2006年05月14日

100年前の仏紙、日露戦を大報道 1面全部カラーイラスト

第2次大戦終結前までフランスで発行されていたタブロイド判の日刊紙「ル・プチ・パリジャン(われらがパリ市民)」の日曜別冊版が、1世紀前の日露戦争の戦闘の様子などを一面と終面をつぶしたカラーイラストで頻繁に報じていたことが明らかになった。日露戦争が欧州でも一大関心事だったことを示す新たな史料として、日本海海戦(1905年5月27、28日)勝利101周年を前に20日、都内で催されるシンポジウム「北東アジアにおける司馬遼太郎と日露戦争」で川西重忠・桜美林大教授が発表する。この日曜版は8ページで、中面にはイラストとは関係のない記事や小説などが掲載されている。川西教授が7年前、ベルギーのブリュッセル郊外のレデュ村を訪れたさい、古書店で見つけた。日露開戦当時、日本は英国、ロシアはフランスとそれぞれ同盟関係にあり、ともに戦費のための金融支援などを当てにした事情から欧州のメディアは戦争の行方に関心を抱いていた。フランスの新聞論調は総じて日本に敵対的で、ル・プチ・パリジャン紙のイラストの説明書きにもロシアに同情的なトーンがにじんでいる。一方、英国の新聞社説は日本擁護論が顕著で、日露の代理宣伝戦争の様相も呈していた。川西教授は「ル・プチ・パリジャンは満州などで戦うロシア軍側に“イラスト特派員”を従軍させ、その作品を開戦前年に開通したばかりのシベリア鉄道で2週間以上かけてパリの本社に運ばせていたのではないか」と推測している。ル・プチ・パリジャン紙は1876年創刊。日露戦争当時はパリで最多の約90万部。日曜版の大型イラストが売り物で、第1次大戦直後は218万部と一時、世界最大部数を誇ったが、1944年に廃刊された。【産経新聞 14日

「旅順での(ロシア軍の)最後の抵抗−二百三高地の奪還」=1905年1月15日付=日本軍は1904年12月28日、重砲隊による砲撃に続く歩兵の突撃で二百三高地の一部を占領したが、ロシア軍の最後の抵抗にあって撤退。2日後の30日には乃木希典大将率いる第三軍第七師団を投入して再奪還した日露戦争(Russo−Japanese War)とは、1904年2月6日に始まり、1905年9月5日に終結した、大日本帝国とロシア帝国による朝鮮半島と満州を主戦場とした戦争のこと。極東における南下政策を押し進めるロシアと、朝鮮半島を欧米列強の植民地支配から日本を守る生命線と位置づける日本が戦った。 ◆開戦までの背景 日本は日清戦争に勝利し、清朝の朝鮮半島への影響力を排除したものの、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島を返還せざるを得なくなった。これにより、日本とロシアの関係が悪化。さらに、ロシアは清朝で発生した義和団事変の混乱収拾を名目に満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。1902年1月、ロシアの南下に備えて、東アジアで利害の一致する日本とイギリスが日英同盟を結ぶと、日本とロシアの対立は決定的となった。 ◆日露の開戦から講和へ 日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃により始まった。日本は苦戦しながらも、陸軍は奉天の会戦で勝利をおさめ、海軍は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った。しかし、日本は兵力・物資・財力が不足し、ロシアでは専制政治に反対する革命運動が発生、両国とも戦争継続が困難となった。このため、1905年10月、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で、アメリカ東北部のポーツマスで講和会議が開かれ、講和条約(ポーツマス条約)が結ばれた。その結果、ロシアの南下は抑えられ、日本は朝鮮に対する優越権、旅順・大連など遼東半島南部の租借権や東清鉄道の一部を譲り受けるとともに、樺太の南半分を手に入れた。しかし、賠償金が得られないなど、多くの国民にとっては予想外に厳しい内容だったため、東京を中心に暴動が(日比谷焼討事件)が発生した。

nao_2006 at 14:30│Comments(0)TrackBack(0)注目ニュース 

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