一瞬一瞬を大事に2006年を振り返って

2006年12月25日

保田文書を読む

先般、『師範松寿院贈上人よりの聞書』を読んだ。読み進めるうちに大石寺蔵『首題点画秘抄』が目に止まりこれによって最後の疑問が氷解したのだった。その直後に日侃文書が載るのである。ここにいう日侃文書は『従高祖聖人日興上人江相伝之大事』であり、同本が『千葉県の歴史・資料編中世三』(p277)に載る。ただし県史本は末尾が欠けている。松寿院本では末尾には、

 

右以上卅二種ノ大事重宝也云々 保田妙本寺蔵ノ物也天正十六年十月妙本寺十五代日侃ノ正筆ヨリ写之(松寿院聞書8−p12)

 

とある。これによれば、天正16年の時点では保田には32点の重宝があったもののようである。この日侃文書を読んで目に止まったのが、

 

一、手続ノ御本尊

一、末法万年之御本尊 広布之日本堂ニ奉掛之

(松寿院聞書8−p10)

 

である。私は永らく「末法万年…」を文永11年に図顕された『万年救護本尊』であると考えてきた。しかし、今は全く逆な見解を抱いている。つまり、「手続…」が『万年救護本尊』と称される文永11年に図顕された御本尊ではないのかと思う。事実、『万年救護本尊』は「手継ぎ本尊」「本化顕発手続きの本尊」といった別称がある。この点において「末法万年…」は全く別の御本尊ではないかと思うのである。

 

とすれば、「末法万年…」は何をさすのであろうか。結論から言えば西山本門寺蔵『顕示未萠万年救護本尊』であろう。事実、『顕示未萠万年救護本尊』には伝・日興上人筆によって懸本門寺可為万年重宝也」と記されているが「手継ぎ本尊」には万年云々の記述はない。また、日侃師代より後の保田においては日濃師が保田の重宝を売却するという事件が起きている。そしてこの時、「手継ぎ本尊」が西山に伝わっており、同時に『顕示未萠万年救護本尊』が西山に伝わった可能性は充分に考えられる。保田は「手継ぎ本尊」は回収したものの『顕示未萠万年救護本尊』までは回収し切れなかったのではないだろうか。以来、『顕示未萠万年救護本尊』は西山に所蔵されるに至ったと考えられるのである。

 

しかし、『副書』をめぐる問題が残る。「手継ぎ本尊」には建治2年の『副書』があるからである。流れとしては <本尊図顕→副書> であろうが、上記の仮説を採れば、 <副書→本尊図顕> という流れになる。少なからず奇異な感は拭えないが、大石寺の所伝によれば、保田には建治2年の本尊があり、脇書には『副書』と同じ書式で本御堂に掛ける旨が記されている。本尊が建治2年であるのに対して脇書には建治元年と記されているのである(『宗内通俗問答大意』p86)。

 宗内通俗問答大意 

興風教義概要(西山)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これらを纏めると、

 

西山本門寺蔵『顕示未萠万年救護本尊』−本堂

保田妙本寺蔵『万年救護本尊』−本御影堂

伝保田妙本寺蔵・建治2年本尊−本御堂

 

という配置となろうか。

ただし、西山の一部では上掲右図の如く配されている。

 

なお、「日月両像曼荼羅」とは保田妙本寺蔵『不動・愛染感見記』をさす。

 

保田の重宝が西山に流れたのは日忍師代であるが、この当時は日精師が隠尊であった。この当時の大石寺は西山とも通用があったと伝わる。西山が買い取った「手継ぎ本尊」を日精師が披見を得ていたことは疑いない。常在寺蔵『万年救護本尊』は延宝8年の模刻であるから、西山に伝わっていた『万年救護本尊』をもとに模刻したものであろう。大石寺大講堂のものは時代的に保田が西山から買い戻すために開版したものと思う。

 

以上の流れを纏めると

 

延宝3年(1675)、保田、重宝を紛失→西山へ

延宝8年(1680)、精師、『万年救護本尊』を模刻

天和3年(1683)、精師示寂

貞享4年(1687)、保田『不動・愛染感見記』『万年救護本尊』を開版して資金調達し           

        西山より取り戻す

元文5年(1740)、忠師、『万年救護本尊』を模刻

 

となる。

それにしても西山ほど異質な感を感じさせる日興門流本山はあるまい。

 

ご意見等は「門下・門流史」までおねがいします。  

 


若干の加除訂正を施した。(06.12.25am5:24)



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