こんにちは( ´∀`)つ

今日は、なんでや劇場シリーズ第3弾『民主主義は、自我の暴走装置である』を紹介します。

前回の『現実に、社会を動かしてきた中核勢力とは?』では、古代・近代の社会を動かしてきた中核勢力を明らかにしてきました。

その結果、

●古代社会は、大衆の共認支配を担う教団勢力、大衆の法制支配を担う官僚勢力が、現実に社会を動かしてきた。
●そこでは、王は、彼らの施策にお墨付きを与えるだけの存在にまで形骸化した(=名前だけのお飾り)。
●近代の中核勢力は金貸し。大衆の共認支配を担うマスコミ、大衆の法制支配を担う官僚勢力を支配している。
●近代民主社会の象徴である「議会」は、社会統合上、古代の王侯貴族と全く同じ位置にあり、金貸しの暴走にお墨付きを与えるだけのお飾りである。


ことが分かりました。

国会










それでは、民主主義とは一体何だったのでしょうか?いよいよ、その核心に迫っていきます。

◆民主主義は、何故深く浸透してきたのか?


民主主義の要を成す議会が、左右いずれにせよ金融勢力の操り人形の演舞場にすぎず、これまでやってきたことが、金貸しの暴走にお墨付きを与えることだけだったとすれば、いったい民主主義とは何だったのか?


私はこれまでも、新理論を構築するためには、近代思想を全的に否定する必要があると考えてきた。そして、「自由」「個人」「人権」etcの架空観念を、近代思想の要と見てきた。
しかし、これまで民主主義については(その怪しさを重々知りつつも)、全的には否定し切れないでいたが、近代思想の本丸は実はこの「民主主義」にあったのではなかろうか。
実際、庶民レベルでは「個人」や「人権」という言葉はあまり使われなくなったが、「民主主義」だけは根強く支持されているし、今もアメリカが他国を侵略する口実は、「民主主義(ではない国は破壊する)」である。


人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。
私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。

ブッシュ







◆民主主義の正体とは?


だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?
それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。


●人類本来の共同体の共認原理

まず第一に、共同体では、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。


●共認原理と民主主義の違い

それに対して「民主主義」は、根本的かつ致命的な欠陥を孕んでいる。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。むしろ、民主主義は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?

デモ







●民主主義の正体=自我の暴走装置


何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。
自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。


事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。
だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。

こうして民主主義は、『学び』をないがしろにすることによって、どんどん自我を暴走させると共に、どんどん人々を無能化させてきた。
要するに、金融勢力は、「民主主義」を人々に吹き込むことによって、人々の自我をとことん肥大化させると共に、とことん無能化した上で、自分たちの好きなように染脳してきたわけである。


かくして、民主主義に導かれて暴走してきた近代社会は、ついに経済破綻と地球破壊のドロ沼に沈み、そこから這い上がれなくなってしまった。いまや、人類は滅亡の一歩手前にある。
それは、民主主義が自我の暴走装置であり、とりわけ金貸しの暴走を正当化する悪魔の思想であることの、疑問の余地のない証であり、もはや、
この期におよんで民主主義を正当化する一切の言い訳は通用しない。

地球破壊










以上で明らかなように、民主主義は、決して共認原理に立脚しているのではない。それどころか、民主主義は、共認原理を破壊する自我原理に立脚している。それが、民主主義の正体である。
(そもそも、「民が主」というのも自我発の言葉であって、共同体の人々が「自分たちが主」などと言うわけがない)


まとめると、

(1)民主主義は、共同体の根本規範である『学び』を捨象している
(2)にもかかわらず、民主主義は主張や評価を要求するため、主体は自我の主体にしかならない。
(3)近代社会は民主主義制度・思想に導かれてきた。その結果が、経済破綻・地球破壊といった「人類滅亡の危機」である。

だから、

【結論】民主主義とは、「自我の暴走装置」である。

のです。


◆人類本来の共認原理に立ち戻るには

人々の意識の変革は、民主主義の正体を見抜くことから始まる。
すなわち、制度としての民主主義は自我の暴走装置であり、思想としての民主主義は悪魔の思想であることを見抜いて、民主主義を全的に否定すること。
全てはそこから始まる。そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる。


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