「リウマチ…断薬そして完治」のコメント欄に、痺れについてのご質問をお寄せいただきました。
以下はそのコメントの全文です。

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北斗拳志郎 2019年06月07日 10:50
お世話になります。
お聞きしたいんですが、私は脳梗塞の後遺症で左片麻痺になりました。
現在、運動麻痺よりも痺れのほうが深刻です。
痺れを抑える薬を処方してもらってますがあまり効果はないようです。
この痺れの治療に鍼灸は有効なのでしょうか?
よろしくご教示ください。

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基本病理…部分的な血の不足
痺れの基本病理は、その痺れる部位における血の不足です。つまり、部分的な血の不足があると、痺れが起こります。

たとえば、うつや不眠で煩悶・焦燥が高まったとき、両手や両足が痺れることがあります。「大丈夫だよ」などと声をかけ、もし安心させることができたならば、痺れはその場で消失します。

なぜこのようなことが起こるかというと、煩悶状態の中で、脳は非常に興奮状態に陥り、体の血はその需要を補うために頭部・胸部に集まった状態になります。血はそもそも体力の一側面です。血を一番切らせてはいけないのが内臓です。筋肉や四肢末端に供給する血を犠牲にしてでも、内臓だけは必要量を確保しなければなりません。バイタルにかかわるからです。いま、煩悶によって脳に血が集まった結果、内臓を含めたからだ全体に膜ばるべき血の量が足りなくなり、内臓の必要量を優先した結果、四肢末端に供給されるべき血は犠牲とされ内臓に送られます。こうして手足に血が不足した結果、痺れが起こる。そう考えるのです。

ですから、全身的な血の不足を意味する貧血とは概念が異なるということがご理解いただけると思います。貧血があろうとなかろうと、部分的な血の不足は起こりうるのです。

左右両側…全体の血の不足
2つめの例です。高齢者に多く見られる、両足部の痺れはどう考えるのでしょうか。これは昼間でも夜間でも常にあるものです。特に煩悶状態でもありません。慢性的に経過しやすく、自然に消失することはまずありません。僕の頸肩では治療しているうちに消失するケースもありますが、ましにしかならないケースもあります。

病理の説明をします。年をとると皮膚にも筋肉にも潤いがなくなりますね。これは若い時に比べて血が不足しやすいからです。体としては脳や内臓を最優先にしますので、もっとも優勢順位で下位になる手足が、部分的血の不足を生じやすいのです。そのため、常に四肢末端の血は不足しがちで。これは全体として血が不足しているから起こります。全体の血が不足によって起こった末端の部分的血の不足ならば、左右均等に血が不足するはずです。だから左右両側は全体の血の不足が関与するのです。

特に、年をとっても穏やかな精神状態になれず、憤りや悲観などのストレスをかかえている場合、脳(上)で血が消費されてしまうので、下が手薄となりやすく、故に足の痺れだけでなく、膝や腰の痛みも出やすくなります。治療としてはストレスを和らげて上での消費を少なくすることと、消化器を強くして血の産生を盛んにすることです。これは同時に健康で長生きの治療と重なります。こういうことができたならば、ガンにも認知症にもなりません。

東洋医学の「血」とは
以上、左右両側に出る痺れについてご説明しました。お気づきかもしれませんが、今言う血とは、西洋医学でいうところの血液とは少し違います。ここでいう血とは、血液の力、とでも表現するといいでしょうか。

「からだ」というものをどのようにみるのか。東洋医学と西洋医学では、見る角度が違います。どう違うのかというと、例えば砂糖で考えるなら、白い粉(物質)として見るのか、甘さ(機能:やくわり)として見るのか、という角度の違いです。西洋医学は白い粉として見ます。物質を基礎とした学問だからです。東洋医学は甘さとして見ます。機能を基礎とした学問だからです。これを「からだ」で考えるなら、西洋医学は物質的組織として見、東洋医学は命として見るのです。甘さも命も写真には撮れません。物の本質…機能(やくわり)は可視化できないのです。血というものを力(機能)だと説明する意味が見えてくるでしょうか。

このような考え方を踏まえ、血というものを物質的にではなく、機能的に考察します。血は下腹部(臍下丹田)を拠点として存在すると考えてください。右手でペンを取ろうとするとき、血は拠点である下腹部に留まりながらも、伸縮自在なアメーバのように右手に向かって伸びます。血を得た右手はペンを取り字を書くことができます。目で物を見るとき、頭で何か考えるとき、足を動かして歩くとき、血はそのたびに目に、頭に、足にと伸びるのです。そして用が済めば、手から、目から、頭から、足から、元の下腹部に縮むのです。これが血の機能的な姿です。

血のイメージ図


この考え方を、先に述べた両側の痺れに当てはめてみましょう。下腹部にある血は少なく弱く、つねに内臓の方に伸びて滋潤するだけて精一杯です。手足の末端まで伸びるだけの余力がありません。指先は血の供給を十分に受けられず、そのシグナルが痺れと考えられます。

左右片側…湿痰による血の阻害
さて次に、左右どちらか片側の痺れについてです。この場合、からだ全体の血の不足という側面は少ないと言えます。もし、全体の血の不足ならば、右が痺れていれば左も、全体的に痺れていないといけないからです。片側だけということは、全体としては血の不足はたいしことがないものの、何かが邪魔をして血の流通を阻害し、阻害された部分に、部分的な血の不足があると考えます。もっと機能的に言えば、下腹部の血が右には伸びられるが、左には障害物があるので伸びられない、ということになります。多くは湿痰が血の働きを阻害して痺れが出ます。

湿痰とは食べ物の余りです。体が許容しきれない、有効活用しきれない栄養分のことです。メルメルしているイメージで、どこにでもスルっと入るので、左右片側の特定の部位に湿痰が留まります。いったん留まるとネバネバした粘着性で、なかなかそこを離れません。こういうものが血の働きを邪魔すると、当然しつこい痺れとなります。

邪気とは
もう少し補足します。流通を邪魔するものを邪気といいます。邪とは邪魔するもの、気とは機能のことです。邪気という言葉は誤解を招きやすいのですが、生命力を邪魔する機能と直訳できます。機能は写真に撮れません。だから邪気は可視化できないのです。

東洋医学では主にこれを3つに分類します。第一段階は気滞といいます。除去しやすい邪気で、純粋に機能的です。短時間で除去できる可能性があります。シャボン玉は存在感がありますが、針でつつけはすぐ消えますね。そういうものをイメージしてください。第二段階は湿痰といいます。こうなると機能でありながら物質的側面がやや強くなり、ネバネバしてきます。除去するのに時間がかかります。第三段階になるとネバネバからカチカチになり、除去に手間がかかります。いっそう物質咳側面が色濃くなり、これを瘀血といいます。

気滞・湿痰・瘀血は名は変われど同じものが流動しているに過ぎません。要は機能的なのか物質的なのか、あっさりしているのかしつこいのか、浅いのか深いのか、というスライドする中での各点の名称になのです。気滞・湿痰・瘀血ともに、血を阻害する邪気となり、痺れの原因となり得ます。たとえば正座して足がしびれるなどは気滞による痺れと言えます。しかしこれらすべてを取り上げると煩雑になるのでここでは湿痰を中心にして進めていきます。

ちなみに邪熱は、気滞・湿痰・瘀血のすべてにおいて発生する可能性があります。滞りは緊張であり、緊張は熱を生むからです。邪熱を持ったこれらの各邪気は、性質が獰猛となり強力化します。

広範な痺れ…脳梗塞・坐骨神経痛など
次に、左右片側ではあるが、痺れる範囲が広範にわたる場合です。たとえば重度の坐骨神経痛のように腰から大腿・下腿すべてが痺れるというもの、たとえば脳梗塞の後遺症で片側の上下肢が痺れるものなどです。これは、部分的な左右どちらかの痺れとして片づけられないものです。範囲が広すぎるので、全体としての血の問題を考えなければなりません。

坐骨神経痛にしても、脳梗塞にしても、共通点は左右どちらかに問題が出るという点です。まず左右についての説明をします。左右に問題がある場合、共通する定義があります。それは気が上に昇っているということです。例えば建物で考えましょう。3階建ての建物があったとして、一階も二階も三階も同じ大きさなら安定しますが、一階は小さく二階三階となるにしたがって大きくなる…頭でっかちの建物となるならば、左右に不安定になりますね。

脳梗塞のように、広範で強く激しい左右差が出るとなると、気が上に昇っているというような生易しい表現では形容しきれません。これを形容するならば台風です。日本のはるか南の海上で海水温が上昇して生じた上昇気流、これが激しい渦とともにちり芥を巻き上げる…そういう激しい気の上昇です。

なぜそういう激しい上昇が起こるかというと、下腹部に拠点を置く血が、恐ろしく急激に弱ることによります。下が弱ると相対的に上が強くなります。この現象により、信じられないくらいに上が頭でっかち、下が弱い生命を形成するのです。その結果、左右に不安定になり、片側が機能不全に陥ります。

台風は水蒸気を巻き上げ巨大な雨雲を作りますね。脳梗塞も同じように、非常に強い湿痰を作ります。激しい熱風で体液を乾かすからです。この湿痰がが痺れの原因になります。これを治療するにはまず、気の上昇を落ち着かせること、同時に血という体力を補うこと、そして大量の湿痰を除帰すること、これらを同時に行うことになります。体力(生命力・回復力)が十分でないと気の上昇は抑えられないし、湿痰も除去できません。そして気の上昇や湿痰はますます体力を弱らせていきます。このような膠着状態の中で、脳梗塞の痺れは起こります。

ではなぜ、このような激しい血の弱りが起こるのか。それは疏泄太過が大きく関与します。我々は、知らず知らずのうちに、自分の身の丈を越えた仕事・遊び・食事をしがちです。不思議なことに、身の丈を越えていても、何も自覚が起こりません。仕事や遊びで疲れたとか、食べ過ぎてしんどいとか、そういう自覚がないのです。こういう状態を疏泄太過といいます。しかし、これは不自然です。

たとえば、鉛筆を両手で折ってみてください。力を加えると鉛筆の真ん中あたりに相当な負担がかかっています。しかし力を加えなければ、ただ両手で鉛筆を持っているだけです。この時、力を加えたときと加えていないときの見た目は、一見して同じです。この状態が、負担はかかっているが自覚がない状態とよく似ています。そして、力を加え続けた次の瞬間、鉛筆は折れてしまいます。血の急激な不足の向こう側にある真の原因は、疏泄太過なのです。こういう診立てができるかどうかが、治せるかどうかの最低条件となります。

重症疾患の治療とは
以上から、部分的血の不足という痺れの基本病理の向こうには、血の絶対量における極端な不均衡があり、極端に血が足りていない部分に、生命の均衡という生理からかけ離れた大きな落差を示す危険信号として痺れが自覚される…という立体的な構図が見えてきます。この落差を術者が立体的にハッキリ認識できるか、これが治療の成否に大きく関わります。

頭痛には〇〇のツボが効く、腰痛には△△のツボが効く…などという人がいますが、それは一面言えることですが、そのやり方では重症疾患は治せません。原因となる根っこを見据えながら、治療は変幻自在に行います。腕のある鍼灸師なら、診立ての本筋はいっしょです。どのツボを使うかは、術者それぞれの一番やりやすい方法を使うはずです。診立ての本筋に鍼が届けばいいのです。それは漢方家でも同じだと思います。

生命のあり様は、必ず体の表面に現れます。舌・顔面・ツボなどです。体は、起こっている現象を何とか我々に伝えようと、必死て表現してくるのです。我々はそのサインを理解するよう見落とさないよう、十年二十年それ以上かけて、体の声を聞く修行を積むのです。そしてそれができるようになったとき、治るはずのない病気が好転していきます。それは脳梗塞の後遺症といえども同じことです。


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