2007年09月04日
『大日本国衛護の大漫荼羅』について
ここのところ、要法寺本尊について触れてきた。要法寺所蔵のものはこれ以上ないが、日尊門流寺院所蔵の本尊資料はまだ手元にある。とはいえ、毎回、日尊門流のことを記すよりは別な門流に目を向けてみることもよいかと思う。
そこで今回は日蓮聖人が弘安四年五月十五日に図顕されたと伝わる『大日本国衛護の大漫荼羅』について触れてみたいと思う。
『大日本国衛護の大漫荼羅』に触れるにあたってその容貌を左に掲げる。典拠は『妙宗』870号の口絵である。
山川智應氏、本化妙宗は『大日本国衛護の大漫荼羅』を日蓮聖人の御筆によるものとする。一方、疑義を呈する一人に執行海秀師がいる。執行師は『大日本国衛護の大漫荼羅』と保田妙本寺所蔵『手継ぎ漫荼羅』は同筆であると指摘されていた。この点、どうであろうか。下記にに保田妙本寺所蔵『手継ぎ漫荼羅』を掲げる。典拠は『御本尊集』十六番である。
執行師の両本尊の筆蹟が同筆であるとする点については首肯することはできない。けれども、両本尊には相似点は見られなくもない。それは不動愛染の筆法である。全くの同筆とはいえないまでも、少なからず意識してのことであったことが窺えると思うのであるが、これは穿った見方であろうか。
執行師は『手継ぎ漫荼羅』の筆法が『大日本国衛護の大漫荼羅』と似るから、『手継ぎ漫荼羅』も偽筆ではないかと考えた。しかし、これは逆であって、真蹟『手継ぎ漫荼羅』に似せて『大日本国衛護の大漫荼羅』が成立したとすべきであろう。
さて、ここで『大日本国衛護の大漫荼羅』について触れてみよう。『大日本国衛護の大漫荼羅』と直近の御筆大漫荼羅は弘安四年四月二十六日のものである。下記にその御筆大漫荼羅を示そう。典拠は『御本尊集』一〇八番である。
安本No.108と比較対照してみるととても弘安四年の本尊とは考えられない。不動愛染は明らかに文永年間のものであるし、何より疑わしいのは『大日本国衛護の大漫荼羅』における署名と花押の書式である。すなわち、日蓮聖人の御筆大漫荼羅は安本No.33から署名と花押は一体化するのであり、弘安四年の時点においては署名と花押が別に記されるとは考えられない。この点において『大日本国衛護の大漫荼羅』を弘安四年の御筆大漫荼羅とするには無理がある。
さらにまた、『大日本国衛護の大漫荼羅』の仏滅讃文がこの時期の通例である「仏滅度後…」ではなく、「如来滅後…」となっている点は看過すべきではない。「如来滅後…」という仏滅讃文は日蓮聖人の御筆大漫荼羅には見られないものである。この「如来滅後…」は日興上人による創作であり、日興門下においてもしばしば記されるところである。
そして、『手継ぎ漫荼羅』を所蔵する日郷門流においても、日郷師(五幅)日伝師(一幅)日安師(一幅)日要師(一幅)日侃師(一幅)〔『興風』11−p343〕と、「如来滅後…」と記す保田歴代がおり、私が所蔵する保田妙本寺35代日曜師の板漫荼羅〔嘉永四年十月十一日〕にも「如来滅後…」と記されている。(写真参照)
仏滅讃文を「如来滅(度)後…」と記す門流としては日什門流を挙げることもできる。しかし、日什門流と『手継ぎ漫荼羅』には接点を見ることができない。したがって、仏滅讃文を「如来滅後…」と記す門流、『手継ぎ漫荼羅』との接点、この二つを満たす門流は保田妙本寺を除いて他になく、『大日本国衛護の大漫荼羅』は郷門僧が『手継ぎ漫荼羅』を土台とした偽筆本尊と考えられようか。
ところで、『大日本国衛護の大漫荼羅』は京都の本光山燈明寺に所蔵されてきたものであるが、同じく京都には妙法山燈明寺という寺院がある。そして、妙法山燈明寺は保田の重宝を売却した日濃師が保田を退出した後に居住した寺院でもある。
日濃事浄心と名を替、京都灯明寺に而相果申候由承候間(『千葉県の歴史』資料・中世3−p279)
全くの推考ではあるけれども、日濃師によって『大日本国衛護の大漫荼羅』が妙法山燈明寺へ伝来し、それが本光山燈明寺に伝わったものかもしれない。
『大日本国衛護の大漫荼羅』の成立周辺が保田であったとすればその成立時期は何れの頃であろうか。『従高祖聖人日興上人江相伝之大事』(天正16年)には『大日本国衛護の大漫荼羅』にあたる漫荼羅の名目が見えないのでその成立時期は天正16年以後となろう。

