愛する人が死んでしまった。でも悲しんでばかりはいられない。残された家族には大切な仕事が待っている。とにかく死体を放っておくわけにはいかないのである。現代の技術なら、眠っているのと何ら変わらない状態で永久保存もできるだろう。それが火葬と同じ費用でできるなら、どちらを選択するだろうか。
  ぼくなら火葬がよい。待て待て、死んでしまっても、その体だけなりとも大切に保管するのが愛情というものではないのか。無残にも焼き払い、粉々にして小さな壺に詰め込んでしまいたいとは、本当にその人のことを愛していたといえるだろうか。
  それもそうだが、でもやはり、ガラスケースの中で何十年も生き生きとしている死体を想像すると、その方がなぜかつらい。だからといって愛する人の体を焼いたり埋めたりしたいと感じるのも変だ。ぼくは死体を邪魔者扱いにしているのだろうか。

 愛する人の体とは、その人にとってどんなものだろう。たとえば我が子が病気になる。高熱を出して苦しそうだ。身代わりになってもよいから、この子を助けたい。子だけでなく、親もつらさを感じている。つらさを感じるのは脳である。不思議なのは、子供の体は一つなのに、その体のつらさを感じる脳は二つあることだ。

 親は子の体を「共有」しているのである。愛する人と向き合う時、こう考えた方がしっくりくる。こういうケースは赤の他人にはない。ぼくとあなたとは、心も体も別物である。ところが、ぼくとぼくの愛する人とは、心は確かに別にちがいないが、体は一つなのである。
 人が、愛する人を葬る理由はここにあると思う。永遠に自分の死体を見ることのない我々にとって、ついさっきまで共有してきた体が死んでしまったら、その体を消し去らずには、この生きた体を一歩たりとも未来に運ぶことができないのかもしれない。自分の死体がここにない限り、愛する人の死体もここには存在できないのだ。

 愛する人を失ったことのない人たちは幸運だ。そして彼らは本当の死体をまだ見たことがない。心の通わない死体はモノにすぎない。本当の「死体」とは、自分の死体か、自分の愛する人のそれ以外ない。モノならば目に触れなければOKだろう。だが隠すことと葬ることとは違う。葬りたいという衝動は、亡くなった人と体を共有できる人にのみ起こるものではないだろうか。
 愛する家族を亡くすたび、ぼくは、ぼくの一部が消えたと感じた。そして愛する家族が増えるたび、ぼくの体は大きくなったと感じた。同じように愛する人が世界中に増えるならば、ぼくは地球大に大きくなることも可能なのだろう。「この体」は「ぼくの体」の一部にすぎないからである。


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