調子に乗って無理をすると、すぐ風邪をひく。体が思うように動かない。そんなときはこう考える。このつらさのおかげで疲労が取れ、また元気に働けるようになるのだ。だが、どう思おうが思うまいが、風邪が治るまで寝ているしかない。そうこうするうち、またケロッと治ってしまう。治ったすぐは無理しないよう用心もするが、そのうち性懲りもなくまた調子に乗る。
 どんな人でも、人生の長い道のりの中で、体の好・不調の起伏を経験する。その波の中で、自分自身に躁と鬱との繰り返しがあることに気づく。狭義の躁鬱病ではなく、心と体をひっくるめた、大きな意味での躁と鬱である。
 ここから何が見えてくるだろう。私のように風邪をひいた原因が、調子に乗って無理をしたことなら、そこにどんな問題があったのだろう。
 無理をしたということは、体が持っている能力以上の負荷がかかったということである。だが当の本人は、その時無理をしたとは思っていない。なぜか。調子に乗っていたからである。興奮すると疲労を感じなくなる。それを感じなければ無理のし放題だ。躁の状態である。躁は病気の土壌なのだ。
 体はそれを見逃さない。何かしらシグナルを出して興奮を抑えようとする。そのシグナルは我々にとって心地よいものではない。ますます調子に乗せてはならないからだ。だから、つらくて体が思うように動かない。何もしていないのに疲れる。寝るしかない。つまり鬱である。興奮からさめれば疲労が自覚され、疲労の蓄積にストップがかかる。鬱は健康になるための必要プロセスなのである。
 躁と鬱の観点から、病気の改善や悪化などの統計を取ってみてはどうか。病気を細かく分け、それぞれに合った対処法を講じることは大切だ。だが、病名にこだわらず巨視的に病気を分析していくことも忘れてはならない。
 たとえば、ガンも含めた予後不良の病気の中には、ある特徴が見られることがある。それは、体を横たえても疼痛などの症状が治まらないことである。眠れないとイライラする、不安になる。発病しても躁から鬱に転化しきれず、なお躁的な状態が続くのである。それが日に夜にひどくなっていくときは気をつけた方がよい。
 一方で、つらくて何もできない、だが横になっていれば楽である、眠るのは苦にならない、という人がある。こうした鬱の状態なら、私の経験では、予後が良好な場合が多い。仮に死の転帰をとるにしても安らかである。
鬱を引き起こす原因は躁にある。二つは常に相対的に存在しあう。そして躁は鬱にいつか必ず転化する。生と死もまたその範疇にある。
 庭先に松の木が植えてある。桜のように派手に咲くでもなく、紅葉のような散り際の静寂さもないが、私はこの木が好きだ。冬になろうが春が来ようが、喜びもせず悲しみもしない、変わらぬ姿に私は学びたい。


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