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民主主義指数によるマップ:色が薄い地域ほど民主傾向が強い wikipediaより

これまで紹介した、フランス革命ロシア革命ウーマンリブは、下層階級として抑圧されている大衆が、上流(
支配)階級の力に抗して権利を勝ち取ろうとする運動です。そういう意味では、市民運動の初期形態であったといっていいでしょう。

その運動の結集軸となり先導していった言葉が民主
(主義)です。民衆(デーモス)が力(クラトス)によって支配権を得る、デモクラシー=民主主義は、そのような運動そのものが語源となっています。
(参照:民主主義とは何なのか−1−われとわれとが戦う病、理性を使わせないシステム


日本においては、明治維新にはじまり、労働運動、安保闘争、全共闘運動が代表的で、現在の反原発のデモも市民運動です。

民主主義を標榜する市民運動は、
200年以上も続いているにもかかわらず、市民が主役の社会は一向に実現される気配がありません。

それとも、選挙で一票を投じることで、実現されていると思っているのですか?

政治は遠いとしても、もっと身近で大切な仕事の場=会社は、どうでしょう。労働者
(従業員)は、その経営に対して発言権どころか、一票さえも持っていません。それが民主主義による市民運動が実現した社会だとしたら、なにかおかしいと思いませんか?

それは、民主主義という思想に重大な欠陥があるからです。そのことについて明らかにし、民主主義の呪縛から解放されるにはどうしたらいいのか、記事『市民運動という騙し。それも、すべての可能性の芽を摘みとる破滅的な騙し。』に学びながら、考えていきましょう。

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民主主義は何を実現したのか

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 安保闘争            全共闘運動

 

過去、’60年安保闘争にせよ、’69年全共闘運動にせよ、大衆の願いは実現された例がない。さらに遡れば、明治維新やフランス革命も同様であって、実現されたのは、金貸し(金融勢力)支配の体制だけであり、それらの革命に身を投じた若者たちは、しに乗せられ踊らされてきただけであった。

日米安保条約に反対した安保闘争、大学における学生自治を実現しようとした全共闘、いずれも失敗に終わっています。明治維新やフランス革命も、大きくは反権力であり、そこでのスローガンは民主です。自由・平等はそれを正当化する原理に過ぎません。

民主をつきつめれば、「自分たちの生きる場は、自分たちでつくり・運営する」ということです。市民運動の理念は、そのような社会を実現しようとしていたはずです。

 


しかし、現在、企業は株主のものであるし、大学は教授のものであるし、国家は一握りの政治家や官僚が運営しています。官僚に至っては、試験の成績が良かっただけの人たちです。そして、主役であるはずの市民は、テレビに向かって文句を云うだけ、あるいは、チンケなデモで盛り上がって、ささやかな満足を得るだけしかありません。それが数百年かけて勝ち取りたかった姿だったのでしょうか。

 


民主主義の社会は、実は
()民が主()ではないのは明らかです。とはいえ、“実現されたのは金貸し(金融勢力)支配の体制だけ”、とはどういうことでしょうか。



民主主義=市民運動は金貸し支配を進めただけ


 外国人に支配される日本企業
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元・経営コンサルタントの投資日記より 

実は、わたしたちの生きる場は、莫大なカネがあれば、簡単に支配することが可能です。わたしたちの大切な生活の一部でもある企業は、株式を買い占められたら簡単に支配されてしまいます。社会は、いまや世論が大きく影響を与えていますが、世論形成に大きな影響を与えているのはマスコミや学者です。彼らは広告費や研究費が命綱であり、カネで支配可能です。政治はどうでしょう。政治家はスキャンダルが致命傷です。マスコミや情報網を使って、政治家を脅せば、支配できます。実は、上に書いた“支配”は、現在、金貸しによって実行されている事柄です。

 


そして、自分達に都合のいい法制度を作ろうとすれば、多数決という制度は好都合です。理不尽な法案でも過半数の議員を買収すれば実現できます。でも実は金貸し支配はもっと深刻です。例えば、与党・野党を問わず、歴代の大物政治家が次々にスキャンダルや不可解な自殺等で抹殺されていっているのを見れば明らかでしょう。与党も野党も支配されているのです。つまり、何度政権交代しようと事態は変わらないのです。それでも、あなたは、一票の重みを信じるのでしょうか。

つまり、近代の市民運動は、実現された例がない。従って、「市民運動」という言葉は、幻想と断じざるを得ない。
しかも、この幻想を信じた結果、多くの有為の若者が出口のない袋小路に追い詰められ、自滅していった。これは騙し、それも、社会変革のすべての可能性の芽を摘み取る、破滅的な騙しである。


こう思う人がいるかもしれません。これまでの市民運動の成果は途上であり、民主主義(市民社会)の理想はこれから実現されていくのだ、と。


 

でも、それは無理なのです。民主主義という思想、それ自体に、欠陥があるのです。どういうことか?

民主主義の理想を実現するためには金貸し支配を覆し、脱却する必要があります。
金貸しの支配が変わらないのは、カネがものをいう資本主義だからですが、その根底には、人々が私権(カネや身分)の獲得を目指して争う私権社会があります。最近はカネで動く人は減りましたが、社会の制度は私権社会を前提にして作られ、縛られています。カネがあれば勝てる=支配することができる社会です。(金貸しはカネの力で命をも脅かしますが。)

 


市民運動では、そのような社会を変えられなかったのです。だから金貸しに支配され続けているのです。それも、支配されているとは気付かないように巧妙に。

 


なぜでしょうか。

 


それは、市民運動は、本音では「私権」が欲しかったに過ぎなかったからです。

その後、市民運動は、’70年、貧困の消滅(豊かさの実現)を契機に急速に衰弱していった。つまり、市民運動は、貧困の圧力→私権圧力が強いときにはそれなりに盛り上がり、私権圧力が衰弱するや否や衰退していったわけで、これは、市民運動が私権欠乏をエネルギー源にしていたという証である。
私権欠乏に立脚している限り、どれだけ市民運動を続けても、私権社会が永久に続くだけであって、私権社会から共認社会への転換など、実現するわけがない。

同じことは、それらの運動を導いてきた思想についても言える。
近代思想を生み出したのは、金貸し(金融勢力)である。ところが、市民運動の活動家たちも、同じ近代思想に立脚している。
同じ思想に立脚しながら、社会を変革することなど出来るわけがない。


近代思想(自由・平等・個人・人権・民主など)は、武力支配国家の支配層(王侯貴族)による抑圧に対して対抗する思想として登場します。大義名分は、市民を抑圧から解放することだったのでしょう。しかし、結果は、解放されたと見せかけて、賃金奴隷として働かされ、国政への参加も数年に1度の一票だけという現実で、解放とはばかりです。私権が欲しかっただけだからといって、主役であるはずの市民が、なぜ、そんな惨めな身分になっているのでしょうか。



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THINKERより

 

市民運動は、権力に力をもって対抗する行為です。それには、それだけの力(資力)が必要です。それを支えたのが金貸し(金融勢力)なのです。例えば、幕末、坂本龍馬を通じて長州に武器を売ったグラバーは金貸しの総本山であるロスチャイルド系の人間です。(参照:明治維新とフリーメーソン〜日本って何んだろうもちろん、金貸しは権力側と元々結びついていて、戦争となれば資金や武器を供給します。そのようにして、金貸しは革命=戦争をしかけたのです。

 
 
民主主義という思想をつくったのも金貸し


市民を煽動するスローガンとして用意されたのが、近代思想です。思想をつくったのは当時の思想家たちですが、金貸しは、革命等による社会気運の形成、彼らが通った大学(支配)、そのパトロン、著作の賞賛などを通じ、彼らの考えを誘導し、世に打ち出していったのです。

金貸しは、なんでそんなことをしたのでしょうか。それは、市場を拡大させるためです。それまでの彼らは王侯貴族と組んで、植民支配等を行い、莫大な利益を上げてきました。しかし、侵略し搾取する先が尽きてくると、儲けが増えなくなってきます。解決策として、新たな需要層=消費階級として大衆(市民)を市場に参加させようとたくらんだわけです。近代の工業社会に向けて、工業製品を生産し、消費もする担い手として市民に自由を与えようとしたのです。

あるいは、こうも言える。市民運動の活動家たちは、もっぱら大衆の意識の上昇に期待してきた。逆に云えば、彼らは「大衆の意識」以外に何の実現基盤も持ち合わせていなかった。

大衆の意識の上昇とは、市民運動家はどのように考えていたのでしょうか。例えば、運動を通じて、社会への関心を高め、権力支配の問題に気付き、自主的に運動⇒社会参加し、市民社会をつくっていく、というようなイメージでしょうか。そのような意識や変化を喚起するのが市民運動であり、そこに向けて活動の場を提供していく、といったあたりでしょうか。

 

しかし大衆は、金貸しが支配する検定教科書とマスコミによって、ほぼ完全に染脳されてしまっており、新たな思想なしに大衆の意識が変革されることなどありえない。


私たちが何かを考えようとしたとき、学校で習ったことや、マスコミが流す情報を頼りにするしかありません。人から教えられた話も、その延長上でしかありません。それらが、金貸しに都合よく編集されているとしたら、金貸し支配から脱することなどできるわけがありません。

現に、大学の経済学の講義において、「金貸し支配」について言及されることはありません。市場は神の見えざる手で動かされているわけではないのです。

 



突破口は、民主主義を捨て、新理論に導かれて身近なところから社会を変えていくこと

本当に社会変革を実現するには、歴史を遡って、運動の実現基盤を発掘し、実現基盤を備えた新理論を構築しなければならない。彼らは大衆の意識に期待してきたと上に書いたが、実は、彼らが大衆の意識潮流を深く追求した痕跡はどこにも無い。これでは、本当の所は、大衆にさえ何も期待していなかったのだと言わざるを得ない。

 
変革は、問題が大きいほど深い地平が求められます。環境破壊
(肉体破壊)、経済破綻、精神破壊(病める子供達)
。そして、事態は悪化していくばかり。展望の見えない現在の状況は、小手先の修正では解決できないと、みな薄々は感じ取っているはずです。だから、政治家にも、学者にも、答えが出せないのです。

大衆の意識を注視し続けていた私は、45年前、活動家たちに対して、マルクス主義に代わる新理論の必要を提起した。しかし、新理論の構築に取り組もうとした者は、(ごく少数を除いて)殆ど誰もいなかった。そして、次々と、大企業に就職し、あるいは学者になっていった。その後、彼らに残されたのは、社会変革に対する深い不可能視だけである。
それだけを見ると、彼らは本気で社会変革を実現する気などなかったようにも見えるが、むしろ、近代思想に代わる新理論の構築は、不可能に近いほどの超難課題であったということだろう。

 
新理論とはどういうものなのか。ヒントとなる記事を紹介します。

いったい、人類はどこで道を誤ったのか? それを突きとめる為には、人類の始源(必要ならサル時代や哺乳類)にまで遡って、個体や集団や社会の存在(or 成立)構造を解明する必要がある。人類の原基構造を解明できれば、その構造のどこが不変部分でどこが可変部分かを知ることが出来る。そして現代社会の諸問題(諸欠陥)と突き合わせれば、どこが変えてはならない部分でどこが変えるべき部分かを突きとめる事が出来る。つまり、その構造体のどこをどう変えれば良いかの答えを導き出す事が出来る。(実現論『ハ.人類はどこで道を誤ったのか?』より


脱民主主義について、もっと深めたい方は、こちらも是非読んでみてください。
民主主義は、自我の暴走装置である