宮田さんの投稿(339811)の続きを内田先生が書いてくれている。

『「贈与経済」論(再録)』リンク より
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商品への欲望が身体的欲求のレベルにまで鎮静したら、資本主義は崩壊してしまうとエコノミストたちは恐怖しています。でも、僕はそうは思わない。何か違うことをやればいい。とりあえず、昔に戻って「贈与経済」をやればいいんじゃないか、と。
贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。それだけ。

「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくら持っていてもそれではもう「金で金を買う」以外のことはできなくなる。それで「金を買う」以外に使い道のないようなお金は「なくてもいい」お金だと僕は思います。それは周りの貧しい人たちに「パス」してあげて、彼らの身体的要求を満たすことに使えばいい。ご飯や服や家や学校や病院のような、直接人間の日常的欲求をみたすものに使えばいい。タックスヘイブンの銀行口座の磁気的な数字になっているよりは、具体的に手で触れる「もの」に姿を変える方がいい。


別に突拍子もないことを言っているわけではありません。本来、貨幣というのは、交換の運動を起こすためにあるものなんですから、誤って退蔵されているなら、それを「吐き出させ」て、回すのが筋なんです。その方が貨幣にしたって、「貨幣として世に出た甲斐」があろうというものです。
「パスをする」と簡単に言いましたけれど、これはよく考えると、けっこうむずかしいことなんです。

例えば、みなさんの手元に今お金が1億円あるとします。とりあえず使い道のないお金です。これを「使う」のと「贈る」のとどちらがむずかしいと思いますか。
みなさんは「使う」方がむずかしいと思っているでしょう。誰かに「贈る」のは簡単だけれど、使うのはむずかしい、と。
でも、違いますよ。1億円をまさか行きずりの人にいきなり渡すわけにはいかない。まずふつうは怪しんで受け取ってくれないし、うかつな人に申し出たら、「バカにするな」と怒られたり、「そんなに余ってるなら、もっとよこせ」といって家に乗り込んできて身ぐるみ剥がされるかも知れない。適切な額を、適切な仕方で、適切な相手にピンポイントで贈るというのは、デパートに行って1億円散財するよりはるかにむずかしい。

贈ったことで、その相手に屈辱感を与えたり、主従関係を強いたり、負い目を持たせたり、あるいは恨みを買ったりすることがないように、気持ちよく、生産的にお金を渡すことができ、かつ、そのお金がその人においてもまた退蔵されずに、その人が救われて、さらにその人が次の人にパスしてゆくときの原資となる。そういう「パスのつながる」プロセスを立ち上げるような仕方で贈り物をするのは、実はきわめて困難な事業なのです。

というのは、適切な贈りものをするためには「贈る相手」をあらかじめ確保しておかなければならないからです。もらってから考えたのでは遅すぎる。
1億円ぽんともらっても、「おお、これはありがたいわ」と、しかるべき「贈る相手」にすぐにさくっと贈ることができる人がいたとしたら、その人は受け取るに先だって、すでに「贈り先」のリストをちゃんと作成していたということです。パスが滞りなく流れ、それがどこにも退蔵されたり、停留したりすることがなく、結果的にそのパスが10人、100人、1000人というふうに広がってゆくためには、自分がパスを受けたときには、すでにパスの送り先についての膨大なリストを持っており、さまざまなタイプのパスのシミュレーションを済ませていなければならない。そういうパスをめぐるネットワークがあらかじめ構築されていなければならない。パスのネットワークがすでに構築されていない限り、適切な贈与ということはできないのです。未熟な人間でもお金を蕩尽することはできるが、成熟した市民でなければ適切な贈与はできない。そういうことです。
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その2に続く




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