ナナメシコウ

2013年02月

努力って何か?という話で、「自分もすごく努力してるのに」なんていう嘆きに近い話を聞くと、「その努力はちゃんと目的に向かってるのか?」というのが頭を横切る。

努力ってのは正しい目標に対するプロセスの話ですからね。プロセスが目標にマッチしてないとあまり意味がないのです。多くは目標設定の誤りから始まって、更に目標とプロセスの乖離が発生し、明後日の方向に努力するという事が起こってる気がする。例えば、本当は英語で日常会話が出来るようになりたいと思っているのにも関わらず、「英語が出来るようになりたいからTOEICで700点取るぞ!」という謎の目標設定をしてしまい、更には「頻出単語を毎日10個覚える」という面白い行動をとってしまったりする。

これは、富士山でサバイバルをしたいと思っている人が、「7号目まで登れるようになる」という目標設定をしてしまい、更には「毎日腕立て腹筋を20回ずつやろう」と決めるぐらいぶっ飛んでいる話に見えてしまう。

TOEICで700点とって、英語が出来るようになっているかどうか全くわからないので、そもそも目標設定が不適当。更に、英単語の積み重ねてもTOEICで700点を取る事にも繋がらないので努力の方向性が不適当。それでも、本人たちからすると「頑張ってはいる」訳で、「同じ努力をしてるはずなのに、なぜかあいつの方が出来る」という事になってしまう。

何かを努力するときの一番最初の問いは、常に「要件は何か?」ということ。漠然と「英語が出来るようになりたいです」と言ったところで努力のしようが無いです。単純に「強くなりたいです!」なんて言われたってわからないじゃないですか。「ヤンキーが喧嘩で負けないようになりたい」というのと、「いやー、クマに勝てるようになりたいんですよ」というのではやるべきことが随分と違うんです。まずは「日常会話が出来るようになりたい」という風に要件を定義してやる必要がある。まだこれでも漠然としているので、「旅する時に出会った人と英語で会話を楽しむ事ができるようになりたい」ぐらいハッキリすると良い。

次にすることは「どうやったら要件を達成できるか?」について悩む必要がある。こんなの家でウンウン唸っていてもわからないので、実際に旅してみる必要がある。実際にやってみて、自分が今どういう状態で、何が足りないのかがハッキリする。「言いたいことは何とかジェスチャーででも伝えられるけど、相手が何を言ってるのかわからなくて会話にならない」というような事がわかるようになる。他にも「二人で喋ってる内は相手が合わせてくれて会話になるけど、3人になると早くて聞き取れない」という課題が見つかる。

何も考えないと「聞き取りが苦手だからリスニングを頑張る!」になってしまうかもしれない。重要なのは考えるということ。例えば「日本語だったら早くても聞き取れるのに何故英語だと聞き取れないのか?」と考える必要がある。単純に耳が慣れてないから聞き取れないのかも知れないし、「言い回し」のパターンを知らないから補完が出来ないのかもしれない。耳が慣れてないといと一言で言ったって、ニュースキャスターが喋ってるような丁寧な喋り方で聞き取れても、普通の人はクセがあって聞き取れないかもしれない。もしそうなら、いくら丁寧な発音のリスニング教材で勉強しても問題は解消しないかもしれない。また、日本語だったら、煩い場所で相手が喋ってる単語が幾つか聞き取れなくても理解できたりする。それは言い回しの引き出しが多いからだ、となれば言い回しを色々覚えれば聞き取れるようになるかもしれない。それがわかれば目標が立つ。

目標がたったら、次は教材を探す必要がある。単純に英会話学校に通えば良いという話になるかもしれないし、クセがある発音を聞き取るならば「映画を英語で見る」ことが良いかもしれない。難易度とか目標にあったモノを探してくる必要がある。何度も繰り返して映画を見ることで、「この映画だけは字幕無しで理解できるようになろう」とかそういうプチ目標もたつかもしれない。

ある程度頑張ったら、テストをする必要がある。テストと言っても何処かで試験を受けてくるわけではないです。もう一回旅をして、前回と比べてどれだけ前に進んでいるか?を確認してくるのです。前と大して変わってなければやり方が間違っていた可能性が高いので、再度目標設定をやり直す。あるいは、前に進んだけど違う問題点が見えた場合には新しい目標設定を行う。

そういうPDCAを回していくことで要件を満たす事が「努力」だと思う。

「なんかよく分からないけど、とりあえず英単語を覚える!」なんて言ってる人が「努力してる」なんて言っても、それは私からすると「努力」ではなく「作業」にしか見えない

ではでは

こんな記事を読んでみた感想。

通販は、インターネットを武器にすることで膨大な品揃えをもつことができている。印刷物のカタログには限界があるが、インターネットは無限のカタログといっていい。そこから消費者は、欲しいものを探しだせるのだ。

しかし店頭販売となると、物理的な問題で置ける品物の種類、数量は限られている。だから、消費者の欲しがるものがなかったりする。欲しいものがなければ、消費者は買わない。

(略)

いまの店舗販売が、消費者の欲しがるものを置いていないところなら、「消費者の欲しがるものを置いているところ」に変えていくべきではないだろうか。もっと言えば、「消費者が欲しがるもの」を置けばいい。

どの店に行っても横並びの品揃えでは、消費者は興味を示さない。欲しいものさえ見つからないのでは、足を運ぶ気にもならないのは当然である。
(引用:小売業に何が足りないのか

色々足りないと思うけど、一言で言えば「変化しようと思う気持ち」じゃないかなーと思う。具体的な「足りないもの」を挙げるなら「品揃え」ですかね。ただ、むしろ重要なのは「手間」という余計なものではないかと思う。足りないんじゃなくて邪魔くさいものの存在というか。

本来、実店舗の方がモノを売りやすいと思うんですよ。何故なら目の前に商品が存在するから。どんなものかもよくわかるし、何よりも今すぐ買って買えることができる。私はAmazonさん大好き人間なので頻繁にモノを買ってますが、それでも近くの書店で本があるなら行って買ってきますよ。Amazonで本を探して良さそうだったら本屋に行く。そういうことも割とあります。

が、そういう人は実店舗にワザワザ赴いた後で経験すると思う。「扱ってなかった・・・」ということ

ケース①
前にちょっとした専門書を買いたくて、近くの書店に行ったら置いてない。諦められないから電車に乗って隣の駅へ。大型書店に行ってしばらく探すもやっぱり置いてない。そうなったらもうヤケで、見つけるまでどんどんと店をハシゴすることになる。ちょっと離れてるけど「天下の紀伊国屋だったらあるだろう!」と信じて向かう。ナビで検索したらなんと「在庫あり」。しかし、心躍らせながらナビで示された場所を探すも置いてない・・・・。「流石にこんなマニアックな本が在庫データベース更新後から今までの間に売れたりしないだろう」と思って探すこと30分、やっぱり見つからない。半ば諦めつつ店員に聞いたら、なんと棚の下の引き出しから出てきた。この時点で家を出てから数時間。本を読むことに休日を使いたくて買いに行ったわけですが、何と「本を買うことに休日を使ってしまった」という悲劇でございます。Amazonで買ったほうが幾らか賢かったと後悔したのは言うまでもない。

ケース②
大型の電気屋さんへ行った時のこと。セットで使う必要のある2つの商品がありまして、片方は行った店舗にあったのだけど、もう一個が「在庫なし」。別の店舗に(長い時間かかって)問い合わせてくれたところ、そちらには在庫があるらしいと判明。ただし、そっちの店舗には、こちらの店舗にあった商品が「在庫なし」。もって歩けない大きさじゃないから買いに来てる訳ですが、そうは言ってもかさ張る商品なので行ったりきたりしたくない訳です。こうなったらどうしても感じますよ。Amazonで買ってれば良かった、と。

ケース③
ある電気製品を買いに行ったとき、買いたい商品が置いてなかった。「取り寄せもできますが」とは定員のお言葉ですが、「取り寄せるぐらいなら最初からネットで買うわい!」という話です。どうせモノも見えないのだから。Amazonは当たり前ですが、元々通販に特化しているだけあって「楽」なんですな。実店舗は通販に手を出してても片手間でやってる感じにしか見えない。モノが見たくて、そして今すぐ使いたくてワザワザやって来てるのであって、通販だったらそもそも「この店」で無くて良いんです。

で、最初に戻る訳ですが、Amazonは品揃えは当然豊富で欲しいものは大体置いてます。そして、一番重要ですが手間が少ないのです。Amazonでも「在庫なし」という事態はありますが、iPhoneアプリで一瞬で確認できる訳ですからね。無かったとしても落ち込む必要は全く無い。むしろ、その気軽さから用も無いのに「面白いものは無いか?」と暇なときにアクセスしまくってたりするし、「ちょっと特殊なものだけど、取り扱ってたら良いな」ぐらいのつもりでAmazonにお伺いする。そんな頻繁にアクセスするということは、Amazonからすると「四六時中店でウロウロしている」ようなもの。そりゃ、売れるに決まってる。

でも、実店舗に在庫があると分かってるなら結構な割合で行くと思うんですよね。なんだかんだで店舗に行くのはエンターテイメント性もあるので楽しいし、ちゃんと確認した上で今すぐ持って帰れるのは嬉しいんですよ。紀伊国屋みたいに在庫の情報を提供してくれれば実店舗もまだまだ強くなれると思いますけどね。特に、「別の系列店だけど隣の店にありますよ!」とか店員が言ってくれたりする仕組みがあったりすると良いよね。「あの店には置いてないかもしれないけど、置いてる店を知ることはできる」となれば取り合えずその店に足を運ぶ。

結局、昔は世の中に存在する商品の数が少なかったんだろう。加えて、ネットもなければ商品の存在すら気づかない。そうすると、店舗においてるモノが全てであって、「行ったけど無駄足だった」という問題は少なかったのかもしれない。

だけど時代は変わってしまった。世の中には多くの商品が溢れ、その存在を消費者が知っている。それを欲しくて店舗に行こうものなら「ガッカリ」を体験する事になる。

実店舗に残された方向性は2つあると思う。
・横のつながりを強くして在庫切れを減らす
・エンターテイメント性を強くすること

一点目は上で書いたとおり、近くのライバル店とも協力して「無駄足だった」と消費者に思われることを防ぐということ。ちゃんと分析してる訳ではないので、それが戦略として良いのか悪いのかは分からないですが。

二点目は「買い物体験を楽しめる場所」としての方向性になる。例えば代官山の蔦屋書店はその一つですよね。最早「本を買いにくる場所」では無くて「時間を楽しむ場所」になってますよね。買いたいモノを買いに来る場所と定義するから「在庫が無い」事が大問題になるのですが、楽しむ場所になってしまえば在庫が無いという問題は存在しない。寧ろ、この方向性は実物が存在しないネット店舗には実現出来ないものになる。

景気が悪いから物が売れないと思ってるのは自由で、景気が良くなれば確かに上向くことは事実でしょう。でも、上向いたことで本当の問題から目を背けても、長期的には右肩下がりになってくる。何故なら根本が解決してないから。

色々期待したいところです。

ではでは

昨年読んだ「MAKERS」という本が自分のモノづくりに必要な最後のワンピースを揃えてくれたような気がしてテンション高いです。書籍の本旨は「これからのモノづくりが変わっていきますよ」ということで、パラダイムシフトやイノベーションについての紹介が載っており、ネットの世界で起こった革命が(より大きな市場である)物質的な世界でも起ころうとしている、という内容。それはそれで面白く、さすがはクリス・アンダーソン氏という、読むべき著作だと思った。

ただ、私にとっては本旨よりも、その枝葉であったハズの「Arduino」というオープンソースハードウェアに出会えた事の方が大きな収穫だった。これがあれば、簡単に電子回路を作ることが出来る。

マイコン、と言っても通じない人は居ると思うのだけど、平たく言えば、家電なんかに埋め込まれたちっちゃいコンピュータ(コントローラ)を指してる。テレビやエアコン、炊飯器なんかも人間からのアクションに対して色々と動作を行ってくれる訳ですが、これらを制御したりしている。

なんでこの出会いが嬉しかったかというと、私は元々モノ作りが大好きだったのだけど、いつしかコンピュータと出会ってソフトウェア的なモノ作りしかやって来なかったから。ソフトウェアはそれなりに作ってきたし、サーバも立ててきたし、スマフォのアプリなんかも齧ったりしてきた。でも何かが足りない気がしていて、それが「物理的な世界への影響」だったと言うわけです。

コンピュータ上で私がなにしようが、物理的でリアルな世界には直接大した影響がなかった。アプリ作ろうが、サーバー立てようが、目の前のテレビすら電源を付けられない。それなりにデジタルの世界に閉じても意味があるといえばあるのだけど、ある種の歯痒さが残る。でも、Arduinoとの出会いはその歯痒さを払拭してくれそうに思う。リアルなモノから情報をデジタルに送り、そこで処理をしてモノにフィードバックさせる。そんなことが出来るようになる。リアルとデジタルの橋渡しをしてくれる、そんなモノと出会えた喜びのようなものを感じるのです。

橋渡しをしてくれるものというのは価値がある。何故なら、リアルな世界には今のところ私の武器はなかったとしても、デジタルに変換さえすれば自分の土俵。物理的なモノという右も左も分からない世界だけど、デジタルという世界で培った武器で戦う事が可能という事だからです。

何が言いたいかというと、橋が出来ると「色んな武器を持った人が往来する時代がやってくる」ということ。昔、どこかのイラストレーターが言ってたんだけど、「私はコンピュータ上のツールを使って絵がどれだけ上手い人がやってきても怖くはない。必ずその人よりもいい絵を描ける自信がある。でも、油絵や水墨画で凄い能力を持った人がやってきたら勝てないかもしれない」。この場合は両方とも絵の話なのでちょっと違うかも知れませんが、コンピュータグラフィック自体に特化した技術が必要ならば、油絵や水墨画との世界は分断されているハズなのです。その技術の垣根が高いほど競争も無いし、油絵で培った能力だけでコンピュータグラフィックの世界で戦う事は出来ない。

でも、コンピュータグラフィックで必要な技術が簡単になればなるほど、油絵や水墨画で力をつけた人が参入してくることができるようになる。その人たちはきっとコンピュータグラフィックを油絵や水墨画からの視点で物事を考える。「コンピュータグラフィックってのはこうだ!」という常識があっても「そんなの関係ない」という事が出来る。同じ物事を別の視点で見ることが出来る人達。きっと、コンピュータグラフィックの世界の住人とは違った作品を生み出す事でしょう。

さて、私がArduinoと出会った話に戻すと、私の勉強が足りないので、現時点で私が物理的な世界に及ぼす事ができる影響は微々たるモノです。それでも、外出中にスマフォを使って家電をオンオフするぐらいのモノを作ることは出来る。それも、本業じゃなくて趣味の時間で。

漫画「幽遊白書」の中に魔界の穴なんてのがありましたが、今は私のような低級妖怪がウロウロしてるだけですけど、その内、S級妖怪が行ったり来たりするような時代になってくるんのではなかろうかと。そして、その穴はデジタルとリアルの間だけではなくて、色んな処に発生しているような気がしてます。

自分はどの武器で戦うのか、どの橋を渡るのか渡らないのか、そもそも何処に橋があるのかを知っているか、とかとか、いろいろと幅が出てきて面白い時代になってきているんじゃないでしょうか。

余談ですが、「ハードウェアとソフトウェアの統合なんてまさにAppleとかGoogle、Amazonがやってることじゃん」という意見もあろうかと思いますが、違うんです。AppleやGoogle、Amazonじゃないと出来なかった事が一般ピーポーの中で出来るような時代になった事が面白いんです。

ではでは

世の中に引かれた線って何があるでしょう。人と人を区別する線です。

年齢、性別、趣味、国家、場所、思想、職業、言語、収入、人種、、、などなど、挙げればキリがないほどの線が存在します。

性別や人種のようなプリミティブなものを除けば、一番強い線引きは「場所」だったのかも知れないな、と思うのです。世界中の人が地球上に住んでいて、多くの国が存在するわけですが、場所を意識しています。当たり前ですが、日本が「北海道の一部と、中東の一部と、アフリカの一部と、南米の一部と…」なんて事にはならないですよね。場所が飛び離れたところで一つの集団として活動をすることは非常に困難です。

逆に、思想や人種、収入などの別の線引きはというと、それらは全く異なる人達であっても一緒になって同一国家で生活を営んでたりする。宗教の勢力がいくら強くとも、国家のような生活の母体となり得ない。それは、やっぱり場所が一番強い線引きだからなのでしょう。

もちろん、これからも場所というものは強い意味を持ち続けるとは思う。でも、もうちょっと概念的な線引きが強くなっていくと思うのですよね。

今の国家の領土を考えた時、場所という物理的な概念で分けるから、綺麗に分割されているように見えている。日本は日本で固まって、アメリカはアメリカで固まっている。インドは地球上に点在してたりしない。まとまってるのは「場所」という基準で物事を見ているからです。

例えば、「どこでもドア」があったら今の領土がいい感じに見えるでしょうかね。どこでもドアじゃなくても良いんですが、移動にコストが全くかからないような世界だったとしたら、立地で世界を分ける方法が適切でしょうかね。資源のある場所や、リゾート地とか、色々と上手い具合に確保できるような形で領土を分けたくなるかもしれない。

国家は場所を基準に分かれているけど、色んな問題は「場所」ではなく、より概念的な線引きで発生している気がする。それはきっと、一番強い線引きが別のものにシフトしつつあるからではないかと思ってる。

例えば、貧富の差。昔は国単位で豊かだったり貧しかったりしたことでしょう。そして、国というのは場所で決まっていた。でも、今は場所に縛られずに貧富の差が存在する時代になってきている。市場がグローバルになったということでしょうね。日本国内を見て貧富の差が開いた!とか、アメリカで格差が!なんてのは「場所」という線引きはから観測した一現象でしかないのかもしれないです。収入別に国家を分けているのなら国内格差なんて絶対発生しないですからね。

「場所」で線を引いた世の中で、色々と難しい問題が勃発するならば、それは世の中における「場所」の意味が薄れてきているのかも知れない。

それにね、「場所」から発生した今の人間関係は、構築したくて構築したものじゃないかも知れない。たまたま近くにいたから生まれた人間関係だったという言い方も出 来る。言うなれば、学校でクラス分けして、「お前ら同じクラスなんだから仲良くしろよー」ってな話。「そんなこと言われたって、隣のクラスの方が合うんで すけど」という話もあると思うのです。

ネット上なんて場所が問題にならないので、とっくに趣味や思想でコミュニティを形成している。それはある意味場所に基づく人間関係よりも強い繋がりになっている。

「遠くの親戚より近くの他人」なんて言葉があるけど、いずれはこの言葉の意味することも分からなくなって、「物理的に近くの他人よりも考えの近い他人」が大事にされる時代になるかもしれない。

ではでは

この前何気なーくテレビを見てたら、早期退職者の番組をやってた。私は「辞めたけりゃ辞めたらいいじゃん」というスタンスなんだけど、退職金5000万+年金6000万の計1億1000万で「足りない」と言っているのには驚いた。早期退職で55歳。85歳まで生きるとして30年。年間400万弱ある計算なんですけどね。しかも、額面400万じゃなくて、手取りで400万計算。これで足りないなんて言われたら、年金の払い甲斐がないというものでございます。

年金が出るまでの10年間がまず大変という事らしいけど、5000万持ってて何が大変なのか疑問に思ってたら、「子供の教育費に2000万、ローンの返済に2000万」だそうで、残り1000万で10年は無理ということらしい。

働けよ

って思う。単純に。

夫婦共働きで月に10万でも稼げば、10年で1200万、退職金の残りの1000万と併せて2200万。月に18万強あるじゃん。ローンも払い切った状態で月に18万あって、生活できない理由がないと思うんですけども。

大体、退職金で5000万も貰えるなんてのは大概高級取りだったハズ。「今まで稼いだお金はどこ行った?」って思うんですけど。

いや、別に稼いでなくても一緒なんですけどね。「お金に困った!」みたいな話を聞くたびに、必ずと言っていいほど「これから」にフォーカスを絞って会話する。その度に私は「今までどうしてたのさ?」と思わずに居られない。

たまに、「良いよなー独り身は。自由に出来るお金があって」なんて愚痴をこぼす人が居る。家庭をもってからは子供の養育費やらなんやらにお金が掛かって、お小遣いが減っているのだろう。愚痴なのはわかっているものの、「今までのお金はどこへ行ったの?」と疑問に思わざるを得ない。自分が遣って無くなったお金の不満を、他人にぶつけるのはやめて貰いたい。

「家庭の為に自分は我慢しているのだ」

みたいな顔をする人が居るけど、私は違うと思う。例えば、手取り25万の人を考えると、単純計算で25歳から35歳まで働いていたら、3000万あるわけです。家庭と引き換えに3000万も無くなった訳じゃないでしょ?自分が自分の為に遣ったから無くなったと思うのですよ。都内で8万の賃貸マンションに住み、5万の小遣いと4万の食費…みたいな事をやってりゃお金は貯まらない訳でね。家賃5万のところを選ぶ事だって出来たハズ。食費やら一切合切を4万に抑えてたら雄に2000万程貯金があったハズですよ。今は確かに家庭の為に我慢してるのかも知れないけど、過去を振り返ったら、本当に「家族の為?」と思ってしまう。家庭は過去の自分の浪費活動に対する免罪符じゃないぞ、と。

若い頃に遊び、好きなようにローンを組んで、歳を取ったら「自分には家族が居るから」みたいな事を平気でいうのは傲慢だと思うんですよね。

今までの自分の選択から導かれる当然の帰結に対して不満をこぼす。世の中は別に悪くない。私には、
「お父さん、お小遣いなくなった!」
「遣ったからなくなったんだよ」
という遣り取りにしか見えない。

ではでは

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