私の家から徒歩で往復ちょうど一万歩の所にあるのが常夜灯公園です。2009年12月12日にオープンしました。
新しい住民もかなり訪れているようで、天気のよいときはかなり賑やかになります。しかし40年ぐらい前までは、見捨てられた存在で、土手の隅っこに、やや傾いて立っていました。直ぐ近くには丸京味噌の小さな工場があり原料の大豆が煮えた臭いが立ちこめており、周辺は寂れた風景でした。
 今考えると不思議なのですが、我々が小中学校の頃、東日本一の生産量を誇った行徳の塩作りや行徳河岸にまつわる水運の話を聞いたことがなければ、学校で教えてもらったこともありませんでした。大正6年(1917年)の大津波(台風による高潮)により、塩作りは一部を残して壊滅し、明治27年(1894年)の総武鉄道開通により水運も徐々に衰退していった。行徳が半農半漁の町になってから長い月日が経ち、過去はすっかり忘れ去られたようでした。
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常夜灯が作られたのは文化9年(1812年)行徳の人が建てたのではなく、江戸日本橋のお金持ちの商家の人々が、成田山講を作っていて、水上交通の安全を祈願して成田山に奉納する形で建立した物です。こうした形の常夜灯は明治の初め頃までいくつかあったらしいのですが、度重なる洪水で流されたそうです。今回の工事や昭和40年代の堤防工事の際に発掘されなかったのでしょうか?
 行徳は江戸時代、行徳千軒と言われるほど栄えた町ですが、近年まで水害が多く高台などがないために(川の土手が一番高い)文化財・古文書等はほとんど失われています。古い町並みも保存されておらず、寺町と言われる寺社も、昔とはだいぶ様相を異にしています。そんな中で残された行徳水運の象徴とも言える常夜灯は市川市の文化財になっています。
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岸辺の風景と夕焼け以外に何もない公園ですが、土日は地元の産品などを販売する売店がオープンします。
関ケ島周辺
赤い十字ポイントに常夜灯があります。対岸に王子製紙の工場があります。この工場の敷地一帯も本行徳でした。中州と呼ばれ、いわゆる河川敷のような場所で、田んぼではなく、蘆や茅が群生し塩焼きの原料にしたそうです。明治28年(1895年)に東京都に組み入れられました。
 
この常夜灯の立っているところは行徳河岸と呼ばれ、沢山の旅客が乗降する鉄道で言えばターミナル駅になります。
 1590年徳川家康は江戸に入ると直ぐ、隅田川と中川を横に結ぶ小名木川の開削を命じました。時はまだ戦国時代、塩は重要な軍需物資であり、領民の生活に欠かせない物でした。おそらく関東移封が決まって直ぐ行徳の塩作りに目をつけたようです。中川から江戸川までは古川(船堀川か?)を使って塩を運んでいます。新川が開通したのは1629年のことです。
 1625年頃になると関東・東北各地の天領・旗本領・大名領から年貢米などが江戸川を使って運ばれるようになります。利根川東遷の完成前ですが、霞ヶ浦方面と古利根川は常陸川やいくつもの湖沼を通じてつながっていました。大きな船は通れなかったようですが。
 米などの物資だけでなく、船を使って江戸から行徳にやってくる旅客も増えてきます。寛永9年(1632年)行徳領本行徳村は日本橋小網町から行徳河岸までの客船の運航を独占する権利を取得します。日本橋小網町の河岸も行徳河岸と呼ばれるようになります。15世紀初め頃から港として香取神社の川関があった行徳には船や船頭の技術などは地域でトップクラスでした。
 元禄3年(1690年)幕府により河岸吟味が行われ、行徳も正式に河岸と認定され、このとき認定された86カ所の河岸はその後旧河岸と呼ばれるようになりました。
  元禄16年(1703年)江戸深川永代寺において、成田山本尊不動明王の出開帳が行われました。成田山を信心していた2代目市川團十郎が不動明王を演じたりして、成田山詣でが江戸で爆発的にはやるようになりました。3里余りを船で行ける行徳コースは、成田行きの主要コースとなります。 
 鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の東国三社詣でも、この時期から盛んになります。貞享4年(1687年)松尾芭蕉は行徳で船を下り、八幡から木下街道 へ出て、木下からまた船に乗り鹿島を旅しました。このときの紀行文「鹿島紀行」に、あっさりと行徳が出てきます。「 今ひとりは僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの鳥なき島ににもわたりぬべく、門より舟にのりて、行徳と云処に至る。」これだけです。