地域を守る人たち(旧:なんで屋)

人々の意識の中に、「どうしたら社会・地域を守れるの?」という意識が芽生えてきています。そのヒントとなる情報を紹介していきます。

私権収束から共認収束への大転換

米・欧・中の崩壊を以って、近代社会は終焉する。
だがこれは、単に近代300年の終焉ではなく、古代以来5000年に亙る私権社会の終焉である。言い換えれば、力の原理の終焉である。

なぜそう言えるのか?

私有制度に基づく社会では、誰もが、私権(地位や財産)の獲得を目指して争う。教科書に載っているいわゆる文明社会とは、誰もが私権(の獲得)に収束することによって統合された、私権統合の社会に他ならない。
当然、そこでは私権の獲得に必要な力(武力や資力)がものを言うことになり、力の弱い者は力の強いものに従うしかなくなる。力の原理である。

しかし力の原理が働くには、一つの大きな前提条件がある。それは貧困(飢餓)の圧力である。貧困の圧力が働いているからこそ、誰もが私権に収束し、力の原理が貫徹される。
実際、古代〜近代を貫いて、紛れも無く人類は常に貧困の圧力に晒されてきた。だからこそ、力の原理が支配する私権社会になったのである。

ところが’70年頃、先進国では豊かさがほぼ実現され、貧困の圧力が消滅してゆく。その先頭に立つことになったのが、日本である。
貧困が消滅すると、私権を獲得しようとする欲求=私権欠乏が衰弱してゆく。従って、物的欠乏も衰弱し、市場は縮小せざるを得なくなる。
また、貧困が消滅すると、誰も私権獲得のためにあくせく働こうとはしなくなる。従って、活力が衰弱し、指揮系統も次第に機能しなくなってゆく。
つまり、’70年、先進国は大きな転換点を迎えていたのである。

しかし、社会の統合を担う学者や官僚やマスコミや政治家etcの旧勢力は、この新しい状況をまったく把握できず、「市場拡大は絶対」というイデオロギーに凝り固まって暴走してゆく。
彼らは、不足する需要を補うべく大量の国債を発行して、見せかけの市場拡大に血道をあげてきた(実際、元々ゼロだった国の借金は、’70年代から急速に増大していき、今では900兆円にも達している)。
その結果がバブル経済であり、その果てが今回の国債経済の破綻であり、迫りくる米・欧・中の壊滅である。

まさに無能の極みであるが、ここで、社会の統合を担う受験エリートたちの無能さを、従って「もはや彼らには任せておけない。自分たちで統合課題を担うしかない。」ということを、大衆はしっかりと頭に刻みつけておく必要があるだろう。

他方、それほど旧観念に毒されていない普通の人々は、’70年以降、私権収束から脱して共認収束を強めていったが、それは貧困の消滅に伴う必然的な帰結である。
なぜなら、貧困の圧力に基づく私権の強制圧力が衰弱してゆく以上、人々が人類本来の共認原理に回帰してゆくのは必然だからである。
現に、大多数の普通の人々にとって、人々の期待に応える充足こそが最大の活力源になっており、今やこの期応収束⇒課題収束こそが、中心的な意識潮流となって健在化してきている。
さらには、このような潮流の中から、共認原理に則った共同体を志向する企業が次々と生まれてきている。
つまり人々は、この40年の間に、旧勢力(受験エリート)の暴走を横目で見ながら、彼らとは別のもっと深い潜在思念の地平で、見事に私権収束から共認収束への大転換を成し遂げたのである。

物的な豊かさが実現された以上、私権収束⇒私権統合の社会が終焉し、共認収束⇒共認統合の社会(人々が、状況を共認し、課題を共認し、規範を共認し、それらの共認内容に収束することによって統合される社会)に移行してゆくのは必然である。
現在の、意識潮流の先に人々が求めているものも、間違いなく共認社会(古い言葉で言えば、共同体社会)であると言えるだろう。

(続く)




岡田淳三郎

原発問題から見える特権階級・近代科学の問題性 〜”学び”を忘れた学者達〜

福島の原発事故を契機に、原子力の技術というのは人類には扱いきれない代物だということを強く自覚し始めた人も多いのではないでしょうか?
またその一方で、「“きちんと安全管理を行えば”原発は安全だ!」という何の根拠もない詭弁を使い、このような前代未聞の事態において未だ原発を推進しようとする輩がいるのもまた事実です。
問題はこの“きちんと管理すれば”というフレーズ。「○○ならば」「○○の条件が揃えば」・・・。
そもそも、現実にそのような都合のいい条件設定をされた環境など存在するのでしょうか?
これまで、我々は上記のような疑問を持つことなく、近代の科学技術に対して何の根拠もなしに「安全だ」という信仰に近い妄信が我々にあったことは否定できません。
しかし、それ以上にこれらの技術を生んできた学者達の思考や意識にこそ構造的欠陥があるようにも想います。
今回は、そのあたりにスポットをあてていきたいと想います。
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(画像はコチラよりお借りしました)
 
 


2011/5/30なんでや劇場レポート「観念力を鍛えるには?」(5) 詭弁を説明しようとするから難解になってゆく

このように文字にすれば、より深く考えたり構造化することも可能になるが、その反面、ますます難解になってゆく(仏典も神学も近代思想も)。その結果、専門家以外は理解できないものになり、人々は無関心になってゆく。’70年以降、近代思想も輝きを失い見捨てられた。
この難解化は観念あるいは観念力の高度化と言えるのか? 知識階級の自己満足ではないのか。
中世キリスト教会でトップレベルの頭の良い神官たちが神学論争に明け暮れていたのが、その象徴である。
論理矛盾を説明しようとすればするほど、膨大な論証が必要になる。しかし「三位一体」をはじめとして元々から矛盾しているものを矛盾していないかのように 繕えば繕うほど、全体が詭弁と化してゆく。難解になるのは当たり前である。そんなものを読んで理解したと喜んでいるのが学者という存在なのである。
例えば、ドーキンスの利己的遺伝子論は完全な詭弁である。生物史には、個体が原点という事実はどこにもない。にもかかわらず無理矢理、生物進化を個人主義に結びつけようとして「遺伝子は利己的」と結論づけようとしたのがドーキンスである。
こうして学者たちは捏造に捏造を重ねてきた。そして誤魔化しや捏造を重ねれば重ねるほど、難解になってゆく。しかし、詭弁を糊塗するために捏造された難解な文章や学問を理解することに、一体何の意味があるのか?
思想や経済学だけでなく、自然科学も例外ではない。
例えば、物理学は読んだだけでは「何故こんな数式になるのか?」理解できない。その理由はいくつかあるが、その一つが、物理法則にさえ詭弁の構造が孕まれていることである。
無数の要素や力が複合的に絡み合って働いているのが現実の自然世界(宇宙の運動)であるが、たかが人間の脳レベルは全体を構造化することはできない。そこ で自然科学者たちは、関係する要素や力をほんの数個に限定し、その他の要素を捨象した人工的な特殊限定空間で実験を繰り返してきた。そうしてできた科学法則は、現実には存在しない特殊空間(実験室)でのみ成立する限定的な法則にすぎない。
そのことを昔の自然科学者たちは自覚していたが、現在の学者たちは、そのことを忘れてor忘れた振りをして、特殊空間においてのみ成立する法則を、あたかも普遍的な真理であるかのように発信する。
とりわけ、食品系の学者の主張はペテンそのものである。
体内では無数の物質が複合的に影響し合って働いている。どの物質とどの物質が複合的に結びついたら、どのように作用するのかということは未解明のままである(現在の科学はその程度の幼稚なレベルにすぎない)。にもかかわらず、ある一つの物質だけに着目して、その作用や危険性を喧伝するのはペテンと言うしか ない。タバコ=ガン犯人説然り、CO2=地球温暖化犯人説然り。今や、自然科学も全く信用できない代物に成り下がってしまった。
〜後略〜

ここで、明らかになったこととしては、近代の科学というのは恣意的な条件設定(特殊空間)の上で成立している法則に過ぎないということです。近代科学の学者の問題性としては、このような条件設定で成り立った法則をあたかも万物の普遍構造かのように発信することにあります。
なぜ、このようなことになるのでしょう?
自分達が導き出す法則は限られた条件の下でのみ成立していることを、本当に忘れているのか?あるいは、忘れた振りをしているのか?
しかし、昨今の学者の様子を考えると実は何も考えていないのではないか?とさえ感じます。

2011/4/17なんでや劇場(9) なんで、こんなことになってしまったのか?⇒科学者たちの信じられないアホさ加減

●昔から地震の予兆として、ナマズをはじめとする動物や井戸や雲の色・形など、様々な現象が素人の知恵として蓄積されてきた。素直に考えれば、それらの現象がなぜ起こるのか、原因の解明から入るのが当然である。ところが、学者たちはそれらを俗説として無視してきた。それは、学者である以上、素人の俗説より 上でなければならないからである。そうして、学者たちは、現象事実を俗説として無視し、真っ赤なウソ(プレート説)を唱え続け、その問題を指摘されるたび に辻褄合わせを重ねてきた。
実際、彼らは数千億円も使いながら、一度も当てたことがない。
なんで、こんな体たらくになってしまったのか?
●1950年代までは地震研究の本流は地質学であり、研究者たちは各地の地盤を細かく調べ上げていた。ところが1960年代にプレート説が登場して以降、 地質学から分派した地震学が本流になり、主に団塊の世代の学者たちがプレート説を流布してきた(一方、地質学者たちはそれを認めていなかった)。
同じようなことは生物学にもあって、分子生物学が1960年代から広まり、これを団塊の世代が流布し始めてから生物学もおかしくなってきた。このように、 自然科学全体が1960年代からおかしくなってきたように感じる。その意味では同じころから持て囃されるようになった宇宙論=ビッグバン説も怪しい。
今、テレビでは、昔から学者のアホさ加減を最も強く指摘してきた我々でさえ信じられないようなアホさぶりを、御用学者たちが日々披露している。これまで、 そうは言っても少しはモノを考えているだろうと思っていたが、本当に何一つ考えていないのではないか。例えば、気象学者も地震学者も原子力学者も、「温暖 化はCO2だ」「原子力は安全だ」と指示されれば、それを正当化するデータを捏造することしか考えなくなるということではないか。ひょっとしたら、何も考 えてない彼らにとっては、言い逃れではなく本当に「想定外」だったのかも知れない。
●地震の発生メカニズムの追求によって、明らかになったことがもう一つある。
〜中略〜
地震学者たちは数千億円も使いながら、地球のことは何もわかっていない。だから、地震予知を一度も当てたことがない。言い換えれば、地球は地震学者の手に 負えるものではないということ。原発も同様に現在の原子学者のレベルでは扱えないもの(扱ってはならないもの)なのである。現代の科学者に、その自覚が少しでもあれば、こんなことには成らなかっただろう。

科学者は、過去の先人(素人)達が自然と向き合う中で学んだ蓄積を、真摯に受け継ぎ、その土台の上に追求を重ねることなく、自分達の専門領域での主流説をただ妄信するだけで、何も考えなくなってしまっています。
科学を扱うものにとっては、科学(恣意的な条件設定の上で成立した法則)で説明できるもののみを是とし、その法則に則らない現象事実に関しては「非科学的」という言葉を使って、「トンデモ」のレッテルを貼ってきました。
歴史を振り返れば、今の近代科学では全てを説明できないことは明らかです。
しかし、科学が導き出した限定条件付の法則をあたかも完璧であるかのように認識し発信し続けています。
その無自覚さが、今日の様々な社会問題へと繋がっていることはもはや明らかでしょう。
ここから学べることは
“完全なる認識など存在しない”ということ,そして、なにより“無能の自覚”こそが必要だということです。
上記を自覚した上で、謙虚に先人達の知恵と自然・歴史に学ぶ姿勢こそが、次代を可能性ある社会へ導く上で必要な認識であると感じます。
最後まで読んで頂きありがとうございました。







BLOG:日本を守るのに右も左もない http://blog.nihon-syakai.net/blog/2011/08/2032.html

五十嵐川の水害であらためて学んでいるところです その2

>まず、水。次に食糧。この二つだけは絶対に譲れなない、強い社会の根幹です。電気もガスもいります。消費における必要というより、生産と供給と流通のために必要です。

こう書いてみると、あらためて明治新政府の施策と似ていますが、逆に考えると150年も前のインフラでこれまでやってこれたことの方が不思議です。よく150年ももち、それを基盤として日本を先進国として成り立たせたものです。

しかし、最近の30年くらいの政治と市場は明らかにそれよりも退化しています。

【1】水 

井戸から水道に切り替えた、そう言う意味では国家事業でした。しかし、これが災害時にマヒするのです。日本は世界的に見ても自然から得られる真水の量が多い国です。井戸も水道も、地下水や河川などの水源を利用していますが、それはあくまでも「利用している」にすぎません。本当に1億国民の生産と消費の水をまかなっているのは、水源です。

これからの時代は、この水源を大事にして、平常時に水を蓄えるなどすると同時に、災害時にマヒしない水の供給システムを新築しないといけません。水害時に、大量の雨が降ってくるのに、断水する。自然の摂理を知り使いこなしているのと真逆の現象です。

断水の理由は
集中豪雨→河川が濁流化する→取水場、貯水場のろ過システムが詰まる→水道水として使えない→断水

自然は水を与えてくれていますが、うまく利用できていないのですね。150年前の状況とは全く違う21世紀は、水の使用量も水道への依存量も段違いです。水利用について早急に社会課題として、2世紀ぶりの見直し新築が急がれます。

【2】食糧

原発によって、少なくとも、福島県産はレッド、宮城県産・茨城県産、栃木県産はイエロー、岩手県産・山形県産・群馬県産・千葉県産・埼玉県産・新潟県産は要注意、東京・神奈川・長野・山梨・静岡・青森は物によって要注意、みたいな感じに自然になっていると想います。

評価において微妙な新潟県にすんでいる私としては、ある程度新潟県産を基準にしてそれより危ないか安全かという判断基準が身に付きます。

本当に微妙な場所に位置していると想います。今までのところ、新潟県は、福島県の人々の避難先にはなっていますが、新潟県から他の都道府県に長期間避難したという話しは聞いたことはありませんので、一応は継続して居住することを疑わないでいられるギリギリのラインはクリアしているのだろうと感じます。

原発一か所の事故でこれだけ広範囲の実質的な危機意識が生じるのです。原発は水と食糧のために廃止しなければいけません。工業生産物なら使うことが可能でも、水と食料だけは汚染されたら使えません。

その意味でも、150年前に想定できなかったけれど、現在は想定しなければならないインフラの廃止と整備が必要です。原発がある限り、原発事故が起こっても耐えられる水資源と農業とはどのようなものなのでしょうか。途方にくれますが避けることはできない超重要課題です。

【3】エネルギー

断水は長くても48時間以内におさまらないと、人々はパニックになります。パニックならましで、それ以上続くと疲労して悪くすると亡くなります。水というのは飲料水だけでは全然足りないのです。医者の水も止まるのです。

食糧は保存食もあるので48時間ということはありませんが、それでも1週間分の備蓄をしている家庭は少ないでしょうから、できれば48時間以内が望ましいです。

エネルギーは水と食料に比べればなんとかなりますが、仕事はできません。仕事ができなければ元に戻ることも新しい方向に進むこともできません。

木材を燃料にするには、木材もないし、木材を燃やしてエネルギーに変換する設備もありません。石炭も石油も難しい。電気とガス。この二つの完成品を使用することしかほとんどの人にはできません。

今時の電気を使うストーブや湯沸かし器やシャワーは、電気が止まれば全てアウト。電気、ガス、水を三つとも使うタイプのシャワーであれば、どれか一つ欠けるだけでお風呂には入れません。

複合式で効率の良いシステムも良いのですが、もっと単純な、一つ生きていればそれが使えるような端末システムと社会インフラがどうしても必要です。

複合式で依存の三乗をするより、単線で生きのびるインフラ、つまり昔の日本に戻ることも決断しないといけないのだとひしひしと感じます。これは自分だけやっても難しいので社会の重要課題にしたほうが良いです。





佐藤英幸

五十嵐川の水害であらためて学んでいるところです

2004年7月13日、この地にとっては数百年に一度という豪雨が降り、新潟県三条市のおよそ半数の建物が平均して1メートル〜2メートル水没しました。

プールでも泳げない人にとっては胸より上の水位は恐怖感があると想いますが、夕暮れ時の豪雨の中の濁流では、膝より上の水位は上手く歩けません。そういうときは何が頼りかと言えば、やはり「人」をおいて他にはありません。私は当時、塾生のお父さんであり、たまたま近くで歯科医をされている人と一緒に、教室で避難生活をすることができたので、ふだんはできないような息子さんのことなどを突っ込んで話すことができ、あのときをきっかけに現在も親交を継続することができています。

その数ヵ月後、今度は中越地震という大きな地震が水害とほぼ重なるような地域で起こりました。水害で激甚災害に慣れていたせいか、あまり大きなショックを受けずに、対応することができました。人々は地震のあと一斉に無事を確かめあい、どこがどの程度の被害なのか報道よりも先に知ることができました。震源地にバイクで駆けつける若者たちや、震源地で被災して急いで何とかして帰って来た人たちが教えてくれたからです。

翌年2005年の12月には雪国でも対処できないほどの寒波に襲われて、停電は当たり前のこと、そこらじゅうで水道管が破裂するという被害がありました。あの寒波は数十万円〜数百万円の家屋損害を過半の家がこうむったと想います。

さらに数年後、中越沖地震、柏崎原発火災。

そして2011年、この年の豪雨は、2004年以上の降水量で、数十万人の人が避難指示を出されました。

長々と書きましたが、言いたいことは、この10年以内に激甚災害を4回経験した稀な県であることを貴重な勉強だと感じるからです。その原因は地球規模の気候変化なのか、それとも人為的な兵器なのか、それは別として、短期間に4回の大きな災害に見舞われるとそれが特別な恐怖ではなくなるということです。

最初の災害ではとても深い感情的な助け合いの気持ち

2回目の災害では驚かずに本当の情報を集める気持ち

3回目の災害では地震なのか、原発火災なのか、風評被害なのか、峻別できる能力

4回目の災害では、これはもう災害ではなく、これくらいのことは起きることを前提にした社会建設が必要ということです。

原因はともかく、豪雨は起きます。大地震は起きます。原発事故は起きます。必ず生じます。

この中で原発事故だけは未然に防ぐことができます。原発をやめれば良いだけです。

そしてそれ以上に大事なのは、必ず起こるのだから、起きないと想わないで、起きても良いように人々の協力、生産体制、避難体制、再建設体制、情報集積体制、など考えられる全ての準備を社会的に必要なこととして行うことです。

個人個人の防災意識に小さくまとめずに、これからの社会と政治は環境破壊や科学崩壊や市場破滅に強い社会の建設に向かうべきです。

まず、水。次に食糧。この二つだけは絶対に譲れなない、強い社会の根幹です。電気もガスもいります。消費における必要というより、生産と供給と流通のために必要です。これだけ人口が多いとです。





佐藤英幸

「やらせ、ウソ」をやるには民主主義ほど都合のいい体制はない

「だまし」や「ウソ」が正当化されるには「民主主義」ほど都合のいい体制はない。やはり「民主主義」こそ現代社会の元凶と言えるだろう。

武田邦彦『偉い人がウソをつく原理(2) 夫婦げんかの原理』リンクより転載します。
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ウソの原理(1)リンクでは、なぜ、エリートサラリーマン、中央キャリヤ、そしてこともあろうに校長先生が「やらせ、ウソ」をするのか?という疑問を少し整理した。

ここでは、彼らは、やらせやウソが社会的にいけないことであり、自分がそれをしていることを知っているのに、「やらせ、ウソ」を繰り返している理由をさらに解明していきたい。

なんといっても、こんな悪い日本、崩れた社会を、私たちの子供に引き継ぐわけには行かないからだ。
・・・・・・・・・
「やらせ、ウソ」をするひとは、特徴がある。それは、

「自分が「正しい」と思っていることは、誰がなんと言おうと正しい。自分の意見と違う人は間違っている」

と考えていることだ。

「なにが正しいか?」というのは自分が決められるものではない。遠い昔から正しいと決まっているもの、全員が正しいとしていることなどが正しいのであって、「自分が正しいと思うから正しい」という理屈などあるはずはない。

「自分が決めたから正しい」とすると「自分は全員である」ということになり、ありえないことだ。

もともと民主主義や選挙などの現在の社会制度というのは、「人によって正しいと思うことは違う」というのを大前提にしている。昔は「殿様が言われたことは正しい」という時代もあったが、今ではそんなことを言う人はいなくなった。

でも、実は日本の指導者は自分を殿様と思っている。

小さい頃から学校の成績が良く、痛い目に遭うことが少なく、すくすくと育ち、それでいて正義感、道徳観などが希薄な人材群なのである。

彼らの頭脳の構造は、一言で言えば「ヨーロッパ流」だ。どんなに残虐なことをしても、それを巧みに正当化する論理がそれである。

インドを支配していたイギリスは、インドの産業を発展させないように腕の良い職人の手首を切り落とした。この行為はやがてイギリス流の巧みな論理で正当化される。

言語の麻薬、論理の麻薬とも呼べるヨーロッパ流にはまると、「他国を自由にするために職人の手首を切り落とすことはやむを得ないことであり、正しいことだ」となるのだから、たいしたものである。
・・・・・・・・・
実は世間でよく見かける夫婦げんかにも似たところがある。

夫婦というのはもともと男性と女性のカップルなので、体のつくりはもとより、考え方や性質などが違う。

違うから一緒になって生活をする。女性は血管が細く、代謝量が少ないので、発熱量が小さい。だから、クーラーに弱い。男性は血管が太く、代謝量が大きいので、体内で燃える炭素量が多く、体温は上がりがちである。

こんなことはわかりきっているのに、「暑い、冷える」とケンカになる。だから、「自分に快適に」、「自分が正しい」と考えているなら結婚もしないほうが良いし、無人島に住んだ方が良い。

時々、学生でまるで自分しか視野にない若者がいる。ひとしきり彼の熱弁を聞いて、私はよく次のように言う。

「なるほど。君の考えも一理あるね。でも、誰もいないところで生活をすることを勧めるよ」
・・・・・・・・・
「偉い人」には抜き差しならぬ欠陥がある。それは、「自分は他の人より偉い」との確信があり、従って「多くの人はバカだ」と言うことになる。

そして、その人が教育者であっても「バカは教えても理解しない」と固く信じている。

「原子力はエネルギーのない日本にとって大切だ。ただ、原子力を怖がっているバカな人にそれを言っても理解できない。だから、だませば良いのだ」

「民主主義は「民」が「主」だって? それは、そういう形をとっておけば多くの人からお金を巻き上げることができる方便だ。マスコミを使って幻想を巻いておけば、民主主義ほど都合のよい体制はないよ」

このように考え、信じている人にとっては、原発の再開を説明する会というのは、単に庶民をだますチャンスでしかないし、教育基本法の改正のタウンミーティングも同じである。

だから、そこでも「だまし」や「ウソ」は正当化されるのである。

彼らは「やらせメール」がバレルのはまずいと思っている。それは「悪」がばれるからではなく、「やらせメールをすることは正義だが、それがばれるのは都合が悪い」ということに過ぎない。

教育基本法の改正もおなじだ。どのように改正すれば良いかは「指導層」だけで決めればよく、そんなことを国民に聞く必要は元々無い。でも、体裁としては民主主義の形をとるのが都合がよいので、やらせ発言もそれ自体が「悪」ではなく、やらせ発言をしたことがばれるのが都合わるいのだと思っている。
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これまでも、ズッとこの手のウソが日本社会をダメにしてきたが、「そんなことがあるはずがない」というまじめな多くの人が、実はこのウソを守ってきたのだ。

哀しい・・・

でも、福島原発で偉い人がウソをついたり、姑息な細工が明るみにでて、「こんなことがあるのだ」ということがわかった。

私たち大人は事実をはっきり認識して、大人としての責任を果たす時期に来たように思う。
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以上です。







新聞会

秩序崩壊の一歩手前での、旧勢力と新勢力の戦い

日本をはじめ、秩序を維持できそうな国は、どうなるだろうか?

本来は国家紙幣が不可欠だが、官僚やマスコミや政治家etcの旧勢力が認識転換できるとは考えにくい。従って、中央銀行の体制のまま、リセット後の経済運営にあたることになる。

リセット後は、農業や介護や新エネルギーに対する大型の助成が必要になり、直ちに財源が問題になる。しかし、中銀方式の場合、現状でも大赤字なわけで、新財源などある訳もなく、大量の赤字国債を発行する以外に手はない。
その場合、中央銀行が銀行に新紙幣を供給して新国債を買い支えさせるので、新国債の価格を安定させることは可能である。しかし、旧国債と旧紙幣が紙くずになったばかりであり、新国債の価格など誰も信用しない。

新紙幣が信認されるかどうかは、食糧価格を沈静化できるかどうかにかかっている。しかし、またぞろ赤字国債を発行しているようでは、新紙幣も信認されず、従って物価は鎮静化しないだろう。

従って、米・中をはじめ、世界中の国々が次々と秩序崩壊し、国内の物価も高騰したままで、秩序崩壊の一歩手前というギリギリのところで『中央銀行廃止→国家紙幣』を掲げる新勢力が登場し、政権を握れるかどうかがカギとなる。
この状況では、迷走を続ける旧勢力に代わって新勢力が一気に勢力を拡大して政権をとる可能性は充分あるが、秩序崩壊の一歩手前での際どい闘いとなるだろう。
当然、リセット前に新勢力が登場し、事前にある程度の備えが出来ていた方が、秩序を維持したまま新勢力に移行できる可能性は高くなる。


しかし、金貸し勢と配下の試験エリートたちの誤算は、「中央銀行存続のまま」だけとは限らない。
彼らは、HAARP(電磁波兵器)を使って人工災害を起こす計画であるが、実は、どれくらいの出力ならどの程度の災害を引き起こせるかという段階まで、その技術は確立していない。
従って、一年間マイナス1℃のつもりが、三年に亙ってマイナス3℃という大災害を引き起こしてしまう可能性もある。
従って、この最悪のケースも想定しておく必要がある。

その場合、米・麦の生産高は、2割以下(イモ類に切り換えてもカロリー換算5割以下)に食糧生産が激減する。
そうなると、食糧を求めて人口の半分は農村に移動するが、その農村でも、餓死者が出るのは不可避だろう。そのような状態では、大半の農村は、政府に食糧を供出しなくなる。
従って、中央政府は崩壊し、都市部は無政府状態と化して、略奪の果てに壊滅してゆく。
おそらく農村では、自給自足的な共同体が建設されてゆくだろう。日本の場合、うまくいけば、人口の1/2は生き延びられるかもしれない。
当然この場合も、リセット前に共同体企業のネットワークが構築され、ある程度機能し始めていた方が、農村への移住と農村共同体の建設を実現できる可能性が高くなる。


もちろん、食糧生産高は、5割ではなく8割程度で収まる可能性の方が、高い。その場合は、新勢力による中央銀行の廃止と国家紙幣の発行が命綱となる。
従って、次に、リセット後の国家紙幣による経済運営はどのようなものになるのかを、考えておこう。しかし、そのためには、人々はどのような社会を目指しているのかを明らかにしておく必要があるので、まずは人々の意識潮流を見ておこう。

(続く)





岡田淳三郎

共同体運営で高い社会的評価を獲得している「金沢工業大学」

先日、金沢工業大学の見学に行く機会がありました。金沢工業大学は、企業からの評価、学生満足度で、全国的に注目されている大学なのですが、その秘訣が学園の「共同体運営」にあるとわかりました。

 大学の共同体化は難しいという先入観がありましたが、徹底した「もの創り大学」という大学特性と、教員の多くが民間企業(トヨタ等)出身である事、それに創設者の経営哲学が加わる事で、共同体組織が実現できているのだと思いました。

 一番驚いたのは、学内の空気です。学内では、教職員問わず、みんながすれ違う際に、お互いに必ず一言声を掛け合っており(しかも、みんな「笑顔」)。「まず充足」という事を皆が共有しているなと思いました。

 「こんにちわー」「こないだはありがとうございましたー」「あの件、あの後うまく行って、助かりましたー」等。3人位の方とはその場でちょっとした打合せ。

 また、学生とも「就職どうなった?」「そっかー、おめでとう。頑張ったなー!」みたいな感じです。

 行動規範(≒クレド)なるものが校舎の至る所に掲示されており、そこには「感謝の心」「常に活力をもって」「勤勉」「チームワーク」等の内容があり、また、説明の中には、自然への畏敬、仲間への感謝等の考え方も示されていました。

 大学のコンセプトは「学生を元気にしよう!」〜引き出す、鍛える、褒める〜。徹底的に「学生のため」を貫徹しており、社会に優良な学生を輩出し、社会からの評価を獲得する事が大学の意義である事を皆で共認し実践しています。

 同じような事をパンフレットに書いてある大学は結構あるのですが、共同体運営が超実践的な集団をつくっていると思います。学校関係者の様子を見ていても、全ての情報(外圧、課題、役割等)が共有されているという事が伝わってきました。

「勝手なことを言う教員はいませんか?」との質問に対しては、「うちの教職員だったらまず「それはなぜ必要なのか?」と聞き議論すると思います」との返答で、ごまかしを許さない「事実の追究ベクトル」が共有されている事が感じられました。

 現在建設している校舎は「チームラーニング棟」学生の活力を如何にして引き出すのかをみんなで追究した結果たどり着いたスタイルであり、今全国的な注目が集まっています。

 共同体運営が、事実に基づく最速の決断(最も可能性の高い方針)を実現させ、社会から大きな評価を得る事に繋がっています。

 共同体ブログで引き続き追究していきたいと思います。

■金沢工業大学基本情報
創立:昭和40年(昭和32年設立の北陸電波学校に始まる)
学生数:6500人(大学院220人)
学部:工学部、環境・建築学部、情報学部、バイオ・化学部
所在地:石川県石川郡
理事長:泉屋利郎

【建学の精神】
本学の創設意義は、米国における占領政策終結後における我が国の真の独立と復興に貢献したいとする情熱と決意が建学綱領である「人間形成」「技術革新」「産学協同」に込められ今日まで大切に受け継がれている。このため経営理念は、学生、理事、教職員が三位一体となり学園共同体の理想とする工学アカデミアを形成し、建学綱領の具現化を目的とする卓越した教育と研究を実践し社会に貢献する事にある。

【学園共同体の信条】
本学園は、学園共同体を築きあげることにより、真の「人間教育の場」となる事を目指している。大学の価値は、構成する人々の「志の高さ」によって決まるという創設者の経営哲学を継承し、学園理事長は平成14年1月、学園共同体を構成する全てのメンバーが共有する価値に基づく行動規範をKIT−IDEALSとして定め公表した。この行動規範は、創設者の経営哲学と、歴代の学長が学生に論じた言葉からその思いを要約した本学が大切にしてきた価値である。

【KIT−IDEALS】(校舎の至る所に掲示)

Kindness of Heart 思いやりの心 
私達は素直、感謝、謙虚の心を持つことに努め、明るく公正な学びの場を実現します。
Intellectual Curiosity 知的好奇心
私達は情熱、自信、信念を持つことに努め、精気に満ちた学びの場を実現します。
Team Spirit 共同と共創の精神
私達は主体性、独創性、柔軟性を持つことに努め、共同と共創による絶えざる改革を進め、前進します。
Integrity 誠実
私達は、誠実である事を大切にし、共に学ぶ喜びを実現します。
Diligence 勤勉
私達は、勤勉である事を大切にし、自らの向上に努力する人を応援します。
Energy 活力
私達は、活動的であることを大切にし、達成や発見の喜びを実現します。
Autonomy 自律
私達は、自律する事を大切にし、一人ひとりを信頼し、尊敬します。
Leadership リーダーシップ
私達は、チームワークを大切にし、自分の役割における自覚と責任を持ちます。
Self-Realization 自己実現
私達は、自らが目標を持つことを大切にし、失敗に臆することなくさらに高い目標に挑戦する事に努めます。

■ランキング 2015年
<学長からの評価>
教育分野・・・全国1位
研究分野・・・全国14位
総合   ・・・全国2位




匿名希望

企業を「生産共同体」から「生活共同体」へ

今、社会における共同体化の流れは、地域と企業の2方面で起こっている。

これらの流れはいずれも、近代個人主義が生んだ数々の弊害に多くの人たちが気づき、人と人のつながり再生を意識し始めたところから起きている現象であり、出所は同じである。

地域については、祭りの復活、孤独老人の見回り、子育てネットワークなどに一定共同体性の回復が見られる一方で、若者参加の限界といった壁にぶつかっている。

一方の企業についても、社員を大切にし、全員参加型の経営スタイルをとっている共同体的企業は一定成功をおさめつつも、その成功の充足を広げようとしたときに、企業そのものの拡大、地域とのつながり深化、あるいは他企業とのつながり構築という課題の前に足踏みしているようにも見える。

そこでまずは企業の方から今後の可能性を考えてみた。

従来、企業間のつながりとは、競合関係あるいは吸収合併(グループ化)という、二つに一つの関係しか成立しなかった。だから、「企業間のネットワーク」というとき、その理念は理解できても、具体的な充足イメージはまだまだ貧困な状況にある。一体今、企業同士がつながる必然性はどこにあるのか?(企業も生き物。外圧適応態である以上、単体では突破できない何らかの不全に直面しているのは確かだが)

おそらくその必然性、接点は、すでに一部の共同体的企業で取り組み始めているように、企業を「(単なる)生産共同体から生活共同体へ」と転換していくことにあるのではないか?

社員を大切にする会社とは、お客も大切にする会社であるが、その社員の家族あるいはその先にある地域も含めて大切にする会社でもある。具体的には、社員の奥さん(旦那さん)や子どもたちが抱える課題(子育て・食事・食の生産など)を包摂していくことが、今後の企業の発展や社会の発展につながるイメージだ。この場合、地域とのつながりも、従来の自治体(会)との共同イベントや環境課題の共有といった表面的な形態とは異なるものとなるだろう。

そして、実は企業発のこのような取り組みは、先に挙げた地域の再生と非常に近いものとなる。バラバラになった個人をつなげるという、企業と地域両者による共同体化の試みはここで一体化するのだ。

今、多くの共同体的企業の経営者たちがぶつかっている壁(不全)とは、このあたりにあると思う。






朱雀

こんな生き方もありなのかも(^-^)

引用:yahoo記事
まさに夢の生活! 15年間お金を使わずに生活するとても豊かな生き方 より
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ドイツのとある女性の生き様が、現地メディアで取り上げられ、注目を集めている。彼女はこれまで15年間、お金を一切使わずに生活しているというのだ。しかし、彼女はホームレスではなく、衣食住に不自由なく暮らしているという。

また2冊の著書を出し、彼女の生き様はドキュメンタリー映画にもなっているのだ。では一体、どのように暮らしているのだろうか? どうやら彼女の生き方には、さまざまな知恵と工夫があるようだ。
お金を使わずに生きる女性、ハイデマリー・シュヴァルマーさん(69歳)の人生は、決して楽な歩みではなかった。東プロイセン(現在はポーランド、ロシア、リトアニアが分割統治)で生まれた彼女は、第二次世界大戦後に家族と共にドイツに難民として移住した。大人になり20年間教師として務めた後に、精神科医として働くこととなった。

学校教師として働いている間に結婚し、2人の子どもを設ける。しかし、夫との関係がうまく行かずに離婚し、女で1人で子どもたちを育てることとなる。

そんな彼女の人生に大きな変化が訪れる。1989年、2人の子どもを連れてドルトムント市に引っ越したときのこと、彼女は多くのホームレスの姿を目の当たりにし、衝撃を受けた。彼らのために何かできないかと思案した末に、1994年「譲り合いセンター(Give and take central)」を設立する。

これは、お金を使わずに価値を交換する施設である。たとえば、古着を台所用品と交換できたり、車に関するサービスを提供する見返りに、配管サービスを受けられたりなど、価値と価値を交換することができるのだ。この施設は、数多くの失業者の助けとなり、彼女のアイディアを真似した施設が、ドイツに多数誕生した。

お金にはならなくても、知恵や技術を持ち合わせた人が集まることにより、お互いを助け合うコミュニティが形成されたのだ。

この成果から、彼女は暮らしていくのに、「お金」は本当に必要なのだろうか? と疑問を抱くこととなった。自分が欲しいもののために、相手に貢献することこそ、本当の仕事だと理解したのだ。

そして、お金のためだけに働くことが、精神的・肉体的に苦痛を伴うとはっきりわかり、施設設立から2年後に仕事を辞めることなる。さらに、子どもが大きくなり家を出て行くと、不要なものはすべて廃棄、アパートさえも引き払ったのだ。

お金を手放し、仕事を手放し、家さえも手放した彼女。しかし暮らしていくのにはまったく困ることのない、自由な生き方を手に入れたのである。当初は1年間だけの実験であったはずが、すでに15年間も続けている。

彼女が暮らしていけるのは、「譲り合いセンター」があるおかげだった。ここに物々交換所であるだけでなく、宿泊施設も備えていた。さまざまな雑用をこなせば、寝泊りすることができる。また、彼女を迎えてくれる家庭も少なくない。というのも、施設を作ったおかげで失業者たちは自らの技能を活用できるようになり、また出版したおかげで、豊かな生活を送れる人が増えたのだ。彼女に感謝している人の数は計り知れない。

そして何より、彼女自身働き者だった。家事はもちろんのこと、雑用でも何でもしっかりとこなしてくれる。一晩泊めるだけで家中のことがはかどるのは、主婦にとって有難いことであった。自分が働けば働くほど、喜ぶ人が増え、欲しいものが手に入る。そうして彼女は、お金を稼ぐことでは味わえなかった豊かさを得たのだ。

そんな彼女は普段、スーツケース1個で生活している。必要なものはそれだけ。緊急時のために200ポンド(約2万2000円)を蓄えている以外は、すべてのお金を寄付している。著書やドキュメンタリー映画の売り上げもすべて寄付しているそうだ。

1つだけ問題があるとすれば、それは健康保険を支払っていないため、病院に行けないことだ。病気やけがの心配があるのだが、彼女は自然治癒力で、治すと豪語している。

夢のような暮らしぶりなのだが、慣れるまでは随分苦労したに違いない。いずれにしても、いろいろな欲求をコントロールできない限り、彼女のように生きて行くのは難しいのではないだろうか。
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お金のあり方を今一度考えさせられる記事です。





匿名希望

農への期待は今だからこそしっかりと作っておきたい。

今後数年以内に予想される圧倒的な食糧危機が始ると農業は再生どころか必要不可欠なものになる。社会の大きな流れに農業が飲み込まれてしまう危険性もある。
だからこそ今の段階で落着いて農業のよき部分を見つけておきたい。なぜ人間に取って、日本にとって農業が必要なのか、農業は何を与えてきたのか・・・。やはり日本の歴史に学ぶ必要がある。そんな記事を紹介しておきたい。
国際派日本人養成講座の伊勢氏の記事である。リンク
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「瑞穂の国」

 嬉しいことに、こうした農業の真の姿を知る機会は着実に広がりつつある。東京からも近い棚田、大山千枚田(千葉県鴨川市)には景観を楽しんだり、生物観察をしたりするために年間3万人が訪れる。都市住民に田んぼの一部を貸し出す「オーナー制度」も、募集する136区画は常に定員いっぱい。・・・

 和歌山県田辺市。大都会からの交通アクセスは決して良くない。だが、人口約3300人の上秋津地区は全国的に名高いミカンと梅を柱に農業体験や飲食施設、直売所などを整備し、年間6万人を集める名所となった。・・・

「ムスッとしていた子どもが笑顔で帰っていく」。長崎県松浦市で修学旅行生を受け入れる兼業農家、末吉久美(60)は話す。

 周辺には名所があるわけでもないのに、毎年春と秋、全国からの修学旅行生でにぎわう。町おこしの一環で同市が03年度から始めた体験学習に来るのだ。今や3市2町に広がり、受け入れる農家や漁師の家は500軒ほどど。・・・

 欧米では市街地と農地はくっきりと別れているが、我が国では都市の中にも農地が散在するしたりする。「スプロール現象」などと悪口を言わる事もあるが、逆に言えば、都会っ子が農業体験をしたり、都市住民が週末農業をするには、最適な環境である。こういう身近な所で、農業体験ができれば、農業の真の姿を理解できる国民が増えていくだろう。

古代の我が国は「瑞穂の国」とか「秋津島」と自称した。「瑞穂」とは瑞々しい稲穂という意味であり、秋津とはその上を飛ぶトンボである。

自然の恵みに気づき、感謝する所から、農に対する敬愛が生まれ、それが農民の誇りにつながる。ここから我が国の農業の再生が始まるだろう。
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自然の摂理を学ぶ事。どの時代を切っても農業にはその機能がある。






田野健
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