今日はオムロン創業者の立石一真氏。立石さんについては、名著『「できません」と云うな』で、その存在を初めて知って大変感銘を受けたのだが、私の履歴書では、そこにも書かれていなかった下積み時代の苦労が赤裸々に描かれている。テキヤ経由で商売したなど、今日であればコンプライアンス的に微妙な表現も混じっているが、これは時代的には問題なかったことということであろう。まぁご愛敬である。

それにしても、昭和の高度経済成長期とはこのような時代であったかと、改めて思い知らされる瑞々しい自伝。お隣の中国に対していろいろと文句を言っているが、ひと昔前の日本も、ビジネスマナー、環境への配慮、人々の民度など、他人のことを言えた義理ではなかったことがよく分かる。

それでは、気になった箇所を引用。

・(親友の)大坪君は長男で、1人の弟と3人の妹がいた。あるとき遊び仲間の1人が私にあるうわさをささやいてくれた。それによると大坪君の病院の看護婦の間で、私がひんぱんに出入りするのは彼の妹たちの家庭教師のアルバイトをねらっているのではないかということだった。私にはそんな気持ちは毛頭なかったので驚いたが、母にも話さず、何日か悩んだ末、一つの“悟り”を開いた。「人にほめられて有頂天になり、人にくさされて憂鬱(ゆううつ)になるなんておよそナンセンス。なぜなら、そんなことぐらいで自分自身の値打ちが急に変わるものではない」と。

・(重要な機械の設計を一手に任されたが、不具合が頻発したときのこと)しだいに見通しが暗くなるにつれ、笠原営業部長と大同電力の支配人との間に善後策が協議された。私はそのつど、技術的な説明のためにかり出された。いずれにしても、この機器の扱いが困難な理由は、日本では未経験の油入形だったからで、お互いに話し合い、致命傷にならぬよう注文を解消してもらった。この苦い経験で、私は新商品を出す場合は、万一不都合が出たら、どう手当てするかをあらかじめ考えておく──いわゆるカリキュレーテッド・リスク(計算された危機)の思想がいかに大事かということを、いやというほど思い知らされたのであった。

・(何度も徹夜をして不具合を解消し、機械の導入に成功したときのこと)おかげで、井上電機では私が誘導形保護継電器のベテランになった。面白いことには当時としては、この技術をもとに将来商売を始めようなんて、毛頭考えていなかったが、くしくもこの技術を身につけていたことが、のちに水先案内のごとく私を立石電機創業へと導いていくことになるのである。まことに下世話にいう“芸は身を助ける”である。私はつねづね若い社員にいう。「いつも自分の受け持ちの仕事に打ち込め。功利的な思惑がなくても将来必ず何かに役立つときがある」と。

・8年間の井上電機勤務は、それが200人足らずの中小企業であったがゆえに、直接担当した仕事はもちろん、その他の仕事の様子ものみ込むことができた。このことはのちに独立して立石電機を経営するようになってから大いに参考になった。これは思いもかけぬ拾いものであった。

・(上司が部下の実績に嫉妬して、重要な仕事を任せないということ)これはまことにもったいない話で、企業の大事な技術をフルに活用する政策としては愚の愚なるものではないかと思う。私は自分で商売を始めてからは、この苦い経験を生かし、若い社員にはヒントを与えて考案・特許の手助けをしてやり、成功したら、その考案・特許は本人を考案者・発明者として出願させ、花を持たせるようにしている。この要領で、一度創造の醍醐味(だいごみ)を覚えると、もうしめたもので、はずみがついて次々と発明、考案するようになる。こういうふうにするのが人を育てるということだと思っている。

・(創業期に借金で苦労したことを受けて)このとき私はハラに決めたことがある。借金をしないということ。事業の借金にしても失敗すれば、あいつは資本金を食ったといわれる。所帯の借金は、つい心安立てに親類、友人に無理をいうことになるが、生活費を借りるわけでなかなか返せないし、人生においてかけがえのない大事な交友を失うことにもなりかねない。この借金をしないという信条は後年、事業の再建などで、大いに役立ったと思っている。