2016年09月16日
映画を見る機械?
発端はこのTogetterまとめだったんだけど、はてなメタブックマーク(はてなブックマークを更にブクマするという行為)で売り言葉買い言葉にしちゃって、ちょっと暴言もやらかしたもんで。
反省も交えつつ、まとまった文章で書いておこうと思った次第です。
売り言葉買い言葉のお相手を想定して書くので、基本的に敬語で書きたいと思います。
まずはお詫び。
ここのブックマークコメントで「ゆるふわピンクをこそ好む人」が固定的な存在であるかのように書いたことは粗雑過ぎたな、と思います。失礼しました。
現実的には、「常に」「ゆるふわピンクをこそ好む人」で居続けられる人は、「フェミニズムへの関心が高い人」と同等に希少だと思います。特に、現代においては。
(今時、人文社会科学系の学部学科がある大学ならジェンダー論系の講義はあるはずだし、女子の大学進学率も20年以上前から3割を超えています。
そして、「ジェンダーの関係で」女子は自然科学より人文科学・社会科学方面に進学する人が多いです)
「一般的な女性」は、最頻値がどこかで個人差を持ちつつも、日本社会の性差別にげんなりしたり、ゆるふわピンクな気分に浸ったりの濃淡を行き来して生きている人が多いはずです。女性だって人間だし、多くの人は他者との接点を持っていますから、色々あります。
そしてもちろん、「フェミかゆるふわピンクか」の軸だけで女性を、人間を測れるわけはありません。
………ということを想定しないかのようなマーケティングをするからこそ「ダサピンク」って言葉を使った批判を受けるわけです。
最初のTogetterまとめに出てきた映画たちの多くは、「ゆるふわピンク寄りな気分」のときに、積極的に見たい映画でしょうか。
「ゆるふわピンク寄りな気分」のときには、そういう気分用の映画なり何なりを選びたくならないでしょうか。
「ゆるふわピンク寄りな気分」の女性をあえて寄せて社会派をぶつけるのって、「騙された」という感覚を客に与えるものじゃないでしょうか。
「フェミ的な映画」も使いようで、社会の性差別にげんなりしてる時に見てスッキリするとか、頑張りたいことで壁にぶち当たった時に元気をもらうとか、ぶち当たった壁の前で深く潜ってみるとか、「一般的な女性」にとっても示唆は多いと思います。男性がそうであるように、女性もその多くは恋愛だけで生きてたりしません。恋愛要素以外から得られる「癒し」「励まし」を馬鹿にしてはいけないと思います。
「一般的な女性」にとって、「ゆるふわピンク」と「フェミ」はどちらもそれなりにあるもので、且つ、「気分としては」簡単にごちゃ混ぜに出来るものではないのです。
理由は様々ですが、「フェミ」であることと「戦闘性を持たないこと」は、日本社会ではもちろん、世界規模でもまだまだ共存が難しいので。
…というか、「多少マイルドにしつつもフェミ的メッセージ、テーマを殺さない広報」は、是非やってみてほしいと思っている人も多いんじゃないでしょうか。少なくとも、あたしはそうです。
…という諸々があるので、「本気で言ってますそれ?」は、暴言としてはお詫びしますが撤回しません。
言葉が酷くてごめんなさい。でも、
「フェミ映画のメッセージを殺していい」
「「ゆるふわピンク」を騙してフェミ映画に連れ込んでいい」
という考え方は、「フェミ」はもちろんですが、「ゆるふわピンク」も馬鹿にしています。
日本の人々が映画から遠ざかってるのは、経済状況や娯楽の多様化もさることながら、こういうズレた広報にも原因があるのではないでしょうか。
人間は、「映画業界にお金を垂れ流す機械」ではありません。
…というか、どの産業界にも、人間を「自業界にお金を垂れ流す機械」にする特権なんてありません。
男性が人間であるように、女性も人間です。
映画業界に限らず、産業界が人々を「事業界にお金を垂れ流す機械」という方面からしか見なくなったのも、日本社会の消費が冷え込んでる1つの原因じゃないでしょうか。
反省も交えつつ、まとまった文章で書いておこうと思った次第です。
売り言葉買い言葉のお相手を想定して書くので、基本的に敬語で書きたいと思います。
まずはお詫び。
ここのブックマークコメントで「ゆるふわピンクをこそ好む人」が固定的な存在であるかのように書いたことは粗雑過ぎたな、と思います。失礼しました。
現実的には、「常に」「ゆるふわピンクをこそ好む人」で居続けられる人は、「フェミニズムへの関心が高い人」と同等に希少だと思います。特に、現代においては。
(今時、人文社会科学系の学部学科がある大学ならジェンダー論系の講義はあるはずだし、女子の大学進学率も20年以上前から3割を超えています。
そして、「ジェンダーの関係で」女子は自然科学より人文科学・社会科学方面に進学する人が多いです)
「一般的な女性」は、最頻値がどこかで個人差を持ちつつも、日本社会の性差別にげんなりしたり、ゆるふわピンクな気分に浸ったりの濃淡を行き来して生きている人が多いはずです。女性だって人間だし、多くの人は他者との接点を持っていますから、色々あります。
そしてもちろん、「フェミかゆるふわピンクか」の軸だけで女性を、人間を測れるわけはありません。
………ということを想定しないかのようなマーケティングをするからこそ「ダサピンク」って言葉を使った批判を受けるわけです。
最初のTogetterまとめに出てきた映画たちの多くは、「ゆるふわピンク寄りな気分」のときに、積極的に見たい映画でしょうか。
「ゆるふわピンク寄りな気分」のときには、そういう気分用の映画なり何なりを選びたくならないでしょうか。
「ゆるふわピンク寄りな気分」の女性をあえて寄せて社会派をぶつけるのって、「騙された」という感覚を客に与えるものじゃないでしょうか。
「フェミ的な映画」も使いようで、社会の性差別にげんなりしてる時に見てスッキリするとか、頑張りたいことで壁にぶち当たった時に元気をもらうとか、ぶち当たった壁の前で深く潜ってみるとか、「一般的な女性」にとっても示唆は多いと思います。男性がそうであるように、女性もその多くは恋愛だけで生きてたりしません。恋愛要素以外から得られる「癒し」「励まし」を馬鹿にしてはいけないと思います。
「一般的な女性」にとって、「ゆるふわピンク」と「フェミ」はどちらもそれなりにあるもので、且つ、「気分としては」簡単にごちゃ混ぜに出来るものではないのです。
理由は様々ですが、「フェミ」であることと「戦闘性を持たないこと」は、日本社会ではもちろん、世界規模でもまだまだ共存が難しいので。
…というか、「多少マイルドにしつつもフェミ的メッセージ、テーマを殺さない広報」は、是非やってみてほしいと思っている人も多いんじゃないでしょうか。少なくとも、あたしはそうです。
…という諸々があるので、「本気で言ってますそれ?」は、暴言としてはお詫びしますが撤回しません。
言葉が酷くてごめんなさい。でも、
「フェミ映画のメッセージを殺していい」
「「ゆるふわピンク」を騙してフェミ映画に連れ込んでいい」
という考え方は、「フェミ」はもちろんですが、「ゆるふわピンク」も馬鹿にしています。
日本の人々が映画から遠ざかってるのは、経済状況や娯楽の多様化もさることながら、こういうズレた広報にも原因があるのではないでしょうか。
人間は、「映画業界にお金を垂れ流す機械」ではありません。
…というか、どの産業界にも、人間を「自業界にお金を垂れ流す機械」にする特権なんてありません。
男性が人間であるように、女性も人間です。
映画業界に限らず、産業界が人々を「事業界にお金を垂れ流す機械」という方面からしか見なくなったのも、日本社会の消費が冷え込んでる1つの原因じゃないでしょうか。
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この記事へのコメント
1. Posted by nessko 2016年09月16日 20:05
こちらもはてなブックマークのコメント欄では字数が限られているせいで言い方が乱暴になっていたようで、余計な気をつかわせたのかと反省しています。
ゆるふわ問題に焦点を当てて話をしているところへ、映画ファンとして横から入り込んだせいで私のコメントがずれていたというのもありそうですね。
私がはっきり記憶しているのは1970年代あたりからの光景になりますが(それ以前のことは本で読んだ知識になる)、最近の映画のポスターは昔にくらべて絵柄も色彩もコピーも甘口になっている、子供向けの駄菓子のパッケージみたいになってるかなあという印象はあります。
ただ、1970年代頃だとまだ映画館が田舎にも何軒かあって、町中に映画館の立て看板が出ていましたね。今だと映画の宣伝ポスターはそれこそシネコンにいかないと見られない、他で貼ってある場所はほんとうに限られています。そういう変化も関係しているのかもしれません。
しかし映画館の立て看板は町の景色を猥雑にしていましたので、昔がよかったともいえないのですね。
また話が昔話に流れていますので、このへんで終わりにします。ただ、「未来を花束にして」は、映画本体はそのまま上映してくれるのでしょう。場合によっては、ご存知かもしれませんが、たとえばアメリカで「Shall we ダンス?」を公開するにあたって、配給元のミラマックスが米国向けの編集を要求し、監督は日本で上映したより幾分短めの時間に仕立て直したそうですが、かつては日本でも、日本で公開する時に日本向けに編集し直して上映したりというのがありました。
それがないなら、まず、作者の意図のまま公開されたと見てもよいのではと思ったりもするのです。
ゆるふわ問題に焦点を当てて話をしているところへ、映画ファンとして横から入り込んだせいで私のコメントがずれていたというのもありそうですね。
私がはっきり記憶しているのは1970年代あたりからの光景になりますが(それ以前のことは本で読んだ知識になる)、最近の映画のポスターは昔にくらべて絵柄も色彩もコピーも甘口になっている、子供向けの駄菓子のパッケージみたいになってるかなあという印象はあります。
ただ、1970年代頃だとまだ映画館が田舎にも何軒かあって、町中に映画館の立て看板が出ていましたね。今だと映画の宣伝ポスターはそれこそシネコンにいかないと見られない、他で貼ってある場所はほんとうに限られています。そういう変化も関係しているのかもしれません。
しかし映画館の立て看板は町の景色を猥雑にしていましたので、昔がよかったともいえないのですね。
また話が昔話に流れていますので、このへんで終わりにします。ただ、「未来を花束にして」は、映画本体はそのまま上映してくれるのでしょう。場合によっては、ご存知かもしれませんが、たとえばアメリカで「Shall we ダンス?」を公開するにあたって、配給元のミラマックスが米国向けの編集を要求し、監督は日本で上映したより幾分短めの時間に仕立て直したそうですが、かつては日本でも、日本で公開する時に日本向けに編集し直して上映したりというのがありました。
それがないなら、まず、作者の意図のまま公開されたと見てもよいのではと思ったりもするのです。
2. Posted by 七重 2016年09月16日 23:14
nessko様、いらっしゃいませ。
お越し下さってありがとうございます。
すれ違いのようなものは感じていたので、それが多少解けたなら文字数をかけた甲斐はありそうです。
酷い邦題自体はこういった映画に限らないですが、特に「女性」が話のテーマに絡んでくるとアレンジの方向性がより女性抑圧的な方向に向かうのは性差別以外の何者でもないので、そこを落とされるとつらいな、と思ってやりとりさせていただいてました。
まだまだ書けてない話もありますので、この話題でもう少し記事を書く予定です。
>1970年代あたりの話
おお、あたしの知らない頃の話ですね…。
「子ども向けの駄菓子のパッケージ」も結構原色バリバリのイメージですけど、昔の映画ポスターは黒と赤がどーん、みたいな感じだったのでしょうか。
映画館が減った、というのは確かに大きいだろうな、と思っています。映画の採算取るのも大変でしょうし。
映画が娯楽の「one of them」になってる人を呼び込むのも大変だと思います。
>映画本体〜
ヘヴィな描写をカットしたりモザイクかけたり、という話は最近もあるようですが、あたしは映画はそこまで詳しくないので邪推はしないことにします。
…ただ、作者の意図のまま公開するのなら、何で作者の意図をこそ好んで見たがる人を敬遠させる広告打つのかな、と思うのです。
本文の方でも掘り下げていますが、敬遠させても騙しても、どっちにしろ客を蔑ろにした話だろうと。
お越し下さってありがとうございます。
すれ違いのようなものは感じていたので、それが多少解けたなら文字数をかけた甲斐はありそうです。
酷い邦題自体はこういった映画に限らないですが、特に「女性」が話のテーマに絡んでくるとアレンジの方向性がより女性抑圧的な方向に向かうのは性差別以外の何者でもないので、そこを落とされるとつらいな、と思ってやりとりさせていただいてました。
まだまだ書けてない話もありますので、この話題でもう少し記事を書く予定です。
>1970年代あたりの話
おお、あたしの知らない頃の話ですね…。
「子ども向けの駄菓子のパッケージ」も結構原色バリバリのイメージですけど、昔の映画ポスターは黒と赤がどーん、みたいな感じだったのでしょうか。
映画館が減った、というのは確かに大きいだろうな、と思っています。映画の採算取るのも大変でしょうし。
映画が娯楽の「one of them」になってる人を呼び込むのも大変だと思います。
>映画本体〜
ヘヴィな描写をカットしたりモザイクかけたり、という話は最近もあるようですが、あたしは映画はそこまで詳しくないので邪推はしないことにします。
…ただ、作者の意図のまま公開するのなら、何で作者の意図をこそ好んで見たがる人を敬遠させる広告打つのかな、と思うのです。
本文の方でも掘り下げていますが、敬遠させても騙しても、どっちにしろ客を蔑ろにした話だろうと。