鉛筆のuni signoというゲルインク・ボールペンをメインで使用している。以前は、ブルーブラックがあったのだが、販売中止となっており、青色のものを愛用。また、サブのペンとしては、パイロット社のフリクション・ボールペンの0.7mmを使用している。

さて、ここまでは前置き。家で使用しているA5のノートだが、今までは読書記録やテレビ番組の視聴記録用の一時保管ノートと、語学などのテクネー用、さらには重要なことを書き留める永久保存用ノートの3冊を使い分けていた。一方で、佐藤優さんが、ノートは一冊に集約すべきと主張されており、自分なりの方法を模索してもいた。

ノートを複数冊用意するのはよいのだが、アイデアがひらめいたり、ちょっとした気付きをメモしたりしたいとき、すぐに手元にないのは困ってしまう。また、ノートが手元にあっても、用途が異なるとメモすることを躊躇してしまう。それでは、せっかくのノートの意味が半減すると考え、私も1冊に集約することにしたのだ。

しかしながら、読書やテレビ番組の記録と、語学のテクネーが混在するのは、後から見てわかりにくい。どうしたものかと考えて、生み出したのが、ノートを前後の両方から使うという方法。記録に関しては前から、テクネーについては後ろからノートを使っていく。後ろから使うと、読み返すときに読みづらくなるが、テクネーの目的は書いて手に覚えさせることであり、後から読み返すことではないので問題ない。読み返す必要のある記録の部分は、ノートの前から書き記していくのでこちらもOK。

ちょっとした工夫は、栞となる紐を2本取り付けたこと。アピカのノートには栞がついていないので、ステープラーで自作。これで、前の部分と後ろの部分の両方のページをすぐにめくることができる。

ノートを集約してからまだ間もないが、以前のノートも含めると今は6冊目。佐藤優さんは、コクヨのB4・100枚綴りのノートを毎月1冊消化するという。それに比べると、2012年4月に始めたA5ノートが4年でたったの6冊。まだまだである。毎月1冊は無理にしても、2〜3か月に1冊は消化したいもの。書いて書いて書きまくって、記憶に定着させるのだ。

NHKスペシャル・伊藤若冲

少し前の話だが、自家用車が車検の時期を迎え、持ち込んだ整備会社のテレビで伊藤若冲の番宣をやっていた。これはおもしろそうだと録画予約しておいたのだが、ようやく視る時間が取れた。番組では、「私の絵は1000年後に理解される」という謎の言葉を残した、とされていた。その技法が、当時の常識を超えるものであったからであろうか。

今ほどたくさんの色の種類がなかった時代。絵の表と裏、両面から同じ色を塗り重ねる層の数を変えることで、色合いの変化をつけたり、0.2mmという非常に細い線で、色を塗るのではなく線を書き込んで鳥の羽を表現したり。しかも、下絵もなく直接描いているという。日本画は油絵のようにやり直しがきかず一発勝負。とてつもない忍耐と集中力。

考えてみれば、エジプトのピラミッドなど、当時の技術力の高さをしのばせるものだし、日本だって法隆寺など古代の建築物にほどこされている技術は、今のものよりもすごいという。人類は発展・進化してきているようで、技術的にも、精神的にも、足踏みをしているだけなのかもしれない。

追記)ちなみに、本日までがゴールデンウイーク中に行った読書や番組視聴の振り返りである。毎日エントリーして、5月末までかかってしまった。たっぷりインプットしたので、アウトプットも心掛けたい。

録画しておいた番組を視聴。世界的に活躍されているお二人ということで、いろいろと刺激になる会話が多かったのだが、一番感銘を受けたのは、渡辺謙さんの英語に対する努力。40代でハリウッド・デビューされ、本当に苦労し、努力されたのだと思う。

番組で直接語られた訳ではないが、なぜ渡辺さんがこんなにも早く英語を習得することができたのか。舞台の練習風景を見ていて合点がいった。

まず、台詞を感情面まで含めて理解しなければならない。ここで、自分が発する台詞に関しては、100%以上の理解が求められる。英語を精読するというステップが必要となる。

次に、台詞を暗記しなければならない。何度もつぶやいて暗記することで、英会話のパターンを暗記し、英語の回路が頭の中に出来上がるであろう。

最後に、台詞を発しなければならない。しかも感情を載せて。ここには普通の音読以上の効果が生まれるであろう。実際に大きな声で英語の台詞を発することで、その会話が血肉となる。

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ミーハーな私は、この番組を見て、さっそく音読を始めることにした。今までも音読の重要性は何度も認識していたのだが、なかなかスタートを切るモティベーションがなかったのだ。少しだけトライしたこともあったが、続かなかった。今回、渡辺謙さんが台詞を吐くシーンを見て、これはやらねばと火がついた。

何か良いメソッドはないかとネットを検索したところ、『英会話・ぜったい・音読』という本がよさそうだ。入門編・標準編・挑戦編とあるが、一応TOEICも800点程度を取れるレベルなので、思い切って挑戦編にトライすることにした。結果がついてくるかどうかはまだわからないが、日常的に続けるトレーニングを始めたいと思っていたところなのでちょうどよい。まずは、毎日続けること。頑張ってみよう。

◇1454 『創造する経営者』 >P.F.ドラッカー/ダイヤモンド社

本書は1964年、ドラッカーが54歳のときの著作。事業とは何かを明らかにした世界最初の事業戦略書という触れ込み。確かに、マーケティングであったり、コスト管理であったりと、事業戦略的な内容が大半を占めている。個人的には、マーケティングだのコスト管理だのは、ドラッカーでなくとも、別の教科書で勉強すればよく、ドラッカーにはもっと哲学的なことを教わりたいと考えていたので、少し期待外れであっただろうか。

それでは気になった箇所を引用。

・企業にとって今日行うべき仕事は3つある。
(1)今日の事業の成果をあげる
(2)潜在的な機会を発見する
(3)明日のために新しい事業を開拓する

・重要なことは、いかに適切に仕事を行うかではなく、いかになすべき仕事を見つけ、いかに資源と活動を集中するか、である。

・経営者の仕事は、昨日の通常を、変化してしまった今日に押しつけることではない。企業とその行動、姿勢、期待、製品、市場、流通チャネルを新しい現実に合わせて変化させることである。

・知識は、本の中にはない。本の中にあるものは情報である。知識とはそれらの情報を仕事や青果に結びつける能力である。そして知識は、人間すなわちその頭脳のうちにのみ存在する。

・3つのアプローチ
(1)「理想企業の設計」によって方向性を決定することができる。基本的な目標を設定することができる。さらには成果を評価するための基準を設定することができる。
(2)「機会の最大化」によって、昨日の企業を今日の企業へと変え、明日のための挑戦に対する準備を行うことができる。現在の活動のうち何を推進し何を放棄すべきかを知ることができる。さらには、市場における成果や、知識を増大させるものがなんであるかを明らかにすることができる。
(3)「人材の最大利用」によって、事業についての分析結果を行動に移すことができる。人材を優先度の高いものに集中することによって最大の成果をあげることができる。

・廃棄することに機会を見出すということは、奇異に聞こえるかもしれない。しかし、古いもの、報われないものを意図的かつ計画的に廃棄することは、新しいもの、有望なものを追求するための前提である。まさに廃棄は、資源を解放し、古いものに代わるべき新しいものの探求を刺激するがゆえに、イノベーションの鍵である。

・われわれは未来について、2つのことしか知らない。1つは、未来は知りえない。2つは、未来は、今日存在するものとも今日予測するものとも違う。

・現在の事業に成果をあげさせるには、そのための行動が必要である。他方、未来において新しい事業をつくりあげるためにも、そのための行動が必要である。しかs、現在の事業に成果をあげさせるための行動は、現在の資源を投入し事業の未来に影響を与える。また逆に、未来のための行動は現在の方針、期待、製品、知識に影響を与える。したがって、いかならう次元における行動もほかの次元における行動と一貫していなければならない。

・決定した仕事はすべて、今日行われなければならない。直ちに成果が期待されていようと、遠い先に期待されていようと、仕事はすべて今日の人材、知識、資金によって行われなければならない。

・事業の定義:意思決定を行う人たちが、いかに事業を見、いかなる行動をとり、あるいはいかなる行動を不相応と見るかを規定する定義というものがなければならない。事業の定義が市場に供給すべき満足やリーダーシップを保持すべき領域を規定する。

・事業の定義が有効であるためには、成長し変化していけるだけの大きさのものでなければならない。さもなければ市場や技術が変化したとき簡単に陳腐化する。

・卓越性の定義:卓越性とは、常に知識に関わる卓越性である。すなわち、事業にリーダーシップを与える何らかのことを行いうる人間能力のことである。事業の卓越性を明らかにするということは、その事業にとって真に重要な活動が何であり、何でなければならないかを決定することである。

・優先順位と劣後順位の決定:事業を、いかに組織化し単純化したとしても、なすべきことは常に、利用しうる資源に比してはるかに多く残る。機会はそれらを実現するための手段よりも多い。したがって、優先順位を決定しなければ何事も行えない。

・誰にとっても、優先順位の決定はそれほど難しくない。難しいのは劣後順位の決定、なすべきでないことの決定である。延期は放棄を意味する。一度延期したものを復活させることは失敗である。このことが劣後順位の決定をためらわせる。

・4つのリスク
(1)負うべきリスク(=事業の本質に付随するリスク)
(2)負えるリスク
(3)負えないリスク
(4)負わないことによるリスク

・業績をあげるための3つの能力
(1)企業家的な計画を、特定の人間が責任をもつべき仕事に具体化する。
(2)企業家的な計画を、日常の仕事に具体化する。
(3)一人ひとりの人間の職務と組織の精神の中心に、業績を据える。

・知識労働者は、自らのためにも、貢献、集中、目的的な企業家精神にコミットしなければならない。自らの人生と仕事を有意義で満足なものにするためにも、そのようなコミットメントが必要である。




【目次】

第1部 事業の何たるかを理解する
 企業の現実
 業績をもたらす領域
 利益と資源、その見通し
 製品とライフサイクル
 コストセンターとコスト構造
 顧客が事業である
 知識が事業である
 これがわが社の事業である

第2部 機会に焦点を合わせる
 強みを基礎とする
 事業機会の発見
 未来を今日築く

第3部 事業の業績をあげる
 意思決定
 事業戦略と経営計画
 業績をあげる

コミットメント

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◇1453 『現代の経営』 >P.F.ドラッカー/ダイヤモンド社

1954年、ドラッカー44歳の時の著作。世界で最初の総合的経営書だという触れ込みであるが、『経営者の条件』ほどの感銘を受けなかった。当時は斬新だったのであろうが、経営書が巷に溢れている現代からすると、古さは否めない。もちろん、世界で最初にこれだけの著書を執筆したということに対しては、大きな経緯を払いたいし、古典的価値も認めたいが。

それでは気になった箇所を引用。

・企業の目標は次の5つのことを可能とするものでなければならない。
(1)なすべきことを明らかにする
(2)なすべきことをなしたか否かを明らかにする
(3)いかになすべきかを明らかにする
(4)諸々の意思決定の妥当性を明らかにする
(5)活動の改善の方法を明らかにする
 →いわゆるPDCAだ。

・イノベーションの目標として考えられるものは次の通り。
(1)市場地位にかかわる目標の達成に必要な新製品と新サービス
(2)現在の製品を陳腐化する技術変化が原因となって必要となる新製品と新サービス
(3)市場地位にかかわる目標を達成し、かつ技術変化に備えるための製品の改善
(4)市場地位にかかわる目標を達成するために必要なプロセスの改善と新しいプロセス
(5)経理、設計、事務管理、労使関係など、あらゆる種類の知識と技能の進歩に合わせたイノベーションと改善

・マネジメントはそれ自体が目的ではない。それは企業の機関にすぎない。それは一人ひとりの人からなる。したがって、経営管理者のマネジメントにおいてまず必要とされることは、一人ひとりの経営管理者の目を企業全体の目標に向けさせることである。彼らの意思と努力をそれらの目標の実現に向けさせることである。

・キャンペーンによるマネジメントは失敗する。キャンペーンによるマネジメントを行っている組織では、キャンペーンに従って本来の仕事の手を抜くか、キャンペーンをサボって本来の仕事をするか、いずれかしかない。いずれにせよ、やがて誰も、狼だという声に耳を貸さなくなる。本当の危機がやって来たとき、あらゆる仕事を一時さしおいて緊急の問題に取り組まなければならないとき、みながトップマネジメントの例のヒステリーと思う。

・共通の方向付けを行うだけではなく、間違った方向づけをなくすための努力が必要である。相互理解は、下へのコミュニケーションによって得られるものではないし、下に向けて話すことによって得られるものでもない。上へのコミュニケーションによって得られるものである。それは、上司の耳を傾ける姿勢と、部下の声が伝わる仕組みを必要とする。

・自己管理によるマネジメントを実現するには、報告、手続き、書式を根本的に見直すことが必要である。報告と手続きは道具である。だがこれほど誤って使われ、害をもたらしているものもない。報告と手続きは誤った使い方をされるとき、道具ではなく支配者となる。

・最も基本的なマネジメントの仕事を行うのは、第一線の現場管理者である。つまるところ、彼らの仕事がすべてを決定する。このように見るならば、上位の経営管理者の仕事はすべて派生的であり、第一線の現場管理者の仕事を助けるものにすぎないことになる。組織構造の観点からも、権限と責任は第一線に集中させなければならない。彼らにできないことだけが上位に委ねられる。

・経営管理者間の上下関係は、上から下への関係ではない。上下間の二方向の関係でもない。経営管理者間の関係は三つの次元である。第一が下から上への関係であり、第二が全体との関係であり、第三が上から下への関係である。これらの三つの関係は、基本的にすべて責任に関わる関係である。義務に関わる関係であって、権利に関わる関係ではない。

・正しい組織の文化を確立すrには、行動規範として次の5つが求められる。
(1)優れた仕事を求めること。劣った仕事や平凡な仕事を認めないこと。
(2)仕事それ自体が働き甲斐のあるものであること。昇進のための階段ではないこと。
(3)昇進は合理的かつ公正であること。
(4)個人に関わる重要な決定については、それを行う者の権限を明記した基準が存在すること。上訴の道があること。
(5)人事においては、真摯さを絶対の条件とすること。かつそれはすでに身につけているべきものであって、後日身につければよいというものではないことを明確にすること。

・いかなる仕組みをつくろうとも、マネジメントへの昇格人事で日頃いっていることを反映させなければ、優れた組織の文化をつくることはできない。本気であることを示す決定打は、人事において、断固、人格的な真摯さを評価することである。なぜならば、リーダーシップが発揮されるのは、人格においてだからである。多くの人の模範となり、まねされるのも人格においてだからである。

・真摯さは習得できない。仕事についたときにもっていなければ、あとで身につけることはできない。真摯さはごまかしがきかない。

・真摯さよりも頭脳を重視する者を昇格させてはならない。そのような者は未熟だからである。また、有能な部下を恐れる者を昇進させてはならない。そのような者は弱いからである。さらに、自らの仕事に高い基準を定めない者も昇進させてはならない。仕事やマネジメントの能力に対する侮りの風潮を招くからである。

・企業活動を「ライン」と「スタッフ」という言葉で分けることは疑問である。この二つは軍からきた言葉である。しかし軍では意味のある言葉かもしれないが、企業にとっては混乱をまねくだけのものである。

・まったくのところ、いわゆるスタッフ機能などは一切もつべきものではない。私の理解するかぎりでは、スタッフとは責任抜きの権限を意味する。そのような者をもつことは破壊的な害をもたらす。確かに経営管理者は、特定の機能に関わる専門家の助けを必要とする。しかし彼ら専門家といえども、いかに仕事をするかを人に教えるのではなく、自らが仕事をしなければならない。そして、自らの仕事について全面的に責任を負わなければならない。彼らは何か特別な存在となるのではなく、特別の機能をもってその属する部門の経営管理者に貢献する存在とならなければならない。

・専門職を生産的な存在にするには、満たすべき要件が5つある。
(1)専門職は、あくまで専門家でなければならない。同時に、事業に対し貢献しなければならない。そして自らが現実に事業に貢献していることを知り、それが何であるかを知らなければならない。
(2)専門職は、専門職としての昇進の機会を持たなければならない。
(3)専門職は、事業に貢献する者として、その優れた仕事や貢献について報酬面でのインセンティブを与えられなければならない。
(4)専門職は、本当の専門家としての仕事を持たなければならない。
(5)専門職は、社内だけでなく、専門家の世界においても一流として認められなければならない。

・時間の使い方を知っている者は、考えることによって成果をあげる。行動する前に考える。繰り返し送る問題の処理について、体系的かつ徹底的に考えることに時間を使う。

・要約するならば、明日の経営管理者は7つの仕事に取り組むことを求められる。
(1)目標によってマネジメントする。
(2)長期の大きなリスクをとる。リスクを計算し、有利なリスクを選択し、何が起こるかを予期し、予期した事態あるいは予期せぬ事態が生じた場合の行動を自らコントロールする。
(3)戦略的な意思決定を行う。
(4)共通の目標のもとに自らの成果を評価するメンバーからなるチームを構築する。同時に、明日のための経営管理者を育成する。
(5)情報を迅速かつ明確に伝え、他の人を動機づける。すなわち責任ある参画を得る。
(6)一つあるいはいくつかの機能に通じているだけでなく、事業全体を把握する。
(7)いくつかの製品あるいは一つの産業に通じているだけでなく、それらのものを社会全体に関連づけ、そこにおいて重要なことが何であるかを知り、自らの意思決定と行動に反映させる。市場の外と国の外の動きに注意する。世界的な規模における経済、政治、社会の動きを把握し意思決定に反映させる。


序論 マネジメントの本質
 マネジメントの役割
 マネジメントの仕事
 マネジメントの挑戦

第1部 事業のマネジメント
 シアーズ物語
 事業とは何か
 われわれの事業は何か
 事業の目標
 明日を予期するための手法
 生産の原理

第2部 経営管理者のマネジメント
 フォード物語
 自己管理による目標管理
 経営管理者は何をなすべきか
 組織の文化
 CEOと取締役会
 経営管理者の育成

第3部 マネジメントの組織構造
 組織の構造を選ぶ
 組織の構造をつくる
 小企業、大企業、成長企業

第4部 人と仕事のマネジメント
 IBM物語
 人を雇うということ
 人事管理は破綻したか
 最高の仕事のための人間組織
 最高の仕事への動機づけ
 経済的次元の問題
 現場管理者
 専門職

第5部 経営管理者であることの意味
 優れた経営管理者の要件
 意思決定を行うこと
 明日の経営管理者

結論 マネジメントの責任

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○1452 『経営者の条件』 >P.F.ドラッカー/ダイヤモンド社

早速、エターナル・コレクションに着手。まずは1冊目の『経営者の条件』から。本書は、1966年、ドラッカー56歳のときの著作とのこと。万人のための帝王学と説明されているとおり、単なるノウハウ・テクニックではなく、心構え、あるべき姿といった精神論の領域にまで踏み込んでいるように感じた。

今回はノートを取りながら読書を進めてみた。ノートに書きつけた引用および要約を記録しておきたい。ちなみに、ノートを取りながら読書を進めると、その時に考えたこともメモするという利点が生じた。自分の考えのメモに関しては、今の仕事に直結するため、ここには記載できないが、受け身で本を読むのではなく、能動的に考えて読むという行為につながったように感じた。

・8つの習慣
(1)なされるべき事を考える
(2)組織の事を考える
(3)アクションプランをつくる
(4)意思決定を行う
(5)コミュニケーションを行う
(6)機会に焦点を合わせる
(7)会議の生産性をあげる
(8)「私は」ではなく「われわれは」を考える

・知識労働は、「コスト」でも「量」でもなく、「成果」によって規定される。

・成果を阻むもの
(1)時間を他人に奪われてしまう。
(2)日常業務に取り囲まれてしまう。
(3)組織で働いていること
 =ほかの者が彼の貢献を利用してくれるときのみ成果を上げることができるという制約。
(4)組織の内なる世界にいるという現実
 =組織の中に成果は存在しない。すべての成果は、顧客など組織の外にある。

・成果をあげる能力は習得できる。成果をあげることは1つの習慣である。実践的な能力の集積である。

・成果をあげるために身につけておくべき習慣的な能力
(1)何に自分の時間がとられているかを知ることである。残されたわずかな時間を体系的に管理することである。
(2)外の世界に対する貢献に焦点を合わせることである。仕事ではなく成果に精力を向けることである。「期待されている成果は何か」からスタートすることである。
(3)強みを基盤にすることである。自ら強み、上司、同僚、部下の強みの上に築くことである。それぞれの状況下における強みを中心に据えなければならない。弱みを基盤にしてはならない。すなわちできないことからスタートしてはならない。
(4)優れた仕事が際立った成果をあげる領域に力を集中することである。優先順位を決めそれを守るよう自らを強制することである。最初に行うべきことを行うことである。二番手に回したことはまったく行ってはならない。さもなければ何事もなすことはできない。
(5)成果をあげるよう意思決定を行うことである。決定とは、つまるところ手順の問題である。そして、成果をあげる決定は、合意ではなく異なる見解に基づいて行わなければならない。もちろん数多くの決定を手早く行うことは間違いである。必要なものは、ごくわずかの基本的な意思決定である。あれこれの戦術ではなく一つの正しい戦略である。

・知識労働者というものは、自らが自らに課す要求に応じて成長する。

・ゼネラリストについての意味ある唯一の定義は「自らの知識を全領域に正しく位置づけられる人」である。

・我々は貢献に焦点を合わせることによって、原則とすべきものを知る。貢献に焦点を合わせることによって、組織の内部に引きこもることを防ぐ。

・人に成果をあげさせるには「自分とうまくいっているか」を考えてはならない。「いかなる貢献ができるか」を問わなければならない。「何ができないか」を考えてもならない。「何を非常によくできるか」を考えなければならない。特に人事では一つの重要な分野における卓越性を求めなければならない。

・力強くはあっても腐ったエグゼクティブほどほかの者を腐らせる者はいない。そのような者は自らの仕事では成果をあげることができるかもしれない。ほかの人に影響のない地位に置くならば害はないかもしれない。しかし、影響のある地位に置くなら破壊的である。これは人間の弱みがそれ自体、重要かつ大きな意味を持つ唯一の領域である。

・人の世界では、リーダーと普通の人たちとの距離は一定である。リーダーの仕事ぶりが高ければ、普通の人の仕事ぶりも高くなる。集団全体の成績を上げるよりも、リーダー一人の成績を上げるほうが易しいということを知らなければならない。したがって、リーダー的な地位、すなわち標準を設定し基準を定める地位には、傑出した基準を設定できる強みを持つ人をつけなければならない。

・成果をあげるための秘訣を1つだけ挙げるならば、それは集中である。成果をあげる人は最も重要なことから始め、しかも一度に1つのことしかしない。

・完全な失敗を捨てることは難しくない。自然に消滅する。ところが昨日の成功は非生産的になったあとも生き続ける。もう一つ、それよりもはるかに危険なものがある。本来うまくいくべきでありながら、なぜか成果のあがらないまま続けている仕事である。

・状況からの圧力は、未来よりも過去を、機会よりも危機を、外部よりも内部を、重大なものよりも切迫したものを優先する。実は本当に行うべきことは優先順位の決定ではない。優先順位の決定は比較的容易である。集中できる者があまりにも少ないのは、劣後順位の決定、すなわち取り組むべきでない仕事の決定とその決定の順守が至難だからである。

・優先順位の決定には、いくつか重要な原則がある。すべて分析ではなく勇気に関わるものである。第1に過去ではなく未来を選ぶ。第2に問題についてではなく機会に焦点を合わせる。第3に横並びではなく独自性をもつ。第4に無難で容易なものではなく変革をもたらすものを選ぶ。

・集中とは「真に意味のあることは何か」「最も重要なことは何か」という観点から時間と仕事について自ら意思決定をする勇気のことである。この集中こそ、時間や仕事の従者となることなく、それらの主人となるための唯一の方法である。

・決定を行動に変えなければならない。決定は最初の段階から行動の取り組みをその中に組み込んでおこなければ成果はあがらない。事実、決定の実行が具体的な手順として、誰か特定の人の仕事と責任になるまでは、いかなる決定も行われていないに等しい。それまでは意図があるだけである。

・コンピューターが扱うことのできるのは抽象である。抽象化されたものが信頼できるのは、それが具体的な事実によって確認されたときだけである。それがなければ抽象は人を間違った方向へ導く。

・成果をあげるエグゼクティブは、意思決定は事実を探すことからスタートしないことを知っている。誰もが意見からスタートする。最初から事実を探すことは好ましいことではない。すでに決めつけている結論を裏づける事実を探すだけになる。したがって、現実に照らして意見を検証するための唯一の厳格な方法は、まず初めに意見があること。また、そうでなければならないことを明確に認識することである。こうした認識があって初めて、意思決定においても科学においても、唯一の起点として仮説からスタートしていることを忘れずにすむ。われわれは仮説をどう扱うかを知っている。論ずべきものではなく、検証すべきものである。

・最後に、伊S決定は本当に必要かを自問する必要がある。何も決定しないという代替案が常に存在する。意思決定は外科手術である。システムに対する干渉であり、ショックのリスクを伴う。よい外科医が不要な手術を行わないように、不要な決定を行ってはならない。




【目次】

序章 成果をあげるには
第1章 成果をあげる能力は修得できる
第2章 汝の時間を知れ
第3章 どのような貢献ができるか
第4章 人の強みを生かす
第5章 最も重要なことに集中せよ
第6章 意思決定とは何か
第7章 成果をあげる意思決定とは
終章 成果をあげる能力を修得せよ

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