眞鍼堂|奈良県橿原市の鍼灸専門治療院 大和八木駅から徒歩7分

一本鍼が鍼灸の力を最大に発揮。奈良県橿原市で本格的な東洋医学を実践する鍼灸院。肩こり・腰痛はもちろん、うつ・パニック・めまい・アトピー・喘息・不妊症・PMS・更年期障害・発達障害など、全科に対応。

提言

ヤフー用ぼかし
 漢方では、体を養ううえで大切な要素があるとする。それは季節である。季節とは、春夏秋冬のことだか、それに対応して「生・長・収・蔵」という言葉がある。春に生まれたエネルギーが、夏に拡大・成長し、それが秋には縮小・収束され、冬は蔵して静かに春の生を待つのである。これは、植物・動物を問わず、この世に生きとし生けるものすべてにに共通することであるという。

 
 ここから推測できるのは、活動期は春と夏、ということである。私はこのことを知ってから、春夏は積極的に体を動かすようにし、秋冬はそれを上回らないように心がけている。
 
 私は家庭菜園をやっている。自然農法というのは、春と夏いそがしく、秋冬は仕事が少ない。自然と漢方理論にかなっているのだ。自分で体を動かして得た旬の食材が美味しくないはずはなく、食事が美味しければ気分もさわやかになるのは自然の成り行きである。そして、汗を流そう!という意欲につながる。
 
 私の3人の子供たちは、こうした季節の野菜ばかりを食べているが、みな驚くほど野菜好きである。秋冬春と我慢して夏に食べるキュウリやトマトのうまさに大騒ぎし、秋になればホウレンソウのおひたしの取り合いになるなど、旬のものしか食卓に出さない我が家では毎年のことだ。メタボリック症候群などとは縁の遠い大人になるのではないかと期待している。
 
 季節に合わせるだけで、不思議と良い循環ができることを、私は数多く経験してきた。
 
 季節が体に及ぼす影響は未知の部分が多いが、気温が低いと血流が変化することがある。そんな時は血圧が高めらな無理をしないことも大切だろう。それでなくても、寒い冬は何となく気ぜわしいものである。身も心もゆっくり、ゆったりと保つことが、休息期の冬に応じた過ごし方だ。季節は変えられないので、生活を少し変える。二千年前からの知恵である。
 
 漢方の理論は、科学的裏付けのないものが非常に多い。しかし、根拠が確認できていないことでも、それに関心さえ持てば、見逃していたものが見えてくるかもしれない。
 
 例えは、「脈診」という手法が漢方にはある。脈診とは、手首の動脈を触診し、体全体が正常か異常かを判別する漢方独自の診察方法であるが、正常と診断される脈の状態は、季節ごとに異なる特徴を持つ。春には春の脈、夏には夏の脈があるのだ。私は臨床の中で常にこれを用いている。春夏は元気はつらつ、秋冬はおだやかに、という大自然の循環にうまく乗せるためだ。四季それぞれの「健康」である。
 
  国家の命題である医療費削減をスムーズにするためにも、もっと漢方理論を積極的に参考にし、体と季節について関連性がないか議論があってもよい。根本的な病気の解決方法のヒントが「季節」に隠されていると思う。

(2007.4.10.朝日新聞)



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         暑い夏は熱中症予防のためにも体温を下げることが必要だ。

  
  体温調節は、熱中症や低体温にならないための重要な生理作用である。そもそも体温調節は、外気温の暑さ・寒さの変化に対応するためのもので、皮膚の温度受容器によって感知される変化を起点として、自律神経系・ホルモン系・体性感覚系を介して、体温の変化を防ぐ全身的反応であると説明される。

  体温調節の仕組みはいろいろあるが、皮膚血流も重要な要素である。体温が上昇すると皮膚血管が拡張し、皮膚血流が増大して、体熱の放散が促進される。逆に、体温が低下すると皮膚血管が縮小し、皮膚血流が減少して、体熱の放散が抑制される。

  皮膚血流が多いと深部の体温が逃げやすくなる。皮膚の血流は、多いと皮膚温が高くなり、少ないと低くなるはずだから、皮膚温が比較的高い人は熱の放散がしやすく、低い人は熱が逃げにくいとも言える。

  つまりお湯が、普通の容器のほうが冷めやすく、魔法瓶のほうがさめにくいのと同じ原理である。普通の容器は手で触れると温かいが、魔法瓶は冷たい。表面の温度が低いものは冷めにくいのだ。これは人の体でも同じである。皮膚が温かいか冷たいかで、体温がうまく逃げているかそうでないかが推測できるのだ。

  皮膚表面と体深部の温度差をなくすような熱伝導が生じれば、深部の熱が皮膚部や体外に速やかに移動し、体温の発散がスムーズになる。実はこれは、夏場の臨床で、私が最も意識していることである。体調のすぐれない人は、皮膚に触れるととても冷たい。なのに汗をたくさんかく。皮膚を暖めるような治療がうまくいくと、汗が止まり、涼しくなったという声が聞かれる。皮膚血流が増大して深部温度が下がったためと考えられる。

  体の奥の熱が表面に浮き出てこないと汗が出ても逆効果である。その汗は皮膚温だけを奪ってしまうことになり、ますます体温の放散ができず、もっと暑くなる。だからさらに汗が出る。まさに冷や汗だ。これでは高熱や脱水を起こしやすく、熱中症になりやすくなるのは当然である。それにしても、暑い夏に、皮膚温が下がるほど皮膚血流が悪くなる原因は何だろう。

  本来、皮膚血流が抑えられるのは、冬などに寒さから身を守るための反射である。寒冷の刺激は、皮膚受容器を興奮させ、脳の視床下部にある体温調節中枢がその情報を受け取ると、皮膚血管の交感神経の緊張が反射的に高まる。すると皮膚血管が収縮して血流が抑えられ、体温の放散を防ぐ。

  ただし、この説明にかけているものがある。体温を低下させる外的要因は、外気温ばかりではなく、冷たい飲食物もあるということだ。だが飲食物温度による体温変化とその調節メカニズムについて、医学書の記載はなぜか皆無である。口腔内に寒冷の刺激を受けた時、あるいは腹部消化管が低温化したときの血流の変化についても、研究がなされた形跡はない。この現状を見る限りでは冷たい飲食物に関する視点が現代医学において欠落しているといわざるを得ない。

  血流変化はあくまでも反射である。自然界にはありえないほどの極端な低温の飲食物で、体温の放散を抑制する反射機能が作動してしまうことはないのだろうか。夏に誤作動を起こすことは危険である。

  高熱時のような体の絶対的温度を下げるべき時は別として、通常は、温かいものを摂取する方が、皮膚の血流の維持に役立ち、その結果、深部体温の発散がスムーズになるのではないか。例えば、夏に熱い風呂がかえって気持ちよく感じたり、風呂あがりが涼しく感じるのは、皮膚が温まって皮膚血流が増すことによる要素もあると思う。冷房の部屋から屋外に出ると、余計に暑くなるのは逆の原理が働くからだろう。私個人の感覚としては、夏に温かいものを飲食すると、そのときは暑くて汗が出るが、後が涼しい。

  「暑いときに熱いものを食べる」。昔からこういうんだと、私は一人のみならず複数の年配の方から聞いた。格言には逆説めいたものが多いが、言い得たものも中にはある。

漢方医学では「形寒・飲冷は則ち肺を傷(やぶ)る」という。端的に過ぎる表現はこの医学に独特である。

  「形寒」とは寒い外気にさらされること、「飲冷」とは冷たいものを飲食することである。「肺」は呼吸や皮膚を健全に保つ能力を持ち、現代医学の肺と必ずしも同じではない。つまり、「形寒・飲冷」によって体温が奪われると、呼吸器疾患や皮膚疾患を引き起こしやすくなる、と解釈できる。

  要するに、寒いのを我慢し過ぎたり、冷たいものを飲食しすぎると病気になるので気をつけなさいというのだ。確かに、寒いのを我慢すると咳やクシャミがでたり風邪をひいたりする。乾燥肌や蕁麻疹になる人もある。それはよく分かるのだが、冷たい飲食もよくないとは意外ではないか。



  はたして、冷たい飲食が病気の原因になるのだろうか。この漢方理論の正否を知るには、冷たいものを飲食すると、生理学的にどういう変化が体に現れるかを調べなければならない。病理を知るには生理を知る必要があるからだ。

  通常、体温が奪われるとそれに見合う体熱が産生され、体温の調節が行われる。体温を奪う原因となるのは外気温と冷たい飲食とが考えられる。ところが医学書をひもとくと、外気温が人体に与える影響は詳しく書かれているが、飲食物温度が与える影響については、なぜか記載がない。

  この事実について大学医学部に問い合わせた。外気温については医学書でも学会でも取り上げられているが、そういえば確かに飲食物温度が欠落している、とのことだった。研究はなされていないのだ。

  「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のたとえどおり、皮膚と消化管とでは神経の感度が明らかに違う。ならば、温度変化の感知によってスタートするはずの全身反応メカニズムは、両者同じとはいえない。にもかかわらず、外気温による温度調節メカニズムは解明されているが、飲食物温度のそれはまったくの空白なのである。



  冷たい飲食が、呼吸器と皮膚疾患の原因になるという漢方の指摘は、したがって棚上げだ。ただこの2つの組み合わせは、ここ50年ほどの間に急増した現代病と偶然にも重なる。アレルギー疾患である。 

  環境の人工的変化に著しく敏感で、その変化を受け入れないのがこの病気の本性だ。カーペットの普及によるダニやカビの増殖、杉の人工林拡大による花粉飛散量の増大、車の排気ガスによる大気汚染など、戦後の近代化によって生じた環境変化の多様さは挙げればきりがない。そんな変化の中にアレルギーを引き起こす要因は存在する。ところが実際には、何らかのアレルギーだと分かっていながら、その原因が特定できないものがかなり多い。増加に歯止めがかからないはずである。

  考えてみれば、冷たいものの多飲食化は紛れもなくこの環境変化の中のひとつである。冷蔵庫の普及は火による過熱の衛生的な必要性を奪った。加えて嗜好そのもののために冷たいものを飲食することも多く、世代が若くなるほどこの傾向が目に付く。冷たいものの飲食機会は格段に増えたのである。

  これらの事実に我々の社会はあまりにも無警戒に見える。体温を奪う第二の要素である冷たい飲食は、戦後の環境変化の中で確実に影響力を増しつつあるのだ。



  自然科学の中の純粋な生物学においては、飲食物の温度など関係ないのだろう。だが人類は文明を発展させながら、自然界の前提にはない人工物を人為的に作り出し、それと密接にかかわりあって生活している。本来の生物の「ヒト」の枠をいつの間にか超えてしまったのだ。研究すべき課題の領域もどんどん広がっている。

 実際、現代の病気は文明社会を抜きにして語れないものが多い。その最も身近な産物である飲食物温度をこれ以上無視しつつ、人間の生理・病理が説明していけるのか疑問だ。



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「2016年版 国民のための名医ランキング −いざという時の頼れる医師ガイド全国名医276人厳選−」
という本に、医師以外の人が選ばれました。

藤本蓮風という鍼灸師です。

鍼灸師は、そもそも「医師」ではありません。
日本の法律でそうなっています。

にもかかわらず、藤本蓮風先生は、「日本の名医」に選ばれた。

どういうことでしょう?

これは、いまの「国」にはできないこと。
「民間」の力です。 

しきたり・風習にとらわれず、正しいものをチョイスする力です。

かつては、そういう能力を持ち合わせた人もいました。
たとえば聖徳太子。
たとえば戦国の信長・秀吉・家康。
たとえば吉田松陰・坂本龍馬。

すべて、しきたり・風習を眼中に入れない。
しきたり・風習を意識はするが、その良し悪しを時・処・位に応じて判断する。
そういう人たちです。
今はそういう政治家はなかなかいない。

藤本蓮風先生は、15年ほど前に、娘さんを急性白血病で亡くされています。
その逆境を逆手に、先生は今や、同じ白血病で生きるすべを失った方を完治させるほどになられました。
難病に対して、鍼灸の威力を示された例は、枚挙に暇なしです。
たとえば癌・クローン病・潰瘍性大腸炎・筋委縮性側索硬化症……。

        〇

この本を出版した 桜の花出版社は、先生の治療院に覆面患者を放って、事実を確認したといいます。

東日本大震災の時、
藤本先生率いる鍼灸学術団体、北辰会がボランティアを国に打診したことがありました。
ストレスで多くの人が体調を崩す現状を傍観できなかった。
しかし、国の返答はこう。
「医師でなければ認められません。ご遠慮ください。」

なぜ、東洋医学は、国から医学と認められないのでしょう。
これは、明治時代の「鹿鳴館」に象徴される政策から来ています。
猫も杓子も欧米化。
和服を捨て洋服に、和食を捨て洋食に、侘びを捨て華美に。
その風潮の中で、西洋医学は新しい医学として歓迎され、
飛鳥時代から日本医療を支えてきた東洋医学は、
下等な民間の一療法として見られるようになります。
太平洋戦争での敗戦は、それをより鮮明なものにしました。

中学校の歴史、高校の日本史ともに、医学が初めて登場するのは江戸時代の杉田玄白です。それ以前の医学は医学として認められていないのです。
562年、飛鳥時代に呉人(当時の中国人)の智聡が伝えたとされる東洋医学
この国は、この国に医学があったという史実すら消し去ろうとしているのでしょうか。

       〇

現代、平均寿命が延びたのは、西洋医学の発達のおかげだと言われます。
天然痘は世界から完全に撲滅されたと言われており、これら伝染病に対するワクチンの威力は特筆されなければなりません。
しかしはたして、それだけでしょうか?

はるかに大きな要素があります。
衣食住です。

昔は、住む家もままならず、着るものさえ事欠く有様。
食べ物は、言わずもがな…です。
そんな生活で、一度カゼでも引こうものなら大変。
激しい悪寒があっても、
板の間でワラのフトン。隙間風はビュウビュウ。これでは温かくできない。
食欲が出てきても食べるものがない。
カゼをこじらせて死亡する例がほとんど。
まして新生児を育てられる環境ではありません。

ちなみに現代、カゼを治せる薬(西洋医学の)はないという事実。
正確には、ウィルスを殺せる薬がない、ということですが。
大切なのは、栄養を過不足なく補充し、温かく、無理をしないこと。
カゼを治す方法はこれです。
お医者さんは、なかなか本音を言わないかもしれませんね。
薬を出すか、検査をしないことには、病院の経営は成り立ちません。これも国の政策によるもの。

寿命が延びたのは、生活が豊かになったから。
これが大きな要素だと思います。

        〇 

話が飛びました。

藤本先生のニュースを聞き、思うこと。

既存の固定概念に囚われてはならない。
事実こそ真実。

ぼく自身も、藤本先生のもと、東洋医学を学びました。
そういう知識をもとに、以前、東洋医学の理念を記事に書き、それが全国に紹介されたことがあります。
紹介してくれたのは、朝日新聞です。
反響はいくらかはありました。
しかし、東洋医学の理解を得るところまでは、とても届きませんでした。

今回の藤本先生掲載の件は、理屈ではありません。
治る、治せるという実際です。

この事実を少しでも多くの方に知ってほしい。
目を凝らして、光を当てて、よく見てほしい。
そして、現代医療の現状、国の事なかれ主義に一石を。
そういう思いです。



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 臓器移植法の改正によって、脳死は人の死であるという概念が法のもとで認められることになった。その目的は、臓器を生きたまま取り出し治療に利用するためだ。日本の医療もとうとうここまで来たかという思いを禁じ得ない。

 私は医療に携わる者の一人であるが、目指すところは予防医学である。その視点から医療全体を眺めたとき、「事前」「事後」で言うならば、現代医学は病気になってから威力を発揮する「事後医学」が中心だ。その繁栄の頂点にあるのがiPS細胞の研究も含めた移植医療であろう。事前に予防する医学も進みつつあるが、事後医学の発展ぶりに比べると見劣りがする。

 予防医学が見劣りする一つの理由として、いまだ決定打となるものが少ないことが挙げられる。たとえば臓器移植が必要な先天性心臓疾患を予防する手立てがあるか。なければ疾患が生まれてから移植を行うしかないのだ。

 最近話題は下火だが、新型インフルエンザの空港における検疫の模様をニュースで見てふと思った。サーモグラフィーで発熱を見破る技術はすごい。だが未発熱の感染者を見抜く技術はないものか。インフルエンザでなくとも風邪を引けば熱が出る。では、熱が出る前夜にそれを見抜くすべはないのか。

 なぜこんなおかしなことを考えるのかというと、これが予防医学の基本だからである。医療関係者すべての方に問いかけたい。明日、我が子が熱を出すことすら察知できずに、先天性心臓疾患の子供が生まれることが察知できるようになるだろうか。察知すらできずに予防するすべなど思いつくだろうか。

 これは私の研究テーマでもある。何千年もの歴史を持つ予防医学…東洋医学の中には「脈診」と呼ばれる診察方法がある。私はこの方法で研究を続けている。体が良くなるたび悪くなるたび、そして鍼を一本打つたびに脈の反応を確かめる。この作業を毎日繰り返す中で、手首の脈を通じて体が語りかける言葉を理解しようとしているのだ。残念なことは、東洋医学のこの基礎的診察法を、研究し実践している臨床家があまりにも少ないということである。

 たしかに、移植医療は不可能を可能にするすごさを持っている。しかしそこがゴールだと思ってほしくない。病気になることを事前に察知し食い止めることができないために、脳を失った誰かの体まで利用せざるを得ない現状に不満足であってほしい。脳死が人の死という、ある一つの考え方を法律化することで、事後医学こそ永遠、事前予防など無理、と割り切ってしまったかのような感覚を持ってほしくない。

 現状はあくまでも現状として、一方で理想をも見据えていたい。



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ある患者さん(70代)。持病として耳鳴りを持っておられ、ここ数年は完全に治まっていた。ところが、この耳鳴りが急にひどくなったと言い出した。もともとストレスで耳鳴りが増していたので、ストレスを疑ったが、特にない。変わったことといえば、直前にピロリ菌除菌を行ったということくらい。結局この耳鳴りは一カ月続いた。

ピロリ菌を除菌するには、当然、抗生剤を飲む。そもそも抗生剤は、東洋医学的脾臓を痛めることは、臨床経験からよく知っている。脾臓が弱ると、シーソー関係が働き、肝気が高ぶる。肝気が高ぶると東洋医学的腎臓に負担をかけながら気が上に昇って耳鳴りとなる。この患者さんは、そういう機序で耳鳴りが起こった可能性がある。

本当に、除菌する価値があるのだろうか? 「ピロリ菌 必要性」というキーワードで検索してみると、賛否両論だ。癌や潰瘍の原因になるので必要だ、という意見。一方、ピロリ菌が原因ではないから意味がない…など色々な記事がある。しかし、それら反対派の記事に目を通して、ある重要な視点が欠けていることに気づいた。

バウムクーヘンの外側と内側
club_harieそもそも、人間の体は、バウムクーヘンのような分厚いチューブのようなものである。口から肛門につながる穴があるからだ。高校の生物を勉強した方は、受精卵から細胞分裂して、しばらくすると管状のものになることを記憶しておられるだろう。皮膚も腸壁も、細胞の分類では、おなじ上皮細胞である。外側と内側にそれぞれ壁を持つチューブ。そのチューブの外側は空間であり、チューブそのものではない。同じように、チューブの内側も空間であり、チューブそのものではない。人体というチューブの外側には何があるか。そこには地球空間が広がり、ライオン・シマウマ・昆虫・植物などの多様な生物が、生態系をつくっている。


腸内にも生態系
では、チューブの内側は? これも同じく、多種多様の細菌が住んでいる空間がある。ここには、植物・動物から作った断片(料理)が充満し、それを食物として、多種多様な微生物が暮らしているのである。体に良いとされる乳酸菌(ビフィズス菌は乳酸菌の一種)、病原菌として耳にする大腸菌など。ウィキペディア「腸内細菌」の頁には、「(腸内には)約3万種類、1000兆個が生息し、1,5kg-2kgの重量になる」とある。われわれには、こんなに多くの同居人がいたのである。水たまりにも生態系があると言われる中、腸内が一つの生態系をなしているという考えを否定する科学者はいないだろう。地球環境と同じように、腸内環境も、持ちつ持たれつなのだ。善い菌も悪い菌も共存する中でバランスを取り、悪い菌が増え過ぎないように調節をしている。

昔からの共存者
日本人は昔から、梅干し・ヌカ漬け・味噌などで上手に善玉菌を取り入れてきた。逆に、腐ったものを食べれば悪玉菌が増え、腹痛を起こし、下痢で洗い流す。そして、「こういう食べ物は避けた方が良い」と学習してきた。これは悪玉菌が増えてくれたおかげでもある。そう考えると、善玉も悪玉も関係なく、不要なものなどない、という考え方ができる。そもそも生態系に不要なものなどない。人を襲うライオンは不要だが、家畜は食べられるから必要…という考え方はおかしい。ピロリ菌を含む腸内の細菌は、人類の起源と同じ歴史をもつ共存者であり、ライオンやシマウマ・昆虫・植物と、何ら変わらない。

力ずくは裏目に
特定の種を絶滅させようとして、生態系を人為的に操作すると、しっぺ返しを受ける。

ライオンが人や家畜を襲うからと言って絶滅させてしまうと、草食動物が増え過ぎ、草原の草がなくなる。近年のイノシシの急増は、天敵であるニホンオオカミを絶滅に追いやったことが原因であるという話もある。外来種のオオカミを導入ということも考えられるが、豊富なイノシシをエサに、オオカミが増え過ぎるという心配もある。沖縄で、ハブを捕食させるためにマングースを放ったところ、ハブを食べずにヤマネコなどの希少動物を食べ、マングースの数が急増、計画は裏目に出ていることも大切な教訓だ。

森林破壊が、地球温暖化をもたらし、地球規模で砂漠化が進んでいることは、よく知られている。偏西風を穏やかにしていた森林の壁はなくなり、pm2.5のような有害物質の飛散の原因となっている。もっと身近で深刻な例だと、近年の豪雨による土石流だ。森林破壊が大きな原因となっていることは疑いようがない。森林が減少することにより、二酸化炭素が増加、結果として地球温暖化は気象の寒気と暖気の極端化を生み、我々が経験したような豪雨を頻繁にもたらすようになった。山林を伐採して開発された住宅地。その土壌は、本来持っていたスポンジのような保水性を失い、我々の生活空間に牙をむく。人間のエゴで破壊された森林を元に戻すのは予想以上の時間がかかると言われる。

戦後の全国的植林で、スギやヒノキという特定の種(しゅ)のみを増やし保護した。人間に都合がよいと思われた雑木の伐採と針葉樹の植林が、花粉症の原因となっていることを知らない人はいないだろう。だが、懸命に植林していた当時、今のこの状況を予想できた人がいるだろうか。特定の種のみを人為的に増やそうとするのも、生態系の破壊である。

一度崩れた生態系を元に戻すのは難しい。
今日の中東情勢も、ある意味で生態系を破壊した結果として捉えることができる。アメリカのブッシュ大統領は、当時のイラク政権を殲滅したが、それがイスラム国(IS)をはじめとする中東情勢の乱れを生んだと言われる。フセインという人物を消すことによって、かえって悪玉因子が増殖したという意見だ。近年、問題になっている耐性菌(抗生剤が効かない菌)は、これと実によく似ている。抗生剤(イラク攻撃)の乱用によって生まれた耐性菌(反アメリカ勢力)は、増加の一途をたどり、想像以上に深刻な問題らしい。近い将来、抗生剤が全く効かなくなる時代が来ると言われている。もし、それが本当なら大変なことで、簡単な手術さえ大きなリスクを伴う。再生医療がいくら発達しても、手術ができなければ、どうにもならない。

生態系の奥深さ

生態系を守っていると、困った時に助けられることがある。1997年の日本海で発生したタンカー沈没による重油流出事故で知ったのだが、海には重油を分解する細菌が住んでいる事が分かってきたらしい。よく、そんな細菌が生きていたものだ。普段は何を食べているのだろう…。いやいや、感心すべきなのはそんなところじゃない。重油が大量に海に流出するなどということを、地球という星は想定していたのだろうか。こんな細菌を海に住まわせておくとは、びっくり仰天の手回しのよさなのだ。とにかく、それほど自然環境は奥が深い。腸内にも、存在が知られていない未知の細菌がいるはずだ。だが、もし、そんな想定外で優れモノの細菌がいたとしても、ピロリ菌の除菌で一緒に殺されてしまう可能性もある。

自然への畏敬の念
多種多様さが、自然なバランスを取って上手く機能している大自然。経済学にも「神の見えざる手」という言葉があって、経済バランスは自然に取れるという概念がある。自然は人智を超えたものだ。人間が自分勝手な操作を自然に対して加えたとき、自然はそれを決して許さない。自然への畏敬の念の欠如が、自然の怒りを買う。そういう視点こそ、我々が「環境」と長く良い関係を保つ上で大切なのだろう。大自然が、人間の腸内にもあるとしたら、再考の余地は十分にある。

腰痛の患者さん(50代)で、炎症の数値が高いため入院、抗生剤の治療が始まった。それと同時に食欲がなくなり、まもなく体力がなくなって立てなくなり、退院できぬまま半年後にお亡くなりになった。メールで連絡を取っていたので、まちがいない。入院するまでは、自分で20分かけ車を運転して、治療に来ておられた方なのに。もともと、脾臓が極端に弱かったので、特殊な例ではあるが。



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やめた方がいいのか、使った方がいいのか。いろんな意見が飛び交うステロイド。われわれは、これと、どう付き合っていくべきなのか。普段とは、少し違う角度から見てみましょう。まず、ステロイドが処方されることの多いアレルギー疾患から考えていきます。

アレルギーって何?
ウィルスや細菌は人体に有害ですよね。これらがノドに入ると、排除するために、激しく咳き込んだり、くしゃみが出たりします。排除するかしないかを決めるのは免疫です。一方、花粉やハウスダストは人体に無害です。なので、ノドに入っても、免疫は排除しようとしません。それが正常。ところが、この無害な花粉やハウスダストを有害と勘違いして排除する。意味もなく、激しく咳き込み、くしゃみが出る。このように、免疫が狂って勘違いを起こした状態をアレルギーといいます。

原因が分からない

免疫がなぜ狂うのか、原因は分かっていません。原因が分からないほど複雑、ということです。これが実際の臨床となると、もっと複雑です。例えば、喘息という病気があります。何らかの原因で気管や気管支に炎症をおこし、それが慢性化したものをいいます。原因はウィルスや細菌の感染、アレルギー反応などが引き金になると言われます。細菌は鼻水などを取って培養すれば調べることができますが、ウィルスは調べ様がありません。カゼのほとんどはウィルスが原因ですから、感染かアレルギーかを見分けるだけでも至難の業です。

機序が複雑すぎて、よく分かっていないと言われるのは、こういう問題があります。この、「よく分かっていない」というのがポイント。我々が困っている病気は、ほとんどが原因不詳です。なぜ、よく分からないのでしょう。物質的側面よりも、機能的側面の方がウェイトが大きい病気を、西洋医学は苦手としています。喘息はアレルギーと関わりが深く、アレルギーは免疫と関わります。免疫は…。

免疫って何?
著名な免疫学者、多田富雄先生によると、免疫は、現代医学的に謎だらけだそうです。考えてみたら、免疫細胞って不思議ですよね。一つ一つの細胞が、まるで自分の意思を持っているかのような動き方をします。初めて出合った相手(細菌)に対して、敵だ! と判断して攻撃する。こういう細胞は他にはあまりないと思います。思いつくのは精子くらいでしょうか。そういう「自分」を持った免疫細胞のネットワークである免疫系。実はそれを仕切るトップが、何なのか分からないそうです。例えば脈管系なら心臓というトップがいますね。神経系なら脳がある。免疫系にも、それを統率する中枢があるはずなのですが、それが何と見つかっていません。免疫は、人智を超えたネットワークなのです。

だから免疫が狂っても治し方が分からない。だから対症療法に終始する。ステロイドです。免疫に関わる病気(アレルギー・膠原病)は治りにくく、ステロイドを処方されることが多いのは、そういう事情があります。免疫は、ステロイドの問題を解くうえでキーワードになりますので、記憶にとどめておいてください。

※多田富雄「免疫の意味論」青土社1993

ステロイドって何?
ステロイドとは何でしょう。ステロイドは、副腎皮質ホルモンとも言われます。人間の体で作る大切なホルモンの一つ。腎臓の上に位置する副腎という器官で作られていて、炎症を鎮める作用があります。そのホルモンを人工的に作った薬も「ステロイド」と呼ばれ、病院で処方されています。アレルギーや膠原病などの免疫疾患は、免疫が狂い暴走した結果、組織の炎症を引き起こします。花粉症で鼻がムズムズしたり、喘息でノドが脹れたり、アトピーで皮膚が真っ赤になったり、リウマチで関節が腫れ上がったするのが炎症です。それら炎症を鎮める際に、ステロイドは劇的に効きます。

ところが、このステロイド、いいイメージがありません。副作用があるというのが一つの理由です。ステロイドにはどんな副作用があるのでしょう。これは、非常に項目が多いです。ウィキペディアの「ステロイド系抗炎症薬の副作用」をご覧ください。

ステロイドの副作用は多岐に渡っており、裏を返せば、副腎皮質ホルモンが、いかに生命維持のために幅広い機能を持っているか、ということが伺い知れます。また、列挙された副作用に目を通すと、副腎皮質ホルモンがでたらめな作用の仕方をしている姿が見えてきます。外から人為的にホルモンを足すということは、メリットもあれば、やはりデメリットもあるようです。

ステロイドは援助
本来、ステロイドは、自分の体で自前で作るべきものです。それを、よそから援助してもらうというのは、自前の働きがサボってしまう、という見方ができます。たとえば、楽だからと言って車ばかり乗って歩かないでいると、足腰が弱ってしまいますね。楽だからと言ってステロイドばかり使っていると、副腎が弱ってしまうという考え方ができます。ステロイドが良くないと言われる理由の一つです。

ただし、足腰の弱った人に、無理やり歩かせても、かえって足を痛めてしまいます。ステロイドの使用を我慢するのは良くないと言われる理由がよく分かります。車は必要な分だけ使用し、必要以上に使わない、そういう「サジ加減」があれば、足腰は力を取り戻していきます。ただし、そのサジ加減がどの程度なのか。患者さんの言いなりになってはならないことは確かです。

ステロイドは武器
こんな考え方もできます。ステロイドは「武器」という考え方。国会でも安保法案でもめていますが、軍隊派遣が安全とか危険とか、そういう問題を議論しても埒(らち)があきません。軍隊そのものは存在しても、それを使わなくてもいい平和な世の中にするには何が大切なんだろう。そういうことを、議論の目的として見据えていなくてはなりません。武器がステロイドなら、平和こそ健康と言えないでしょうか。健康でありさえすれば、ステロイドは必要ありません。ただし、有事の際には、いつでも使えるようにしておくべきです。

ステロイドは論点ではない
ステロイドは安全だというのも間違っていますし、ダメだというのも的外れです。いちばん大切な視点が見逃されています。それは、自前でステロイドを十分に作れる体になる、あるいは、自前のステロイドを無駄遣いしないような体になることです。この観点が西洋医学に欠落しているのは、その方法がないからです。その方法がないから、アレルギーの増加を防げなかったり、副作用の問題が出たりするのです。

健康は物質ではない
なぜ方法がないのでしょう? それには、ちゃんとした理由があります。それを知るには、西洋医学が何を基礎としているかという問題。それから、健康とは何なのかという問題。これらを整理する必要があります。西洋医学が基礎とするのは「物質」。ところが、健康は物質ではありません。薬を飲むことが健康法だ、という人は少ないですよね。その理由は、機能的側面である健康に、物質的アプローチは届きにくい、という現実があります。

健康は機能
東洋医学のフィルターを通すと、ステロイドはどのように見えてくるでしょう。まず、東洋医学は機能科学です。これは西洋医学の物質科学とは視点が大きく違います。機能とは「気」のこと。機能という言葉は古代にはなかったので、古代人は「気」と表現しました。西洋医学が物質 (モノ)を基礎として理論を積み上げ高めてきたのに対して、東洋医学は機能 (ハタラキ)を基礎として理論を高めてきました。先ほどの「武器」「平和」という考え方にしても、武器は物質ですが、平和は機能です。物質ではありません。西洋医学が「ステロイド」という物質に依存し、東洋医学が「健康」という機能にこだわる理由が、垣間見える様です。



東洋医学と西洋医学とでは、基礎とするものが違います。東洋医学が基礎とする「機能」は非常に認識が難しい概念です。
詳しくは下記をご参考に。 
東洋医学的な鍼灸と一般的な鍼灸…違いが分かる6つの診察法 
東洋医学の「気」って何だろう 



東洋医学の分析
ステロイドの主な作用は、消炎作用です。炎症を抑える働きですね。炎症を抑える働きは、自前でもっている働きだと、先ほど言いました。その自前の働きを、東洋医学では「腎陰」といいます。腎陰とは、体力(生命力)の一側面であり横顔と言えます。体力は物質ではありません。体力は機能であり、健康の必須要素です。腎陰は非常に重要な体力です。東洋医学では、喘息やアトピー性皮膚炎・膠原病を治す際、いろいろな手段をとりますが、結果的に腎陰という体力を補うことを主眼にします。

腎陰って何?
腎陰について、もう少し説明しましょう。腎陰とは、腎の陰、ということ。そもそも「腎」とは、生まれつき持っている体力のこと。食事摂取から得られる体力とは異なる重要部門であり、生命誕生の不思議にもかかわる命の根源で、もって生まれた寿命と関わりがあります。「陰」とは、身体をクールダウンする働き。我々は活動と休息(睡眠)を繰り返すことで生命を維持しています。活動はヒートアップで陽、休息はクールダウンで陰です。腎という体力の中には、陽というヒートアップする働き(腎陽)と、陰というクールダウンする働き(腎陰)があります。



詳しくは下記をご参考に。
東洋医学の「腎臓」って何だろう 



アレルギーは腎陰不足
陰が足らず、陽が勝ちすぎるのが、免疫の暴走の正体であり、アレルギーで起こる炎症です。だから、アトピーも痒くて掻きつづけ(動きつづけ)、落ち着きません。喘息も起座呼吸するなど落ち着きがありません。落ち着かないというのは陽が勝っている状態。腎陰を補うことができれば、炎症はクールダウンされ、落ち着いていられるようになり、夜もよく休めます。陰という機能を補うことができたからです。

東洋医学の目で見た腎陰不足という状態は、ステロイドでは治りません。体力は薬では補えないからです。

つまり、ステロイドは…
例えば、お金がない。だから生活が苦しい。解決方法は、働くこと、使わないこと。でも、それよりもっと手早い方法がある。借金です。その場はそれでしのげるので、ついつい借金に頼る。気が付けば、もっと窮地に立たされている…。体力(腎陰)を「お金」と考えると、ステロイドは借金です。借入金は世の中に必要。しかし、使い方を間違うと、とんでもないことになる。あくまでも、自前のお金を増やすがための借金。そういう使い方ができれば、借金はむしろ有用です。

お金は物質ではなく機能です。機能を分かりやすく説明できます。詳しくは下記をご参考に。
お金と「気」
腎に貯金を!
体の経営コンサルタント
 

余談ですが、いろいろな比喩を使っていますね。ステロイドを武器や借金にたとえました。健康を平和やお金にたとえました。たとえが多いです。そう、それが東洋医学の特徴です。機能は、物質と違って、考察するのが非常に難しい。だからたとえを多用するんです。こんなふうだよ、という方が、機能を理解しやすいからです。

なぜ負の連鎖
ステロイドで病気を治したら糖尿病になった、骨が折れた、血圧が高くなった、体が弱くなった…。これら副作用は、すべてステロイドの使い方を誤り、体力をつけて健康になるという道筋から外れてしまった人に起こるのではないでしょうか。副作用はさまざまありますが、東洋医学的にこれらを俯瞰したとき、腎陰(天賦の寿命&クールダウン機能)の衰えが進行している状態、としてまとめることができます。

機能を診ることこそ重要
ステロイドを必要とする病気…アレルギー疾患や膠原病などの免疫疾患は、様々な要因から、結果として、クールダウンする機能が弱った状態です。様々な要因とは何でしょう。これは物質という視点からは見えてきません。物質と相対する概念、「機能」という視点から光を当てたとき、何を排除し、何を取り入れるべきかが見えてきます。それは、発病と治癒の原動力である「免疫」そのものが、物質ではなく機能だからです。

※「結果的に」腎陰を補うのであって、臨床では、短略的に腎陰を補うツボや漢方薬を使うことはほとんどない。腎陰を弱らせる要素を特定し、それを解決する方法をとる場合が多い。腎陰は機能なので、物質的アプローチとは、扱い方が異なる。東洋医学的に見たアレルギーの原因や治療法については「喘息…東洋医学から見た3つの分類と治療法」をご参考に

そもそも、健康とは、という問いに答えるのは難しい。たとえ病気でも今まさに回復に向かおうとしている状態もあれば、健康でもこれから病気に向かう直前の場合もある。これを、どちらのほうが健康であるとするのか。

  人の一生には健康と病気という、繰り返し起こる波のような浮き沈みがあるが、その波は3つに分類することができる。すなわち、
①回復直前あるいは途上の状態、
②悪化直前あるいは途上の状態、
③一定して変わらない状態、
である。

  この3つの分類を明確にできれば、現在一般的な病気の識別法と考え合わせると、「健康」の見え方が変わる。

  この分類を行える便法が漢方にはある。手首の動脈を触診する「脈診」という診察方法である。この診察法は、治療方法や予防方法の比較・精鋭化を進めるうえでの利用が可能である、と私は考えている。

  医療にはたくさんの診察方法がある。これらが、それぞれに重宝されるのは「普遍性」を持っているからである。ただし、たとえば MRIと血液検査とでは得意とする分野が違うように、個々の診察方法に完全な「普遍」はありえない。MRIでは分からなくても血液検査で分かる病気もあるのだ。脈診もまた、不完全ながら、さまざまな診察法のなかの一員として機能するだけの普遍的側面を備えていると思う。そうした側面を持つ診察方法が増えれば増えるほど、他を補い合い、治療方法の最善の選択ができるはずだ。それが、イコール良い治療といえる。

  脈診の大きな欠点は2つある。ひとつは、解剖学的にどこが悪いかという診断ができないこと。もうひとつは、触診による診察ゆえに、ひどく感覚的に陥りやすいことである。脈診が2千年も前から受け継がれていながら、一般的診察法として浸透しないのは、2つ目の原因に負うところが大きかろう。

  はたして指先の感覚は、誰もが共有し受け継いでゆけるものなのだろうか。脈診とは脈のいったい何を診て診断するのだろう。

  簡単に言えば、脈の波動を診るのが脈診である。

  子供でも脈はとれる。ちゃんと動きを観察できるからだ。ただし、このとき彼らが見ているのは、血管が伸びる方向に対して垂直方向の波動、皮膚側の上っ面でのみである。

  だが考えてみれば、血管はそのような方向には流れない。ひじから手に向けて、血管が伸びる方向に対して水平に流れる、そういう脈の波動もあるはずである。ではその水平方向の脈が見分けられるかというと、これがなかなか難しい。さらに、血管がホースのようなものでそこに断続的波動があれば、上っ面だけでなく、骨側の下っ面にも垂直の波動があるはずである。しかしこれも診るには熟練が必要である。どうしても上っ面の波動のみを意識してしまうからだ。

  上っ面の波動の観察は簡単だが、水平と下っ面の波動は観察しにくい。往々にして我々は、それぞれが確かに存在するものであることを思わず、上っ面の分かりやすいもののみが全てかのように語ってしまう。これが、この診察方法の研究が進まないことの根拠であり、もっと研究をすすめてよいことの根拠たりえないだろうか。

  上っ面と下っ面と水平の3つを同時に診たとき、波動の組み合わせが見えてくる。組み合わせには多くの型がある。点を動かすと線ができ、この線を縦横に組み合わせることで、さまざまな平面図や立体図ができるが、波動は線のようなもので、脈は図形のようなものである。こうした分類が診断を可能にする。

  良い治療とは一つではない。手術・薬物・カウンセリング・漢方薬・鍼灸・養生法など、正しい診断から得られる方法論は無限にある。どれがもっとも適切な方法かを知ることは、診察方法の多面化による病態把握技術の進歩、つまり診断力の向上なしには考えられない。


































































私には3人の子供がいます。美男美女とはいきませんが、それでもそれぞれかわいらしい顔をしています。

人間を作り出すのは人間です。これは間違いないのですが、「つくる」という言葉に、少しおこがましさを感じることがあります。一から図面を起こして、材料を吟味し、色・形・大きさ・・・これらを自分で決めて作ったわけではないからです。もしすべて自分で作ることが出来るとしたら、体は丈夫で頭はとびきり良い子に、背と鼻は少し高い方がよい、性格は人に好かれるよう、等と考えプログラムするでしょう。でも、私がこの手でつくってきた数々の力作を振り返ってみると、思い通りにできるなんてとても言えません。絵に描くだけでも満足にできないのですから。

今ここにいる3人の子供は、欠点も多いけれど、そう考えると奇跡的によくできています。

この奇跡を作り出すのは紛れもない人間です。しかし、私自身の意識が為し遂げた偉業では決してありません。では私の何がやったのか。それを今は「本能」と呼びたいと思います。

本能は私たちの意識とは関係なく、驚くような正確さで生命を営んでいます。たとえば体温。人間の体温は約37℃ですが、これをわずか1℃もずれないように調節します。ナベに水を入れ火にかけて、この温度を何十年と機械に頼らず保ちなさいと言われたらどうでしょう。

本能の仕事は他にもたくさんあります。呼吸・循環・消化・排泄・免疫など、挙げればまったくきりがありません。医学者でもこれらすべてを把握している人などいません。ところが我々の本能はそれを実によく知っている。それが当り前のようにして毎日をそうやって過ごしているのです。

たとえば、水をたくさん飲めば体にいいと言いますが、本当でしょうか。それを最もよく知っているのは、医者でも製薬会社でも健康雑誌の編集者でもありません。ほかならぬ我々の本能なのです。体の水分が不足すればのどがかわく、本能は飲むべき時期と必要量をオーダーメイドで教えてくれています。これは他の栄養素でも同じです。健康食品やサプリメントが蔓延する我々の日常を、本能はどんな顔で見ているのでしょう。

本能が求めないものをあえて取り込もうとするならば、本能以上に我々の方が体のことを把握していなければなりません。たとえば塩は体に必要不可欠な栄養素ですが、無理に摂取すれば病気になります。「ほどほど」からはみ出すとよくありません。これは世の中すべてのことに言えることです。

本能の卓越した能力は見てきたとおりですが、では、もろ手を挙げて賞賛してよいのかというと、そうとばかりも言えません。実は良い面ばかりではなく、悪い側面もあるのです。たとえばメタボリックシンドローム。肉をたくさん食べたいと感じるのも本能です。この場合、本能に身を預けていたら大変なことになります。本能は善悪の二面性を持っているのです。本能とはいったい何者なのでしょう。

本能の最大の支配者は脳です。「水を飲みたい」「肉を食べたい」という感覚からも分かるように、本能はしばしば我々の「こころ」にも顔を出してきます。これは脳の中の間脳と呼ばれる部分が主役です。その本能にたいして、我々は「理性」を持っています。これは大脳の働きです。

人間の大脳は、進化の過程で、驚異的なほど短期間の間に大きく発達しました。一方、間脳の大きさは進化以前とほとんど変わっていません。動物にはない巨大な大脳を持ち、理性を発達させたことが、本能に善悪の二面性をもたらした原因であると私は考えています。

大脳のもつ理性や理知は文明を生みだし、我々の生活は猛スピードで非常に便利になりました。おいしいものは手に入る、好きなところに移動し、好きな時に好きなものを見たり聞いたり。そうした中で「水が飲みたい」というような素朴な本能をはるかに超えた本能が、いつの間にか植えつけられたのではないでしょうか。

元からある正しい本能は生命維持のために驚くような能力を発揮するが、植えつけられた誤った本能は生命を破壊してしまう。その両極端さをわきまえることなく、絶えずささやき我々の背中を押してくるのです。こんな難し屋の本能と、一体どのように付き合ってゆけばよいのでしょう。

大脳だけが急速に大きくなったことによる大脳と間脳とのギャップ。それによって間脳に宿ってしまった誤った本能。本来の本能には従順に従い、誤った本能のみ制するという見極めが出来るのは、ほかならぬこの大脳です。アンバランスなまでに進化した大脳の持つ理性は、間脳の持つ本能を押さえつけるのではなく、それを育てる能力を求められるところまで時代は進んだのかも知れません。






















1歳10か月。女児。

症状
機嫌が悪くなると泣き止まない。お菓子を与えると泣き止む。半年前から。

治療
左脾兪に金製古代鍼で補法。左行間に銀製古代鍼で瀉法。
その他、母親に子供との接し方について指導する。
治療はこの一回のみ。

結果
泣き止むのが早くなり、機嫌のよい時が増えた。日を追って表情が優しくなった。

解説
変わったケースの治療依頼であった。
お正月休みで、関東から実家に帰省。間もなく帰路に就くので、一度診てほしいとのこと。
当院もお正月休み。帰省先の実家から依頼があり、この方は20年来の患者さん(当該患者の祖父)で、謙虚な人柄。
にもかかわらず、診てやってほしいとのこと。
切迫した状況が察せられた。
治療は一度しかできない。どうするか。

ただの「かんむし」ではないと直感。お母さんだけでなく、お父さんも来院に付き添ってほしいとお願いした。泣いて問診ができない可能性が高かったし、家族の中で女児がどのような状況にあるか知りたかったからだ。

治療当日。
問診を始める。
その間、診るとはなしに、女児の動き・目・表情を診る。
まあ、よくあるケースだ。機嫌は良くない。こういう状態がここ半年続いているのだろう。
活発。目の表情に乏しい。子供独特の好奇心あふれるキラキラした目の表情が見られない。

間もなく、ぐずり出す。お母さんと僕が話をしているのが気に入らないのだろう。よくあることだ。

ぐずりながら靴下を脱ごうとする。右足の靴下を脱いだ後、すかさずお父さんが左足の靴下を脱がせてあげた。おそらく、お母さんもお父さんも、よく気が付く方だ。

その後、泣き出す。問診しようにも声が聞こえないので、お父さんに表に連れ出してもらう。
お母さんと二人で、お話しさせていただいた。

         〇

たった一回しかできない治療なので、今日すべてお話しします。普通は、確証をつかんでから、折に触れて徐々にお話しする内容なのですが、今日の一回で決めてしまわないといけないので、外れていることもあるかもしれません、ご容赦ください。

この年齢で、この状態は容認できます。しかし、この状態が小学校になっても続くようだとどうでしょう。それは明らかな発達障害です。でもご心配なく。子供は必ず成長します。それは、木々が毎年芽を出し、成長してやまないのと同じです。そういう芽を、子供というのは必ず持っている。親の仕事は、その芽をしっかりと見据え、それが成長していく過程を見守ることです。

たとえば発達障害のご家庭で、特に目を引くのは、子供の機嫌を取っているケースです。子供の機嫌をとってはなりません。子供には子供のペースがありますが、このペースに合わせすぎてはなりません。もちろん、子供のペースに合わせてやることは基本ですが、時には大人のペースに合わさせることが重要です。これがしつけです。まったく叱らないお母さんは問題です。叱り過ぎも問題ですが…。機嫌を取り過ぎるとワガママちゃんになるし、叱り過ぎると嘘つきになります。

かまいすぎがよくありません。もちろん、かまわなさすぎも、よくないんですよ。でも、いまの社会は裕福すぎて、かまわなさすぎは、ほとんどないと言ってもいいと思います。僕らが子供のころ、今ほど発達障害の子は多くありませんでしたね。もっと昔は農家がほとんどで、食料がなく、兄弟の数も多く、かまっている暇がありませんでした。かまいすぎでもなく、かまわなさすぎでもない、真ん中が一番いいと意識しておいてください。左にも右にも偏らない。意識さえしていれば、だんだん真ん中が見えるようになってきます。

靴下をはかせるときも、上着を着せるときも、子供が自分でやろうとしているかをジックリ見てあげてください。子供は自分で何かをやりたがっています。それをしっかり見ていてあげてください。もちろん、ゆっくりししかできないし、大人からすれば下らないことかもしれないけど、それを温かく見守ってあげてください。できなくて泣き出すこともあるでしょう。その時初めて手を差し伸べてあげてください。そうやっていると、今までできなかったことが出来だします。その時は、ほめてあげてください。大げさに、ひつこいほどに。そこで子供は「達成感」を得るでしょう。それは甘いお菓子をもらった時の満足感よりも、はるかに子供が求めているものです。

子供はそれを力に、また新しいことに挑戦します。そのなかで、いろいろな能力を身につけていきます。

食育も配慮すべきです。食が細いからと言って無理に食べさせる必要はありません。なんでもそうですが、楽しんでやらないと身に付きません。食事もおいしく食べるから身につくのです。食事というのは、人が生まれて初めての社会生活の練習でもあります。中には、お皿の食べ物をニヤニヤしながらワザと床に落とすと訴えるお母さんもいました。それでもお母さんは子供を叱らない。僕ならそんなことをしたら手をパチンッといきますがね。食べ物を粗末にしてはならないという大義名分があるでしょ。

行儀よく楽しく食事がいただけるなら、それはそのまま大人になったときの社会生活のありようとなります。ですから、できるだけ公園などで遊ばせてあげて、おなかがすけばご飯をちゃんと食べますから、そうやって協調性を身に着けていくことだと思います。お菓子を食べ過ぎるとご飯を食べなくなります。お菓子を欲しがるなら、できるだけ食事時にデザートみたいな形で与えること。3時におなかをすかせて困ったら、小さいおにぎりを作ってあげてください。お米は日本人にとって一番大切な食材だと覚えておいてください。おかずばかり食べてご飯を食べなくなると、聞き分けがなくなったり、カゼをひきやすくなったりします。すぐにそうできなくていいんですよ。正しい知識を持っておくことが大切なんです。

発達障害の、端的な例を挙げましょうか。例えば紙飛行機を作ってみんなで遊んでいる。A君の飛ばした飛行機がたまたまB君の頭に当たった。痛いと感じたB君は怒りを抑えられず暴力をふるってしまう。…あとで冷静に考えれば、紙飛行機はどこに飛ぶか分からず、A君はわざとB君にあてたわけではない、でもその時は感情が抑えられない。

こんな例もあります。たとえば買い物に行くとき、道順が決まっていて、この角は左、次の角は右…と決まった通りにしないと気が済まない。…犬を飼う場合も、決まった時間に散歩させない方がいいらしいですね。今日は2回行くとか、次の日は行かないとか、ランダムにすると、犬はあらゆる状況を許容できる力がついて、キャンキャンなかないそうです。気に入ったものを手放さないのは小さい子供によくあることですが、成長するにつれて、持っていてもいいし持たなくてもいい…という許容力が育ってきます。大人になってもそうですね。Aの道とBの道があって、Aの道の方を望んでいるとします。その時、もしAの道が通れなければ、Bの道を選択できる…そういう度量が必要です。ABどちらでも受け入れる心の広さです。

お医者さんは、発達障害は先天的なものだと言い切るかもしれません。でも、これって治らない、といっているのと同じですよね。治らない、と思っている人が、病気を治すことは金輪際不可能です。もちろん、先天的なものもあります。でも、グレーもある…それは当たり前のことです。グレーは白にも黒にもなる可能性があります。可能性を否定してはなりません。道は一つではありません。

いま、この子にはいろいろな可能性がある。道がある。それはいい道も悪い道もいろいろです。どの方向に芽を伸ばすのか。まっすぐ上に、太陽に向かって伸びる道はこっちだよ…と笑顔で手招きするのが親に与えられた課題なのです。完璧でなくてもいい、その課題を少しでもクリアしていく過程こそ、人生の妙味なんですよ。

          〇

お母さんは、終始、真剣な目で話を聞いておられた。こういう方は珍しい。話の内容に集中できない方、気分を害してしまう方は少なからずおられる。

その後の経過はお祖父さんから伺った。治療後、帰宅して後、何かで機嫌を損ねて泣き出したが、「いっかい、放っておこう」とみんなで話したという。こういう切り替えのできるご家庭は少ないと思う。それで、ものすごい勢いで泣いたが、その後はケロッと機嫌が直ったらしい。1週間後うかがった話では、目が優しくなったとのことで、とても喜んでおられた。なによりも、ご両親が気持ちが楽になったとのことである。話に聞くのみで僕には想像することしかできないが、温和で生き生きした目を輝かせ、スクスクまっすぐに育ってくれることを願ってやまない。

それにしても、近年の発達障害の増加は、何かを示唆するものと思えてならない。なぜそうなるのか。まず敵を知らねば戦えない。その「敵」に気づかぬまま時を過ごしている現代社会…社会全体の考え方・価値観の微妙なズレが、いろいろな病気を生んでいるように思える。発達障害はその一つに見えるのは僕の思い違いだろうか。


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  薬の依存症は医療問題の中の一つである。典型的な例といえるリタリンという薬は、処方できる医師を制限することによって物議は一応収まったが、医療全体にわたる課題を浮かび上がらせたともいえる。
  リタリンは、体のだるさなど、疲労感を消してしまう中枢神経興奮剤である。この薬で疲労感は速やかになくなるが、服用を続けると効きにくくなり、用量や回数を増やさざるを得なくなる。服用が途切れると日常生活が困難となり、薬に頼らなければ生きてゆけないとさえ感じる。場合によっては自殺に至ることもあり、乱用が問題視されていた。
  このような問題が起こる背景には、いまだ「疲労」についての認識が浅いことが挙げられる。メカニズムが分かっていないものを操作することが危険なことはいうまでもない。

  大阪市立大学病院は、疲労の専門外来を世界に先駆けて開設したことで知られる。従来は医療の対象と認められなかった疲労に対して、臨床での取り組みを行おうという試みである。
  この試みのなかで、私は次の点に注目している。一つはこれまで主観によってしか語られることのなかった疲労を、科学的な手法により客観的に測定しようとしていること、もう一つは、客観的測定によって得られた疲労の数値は、主観とは必ずしも一致しない、と考えていることである。疲労も自己診断はできないのだ。
 たとえは疲労の度合いの測定値が5としたとき、患者の感じる数値も5ならば問題なしとする。だが測定値は同じく5であっても患者の感じる数値がそれを下回れば、要注意とする。
  つまり、疲労の測定値は同じでも、本人にそれに見合った疲労感があるほうは問題なく、無い方は問題なのである。むろん測定値が0であることがもっとも望ましいのだが、そうでなければ疲労感があるほうが良いとする。疲労は忌むべきつらさである。それを感じたほうが良いとは、まさに逆説だ。
  疲労を感じていれば、我々はそれを取ろうとして、無理を避け体を休めようとする。逆に何も感じなければいくらでも無理をしてしまう。疲労があるのに、それを感じないと疲労は蓄積する一方だが、感じていれば自然に取れるという考え方だ。そう聞けば納得がいく。

  このように分析してゆくと、リタリンを乱用することがなぜ危険なのかが分かる。うわべの症状だけを機械的に取るのみで、その背後にあるものを診断できていないのが問題なのだ。脳にできた腫瘍を治療することなく、神経をブロックして頭痛を止めることに夢中になるようなものである。
  疲労が体に与える影響は、単なる疲労感のみにとどまるとは私には思えない。さまざまな病気の悪化・回復と関係はないのか。免疫システムへの影響は。こうして考えを疾病全体に広げていくと、症状を消すのみの治療に弊害はないのか、診療科目が違えばまったく別の病気だから関係ないと言い切ってよいのか、という疑問もわく。

  大阪市立大学病院のような取り組みは現状としていまだ少数派である。薬の依存症を解決するため、また医療行為全般の持つ意味を再確認するためにも、疲労についてもっと理解しておく必要があると思う。そのとき我々は、病気というものにどのように係わり合い、どのように克服してゆくのか、考え方の大きな変革を迎えるのかもしれない。


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 愛する人が死んでしまった。でも悲しんでばかりはいられない。残された家族には大切な仕事が待っている。とにかく死体を放っておくわけにはいかないのである。現代の技術なら、眠っているのと何ら変わらない状態で永久保存もできるだろう。それが火葬と同じ費用でできるなら、どちらを選択するだろうか。
  ぼくなら火葬がよい。待て待て、死んでしまっても、その体だけなりとも大切に保管するのが愛情というものではないのか。無残にも焼き払い、粉々にして小さな壺に詰め込んでしまいたいとは、本当にその人のことを愛していたといえるだろうか。
  それもそうだが、でもやはり、ガラスケースの中で何十年も生き生きとしている死体を想像すると、その方がなぜかつらい。だからといって愛する人の体を焼いたり埋めたりしたいと感じるのも変だ。ぼくは死体を邪魔者扱いにしているのだろうか。

 愛する人の体とは、その人にとってどんなものだろう。たとえば我が子が病気になる。高熱を出して苦しそうだ。身代わりになってもよいから、この子を助けたい。子だけでなく、親もつらさを感じている。つらさを感じるのは脳である。不思議なのは、子供の体は一つなのに、その体のつらさを感じる脳は二つあることだ。

 親は子の体を「共有」しているのである。愛する人と向き合う時、こう考えた方がしっくりくる。こういうケースは赤の他人にはない。ぼくとあなたとは、心も体も別物である。ところが、ぼくとぼくの愛する人とは、心は確かに別にちがいないが、体は一つなのである。
 人が、愛する人を葬る理由はここにあると思う。永遠に自分の死体を見ることのない我々にとって、ついさっきまで共有してきた体が死んでしまったら、その体を消し去らずには、この生きた体を一歩たりとも未来に運ぶことができないのかもしれない。自分の死体がここにない限り、愛する人の死体もここには存在できないのだ。

 愛する人を失ったことのない人たちは幸運だ。そして彼らは本当の死体をまだ見たことがない。心の通わない死体はモノにすぎない。本当の「死体」とは、自分の死体か、自分の愛する人のそれ以外ない。モノならば目に触れなければOKだろう。だが隠すことと葬ることとは違う。葬りたいという衝動は、亡くなった人と体を共有できる人にのみ起こるものではないだろうか。
 愛する家族を亡くすたび、ぼくは、ぼくの一部が消えたと感じた。そして愛する家族が増えるたび、ぼくの体は大きくなったと感じた。同じように愛する人が世界中に増えるならば、ぼくは地球大に大きくなることも可能なのだろう。「この体」は「ぼくの体」の一部にすぎないからである。


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 調子に乗って無理をすると、すぐ風邪をひく。体が思うように動かない。そんなときはこう考える。このつらさのおかげで疲労が取れ、また元気に働けるようになるのだ。だが、どう思おうが思うまいが、風邪が治るまで寝ているしかない。そうこうするうち、またケロッと治ってしまう。治ったすぐは無理しないよう用心もするが、そのうち性懲りもなくまた調子に乗る。
 どんな人でも、人生の長い道のりの中で、体の好・不調の起伏を経験する。その波の中で、自分自身に躁と鬱との繰り返しがあることに気づく。狭義の躁鬱病ではなく、心と体をひっくるめた、大きな意味での躁と鬱である。
 ここから何が見えてくるだろう。私のように風邪をひいた原因が、調子に乗って無理をしたことなら、そこにどんな問題があったのだろう。
 無理をしたということは、体が持っている能力以上の負荷がかかったということである。だが当の本人は、その時無理をしたとは思っていない。なぜか。調子に乗っていたからである。興奮すると疲労を感じなくなる。それを感じなければ無理のし放題だ。躁の状態である。躁は病気の土壌なのだ。
 体はそれを見逃さない。何かしらシグナルを出して興奮を抑えようとする。そのシグナルは我々にとって心地よいものではない。ますます調子に乗せてはならないからだ。だから、つらくて体が思うように動かない。何もしていないのに疲れる。寝るしかない。つまり鬱である。興奮からさめれば疲労が自覚され、疲労の蓄積にストップがかかる。鬱は健康になるための必要プロセスなのである。
 躁と鬱の観点から、病気の改善や悪化などの統計を取ってみてはどうか。病気を細かく分け、それぞれに合った対処法を講じることは大切だ。だが、病名にこだわらず巨視的に病気を分析していくことも忘れてはならない。
 たとえば、ガンも含めた予後不良の病気の中には、ある特徴が見られることがある。それは、体を横たえても疼痛などの症状が治まらないことである。眠れないとイライラする、不安になる。発病しても躁から鬱に転化しきれず、なお躁的な状態が続くのである。それが日に夜にひどくなっていくときは気をつけた方がよい。
 一方で、つらくて何もできない、だが横になっていれば楽である、眠るのは苦にならない、という人がある。こうした鬱の状態なら、私の経験では、予後が良好な場合が多い。仮に死の転帰をとるにしても安らかである。
鬱を引き起こす原因は躁にある。二つは常に相対的に存在しあう。そして躁は鬱にいつか必ず転化する。生と死もまたその範疇にある。
 庭先に松の木が植えてある。桜のように派手に咲くでもなく、紅葉のような散り際の静寂さもないが、私はこの木が好きだ。冬になろうが春が来ようが、喜びもせず悲しみもしない、変わらぬ姿に私は学びたい。


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  一人ひとりが持っている心、これは東洋医学の大きな要素である。心身一如という観点に立つこの医学は、主観に古くから注目していた。主観とは、感じたり考えたり行動を起こしたりする自我のことであるが、これはそもそも脳の働きである。脳科学的な一面を東洋医学は持つ。

  また東洋医学には、我々を取り巻く外界のあらゆる要素、つまり環境が心や体にどう影響するかに目を付けた環境生理学ともいうべき分野も豊富である。

  人間が環境とどう折り合いをつけるか。この問題は、我々自身の体にも降りかかりつつある。生活習慣病である。これを治療する中で私が学びつつあるのは、主観と環境が相互に影響しあうという点で、地球環境問題とよく似ているということである。

  メタポリックシンドロームは、自己の外にある飲食物という 「環境」 との摩擦から起こる。この摩擦を生む原動力は、自己の内にある食べたいという 「主観」 である。この内と外とをつなぐものが生活習慣である。そこに肉があってそれが食べたいから食べる、簡単に言えばこうなる。

  逆に言えば、肉がなくても食べたくなくても、メタボには良くないであろう油脂分豊富な肉・糖分豊富なお菓子を食べるという行動は成立しないことになる。主観もしくは環境が整えば、生活習慣は改善されるのである。

  さらに言えば、肉が食べたくなければ目に触れることもなくなるし、肉というものを知らなければそもそも欲しいと思わない。主観が整えば環境も改善され、環境が整っていれば主観は乱れないといえる。

  これがメタポリックシンドロームにみる主観と環境と生活習慣の関係である。だが、こんな分析が役に立つのだろうか。今、治したいのは 「この体」 なのである。

  しばしこの身を忘れて、ただ目に映じた一切の森羅万象を眺めてみる。すると、そこには環境あるのみである。自己のものなど何もない。それはこの体といえども例外ではない。山川草木、そしてこの空気。ひとたびこの体が動けば、触れるものすべてはその都度どよめき震撼せずにはいられない。大地はその体を乗せ宇宙をめぐる。体とともにあるのは自己ではなく、むしろ 「この地球」 である。

  この体は環境の一部なのだ。生活習慣病でこの体に感じているのは、環境問題という地球の痛みなのかもしれない。

  我々は、脂肪や糖分を多く含む食品をおいしいと感じ、体を動かさずともすむ道具を便利だと考える。だからそれらをひたすら生産し、どんどん生活に取り込んできた。だが、そうして人の手で作った環境は、体という環境にも、地球という環境にもやさしいものではなかった。

  この視点からもう一度、環境とは何かを見直す主観を持ちたい。新しい主観から出た行動はやがて 「この環境」 を変え、より良い環境はさらに多くの人々の主観を教え育てるからである。


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