2009年11月13日

デジカメ

1287a77d.JPGデジカメを買って、さっぱり撮らなくなっていた写真を、またちょこちょこと撮るようになった。一番最初の目的は、自分の絵の写真を撮っておくことだったのだけれど、やはり実際にカメラを持つと電車の中の人や、電車からの風景を撮ってみちゃう。
この写真もそうで、雲の写真。
雲が浮いてるみたいに見えて面白いな、と思ってアップロードしようとし、すぐ次に、雲はそもそも浮いているものだと気づいた。そんな写真、今朝見た風景。


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2009年11月01日

絵についての話117

目は閉じられていて、 意識は目覚めて、目は閉じたまま、手は左側にあるパソコンのキーボードに伸ばしたいと考える。目は閉じたまま、左側の風景は見えている。まどろみの中で再び眠りへと入っていく。

再び覚める。うっすら目を開けて左側を見る。壁がある。壁しかない。キーボードは右側にある。


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2009年10月18日

絵についての話115

6年前、ということを考えた。やはり平成の人としては、6年前よりは進歩しているぞ、という気構えでいる。でも、その気構えを取り払って、揉み合わせて、6年前にやろうとしていたことを再びやってみようという気になった。6年前を写真で撮ることはできないけれど、6年前の言葉は残っている。6年前の絵を描くことはできる。
そう、言葉にもっと振り回されようと思った。


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2009年10月11日

絵についての話113

いまざっと計算したら、生まれてこのかた10146回くらい、夜を迎えている。赤ん坊のころはともかくとして、その内で眠らなかった夜は何度あるだろうか。というよりも、私は何度眠ったのだろうか。夜の数よりもずっと多く眠っている。10146回の夜を越えるその間に、眠りと目覚めを何万回も繰り返してきたのだ。明確な分かれ目などないかのように、ほとんどこの28年間をまどろみの中で経てきたといってもいいだろう。その数の力で、私は自らを目覚めの人でなくすることができる。ファジー制御されたかのような自らの目覚めと眠りの波グラフを、なんとなく眺めている。


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2009年09月29日

絵についての話110

なぜ多くの絵に人物が描かれているのかを、考えている、近頃。
答えはさっぱり見えてこないままだが。

彼が昨日の事を一部始終事細かに話したとして、どの部分が最も現実に近かったのかなどと、考えることにどんな可能性がかけられているか。


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2009年09月23日

絵についての話109

彼の耳は無防備だ。彼は自分に耳がついていることを忘れている。
話すことと見ることと、手の身振りとに夢中で、耳のことなど忘れているかのようだjohn

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2009年09月21日

絵についての話108

中学生くらいまでだろうか、ピアノは指だけで弾いているものだと思っていた。指が楽譜に沿って鍵盤を押す。だから電子ピアノで鍵盤が自動的に動くのを見て、いやしかし、鍵盤が自動的に動くのを見、大気が沈んだ鍵盤の上に順次滑り込んでいくのを見た、にも関わらず、いやだからこそ、前々から気になっていたのだ、ピアニストは、何かを踏んでいる。
さて、目は少し広がった。指が鍵盤の上でステップを刻むだけではなく、ピアニストは足で何かを踏んでいる。ここで目は手のクローズアップから全身の動き(ピアニストはほとんどの場合観客に右半身を見せている)に移る。駄々をこねるテディベアのように手足が動くのが目に入る。 体全体の動きが鍵盤を伝わり、増幅されて空気を振動させると音楽になる。澄み切った広大な水面の一端を指で弾くように、波が自身を超えた大きさに広がっていく。テディベアが宇宙を振動させる、というと大袈裟過ぎて話が的を外れるが、つまり、体の大きさ、体の動きと、形、音楽や絵画についての分かちがたい関連がそこにはあるということだ。以前どこかの誰かが何度も同じ事を言っていた気がするが、そんなことは気にしない。むしろ、光栄なくらいだ。
聖徳太子が朝起きて「おはよう」と言う。1400年後に誰かがその場所で「おはよう」という。


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2009年09月19日

絵についての話107

いつだって見ている。
果たして体験したり感じたりしたことがあっただろうか、疑わしい程に、見るということが強く働いている。
考える時でさえ何かを見ていて、つまりそれをよくよく見ようとしているのだ。


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2009年09月18日

20世紀の話2

街の音を効果音として聴く。暗くて狭くてひどく汚れた階段。


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20世紀の話1

窓ガラス。


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絵についての話106

記憶はいつも断片的だ。断片的でない記憶を思い出してみると、断片的に思い出してきた。
今日のことを思い出すのでも、十年前のことを思い出すのでも、必ず断片的にしか思い出せない。それはどんなに最近の思い出であろうとも、思い出とは記憶を追うことによって作られるものだからだ。つまりそこに(無限の)同時性というものはない。前の景色と後ろの景色とは同時には無く、前を見てから後ろを向かなくてはならない。空間で考えると、それはいささか在外的な面持ちにすぎるので断片性が胡散臭いが、じゃあ音楽で考えてみよう。退屈なときに何かの曲のフレーズの一部分が頭の中で繰り返し繰り返し再生される。思い出そうと努めてみればいい。そして思い出してみればわかる、口ずさめばわかる、音楽とはが断片的に、段階的に手探りで探し当てられていくものだ。
手探りで。そう、例えば目を見えなくして、部屋の中のものを一つ一つ指先で確かめていくように、一つ一つの断片と、その連続を切れ目ないものとすることによって。
彼の、もしくは彼女の声を思い出そうとするとき、頭の中で、彼や彼女はどんなフレーズを贈ってくれるだろうか。

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2009年09月07日

絵についての話103

絵が毎回少しずつ違う。同じ絵を描こうとしているわけではないけれど、長い目でみると変遷がわかる、とか言われそうだ。
でも、裏返して言えば、同じ絵なんて2枚と描けるものではない。私はそんなに器用ではないし、そもそも、2枚として同じ絵などない。コピーだって、印刷だってそうだ。同じと思っているけれど、同じなのはそこに書いてある文字だけであって(それだってどこかで文字と言葉を切り離すからなのだけれど)、表面的な白と黒の形はすべて同じではない。
ただその差違に気付いていないだけなのだ。似ているもの、とても似ているもの。目がその違いを逃すか逃さないか、それは差違か同一か。同じ紙か、別の紙か。2つの絵の中の同じ形、似ているもの、一つの絵か、2つの絵か。


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2009年09月05日

絵についての話102

手話が、発声言語と大きく違うのは、手が消えないということかもしれない。手は常にそこにある。無言の時も、話し始める直前も、言葉と言葉の間にも。
言葉と言葉の間にある、ある手の形、それを見つめる時に、言語としての夢を思い出した。解釈が可能でありながら同時に解釈を拒否しもする。リエゾン。


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2009年09月04日

絵についての話101

太陽の絵はなぜ赤いんだろうか(オレンジ色がかった赤)、と思った。
答えはすぐに思い付く。それは、朝日と夕日を描くことはできるが、真昼の太陽を描くことはできないからだ。真昼の太陽はどんな色にもかえることができないし、描かれたものは常に間接的に真昼の太陽を負担している。
これは光と色についての問いかけとして十分なものではないだろうか。空間と言説についての、時間と足についての。
と、電車の中で思い、てくてく歩いて、家に帰ってから書いてしまった。


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2009年08月30日

絵についての話100

新日曜美術館を見なきゃ、と思ったのに我が家にはテレビがない。越後妻有特集だ。ビックカメラに行こうかな、とも思ったけど、ラジオがあるじゃないか、と思った。名古屋だと教育テレビは聞けないけれど、東京でなら聞けるのだ。雨が降っている。

小さなラジオをつける。
クリアな音声が流れる。
ふと、思い出した。
以前名古屋での源氏物語絵巻展に目の見えない人が来ていたことを。そしてその隣で、友人らしき人が絵を一枚一枚説明していたのを。
よく見知った妻有だ。でも作品は、知っているものと知らないものがある。知っている作品を思い出す。知らない作品は、本で見た作品の写真を思い浮かべる。ラジオの、作品を説明する声から、作品を想像する。細部まで、闇に紛れる作品の奥まで。空き家、廃校、棚田に潜む、見たことのない作品。見たことのない人たちの声。知らない手が知らない作品を作り出していく。
ラジオでテレビを想像する。


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2009年08月21日

絵についての話99

新幹線に乗っている。

印象主義と表現主義とは歴史年表でみるとずいぶん近いが、それぞれの始まりは、実際には何十年かの隔たりがある。綴りで見てもずいぶん近いが、意味は真逆だ。真逆というのは一番近くて一番遠い。
今の話をするのに40〜60年の前後を考慮するのは話がズレすぎると思われるかもしれない。しかし印象主義と表現主義を並べて考えるなら、その話の中に今日や明日を加えても良いだろう。そうして気付けば、あっという間に美術史は一つに括られてしまうのだか、それはさておき、今、まさに今日や明日の美術を考える際にも、印象主義や表現主義はかなり多くの文法をそこに与えているのではないか。
というより、ほとんど全ての言葉は印象主義と表現主義から紡がれているのではないかとすら思われる。おそらく、アーティストの社会的な定義がそうなのだ。マルセル・デュシャンは自らを「古い意味でのアルチザンでありたい」と言っていたが、たしかに必要なのはその言葉、ではないか。ルーベンスやクールベやジョットの真横に今日や明日を持ってくるためには、印象主義や表現主義の文法だけではなく、アルチザンの言


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2009年08月06日

絵についての話98

ごく当然のこととされているけれど、音は光よりも遅い。比べものにならないくらい遅いので、つまり私からすれば、あなたの声が聞こえる前にあなたの口は動いているし、視界の縁にいるおじさんが新聞紙をぐしゃぐしゃっと音をたてて丸める時には、音でそれに気付くよりも先に、視界の縁ではおじさんが新聞紙を丸め始めているのだ。


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2009年07月16日

絵についての話95

ゆだんした。色にやられてしまった。何年ぶりか、色は極めて慎重に触らなければならないのをゆだんして、あぁ、まったく、全てやり直しだ。


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2009年06月28日

絵についての話94

最近の携帯電話、といっても携帯電話の全史から見れば初期にあたるのかもしれないが、携帯電話には、カメラがついている。そしてカメラ用にライトがついている。実はこのライトは、暗い場所で地図をみたり、机の下の落とし物を探したりするのに、なかなか便利なものなのだ。使い勝手が便利なわりに、でもカメラ用のライトとしては使いづらいやつで、暗いからとライトを使っても大体思ったようには撮れない。ライトを指で半分ふさいで光量を調節したりして、というマニュアルな操作が必要で、人差し指をレンズ真横のライトにあてる、と、指が赤く光る。正しくは、ライトの光が指を透過する。ライトの光は指の分子の隙間をやすやすと通り抜け、または指の中で乱反射し、私に、自分の体が透明なのだということを知らせてくれる。


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2009年06月11日

パソコンがいない

パソコンを修理にだした。今日あちらに届いて今日修理が終わったらしい。あっけない。
パソコンがないので音楽も映像もない生活だ。生まれてから家ではテレビが付けっぱなしの生活だったし、大学生のときなんて一日中パソコンの前に座っていたし、一人暮らしを始めてからも、真っ先にパソコンを買って音楽を流していたし、それらがない生活なんて、とても新鮮なのだ。
音楽聴けない、映画も見れない、となると不思議なもので読書が始まる。絵を描けよと思うけれど、読書が始まっている。ちょっと体が戸惑っているけど、こんな生活も、悪くはないと思う。これが都会でなくて、のんびりした広い家なら、なんのぎこちなさもないのかな、なんて、これは空想だけど。


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